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◆総記
中央アジア・コーカサスFAQ目次


 【link】

「2ch. 軍事板」◆(2004/07/30〜) 【独裁】 中央アジア軍事を語る 【貧乏】
 回収すべきレス無し

Central Asia News(英語)

「JB Press」◆米国,ロシア,中国の思惑が渦巻く中央アジアの小国
by コンスタンチン・サルキソフ

「Russia Now」◆(2011/06/13)Armenian, Russian and Azerbaijani FMs meet in Kaza

「Strategy Page」◆(2013/05/30) PROCUREMENT: Dual-Use In Azerbaijan

「VOR」◆(2012/06/12)OSCE議長 アルメニアとアゼルバイジャンに武力行使拒否を訴え
「VOR」◆レバノン〔原文ママ〕で抗議デモ―「ハンガリーよ,さようなら!」
> アルメニアの首都エレバンにあるハンガリー領事館前では,ハンガリー政府がアルメニア人将校を殺害したアゼルバイジャン人将校を
>本国に送還した事に対する抗議デモが行なわれる.
> 2004年2月,ハンガリーのブダペストで行なわれていたNATOの,「平和の名の下における協力」プログラムに参加していた
>アゼルバイジャン軍将校が,アルメニア軍将校を斧で殺害.
> アゼルバイジャン軍将校には2006年4月,30年間恩赦無しの無期刑の判決を受けたが,8月31日に本国に送還.
> アゼルバイジャンのアリエフ大統領の指示により,直ちに恩赦が与えられた.
> アルメニア政府はこれを受け,ハンガリーとの外交関係を絶つと発表.
> 在エレバン・ハンガリー領事館前で行われた抗議デモの参加者約200人は,ハンガリー国旗を燃やした他,
>インターファックス通信は領事館の壁に抗議にプラカードを貼り,建物に向けてコインを投げつけたとしている.
> このデモの前にはアルメニア外務省前でも抗議デモが行われた.
> 専門家らは,ナゴルノ・カラバフ紛争を巡る状況が深刻化するのではないか,と懸念している.
「VOR」◆アルメニア大統領:アゼルバイジャンと戦争の用意ある
> アルメニアのサルキシャン大統領はアルメニア人将校を殺害して,ハンガリーで服役していたアゼルバイジャン人将校が
>釈放された事について,激しい抗議声明を発表.
> インターファックス通信が伝えた所では,サルキシャン大統領は,アルメニアは戦争を望まないがその用意はある,と述べ,
>アゼルバイジャン人将校が釈放された事に対して,ミンスク・グループを含めた国際機関が反応する事に期待しているとの声明を表した.

「VOR」◆(2012/11/04)民族主義行進「ルースキー・マルシ」 中央アジア諸国へのビザ導入を求める

「VOR」◆(2012/09/14)アルメニアで集団安全保障条約機構の合同演習スタート

「VOR」◆(2012/11/11)日本 旧ソ連共和国5カ国に 天然ガス採掘で7億ドル

「WP」◆(2010/02/25)In Kazakhstan, the race for uranium goes nuclear

「アラスカ物語」:ユーラシアの奥地にはシーパワーは届かない

「地政学を英国で学ぶ」:中央アジアの兵站ルート

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2010/02/08)次に外資が群がるのは中央アジア!? 世界が注目する「鉱物資源の宝庫」 の実力

だれ猫資料館(カフカス〜中央アジア)

「地政学を英国で学ぶ」:中央アジアのグレートゲーム?

中央アジア研究所

ナマステ・ジャパン(アジア・アフリカ諸国)

日本国際問題研究所

「日本語で読む中東メディア」◆(2013/04/24) アルメニア,全土で「ジェノサイド」追悼行事 (Zaman紙)

日本貿易振興機構アジア経済研究所

統計資料コンテンツ

よくある質問集--統計データ入手方法

アジア各国・地域経済統計(PDF)

ヤジ研 アジア・メディア・リンク

●Azerbaijan アゼルバイジャン

「D.B.E.ミニ型」(2010/10/03)◆(情報元;好き好き大好きっ) 【動画あり】アゼルバイジャン国歌のラスボス感は異常

「FLOT.com」◆(2011/08/01)Азербайджан закупил у Турции скоростные катера
アゼルバイジャン,トルコ高速艇購入

「militaryphotos」:Military of Azerbaijan
 アゼルバイジャン軍スレッド

「NOVOSTI」◆(2010/08/30)Azerbaijan to buy four Ka-32 helicopters from Russia

「Russia Now」◆(2011/06/13)Armenian, Russian and Azerbaijani FMs meet in Kaza

「VOR」◆(2012/04/14)アゼルバイジャン ガスパイプラインが爆発
>昨日深夜,露へ天然ガスを供給するガスパイプラインが爆発.爆発の原因はガス漏れで,パイプラインは緊急遮断弁により双方向から閉鎖されたが爆発箇所のガスは全焼している.
>この爆発による死傷者は無し.

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/03/26)アゼルバイジャン イラン・イスラエルの“板挟み”で苦慮

「対外情報調査部」:国家安全に関するアゼルバイジャン共和国法

「中東の窓」◆(2012/10/08)イラン・アゼルバイジャン関係

●書籍

『アイハヌム 2012 加藤九祚一人雑誌』(加藤九祚訳,東海大学出版会,2012/12)

『現代中央アジア論』(岩崎一郎,宇山智彦,小松久男編著,日本評論社,2004.8.15)


◆総記


 【質問】
 中央アジア各国の国力と軍事力を,簡単に教えてください.

 【回答】
 以下は2003年現在.
 計算は主として,上から4桁以下四捨五入

●カザフスタン
人口  1,450万人
GDP  24,800百万ドル
陸軍  46,800人
空軍  19,000人
準軍隊 34,500人
(内務省国境警備隊,内務保安軍,大統領警備隊,政府警備隊)
(軍隊+準軍隊)÷人口の比率 0.692%
GDP÷(軍隊+準軍隊)の比率 24.7万ドル/人

●キルギス
人口  480万人
GDP  1,631百万ドル
陸軍  8,500人
空軍  2,400人
準軍隊 5,000人(推計,国境警備軍――キルギス人により構成されるも,司令官はロシア軍所属)
(軍隊+準軍隊)÷人口の比率 0.331%
GDP÷(軍隊+準軍隊)の比率 10.3万ドル/人

●タジキスタン
人口  640万人
GDP  1,214百万ドル
軍隊  約6,000人(編成予定の航空隊要員,約800人を含む)
準軍隊 1,200人(推計,内務省国境警備軍)
ロシア連邦国境警備軍 12,000人(要員の大半はタジク人だが,司令官はロシア人)
(軍隊+準軍隊)÷人口の比率 0.300%(計算にロシア連邦国境警備軍を含む)
GDP÷(軍隊+準軍隊)の比率 16.9万ドル/人(計算からはロシア連邦国境警備軍を除く)

●トルクメニスタン
人口  580万人
GDP  3,711百万ドル
陸軍  25,000人
海軍  1,000人(推計)
空軍  3,000人(推計)
(軍隊+準軍隊)÷人口の比率 0.500%
GDP÷(軍隊+準軍隊)の比率 12.8万ドル/人

●ウズベキスタン
人口  2,560万人
GDP  7,929百万ドル
陸軍  40,000人
空軍  約10,000〜15,000人
準軍隊 18,000〜20,000人(推計,内務省所属内務保安軍,国防省所属国民軍)
(軍隊+準軍隊)÷人口の比率 0.266〜0.293%
GDP÷(軍隊+準軍隊)の比率 10.6〜11.7万ドル/人

●平均値
(軍隊+準軍隊)÷人口の比率 0.397%
GDP÷(軍隊+準軍隊)の比率 14.5万ドル/人

 【参考ページ】
『現代中央アジア論』(岩崎一郎,宇山智彦,小松久男編著,日本評論社,2004.8.15),p.133 & 178

 ちなみに東トルキスタン(ウイグル自治区)はwikipediaによれば
人口  883万人(2004年,ウイグル人のみの数)
GDP  4,203億元(2008年)=615億3276万ドル

 上記平均から大雑把に推算するに,仮に独立した場合,
総兵力  35,000(人口からの推算)〜424,000(GDPからの推算)
を養える計算になる.
 ただし中国の経済統計は過大だといわれており,また,独立後も漢人資本が残留するとは考えにくいので,人口からの推算のほうが,より正確な値となるだろう.

 ちなみに2009.7.5のウイグル騒乱の際,中国が動員した治安維持兵力が13万人.
 ……兵力から考えると,ロシア傘下にでも入らない限り,独立維持は困難だろうなあ.

【ぐんじさんぎょう】,2009/8/7 22:00
に加筆


 【質問】
 中央アジアには『スタン』と付く国が多いですが,どういう意味ですか?
 もしかしてモンゴル・ハーンの『ハーン』ですか?

 【回答】
 -estan/-istanは厳密に言えばペルシア語で「〜が居る・存在している場所,ところ」ほどの意味.「国」とかだけとは限らない.
 たとえば「病院」のことをペルシア語では「ビーマーレスターン」と言うけど,これは「病気,病人(ビーマール)が居るところ(-estan)」の意味.

 前近代までに近世ペルシア語の影響が強い地域で,「地名,国名」として使われる場合も有る.
 最近の中央アジアの地域名で(〜スタン)は,歴史的な根拠とは全然別として,ソ連時代の民族区分をもとに,好き勝手に自らのアイデンティティの拠り所とする民族的な名称に,ペルシア語起源の接尾辞-estan/-istanをくっつけて地域的な名称に仕立て上げたものが多い.

世界史板


 【質問】
 なぜ中央アジアの各国では,民族が入り乱れた格好になっているのか?

 【回答】
 民族自決とバスマチ運動の分断という2つの目的を同時に果たすため,無理のある国境の線引きが行われたためだという.
 以下引用.

 中央アジアはソ連内の後発地域であり,ソ連共産党の一党独裁体制のもとで「社会主義」建設の途に組み込まれた.
 その中で注目されるのは1924年に始まる,中央アジアにおける「民族的境界区分」である.
 これはロシア領トルキスタン,ブハラ,ヒヴァに分断されていた中央アジア地域を対象にして,新たな国境線による「民族」別共和国を創設したことを指す.
 その結果,トルキスタンあるいはムスリム,あるいはチュルク語・ペルシャ語世界などという複合的なアイデンティティーをもっていた中央アジア諸民族が,民族自決権の理念のもとで5つの共和国に分割された.
 これはスターリンの民族理念の適用によるものとされ,言語の相違が特に重視されている.
 カザフ人とキルギス人がそれぞれの共和国を持ったのも,言語の相違が基準とされたためである.
 国家の名前に付されているのがいわゆる名称民族である.カザフ人はカザフスタンの名称民族である.

 しかし「民族的境界区分」は必ずしも民族自決とは規定できない複雑な問題を残した.境界が民族の居住地とは必ずしも一致していないケースも多かったからである.
 例えば,ウズベキスタン内にブハラ,サマルカンドなどタジク人も多い都市が残る一方,タジキスタンにはブハラ国時代の首都ブハラが含まれず,殆ど都市らしい都市ではなかったドシャンベが首都にされるなど,共和国と国境形成に無理が見られた.
 いくつかの「飛び地」も形成された.
 1920年代初めの中央アジアでの反ボルシェビキ運動であったバスマチ運動の拠点が現タジキスタンなど中央アジアであったために,「民族的境界区分」政策の背景には,バスマチ運動の分断を図ることがあったとする見方も否定できない.
 結論的に言えば,「民族的境界区分」には民族自決とバスマチ運動の分断という2つの目的が同時に含まれていたと見るのが妥当であろう.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」
(明石書店,2005.6.25),p.101-102


 【質問】
 中央アジアの言語について教えられたし.

 【回答】

 中央アジアには,アルタイ語族とインド・ヨーロッパ語族に属する言語があります.

 アルタイ語族は全世界で4億人に近い人々が話しており,60以上の言語が数えられています.
 アルタイ語族の話し手はベーリング海峡からバルカン半島まで,日本からロシア中央部まで,シベリア北端のタイミール半島からペルシャ湾までに至る地域だけで無く,欧州にも住んでいます.

 アルタイ語族に含まれるのは,大きく,テュルク諸語(トルコ系言語)と,モンゴル諸語,満洲・ツングース諸語,日本語と朝鮮語です.
 言語年代学の研究では,アルタイ祖語は紀元前5000年前後に分れたとされ,その権威である米国の言語学者スワデシュの研究では,100の基礎語彙中17個が意味と構造上の類似性があるとされ,それを勘案すると少なくとも祖語から各語派に分離して後,少なくとも7,000年が経過したと言われています.

 語派としては一応大きく3つに分れています.
 東部語派もしくはモンゴル・テュルク語派は,紀元前後までの4,000年の間にトルコ語とモンゴル語に分れ,スワデシュの統計では100個の単語の内25個の類似性があるとされます.
 この他,中央語派又はツングース・満州語派,そして,極東語派又は日本・朝鮮語派があります.
 こちらは紀元前3000年の内に朝鮮語と,日本・琉球語に分れたとされ,スワデシュの統計では100個の単語の内,33個に類似性があるとされています.
 但し,アルタイ語族の中に日本語と朝鮮語が含まれるのかについては,未だ科学的手法に於いては完全証明に至っておらず,議論の余地があり,こうした位置づけはまた有力学説の1つと言う形です.

 こうして祖語から分れた語派から更に5つに発展しました.
 1つ目が,トルコ(テュルク)語グループと言うもので,これは紀元後の初め頃に分離し形成されたとされ,スワデシュの統計に従えば,100の単語の内72に類似性があります.
 2つ目はモンゴル語グループで,これは9世紀に分離し,スワデシュの統計では100の内その同一性は90%に及びます.
 3つ目がツングース・満州語グループで,これは紀元前400年頃に分離したもので,スワデシュの統計では,100の単語の内,同一性の程度は65%.
 4つ目が日本,琉球語グループでこれは紀元前200年頃に分離して形成されたもので,スワデシュの統計では,100の単語の内同一性の程度は74%になります.
 5つ目が朝鮮語グループで,10世紀に分離して形成されたものとされ,スワデシュの統計に従うと100の単語の内同一性の程度は91%となります.

 この様に分離したアルタイ語族ですが,この内中央アジアではトルコ(テュルク)語グループに属する言語が広く話されています.
 その内,現在でも話されている言語は以下の通りです.

 ブルガル方言がチュヴァシュ語.
 オグズ方言がトルクメン語,ガガウス語,アゼルバイジャン語,トルコ本国地域のトルコ語.
 キプチャク方言がカライム語,クミク語,カラチャイ・バルカル語,タタール語,バシュキール語,ノガイ語,カザフ語,カラカルパク語,クリム・タタール語.
 カルルク方言が現代ウイグル語,ウズベク語,ロブノール語.
 ウイグル方言が古代ウイグル語,トゥヴァ語,ヤクート語,ハカス語,ショル語.
 キルギス・キプチャク方言がキルギス語とアルタイ語.

 ウズベク,カザフ,トルクメン,キルギス,カラカルパク,ウィグルなどの諸言語は,生活言語として用いられ,タタール語,クリム・タタール語は日常生活では使われていない学習と教育の言語です.

 なお,これには含まれていませんが,朝鮮語を話す50万人近い人々がウズベキスタンとカザフスタンにも住んでいます.

 一方,印欧語族は,ロマンス,ゲルマン,ケルト,ボルティク,スラブ,トカラ,インド,イラン,アルメニア,アナトリア,ギリシャ,アルバニア,イタリアの各語派が所属しますが,アナトリア,トカラ,アルバニア,イタリア語派は既に死語となっています.

 印欧語祖語は紀元前5000〜6000年前に各語派に分離したと推定され,現在では最も広く世界で話されている言語であり,その利用者は25億人とされています.

 この内,中央アジアではイラン語派が広く話されています.
 イラン語派には次の言語があります.
 古代イラン語に属するアヴェスター語,古代ペルシャ語,メディア語,スキフ・サルマート語.
 中世イラン語に属するパフレヴィー語,パルティア語,バクトリア語,ソグド語,ホラズム語,ホータン・サカ語,トゥムシュク・サカ語,アラン語.
 東イラン語に属するオセット語,パシュトゥー語,パミール語(ヤズグロム語),ヤグノブ語,ワハン語.
 西イラン語に属するタラシュ語,タジク語,ベルージ語,ハザラ語,ペルシア語,ルール語,クルド語.

 現在でも話されているのは,タジク,ハザラ,ヤズグロム,ヤグノブ,ワハン語のみで,11〜12世紀頃迄話されていたアヴェスター,バクトリア,パルティア,ソグド,ホータン・サカ語などは,テュルク諸言語もしくは新しいイラン語派の1つであるタジク語に同化されてしまいました.

 なお,この他に広く話されている印欧語派の言語はロシア語です.
 ロシア語はスラブ語派の内,東スラヴ語グループに入ります.
 但し,この言語はこの地域現住の言語では無く,19世紀後半に入ってきたものです.
 その後,ソヴィエト時代に他のソ連邦地域がそうだった様に,中央アジア諸国に於いても国家の言語としての役割を果たしており,現在では,ロシア語を母語とする人々が約1,500万人居住しています.

 因みに,現在ではロシア語は,カザフスタンとキルギスで広く話されており,一方でウズベキスタン,トルクメニスタン,タジキスタンではそれほどでもなく,話されている範囲も狭いものとなっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/05 22:48
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中央アジアにおけるイスラームは,どのようなものなのか?

 【回答】

 イスラームは中央アジアに広く広まっています.
 これは,アラブのカリフ政権がトルキスタンのタラス河畔に至るまでの地域を710年頃までに支配下に置いたことに始まります.
 この時代から後,中央アジアは約500年もの間,イスラーム文明の中心となり,イスラームの物質的,精神的文化が花開き,偉大なイスラーム国家が次々に出現しました.

 このイスラームは大きく2つに分れます.
 1つが多数派を占め,この地域でも80%が信仰しているスンナ派であり,残りがシーア派です.
 スンナ派と言っても,宗派が多数有り,その中でもハナフィヤ教,ナクシュバンディー教,ヤサビヤ教がこの地域で信仰されています.

 スンナ派教徒と言うのは,預言者ムハンマドの言葉と活動を信仰し,実践して生きるムスリムで,それはイマーム・ブハリー,イマーム・ムスリム,イマーム・アルテルミズイ,イマーム・アブダウド,イマーム・アンナサイ,イマーム・イブンマジディーの6名のムハンマドの高弟達のハディースに語られた指針に基づき生活します.
 シーア派との大きな違いは,スンナ派は,歴史的にムハンマドに続くアブバクル,ウマム,ウスマン,アリの4人のカリフ政権の正当性を認めているのに対し,シーア派はアリしか正統カリフと認めていない点にあります.

 中央アジアに広く伝播しているスンナ派のハナフィヤ教は,イスラームの中でも最もリベラルな宗派と言えます.
 この宗派はクルアーンに寛大であり,弟子達の口伝に明らかに反しない物事や行動に対しては完全に禁止することはありません.
 また,他宗派の人々に対しては心広く接しています.
 これは宗教学者アブ・ハニィフヤによって体系化された経典に基づいています.
 更にこの地域には,スーフィズムがその宗教的寛大さと相まって世俗主義を形作っています.

 この他,ヤサビヤ教,ナクシュバンディー教,クブロビー派などの宗派や教団も,重要な位置を占めます.
 この宗派ではそれぞれ,10世紀のアフマド・ヤサビー,13世紀のバホビッディン・ナクシュバンド,ナジミッディン・クブローと言った宗教学者や長老の影響を強く受けているもので,彼らの教育の成果は大きく,歴史的に本来トルキスタンは宗教上の混乱や対立の中心にはなっていませんでした.

 シーア派も一部の地域で信仰されています.
 先述の様に,シーア派はスンナ派に次ぐ2番目の宗派であり,彼らは預言者ムハンマドの後継者であるカリフのあり・イブン,アブ・トーリブだけを認めます.
 つまり,ムハンマドの死後,カリフの地位はアブ・バクル,ウスマン,ウマル,アリの順で継承されたのですが,その順番を認めないグループで,イスラームのごく初期の時代から形成されていました.

 アリはそもそもムハンマドの従兄弟であり且つ娘婿であったと言う理由で,カリフの正当継承者であるとの異議を最初に唱えたグループをアラビア語でシーアと呼び,それが宗派の名前になったものです.
 シーア派が出現すると,ムスリム社会はスンナ派とシーア派に分れ,661年にアリが悲劇的な最期を遂げた後,シーア信奉者は政治的宗教集団の色彩を帯びる様になります.

 そのシーア派が勢力を拡大したのは中世のイランにおいてです.
 イランの王と宗教指導者達は,民衆のシーアに対する献身的宗教心を隣接のスンナ国家との対立に利用してきました.
 その結果,隣接の国々と戦争が発生するのは自明の理でした.
 シーア派ムスリム達は,スンナ派のカリフを認めようとせず,シーア派の中から自分たちの宗教指導者,所謂イマームを選びました.
 多くのウラマーから選ばれたイマームはシーア社会の宗教的且つ世上のリーダーと見做され,それ故,時代が下がるにつれてアヤトラの権威が強くなり,現在でも,故イマーム・ホメイニやイマーム・ハメネイは民衆に人気があり敬われています.

 全世界で,シーア派ムスリムは15億人に達し,イラン,Afghanistan,アゼルバイジャン,イラク,中近東の他の国々にも住んでいます.

 中央アジアに於いては,シーア派の一派であるイスマーイール教団が信仰されています.
 これは,9〜10世紀頃に元々北アフリカで組織されたものです.
 その後,イスマーイール主義集団は中央アジアに出現しました.
 とりわけ,今のタジキスタンのカボディヤン出身のナシリー・フスラフなる人物は,1045年にメッカに詣で,イスマーイール運動を宣伝してこの教義をこの地域に広め,その後,バダフシャーン地区でイスマーイール教団の共同体社会を組織して,そのリーダーとなりました.

 パミール山中の人々はイスラーム化するまでは,年を重ねた経験豊かな人をpir(ペルシャ語で老人の意味)と呼んで尊敬していました.
 彼らは社会階層の中で特別な地位が与えられ,その社会の構成員に生活や家庭や住民の諸問題に対する忠告や助言を与えていましたが,この構造がイスマーイール教団の教義に上手くマッチしました.
 この様な理由で,シーア派の中でもイスマーイール教団では,宗教指導者として長老,カリフ,イマームなどの役割も大きいものがあります.

 現在,タジキスタンとAfghanistanに於けるイスマーイール教団の最高指導者は,シャーザーデ・アミン・アガハーン4世です.
 アガハーンの援助で,パミールの両地域には橋や学校が作られており,現在,パミールに於いてはイスマーイール教団は隆盛を極めています.

 ウズベキスタンのシーア派ムスリムは,自分たちの寺院やその他の公共施設,文化的諸団体を持っています.

 歴史的に見ると,19世紀後半にロシアに支配されるまで,イスラームは常にトルキスタン諸国家の国教でした.
 ロシア帝国がこの地を支配下に置いた時も,例えばカウフマンがいみじくも述べた様に,「地区の人々の言語,宗教,文化などは大した問題では無い」と言う立場で,あからさまな攻撃はしませんでしたが,何世紀にも亘ってムスリムの礼拝所や教育を支えてきた基盤である,寺院やメドレセ付属のワクフの土地所有権を廃止しました.
 ワクフとは寄進財産の事であり,寺院や神学校を供給する為に分与された土地であることが多く,作業所や資金,貴金属などの財産を持って,彼ら宗教者や教育者の生活を支えてきたものです.

 この結果,トルキスタン総督府はイスラーム学院の教育を監督する様になり,それに対する民衆の反発も相当にありました.
 1898年のアンディジャンで起きたドゥクチ・エシャン暴動の基本的理由のひとつが宗教的動機であり,その指導者も宗教指導者でした.

 革命後は,ソヴェト政権は宗教を阿片と見做して,厳しい弾圧を行いました.
 特に1927年に開始された宗教に対する徹底的な攻撃と,無神論のキャンペーンとに依って,何千もの寺院と神学校が閉鎖若しくは破壊され,10万人に及ぶ宗教指導者や信仰心篤いムスリムは殺されました.
 その結果,1930年代中頃には公に活動していたモスクは1つも無く,神学校に至っては閉鎖されたままとなります.

 この弾圧は,独ソ戦争中の1943年に人民大衆の支持を得る為と,宗教を反ファシスト戦争に利用する目的で,スターリンによって連邦内で宗教組織を立ち上げ,礼拝施設の開設に許可が与えられるまで続きます.

 1943年の解除を受けて,タシュケントに「中央アジア・イスラーム教管理局」が設置されました.
 タシュケントにイスラーム学院,ブハラに神学校が復興しました.
 しかし,元々1万に及ぶ宗教学校のあった地域に対する措置としては,余りにも規模が小さなものでしかありません.
 また,1927年からの弾圧で,イスラームの基本的な統治法をよく知るウラマー達の生命線を断ち切ってしまったことから,宗教的な空洞化が生じ,そこにワッハーブ主義の様なイスラーム原理主義の過激派を呼び込む切っ掛けとなってしまった訳です.

 1991年にソ連の崩壊を受けて中央アジア地域が独立を達成した頃には,この地域全体で,僅かに250〜300の寺院しかありませんでした.
 それが独立後は,宗教政策が大きく変わり,寺院の数が増え,宗教の専門従事者も沢山生まれ,新しい神学校,イスラームの大学も設立されました.

 ウズベキスタン,カザフスタン,トルクメニスタンと言った各国の政府は,伝統的な原住のイスラームを強く支援し,かつそれらを自らの政府の監督下に置く様にしています.
 これは,90年代の中頃と末期に出現したワッハーブ主義その他の原理主義宗教の流れにより,国造りが非常に大きな打撃を受けたのが原因です.
 特にウズベキスタンに於いては,2000〜2001年にイスラーム原理主義者が創設した「ウズベキスタン・イスラーム運動」と言う団体によるゲリラ戦は,その弾圧の為に,ウズベキスタン政府に非常に多くの負担をかけました.

 タジキスタンとキルギスは,ウズベキスタンと異なります.

 タジキスタンは,1995〜97年の住民同士の戦闘後,反政府イスラーム勢力が国家組織の30%を支配している状態でしたし,宗教政党たるイスラーム覚醒党と言うものも存在していました.
 しかし,ラフモノフ政権は,国民和解を掲げ,イスラーム勢力を1歩1歩確実に自己の影響下と監視の下に置き換え始めました.

 キルギスでは,アカエフ政権は宗教組織は各宗派に対して兎も角自由な行動を保証しましたが,これには,イスラム原理主義組織の1つ,「ヒズブ・タフリル」と言う組織すらありました.
 後のバキエフ政権はこうした宗教的な野放図な寛容を改め,慎重な態度を取り始めています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/06 22:56
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 サウディアラビア以外には殆ど見られないはずの「ワッハーブ」派が,中央アジアに存在するのは何故か?

 【回答】
 そもそもワッハーブ派とは,18世紀に起こったイスラーム改革運動であり,現在のサウディアラビアの国教である.
 以下引用.

ワッハーブ派は,18世紀アラビア半島内陸のナジュドに起こったイスラム教の 改革運動である.宗派としてはスンナ派に属するが,その下位宗派に数えられる場合もある.法学的には,イスラム法学派のうち厳格なことで知られるハンバル派に属す.
 創始者はムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ(ワッハーブ).一般にイスラム原理主義と呼ばれて知られている復古主義・純化主義的イスラム改革運動の先駆的な運動であると評価される.

 ワッハーブは,18世紀半ばに,コーランムハンマドのスンナに戻り,イスラム教を純化することを説き,当時ナジュドで流行していた聖者崇拝,スーフィズムを激しく排撃した.
 ナジュドの豪族であったサウード家のムハンマド・イブン=サウードは,ワッハーブの教えを受け入れて彼を保護し,ワッハーブ派の運動を広げつつ勢力を拡大した.
 こうして形成されたサウード家の国家をワッハーブ王国と呼ぶが,19世紀初めにオスマン帝国と敵対してムハンマド・アリーに滅ぼされた.

 その後ワッハーブ派は雌伏を余儀なくされたが,20世紀初めにサウード家のアブドゥルアズィーズ・イブン=サウード(イブン・サウード)がリヤドを奪回してからのち復興した.
 サウード王国がナジュドとヒジャーズを征服してサウジアラビア王国を建国すると,ワッハーブ派はアラビア半島の大部分に広がった.

 ワッハーブ派は現在もサウジアラビアの国教であり,宗教警察が国民に対して目を光らせている.
 また,王家が国庫を私物化しているという不満を受け止める存在ともなっている.
 同国出身のオサーマ・ビンラーディンも元々ワッハーブ派に属する信徒であったとされる.

「encyclepédie」:ワッハーブ派

 それが同地域に広まったのは1980年代半ば.サウジ資本流入と共に,「ワッハーブ派」をうたったNGOが押し寄せたためだという.
 以下引用.

 ウズベキスタンの政治は,いっぽうにはイスラム過激派,もういっぽうには政府支持者のうごめきという危険な二つの極に二分されている.
 この地域では,ソビエト政権による絶え間のない抑圧にもかかわらず,ウズベク人とタジク人の大規模なスーフィー信仰教団や,今回の蜂起の舞台となったフェルガナ峡谷のような熱狂的な宗教心の見られる地域の存在とともに,イスラムが常に大きな影響力を及ぼしてきたことは間違いない.
 フェルガナ峡谷ではこれ以外に,1999年,2000年,さらに2003年,2004年にも衝突が起きている.
 また,80年代半ば以来,サウジ資本が流入するとともに「ワッハーブ派」をうたったNGOが押し寄せた結果,多数のモスクが建設され,青少年を指導するコーラン学校が開校するに至ったのだった.
 歴代のアメリカ政権によって奨励されたこの「ワッハーブ化」政策は,アフガニスタンからのソ連撤退,冷戦終結までその命脈を保ち,対象となったのもウズベキスタンだけではなかった.
 また,現在でもなお,ロシアの影響下にある地域を狭める目的で,この政策が実施されているのである.
 それに対してモスクワも,2002年以降,懸念を示すようになり,脅かされつつある自らの地位を再び確保しようと躍起になっている.

ラテンなニュース - ウズベキスタン情勢に関するラジオフランスの論評記事

 「ワッハビズム」はもともとサウジアラビアの公的イデオロギーと,ロシアでは見られていた.
 その教義が北カフカスに入り込んできたのは,1980年代のソ連のペレストロイカ(改革)の時期だった.
 ソ連の鉄のカーテンが取り払われ,アラブ圏から布教者が入り込み,カフカスの若者達に外国のイスラム国家への留学の機会が訪れていた.
 彼らは原理主義的な教義を身につけて故郷に帰り,「ワッハビット」と呼ばれるようになった.

 サウジアラビアのモスクワ大使館開設は,「ワッハビズム」のロシア浸透を加速させた.
 1990年9月の旧ソ連との国交樹立に伴うサウジアラビア外交団のロシアへの登場によって,ロシアのイスラム教団体と外国の関係が復活した.
 サウジアラビア大使館は1993年までにモスクワその他の都市に,「イスラム連帯組織」などのさまざまな名称の組織を作り上げた.
 数千万部規模のコーランの無償配布,イスラム留学生の外国派遣や支援に,サウジアラビアの豊富な資金が投下された.
 1992年から94年にかけてチェチェンやカラチャエヴォ・チェルケス,ダゲスタンその他の地域で,イスラムの原理を研究する研修所がサウジアラビアの組織によって作られていた.
 この研修所では若者達が「将来のイスラム守護者」として,イデオロギーにとどまらず軍事教育まで受けていた.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.70

 ただし同地域の政府勢力は,反政府派の人々に対するレッテルとして,「ワッハーブ」と呼んでいるそうなので,注意が必要である.

中央アジアウズベキスタンなどではワッハーブ派というと特別な響きを持つ.(反政府的な態度を取る人たちにレッテル張りをし,矮小化する為にこの言葉が使われている)

「encyclepédie」:ワッハーブ派

 この〔チェチェン紛争の〕ころチェチェンや中央アジアでのイスラム原理主義者に対しては「ワッハビsット(ワッハビズムの信奉者)」という言葉が使われた.
 ソ連時代に「ワッハビット」のことが語られ始めたのは1990年代初めのタジキスタン内戦の頃だった.
 同共和国の反政府せいりょくはそのとき「ワッハビット」たちとともに戦っていると主張した.
 実際イスラム武装勢力は「ワッハビット」のイデオロギーの幾つかの要素を取り込んでいた.
 例えば彼らは,派手な結婚式や葬儀の習慣を廃止するよう主張した.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.70


 【質問】
 中央アジアにおけるキリスト教の状況は?

 【回答】

 中央アジア地域は基本的にイスラームの勢力圏です.
 しかし,キリスト教が全くいないかと言えばそうでもありません.
 イスラーム到達以前は,紀元4世紀頃にイランを経由して中央アジアに入ってきました.
 イランにもその頃にキリスト教の共同体が浸透し始め,334年にはメルブに於いて最初のキリスト教共同体が出現しました.

 古代中央アジアに於いては,ローマカトリックの様なものではなく,ローマ帝国で異端とされたネストリウス派のキリスト教が広まり,5〜7世紀頃には,この地域で大変な影響力を持ち,この地域のイェッティスー,南シベリアのテュルク系民族,そして更に中国にまで広まることになります.

 7世紀に中央アジア地域がイスラーム世界に編入された後も,この地域には土着宗教としてネストリウス派のキリスト教共同体が存在していました.
 10〜11世紀にはトルコ・モンゴル族のケレイト,ナイマン,ウイグルなどの部族の支配階級がキリスト教を受容れ,イェッティスーとカシュガルにはネストリウス派の教会が出現しました.
 キリスト教徒のケレイト,ナイマン,ウイグルの各部族が,チンギス・ハンとその息子達の時代,モンゴルの支配階級の間で大きな配慮を受けていたのはこの理由,即ち,モンゴルの支配者がキリスト教に強い関心を示していたことに他なりません.

 実際,モンゴル帝国の諸都市,北京とかアルマリク,サマルカンドにはキリスト教の共同体があり,教会が建てられていました.
 なので,「プレスター・ジョン」伝説が西洋地域で囁かれたのも,まんざら嘘では無い訳です.

 しかし,徐々にモンゴル人達にもイスラームが受容され,イスラームの地位が強大になる一方で,辺境のキリスト教徒達は欧州のキリスト教国家との関係を絶たれてしまうと,中央アジアでは13世紀末〜14世紀始め頃になると,キリスト教徒達の共同体組織は自然消滅していきます.

 キリスト教が再びこの地域で力を得始めるのは,ロシアがカザフのジュズを服属させた17〜18世紀頃の事です.
 ロシア人達は,自分たちが征服した植民地には,ロシア・スラヴ人達を入植させました.
 そして,彼らの宗教的需要に応える為に,ロシア正教会の関係者がやって来たのも当然と言えば当然です.

 1871年,タシュケントにロシア正教会の中央アジア管区が設置されました.
 この管区はトルキスタン総督府支配下のキリスト教会の活動を統括するものでした.
 その後,革命が起きると,無神論を信奉するボルシェビキ達にこう言った全ての宗教活動は停止させられ,当然のことながら,ロシア正教会の中央アジア管区も停止させられますが,イスラームと同様,1943年にその活動を再開します.

 今日ではロシア正教会の中央アジア本山はウズベキスタン,トルクメニスタン,タジキスタン,そしてキルギスにある106ものキリスト教社会の活動を監督しており,この地域のロシア人とその他のキリスト教徒達が住む全ての大きな拠点では,教会の活動も又活発なものがあります.

 しかし,イスラームとキリスト教の間で,大きな衝突というのは今までこの地域ではありません.
 2つの宗教は,互いに対立する様な思想上の争いも布教活動も行わず,寧ろ,宗教的寛容,相互の尊敬と理解が拡がっている状態であり,他の地域とは相当違う部分があります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/07 23:49
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中央アジアの仏教は,ティムールによって虐殺され消滅?

 【回答】
 アラブ征服時代以降の西トルキスタン――パミール以西のマーワラーアンナフル方面の仏寺やゾロアスター教の神殿などがどれだけの期間存続したかはあまりよく分かっていない.
 ソ連時代からそれほど発掘が進んでいないというのもあるそうだが.

 ただ,イブン・スィーナーが存命中にはブハーラーの郊外などに,まだ仏寺が運営されていたようだから,11世紀後半のサーマーン朝末期までは存続していたろうことは伺い知ることができる.
 アフガニスタンはタクラマカン方面とインド世界,イスラム圏との境域地域だったこともあって,11世紀にガズナ朝のマフムードなどが各地の諸勢力の拠点を破壊するまで,仏寺や土着の神々の神殿などが比較的長く存続していたらしい.

 タクラマカン周辺のいわゆる東トルキスタンの諸都市は,10世紀にカラハン朝がイスラム化したこともあって,西部のカシュガル一帯は,モスクや聖人廟などがこの頃から造営が始まったらしいが,北部は西ウイグル王国が11世紀頃に,マニ教から仏教に国教化してからモンゴルに帰順するまで,仏教圏であり続けたのは周知の通り.

 南部の諸都市はこの頃どうだったか.

 13世紀のモンゴル征服時代に一時期イラン・中央アジアでも,テュルク・モンゴル系の部衆や王侯たちなどによって各地に仏寺やキリスト教会などが多数建立されてらしいのだが,イルハン朝のガザン・ハンのようにモンゴルのイスラム化の過程で,これらはモスクやマドラサなどに取って変わり,徹底的に棄毀されてしまったようだ.

 西方での資料では,ガザン・ハン以前のフレグ家が信奉していた宗教について,仏教やネストリウス派に属してこれを保護していたという話は出てくるのだが,ガザンや父アルグン等がどういった宗派の仏教を信奉していたかはよく分からない.

 自分は漢籍やチベット語文献は読めないので,フレグ家がカギュ派の施主だったという話は非常に興味深い.
 『集史』では仏教関連の知識や釈迦牟尼伝などについて,カシュミール出身の「カマーラシュリー」という「バフシー(bakhshi)」,つまり仏教僧から得ていたことが述べられている.

 ガザンはイスラムに改宗する以前は,父アルグン・ハンと同じく仏教を信奉していたことが知られている.
 彼が操った言語は,母語であるモンゴル語の他にアラビア語,ペルシア語に続いてインド語,カシミール語,チベット語,ヒタイ語とフランク語を少々を知っていたことが述べられている.
 多分ガザン登極以前のタブリーズ市郊外の歴代ハンのオルドには,インドやカシミール,チベットや華北からやって来た仏教僧たちが,ネストリウス派などの修道僧や現地のムスリムの貴顕らに混じって闊歩し,定時にはカラコルム宜しく読経や教会の鐘やアザーンが,喧しく聞かれたことだろう.

 一方,チベット側では「チベットから仏僧がイル汗の宮廷に出向いた」なる記録が,全然残っていない.
 チベットからイランに出向くにしても,イル汗国の支配外になる「カシミール〜北西インド〜アフガニスタン」,あるいは「北インド(デリー・スルターン朝支配)〜西へ」のルートで活発に交流できたとは思えない.
 かといってカイドゥ一党が抑えていた北回りルートも,まず無理だろう.

 元朝から海路で仏僧が派遣されていたとすれば,サキャ派や中国仏教僧の方が可能性があるが,こちらもそれらしい記録がないのでよくわからない.

 チベット側でイランについての知見が増えた形跡もない.
 ボン教では,イラン(タジク)を発祥の地としてあれほど崇めているのに,イランの地理については,頭の中でこねくり回した荒唐無稽な地理観から,全然進歩がない.
 西方の資料にはインドやヒターイーについては,どうしたこうしたとそこそこ情報はあるのだが,チベットについては通時代的に殆ど触れられることがない.
 もっともイスラム世界からは,ここら辺の地域は本当に辺境・境域地域で,なかなか情報が残されていなかったりするのだが・・

実は「ボン教では,イラン(タジク)を発祥の地とするのは,それはインド発祥の仏教に対抗するために後で創った神話ではあるのだが,シェンラブ・ミウォの伝記が発掘された(実際は成立した)10〜11世紀には,その伝記の中ですでに「ボン教発祥の地はタジク(イラン)」ということになっていた.
 だから13世紀にはチャンスがあったんだから,ボン教徒はもっとイラン方面に興味持ってもいいはずなんだけどね.
 なんだかわからんね)

 ボン教徒がイル汗宮廷に呼ばれることはなかっただろうが,もしチベット僧がチベット〜イランを頻繁に行き来していたのなら,間接的にでももっとましな情報を得ることができたはずだと思うのだが.

 いずれにしても,この件については資料が少なすぎて謎だらけだね.

世界史板,2005/10/12(水)〜10/16(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中央アジアに,イランはどのように関与してきているのか?

 【回答】

 さて,中央アジアと言う地域は,2つの文化圏に属します.
 言語1つをとっても,ウズベク語,カラカルパク語はテュルク系であり,タジク語はペルシャ系ですが,ウズベクとタジクについては異なる言語を話すものの,1つの民族とも言えます.

 ウズベク語は,ペルシャ・タジク語より多くを借用しており,一方のタジク語も,ウズベク語やその他トルコ系言語の言葉が多く存在しており,その数は語彙数の15%に達します.
 また,タジク語の統語法も,トルコ系言語の統語法が大きく影響を与えています.

 こうした特徴から,ウズベキスタンとタジキスタンの幾つかの都市,とりわけ,ブハラ,サマルカンド,ドゥシャンベ,ホジャンド,コルガンテペ,リーガルなどの一部住民の半数は2言語使用者です.
 そして,都市の中で歴史的に古い町に住んでいる住民はウズベク語とタジク語をほぼ同等に話します.
 ただ,ソヴィエト体制になってからのタジキスタンの町ではこの状況は無くなり,完全に逆の様相を呈しました.

 中央アジアのイラン系言語民族は自分たちの言語を守っていました.
 この言語によって自分たち固有の文化を発展させてきたタジク人はこの地域6,000万人の人口の内,10〜12%を占めます.
 ペルシャ・タジク語は,従来のブハラ・ハン国やブハラ・アミール国時代には公用語の1つとして認知されており,この言語で芸術や文学が創造され,神学校に於いてウズベク語と共に,学習且つ教授された訳で,つまり,この中央アジア地域は,トルコとペルシャ双方の文化が互いに折り合いを付けて共生している地域と言えたのです.
 そして,ペルシャ文化を代表する大きな柱がこのペルシャ・タジク語だったのです.

 20世紀初めまで,この地域の文学者達はこの2言語を自由に操り,自分たちの作品をウズベク語とタジク語とで書きました.
 ウズベクとタジクとは,民族衣装,料理,伝統,婚礼と儀式,音楽,祭り,全てが同じであり,宗教も同じくイスラーム・ハナウィー教のナクシュバンディー派に属しています.

 と言っても,こうした共生は近代では特に稀になっています.

 ところで,中央アジア地域の人々とペルシャ地域の人々は,宗教上の違い,即ち,ゾロアスター教を信仰するか,しないかでイランの地とトゥーラーンの地に分けられただけで無く,この対立の結果,幾度も戦争を展開しました.
 10世紀のペルシャ民族詩人フェルドゥシーがその作品『シャーナーメ(王書)』でイランとトゥーラーンとの敵対関係を描写したことにより,イランとトゥーラーンとの対立は普遍化し,更に思想化の様相も帯び始めます.

 中世期にはイランにはイスラーム教でもシーア派が拡がり,一方でスンナ派を受容れたトルキスタン地域との宗派間対立がよりこの敵対意識を強めました.

 しかし,1991年以降,中央アジアの旧ソ連邦構成諸国が独立を達成したことで,各国はイラン・イスラーム共和国と普通の外交通商文化関係を樹立しています.
 そして,イランの学者達は中央アジアのペルシア文化を学ぶ様になり,中央アジアによるペルシア文化と文化相互の交流に関する諸問題に光を当てる雑誌の出版も行われ始めました.

 とは言え,長年に亘る思想化の影響までは完全に払拭出来ず,幾つかの民俗学者が書いた記事の中には,イランとトルコの神話的対立抗争を過度に強調し,中央アジアを形成している民俗的,歴史的,地理的調和を疑いの目で見た考えや思想も宣伝されています.

 現在のイランの中央アジアに於ける外交の基本は,古代ローマと同様,「争わせ,統治せよ」と言うものの様です.
 ソ連が崩壊した当初,カザフスタン,ウズベキスタン,キルギスなどトルコ系言語系の人々は,初期の段階から互いの統合に向かうことに合意していました.
 カザフスタンのオルダバシュで此の事に一度合意しましたが,以後,この統合に向かうどころか,寧ろ互いに不信感と余所余所しさの壁を高くする方向に向かっています.
 これはイランの外交的勝利とされています.
 つまり,これは古代のトゥーラーン文化圏を統一する事で,近隣にイランに対抗する大国が出来るのをイランが恐れた為です.

 例えば,イラン・イスラーム共和国のキルギス大使館文化担当官はこんな記事を書いています.
 「中央アジアに於けるイランの誇りたる人物と事物」と題された記事ですが….

「ジッザフとシルダリヤの両都市はキルギスに属すべきである.そこは元々キルギス人が住んでいた.」

 実際にはこれらの土地はウズベキスタン領内にあり,キルギスからは実に500〜600km離れている地域で,これまで一度もキルギス人が住んだことはありません.

「ロシア人はカザフ人を農村のキルギス人,真のキルギス人を都市のキルギス人と見做している」

 え〜と,ロシア人学者は一度もこんな説を唱えたことがありませんが,何か.

「フェルガナ盆地の全域はキルギスの土地である」

 キルギスでこんな宣言はしたことも無いですし,ある筈も無く.

「キルギス人はモンゴルの人口の70%を占めている.そして,この国の設立に大きな役割を果たした.」

 この様な説は歴史的にも,人口統計学に照らしても有り得ませんが.

「タジク人は中央アジアの豊かな文化を持った,最も文明化した民族である」

 この「最も文明化した民族」が,1992〜97年に住民同士の衝突を招き,麻薬密輸と合わせて中央アジアの平和と文化的発展を阻害し続けたものだったりするのは無視ですか,そうですか.

 この記事の意図することは明白で,歴史的根拠を何ら論じた物では無く,新奇な説を展開することにより,キルギス,タジクとカザフ,ウズベクとの間に対立関係を意図している訳です.

 即ち,ペルシャ系とトルコ系の両民族の対立を煽ろうとするイランの政治的情勢は,この地域が結束してトゥーラーンとなり,古代や中世の様に,イランと対立する事を恐れた為のものであり,此の事で神話上の敵であるトゥーラーンを「管理下に置く」と言う野望を隠そうともしないものです.
 2008年に,イランとタジキスタンとの主導で,「ペルシャ語国家友好連盟」なるものの結成を行おうと言う動きも正にこの延長線上にあります.

 しかし,対外政策で声高に主張している「イスラーム世界のリーダー」と言うものにはアラブ諸国やトルコ,パキスタンなどムスリム世界では疑いの目を持って見られており,対外政策で主張している「偉大なホラーサーン」思想を喧伝することにより,その一部と見做されている中央アジア諸国は不安を抱いています.

 また,1996年にはカザフスタンから核兵器が撤去された後,残された核技術や核専門家を利用しようとしたり,中央アジア諸国の石油・ガス開発への参入を狙ったりもしています.
 残念ながら,これらの経済に関しては,タジキスタンとトルクメニスタンの一部でしか成功していません.

 特に,1992〜97年に掛けてタジキスタンに自己の影響力を行使して,イラン寄りのイスラーム勢力を支援して政府との内戦を齎した事も,他の中央アジア諸国には不安材料であり,この為,各国は中国やロシア,それに米国の支援を当てにしています.
 実際,この不安定な時期に自己の政治的影響力を拡大出来たのはタジキスタンだけです.
 そして,イランはトルコがこの地域に影響力を行使するのを阻止しようとしていたりします.

 因みに,トルコは現在中央アジア地域とは隣接していなません.

 特に,その間に歴史的競争者の1国であるアルメニア,そして南部にイランが存在するので,影響力を直接行使出来ません.
 また,経済危機,政治危機が相次ぎ,トルコ系国家の盟主としての地位を米国,ロシア,中国に明渡し始め,競争的には2番目となっています.

 一方で,現在では揺らぎつつありますが,世俗的且つ西欧の価値観に立脚した経済発展したイスラーム国家であるとのイメージが未だにあり,中央アジア諸国の発展のモデルでもあり,
 トルクメニスタンとカザフスタンの石油とガス田に投資し,ロシアを避けてのパイプライン構築にも野心を抱いています.
 また,経済的にはトルコ系企業は原材料分野,特に羊毛,皮革,綿花加工の分野では着々と地歩を固めています.

 更に,その経済と政治を背景に,タジキスタン以外の中央アジア諸国とアゼルバイジャンと共に「トルコ民族連合」を結成して政治,文化,経済の分野で協力し合うことに合意したりもしています.

 正に,この地域はイランとトルコ両国の外交戦の最前線とも言える訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/04 23:30
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 キルギスとウズベキスタンとタジキスタンの国境線って入り組んでるよね.(特にシル河上流)
 国境線策定の経緯とか知ってる人いない?

 【回答】
 1936年にロシアから中央アジアのカザフとキルギスが分離した時,キルギスのバトケン州と言う地域が1920〜30年代に掛けて反政府ゲリラの拠点と言うことで,ソ連軍が直接占領していた.
 ゲリラが鎮圧された後,分離の際にその地域の大部分は,遊牧民主体のキルギス領となったが,農耕地に適した谷沿いの一角は,農民が多かったタジクとキルギスに組み入れられた.
 で,当時はソ連邦の一角を構成していたから,特に問題にもならなかったが,独立後は様々な問題を引き起こしていて,国境地域の交換とか画策しているが,政治情勢も絡んで身動きが取れない状態になっている.

世界史板


 【質問】
 エネルギー資源開発を巡るアゼルバイジャン有事に際し,アメリカは武力を使う可能性はあるか?

 【回答】
 高い可能性で,ある.
 クリントン大統領は次のように述べている.
 カスピ海のエネルギー資源開発でアゼルバイジャンと緊密に協力することによって,「我々はアゼルバイジャンの繁栄を助けるだけでなく,我が国のエネルギー供給の多角化と安全保障の強化も実現することができる」
 大統領が,特定の地域ないし問題にアメリカの安全保障が関わっていると語る時,それは米政府が国益を守るために武力を用いる準備があることを意味する.

 詳しくは,Michael T. Klare著「世界資源戦争」(廣済堂出版,2002/1/7),P.14を参照されたし.
 なお,M. T. Klareは「平和と世界安全保障に関する5大学研究プログラム」理事.


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