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◆◆◆◆ターリバーンによる禁令
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<南アジアFAQ


(画像掲示板より引用)


 【link】

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/04/20)アフガニスタン  イスラム保守派による女子教育妨害

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/06/02)アフガニスタン  旧タリバン政権で禁止されていた女子教育と音楽活動の状況


 【珍説】
 ターリバーンは昔から農村で普通に守られていた慣習法を,そのまま取り入れていただけで,殆どの人々は普段通り変わりない生活さえしていればよかった.(ペシャワール会・中村哲医師)

 【事実】
 ターリバーンは,農村社会を代表してなどいない.
 それどころか,アフ【ガ】ーニスタンの伝統文化を全て破壊しようとしていた

 例えば,中央アジアのイスラーム過激原理主義に詳しいパキスタン人ジャーナリスト,アハメド・ラシッドがWTCテロ前に発表した著作『タリバン』(講談社,2000/10)では,次のように述べられている.

――――――
 タリバーンは,あらゆる形の娯楽を全て禁止した.
 どっちみち,アフ【ガ】ーニスタンのように貧しく,恵まれない国では,娯楽は常に不足していたのだが,映画,テレビ,ビデオ,音楽,ダンスは全て禁止された.
『もちろん我々は,多少の娯楽を人民が必要としていることを知っています.しかし,彼は公園に行って花を見ることができ,それでイスラームを学ぶでしょう』
と,ムラー・モハメド・ハッサン(タリバーン幹部)は私に言った.

 教育相ムラー・アブドル・ハニフィによると,タリバーンは『心に緊張を生じさせ,イスラームの学習を妨げるので,音楽に反対する』のだと言う.
 何世紀にも渡って重要な社会的集まりだった結婚式での,歌や踊りも禁止された.何百人もの音楽やダンサーが,それで生活してきた.彼らの殆どがパキスタンに逃げ出した.
 絵画,肖像,写真を自宅に飾ることも禁止された.
 ヘラートの500年の歴史を壁画にした,アフ【ガ】ーニスタン最高峰の画家モハメド・マシャル(82歳)は,壁画の上に白い塗料をタリバーンが塗るのを見せられた.
 一言で言えば,文化の概念そのものをタリバーンは認めなかったのである.

 アフ【ガ】ーニスタン人の伝統的新年祝賀行事ナロウズは,パシュトゥンの太陽暦の第一日で,人々は親戚を訪問するのだが,強制的にやめさせられた.
 5月1日のメーデーは,共産主義者の祝日だとして禁止された.
 シーア派イスラーム喪服月であるムハッラムも一時禁止され,一年の中で最も大切な祝祭であるイードさえ,祭りのショーが規制された.

 〔略〕

 マザルには,美しく,悲劇的な中世詩人ラビア・バルヒの墓碑が立っている.
 彼女は,ペルシャ語で愛の詩を書いた,その時代では初めての女性だった.

 〔略〕

 何世紀にも渡り,若いウズベクの女性達も青年も,彼女の墓碑を聖者の墓のように敬い,自分達の愛の成就を祈ってきた.
 タリバーンはマザル占領後,彼女の墓を墓地の境界外に動かした.
――――――

 内戦時代から看護婦として医療支援活動を続けていたKarla Schefterの証言.

――――――
「とりあえず,状況に適応しましょう」
 サダト先生が言う.今頃になって,彼が変装したのに気付く.
「パコルをやめてターバンにしたの?」私は驚いて,思わず口に出す.「それに,眼鏡なんかかけちゃって.イスラムの学者みたいね」
「マフムード技師だってターバンですよ」
 彼らはタリバンの気に入るようにしたいのだ.変装して,誇り高いパシュトゥン人として,ムジャヒディンとして,ずっとかぶっていたパコルを否定したのだ.

――――――Karla Schefter著『「哀しみの国」にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い』(主婦と生活社,2002/9/17),p.246

 アフ【ガ】ーニスタンにもたびたび出かけている絨毯コレクターの証言.

――――――
 タリバンはチェスを禁止し,それは王や女王や司教にルークといった存在が,生けるもののイメージに対するコーランの禁令を侵していると考えたからだった.

――――――C. Kremmer著『「私を忘れないで」とムスリムの友は言った』(東洋書林,2006/8/10),p.104
――――――
「ここしばらくで一番嫌だなと思うのは,あの顎鬚なんだよ」
 ハビブはこじんまりときれいにした自分の口髭を引っ張った.
「顎鬚を生やす人間の数ときたら,恐るべきものがあるね」
 ゴーファー〔情報通の意〕・ハビブは別に毛を怖がる人間ではないが,彼にしてみれば,顎鬚の急増は,エドワード・W・サイードが学術的に述べたところの今日のイスラム世界の病理に効く万能薬としての,7世紀のメッカという漠然とした幻想★14≠ェ広まりつつあることの証拠に見えるのだろう.
「この国のイスラム法は成文化されていません」と,このゴーファーは続けた.
「イランのムッラーたちは教育も受けて情報通です.
 コムの大学に行って,歴史や神学,哲学,語学,数学や科学を学ぶ.アヤトラ<イスラム教シーア派で優れた知識を持つ学者に与えられる称号>になるには学位が必要でね.
 イラクやイランだったら2つや三つじゃだめです.
 そういう国の聖職者っていうのは国外で経験を積んだり,何ヶ国語も話せなきゃならない.
 でもこの国じゃ,3つのモスクの祈りの時刻すらまちまちだ.
 大きな問題を纏める究極の決定権を主張したくたって,中心になる権威ってものがないんですよ.
 もしあのムッラーたちがイスラム法をこの国に広めようとしたって,賭けてもいいが,大混乱になるに決まってる」
 ★14 Edward W. Said, Covering Islam, Random House, New York, 1997 p.xv
――――――C. Kremmer著『「私を忘れないで」とムスリムの友は言った』(東洋書林,2006/8/10),p.228
――――――
 カンダハールとその近郊でマラリアの流行を防ぐためのキャンペーンを行うことになり,ある外国の支援組織が,多くのアフガニスタン人は蚊が病気の原因だと知らないことに気付いた.
 そのつながりを説明するために小冊子を作ることを決め,その組織は,大半のアフガニスタン人は字が読めないので,蚊が人の腕を刺している線画なら,言いたいことを伝えるのに最も効果的な方法だろうと考えた.
 小冊子が行き渡りはじめてまもなく,タリバンの役人が組織を訪れ,生きているものの像を描くことは法律を犯していると告げた.
 組織のスタッフはその法律に喜んで従い,人間の手の絵をやめると申し出たが,タリバン側はそれではおさまらなかった.
 役人曰く,人々に蚊がマラリアを運んでいると警告する必要性は理解しているものの,蚊も生きものであり,像を描くことはやめなければならないという.
 結局,問題は解決して,関係者一同は大いに胸をなで下ろした.
 議論を重ねた末,新しく発行された小冊子には,蚊がさやつきナイフを突き刺している絵が描かれた.

――――――C. Kremmer著『「私を忘れないで」とムスリムの友は言った』(東洋書林,2006/8/10),p.158-159

 大野盛雄も調査したことがある,ヘラートから6kmの距離にあるカバービアン村の富農アブドッラーの話

――――――
ターリバーン時代には礼拝(namaz)や男性の髭,女性のヘジャービー(いわゆるブルカ)など厳しい宗教的指導が行われるなど厳しい時代が続いたが,現在では平穏な生活を取り戻しつつあるとのことであった.

――――――鈴木均 from 『ハンドブック現代アフガニスタン』(明石書店,2005.6.25),p.137

 同じく農村における事例.

――――――
「タリバンが権力を取って以来,アザディーネだってこれまでみたいに仕事するのを禁止されてしまったわ.
 彼女は小屋に住んでいる病人のところに行けなくなってしまった.
 彼女は山に行って病人を助けることもできないわ.
 男たちを診察することもできなくて,マフラムの付き添いがある女たちだけが彼女のところへ行けるのよ.
 離れた村や谷から,私たちのところへ遠い道のりを来ていた女たちは,一人ではもう私たちの村へ来れなくなってしまった.
 もしそれでも彼女たちがあえて来ると,その夫たちと彼女たちは罰を受け,暴力を受けるのよ.
 この人たちはどうすればいいの?

 私たちのために誰が市場へ買い物に行くの?
 子どもたちだって遊びを禁じられてしまった.
 おまえの兄弟は自分で作った,たこを揚げることもできないのよ.
 子どもたちは芥子の車も作れないわ.
 娘たちは学校へ行くのを禁止されたし,テレビも禁止されたし,音楽も禁止されたわ」

――――――『神様はアフガニスタンでは泣くばかり』(シバ・シャキブ著,現代人文社,2007.8.31),p.185-186
――――――
 タリバンはこの間に,ますます頻繁に,遠慮なしに,人々の間に入り込むようになった.
 もし鳥になって村を上から見たら,人間に見える形の,その人間の足に当たるところに,村の下のほうに,タリバンは横木を渡して,そのそば荼昔のラジオの組み立て工と昔の婦人服の仕立て屋を立たせ,カラシニコフとトランシーバーを渡し,タリバンの許可がない限り誰も村から出入りさせてはならないと言った.
 タリバンは男の子の学校を閉校し,そこをモスクとコーラン学校にした.
 男の子のためだ.
 彼らは男たち全員_命令してひげを伸ばさせ,髪の毛をすっかり刈るか長く伸ばさせた.
 彼らは細い木の枝を持って村の中を歩き,男の子が凧上げをしていたり,あるいはただ近くにいるだけで,その枝で打った.
 彼らは男の連れがなくて外出している女たちや娘たちを叱責した.
 そして連れがいても,女たちが家を出てくる理由を聞きたがった.

――――――『神様はアフガニスタンでは泣くばかり』(シバ・シャキブ著,現代人文社,2007.8.31),p.203-204
――――――
「アザディーネは逃げました」とムラーの妻は言った.
「タリバンは仕事を禁止しました.
 彼女はタリバンに抵抗しました.
 タリバンに言ったのです.
 カブールとか他の街や村では女の医者がいて,タリブも誰も診察の邪魔をしていない.
 タリバンは言いました.
 他の村や町のことはそこのタリバンが決めるが,ここは俺たちが決めるんだと.
 しばらくの間,アザディーネはこっそり患者を診察していましたが,タリバンが見つけ,仕事を禁止し,
『結婚させて,その男に彼女を見張らせなければならん』
と言ったのです.
 それで彼女は荷物をまとめ,夜のうちにこっそりと逃げていきました」

――――――『神様はアフガニスタンでは泣くばかり』(シバ・シャキブ著,現代人文社,2007.8.31),p.302-303

 ただし「テレビも〜」という点から考えて,伝聞も混じっている模様.
 しかしいずれにせよ,村の自由な出入りを禁じるなどとは,クルアーン(コーラン)にはどこにも書かれていない.▲

 中村医師は,これでも本当にアフ【ガ】ーニスタンの事情通なのだろうか?


 【質問】
 ターリバーンによる公開処刑は,どのようなやり方だったのか?

 【回答】
 以下証言によれば,無理矢理観衆を集めた上で,各種処刑を実行したという.

――――――
 まず,タリバンはサッカーを禁止した.
 競技する代わりに男たちは金曜日にはお祈りのため_スタジアムへ行かねばならず,自称支配者の話を聞かねばならなかった.
 そして,見なければならなかった.
 見せしめだ.
 手首を切ること.
 石を投げること.
 頭を殴ること.
 足を切断すること.
 預言者の,コーランの,イスラムの名において.

 男たちは行かなかった.
 それでタリバンは,男たちがスタジアムへ行くように,サッカーを許可した.
 今はサッカーを見ることは義務だ.
 拍手をしてはいけない.
 アラー・オ・アクバーとラ・エラハ・エル・アラーは義務だ.
 最初と最後にお祈りするのは義務だ.
 サッカーのハーフタイムは拍手なしで,アラー・オ・アクバーとラ・エラハ・エル・アラーを唱え,タリバンは足を切った.
 手を切った.
 女たちを射殺した.
 男たちを.
 娘たちを.
 男の子達を.
 石を投げた,人間に.
 人間に石を投げる.
 崩れた頭.
 頭が崩れて,頭の血が執行者のシャツに返って来る.

――――――『神様はアフガニスタンでは泣くばかり』(シバ・シャキブ著,現代人文社,2007.8.31),p.328

 なお,春日孝之にもその模様の描写があるので,後日引用予定.
 春日は比較的ターリバーンに同情的であるため,それによってクロス・チェック可能と愚考する.

 ちなみに上記の事例からも,ターリバーンの禁令がイスラーム法とは無縁の,恣意的なものだったことが分かる.


 【珍説】
 ターリバーンは,国際援助によって造られたサッカー・スタジアムを公開処刑の処刑場として使い,国際社会の非難を浴びたが,イスラム法には公開処刑があり,大抵の国はやってる事だ.
 別にイスラームに限らんでも,米国だって連邦ビル爆破犯の処刑は被害者に公開したし,投石による死刑なんてのは大方のイスラーム諸国でやってる.

 【事実】
 投石による処刑は,たしかに多くのイスラム諸国に法律上は存在するが,実際には現在はほとんど執行されない処刑法だ. イランですら滅多にやらん.



 【質問】
 イスラーム法には「○○○をした場合は銃殺刑」だとか, 「○○○の場合には戦車で引き倒した壁の下敷き」って 法律があるのウサ? 公開銃殺刑自体は大した問題じゃないけど,それが適法じゃないとしたら,大問題ピョン.
 【回答】
 イスラム法で「公開で処刑し,もって範と為すべし」みたいなことは, どこかに書いてある.
 しかし,戦車で踏み潰す処刑法と言うのは存在しない.
 ターリバーンとイランの仲が悪いのは,イランがここら辺に突っ込んだ, と言う理由もあるらしい.
 どんなにキチガイに見えても,上には上がいるんだねぇ(笑)(大渦よりの来訪者 ◆8An/neko)



 【反論】
 公開銃殺なんてのは別にターリバーンに限った話じゃない.
 しかも,テレビ映像を見た限り,「吊るしてる」映像もしっかりあった.
 この処刑方法は昔からよくやられてるが, 「吊るし」ならオッケーという言葉は何処にもない.
 極論すれば,戦車に轢かせちゃ駄目とも書いていない.
 この解釈は正に各教派で分かれる所だろ.
 つまり法律「運用」の対処で,日本で言うなら9条があるのにどうして自衛隊があるのか?というような論争と同じレベルの話.
 対立するイランの事例を出して範にする事は好ましくないと思われ.

 つまり,公開して処刑せよと書いてあるんだから,轢殺処刑が「悪」くて銃殺が「善」いなんてのは,非常に馬鹿らしい.
 また,銃がコーランの時代に無かったから「捏造」というイスラム学者が「もし」 いるんなら,彼は投石か吊るしのみを認めるという考えなのだろう.そういう次元の話なの.
 しかも,そういう処刑は減少しているってあーた.西洋の価値観で計れませんて.
 例えばサウジの富豪がヒィリピンから出稼ぎにやってきたメイドさんに手を出そうとして逆に殺された.使用人が主人を殺したらそりゃイスラムでは死刑だ.
 だが時代が20世紀だったのでヒィリピン外務省が猛抗議をして,大使召還という事態まで逝った.結局娘さんは無事帰国して,歌手として頑張ってるそうだ.
 これ数年前の話.
 【再反論】
 日本,あるいは海外のメディアが伝える周辺のイスラム法学者の批判の力点の一つに,そうした本来のコーランに存在しない処刑法を,「これがコーランに基づく」とすることに対する批判があるの はまぎれもない事実だよ.
 ターリバーンはこの具体的事例を挙げて,それが「コーランに基づく」とするレトリックを,パシュトゥン民族の慣習を他民族に押し付けるために非常に多用するきらいがあるとされる.それは明らかにイスラムの拡大,さらには捻じ曲げた解釈だ,と他の法学者に見られてもしかたない.
 あ,あとついでに,俺も大渦氏も,公開処刑自体が悪いなどとは一言も言ってないと思うんだが……中共なんかも普通にやってるしなぁ.価値観はそれほど絶対化してないと思うよ?
 他のイスラムの事例とも引き合わせて考えているんだが.

+

 【珍説】
 タリバーンの禁令に違反しても,刑罰は軽かった.バンソウコウを貼るだけで,偶像崇拝の規制をクリアできた.(ペシャワール会・中村医師)

▼僕は処刑を2回見たことがあります.
 町の公開処刑場でした.
 理由はタリバンの悪口を言ったから,というものでした.
 処刑の内容は,こちらで伝えられているようなものではありません.
 鞭打ち刑がポピュラーです.
 それは,体を傷つけるのが目的ではないからです.
 名誉を傷つけるということなのです.
 ですから,叩くのは力自慢の若者ではなく,長老会議で選ばれた老人たちで,回数もその場で決めています.
 それは,公開お仕置きといったもので,一族の恥となるのです.
 このような感じですので,アフガニスタンに1年半ほど住んだ僕の経験では,タリバンはそんなに血なまぐさい政権ではないと言えます.

蓮岡修〔ペシャワール会の医師〕 in 『痛み癒される社会へ』
(阿部知子著,ゆみる出版,2003/2/5),p.28-29▲

 【事実】
 自分がたまたまそういう体験をしたからといって,それを普遍的事実であるかのように語る姿勢はいかがなものか.

 実際には,そうでない例も幾つも報告されている.

 例えば,映画『アフガン零年 Osama』に主演した,マリナ・ゴルバハーリは,

――――――
「父親はタリバンに何度も逮捕され,家族を養えるのは兄1人だけ.
 彼女も物ごいをしなければならなかった.
 女の子は外出を禁じられていたから,びくびくした様子だった」(同映画監督セディク・バルマク )と言う.
 彼女は監督に見出されたとき,町で物乞いをしていた.

――――――(ニューズウィーク日本版 2004年3月17日号 P.56)

 また例えば,フリー・ライター西牟田靖は,このような体験談を述べている.

――――――
 全ての荷物の検査が終わったとき,彼〔ターリバーン兵〕は言い放った.
『カメラは持っていてもいい.しかし……』
『えっ何ですか』
『人間だけじゃない.植物以外,生き物全て撮ってはいけない.絶対にだ』
『撮るとどうなるのですか』
『死ぬか生きるか分からないぐらいまでムチで打つ.そして牢獄行きだ.永久にだ』」

――――――(「アフガニスタンに消えた日本人」 from 「アジア辺境紀行」,徳間文庫,1999/2/15, p.226)

 さらに,長倉洋海「子どもたちのアフガニスタン」では,父親が獄死した子供の話が紹介されている.
 彼の父親は,髭が生えていない,という理由で,「髭が生えるまでの間」収監されたが,体が弱くて獄死してしまった,という.

 ※小野一光によれば,ターリバーンの刑務所内の環境は劣悪とのこと.
 そら,伝染病が蔓延するのも道理.

 さらにまた,マイケル・イグナティエフは次のように書いている.

――――――
 アラブ諸国で赤十字の派遣員達は,アラブの武人君主サラディンが十字軍戦士のリチャード獅子心王を捕らえた際,気高い精神で遇した話を繰り返し語り聞かせる.
『したがってイスラーム法は,〔戦争法規遵守の精神について〕国際社会より千年以上も先んじていたことになる』
と期待を込めて説いている.

 しかし,アフ【ガ】ーニスタンはさらなる問題を提起する.
 タリバーンの検問所の兵士は,人の顔や,その他なんであれ神の創造物を描いたもの一切を捜索の対象にしている.
 他のイスラーム社会では,新たに権力を握った革命政府も,そこまではやっていない.イランのイスラーム指導者達は,視覚表現の有害さについてのタリバーンの杓子定規な考え方を嘲笑したことがある.

 かくして,赤十字国際委員会のカレンダーは,人目に触れないところに追いやられる.
 これには,戦争で手足を失った者達が,ハザール・エル・シャリーフのブルー・モスクの庭園で,杖にすがって歩きまわっている図と,イスラーム教の聖典に由来する慈悲の言葉をあしらってある.
 BBCのラジオ・ドラマと連携して,委員会が現地で配った漫画本も,同じ運命だろう.
 アフ【ガ】ーニスタンの想像上の英雄,アリー・グルの生涯と苦難が,これには描かれている.
 全てタリバーンの指導者達の思い通りになったら,ヨーロッパ流の戦争法規を現地の戦士文化の用語に翻訳する,根気と創意工夫を要するこの仕事は一切合財無に帰してしまうだろう.

 目は心の窓という.
 ところが,タリバーンによるクルアーンの極めて厳格な解釈によれば,全ての視覚描写――写真,絵画,印刷物,ヴィデオ,映画――は,一切御法度なのだ.
 神だけが心の窓を覗くべきだとタリバーンの指導者達は言う.

――――――(Michael Ignatieff, a writer & journalist, 「仁義なき戦場」,毎日新聞社,1999/10/30,p.179,抜粋要約)

 フリー・ジャーナリスト小野一光の体験談.

――――――
 翌日,昨日チェックインするときにフロントに頼んでおいた,政府のガイドがやってきた.
 これまた既に説明したが,外国人の取材には必ず政府のガイドが立ち会うことになっている.
 〔略〕
 すると,このガイドが言う.
『タリバンの決まりでは,人物の写真を撮ってはいけないことになっています.ですから人物の写真は撮らないでください』〔強調・原文ママ〕
 ガイドの言ってることを藤内さん〔カメラマン〕に伝えると,一言『ばっか野郎……』とだけ呟いた.
 ボクはそれを『わかったと言ってます』と訳して伝えた.
 だが,それだけでは悔しいので,もう一言加えた.
 じゃあさ,イスラム教徒じゃない僕らが写ってる写真ならいい?
『それだけなら,許可しましょう』
 なら,その後ろにたまたま人が写ってるってこともあるよねえ.
『いえ,それは困ります.写真を撮るときは,建物を背景にしてください』
 このやりとりで,僕らの取材心は完全に萎えていた.
 人を撮れなくて,何の取材ができるというのだ.

――――――(「アフガン危機一発!!」,21世紀BOX,2001/12/10,P.286-287,抜粋要約)

 ペシャワール,JIFF※病院での大高未貴の遭遇談.
 この事例にも,とうてい「ターリバーンの寛大さ」は感じられない.

――――――
「〔カゼム院長が言うには,〕
『タリバーン幹部とイラン領事館のトップが,10分差で病院を訪れた.
 知っているだろうけど,タリバーンとイランは犬猿の仲だ.
 絶対に対面させないよう,時差をつけ,病院に誘導して治療した.
 直接鉢合わせして口論にでもなったら,翌日から病院は閉鎖だ.そうなったら何千人もの患者達が困る』
 ここでは正義や常識などではなく,宗教と政治の暴虐な力が,日常生活の隅々まで染み込んでいるのだ」

――――――(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.92)
 ※茨城県結城市の城西病院(財団法人・日本国際親善厚生団体の外郭病院)が,それまでのIOM(国際移住機構)の要請によるアフ【ガ】ーン難民の治療支援の結果,
「〔日本との〕往復の飛行機代も馬鹿にならないし,いっそのこと,現地に病院を作ってしまおう」
と,ペシャワールに開設した,リハビリ・センターを兼ねた病院.

 AWC(アフ【ガ】ーン女性支援NGO機関)代表ファタナ・ガイラニ女史へのインタビューから.
 「脅迫状を送りつけてくるほどの寛大さ」とは,どのようなものなのかな?

――――――
「――タリバーンと公式対話しようと考えた事はありますか?
『もちろん,何度も要請しました.
 しかし,返ってきたのは
ただちに政治活動をやめろ.さもなくば死刑だ
という脅迫状でした』」

――――――(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.107)
――――――
「帰りのフライトを予約するため,国連事務所に行くと,アフガーン人3人が昼食を取っていた.
〔略〕
『タリバーン,嫌いですか?』
『もちろんだ!』髭の濃いモハマドが,周囲を憚るようにこう続ける.『あんた,車で10分間この街を走っただけで,カーブルが狂気の街だって事に気付くよ.人々の表情から,笑顔というものが消えてしまった.
 なぜだか分かるか? タリバーンが全てを禁止してしまったからだ.音楽,映画,テレビ,写真,歌や踊り,ゲーム,絵,芸術など,など.ありとあらゆる生きる楽しみをね』
『それに女性の教育と就業も禁止ですね』
『そうだとも.
 でも,男も悲惨だって事を忘れないでくれ.まず我々は,エンブライタリーというアフ【ガ】ーン民族衣裳を着るよう義務付けられているが,色は茶か灰色,しかも汚れていなければならない.
 我々はスーツが大好き.仕事でパキスタンに行くや否や,この小汚い民族衣裳をホテルのゴミ箱にシッ≠ニ投げ捨てるのさ.
 それにこの髭も嫌だ.しかし髭が充分に伸びていないと,タリバーンに牢屋にブチ込まれてしまう』」

――――――(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.59-60)

 難民の証言.

――――――
「新しくできたばかりのシャムシャトウ難民キャンプでは,カーブルから逃げて来たという48歳の女性が,こう訴えた.
『私の25歳の息子は8ヵ月も行方不明だったのですが,ある日,病院の先生から,
お宅の息子さんが亡くなった
と連絡を受けたのです.
 慌てて病院に駆けつけると,死んでいる息子の手に手錠がかけられていました.
 病院の先生の説明によると,息子は顎鬚が短いからという理由でタリバーンに逮捕され,髭が伸びるまで刑務所で絨毯折りの仕事をさせられていたそうです.
 ところが刑務所の中でマラリアにかかり※,末期状態で病院に担ぎ込まれ,意識朦朧で家族の連絡先を告げるのがやっとだったそうです.
 私はタリバーンに,遺体を埋葬したいので手錠を外してくれと何度も頼みましたが,なんだかんだと相手にされず,結局2日も待たされてしまいました.
 無実の罪で息子を殺され,私は気が狂いそうでした.
 もう二度とあんな祖国には戻りたくありません』

 タリバーンの残虐性を物語る例として,『踊る死体』のことを教えてくれたのは,旅行会社の社長シャー氏だった.
『手足・首切断だけで満足できなくなった一部のタリバーンは,見せしめのため,様々な残虐な殺害方法を試みるようになりました.
 人々が最も震え上がった刑が,"Death body dancing on the snow",雪の上で踊る死体です.
 まず最初に,罪人を室内で仰向けに寝かせ,少しだけ刀で首を切ります.その傷口に溶かした液状のバターを流し込むのです.
 そして,バターが固まりかけたら,雪の降っている外に寝かせます.
 暫くしてバターが完全に固まると,死体が踊り出すのです.おそらく,首のところで止められた血が逆流して,体が動き出すのでしょう.
 出も当然ながら,意識は死んでいるわけです』

――なぜそんな残酷なことができるのでしょうか?
『現在のタリバーン世代は,戦争・内戦の中で育った世代です.
 幼い頃から孤児として,銃弾や墜落した軍用機の破片を集めて売り歩き,両親や他人,女性からの愛≠知らずに育ちました.
 死や残虐性などといったものが多分,日常感覚になっているのでしょう』

――――――(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.157-159,抜粋要約)

 マザーリシャリフ〜ヘラートの間にある,アルマールという町における,三井と警察署長との会話から.

――――――
「タリバンの時代だったら,君はすぐに警察に捕まっただろうな.男は必ず髭を伸ばさなければいけない,という決まりがあったからね」
「それじゃ,僕〔著者〕のようにもともと髭が薄い人はどうしていたんですか?」
「そういう奴はこっそり付け髭を付けていたんだよ.まったく馬鹿げた決まりだと思う.
 でも,それがタリバン政権だったんだ.自由というものが全くなかったんだ」

――――――(三井昌志著「素顔のアジア」,ソフトバンク・クリエイティヴ,
2005/10/15,p.)

 内戦時代から看護婦として医療支援活動を続けていたKarla Schefterの証言.

――――――
 今度はマフムード技師の代理で,ファジル・ハディが〔ターリバーン〕最高司令官に呼ばれて,釈明を求められた.
 戻ってくるなり,震え声で言う.
「こんな酷い言葉は今まで聞いたこともないよ.ムジャヒディン兵士になって,カブールの刑務所に3年間いたときだって,こんな酷いことは言われなかった」
「なんて言われたんだい?」
 ファジル・ハディはなかなか言わない.
「ファジル・エラヒがなぜ白いシャルワル・カメーズを着てきたかと訊きましたよ.それが最高司令官の気に障ったんだそうです.
 ファジル・エラヒがタリバンの最高司令官と対等で話したのもけしからん,ということでした」
 ファジル・エラヒが誇り高い男だと言うことは,皆知っている.
「また白いシャルワル・カメーズを着てきたら,ぶん殴るそうです」

 今までなかったことが起こった.
 私達,病院のスタッフが,チャクのバザールへ出向き,処刑の立ち合いをせよという命令を受けたのだ.
 タリバンは聖なる法,シャリーアを自己流に実行するつもりなのだ.
 この原理主義者達は,数百年前の精緻な法を,厳罰の手段に矮小化している.

――――――Karla Schefter著『「哀しみの国」にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い』(主婦と生活社,2002/9/17),p.231-232

 ちなみに,白はターリバーンにとっての神聖な色だそうである.

――――――
「うちの運転手のカリムも,危うく殴られそうになったわ.
 ランド・クルーザーの中に私のカセットレコーダーがあったのを,タリバンが見つけたの.
 だから,音楽のカセットもあるだろうというのね.
 いつも遠くへ行く時には音楽を聞いていたから.
 でも,カリムが危ない目に遭うといけないので,それもやめました.
 車を引っ繰り返すようにして探すのよ.
 音楽を聴いてはいけないなんて,とんでもない人達だわ」
「タリバンのせいで楽しみがなくなったわ.歌ってもダメ,楽器を弾いてもダメ.みんな密告しようとしているし」
 ハディサはタリバンの宗教的な独裁に溜息をつく.

――――――Karla Schefter著『「哀しみの国」にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い』(主婦と生活社,2002/9/17),p.270-271
――――――
 タリバンが任命した女性所長は,同性に何の同乗も示さない.机の後ろに貼り付いて予定をこなすことだけ考えている.
 病院の運営とは何か,お金をどうやって取ってくるかなど,全く知らない.
 何もない.つまり,患者には治療の施しようがないのだ.最悪の場合,彼女達は死んでいくだけだ.
 私達は手を貸そうと思い,タリバンにこの惨状を訴えた.
 でも,返事として帰ってきたのは,
「前線では沢山のタリバンが死んでいる.
 女が死ぬのはいっこうに構わない」
だった.
 医師会は立法のシャリーアを実行するように命じられた.判決を受けた泥棒の手を切断する役目である.
 外科医が,まるで中世の刑吏のように顔を覆って,手術台で手を切り離すのである.
 医師会は,医者がこのようなことをしなくてもすむように動くことはできるかもしれない.
 だが,この恐ろしい行為を専門の外科医がしなければ,泥棒達はどんな目に遭わされるだろうか.

――――――Karla Schefter著『「哀しみの国」にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い』(主婦と生活社,2002/9/17),p.273
――――――
 髭がないということで,事件が起こるのはチャクではなかった.
 ただ,助手の先生がカブールへ行く途中のマイダンで止められ,髭が短いという理由で刑務所に入れられた.
 だが,夜中になって脱走してきた.
 脱走できたのは,刑務所の窓にはガラスがなかったからだ.

――――――Karla Schefter著『「哀しみの国」にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い』(主婦と生活社,2002/9/17),p.275

 アフ【ガ】ーニスタンにもたびたび出かけている絨毯コレクターの証言.

――――――
 カンダハールを攻略した後,彼らが最初にとった行動の一つが,1日5回主要道路に鎖を渡しかけ,自動車の運転者を車から降ろさせて,モスクに入れて礼拝をさせるというものだった.
 〔略〕
姦通者は罪を後悔しても信じてもらえずに今でも鞭打たれ,同性愛者はパシュトゥーン人居住地にたくさん存在するのだが,彼らは頭の上へブルドーザーで石の壁を押し崩される.
 これらは旧約聖書のソドムとゴモラの話の中で,罪深い都市の壁が崩されるというところに由来した刑罰だった.

――――――C. Kremmer著『「私を忘れないで」とムスリムの友は言った』(東洋書林,2006/8/10),p.142-143

 同じ本から,BBCがソースと思われる事例.

――――――
 当初はイスラムの刑罰の導入によって窃盗の減少が見られたが,徐々にその抑止力も消えていった.
 ムハンマド・ヤアクーブは,タリバン兵を含む6人の窃盗犯の一人で,1999年1月のある金曜日に,数千人の観衆の前で手足の切断の刑を受けた.
 彼の左足は,約200ドルの価値のカーペット3枚を盗んだかどで切り取られた.
 彼はすでに半年前に別の盗みのために,右手を失っていた.
 足を切り離されると,ムハンマドは飛び跳ねながらスタジアムを一周させられ,手足の断端を観衆に見せて回った.
 その日の切断刑の後,ムハンマドと残る5人の窃盗犯たちのものだった数本の手足が,新市街の木からぶら下げられているのが目撃された.おそらく警告のために吊り下げられたのだろう.
 同じ月,同性愛者への壁の引き倒しが,首都ではじめて実施された.
 84歳の男性が少年に性的暴行を加えた罪で壁の下に埋められ,国際的な通信社に死亡したと報告された.
 だが,報道した記者は早く帰ってしまったに違いない.
 そのまま待っていれば,素晴らしい光景が見られただろうに――シュマ・ハーンが自分の埃を取り払ったように,老人が破片の中から無垢な姿で神の前に出てきて,タリバンでさえ,老人が生き延びたのはアッラーの御意志の印と判断したのだから.
 墓場の代わりに病院に連れて行かれた老人は,のちに拷問のせいで口を割ったと告白した.※13
 ※13 'Afghan man survives wall ordeal', BBC World Service(Website), 16.January 1999
――――――C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」(東洋書林,2006/8/10),p.164

▼ ターリバーンが首都を制圧する少し前の状況.

――――――
 ある日,またムジャヒディンが押しかけ,鉄砲で父さんを脅して,お金を奪っていった.
 ぼくたちはひとつの部屋に閉じ込められて,ムジャヒディンたちが家捜しをして去っていくまでじっとたえていた.
 ぼくの横ではダーウード兄さんが,怒りで顔をまっ赤にしていた.目には涙がたまっていた.
 そして,震える声で父さんと母さんに訴えた.
「あいつらが武器を持っていて,ぼくたちには守るものがなんにもないのはおかしいよ!
 もうこれ以上,家族を危険にさらせない.
 ぼくは軍に入る」
 父さんも母さんも猛反対した.
 ダーウード兄さんが兵士になれば,家は安全になるけど,若い息子を戦争に送りたくはなかった.
 でも,小さい頃から正義感が強く勇敢だったダーウード兄さんの心はもう決まっていた.
 数日後,ダーウード兄さんはハザラ人で結成された「ハラカト・イスラミ」という勢力の兵士になった.
――――――アリ・ジャン著『母さん,ぼくは生きてます』(マガジンハウス,2004.1.22),p.21

――――――
 〔ターリバーンのカーブル制圧により,〕町じゅうのみんなは,
「タリバンのおかげで戦争が終わった」
と喜んだ.
 でも,それは悪夢の始まりだった.
 タリバン政権は,内戦でタリバンに対して戦っていたハザラ人だけではなく,戦闘に加わらなかったハザラ人の男性も,かたっぱしから逮捕し始めたのだ.
 刑務所はハザラ人だらけになった.
 ぼくたちは町でタリバン兵を見つけると,見つからないようにこそこそと隠れた.
 タリバンの反対勢力に入隊していたダーウード兄さんと仲間は,カブールから逃げた.
 その後,ダーウード兄さんからは便りがまったく来ない.ダーウード兄さんがいまも生きているかどうか,わからない.
 トパル兄さんも,タリバンに逮捕されるかもしれないので,ヘラートという町に逃げていった.
 5軒あった父さんの店は,タリバンにすべて取り上げられた.
 ぼくの家からは,いつのまにか笑い声がばったり消えていた.

――――――アリ・ジャン著『母さん,ぼくは生きてます』(マガジンハウス,2004.1.22),p.21-22

――――――
 18際になった年の冬の日だった.
 〔略〕
 家へ向かう途中,タリバンの宗教警察の車がぼくの横を通りすぎた.
 警察官は,刃物のような目でぼくをにらみつけた.
 ぼくの心臓は,一瞬ちぢんだ.
 何日か前,お祈りの時間中に外を歩いていたら,宗教警察にいきなりムチで叩かれたのだ.
 それを思い出して,傷がしくしく痛んだ.

 家に近づくと,近所がやけに静まり返っている.人っ子ひとりいなかった.
 とてもいやな気分がしてきた.
 そのとき,近所のおじさんが,家の中からぼくを呼んだ.
「アリー君,アリー君.家には帰らないほうがいい.こっちにきなさい」
 ぼくは,近所で何が起こったのか,おじさんにたずねた.
 おじさんは地面を見つめて言葉を探したあと,大きなため息をつきながら,悲しい知らせを教えてくれた.
「君の父さんが捕まった.タリバンが車2台で来て,父さんを連れて行った」
 背筋がぞっと冷たくなった.
「まさか」
 ぼくは緊張で喉がかれて,声が出なかった.
 タリバン! 父さんが,タリバンに!

――――――アリ・ジャン著『母さん,ぼくは生きてます』(マガジンハウス,2004.1.22),p.23-25

――――――
 ぼくは,アフガニスタンの国境近くのペシャーワルという町で,母国から逃げてきたハザラ人が多く泊まる宿にいた.
 毎日のようにアフガニスタンから人が逃げてきて,国内の様子を教えてくれた.
 その話を聞くたびに,心は重く沈んだ.
 タリバン政権と反対勢力との戦争は激しくなり,少数民族であるハザラ人への抑圧もどんどんひどくなっていた.
 そしてある日,ヘラートに移り住んでいたトパル兄さんまでもがタリバン兵に捕らわれた,という噂を聞いた.
 トパル兄さんは,ぼくにとっては父親のような存在だった.
 自分に危険が迫っているときでも,トパル兄さんは最後までぼくの安全を気遣ってくれた.
 父さんと2人の兄さんが捕まった.
 残された家族はぼくと,母さんと2人の姉さんだけだ.
 タリバンがいる限り,ぼくがアフガニスタンに戻ることは絶望的だった.

 兄さん逮捕の知らせから数日間,ぼくはペシャーワル市内をあてもなく歩き回り,目に映る町の景色を呆然と眺めて過ごした.
 市内のあちこちを銃を持ったタリバン兵が巡回していて,ハザラ人を見つけては逮捕してアフガニスタンへ送り返していた.
 僕はタリバンがいない町を探して,町から町へ移動した.
 でも,どこへいってもタリバン兵がのし歩いていた.

 情報を集めるために,いったんペシャーワルに戻ってハザラ人用の宿に泊まっているとき,遠い親戚のおじさんが一通の書類を持ってぼくを訪ねてきた.
 それはなんと,タリバン政府が出したぼくの逮捕状だった.
 もし,パキスタンにいるタリバン兵がその逮捕状を持っていたら……ぼくは恐怖で体が凍りついた.

――――――アリ・ジャン著『母さん,ぼくは生きてます』(マガジンハウス,2004.1.22),p.30-31

▼ NGOのデボラ・ロドリゲスが,女性のための美容師学校で生徒のアフ【ガ】ーン人女性から聞いた話.

――――――
ロシャンナが,美容院はタリバンに禁止されたのだと話してくれた.
 〔略〕
「私が小さかった頃には,いとこが美容院をやっていて,よくお母さんに連れていってもらったわ」
 ロシャンナは言った.
 〔略〕
 その美容師は,タリバンに反抗していたわけではないが,あるとき一番の顧客の娘が,結婚するので,少しでも結婚式にふさわしい,きれいで華やかなおしゃれをしたいと言ってきた.
 その願いをかなえるため,灯りを暗くして,自分もその娘も面倒なことにならない程度の控えめなメイクをしてやった.

 けれどなぜかその話は漏れてしまった.
「2日後,いとこの店は窓を全部壊されてしまったの」
 ロシャンナは悲しそうに言った.
「店の中は完全に壊され,すべてが盗まれたわ.
 それに,いとこの夫はそのときに職を失ったの」

――――――『カブール・ビューティースクール』(デボラ・ロドリゲス Deborah Rodriguez著,早川書房,2007.7.25),p.67

――――――
 彼女〔バシーラ〕はタリバン政権の前は美容師として働いていて,去年仕事を再開したばかりだという.
 〔略〕
タリバンが政権をとり,役人だった夫が職を失ったので,バシーラは当時たった一人で家計を支えていた.
 タリバンの妻たちも客にしていたが,彼女たちは禁じられているにもかかわらず,結婚式のための髪のセットやメイクのために彼女の家にやってきたという.
 夫たちは妻を車で送ってくるが,妻たちがただバシーラの家を訪ねているだけだというふりをしていた.
 女性たちはバシーラの家を出るときには,メイクやセットした髪をブルカに隠し,手袋でマニキュアをした手を隠していた.

 やがてバシーラは,タリバンから家を襲撃するという警告を受ける.
 バシーラは鏡をこなごなに割り,他の道具といっしょに庭に埋めた.
 ごみに出すのは危険だったからだ.
 タリバンがやってきたとき,バシーラは彼らを家に入れなければならなかった.
 そしてタリバンは家じゅうを滅茶苦茶に荒らし,夫を殴り,バシーラを2日間刑務所に入れた.
 この話を語っているとバシーラの頬を涙が伝い,彼女はそれをブルカの端で拭った.

――――――同,p.113
――――――
「タリバンがつらく当たったのは美容師だけじゃなかったのを思い出していたのよ」
 ロシャンナは言った.
「床屋さんまでいじめられていたんだから!」
 どうやら,堅く禁止されているにもかかわらず,やはり外国映画はタリバンの目を盗んでアフガニスタンに入ってきていたらしい.
 『タイタニック』はその地下ルートでも特にヒットしていて,アフガニスタン人たちは出演しているスターたちにすっかり夢中になっていた.
 男性たちは『タイタニック』の中のレオナルド・ディカプリオの髪型にしたいと熱望していた.
 たしかトップが長くて,頬に垂れかかっている髪形だったと思う.
 しかしタリバンは,イスラム男性は短髪で長いひげを生やしていなければならないと決めていたから,そんなヘアスタイルは見事にそれに反する.

 やがて,ある抜け目のない床屋が,この新しい流行で儲ける方法を編み出した.
 彼はトップに,ディカプリオぐらいの長さの髪を残し,それを祈祷帽にたくしこんでしまえるようにした髪型を流行らせたのだ.
 しかし客の一人が,それを自慢してしまった.
 祈祷帽を脱ぐと,ディカプリオ式の長い髪の房がはらりと垂れ,誰かがそれをタリバンに密告した.
 タリバンはカブールにこのけしからぬ髪型の者がいないか,祈祷帽の下を調べ始めた.
 そしてついにその床屋を突きとめた.
 床屋は数日間刑務所に入れられた.

――――――同,p.136-137


――――――
 彼ら〔ターリバーン〕は女たちが売春婦のようになったり,美容院が娼館の隠れ蓑になるのが許せないのだと主張していたが,本当は女性たちに,男性のコントロールから逃れられる自分たちだけの場所を与えなくなかったのだと思う.

――――――同,p.69

 なお,田中宇は「タリバーン」の中で,現地取材の結果,「ターリバーン兵の数が密なところほど禁令が厳格に施行され,疎な地域なほど緩いようだ」と述べている.
 田中の記述には問題のあるものも多いが,これに関しては現地取材なので信頼性に特に問題は,……まあ,心配な方はクロスチェックを.
 中村医師の体験は,そうした疎な地域でのラッキーな例であったに過ぎないだろう.

▼ ちなみに蓮岡は,次のようなことも述べています.

[quote]

 髪が長い場合にも問題になります.
 宗教警察の知人に聞いたところ,その基準は「気紛れ」だというのです.

[/quote]
―――『痛み癒される社会へ』(阿部知子著,ゆみる出版,2003/2/5),p.29

 「気紛れ」で鞭打たれたりするのは,たまったもんじゃないと思うのですが.▲


 【珍説】
 タリバーンは徐々に規制を緩めつつあった(ペシャワール会・中村哲医師他)

 【事実】
 少し譲歩をするかに見せて後,また元に戻るという,振り子のような揺れ動きを見せながら,徐々に過激原理主義に傾いていったのが実情.

 例えば,グリフィン『誰がタリバーンを育てたか』にはこうある.
「何人かの救済事業従事者が,タリバーンによる極めて厳しい行動制限措置が幾らか緩められるかもしれないと考えた.特に,2000年3月8日の国際婦人デーの公式行事には,大学教授,エンジニア,医師,看護婦,学校長など700人が参加したこともあった.
 だが,7月早々に示された一連の措置を見せつけられ,それが幻想だったことが分かった.20年ぶりに初めて行われた,サッカーの国際親善試合に参加したパキスタン選手が,競技場で半ズボンを履いたのがイスラーム教の衣装規則に反したとして逮捕された.彼らは髪の毛を剃られた上,追放された.
 国連やNGOで女性が勤務することを禁ずる布告が再び公布された.このため,世界食糧計画が予定していた,600人の女性従事者研修を中止せざるを得なかった.
 さらに7月8日,20年間カーブルの理学療養所およびリハビリ・センターで献身的に働き続けてきた,71歳のメアリ・マクマキンが逮捕され,スパイとタリバーン非難をした罪で告発された.彼女は釈放され,国外追放になった」

 NHK-BSの番組「BSプライムタイム『大仏はなぜ破壊されたのか〜タリバーン・変貌の内幕』」('03年6月7日初回放送)は,2001年3月の破壊実行に至るまでに,いったんは破壊命令撤回があったものの,その後,破壊実行派が盛り返していったことを報告している.同番組によれば,その過程でビン・ラーディンの思想がオマル師に次第に強く影響していったとしている.

 したがって,もしタリバーン政権が現在まで続いていたとしても,局所的揺り戻しはあっただろうが,規制緩和どころか,過激原理主義へ傾く路線が修正される可能性は殆どなかっただろう.


 【珍説】
 これも中村哲氏の本に依るけど,タリバーン政権時代でも,女子の教育は黙認されていたんだよ.ユニセフを中心にした,女性のための「隠れ学校」がカーブルだけでも十数か所あって,タリバーンの子供達もそこで学んでいたそうだ.(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』 p.207)

 【事実】
 女性の教育について,禁止は建前だった(建前であっても禁止するということ自体も問題であるが)と言い切るのは問題がある.
 マイケル・グリフィン「誰がタリバーンを育てたか」によれば,タリバーンは最初の2年間の内は黙認していたものの,

「〔'98年6月〕タリバーン宗教警察の長官マウラウィ・カラムディンが,1996年9月のタリバーンによるカーブル制圧以後,シーア派の居住地に雨後の筍のように生まれていた,少女のための秘密学校の閉鎖を命じた.
『こうした学校は非合法で秘密に運営されました.毎日,別の場所に移りながら』
と,ショックを隠さずシーア派スポークスマンは言った」

 これを裏付けるかのように,海外に運良く逃亡できたアフ【ガ】ーニスタン人少女ラティファ(命の危険があるため,仮名)の著書,「ラティファの告白」には,タリバーンの監視の目をかいくぐっての秘密診療所や秘密学校の様子,ターリバーンによる取り締まりの様子が,生々しく伝えられている.

 取り締まりの様子.

「マダム・ファウジアは,私達のかつての教師の一人だった.
 彼女が子供達に教えている最中に,タリバーンに乗り込まれ,現行犯で捕まってしまったのは,ほんの最近のことだ.
 タリバーンは,まずは子供達を叩き,それから彼女に襲いかかった.
 あまりに乱暴に階段から突き落とされたマダム・ファウジアは,足の骨を折ってしまった.
 それでも開き足らず,タリバーンは彼女の髪の毛を掴んで引きずりながら刑務所に入れた.
 その後,タリバーンは彼女に,今後は決して同じ真似はしないこと,タリバーンのほうに従うことを誓う宣誓書にサインをさせた.もし自分の『過ち』に気付かないのなら,公の場で,彼女の家族を石を投げつけて皆殺しにすると脅した」(p.155)

 秘密学校の運営の様子.

「『生徒はこの地区の子供達に限って,良く知っている人達,秘密を守ることに関して信頼できる人達だけにしましょう』
〔略〕
『それぞれ,自分のアパートの部屋で教えることにしたほうがいいわね.分散しているほうが,余計に安心だもの』
〔略〕
 私とファリダ〔ラティファの友達〕が,それぞれ10人ほどの生徒を受け持ち,マリアム〔同〕が日によって平均5人を受け持つことになった.生徒は7歳から14歳で,男の子と女の子が混じっている.〔略〕 生徒達は皆,私達の自宅からすぐ近くのところに住んでいる子供達.移動も少なく,全部で36世帯を収容している同じアパートの子供達は,階段を昇るか降りるかすればいいだけの子供いる.安全の確保のためには,この距離の近さは必須だった.
 カーブルのタイマニ地区に住んでいる私の従兄弟から父が聞いてきた話は,私達を震え上がらせはしたものの,こうした対策をさらに正当化させる重要な手掛かりとなった.
 タイマニには,女の子達のための非合法の学校が,徒歩30分のところにあり,少女達は毎日,とんでもない危険を冒しつつ,そこに通わなくてはならなかった.
 ある日,ゴミ置き場に,7,8歳と見られる少女達の遺体があるのを発見した.その少女達は誘拐され,強姦され,彼女達の着ていた服で絞め殺されていたという.
〔略〕
 午前中の授業を終えると,私は窓から通りを見張った.見知らぬ人や,妖しげな人がいたら,子供達は,安全が確認されるまで家で待った.
 我が家で食事をしていくことも度々で,まず,一番年上の少年達から帰していく.
 そして,さらに見張りを続けた後,少年達の兄弟を一人残し,女の子を皆纏めて,その少年と共に帰す.
〔略〕
 子供達は鉛筆一本,教科書一冊,ノート一冊,何一つ持ち帰らない.私が自室にしまっておく.
 そして,ここにやって来るときにも,まるでアパートの敷地内を散歩でもするように,皆,ばらばらになって歩いて来る」(p.156-161)

 Jon Lee Anderson「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13)にも,類似の記述がある.

 彼女〔シャーココ,カーブル在住,45歳〕によれば,かつて〔彼女は〕教師をしていて,タリバン政権下でも家族を養うために自宅でこっそり教えていたという.
 けれどもタリバンに見つかり,十代の息子が拘禁されて,殴られ,ナイフで切られた.
 それで彼女はモグリで教えるのをやめた.(p.126)
 ダシュティ・カラから3,4キロほどのナワバードの村に,少年少女のための新しい小学校がある.
 600人の少年が午前中に勉強し,430人の少女が午後の授業にやってくる.
 コーラン,イスラム教,歴史,算数,地理を学ぶ.高学年の中には英語を学ぶ子供もいる.
 大半は去年,タリバンの侵攻から逃げてきた家族の子供達で,そのとき,タリバンはタロカンとコクチャ川までの北部地域を占領した.
 2,3百世帯の難民家族は,今もまだ村外れの焼けつくような荒れ地で,みすぼらしい小さなあばら屋に住んでいるが,NGOの働きで,5千世帯ほどの家族は受け入れ先の家に再定住した.
 学校を支援するのは,教師の給料を支払うユニセフと,便所を作り,教室の用具一式を提供するシェルター・ナウ・インターナショナルだ.
 学校は5月に開校した.
 少女達の多くは故郷の町や村から逃げてきてたので,学校に通ったことはなかった.タリバンが学校を全て閉鎖していたからだ.(p.43)

 また,ソ連との戦いの頃からアフ【ガ】ーニスタンで取材を続けているジャーナリスト佐藤和孝は,2000年暮れ,タリバーン支配下のカーブルで取材している.その様子を,著書「アフガニスタンの悲劇」の中で,彼はこう書いている.

「知人に導かれて,私はある場所に赴いた.とある民家の一室に,ブルカを脱いだ女性達が集まっていた.テーブルの上には,ノートと教科書.
 それは,極秘に開かれた女性達の勉強会だった.タリバーンにばれないように彼女達は密かに集まり,英語を学んだり,本来なら学校で習うはずの授業を受けていた.発覚を恐れる彼女達の様子は,まるで隠れキリシタンの集会のようにも感じられた」

 ユニセフ親善大使,黒柳徹子は,著書「小さいときから考えてきたこと」の中でこう述べる.
「国際的には,女性の人権を認めないということが問題になっている.
 私の訪問の一つに,せめて国内避難民キャンプで,ユニセフが行っている女の子への教育を続けさせていただきたい,とタリバーンに申し入れすることがあった.この間うち,暫く閉鎖されていたからだった.
 また,ヘラートからガタガタ道を車で3時間くらい行った所に,秘密の学校というか,女の子のための自宅学校という,地域の人達がお金を出して,先生を雇っているところがある.これなども,これだけ離れているのだから,ということで,タリバーンにも黙認してもらっている.
 ここは私も行ったけど,まるでトルコのカッパドキアのような建物が建っていて,中は暗くて迷路.その三階辺りに教室があった.生徒は70人だった.一度に入る教室がないので,20人くらいずつ時間制でやっているということだった.
 この地域には,こういう自宅学校が35もあるという.
 それでも先生は,声を潜めて教えていた.こんなふうにしなければ,女の子が勉強できないなんて!

 黒柳との会見で,タリバーン・ヘラート知事は,女子教育の問題について,こう言い訳する.

「『イスラム教の教えに従って言えば,女子教育の禁止はしていないのです.でも,人々が飢えて苦しんでいるのに,教育を与えることができますか? 
 もし経済が安定すれば,女子教育のことも考えます.でも,女子生徒が顔や体を隠せる,隔離した教育が必要になります.そうしたわけで,経済が混乱しているので,教育に力が入れられないのです』」

 もっとも,タリバーンが,「隔離した教育」の可能な,既存の女子大をわざわざ潰したことなどについての説明には,これは一切なっていない.ただの幼稚な嘘でしかない.
 また,次のようなケースについては,その説明では無理がありすぎる.

 95年に国連サポートにより開設された,ASCHIANA(Afghan Street Children & New Approach)というストリート・チルドレンのための施設での話.

「各教室では造花作り,木工クラフト,写生,ダリー語教室などの授業をしているが,教室には黒板すらない.教師の手製の紙芝居みたいなもので授業をしているのだ.
『タリバーンに絵は禁止されているのですが……』
 そう言ってヨセフ校長はバツが悪そうな顔をした.
 絵は様々な理由で禁止されている.まず一つには娯楽に繋がるという事.それから,厳格なイスラーム教では偶像崇拝が厳しく禁じられているが,絵はその偶像崇拝に繋がりかねないという事.
『しかし,』とヨセフ校長は続ける.『子供達は絵を描くことによってトラウマを解消しているのです.〔略〕』
〔トラウマ解消の具体例,略〕
『ここに来ている子は,誰もが心に深い傷を負っています.
 そんな彼らの心をゆっくりと解きほぐすには,自由に絵を描かせるのが一番です.
 でもタリバーンは絵を禁止し,国連はサポートを打ち切り,現在では紙すら不足がちです』

〔略〕

 以前は女の子も通ってきており,刺繍ハンカチやクッションなどを作っていたという.
 しかしタリバーンは,女の子達がここに出入りすることも禁じた.
『今,ストリート・チルドレンの女の子達はどうしているのでしょうか?』
『本当に心配です.ただ,特別に月に1度だけ,女の子が学校に来れるようタリバーンから許可を貰い,ドライ・フード(米,小麦粉)を支給しています.
 でも,そんなもの,家族で分ければ3日と持ちません.
 このままでは本当に飢え死にしてしまうかもしれない』」

(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.68-72)

 

 マザーリシャリーフの女学生の証言.

「すべてが終わったわ」〔マザーリシャリーフの女学生〕ザーラが言った.「人生,おしまいよ」
 彼女は完璧な生徒ではなかったかもしれないが,3年連続で試験に通り,学位取得まで後わずか4ヶ月というところだった.
 だがバルフ大学は,女子学生にこれ以上学位を与えないだろう.
 本の数時間前にモスクの中で,彼女の将来が無価値で空虚なものと言明されてしまったことを信じるのは不可能だった.
 〔略〕
「家の中でじっとしているなんてことができるかしら?」ザーラはそう言って,皮肉交じりの歪んだ笑いを浮かべた.「この国を愛してはいるけど,出ていったほうがましだわ.
 でも家でじっとしているなんて,死んでいるのと同じこと」
 〔略〕
 近隣のイスラム諸国はどこも女性の就労や教育を制限していなかったが,若いパキスタン人の男たちは,ムスリムの楽園の建設を手伝うためにアフガニスタンに集まり,聖域をパキスタンで探すよう,西洋化したアフガニスタン人に強要していた.
 それは実に奇妙な人の往来だった.
「どうして私よりも成績の悪い男が大学にいられるの?」ザーラは私に説明を求めた.「私は優秀な翻訳家になりたかったのに,いい主婦にならなくちゃいけないなんて,不幸だわ.
 どうしてタリバンはこんなことをするのかしら?」
 街じゅうで,十代の少女や働く女性,それに音楽家も含めて生計手段が突然違法となった人々は,同じ質問を繰り返していた.なぜ?
「タリバンの中に母親がいないからよ」ザーラがアフガニスタンの罵倒語に詰まりながら,自答した.「自分たちは良きムスリムで,私たち女は違うと思っているんだわ」

C. Kremmer著『「私を忘れないで」とムスリムの友は言った』
(東洋書林,2006/8/10),p.108-109

 田中宇は「タリバーン」の中で,現地取材の結果,「タリバーン兵の数が密なところほど禁令が厳格に施行され,疎な地域なほど緩いようだ」と述べている.
 つまり,隠れ学校の存在は,兵力不足(マスード軍との戦闘でターリバーンは度々大損害を蒙っている)で禁令を厳格に施行できないことの賜物でしかなく,隙さえあればどのような女子学校も潰そうとする意図が,ターリバーンにあったことは容易に推察される.


 【質問】
「アフ【ガ】ーンの女性達は表面,家畜のように扱われながらも,実は内助の功を期待され,家の中でかなりの実権を振るい得る」という,小林よしのりやペシャワール会・中村哲医師の言葉は本当か?

 【回答】
 疑わしい.
 中村医師の根拠のない憶測に過ぎない可能性が高い.
 アフ【ガ】ーン人男性が考える男女平等は,日本人が考えるそれとはかなり異なっており,また,女性に対する有形・無形の虐待は多いと見られている.

 小林よしのりは中村医師の言葉を受け売りしているだけだから論外として,中村医師のこの考え方は,
中村哲著『医は国境を越えて』(石風社,1999/12/20),p.181-184
によれば,次のような過程で発生したものであるという.

 (1)
 「インダル」という民間伝承を中村医師が聞く.
 民間伝承の内容は次の通り.
「インダルという領主が,我が子の賢さを試そうとして課題を出す.
 領主の息子に,インダルの侍女ダイニックが入れ知恵をし,息子は課題を解く.
 領主は息子の賢さを恐れ,ダイニックに息子を捕まえさせ,殺す.
 息子殺しを後悔したインダル,「止めなかったお前が悪い」と,ダイニックを殺した後,失踪」

 (2
 ダイニックが何故殺されねばならないのか?と中村医師は不思議に思い,JAMS(日本=アフ【ガ】ーン医療サービス)スタッフに理由を尋ねる.

 (3)
 スタッフ,
「ダイニックももう少し賢くふるまえたはず.彼女にも責任がある.下心もあったんじゃないか?」
と答える.

 (4)
 中村医師,
「ありうることだ.このことは,女達が表面,家畜のように振舞われながらも,実は内助の功を期待され,家の中でかなりの『実権』をふるいえることを暗示している」
と結論付ける.

 (4)は中村医師の想像でしかない上に,(3)から(4)を導き出す論理展開に飛躍があり過ぎ,意味不明である.
 つまり,無根拠の想像に近いと言って良い.

 (4)で述べられている女性像は,むしろ福岡の女性のステレオタイプに近い.
 中村医師の出身は福岡である.
 中村医師はただ単に,故郷の女性像を勝手にアフ【ガ】ーンの女性に強引に当て嵌めているに過ぎないのではないか?

 ちなみに,同じ本のp.97において,シャワリ・ワリザリフ医師はこう述べている.

――――――
「何もかもがロシア(ソ連)のせいで悪くなったとは思いません.
 アフガニスタンの農奴制は酷いものでした.地主が小作人にリンチを加えたり,女性を家畜のように扱う習慣は,心有る知識人ならば,誰でも憤りを持っていました.
 そのため,私の多くの親友が社会活動家となりました.
 しかし,これはアフガーン人が自分で解決すべきもので,外国人に委ねるべきものではないのです」
――――――

 現地の人間の言葉と,昔話から想像を逞しくしている人間のそれと,どちらの信頼性が高いかは明らかだろう.

 別の証言もある.
 佐々木徹著『アフガンの四季』(中央公論社,1981)には,次のような遊牧民のエピソードが披露されている.

―――――――
 私達にも食事を勧めながら,婦人は言った.
「夫は,まだ子供が欲しいと言うんです」
「どうして嫌だと言わないんです?」
 私は尋ねた.
「私が断れば,夫はもう一人別の妻を貰うでしょう」
 男は大声で笑ったが,私は笑えなかった.
―――――――

 黒柳徹子は「新生アフガニスタン報告」(小説新潮’02年3月号)の中で,ターリバーン崩壊後,カーブルの公立小学校(教師約20人)に,1200人もの生徒が殺到している様子を紹介しているが,この中で,こんなことも述べられている.

―――――――
 〔将来,何になりたいか?という〕私の質問に,女の子たちの答えはこうだった.
「裁判官!」「弁護士!」「女性パイロット!」「エンジニア!」「スチュワーデス!」「お医者さん!」「学校の先生!」
 中には「物理学者!」という子もいた.
「じゃ,家庭の主婦になりたい人は?」
 私はこう聞いてみた.日本では「お嫁さんになりたい」という子も,よくいるから,そう思って質問してみたのだった.
 そしたら一同が首を振って,
「やだやだ,主婦なんかになりたくない.絶対に主婦は嫌です!」
と,声を揃えて叫んだ.

 私達は,先生も,みんな,思わず笑ってしまった.
 タリバンは,アフガニスタンの女の子を,かえって強くしてしまった.
 自立させてしまった.
 タリバン時代,優秀な女性が家庭に閉じ込められるのを見てきた女の子達は,絶対,仕事をする女性,職業婦人になる,と決めたようだった.
 きっと,いま世界中で一番,自立しようとしているのは,アフガニスタンの女の子ではないか,と,私は考える.
 タリバンのやったことは,確かに,愚かなことだったけれど,その代わり,女性にも男性と同じ能力があるはずだ,と,女の子達に強く確信させたのは,思いがけない効果だったのではないだろうか.
―――――――

 アフ【ガ】ーン人と結婚した女性についてのルポの記述.

―――――――
 いくら法律で4人までの妻帯が認められているとはいえ,女性達から見れば納得し難い制度であることが,この気まずい空気からも察せられる.

 このとき,アフマッドの日本での結婚話を知らなかったのは,シディック家ではビビゴル〔第1夫人〕だけで,故意に内緒にしておかれたからだ.
 例え法律で許されている一夫多妻の制度であっても,特に女性達にとっては,諸手を上げて賛成できるものではなかった.
 しかも,その相手がアフ【ガ】ーン人ではなくて,全く未知の日本人だ,というのも問題だった.

―――――――『国際結婚 イスラームの花嫁』(泉久恵著,海象社,2000/2/21),p.72 & 84-85

―――――――
 一方,シャハネムから突然パキスタン行きを告げられた時,ビビゴルは自分がどうすればいいのか全く判断できないでいた.
 何事も自分で決めることのない人生,常に周りからの庇護を受けながらの人生を送ってきた彼女は,シャハネムの出国をあまり重大には考えていなかった.
 カーブルのババ・イ・ホディという狭い地域が,生活圏の全てであって,そこが平穏であれば,シャハネムがいるかいないかは,それほど大きな問題ではなかった.
 人との別れは新婚時代から始まって,随分と経験してきた.
 しかし周囲には,実の兄を始めとして親戚の人達も沢山いて,生活は近頃でこそ少し不自由になったとはいえ,まあまあ静かに過ごせる日々である.
 シャハネムがパキスタンへ行くのなら,どうぞという気持ちもあった.

 ところが,ワセが色をなして
「僕たちを捨てて行く気か!」
と詰め寄った.
 そして彼ら夫婦もどうやら一緒に行こうとしているらしい……と考えて,ここで始めて現実にぶつかった.
 夫とは新婚のときから離れ離れで暮らしているのだから,それはともかくとしても,このままカーブルに残っていては息子達,とりわけ一番頼りに思っている末っ子のナビとはもう会えないのではないか…….
 そんなことを思うと,急に心細くなった.
 パキスタンやアメリカがどんなところか見当もつかない,
 どのようにして行くのか,どんな旅が待っているのかなどは全く念頭になく,独り取り残される恐怖から闇雲に,行く,と言い出したのだ.

 独りになること,あるいは仲間外れになることを非常に恐れていたビビゴルは,先の見通しなんぞは考えてもいなかった.
 いつものように,一緒に行けば,誰かが何とかしてくれるだろうと思っただけだ.

 ――もうそろそろ,自分の思い通りにしたらええのに.
とシャハネムはため息をつくが,これまで自主的に生きてきたことのない女性に,それを要求するのは無理というものだった.

―――――――同,p.189

 JIFF病院※の女医ファリダへのインタビューから.

――――――
「さっきの避妊の件ですが…….イスラーム世界でも豊かな人々の間では,少しずつコンドームやピルなどを使用する人々が増えています.
 しかし,一般庶民はとても閉鎖的で,性についてなど話題にすることがなく,女性同士の情報交換も行われません」
「この病院では,避妊とかは指導しないのですか?」
「いえ……,それは無理です」
「無理?」
「病院の立場は全てに中立ということです.つまりタリバーンであろうが,マスード派であろうが,傷や病を持った人であれば,政治に関係なく平等に治療するということです」
「政治と避妊とどういう関係があるのですか?」
「例えば,うちの病院で避妊講義をしたら,ある党派から見ればイスラーム教への冒涜になるのです.
 そんなことが知られたら,病院諸共爆弾テロで吹き飛ばされてしまうでしょう」
「でも,餓死しそうな子供を両手に抱えて病院を訪れる母親達や,その子供達の将来を思うと,このまま放置しておいていいのでしょうか?
 もうすぐ21世紀です.
 地球は人口増加が大問題になっています.
 経済基盤もないのに安易に子供を作ることが,どんなに罪深いことか……」
 するとファリダさんは急に険しい表情になった.
「あなたは……,この地では少し発言に注意すべきです.
 私の前だからいいのですが,そんなことをいったら,原理主義者のみならず,うちの院長だって怒ると思います.
 21世紀は,日本のような先進国に来る新世紀≠ナす.
 アフ【ガ】ーニスタンの田舎では,いまだに洞窟に草の筵を敷き,牛や馬,羊と添い寝している人々がいます.そんな彼らと先進国に住むあなた達とは,生きる時代が違うのです」
 そこまで一気に言うと,フーッと深いため息をつき,続けた.
「言葉がきつかったらごめんなさい.
 私はあなたの身の安全を思って言っているのです.
 イスラームは,あなたが考えているより遥かにファナティックで根深い問題を抱えている宗教です.
 私だって色々と努力してきました.特に女性の解放について…….
 でも,ちょっとでも活動をすれば,すぐに殺す≠ニいう脅迫を受けます.
 悔しいけど,私は一切の政治活動をやめました.
 人生は一度きりです.
 できることも限られています.
 私の第一の使命は人命救助です」
 返す言葉を失い,黙っている私に,低い優しい超えで彼女はこう続けた.
「本当は私だってあなたの考えに賛成なの.
 でも,当たり前のことを言うと殺されてしまう社会だってあることを知って欲しかったの」」

―――――――『神々の戦争』(大高未貴著,小学館,2001/12/20),P.89-91
 ※茨城県結城市の城西病院(財団法人・日本国際親善厚生団体の外郭病院)が,それまでのIOM(国際移住機構)の要請によるアフ【ガ】ーン難民の治療支援の結果,
「〔日本との〕往復の飛行機代も馬鹿にならないし,いっそのこと,現地に病院を作ってしまおう」
と,ペシャワールに開設した,リハビリ・センターを兼ねた病院.

 ターリバーン運転手の妻,サイトハナに大高未貴がインタビューしたときのやりとり.

――――――
「子供,何人くらい欲しいですか?」
「10人は欲しい.
アフ【ガ】ーニスタンでは,どんどん子供を産まないと,
どっか体に異常があるんじゃないか?
と,親戚,近所中で噂され,白い目で見られてしまうのです.
 財力のある夫だったら,すぐに第2,第3夫人を貰ってしまう.
 私,自分の夫が若くて綺麗な奥さん貰うのなんて嫌です.
 日本ではどうですか?」
「日本は一夫一婦制ですから,そんな心配はないです.
 でも,なぜ子供を産むことによってしか,彼に妻として認めてもらえないのですか?」
「容貌が衰えるでしょ?
 大抵のアフ【ガ】ーニスタンの男は,妻が30歳過ぎると,女としての興味を失ってしまいます.
 女として認めてもらえなくなったら,やっぱり家にいにくくなります.
 でも,子供を産み続ければ,第1夫人として堂々としていられる」

――――――『神々の戦争』(大高未貴著,小学館,2001/12/20),p.77

 Deborah Ellis「生きのびるために」(さ・え・ら書房,2002/2)の中の記述.

――――――
 今では,たくさんの義足が市場で売られている.タリバンが全ての女性に家の中で生活するよう命じたので,夫たちが妻の義足を取り上げてしまったからだ.
「どうせどこにも外出できないんだ.義足なんかいらないじゃないか」

――――――p.11

 NGO,JICAの報告.

――――――
 第一にアフ【ガ】ーニスタンの女性課題省は,カーブル市内で9つの女性センターを作りました.
 地方の31州でも,女性支援のためのセンターを作りました.
 まだうまく機能していませんが,このような女性センターで,女性のための職業訓練と識字教育などを併せてやっていきます.
 ドメスティック・バイオレンス(DV)も酷いので,法律相談・健康相談も併せてやっていきたいと考えています.

――――――田中由美子, a JICA specialist, in 『女性と復興支援』(緒方貞子著,岩波ブックレット,2004/2/5),p.52

▼ DV,夫による妻への暴力については,『カブール・ビューティースクール』(デボラ・ロドリゲス Deborah Rodriguez著,早川書房,2007.7.25)の中にも,複数の証言がある.
 以下に列記すると,
・年取った男と結婚していたが,夫に殴られるので逃げ出したところ,「結婚の誓いを破った」という理由で自分の両親から警察へ通報され,刑務所に入れられたケース.(p.140-141)
・気が高ぶると妻を殴ることが常態化している,アヘン中毒のターリバーン夫(p.201)
・著者の目の前で妻を部屋に引きずり込んで殴る,その夫(p.205)
 彼女の背中は様々な大きさの傷跡でいっぱいで,足や腹には,タバコを押し付けられた痕も.
 その彼女曰く,「私は彼に何度も何度もレイプされたし,彼にも,第1夫人にも殴られ,第1夫人の子供たちにはツバをはきかけられた」「毎晩,夫が死にますようにって祈っているわ」(p.207)
・結納金を巡る金銭トラブルの夫・兄・父親の鬱憤が,結納金交渉に一切関与していない妻に,なぜか向けられていたケース(p.285-287)
・それら暴力のために,遂に潰瘍を発症させる妻(p.294)
・夫から受けた暴力が原因で,障害児を出産してしまう妻のケース(p.314)

 夫でなくとも,他にも本書には,レイプなどの男性からの暴力の記述が随所に見られる.▲

▼ 以下もDVに関する証言.

――――――
 シリン・ゴルが昔したように,アビーネも言葉を砂に書くようになった.
 シリン・ゴルが___あるように,ノーと言うようになった.

 初めのうち,彼女の若い夫は笑い,彼の小さなアビーネが生きていることを喜んでいた.
 後になると,彼女が反対意見を言うと,彼女に怒り,殴った.
 けれども,頭を引っ込める代わりに,アビーネは彼の手を空中で止め,彼の目を見て言った.
「誰か他の人間を愛しているものは,その人を殴ったりしないものよ.
 何がしたいのか言ってちょうだい.
 私があんたにあげられるものであれば,あげるわ.
 でも,もしあげられぬものであれば,あんたが私を殴ってもやはりあげられないわ」
 若い夫は視線を落とし,言った.
「俺はお前が怖いよ」
「なぜ?」
とアビーネは尋ねた.
「お前が俺の言うことを聞かないからだよ」
「シリン・ゴルは言ったわ.
 コーランに,夫は妻を尊敬し,敬意を払うべきだって書いてあるって」
「そうしてるよ」と若い夫は言った.「それでも,おまえは俺の言うことを聴かなければならないんだよ.
 おまえは俺の妻だ.
 おまえのお父さんがおまえについての責任と,おまえと,おまえの運命について神様から授かった権利を俺に譲ったんだ.
 もしおまえが俺の言うことをきかないのであれば,おまえをお父さんに返すぞ」
 アビーネは黙り込み,視線を落とした.

――――――『神様はアフガニスタンでは泣くばかり』(シバ・シャキブ著,現代人文社,2007.8.31),p.137-138

 内戦時代からアフ【ガ】ーニスタンで看護婦として援助活動に携わったカルラ・シェフター Karla Schefter の証言.

――――――
 男性の家族は花嫁側に対し,多額のお金を払うのが普通だ.
 乱暴に言ってしまえば,少女は売られていくに等しい.
 とはいえ,結納金の意味は,夫に先立たれた場合,妻の生活資金とするところにある.
 結納金から結婚費用を差し引いた残りは,少女の家族によって保管される.

 アフガニスタンの病院にほんの半年の間,勤務したアラブ人に「売り」飛ばされた挙げ句,夫に帰国されてしまい,泣き寝入りを強いられた女性もいる.
 この人は私の病院の看護人の妹だが,アフガニスタンでは,処女を奪われた若い女性は,もう二度と結婚できない.
 コーランが再婚を禁じているわけではないのだが,慣行は慣行として厳しいのである.
 亡くなった夫の弟の後添いにされた未亡人の話もよく聞く.
 新しい夫の下を逃げ出した場合は,実家で生涯暮らさねばならなくなるのが普通だ.
 婚家における嫁の地位は,家族のヒエラルキーの最下層で,姑や家長に身も心も憔悴し切るほどこき使われる.
 まだ年齢的に子供である嫁が,姑に殴られる話も耳にした.
 親族内の結婚が許され,アフガニスタンには近親結婚の弊害も多い.

――――――『「哀しみの国」にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い』(主婦と生活社,2002/9/17),p.71

▼ 花嫁は売買の対象という見解は,他の書籍にも見られる.
 以下はNGOのデボラ・ロドリゲスの記述.

――――――
 ロシャンナ(花嫁)の父は,とてもうまく交渉した.
 彼女の家族には現金で1万ドルが支払われ,ロシャンナにはたくさんの高級な支度の品とともに,5千ドル分の金が与えられた.
 これについてロシャンナは全く相談されなかった.
 アフガニスタンでの最初の結婚はみなこうなのだ.
 すべては完全にビジネスであり,父親同士の間で結ばれる契約なのだ.

――――――『カブール・ビューティースクール』(デボラ・ロドリゲス Deborah Rodriguez著,早川書房,2007.7.25),p.15

――――――
 ロシャンナがかつて結婚寸前までいったのは,タリバンがまだ力を持っていた頃の話だ.
 〔略〕
 ロシャンナを守るために,当時多くのアフガニスタン家庭がやっていたことを,彼女の両親もした.
 つまり,必死になって一族の中からロシャンナにふさわしい男性を探したのだ.
 彼女が独身であることをタリバンに知られないうちに結婚させてしまいたかったからだ.
 〔略〕
 当時は花婿の買い手市場だった.
 タリバンが狼のようにうろついている中では,女性の家族は現金やドレスや金の指輪について交渉している余裕などなかった.
 だからロシャンナの婚約も,とても少ない金額ですぐ合意に達した.

――――――同,p.17-19

 あるNGOにおいて,既婚女性が,同僚の男性と2人でいた,というだけで「恋仲」だと噂され,他のスタッフが,その女性について
「奴を辞めさせろ! 一緒に働くのがけがらわしい!」
とNGOチーフに怒鳴り込んだり,その女性が殺害された,という例もある.
(詳しくは,山本敏晴著「アフガニスタンに住む彼女からあなたへ」(白水社,2004/8/10),p.134-135を参照されたし)

 また,未亡人が再婚もしていないのに妊娠した場合,公共の病院で彼女を診察することはできないという.
 診察することは,「彼女の不誠実な行い」をその病院が認めてしまうことになり,大問題になるのだそうだ.
(詳しくは同,p.151-153を参照されたし)

 同じ話は,他の証言の中にもある.
 以下引用.

――――――
 カブールから帰還後のある日,フランスの援助組織アヴィサンヌが2週間の期限付きで,私達に貸してくれたマルセイユ出身の看護婦,ジャネットが恐怖に青ざめた顔でやってきて,「助けてくれ」という.
 ジャネットは私に,母親に連れて来られた若い娘を引き合わせた.
 非常に状態が悪い.娘は絶えず吐いている.

 話を聞いて,私は驚いた.
 彼女はムジャヒディンと婚約していた.
 婚約者が戦争へ行く前に,ごく自然の成り行きで身を任せたのだ.
 こんな事は,世界中どこでもあることだ.
 結果,彼女は妊娠した.

 だが,問題はシャリーアと呼ばれるイスラム法である.
 この方は婚前に妊娠することを許していない.つい最近も若い2人が,この理由で石で打ち殺されたと聞いた.
 この患者にとってなお悪いことは,子供の父親がカブールで重傷を負って病院にいるということだ.彼が生きているかどうか分からない.
 若い娘にとって,絶望的な状況だった.
 結婚していないのだから,子供は生めない.もしかすると,彼女は石打の刑で殺されるかもしれない.
 娘の母親は「助けてくれ」と懇願している.
 妊娠中絶をすべきなのだろう.
 私がジャネットに少女を助けようと言ったのが分かったのだろう,母親は感謝を込めて,私の手を取った.
 だが,どうやって手術をしたらいいのか?

 この妊婦が石打たれて叫び声を上げている光景が,目に浮かぶ.このか弱い,美しい少女が,「アッラーの名」のもとに,荒れ狂う石打の処刑人の醜く,歪んだ顔の下で血まみれになっている姿が,である.
 少女は蒼白な顔で私を見ている.その合間にも吐いている.
 とても美しい娘だ.それに金持ちの子らしい.

 とうとう,点滴と薬で陣痛を起こさせてみようということになった.
 私達が中絶の手伝いをしたと決して知られてはならない.露顕すれば私達も殺されるか,よくてもアフガニスタンから追放される.
 母親の耳元で指示を与える.
 いい按配に,家には点滴のできる人がいるという.

 翌日の驚きといったらなかった.2人が病院に戻ってきたのである.失敗だったのだ.
 途方に暮れた.
 しかし突然,道が開けた.
 カブールで謝礼を取ってこういうことをしている人がいることを,医者の一人が教えてくれたのだ.
 そっと渡されたアドレスが救いの神となった.
 私達も責任を逃れられるし,あの娘もきっと助かるだろう.

――――――Karla Schefter著『「哀しみの国」にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い』(主婦と生活社,2002/9/17),p.147-148

――――――
 サロンのメインルームに戻ると,私はカーテンがきっちり閉まっているかどうかを確認した.
 通りすがりの男性に,布を被っていない女性の姿を覗かれないように.
 そんなことがあったら,このサロンだけでなくカブール美容学校まで閉鎖に追い込まれかねない.

――――――『カブール・ビューティースクール』(デボラ・ロドリゲス Deborah Rodriguez著,早川書房,2007.7.25),p.13

――――――
 アフガニスタンの人々は離婚を性格の不一致≠ネどというあたりさわりのない理由で片付けてくれはしない.
 男が女を離縁したら,みな女性の方に何か落ち度があったに違いないと考えるのだ.
 怠け者だったのか,移り気だったのか,それとも料理が下手だったのか.
 さらに悪いのは,処女ではなかったのではないかと噂されることだ.
 私はアフガニスタンの人たちが大好きだが,実は彼らはみな噂話が国民的スポーツだと言えるくらい好物だ.
 〔略〕

 〔離婚された〕ロシャンナが秘書の仕事をしている間に出会ったアフガニスタン人の男たちの間では,離婚した女性は売春婦と同じだという飛躍がなされていた.
 彼らはありとあらゆる機会をとらえては,ロシャンナを暗い片隅に引きずり込み,ちゃんとした¥乱ォには決してしないようなやり方で,ロシャンナの身体をまさぐった.
 〔要はセクハラ〕

――――――同,p.20

――――――
 彼〔著者の夫.アフ【ガ】ーン人男性〕はあるとき外国人の友人たちに,アメリカ人の妻を1人持つより,千人のアフガニスタン人の妻を持つほうが簡単だと言った.
「アフガニスタン人の妻千人に座れと言ったら,彼女たちは座る.
 アメリカ人の妻1人に座れと言ったら,彼女はうるさい≠ニ言うからな」と.

――――――同,p.245

 以下は,著者が刑務所の女囚たちにギフト・バッグを配りに訪れた際,女囚たちから聞いた話.

――――――
 一人はレイプされたから〔刑務所に〕入れられた.

 一人はレイプされ,そのレイプ犯を夫が殺したから,入れられた.
 夫も服役しているが,刑期は彼女の方が長い.

 若い女性たちの中には,恋人から逃げようとしたせいで入れられた者たちも数人いた.

 一人は両親が誰かに嫁がせるより前に,恋人の子供を妊娠してしまったので,ここに入れられた.

 一人は義理の弟の殺人未遂でここに入れられていた.
 彼女は夫に先立たれたが,そのまま夫の家族と共に舅の家に暮らしていた.
 だが義弟が彼女の息子を殴り,彼女をレイプした.
 ついに彼女は義弟が寝ている間に,ガソリンをかけて火をつけたが,義弟は死ななかった.
 刑務所に面会に来た舅は,彼女になぜそんなことをしたのかと訊いた.
 彼女が真実を告げると,舅は病院に行き,入院していた義弟を撃ち殺した.

――――――同,p.143

▼ アフ【ガ】ーニスタンの女性たちが,レイプの被害者なのに投獄されるという話は,以下の記事にも出てくる.

――――――
「The Independent」◆(2008/08/22)The Afghan women jailed for being victims of rape

 アフガニスタン南西部ヘルマンド州の州都,ラシュカルガー(Lashkar Gah)の刑務所に収容されている女性のうち2/3はレイプの被害者で,彼女たちは懲役20年の刑に服しています.

 Salihaという照れ屋の15歳の少女は,夫が暴力を振るってきたために,近所の少年と駆け落ちして愛し合いました.
 その結果,家族や村からの追放処分を受け,家から逃げたということで最高刑の懲役10年,違法な性行為を行ったということで,懲役20年の刑を受けました.

 25歳のZirdanaさんは7歳のときに,支払い金の一部として,のちに夫となる男性に引き渡されました.
 11歳で第1子を出産し,姿を消したとき第4子を妊娠していました.
 Zirdanaさんは夫殺害の容疑で有罪となり,年長の3人の子どもは義理の兄弟が連れて行き,当時2ヶ月だった赤ん坊は,Zirdanaさんと一緒にいることになりました.

 現在55歳のDorkhaniさんは,Nowzad地方で比較的裕福な結婚生活を40年間送っていましたが,家庭内でもめごとがあってラシュカルガーに逃れてきました.
 夫はお金を取り戻そうと,Nowzadに戻ったところで消息不明となり,100%無実だというDorkhaniさんが,夫を殺害したとして有罪になりました.

 2008年初頭に出された報告書によると,アフガニスタンでは女性や7歳以上の少女に対しての暴力,特にDV(ドメスティックバイオレンス)が蔓延しており,87%以上の女性はこれに対する不満を訴えており,暴力の半数は性的虐待となっています.
 また,60%以上の結婚式は強制によるもので,慣習を法で禁じているにもかかわらず,16歳未満の花嫁が57%を占めています.
 少女たちの多くは犯罪の賠償用として,あるいは借金返済のために差し出されています.

 このためか,アフガニスタンは女性の自殺率が,男性の自殺率を上回る世界唯一の国となっています.

 〔略〕
――――――

 2006年には,こんな事件も.

――――――
アフガニスタン・カンダハル州で女性問題局長が射殺される タリバンが犯行声明

 【アルジャジーラ特約19日】アフガニスタンのイスラム原理主義勢力,タリバンは25日,南部カンダハル州庁の女性問題局長,サフィア・アナ・ジャンさんを射殺したことを確認した.

 ジャンさんの姪(めい)によると,ジャンさんは25日,自宅前で自家用車に乗り込んだ時,バイクにのった複数の武装分子によって殺害された.

 タリバンのムラー・ハヤト・カン指揮官は,不詳の場所からの電話で,ジャンさんが政府のために働いていたために殺害されたとして,「われわれはこれまでに繰り返し,政府のために働く者は,たとえ女性でも,殺されるだろうと言ってきた」と語った.

 ジャンさんは2002年以来,カンダハル州女性問題局の長を務めており,教師として,また女性の人権問題活動家として知られていた.

 事件の目撃者の一人,アラウディンと名乗る男性は,バイクに乗った2人の男が道に陣取って,彼女を待っていたとして,「彼女が現れると,襲いました」と話した.銃撃はおよそ3分続いたという.
 ジャンさんの車は両側に銃弾の後があり,窓ガラスは粉砕されていた.

 アフガニスタン治安当局者は,まだ誰も逮捕されておらず,捜査が着手されたと述べた.

 国連アフガニスタン支援代表団のアリーム・シディキ報道担当は
「イスラム共同体の人々はこの意味のない女性殺害に驚いています.
 彼女はアフガニスタンの将来に,アフガンスタンの女性が完全で平等な役割を担うようにしようと働いていただけなのです」
と語った.
 〔略〕
(翻訳・ベリタ通信=日比野 孟)

――――――2006年09月26日16時09分,アルジャジーラ

 ペシャワール会でも,現地でワーカーとして働く日本人ナース,藤田千代子は次のように述べる.

――――――
 私から見れば,徹底した男尊女卑,女は男の所有物,という感覚が当たり前のこの国ですが,中でも,あのコーヒスタンの一帯は,特に女性の扱いが酷いところです.
 冬だというのに,男達は自分だけ厚着をして,女性には,平気でチャドル一枚でいさせたりする.
 同じ山岳地帯の村でも,あれほどのところはないでしょうね.

――――――丸山直樹著「ドクター・サーブ」(石風社,2001/7/1),p.45-46

 以下の3つの記述を信頼するならば,そもそも「男女平等」「女性を大切にする」という言葉の概念が,日本人とは大きく隔たっている可能性が高い.

〔quote〕
 彼の地の人々がカーペットに寄せる愛情の強さは,私達の想像を絶する.私達の社会での家そのものと考えてもよい.
 女房と取り替えても,との表現があるが,良く考えると女房がどんなに貴重な存在かを示している,などといえば今日,一部のフェミニスト達から袋叩きにあうのは眼に見えている.女性を品物と同じに考える封建時代の遺産,と眼尻を吊り上げた御婦人方の顔が見える.
〔/quote〕

―――甲斐大策著『神・泥・人』(石風社,1992.2.20),p.82-83
〔quote〕

「玄関を出ようとして,ふと横を見ると,新しい部屋が増築されている.
 見ていると,亭主が
『セカンド・ワイフの部屋だ』
と言ってにやりと笑った.
〔略〕
 アラーの神は確かに4人まで妻帯を認めている.
 しかし,
『平等に愛せよ』
と注文は厳しい.
 そこでガイド氏に聞いてみた.
『はたして平等は可能なりや?』
と.
 答は明快であった.
『簡単だ.財布は俺が持っているのだから,食べ物など,必要なものは平等に与えればいい』
 彼の解する平等は,経済の平等,物質の平等であり,愛とは生活の保障であった」

〔/quote〕
―――谷岡清(日大芸術学部講師) in 「アフガニスタンの美」(小学館,1997/9/20), p.110-111

――――――
 老人〔ペシャワールに住むターリバーン〕の横柄な兄弟の一人に,いつも私を西洋文化対東洋文化という議論に巻き込もうとする男がいた.
「我々の国の女性は幸せだ」
 彼は主張した.
「見てみろ.
 西洋の女と違って,ストレスはないし,プレッシャーもない」

 この点について議論をしかけてきた者は,後にも先にもこの男しかいなかった.
 私はこの男の家で,彼に反論したくなかった.
 けれど私は心の中でこうつぶやいた.
 あら,おじさん,あんたの奥さんはついさっき,どれだけみじめな生活をしているかを訴えるメモを,私のポケットに入れてきたばかりよ!
 彼女が逃げ出さないのは,あんたが金色の鳥かごに入れてるからじゃない.

――――――『カブール・ビューティースクール』(デボラ・ロドリゲス Deborah Rodriguez著,早川書房,2007.7.25),p.174

▼ デボラ・ロドリゲスは,そのようなアフ【ガ】ーン女性の状況を目の当たりにして,以下のように結論付けている.

――――――
 この国の女性たちは,たくさんの規制やしがらみにがんじがらめになっている.
 しかもその規制のほとんどが,欧米人の目には見えもしないのだ.

――――――『カブール・ビューティースクール』(デボラ・ロドリゲス Deborah Rodriguez著,早川書房,2007.7.25),p.343

▼ 中村医師の主張とは逆に,社会制度が女性虐待を強化する方向にあるという指摘もある.

――――――
 配偶者間の暴力(DV)が幼少の少女との結婚と関連しているという指摘もある.
 女性や少女への暴力・虐待の問題に対する政府や社会の取り組みは不充分であり,むしろ加害者の不当な権力行使を強化している場合もある.
 たとえばレイプとして認定されるには,4人の成人の証言が必要とされるため,告発した女性が逆にジナの罪(婚姻外での性的行為を犯した罪)に問われたり,虐待や暴力から逃げた場合に逃亡の罪で逮捕・投獄されることも珍しくない.
 またDVが,父親や兄弟といった男性家族によって解決できない場合は,共同体の決定機関であり,長老や聖職者という男性によって構成されるシューラ(Shura)やジルガ(Jirga)に持ち込まれるが,女性や少女への支援に繋がるとは考えられない.
 2003年9月から2004年4月の間にヘラートでは,380件の焼身自殺が記録され,その8割は家族による暴力が原因とされるとのアフガン独立人権委員会(AIHRC)の報告や,2002年調査において,回答した女性の65%が自殺を考えており,その多くは若い女性と未婚女性であったとのMMの報告は,女性や少女の置かれた状況の過酷さと,彼女らの深い絶望を示している.

――――――『国際人道支援におけるこころのケア アフガニスタンでの試み』(河野貴代美編著,新水社,2007.6.10),p.50-51

 なお,引用文中のMMとは「メディカ・モンディアール Medica Mondiale」の略称.▲

 これら記述からも分かるように,中村医師がやっているが如く,日本人的なメンタリティを安易に外国に当て嵌めるのは,とても危険であろう.


 【質問】
 アフ【ガ】ーン女性が一般的に抱えている心理的問題としては,具体的にはどのようなものがあるのか?

 【回答】
 メリーランド大学バルティモア校の心理学者アン・ブロッドスキー Dr. Anne Brodskyが2001年以来,6回にわたってアフ【ガ】ーニスタンで観察や調査聞き取りを行ったところによれば,以下のような諸問題があるという.

・ジガ【フ】ーン Jigar Khun : 喪失による悲嘆

・アサビ Asabi : 過度のストレス

・フィシャー・アバラ Fishar-e-bala : 強い焦燥感,内面の葛藤

・フィシャー・エペイン Fishar-e-payin : 鬱(うつ)状態,気力低下

・考え込むこと

・自傷行為

・身体的症状(頭痛,食欲減退など)

・過度の投薬

・自己放棄(DV・強制結婚・幼児婚などにより,女性が自分を大切にすることを忘却してしまう.自殺を含む.

詳しくは『国際人道支援におけるこころのケア アフガニスタンでの試み』(河野貴代美編著,新水社,2007.6.10),p.83-87を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーン女性に特徴的な悪環境には,どのようなものがあるのか?

 【回答】
 女性の人権を擁護するための国際NGO「メディカ・モンディアール(MM)」によれば,以下のような点があるという.

●トラウマ的出来事

・身体的損傷から来る,体や四肢の機能の麻痺
・子供や夫など家族メンバーの喪失
・家屋喪失
・社会的アイデンティティ喪失
・レイプや性暴力の体験(後述)
・紛争後の難民としての体験

●アフ【ガ】ーンにおける女性への暴力

・幼児結婚・強制結婚
・DV
・病気治療へのアクセスの欠如
・女性や子供の活動の制約
・「道徳に反する犯罪」を理由にした,刑務所への送致
・強制売春や人身売買
・自己放棄および自殺; 2002年の調査では,若い未婚女性の65%が自殺を念慮

●アフ【ガ】ーン女性のせい暴力やレイプの問題

・性暴力やレイプを受けたことを公にされれば,社会的烙印を押されるか,処罰されるか,あるいは殺される
・身体的損傷に苦しみ,HIVを含む性感染症,妊娠,処女喪失に伴う社会的抑圧に苦しむ
・強い恥と恐怖に脅える
・他者からの目をそむけさせ,自己を守るために出来事を否認する
・既に社会から孤立している女性が,ますます孤立していく

 たとえばMMでは,間違いで逮捕されている女性と子供,20名のうち13名を解放させたり,16歳の少女が結婚を強制されて自傷行為を繰り返していたため,MMが介入,話し合いの結果,結婚相手の老人男性に補償を支払う代わりに強制結婚から解放した,といったケースがあったという.

 詳しくは『国際人道支援におけるこころのケア アフガニスタンでの試み』(河野貴代美編著,新水社,2007.6.10),p.96-99を参照されたし.


 【質問】
 バドとは?

 【回答】
 フォト・ジャーナリスト,川崎けい子によれば,

――――――
Aという人が,Bという人に対して殺人などの罪を犯した場合,Aの家族の少女(たいていは15歳以下の娘または妹)をBの家族に引き渡して,Aの罪を償うという因習

――――――『神様はアフガニスタンでは泣くばかり』(シバ・シャキブ著,現代人文社,2007.8.31)解説,p.361

▼ 以下はその例.

――――――
「お前の兄さんと私は友達になったんだ」
とモラッド〔ムジャヒッディーン〕は言った.
「何年か前に私たちは並んで戦った.
 それから私は言った,『もう戦いたくない,結婚したいよ』
 お前の兄さんと私はカードをやって,彼は負けてしまった.
 彼はお金を持っていなかったので,私に賭け金が払えなかった.
 彼は『おまえは結婚したいんだな,俺にはたくさん妹がいるよ』と言った.
 それから続けて,彼は私が彼からお金を貰う代わりに,彼の妹の一人と結婚すればいいといったんだ」

――――――『神様はアフガニスタンでは泣くばかり』(シバ・シャキブ著,現代人文社,2007.8.31),p.48

 ただし同書の解説を読むと,川崎は明らかにRAWA寄りの見方をしているため,信頼性の点では今一つ心もとなし.
 できればクロス・チェックを.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおいて,女性の出産が犯罪にあたる場合があるというのは本当か?

 【回答】
 未婚女性の出産は犯罪になるので,都市の指定大学病院で出産し,警察の取締を受ける決まりになっているという.
 たとえ外国NGOの病院であっても,これを無視し,同病院で出産をさせると,
「イスラームの教えに反する出産を助けた」
ということで,地域住民が怒ってその病院を破壊する恐れもあるという.
 少なくとも以後,患者はその病院には行かなくなるだろうという.

 詳しくは『アフガニスタン母子診療所』(梶原容子著,白水社,2008.10.20),p.144-145を参照されたし.


 【珍説】
 ターリバーンは拘束したジャーナリストには寛大な扱いをした.
 英国人女性記者イボンヌ・リドリー Yvonne Ridley さんなどは,その後,イスラームに改宗までしたほどだ.
http://news.bbc.co.uk/hi/english/world/south_asia/newsid_1570000/1570703.stm
によれば,
・部屋に拘禁されているのではなく,家に拘束されている.家の中や中庭を自由に歩きまわっている.
・1日に4,5回も食べたがり,タバコ,新しい服をほしがってて,ターリバーンは彼女の要求に従ってる.

 【事実】
 そうとは言えないようです.リドリーは後述のように例外的扱い.

 例えば,ターリバーンに拘束された柳田大元氏については,こんな話があります.
「11月12日,パキスタンの首都イスラマバードへと向かう飛行機の中で,私は,自分の判断が果たして正しかったのかどうか,まだ自問自答していた.
『USドルで3万ドル払えば,ミスター・ヤナギダを即時釈放する』
 詳細は明かせぬが,大元を拘束している,ジャララバードのタリバーン情報局周辺から,パキスタンを経由して,こんな話が私のところに持ち込まれていたのである(後に知ったのだが,この身代金要求説は,パキスタンのメディア関係者の間に広まっていた).
 私は1日考えた末に,この話を蹴った.3万ドル,つまり日本円で約360万円を払っても,大元が必ず釈放される保障など得られなかったし,何よりも,金で片をつけたことを,後で大元が知ったら,激怒するに違いないと思ったからだ.
 彼のただ独りの兄妹である私の妻も,同意見だった」(ノンフィクション・ライター 野村進 月刊「現代」 '02年1月号)

 その柳田氏は「タリバン拘束日記」(青峰社,'02)において,
収容所では,囚人が自分で食費を払わなければならなかったこと,
「タリバンはいい人だと言え」と,筆者の電話インタビューの間も収容所長に強要されたこと,
同じように拘束されていたフランス人記者が,トラックで市中を引き回され,投石されるがままにされたこと
を述べています.
 また,リドリーについては,収容所にいた記者の話として,「早く釈放されたのは,パキスタンのムシャラフが動いたからだ」「イヴォンヌと一緒に来た記者は,いまだにカーブルにいる」という話を紹介しています.

 身代金を取ろうとし,また,投石されるままにしておくような拘束を,「寛大な扱い」とは,お世辞にも言えないでしょう.

▼ また,2009年4月には,以下のような脅迫を報道機関やジャーナリストに対して行っています.

――――――
タリバンが地元記者に警告
2009年4月29日7時56分,産経新聞


 パキスタンのイスラム原理主義勢力タリバンが,国内の報道機関やジャーナリストに,北西辺境州スワト地区周辺での和平合意とシャリア(イスラム法)導入に水を差す「西側寄りの報道の中止」を要求し,そのような報道が続けば「恐ろしい結果をもたらす」と警告するファクスを送っていたことが28日,わかった.
 地元記者によると,警告はスワト地区で,自爆テロの実行グループの司令官が発した.
 警告文はファクスだけでなく,報道機関が入る建物に張られていたケースもあった.
(ニューデリー 田北真樹子)
――――――

 「ジャーナリストに寛大な組織」がやることとはとうてい思われません.▲


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