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その他の南アジア諸国(並びはほぼアルファベット順)
南アジアFAQ目次


Index

総記

Kashmir カシミール

◆◆カルギル紛争

Nepal ネパール

Sri Lanka スリランカ


◆総記

 【link】

 【質問】 インドとパキスタンの線引きは,どのように行われたのか?

 【質問】 インダス川の水資源を巡り,どんな争いがあるのか?

 【質問】 印パ核戦争防止策はあるのか?

 【質問】 印パ紛争は,日本にどんな打撃を与えるだろうか?

 【質問】 印パ両国間に緊張緩和の兆しはあるか?

 【質問】 コシ川問題とは?


◆カシミール問題

 【質問】 カシミール問題とは?

 【質問】 カシミールの反インド勢力は,最初からパキスタンへの帰属を目指していたのか?

 【質問】 カシミール問題についてのカシミール人の考えは?

 【質問】 カシミール問題には,インド・パキスタン両国の国内問題がどう影響しているのか?

 【質問】 カシミール武装闘争にパキスタン政府は関与していたのか?

 【質問】 なぜパキスタン政府はカシミール武装勢力を支援していたのか?

 【質問】 カシミール問題解決の方策はないのか?

 【質問】 第1次印パ戦争とは?

 【質問】 第2次印パ戦争とは?

 【質問】 第3次印パ戦争とは?

 【質問】 シムラ協定とは?

 【質問】 89年暮れからカシミール情勢が悪化したのは何故か?

 【質問】 89年暮れからのカシミール情勢は,どのような悪化を見せたのか?

◆◆カルギル紛争

 【質問】 カルギル紛争とは?

 【質問】 当時のシャリフ政権は,ラホール宣言を推進していたのではなかったのか?

 【質問】 カルギル紛争で戦場となったソナマルグは,どんなところか?

 【質問】 カルギル紛争はどのようにして始まったのか?

 【質問】 カルギル紛争におけるインド軍の兵站状況は?

 【質問】 カルギル紛争では,インド海空軍は出動したのか?

 【質問】 カルギル紛争にはパキスタン軍は関与していたのか?

 【質問】 カルギル紛争における,インド軍の戦術は?


◆Nepal ネパール

 【質問】 現在のネパール王家の起源は?

 【質問】 ネパールはなぜ親中化したか?

 【質問】 ネパールで一党独裁体制が構築されたのは,いつのことか?

 【質問】 ネパール内戦の概況は?

 【質問】 ネパールのマオイストの勢力は?

 【質問】 ネパールのマオイスト(毛沢東派)ゲリラは中国寄り?

 【質問】 毛沢東派ゲリラが活動を開始したのは,いつからか?

 【質問】 中国はネパールに軍事支援を行っているのか?

 【質問】 今日のネパールの危機的状況は,どこに起因するのか?

 【質問】 ネパールの君主制廃止について教えてください.

 【質問】 中国とネパールの関係強化について教えてください.

 【質問】 ネパールのマオイスト政権誕生について教えてください.

 【質問】 ネパールのマオイスト政権は何故倒れたのか?

 【質問】 マオイスト Maoist によるダム建設妨害について教えられたし.


◆スリランカ

 【質問】 スリランカへの中国の進出ぶりは,どのようなものか?

 【質問】 スリランカ紛争とは?

 【質問】 スリランカ内戦が起こったのは何故か?

 【質問】 シンハラ人のナショナリズムが高まったのは何故か?

 【質問】 スリランカのイスラーム教徒が「民族浄化」に遭っている,というのは本当か?

 【質問】 ワンニ打通作戦(仮称)とは?

 【質問】 LTTEの海上戦力はどのような規模,装備なのでしょう?

 【質問】 トリンコマリー軍港自爆テロ事件とは?

 【質問】 フォンセカ中将暗殺未遂事件とは?

 【質問】 アヌラーダブラ・バス爆破テロ事件とは?

 【質問】 マンナール沖海上テロとは?

 【質問】 クラトゥンガ陸軍参謀次長暗殺事件とは?

 【質問】 スリランカ軍バス爆破テロ事件とは?

 【質問】 人道援助団体活動員虐殺事件とは?

 【質問】 パキスタン大使暗殺未遂事件とは?

 【質問】 ポッツビル・ムスリム虐殺事件とは?

 【質問】 ハバラナ自爆テロ事件とは?

 【質問】 ゴール港自爆テロ事件とは?

 【質問】 バティカロア難民キャンプ砲撃事件とは?

 【質問】 ラジャパクサ国防次官暗殺未遂事件とは?

 【質問】 ヒッカドゥワ自爆テロ事件とは?

 【質問】 LTTEによる初の空爆は,いつ,どこに対して行われたのか?

 【質問】 ダムブラ・巡礼バス爆破テロ事件とは?

 【質問】 ウェリオヤ・バス爆弾テロ事件とは?

 【質問】 コロンボ近郊通勤バス爆弾テロ事件とは?

 【質問】 ムライティブ避難民キャンプ自爆テロ事件とは?

 【質問】 LTTE掃討戦を足がかりにした,スリランカへの中国の影響力増大について教えてください.


◆総記


 【link】

「BBC」◆(2010/09/17)Sri Lanka ex-army chief Sarath Fonseka 'found guilty'

CSAS 岐阜女子大学南アジア研究センター

Daily Dawn(パキスタン主要紙,英語)

「Daily Times (Pakistan)」:The nuclear button in South Asia (by Michael Krepon, 12/11/2009)

「Deccan Herald」」●(2012/10/05)Hydroelectric plant in Pak-occupied Kashmir hangs fire
インド,インダス河のパキスタンとの紛争で,立場説明

「IISS」:Building Asia's Security

「IISS」◆24 Feb 2010 - - Reuters - India and Pakistan: finding the right forum for dialogue

「Institute for Defence Studies and Analyses」◆(1012/02/04)Beyond the Indus Water Treaty: A Perspective on Kashmir's “Power” Woes

JASAS 日本南アジア学会

「Kuensel」◯(2012/09/02)Towards regional electricity trade
(ブータンは南アジアで唯一豊富な電力,GDPの25%占める)
「Kuensel」はブータンの国営新聞社

「News International」◯(2012/11/03) 'India violated Indus Water Treaty in Nimoo-Bazgo hydropower project'
パキスタン政府,インドのニモーバズゴ水力,条約違反と

「OSINTSUM」◆(2010/07/11)Will Nepal be on PRC' s orbit?

「Outlook」●(2012/10/15)India, Lanka Hold Talks on Nuke Cooperation
スリランカとインドが次官級で原子力平和利用を協議

「Reuters Blogs」●(2012/07/28)Thirsty South Asia's river rifts threaten “water wars”
世界の水戦争の先陣を切るのは,ヒマラヤの水をめぐるインドとパキスタン

South Asia Analysis Group(英語)

「Strategy Page」◆(2010/10/11)INDIA-PAKISTAN: The Lies Mutually Agreed Upon

「The Hindu」◆(2011/08/02)Chinese firm signals interest in PoK dam project
 パキスタンの120億ドル大規模ダム,カシミールのディアマ-バシャ・プロジェクト

「Togetter」◆(2011/11/19)El_Fire さんの語る,ブータンの民族問題

「TruthDive」◯(2012/07/25) Pak's plan to set up nuclear plant in Sri Lanka sets off alarm bells in India

「VOR」◆(2012/04/09)印パ,「両国の関係正常化」言明

「VOR」◆(2012/10/09)ネパールでインド映画禁止
> AFP通信が伝えた所では,ネパールの大部分を支配下においているネパール共産党毛沢東主義派は国内で印の影響力が強まる事に抗議する形で,10日間の期限でボリウッド(印ムンバイの映画産業)が作成した人気映画の貸し出しを禁止する措置を導入.
> 同国にある100の映画館の大部分はこれに従ったが,若者達は抗議の声を上げており,学生組織の代表者はAFPに対し,印映画は人気があり,海賊版の広がりを助長するだけで禁止措置は無意味だ,と指摘している.
> ネパールでは政府と毛沢東主義派との間で緊張が高まっており,首都カトマンズでは極左過激派集団によるカレッジのコンピューターの破壊やスクールバスへの放火事件が発生.
> ネパール共産党毛沢東主義派は,印で登録された多くの車がネパールに流入するのを阻止する為に実力行使に出る,と警告していた.

「VOR」◆(2012/12/01)ネパールの元皇太子 タイで釈放
>(;-_-)(どんな人かと思い,ウィキペディア見てみると,相当とんでもない人物のようで)

「VOR」◆(2012/12/17)ネパールの兵士,殺人ゾウを告訴

「海洋戦略研究」:(2010/1/21)印パ国境衝突急増

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/05/26)ネパール  今月27日の期限を前に迷走する憲法制定

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/04/26)ネパール  毛派兵士の国軍統合問題が解決,今後は新憲法制定論議へ

「ザイーガ」:【知る・雑学・ニュース】イケメン国王グッズが引っ張りだこ(ブータン)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-12-15) ブータン王妃の来日
 1957年

「ニコニコ動画」:20世紀最強の軍隊グルカ 前編その2

 女王陛下の僕としての儀式は,あらゆる意味で深いものがあります.

――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年10月19日18:12

「ニコニコ動画」:グルカの誇り

 10年くらい前のTV番組で,画質悪御免とありますが素晴らしい映像資料だと思います.

――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年10月19日18:12

フェアトレードの勘違い 山口絵理子(マザーハウス代表取締役)/取材・構成:木村麻紀

ブータンをもっと知りたい人のための情報サイト

●書籍

『現代南アジア』全6巻(東大出版会,2002.9〜)

『ネパール王制解体 国王と民衆の確執が生んだマオイスト』(小倉清子著,NHKブックス,2007.1)

 政争に明け暮れる議会.
 それを目の敵にする国王.
 その国王は,議会勢力を抑える為にマオイストの伸張を黙認.
 国王親政の圧政と失策.
 議会と民主化を求める民衆とマオイストが手を組み,反国王運動の頂点である 『4月革命』
 
 著者が目にした事件や,マオイストの軍司令,政界人へのインタビューを通し,2001年の王宮銃乱射事件以来混迷を続けてきた,ここ数年のネパールが良く分かる一冊です.

 しかしですね,1959年まで 『ビルダ』 と呼ばれる荘園制度が存在ていたり,国民投票で選ばれた議会も国王によるクーデターで潰されたり,1962年にはネパールを 『ヒンドゥー教国家』 であるとし 『ネパールの主権は国王にあり,行政,立法,司法の全権は国王から生じて,国王により行使される』 とした 『パンチャーヤート制度』と呼ばれる憲法を制定したりで,その前時代的ぶりには,驚きましたわ.
 そら,革命も起きますわな (w`;

 1846年に現王家のラナ家が政権とってから,自然死した首相が居ないとか,2001年の王宮銃乱射事のような,王族の大量暗殺事件がたびたび起こっているという,王家の暗黒っぷりにもビックリです (w`;

 『四月革命』 の結果,政権に参加することに (副議長の座を得た) なったマオイストですが,マオイストも,強制募金で活動資金を集めたり,反抗者を暗殺していたりで,そう褒められた集団では無いことは確かです.

 結局,ネパールは混乱の火種を抱えたまま,新しい時代への一歩を踏み出そうとしているのですが……

 前途多難過ぎですね……

――――――ベタ藤原 in mixi,2007年04月12日20:48

●Sri Lanka スリランカ

「Sunday Times」●(2012/02/05) Norochcholai shut down triggers loss
スリランカの中国の石炭火力が旅重なる故障で停電

「VOR」◆(2012/08/07)スリランカ当局 密漁の疑いで中国漁船員37人を拘束
「人民網」◇(2012/08/07)スリランカ海軍に拘束された中国人船員が全員釈放

「VOR」◆(2012/11/10) スリランカの監獄での騒乱,犠牲者27人にのぼる

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/03/30)スリランカ  内戦終結から3年 復興をアピールする政府 中国・インドの援助競争

「スパイ&テロ」◆(2009/05/18) タミル・タイガー「プラバカラン議長」とは何者だったか

「地政学を英国で学ぶ」◆(2010-02-12)スリランカ政府の「手段」と「目的」

●Bangladesh バングラデシュ

「Economist」◆(2012/11/05)Bangladesh and development: The path through the fields
バングラについてよくまとまった記事

「Financial Express Bangladesh」◯(2012/09/06)Govt will build another nuclear power plant: PM
バングラデシュは更に原発の新規計画を進めている

「Journal of Energy Security」◯(2012/04/20) The Pipeline That Wasn't: Myanmar-Bangladesh-India Natural Gas Pipeline
今まで行くづまっていたインドへのガスパイプライン,バングラデシュの方針で一気に現実へ,中国とミャンマーの計画と双璧

「VOR」◆(2013/03/03) バングラデシュで警察とイスラム政党の支持者が衝突

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/02/21) バングラデシュ  独立戦争当時の残虐行為に関連して,最大イスラム政党の非合法化を検討

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2012/11/21)知らない人にもあいさつするほど話し好きな バングラデシュ人から嫌われる“日本人の行動”とは


 【質問】
 インドとパキスタンの線引きは,どのように行われたのか?

 【回答】
 英領インドは,1947年8月に独立します.
 パキスタンの領域となった地域は8月14日に独立し,インドとなった地域は8月15日午前0時に独立を果たします.
 この独立に際して,何処でインドとパキスタンを分離するかが問題になりました.
 元々は藩王国や州の境界であるので,大多数の地域は比較的友好的に行われています.

 しかし,全然問題が無いと言う訳ではなく,1つの問題は東パキスタン,現在のバングラデシュの有る部分でした.
 英領インドと言うのは,現在州となっている直接支配地域と藩王がいた藩王国の2つに分けることが出来ます.
 このうち,この東パキスタンを含むベンガルは英国がデリーを総督府にする前に行政府を置いた場所であり,英国にとっては有用な地域であった為,直接支配していました.

 因みに,インドと言う地域はヒンドゥーが全面に出ていますが,ヒンドゥーと名乗る人々は極めて少数派で,ヒンドゥーのどの神を信じているかの方が実は重要だったりします.
 つまり,インドのヒンドゥーと言っても一枚岩では無いと言えます.
 元々,インドを宗教で分けようとしたのは英国人であり,数種類の民族の内,或民族は優遇し,或民族は冷遇したのが始まりで,こうすると,インド全体で一致団結することが無いので,統治しやすいと言う論理でした.
 19世紀まではこれで良かったのでしょうが,これが20世紀になり,民族自決と言う考えが台頭してくると,話はややこしくなります.
 元々,一つの地域にそれぞれの民が穏和に暮らしていたのに,異民族に支配され,それぞれの宗派で異なった待遇をされたらどうなるか…結局は,両者が啀み合い,本当に仲が悪くなりました.

 そうして,イスラームはヒンドゥーと一緒に独立するのが嫌だと言う事になって,イスラームの多い地域を分離させてパキスタンとして独立するに至った訳です.
 とは言え,本当に宗派別に多数派を形成する地区を集めて分離させた訳ではなく,インドの両側,つまり端っこにしか国を作らせて貰えませんでした.

 インドの人口は確かに多いのですが,その人口密度が高い部分はガンジス川流域のベンガル地域とパンジャブ地域でした.
 その地域はヒンドゥーとイスラームの混住地域でもありました.

 話を戻してベンガル州ですが,インド独立前は,コルカタを中心とする今の西ベンガル州と,東パキスタンを合わせた地域がそれでした.
 その一部分にイスラームの人口が集中していた部分があったので,その部分を切り取ってパキスタンに与えた訳ですが,そうなるとパキスタンとなった地域からは将来を悲観してヒンドゥーが一斉にインド側に移動しますし,逆にインドとなった地域からも同様にイスラームが一斉にパキスタンに移動します.
 ベンガル州のみならずパンジャブ州でも同様の動きが起き,これによる移動者は1,500万人に達しました.

 因みに,この時の線引きというのは誠に荒っぽい方法で,ヒンドゥーやイスラームに全く利害のない…と言うか何も知らない…英国人のラドクリフと言う人物が,部屋に籠って国境線を引きました.
 で,ラドクリフは独立と同時にさっさと本国に引揚げてしまい,後には右往左往する大量の民衆が残された訳です.

 パンジャブ州も同様の事が行われたのですが,インドの首都であるデリーは旧パンジャブ州の南東端近くにあり,パキスタンの首都であるイスラマバードは北西の端にある訳で,丁度中間にあったのが旧パンジャブ州となります.
 これもラドクリフが真っ二つに引き裂いた訳です.

 ところで,インドと言ってもいささか広うござんすので,南インドに住む人々がパキスタンに対する悪し様な反感は,余り持たないと言います.
 しかし,デリーやコルカタにはパキスタン地域から着の身着のままで逃げてきた難民が沢山住み着いています.
 パキスタンへは,パンジャブやカラチにそう言った人々が住んでいて,この両者が反目の火種になっている訳です.

 因みに,ムシャラフは元々デリー生まれのインド人で,3つの時にカラチに流れていきます.
 一方,インドのマンモハン・シン首相は逆に,パキスタンのパンジャブで生まれで,インドに移ってきます.
 つまり,意外なことに,両者は全く立場を異にする人たちな訳です.
 インドでパキスタン生まれの首相は,1990年代のグジュラール以来2人目ですが,パキスタンの政治家や高位軍人と言うのは殆どがインド出身者で,デリーからパキスタンに移住してパキスタンの指導者となった訳です.
 パキスタンで,政府に対する民衆の支持が薄いのは,こうした要件もあるからなのですね.

 もう1つ,問題になった地域は,インドとパキスタン南端の国境地帯にあるカッチ湿原です.
 1965年2月から数ヶ月間に掛けて,この人口も疎らで,水も乏しい地域で印パ両軍の軍事衝突が起きました.
 しかし,両国は英国首相の仲介により,国際司法裁判所での紛争解決に合意しました.
 1年掛けて国際司法裁判所では検討を行い,ほぼインドの主張に沿って国境線を画定させましたが,インドの完全勝利ではパキスタンに遺恨が残るからと言う理由で,800平方マイルはパキスタンに割譲されました.

 印パ両国の間で一番厄介で現在も解決が模索されているのは,カシミール問題です.
 これには更に中国が絡んで来ているので,話はもっとややこしくなっています.

 この地域へインドから行こうとするならば,ヒマラヤ越えをする必要があり,行くのが容易ではありません.
 と言う事は,パキスタンから行くのが自然で,単純に考えればパキスタン領で解決しても問題ない訳です.

 ところが,この地域はカシミール藩王国と言う藩王ハリ・シンが治める国でした.
 ハリ・シンはヒンドゥーなのに,住民の多数派はイスラームだったと言う所にこの地域の悲劇があります.
 インド独立時,州に関しては英国の直轄地でしたから,勝手に国境線を引くことで対応しましたが,藩王国についてはインドに付くか,パキスタンに付くかは,藩王が決めることが出来ました.
 しかし,カシミール藩王国はインド最大の藩王国であり,ハリ・シンも財産をそこそこ持っていて,共和国に与することを潔しとはせず,第三の道,即ち独立を志向します.
 ただ,独立後の安全保障に関しては深く考えていませんでした.

 こうして,1947年8月15日を迎えたのですが,当然,多数派住民はパキスタンへの編入を求めます.
 これに対して,ハリ・シンは,自分の軍隊を用いて鎮圧に掛かりました.
 それを見て,パキスタンから自国の「民兵」がハリ・シンの軍隊を制圧しに来ました.
 「民兵」と言っても,正規軍の軍人が軍服を脱いでやって来たのですから,ハリ・シンの軍隊は直ぐに負けてしまいました.
 10月には更にハリ・シン自体の地位も危うくなってきます.
 そこで,10月25日ハリ・シンはインドに対して自国の併合と支援を要請しました.

 当時未だインド国内にいたインド総督マウントバッテンとネルー首相は,即座にインド正規軍を航空機でスリナガル空港に送り込みます.
 他方で,パキスタンの「民兵」はハリ・シンの軍隊制圧後,中々前進せず,スリナガルを占領しなかったのが失敗でした.
 因みに,インドもパキスタンも当時,その司令官や参謀など上級将校には,自国人が養成出来なかったお陰で,英国人が任に就いていました.
 そして,インドとパキスタンの司令官の間で色々裏取引があり,パキスタン正規軍の投入が阻止された訳です.

 結局,パキスタン「民兵」とインド正規軍の戦闘により,スリナガルは陥落せず,「実効支配腺」という線で両国に分断された訳です.

 当時,藩王国を巡っては色々とやりとりがありました.
 ハイデラバード藩王国は,イスラームのマワブがいるのに,住民の大多数がヒンドゥーだったので,インドが力ずくでインド領にしてしまいましたし,他の地域でも同様のケースが多く発生しました.
 パキスタンにすれば,インドがやっていることを俺たちがやって何が悪いと言う訳だったのでしょう.

 余談ですが,インドと言うのは憲法などの建前上は,ヒンドゥーの国ではなく,「色んな宗教の人,いらっしゃ〜い」だったりするので,イスラームでもどうぞいらっしゃいませと言う訳で,マワブの国を併合しても理屈上,構わないのです.
 一方のパキスタンの場合は,イスラームの国と言う建前ですので,イスラームが多数派を形成しなければならないと言う論理になってしまい,インドに比べると不利な条件となってしまいます.
 インドはヒンドゥーの国,パキスタンをイスラームの国と捉えると,結構ズレが生じることになるので要注意です.

 こうして,1947年10月からインド正規軍のカシミールへの派兵が開始され,増強の結果,その制圧地域がどんどんとパキスタン領内に近付いていきます.
 これに対し,1948年5月,パキスタン正規軍が動員され,両国は戦端を開き,第1次印パ戦争が始まるのですが,実際には1947年10月の時点から紛争は開始されていました.
 ただ,その時軍部内にいた英国人の存在がパキスタンでは大変悔やまれているそうです.

 休戦は1949年1月で,国連調停によって支配線が休戦ラインとなりました.
 ただ,支配線は途中で切れています.
 そのまま直線で続けてカラコルム峠とかにまで引くと,インド人は怒るそうです.
 インドの主張するのは,シアチェン氷河に沿っての線だそうで,色々論争があるので,未だにこの問題は決着していません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/05 22:03


 【質問】
 インダス川の水資源を巡り,どんな争いがあるのか?

 【回答】
 この川の水を巡る争いは,カシミール問題の後景に退く形となってきた.
 1948年の最初の軍事衝突の後,印パ両国はインダス川を巡る対立に関しては,総じて平和的手段による解決を図ってきた.
 しかし,このところ両国関係は緊張の度を高めており,水資源問題が衝突の発火点となる真の危険が現れている.

 1947年8月15日のインドとパキスタンの分離独立は,インダス川流域に大混乱をもたらした.
 対立する2つの独立国家に分たれたばかりか,イギリスが残した運河システム――地域経済の根幹だった――も分断されたからだ.
 インダス川流域の分割という任務を命じられたシリル・ラドクリフは,運河と灌漑農地の大半をパキスタンに与えた.
 しかし,パンジナード川に合流する5河川の源流とインダス川上流は,インド領内に置かれた.
 これにより,インドが「上流」国という複雑な状況が生まれたのである.

 1960年8月,世界銀行の調停により,インダス川水利協定が調印された.
 これはインダス川水系を2分割するもので,インド側が総取水量を減らす代わり,主要支川の管理権を維持する形となっている.
 同協定は,多くの専門家から水資源紛争の平和的解決のモデルと見なされている.
 しかしながら,この協定がインダス川の共同開発にまで踏み込めず,また,インドとパキスタンの水資源紛争の根幹も除去できなかったことは,留意されるべきだ.

 現時点で印パ間の最大の不安定要因は,カシミールの帰属問題だ.
 カシミール紛争の政治的・軍事的側面は良く知られている.
 しかし現実にはもう一つ,インダス川流域における水資源政策も絡んでいる.
 インダス川そのものがカシミールを経て中国からパキスタンに流下し,さらに主用支川のジェルム川,チェナブ川,ラビ川もカシミールに源を発している.
 つまりインドにとって,カシミールを手放すことは,インダス川上流国としての地位を失い,したがって水利に関する決定権の多くも失うことを意味する.

 これまでのところ,インドもパキスタンも多収量品種の導入による「緑の革命」で,インダス川流域における食糧生産を大きく増やしている.
 しかし,こうした状況が永続すると見ることはできない.
 パンジャブ,ラジャスタンなどインドの穀倉地帯では,地下水枯渇による水不足が起きつつあり,インダス川水系への依存度が高まっている.
 既にインドはアンドラプラデシュ州,カルナタカ州,マハラシュトラ州,タミルナド州で地下水を汲み上げすぎており,また,パンジャブ州などで灌漑農地の土壌塩分濃度も上がり始めている.
 さらに,多くの専門家が「緑の革命」は既に限界に達し,さらなる穀物増産は見込めないとしている.
 しかも,地球温暖化に伴う気候変動で,一分の地域は旱魃に,他の地域は洪水に見舞われ易くなると見られる.
 人口増加が現在のペースで続けば,インド政府がパキスタンとの協定違反あるいは破棄に及ぶ事態もありうる.

 詳しくは,Michael T. Klare著「世界資源戦争」(廣済堂出版,2002/1/7),P.264-273を参照されたし.
 なお,M. T. Klareは「平和と世界安全保障に関する5大学研究プログラム」理事.

▼ また,メールマガジン[ 日刊アジアの開発問題 No.268 2008/02/11] によれば,国内ではエネルギー危機を抱えるパキスタンは,ニールムジェルム水力発電プロジェクト(969MW)を巡るインド側との話し合いがつかず,着工決定から8年後の2008年に至って着工宣言を強行するに至ったという.
 インドが反対している理由は,係争中のカシミールに近接しているせいで,インダス条約との関係が微妙なため.
 また,インドはインドでその上流に,キシャガンガという分水を伴う水力プロジェクトを計画しているという.

 ちなみにニールムジェルム・プロジェクトの工事資金22億ドルは,インドとの紛争が理由で,ADB(アジア開発銀行)との交渉が中断しており,パキスタンは中国の援助を当てにしている模様.

 詳しくは同メール・マガジンを参照されたし.▲

 さらに印パは,バギリハール・ダムを巡っても揉めている.
 インダス川上流,シェナブ川に,インドによって建設中のバギリハール・ダムは,下流国のパキスタンから強い抗議を受けている.
 これを解決するために2005/01/05,パキスタン政府は世界銀行に対して紛争の調停を依頼.
 依頼を受けた世界銀行は2005/05/10,スイスのエンジニア,ラフィッテを指名し,ラフィッテは2007/02/12,スイスのベルンで,インドとパキスタンの駐在大使に対して,報告書を手渡した.
 報告書の内容は非常に専門的であるが,パキスタンは,1950年のインダス川条約との関わりから,その法的側面を重視しており,逆にインドはダム技術の点からの側面を重視している,と述べており,問題は,ダムにゲートを付けるのかどうか,と言う点に絞られてきている模様.

 詳しくは,
「日刊アジアの開発問題」 No.366(2008/06/12)
および
Baglihar sets basis to resolve other disputes, says report

を参照されたし.

▼ 直接軍事には繋がらないが,いつ武力紛争に発展してもおかしくない地域においての紛争ゆえ,念のため収録しておく次第.
 もちろん杞憂に終われば,それに越したことはないんだがね.▲


 【質問】
 印パ核戦争防止策はあるのか?

 【回答】
 根本的な防止策はない.
 データ交換や偶発事故防止のためのホットライン設置など,コミュニケーションを高める程度の手段しかない.

 以下引用.

核使用を防ぐためにはミサイル開発を規制することが先決である.
グローバルな意味でミサイル軍備管理は米露間のINF合意しかなく,MTCRではミサイル・システムの軍備削減は期待できない.30
 しかし,インド・パキスタン間の弾道ミサイルの規制・削減は双方の不信感が根強く存在する限り,殆ど現実性がなく,期待できそうにない.
 インド・パキスタン間で中距離ミサイルの軍縮合意が成立することは理想であるが,それが実現できないような状況下では,双方のCBM(信頼醸成措置),特に,ミサイル開発・配備についてのデータ交換や偶発的事故防止のためのホットライン設置などしか手段はないであろう.
 インド・パキスタンがミサイル発射を早期に探知する警戒関しシステムを開発したとしても,距離が近すぎて効果的に機能するとは思われない.31
(30) Strobe Talbott, "Dealing with the Bomb in South Asia," Foreign Affairs, March/April 1999, pp.110-123.
(31) David J. Karl, "Lessons for proliferation Scholarship in South Asia : The Nuddha Smiles Again," Asian Survey, Vol.XLI, no.6, Nobember/December 2001, pp.1002-1022.

森本敏 in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.211

 「核戦争が起こる危険性が最も高い地域」と言われる所以である.
(もっとも,イスラエルのほかに,中東のどこかの国があと1カ国,核兵器を持てば,そちらのほうが危険度ナンバーワンになるだろうが)


 【質問】
 印パ紛争は,日本にどんな打撃を与えるだろうか?

 【回答】
 日本のみならず世界が相当の影響を受ける.
 日本の場合,邦人救出を考えねばならないし,中東と日本を結ぶ航路も危険に晒されるだろう.
 核兵器拡散も引き続き警戒する必要がある.

 以下引用.

 インドを含む南アジア地域で大規模な紛争が生じた場合,それによって日本や世界の被る影響は相当なものとなるおそれはある.
 中東戦争が起こり,石油の生産・輸送が阻害されたときのインパクトには比べられないにしても,無視できない程度の影響は覚悟しておくべきだろう.
 卑近な例で言えば,インドやパキスタンに在住して経済活動などに従事している邦人(在留邦人はインドの場合1959人,パキスタンの場合810人,いずれも2000年10月現在の数字)の安危が問題となることは,2002年5月に印パ間の戦争(場合によっては核兵器の使用があるかもしれない戦争)の勃発が懸念されたときに,邦人送還・救出のための準備が十分に整っているのかという問題に日本政府が直面したことを想起すれば明らかである.
 〔略〕

 9.11以後に米国の国防省が発表した『4年ごとの国防見直し』では,「東アジア沿海地帯」(East Asian littoral)という新しい言葉が使われている.6
 これは,日本海からオーストラリアを経てベンガル湾まで伸びる帯状の地域を指すとされているが,国防報告書がこの地域を特記しているのは,インド洋からマラッカ海峡(またはロンボク海峡)を経て南シナ海に入り,台湾海峡を通って日本近海へと至る航路とその沿岸地帯の持つ戦略的価値に着目してのことであろう.
 この一帯は,国内的にも国際的にも数々の不安定な要素を抱えている敏感な部分でありながら(あるいはそれゆえに),恒久的な米軍の存在が困難な地域である.
 上の「拡大された近東」をこれに関連させてみれば,「拡大された近東」(インド亜大陸を含む)と北東アジア(日本を含む)とを繋ぐ帯状の地域が,この「東アジア沿海地帯」だということになる.
 言いかえれば,中東の石油への依存度が極めて高い日本としては,「拡大された近東」の東端にあり,「東アジア沿海地帯」の西端に位置する南アジアの安定に多大の関心を抱く十分の理由があると言えよう.
 中東と日本とを繋ぐ航路の安全のためにも,南アジア地域の政情の安定が望ましい.

 〔略〕

 最後に,核兵器の拡散の問題がある.
 〔略〕
 特にパキスタンの場合,核兵器およびミサイルの開発に関して朝鮮民主主義人民共和国との繋がりに強い疑惑が持たれているだけに,日本の関心事たらざるを得ない.8
(6) U.S. Department of Defence, Quadrennial Defence Review Report, September 30, 2001.
 その他はヨーロッパ,北東アジア,中東,南西アジアという普通の地域概念を使っている.
(8) CIAの2002年6月の報告によると,パキスタンは1987年にミサイル技術と交換に,北韓に対して高速遠心分離機ならびにウラン型核兵器の実験・製造のノウハウを渡した.Seyymour Hersh, "The Cold Test," The New Yorker, January 27, 2003.
 最近,ムシャラフ・パキスタン大統領は,今後,北朝鮮へ核関連技術を移転しないと米国政府に約束したが,それは,既往は合えて問わないという米国側の態度への期待からとみてよい.

渡邉昭夫 in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.

 その割には,この地域への日本の安全保障上の関心は薄く,あってもせいぜい「自衛隊のインド洋派遣はんたーい!」レベルであるのが悲しいところ.


 【質問】
 印パ両国間に緊張緩和の兆しはあるか?

 【回答】
 民間レベルでは,そうした動きが出てきた.

 遠藤義雄によれば,「政府間の硬直した対立が消えないことに業を煮やして,知識層を中心に,民間レベルで関係改善の動きが活発になってきた」という.
「これは特に98年の核実験後に顕著になってきている.
 2001年7月,印パ国境の町,ワガーに両国から4万の人が集まり,平和を祈る蝋燭を立てた.
 かつては数千人のレベルだった.
 まだ小さな動きだが,世界は注目すべきだろう」

 詳しくは,「ポスト・タリバン」(中公新書,2001/12/20),P.124を参照されたし.


 【質問】
 コシ川問題とは?

 【回答】
 インドとネパールの間の河川管理問題.
 Koshi 川は,インドの Bihar 州で Ganges 川に流れ込むが,上流は流域面積69,300平方kmで,上流 Everest から発する中国領内は,29,400平方km,ネパール内は30,700平方km,インド領内は,9,200平方kmである.
 ネパール側はコシ川条約は不平等条約であると主張,インド側は条約には何も問題はないと主張している.

 2008年8月18日の大洪水では,ネパール領内の Kusaha で堤防が決壊し,インドの Bihar 州も含め,2.7 million の人々が被災.
 インド空軍が,ネパール領内に入って,救助活動を行った.
 中でも,とり残された地域の150人が,一挙に濁流に呑み込まれたことから,ネパール世論は沸き立った模様.

 詳しくは
Indian minister says no to Koshi treaty review
および,
【日刊 アジアのエネルギー最前線】,2008/9/15付
を参照されたし.


◆ネパール


 【質問】
 現在のネパール王家の起源は?

 【回答】
 1769年.ヴィシュヌ神の化身と謳われたナラヤン・シャーによって,ヒンズー教を国是とするシャー王朝が樹立された.
 以下引用.

 1769年に,ネパールに現在まで続くヒンズー教を国教とするシャー王朝が樹立されます.
 初代の国王(Prithvi Narayan Shah)はヴィシュヌ神(Lord Vishnu)の化身と謳われました.
 爾来,ネパールはヒンズー教の上級カーストの支配するところとなり,彼らは古からの様々な特権を自分達のために制度化し,維持してきました.
 例えば,月経中の女性を牛小屋に閉じこめるという慣習が違法となったのは,つい昨年のことです.

太田述正コラム#1209(2006.4.30)


 【質問】
 ネパールで一党独裁体制が構築されたのは,いつのことか?

 【回答】
 1960年代初め.

 1960年代の初めに,現在の国王の父親のマヘンドラ(Mahendra)によって,一党独裁の体制(Panchayatregime)が構築され,それが約30年続きました.

太田述正コラム#1209(2006.4.30)


 【質問】
 ネパールはなぜ親中化したか?

 【回答】
 親中派と見られるギャネンドラ王子が国王即位したため.

・ネパール内政の経緯概略
 1990年:ビレンドラ国王,複数政党制の復活を約束.主権在民を定めた新 憲法を発布
 1991年:32年ぶりの政党参加による総選挙で,ネパール会議派(NCP) が過半数獲得
 1994年:総選挙で統一共産党(UML)勝利.初の共産党政権誕生.
 1995年:下院の不信任決議で共産党政権崩壊
 1996年:UMLから分かれた共産党毛沢東主義派が武装闘争を開始
 2001年6月:カトマンズ王宮でディペンドラ皇太子がビレンドラ国王ら王 族11名を殺害.自らも自決する.王弟のギャネンドラ王子が即位
 2002年10月:ギャネンドラ国王,デウバ首相を解任し,一時直接統治を 実施.
 2004年5月:4月からの内政混乱を受け,タパ首相辞任.
 2004年6月:国王,デウバ民主党党首を首相に再任.
 2005年2月:ギャネンドラ国王,デウバ首相を解任.非常事態を宣言.

 この非常事態宣言に対し,1月31日,米国務省のバウチャー報道官は「民主主義からの明 白な後退.深く懸念している」と発言.
 また,2月1日にインド政府は,「重大な関心を持っている」と表明し,2日 には外務次官が,ネパールでの非常事態宣言に抗議するとの名目で,出席予定 であった南アジア地域協力連合(SAARC)首脳会談への参加拒否を表明.
 地域大国インドの出席なしでは首脳会談は開催できず,問題になっている.

 ちなみに非常事態発令直前の1月21日,ネパール政府は,ダライラマ14 世の事務所に対し閉鎖を要求.中国からの圧力による.
 ネパール国内では最近,中国の支援でカトマンズ市内にテレビ局庁舎ができている.

 ネパール,ミャンマーへの中国勢力侵入は,インドと中国の関係悪化をもたら し,印パ軍事バランスの崩れを生みます. こうなると,パキスタンは軍拡に走るでしょう.

(おきらく軍事研究会, 2005/2/7)


 【質問】
 毛沢東派ゲリラが活動を開始したのは,いつからか?

 【回答】
 1990年代半ばから.
 政治改革の失敗に起因するという.

 以下引用.

 1990年に民主化をもとめる暴動が起き,数百人の人々が命を落とし,マヘンドラの息子のビレンドラ(Birendra)が新国王となり,立憲君主制がネパールに導入されます.
 しかし,せっかく政治改革がなされたというのに,ネパールの政治家は無能で腐敗しており,しかも抗争に明け暮れたため,人々の生活は少しも楽になりませんでした.

 こうした中,1990年代半ばからは自称毛沢東派ゲリラが武装闘争を始め,やがてこのゲリラは田舎を中心に,ネパールの田舎の80%を支配するに至ります.これまでにこのゲリラによって13,000人もの犠牲者が出ています.

太田述正コラム#1209(2006.4.30)


 【質問】
 ネパール内戦の概況は?

 【回答】
 マオイストの勢力が拡大しつつあり,ただでさえ厳しいネパール経済,特に観光収入に打撃を与えている.
 教育事情もインフラも悪化し,未来が見えない.
 以下引用.

 ただでさえ厳しいネパール経済をさらに混乱させているのが,反政府組織「マオイスト」(ネパール共産党毛沢東派)の存在である.
 マオイストが武装闘争を開始したのは1996年のこと.
 それ以来,マオイストは軍や警察関係の施設を襲撃したり,幹線道路を封鎖したり,電話交換施設やダムといったインフラに対する破壊活動を行っている.
 新聞の一面には連日,
「マオイストと政府軍との戦闘で○人が死亡」
という見出しが踊る.
 これまでの戦闘によって双方に7千人以上の死者が出ているということだから,これはもう,「反政府テロリストと政府の戦い」というよりは「内戦」に近い状態であると言ってもいいのかもしれない.

 〔略〕

 彼ら〔マオイスト〕の主張の一部が正しいことは,僕にも理解できる.
 2001年に起こった国王暗殺事件とそれ以降の政治的混乱は,ネパール社会に大きなダメージを与えたし,不可解な経緯で王の座に着き,議会を解散させて独裁色を強めている現在の国王を,大多数の国民が支持していないというのも事実だ.
 そして,王政に対する民衆の不満を吸い上げる形で,マオイストは勢力を拡大しているのである.

 しかし,仮にマオイストが政権を握ったとしても,事態が好転する保証はどこにもない.むしろ,ネパール全土が更なる混乱に陥る可能性が高いのではないかと思う.
 そもそも共産主義というものが,ネパールという土地とその文化に根ざしたものではないのは明らかだ.
 ネパールは,多くの民族と宗教と言語が入り混じった多民族国家であり,中国のように漢民族という圧倒的多数が存在しているわけではない.
 山岳地域にある集落は,交通の便が悪いために孤立していて,自給自足の生活を送っている.
 そこではいまだにカーストをベースとした村落共同体が,大きな力を持っている.
 そのような土地に中央集権的な政治体制を持ち込んでみても,空回りに終わるのは目に見えている.

 〔略〕

 マオイストと政府軍との戦いが今後,どのように決着するのかは分からない.
 しかし,マオイストが単なる少数のテロリストではなく,山岳部を広範囲に渡って勢力下に収めている武装ゲリラである以上,この混乱が当面は続くのではないかと思われる.

 一つはっきりしているのは,争いが長引けば長引くほどネパール経済が停滞すると言うことだ.
 これといった輸出品のないネパールにとっては,観光収入は重要な外貨獲得源なのだが,
「テロリストが跋扈する危険な国」
というマイナス・イメージによって,外国人観光客の数は,2年前の約半分にまで激減しているのだ.
 都市部では大規模なゼネストも頻発していて,それが経済混乱に拍車をかけている.
 また,地方の村々では,道路や電力といった政府主導のインフラの普及が,マオイストの妨害を理由にストップしている.
 マオイストは,
「農村と都市との貧富の差の解消」
を謳い文句に台頭してきたのだが,皮肉なことに彼らの存在自体が,貧富の差を拡大する原因になっているのだ.

 教育事情も悪化している.
 マオイストは,金持ちしか通えない私立学校の存在を敵視していて,地方にあるハイスクールを次々と閉鎖に追い込んでいるのだ.
 そのようなマオイスト支配に嫌気が差して,田舎から首都カトマンズに逃げ出す人も続出している.
「ネパールにとって,今はとても暗い時代です」と,医者のヤンバハドゥールは悲しそうに言った.「ラジオや新聞は,マオイストと政府軍がお互いを何人殺し合ったかというニュースばかりです.
 分厚い雲によってエベレストの頂(いただき)が隠されてしまうように,今の私達には未来が見えないんです」

(三井昌志著「素顔のアジア」,ソフトバンク・クリエイティヴ,
2005/10/15,p.120-129)

 ネパールの毛沢東主義武装集団,マオイストと云えば,政府関係機関と一緒にコカコーラの現地工場を焼き討ちしてしまったことで有名ですが,そのマオイストとネパールの現状をレポートしたBSドキュメンタリー 『混迷する王国〜ネパール・浸透する共産主義〜』番組では……

 国王打倒を旗印に1996年,弓と槍,2丁の銃で武装闘争を開始したマオイストは,政府の支配の及ばない地域で勢力を伸ばし,ネパールの7割の地域をその支配下に置くに至っています.
 支配地域では,農業指導,識字率の向上を目指しての学校建設,カースト制,性別による差別の廃止を行い,ソ連や中国とは違う 『新しい共産主義国家』 を目指しています.
 その一方で,要求に従わない住民への暴行や,長時間の苦痛を与える遣り方で人を殺したりと,恐怖による支配をちゃんと行っていますがね.

 2001年,民主的で国民からの指示も厚かった前国王が王宮で暗殺され,代わって王座に就いた前国王の弟,ギャネンドラ国王は独裁色を強め,議会を停止し,国軍を掌握. 2005年には直接統治を始めました.
 デモやゼネストを規制するため,外出禁止令や集会の禁止令を出した結果,国民は不満を募らせ,停止された議会の政党勢力はマオイストの支援をうけ,2006年4月,国王独裁への抵抗運動を行いました.
 この結果,国王は直接統治を破棄し,議会は4年ぶりに召集され,マオイストもこの議会に参加することになりましたが……

 王政の廃止を主張するマオイストと,国家の象徴として国王を残したい政党勢力.
 マオイストのゲリラ軍を国軍に組み込みたいマオイストと,その武装解除を希望する政党勢力.
 両者の隔たりは大きく,国連を間に挟み,水面下で政府とマオイストの交渉が続けられているそうですが,マオイストが宣言した停戦期限は10月26日に切れるそうです……


 インタビューを受けていた住民が,
「ここに来たなら,政府でも,マオイストでも支持するよ.殺されるのは嫌だから」
と云っていたのが印象的な,やるせない番組でした.

 こんな番組,どっかで見たような……
 ああ 『ペルー テロとの戦い』 か.

ベタ藤原 in mixi,2006年09月05日21:44


 【質問】
 ネパールのマオイストの勢力は?

 【回答】
 農村をほぼ実効支配しているようであるが,しかし,それは「どちらかと言えば,政府よりもマオイストの影響力が強い」という程度のものである.

 政府はカトマンズやゴルカといった都市を掌握しているに過ぎず,ネパールの農村を掌握しているのはマオイストなのだ,と彼〔バサンタという名のマオイスト兵〕は続けた.人民の9割は我々の味方であり,百万人の戦闘員と2百万人の非戦闘員を抱えているのだとも言った.
(しかし,ネパールの人口が2700万だという事を考えると,その数字は誇張し過ぎと言わざるを得ない.
 実際には戦闘員は2万,非戦闘員を含めると4万人程度だろうというのが一般的な見方である).

 〔略〕

 バサンタは「アワ・エリア」という言葉を頻繁に使った.我々の土地.それは,マオイストが農村を掌握しているという自負が窺える言葉だった.
 確かにこの地域では,マオイストの影響力を誇示する赤旗を目にすることが多いし,建物の壁などにはマオイストの主張が赤ペンキで大きく書かれていたりもする.
 バサンタ達が堂々と村を歩けるのも,外国人と道端でリラックスして話ができるのも,この村に政府軍の力が及んでいないことの表れである.「見つかれば殺される」という,お尋ね者の緊張感は彼らにはない.

 確かに今,農村を実効支配しているのはマオイストかもしれないが,それは「どちらかと言えば,政府よりもマオイストの影響力が強い」という程度のものである.
 村人達が積極的にマオイストを支配しているわけではない.
 結局のところ,この土地はマオイストが言うところの「我々の土地」などではなく,今も昔も自給自足的に暮らしている農村のものなのだ.

 〔略〕

「マオイスト達のやり方に賛成の者は,殆どいませんよ」
 医者として山村の医療センターに赴任してきた,ヤンバハドゥールという青年は僕に言った.
「でも村人は,彼らが武器を持っているから何も言えないんです.
 彼らは時々村を見回りにやってきます.そして一方的に,自分達が行っている革命の話をするんです.
 村人の家で食事をしていくこともあるし,金品の寄付を求めてくることもあります.
 もちろんそれを断ることはできません.
 マオイストが現れてから何日か後に,政府の軍隊がやってくることもあります.
 そんなとき,彼らは
『どうしてマオイストに金を渡したりするんだ』と村人を問い詰めるんです.そして,『以後マオイストに味方すると,痛い目に遭うぞ』と脅すんです.
 板挟みですよ.僕らはどちらの味方でもないし,どちらにも反対しません.それが生き延びるための方法なんですよ」

 〔略〕

カトマンズの大学で学んでいたという〔,ハイスクールの科学教師〕リンブーさんは,
「マオイスト達の言う『人民全員が同じ生活を送る』なんて,ただの夢物語に過ぎないよ」と言いきった.「確かにスイート・ドリームだけどね.しかし実現するわけがない.
 全ての人間は違う考えを持っているし,望むものもそれぞれに違う.宗教も文化も違う.
 それを一つに纏めるなんて絶対に不可能だ.
 私の見るところ,マオイストを支えているのは嫉妬だよ.金持ちに対する嫉妬心や,権力を持っている者に対する嫉妬心だ.
 マオイストも政府もただ権力を手にしたいだけなんだ.そういう意味ではどちらだって同じようなものさ」

(三井昌志著「素顔のアジア」,ソフトバンク・クリエイティヴ,
2005/10/15,p.122-125)

▼ その後,総選挙を経て最大与党となったのは,各種報道にも見られる通り.▲

マオイスト
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ネパールのマオイスト(毛沢東派)ゲリラは中国寄り?

 【回答】
 ネパールの毛派は中国共産党というよりは,センデロ・ルミノソとかの南米系共産ゲリラに強い影響を受けていて,中国からは「毛派を騙るニセモノ」「共産主義者の面汚し」とか言われててむちゃくちゃ嫌われてる.
 だから中国は国王のほうを援助していたんだけど,国王がアレな人でぜんぜん国民人気が無かった.
 先王陛下が御存命なら,ここまで事態は悪化しなかったかもしれない.

 なお,毛派はどこにも援助を受けていない(援助してもらえなかった)ので,自給自足で頑張っていた様子.

ニュース極東板

▼ ネパールのマオイズムは北インドのマオイストから始まりました.
 もともと,このインドのマオイスト達に軍事訓練をしたのは中国だ,というのは定説ですが,これはもう20年も前のことで,北京的には
「ネパールのマオイストは古い思想である」
というようなコメントを以前に出してます.
 5年ぐらい前かな?

ばな猫@SAVE TIBET in mixi,2008年04月06日 01:29


 【質問】
 今日のネパールの危機的状況は,どこに起因するのか?

 【回答】
 ギャネンドラ国王の強圧的独裁により,かえって事態が悪化したため.
 加えて,国王の,ヒンズー教に反する暴挙とされる事件により,民心も離反したという.
 以下引用.

 2001年,悲劇がネパールを襲います.
 ビエンドラ国王の息子が,酔っぱらって,国王一家の団らんの場で小銃を乱射し,一家の大部分(国王・王妃・ほか7名)を射殺してしまうのです.
 この結果,不人気であったビエンドラの弟ギャネンドラ(Gyanendra)が即位します.
 ギャネンドラの息子がそれに輪をかけて人気がなかったこともあり,ネパール王国の行く手には暗雲が立ちこめます.
 即位したギャネンドラは,毛沢東派ゲリラ退治に全力を傾注し,2002年には議会を解散し,首相を馘首します.
 政治家達に愛想を尽かしていたネパールの人々は喝采を送り,不人気だったビエンドラ人気は浮上します.
 米国は小銃2万丁,インドも小銃2万丁,英国はヘリコプターを100機提供するとともに,資金援助も行い,ギャネンドラを支援します.

 しかし,ネパールの2,800万人の人々の半数は依然,電気も水道も,医療も教育もない生活を余儀なくされています.

 ところが,2005年2月にはギャネンドラは絶対的権力を掌握し,直接統治に乗り出し,あらゆる反対意見の封殺を図り,逮捕・拘禁・行方不明者・死者の数は鰻登りに増えることになります.
 この10年間で,ネパールの治安部隊によって殺害された人々の数は,毛沢東派ゲリラによって殺害された数を上回る,という説もあります.
 急速にギャネンドラから離れたネパールの世論を背景に,主要7政党は団結して反ギャネンドラ運動を開始し,昨年11月には毛沢東派ゲリラとの間で合意を取り結び,ゲリラは武器を放棄する代わりに国王から実権を剥奪するか王制を廃止する憲法改正を行うとの条件の下で議会議員選挙に参加することを約束しました.
 そしてこの主要7政党は,毛沢東派ゲリラと提携しつつ,今年4月6日からゼネストに突入するとともに,首都カトマンズ(Kathmandu)を中心に,大規模デモを開始したのです.

 ギャネンドラの過ちは,このデモを強権的に弾圧しようとしたことです.
 この結果,21日に15人の死者と数百人の負傷者が出てしまいました.
 とりわけ致命的だったのは,警察の銃撃によって死亡したこのうちの1人の庶民の亡骸を,警察が国王の命で,彼の家族に告げることなく火葬にしてしまったことです.
 これはヒンズー教の精神にもとる蛮行であり,この瞬間,まだかすかに残っていた,ギャネンドラのヒンズー国王としての神聖さに対するネパールの人々の敬意は,完全に消え失せ,これを契機に,平和的であったデモは,暴動に転化してしまうのです.
 もはや警察,そして後に控えさせていた軍にも全幅の信頼を抱けなくなったギャネンドラは,4月24日,ついに7政党の要求に屈し,4年近く開かれなかった議会の28日招集を発表するのです.

 しかし,これを受けて,ゼネストもストもほぼ終わり,毛沢東派ゲリラまで,3ヶ月間の休戦を宣言したとはいえ,7政党が新しい首相に選んだのは84歳の,首相歴が何回もある長老議員(最大の政党たるネパール国民会議派党首)のコイララ(G.P.Koirala)であり,政治家達が,心を入れ替えて,まともに政治を行うのか,特に毛沢東派ゲリラをなだめすかして彼らを政治プロセスに引き入れることができるかどうか,心許ない限りです.

太田述正コラム#1209(2006.4.30)


 【質問】
 中国はネパールに軍事支援を行っているのか?

 【回答】
 中国の軍事支援は,2005年になってからのもので,インドのネパールに対する支援凍結の間隙をついたものだという.
 以下引用.

中国,ネパールに軍事支援 主導権めぐりインド牽制

 【北京=野口東秀】中国がチベット自治区に接するネパールへの軍事支援に乗り出していることがわかった.西側軍事筋が明らかにした.
 今年二月,ネパール国王の強権発動にインドが反発,武器供与を見合わせた間隙(かんげき)をついた形だ.
 軍事支援の背景には,周辺地域での主導権をめぐり争うインドを牽制(けんせい)し,チベット亡命政府のネパールでの影響力を薄める狙いがあるとみられる.
 中国はネパール国王の強権発動後,装甲車五台や自動小銃を提供したほか,ネパールに対し航空機を含めた約千二百四十万ドルの経済援助の供与で合意した.
「援助の使い道はネパールが決めるもので,事実上,軍事的意味がある」(専門家)
とされる.
 さらに十月下旬には,ネパールのタパ陸軍司令官が訪中,中国から約百万ドルの武器支援の約束を取り付けたという.
 中国のネパールに対する軍事支援は,ギャネンドラ国王が今年二月,首相と全閣僚を解任し,政治家や民主化運動家の拘束や報道管制措置をとったことで,米国やインドなどが制裁的意味を込めて軍事援助を停止した情勢を踏まえたものだ.
 米国は主要な援助のライフル銃三千五百丁の提供を中断,ネパール軍・警察にヘリコプターや機関銃などの支援を続けてきたインドも提供を一時凍結.
 その間隙をつく中国の手法を,「インドは深刻に受け止めている」(同筋)という.
 中国にとりチベット自治区とインド双方に隣接するネパールとの関係強化は,ネパールを自国の影響下にとらえるインドへの牽制となる.
 中国とインドは経済関係で連携を深めながらも,周辺地域での主導権をめぐりつばぜり合いを演じているのが実情だ.
 中国は今月中旬に開かれる東アジア首脳会議で協議される「東アジア共同体」へのインドの参加を渋っているほか,インドとカシミール地方の領有権をめぐり対立するパキスタンには相変わらず軍事支援を続けている.
 ネパールには約三万人のチベット難民がいるとされるが,中国には,ネパールへの発言力を高め,チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマの影響力をそぐ狙いもあるようだ.
 ネパールが“中国カード”を使ってインドを牽制したとの見方もあり,中国とネパールの思惑が一致した側面もあるようだ.

産経新聞,2005/12/5

 これに対し,20日のAFPによれば,インドはオアキスタンと中共によるネパールへの軍事協 力に懸念を示しています.Mukherjee国防相が述べたものです.
 同国防相は,両国のネパールへの軍事援助は,反政府武装勢力「ネパール共産党毛沢東主義派」と政府軍との戦闘を拡大させる可能性があり,「問題が大きい」 としています.
 なお,この見解は,ネパールに対する中共とパキスタンの軍事援助に関してインドが出した初めての公式見解とみられています.

 インド政府は外交レベルでこの問題を収拾しようとしているようです.
 専門家は,英国・米国とインドがネパールへの武器供与を一時停止している今 の間に,中共とパキスタンのネパールに対する影響力がインドをしのぐ事態を,インド政府は警戒しているのだ,と指摘しています.

 先月,ネパール紙は,中共が,ネパールに兵器や弾薬を運搬するための道路を急ピッチで造っていると報じています.
 また今月初めには,ネパール陸軍司令官の Pyar Jung Thapa将軍がパキスタンを訪問し,ネパール軍の訓練をパキスタン が行うことで合意したといわれています.
 ギャネンドラ国王による絶対王制のもと,ネパールの政治・軍事に対するパキ スタンと中共の浸透は,一掃たやすいものになっているようです.

(おきらく軍事研究会)


 【質問】
 ネパールの君主制廃止について教えてください.

 【回答】
 2007/12/28行なわれたネパール暫定議会は,立憲君主制を廃止し,共和制を選ぶ議案を可決しました.
 1769年から君主としてネパールを統治してきたシャー(グルカ)王朝が,これで消滅します.
 あわせて議会は「連邦民主共和国」宣言を,暫定憲法に明記して修正しています.

 来年4月半ばまでに行なわれる予定の選挙を経て行なわれる制憲議会の初会合で,これらの議決は発効しますが,シタウラ内相は「制憲議会に君主制復活の権限はない」と明言したそうです.

おきらく軍事研究会,平成19年(2007年)12月31日


 【質問】
 中国とネパールの関係強化について教えてください.

 【回答】
 シナ国防相の曹剛川上将は八日,シナを訪問したネパール軍参謀総長のカタワル将軍と会見し,軍事を含めた両国関係深化で合意しました.
 「相互友好関係」という言葉が使われており,曹上将は,「健康的で円滑な五つの原則に基く平和的共存関係を今後長く続けてゆく」と述べています.

⇒ これは事実上の降伏であり,朝貢といっても差し支えないですね.
 先日憲法で王制を捨てたネパールは,事実上のシナの植民地となったようですね.
 今後シナ人の「合法的な」入植も進んでゆくことでしょう.

 ちなみに同参謀総長は十日にシナ軍総参謀長・陳炳徳上将とも会談しています.
 ここには情報のプロで総参謀長助理(補佐)の陳小工少将と,北京軍区司令員の房峰輝中将が同席しています.

 国家関係をスタートさせるまず最初は軍事対話から,と言われていますが,こういう現実を見るとそれがまざまざと理解できます.
 国家主権を担保するのは軍事力です.

おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)1月14日


 【質問】
 ネパールのマオイスト政権誕生について教えてください.

 【回答】
 約二百四十年にわたって存続した王制を廃止したネパールでは,四月の制憲議会選挙後,政治混乱が続いていました.その後2008/7/14までにネパール共産党毛沢東主義派が主導する政権が発足する見通しになりました.

 新設される大統領は19日にも選出され,早ければ来週にも政治的実権を持つ新首相が選ばれ,新内閣が誕生する予定でしたが,十九日のネパール国営テレビによると,当選に必要な過半数を得た候補はなく,21日にも再投票を行うことになったとのことです.

⇒ 大統領ポストは,5月の制憲議会で王制廃止と同時に設置が決まったものです.
 政治の実権は首相が持ち,大統領は軍最高司令官となります.
 王制廃止前後の流れは中共とマオイストが狙ったとおりの形で推移しています.
 一言で言えば,自ら混乱・騒乱を作って煽り,「事態を収拾できるのはマオイストしかいない」という状況を作り出す謀略です.

 わが国も,平和ボケに安住していると明日にも同様の状況が発生するでしょう.

おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)7月21日


 【質問】
 ネパールのマオイスト政権は何故倒れたのか?

 【回答】
 メール・マガジン【日刊 アジアのエネルギー最前線】2009/5/5付
および
「AFP」:ネパール毛派首相が辞任,参謀長解任めぐり政権崩壊
によれば,マオイスト軍隊約2万人の,円滑なネパール正規軍への編入が頓挫したためだという.
 マオイスト軍の武器はすべて金庫の中に納められたが,その金庫の鍵は,旧毛派の兵士が握っており,ネパール軍部はこのマオイストの完全武装解除が前提,との主張を譲らなかったという.
 マオイスト政権のプラチャンダ Prachanda (ポウスハ・カマル・ダハル Pushpa Kamal Dahal )首相は2万の自分の将兵を説得できず,結局,2009/5/3,カタワル Rookmangud Katawal 陸軍司令官を解任.
 これに対してネパール会議派に属するラム・バラン・ヤダブ Ram Baran Yadav 大統領が,同将軍に現職に留まるよう命じ,そのためプラチャンダ首相は5/4,辞任したという.

 上述メール・マガジンは,今後を次のように予言する.

――――――
プラチャンダーは,政権投げ出しと同時に,民衆を動員してのデモ活動に移る,と宣言しているが,マオイストの言うデモ活動とはゲリラ活動と直結したもので,まずカトマンズ道路の閉鎖が,彼等の得意な戦略である.
――――――

 再び戦乱の悪寒…….


 【質問】
 マオイスト Maoist によるダム建設妨害について教えられたし.

 【回答】
 2010年2月15日,重要なインドの投資プロジェクトである,ネパール西部ラムジュン Lamjung 地区の Upper Marsyangdi 水力(250MW)の調査が,マオイストの地方組織 Tamu Rastriya Mukti Morcha の妨害によって,中断された.
 マオイストに妨害され,中断した水力発電プロジェクトは,
GMRのアッパーカルナリ Upper Karnali 水力(300MW),
SJVN(Satluj Jal Vidyut Nigam)のアルン3 Arun III 水力(402MW),
ILFS( Infrastructure Leasing and Financial Services)のウエストセティ水力(750MW)
に続き,これで4件目.
 ネパール国内は日15時間にも及ぶ停電を余儀なくされている.

 【参考ページ】
http://my.reset.jp/adachihayao/index100217C.htm
http://bit.ly/bl25uX


◆スリランカ


 【質問】
 スリランカへの中国の進出ぶりは,どのようなものか?

 【回答】
 『フォーサイト』2008年8月号によれば,スリランカ南海岸の小さな港町ハンバントタで,中国輸出入銀行から十億ドルの融資を受けて港湾整備が開始されたり,スリランカ北部マナー地方で石油の掘削を始めたり,武器や軍事訓練の提供を申し出るなど,スリランカへの関与の度合いを強めているという.
 これに対し,インドは神経を尖らせており,ナラヤナン国家安全保障顧問の率いるインド政府代表団が突如スリランカを訪問したり,アフリカのモザンビークとマダガスカルに中国艦艇の動きを監視するための通信傍受施設を置いたり,中国と国境を接するカシミール地方に空軍基地を再開するなど,「中国包囲網」とも見える動きを活性化させているという.
 インドはすでに,中国の北のモンゴルに宇宙観測施設を,西北のカザフスタンには空軍基地を持っている.

 こうした各国の動きは,エネルギー輸送ルートとしてのインド洋の重要性に鑑みてのことであり,今後もスリランカをめぐる駆け引きは続くに違いない,と述べられている.

 詳しくは同誌を参照されたし.


 【質問】
 スリランカ紛争とは?

 【回答】
http://www.mirai-city.org/ithink/kokusai/indiahis.html
によれば,スリランカでは独立以来,多数民族のシンハラ人(仏教徒が多い)と少数民族のタミル人(ヒンディー教徒が多い)との対立が続いていたという.
 シンハラ人の政権がシンハラ唯一政策を掲げ,シンハラ語を公用語にしようとすると,タミル・イーラム解放の虎(LTTE)などのタミル人過激派との武力紛争が激化したという.

 事態を重く見たインド政府は,スリランカ政府と和平協定を結び,スリランカへインド平和維持軍を派遣したが,インド平和維持軍はLTTEと全面的な戦闘に突入し,1990年までにスリランカから撤退することになった,と述べられている.

 詳しくは同ページを参照されたし.


 【質問】
 スリランカ内戦が起こったのは何故か?

 【回答】
 シンハラ人ナショナリズムが過度に高揚したためだという.
 以下引用.

 シンハラ人社会内部の政治は,1950年代初めから競争が激しく,そして民主的になった.
 1956年にはスリランカ自由党(SLFP)が,特にシンハラ語を唯一の公用語にするよう呼びかけるなど,シンハラ人のナショナリズムに訴える綱領を掲げ,選挙で勝利を収めた.
 しかし,これがタミル人側の世論を急進化させたのも当然だった.
 SLFPの政策は,議会でのタミル人の抗議の他にも,タミル人を標的にした虐殺や,大衆の民族主義的な票を巡る,シンハラ人の2党間の競争を招いた.
 SLFPの党首,S.W.R.D.バンダラナイケがタミル人との対立を緩和しようとしたところ,自陣営の過激な民族主義者に暗殺された.
 その後,統一国民党も1965年の総選挙で勝利を収めて以来,タミル人との「暫定協定」を回復しようとしたものの,シンハラ人による暴動や抗議で諦めざるを得なかった.
 1976年にはタミル人の武装抵抗運動組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)が結成された.
 1980年代初頭までに,タミル人のテロ行為に対して,圧倒的にシンハラ人が多数を占めるスリランカ軍が,テロに匹敵するほどの残虐な方法で応じたため,ゲリラ戦が勃発し,1987年から93年までにスリランカ北東部だけで4万人が死亡した.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.284-285

 【質問】
 シンハラ人のナショナリズムが高まったのは何故か?

 【回答】
 シンハラ人の民族主義者にしてみれば,自分達はヒンドゥー教が支配的な地位を占めている地域で脅威に晒されている少数派だと見なしていたため.
 知識人・僧侶が,そのような見解を煽ったのだという.
 以下引用.
 インドあるいはビルマに比べ,セイロン(スリランカ)における脱植民地化は,遥かに平和的で秩序に則ったものだった.共同体間の暴力沙汰もなければ,僅かな分割の動きも,強烈な独立運動さえもなかった.
 セイロンは独立後,8年間に渡って統一国民党を支配したシンハラ人エリートによって運営され,島の北部に住むタミル人との間で「暫定協定」を結んだ.
 この時期,セイロン内部の人口構成は,タミル人2人に対し,シンハラ人は7人ほどで,タミル人の伝統的な中心地は,島の北部にあった.
 ヨーロッパがセイロンに到着するまで,セイロンには3つの王国があり,北の1つがタミル人の王国で,残り2つがシンハラ人の王国だった.
 最終的に島は1815年,イギリスによって統一された.

 独立に際し,タミル人がシンハラ人の支配を恐れたのも尤もだった.
 シンハラ人の中には,島が自分達のものであると改めて主張すべき時が来たと感じている者も多かった.
 シンハラ人はまた,イギリス人は,人口の割に不釣合いなほど多数のタミル人を政府の役職に登用し,さらにタミル人は中産階級の仕事や高等教育でも贔屓されていると信じていたが,これもあながち間違いではなかった.
 実際,1969年時点でも,タミル人は大学医学部の半数,工学部ではそれより若干少ない程度の学生を抱えていた.39
 19世紀以降,シンハラ人の仏教学者は一段と,島全体がシンハラ人だけのものであると強調するようになっていった.殆どのタミル人が数世紀に渡ってセイロンに住んできた事実があるにも関わらず,タミル人は「新参者」「入植者」等とレッテルを貼られたのだ.
 アイルランドからボヘミア,キプロス,フィジーに至るまで,これは民族主義的「知識人」にとって馴染み深いテーマであり,その中にはチェコスロバキア初代大統領,トマシュ・マサリクのように,教養があり,洞察力も高い人物もいた.40
 セイロンは,住民の大多数が上座部仏教に帰依するという独特な国であったが,僧侶達はシンハラ人の民族意識と分化,および上座部仏教徒その聖地であるセイロン全島が渾然一体になっていると強調した.
 例えタミル人がシンハラ人の支配を恐れていたとしても,シンハラ人の民族主義者にしてみれば,自分達はヒンドゥー教が支配的な地位を占めている地域で脅威に晒されている少数派だと見なしていたのだった.
 39 Ishtiaq Ahmed, State, Nation and Ethnicity, p.253は,1969年当時,タミル人がそれぞれ医学生の50%,工学部の学生の48.3%を占めていたと指摘している.
 1988年までに,植民地での雇用パターンは完全に逆転した.つまり,シンハラ人は人口の74%だったが,政府の役職の85%を独占した.
 本書でのスリランカに関する議論は,中でもアフマドの優れた著作に依拠している.
 40 トマシュ・マサリクも1918年にチェコスロバキアに帰還した際,ズデーテン地方のドイツ人は「移住者であり,入植者である」と述べた.Wiskemann, Czechs and Germans, p.123.ドイツ人はズデーテン地方に数世紀に渡って生活してきたにも関わらずである.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.283-284


 【質問】
 スリランカのイスラーム教徒が「民族浄化」に遭っている,というのは本当か?

 【回答】
 アルジャジーラによれば,それに近い状況だという.
 2006年,「スリランカ東部トリンコマリー県南方ムットルでの水路をめぐる争い」から政府軍とLTTEとの間で内戦が再燃しているが,
「その中で同衝突のあおりを受け,厳しい状況に投げ込まれているのが,ムットル地区に住むイスラム教徒約6万人だ」(2006年08月20日18時10分,アルジャジーラ
という.
「スリランカの非政府組織(NGO)「文化振興に向けたイスラム基金」のアブドル・ムジェーブさんは〔略〕
『イスラム教徒の難民たちは政府軍とLTTEとの交戦地帯を徒歩で避難している』」
と述べ,また,その避難の途中,LTTEによる襲撃や処刑を彼らは受けているという.

 ムットルを逃げ出してきたイスラム教徒の避難民たちは,政府軍およびLTTE支配地域を逃げてくる際の惨状を語る.
 14歳の少年フェドゥラさん(仮名)は
「LTTEは避難時の安全を保障すると言った.だから,ムットルを出て歩き始めた.その直後,LTTEがわれわれ避難民全員を広場に連れ出し,女性と男性を分けた.LTTEは若い男性を連れて行った.中には手を縛られた男性もいた.1人が逃亡を図り,足を撃たれた.LTTEはこの男性をわれわれの前に引き出し,射殺した」
と話した.
 この類の話はどこのキャンプにでもある.
 ムットルの大工,アブドラ・サラムさんは
「LTTEは『地雷が敷設されているので道路沿いには避難できない』と脅した上で,LTTE支配下の村づたいに行けば安全に避難できると言った.
 LTTEの村に入ったら,若者ばかりが連れて行かれ,二度と姿を見ることはなかった.
 何が起きたのかは分からないが,そこら中に死体が散乱していた.本当に恐ろしいことだ」
 とおびえながら話していた.

 主婦のサイルス・ウムメさんによると,
「覆面をした男たちが現れ,われわれの仲間の男性たちを連行して行った.LTTEはどうして,安全だとうそをつくのか」
と泣き崩れた.
 さらにフェドゥラさんは
「LTTEがわれわれに最後の望みは何かと聞いたので,祈りをしたいと告げた.
 その時に政府軍の砲撃を受け,LTTEメンバーは逃走し,われわれも走って逃げた.何人かは撃たれたが,ほとんどは逃げ切れた」
と,間一髪の危機を脱した際の状況を話した.

 LTTEがイスラム教徒避難民のうち若い男性をどこかに連れて行ってしまうという話は,あっという間にイスラム教徒たちに広がった.
 イスラム系人権組織のメンバー,マファズ・ニジャムさんは
「これは,イスラム教徒社会にあらかじめ的を絞った行為だ.
 今回の事態が起きる前,LTTEは『ここはタミル人の土地.イスラム教徒は出て行け』と言っていた.
 LTTEはイスラム教徒を追い出し,この土地を支配しようとしているのだ」
との見方を示した.

 政府軍とLTTEとの交戦地帯となっているトリンコマリー県にはイスラム教徒,ヒンドゥー教のタミル人そして仏教徒のシンハラ人が混在して住んでいる.
 国際赤十字社の関係者は,
「この地域はまさに民族・宗教のモザイク地区で,同時に政府とLTTEの支配区が入り組んでもいる.紛争の発火点にはこと欠かない.停戦は紙の上だけのこと」
と話す.

2006年08月20日18時10分,アルジャジーラ

 〔略〕
 児童を対象とするNGO「CCF」で働くマルク・ノスバックさんは
「〔略〕 逃げて来る途中で,LTTEの検問所で振るい落とされる人の話も聞きます」
と語った.
 こうした情報はキャンプにたどり着いた難民たちによって確認されている.ムッタルから逃げ出すには,難民たちは政府軍とLTTEの支配地域を通らねばならない.
 14歳のフェドゥラさんは,まだ交戦地域にいる家族たちが報復されるのを恐れて本名を隠しながら,
「LTTEは私たちに安全だと言いました.それでムッタルから農村を歩いて来ると,LTTEが私たちを空き地に連れて行き,男と女に分けたのです」
と話した.
 ハジーンさんが話を引き取って,
「それからLTTEは若い男たちを全員連れ去り,中には手を縛られた人もいました.逃げようとした男がいて,足を撃たれました.それから男を私たちの所へ引っ張って来て,目の前で撃ち殺したのです」
と語る.二人はムッタルのアラビア・カレッジ地区からずっと歩いてキャンプにたどり着いたのだ.
 同じような話がどんどん出てきた.
 アブドラー・サラムさんはムッタルの大工だが,
「LTTEはムッタルからの道路は地雷が埋まっているので使えないと言いました.自分たちが支配している村落を通っていく方が安全だと言うのです.
 しかし村に着いてみると,難民の列から,若い男ばかり数百人を引き出しました.
 それきり男たちを見ていません.
 何が起きたのかわかりませんが,こうした村の回りにでは,どこにも死体が転がっているので脅えました」
と話した.

 ムッタルからペアラトウエリに来た主婦のサイルス・ウムさんは
「覆面をした男たちが,誰を列の中から引き出すのか,指を差しました.
どうしてウソをつくのでしょうか.どうして,そっちの方が安全だって言ったのでしょう」
と言った.

 フェドゥラさんは
「LTTEは私たちに最後の願いを言わせました.私たちはお祈りをしたいと言ったのです.
 すると砲弾が落下し始め,タミール・タイガーは逃げ出し始めました.
 私たちも逃げました.撃たれた人もいましたが,ほとんどが逃れました.
 でも,他の人たちはどうなったでしょうか.戻って死体を発見するのか,それとも何が起きたか知るのか,どっちでしょう」
と言う.

 こうした殺害の話は広く伝わっている.イスラム教徒の支援要員たちは何があったかについて疑わない.
 スリランカのイスラム教徒財団,ジャマーテ・イスラミの支援活動幹部,マフェズ・ニジャムさんは
「それはあらかじめ計画されたイスラム教徒の共同体に対する攻撃なのです.
 こうしたことが起きる前,LTTEはイスラム教徒の村に来て,ここはタミール人の領域だから,イスラム教徒は立ち去れという掲示を出しました.
土地を自分たちの物にしようとして,イスラム教徒を追い出すのです」
と語った.

 最近,戦闘が起きた地域はイスラム教徒,ヒンズー教徒がほとんどのタミール人,仏教徒が主体のシンハリ人が住んでいる.
 LTTEに対する支援はヒンズー教徒のタミール人から集まっているが,彼らも戦闘の被害を受けている.

 〔略〕

 LTTEはイスラム教徒の追放については否定している.
 LTTEのスポークスマン役は匿名を条件にして,
「われわれは現地で政府軍の攻撃から守ること申し出ています.
これもやはり,政府軍がかつて使った汚い戦争の戦術の一種で,自分たちがやったことをLTTEにかぶせようとしているのです」
と述べた.
 〔略〕
(翻訳・ベリタ通信=日比野孟)

2006年08月30日17時12分,アルジャジーラ

 ちなみに,LTTEは,これは政府軍がやったことだ,と反論している.

 これに対しLTTEのスポークスマンはアルジャジーラの取材に対し,イスラム教徒排除を否定した上で,
「イスラム教徒を政府軍の攻撃から守っているのはわれわれだ.
 政府軍が汚い手口を使っている.これまでと同様,自分たちでやった悪いことを全部LTTEの責任に押し付けているのだ」
と反論している.

2006年08月20日18時10分,アルジャジーラ

 しかしLTTEは,1990年代にも同様の行為を行っていることから,イスラーム教徒はLTTEに不信感を抱いている.

 イスラム教徒たちは1990年代初め,LTTEがその支配地,スリランカ北部ジャフナ半島で今回と同じことを行ったのを忘れてはいない.
 ニジャムさんは
「LTTEが今やっていることは,ジャフナ半島でやったことと全く同じ.
 ジャフナ半島の居住地を追われたイスラム教徒が,今,どこで暮らしているかを知っているか.難民キャンプに逃れ,いまだに同じ難民キャンプ暮らしを続けているのだ」
とため息をついた.

2006年08月20日18時10分,アルジャジーラ

 もしこれで,「ジハード」を掲げた過激原理主義勢力が乱入すると,さらに混沌とすることが懸念される.


 【質問】
 ワンニ打通作戦(仮称)とは?

 【回答】
 2008年4月からスリランカ政府軍によって行われた,LTTE(タミル・イーラム解放の虎)掃討作戦.
 スリランカ軍はLTTEの拠点がある北部ワンニ地域のキリノッチに向かうため,ジャフナ半島とスリランカ本土の間に位置する要衝ムハマライの防衛線を突破.
 そこから南方に進んでワンニ地域3カ所目の前線を開き,キリノッチに到達する計画だった.
 だが23日,LTTEの戦闘員は塹壕(ざんごう)に隠れて撤退したように見せかけ,政府軍戦車を待ち伏せて反撃.
 スリランカ軍関係筋がCNNに語ったところによれば,戦死者100人以上,負傷者400人近くに達したという.

 【参考ページ】
2008/4/24付,CNN


 【質問】
 LTTEの海上戦力はどのような規模,装備なのでしょう?

 【回答】
あまり新しくない情報だがスリランカ海軍の規模や練度
http://reference.allrefer.com/country-guide-study/sri-lanka/sri-lanka166.html

 この程度の戦力によって50隻(というのは多少割り引いて勘定すべきだろうが)も沈められているということで,おのずと想像がつく.
 おそらくは漁船やボートに武装した兵士を載せたもの.

 【参考動画】
「ワレYouTube発見セリ」:スリランカ海軍,水面下のテロリストとの戦闘


 【質問】
 トリンコマリー軍港自爆テロ事件とは?

 【回答】
 2006/1/7未明,トリマンコマリー軍港近くで海軍警備艇2隻が自爆テロに遭い,沈没した事件.13人行方不明.
 LTTEによる犯行と見られている.
 以下引用.

スリランカで反政府勢力と思われる自爆攻撃,13人が不明

 [コロンボ 7日 ロイター] スリランカ東部トリンコマリー軍港の近くで7日未明,反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」によるものと思われる自爆攻撃を受け,海軍の警備艇が沈没,15人のうち13人が行方不明となっている.海軍が明らかにした.
 2人は近くにいた漁師らに救出された.海軍は行方不明者の捜索を続けている.
 軍関係者によると,生存者の1人は,LTTEの船が警備艇に衝突して爆発し,2隻とも破壊されたと話しているという.
 当局者は,日の出後にトリンコマリー周辺で捜索したが,いずれの船の破片も見つからなかったとしている.
 海軍のスポークスマンは
「LTTEによる自爆攻撃だと確信している」
と述べた.
 LTTEからはコメントが取れていない.
LTTEは常に,軍に対する攻撃への関与を否定しているが,アナリストや政府はこれを疑問視している.

(ロイター)-2006年1月10日12時18分


 【質問】
 フォンセカ中将暗殺未遂事件とは?

 【回答】
 2006/4/25,スリランカの都市コロンボで,陸軍トップのフォンセカ中将を狙った自爆テロ.中将は重体,計8名が死亡しています.
 タミル人分離独立派武装勢力「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)の犯行と見られます.
 これを受け軍は北東部のトリンコマリーにあるLTTE支配地域に空爆等攻撃をかけています.

 犯人は妊婦を装った女性で,厳戒態勢が敷かれていた軍施設内に進入,フォルセカ中将が乗った車列の前に飛び出して自爆したそうです.
 停戦合意が発効し,スリランカは停戦状態になっているはずなのですが,当事者にとっては何の拘束力もないようです.
 この2日前にスリランカ軍は,シンハラ人農民が虐殺されたことでLTTEを非難,
 また,LTTEからの攻撃に対する反撃で2名を殺害したと発表していました.

おきらく軍事研究会,平成18年(2006年)5月1日


 【質問】
 アヌラーダブラ・バス爆破テロ事件とは?

 【回答】
 2006/6/15朝,スリランカ中部アヌラーダプラ県で民間バスが地雷に触れ爆発した事件.
 58人死亡,45人負傷.
 LETTEの犯行だとして,政府軍は報復攻撃をしたという.

 以下引用.

<スリランカ>バスが地雷に触れ爆発,乗客58人死亡

 スリランカ中部アヌラーダプラ県で15日朝,地元住民を乗せた民間バスが地雷に触れ爆発.同国政府軍報道官によると,少なくとも乗客58人が死亡し45人が負傷した.
 政府は少数派タミル人武装勢力「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)によるテロ攻撃だとして,LTTEの陣地に対する報復攻撃を実施した模様だ.

毎日新聞,2006年6月15日20時1分


 【質問】
 マンナール沖海上テロとは?

 【回答】
 2006/6/17,スリランカ北西部マンナール沖で,海軍とLTTEの船が交戦,LETTE船8隻が沈められ,40人以上が死亡または行方不明となった事件.

 以下引用.

海上で戦闘40人以上死亡 スリランカ北西部沖

 【ニューデリー17日共同】スリランカ政府軍などによると,同国北西部マンナール沖で17日,海軍と反政府武装組織タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)の船が戦闘となり,政府軍報道官はLTTEの船8隻を沈没させたと述べた.
 ロイター通信によると,40人以上が死亡,または行方不明となった.
 15日に中部アヌラダプラ県で女性や子どもを含む64人が死亡したバス爆破テロを受け,政府軍がLTTE支配地域を2日間にわたって報復空爆.戦闘は今回,海上に拡大し,危機的状況は一層悪化している.
 報道官によると,LTTEの船数隻が海軍艇を攻撃,海軍の反撃でLTTE側の計8隻が沈没した.海軍側も3隻に被害が出たとの情報もある.

共同通信,2006年6月17日23時56分

 今回はLTTEの損害が大きいようだが,1月にもトマンコマリー軍港を攻撃しているし,そら,2度も同じことをすれば,手痛い反撃を受けるわな.


 【質問】
 クラトゥンガ陸軍参謀次長暗殺事件とは?

 【回答】
 2006/6/26,コロンボ郊外でクラトゥンガ陸軍参謀次長が,自爆オートバイによるテロにより死亡した事件.
 他に3人死亡.
 LTTEの犯行と見られる.

 以下引用.

スリランカ陸軍幹部が爆死

 AP通信によると,スリランカのコロンボ郊外で26日,陸軍ナンバー3のクラトゥンガ参謀次長らが乗った車両に,爆弾を積んだオートバイが突っ込んで爆発,参謀次長ら4人が死亡した.
 政府は,タミル人武装勢力,タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)による自爆攻撃とみて,報復攻撃など対応を検討している.
 〔略〕(シンガポール藤本欣也)

産経新聞,2006年6月27日4時37分

 ⇒明石康さんが責任者として行なわれてきたスリランカ和平ですが,もはや完全に崩壊したようです.
「仮想敵国の設定や脅威見積りは,せいぜい4〜5年先(中期の将来)までが限界で,20年先(長期の将来)の脅威を具体的に特定して見積もることは不可能」
(松村劭 元陸将補)

おきらく軍事研究会,平成18年(2006年)7月3日


 【質問】
 スリランカ軍バス爆破テロ事件とは?

 【回答】
 2006/7/31夜,スリランカ北東部で軍のバスがIEDで爆破され,19人が死亡した事件.
 LTTEの犯行と見られる.

 以下引用.

スリランカ軍のバス,地雷で爆発19人死亡…テロか

 【ニューデリー=永田和男】AFP通信によると,スリランカ北東部で31日夜(日本時間1日未明),国軍兵士を乗せたバスが路上に仕掛けられた地雷に触れ爆発し,乗っていた兵士19人が死亡,2人が重傷を負った.
 国軍は,タミル人武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」によるテロ攻撃と見ている.
 スリランカ北東部トリンコマリー周辺では31日,国軍と解放のトラの激しい戦闘が起きており,バスに乗っていた兵士らは解放のトラ側に包囲された国軍部隊の支援に急行する途中だった.

読売新聞,2006年8月1日16時11分


 【質問】
 人道援助団体活動員虐殺事件とは?

 【回答】
 国際人道救援団体「アクション・コントラ・ラ・フェイム(ACLF)」の地元活動家17人が殺害された事件.
 2006年8月4日,スリランカ北東部の町ムッタルで発生.
 政府軍とLTTEは互いに相手を犯人呼ばわりし,非難し合っているが,真相は杳として知れない.
 北欧諸国の停戦監視団は政府軍による犯行としているが,今後の検死によっても真相が明らかになる可能性は高くない.

 以下引用.

 以下引用.

スリランカ軍が救援団体の現地活動員17人を虐殺 停戦監視団(SLMM)が非難

 【アルジャジーラ特約30日】北欧諸国が派遣している「スリランカ停戦監視団(SLMM)」は30日,声明を発表して,スリランカ政府軍が8月,国際人道救援団体「アクション・コントラ・ラ・フェイム(ACLF)」の地元活動家17人を殺害したと述べた.
 同声明は「SLMMは,これまで取得した証拠に基づき,政府治安部隊以外の武装集団が(殺害)行為の背後にいたという事実をあり得ないと確信する」と述べている.

 この報道に対し,スリランカ軍部スポークスマン,プラサド・サマラシンゲ准将はアルジャジーラに対して,国防省と監察総監によって調査が続けられているとして,「調査が進行中なのでコメントはできない」と語った.

 殺害事件はスリランカ北東部の町で,政府軍とタミール人解放勢力の「タミール・イーラム解放の虎(LTTE)」が交戦したムッタルで発生,タミール人一人を含む犠牲者全員は「ACLF」の事務所内でうつ伏せになり,銃創を受けて死んでいるのが発見された.全員が「ACLF」のTシャツを着ていて,所属が確認された.
 SLMMは,当時,ムッタルには他の武装勢力がいなかったと結論し,同地域でのSLMMの活動が制限されていたため,殺害事件を隠ぺいしようとしたと政府軍を非難した.
 同声明は「この見方に矛盾する証拠はなく,スリランカの治安部隊が事件に広範かつ全面的に責任があるはずである」と述べた.

 SLMMはまた,6月に70人前後を殺害した民間のバスに対する飛散型地雷の攻撃はLTTEの停戦違反であると判定する一方,政府軍も4月以降,同じような攻撃を連続的に行っていると非難した.
 LTTEは,欧州連合(EU)がLTTEをテロリスト団体と指定した後,すべての欧州の監視要員は9月1日までにセイロン島を離れよという警告を発したが,その最終期限が迫るのに先立ち,SLMMは「監視団は引き続きデンマーク,フィンランド,スゥーデン人の監視員引き揚げの準備を進めている」と声明,「今週中に8人の監視要員が出国し,さらに22人が数日中に出国する予定である.残るのはアイスランドとノルウェーの監視要員20人のみとなる」と述べた.ノルウェーはEUの加盟国ではない.
 同声明はまた,アイスランド,ノルウェー両国政府ができるだけ速やかに監視要員を30人に増員すると述べた.

 〔略〕

 政府軍はトリンコマリー市を防衛するため,引き続きジャフィナ半島部での攻勢作戦を行っている.
 軍報道官は「部隊は(トリンコマレ港の南端の)サンプールに向かって進撃中.今次作戦の主要目的は同地点を占領して,トリンコマリー港と近くの民間地域を確保することである」と述べた.
 この内戦で,少なくとも6万5000人が死亡,最大20万人が居住地を追われた.
(翻訳・ベリタ通信=日比野孟)

2006年08月31日14時40分,アルジャジーラ

 一般市民が犠牲になっても,政府軍とLTTEは互いに相手を非難し合い,どちらに責任があるのかは,いつも不明なままだ.〔略〕
 その象徴が今年8月4日,フランス系の援助団体で働いていたスリランカ人17人が虐殺された事件だ.
 まるで処刑されたように,被害者はいずれも頭部を一発の銃弾で打ち抜かれていた.
 この事件では政府側はLTTEの犯行と非難,これに対し北欧諸国の停戦監視団は政府軍による犯行としている.

 この事件をめぐっては現在,2回目の検視が行われるが,その結果がいつ分かるのかは皆目見当もつかない.

 同国北東部トリンコマリーに埋葬されていた15遺体のうち9遺体は今月18日に掘り起こされ,別の所に埋葬されていた残りの2遺体は今月初めに掘り起こされた.
 検視作業は同国の司法医務官チームが,オーストラリア専門家団が見守る中で得て行うことになっている.
 しかし,肝心の同専門団のスリランカ到着がいつになるかは分かっていない.

 犠牲者を出したフランス系援助団体は,最初の検視結果が不明なため,国際調査団が17人の死因調査を行うようたびたび求め,今回の2回目が実現することになった.
 同団体の広報担当はアルジャジーラネットの取材に対し,
「事件発生直後から,独立機関による調査を求めてきた」
と述べた.

 その結果,スリランカの裁判所は今月4日,同国の医務官チームが調査を行い,これをオーストラリアの専門家団が見守ることを条件に,2回目の検視を認める判断を出した.

 最初の検視は英国人の専門家が行ったが,遺体から弾丸は発見されなかった.
 その原因のひとつとして,気候の暑いスリランカでは遺体の腐敗が速く進む点が挙げられている.
 遺体から弾薬が発見されなければ,こうした腐敗の速さもあり,死因の特定は難しくなる.
 最初の検視を行った英国人の専門家はアルジャジーラネットに対し
「こうした検視には経験が必要.腐敗が激しいと身元確認も難しい.
 今回掘り出された遺体でもどう身元を確認するのだろうか」
と懸念を示している.

▽虐殺は政府側の犯行

 和平を監視しているスリランカ監視支援団(SLMM)は,この虐殺事件を政府側の犯行としている.
 支援団は今年8月30日に報告書を公表し,その中で,事件当時に現場のムッツールには政府軍部隊しか駐留していなかったと指摘するとともに,国軍は支援団の活動を制限することで,同事件の隠ぺいを図ったとも非難している.

 〔略〕

 スリランカ監視支援団の広報担当オマルソン氏は
「この事件の実行者の狙いは,相手側への警告だ.
 この国で活動する国際的な非政府組織(NGO)はいずれも,正体不明のグループから脅されている.
 中でも,こうした脅迫を受けるのは同組織で働く現地職員たちなのだ」
と話している.

アルジャジーラ(翻訳・ベリタ通信=志岐隆司),2006年10月29日00時37分


 【質問】
 パキスタン大使暗殺未遂事件とは?

 【回答】
 2006/8/14,コロンボ中心部で,IEDによりモハマド・パキスタン大使の乗った車列が攻撃された事件.
 7人死亡,8人負傷.
 大使にはケガはなし.

爆弾テロで7人死亡=コロンボ中心部,パキスタン大使が標的

 【ニューデリー14日時事】スリランカ最大都市コロンボの中心部で14日,仕掛け爆弾がさく裂し,近くを走行していたスリランカ駐在のモハマド・パキスタン大使の乗った車列を直撃した.
 インドのPTI通信によると,警護車両に乗っていた護衛4人と通行人3人が死亡,8人が負傷した.大使にけがはなかった.
 爆発したのは小型3輪タクシーに仕掛けられた対人地雷とみられる.同大使はパキスタン独立記念日の関連行事から戻る途中,爆発に遭った.
 パキスタン外務省は,爆発は大使を標的にしたものだと非難した.

時事通信,2006年8月14日23時0分


 【質問】
 ポッツビル・ムスリム虐殺事件とは?

 【回答】
 2006年9月,アンパラ地区ポッツビルから9kmの地点で,水門の修理作業に向かう途中だったムスリム労働者10人が,めったぎり切りにされた状態で見つかった事件.
 同地域で活動している政府軍精鋭部隊か,その支援を受けるLTTE分派カルナ派の犯行の可能性がある.

 以下引用.

 また,9月にはアンパラ地区ポッツビルから9キロの地点で,イスラム教徒の労働者10人がめったぎり切りにされた状態で見つかった.10人は水門の修理作業に向かう途中だった.
 アンパラ地区は政府軍の支配地域で,虐殺現場の近くには同軍精鋭部隊の基地がある.
 地域住民によると,同地域で活動しているのは同精鋭部隊とカルナ派だという.
 カルナ派はLTTEの分派で,現在は同精鋭部隊の支援を受けて行動している.

 これに対し政府側は,同虐殺事件をLTTEの犯行と発表した.

 支援団体のムファズ氏は
「同地域ではイスラム教徒と精鋭部隊の間で緊張状態が高まっている」
と懸念する.
 また,支援団の広報担当オマルソン氏はアルジャジーラネットの取材に対し,
「政府軍が支配しているバッティコロア地区ではカルナ派が我が物顔で行動している」
と明らかにした.

アルジャジーラ(翻訳・ベリタ通信=志岐隆司),2006年10月29日00時37分


 【質問】
 ハバラナ自爆テロ事件とは?

 【回答】
 2006/10/16,コロンボから北東へ約120kmの幹線道路沿いにあるバスの停車場に,北東部の軍港トリンコマリーからコロンボ方面に向かう非番の兵士と,逆に同港に戻る兵士ら計340人を乗せたバス24台が停車しているところへ,爆弾を搭載した小型トラックが猛スピードで突入,自爆した事件.
 海軍兵士や住民ら100人以上死亡,約150人負傷.
 LTTEの犯行と見られるが,LTTEは犯行を否定している.
 国際社会による調停が行われる手前の出来事であり,調停潰しの意図があると私見では愚考する.

 以下引用.

スリランカで自爆テロ 死者100人以上死亡

 ■各国特使調停も 先行きは不透明

 【シンガポール=藤本欣也】政府軍とタミル人武装組織,「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)の武力衝突が続くスリランカで16日,自爆テロがあり,フランス通信(AFP)によると,海軍兵士や住民ら100人以上が死亡し,約150人が負傷した.
 LTTEの犯行とみられ,自爆テロとしては過去最悪の被害となった.
 28,29日に予定された双方の直接対話の再開が危ぶまれている.

 報道によると,主要都市・コロンボの北東約150キロのハバラナ近郊で,爆弾を積んだトラックが海軍の車列に突っ込み爆発した.
 11日には北部ジャフナ半島で激しい戦闘が起き,軍とLTTE双方で約250人が死亡している.
 〔略〕

産経新聞,2006年10月17日8時0分

 国防省は,同テロをタミル人の分離独立主義過激派組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)による「冷酷な大虐殺」だと非難.LTTE側は犯行を否定している.

 地元報道によると,現場は中心都市コロンボから北東へ約120キロ・メートルの幹線道路沿いにあるバスの停車場.
 北東部の軍港トリンコマリーからコロンボ方面に向かう非番の兵士と,逆に同港に戻る兵士ら計340人を乗せたバス24台が停車しているところへ,爆弾を搭載した小型トラックが猛スピードで突入した.

永田和男 in 読売新聞,2006年10月17日3時5分

テロ現場


 【質問】
 ゴール港自爆テロ事件とは?

 【回答】
 2006/10/18,港湾都市ゴールで,爆弾を搭載した小型船舶5隻が停泊中の海軍の哨戒艇などに突入,少なくとも2人が死亡,20人以上が負傷した事件.
 LTTEの犯行と見られるが,LTTEは犯行を否定している.
 これも国際社会による調停が行われる手前の出来事であり,調停潰しの意図があると私見では愚考する.

 以下引用.

スリランカで爆弾小型船5隻,海軍哨戒艇に突っ込む

 【ニューデリー=永田和男】スリランカ国防省によると,同国南部の港湾都市ゴールで18日,爆弾を搭載した小型船舶5隻が停泊中の海軍の哨戒艇などに突っ込み,少なくとも2人が死亡,20人以上が負傷した.

 国防省は,タミル人武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」による自爆テロと断定しているが,LTTE側の声明などは出てない.
 警察は,タミル系住民への報復などの混乱を警戒して市内に外出禁止令を敷いた.

 スリランカ和平担当の明石康・日本政府代表は18日,LTTEの本拠地北部キリノチを訪れ,28日からのスリランカ政府との直接対話参加を呼びかける予定.
 しかし,新たなテロで政府側が態度を一層硬化させるのは避けられず,対話実現は難しい情勢だ.

読売新聞,2006年10月18日20時7分


 【質問】
 バティカロア難民キャンプ砲撃事件とは?

 【回答】
 2006/11/8,スリランカ東部バティカロア県で難民キャンプがロケット弾で砲撃された事件.
 住民ら50人死亡,負傷者600人.
 政府,LTTEは共に,相手側を砲撃した犯人として批難している.
 以下引用.

避難民キャンプ砲撃で死者50人,負傷者600人 スリランカ東部

 【アルジャジーラ特約8日】スリランカで活動しているノルウェーの停戦監視団によると,スリランカ東部バティカロア県で8日,避難民キャンプが砲撃を受け,住民ら50人が死亡したほか,負傷者も600人に達した.
 同国の反政府武装組織タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)は先に,政府軍の同キャンプ砲撃で死者45人,負傷者125人が出たと発表したが,同監視団の情報では,死者,負傷者の人数はさらに増えていたことが明らかになった.
 スリランカ政府軍側は同砲撃での死傷者数に関し,詳しい情報を得ていないとだけ発表している.

 同監視団の報道担当,オラフスドッチルさんはアルジャジーラの取材に対し,「今回のロケット弾攻撃での死者は50人,負傷者は少なくても600人との情報を得ている.ロケット弾は避難民たちが住んでいた建物を直撃した」と語った.
  オラフスドッチルさんはさらに,「数千人の避難民が破壊された建物の中に閉じ込められ,監視団のメンバーらががれきの中で救助作業を続けている.現場は大混乱している」とも話した.
 ロケット弾で破壊された避難民キャンプは,同国東部バティカロア県カティラベリ地区にある.
 国際人権保護団体,アムネスティー・インターナショナルは「家を追われた避難民たちの暮らすキャンプを砲撃するとはあまりにもひどすぎる.再燃した内戦の被害者である避難民たちが新たな惨劇に巻き込まれた」とし,今回の砲撃を非難した.

 これに対し政府軍側は,避難民キャンプを砲撃したのは同軍ではないと否定するとともに,同軍はLTTEから受けた攻撃に反撃を加えただけだと強調した.
 国家治安局報道センターのプラサダ・サマラシンヘ報道官はアルジャジーラの取材に対し,「政府軍はLTTEの砲撃陣地をレーダーで捕捉,政府軍を襲った同陣地に報復を加えるため,正確に砲撃した.政府軍が砲撃したのは避難民キャンプではなく,LTTEの陣地だ」と説明した.
 さらにサマラシンヘ報道官は,政府軍は避難民たちに対し,LTTEの活動地域から退去するよう勧告しているが,LTTE側は避難民たちを「人間の盾」として利用していると反論した.

 これに対しLTTE側は自派のインターネットに掲載した声明の中で,「政府軍はなんら防御手段もない避難民たちを無残にも砲撃,殺害した」と非難し,政府軍側の発表内容を全面的に否定した.
 〔略〕
(翻訳・ベリタ通信=志岐隆司)

2006年11月10日02時37分,アルジャジーラ


 【質問】
 ラジャパクサ国防次官暗殺未遂事件とは?

▼ 【回答】
 2006/12/1,コロンボ市内中心部で起きた,大統領実弟,ゴタバヤ・ラジャパクサ Gotabaya Rajapaksa 国防次官の車列を狙った自爆テロ事件.
 ラジャパクサ次官らの車列が市内中心部を走行していたところに,爆弾を積んだ3輪タクシーが突入し,犯人は自爆死した.
 護衛の兵士ら少なくとも2人が死亡,13人が負傷.
 ラジャパクサ次官の車も大破したが,本人は無事だった.
 同氏はLTTEに対する強硬派として知られており,LTTEによる犯行と見られる.

 【参考ページ】
共同通信,2006/12/01 07:35
ロイター,2006年12月1日15:41
AFP,2006年12月01日 17:22
読売新聞,2006年12月1日18時48分(ニューデリー=永田和男)


(militaryphotos.netより?引用)

【ぐんじさんぎょう】,2011/06/10 20:30
を加筆改修


 【質問】
 ヒッカドゥワ自爆テロ事件とは?

 【回答】
 2007/1/6,コロンボ南方約80kmのスリランカ南西海岸の観光地・ヒッカドゥワ近郊において,バス車内で乗客を装った女性が自爆したとみられる事件.
 爆破されたのは路線バスで,AFP通信によると少なくとも11人が死亡,47人が負傷した.
 犠牲者の詳細は不明.

 スリランカでは5日にもコロンボ北東アンバランゴダで路線バスが自爆テロ(?)により爆破され,民間人少なくとも6人が死亡,70人が負傷している.
 当局は2件とも反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」の犯行とみている.

 【参考ページ】
2007年1月7日1時0分,時事通信


 【質問】
 LTTEによる初の空爆は,いつ,どこに対して行われたのか?

 【回答】
 2007.3.26未明,軽飛行機を用い,コロンボ北方の政府軍空軍基地に対して行われた.
 LTTE機は基地内の施設に爆弾2個を投下.
 目撃者によると,空爆のあったこの日未明,銃撃音が聞こえた後,爆発音数発がとどろいたという.
 政府軍当局者によると,空軍機に被害はなく,空軍基地および隣接の国際空港の施設などへの被害もなかったという.

 同当局者によれば,空軍兵士少なくとも3人が死亡,17人が負傷した.
 これに伴い,基地に隣接するコロンボ国際空港が閉鎖され,空の足にも影響が出た.

 AP通信の取材に応じたLTTEスポークスマンは,今回の攻撃には「タミル・イーラム空軍」に所属する航空機2機が参加し,爆撃後,2機は無事帰還したと明らかにした.
 また,スポークスマンは爆撃の狙いについて,
「政府軍の無差別空爆を止めさせるためだ.今後,他の政府軍施設もわれわれの攻撃目標となる」
と警告した.
 国軍が最近,スリランカ東部などでLTTE拠点への空爆を含む攻勢を強めていることへの報復攻撃とみられる.

 【参考ページ】
2007年3月26日10時43分,読売新聞(ニューデリー=永田和男)
2007年03月26日14時55分,アルジャジーラ特約


 【質問】
 ダムブラ・巡礼バス爆破テロ事件とは?

 【回答】
 2008/2/2,スリランカ中部ダムブラで,巡礼者多数を乗せ,世界遺産に指定される仏教の聖地アヌラダプラに向かうバスが,バス内部に仕掛けられた小包爆弾によって爆破された事件.
 少なくとも20人が死亡,60人以上が負傷.
 死傷者の大半は,宗教行事に参加しようとしていた仏教徒とみられている.

 国防省は,仏教徒シンハラ系と対立するヒンズー教徒の「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」によるテロと断定している.

 【参考ページ】
2008年2月2日18時44分,産経新聞(by 藤本欣也)
2008年2月2日19時11分,読売新聞(by 永田和男)


 【質問】
 ウェリオヤ・バス爆弾テロ事件とは?

 【回答】
 2008.2.4,スリランカ北東部のウェリオヤで起きた,バスを狙った爆弾テロ事件.
 AP通信によると,乗客12人が死亡,17人が負傷した.
 治安当局は反政府武装勢力,タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)の犯行とみている.

 【参考ページ】
2008年2月5日8時2分,産経新聞(シンガポール 藤本欣也)


 【質問】
 コロンボ近郊通勤バス爆弾テロ事件とは?

 【回答】
 2008/6/6朝,コロンボ近郊で起きた,通勤客などで込み合うバスを狙った爆弾テロ事件.
 道路脇に仕掛けられた爆弾を遠隔操作で爆発させたという.
 少なくとも21人が死亡,50人以上が負傷した.
 スリランカ国防省は,反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」の犯行としている.

 【参考ページ】
2008年6月6日12時57分,読売新聞(by 永田和男)


 【質問】
 ムライティブ避難民キャンプ自爆テロ事件とは?

 【回答】
 スリランカ軍の発表によれば2009/2/9,「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」との戦闘が続いている北東部ムライティブ県の避難民キャンプで,LTTEの女が自爆し,民間人8人を含む少なくとも28人が死亡,約90人が負傷した事件.
 女はLTTE支配地域から逃れてきた避難民に紛れてキャンプに到着し,保安検査の最中に自爆したという.

 【参考ページ】
2009年2月9日19時57分,時事通信


 【質問】
 LTTE掃討戦を足がかりにした,スリランカへの中国の影響力増大について教えてください.

 【回答】
India chagrined at Lankan ties with Pakistan and China ≪ Rupee News
および
「日刊 アジアのエネルギー最前線」◆スリランカで歯ぎしりするインド
によれば,スリランカの政府軍が,北の反政府軍,LTTEに対抗するための武器供与を要請したときに,インド政府が断ったのに対し,中国はパキスタンをそそのかして,政府軍に武器を供与し,軍事顧問団を送り込んだという.
 これが功を奏し,反政府軍を殲滅したスリランカ政府は,ハンバントタの軍港建設という大きな権益を中国に与えたのだという,
 スリランカは完全にインドの覇権内,と高をくくっていたインドとしては,中国とパキスタンがペアーとなってスリランカに雪崩れ込んでくるとは,読み切れなかったようだ.

 「日刊 アジアのエネルギー最前線」では,日本についても触れていて,曰く,

――――――
 日本政府は,明石さんを政府代表として送り込み,あくまで話し合いであるとして,政府軍と反政府の間の和平工作を行っていたのだが,スリランカにとっては日本の動きは格好の時間稼ぎだったわけである.
 日本は我々も含めて,スリランカは日本に頼っている,と思っていたのに,その裏で反政府軍殲滅の準備を着々と整えていたのだ,
 明石さんはその辺は読みとっていたのですかね.
 知らなかったとすれば日本政府は問題だ.
――――――

 情報不足の日本が,中国の手のひらで,まんまと躍らされた一件だとも言えよう.


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