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◆◆◆フニャディ・ヤーノシュ以降 Hunyadi János
<◆◆戦史 Magyar Történelem
<◆Hungary ハンガリー Magyarország
欧州FAQ目次


 【Link】


 【質問】
 フニャディ・ヤーノシュって誰?

 【回答】
 Hunyadi János は中世ハンガリーの英雄です.

 父の代以前の経歴は全く不詳でして,おそらくワラキアの土豪がトランシルバニアに逃れてきたものと思われ,人種的にも恐らくはルーマニア系ではないかと思われます.
 歴史上に名前が登場するのは,父ヴァイクがヴァイダフニャド(今のルーマニアのフネドワラ)の城を拝領してからで,フニャドのを意味するフニャディなる姓もその時以来と思われます.

 さて,ヤノシュは,若くして当時のハンガリー王にして神聖ローマ皇帝ジギスムントに見出され,イタリアに伴われ一時傭兵隊長として活躍,ハンガリーに戻って後は異例の出世を遂げ,トランシルバニア侯テメシュ県知事等となる.
 ジギスムントの死後はウラースロー一世の下,対トルコ戦の指導者としてバルカンの各地で奮戦したが,バルナで国王が戦死するという大敗を喫する.

 その後ハンガリー王国の摂政となる.
 1456年押し寄せるオスマン軍をナーンドールフェーヘルヴァール(今のベオグラード)にてカピストラノ司教の率いる十字軍とともに迎撃,奇跡的な勝利をおさめるが,戦後,戦場に流行った悪疫に倒れて世を去った.
 因みにハンガリー王マーチャシュ・コルヴィヌスは彼の次男.

 本当かどうか知りませんが,教会が正午に鐘を鳴らすのはベオグラード戦の勝利を記念して,と一般に言われています.

(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)


 【質問】
 フニャディ家はどこから来たの?

 【回答】
 フニャディ家ですが,フニャディ・ヤーノシュシュの父の代にワラキアから逃れてきたワラキア貴族だそうで,フニャディの姓はフニャドの地を領地として与えら時に授かったものだそうです.
 人種的な問題を究明するならばアルバ・ユリアのフニャディ家の墓の骨を調べたらと思いますが,当時の彼らはおっしゃる通りイシュトヴァーン王冠に属する領土の貴族である以上,ハンガリー人だとしか思ってなかったのでしょうね.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 フニャディ家の出自に関しては色々な説があります.

 当時のハンガリー人歴史家のヘルタイ・ヤーノシュは,フニャディ・ヤーノシュはジグモンド王とルーマニア人農民の娘との間に生まれた非嫡出児だったと書いています.
(これは彼が非嫡出児だと貶めるためではなく,国王の御烙印であったと彼を誉め称えるための記述です).
 デーチ・シャームエルは,フニャディ・ヤーノシュはジグモンド王とマーリア王妃の間にダルマチアで生まれた嫡出児だと主張しています.
 他の記述によればヴェロナの Scaliger 一族の血を引いているということだし,コルニデス・ダーニエル等によればポーランドのコルヴィン一族の末裔だということです.
 別の意見ではホッローシュ(大烏の)ないしフニャディ=セーケイあるいはフニャディ=オラー(オラーはルーマニア人という意味)という姓の一族の末裔だと主張しています.
 プライ・ジェルジュはルーマニア人公が先祖だと主張しています.
 トゥローツィやガレオッティ,トベロ,アエナス・シルヴィウスはトランシルヴァニアのルーマニア人だったのではないかと考えています.

 しかし近代になってテレキ・ヨージェフ伯爵は,周到な反証を挙げてこれらの仮説を否定しました.
 彼はブダイ・フェレンツやカズィンツィ・フェレンツ,ペーツェイ・ヨージェフらと同じように フニャディ・ヤーノシュは 無名のハンガリー人貴族の出身だったと考えていました.
 ナジ・イヴァーンも同じ考えです.
 その後レーティ・ラースローとチャーンキ・デジェーは,フニャディ家は恐らく,アルバニア人,ルーマニア人,ブルガリア人,セルビア人等の血が混ざったルーマニア人の家系の出身だったのではないかと主張しています.
 ま,未だにフニャディ家の出自は決着は付いていないのですが(要するにフニャディ家の出自に関する文書の証拠が何も無いので,推測するしかない),少なくともハンガリー側の研究では ハンガリー人にとっては 全く嬉しくはないはずのルーマニア人の血が入っていたという可能性は否定されていないということですね.

 フニャディ家についてわかっている(=文書の残っている)一番古い先祖はシェルブないしショルブと,ラドゥルという兄弟です.
(ラドゥルの方はいかにもルーマニア人的な響きの名前ですね.)シェルブないしショルブはトランシルヴァニアのヴァイダ(太守かなぁ...?)として国王から城を賜ります.
(だからここから記録が残っているのでしょうが.
 フニャディ家はこのとき突然ハンガリー史に登場します.
 フニャディ家のそれ以前の歴史は全くの謎です).
 その城がフニャドヴァール (Hunyad-vár) ないしフニャド・ヴァーラ (Hunyad vára) です.
(vár は「城」で,vára は「~~の城」です.)
 ヴァイダのフニャド城があるというので,この村はヴァイダフニャド (Vajdahunyad) と呼ばれるようになりました.
 この地名のルーマニア語名はフネドワラ (Hunedoara) です.
 当時のハンガリー語のvの発音が実はwだったということがわかります.
 つまり,当時のハンガリー人は「フニャド・ワーラ」と発音していたのですね.

 で,シェルブないしショルブの子どもが,長男のマゴシュ(ハンガリー語で「高い」という意味です),次男のヴォイク(ヴァイクと同じでハンガリーの初代国王イシュトヴァーンの幼名と同じです.これはハンガリー人の名前.ヴォイクにはブティという別名もあったらしい),三男のラドゥルでした.
 次男のヴォイクはモルジナイ・エルジェーベト(後に彼女はチョルノコシ・ヤロスラーヴの妻となります.夫と死別したのかな?)と結婚して,彼らの子どもが
長女(名前不詳.成年後セーケイという姓の男性の下に嫁いだ),
長男ヤーノシュ(後にハンガリー摂政,マーチャーシュの父),
次男ヤーノシュ(後にセレーニュシェーグの太守),
次女マーリア(成年後アルジェシ・マンズィッラに嫁ぐ)
でした.
 で,この長男のヤーノシュがシラージ・エルジェーベトとの間に設けた子どもが長男ラースロー(ベルグラード[ベオグラード]長官)と次男マーチャーシュ(後に国王)でした.

 マーチャーシュは最初ポディーブラット・カタと結婚しますが,後にナポリ国王の娘,ベアトリーチェ王女を妃にします.
 で,マーチャーシュは嫡男に恵まれず,ポーランドのヴロツワヴ市のブルジョアの娘との間に設けたヤーノシュだけが唯一の息子です.

 息子はコルヴィン・ヤーノシュと名付けられ,後にクロアチア=スラヴォニア=ダルマチア太守,オッペルン公爵になります.
 彼はフランゲパン・ベトリックスと結婚し,長男クリシュトーフと長女エルジェーベトの2児を設けますが,2人とも幼く夭逝しています.
 これでフニャディ家の血は途絶えます.

 フニャディ・ヤーノシュがジグモンド王の御烙印だという伝説は,それまで全く無名の一族だったフニャディ家がヤーノシュの代になって,ジグモンド王の厚い信頼を得て,あっと言う間に出世し,なんと最後には国の副王,摂政にまでなってしまったので,実は国王の隠し子だったのではないかという勘繰りが生まれたためでした.
 もちろん,真相はそうだったのかもしれません.
 またルーマニア人出身説を取れば,ルーマニア人側は
「それは当然ルーマニア人だったから客観的に彼は優秀だったから出世したのだ」
と主張するでしょう (^"^;).

しい坊 : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 ヤノシュ・フニャディのジグモンド(神聖ローマ皇帝ジギスムント)のご落胤説というのは,彼の在世中からあったそうですね.
 そうとでも考えないと理解不能の出世ぶりだったのでしょうね.

 マーチャーシュ王の時代に御用学者がフニャディ家をローマ貴族の末裔だとかいう系図を作ったらしいですが,秀吉が天皇のご落胤という話を作らせたのと通じるところがありますね.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 封建時代には多分,世界共通の現象なのでしょうね.
 ある人物が優秀だとすると,それは偶然ではない,やはり,そういう高貴な血が流れていたんだということで,皆も納得するのでしょう.
 支配者本人も自分でも
「やはり俺は只者ではなかったのか」
と納得するでしょうし....

 現代でも,例えば米国のパウエル現国務長官(なんで外務大臣って訳さないのかは謎)が共和党の大統領候補として取りざたされた時に,黒人である彼のルーツが色々なマスコミで調査されて,報道されましたが,その報道が事実ならば,確か,ユダヤ人の血も,英国王室の血もちゃんと入っていたそうです (^^;).
(記憶違いだったらごめんなさい.)

 ちなみに,血統って,調べてみると,相当有名な家系とでも,探せば,意外と少ない親等数で誰もが繋がっているものなのですよねぇ....
 多くの場合は単にミッシングリンクの部分に関する情報が見つからないだけで.
(だから人類皆兄弟 (^^;)!)

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マーチャーシュ王って誰?

 【回答】
 「ハンガリーの水戸黄門野郎」こと,マーチャーシュ Mátyás 1世は,15世紀ハンガリーにルネサンスをもたらし,中世ハンガリーの最盛期を築いた国王(在位1458~1490年)
 オスマン帝国軍との戦いで名を馳せた,かの摂政フニャディ・ヤーノシュ Hunyadi János の次子で,1443年,トランシルヴァニアの街コロジェヴァール(現ルーマニア領クルジュ・ナポカ)に生まれる.
 つまり,1458年に即位したときは,まだ17歳だったことになる.

 即位前までは,父親と兄の死後,ハンガリー王ラースロー5世に幽閉されていたのだが,マーチャーシュを国王に擁立したのは,かつて彼の父親を支持していた中小貴族達であった.
 即位後,マーチャーシュ一世は,官僚を養成し,中央集権化を進めて国内を固め,財政改革による増収をもって軍備を強化.
 傭兵から成る常備軍「黒軍 フェケテ・シェレグ Fekete sereg」を置いた.
 これは亡き父,フニャディ・ヤーノシュ の傭兵軍を手本としたものであろうか.

 これを背景に,進出するオスマンと戦い,またオーストリア,ボヘミア方面にも領土を広げ,ハンガリーの黄金時代を現出.
 ワラキア公ヴラド3世(いわゆるドラキュラ公)が,弟のラドゥと国内離反貴族に追われ,トランシルヴァニアに逃げ込むと,オスマン帝国に内通したとしてヴラドを捕らえ,幽閉したのもマーチャーシュ一世である.
 彼は十字軍を放棄するための口実としてヴラドを利用し,このために幽閉中もヴラドの残虐性をことさら広めたといわれる.
 つまり,ヴラドが串刺し公だの何だの言われるようになったのは,半分くらいはマーチャーシュ王のせい.

 マーチャーシュ一世は,その功績と公正な統治から「正義王」と称えられた.
 だがしかし,ウィーンを得た後,神聖ローマ帝国への更なる進出を企図するも,1490年,ウィーンにて急死.
 その死後,大貴族の勢力が再び強まり王権は弱化.
 「黒い軍」も軍紀が著しく乱れ,彼の覇業は一代限りのものとなってしまった.

 なお,マーチャーシュ1世は身分を隠して,しばしば国内をまわったと言い伝えられ,その逸話がいくつもの民話に登場する.
 例えば,大剣を両手で自在に操ったという豪傑キニジ・パール Kinizsi Pál は,王が「お忍び」中,水車小屋で休んでいるときに,大きな岩を盆の代わりにして水を差しだし,これが縁となって臣従したという.

 【参考ページ】
http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/theb02/02889.htm
マーチャーシュ[1世] とは - コトバンク
ヨーロッパ三昧|マーチャーシュ王(中世ハンガリー王国)
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012/3/30),p.33-35

ハンガリーの1000フォリント紙幣
右側の肖像画がマーチャーシュ王

mixi

▼ フニャディ・ヤーノシュの次男,オペラにもなった悲劇の長男フニャディ・ラースローの弟,フニャディ・マーチャーシュ王ですね.
 ハンガリーの“水戸黄門”で,ハンガリー・ルネサンス文化を花開かせた,ハンガリー最高の国王です.
 コルヴィヌスというラテン語名はフニャディ家の家紋に大烏(カラス)が使われたいたために,ラテン語ではマティアス・コルヴィヌスと名乗ったものです.
(そこでポーランドで生れた非嫡出子にはコルヴィンという姓が付けられています.)

 ルーマニア人はフニャディ・ヤーノシュをヤンク・デ・フネドワラというルーマニア人貴族で,マーチャーシュ王はマテイ・コルヴィンというルーマニア人の国王だと主張していますし,セルビア人も彼はセルビア人だったと主張しています.
 本当のことは調べようがありませんが,元々トランシルヴァニア出身だったので,彼にルーマニア人の血が一部交じっていたとしても不思議ではありません.
(ただ,ルーマニア人貴族というのは存在しなかった.)
 当時はまだフランス革命による民族意識の登場の前でしたので,当時の人間は自分のことは自分が所属する国家の国民だと考えるのが普通で,仮にマーチャーシュ王にルーマニア人やセルビア人の血が混じっていたとしても,本人の意識はハンガリー人だったことでしょう.

しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分

 マーチャーシュ王の世直し伝承も面白いですね.
 周囲の人間にとっては織田信長の如き理解不能の人物だったように思えるのですが,どういった経緯であのようなお忍びで国内を回ったという伝承が生まれたのか興味のあるところです.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 マーチャーシュ王の全国漫遊は(例えば,農民の若者の姿に身を窶して悪人をこらしめた『コロジュヴァールの悪代官』物語とかですが),水戸黄門の全国漫遊同様,史実ではないようです.
 このマーチャーシュ王の伝説は後世の農民達が作り出したようですが,実際にはマーチャーシュ王の時代には,国王専属の傭兵部隊である黒軍(フェケテ・シェレグ)の維持費や,コルヴィナ文庫の充実費用,その他のために,非常に高額だったと言われています.
 それなのにマーチャーシュの人気が高いのは,彼の黒軍等による中央集権化により,(彼の治世下だけの一時期ですが)下克上の群雄割拠の戦国時代にピリオドを打ち,農地が荒らされることも,戦乱で命が脅かされることもなくなったためだと分析されています.
 高い年貢を支払っても十分見返りがあったということで,要するに,現代の北欧のような“高福祉高負担”社会を実現したためだと考えられています.
(想像するに,ギシュクラ・ヤーノシュさんはこのことはご存じだろうなと思います.多分,ハンガリー史がご専門なのでは?)

しい坊 : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 ラースロ5世(ラディスラウス・ポストゥムス)がフニャディ一派に叔父のウルリク・ツィレイを殺害された報復に,フニャディ兄弟をブダに呼び寄せて,捕え,兄のラースローを処刑した時点で,フニャディー兄弟の母(フニャディー・ヤーノシュの奥方)であるシラージ・エルジェーベトとその兄であるシラージ・ミハーイが率いるフニャディ一派が武装蜂起し,ラースロー5世はマーチャーシュを連れてプラハに逃げます.
 プラハでラースロー5世は結婚式の準備中に急死(死因は最近,急性白血病と判明.当時は毒殺の噂が流れた)してしまいました.
 マーチャーシュはボヘミア王国の摂政だった,ボディエプラディのイジーにそのまま捕えられますが,イジーの娘と結婚することを条件に開放されたのでした.

ギシュクラ in mixi,2014年06月15日 23:31


 【質問】
 コルヴィヌスってラテン語ですか?
 それともハンガリー語ですか?
 -usならラテン語みたいだけど.

 【回答】
 ラテン語です.
 Corvinus.
 ハンガリー語風に言うときは Korvin と書きますね.
 マーチャーシュ王を偉大なルーマニア人の国王だとするルーマニアでは,マーチャーシュは(Iancu de Hunedoara の次男) Metei Corvin と表記されることが多いようですが,ハンガリーでは(Hunyadi János の次男)Hunyadi Mátyás が一般的ですね.
 で,彼の息子は Korvin János です.

 中世の欧州の公用語はラテン語でしたから,通常はマーチャーシュ王も(ここはうろ覚えなので綴りに自信がない...)Rex Matthias Corvinus のように表記されていたのではないでしょうか?

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マーチャーシュ王のオーストリア侵攻について教えてください.

 【回答】
 一時期,マーチャーシュ王はヴィーンを占領して,ハンガリー王国の首都と宣言しました.
 1479年にはオロモウツの和約により,シレジア,モラヴィア,ラウジッツの領有とボヘミア王位を認められ,実質的なオーストリア大公に選出されました.
 ウィーンを陥落させたときが,ハンガリー最大の版図となりました.

 このように,
彼はトルコとの戦いをおろそかにし,専らヴィーン攻略に熱心だったために,一部の家臣に暗殺されそうになりました.
「敵はトルコなのに,なぜオーストリアを攻略しようとするのだ?」
というわけです.
 しかし,どうやらマーチャーシュはハンガリー一国では到底巨大なオスマン・トルコには勝てないと判断し,自らが神聖ローマ帝国の皇帝になり,全欧州を率いてトルコと対決しようとしていたのだと思われます.

 残念ながら,彼はヴィーンで客死してしまいました.
 一節では王妃ベアトリックスに雇われた刺客が,マーチャーシュが大便をしていた便槽の中に潜んでおり,真下から剣で突き刺したのだという話も聞いたことがありますが,ほんとかなぁ(^^;)?
 マーチャーシュ王は欧州最大の図書館,コルヴィン文庫を作ったり,中央集権化のために独自の傭兵部隊の黒軍(フェケテ・シェレグ)を作ったりと,非常に先進的な国王で,日本の水戸黄門と豊臣秀吉,織田信長を併せたような傑出した人物でした.
 彼が夭逝しなかったらハンガリー史や欧州史は変わっていたかも....

しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 キニジ・パールって誰?

 【回答】
 キニジ・パール Kinizsi Pál (1446-1494)は中世ハンガリーの,半ば伝説的な武将.
 元は農村の粉屋の息子であったが,並外れた怪力を見込まれて,マーチャーシュ王に抜擢された.
 民話によると,Bakonyの森で狩猟をしていた王が,喉が渇いて水車小屋にて飲み物を求めたところ,キニジ・パールは大きな岩を盆の代わりにして水を差しだし,それがきっかけとなって召し抱えられたという.
 伝説はともかく,王は中央集権化を進め,彼に忠実な臣下を重要ポストに新しく登用することに熱心であったから,そんな抜擢組の一人であったろうことは,想像に難くない.

 マーチャーシュ王に仕えてからのキニジは,対トルコ戦で活躍.
 特にBreadfieldの戦いにて勇名を馳せた.
 これまた伝説によれば,両手に一本ずつ大剣を持ち,それを戦いにてふるったという.
 恐るべき二刀流.

 しかし1490年のマーチャーシュ王の死後,貴族層が力を盛り返し,王権が弱体化すると,王が作った傭兵軍「黒軍」は給料支払いを停止させられ,解散.
 そのため,その残党が略奪・強盗を行うようになる.
 この黒軍の討伐の任を課せられたのがキニジ・パールであった.
 彼の心中,いかばかりか.

 1494年,王とさほど時を置かずして,キニジ・パールも死去した.
 脳梗塞で倒れての急死であった.

 【参考ページ】
http://rinshi.sakura.ne.jp/txt/EastEurope2.html
http://mandarchiv.hu/cikk/490/Nagyvazsony_ahol_Kinizsi_Pal_lakott

キニジ・パール
(こちらより引用)

伝承ではキニジ将軍は,オスマン兵の死体を口に咥え,戦勝の踊りを踊ったとされる
(こちらより引用)

mixi

▼ キニジ・パールという人も面白いですね.
 元は粉屋の親父でマーチャーシュが喉が渇いて水を所望したら石臼で水を差し出したとか.
 両手で大剣を自在に操り,雄たけびは雷鳴のよう.
 トランシルバニアでのトルコとの戦闘ではバートリー・イシュトヴァーンの軍勢の危機を救い,戦勝の後トルコ兵を両手にぶら下げ,さらに口に咥えて踊りを踊ったとか・・・.
 ほとんど怪獣ですね.
 この人の奥さんは彼の腰の高さぐらいまでしかなかったそうですが,唯一彼が恐れたのが彼女だったとか・・・・.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒軍って何?

 【回答】
(1)
 黒軍 Fekete sereg は,ハンガリー国王マーチャーシュ一世が,即位した最初の年,1458年に組織した傭兵軍.
 この時代に設置された傭兵としては大規模なものであり,中核は8000~1万名.後には3万名にまで拡大した.
 兵士達は主にボヘミア人,セルビア人,ドイツ人だったが,1480年以降はハンガリー人から成った.
 軍隊の主力は歩兵,砲兵,重騎兵であり,また,その5人に一人は火縄銃を装備していた.
 中世ヨーロッパにおいて,銃器は非常に高価であったにも関わらず.
 さらに,フス派のような戦車も有していた.

 黒軍は,あるときはハンガリー国内でフス派と戦い,あるときは神聖ローマ帝国と戦い,またあるときは,ブリードフィールドの戦いにおいてオスマン帝国軍を破り――と各地を転戦した.
 しかし,マーチャーシュ王が急死すると,次の国王ウラースロー2世は黒軍を維持する費用を許可せず,黒軍は解散となった.
 給料を支払われなかったその残兵は,国境地帯の村を略奪するようになり,これら不満分子を解体するのにキニジ・パールが駆り出されたりしている.

(2)
 現代ハンガリーにおけるマフィア組織の一つ.

(3)
 ロシア革命中,ウクライナに存在したマフノ運動の軍事組織.

(4)
 オンライン・ゲーム「WOT (World of Tanks)」におけるクランの一つ.
 たぶんハンガリー人プレイヤー達のコミュニティ.

 【参考ページ】
黒軍(ハンガリー) - Wikipedia
http://lexikon.katolikus.hu/F/fekete sereg.html
http://kovinkeve.ucoz.com/index/fekete_sereg/0-29
http://mek.oszk.hu/09400/09477/html/0012/891.html

1枚目:黒軍の軍旗
2枚目:当時の騎士のスタイル
3枚目:復元された,黒軍の重装歩兵の楯と武具
4枚:戦車復元図

(図No.faq140730fk1~4,ハンガリー語版wikipediaより引用)

mixi

▼ 非常に興味深い軍隊ですね.
 チェコのフス派の強硬派であるターボル派の残党を主力にしてるのですね.
 おそらくはマーチャーシュに降参した今のスロバキアを実質的に支配したチェコ貴族出身の傭兵隊長ヤン・イスクラ・ズ・ブランディサの軍団が主体なのでしょうが,クセジュのチェコ史では,もう一つのフス派の残党であるペトルのアクサミットの配下の軍団を撃破し指揮官を処刑して配下に収めたと書かれています.
 マーチャーシュ王の死後,大貴族連が黒軍を解体(というかだまし討ち)にしてなければ,モハーチであの有様にはならなかったようにも思います.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 全身黒づくめの制服 (?) であり武器も黒かったので「黒軍」と呼ばれたとも言われていますが,なんか,かっこいいですねぇ.
 マーチャーシュがコルヴィヌス(オオガラス)王を名乗ったこともあり,イメージ的にもまさにマーチャーシュの軍隊でした.
 欧州史上でも(シャルル七世の常備軍と並んで)最も初期の常備軍だったんですよね.
 オスマン帝国に対抗する目的と,戦争が終わって野党集団になっていた元傭兵達を雇用することで国内治安も達成するという一石二鳥を狙ったもののようですね.

 マーチャーシュ王の後を継いだウラースロー二世の治世下では国庫が逼迫し,黒軍維持のための年間40万金フォリントの費用が捻出できず,黒軍の兵士達は略奪を開始したために,黒軍総大将のキニジ・パールが彼らを“成敗”せざるをえなくなったものですね.
 専らチェコ人からなる反乱黒軍はこの会戦で4~5百名の戦死者を出したそうです.
 首謀者は処刑され,勅令で黒軍は解体されましたよね.
 降伏した黒軍の兵士の内,優秀な者は,その後,国王軍,副王軍,トランシルヴァニア太守軍に仕官し,残った黒軍の残党はオーストリアやモラヴィアで「黒軍」の名で略奪を繰り返し,1493年の戦いで破れてからは「黒軍」という呼称は歴史から消えたと言われています.
 さらにその残党はフランスに渡り,そこで傭兵となり,「hommes d'armes」や「bandes noires」の部隊に加わったようですね.

 モハーチの会戦では,例え黒軍がいても,破竹の勢いのオスマン軍に対抗できたんでしょうかねぇ?
 できたかもしれませんが.最大の問題は,マーチャーシュが亡くなってから,ハンガリーが再び群雄割拠の時代になってしまい,ウラースロー二世は全国を掌握できず,ハンガリーの貴族達が一致団結できなかったということの方が大きいような気もしますが.

 いずれにせよ,マーチャーシュ王の時代はハンガリー史において最も輝いていた,エキサイティングな時代ですよね.

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 Feketesereg の訳語は「黒軍」? 「黒衛軍」?

 【回答】
 別に Feketesereg (legio nigra) だけではなく,外国の用語の訳語は難しいですよね.
 それぞれが色々な試みをされているのだと思います.
 日本語の語呂の問題もありますから,もしかすると「黒衛軍」の方がいいかもしれませんね.

 ただ,僕が「黒衛軍」としなかったのは,「~衛軍」は通常“~ őrség”とか“~ gárda”の訳に当てているからです.
 悩むところです.
 日本語としての語感を大切にするか(日本語である以上は最も重要視しなければなりません),意味の正確さを大切にするか(無理矢理日本語で自然に訳してしまうと,文化の大切な違いが見えなくなってしまう),永遠の課題ですね.

 戦前の文芸誌の Nyugat についても僕などは『西』とだけ訳してしまいますが,ハンガリー史の田代 文雄さん等は確か『西方』と訳されていたと思います.
 徳永 康元先生は『西洋』だったかな?
 お2人が2文字にこだわるのは,1文字だと日本語として座りが悪いからです.
 確かにそうだと思うのですが,ハンガリーは西洋の国ですから『西洋』と訳してしまっては,当時のハンガリーの“西欧を見習え”という意識は伝わらないと思います.
 また『西方』も,ちと違うなぁと感じるんです.
 でも『西』では確かに座りが悪いし....一番いいのは2文字で「西」の意味の単語があるといいんですけどね.

 ハンガリーの政党の Kisgazda 党も,日本のマスコミ等では「小地主党」と訳されることが多いのですが,スラブ研究センターの家田 修さんなんかは
「kisgazda は小規模の自作農で不在地主とは違う」
というので確か「小農業者党」とか,何とかいった訳語をあてられていたと思います.
 確かに概念としての訳語はこれが正確なのですが,これでは kisgazda というハンガリー語では日常語の,言わば,日本語では大和言葉に当たる用語の大切なニュアンスが失われてしまいますよねぇ.
 それに対しては僕は結構アレルギーなんです.
 何がいいんでしょうね?「百姓党」かな (^^;)?

 Feketesereg の訳語についても,今後考えて行きたいと思います.
 やはり座りの問題から一番いいのは2文字で「黒」だけの意味の熟語があるといいんですけどね.

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハプスブルクのエリザベート皇后(シシー)の侍従でフニャディ伯爵なる人物がいますし,戦前のハンガリーを旅行したイギリス人の旅行記にもフニャディ伯なる人物が登場しますが,これはヤノシュの兄弟の末裔でしょうか?
 オーストリアのスケート選手にフニャディ姓の人物もいますね.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 歴史の方は全然専門外なので,詳しくないのですが,一応,マーチャーシュ王のフニャディ家は Hunyadi と書かれることが多く(実際には当時は揺れがあった),後世のフニャディ家は Hunyady と書かれることが多かったと思います.
(y は i の古形です.音価はただの [i].)

 エルジェーベト・アマーリア・エウゲーニア王妃(エリザベート皇后)の侍従の件は存じあげないのですが(すみません),他のフニャディ家には1607年にルドルフ王から貴族の称号を受けたフニャド城県出身のナジ・アンドラーシュの末裔の“ケートヘイ伯爵”(あるいは“キシュクレスチェン貴族”)であるフニャディ家があります.
 おそらくフニャド城県の出身だったために(あの名門フニャディ家にあやかる気持ちもあって)フニャディ姓(「フニャドの」の意味)を名乗ったのではないでしょうか?
(もちろん,同県出身者ですから,親戚関係にもあったかもしれませんが,それに関する資料はないようです.)
 ハンガリー王国の中央政界でも錚々たる人物を輩出している一族です.
 多分,侍従の方はこっちの一族なんでしょうね.
 調べれば分かると思いますが....すみません,手抜きで.

 どちらにせよ,マーチャーシュ方のフニャディ家は血統が絶えていることは間違いないと思います.

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


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