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「まつりごと・いくさごと」:ジンバブエのコレラ

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 【質問】
 トーゴが国際連盟委任統治領となるまでの歴史を教えられたし.

 【回答】
 トーゴは
1960年にフランスから独立しましたが,そこに至るまでは,様々な紆余曲折があったりします.

 1884〜1885年にアフリカの分割を決定づけたベルリン会議により,西アフリカのこの辺りは,フランスがダホメー王国を支配下に組み入れつつあり,英国はアサンテ王国の支配を確立していました.
 しかし,両支配地域の中間に有る真空地帯に進出したのが,「遅れてきた植民地帝国」であったドイツです.

 ドイツは,アネホと言う地域の継承争いで確執する首長等を,協議の為にと言う理由でコルベット艦「ゾフィー」に招き入れ,その後彼等を人質にしました.
 そして,ムラバ王のトーゴがドイツと保護条約を締結した後,英国の保護下に入る事を望んでいたアネホのローソン王も屈して,ドイツと保護条約を結び,遂に今のトーゴを形成するアネホとトーゴの両地域が,ドイツの保護下に入ります.

 ドイツはそのトーゴに進出し始めると,少ないコストで統治する事を目指し,この地域をMusterkolonie,つまり,「模範的植民地」と評価しました.
 首都には,英国の関税を逃れる為の密輸の拠点となっていた割には一寒村に過ぎなかったアロメを,ロメと改称して整備し,1897年には植民地当局の首府に定めます.

 その後,ドイツによるトーゴ全域の制圧後,植民地当局は首長の権限を強化していきますが,元々,首長が「存在しない」地域では首長の「創出」が行われ,彼等首長は植民地行政機構の末端に配置されて,植民地当局からの原住民への法令や命令伝達の役割を担いました.
 首長の下には,小学校を修了した「開花民」が置かれ,植民地行政の末端に組み込みますが,1913年10月の法律により原住民が植民地当局の許可無しにドイツ人の姓を名乗る事は禁じられ,違反した場合は150マルクの罰金か,6ヶ月間までの強制労働付き懲役刑が科せられました.

 ところで,植民地では当然のことながら,経済の柱となる産品が必要になります.
 特に何も産品がある訳では無い見捨てられた地域であるトーゴに対して,ドイツ植民地当局が選んだのはカカオでした.
 このカカオの増産の為に,原住民の安価な労働力が動員されます.
 植民地当局では,これを「義務労働」と呼んでいましたが,実際は強制労働でした.

 また,トーゴ人労働者は他のドイツ領であったカメルーンや南西アフリカ…今のナミビア…にも移送されました.

 ところで,植民地から産品を搬出するには,国土のインフラ整備が必須条件となります.
 1904年には大型船舶が停泊できるロメ港の新埠頭が完成し,1910年にはロメ〜アネホ間44km,ロメ〜パリメ間119km,ロメ〜アタパメ間320kmの鉄道が整備されました.
 この鉄道の整備により,10〜15日要していたロメ〜パリメは2時間に短縮されましたし,1913年になると車輌が通行可能な道路の総延長は1,216kmに達しました.

 一方,今まで曖昧模糊としていたトーゴと他の地域との境界は,この植民地と境を接する英国とフランスとの間で断続的に協議が繰り返されてきました.
 英領ゴールドコースト(今のガーナ)との間に於いては,基本的にヴォルタ川を両植民地の境界とし,1901年に締結された独英協定では,北緯9度まではダカ川を境界線とする事,それ以北については将来的に決定する事,北緯6度10分〜北緯6度20分の間の境界線に関しては25万分の1の地図が出来るまで未確定の儘に留め置く事で両国が合意しました.
 フランス側とは,1885年の独仏基本合意で,トーゴと仏領奴隷海岸(ダホメ)との間の領土に関する協定で決定されました.

 しかし,こうした平和は長く続かず,1914年8月,ドイツは英仏露に宣戦を布告しました.
 第1次世界大戦の始まりです.
 広大な植民地では無く,しかも両方を連合国である英国とフランスに挟まれていたトーゴへは,1914年8月6日,西からF.C.ブライヤント中尉英国軍が,東からJ.マロワ司令官率いるフランス軍が侵攻します.
 特にフランスは,この戦闘で後に欧州戦線でも名を馳せた「セネガル射撃兵」450名を投入しました.
 ドイツ軍はロメを放棄し,鉄道と道路を破壊しながらパリメなど内陸部へと撤退を行い,英国軍は侵攻2日後にはロメを占領し,戒厳令を発布しました.
 因みに,その戒厳令は下記の様な内容です.

------------
 午後7時から午前5時半までは許可証保持者以外の原住民の外出を禁ず.
 午後8時以降,原住民は消灯しなければならない(外国人は10時消灯).
 原住民はアルコール飲料の売買を禁ず.
 欧州人以外の商会の商品は英国政府によって差し押さえられる.
 原住民商会の商店の鍵を本法令発布後6時間以内に司令官に提出しなければならない.
 遵守しなかった場合は強制的に扉を開ける事とする.
------------

 一種遣りたい放題の戒厳令ですね.
 結局,奥地に逃げ込んだドイツ軍も,1914年8月26日に降伏し,この地からドイツは駆逐されました.

 そうなると,今度は無主となったこの地を英仏どちらが支配するか,主導権争いが開始されました.
 ゴールドコースト総督のH.クリフォードは,ダホメ総督シャルル・ヌフラールとロメで会談し,トーゴ統治について協議しました.
 以前も触れましたが,クリフォード総督は,フランス側に対し,英領ガンビアとの交換によりトーゴと仏領ダホメを英国に引き渡し,英国がこの地を統治すると言う提案を行いました.
 これに対し,ヌフラール総督はポルトガル領ギニアの買収とリベリアのフランス保護領化を主張した為,領土交換は実現しませんでした.
 しかし,所得税や人頭税等の徴収の速やかな再開,行政活動の再開,占領軍将校による統治継続,占領統治地域について合意に至り,英国側はゴールドコーストを通じて鉄道と港湾を管轄し,ロメ県,ミサオエ県,ケテ=クラチ県,ダゴンバ地方のマング=イエンディ県の一部を統治し,フランス側はダホメーを通じてアネオ県,アタパメ県,ソコデ=バサリ県,マング=イエンディ県の一部を統治することになりました.

 英国側はこの地域をトーゴーランドと呼び,ゴールドコーストの1つの地域と位置づけて統治しました.
 ドイツ領時代の憲兵制度を維持し,ゴールドコースト警察の管理下に置き,教育水準をゴールドコースト並みに引き揚げる為に,47のブレーメン伝道団の学校をゴールドコースト植民地政府の下で運営する事になりました.

 一方,北部では英仏の支配に反発して強い抵抗が見られました.
 コンコンバ人,ロソ人,カビエ人からの武装抵抗が続き,中でもカビエ地方の呪術師ババ・ケネに率いられた500名の武装集団は,ケネがフランス軍に捕らえられ,懲役20年を言い渡されるまで,徹底的に抵抗しています.

 フランス側は1916年9月の政令で,占領統治地域に植民地副総督に相当するフランス共和国弁務官を配置しました.
 その後,フランス領トーゴはフランス領西アフリカ(AOF)総督の管轄下に置く事が規定されたものの,植民地相直属の共和国弁務官はAOFから一定の自立を維持しました.

 1918年,長い世界大戦が終わるとドイツ帝国は崩壊し,植民地も手放す事になります.
 そして,英仏支配が開始されるのですが,そうなると,トーゴのドイツ植民地当局で行政の末端を担っていた「原住民」エリートはその特権を失う危機に直面します.
 ドイツ語で教育を受け,植民地政府との密接な関係により社会経済的地位を確立したエリート達は,新たな宗主国との関係と利権の再構築を迫られますが,商用語として大戦以前から英語の使用が拡がっていた為,英国の支配下に入る事の違和感は比較的少ないものがありました.

 一方,フランスの統治下では言語の問題ばかりでは無く,直接統治が行われた事から,原住民の権利や宰領は著しく制限されます.
 その結果,原住民エリートの一部からはドイツの宗主国への復帰を望む声もありました.

 トーゴを英仏で分割する境界は,1919年7月の英外相ミルナーとフランス外相シモンとの合意で1度修正されましたが,英国によるトーゴ全域の統治を望むトーゴ人から請願が出されました.
 トーゴが分割され,生活圏が分断された南部住民は権益回復の為,"Ewe-speaking tribe",即ち「『エヴェ語を話す部族』を分断している」と,初めて対外的に「エヴェ族」と言う名称を使用しました.

 英仏によるトーゴ分割により,その生活圏を二分された事を契機としてエヴェ人としての連帯意識が強まり,それがトーゴ人エリートによって政治的なアイデンティティとして担ぎ出されました.
 しかし,エヴェ統一運動はトーゴ全体から見れば連帯だけで無く,植民地体制に於いて開発から取り残された北部非エヴェ人に対する排除を生み出しました.
 エヴェ人による北部人への差別と排除は,独立運動の過程で強化され,独立後の政治に苦難をもたらしたパンドラの箱になっていったのです.

 ともあれ,国際連盟が発足すると,露骨な植民地という表現は無くなり,旧ドイツ植民地は委任統治領として再出発します.
 実際にはそれは新たな植民地分割にしかなりませんでしたが….
 トーゴとカメルーンの委任統治は,1922年7月に発効しました.

 国際連盟協約第22条に基づき,正式にトーゴの委任統治が開始されます.
 委任統治国は国際連盟に定期的な報告義務を負い,住民は国際連盟への請願権が認められていました.
 それは名ばかりのものでしか有りませんでしたが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/23 23:13
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 委任統治領時代のトーゴについて教えられたし.

 【回答】

 さて,委任統治が始まったトーゴでは,弁務官に就任したフランスのボンカレールが,"Conseil des notables"(名士委員会)を設置し,原住民有力者の囲い込みを行いました.
 そして,行政単位としては,Cercleと言う現在の県に相当するものが設置され,その司令官は弁務官代理として,行政長官,警察長官,裁判官の権限を持ち,人頭税の徴収権,徴税管理,義務労働の動員を行いました.
 これは後の独立を控えた時期にCircumscription administrativeとなり,現在では県と名称が変更されています.
 更に,Cercleと村の間にはCantonが設置され,原住民からCanton長が任命されました.

 Cercleの司令官は村長やCanton長である伝統的首長に対して徴税の強化を指示しました.
 住民から直接徴税を行うAgent recenceur(人口調査人)は住民達に最も恐れられた原住民官僚でした.
 しかし,国内や国外移民が多く,労働力確保を目的とした人口調査は困難を極めました.
 因みに,原住民官僚の多くはエヴァ人やミナ人などの南部出身者が占めていたので,北部にも彼等が配置されました.
 この為,植民地行政を通じて南部人による北部人への優越意識の形成に繋がっていきます.

 ドイツ時代同様,植民地インフラ整備の為に強制労働や超低賃金労働が課されました.
 Capitation(人頭税)を現金で納付できない場合は,12日間を最大とする実質的な強制労働であるTravail-impot(労役)が課されました.
 強制労働は,フランスの委任統治領となった1922年には総ての成人に対し年4日の無料の労働義務が課されています.
 人頭税は,フランス統治下の1920年代後半には地域によって異なるものの,月に5〜7.5フランが課され,この免除の為には1930年には40フランの納税が必要でした.
 更に,「無知で野蛮な」人々と労働契約を交わして労働力を確保し,植民地の鉄道,道路,港湾,建設などのインフラ整備,輸送システム,プランテーション農場の「開発」を急ぎました.
 強制労働は,実に第2次世界大戦後の1946年まで廃止されず,それも名目上で,その後も労働の強要は,Travail Communautaire(共同体労働)という名称に換えて継続されています.

 ところで,英国のゴールドコースト総督から1922年4月11日付の委任統治領トーゴーランドに関する報告書に於いて,フランスの委任統治領との境界修正の必要性が指摘されました.
 トーゴでのカカオ栽培が拡大するにつれて,境界地帯を越えて農場労働者が移住した事が,同地域の土地問題を複雑化させ,やがて農民同士の衝突に発展した事が原因で,係争はその後も続き,両トーゴから国際連盟への提訴を求める動きが出て来ました.
 その問題が最も顕著になったのがBuemとAkpossoの両地域でそれぞれの統治国は互いの不法越境者を逮捕し合っていました.

 1926年末,英仏合同のFranco-British Boundary Commission(境界委員会)が設置され,境界修正作業が開始されましたが,特に境界が共同体の生活圏を分断している地域に於ける境界修正作業は困難を極めました.
 当然,こうした居住地域を分断する境界修正作業では,当事者である地元住民の協力を得られなかった為です.
 例えば,マヨンディ村と言う場所では,Sprigateの2万分の1の地図に於ける記載位置がダミツィ川の反対側に記載されているという単純ミスにより,混乱が生じました.
 この地域は境界再確定作業の結果,アポソ地方は仏側に,ブエム地方の一部は英国側に譲渡される事になりました.
 ドイツ時代に作られた地図はこの様に不正確であり,自然境界線となる川が記載されているにも関わらず,その川は雨期にしか現れない事か作業を遅らせました.

 結局,この境界確定は,3年近くを経た1929年10月に議定書,1930年9月に交換文書が取り交わされ,やっとトーゴの境界線は決定しました.
 因みに,この境界線は,独立後のトーゴとガーナの国境線として継承される事になります.

 この様に境界が画定された後は,税関手続きを介さない越境の商いは,Smuggling(密輸)と呼ばれて非合法とされました.
 第1次世界大戦前の1904年,トーゴとゴールドコーストの間の関税は,4%から10%に引き上げられていたので,密輸のインセンティブは非常に高いものがありました.
 その後もこの流れは続いていたのです.

 ところで,アフリカへは1919年のサンジェルマン・アン・レー条約により,酒類の輸出が禁じられました.
 これにより英国は酒類の輸出を著しく制限しました.
 しかし,既に欧州の酒は儀礼や贈答に不可欠となっていた為,首長達は猛烈に反対します.
 一方,フランスは酒類の禁輸をそんなに積極的には行いませんでした.
 仏領トーゴの関税が英領のトーゴーランドよりも安かった事に加え,ロメから内陸部まで延びる鉄道輸送は輸送コストが安価になる事で輸入製品の価格は仏領トーゴの方が安く入手できる事から,酒を中心に仏領側の密輸のインセンティブは更に高まっていきます.

 この「密輸」活動は境界の両側に居住する「部族」の協力がありました.
 ベンチャービジネスとして組織化が進み,「ハウサ」と呼ばれる境界越えの運び屋も登場します.
 こうして,人々は密輸という共同作業を通して植民地境界による「分断」を強く認識するようになり,やがて同胞意識が醸成されるようになりました.

 フランスの委任統治支配は,実際には植民地支配のそれでした.
 仏領トーゴの内部に於いて,行政当局はトーゴの人々を南部の「開化民」と北部の遅れた人々に二分化し,差別構造を固定化していきます.
 北部の人々は,フランス人からの評価を踏襲して南部の人々からもPrimitif(野蛮)と言う烙印を押されて蔑視されました.
 また,北部の人々は,南部よりも人口密度が3分の1にも関わらず,人口過剰による耕地不足を理由に南部での開発に動員されるようになります.
 しかし,北部の人々にとって,移住させられた南部は「食べる為に住み,やがて去る場所」であると言う認識を持っていました.

 カビエ人をトーゴ中部へ移住させる為,ボンカレール弁務官殿自らが北部に赴いて説得に当たりました.
 移住者の選定や供出には伝統的首長の協力が不可欠でした.
 移住者に対しては,優遇措置として小屋建設や耕作の為の道具支援,移住後1年は所得税と労役の免除が検討され,移住者には何時でも故郷を訪れる自由がある事を強調しました.
 こうして集められた移住者は総計で15,000名にも達し,アタパメCelcle司令官は,弁務官に対して,北部の人々を鉄道工事の為に南部に移住させる事によって人口過剰問題も解消し,それらの人々を分明に近づける事が可能であると報告しています.

 しかし,移住先では苛酷な労働と新しい土地での生活に馴染めない人も又多くいました.
 英領より仏領の方が人頭税が重い事は人々の周知の処でしたから,英領への越境逃亡者が後を絶ちませんでした.
 逃亡者達は山を越えて英領トーゴーランドに入ったほか,同じ仏領でありながらも税が軽いダホメ植民地へも向かいました.
 クルトCercle司令官から弁務官への報告では,ソコデCercleで徴用された40名のカビエ人労働者のうち,19名しか到着しなかったと言います.
 やがて,この強制移住政策に関しては,フランス人,つまり白人からも起こりました.
 例えば,北部で伝道活動を行っていた伝道師から弁務官に対して,ダホメの金鉱山で労働力を確保する為に強制移住が行われ,逃亡したトーゴ人の中には英軍に入隊し,エチオピアやリビア戦線で負傷した者がいると記された抗議文が送られています.

 弁務官は強制移住させたカビエ人やロソ人の集団逃亡に対する対策として,各Cercle司令官に対し,各行政区に居住するカビエ人とロソ人の人口調査を指示し,当局による労働者と移住民との区別を行う事,散逸する原住民の集落への集団居住と司令官による「部族」集団の代表者の指名,集落超への外部からカビエ人・ロソ人流入を阻止し,即座に司令官に報告する事を集落民に指令しました.

 仏領からの原住民逃亡は,英国側の行政文書にも記録されています.
 1930年には英領の1つディストリクトに150〜200名のトーゴ人が重税逃れの為に流入しました.
 英国側の移民の処遇は,基本的に出来るだけ人口の過密で無い地域に定住させる事が推奨されていました.
 行政当局からは,定住者を受け容れられなくなった場合には首長の判断で仏領トーゴからの移民定住を拒否できる事,仏領からの帰還要求があれば原住民に仏領に戻るよう説諭する事,もしくは労働力が必要な南部のディストリクトに送る事が指示されています.

 移民の対象とならなかった北部住民にとって,強制労働と重税や差別から逃れるには境界を越えるか,フランス植民地軍へ入隊するしかありません.
 因みに,委任統治領では徴兵が禁じられていますが,ダホメ植民地の住人として植民地軍に徴兵されたケースがあります.
 入隊したトーゴ兵は,その後,第2次世界大戦,インドシナやアルジェリア戦争で前線に投入されました.
 その中には2005年に死去するまで38年間,独立したトーゴに君臨し続けたエヤデマ大統領も,若き日に歩兵としてインドシナやアルジェリア戦争に従軍していました.
 こうした植民地時代の徴兵の地域的及び民族的偏向は,独立後のアフリカ諸国に於ける軍の構成での出身別偏向を生み出す切っ掛けとなっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/24 23:16
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 エヴェ統一運動とは?

 【回答】

 トーゴ南部に住んでいるエスニック集団をエヴェ(Ewe)人と言います.
 エヴェ人は現在のナイジェリアのIfe辺りから西へ移住を重ね,17世紀頃に東方の現在ベナンとなっているKetouやTadoからNotseに移住してきたとされています.
 この様に,エヴェ人はトーゴに於ける先住民とは言い難い部分もあります.

 第1次世界大戦後,ゴールドコーストと英領となったトーゴランドの間では労働の為の移民が数多く行き来しました.
 この為,トーゴランド南部のいくつかの地域では,元々住んでいたエヴェ人よりもアカン系の人口が上回るようになりました.
 そこで,トーゴランドでは,アカン人など他のエスニック集団と区別する為にエヴェというエスニックアイデンティティが強調される事になります.
 そして,国際連盟に対してエヴェ統一,即ち,英国とフランスに分割されたトーゴ南部のエヴェ地域を1つの地域に統合する事に関する請願が行われました.

 当然,こうした請願を取り上げると,英仏両国の不快感を招きます.
 従って,国際連盟としては,主要構成国である英仏との摩擦を回避する為,エヴェ問題に対する対応は鈍かったのです.
 尤も,1937年の英国委任統治領トーゴランドに関する報告書では,エヴェ人によるアメガ首長国の建国について言及されています.
 しかし,英国政府はエヴェ人が他の土地から移住してきた人々であるとして,エヴェ統一運動の正統性に関して懐疑的であり,これ以上の進展はありませんでした.

 ところで,第2次世界大戦中,仏領トーゴはヴィシー政権の勢力下に置かれ,敵となった英領との境界を閉鎖しました.
 しかしながら,境界の向う側に住む親族の葬儀の為の越境までも禁止した事から,ヴィシー政権に対してトーゴの人々は不満を募らせ,分断されたエヴェ人による統一運動は徐々に影響力を強めていきます.

 そして,エヴェ後新聞が登場し,エヴェ文化の昂揚を目指す運動が拡大しました.
 1946年になると,エヴェ統一運動を纏め上げる為に,ゴールドコーストの首都アクラでAll Ewe Conference(AEC)が結成され,仏領トーゴでは後にトーゴ独立後の初代大統領となるS.オリンピオが率いるComitie de l'unite togolaise(CUT)が政党として名乗りを上げています.
 因みに,元々CUTは1941年に親仏組織として結成されたのですが,1946年に事務局が改編されてA.ドゥ・スーザを党首,オリンピオを副党首,サヴィ・ドゥ・トヴェを事務局長として大きく方向転換したものです.

 1947年,AECは国際連合の信託統治委員会に請願書を出したことにより,エヴェ問題は国際社会に認知されるようになりました.
 1948年に国際連合でトーゴランド諮問委員会が設置され,英領及び仏領トーゴからそれぞれ2名の代表が選出されました.
 委員会の協議に依ってパスポートは不要となり,関税も緩和されました.
 後に英仏両政府は両トーゴ協同の拡大評議委員会を設置し,仏領から28名,英領から17名の合計45名による意志決定機関としますが,エヴェ統一運動家は排斥されました.
 1949年,J.コージー率いる英国調査団が英領ゴールドコースト全体の意志決定に南部トーゴランドからの政治参加を可能とする為の法整備を勧告します.
 その結果,ゴールドコースト立法議会に於いて南部トーゴランド代表に3議席が与えられ,1952年にはトランス・ヴォルタ地方が設置されました.

 その直後の1950年代に入るとゴールドコーストでは,ンクルマの会議人民党(CPP)が躍進します.
 当時,ンクルマと対立していたアーデン=クラーク総督もエヴェ統一や独立を阻止し,トーゴランドをゴールドコーストに編入する事で利害が一致したので協力しました.
 ゴールドコースト議会はヴォルタ地方開発に100万ポンドの支出を表明し,ンクルマはカカオ栽培農民に対して資金貸付と農具の提供を行い,CPPへの支持を拡大させていきました.
 一方で,エヴェ統一派は当局によって集会を妨害されていました.
 こうした露骨な操作の結果,1954年にはヴォルタ地方の13の議席のうちCPPが南トランス・ヴォルタ・トーゴランドでは6議席中3議席,北トランス・ヴォルタ・トーゴランドでは7議席中5議席と,ヴォルタ地方全域の13議席中の過半数を占めていました.

 国連総会決議に従い,信託統治委員会は豪州人のR.A.ピーチーを団長とした調査団をトーゴに派遣しました.
 1952年8月21日から9月25日にかけてこの調査団は英仏トーゴの各地を訪問し,政党関係者,首長などからの聞き取り調査を実施しました.
 調査団来訪時のエヴェ人人口は,ゴールドコースト側に375,939名,英領トーゴランド側に138,996名,仏領トーゴ側に175,929名(後に29万に訂正)と報告されています.

 最終的に,国連信託統治委員会の勧告により,1956年にトーゴランドの帰属を巡る住民投票が実施され,ゴールドコーストとの合併を望む声が58%を占め,分離独立を望む人々を抑えて過半数を占めました.
 とは言え,北部ではゴールドコーストとの合併を望み,南部ではエヴェ人による分離独立を望んだように,住民の意思は正反対だったりします.

 ともあれ,この様に,英領トーゴランドはゴールドコーストへの合併を選択し,これによりエヴェ・トーゴランド統一運動に決定的な打撃を与えたわけです.

 一方,フランス側の人々も様々な事情があり,一筋縄ではいきませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/25 23:19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 独立後のトーゴとガーナとの確執について教えられたし.

 【回答】

 さて,トーゴでエヴェ統一運動を率いていたのがオリンピオという人物です.
 オリンピオは原住民では無く,ブラジルの解放奴隷の子孫の家庭に生まれ,ドイツ支配下で幼少時を過ごし,英領ゴールドコーストと英本国で教育を受けて職を得ました.
 そして,フランス委任統治領のトーゴで政治家としての頭角を現しました.
 一方,彼の政敵にはグルニツキーと言う人物がいましたが,彼はポーランド系ドイツ人の父を持ち,フランス植民地エリートの代表格でした.

 1945年,ヌタリ弁務官との意見交換の場に於いて,オリンピオはトーゴ人が欧州人になるつもりが無い事,AOFからのトーゴの自治を求め,フランス本国議会にトーゴからの代表者を出すことを主張していました.
 一方,CUTが最重要課題として掲げたのがエヴェ統一であり,1950年にCUTは4万人近くに党員を拡大していました.
 当初,オリンピオは仏領トーゴをゴールドコーストに編入させる形でエヴェ統一を果たそうと考えていました.
 これに反対する勢力として,南部ではトーゴ進歩党(PTP),北部では北部首長人民連合(UCPN)が結成されました.
 PTPは1946年にP.オリンピオ(CUTのオリンピオとは別人)によって結成され,指示層は原住民官僚やフランス市民権保持者でした.
 その後,PTPの指導者はグルニツキーになり,エヴェ統一運動とは反対の方向に進むことになります.
 もう1つのUCPNは1951年にフランスの後押しで北部の首長やエリートを中心に結成され,A.メアチによって指導されました.
 植民地当局は,PTPやUCPNに肩入れすると共に,CUTの運動員を逮捕して集会を妨害しています.

 1951年に行われた名士評議会改め行政区評議会の選挙では,全24議席のうち,南部ではPTPが,北部ではUCPNが圧勝して合計で23議席を得,CUTは1議席しか取れませんでした.
 1952年には行政区評議会から改組されたトーゴ領域議会選挙が実施されましたが,これも全30議席中,PTP-UCPN連合が22議席を抑え,CUTは8議席しか取れませんでした.
 しかし,この選挙は国連から自由で公正な選挙では無いとされています.
 1955年の国連トーゴ訪問団は,英領トーゴランドに関しては帰属問題を決する住民投票の実施を勧告しますが,フランスとの摩擦を回避する為に,仏領トーゴに関してはその住民投票の実施を求めませんでした.

 1956年,仏本国議会でLoi-Cadre,つまり,植民地基本法が議決されました.
 それによれば,トーゴはフランスの後見の下でより大きな自治的な地位を獲得しながらも,フランスの信託統治領に留まることになっていました.
 8月,トーゴ議会は「トーゴ自治共和国」となることを決定し,これはフランスの政令によって承認されると共に,10月の国民投票でも圧倒的な支持を得ました.
 そして,1958年になると仏政府の政令により「自治共和国」を「共和国」にする地位変更が行われました.

 1957年,リベリア大使のC.キング率いる国連調査訪問団がトーゴを訪れ,直接普通選挙による総選挙実施を勧告しました.
 そして,1958年の選挙では植民地当局の妨害にも関わらず,CUT等のエヴェ統一派は49議席中29議席を獲得して過半数を制し,選挙結果を受けてオリンピオが首相となり,内閣を組織して,トーゴの完全独立に向けて舵を切ることになります.
 こうして,10月の議会ではフランスからの完全独立が議決されました.

 他方,隣国ガーナは既に独立を果たしていたのですが,その関係は複雑化していました.
 ガーナ首相となったンクルマは,仏領トーゴを単一にして不可分の領土と主張し,ガーナの7番目の地方に併合すると強く主張していました.
 1958年8月,ガーナ政府は旧英領トーゴランドであった「トランス・ヴォルタ・トーゴランド地方」の名称を「ヴォルタ地方」に改名し,トーゴの独立前月にはトーゴ国境から10km以内でガーナ軍による威嚇演習を実施しました.

 両国首脳は不信感を互いに抱き,双方共に国境を越えて武装組織を送り込んでいるとの非難合戦にまでエスカレートしました.
 なお,これにはガーナは1958年の独立以来,政治的反対者を令状無しに逮捕・拘禁できる予防拘禁法を施行した後,班体制政治家のトーゴへの亡命に拍車が掛かった事も一因としてあげられます.
 こうした脅威には元来親英的態度を取っていたオリンピオも,フランスとの防衛協定を結ばせることになりました.

 トーゴの独立からわずか2ヶ月後の1960年6月,そのンクルマは首都ロメを5時間だけ訪問して大統領となったオリンピオと会談しました.
 この席上,ンクルマがトーゴを事実上ガーナの支配下に置く政治統合案を提案しますが,オリンピオはそれを拒否しました.
 ロメでの会談決裂後,ガーナ政府はトーゴがフランスに操られて反ガーナ政策を行っていると非難して国境を閉鎖し,ガーナは併合要求に応じないトーゴを包囲する為に,更にトーゴの隣国であるダホメー(今のベナン)と手を結びました.

 こうした危機下に於いて,オリンピオ政権は国民融和や国家建設というスローガンを掲げますが,その一方で,北部出身者を排斥します.
 オリンピオに対抗する政治家は投獄を逃れる為に亡命を余儀なくされました.
 これは予防拘禁法施行により反体制派が次々にトーゴに亡命したガーナと真逆の状態です.
 因みに,ンクルマの政敵でK.ブシアはオリンピオに対し,ンクルマから政権を奪取した暁には,ヴォルタ地方のトーゴへの割譲の裏約束をしていたと言います.

 こうした状況は,武力による政権交代によって改善の方向に向かいます.
 1963年1月13日にエヤデマが率いる北部出身のフランス植民地部隊退役兵達が大統領官邸に押し入って,オリンピオ大統領を銃殺しました.
 権力を奪取したエヤデマは,軍を手始めに国家部門への北部出身者の復権を進め,大統領にはフランスに亡命していたグルニツキーを呼び寄せて民政移管を行いました.

 これでガーナとの関係も改善に向かい,2月からは両国間の国境が再開されますが,6月には再びガーナ側から閉鎖されました.
 この国境閉鎖は1965年夏まで続きますが,トーゴがフランスとの防衛協定を新たに結んだことに反発して,1965年末から三度閉鎖されました.
 この3度目の閉鎖は,ンクルマが軍事クーデターによって失脚する1966年2月まで続いたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/26 22:21
青文字:加筆改修部分

 1967年1月13日,オリンピオを暗殺して民政移管をしたはずのエヤデマは,文民政治家の対立による政治的混乱を理由に,2度目のクーデターを起こし,自ら大統領就任を宣言しました.
 そして,1969年には「トーゴ人民連合(RPT)」を創設して一党独裁制を敷き,以後,2005年にエヤデマが病死するまで,当時のアフリカ諸国に於いて,王政の国を除いて最長となる政権を維持しました.

 当然,これに伴いガーナとの関係悪化が起こり,1969年には国境の物流は著しく制限されます.
 ガーナではブシア政権を軍事クーデタで転覆したアチャンポン政権が誕生し,トーゴとの関係修復を試みて,1973年にはエヤデマが2回に亘ってアクラを訪問して,国境合同委員会が設置されました.

 この様に,両国関係を改善しているように見せかけて,エヤデマは,貧窮に喘ぐヴォルタ地方のエヴェ人の多くがトーゴとの合併を望んでいるという理由で介入の機会を窺い,トーゴ統一問題を再燃させながら,旧英領トーゴランドであったヴォルタ地方の煽動を画策していました.
 しかし,エヴェ統一運動の勢いは,一時期ほどでは無く,1970年代終盤にはこの運動は事実上終息しました.

 1981年にガーナにはローリングス政権が誕生します.
 前政権と異なり,ローリングス政権はトーゴとの関係を然程重視すること無く,寧ろ悪化の方向に進んでいきます.
 両国国境は幾度となく閉鎖され,植民地時代に設置された境界指標が消失し,国境の曖昧な地域で牛殺しなどの事件が起こるに及んで両国の関係は緊張しました.
 また,この時期は,トーゴの隣国ダホメー(現在のベナン)やオートヴォルタ(現在のブルキナファソ)で革命政権が誕生していた頃でもあり,エヤデマ政権は,左翼政権に包囲することを恐れていました.

 トーゴでも民主化を求める動きが強まり,国民会議の招集による民主化プロセスが開始されると,エヤデマの支配が弱まり,政情が流動化していった1991年終わり頃,ローリングスはエヤデマ体制打倒の為にトーゴに窃かに軍事支援を行っていました.
 しかし,民主化以降の為の政府を率いたコフィゴ首相がガーナの介入を恐れてフランスに報告した為,ガーナによるトーゴ政府転覆は失敗に終わりました.
 因みに,ガーナ政府は他にもトーゴの反体制勢力によるラジオ宣伝放送(Radio Liberte)をガーナ国内から行う事を許可してもいます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/27 22:49
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ガーナからトーゴへの密輸問題を教えられたし.

 【回答】

 ガーナがトーゴの国境線管理を重視するのは,他にも理由がありました.
 第一次世界大戦後からもずっと問題になっていた密輸の問題です.
 ンクルマ政権では輸出物資であるカカオの生産者価格は非常に低く抑えられ,輸出価格との差額は政府の収入となっており,生産者に反映されませんでした.
 この為,トーゴのカカオ市場価格との差が歴然であり,その差は,密輸のインセンティブになりました.

 ガーナ政府が国境閉鎖を行ったのはその密輸封じでもあったのですが,その効果は余りありません.
 農産物ではカカオを始め,コーヒー,メイズ,米,ヤム芋,キャッサバ,椰子の実,工業製品としては石油や灯油も密輸されました.
 その他,女性用のウィッグ,石鹸,砂糖,冷蔵庫,テレビ,自動車部品靴,衣料品,化粧品,コンビーフ,香水や煙草などがガーナからトーゴに流れました.
 逆にこの地域一帯で布流通を取り仕切っていたNanas Benz(ベンツを乗り回す女性)と呼ばれる女性商人を通じて,布や織物を始めとして,魚の缶詰,角砂糖,ペン,トマトの缶詰,トタン屋根,ビールや薬などがトーゴからガーナに流れています.

 こうした流れは国境管理を厳しくし,法的締め付けを強化しても増える一方でした.
 アチャンポン政権では,密輸犯に対して材木,金,ダイヤモンドについては死刑,カカオについては15〜30年の懲役を科しましたし,ローリングス政権下では人民防衛委員会の下でカカオの密輸に対して取締が更にきつくなりました.
 しかし,1983年にナイジェリアが周辺諸国からの移民労働者を閉め出した結果,帰国した若者達は職から溢れ,結局,密輸に手を出すことになります.

 また,密輸では国境に住む女達の役割も高いものがありました.
 国境検問所を管理する軍曹の妻自身が密輸に関わり,石油製品の闇取引をしていたという事実もあったりします.
 それに,腐敗も深刻でした.
 1986年当時,国境の税関職員がトーゴへの密輸カカオを摘発し,ガーナのカカオボードに送ると,1人当たり233セディの報奨金を得ることになります.
 しかし,密輸を見逃すことによる賄賂は倍以上の500セディであり,これでは摘発するより見逃す方が儲かることになります.

 かくして,モノの流れは人の流れを生み,国境の町は様々な人々が集まるコスモポリタンと化していきました.
 国境の税関職員は往々にして密輸業者に買収され,更にトーゴの首都ロメは,西へ僅か2kmの地点でガーナ国境の待ちアフラオに接する為に輸送コストが下がり,密輸をより利益の多い活動としました.

 密輸に対し,ローリングス政権が執った手段は,罰則の強化のみならず,カカオ価格の政府統制を緩めることにより,トーゴとの価格差を縮め,密輸のインセンティブを減らすことでした.
 そうして,ガーナのカカオ生産者価格はトーゴのそれを上回る事も有りましたが,今度はトーゴからガーナへと密輸の流れが逆になった場合もありました.

 つまり,庶民は相当したたかであると言う訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/27 22:49
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 エヤデマ死去後のトーゴ情勢は?

 【回答】

 2005年,エヤデマが死去すると同時に独裁体制の終焉となるはずでした.
 しかし,北部人の既得権益層は,権力を手放すことは政府機関のポスト,財産だけで無く,生命をも失うことに直結すると恐れ,民主化と国民和解に耳を貸そうとしませんでした.
 結局,エヤデマが死んだとは言え,それで民主化が進んだわけで無く,息子のフォール・ニャシンベへの権力継承を生み出したに過ぎません.

 その既得権益層が何をしているかと言えば,「歴史の消去」です.
 1970年代までのトーゴではエヤデマを讃美する為,国家ぐるみの「歴史の捏造」が続けられました.
 しかし,どうしても血に塗れた独裁者のイメージを払拭することが出来ませんでした.
 その為,1980年代終盤以降は,「歴史の捏造」から一転して「歴史の消去」が図られました.
 具体的には,初等教育からトーゴに関する歴史の授業が廃止されたわけです.
 よって,30歳以下の国民の大部分は自国の歴史の沿革すら知らず,トーゴ史は謂わばエヤデマの個人史と同一化され,それは息子へと相続されました.
 結局,エヤデマの死が民主化や国民和解の場にはなり得なかったのです.

 日本でも教育の場から歴史を葬り去ろうと言う動きがありますが,それは民主国家であるとは言えません.
 歴史教育を少なくともきちんと継承しなければ,過去の間違いを繰り返すことになると思うのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/27 22:49
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 チュニジアのベンアリ政権崩壊について教えられたし.

 【回答】
 市民の抗議デモが,ベンアリ大統領辞任につながった,2011.1.14の事案.
 政権への抗議デモは,失業中の若者が焼身自殺を図ったのを機に,2010.12.17,中部シディブジドで最初に発生.
 高失業率や食料品価格の上昇,政府の腐敗への怒りから,全土に拡大した.
 ベンアリ大統領(74)は13日,2014年の大統領選に6選を目指して出馬しないと宣言したが,14日にはチュニスで,約8000人が大統領の即時退陣を求めてデモを展開.
 そのためベンアリは14日,大統領を辞任して同国を出国,サウジアラビアに事実上亡命した.
 ロイター通信などによると,到着先は同国西部の港湾都市ジッダ.
 出国先は当初,関係の深いフランスが有力視されたが,サルコジ大統領が受け入れを拒んたという.

 ガンヌーシ首相が臨時大統領に就任.
 その発表に先立ち,14日夜,全土に非常事態宣言を発令した.
 これにより3人以上の集会が禁じられ,治安当局には,指示に従わない市民に対する銃使用が許可された.
 チュニス郊外の国際空港は軍が制圧,閉鎖された.

 しかし,ベンアリ政権時代の閣僚の多くが留任したため,その退陣を求めるデモが,その後も発生している.
 また,イエメンやエジプトなどにも,民主化デモが波及した.

 パリの人権団体の集計では,12月以降のデモ隊と治安部隊の衝突で,計66人が死亡.
 これに加え,13日夜の衝突でも十数人が死亡したという.

※ 詳しくは以下のような状況だったという.
――――――
現地の人の説明では,
『国民が知ってたことがWL暴露の文書に+ベンアリ政権がその閲覧をブロック+露天商焼身自殺+抗議デモに治安当局の暴力→怒り爆発』」が経緯
>@masan822: …上杉隆氏,藤末氏…チュニジア革命はウィキリークスとツイッターで大統領の不正が人々に…

http://twitter.com/nofrills/status/27347702962462721
――――――

 【参考ページ】
中日新聞,2011.01.15付


 【質問】
 ウガンダ王ムテサによる,ブーマ住民虐殺について教えてください.

 【回答】
 19世紀の事,ウガンダの王ムテサの母親,ナマソルは激しい歯痛に苦しんでいた.
 耐え切れなくなった彼女が,祈祷師たちを呼んで占わせてみたところ,
「ブーマ地方の者たちに呪いをかけられています.
 すには,かの者たちを皆殺しにするほかありませぬ」
との答え.
 そこでナマソルは王の力を借り,ブーマ地方の住民2万5千人すべてを集め,ビクトリア湖に放り込んで溺殺したという.

 さて,2万五千人の命と引き換えに,ナマソルの歯痛が治ったか?
 その記録は残っていない.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 すいません,アミンって誰ですか?

 【回答】
 イディ・アミン・ダダ・オウメ(Idi Amin Dada Oumee,男性,1923年?-2003年8月16日)は,ウガンダの軍人出身の元大統領.
 ムスリム(イスラム教徒).
 身長2mを超す巨漢で,アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある.

 軍参謀総長だった1971年1月に,クーデターでオボテ政権を打倒して政権を掌握.
 アドルフ・ヒトラーを尊敬し,1970年代のウガンダに独裁政治を敷いた.
 反体制派の国民約30万人(40万人説もあり)を虐殺し,「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称された.ついたニックネームが「食人大統領」.
 1978年,隣国タンザニアに侵攻するも失敗,逆にタンザニア軍に首都のカンパラまで攻め込まれた.
 1979年,反体制派のウガンダ民族解放戦線に攻撃されて失脚.リビア経由でサウジアラビアに亡命した.
 2003年8月16日,亡命先のサウジアラビア,ジッダの病院で,多臓器不全による合併症で死去.

 余談だが,ボクシングのヘビー級チャンピオンになった経歴から,日本のプロレスラー・アントニオ猪木との異種格闘技戦の計画が浮上したことがあり,1979年1月にアミンは猪木戦を承諾したものの,反体制派クーデターの影響でお流れになったことがある.


 【質問】
 アミン大統領は本当に「食人大統領」だったの?

 【回答】
 やぁ! オレ,アミン!
 人を食ったとか云われてるけど,オレはやってない!
 冷蔵庫から政敵の頭が出てきた話を大きくしてるだけだって!
 本当に政敵食ってたら,冷蔵庫から頭なんか出てこないだろ?
 わかる? その辺.

アミン大統領
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その愛人

ベタ藤原 in mixi支隊


 【質問】
 アミン政権下のウガンダにて行われたアジア人追放について教えられたし.

 【回答】

 1972年8月,ウガンダは独裁者として知られるイディ・アミンが統治していました.
 当時,ウガンダには5.7万人ほどのインド系住民がおり,彼等の多くは英国植民地支配下でインド亜大陸から東アフリカへ移住した契約労働者,商人,職人の子孫に当たる人々でした.

 植民地支配下では,彼等は欧州系の支配層とアフリカ系の被支配層の間の「中間層」を形成し,時に彼等の社会的地位や富は羨望や反感の対象となっていました.
 更に,アジア系住民はまた,その宗教や社会習慣の違いから他集団と親しく交わらず,その排他性も彼等に対する敵意を助長したとも言われています.
 1960年代にはアフリカ各国が独立を選択したのですが,アジア系住民は,独立国の市民権を得ようとしませんでした.
 その上,1960年代後半には政治や経済の実権をアフリカ系に移そうとする「アフリカ化」の動きが活発化していました.
 この「アフリカ化」の動きにより,アジア系非市民の居住や労働の権利が既に大きく制限され,多くが失業や家族の分離に苦しんでいました.

 にも関わらず,英国政府は入国管理法の制定及び改正で,アジア系住民の保護を充分に行ってきませんでした.
 先ず,1948年,帝国支配の名残として,植民地及び英連邦の総ての市民に「英国臣民」として連合王国に自由に入国し,居住する権利を与えると言う,寛大な市民権の既定が国籍法によって確認されました.
 此の事は,戦後の深刻な労働力不足と相まって,1950年代初頭からカリブ海諸島,インド亜大陸を中心に旧植民地,特に新英連邦と呼ばれる地域からの移民労働者の流入増加を招きます.
 その後,1962年に施行された最初の英連邦移民法により,連合王国政府によって発行されたパスポートを持たない英連邦市民は,連合王国への自由な入国・居住の権利を失う事になりました.
 しかし,ほぼ時を同じくして,1960年代初頭に東アフリカ諸国が独立を果たした際,英国はコレラの国々に居住していたアジア系住民に対し,彼等が独立国の市民になる事を選択しないのであれば,「イギリス連合王国及び植民地市民」としての地位を維持することを許し,結果,多くの人々が,独立国家の国籍を選択せず,英国市民権を選択します.

 ウガンダでは1962年の独立の際,アジア人の約半数がウガンダに居住しながらも,この「連合王国及び植民地市民」としての立場を選んだとされ,結果,各国の高等弁務官事務所を通じて「連合王国パスポートを取得できる身分(United Kingdom Passport Holders:UKPH)」となりました.
 この為,パスポートの発行元によって入国管理の対象となるものを決定する1962年の英連邦移民法による入国の制限は彼等には及ばないことになりました.
 これは,政府の明白な作為と言うよりは,新英連邦からの移民を制限する為の入国管理政策の意図せぬ結果ではありましたが,当時から関係閣僚や官僚等によってその結果を充分認識していたと言われています.

 同様の経過を辿ったケニアでは,1960年代後半にアフリカ化政策が打ち出されると,アジア系のUKPHは英国への入国の権利を行使し始めました.
 新たな「有色人種」移民の流入に対して英国国民の反発は大きく,1968年,時の労働党政府はその対処として新英連邦移民法案を僅か3日で通過させました.
 この法律の下では,連合王国パスポートを所持する者であっても,彼等か彼等の父母,若しくは祖父母の何れかが英国で出生しているか,連合王国に於ける養子縁組,登録,帰化,若しくは英連邦国での登録によって連合王国の市民権を獲得している者以外は,入国管理の対象になるとしました.
 政府は同時にバウチャーによる入国許可制度の導入により,毎年の割当によって東アフリカ諸国からのアジア人流入を規制しようとします.

 この68年法は連合王国のパスポートのみを所持する「英国市民」であっても,無条件で英国に入国する権利は持たないと言う「二級市民」を作り出す結果となりました.
 更に,この法律はインド,パキスタン,東アフリカ諸国などのこの決定に密接に関係を持つ国々の政府に相談の無いまま制定された為,英連邦諸国の不満も大きなものでした.
 その後,1971年移民法を制定した保守党のヒース政権はUKPHに対する割当数を増加させましたが,それでもウガンダ居住の全アジア人を退去させるには40年近く掛かる計算でした.

 アフリカ化の圧力が高まる中,アジア人の中には許可無しで英国に入国しようとする者が多く現れるようになっており,英国を含めどの国にも入国を許可されないまま,空港から空港へと世界中をたらい回しにされる事態も多発していました.

 ウガンダでは1972年8月,入国許可を求める世帯主のリストは,3,000名余りに達していました.
 この状態で,ウガンダのアミンは,1972年8月5日,ウガンダの経済は同国の市民,特にアフリカ系市民の手に握られなくてはならないと主張し,インド系非市民に対し,その日から90日以内の国外退去を申し渡しました.
 アジア人の追放は,その少し前に行われたイスラエル系住民の追放と同様,国が抱える様々な問題から国民の注意を逸らし,マイノリティを迫害することで政権の人気を回復しようとする狙いがあったと言われています.

 この後,アジア人の多くが出国に際して財産を残し,僅かな持ち物まで奪われて,殆ど無一文での移住を余儀なくされる事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/28 23:34
青文字:加筆改修部分

 ウガンダのアミンは,1972年8月5日,インド系非市民に対する90日以内の国外退去を申し渡しました.
 この措置は国際社会を困惑させます.
 特に追放されるアジア系非ウガンダ市民の大半が英国市民であった事から,その責任を担う国として名指しされた英国は何処の国よりも困難な立場に追い込まれることになりました.
 皮肉なことに,1971年1月にアミンがオボテの親社会主義政権をクーデターで転覆させて政権の座に就いた時,英国は強い歓迎の意を表していたりします.

 それは扨措き,8月11日,英国政府は事態の収拾を図ろうと,ランカスター公領相のジェフリー・リッポンを派遣し,外交交渉によってアミンを説得しようとして失敗します.
 しかし,ただで起きないのが英国政府.
 直後にリッポンはカンパラで記者会見を開き,英国政府が連合王国パスポート所持者に対する責任を引き受けるとの意向を表明しました.
 その1週間後には,内相ロバート・カーが移住者の再定住に当たっての対応を調整する為の「ウガンダ人再定住協議会」を設置する事を発表しました.

 ところが,当時の英国は「英国病」と呼ばれるくらいの不景気にあり,アジア人の受入を表明した政府に対して,反対の立場を執る政治家などから激しい反対の声が上がりました.
 例えば,1968年に「血の川演説」で移民増による暗澹たる未来を予測し,物議を醸したことで有名なイーノック・パウエルは政府の対応を手厳しく非難しました.
 8月24日には,食肉運搬業者等がロンドンの街中を「国民戦線」などの極右団体の代表者と共に,「アジア人を入れるな」と訴えながら歩きましたし,この様な極端な反移民勢力のみならず,各国会議員の元には選挙区民から,更なる「移民」流入に不安を訴える手紙が届き,又世論調査では,国民の大半がアジア人の速やかな受入に反対の意を示していました.

 国民ばかりで無く,地方自治体からは,最低中による財政的な新たな負担を心配する不満が噴出しました.
 例えば,イングランド東中部レスター市当局では,既にアジア人に民が多く居住する同市に,新たに入国するアジア人が惹き付けられることが容易に予想されたため,政府の決断に直ぐ様反対を唱えました.
 因みに,レスター市では9月中旬にウガンダの日刊紙『ウガンダ・アーガス』に広告まで出して,アジア人にレスターに来ないよう促しています.

 しかし,これだけの反対があっても,英国政府の態度は基本的に揺るぎありませんでした.
 この速やかで断固たる決断の背景には,これまでの入国管理措置の厳格化の経緯により,英国が「英国市民」である連合王国パスポート所持者に対する責任を放棄した場合,国際社会の非難を避け難いであろうと言う政治的判断が働いたのです.
 国際法の下では,パスポートの発行国には,居住国から追い出され,他の国に居住を受け容れられない市民を受け容れる義務が生じます.
 また,1968年の英連邦移民法審議の際,この責任は当時の内相であったジェームス・キャラハンによっても明言されていました.
 キャラハンは当時,連合王国パスポート所持者が職も住む場所も奪われた時にはどう対処するかと言う質問に対して,「受け容れるしか無いであろう.他に取りうる行動の選択肢は無い」と言い切っています.

 つまり,英国政府はアジア人の受入に対し明らかに消極的でしたが,その法的・政治的義務を全うしなくてはならないことを自覚しており,又それを放棄した場合,国際社会,特に英連邦諸国の反発が大きいであろう事を充分に予測していたのでした.

 ただ,決断は早かったものの,その後の受入についてはその果断さと対照的な形を取っています.
 英国政府は少なくとも3ヶ月間に及ぶ「危機」の前半に於いて,入国許可の発行などアジア人を移送するに当たっての手続きを遅延させ,初期の流入を段階的に制限したのです.
 書類の発行は9月半ばまで極めて遅々と行われ,高等弁務官事務所に呼び出された人数は1日に僅か50名程度でした.
 8月から9月にかけてカンパラの高等弁務官事務所前には,何千人ものアジア人が許可証を得ようと列を作り,泊まり込む者も多くいたのに,高等弁務官事務所の書類の処理は当初,アミンの退去命令以前に入局許可の申請を行っていた3,000世帯のみに限定されていましたし,その比較的早く入局許可を得た人々も,早期の退去を押しとどめていました.

 当時,ウガンダの情勢はこうしたのんびりとした措置をまっている時間はありませんでした.
 アジア人の出国と英国の受入に尽力していた慈善団体のメンバーの中にはこれについて懸念や怒りを表明した人もいました.
 例えば,「英国教会審議会」のエリオット・ケンダルと言う人物は,9月半ばにカー内相と会談した際,カーが「処理の遅れ」を認めた上で,その原因をヒースロー空港職員の間に反移民感情が見られ,アジア系移民への対応を拒んでいるため,また,英国政府がアジア人にとって「よりよい目的地の選択肢」を与えられるように外交的努力を行っているためであると述べているのを聞いています.

 この他,移送を遅らせた要因としては,英国とウガンダの両国政府の間で,英国とウガンダのどちらの航空会社がアジア人を移送するための特別便を運行するか,また,その費用をどちらの政府が負担するかについて中々合意に達しなかったと言うのもありました.
 英国政府は,ウガンダ政府が事務的能力に於いて無能であると非難しているのですが,実際には9月上旬までの時点に限るならば,英国側の書類の発行の方が遅れていました.
 また,アジア人側にも,ウガンダに留まる希望を捨てきれず,出発の準備に時間を掛けていた者もいたりします.

 こうして時間だけがどんどん過ぎていくことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/29 23:45
青文字:加筆改修部分

 さて,ウガンダでの非ウガンダ人の危機に際して,当初,英国は余りにも冷淡でした.
 ウガンダからのアジア系住民の引き揚げはある程度可能とされていたのにも関わらず,英国に滞在するアジア人が集中し,国民の反発が高まることを懸念して,臨時フライトの追加を英国の航空会社に働きかけをしない事にしていましたし,こうした非効率の責任は「我が国には無く,アミンの側にある」と結論づけていました.

 閣議の中でも,連合王国パスポート所持者の期限内の退去を可能にするための「積極的努力」が何処まで必要かと言う議論の中で,閣僚達は「最小限の仕事しか行わないことが我が政府にとっては国内的利がある」という点で合意に達していました.
 とは言え,アミンと彼の軍が予想の付かない,非道な行いに走る事で,これらアジア人が深刻な危険に晒されるかも知れないことは充分認識されていました.

 しかし,アジア人への関心の低さとは対照的に,ウガンダ国内に残っていた7,000名ほどの「帰属者」,即ち,血縁的に英国との繋がりがある「白人」に対しては,この時点では追放の対象で無いにも関わらず,9月下旬から綿密な緊急国外避難計画が準備されていました.
 秘密裏の計画は数度に亘る会合の中で綿密に,且つ継続的に準備され,特に彼等「帰属者」の身に危険が迫っていると思われる場合には,英国軍による介入も辞さないことが明言されていました.
 因みに,「帰属者」のうち約半数は11月始めまでにひっそりと退去し,彼等が実際に国外退去を命じられた12月初旬にはその数は約3,000名にまで減少していました.

 この原因としては,1つは国民世論の反発を抑え込みたいと言うのが第1,短期の間に移民の入国が急激に増加することによって国民の反発が煽られる可能性が高いと政府が考えていた事,もう1つは,外交的交渉によりアミンが妥協するであろうという事に一縷の希望を抱いており,最後に,第三国に対して少しでも連合王国パスポート所持者を分散し,英国の負担を減らすことを期待していたのもあります.
 最後の点に関しては,実際,8月後半からの約1ヶ月間,英国政府はアジア人の一部受入による援助を50カ国以上の国に打診していたりします.

 ところが,こうしたサボタージュとも言える行為は,9月半ばに大きく変化します.
 9月14日,高等弁務官事務所に対して英国政府は,9月18日以降,「秩序あるやり方で処理を行う為に,更に世帯主を呼び出す」様,手配を行い,また週4便の追加フライトを許可しました.
 これ以降,アジア人の移送は急速に進展し,11月始めの期限までに約2.7万人の輸送が完遂されたのです.

 この変化の要因は2つ挙げられます.
 1つはウガンダ政府側がアジア人の財産処理を更に迅速化したことです.
 ウガンダ側の処理が英国側の処理スピードを凌いでいることが明白であると言う,カンパラの高等弁務官事務所からの連絡を受け,9月14日,カーはヒースに対して,多くのアジア人がウガンダ側の処理を終わらせながら,英国側の処理の遅れにより大挙しない上京は望ましくないものであり,英国が「わざとアジア人の出国を遅らせている」という非難を免れないという懸念を表明しています.
 また,これ以上の遅延でアジア人の側にパニックが起きた場合,多くのアジア人は自らの西鶴で勝手に間接的ルートを用いて入国し,既に移民マイノリティの居住率が高く,アジア人の定住が望ましくないレスターのような地域に落ち着いてしまうことも憂慮されました.

 更に,外交的交渉により,他国がアジア人を受容れる事に同意し始めていたのもありました.
 この頃までにカナダ,米国,ニュージーランドなどが一部受入に同意し始めていましたし,特に受入を渋っていたインドとの交渉が漸く纏まりつつありました.
 インドは最終的に「一時的に」と言う条件付ではあるものの,最も多い1.5万人の受入に同意したのです.
 このインドへの帰還について,英国は一旦インドに入国してしまえば,アジア系住民が更に英国に再移住することは無いであろうとの見通しを立てていました.
 アジア人は「故郷」であるインドに迎えられるのが彼等にとっても光復であると主張し続けていた英国政府にとって,これは朗報と言えるものでした.

 最後に,世論の反応が気がかりではありましたが,この直前にアミンがナチス・ドイツのユダヤ人虐殺を讃美するような発言を行った事で,フライト増便に対する国民の反応が好転する事を期待していました.
 当時の世論調査に依れば,危機発生当初には,アジア人の受入に対してかなりの抵抗感が示されていました.
 8月に行われた調査では,「英国政府は直ちにウガンダからの連合王国パスポート所持者を受け容れるべき」とする回答を選択したのは僅かに6%でした.
 9月上旬の同様の調査でも,32%の回答者がアジア人受入に賛成していたものの,57%が依然として反対を表明していました.
 しかし,9月下旬の調査では,回答者のうち,ウガンダから追放されたアジア人に対する英国政府の対処に賛成の意を示した回答者は,前回と大きく変わって54%にまで増加しており,反対の意を示した回答者は30%にまで減少しました.

 つまり,この変化には英国民はアジア人受入に抵抗感を捨てきれない一方で,アミンの行為に対する非難が高まるにつれて彼等に同情的になっていった訳です.
 その原因となったのが,メディアによる報道でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/30 23:33


 【質問】
 ウガンダ・アジア人受け入れについてのマスコミの対応は,英国の国民感情をどのように動かしたのか?

 【回答】

 さて,英国政府の対応と別に,この問題を巡るマスコミの対応が,大きく国民感情を左右しています.
 最も感情的な反応は,全国紙でも最も右寄りのタブロイド紙であるDaily Express,またレスターの地方紙であったLester Mercuryでした.
 前者は,政府の対応を厳しく批判し,英国はアジア系住民を受け容れる責任など一切無いと主張し,連日,アジア人の流入に反発する読者からの声を掲載し続けました.
 後者も,政府の対応を批判したのは批判しますが,こちらの主な関心は,アジア人が退去してレスターに押し寄せ,住み着くのでは無いか,と言う懸念にありました.

 全国紙の大半も,当初は多少のパニックに見舞われました.
 当初,流入の規模がはっきりしなかったこともあり,左派系の高級紙であったGuardianでさえ,
「英国,8万人のアジア人流入に直面の可能性」
と悲痛な見出しを掲載し,また他紙も挙ってアジア人の"flood"とか""invasion"と言う表現を用いましたが,前述の2紙ほどは感情的にはならず,その後落着きを取り戻すと,アジア人に対し英国政府が何らかの責任を有しているという事実を受入れる様になっていきました.

 先ず,当時の全国高級紙や大衆紙の報道からは,主要な全国紙がこの時期,ウガンダに於ける軍の暴虐行為を熱心に,又センセーショナルに報道し続けています.
 同時に,アミンは社説から漫画に至るまで,「残酷な独裁者」「理性を欠いた狂人」など徹底的な悪役として登場し,また屡々ヒトラーにも例えられました.
 此の事はアジア人を,理屈の通じない暴君,唾棄すべき「人種主義者」の「野蛮」な行為による犠牲者として位置づけることに繋がりました.
 また,当時の漫画に於いて,「アミン=人種差別主義者」と言うイメージが溢れており,屡々南アフリカの「アパルトヘイト」と比較され,時にはアミンの「非道な人道主義」との対比によって南アフリカの人種差別を矮小化しようとするような傾向が見られていたりします.

 メディアはまた,アジア系住民が中流階級的バックグラウンドを持ち,職業的技能を有する人々であると言うイメージも広く流布させました.
 彼等は「アフリカのユダヤ人」とか「ウガンダのユグノー」と称され,英語を流暢に操り,英国文化の知識があり,それは彼等が英国に移住したとしても「英国的生活様式」に難なく馴染めることの証左であると考えられました.
 この,メディアによって喧伝された画一的なイメージは「アジア人流入危機」への恐怖感を薄れさせる効果を持つ一方で,実際にはより多様であったアジア人達の実情とは必ずしも合致せず,後に彼等の再定住プロセスに於いて困難を引き起こしたと言う指摘もあります.

 政府側でも,メディアの表象,特にメディアがアジア人を寄る辺ない,不運な犠牲者として表象することによって得ることが大きいことを充分認識していました.
 9月21日の閣議に於いて,大臣達は「一般市民は今やアジア人連合王国パスポート所持者を『真正の難民』として受入れる様になった」と述べ,此の事がアジア人受入と定住を容易にすることに繋がるであろうとしています.
 とは言え,彼等アジア人が「難民」と定義された訳でもありません.
 しかし,実際にはウガンダから追放されたアジア人は,「英国市民」或いは「連合王国パスポート所持者」と言う扱いでは無く,「難民」或いは「亡命者」と呼ぶようになっていました.
 例えば,アジア人の到着を伝えた各紙の記事に於いて,アジア人を呼ぶのに最も多く用いられている表現は"refuges",つまり,「難民」です.
 全国高級紙でさえ,彼等のことを「難民」と言う言葉を用いるようになっています.

 本来,連合王国パスポート所持者は,広義の英国市民である筈ですが,それを「難民」と言う扱いにすることが,政府にとって利があるという認識が政府側にはありました.
 内務省高官が外務連邦省高官に宛てた書簡の中で,こう述べています.

> ウガンダからのアジア人を,彼等がテクニカルに難民と呼べるかどうかは兎も角,『難民』であると言うことに基づいて受容れる事が望ましい.

 これはその一例です.

 他方,入国したアジア人の中には,「無力な難民」として扱われるのに憤りを感じた者もいました.
 あるアジア人は,英国での受入を通して,「難民」とは「自分のをどうすることも出来ない…有りと有らゆる種類の慈善の対象となるような,要するに,全く人に頼り切った存在」であると悟ったと述べ,その様に位置づけられた我が身の境遇を嘆いています.

 実際,苛酷な状況から彼等を「実質的に難民」であると見なすことも出来ます.
 しかしながら,難民の定義はそもそも,「国籍を持つ国の外にあって」保護を受ける者であって,これらのアジア系住民は英国市民である以上,厳密には「難民」とはなり得ないという点以外にも,受入に際して,英国政府が彼等を「難民」と位置づけるにはいくつかの問題点が出て来ます.

 第1に,彼等を難民と呼ぶことは,英国政府のアジア系連合王国パスポート所持者に対する責任が主として法的・政治的なものであり,純粋に道徳的・人道的なものでは無いと言う事実を曖昧にしてしまう恐れがあります.
 前述の通り,1968年の英連邦移民法審議に際して,アジア系連合王国パスポート所持者に対する英国の責任が明記されていました.

 第2に,英国政府がアジア系連合王国パスポート所持者の受入を人道的見地に基づく「難民」の受入として正当化したのだとすると,この事は英国が,ウガンダを出国したアジア系住民の内,「英国市民」のみを受容れる事にあくまでも固執し,それ以外の,例えば,所謂「無国籍」アジア人の入国を頑なに拒否した論理的な根拠が損なわれてしまいます.

 因みに,ウガンダのアジア系住民の半数は連合王国パスポート所持者,即ち,「連合王国及び植民地市民」と言う位置づけが為されていましたが,他にはインドやパキスタンの市民権を有する者,更に所謂「無国籍」の者が相当数存在しました.
 無国籍者の多くは独立時にウガンダの市民権を申請したのですが,アミンの追放令の後,ウガンダ政府から市民権を否定されてしまった人々でした.
 英国政府は前者の連合王国パスポート所持者の受入ですら,英連邦諸国の分散によって減らそうとする一方で,一貫して英国市民権を有しないアジア人に対して直接的な責任は無いと主張し続けました.
 そして一部に存在した,世帯主が無国籍で,それ以外の家族が英国市民であるようなケースに関して,それが家族の分離に繋がることを認識しながら,世帯主の入国を拒否する姿勢を取りました.
 英国政府の立場は,あくまでも第三国での家族の再結合を促すと言うものでした.

 無国籍者の中には米国など英国以外の国に3ヶ月以内に引き取られた者もいましたが,約3,600名は,国連難民高等弁務官事務所により,11月7日までに欧州の臨時キャンプに移され,最終的な再定住地を見つけるまでにかなりの時間を要しました.
 因みに,1973年2月の段階でも約2,000名が再定住地を見つけられず,臨時キャンプに留まっていました.
 1973年2月になって漸く,英国政府は表向き「人道的見地から」分離家族の世帯主約300名の入国を認めると宣言しましたが,この真の理由は,分離家族に再定住地を見つけるまでにかなりのコストが大きく割かれたことに頭を痛めた結果だったりします.
 再結合が行われるまでに,多くの家族が異国の地にいて引き裂かれると言った悲劇が生じたことは言うまでもありません.

 このウガンダ・アジア人追放危機の3ヶ月間の新聞報道の特徴として更に言えるのは,全国紙は,アジア人受け入れについて,高級紙も大衆紙も,政府の「気乗りのしない」態度以上の積極性を示すことは殆ど無く,結果アジア人は第三国,特に英連邦の国々と共に分かち合うべき「重荷」として表象されていることです.
 「重荷を分かち合おう」と言うのは英国政府だけで無く,新聞メディアによってもこの時期繰り返し発されたメッセージでもありました.
 英国政府の国際社会への主張は,アミンの説得に失敗したリッポンが帰国した際の声明にある通り,「我々の分の責任は引き受けたのだから,あなた方にも落ち着いた,分別ある,秩序あるやり方で同様に行動して貰いたい」と言う事でした.
 この主張は英国の新聞メディアによっても支持され,繰り返されました.

 又,高級紙はアジア人受入によって,英国国内の人種関係が悪化することは不可避であるとして,英国政府の消極的な姿勢を正当化しました.
 the Timesは,社説で「受け入れ国の社会が吸収できるよりも,又その偏見が寛容できるよりも多くの移民が流入することによって誰よりも苦しむ」のは,既にこの地に定住している「非白人達」なのだとしています.
 the Timesに限らず,他の全国紙も,故に英連邦諸国からの援助,特にインドとパキスタンによる受入が不可欠であると主張しました.
 アジア人問題は8月7日付けのDaily Telegraph紙によれば「ウガンダからの厄災」であり,8月13日付けのSunday Telegraphでは,その厄災を「新たな白人の責務」であるとしながら,8月16日付けのthe Timesにあるように「国民が飲み込むには大きすぎる丸薬」であると述べ,8月14日付けのGuardianに至っては,この問題を「どう言う訳か決して完全には片付くことの無い帝国時代の残り滓」と表現しました.

 アジア人が入国してからの再定住政策もアジア人が寄る辺ない犠牲者であり,分かち合うべき重荷であると言うイメージを強める結果となりました.
 政府はウガンダ差して移住協議会の設立,そして受入に慈善的要素を多く採り入れることで,その再定住プロセス自体から少なくとも表面的には距離を置きました.
 地方自治体や個人に使用していない住宅などをボランティアで提供するよう呼びかけがあり,入国後のアジア人が住居を見つけるまでの間,収容された再定住センターの運営は慈善団体に任されました.
 また,地方自治体の「負担」を分散するため,これまで「非白人移民」が集中して居住していない地域にアジア人の分散を促すと言う政策は,国内に受け容れられてからもアジア人が「分かち合う重荷」であったと言う事実を象徴的に示しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/02 23:28
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ウガンダの反政府武装勢力LRAとは?

 【回答】
 86年に成立したムセヴェニ政権に抵抗する前政府軍残党が,「モーゼの十戒を基にした国家再建」を掲げ,ジョセフ・コニーをリーダーとして,ウガンダ北部で80年代半ばから活動を始めた組織.
 当初は,ムセヴェニ政権に不満を持つ北部地域住民の支持を得ていた時期もあったが,昼夜を問わず村村に押し入って略奪の限りを尽くし,兵士にするために少年少女を拉致し,逆らう者は皆殺しにするといった手口が不評を買い,急速に支持を失った.

 LRAが,その名を広く世界に知らしめた最大の理由は,拉致した子供達をチャイルド・ソルジャーに仕立てる言語道断な手口によってだ.
 LRAは,まず拉致した子供達に両親や家族などを殺害することを強制する.自分がいた社会から完全に絶縁させるのだ.
 それにより,子供達はLRAの兵士として生きていく他はなくなる.
 また,日常的に虐待や体罰を加え,骨の隋まで恐怖心を叩きこむ.
 さらに麻薬を使い,子供達の正常な感覚を麻痺させると共に薬物依存症に陥れ,厳しい戦闘に狩り出すのだ.
 拉致した少女達は,戦闘訓練の他,司令官や兵士達から性的サービスを強要される.もちろん避妊などしないため,十代前半で出産するケースも多い.
 例え出産直後でも,行軍に遅れれば脱走兵として処刑されるので,赤ん坊を負ぶったまま,彼女達は1日何十kmも歩かされる.
 LRAがこの16年間で拉致した少年少女の数は2万6000人以上.殺害した住民は1万人近くに上るという.

 LRAが16年もゲリラ活動を続けてこられたのは,スーダン政府の支援のためである.
 イスラーム国家であるスーダンには,ウガンダと国境を接する南部地域に,キリスト教徒主体のSPLA(スーダン人民解放軍)というゲリラ組織が存在する.
 このSPLAを,現在のスーダン政府を快く思わないアメリカの意を受けたウガンダ政府が支援していたため,対抗上,スーダン政府はLRAを支援してきたのだった.

 しかし2002年,ウガンダ・スーダン両政府は和解.2003年現在,ウガンダはスーダンの許可を得,スーダン領内にも軍を駐留させてLRA撲滅作戦を開始している.

(下村靖樹, a photo jouanalist, from SAPIO 2003/4/9, P.95-96,抜粋要約)

20年続いたウガンダ紛争,停戦合意が発効

 【ヨハネスブルク=角谷志保美】アフリカ東部ウガンダからの報道によると,同国北部で約20年にわたって武装闘争を続けていた反政府勢力「神の抵抗軍」(LRA)と政府との間の停戦合意が29日,発効した.

 キリスト教系カルト組織が武装したLRAは,ウガンダ,スーダン南部,コンゴ民主共和国東部などに潜伏し,子ども約2万人を拉致して兵士や性的奴隷にするなどして非難されてきた.
 停戦合意では,3週間以内に戦闘員をスーダン南部に集結し,ウガンダ政府の保護下に入ることになっており,子どもたちの解放に向けた期待が高まっている.

 国際刑事裁判所(ICC・ハーグ)は昨年,LRA最高幹部ら5人を人道に対する罪などで起訴している.

読売新聞,2006年8月31日0時1分


 【質問】
 米軍などによるICC封鎖作戦はどんなものか?

 【回答】
 エチオピア,ケニアを主体にして国境を封鎖.
 また,ソマリア沖に空母を展開させて海上封鎖・作戦支援させている.

 以下引用.

ソマリア沖に米軍展開 ケニアも国境閉鎖 イスラム法廷逃亡阻止

 【ワシントン支局】米国務省のマコーマック報道官は3日,暫定政府軍が全土を制圧したソマリア沖に米軍を展開していることを明らかにした.
 隣国ケニアもソマリアとの国境を閉鎖するなど,国際テロ組織アルカーイダとのつながりが指摘されているイスラム原理主義組織「イスラム法廷」メンバーの国外逃亡を阻止する動きが目立っている.

 〔略〕

 マコーマック報道官はイスラム法廷メンバーの国外逃亡に「大きな懸念」を表明.米軍を展開することで,海上の逃げ道を断ち切ることをねらっている.
 AP通信によると,ケニアのツジュ外相も3日,イスラム法廷メンバーが難民にまぎれて侵入したり,武器が流入することを警戒して国境警備を強化したことを明らかにした.

 数日前にケニアに逃れたソマリア難民数百人が国外退去を命じられるなど人道問題も発生している.
 米国など関係各国は5日,ケニアで「ソマリア連絡調整グループ」の会合を開催し,今後の対応を協議する.

1月5日8時0分,産経新聞

 ターリバーン戦争のときと同一のやり方といえる.
 ケニアやエチオピア内部の裏切り者がICCの大物を逃がす可能性もあるが.


 【質問】
 ジンバブエ騒乱とは?

 【回答】
 アフリカ南部の内陸国ジンバブエでは,2008年大統領選挙の開票が遅れていることに伴う騒乱が続いています.
 投票結果が現職に都合悪いから票をいじってんじねえの?ということです.
 それに伴い,現大統領のムガベ氏の28年間にわたる独裁に対する反発も,一挙に噴出しているようです.

 ジンバブエは人口約1335万,クロム・銅などの天然資源の産出国です.
 周辺国に台湾を承認している国があるせいか,シナが積極的に進出しているアフリカ国家のひとつでもあります.

 同国の主要輸出品はたばこ,金,プラチナで,輸出先の主だったところは南アフリカ(40%),シナ(約9%),スイス(約9%)となっています.

 19世紀末に,英国のセシル・ローズにちなんでローデシアと命名され,1923年に英国の植民地になりました.
 1965年に総督が追放されローデシアとして独立を宣言.
 1980年,ジンバブエとして正式に独立しました.

 白人は全体の1%で,ムガベ氏は白人政権に対するゲリラ闘争を指揮した英雄とされます.
 80年の独立とともに首相に就任し,87年の共和制移行に伴い大統領に就任しています.

おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)4月7日

 すでに弾圧の兆候も見られる.
Zimbabwe's Police Raid Offices Of Opposition, Election Observers
Associated Press April 25, 2008 10:51 a.m.

によれば,ジンバブエ警察は野党側の本部を捜索,野党関係者と独立系・選挙監視人など200人を拘束 したという.

ニュース極東板

 ちなみに以下の報道にも見られるように,経済は壊滅的な状況にある.

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インフレ率「世界最悪」の1000% ジンバブエ
朝日新聞,2006/5/13

 深刻な経済危機にあるジンバブエ政府の中央統計事務所は12日,同国の4月時点のインフレ率が年1042.9%に達したと発表した.
 AFP通信は「おそらく世界最悪のインフレ率」としている.

 同事務所によると,
郵便料金は年間で約53倍,
理髪代は約45倍,
家賃は39倍
に上がったという.
 同国の経済アナリストは
「経済は完全に破綻(はたん)した.
 国民も産業界もまったくやりくりができない状態だ」
とAFP通信に話した.
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ジンバブエで発行された1000万ジンバブエ・ドル札

買い物するにも山のような札束が必要


 【質問】
 ムガベの中国製武器輸入問題とは?

 【回答】
 選挙直後にムガベ大統領が中国に大量の武器を発注.
 しかし南アフリカで陸揚げを拒否され,問題が発覚.
 これがムガベの手に渡り,反政府勢力に対する弾圧に使われることが危惧されている.

***

 英国「インデペンデント」紙の記事から,簡単に要点をまとめてみると:

1)ムガベ大統領は中国に多量の武器を発注(最近の選挙の3日あとに)
("three million rounds of ammunition for small arms, 3,500 mortar bombs and mortar tubes, as well as 1,500 rocket-propelled grenades")

2)この武器弾薬は南アフリカの港に到着.南アフリカ政府はムガベの中国からの武器輸入に反対していないので通関させる予定であった.

3だが,)南アフリカの交通労組,労組連盟がこの武器輸入に反対,武器の陸揚げ作業を拒否!

4)緊急輸入されるはずであった中国製武器は,行き場が無くなって南アフリカの港に停滞中.

 以下は日本での報道.

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中国の武器輸出で武力弾圧の懸念強まる ジンバブエ
2008.4.18 19:06


 【ロンドン=木村正人】ジンバブエ向けの武器を積んだとされる中国のコンテナ船が,南アフリカ東部のダーバン 港に停泊していることを17日,南ア政府が確認した.
 ジンバブエでは先月29日に大統領選が行われたが開票は凍結され,ムガベ独裁政権による武力弾圧の懸念が強まっている.
 〔略〕
 英紙ガーディアンが入手した4月1日付の書類には,半自動小銃AK47と弾薬,迫撃砲93砲と迫撃弾2500 発,携帯型対戦車ロケット弾(RPG)1500発など小火器77トン分が記載されている.
 中国から輸出され,荷受け人はジンバブエ国防省.
 船は14日にダーバンに到着,南ア税関当局が検査中だ.
 ムガベ大統領は劣勢だった大統領選をほごにし,白人農地の収奪,野党勢力への弾圧を指示していると伝え られる.
 それだけに小火器輸入は「武力弾圧の準備」との危惧(きぐ)を増幅させる.

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南アの組合,武器輸送の中国船の荷揚げを拒否
国際運輸労連 - ITF TOKYO,2008年4月18日


 ITFは,南アフリカ運輸合同労組(SATAWU)に加入する港湾労働者が,中国の貨物船「安岳江号」の荷揚げを拒否すると宣言していることを受け,これを全面的に支持している.
 本船は,ジンバブエ向けの武器を積み込み,ダーバン港に停泊する予定だ.
 SATAWUの代表者は,今朝,ダーバン港の経営者と話し合いをもった際,同労組に加入するトラック運転手も,陸路でハラーレに運ばれる予定の武器の輸送は行わないと宣言した.

 ナショナルセンター,南アフリカ労働組合会議(COSATU)に加盟するSATAWUは,安岳江号は,武器を積んだまま中国に帰るべきであり,ジンバブエの政治混乱には平和的解決を見出すべきだと主張している.
 ダーバンを拠点に活動するITFのスプリテ・ツング・インスペクターが,間もなく,事情調査のために安岳江を訪れ,中国海員工会(CSU)の組合員と接触する予定だ.
 ITFは現在,CSUに連絡を取っている.
 ITFのデビッド゛・コックロフト書記長は,
「これは,ジンバブエの労働者に連帯を示す重要な活動だ.
 ITFは,STAWUの行動を全面的に支持する.
 今後もこの問題の展開を最重要課題として注視していく構えだ」
と述べた.

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 その後,船はアンゴラに向かった模様.
 以下,引用.

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Zimbabwe arms ship heads for Angola, Mozambique says
(ロイター)ジンバブエへの中国の武器を搭載した船は,モザンビーク政府に拠ればアンゴラに向かっている模様

Sat Apr 19, 2008 7:44pm IST

 南アフリカで陸揚げを拒否された中国製のジンバブエ向け武器を搭載した船(An Yue Jiang) は,是をモニターしているモザンビーク政府の情報に拠ればアンゴラに向かっている模様.

 一方中国では,ロイターの問い合わせに対して中国政府外交部は,南アフリカの事件の詳細を承知しない,としている.
 また,中国の合法的な武器輸出は問題が無く,中国政府は他国の内政に干渉しない,と答えている.

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ニュース極東板

 その後の報道によれば,批判の高まりを受けてこの中国船は中国へ引き返す模様.

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http://www.guardian.co.uk/sport/feedarticle/7477883
BEIJING, April 22 (Reuters) - China on Tuesday defended a shipment of weapons headed for Zimbabwe as "perfectly normal trade" but said it may be heading back because the ship was unable to unload.
 火曜日に中国は,ジンバブエに向けて輸出した武器は「完全に正常な取引」であるが, 陸揚げできないので,船が引き返す事になるかもしれない,と述べた.
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【国際】「武器反対で腕を組もう」…アフリカ各地で入港拒否された中国の武器貨物船,中国に帰還へ
[AFP BB News,4/24]


 中国政府は24日,ジンバブエ向けの武器を積載しアフリカ各地で入港を拒否されていた中国の貨物船が,中国に向けて引き返したことを明らかにした.
 中国外務省の姜瑜(Jiang Yu)報道官の説明によると,ジンバブエ側の不手際により荷下ろしが不可能となったため,海運会社が貨物船を引き返すことを決定したという.

 〔略〕
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 アメリカの横槍に,中国は日和ったのかも?

ニュース極東板

 危ういところで弾圧は阻止されましたとさ.


 【質問】
 2008年に小火器中国ジンバブエに輸出しようとしてストップかけられた事件があったそうですが,ギネスものの超インフレに見舞われているジンバブエに,輸出ってできるんですか!?
 銃1丁でどれだけのジンバブエ・ドルになるんでしょうか・・・
 それとも物々交換とか,外貨とかでしょうか?

 【回答】
 主に米ドル(間違ってもジンバブエドルじゃない),
 次にユーロ,相手国が承認するならその他ハードカレンシー,
 現物なら金塊やダイヤ,資源の利権,果ては餃子や北京ダックに干し鱈まで.
 中国相手なら多分ドル決済だろうな.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 産品とのバーター取引は,経済が崩壊した国ではよくある取引形態.
 例えば北朝鮮がタラ&労働力との交換でスホーイ手に入れてるじゃん.

◆iqK7ZoWK2. in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 今はあんなことになっていますが,もともと資源と産業が両立したジンバブエは,アフリカで豊かな国だったのです.
 白人政権下で発展した農業と工業が大変なことになってるといっても,国内に多数の鉱山を有しています.
 金,銅,ニッケル,錫,ベリリウム,あのタンタルまでも産出します.
 あのインフレ率は,そういう豊かな国が最貧国に転落する事でたたき出された数字なのです.

モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 コレラ陰謀論について教えてください.

 【回答】
 ムガベの言い訳3段論法のことで,

「コレラなんか存在しないよ(だから俺の責任じゃないよ)」
   ↓
「存在しないというのは皮肉だよ(だから俺の責任じゃないよ)」
   ↓
「コレラ流行は欧米の陰謀だよ(だから俺の責任じゃないよ)」

というように進化する.

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コレラ感染が深刻化するジンバブエ,大統領が突如コレラ根絶宣言

 〔略〕
 また,英国のゴードン・ブラウン(Gordon Brown)首相やニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)仏大統領,ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)米大統領らが辞任を要求していることを非難.
「コレラが流行していたから軍事介入を検討していたのだろうが,コレラはもう存在しないし,戦争の恐れもない」
と述べ,要求には断固として応じない姿勢を強調した.

 特にかつての宗主国である英国のブラウン首相に対しては,
「狂牛病が発生したから,英国は戦争の危機にあり,介入しなければならないといえるのか.
 ブラウン首相の頭はどうかしている.
 医師に見てもらうべきだ」
と厳しく反論した.
――――――

500 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 23:52:49 ID:???

存在しないことにされちゃったよ…('A`)


501 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 23:58:06 ID:???

「コレラは流行してはいけない」法律を作るまで,もうちょい.


563 名前:アフリカゾウが好き[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 06:56:14 ID:???

――――――
ジンバブエのコレラ死者が増加,大統領の封じ込め宣言「撤回」

 国営紙ヘラルドは12日,大統領の発言は野党の懸念表明や援助団体に対する「皮肉」だったと,感染の完全防止には至っていないことを認めた.
 ヌドロブ情報広報相は9日,感染拡大の抑止に成功していると発表.
 コレラを引き起こした原因は西欧諸国で,さらに軍事介入の言い訳に利用していると非難もしている.
――――――

564 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 07:00:19 ID:???

ジンバブエ政権,コレラ流行は英国による「ジェノサイド」
http://www.afpbb.com/article/politics/2549331/3606481


579 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 17:59:20 ID:???

 むしろムガベみたいな指導者の頭をおかしくするトンデモ病原体とか作りそうなイメージ<イギリス人


580 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 18:18:55 ID:???

変態が
パンジャドラムで
やってくる


581 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 18:21:06 ID:???

 朝昼晩三食,魚のフライとホテトチップスが食べたくなる病原菌



582 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/13(土) 18:47:46 ID:???

 感染源は明らかにL85


588 名前:ロボ-7c7c ◆Robo.gBH9M [sage] 投稿日:2008/12/13(土) 21:48:59 ID:???

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「コレラは旧宗主国,英国による大量虐殺」 ジンバブエ閣僚

 〔略〕ジンバブエのヌドロブ情報広報相は13日まで,コレラの感染拡大は
「計算され,人種攻撃的な,米国や欧米各国の協力を得た旧宗主国,英国の力によるもので,我が国の侵略を目指したものだ」
と強く非難した.

 さらに記者団に対しても,スーダンのダルフール紛争やコンゴ民主共和国で死にかかっている人々を撮影し,その写真をジンバブエのコレラ犠牲者として伝えていると断定,「武力報道だ」と責め立てた.
――――――

 呆 れ 返 っ て 屁 も 出 ね ぇ

 ついに陰謀論まで言い出したよ・・・この国.
 何もかもがユダヤのせいですね,分かります.

軍事板

 これがジンバブエ政権クオリティ.
 皮肉国家イギリスでも理解できない皮肉を披露してしまったジンバブエに,未来はあるのか!

CRS@空挺軍 in mixi,2008年12月14日15:32


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