c

「別館A」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆カーネーション革命以降  Carnation forradalom után
<◆Mozambic モザンビーク
Africa FAQ 目次


 【質問 kérdés】
 FRERIMO内紛について教えられたし.

 【回答 válasz】
 さて,1968年と言えば,世界中で革命が起きていた時期です.
 フランスでは学生が蜂起し,チリでは左派政権が誕生し,中国では文化大革命の嵐の最中,ベトナムでは米国と泥沼の戦争の最中で,インドシナでは彼方此方で革命勢力が体制側と戦っています.
 そんな中,アフリカでは,内戦やクーデターが頻発していました.

 我らがモザンビークでも,御多分に洩れず,この時期路線を巡ってFRERIMO内部で深刻な対立が生じています.
 勿論,これには裏でPIDEが関与した形跡もあり,場合によっては組織が瓦解しかねない危機的状況に陥っていました.

 1964年から始まった解放戦争では,数年後にカーボ・デルガード郡やニアサ郡では「解放区」が作られていくまでになっていきます.

 この「解放区」の統治は,内務部に委ねられましたが,最初に「解放区」が設置されたカーボ・デルガード「州」では,「知事」となった元MANU指導者カヴァンダメに任される事になりました.

 カヴァンダメは,彼に協力的な首長等「伝統的権威」をchair manに任命し,結果的にカーボ・デルガード「州」の政治行政機構は,植民地政府の統治社会構造から何ら代らず,上をすげ替えただけとなりました.
 1966年になると,「解放区」住民はカヴァンダメやchair man達のプランテーションでの労働に動員される事になり,カヴァンダメ達は「解放区」で生産された作物を勝手に売り払い,それと交換にタンザニアで入手した商品を「解放区」住民に高い値段で売りつける様になります.
 結局,彼等がしている事は全く植民地権力と同じ事だった訳です.

 元々,「解放区」の思想は,支配地域や解放した地域と言うだけではなく,武装闘争推進に必要な根拠地であり,独立後のモザンビークで,彼等が経験する事を逸速く学ぶ為の実験場でもありました.
 その為,この「解放区」運営はFRERIMOの思想と組織構造に基づいて行われ,住民生活全てに於て武装闘争継続を優先して行われなければなりません.
 その為,生産活動は集団化され,生産物も闘争続行の為の補給やFRERIMOを通じた販売に充てられ,生活必需品は「人民商店」から受け取る事になっていました.

 カヴァンダメ達は其処から上がる利益を自分の懐に入れた訳です.
 これは,前線で戦闘を続けるゲリラ達に「何の為の何からの解放か?」「自分が死ぬのは何の為か?」と言った疑問を抱かせ,士気に関わる状況になり,又,chair manとゲリラ司令官の間で住民の軍事訓練を巡って対立が起き,最終的に内務部と防衛部との間での衝突が起き始めました.

 この状況は組織にとっての危機でした.
 折しも1966年2月,ガーナの指導者だったエンクルマが中国訪問中に,軍部のクーデターで失脚した事も指導部にとって衝撃的な出来事でした.
 エンクルマは中央集権的な体制を確立し,独自の社会主義的経済建設を行っていましたが,結果として経済の悪化を招き,住民への強権的支配を行った事で住民からの支持を失い,倒された訳です.

 FRERIMO指導部は,エンクルマの失敗を分析し,強力な指導者が居て,彼が消極的な大衆を善導することで社会主義を建設すると言う考えでは上手くいかず,全ての人々が平等に権利を持ち,権力は人民に宿る社会でないといけない,と言う結論に至ります.

 となると,安全地帯に温々と居座り,自分達の利益のみ追求して人民を使役する政治はその結論から遠く離れた状況です.
 危機感を抱いた指導部は,政治と軍事を切り離さず,統一しようとしますが,既得権益を有しているchair man達はこれに従わず,1966年10月にはこれを推進していた初代防衛部書記長マガイアが,タンザニアからカーボ・デルガードに向かう途中で暗殺される事件が発生しました.
 その後を襲ったのが,マシェルであり,彼はより革命志向の強い人物で,前任者に増してこの統一を推進しました.
 当然,これに反発が強まり,カーボ・デルガード郡では内部対立が武装闘争に支障を来すほどになっていきます.
 この為,内務部と防衛部の上部組織として,書記長モンドラーネが指揮する「政治軍事委員会」が設置され,戦闘地域では別途安全防衛部が設置されて,対立の緩和を図ろうとします.

 しかし,FRERIMOの活動が広がっていく度にその幹部要員には,高等教育を受けた留学経験者…その多くは南部出身者…が充てられ,反植民地闘争を最初に立ち上げた北部辺境民であるマコンデ人はその教育程度の低さから疎外されていく様になります.
 それもあって,カヴァンダメ達は,マコンデ人居住区の運営は地元出身者で行うべきであると考えていた訳です.

 そして,解放区が急速に広がった1966年,カヴァンダメを中心とする旧MANUの有力者達は,FRERIMOの軍事勢力をカーボ・デルガード郡に集中する事で,先ずはカーボ・デルガード郡のみの独立を主張する様に成ります.
ま た,カヴァンダメ達は,農村を主体とする「人民戦争」ではなく,高度な軍事訓練を行った都市ゲリラによる都市部での戦闘を主張し始めます.
 更に,指導部が敵は「制度」であって人種ではなく,アフリカ人でも敵に成り得ると主張した事に対しては,カヴァンダメ達は,敵は「白人」であって白人を追い出す事が勝利なのだと反論し,遂には書記長のモンドラーネや副書記長のドス・サントスの妻が西側諸国出身の白人であった事から,彼等を「帝国主義者の手先」呼ばわりし,北部のマコンデ人の利益を代表していない事を大々的に批判する様になります.

 これに対し,指導部はカヴァンダメ達こそ,地域主義者で社会的変革を求めない部族主義者だと批判します.
 正に泥仕合です.

 但し,FRERIMOそのものは,タンザニア,TANU,OAUがその組織を,モザンビーク解放運動で唯一正当性を持つ解放組織として承認していた為,組織を解体する状況にまでは至っていません.
 また,TANUそのものも,従来の民族主義的な位置取りから「労働者と農民の党」へと転化し,農業開発を軸とする自力更生路線へと転換し,社会主義への道を歩む事になり,その事からもタンザニアやTANUが社会主義路線を選択したFRERIMOを見限る事は出来ませんでした.

 一方,FRERIMO指導部は,カヴァンダメ一派の権力基盤であるマコンデ人住民居住区以外で武装闘争を進展させ,その力を削ぐと共に,ゲリラとして参加したマコンデ人の若者を教育して,カヴァンダメを彼等の代表と見做す事が無くなる様に仕向けていきます.
 更に,FRERIMO内部では武装闘争の進展により,軍関係者の意見が尊重される様になって,内務部の力は失われ,1967年4月には,防衛部書記長マシェルを最高責任者とするConselho Nacional de Comando(CNC:司令本部国家評議会)が軍事部門の最高機関として設置され,CNCは解放区の文民行政機構をも統括する様になりました.
 州(解放区)の統治機構では,州軍事司令官は州書記長を兼任し,その配下に州長官補佐,政治役員,作戦長官が置かれる事となり,内務部の頭越しに軍事関係者主導のより力を持った機関が設置されることになります.
 CNC内部には作戦,徴兵・訓練,兵站,調査,通信,情報・出版,行政,財政,保健衛生,政治役員,人事,軍事安全の12部門が置かれ,結果的に通信や物流,兵士動員が円滑に行われる様に成りました.

 つまり,行政と軍事という2頭立てだった組織は,活動の中心を解放軍に置き,ベクトルを革命路線に置き換える事になった訳です.
 これに反発したのが,カヴァンダメ一派で,1968年5月にはダル・エス・サラームにあるFRERIMO本部を襲撃すると言う挙に出ました.
 遂に暴力沙汰に発展した訳です.

 そして,1968年7月20日から25日にかけて開かれた第2回党大会は,カヴァンダメ一派の主張するカーボ・デルガード郡ではなく,ニアサ郡の解放区で行われ,カヴァンダメ一派はそれをボイコットするに至ります.

 ところが,カヴァンダメ達の意に反してその党大会は成功裏に終わり,解放闘争は人民戦争である事,解放区は人民権力を生み出す事を目標として運営される事等が決議され,20名だった中央委員会委員は,倍増してその殆どを軍事部門関係者が占める事になりました.

 結果的に内部対立は修復不可能となり,カヴァンダメは別組織を結成する動きに出ました.
 TANUと親族関係にあり,また,タンザニアがビアフラ紛争でビアフラ側を支援した為,カヴァンダメ一派は,その分派活動が成功すると確信していましたが,既に変質していたTANUの指導者ニエレレは,意に反してカヴァンダメに妥協を求めた事から,失望したカヴァンダメは密かにコンタクトを開始していたPIDEと接近する様になります.

 1969年1月,中央委員会は遂にカヴァンダメの党員資格を停止します.
 折しも,翌2月3日,書記長のモンドラーネが暗殺される事件が発生します.
 その関与を疑われたカヴァンダメはPIDEに投降し,植民地権力側はマコンデ人に対する宣伝にこの投降を大々的に利用した訳です.

 その後,数ヶ月間,書記長を失ったFRERIMOは混乱しますが,旧MANU指導者達を除名した後,指導体制をドス・サントス,司令官マシェル,元UDENAMO指導者シマンゴのトロイカ体制とし,事態の沈静化を図ると共に,「持久戦争」の採用が発表されました.

 ただ,折角のトロイカ体制も再び一波乱起きる事になります.
 …何となく,2月はモザンビークで終わる予感.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/14 21:11

 初代書記長であるモンドラーネの暗殺を乗り越え,北部のマコンデ人支配層を排除した形となったFRERIMOでは,ドス・サントス,マシェル,シマンゴのトロイカ体制で事態の沈静化を図ろうとします.
 しかし,モンドラーネが未だ穏健派であったのに対し,ドス・サントスは共産主義者,マシェルは革命志向で,彼等は武装闘争下で重要な地位を占めつつあり,若いゲリラ兵達は,彼等を支持し,「主流派」を結成するに至ります.
 しかも,彼等は南部出身です.

 そうなると,足下が危うくなって来たのが,中部出身者を基盤とし,武装闘争反対派の学生を支持基盤とするシマンゴです.
 シマンゴは,現在のFRERIMOがより過激に,そして南部出身者が進出してくる事に不満を示し,1969年11月,FRERIMOの攪乱と自分の主張を内外に示す為の文章,「FRERIMOに於ける鬱状況」を発表し,遂にはFRERIMOを除名される事になります.
 又,この時,シマンゴ派の幹部11名も,タンザニア警察に拘束され,牢屋に放り込まれています.

 この出来事は多分にタンザニア国内情勢も絡んでいました.

 独立前のタンガニーカからずっとTANU事務局長を務め,1965年に外相兼国防長官,その後OAU解放委員会委員長となったカンボーナと言う人物が居ます.
 カンボーナは,当初から対FRERIMOの交渉窓口でしたが,比較的MANUやUDENAMOに近い立場を採っていました.
 しかし,社会主義路線に転換したニエレレに不満を持ち,反ニエレレ姿勢を強め,遂に1967年7月に英国に「逃亡」してしまいます.
 反ニエレレの立場を強めてからは,ニエレレが支持するFRERIMO指導部に敵愾心を抱くと共に,PIDEにも近付いていきました.
 PIDE側は当初,カンボーナを「毛沢東主義者」と呼んで不信感を抱いていましたが,カンボーナが英国の新聞に,ニエレレを「独裁者」を非難する記事を投稿した事を確認すると,秘密工作員ジャルディンを英国に派遣し,「ニエレレ政権転覆計画」を持ちかけさせています.
 つまり,カンボーナがニエレレを倒して政権を握れば,聖域であるタンザニアはFRERIMOにとって聖域では無くなり,北部に作られた解放区は自然と立ち枯れる,そうなれば,後はザンビア国境地帯に彼等を追い詰めていけば良いと言う事になります.

 こうしたタンザニア側の事情もあって,ニエレレは,カンボーナに近いMANUやUDENAMO関係の人物の粛清をFRERIMOに求めたとも考えられます.
 1969年10月,シマンゴはFRERIMOから党員資格の停止を宣言され,1970年5月にはトロイカ体制から,書記長にマシェル,副書記長にドス・サントスを指名して,FRERIMOは,名実共に革命派(FRERIMO軍指導部と共産主義者)の主導で構成され,革命志向に合意しない者はタンザニア警察に拘束されるか,国外に逃れて分派を形成する事になり,この分派が独立後の内戦の一要因となっていきます.

 こうして,1970年には足かけ4年に亘って繰り広げられた内部闘争が終熄しました.
 これにより組織固めが図られ,政治が重視され,革命路線の徹底が図られる様になります.
 植民地権力など多くの人々にとって,強化されたFRERIMOの出現は,意外な出来事でした.
 特に驚いたのが,植民地権力側です.
 内部闘争は,そもそもPIDEの関与もあって,植民地権力側がFRERIMOの組織を弱体化させる為に行ったのですが,勝利したのは植民地権力側が期待した,穏健派ではなくより手強い革命派であり,1970年以降の戦闘はより困難なものとなっていきます.

 とは言え,このFRERIMOの混乱に乗じて植民地権力側は大規模な軍事作戦を展開していました.
 特にニアサ郡内のFRERIMO軍事基地の掃討に成功します.
 その結果,多くのゲリラ兵や支配下住民が再び植民地権力側に投降する事になります.
 更に,カヴァンダメ一派の離脱はカーボ・デルガード郡のマコンデ人居住区に混乱を引き起こしており,FRERIMOは退潮を余儀なくされます.

 これに換えて,FRERIMOが新たに戦力を展開したのがテテ郡です.
 テテ郡には,南アフリカに植民地権力側が安価な電力を供給する為に,カオラ・バッサに巨大なダムを建設中でした.
 ポルトガル政府は,南アフリカ政府を始めとする諸外国をモザンビークの経済開発に関与させる事で,自らの支援者を確保しようとし,それに応えたのが南アフリカと西側諸国でした.
 一方,FRERIMOは,このダム建設現場を攻撃する事で,世界の耳目をFRERIMOに集めさせ,植民地の悲惨な状況と自分達の闘争を世界に知らせる事が出来ると考えました.

 テテ郡での武装闘争開始は,1968年3月と遅れますが,このテテ郡で活動を開始できたのは,1964年10月にザンビアが独立した事が大きく関わってきます.
 つまり,タンザニアの国境地帯500kmに加えてザンビアの国境地帯400kmがFRERIMOの新たな聖域になった訳です.
 1968年のFRERIMOの攻撃総数は少なくともポルトガル国軍の統計では1,087回を数え,内訳はカーボ・デルガード郡が44%,ニアサ郡39%,テテ郡15%,その他2%で,この年初めて,カーボ・デルガード郡の攻撃がニアサ郡を越えています.
 ただ,全体的にこの時期の軍事活動は低調で,その多くは地雷の設置によるものでした.

 この時期のポルトガル植民地権力側の防衛戦略は,初期の混乱を乗り越え,成熟したものになっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/15 21:18


 【質問 kérdés】
 「aldeamento戦略」とは?
Mi az aldeamento stratégia?

 【回答 válasz】
 さて,昨日はFRERIMO側の事情を書いてみましたが,今日は植民地権力側の話.

 ポルトガルは世界の対ゲリラ戦について調査研究してきました.
 その結果,こうしたゲリラに勝利するのが極めて難しい事を知ります.
 これに勝利する為には,ゲリラの補給路を絶ち,住民との接触を断つ事が最も有効な手段であると言う結論に至りました.

 そして,導入されたのが,「aldeamento戦略」と呼ばれる戦略です.
 これは,一般的にはStrategic Hamlet或いはProtected Villageと呼ばれるものです.
 即ち,現在散居している民衆を軍などの防衛機関の駐屯地に隣接する「村」に集め,住民の移動をコントロールしてゲリラ兵との接触を不可能にしようというもので,これは第二次大戦中の中国で日本軍が行い,戦後はマラヤ共産党相手に英国軍が行ったnew village,米国でもヴェトナムで採用された戦略と同じ結論に至り,同じ行動を起こした訳です.

 北部農村では,人口密度が低く,散住傾向にあり,伝統的権威を利用したレジェンドリア制度を導入しても,行政の意に住民を従わせるのが困難でした.
 aldeamento戦略は,植民地行政長官,Reguloなどの首長などにとっても,拘束する事が難しい農民を,効果的にコントロールするのに不可欠な戦略となった訳です.
 aldeamentoは,農村住民の身体的拘束に役立っただけではなく,「心の獲得」の為の社会開発を容易にしました.
 集村化によって,学校や保健衛生関連の設備を効果的に配置する事が可能となったからです.
 更に,軍施設に隣接する様な形態で村が整備された為,軍と行政府との関係が円滑になります.
 植民地権力側にとって,一石二鳥の政策と考えられました.

 しかし,理想と現実は往々にしてギャップが生じます.
 1970年に総司令官に就任したアリアーガ将軍は,対ゲリラ戦の専門家で,モザンビークは他のポルトガル植民地以上にaldeamento戦略が推し進められました.
 1974年5月の時点で,カーボ・デルガード郡の63.3%,ニアサ郡の67.7%,テテ郡の44%がaldeamentoに収容されていたとNYタイムズは報じています.
 別の統計では,1973年半ばにはカーボ・デルガード郡では238村に26.2万人,ニアサ郡では116村に18.6万人,テテ郡では156村に15.9万人がaldeamentoに収容されたとされていますが,何れの数字もポルトガルの見栄と,現地官僚の誇張された数字で,相当数水増しされた形での統計となっているとのことで,実際に収容されたのはこれよりも少なかったと言われています.

 もう1つの柱は,米国がヴェトナム戦争に於て行った「ヴェトナム化」を模倣した,防衛体制の「アフリカ化」(Africanizacao)です.
 これは軍兵士の中に占める現地人の割合を増やし,民兵を組織化する事を意味します.
 1966年からこの戦略が開始され,それまで,国軍内に15%程度だったアフリカ人兵士でしたが,1968年には初等教育を受けたアフリカ人男性の多くがポルトガル国軍兵士として訓練される事になり,1974年になると,その比率は凡そ35~40%,即ち,8年で約2倍になったことになります.
 また,aldeamento毎に民兵の組織化が命令され,民兵を合せると,国軍兵士中,アフリカ人が占める割合は60%に達しました.

 こうして,FRERIMOのゲリラとポルトガル国軍は,領土だけでなく北部農村部住民を奪い合う結果になります.

 1970年5月以降,反対派を相次いで追放し,純化した組織を率いるマシェルは軍事行動の強化を行い,従来は内務部のソフトな統治に委ね,手加減していたマコンデ人住民地区での作戦をより強化し始めました.
 その動きはポルトガル国軍にも察知され,1970年3月には,FRERIMOによるマコンデ人居住地区の中心であるムエダ高原での作戦強化とテテ郡での攻撃開始を指摘していました.
 その動きは,FRERIMOがニアサ郡の南下を諦め,カーボ・デルガード郡を通過するルートに切り替えた事を意味します.

 その目算通り,FRERIMOは6~7月にカーボ・デルガード郡で発足以来最大規模の攻撃を仕掛けました.
 対するポルトガル国軍側も,強硬派アリアーガ将軍を総司令官に任命し,5~8月に掛けて,北部のFRERIMO拠点に対する空爆を含む大規模攻撃であるNo Gordio(ゴルディアスの結び目)作戦を展開し,3.5万人の兵士と巨額の資金,最新兵器を用いて実施します.
 この作戦で,FRERIMOの軍事基地や解放区が破壊されました…が,ゲリラ戦に於て軍事基地の一時的な破壊は長期的な効果が低く,大規模作戦に見合うだけの効果を残さないばかりか,北部にポルトガル国軍を集中させた事は,逆に他方面の守備兵力減少を招きます.

 当然,この動きを見逃すFRERIMOではなく,カオラバッサ・ダムの建設現場があるテテ郡での活動を加速させ,へゲリラ兵士達は新たにこちらに転進していきました.
 中部へのゲリラの浸透を許したと言う意味では,この大規模作戦は,戦略的に失敗でした.

 テテ郡だけでなく,南ローデシアと隣接する中部の中心地マニカ・ソファラ郡でもFRERIMOは活動を開始させました.
 そして,このゲリラ活動は周辺諸国のモザンビークへの関与を深化させる結果となりました.

 ザンビアはFRERIMOに軍事拠点を提供していましたが,一方でFRERIMOの分派であったCOREMOを支援するなど,タンザニアとは微妙に異なった役割を果たしています.

 この為,FRERIMOにとってはタンザニアからマラウィを中継してモザンビーク中部に入るルートは依然重要でしたが,マラウィでは,終身大統領となったバンダが南アフリカから首都移転資金6,000万ドルを提供されるなど,周辺の白人政権との関係を強めていき,マラウィの主要輸入先は1970年には英国よりも南アフリカとなり,南ローデシアとはタバコの同国への輸出先として重要になっていきます.
 この関係強化に積極的に関与したのが,先に触れたポルトガル秘密工作員でその頃はベイラでマラウィ領事の地位を与えられていたジャルディンでした.

 1972年には,モザンビークでの戦闘は激化し,7月には階級闘争の概念が防衛部で検討され,12月には中央委員会の声明として全戦線での攻撃を呼びかけました.

 この状況に危機感を抱いたのが,自国でもゲリラ活動をしているアフリカ人を抱えている南ローデシアの白人政権と,カオラバッサ・ダムの主要出資者であった南アフリカ経済界,中部に多く入植しているポルトガル人植民者でした.
 当初,南ローデシアと南アフリカの政府は,ポルトガル国軍に対し改善を迫ると共に軍事協力を申し出ましたが,これは拒絶されます.
 1971年にはFRERIMOと協力関係にあったジンバブエ解放運動の武装組織ZANLAがモザンビーク国境地帯を利用しながら南ローデシア国内での活動を活発化させた為,南ローデシア軍は,モザンビーク領内での軍事活動を開始します.
 1972年2月には南ローデシアのスミス首相と,南アフリカのフォスター首相がプレトリアで会談し,ポルトガル国軍に掃討を任せておく限りは,FRERIMOの鎮圧は難しいとの結論を出します.

 事実,1972年半ばに南ローデシア軍将校がモザンビークで調査を行った結果,「ポルトガル人兵士の士気の低さは甚だしかった」と言う調査報告を出し,南ローデシアの秘密警察CIOもまた同じ結論を出しました.
 結果,スミス首相は,「モザンビークはローデシアにとって脅威となっている」と公言する様になります.

 ポルトガル国軍の能力に疑問符を付けた南ローデシア政府は,植民地総督府を差し置いてポルトガル本国政府と直接交渉し,越境攻撃の許可付与を迫り,これを手にしました.
 この結果,南ローデシア軍がモザンビークでの戦闘に加わり,ある解放区は,1972年9月から74年5月にかけ3度の攻撃を受け,100名を殺害される事になります.

 アリアーガ将軍は周囲の白人政権から完全に「無能」と言う烙印を押され,1970年以来の大規模作戦が失敗に直面した為,立直し策として,小規模な白人とアフリカ人の混合部隊を多用する戦術に転換し,コマンド部隊には積極的にアフリカ人化を進める一方,士気の下がっていた白人兵士は非戦闘部門に配置換えしました.
 1972年,アリアーガ将軍は更に現地化を進める為,中部の中心都市ベイラ北のドンドと言う都市に,特別部隊GEの訓練施設を設置し,アフリカ人エリート部隊の訓練を開始しました.
 これを推進し請け負ったのが,またも出て来たのですが,ドンドに拠点を置いていたジャルディンでした.

 GEは戦闘の激しい地域,即ち北部のマクア人と中部のショーナ人によって構成され,訓練を受けた後,出身地に戻され,攻撃作戦の際には地元部隊として,防衛作戦の際には民兵として機能する事が期待されていました.
 1974年までに6,000~8,000名のアフリカ人がGEの訓練を受けています.
 この訓練は非常に厳しく,エリート部隊として優遇され,通常部隊と切り離されていた為,GE要員はアリアーガ将軍やジャルディンに忠実な兵士となっていきます.

 この他にも特別に訓練された様々な部隊が,テテ郡を中心とする中部各地に投入されます.
 これにより,住民が戦闘に巻き込まれ命を落とすケース相当発生しました.
 中でも,テテ市南西部にあるウィリアム村では,アリアーガ将軍が,同村をFRERIMOの住処と決めつけ,第6特別部隊GEと秘密政治警察PIDE/DGSを派遣し,結果的に全村民が虐殺される事になりました.

 この事件の第一報を聞いたブルゴス会(カトリックの一派)のスペイン人神父が現地に急行し,住民の亡骸と対面し,この事件は報告書を受け取ったヘイスティングス神父によって世界的に告発され,ポルトガルと南ローデシアに対する国際的な批難を巻き起こし,結局,1973年8月にアリアーガ将軍は更迭され,後任にマシャード将軍が就任する事態を巻き起こしました.

 また,南アフリカ政府も,カオラバッサ・ダムと送電線を守る為に,自国軍をモザンビーク領内に派遣し,1973年4月にはベイラ市に軍諜報部の本部を設置する様になります.
 一方で,搦め手からの攻め口として,FRERIMOを支援していたザンビアとの関係改善に乗り出しました.
 と言うのも,この国も内陸国であり,元々はタンザニアの港を貿易に使用していたのですが,1973年1~8月にその港を使用できない事態になりました.
 仕方なく,モザンビークのナカラやベイラを使わざるを得ず,南アフリカ政府の仲介で,ポルトガルのカエターノ政権の協力を取付けるまでに至り,FRERIMOへの支援姿勢は一歩後退することになります.
 ザンビアは,FRERIMOの支援を継続するものの,彼等とポルトガル政府との仲介を試みる様になっていきました.

 1970年以来,FRERIMOは戦線を北部から中部に拡大する事で,相手がポルトガル国軍だけでなく,それより士気の高い南ローデシアや南アフリカ軍との戦闘を行わないといけなくなりました.
 また,周辺のアフリカ人政権との高度な政治交渉も必要とされました.
 当初の武装闘争から高度な政治能力が求められた訳です.

 もう1つ,この戦闘で重要なファクターがあります.
 それは白人植民者の動きですが,これは明日にでも.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/16 22:51


 【質問 kérdés】
 「Flecha」とは?
Mi az "Flecha" ?

 【回答 válasz】
 さて,1970年以来,モザンビークの戦闘は激化していました.
 ポルトガル国軍と特別部隊GE,地元民兵,PIDE/DGS,これに南ローデシア軍,南アフリカ軍などが入り乱れ,戦闘を行ってきた訳です.
 こうした正規軍だけでなく,ポルトガル人入植者達も,自分達の立場に不安を覚え,且つ,国軍の不甲斐なさに怒りを募らせました.

 1973年8月,ベイラ地区の住民146名は,FRERIMOの攻撃により移住を余儀なくされ,不満が爆発します.
 彼等は,避難先のベイラ市でデモ行進を行い,国軍に抗議する一方,「自分達の身は自分達で守る」として,自警団や傭兵団の結成を開始しました.
 これに呼応するかの様に,PIDE/DGSは,地元のアフリカ人を使った民兵組織Flecha(弓矢)を結成し,彼等を中部各地に送り込む事にします.
 この組織はそもそもは,情報収集の為に作られたアフリカ人の特別部隊であり,PIDEによる軍事訓練と諜報活動の訓練を受けて,軍事攻撃にも使用される様になっていました.
 特に,FRERIMOの侵入経路であった中部のシモイオ高原に重点的に配備され,FRERIMOの活動を難しくする事に成功しています.

 Flechaは国軍よりもタフであり,且つ精強でもあった事から,地元の白人入植者達に支持され,白人入植者はFlechaへの財政支援を行うまでになります.
 特に例のジャルディンは,GEだけでなくFlecha結成にも積極的に関与していますが,モザンビークの現地住民達から見れば,彼等は拷問や処刑を多用した為,恐れられる存在となっていきました.
 更にFlechaの存在は,そもそもの軍の領分を侵すものとして国軍と,PIDEとの摩擦を激化させる事になりました.

 一方,ジャルディン始め,モザンビークに住む白人有力者達は,此の儘行けばFRERIMOが勝利してしまう事を恐れていました.
 この為,ポルトガルに対するモザンビークの「一方的独立」を行う準備を開始していました.
 この「一方的独立」は平和裡に国土をFRERIMOに引き渡すのではなく,南ローデシア型の白人政権を目指したものです.
 アリアーガ将軍の更迭は,表向き,ウィリアム村虐殺事件の責任を取らされた事になっていますが,実は,この動きに関与していた事が本国政府に察知されたからではないかと言われています.

 これで軌道修正したモザンビークの白人達は,次いでアフリカ人「穏健派」と結びつこうとします.
 但し,自らの植民地統治では,アフリカ人の政治家を育てておらず,育てていてもそれは大半がFRERIMOに属していました.
 FRERIMOは完全に考慮外であり,白羽の矢を立てたのは,FRERIMOから除名された政治家,分派の運動指導者,植民地権力側に投降,或いは捕縛された元FRERIMOゲリラ達でした.
 この計画は,ポルトガルの国家体制を根本的に覆すものであり,絶対に本国に知られてはならない類のものでした.
 従って,ポルトガル人でも本国から来たばかりの人々には内密にされ,ジャルディン達は,「反フレリモ」戦略と称して,PIDE/DGSやポルトガル国軍高官,政治家,南ローデシアと南アフリカの白人政権,マラウィのバンダ大統領に近付いていきます.
 更に彼等が穏健派勢力を担いで,ポルトガルから一方的独立を果たした場合,FRERIMOに対抗する基幹兵力として,GEやFlechaを育てて行った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/17 22:31


 【質問 kérdés】
 ポルトガルのカーネーション革命後のモザンビークの状況は?

 【回答 válasz】
 ところで,海外領土での長期間の戦争は,既にポルトガル本国を相当疲弊させていました.
 本国市民の中にも疑問を持つ者が出て来て,また,海外の動きから影響を受ける者も出だしました.
 特に,この戦争に駆り出されていた青年層は,植民地の現実を目の当たりにして,自分達の戦う意味を考え,何の利益も齎さない本国政権を維持する事に懐疑的になっていきます.
 特に,中堅将校の地位にある士官にこうした動きが顕著となり,彼等は社会党や共産党に呼応して,ポルトガル国軍内での活動を密かに拡大させていきます.

 1973年6月,カエターノ政権はアフリカに従軍している大卒予備役兵に1年間の士官学校に於ける集中講義により,現役将校に昇進させる政令を出します.
 普通,士官学校での講義は4年かかるので,促成栽培で将校を量産しようとした訳です.

 これに憤ったのが,現役将校達でした.
 8月18日,ギニア・ビサウの国軍将校クラブに20数名の大尉が集まって,政府の決定が如何に現在大尉の地位にある者に影響を与えるのかを論じ合って,25日,闘争委員会が結成されました.
 9月5日,オテロ大尉は,6月の政令を撤廃する抗議文を投函しました.
 この動きは,各植民地に広がり,アンゴラで94名,モザンビークで106名,リスボンで190名が同じ抗議文をカエターノ政権に送り付けたのです.

 また,同じ6月には1961年から徴兵されてアフリカで戦った大学卒予備役兵の会議である海外戦闘者会議が政府によって主催され,唯一不可分のポルトガルの擁護を決議します.
 目の前で,既に勝ち目のない戦闘を行っていた国軍の職業軍人達は,職業軍人の誇りを刺激され,直ちに行動を開始しました.
 本国ではエアネス少佐,ヴァスコ・ローレンソ大尉が,ギニアではオテロ大尉,モザンビークではマリオ・トメ少佐が中心となり,アンゴラでも同様の組織が結成されました.

 特にギニアでの動きが鍵を握っていました.
 この地で8月まで総督を務めたスピノラ将軍が,この地に有能なチームを造り上げていたからです.
 このスピノラ将軍は,サラザールの側近を務めた父親を持ち,1961~64年までアンゴラで大佐として騎兵大隊を率い,帰国後大将となり,共和国護衛隊第2司令官に就任していました.

 1968年にギニアに総督として赴任しますが,午前中はヘリコプターで現地住民の部落を訪れ,首長と接触を深め,予備役兵の教練を自ら実施,午後は軍病院を訪れて,戦傷者の名前や症状を覚え,彼等一人一人に対する忠告を医師や看護婦に与えたと言う,それまでの総督とは全く違った総督でした.
 1972年,彼は老いぼれたアメリコ・トマス大統領の後継者として,選挙管理委員会に支持され,カエターノ首相もこれを賛成します.
 しかし,極右の反対に遭い,一旦,ギニアに退却しました.

 1973年6月,スピノラは「アフリカ戦線に於ける最初の英雄」として,リスボンに凱旋しますが,その処遇は遅々として決まりませんでした.
 余りに国民的人気が高すぎて,反って政権の疑念を招いた為です.

 さて,混乱状態の1973年10月12日,政府は問題の政令を無効にする事を決め,国防省の人事を一新しました.
 これによって,中堅将校の運動は終息に向かうかに見えたのですが,11月24日,彼等将校団の会合が開かれ,初めて中佐以上の将校としてルイス・バンゾーラ中佐も参加します.
 この時の議論は如何に軍の威信を取り戻すかと言うもので,議論白熱し,結論は出ませんでした.

 12月1日に再度集まった彼等は,3つの戦術を討議しました.
 1つは,クーデターによる軍事委員会の設置,2つ目は軍の監視の下に行う自由選挙,3つ目が政府に圧力を掛ける事に拠る威信の回復で,此処に集まった86名の将校達は,3つ目の戦術を採択し,その為の圧力団体として,国軍運動(MFA)を結成する事になりました.
 これには陸海空三軍を包括し,統括委員会には陸軍将校を中心に19人の幹部を選出しました.
 また,リーダーの選出も行われ,1位がコスタ・ゴメス参謀総長,2位がスピノラ将軍,3位が降下部隊のカウルツァ将軍でした.

 これに対抗する為,政府は同じ月に軍人の給与を画期的に引上げる予算案を通過させました.
 中堅,幹部将校と無能な政府の対立が続き,この年は緊張を孕みながら何とか平穏に終わりました.

 しかし,翌年,ポルトガル本国は劇的な展開を迎える事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/17 22:31

 1973年,内外に批判が起きていたポルトガルでは,MFAのメンバーが公然と政府批判を繰り広げていました.
 そして,彼等の代表となる人物を選びましたが,1位はコスタ・ゴメス参謀総長,2位はスピノラ参謀次長,3位は空挺部隊のカウルツァ将軍でした.

 1974年1月にモザンビークで発生した白人農園主夫人殺人事件に端を発した暴動では,更に軍の威信が低下し,モザンビークのMFAメンバー達は,同地を訪れたコスタ・ゴメス参謀総長に体制批判をぶちまけます.
 コスタ・ゴメス参謀総長は,頭を垂れて体制批判を聞きますが,抗議文はカエターノに送る様求めました.

 こうした中で,本国にいたMFAの中心メンバーであるヴァスコ・ローレンソ少佐とオテロ大尉は,スピノラ参謀次長に解決を委ねました.
 スピノラは彼等の言葉を突っぱねる様な事はせず,暖かく迎え入れました.
 この事から,スピノラ将軍は,MFAを公然とは支持しないまでも,支持者である事が彼等に判りました.
 しかし,スピノラ将軍は同時に,非常に政治的野心が強く,大統領就任の為に,MFAを踏み台にする下心を持っていた事も彼等はうかがい知れました.

 モザンビークの事件に端を発したMFAの政治化は,保守的な将校を憂慮させ,1月末に彼等の間を回った差出人不明の回状には,MFAの中立化と脱政治化を求めています.
 しかし,MFAを利用しようとするスピノラ将軍は,いよいよ政治的な言動を決定的にし,2月22日,スピノラ将軍は彼の考えを著した『ポルトガルとその将来』を出版しました.
 この本では,政府を決定的に批判し,植民地政策は軍事的解決は覚束なく,政治的解決が必要であると主張しました.
 当然,本は飛ぶ様に売れ,ベストセラーとなります.
 MFAでもスピノラ将軍の著作は,特に若手将校に熱狂的に支持されましたが,幹部達は,スピノラを警戒し,MFAとは一定の距離を置くべきだと考えていました.
 この対立は,後にスピノラが政権を執った後に爆発することになります.

 3月6日,カエターノ首相は,議会で,あくまで植民地を擁護すると述べると共に,自著の『海外に於けるポルトガル存在の理由』をスピノラの著書に対比させ,暗にスピノラ批判を行っています.
 ただ,カエターノ首相の失策は,こうした反政府的言辞を弄していたにも拘わらず,スピノラの著書を発売禁止にしなかった事でした.
 カエターノはスピノラを懐柔してMFAを解散させようと図りますが,策士策に溺れ,カエターノの無能振りが反って明らかになる事になってしまいます.

 3月5日,社会党の知識人でもあるメロ・アントゥネス少佐は,約200名の将校が集まるカスカイスでの集会で,植民地戦争の終結に伴う政治経済改革の必要性に言及したもので,空軍将校が文面が過激すぎると批判しましたが,結果的に110名が署名しました.

 3月8日,カスカイスの集会を知った陸軍大臣は,ヴァスコ・ローレンソなど4人の主要メンバーをアゾレス島やマデイラ島に左遷する事にしました.
 3月14日,陸海空三軍の将官は,国会で政府の政策を支持する事を誓約しましたが,コスタ・ゴメス参謀総長とスピノラ参謀次長はこれを拒み,遂に解任されます.

 3月16日未明,リスボンの北100kmに駐屯するカルダス・ダ・ライニャ第5駐屯部隊が決起し,リスボンに向かいますが,彼等は国家防衛警察とポルトガル軍団によって阻止され,約200名の将校が逮捕されました.
 軍と政府の対立は決定的になっていった訳です.

 こうした中,MFAの中心メンバーであるオテロはクーデター計画を練っていました.
 先ずは,マスメディアの掌握.
 これにより,一般大衆を味方に付けて自然発生的なMFA支持の流れを作ろうと言う訳です.
 体制側の国営放送をストップし,ポルトガル・クラブ放送を通じて声明文を流すには,予備士官であった同放送局の局員が協力を申し出ました.
 また,態度を明確にしていない降下部隊と海軍海兵隊の中立の約束を取り付け,更にラジオ・電話・無線についても協力を取り付ける事が出来ました.
 大統領,首相,植民地総督を辞任させた後には,政治犯を釈放し,検閲を廃止するなどの措置を行いますが,政府の顔は,スピノラが国家救済委員会を設置し,その総司令官になる事となります.

 〔略〕

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/18 23:56

▼ 〔略〕
 7月17日,2ヶ月の政治空白の後,第2次臨時政府が成立します.
 首相は反体制運動の長い実績を持つヴァスコ・ゴンサルヴェス大佐,進歩的左派に属するメーロ・アントゥネス少佐,ヴィクトル・アルヴェス少佐が無任所相として入閣し,17のポスト中7つまでが軍人に依って占められる事になります.
 こうして,MFAの勢力は増大し,スピノラは名ばかり大統領になった訳です.

 この第2次臨時政府の任期中に,ポルトガル植民地の独立と植民地解放闘争側との停戦も進んでいく事になります.
 7月27日,スピノラは,こう宣言します.

――――――
 これから後,海外領土住民の独立への権利の商人を含めて,アフリカの植民地独立計画を進めるあらゆる定義に応じる用意がある
――――――

 スピノラにとってこの宣言は自らの立場の敗北を意味しました.
 つまり,ポルトガル連邦制構想は完全に霧消してしまった訳です.

 但し,スピノラは未だ権力への希望を棄てては居ませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/19 22:59

 さて,1974年8月4日,ポルトガルはギニア・ビサウ共和国の独立を承認する用意がある事を発表しました.
 次いで9月7日,FRERIMOの代表者とポルトガルの代表者がモザンビークの独立に関する協定に調印しました.
 9月10日,ギニア・ビサウ共和国の独立はポルトガル政府によって承認されました.

 そんな中,植民地に移民として渡ったポルトガル人の動揺振りは覆うべくもありませんでした.
 9月7日,モザンビークの総督府所在地であるローレンソ・マルケスでは,独立の報に接した白人の暴徒が,ラジオ局やその他放送局を占拠し,南アフリカの介入による白人住民のモザンビーク独立を宣言します.
 しかし,国際社会の非難を恐れた南アフリカは実際に介入することなく,この独立は空振りに終わりました.

 ギニアとモザンビークがこうした形で独立した事は,スピノラにとって屈辱的なものでした.
 そして,スピノラは最終的な敗北を免れるべく,アンゴラに望みを託します.
 スピノラは,6月19日に米国のニクソン大統領,9月15日にザイールのモブツ大統領と極秘会談を行い,モブツとの会談の直後,アンゴラ北部からアンゴラ解放国民戦線(FNLA)がMPLAの支配を嫌って大挙して侵入し,UNITAと三つ巴の争いを演じていきます.
 これは,MPLAが主導権を握るアンゴラに於て,モブツとスピノラとの間で何らかの取引があり,更にMPLAの親ソ的な姿勢を嫌う米国が暗黙の支持を与えたからであろうと言われています.
 また,アンゴラは,ポルトガルの最大の植民地であり,豊富な鉱産資源を有しています.
 その為,資本家達はスピノラを通じて,アンゴラに於ける自分達の利益を守ろうとした訳です.
 更にアンゴラは,600万人のアフリカ人に対し,50万人の白人がいました.

 因みに,ニクソンとの会談の席上,ニクソンはこう言い放ったそうです.

――――――
 ポルトガルは左傾し,行き着く所まで行けばよい.
 必ず行き詰まる.
 左翼勢力は放置しておけ.
 その結果,ポルトガルはヨーロッパの左傾に対するワクチン注射になる.
――――――

 アンゴラの処理に関しては,ゴンサルヴェス政権も,臨時政府による暫定統治を経た二段階方式での完全独立を考えていました.

 一方,MFAを排除し,アンゴラの実質的植民地支配を何とかして残しておきたいスピノラは,9月10日,こんな演説を行います.

――――――
 ポルトガルの声なき大衆の皆さん.
 全体主義的過激派から身を守る為に立ち上がりましょう.
 彼等は複数政党制民主主義を破壊し,打倒したばかりのファシストと同じ様に弾圧的な左翼独裁体制の確立に向けて,社会的混乱を操作しているのです.
――――――

 此の後,公式的にスピノラは休暇を取った事になっていますが,スピノラはカーボヴェベルデのサル島に向かい,9月15日,此処でFNLAのホールデン・ロベルト,義兄であるザイールのモブツ大統領と会見しました.
 彼等は,9月26日,MPLAのリーダー達をリスボンに招くと共に,其の間を利用して28日にアンゴラをFNLAの手に委ねる計画を練っていました.

 本土ではスピノラの「声なき大衆」への呼びかけに応じようと言う主旨のポスターがキリスト教民主党,民主社会中道党の所謂右翼政党の党員達によって張られ,共産党を中心とする左翼陣営の人々が走り回ってそれを剥がす合戦が繰り広げられました.
 また,農村部では,映画やスライドを掛けて民衆に共産主義の恐ろしさを見せつけ,農民を洗脳しました.
 9月28日,この日を「声なき大衆」のデモの日と定め,右翼陣営は民衆の動員を図ります.
 農民に農園を占拠された地主達の自由農民連合(ALA)は,トラクターデモを予定し,「声なき大衆」達は,ベレンの大統領宮殿に集合して,スピノラに救国を訴えて気勢を上げる事になっていました.

 9月26日にはそのリハーサル的な出来事が起きます.
 在郷軍人会の基金募集という名目で,リスボン闘牛場で闘牛が催され,スピノラ大統領とゴンサルヴェス首相が招待されました.
 スピノラの入場の際には観衆は歓呼でこれを迎え,ゴンサルヴェスの入場の際にはブーイングと野次で迎え入れました.
 首相支持の声は,大統領支持の声にかき消され,「海外領土万歳」が叫ばれ,闘牛士が「声なき大衆の行進」と書いたプラカードを掲げて,場内を一巡しました.

 そうこうしている内に,「共産党本部を襲撃せよ」と言う命令が何処ともなく出され,口づてに広がります.
 大衆は興奮し,どっと出口に殺到し,共産党本部に向かおうとします.
 闘牛場は,共産党本部から指呼の距離にありました.
 中にはピストルや棍棒を持った用意周到な者も居ました.
 一方,外では,左翼系のデモ隊が待ち受け,流血の事態を避ける為に軍が介入して,すんでの所で衝突は避けられました.

 そして,27日.
 左翼政党は26日の事件を政府に強硬に抗議しますが,スピノラの腹心であった情報省のオソリオ少佐は,MFAの名の下にデモを許可しました.
 オソリオは後にキリスト教民主党のリーダーになった人です.
 唯,左翼の抗議が猛烈を極めたので,人民民主党と民主社会中道党の右派政党は一歩後退し,デモの公的支持は取り下げました.
 その日,左翼陣営はリスボンに1日がかりでバリケードを築きました.
 労働組合は,リスボンへ向かう電車とバスをストップさせ,無料切符を持った大衆の移動を阻止しました.
 夜の閣議では大多数の閣僚はデモに反対し,COPCONのコスタ・ゴメス将軍とオテロは,その場で軟禁状態に置かれていました.
 ゴンサルヴェス首相は辞任を拒否し,スピノラは「バリケードを築け」と放送しているラジオ・クルベを閉鎖し,国営放送だけの放送とする様,オテロに命じ,共和国警備隊や警察によるラジオ,テレビの占拠も命じました.

 しかし,既にオテロは手を打っていました.
 既にこれらの場所はMFAが占拠していました.
 業を煮やしたスピノラは,オテロに部隊を交代させる様命じますが,オテロは拒否し続けました.
 オテロを探す電話は,COPCON本部からひっきりなしに掛かってきました.
 オテロは軟禁状態に置かれていたのですが,オテロが大統領宮殿に居る事を知って,COPCONの部隊がオテロ救出の為,大統領宮殿に向かう事を恐れたスピノラは,結局,オテロをCOPCONに帰る事を許します.

 既に,政治と言う権力だけでなく,武力と言う権力でも,スピノラを求めていなかった事を知って,スピノラは落胆し,9月28日正午,デモ中止を宣言しました.
 この日,スペインから大量の武器弾薬が持ち込まれ,左翼のテロを装ってのゴンサルヴェス首相暗殺まで計画されており,更にモザンビークやアンゴラでもMFA幹部の暗殺が右翼によって計画されていました.
 この事件で300名が逮捕され,その中には,カエターノ政権の高官まで含まれていました.

 9月30日,MFAとスピノラの争いに終止符が打たれました.
 スピノラは,遂に大統領職を辞任したのです.
 しかし,スピノラは未だ諦めていませんでした.
 次の機会を待つ為に雌伏する事を選んだ訳です.

 9月30日,第3次臨時政府が発足し,大統領にはCOPCONをスピノラに利用させなかった事から株が上がった,コスタ・ゴメスが就任する事になります.
 そして,ゴンサルヴェスが首相を引き続き行い,6名のMFAメンバー,民主社会中道党のサ・カルネイロ,共産党のクニャル,社会党のソアレスが入閣し,再び左に大きく戻る事になりました.
 また,MFA内部ではスピノラ派が排除され,どんどん不利になっていきましたが,MFA内部は急進派が多数を占め,一方で共産党と社会党の対立がMFAに持ち込まれ,更に混沌としていく事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/20 23:29

 第3次臨時政府で大統領の職に就いたコスタ・ゴメスは,MFAの独裁を恐れる人々を宥め,何れの派に属する事もなく,バランス感覚を駆使して中立を保とうと腐心しました.
 コスタ・ゴメス大統領は,なるべく安定した国を後継者に手渡そうと考えていたのです.

 第3次臨時政府の役割は,国内問題よりも植民地問題の解決に全力を尽くす事でした.
 既に,植民地はポルトガルにとって経済的な足枷でしか無かった為,如何に早く切り離すかが重点事項となっていました.

 1975年1月15日,ポルトガル南部アルガルヴェ州に於て,MPLAのアゴスティニョ・ネト,UNITAのジョナス・ザビンビ,FNLAのホールデン・ロベルトとコスタ・ゴメス大統領,ゴンサルヴェス首相,メロ・アトゥネス無任所相のサミットを行い,調印されたアルガルヴェ協定により,1月31日に3つの勢力から1名ずつ代表を出して,3人のリーダーが臨時政府を構成する事とし,11月11日に完全独立する事が決定されました.

 モザンビークは6月25日,FRERIMO結成13周年記念日に正式に独立しました.
 7月5日には,カーボヴェルデ,サン・トーメ・プリンシペの両諸島が独立を認められ,此処にポルトガルの植民地は1999年に租借期限が切れるマカオと1975年にインドネシアの占領下に置かれた東ティモールを除き,全て独立を果たしました.

 こうした外政とは別に,内政は混乱が広がっていきました.
 MFA首脳部とスピノラ支持派の国軍高級将校との対立は深まり,民衆はデモやストライキに勤しみました.
 右翼政党の集会は極左の暴徒に襲撃され,鎮圧の為に出向いたCOPCONの部隊と共和国警備隊が激突する事もありました.
 特に,極左の伸長は,混乱と無政府状態を作り出し,国内は騒然とした状態になっていきます.

 2月17日,オポルトの軍司令部将校達は,救国軍事評議会,調整委員会,COPCONと極秘の会合を開き,1月にスペインで結成されたテロリスト・グループであるポルトガル解放軍についての証拠物件を提示しました.
 このポルトガル解放軍は,9月28日以来非合法化された進歩党党員,旧PIDE/DGS隊員,右翼の実業家と外国人から構成され,メンバーをMFAにも潜入させていた形跡がありました.
 また,この組織が2月25日にクーデターを計画している情報も入手していました.

 MFA首脳部はCOPCONに24日~28日まで,厳戒態勢を敷く様に命じました.
 しかし,この期間は何事もなく過ぎていきます.

 3月6日,フランスの左翼カトリック系新聞が,スピノラがCIAの協力の下にクーデター計画を練っていると報じました.
 これに激怒した左派社会主義党,革命行動統一連合と言った極左系集団凡そ2,000名が,セトゥバルで開催された右派の人民民主党の大会を襲撃します.
 こうした動きに,MFAも主要政党も極左の行き過ぎを激しく非難しました.

 3月8日,右翼政治家と大企業主が会合を持ちました.
 これは極左テロリストがイースターに大虐殺を企み,ブラックリストを作成していると言う噂の真偽を検討する為でした.
 9日,彼等はスピノラが隠退している農園を訪ね,スピノラとこの件について話し合いを持ちます.
 その席上,スピノラはフランスの情報機関から送られてきたというブラックリストを見せました.
 此処に,彼等は左翼に対する第2の反撃を行う事で意見の一致をみたのです.

 11日午前10時45分,空軍のT-6テキサン2機を護衛にして,輸送ヘリ8機に40名の降下部隊が乗り組み,第1砲兵連隊に向かいました.
 更に,120名の降下部隊隊員を乗せたノラトラ輸送機3機がその後を追いました.

 11時50分,左翼的将兵の牙城と見做されていた第1砲兵連隊にロケット弾が撃ち込まれ,1名が死亡,15名が負傷します.

 同じ時期,リスボンの中心地にあるカルモ兵営では,共和国警備隊将校が抵抗もせず反乱軍に投降し,合流しました.

 13時,軍人2名の指揮する2組の市民グループがヘリコプターでラジオ・クルベ・ポルトゥゲスを襲撃し,発電機に機関銃を撃ち込んで放送を麻痺させましたが,COPCONが逸速く国営放送を占拠した為,放送網の掌握は成りませんでした.
 国営放送は第5師団によって運営され,彼等は事件の経緯を国民に向けて説明し,軍内部で兄弟喧嘩をさせたのは誰だ,と,怒りをぶちまけました.

 リスボンで銃声が響くや否や,共産党と労働組合連合の合同緊急会議が持たれ,各地に急使が放たれて,リスボンとオポルトを結ぶ道路とテージョ河の橋の上にバリケードを築きました.
 また,保守派の牙城であった共和国警備隊のあるカルモ広場を包囲し,通行を阻止しました.

 15時,降下部隊のセバスチャン・マルチンズ大尉と,第1砲兵連隊のディニス・デ・アルメイダ大尉との間に奇妙な会話が行われていました.
 アルメイダ大尉は次の様に記しています.

――――――
マルチンズ大尉:「我々は流血を避ける為に来た」
アルメイダ大尉:「既に血は流れてしまった」
マルチンズ大尉:「4月25日の精神の回復の為だ」
アルメイダ大尉:「4月25日?君は何処にいた?君を見かけた覚えはないぞ.
           降下部隊も空軍も革命に参加しなかったではないか!」
マルチンズ大尉:「君の部隊を襲撃する様命令を受けた」
アルメイダ大尉:「俺は自分の部隊の守備を命じられている」
マルチンズ大尉:「投降する様に命令されていないのか?」
アルメイダ大尉:「平常通り任務に就いていたのに,急襲された.特別の命令は受けていない.
           負傷者も死者も出た.一体どうなっているんだ…?」
マルチンズ大尉は,MFA綱領の無効を訴えるスピノラ直筆の文書をアルメイダ大尉に渡します.
アルメイダ大尉は,それに目を通して反駁を開始しました.

アルメイダ大尉:「君らは,この紙切れ一枚の為に,我々の連隊を急襲したのか?」
マルチンズ大尉:「高官の間に現状不満の声が広がっている.
           彼等の名に於て,4月12日の占拠が無事に行われる様,今回のクーデターが
           起こったのだ」
アルメイダ大尉:「軍こそ占拠の実現を保障する存在ではないか!
           君は誰から命令を受けたのだ?スピノラか?
           命令を下せるのは大統領,首相,参謀総長だけだ」
マルチンズ大尉:「誰であるにせよ,俺は命令を受けた.
           俺は君らを攻撃し,君らは防衛した.
           だが,これ以上死者を出さない為にも話を付けよう.
           投降したまえ.」
アルメイダ大尉:「嫌だ,俺はあくまで戦う.しかし,何の為に君らを相手に戦うのだ?」
――――――

 この光景を降下部隊の兵士達が見ていました.
 彼等は,上官から第1砲兵連隊が叛乱を起こしたから鎮圧せよと言われていたのに,全然違う光景が展開されていた訳です.
 彼等は上官から騙された事に気がつくと,次々に武器を棄て,砲兵連隊の兵士達に歩み寄りました.
 そして,砲兵連隊の兵士も武器を棄て,彼等に歩み寄ると次々に兵士達は肩を抱き合ったのです.

 この光景はテレビで一部始終が放映されていました.
 また,第1砲兵連隊を十重二十重に取り囲んでいた群衆はその一部始終を目撃し,彼等は兵士達を「兵士は民衆の息子だ!」と称えました.

 15時30分,クーデターは失敗に終わりました.
 スピノラと腹心の将校14名はヘリコプターでスペインに向かい,亡命していきました.
 スピノラ派は,MFAの動きにブレーキを掛けようとしました.

 スピノラ支持派は軍の権威の回復,新植民地主義,経済近代化を標榜していました.
 その背後には,CIAがあり,チリでアジェンデ大統領が倒された前例があり,多国籍企業やポルトガルの独占企業がありました.

 しかし,彼等の誤算は民衆の力と,軍でのスピノラの威光の低下を計算に入れていなかった事でした.
 こうして,ポルトガルの改革は加速される事になり,植民地の独立が達成された訳です.

 但し,新植民地主義を標榜する勢力が,これら旧植民地,特にアンゴラとモザンビークで暗躍を続けていった訳ですが,それはまた別の話….
 一旦,この話は此処までで,又,何時かその辺りの話を展開しようか,と.

 てな訳で,モザンビーク独立までのお話は,とっぺんぱらりの,ぷう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/21 21:22


 【質問】
 モザンビーク=南ローデシア戦争とは?

 【回答】
 モザンビークでは,1964年頃からモザンビーク解放戦線(1962年結成)による武装独立闘争が始まり,1975年6月に人民共和国として独立を達成した

 しかし,独立前の1970年以後,南ローデシアのスミス政権がモザンビークの独立に干渉し,解放戦線を攻撃した.
 南ローデシアの干渉は独立後も続いた.
 1976年には国連安保理がモザンビーク支持を決議し,スミス政権の崩壊によって終わった.

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/89-tojyoukoku2.html


 【質問】
 モザンビーク内戦とは?

 【回答】
 モザンビークでは1981年頃からは,南アフリカの支援を受ける反政府ゲリラとの内戦が激化.
 1992年に終わったが,内戦による死者は約100万人といわれている.

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/89-tojyoukoku2.html


「別館A」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

inserted by FC2 system