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◆◆冷戦終結以後
<◆諜報史
諜報FAQ目次


(こちらより引用)


 【link】

『CIAは何をしていた?』(ロバート・ベア著,新潮文庫,2005/12)

 読了.
 中盤までの胸の踊るような諜報戦と,終盤のグダグダ内部争いの差が…
 こりゃ,9.11を予期できるわけもないよなあ,というぐらいに,CIAの劣化っぷりが見事に描かれてる.
 当局に黒塗りされたところがそのまんま残されているけど,重要な記述はそれほど削られていない印象.
 サウジ王族がらみは流石にまずいのか,半ページまるまる真黒だがな.

------------軍事板,2012/01/16(月)

 【質問】
 ベルリンの壁崩壊を,CIAは予測していたか?

 【回答】
 全く予想もしていなかった.

 まず,ベルリンの壁開放自体がハプニング的なものだった.
 「ベルリンの壁開放」を記者会見で発表した東ドイツ共産党スポークスマン,ギュンター・シャボウスキイは,エゴン・クレンツら政治局の作成した,旅行制限緩和に関する法律について十分に説明をされておらず,また,政府案の内容をよく読んでいないまま,ほぼぶっつけ本番で記者会見に臨んだため,その席上,完全開放であるかのように発表してしまった.
 ベルリンの壁の検問所に配置されていた国境警備兵の中で,放送を見た兵士達は,他に何の命令も受けていなかったので,新しい政策を直ちに試してみようとした東ベルリンの人々を,そのまま西ベルリンに通すことにしたのだった.

 また,東ドイツ政府上層部にCIAはエージェントを持っていなかったので,東ドイツの秩序が一夜にして崩壊するのを予測させるような,特殊な情報をもたらす者はいなかった.東ドイツの防諜活動はしっかりしていた.CIAは東ドイツの上層部に近づくことができなかった.

 だから,激動するベルリンの最新情報をワシントンに伝えるのは,CIAではなくCNNだった.ベルリンの壁の崩壊は,冷戦終結まで続く,CNNとCIAの無言の競争の第一幕だった.

 大統領が日々の歴史的事件を理解するのに役立つ極秘情報を得るというのも,言うは易し,するは難しだった.
 絶好の位置にエージェントを持っていたとしても,目まぐるしく変わる状況を見ぬく情報を得るのは,非常に難しい.

 詳しくは,M. Bearden他『ザ・メイン・エネミー』下巻,ランダムハウス講談社,'03,P.214を参照されたし.

ベルリンの壁崩壊
http://www.defence.gov.au/news/raafnews/editions/4711/letters.htmより引用)


 【質問】
 以下の記事ですが,本当にプーチンだったのですか?

――――――
プーチン首相がKGB工作員として観光客に扮してレーガン大統領に会っていた!(写真あり)
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1237609705/

 ロシアのウラジミール・プーチン首相がKGB職員として工作活動に携わっていた当時の写真が明かるみになった.
 20年前,モスクワで撮影した写真には2人の世界的指導者,ロナルド・レーガン米国大統領と ソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長が写っているが,同時にプーチン氏も写っていたのである.
 現在,オバマ大統領の公式カメラマンのピート・スーザ氏が,レーガン大統領の下で働いていた当時に撮影した写真で,観光客に扮したプーチン氏を捉えている.
 レーガン大統領はゴルバチョフ書記長に案内されて赤の広場周辺を散策し,それから観光客の一団に紹介された.
 スーザ氏は,この観光客たちが米国の大統領に「辛らつな」質問を浴びせたのに驚いたと,当時を振り返って語った.
 人権に関する細かな質問などがあったと言う.
 写真で首からカメラをぶら下げた左の人物は紛れもなくプーチン氏である.
 見物人を装ってKGB職員を配備するといったやり方は,外国首脳がロシアを訪れた際などソ連時代にはよく行われていたことである.

 しかし,プーチン氏に関する著作もあるロシアの政治評論家アンドレイ・ピオントコフスキー氏は,そうした行為があったことは認めながらも,スーザ氏の主張については「ばかげている」と否定している.
「当時,プーチン氏はドレスデン勤務で,わざわざモスクワまで出張させるほどの要職でもなかった」
と,彼は言う.
 プーチン氏はKGB職員として1985年からベルリンの壁が崩壊するまで東ドイツ,ドレスデン市で勤務,その後ロシアに呼び戻された.
 どういう仕事をしていたのかはあまり分かっていないが,中堅の対外諜報部員だったと見られている.
(一部略)

(写真)左端がプーチン氏,レーガン大統領の右にゴルバチョフ書記長
http://image.examiner.com/images/blog/wysiwyg/image/vlad.jpg
http://www.telegraph.co.uk/telegraph/multimedia/archive/01369/RonaldReagan_1369289c.jpg
米イグザミナー:
http://www.examiner.com/x-2888-World-News-Examiner~y2009m3d19-Vladimir-Putin-gets-around
――――――

 【回答】
 どう考えてもネタ記事でしょ.
 なぜわざわざ東ドイツに勤務しているプーチンを使う必要があるのだろうか?
 もっと他に優秀な人材を使うでしょ,常識的に考えてさ.
 アンドレイ・ピオントコフスキー氏が述べているように,KGB時代のプーチンはそれほど優秀なスパイでもなく,何所にでもいるありふれたスパイの一人でしかなかった.
 そんなヤツに重要任務を任せる上司がいるか?普通??

 彼の才能が発揮されるのは,恩師(という程でもないが)であるアナトリー・ソプチャクの登用したお陰(裏でKGBが手を引いていたけど)
 「灰色の枢機卿」と呼ばれるようになったは,他でもないプーチンの能力である.
 その後クレムリン入りになり,そこでも無名だが実直に働いていたことがセミヤーの目に止まり,エリツィンの後継者として抜擢されるわけである.

 もしそのままKGBに留まっていたら,大統領はおろか無名の労働者として人生を送っていたかも知れないしね,
 なんとも面白い人生だなぁと思ったり.

<ロシアのジョーク>

「プーチンはKGBで東ドイツに派遣されていた.
 ロシアにもどって来たから大統領になれたが,有能な人がたくさんいる西ドイツに亡命していれば,今頃炭鉱労働者だっただろう」

CRS@空挺軍 in mixi,2009年03月22日11:46

Vladimir Putin disguised as a touri.....everything possible
http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?t=153557

 プーチンが観光客に変装してるという画像から,壮大なプーチン・ネタ画像スレッドに.
 なんと「RomanS(ロシア関係で有名なコテハン)」まで参戦するという事態に!11!!

 これは酷いwwwと言わしめる画像が豊富で・・・
faq49m01jk.jpgへのリンク
faq49m01jk02.jpgへのリンク

 ん? 何やら外が騒がしいぞ?

CRS@空挺軍 in mixi,2009年03月20日17:26


 【質問】
 ベルリン壁崩壊のさいに,その流れに乗った民衆がKGBドレスデン支部へ来たときに,プーチンが
「この施設に入ったら殺す!」
と言ったのは本当?

 【回答】
 本当.

 ベルリンの壁が崩壊した26日後の12月5日,その余波はドレスデンにも押し寄せた.
 大勢の市民が,自分達を抑圧してきたシュタージのドレスデン支部を襲い,事務所を占拠した.
 目的はシュタージが長年にわたって盗聴した個人記録を取り戻すことであった,
 シュタージを占拠した群集1000の怒りの矛先はKGB支部にも向けられた,
 KGB支部はシュタージのドレスデン支部からわずか100メートルしか離れていない.
 こうしてKGB支部も民衆に取り囲まれた.
 当時この出来事を目撃した,近所に住んでいたジークフリート・ダナト・グラプス氏は当時の様子をこう証言する.
「襲撃が始まった時,警備員はあわてて建物に駆け込みました.
 その後プーチンが階段を降りてきて,群集に向かってこう言いました.
『我々は武装している.不法侵入すれば発砲する』
 この言葉を聞いた市民達は皆,縮み上がって退散しました」

 ちなみにこの時のプーチン達は,群集がKGB支部に乱入することを恐れ,重要機密書類の抹消作業に忙殺されていた.
 高い価値のあるものはモスクワに運び,他の書類は昼夜を問わずに焼却した,焼きすぎて焼却炉が壊れるほどであった.
 万が一に備えて,駐留ソ連軍の出動も要請した.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月17日18:26

 市民たちは氷のようなプーチンの目に恐怖を覚えたことを後に語った.

――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.79

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 プーチンは冷戦終結について,どのように考えているのか?

 【回答】
 少なくとも歓迎してはいない.
 避けられないことだったが,あれほど急変すべきではなかったと考えている.

 以下引用.

 ベルリンの壁の崩壊をもたらし,そしてまた東ドイツの全秘密諜報班の崩壊と自分たちが自らの義務と確信し遂行していた人々の迫害をもたらした1989年と1990年の出来事は,プーチンに重い印象を与えた.
 ドイツにおけるソヴィエトの諜報局は,しばらくの間,運命に操られるままとなり,何をしたらよいのか分からなかった.
 ウラジーミル・プーチンは今日でもこれらのこと全てについて,苦々しく残念に思いながら語っている.
 今,彼が理解するところでは,これは避けられなかったことではあるが,あれほどまで異常に,急速に起こるべきではなかった.

『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.90-91

 本書の全体のトーンはプーチン翼賛的であり,したがって,外国人をしてプーチンに対するマイナス・イメージを抱かせることになるだろう,この記述は,逆に信頼に値すると愚考する.

 まあ,ソ連崩壊によってロシアは一時,どん底に落ち込んだのだから,プーチンがこのように考えるのも不自然ではないが.

プーチン・フォルダより
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq49m01us02.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq49m01us03.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq49m01bu.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 北韓弾頭ミサイル売却阻止工作とは?

 【回答】
 仮に佐藤優の文章を信頼するとするならば,イスラエル(?)が北韓にカネを払うことで売却を中止させ,某国の弾道ミサイル開発計画を中止させようとした工作で,結局成功しなかったという.
 1990年代に行われたという.

――――――
 この情報大国には仮想敵国がある.
 この仮想敵国に北朝鮮が弾道ミサイルを売却しようとしているという有力情報が入ってきた.
 そこで,この最高幹部はヨーロッパの某国で,北朝鮮関係者とコネをつけて,北朝鮮にカネを払うことで,弾道ミサイル開発計画を中止させようとしたのである.
 結局,この工作は成功しなかったが,1990年代インテリジェンス史に残る工作だったことは間違いない.
「週1回,旧東ベルリンのシェーネフェルト空港に北朝鮮のイリューシン62型旅客機が飛んでくる.
 これに乗ってモスクワ経由で平壌に行くんだ.
 ファーストクラスに乗ったが,エコノミークラスには段ボール箱が満載されていて,乗客が座る場所がない.
 北朝鮮にとって,この定期便はヨーロッパから物資を運ぶライフラインなんだね」
「乗り心地はどうでしたか」
「悪くなかったよ.ただし,モスクワがつらかった」
「どうしてですか」
「ロシアにわれわれの動きを察知されないようにするために飛行機の中にとどまっていたんだ.
 清掃員も入れない.
 モスクワでも北朝鮮側が荷物を搬入する関係で機内で1泊したんだが,エンジンを切ったので,暖房が止まり,機内の温度が5℃くらいになった.歯がふるえてきたよ」
「ロシア人はアエロフロート(ロシア航空)機の国内線を『空飛ぶ強制収容所』と言いますが,まさにそんな感じですね」
「ハッ,ハッ,ハッ.平壌から『帰りもモスクワ経由のファーストクラスでどうぞ』と言われたが,『是非,またの機会にします』と言って,北京に出してもらった.北京からスイス航空でチューリヒに出た.印象に残る出張だった」
「身に危険を感じなかったんですか」
「少しは感じたよ.
 ただ,僕たちに乱暴なことをすれば,あとでわが国がどういう対抗措置をとるかを北朝鮮側もわかっているから無茶はしないよ.
 敵地で交渉するときは何よりも胆力が必要になる.胆力さえあれば,あとは何とかなるよ」

――――――『SAPIO』 2007/6/13号

 本サイトではクロスチェックするに足る情報を有していないため,信頼性不明.


 【質問】
▼ 1995年,日米自動車協議で,日本側は本当に盗聴されていたのか?
 日米自動車交渉日本側交渉団盗聴事件とは?

 【回答】
 これは1995年11月15日付のニューヨーク・タイムズが報じたもので,同年6月にジュネーブで開かれた日米自動車交渉において,NSAとCIAの東京支局が日本側交渉団を盗聴し,詳細を米国貿易代表のミッキー・カンターの交渉チームに提供していたというもの.
 橋本通産大臣(当時)ら日本代表団の会議での会話の全て,メーカーと官僚との交信等が盗聴されていたという.
 これらをワシントンで分析し,米国の交渉団に提供.
 これによってカンター代表らは,トヨタや日産の幹部が通産省にプレッシャーをかけていたことを知ったため,交渉を有利に進めることができた.
 さらに交渉が最終局面を迎えた同月下旬,米国側代表団の宿泊したスイス・ジュネーブのインターコンチネンタルホテルにCIA要員も同行して,日本側にどこまでプレッシャーをかけられるかの判断材料をカンター代表に提供した――とされる.

 時代背景としては,冷戦が終わり,日米経済摩擦が問題になり,▲当時はアメリカでいわゆるジャパン・バッシングが盛んだった頃.
▼ 1992年1月,当時のCIA長官ロバート・ゲイツは,既に次のように語っていた.
「これまでCIAの活動は対ソ監視に重点を置いてきたが,今後は全力を挙げてその情報収集と諜報活動の狙いを米国と経済および技術競争の国に向ける」
 したがって,「盗聴が行われていて当然」と考えるべきであったろう.

 斎藤勉〔産経新聞編集特別委員,元ワシントン特派員〕によれば,その疑いが強い,という.
 また,斎藤勉〔産経新聞編集特別委員,元ワシントン特派員〕によれば,日本側の体勢にも問題があったという.▲
 以下引用.

------------
 自動車交渉を巡っては,当時の在米日本大使館内部で,大蔵省と通産省(いずれも当時)からの出向官と,外務省本体の担当官庁の「連携の悪さ」が,特派員にも漏れ聞こえてきていた.
 「ホテル盗聴」は,日本国内の関係省庁の縦割り行政の欠陥が,そのままワシントンにも持ち込まれ,米側にその間隙を突かれた格好になったのだ.

------------"SAPIO" 2003/12/10号,P.86

▼ これが本当であるなら,盗聴に対する警戒態勢以前の部分で問題があったと思われる.

 しかし一方で日本側も,アメリカに対する盗聴を行っている.
 1997年2月15日付の産経新聞の報道によれば,元ウォールストリートジャーナル紙記者のジョン・ファイアルカが自著に,日本政府が米国政府代表団の宿泊するホテルを少なくとも15年間にわたって盗聴していた,と証言する米国商務省高官2名のインタビューを収録.
 同書のなかで,ニューヨークタイムズ紙が日米自動車交渉で米側が盗聴をおこなったと報道したとき,日本政府筋が懸念を示したこともジェスチャーにすぎない,と指摘している.

 そもそも,「相手は友好国だから盗聴を行わない」という遠慮など,諜報分野では寡聞にして知らない.▲
 このようなことが▼現在進行形で▲行われて▼いて▲も,何ら不思議ではないと愚考する.

▼ 【参考ページ】
http://www.fbook.com/massa/2013/07/nsa25.html
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1056.html
http://www.iis-net.or.jp/files/wing21/007/200102653.pdf▲


+

 【質問】
 ハロルド・ニコルソン事件とは?

 【回答】
 CIA高官,ハロルド・ニコルソンが,ロシア情報機関SVRに94年以来,内部情報を漏洩していたところ,FBI,CIAの協力によって摘発された事件.
 漏洩情報はチェチェン情勢,CIA工作員の身分事項などに及び,エイムズ事件以来の大事件であるとされている.
 ニコルソンはルーマニア所長,シンガポール副所長などを歴任している.87-89年は,日本に赴任していたこともある.94-96年7月は,研修担当職に就いていたという.
 SVRへの情報提供の中には,公安庁からCIA研修に参加した職員のリストも含まれていた.それまでの研修参加者,約30名の公安朝食員リストが,ロシア情報機関の手に渡っていたことになる.

 事件については,捜査に当たったFBIのSA(Special Agent;特別捜査官)の宣誓供述書が,FBIのHP上でも公開されている.

 詳しくは,野田敬生著「CIAスパイ研修」(現代書館,2000/3/20),p.157-158他を参照されたし.


 【質問】
 ありふれたスパイ事件であるはずのロバート・キム事件は,なぜ注目されたのか?

 【回答】
 移民達の“国家的忠誠心”のあり方に問題を投げかけるものとなっているため.

 韓国系米国人のロバート・キム(64)は60年代に米国の大学に留学,そのまま米国籍になった移民一世.
 '74年から米海軍情報局に勤務していたが,'96年,駐米韓国大使館武官に機密情報を流したとしてスパイ罪で逮捕され,懲役九年の刑で服役.2004年,仮釈放となった.

 漏らした情報は米海軍が保有していた北朝鮮潜水艦の動向に関するもので,キム氏は米国から韓国側に十分な情報が提供されていないことに不満と疑問を感じ,「祖国のため」を考えて情報を持ち出したという.

 韓国マスコミは市民権を得ている居住先の米国に対する背信行為については触れず,母国である韓国への忠誠心だけをもてはやしている.
 産経新聞の黒田勝弘は,
「この問題は,日本における在日韓国人に対する参政権付与をめぐる議論にも微妙に関係するものとみられるが,韓国マスコミは在外同胞に対する一方的な見方だけが目立つ」
と報じている.


 【珍説】
http://www.diplo.jp/articles03/0308.html
 不法なスパイ計画のうち最も常軌を逸しているのは,国防総省が全情報認知(TIA)という名称で準備している情報完全監視システムである.
 この計画は,1980年代にイラン・コントラ事件の中心的人物として有罪判決を受けたジョン・ポインデクスター John Poindexter 大将に一任されている.
 その内容は,地球上で暮らす60億人の個人情報を平均40ページにわたって収集し,それをハイパーコンピュータによって処理するというものだ.カードによる支払いや,新聞雑誌の定期購読,銀行の入出金,電話の発信,ウェブサイトの閲覧,電子メ−ル,警察の記録,保険関係の書類,医療記録,社会保険記録など,入手可能なあらゆる個人データを処理することにより,一人ひとりの人間を完全に追跡可能にするという.

アルマン・マトラール Armand Mattelart 『情報社会の歴史』,
ラ・デクーヴェルト社,パリ,新版,2003年10月)

 【事実】
 まあ,諜報分野については断言できることなど殆どないのですが……

 物理的に不可能でしょう.
 第一に,それらのシステムによって行動を探り当てられるほどのデータを持ちえる人は極一部です.
 自分が,それらのデータを撒き散らしているか考えてみてください.

 次に,諜報機関の側から見て,そのようなプロジェクトは,
やる意味がない
やる予算がない
やる人員がない

 情報は無闇やたらと集めても,それだけでは意味がなく,分析をして初めて意味あるものになるのです.60億人のファイルを管理するだけでも設備は膨大となり,60億人分の情報の分析をするには,少なく見積もっても,600万人の要員を必要とするでしょう.設備維持費・人件費で国防予算はパンクします.
 仮にそれだけ莫大な金をかけて,練馬のオバチャンの情報を集めて分析しても,意味があるとは思われません.

 事実はそこまで大げさなものではなく,米国民の公的機関,保険会社などの個人情報の統合データ・ベースから始めるようです.おそらくは,そのデータ・ベースの全ての人間を対象とするわけでもないでしょう.

 詳しくは
http://search.itmedia.co.jp/?whence=0&max=10&result=normal&sort=date%3Alate&query=TIA&idxname=
もしくは,
News:米国防総省のデータマイニング計画に事実上終止符
を参照してください.

(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk他)


 【質問】
 エリツィン政権下のロシアで経済がガタガタになったのは,IMFを介したアメリカの陰謀なのか?
 北野幸伯によれば,エリツィン時代にロシアに経済的大打撃を与えたのは,アメリカであるとされているが.
 以下引用.

 90年代はじめ,アメリカはIMFを通じ,ロシアに間違った市場経済改革方法を伝授しました.
(ワシントン・コンセンサス→政府による経済管理の廃止・大規模な民営化・価格の全面自由化)
 エリツィンとブレーンはこの内容を忠実に実行し,経済をボロボロにした.
 GDPは,ソ連末期の半分に落ち込み,98年にはデフォルトします.

 ソ連(ロシア)は,歴史を通じて,唯一アメリカの脅威だった国.
(日本やナチスドイツの時,アメリカは全然余裕だった.)
 アメリカは,仮想敵NO1をうまいことはめて,ボロボロにすることに成功したのです.

 この件について,心やさしい日本人は,「アメリカは自由と善意の国,ロシアにそんなズル賢いことをするはずない」と考えます.
 しかし,パワーポリティクスの現実を知っている人は,「そうだそうだ」というでしょう.

 〔略〕

 ロシア研究者の間では,アメリカがIMF経由でロシアをつぶしたというのは,常識といえるでしょう.
 もちろんマジメな研究者は,自由な立場の北野のような表現は使いませんが...例えば,ロシア研究の第一人者小川和男先生.
「私は,IMFの強力な勧告に縛られたエリツィン政権の厳しい国内財政・金融引き締め政策こそが,生産が回復しなかった最大の要因であったことを強調したい」(ロシアの経済事情 小川和男先生)
 IMFのいうことをエリツィンが聞いたことが,景気悪化の原因だといっているのです.
「税収不足に苦しむロシア政府としては,年間35億ドル前後のIMF融資は,のどから手が出るほど欲しく,IMFの勧告に従い,国内引き締め政策を続けざるを得なかった.」(同上)
 わかりますね?
 金が欲しいロシア政府はIMFのいうことを聞かざるを得ない.そして,いうことを聞くと必然的に,経済がボロボロになるように仕組まれているってことです.

 で,結果どうなったか?
「通貨供給量の厳しい抑制は,投資を減退させ,企業の生産活動を停滞させると同時に,企業間債務を膨張させて信用不安を引き起こし,工場従業員への賃金未払いという別の難題を現出させることとなり,結局は企業からの税収を滞らせる結果を招いたのである.」(同上)
 いろいろと書いてありますが,要は,IMFのいうこと聞いたロシアの経済は踏んだり蹴ったりだったってことです.必然的に.

 ですから,アメリカを含む”普通の国”が「こんなおいしいことがありますよ!」と言ってきたら,よく考えてみる必要があります.
 それは,日本にとっておいしいのか?,それとも提案している国においしいのか?,と.

 というわけで,ロシアは98年の金融危機で死亡.
 IMFは「返済能力ないから,もう金を貸しません!」と宣言した.

 ところが,それがロシアに幸いしたのです.
 そう,ロシア政府は「金を貸してくれないアメリカや国際金融機関」には用がありませんから,独自路線を取るようになった.
 アメリカのいうことを全然聞かないKGB出身のプーチンさんが大統領になり,状況は一変.
 彼は,ここ6年間でGDPを50%も増やした.
 原油高で,国には金がありあまっている.
 対外債務もほとんど返済,「残りは期限前に返済したいのですが」なんて余裕の態度.
 外交でもアメリカのイラク攻撃に最後まで反対.
 イランを攻撃したいアメリカに対して,「ウラン濃縮をロシア国内でやればいいじゃない?」なんて,リーズナブルな提案をしてくる.

北野幸伯著「ロシア政治経済ジャーナル」No.379,2006/3/6号

 【回答】
 一言で否定することも肯定することも難しいが,少なくとも合理的な疑いを抱かせるだけの事実がある.

 まず,IMF融資については,それが正常に運用されたと考えることは難しい.
 不正に横取りされた可能性が高い.
 しかもそれを行ったのが,当時IMF債務担当の人物だったという.

 以下引用.

 〔ミハイル・〕カシヤノフ〔財務相〕にはもう一つ大きな疑惑が囁かれていた.国際通貨基金(IMF)からロシアに供与されたルーブル安定化のための融資48億ドルを「盗んだ」(イタリアのレプブリカ紙)との指摘である.
 「レプブリカ」紙はカシヤノフを「ロシアゲートの演出者」と名指しまでした.
 「ロシアゲート」とは1999年夏,米国の「バンク・オブ・ニューヨーク」で発覚したロシアの大規模な資金洗浄疑惑だった.

 1998/8/17,ロシアは金融危機に陥り対外債務返済凍結を発表した.
 その前月,IMFはロシアの要請に基づく「ルーブル安定化基金」110億ドルの第1回融資分として48億ドルを米ニューヨーク連邦銀行のロシア中央銀行口座に振り込んだ.
 その後,48億ドルはロシア政府指定の外国の口座に様々に分けて移転された.
 ところが金融危機のどさくさの中で,この巨額資金は行方知れずになってしまった.

 2000年7月の「レプブリカ」紙はスイスの取り調べ検事ローレンツ・カスペルアンセルメがスイスの金融機関に送付した書簡をもとに,この資金の流れの詳細を明らかにした.

 1998年7月20日,IMFが総額110億ドルの対露融資を決定した.
 これを3回に分けて振り込むことにし,最初の融資は48億ドルと決められ,7月22日にニューヨーク連邦銀行のロシア中央銀行口座に振り込まれた.
 8月14日に48億ドルはニューヨーク連邦銀行から「ナショナル・リパブリック・バンク・オブ・ニューヨーク」に移転された.
 振込先は同行の「オストウェイスト・ハンデルスバンク」名の口座である.
 「オストウェスト・ハンデルスバンク」は「東西商業銀行」の意味で,ロシア中央銀行が西側に持っていた子会社の一つだった.

 判事の書簡によると,「オストウェスト・ハンデルスバンク」が支配していたスイスの銀行「クレジタンシュタルトバンクウェレイン」から,同じ8月14日,幾つかの西側の銀行に巨額の金額が振りこまれていた.
23億5000万ドルがオーストラリアの「バンク・オブ・シドニー」,
21億1500万ドルがロンドンの「ナショナル・ウェストミンスター銀行」,
14億ドルが「バンク・オブ・ニューヨーク」,
7億8000万ドルがスイスの「クレディ・スイス」へそれぞれ移転された.
 このロシア中央銀行の関係銀行から西側銀行に分散された総額66億8000万ドルの大部分は,IMFからの対露融資の48億ドルだった可能性があった.
 金融危機でロシア中央銀行にはドル資金がほとんど底をついていたからだ.

 2つの事実が確認されていた.
 第1に,48億ドルはついにモスクワには到達することなく,いずこかへ消えた.
 第2に,すべての資金の移動は,IMFとの債務関係を仕切っていた財務次官カシヤノフの指示によって行われたと言うことだった.
 このためカシヤノフの名は,IMF融資の行方を追っていたスイス当局の捜査対象に浮上した.

ユダヤ系銀行家の不審な死

 さらに2000年7月のロシア「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙はカシヤノフ,ベレゾフスキーの両人がある銀行家の死に関係しているとの記事を掲載した.
 同紙によると98年8月14日,IMFの対露融資が振り込まれた「ナショナル・リパブリック・バンク・オブ・ニューヨーク」の所有者はエドモン・サフラというレバノン出身のユダヤ系米国人だった.
 富豪として知られていたが,1999年12月にモナコの別荘で不審な死を遂げた.

 既に述べたように48億ドルは同行を経由した後,即時に西側銀行に分散され,西側の金融市場の闇に消えていった.
 サフラは自分をロシア資金の洗浄に協力したと非難する声があったため,その資金の行方に関心を持った.
 そこでサフラは米連邦捜査局(FBI)に連絡を入れ,48億ドルの資金洗浄の仕組みを説明すると約束した.
 FBIとサフラの周期的な協議は1年も続いた.
 サフラは自己の銀行を疑惑の対象から外す道を探した.
 1999年夏までにはサフラとFBIの関係は協力的になり,ロシアの資金洗浄の方法と,その背後の高官の名前を明らかにし始めた.
 スイスの検察当局も関わりはじめた.

 1999年9月のある日,フランス南部のサフラの別荘を,当時フランス滞在中のベレゾフスキーが訪れた.
 彼はサフラと3時間話し合った.
 会談後,ベレゾフスキーは明らかに落胆した様子でそそくさと自分の別荘に戻っていった.

 サフラも明らかにパニックに陥った様子で,FBIに暴露したことで殺されるかもしれないと周囲に語った.
 彼のフランスの別荘は最新の防犯設備が装備されていたにもかかわらず,サフラは家族を伴い,急いでモンテカルロの別荘に移動した.
 そこはいっそう頑丈な防犯設備が施されている邸宅で,小さな核爆発にも耐えるほどだった.

 しかしその3ヵ月後の12月に火事が置き,浴槽でサフラの死体が発見された.
 捜査では武装攻撃に遭って死亡したと判定された.
 早朝,黒マスク姿の2人の武装した男が進入し,建物に火をつけ,姿を消したという.
 サフラは浴室に隠れ,煙に巻かれて窒息死した.

資金洗浄疑惑「ロシアゲート」

 1999年8月中旬,米「ニューヨーク・タイムズ」紙が「バンク・オブ・ニューヨーク」を通じたロシアの大掛かりな資金洗浄疑惑を報じた.
「ロシアの犯罪組織の大物のロシア系米国人が,98年12月から99年3月までの間に組織犯罪で得た42億ドルを資金洗浄した」
との報道だ.
 これだけなら単なるマフィアの犯罪に過ぎなかったが,続いて「ウォールストリート・ジャーナル」紙が
「IMFの対露融資の一部が資金洗浄された」
と伝え,さらに「USAトクデー」紙が
「資金洗浄されたのは150億ドルで,うち100億ドルがIMFの対露融資だった」
と報じるに及んで一気に騒ぎが広がった.

 この報道の中には,ロシア大統領側近や政府閣僚も関与していたとの指摘もあった.
 米FBIや中央情報局(CIA)も動き出し,ロシア政府,捜査当局も参加して国際的な捜査が展開された.
 事件はマスコミで「ロシアゲート」と呼ばれた.
 かつてニクソン大統領を追いこんだ米ウォーターゲート事件同様,ロシア大統領の地位まで揺るがしかねないとの予測があったからだ.

 「バンク・オブ・ニューヨーク」で直接資金洗浄に関わっていたのは,同行ロンドン支店の東欧部門の2人のロシア系女性幹部だった.
 このうちの一人,ルーシー・エドワーズは夫のピーター・ベルリンと組んで自宅のパソコンを使い,夫に巨額の資金移転を行わせていた.
 後に裁判で明らかになったところでは,1996年2月から疑惑発覚の1999年8月まで様々な顧客の注文に応じ,計16万件以上の送金を受けたり,他行の別口座に送金するなどの資金洗浄行為を行った.
 手数料として約180万ドルを受け取っていた.

 捜査陣がむしろ注目したのは,同行のもう一人の女性幹部ナターシャ・カガロフスカヤだった.
 その夫コンスタンチン・カガロフスキーが1992年から94年までロシア政府代表としてIMF理事を務めていた隊長格の大物ロシア官僚だったからだ.
 ロシアで改革派の論客としても知られていたカガロフスキーはIMF理事を去った後,ロシア民間銀行「メナテップ」の第1副会長に鳴り物入りで就任する.
 以後,彼の妻が働いていた「バンク・オブ・ニューヨーク」と「メナテップ」との間の資金洗浄が活発化する.
 カガロフスキーには主にロシアの公的資金の海外移転を請け負っていたとの疑惑があった.
 もちろん資金移転の仕組みは単純ではなかった.
 捜査当局の関心は,カガロフスキーがオフショワ市場の海外子会社ネットワークをいかに構築し,それがロシアからの資金流出,洗浄にどう使われたかに集まっていた.
 例えば英国統治のマン島に籍を置く「バルメット」という投資顧問会社が注目された.
 同社はキプロス,ジブラルタル,チューリヒなどに多くの子会社を持っていた.
 「メナテップ」は同社の20%の株式を保有していた.
 このオフショワ会社のネットワークを使った資金の移転を捜査するのは極めて難しかった.

ロシアからの資金流出の仕組み

 「メナテップ」は前年の金融危機の余波で99年5月には銀行免許を取り上げられたが,カガロフスキーは同じグループの石油会社「ユコス」に移り,なおも資金の海外移転を担当し続けた.
 当時ロシアは毎年,数十億j規模の違法な資金流出に悩んでいた.
 この大部分を占めるのは石油企業による資金流出だった.

 仕組みは比較的単純だった.
 ロシアの石油企業は海外に子会社,関連会社を設立していた.
 石油企業はまずこれら子会社や関連会社に原油や石油製品を安価で売る.
 その後にこれら企業は西側の石油企業その他に国際市場価格で売却する.
 その利益は実質ロシアの石油企業のものだが,海外子会社の利益として計上される.
 「ユコス」は1998年,7900万ドルの損失を計上していたが,このように利益を海外子会社に上げさせ,ロシアでは税を免れるという脱税行為が常態化していた.

 このような不正資金の洗浄ルートとして,「バンク・オブ・ニューヨーク」は使われた.
 例えば1996年4月18日付で,前述のアレクサンドル・マムートの「プロジェクト金融会社」から1200万ドルが「バンク・オブ・ニューヨーク」を通じてバルバドス諸島に登録されたオフショワ企業に送金された.
 この直前にロシア政府はカシヤノフ財務次官の指示により,西側のたばこ会社に対する一連の債務を返済していた.
 この対露債権はすでにマムート翼下の銀行が買い取っていて,1200万ドルはカシヤノフとマムートのコンビがインサイダー取引で稼いだ利益の一部分と見られた.

 結局,「ロシアゲート」の捜査は「バンク・オブ・ニューヨーク」から数人の逮捕者を出しただけで終結した.
 同行は反省の弁を公に述べ,以後このような取引に手を染めないと約束した.
 ロシアではマムートが支配する中堅の銀行「ソヴィンバンク」に一時は強制捜査が入ったものの,すべてうやむやにされた.

――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.49-54
 経済は第2次エリツィン政権の遺産の中でも,一番悲惨な部分であった.
 一番目につくのは,政府の経済運営の過ちと,産業界の無節操なご都合主義である.
 1995年の三極委員会報告書も,マフィアを含む新興実業家階級がカネと力を獲得する欲望に駆られて,経済生活に対する支配を危険なレベルにまで強化していると指摘している.
「はたして成熟した資本主義経済で見られるように,こういった偏狭な動機であっても,より広範囲の社会的善に貢献させることができるかどうかは疑問だ」

 第2次エリツィン政権に関する限り,その答ははっきり言って「ノー」である.
 財政が破綻状態にある政府と,ごく一握りの財界人が自己の利益のために操っていたからだ.
 株式担保型民営化を通じて形成されたコングロマリットが,経済を支配していた.
 大企業は私兵を養い,競争手段として暴力を行使するのが当り前とされた.
 ロシアは契約殺人で悪名を高めた.
 法制や税制には抜け穴や矛盾が目立った.
 強大な産業界の前には,法執行機関も無力で言いなりになった.
 税収も極端に少なく,政府はそれを増やすのに必要な措置を講ずることさえできなかった.
 (経済破綻した企業と同様に,)国営部門の賃金や年金は長期に渡って未払い状態が続いた.
 歳入不足を補うため,政府は外国から借款を行い,持続不可能な利率で短期国債(GKO)を発行した.

――『プーチンのロシア』(日本経済新聞社,2006.11),p.35

 上記の理由により,ロシアの当時の経済政策には大きな疑問符がつく.
 金融危機以前は不足なき企業納税・正常な資金運用・適切な経済政策をを行っていたとはとうてい思えない.

 また,プーチン政権はIMFを無視したからロシア経済を浮揚できたわけでもなさそうだ.
 プーチン政権の経済政策の成功の理由は,以下のように述べられている.

 彼〔プーチン〕は,改革にうんざりしていた国民に,これ以上のショック療法は実施しないと約束したが,一方では漸進的改革の方針は断固として貫くことにした.
 大統領代行になる前から,ゲルマン・グレフ率いる戦略策定センターに,リベラル派エコノミストのチームを作り,長期的改革戦略の作成を依頼した.
 グレフのプログラムは2000年6月に発表された.
 そこには世界貿易機関(WTO)への加盟,税制の整備,社会的便益の目標設定などが盛り込まれていた.
 政府内での論争のせいでプログラム実施は送れ,手心が加えられた.
 それでも,2001年にはロシアは,経済改革と構造改革の路線をはっきりと打ち出した.
 2001年の一般教書演説でも,プーチン大統領はこれらを自らの目標として掲げた.
 前年の重要課題は地方の安定化であったが,今や改革,それも司法,公務員制度,国家予算,税制,関税など広範囲の改革に突き進むときがきたというわけだ.
 彼が挙げた課題を見ると,財産権,民営化、都地所有などに関する新たな法の整備,WTOのルールとの調和,さらには防衛物資の調達,天然資源の独占,通貨制限,公衆衛生,年金制度,労働法規,教育,科学など多方面の改革である.
 安定化が「官僚主義的停滞」をもたらさないように,ロシアは「大胆にして慎重に準備された決意」が必要だとも訴えた.

 これは非常に野心的なプログラムのため,はたして実施されるものかと疑う人々が多かった.
 しかしその後の2年間で,それが間違っていることが証明される.
 ロシア政府は2001年7月より「中期社会経済発展プログラム2002-2004」に着手した.
 これにより,規制改革に原則と日程が設定された.
 その目的は,過去10年間に明白に欠けていた法的・制度的枠組の中で,成長の障壁を取り除いて,企業家と投資家にとって好ましい環境を整備することだった.
 さらに具体的な措置が講じられた.
 2003年半ばには,ロシアに新たな労働法規,行政法,土地所有法(ロシア史上初めて土地自由保有権が確立した)が整備された.
 ドミトリー・コザクが精力的に動いたおかげで,11の法令からなる包括的な司法改革案も採択された.
 既得権益からの反対もものともせず,WTO加盟交渉は2003年末完了を目途に急ピッチで進められた.
 3つの巨大な国営独占企業についても,その再編成に向けて様々な計画が作成されて検討された.
 UES(電力供給会社),ガスプロム,ロシア鉄道の3社は,どれも慢性的な投資不足と非効率性に悩まされ,計200万人もの従業員を抱えていた.
 もっとも効果的だったのは税制改革で,従来のシステムの機能不全に対処するための新たな措置と,法人税を35%から24%に引き下げ,所得税は一律13%とする新税率が効いた.

 これは,知識と根気のある人々が,大統領から明確な支援を受けて達成した,素晴らしい成果だった.
 一方,実態経済のほうも改革の勢いについてくるばかりか,それを後押しする勢いだった.
 ロシアは平価切下げの効果だけでなく,原油価格の上昇にも助けられ,1998年の危機から急速に立ち直った.
 原油価格は1バレル当たり11ドルから,2000〜2002年の平均20ドル台半ば,さらには2003年に29ドル近くにまで高騰した(1バレル当たり1ドル上昇するだけで,国歌には10億ドルの歳入増となる)
 もう1つの決定的要因は,エコノミストが言うところの「ほぼ完璧なマクロ経済的緊縮政策」を,ロシア政府と中央銀行が採用したことだ.
 これにより為替相場が安定した.
 外貨準備高は1999年の85億ドルという厳しい水準から,2003年には730億ドル超までに増加した.
 ロシアの対外債務は同時期に1480億ドルから1060億jに減少し,対GDP比でも93%から39%にまで下がった.
 インフレ率も1999年の36.5%から2003年の12%に下がり,国家予算も2000年に赤字から黒字に転じて以来5年間黒字を続けている.

 2000年にはGDPが10%も成長して,回復基調が明確になった.
 前年の成長率は6.4%で,1998年までの数年間はさらにずっと低い成長率だったのと対照的である.
 その後の成長率を見ると,2001年に5.1%,2002年に4.7%と一段落した後,2年連続で7%を越えた.
 すべての方面で改善が見られるようになった.
 貧困線以下と推測される人々の数も大幅に減少した.
 もっとも,2002年で全人口の4分の1と,まだ高水準にある.
 賃金や年金の未払い問題も大きく減少し,新大統領への支持に貢献した.
 海外旅行,自家用車,持ち家の新築や改築,あらゆる分野の小売業の急成長など,新興の中流階級が豊かさを増していることを示す指標も急速に伸びた.

 産業界でもムードが目に見えて一変した.
 自信回復につれて,資本逃避(1990年代半ばで年平均500億ドルと推定される)が,2002年には100億ドルに減少した.
 海外からの直接投資や資産運用投資もじわじわと回復し始めた.
 企業行動も,まだ先進国の水準にはまるで及ばないものの,改善に向かった.
 まともな企業家精神に溢れ,経営も健全な企業が数多く出現した.
 大企業の中にも手法を変えるところが現れた.
 その代表が民間石油会社のユコスで,経営方式の改善と透明化によって株価が跳ね上がった.
 各企業は国際的な会計基準を採用し,適正な監査を受けた経理報告を行うようになった.
 ビッグ・フォーと称される4大国際会計事務所は,ロシアが最も有望な市場であると見なすようになった(そのうち1社はロシア担当スタッフを5年間に10倍以上増やした)
 業績改善を背景に,ロシア企業は,西側の株式市場や資本市場への参加を希望して,実際に受け入れられるようになった.

 多くの批判を浴びる司法制度でも改善が見られた.
 (中央でも地方でも)国家権力や,地方の有力者が正義に打ち勝つケースが,今なお数多く報告されている.
 だが,商業訴訟や租税訴訟を起こしても,他の過渡期にある国や新興国に比べ,公正で迅速な裁判を受けられると,国際法律事務所も考えるようになった.
(これは1990年代とは大変な違いだ.当時は国際法律事務所が依頼者に,法廷闘争を何としてでも避けるよう助言するのが普通だった)

――『プーチンのロシア』(日本経済新聞社,2006.11),p.59-62

 これはIMF勧告と,そう外れたやり方とも思われない.
 それにまた,原油高騰という幸運に恵まれた結果でもある.
 したがって,少なくとも上記主張には説得力は感じられない.

 結論として,50%を超える確率で,IMF陰謀論には根拠がないと言わざるを得ない.

プーチン・フォルダ在庫処分
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 FSB時代のプーチンにあだ名なんかあったのですか?

 【回答】
 佐藤優によればFSB時代のプーチンは「死神」と呼ばれていたという.

以下引用------------------------

(略)

 1998年12月初め,私が夜の7時過ぎにロシアの国会議員とロシアのロビーで話していると,青色の緊急灯を照らしたBMWが近づいてきた.
 ロシア人にしては小柄な170センチくらい,色の背広の上に灰色の外套を着た人物が降りてきた.
 目の下に茶色い隈ができている.

 一瞬,背筋に寒気が走った.
 ボディガードが2名付き添っている.
 見たことない人物だ.
「死神がやってきた」
 その国会議員が呟いた.
「暗い顔つきだね.陰険な感じだな.いったい誰だい.大統領府の奴か」
「この前まで大統領府にいた.タチアーナ・ジャチェンコ(エリツィン前大統領次女)に気に入られている.ウラジミール・ウラジーミロビッチ・プーチンだよ.今はFSB(連邦保安庁=国内秘密警察)長官だ」

 ロシアの政治エリートや金融資本家の動向を監視するFSBが大統領の寝首をかくことがないように,エリツィン大統領と家族がプーチン氏をFSB長官に捉えたのだ.
 ロシアでは大統領の信任を得ている者を徹底的に調査すれば,政権中枢の強さと弱さが明らかになる.

--------------------引用終了
『インテリジェンス人間論』(佐藤優著,新潮社,2007.12),P.84

 どういった経緯で死神というプーチンらしい異名がついたのか不明だが,恐らくFSBという地位とセミヤーの番人としての仕事ぶりからそういった異名を頂戴することになったのは想像がつく.

CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月20日09:57

 その場でそう呼ばれただけ,という可能性もあるが.

FSB長官時代のプーチン
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 「セックスと嘘とビデオテープ」事件とは?

 【回答】
 FSBがビデオ盗撮とそのリークにより,エリツィン政権への腐敗追及の手を阻止させようとしたと考えられる事件.
 これには,検事総長スクラートフと,FSB長官プーチンとの個人的確執も絡んでいたという.

 以下引用.

 〔1999年〕3月17日深夜,ロシアの国営テレビRTRのニュース番組「ヴェスチ」が突然,異様な映像を流し始めた.
 ベッドの上で2人の女性と戯れる中年男.
 3人とも一糸も纏わぬ全裸姿だった.
 モノクロの画質の悪いビデオ映像は,明らかに隠し撮りされたことを示していた.
 中年男は,ときの検事総長ユーリー・スクラートフに酷似していた.
 番組はほとんどコメントせずに映像を流したが,それはその映像自身の与える衝撃を計算に入れていたためだった.
 視聴者が驚いたのは当然で,翌日にはその真偽,放映の狙いが全国的な話題となっていた.

 このビデオの存在はすでに1ヶ月以上も前から,政界に噂で伝わっていた.
 だから一部の国会議員にはすでにこの事態を予想していた向きもあった.
 このビデオ映像の放映こそ,検察当局による〔エリツィン〕政権内部の腐敗追及に対する政権側の反撃の決め手と見られていたからだ.
 このスキャンダルは,ロシアでも人気のあった米国映画にちなんで「セックスと嘘とビデオテープ」事件と呼ばれた.

 〔略〕

 国民の間では,「これはKGBの手口」と顔を顰めて語る向きがあった.
 旧ソ連の国家保安委員会,つまりKGBは,ソ連崩壊後,何度が組織改編したあげく,連邦保安局(FSB)と名称を変えていたが,ソ連時代から高官のプライバシーまで立ち入って監視し,場合によっては脅迫するケースなども伝えられていた.
 社会主義体制崩壊後,その活動は地味になったと見られていたが,事件はKGBの復活を一般に印象付けた.
 このときの連邦保安局長官は,後にロシア第2代大統領になるウラジーミル・プーチンだった.

 翌18日,エリツィンはクレムリンにスクラートフを呼びつけ,簡単に事情を聞いた.
 その後RTRテレビのプライバシー侵害について調査を指示,同時にスクラートフの活動についても安全保障会議に調査を要請した.
 一方で連邦保安局長官のプーチンは,内相のステパーシンと共同の記者会見に臨み,ビデオ・テープは故意に作られた偽物ではなく,事実をありのままにとらえた本物だと調査結果を発表した.
 すべて事前に練られた筋書き通りの行動だった.

 〔略〕

 3月18日,ロシアのニュース・メディアはこぞって前夜のビデオ放映をニュースとして報じたが,スクラートフを誹謗する政権側の目的は逆効果になるとの解説が少なくなかった.
 〔検事総長人事の承認権限を持つ〕上院議員たちはスクラートフに同情し,卑劣な手段でスクラートフ追い落としを図った政権への反発を強めるだろうとした.
 ビデオ放映がかえってスクラートフの人気を高める,これは政権側の予想していなかったことだった.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.30-32

 〔FSB長官に就任した〕プーチンの当面の敵は検事総長のユーリー・スクラートフだった.
 前年の秋,自分のサンクトペテルブルク時代のボスだったソプチャクを追及しようとした張本人だったからだ.
 ソプチャク追及は自分やチュバイスなど「サンクトペテルブルク・グループ」全体の立場を危うくする.
 ソプチャクを最高検の追及から逃れさせるため,プーチンは危ない橋も渡った.
 スクラートフへの復讐心がプーチンの心の中に強まっていた.

 サンクトペテルブルクでの連邦保安局の活動が活発化した.
 同市ではこの時期,モスクワから連邦保安局の工作員がやってきては,ソプチャク市政時代の汚職の証拠隠滅に力を入れていたとの市民の証言がある.
 一方で,スクラートフの個人的スキャンダルの材料集めも連邦保安局の新たな仕事になった.
 KGBから引き継がれた伝統で,これはたやすいことだった.
 スクラートフが売春婦と戯れるビデオ映像が手に入った.
 KGB的な手口では,売春婦を使って高官を隠しカメラを仕掛けた部屋に誘わせることも不可能ではなかった.

 プーチンはこの映像をスクラートフ追い落としに最も効果的に使った.
 1999年3月,ロシア国営テレビRTRは,このビデオ映像を放映した.
 ちょうどスクラートフがクレムリンの汚職追及に熱中していた時期だった.
 これを機にクレムリンは反撃に転じ,スクラートフに辞表を書かせることに成功した.
 辞表の承認権をもっていた上院(連邦会議)はなお抵抗していたが,スクラートフを後押ししていたプリマコフが5月に解任されて流れは決まった.

同,p.88

 そこから先のことは,FSBの活動とは直接何の関係もない政争話になるので,簡単に述べると,その後,スクラートフは退けることができたものの,エリツィン政権も,閣僚の入れ替えを頻繁に繰り返すなどして迷走.
 しまいに担ぎ上げたのが,スクラートフ追い落としの功績者プーチンの首相指名だったが,運良くチェチェン情勢が悪化するなどしてプーチン人気が上昇.
 エリツィン派政治勢力「セミヤー」はエリツィン自身の免責と引き換えに,プーチンの大統領就任のために奔走し,しまいにゃ任期の半年前にエリツィンが辞任してプーチンを大統領代行に据えるというウルトラCを繰り出すことになる.

 そしてエリツィンは逮捕を免れたまま,2007年に永眠する.合掌.

俺の「プーチン」フォルダが火を噴くぜ
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ボガチョンコフ事件とは?

 【回答】
 2000年9月,防衛庁防衛研究所に勤める海自の萩崎三佐が,GRUの在日ロシア大使館付武官で海軍大佐のビクトル・ボガチョンコフに,防衛庁の戦術概説などの秘密資料を渡したとして,逮捕された事件.
 ボガチョンコフは出頭要請を拒否し,帰国した.

 各社報道を総合すると,事件概要は以下のようになる.

 2人が知り合ったのは,2000/9/8付毎日新聞では
「ソ連の崩壊後,海自とロシア海軍との交流が進む中の1998年,防衛大を卒業した萩崎容疑者が,再び防衛大の総合安全保障研究科で学んでいたころ」,
2000/9/9付産経新聞では,
「1999年9月中旬に開かれた海上自衛隊とロシア海軍との交流式.
 一連の行事にはボガチョンコフ武官も参加,萩崎容疑者も通訳として出席していた」
となっている.

 同産経新聞によれば,
「ロシア大使館の駐在武官の滞在任期は通常三年とされる.ボガチョンコフ武官は平成九年九月に来日しており,萩崎容疑者と接触した時点で,残る滞在期間は約一年になっていた.
 武官は日本国内での情報源獲得を急いでいたとみられ,その後も月一回の割合で萩崎容疑者との接触を重ねた.

 今春,萩崎容疑者の長男が病気で死去した際,香典として約十万円を渡した直後は,接触の機会は二−三週に一度となり,手渡される現金の額も増えたという.武官はこの時期を境に,より機密性の高い情報を要求するようになったとされる」
「ボガチョンコフ武官が萩崎容疑者に目標を定めて接触を重ねて親交を深め,2000年春以降は,情に訴える形で,短期間のうちに高度な機密情報の入手を図っていたと」見られている.

「その他,ボガチョンコフは,2000/8/25,ロシア大使館で行われた日ロの親善行事にも出席.
 この行事では,日ロ両国の国境線を初めて画定した1855年の日露和親条約の締結交渉をした帝政ロシアの軍人,プチャーチン提督に関するロシアの外交史料を,パノフ大使が提督ゆかりの静岡県戸田村に贈呈したが,提督が海軍軍人であることや,史料に海軍文書庫からのものも含まれていたため,ボガチョンコフはこの式典に同席した.
 大佐は,資料館の展示品として村から寄贈を求められていたロシア海軍の旗『アンドレイ旗』を両国親善のあかしとして村の代表に手渡した.
 大佐は海軍旗を広げて戸田村の代表らに見せた後,旗をていねいにたたんで箱に入れ,手渡した.式典開始前,軍服姿の大佐は,取材に訪れた記者たち一人一人と名刺を交換し,『どうぞよろしく』と軽く会釈しながら応対していた」という(朝日新聞,2000/9/9)

 一方,「警視庁は1999年9月,萩崎容疑者が勤務を終えた夕方,居酒屋や中華料理屋などで大佐と会食している現場を確認.それ以降,神奈川県警と合同で,2人を監視下に置いた.
 会食は,十数回に上り,いずれも東京都内の飲食店で,会うたびに場所を変えていた.個室などは使わず,人ごみに紛れるように,安価な店で会っていたという.
 大佐は次第に,萩崎容疑者に資料の提供を求めるようになったとみられる.萩崎容疑者は会食のたびに,部外に持ち出すことが禁じられている防衛庁や海自の内部資料を手渡し,飲食代は大佐が支払っていた.現金のやり取りも確認できたという」(同毎日新聞)

 そして,「7日午後7時,東京都港区内のレストラン.テーブルをはさみ萩崎繁博容疑者(38)とビクトル・ボガチョンコフ大佐は日本語で談笑し始めた.
 数人の警視庁公安部員が踏み込んだのは,約15分後.
『一緒に来ていただけますか』
 レストランで親しげに話すロシアの海軍武官と海上自衛隊幹部に捜査員が声をかけた.
 ぼうぜんとする萩崎容疑者.
 大佐は『外交特権があります』と任意同行を拒否し,立ち去った.

 萩崎容疑者は任意同行に素直に応じ,容疑を大筋で認めた.
 彼は逮捕という現実に,取調室で泣き崩れたという」(同毎日新聞,抜粋要約)

「 捜査本部は,これまでに萩崎容疑者が勤務していた防衛庁防衛研究所や自宅など四カ所から,文書のコピーや防衛情報をまとめた手製の資料集など五百点以上を押収.
 分析を進めた結果,この中に極東地域に展開する米海軍に関する情報が多数含まれていた.
 潜水艦に関するものが多く,萩崎容疑者が幕僚を務めていた第一潜水隊群司令部の展開状況のほか,米第七艦隊に所属する潜水艦の深度や攻撃能力などが示された資料もあった.

 米海軍と海上自衛隊は,合同演習を行うなど防衛協力上も密接な関連をもっており,海自は陸自・空自に比べ,多くの軍事情報を入手しやすい環境にあるとされる.
 捜査本部は,在日ロシア大使館のビクトル・ボガチョンコフ武官(四四)が対米情報に的を絞って情報収集にあたっていた可能性が高いとみている.
 自衛隊の部内文書には重要度の順に訓令で秘密文書とされる「機密」「極秘」「秘」の三段階と,通達で定める「部内限り」「注意」の計五段階がある.
 防衛庁などでは,萩崎容疑者の経歴から,潜水艦部隊の幕僚や艦艇の作戦責任者をしていた当時には,機密性の高い資料,情報に近づけた可能性があった,とするが,現在勤務する防衛研究所では「秘」以上の文書は金庫で保管され,萩崎容疑者の立場では入手するのは困難と説明している」(産経新聞,2000/9/9)

「萩崎繁博容疑者は調べに対し,防衛庁幹部の名簿も提供したと供述.約10回にわたる同大佐との接触で提供した情報について,詳細に話しているという.
 三佐が提供したとしている名簿には,公表されていない幹部の住所,電話番号などが記載されているという.
 住所などが分かれば,スパイ工作活動が容易になるため,ロシア側が要求したとみられるという.

 萩崎三佐は,「いわせ」「たちかぜ」などの護衛艦の乗艦勤務を経験.米軍と海上自衛隊は共同訓練が行われるうえ,海自の通常業務のなかでも暗号などの一部共有が考えられるといい,萩崎三佐が米軍関連の機密情報の一部を知っていた可能性が高いという.
 萩崎三佐は潜水隊群の幕僚の経験もあり,そうした情報を知りうる立場だったと見られる」(朝日新聞,2000/9/9,抜粋要約)

「ロシアの2000/9/9付『独立新聞』は,GRUの日本での主な収集情報について
(1)海上自衛隊の組織と戦闘任務の実態
(2)海自の動員・部隊展開計画
(3)米第七艦隊との共同作戦体制
(4)重要ポストの海自幹部のデータ
(5)日本の軍艦建造計画と達成度
(6)通信や戦闘指揮システム
などを列挙.
 そのうえで,『海自の三佐はその標的となった』と指摘」(斎藤勉 from 産経新聞,2000/9/10)

 また,「防衛庁の調査結果によると,今月6月30日に萩崎被告はロシア側へ,中級幹部課程で使用される教本『戦術概説』や,中期防衛力整備計画に反映される「将来の海上自衛隊通信のあり方」の,秘密指定文書2点を手渡している.
 また,昨年10月から今年8月までの間に防衛研究所の組織図など数十点を,求めに応ずる形で手渡し,現金58万円を受け取った.
 防衛庁は,流出情報の中には米軍情報も入っていたことを認めた」(航空ファン,Jan. 01)

 ボガチョンコフに対しても,「警視庁公安部などの合同捜査本部は,七日以降,外交ルートを通じて武官への事情聴取を要請」したが,「外交特権を理由に拒否されていた」.
 そして九日午後零時二十八分,成田空港発モスクワ行きのアエロフロート582便で出国.事情聴取は不可能となった.

 ロシアの2000/9/9付『独立新聞』によると,「ボガチョンコフ武官は七日夜,レストランで一緒に食事をしていた三佐が逮捕された後,自分は外交特権をたてに逮捕を免れ大使館に戻った.
 同僚武官にてん末を報告した後,モスクワに暗号電報を打ち,それからパノフ大使に報告したという.
 また,国連ミレニアムサミットから戻ったプーチン大統領は九日,イワノフ書記やカシヤノフ首相,ボローシン大統領府長官,セルゲーエフ国防相,ルシャイロ内相らをクレムリンに招集した.
 顔ぶれから,今回の事件の対応策が議題に含まれているのは確実だ.
 ロシュコフ外務次官は同日,
『対抗措置として日本の外交官を退去させるか否か不明だが,あらゆる情勢を検討し,バランスのとれた決定をとる』
とコメント.
 同紙は日本大使館員を監視している連邦保安局(FSB)がすでに退去者候補をリストアップし,退去決定があれば,政治部門の責任者が標的になる可能性が高いと伝えている.
 一方,この日午後に日本を出国したボガチョンコフ武官は同日夕,モスクワに到着した.
 ロシア外務省は
『事件とは無関係に,任期を終えて帰国することになっていた』
としている」(斎藤勉 from 産経新聞,2000/9/10)

モスクワ行きの飛行機に向かうボガチョンコフ武官)
午前11時50分,成田空港

ボガチョンコフ,ビクトール・ユーリー
Bogatenkov,Victor Y.
GRU情報官
ロシア海軍大佐
1978(昭和53)年 レニングラード海軍技術士官学校卒
北洋艦隊勤務
海軍大学
1987(昭和62)年 海軍省本部
1990(平成2)年〜1994(平成6)年 駐日大使館武官補佐官
1994(平成6)年〜1997(平成9)年 海軍省所属
1997(平成9)年9月 駐日海軍武官
1999(平成11)年9月16日 ロシア駆逐艦「アドミラル・パンテレーエフ」来日
 歓迎セレモニーに出席
2000(平成12)年8月25日 在日ロシア大使館応接室で静岡県戸田村の住民にロシア海軍旗,プチャーチン提督に関するロシアの外交史料などを渡す贈呈式に出席
 9月7日 SVAX大門共同ビル7階(東京都港区浜松町2-1-20)の居酒屋で萩嵜繁博三等海佐と同席中,警視庁への同行を求められるが外交官特権を理由に拒否
 9月9日1228 成田発モスクワ経由ロンドン行きのアエロフロート機で出国

萩嵜 繁博

1962(昭和37)年生
京都府出身
自衛官 海上自衛隊 三等海佐
1986(昭和61)年3月 防衛大学校卒
 在校中は合気道部に所属
幹部候補生学校
護衛艦「てしお」航海長
1993(平成5)年4月 陸上自衛隊調査学校(ロシア語専攻)
1995(平成7)年3月 第一術科学校
1997(平成9)年9月 陸上自衛隊調査学校専門課程
舞鶴地方総監部防衛部
海上自衛隊資料隊
第1潜水隊群司令部
1998(平成10)年 防衛大学校修士課程総合安全保障研究科
1999(平成11)年1月 国際安全保障シンポジウムに出席
 9月16日 ロシア駆逐艦「アドミラル・パンテレーエフ」来日
 横須賀に入港した際のセレモニーで日本側通訳を担当
2000(平成12)年3月 防衛研究所第二研究部研究員
 3月3日 長男没
 6月30日 東京都渋谷区内の飲食店でビクトール・ボガチョンコフ武官と会合し,「戦術概説」と「将来の海上自衛隊通信のあり方」のコピーを渡す
 9月7日 SVAX大門共同ビル7階(東京都港区浜松町2-1-20)の居酒屋「PARTY & DINING LIVING:BAR サントリー館 浜松町店」でボガチョンコフ武官と同席中,警視庁公安部と神奈川県警の合同捜査本部に身柄を拘束され,警視庁に同行
 9月8日 自衛隊法違反(守秘義務違反)容疑で逮捕される
 9月8日 防衛研究所付
 9月29日 自衛隊法違反(守秘義務違反)容疑で東京地検に起訴される
 10月27日 懲戒免職
 11月27日 東京地裁(吉村典晃裁判長)で初公判
2001(平成13)年2月1日 東京地裁で公判
 検察側は懲役1年を求刑
 弁護側は最終弁論で執行猶予付き判決を求め結審
 3月7日 懲役10ヶ月の実刑判決を受ける

自宅,東京都世田谷区池尻

http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/

「その後,防衛庁は10月27日,独自の調査結果を纏め,海上自衛隊3佐の萩崎博被告(38)=自衛隊法違反で起訴=を懲戒免職するなど,計52人の処分を発表した.虎島和夫防衛庁長官も,責任をとる形で,自主的に給料の5分の1(1ヵ月)を国庫返納した.
 防衛庁は,米軍情報の一部が流出していたことを認めた上で,今後の対策として,秘密保全態勢の強化策を盛った報告書を,国会や各野党に示した」
「さらに,秘指定となっている『戦術概説』を,海自幹部21人がコピーしていたことを明らかにし,関係者を処分した.
 対策の報告書では,
・庁内に事務次官を長とする情報保全委員会を設置する他,防衛局調査課に情報保全企画室を置く.
・陸海空の各自衛隊内で秘密保全や情報収集などに当たる調査隊を情報保全隊とし,体内の犯罪捜査を行う警務隊と統合し,中央に情報保全警務隊を新たに作る.地方でも,情報保全隊と警務隊の情報交換を定期的に行うようにする」(航空ファン,Jan. 01)

 処分者五十二人は次の通り.
 【懲戒免職】萩崎繁博海自東京業務隊付(三等海佐)
 【減給一カ月十分の一】佐藤謙事務次官,藤田幸生海上幕僚長(海将),竹村訓舞鶴地方総監(同,元海幕調査部長)
 【戒告】首藤新悟防衛局長,泉徹海幕調査部長(海将補)ほか五人
 【訓戒】柳沢協二人事教育局長,新貝正勝防衛研究所長,山田道雄海幕副長(海将),道家一成海幕人事教育部長(海将補)ほか十八人
 【減給一カ月三十分の一】元海幕調査二課長(海将)ほか二人
 【注意】第二師団長(陸将,前防衛研究所副所長)ほか十二人
 【口頭注意】防衛研究所第二研究部第二研究室長ほか二人

 で,最後にこんなオチが.

ボガチェンコフの息子が駐日大使館員に

 ロシア外務省から,24歳の若き外交官が駐日ロシア大使館に赴任したのは,1月12日のことだった.
「書記官の補佐をするアタッシェ(官補)として勤務することになったのです.言ってみれば見習いだが,この歳で駐日大使館員になるのは,将来を有望視されているということです」(外務省関係者)
 その若き人物の名はセルゲイ・ボガチェンコフ.そう,昨年9月8日に発覚した防衛庁機密漏洩事件のロシア側の主役,ビクトル・ボガチェンコフ海軍大佐(44)の子息なのである.
 ビクトル大佐は当時,海上自衛隊三佐だった萩崎繁博と飲食店などで接触,「秘」扱いの防衛情報を入手した見返りとして,現金58万円を渡していた.
 萩崎は自衛隊法(守秘義務)違反容疑で逮捕されたが,ビクトル大佐は外交特権を盾に事情聴取を拒否.外務省の連絡にも応じず,疑惑が晴れぬまま,大手を振って出国した人物である.
「息子のセルゲイ氏は昨年8月末に駐モスクワの日本大使館に外交ビザ申請を行い,発給されたようです.本来なら9月中か遅くとも10月には来日予定でしたが,直後に父親のスパイ事件が発覚し,混乱を避けるため,ロシア側が赴任を遅らせた」(前出・外務省関係者)
 セルゲイ氏は日本滞在経験もあり,日本語もかなり堪能だというから,本来なら駐日大使館員でも決しておかしくない.しかし,国益を脅かす事件の主犯の息子が,時期をずらしたくらいで赴任するとは,いかがなものか.
 しかも,ビクトル大佐はロシア軍情報機関,GRU(参謀本部情報総局)所属であることも明らかになっている.
「ロシアでは通例的に,父親が諜報員の場合,息子もそうであることが多い.そのほうが出世が早いからです.ボガチェンコフ親子もその可能性が高い.我々としては今後,監視を強めていきたい」(公安情報筋)
〔略〕

(From『週刊文春』Apr.04, '01)

 なめられてますね,日本.


 【質問】
 萩崎3佐の,「かつて部隊で機密情報に触れる立場」って,具体的にはどんな部署のこと?

 【回答】
 一夜明けて,また「機密情報に触れる立場に」という表現に変わっています.
 警察も,どうにかして「大物スパイ」「重要な機密情報を売り渡した売国奴」にしようと必死なようですね.

 ニュース報道で流れている「かつて部隊で機密情報に触れる立場」というのは,非常にトリッキーな表現です.
 おそらく他自も同じだと思いますが,海上自衛隊の幹部(特に艦艇乗り組み)は,曹士とは異なり,様々な部署を経験することと,彼の経歴(船務士,艦長付き,航海長など)を考えあわせると,ごく当たり前の経歴であって,海上自衛隊の幹部として殊更に強調するようなことではありません.
 このあたりにも「色々な部署で広く知識を『あさっていた』」という印象を,警察が刷り込もうとしているのが透けて見えます.

 海自幹部の場合,特に3等海尉のときに経験する「船務士・通信士(2分隊)」の場合には,秘電報や電波・電子機器関連の秘文書・物件・図画,「砲雷士・砲術士(1分隊)」の場合には武器関係の秘文書・物件・図画, その他3分隊(機関科・応急科)4分隊(補給科・経理科)も各々の部署で秘,ときには極秘に分類される文書・物件・図画に触れるのは日常茶飯事です.

 また,それ以上の部署である各科長(砲雷長,砲術長,船務長etc.)であれば,さらに突っ込んだ運用(作戦)・行動(戦闘)などで持っている知識,それ自体が秘,あるいは極秘の内容が多くなります.

 艦長にいたっては,護衛隊(2から3隻の護衛艦で編成される部隊の最小編成)司令の幕僚として,あるいは直近上位司令部・総監部の1幕から5幕までの運用に関わるものとして,もっと高度に秘匿の必要な情報に触れることがあります.

 また本当はいけないことであるし,実際部内では明確に「行うな」と命令されてはいるのですが,いかんせんどこの艦艇も人手不足で,幹部は朝早くから夜遅くまで事務仕事に追われており,さらに場合によっては自宅に仕事を持ち帰って仕上げなくてはならない場合が多々あります.
 特に印刷物の仕上げなど,最近は個人用のプリンタの普及,さらには乗組員の減少のため,昔のように気軽に4分隊に打鍵を頼めないなどの理由から,自宅のマシンで仕上げざるを得ない幹部がほとんどです.

 さらには,幹部の絶対数が少ないため,艦内に残って仕上げようとすると雑用が多く,仕事に集中できない・・・という結果でもあります.
 これはon/off dutyに,きちんとけじめがつけられない海上自衛隊全体の悪弊のようなものですが.

 今回,荻嵜くんの自宅で仰々しく「押収した書類」とやらも,しょせんはこのころの日々命令や訓練の般命などで,実際の情報漏洩とはいっさい関係がないことであるのは間違いないでしょう.

 例えば海自の,あの麗々しいパンフレットの後ろの方にある部隊編成に,艦名を書き加えて渡せば,それで既に「注意文書」を引き渡したことになります.
 そんなものは,もっと詳しい資料を好事家や横須賀の反戦団体が持っているにも関わらず,です.

 今後,おそらく警察発表垂れ流しのマスコミ報道を通じて
「あんなことも,こんなこともした(に違いない)」
というスポーツ新聞ばりの憶測を繰り返して,
「嘘も百回言えば本当になる」
をねらってくるのではないかと思いますが,それがどんな意図のもとで行われ,また誰がトクをするのか,を見極めなくてはいけないのではないかと思います.

海の人 in 軍事板

 ただし,煽っているのは警察のほうなのか,それともマスコミのほうなのかは,当時の報道を見る限りでは判別困難――共同正犯という可能性さえある――なので,その点は留意されたし.

 また,「誰が得するか」を根拠薄弱のままで考え出すと,陰謀論にはまってしまうので注意を要する.


 【質問】
 物事の裏を考えろ.
 〔略〕
 ここの人間は,萩崎3佐がスパイとして機密情報を盗んでた,と信じてるのか?

萩崎3佐ははめられた in 軍事板

 【回答】
 現時点まで渡った文書自体の内容はそれ程意味はないの.

 要は「スパイに情報を金で売った」という既成事実が問題なのよ.
 ロシア側が既成事実をネタに完全取り込もうとするのは目に見えてるでしょ.
 そうなってから重要機密が国外に渡ってからでは手遅れだろ?
 警察が動いた事により,そういった事態が未然に防がれたのよ.

 それともあれか?
 自衛隊の人間は日常的に,敵のスパイに現金と引換えに資料とか渡してるの?
 どっちみち三佐が現金貰ったのは事実なんだから,「公安にめられた」もなにもないだろ?
 いい加減にしときな.

 それともあれか?
「事件全て警察とマスコミのでっち上げ」(by 上祐@オウム)
とでも主張する気か?

この話は何回も出ているが in 軍事板


 【質問】
 萩崎3佐の事件ですが,防衛庁の職員名簿に「極秘」「秘」とか冗談でスタンプが押してあったとしても,文書管理責任者と保管する金庫が指定されていない限り,それは秘密文書とは言えないのでは?
 朝雲新聞に全部載ってるんだから.

 【事実】
 厳密な法解釈の下では,たとえそれが刊行物の内容であっても,「職務上知り得たもの」となります.
 これほんと.

 ただし,これは防衛庁の処分であって,これに違反=刑事罰とはなりえないのも確か.
 もし,警察が自衛隊法に基づき逮捕したというのであれば,それは明らかに法律を逸脱した行為である事は確かです.

軍事板


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