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◆諜報史
諜報FAQ目次


小林源文著『ユギオII』より


 【link】

D.B.E. ミニ型」:ムソリーニは英国のスパイだった,英紙報道 / 情報源Ak
>第一次大戦当時の話

「エルエル」:1961年,キューバで起きた「ピッグス湾事件」の写真

「神保町系オタオタ日記」■(2007-10-09)[明治][文藝] 最初の露探容疑者長田秋濤(その1)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-10-11)[明治][文藝] 最初の露探容疑者長田秋濤(その2)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-10-12)[明治][文藝] 最初の露探容疑者長田秋濤(その3)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-11-07)[明治] 宮武外骨の露探攻撃

「神保町系オタオタ日記」■(2007-12-11)[明治][文藝] 志賀直哉と露探

「神保町系オタオタ日記」■(2008-03-13)[明治][文藝] 最初から結論ありきの露探事件判決

「スパイ&テロ」:『坂の上の雲』と明石元二郎

「スパイ&テロ」:歴史は記録すべし

●書籍

『伊藤博文の情報戦略』(佐々木隆著,中公新書,1999.7)

『伊藤博文の情報戦略』を読み解く (2013/02/04)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

『インテリジェンス入門 英仏日の情報活動,その創造の瞬間』(柏原竜一著,PHPパブリッシング,2009.9)

『インテリジェンスの20世紀 情報史から見た国際政治』(中西輝政他編著,千倉書房,2007/12)

 現代史を情報分野から読み解く試み.
 情報研究をわが国学会に定着させる嚆矢となる基本書になりうるのか?
 巻末の参考資料が秀逸です.
 これだけでも手に入れる価値はあると思います.

―――おきらく軍事研究会,平成19年(2007年)12月7日

『インテリジェンスの歴史』(北岡元著,慶応義塾大学出版会 2006.9)

『インテリジェンスの歴史』(北岡元)書評:「FSM」

『機密指定解除 歴史を変えた極秘文書』(トーマス・B.アレン著,日経ナショナルジオグラフィック社,2008.11)

『決定的瞬間 暗号が世界を変えた』(バーバラ・W. タックマン著,ちくま学芸文庫,2008.7)

『シベリア横断・福島安正大将伝』(坂井藤雄著,葦書房,1992.4)

『情報戦争と参謀本部 日露戦争と辛亥革命』(佐藤守男著,芙蓉書房出版,2011.10)

『情報戦のロシア革命』(ロバート・サーヴィス著,白水社,2012/9/11)

『情報覇権と帝国日本 1 海底ケーブルと通信社の誕生』(有山輝雄著,吉川弘文館,2013/5/27)

『スパイの歴史』(テリー・クラウディ著,東洋書林,2010/10)

 ラムセス二世から1980年代までの,諜報の歴史や手口を,豊富なエピソードで綴った本.
 流石に80年代までなんで,最近のクラッキングとかはなし.

 一般向けに書かれているものの,二重スパイとかのややこしい話が多くて歯ごたえあり.
 第1次大戦開戦直前にイギリスが,ドイツの諜報網を壊滅させる話は爽快.
 KGBは,中身が空洞になったボルトとかに紙片を入れる手口が好きとか,モサドのスパイが,シリア軍の前線基地に植え込みを作らせて,目印にする話も面白い.
 「カトリックの国では女性と聖職者を使え」なんてアドバイスも出てる.

------------軍事板,2012/02/07(火)

『対外軍用秘密地図のための潜入盗測 第2編 外邦測量・村上手帳の研究 村上千代吉の測図活動 外邦測量の実際 上』(牛越国昭著,同時代社,2011.10)

 これは実際に測図活動に関与した,村上千代吉と言う人の手帳を元にしたもので,1900年の台湾を皮切りに,1914年の青島までの活動を追ったもの.
 此の後,第3編がその下巻となり,1915〜34年を取り上げる予定とのこと.
 その後の村上千代吉の動きは,別巻で補遺するそうな.

-----------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2011/12/04(日)

『日露戦争の秘密 ロシア側資料で明るみに出た諜報戦の内幕』(D.B.パヴロフ著,成文社,1994.10)

『日韓インテリジェンス戦争』(町田貢著,文藝春秋,2011.2)

 外務省情報官として40年間,韓国・北朝鮮情報の収集と分析に携わってきた著者が,金大中を中心に,書ける限りのことをぶっちゃけた回想録.
 これからは日韓関係史の,ガチな基礎文献になるのは間違いないし,HUMINT実録としても非常に興味深い.
 お勧め.

――――――軍事板,2011/06/

『日本のインテリジェンス 江戸から近・現代へ』(岩下哲典著,右文書院,2011.11)

『福島安正 情報将校の先駆 ユーラシア大陸単騎横断』(豊田穣著,講談社,1993.6)

『明治三十七年のインテリジェンス外交 戦争をいかに終わらせるか』(前坂俊之著,祥伝社新書,2010.4)

『陸軍大将福島安正と情報戦略』(篠原昌人著,芙蓉書房出版,2002.12)

●幕末関連

『江戸情報論』(岩下哲典著,北樹出版,2000.4)

『江戸の海外情報ネットワーク』(岩下哲典著,吉川弘文館,2006.2)

『江戸のナポレオン伝説 西洋英雄伝はどう読まれたか』(岩下哲典著,中公新書,1999,9)

 ナポレオンが幕末武士にどういう影響を与えたか?
 情報面から読み解いているエッセーです.
 蛮社の獄の犠牲者のひとりなのに,大変地味な存在の小関三英を重視している姿勢に著者の才能を感じます.
―――――おきらく軍事研究会,平成19年(2007年)2月2日

『近世日本の海外情報』(岩下哲典著,岩田書院,1997.5)

『徳川慶喜 その人と時代 』(岩下哲典著,岩田書院,1999.12)

『幕末日本の情報活動 改訂増補版』(岩下哲典著,雄山閣,2008.4)

 情報活動に関心がある人のなかには,江戸時代の情報活動はどうなっていたんだろう?という疑問に行き着く方,けっこう多いと思います.
 〔略〕
 諜報に当たった忍者(お庭番)機関が残した記録はまずないでしょうし,この部分は永遠に闇の中というところでしょう.

 余談ですが,維新の英雄西郷隆盛には,薩摩藩主島津斉彬のお庭番として,諜報活動に駆けずり回った時代があります.

 さて,当時の人たちは一体どういう情報を手にし,どういう資料を手元におき,どんな風に情報を分析し,どう行動に反映させていたのでしょうか?
 このあたりのこと,ぜひ知りたいことですよね.

 ご安心下さい.
 そういうことを専門に研究している学者がいるんです.

 これが実に面白い.
 ずいぶん分厚い論文集ですけれど,ぺろっと読めてしまいました.

 現時点で読んだ本は『幕末日本の情報活動』『江戸のナポレオン伝説』のみですが,いずれも「情報活動から歴史を読み解く」という斬新な観点からのもので,非常に面白いものでした.
 これから,他の著作を拝読させていただこうと考えています.

 わが歴史学会には,こういう良質な研究者の方もおられたんですね.
 目からうろこ状態です.

 読んで思うのは,岩下さんは,学者としても有能なのだと思いますが,それ以上に,読み手を意識できる,もの書きの才能があるということです.
 この種の学者にしては,よみもの形式の本が異例に多く出ているのも,そこに理由があるのかもしれません.

 岩下さんのご経歴は以下のとおりです.
 1962年生まれ.
 青山学院大の文学部卒業後,一時期は郷里で予備校の先生をされましたが,その後,学校からスカウトされる形で,学者人生をスタートされています.
 もしかしたら,予備校時代の経験が,文章に表れているのかもしれませんね.
 徳川黎明会の学芸員や鷹見家資料調査団の調査員としての経歴もお持ちで,文献資料の扱いもプロといえるようです.
 現在は明海大学,青学大の講師をされています.

 なお,意外なお得感を覚えるのは,各著作の最後にある「参考文献」です.
 これは,実にお役立ちものです.

――――――おきらく軍事研究会,平成19年(2007年)2月2日

『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』(岩下哲典著,洋泉社,2006.5)


◆◆第一次大戦以前


 【質問】
「江戸時代に,幕府が鹿児島へスパイを送り込んだけど帰還したものはいなかった.
 スパイとバレた理由が方言が喋れなかったからだ」
といった話を聞いたんですけど,スパイって方言とか完璧じゃないとアカンの?

 【回答】
 現地人になりきり,草として機能するには,方言,習慣を身につけなればすぐバレる(これは,現代のスパイに置き換えても同じ).
 例えば「鹿児島で生まれ育った人物」という設定でもぐりこんだならありえるが,それより言葉以外の仕草やその土地ならではの習慣を会得してないと,「現地人」としての役割を果たせない.

 当時は各地方間の交流がほとんどなく,よそ者はめちゃめちゃ目立つほど特徴があった.
 流通や参勤交代でいろいろな地方の人間がある程度いる江戸でも,服装,言葉,髷,月代の剃り方でどこから来た人か判別ついたくらい.
 あと,鹿児島=薩摩に限れば,薩摩弁は隠密防止のために人工的に作られた方言という話もある.


 某J国で,そばの食べ方でばれたスパイもいるし
(スパゲッティのように箸でクルクル巻いて食べた)

軍事板


 【質問】
 江戸時代の「伊賀者」の実像は?

 【回答】
 これまた,我々が一般にイメージする伊賀者とは異なります.
 その組屋敷は,四谷御門外の伝馬町1丁目南側と伝馬町2丁目の南と北に伊賀町,伝馬町3丁目の南に南伊賀町,御箪笥町の北に北伊賀町があり,総勢200名以上いました.
 尤も,軽輩でしたから一部は町屋敷を許され,町方支配を受けていた事もあり,町屋敷では赤坂一ツ木町がその代表格です.
 とは言え,基本的に組屋敷は武家地にあり,南北伊賀町の他に鮫ガ谷橋,牛込横寺町,築土片町,千駄ヶ谷にも散在していました.

 もう一つ,麻布にも組屋敷が出来るはずでした.
 一説には家康が麻布の辺りを馬で乗り回した時に,この辺りを伊賀者に与えようと言った事がありました.
 ところが,その後,紀州家から願出があって,この辺りは紀州家の屋敷となってしまいます.
 しかし,家康の言った事をひっくり返す訳に行かず,名目はあくまでも紀州家が伊賀者から借りた事にして,毎年1軒に附き1朱ずつの地代を払ったと言う伝説があります.

 その彼らは元々伊賀の地侍です.
 本能寺の変の際に,堺を訪れていた家康一行は,急遽三河に帰る事とし,その為,最短距離である伊賀越えの道を通ります.
 ところが,柘植・鹿伏兎・関・四日市を経て,那古に掛ると,至る所で土民の一揆に遭遇しました.
 家臣達は必死の覚悟で家康を護衛し,或いは脅し,或いは金品を散蒔いて危機を脱出,伊勢の白子から船を出して三河に帰る事に成功しました.
 この危機に際しては,家臣の働きも勿論の事,伊賀者200名が伊賀路から白子まで護衛したのも大きかった訳です.

 そうした功に対し,家康は,先ず彼らは尾張鳴海に召し出しましたが,1590年8月に家康が関東入国すると共に江戸に召され,大奥の出入口や,非常口を警備した外,城普請や検地にも動員されていました.
 服部半蔵の話が誇張して伝えられているので,忍者としての仕事が主かと思いきや,測量や土木の技術者としての役割も期待されていた訳です.
 大奥の出入口は,御広敷にある杉戸の御錠口…これは御鈴廊下の御錠口とは別…と奥女中の出入口である七つ口しかありません.
 余談ですが,七つ口とは,今の午後4時に当たる七つ口になると閉まる事から名付けられました.
 御錠口は,鍵が掛っており,内の方は奥女中の御使番が掛け,外の方からは伊賀者が掛けました.
 錠を開ける場合は,内は表使と御使番,外は番之添番と伊賀者がそれぞれ立会って行いました.
 普通,今の午後6時に当たる暮れ六つに閉め,午前6時に当たる明け六つに開ける事となっていました.
 また,七つ口は添番である締戸番と伊賀者が,奥の御使番と立会の上で七つに締め,朝は今の午前8時に当たる五つに開けました.

 伊賀者の任務の一つとして,奥女中出先の勤番がありました.
 大奥の御年寄が代参その他で神社・仏閣に行く場合は,御使番の他に添番1名,伊賀者1名,御小人が随行しました.
 添番は継裃着用で,伊賀者は紋付きの木綿羽織でした.
 色は,黒,鼠,藍と何れでも良いのですが無地で無ければなりません.
 なお,御小人は俗に「黒つ羽織」と言われ,黒の無紋の羽織でした.

 時に,服部半蔵正成は伊賀越えで初めて家康に仕えた様に思われていますが,これも父の代から家康に仕えていた家臣で,16歳で三河国西郡宇土城夜討で初陣し,戦功があったのを始めとして,1569年正月の掛川城攻撃,1570年の姉川の合戦,1572年12月の三方原の合戦に従って戦功を立て,「鬼半蔵」「槍半蔵」と言われていました.
 1579年8月に信康が武田家に内通したとして罪せられた折,9月15日に天方山城守通興と共に検視役として赴き,信康の頼みで介錯を勤めました.
 後に,江戸麹町に安養院と言う寺を建立して,信康の霊を慰めています.
 こうして,服部半蔵は徳川家に於いて8,000石の禄を食み,1590年8月の家康江戸入国に際しては,命によって与力30騎と伊賀同心200名を支配する事になりました.

 これが後の御鉄砲百人組の一つ,伊賀組の始まりです.
 ところが,百人組は若年寄支配であり,一方の伊賀者は老中支配であってあくまでも役向きを異にするものです.
 これが混同されて,服部半蔵が忍者集団を率いたと言う話になっていく訳です.
 因みに,半蔵門の由来は,服部半蔵の配下の伊賀組の組屋敷があったので,その名が起こったとされています.
 服部半蔵は,1596年に死にますがその墓は,新宿区四谷若葉町の西念寺と言う浄土宗の寺にあり,本堂には「槍半蔵」の名に相応しい,愛用の槍一筋が残されています.

 で,それとは違う伊賀者は,勤務先によって小普請方伊賀者,明屋敷番伊賀者,御広敷伊賀者,西丸御広敷伊賀者,更に山里伊賀者に分れています.

 最も数が多いのは御広敷伊賀者で,30俵3人扶持を宛がわれ96名もいました.
 大奥の玄関を入って御錠口詰所と相対してあったのが伊賀者の詰所で,2畳間の畳廊下です.
 この詰所には火鉢が出ており,誰が通っても片付けない事になっていました.
 これは昔,家康の側室の一人が,寒中なのに火鉢も無く老人が詰めているのを憐れに思い,下されたものであるからと言う謂われがあったそうです.

 大名家や旗本以下の屋敷は,基本的に幕府から下されたものですので,時には御用地として上地を命じられ,或いは相対替,替地,切坪等で明屋敷になったりします.
 その際,無人であると何かと不用心である為,これらの屋敷を管理し,或いは交代で住み込み,見廻る役なのが明屋敷番伊賀者でした.
 この役職には組頭が3名いて,持高勤め,御役料は3人扶持でしたが,定員は不明です.

 西丸山里御門を守るのが山里伊賀者で,此処に番所を設け一般の出入りを禁じました.
 この門は非常口でしたから,御庭番,黒鍬之者,奥向衆や御鷹匠以外は通行出来ませんでした.

 小普請方伊賀者は,常に12〜13名いましたが,彼らは非役です.
 この為,扶持も一般の伊賀者よりは少なく15俵3人扶持しか宛がわれていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/09 23:37
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「百人組」とは?

 【回答】
 百人組と言えば,大久保百人町,青山百人町と言った所が有名です.

 大久保百人町は,柏木村と西大久保村の中間に3つの武家地があり,その敷地面積は19.3万坪に達する広大なもので,組頭及び与力や同心が一団となって住んでいます.
 組屋敷の東西の入口は総門で,木戸番を置いています.

 この大久保百人町は甲賀組,根来組,二十五騎組と共に御鉄炮百人組の1つであった伊賀組,又の名を大久保百人組の組屋敷で,1603年に家康が中野に御成りの際に大縄で賜ったものでした.
 その後,諸組が改組され,与力20騎,同心100名と定められましたが,大久保百人組のみ与力25騎であった事から,1632年に,与力のみ内藤新宿北方に組屋敷を賜り,二十五騎町を作りました.
 その後,1660年に大縄地に三筋の道が作られ,南町・中町・北町に分れました.
 また,大久保百人町の住人達の内職として,躑躅の栽培が有名でした.

 青山百人町は,松平近江守上屋敷東南の通りにあり,従来は左右とも小身の屋敷町でした.
 この辺り一帯は,1590年に青山忠成が与力25騎,同心100名を預けられた際の拝領地で,その組の者に屋敷地を分け与えたものです.
 この組屋敷には,毎年6月の晦日から7月晦日の盆中に,家毎に高い提灯を掲げる風習があり,これを称して,「青山百人町の星提灯」と呼んでいました.
 七代将軍家継はこの風習を奇特として,与力に銀2枚,同心に銀3枚を与えました.

 青山にはもう一つ,青山甲賀町があります.
 これは千駄ヶ谷の谷町の東北にあった武家地で,御先手組,百人組の武家屋敷がありました.
 甲賀町は御炉路町の北にあった百人組の俗称です.

 徳川御三家の一つ,尾張侯の上屋敷西側の馬場の西隣に,根来与力衆の組屋敷があります.
 その組屋敷の中央には道があり,その東西には木戸が設けてあります.
 また,牛込榎町西南三町ほどの場所,西は高田馬場下通り,東は七軒町の間,今の新宿区牛込弁天町の辺りに根来組の組屋敷がありました.

 こうした御鉄砲百人組は単に百人組とも言われ,戦時には鉄砲隊として出陣するものです.
 百人組頭は以前は大名役でしたが,1635年以降は若年寄支配の旗本役となります.
 始めは持高に御役料が附き,1665年3月以降は御役料700俵でしたが,1682年に500俵となり,1692年4月からは御役料が廃止されてしまいます.
 そして,9月から御役高3,000石となり,布衣,菊の間詰となりました.

 これらは先述の通り,甲賀組,伊賀組,根来組と二十五騎組の4つの組がありました.

 甲賀組は,1597年に伏見城で合力米10石の与力1名と3人扶持の同心10名で構成され,1600年の関ヶ原の戦を経て近江国甲賀郡で与力と同心を選抜したのが始まりです.
 1632年には初めて江戸に下り,内桜田門の警固に当たりましたが,1637年には近江国水口御殿の勤番を務める様になり,1644年には再び江戸に下って,他の百人組と交代で大手内三の御門の警備に当たる様になり,この頃に大体100人程度で構成される様になったのであろうと言われています.

 伊賀組は,先述の伊賀者と異なり,純粋な戦闘部隊です.
 1601年に伊賀の地侍から選抜された者達が伊賀組を構成したのが始まりで,1633年2月12日に与力20騎,同心100名を以て,百人組を構成しました.

 根来組は,鉄砲隊の中で最も古い編成で,1585年8月22日,浜松城に於いて組織され,甲斐に派兵されています.
 後,1626年に根来報恩寺の衆徒として地元にいた地侍が召し出され,伊賀組と共に1633年2月12日,与力20騎が新たに加わり,同心100名で百人組を結成しました.
 因みに,根来組の与力や同心は総て紀州根来山報恩寺の衆徒で,家康の三河御陣の際に軍功があり,凱旋の時に途中警固に当たりました.
 また,根来組同心は,丸頭では人目に付くというので,総て総髪だったのも特徴です.

 二十五騎組は1601年に始まり,1632年6月21日に与力25騎と同心100名で組を作ったのでこの名が付きました.
 こちらは,甲賀,伊賀,根来が何れも各地の傭兵集団を抱えたのに対し,地生えの兵士達を訓練したものです.

 これら鉄砲組の与力は80石の御譜代席であり,同心は30俵3人扶持から15俵2人扶持までありました.
 彼らの平時の任務は,江戸城大手三の門の警備を交代で務めると共に,将軍が上野東叡山及び芝増上寺に御成の際は,正装して供奉し,寛永寺の文殊楼或いは増上寺の山門前に戦陣の形を採り,幕を張り,鉄炮100挺を備えて警備を行っています.

 因みに,大手三の門は皇居東御苑に跡を残すのみですが,百人組の詰めていた百人番所は復元されています.

 ついでに余談ですが,今まで,甲賀組,伊賀組,根来組とあり,恰も忍者集団である様な感じを受けますが,あくまでも彼らは鉄炮を家業とする人々であり,決して忍者集団ではありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/10 23:06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大名家は江戸ではどんな情報収集をしていたのか?

 【回答】
 大小名の領主が江戸で安泰に生活するには,情報収集が非常に重要となっています.
 幕府の体制と言うのは,捉え所のないものであり,その見解も,役職,職位によっても様々に変わります.
 一人の人間だけを信じて,その通りにしたら,実は180度違っていたとか,その頼りにしていた人間が失脚してしまうとか言う話もあったりする訳です.

 失脚なんかした人間と親しく付合っていると,どんな迸りが来るか判ったものではありません.
 江戸初期の場合だと,大久保長安事件で多数の大名家が取り潰しに遭ったり,領地替えをされたりしています.

 こうした事態を避ける為にも,幕閣の状況に絶えず気を配っておく必要がありましたし,公儀の意向を聞いて,それを正確に家中に伝える,或いは,老中などの幕閣と折衝するなどの仕事も必要でした.

 その為に出来たのが「留守居」と言う役職です.
 他にも,公儀人とか聞役などと呼ばれる場合があります.
 この役職は,家中では大名家の場合,江戸藩邸責任者である江戸家老に属したり,当主直属で家老以上の職務権限を持っていたりします.

 留守居は,幕閣との折衝や意向の確認のみならず,他家や町奉行などとも折衝する事がありました.
 一種,現在の会社で言うところの秘書室長とか渉外担当とでも言う様な感じです.

 この職能は,年々重要性が増してきました.

 これらの情報収集に於ては,留守居役は独力で動くことはなく,江戸城での詰席を基準にした「同席組合」とか,上屋敷の場所を基準にした「向組」などの組合に入り,定期的に「寄合」をして情報交換を行っています.
 また,重要情報を手に入れた場合は,回覧を作り,それを他家の留守居に送ったりしていました.
 それはそれで,有益な話です.

 しかし,その情報収集には非常にお金が掛かります.
 特に元禄以降は,情報収集の為に贅を凝らす(実際は贅沢する為に情報収集を隠れ蓑にすると言っても過言ではありませんが)事で,留守居役同士の会合が多くなり,費えが相当額掛かる様になりました.
 余りに贅沢が過ぎるので,御家の手元不如意が続くと留守居役がリストラされたり,その資金を削減されたりするのですが,留守居役が情報を得るには組合に入る必要があります.
 前任者が更迭された場合は,後任には一切情報が渡らなかったり,留守居役の費用がケチられて会合の際の料理や接待の質が落ちた場合も回覧が回らなかったり,その家以外の組合で会合をしたりして,重要な情報を提供しなかったりする嫌がらせが行われ,あの島津家でさえも,こうした嫌がらせに耐えかねて,当主が罷免した留守居役を復帰させたりしていました.

 つまり,彼らは当主よりも力を持っていたわけ.
 正に情報は権力なりを地で行く様なもんですな.

 彼らの会合は,大抵,吉原の料理茶屋や深川の料亭などで行いました.
 其処で当主以上の贅を尽くしたりします.
 例えば,初鰹.

 そう言えば,これを食するのに江戸っ子は,女房を質に入れるだの何だのと大騒ぎをする訳ですが,上方では鰹のことを「猫あくび」と呼んでいました.
 つまり,余りに頻繁に出てくる魚なので,猫ですら飽きてあくびをすると言う….

 話が逸れましたが,その初鰹は一尾3〜7両もします.
 7両ならば,武士の使用人なら1年に2〜3人雇える位の金額です.
 これを平気で頼み,みんなで舌鼓を打つなんてことをしていた訳で.
 当然,家中,就中,国元からは非難の的になるのですが,必要悪としての存在なので,アンタッチャブルな存在だった訳です.

 1785年,寄合旗本の藤枝外記と言う4,000石取りの旗本が,吉原大菱屋の遊女綾絹と将軍家の餌差の家で心中すると言う事件を起こします.
 心中現場となった家主の餌差は,慌てて藤枝の家を訪れ,大菱屋と内談の上,金に糸目をつけずに内密に事件を処理する様忠告しますが,藤枝家の家老は,そんな時の対応を理解していなかったが為に,けんもほろろの応対を行い,仕方なく餌差は,上司である鷹匠頭に届け出をします.
 事件を知った親戚は,直ぐ様,外記病死を届け出ますが,既に事件は幕府の知るところとなっており,藤枝家は断絶となりました.

 一方,同じ心中でも,同年に起こった大和高取植村家2万5千石当主で,幕府総者番を勤めていた植村家利が,船遊山に行って,同じく遊女と入水自殺をしてしまうと言う事件を起こします.
 これ又,本来ならば御家断絶となる訳ですが,留守居役は同席の芸者を全て屋敷に抱え込み,一切外出をさせませんでした.
 そうしておいて,直ぐに主人病死の届け出を幕閣に出し,要路に金を散蒔いて,植村家を甥の家長に相続させる事に成功しました.

 このように情報収集だけでなく,万一の不祥事をいかに揉み消すか,或いは当主の不手際をどの様にフォローするかの手腕も求められていたわけで.

 情報収集の際に重要なのは,組合の会合もそうですが,当主が江戸城登城の際に案内役を務めるお城坊主,それに三河以来の旗本ではない方の,例えば主家没落で浪人し,後に将軍家に取り立てられた者達や,外様大名の分家で,旗本になった者達との付き合いも重要でした.

 前者は江戸城の幕閣の動きや城内で小耳に挟んだ情報を伝えてくれる人々であり,後者は目付,使番などを経て,奉行に昇任していく様な人々で,家老ほどではないが便宜を図ってくれる人たちです.

 この留守居役と言う職制は家光の時代に出てきたのですが,当初はきちんと機能していたそれも,時代が下るに従ってどんどん変質していきました.
 これが再び当初の機能を取り戻したのは,幕末になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 2008/05/15 22:21


 【質問】
 シーボルト事件とは?

 【回答】
 河合敦によれば,オランダ政府の密命を受けて,軍事・政治を含む日本の総合調査に当たっていた医師,シーボルトが,国禁とされていた伊能忠敬地図,江戸城・大阪城といった城郭図などを受けとっていたとして逮捕されたスパイ事件.
 1828年11月発覚.
 幕府の文書管理責任者,高橋景保など関係者50名が死刑や遠島などになり,シーボルトは国外追放となったが,それまでにシーボルトが収集した文物は,多くがオランダ船経由で運び出され,1839年にはシーボルト・コレクションを展示する博物館が,ライデン市に設立されている.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.202-209を参照されたし.


 【質問】
 極東電信線開通までの顛末を教えられたし.

 【回答】
 現在はInternet環境を使う為に,光ファイバー網が世界各国縦横無尽に張り巡らされている訳ですが,1860年代は,長距離電信がやっと実用化に入った時代でした.

 とは言え,欧州諸国や北米で電信網が構築されたくらいで,アジア諸国の電信網の終点は,Pointe de Galleと言うセイロンの小港にありました.
 電信が届いても,それは直ぐに配送される訳ではなく,Suezからやって来た郵便船が,この港に着いて電信を受取り,Singaporeに向かいます.
 Singaporeでは,この電信を「海峡タイムズ」と言う冊子にして各地の英国植民地や蘭印に送られ,更に交趾支那,中国,日本沿岸の各港に送られる事になります.

 つまり,郵便船の航海日数の分,欧州の情報は遅れて,極東である横浜に着きますが,この情報は常に30日程度遅れます.
 と言っても,これでも早い方で,手紙や新聞が本国から送られてくるのは,それより2週間も遅かったりします.

 この為,各国商館はSingaporeでの情報入手に血眼になり,その商館が建つ地に与える影響の大きい情報が本国から届くのを待つ場合は,快速船をSingaporeに送り,蒸気を常に機関に満たした状態で,セイロンからの郵便船を待ち,その到着30分後には,電報の写しを入手し,即座に該当商館に向け快速船を出港させると言う手法を採っていました.

 一方,横浜は太平洋に面している港なので,ユーラシア大陸回りの情報より,太平洋周りの情報の方が早く届きます.
 1867年1月1日に北米汽船会社がSan Francisco〜横浜間の航路を開設すると,英国からの電報が20日後にはもう日本に着く事になりました.

 もう一つの情報入手の手段は,Saint PetersburgとKyakhtaとの間に通じている電信を用いる事です.
 しかし,これは一般用の通信回線として開放されている訳ではなく,また,Kyakhtaから北京までは郵便網が構築されていないので,クーリエを仕立てるしか無く,そのクーリエの到達も途中山賊が出没するなどして到着は困難であり,高価であることから余り使われる事はありません.

 さて,1850年代になると,欧州と北米の貿易額が増大し,情報の需要が増えてきます.
 と言う事で,2つの地域を繋ぐ海底電信網の構築が検討されていました.

 1857〜58年,先ず英米共同の合弁会社Atlantic Telegraph社が,大西洋に海底電信網を敷設しようとして失敗に終わりました.
 次いでデンマークと英国両政府の後押しで,Talliferro P. Shaffnerが北大西洋に電信を敷設しようとしましたが,不首尾が重なり,更にAtrantic Telegraph社の妨害もあって1859年に頓挫しました.

 大西洋ルートが不首尾であれば,それとは正反対で且つ,距離の短いベーリング海峡に電信線を通そうと言う計画が立案されました.
 これは,MacDonough Collinsが,1855年から進めていた計画で,シベリアから東に進出するロシアと,西へと進出する米国の利害が一致し,米国のWestern Union社がNew YorkからSan Franciscoの間の大陸横断電信網を1861年に完成させ,1863年にベーリング海峡線計画を開始しました.

 ところが,この計画を達成するより前に,Atlantic Telegraph社が再度巻返し,1866年に大西洋電信線の敷設に成功した為,1867年に計画は放棄されました.

 ロシア側は既にKyakhtaに電信線を敷設していましたが,其処から先は梯子を外された形になります.
 先述の様に,Kyakhtaからは何処にも郵便網が無いので,宝の持ち腐れになってしまった訳です.

 一方で,ロシアは国内電信網を国外と繋ぐ事で活路を見出す事とし,ロシア政府はWestern Union社と契約を結び,西回りの国際電信線敷設を計画しました.
 とは言え,ロシアとプロシアの関係は余り良くなく,プロシア領内にその電信線を通過させる事が出来ない.
 と言う事で,その電信網は一旦バルト海に出,これもプロシアと関係が良くなかったデンマークのボルンホルム島,ミュン島を経由して西ヨーロッパと繋ぐ事にしました.

 この電信網構築のデンマーク側の責任者が,先にShaffnerが計画した電信網のデンマーク側代理人を務めたC.F.Tietgenです.
 彼の思惑としては,
一つはロシアの電信網を利用する事で,デンマークの電信会社が東へ電信網を敷設する場合の展開を容易にする事,
二つ目にロシアとプロシアの利害関係の対立,ロシアと英国の一般的な反感を利用して,デンマークを上手くこのビジネスに食い込ませる事,
三つ目に万一列強に葛藤が生じても,デンマークは中立国である為に情報網は確保出来ると言う利点を十二分に発揮させ,両陣営の情報を素早く集め,ビジネスに生かす事
がありました.

 この計画は各国で反響を呼び,ロシア政府,デンマーク政府は元より,スウェーデン,ノルウェー,カナダの各国政府,自治政府,また,デンマーク国内でもChristianIX世がその側面支援の為に,個人的にSaint Petersburgを訪問したり,陸軍大臣が,米国やカナダに滞在していた折,極秘にTietgenに助力したりしていました.

 先ずは先立つものを集めねば….
 Tietgenは,1868〜69年に掛けて,Londonに赴き,資金繰りに奔走しました.
 そして1869年に3つの電信会社を統合して,Det Store Nordiske Telegraf-Selskab(大北電信会社)を設立しました.
 Tietgenは北大西洋線を敷設する為に集中していました.

 ところが1869年5月5日,ロシア政府はシベリア電信線を自費で建設し,更に清国と日本と連絡線を敷設する為の交渉を行うと表明します.
 今までは,欧州と北米の電信網をどう繋ぐかで頭が一杯だったTietgenは,此処で極東と欧州とを結ぶ電信線の可能性に思い至り,北大西洋線の計画は断念して,東方へ向かう電信線の獲得に全力を集中する事になりました.

 同じ頃,清国駐在の英国商人John George Dunnは,清国と日本と欧州を電信線で結ぶ計画を立てていました.
 こうして,ロシア政府から清国の電信線を敷設する権利を求める競争の幕が切って落とされたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/17 21:46

 ロシアルートを使用して清国への進出をするのは,至難の業で,ライバルも多数いました.
 多数の植民地を持つ英国は,その中でも特に有力なライバルとして立ちはだかります.
 つまり,セイロンまで延びていた電信線を,帝国ラインを通じて極東に延ばそうとしていたのでした.

 Tietgenに幸いしたのは,当時の時代相.
 1869年は,クリミア戦争の終結から未だ13年しか経っていません.
 しかも,ロシアと英国は中央アジア,東アジアへの進出を互いに競っていました.

 Tietgenは,その当時,ロシア政府内にあった反英感情を巧みに利用し,露英の代理戦争に便乗する形で,ロシア政府に働きかけた訳です.
 昨日書いた様に,一方で彼はロシアのプロシア嫌いも利用して,プロシアを迂回する電信線を敷設し,列強同士が万一対立した際に,デンマークが中立になる事で北半球の電信線の安全を守ろうと言う構想は,デンマーク政府だけでなく,米国の当時の大統領Ulysses Simpson Grantも支持していました.
 こうした国際的な後ろ盾を得た上,ロシア政府との交渉に当たっては,ChristianIX世の娘で,後のAleksandrIII世の妃である,ロシア皇太子妃Dagmarの助力を得ていました.
 また,デンマーク屈指の外交官であるJulius F. Sickを民間人として,Saint Petersburgに派遣し,外交の場に於ける陰陽様々な手段を駆使して,1869年10月23日,彼はロシア政府からロシア〜清国,そして日本との間の電信線敷設権を手にしたのでした.

 1870年に大北電信会社の姉妹会社として,Det Store Nordiske Kina & Japan Extension Telegraph Selskab(大北中日電信増設会社)が設立されます.
 この会社は,清国に電信線を延ばすと同時に,清国国内に電信網を敷設する事を目的としました.
 折角,ロシアから清国に電信線を延ばしても,それに接続する網が無ければ意味がありませんから.

 先ずTietgenは,China Submarine Telegraph社と30年間の提携契約を結びます.
 こうしてChina Submarine Telegraph社は,上海以北に電信線を敷設しない代わりに,大北電信会社は,香港以南に電信線を敷設しないと言う棲み分けを行いました.
 China Submarine Telegraph社は英国の会社であり,裏ではデンマーク政府と英国政府の密約で,これを侵さない事が了承されていました.
 ロシアとの交渉では,反英感情を巧みに利用し,一方で英国と密約を結ぶと言う,中々欧州情勢は複雑怪奇です.

 次いで日本,清国両政府の電信敷設権獲得交渉を行う為,デンマーク政府は,ロシアから帰国して,大北中日電信増設会社創立以来,王室の侍従を兼ねながら,その会社の理事も務めていたSickを公使として両国に派遣する事にしました.
 Sickの派遣費用は,全てTietgenが支払いました.
 一方,デンマーク政府は,海軍の蒸気フリゲート艦Todenskjold号を海底電信線敷設艦として,改装の上,提供します.
 軍艦が使われたのは,一種示威目的もあったものと思われます.

 1870年3月末,Sickは特命全権公使に任命され,6月21日に日本に到着しました.
 彼の任務は先ず,Vladivostok並びに上海からの海底電信線を日本に陸揚げし,国際電信を開通させる認可を取得する事と,日本国内に陸上電信線を敷設し,その経営に当る認可を日本政府に要請する事になっていましたが,英国公使のHarry Smith Parkesは,後者に正面切って反対し,結局,後者については断念するに至ります.

 先ずは,前者のVladivostok線と上海線の長崎陸揚げ認可を得ようと,沢宣嘉外務卿,寺島宗則外務大輔らと会談を繰り返します.
 此処で,Sickは日本の恐露病を知る事になりますが,ロシア政府は既に駐箱館領事のS.Trachenbergを通じて,海底電信線敷設の認可を求める書簡を送っていました.
 流石に,日本もロシアの意向に反して拒否する事は無いだろうとSickは判断しますが,日本に於ける電信敷設の利権を外国に渡す事に日本側は反対し,交渉は屡々白熱化しました.
 更に参議の副島種臣も参加して,調印の日取り,海底線の買収,利権の有効期間などを巡って応酬は激しくなりました.

 この押し問答の末,1870年9月20日,11箇条の約定と2項目の秘密項目を持つ,約定が締結されました.
 大北電信会社は,横浜,長崎に電信線を陸揚げする許可を得ると共に,両港間にケーブルを敷設する認可を取得し,約定の有効期間は30年とされ,Sickの日本での任務は終了しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/18 23:43

 Sickは一応,全権公使と言う名目で来日していました.
 しかし実質は,大北電信会社の為に,電信線敷設と陸揚げ権を獲得すべく日本政府と交渉する事以外にありませんでした.
 でなければ,デンマーク政府部内でも敏腕で知られている外交官を,こんな極東の果てに派遣する事はありません.

 彼は一計を案じ,国王から天皇への親書を渡す事を口実に,その謁見の為の予備交渉を行うと言う事で,沢や寺島に面会を求めます.
 そして,この予備会議の席上で,いきなり海底電信線計画に言及して,交渉の第一歩を記しました.
 こうでもしなければ,日本側との交渉は先に進まない事を知っていたからです.

 こうして,第一回会合の日取りも決められ,横浜にてその交渉が開始されました.
 一方で,彼は各国外交官と共に,天皇陛下への謁見を行う事になりました.
 この謁見は,外務省と各国公使との間で,各国君主の敬称をどの様にするのかで揉めた為,ちょっと遅れましたが,Sickの謁見は,無事宮城にて行われました.
 彼は付添い武官を伴っていなかったので,Harry Smith Parkesが英国軍の騎兵6名を提供し,何とか体裁を整えた彼は宮城に向い,其処で,明治天皇からデンマーク国王への勅答を授けられ,又,自らも直後を賜りました.
 彼はこの事について,
「ミカドが欧州の君主からの親書に答えたのは,これが嚆矢である」
と得意満面に報告しています.

 それは扨置(さてお)き,Sickの行動は国家を代表する全権公使と言う立場にありながら,実際は大北電信会社と言う一つの法人の約定交渉だけを行いました.
 これは,欧州辺りの老獪な外交官から見れば,本来の外交から全くかけ離れた姿でした.
 謂わば,植民地に対する欧州諸国の態度其の物.

 しかし,未だ外交に未熟だった日本の外交官達は,そうした綻びに気づきながら,そこに付け入って逆捩を喰らわせる事が出来ず,まんまとSickにしてやられた訳です.
 寺島宗則外務大輔は,Sickの行動が外交官として正統な事なのか否かをHarry Smith Parkesに問うていますが,寺島はそれを交渉の場で出すべきだったのです.
 とは言え,経験不足の外交官にしては,欧州の老獪な外交官を相手に,良く戦った方です.

 寺島はこの屈辱をバネに,長崎〜東京間の陸上電信線を海外の手に委ねず,自力で速やかに家敷設する準備を行う事で,大北電信会社に与えた陸上電信線を敷設する権利を行使させない様にします.
 そして,長崎〜上海線が開通する以前の1871年7月に,御雇外国人Edger Georgeの監督の下に測量事業を始めました.
 測量事業は1872年に,W.H.Stonesに引き継がれ,国内電信線は1873年2月に完成します.

 そうしておいて,この既成事実を楯に,寺島は1872年に約定改正交渉を開始し,10年間の交渉の末,漸く,大北電信会社が獲得していた長崎〜横浜両港間の海底電信線敷設権の認可が取消されました.
 Sickに煮え湯を飲まされてから臥薪嘗胆した,寺島宗則の根気強さが欧州の老獪な外交官を破った瞬間でした.

 大北電信会社の海底電信線は,ケーブルに不良部分があって敷設工事がずれ込みますが,1871年4月に香港〜上海線が工事を完了.
 8月12日に上海〜長崎線が開通.
 長崎〜Vladivostok線は,8月末に海底電信線の工事は完了したものの,ロシア側の工事が遅れ,11月17日に敷設工事が完了.
 正式に極東電信線が開通したのは,1872年1月1日で,以後,欧州と極東との間の情報は,主要都市間では日ならずして到着する様になりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/19 20:54

 ちなみに畠山清行によれば,後の日露戦争では日本もこのラインを使用したため,ロシアはこれを盗聴しまくりだったとか.


 【質問】
 
石光眞清って誰?

 【回答】
 石光眞清 ISHIMIZU Makiyo は,明治から大正にかけてシベリア,満州での諜報活動に従事した,日本陸軍の軍人.

 明治元年(1868年),熊本の士族の子として生まれ,
幼少時に神風連や西南戦争に遭遇した後,陸軍幼年学校に入校.
 陸軍中尉で日清戦争に参加し,台湾に遠征.
 同戦争において彼は,北の強国ロシアの影が極東に伸びていることを敏感に感じ取り,ロシア語を学ぼうと決心して1899年よりシベリアに渡り,ブラゴベシチェンスクに留学.
 やがて軍服を脱いで写真技師に身をやつし,様々な人々と交わって,対露情報の収集に当たる.
 日露戦争後は東京世田谷の三等郵便局長を務めたりしたが,1917年のロシア革命の後,錦州で物産陳列館を開き,やがて参謀本部の強い要請により,再びシベリアに渡って諜報活動に従事.
 帰国後は,夫人の死や負債等,失意の日を送り,1942年,76歳で没した.

 没後,長子・真人の手により
手記(遺稿)四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』が出版されている.
 読むべき.

軍事板,2002/12/09
青文字:加筆改修部分

 【参考ページ】
http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=140
http://www.ryuichiteshima.com/archives/2009/2009autumn.php
http://homepage2.nifty.com/tanizoko/isimitu_makiyo.html


 【質問】
 ドレフェス事件とは?

 【回答】
 1894年,フランス軍のドレフュス大尉(ユダヤ系)が,ドイツに情報を売ったとして終身流刑に処せられた事件.
 状況証拠すらなかったが,反ユダヤの新聞に糾弾されたため,軍は彼を有罪にしてしまった.
 1896年,事件の真犯人はフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐だと判明したが,軍上層部は軍の権威の失墜を恐れ,エステルアジを無罪として釈放.
 1898/1/13,エミール・ゾラが事件を糾弾したことで,ドレフュス支持運動は盛り上がったが,一方,ユダヤ人迫害運動のほうも盛り上がり,ゾラも英国への政治亡命を余儀なくされた.
 その後,ドレフュスは特赦で釈放されたが,無罪を主張し続け,1906年に無罪判決を勝ち取った.

 下手に組織の面子に拘ったことで,かえって大きな打撃を蒙ることになったという,一つの典型.


 【質問】
 ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の黄禍論工作とは?

 【回答】
 平間洋一によれば,ウィルヘルム2世は,
「日本が東洋で優勢を占めれば,やがてアジアは日本に統一され,ヨーロッパも統一アジアの黄禍に侵害されるだろう」
と説き,黄禍の脅威を題材とした絵画をニコライ2世や各国の有力者に贈り,
「キリスト教国は協力して,東洋民族に対して断固立ち上がらなければ,ヨーロッパ文明が蹂躙される」
と煽動したという.
 これは,遅れて植民地争奪競争に参加したドイツが,ロシアの力を東洋に向けさせることで,ロシアとのバルカン半島や中近東での競合を減少させることを目的としたものだったという.
 この流れは見る見る広がって,日清戦争後の三国干渉の原因の一つになり,さらにアメリカにも波及してカルフォルニア州で排日的な法案が成立するのに影響した,と平間は述べている.

 詳しくは『日英同盟』(平間洋一著,PHP新書,2000.6.5),p.142-143を参照されたし.


 【質問】
 種村佐孝の「大本営機密日誌」と「機密戦争日誌」,90年に出た「日本外交文書日米交渉」と ,昭和53年に出た「日米交渉資料」は,それぞれ両方とも目を通したほうがいいですか?

 【回答】
 当然読むべき.
 種村本は「機密戦争日誌」を一部利用して書いたにすぎない.
 でも,素人が読むようなものではないかもね.面白いけど.
 日本外交文書はその手の研究するなら当然必須.
 53年のって記録の部と経緯の部のやつでしょ?

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『対外軍用秘密地図のための潜入盗測〈第1編〉外邦測量・村上手帳の研究』を買った人いないか?
 中身確認せずにはちょっと買えない値段なんで.

 【回答】
 もし地図とかその辺りに詳しいのでしたら,第1篇は釈迦に説法のきらいがあります.
 第3篇は純粋な日記的なものなのですが,第2篇は中々興味深いですね.
 記述も一見した所,中々詳しくて,今後に期待が持てるような内容です.

 戦前の諜報活動の一環に興味があるのなら,買って損はないか,と思います.

 ついでに,日本敗戦前後の測量・地図関係の話ならば,暁印書館の『「地圖」が語る日本の歴史』が面白いですよ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2009/10/21(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前日本の,中央アジアに対する情報収集活動にはどんなものがあったか?

 【回答】
 その全てが諜報活動とは限らないが,明治20年代から断続的に細々と行われていたようだ.
 以下引用.

 だいたい日本人は古くからシルクロードに関心を持っていたというふうに考えられる方が多いのですが,どうも私が色々調べてみたところでは,そんなに古いことではなくて,ごく特殊な方が,つまり東西交渉史専攻の先生方とか,あるいは読書によってシルクロードの知識を持った方は別としまして,シルクロードについて明確な認識を持っていた方は極めて少なかったし,また,あまり古いことではないのであります.

 もっとも過去何回か,我が日本人が西域ブームとでも申しましょうか,西域について関心を持ったことはあります.
 その最初は明治20年代で,上海の同文書院の前身を担っていた荒尾精,根津一らはロシアからの防衛上,中央アジアに深い関心を持っておりました.
 その同志である浦敬一は,1889年(明治22年),単身,中央アジアに向かいまして,行方不明になっています.
 その足跡は今日に至るまで,杳として不明であります.

 また,1902年(明治35年)から1914年(大正3年)にかけては,3回に渡って大谷探険隊が派遣されまして,東トルキスタンの探険を行いました.
 これはロンドン留学中の大谷光瑞師がスタインやヘディンの探険に刺激されまして,主として大乗仏教の収集のために派遣されたもので,有名な堀賢雄,渡辺哲信,野村栄三郎,橘瑞超,吉川小一郎らがそのメンバーであります.

 また,昭和の初めから日本はどんどん大陸に進出しまして,大陸の文化という物を大いに取り入れました.
 同時に満鉄のようなものを作りまして,日本の勢力をどんどん大陸に移植したわけで,満州帝国という壮大な夢の王国を作ったりいたしました.

 さらに昭和12年から20年にかけては,主として内モンゴルの調査も何回か行われました.
 けれども,その向こうにシルクロードが,まあ,文化交流の道のようなものが続いているという考えですね.
 西域という考えはあったかもしれませんけれど,道が続いていて,ヨーロッパと文化交流を続けていたというような考え方は,学者以外は認識していなかったようです.

 〔略〕

 ちょうど大谷光瑞さんがロンドンにいるときに,スタインとヘディン赫赫たる功績を上げましたので,大谷さんは,それじゃ私も行こうというふうに考えたようです.
 大谷さんは当時は西本願寺の御曹司で下から,ロンドンに留学中であり,留学の帰りに4人の部下と共に,まずロシアから中央アジアに入ってまいりまして,カシュガルに着き,大谷さんは間もなく2人の随員とインドに戻りましたが,渡辺哲信と堀賢雄はタリム盆地を探険して帰国しました.
 大谷隊は大谷さんの考えというものが非常に強く,大谷さんが自分の部下を使われて探険しました.
 確かに日本人の中に,そのころ西域探険隊のことを色々考えた方もいたのですが,大谷さんが失脚してからは続かなかった.
 当時で何万円というお金が必要だったと思います.
 ある意味で大谷さんが失脚したのは,中央アジアの探険などで沢山お金を使い過ぎたためであるという説もあります.

 明治・大正の頃,西域に対して関心を持った人も,特に京都のほうには何人かいらっしゃったわけです.
 ただ,その内容は,今日のシルクロードについての考え方からは少し違っており,また,それが国民全体としての関心にはなっていなかった,と言えるでしょう.
 少なくとも現在のような形にはなっていなかったと思います.

長沢和俊 from 「魅惑のシルクロード」(講談社,1981/10/15),p.50-51 & 77-78


 【質問】
 石光真清とは?

 【回答】
 1868年,熊本生まれ.
 陸軍中尉で日清戦争に従軍し,台湾に遠征.
 1899年,特別任務を帯びて,シベリアに渡り,諜報活動に従事.
 その記録は手記4巻『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』として纏められている.

 【参考文献】
『日本・アフガニスタン関係全史』(関根正男編,明石書店,2006.9.1),p.51-53


 【質問】
 谷壽夫(ひさお)とは?

 【回答】
 1882.12.23,小田郡上稲木村(岡山県井原市上稲木町)の資産家,谷類太郎の長男として,岡山区で生まれる.
 1901年,陸軍士官学校卒業.
 参謀本部付から参謀本部長となり,陸軍・海軍両大学公の兵学教官を兼務.
 1915-18,駐英大使館付武官.
 1920-22,駐印武官.
 1928,第3師団留守参謀長から第3師団長へ昇進.
 1930-32,軍縮会議に随員として派遣さる.
 1933,近衛歩兵第2旅団長
 1934,中将任官
 1935,第6師団長
 1937年12月,支那事変勃発と共に,師団を率いて南京攻略作戦に参加.南京城一番乗りを果たす.
 同月,帰国.
 中部防衛司令官.
 1939,待命予備役.
 太平洋戦争中は,大政翼賛会中央委員として各地を遊説.
 1945年8月12日,中国軍管区司令官に任命さる.
 戦後,戦犯容疑で中国から召還され,1947.4.26,南京郊外,雨花台で刑死.
 著書に『機密日露戦史』がある.

 日本人として初めてアフ【ガ】ーニスタンに足を踏み入れた人物でもあるという.

 【参考文献】
『日本・アフガニスタン関係全史』(関根正男編,明石書店,2006.9.1),p.
 ただし,谷の経歴については同書は,『岡山県歴史人物事典』(山陽出版社,1994)から引用している.


 【質問】
 日露戦争における,金子堅太郎による世論工作について教えてください.

 【回答】
 メール・マガジン「ロシア政治経済ジャーナル」,2006/10/2号によれば,開戦1ヶ月後の1904(明治37)年3月に米国入りした金子堅太郎男爵は,新聞や雑誌などの本社が集中するニューヨークに腰を据え,日本訪問中に金子が世話をした,親日派のスチュワート・ウッドフォード将軍の人脈を頼っての顔見世パーティや,それに続く講演会などを行ったという.
 そしてその中に於いて,日本は門戸開放政策をとり,アングロ・アメリカン(英米)文明を採用し,そしてその英米文明を中国と韓国に導入しようとした過程で,ロシアと敵対することになった,と説明したという.
 金子曰く,
「私たちは,領土的な野心や好戦心のために戦っているのではありません.
 アングロ・アメリカン文明の極東への導入のために戦っているのです.
 ペリー提督は,私たちに門戸開放を授けてくれました.
 今,我が国は,その門戸開放のために戦っているのです」

 そして,戦死したばかりのロシア海軍の名将マカロフに哀悼の辞を述べたという.
 曰く,
「ここに御列席の多数の方々はマカロフ大将を御承知であります.
 大将は世界有数の戦術家である.
 この人が死なれた.
 わが国は今やロシアと戦っている.
 併(ただ)し一個人としては洵(まこと)に其(その)戦死を悲しむ.
・・

 マカロフ大将も国外に出て祖国のために今やまさに戦わんとする時に臨んで,命を落としたことは残念であろうが,この戦役において一番に戦死したことは,露国の海軍歴史の上に永世不滅の名誉を輝かしたことであろうと思う.
 私は茲(ここ)に追悼の意を表してもって大将の霊を慰める」

 金子のマカロフ哀悼は強い共感を呼び,翌日の新聞は「日本の貴族,マカロフを称える」(『ニューヨーク・ヘラルド』紙),「マカロフの賛辞を捧ぐ」(『ザ・サン』紙)と伝え,以後,金子には晩餐やパーティーへの招待状が山のように届き,どれに出席するか取捨選択しなければならないほどだったという.

 詳しくは同メール・マガジンを参照されたし.


 【質問】
 日露戦争において,ロシア側のプロパガンダ工作に金子堅太郎はどう対抗したのですか?

 【回答】
 メール・マガジン「ロシア政治経済ジャーナル」,2006/10/2号によれば,ロシアは広報外交官としてエスパー・ウフトムスキー公爵をアメリカに派遣し,駐米ロシア大使カシニーと共に,黄禍論を持ち出して反日宣伝に努めたが,ロシアが満洲を占領して米国を閉め出した経緯の前には,こういう言い分には説得力がなかったという.
 一方,金子は講演会などにおいて,ロシア側の主張を徹底的に反駁.
 日本の宣戦布告があまりに急で戦闘に備える暇がなかったというロシア側の批判に対しては,前年4月以来,ロシア海軍は戦艦3隻,巡洋艦5隻など19隻を増強し,ロシア陸軍も歩兵2個旅団,砲兵2個大隊など40万人を増派していた,と詳細なデータを挙げて反証.
 日露戦争はキリスト教徒と異教徒の戦いだ,というロシア側の宣伝に対しては,日本は仁川沖の海戦で損傷した軍艦「ワリャーグ」の負傷者を日本の赤十字病院に収容し,死者は衣服を改めて陸上でキリスト教の葬儀を行ったが,満洲やウラジオストックでは,ロシア人官吏は在留邦人を抑留・虐待した事実を挙げ,
「日本人とロシア人のどちらの行為が,よりキリスト教主義に適っているか」
と聴衆に問いかけたという.

 詳しくは同メール・マガジンを参照されたし.
 また,ロシアが満州に進出して各国の顰蹙を買った経緯は,平間洋一著『日英同盟』も合わせて読まれたし.


 【質問】
 鎌田弥助って誰?

 【回答】
 東京外国語大学卒業後,日露戦争においてラマ僧に変装し,熱河省平泉関岳廟に,陳玉山と名乗って住み込んで,特殊任務に当たった人物.
 のち,大連において満鉄総裁室顧問.
 彼を満鉄に送り込んだのは上原勇作だという.
 以下ソースが示すように,満州の特殊権益(阿片栽培)にも関与していた模様.

 下掲書においては,以下のようなエピソードが紹介されている.

----------------------------------
昭和20年3月,[朝鮮銀行]天津支店に支配人代理として赴任途中の生駒盛芳は,大連で満鉄総裁室顧問の鎌田弥助から,こんな話を聞いた.
 [中略]
鎌田は中国語に精通しており,生駒の叔父である.
「最近,大連の中国人の間に,没大意思(メイダーイース)という妙な挨拶が,合言葉のように交わされている.
 大したことはありません,ヨボヨボくらいの意味だが,どうもそんな軽い意味でなく,美大日死(メーダーリース)――米国打てば日本死す――に通じるようだ」
 大本営発表に惑わされる日本人よりも,朝鮮人や中国人のほうがすでに,戦争の行方を敏感にキャッチしていた.

---------------------------------p.216

 また,
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-date-200812.html
によれば,

--------------------------------
 大正4年7月10日,3年目の収穫を届けに上京した[吉薗]周蔵に,上原は鎌田なる人物を紹介した.
 満鉄奉天公所次長・鎌田弥助で,上原が満鉄に送り込んでいた腹心であった.
---------------------------------

http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-646.html
によれば,

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『周蔵手記』では,甘粕は大正九年一月三十日条に初登場する.
 報告のために陸軍参謀総長・上原勇作の私邸を訪れた吉薗周蔵は,上原が満鉄に送り込んだ特務・鎌田弥助に久しぶりで会う.
 鎌田は「一度満洲にケシの指導を頼みたい」と言った後,同席の人物に周蔵を指して,「
この人のこと覚えていて下さい.
 ウィーンの時は武田ナニガシだったが,今は煙草屋・小山ケンーとても言うのかな」
と言い,続けて小声で,
「例の吉薗は・・」
と口にしたので,周蔵は陸軍特務の誰かが自分の名前を使って活動していると覚る.
 憲兵司令部副官・甘粕と名乗ったその人物は,挨拶代わりに
「今日が初めてじゃないですよ.以前さる所でお見かけしましたよ」
と切り出したので,周蔵は言いようのない不安に襲われた.
-----------------------------------------

 【参考ページ】
『朝鮮銀行 ある円通貨圏の興亡』(多田井喜生著,PHP新書,2002.3.1),p.216
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-date-200812.html
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-646.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/09/17 21:00
を加筆改修


 【質問】
 ロシアの社会主義革命に日本が一枚噛んでると聞いたのですが本当ですか?
 日本人がレーニンと接触したらしいのですが.

 【回答】
 日露戦争中,日本陸軍の明石元二郎大佐が,参謀本部の密命を受け,レーニンに武器や資金を提供していた.
 ロシア国内の反政府勢力に暴動を起こさせて,日露戦争を有利に運ぶための秘密工作.
 詳細についてはまだよくわかっていない.

軍事板


 【質問】
 昭和9年発行『新版日本畸人傳』(白石實三:中央公論社)に,陸軍大将・島川文八郎が士官時代にドイツのクルップ社を視察した際,わざと足を滑らせて火薬の中に片手を突っ込み,手袋の中(あるいは爪の間)に火薬を付着させて日本に持ち帰り,無煙火薬開発を成功させたというエピソードが紹介されていました.
 しかもこの文章は島川大将自身が確認した内容だとも記されていました.
 事実かどうか調べてみようと検索してみたのですが,それらしい話はみつかりませんでした.
 こんなエピソードご存じですか?

 【回答】
 事実ではありません.

 小銃用の無煙火薬は,1885年にフランスでB火薬(綿火薬と基剤とする帯状火薬)が発明されたのですが,その年に同国を訪問した大山巌陸軍大臣に試料が贈呈され,その研究に着手.
 1890年に試製に成功し,1892年より製造開始となっています.
 ちなみに,同火薬は31年式野山砲の制式火薬であり,クルップから導入したものではありません.

 海軍は紐状火薬を採用していますが,長らく輸入品となっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/02/01(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第1次大戦時,アメリカにおいてドイツはどんなプロパガンダ工作を行ったのか?

 【回答】
 平間洋一によれば,
・日本の参戦阻止,
・黄色人種と同盟したイギリスへのアメリカの反感を高め,アメリカ世論を反英に転じさせる
ことを目的として,反日キャンペーンを展開したという.
 たとえばハースト系新聞は,
「メキシコのウエルタ大統領が米国に反抗するのは,メキシコ軍の中に,日露戦争に従軍したベテラン日本兵が多数,メキシコ軍の中に従軍し,指揮をしているからだ」
と報じている.
 また,1917年1月には,ドイツ外相ツィンメルマンから駐メキシコ・ドイツ大使に宛てたとされる電報が新聞に掲載された.
 それは,
「メキシコが日本と同盟し,アメリカから旧メキシコ領土を奪取しようと望むならば,ドイツが経済・軍事的援助を与えるとの条件で,メキシコ政府や駐メキシコ日本大使と交渉せよ」
との内容だった.
 さらに同年,ブルマン米農務次官は
「アメリカがメキシコに対して強圧的手段を講じられないのは,メキシコに日本の退役軍人40万人がいるからである」
と発言している.
 米議会ではこのブルマン発言が引用され,陸軍予算獲得に利用されたという.

 さらにまた,ドイツ系アメリカ人は黄禍論を持ち出し,
「イギリスが黄色人種の日本と同盟してキリスト教とである白色人種を殺傷し,キリスト教文明を破壊するのは,白色人種に対する反逆である」
と批判したという.

 詳しくは『日英同盟』(平間洋一著,PHP新書,2000.6.5),p.88-91 & 143を参照されたし.

▼ しかし一般的には,ツィンメルマン電報の一件は,
「ドイツとメキシコが同盟を組んで,アメリカを攻撃し,テキサス州その他の領土をメキシコに返還させようと提案したもの」
であり,米議会の対独宣戦布告の要因となったものであると説明されている.
(ポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.38他)

 したがって上記の記述は,「そういう対抗プロパガンダをドイツが行った例もある」程度のものと考えるのが自然だと思われる.▲


 【質問】
 砂糖爆弾って何?

 【回答】
 いわゆる「リンテレンのシュガーボム」は,1915年,ドイツの特務大尉フランツ・フォン・リンテレンが発明した爆弾です.
 アメリカの戦略物資貨物船を沈めるために使用されました.
 この爆弾は塩素酸○タ○ウムと紅茶用の精製糖を混合した爆薬を水道管に詰め,濃硫酸をつめた注射用のアンプルを隣り合わせで置きその間を銅板で仕切りをしたものです.
 アンプルを撃針で割ると,酸が銅板を侵し,やがて化学反応によって爆発が起こる仕組みです.

 【参考ページ】
2ch.人生相談板
http://www.geocities.co.jp/Playtown/2586/ency-ra.htmlより転載されたもののやうだ)

【ぐんじさんぎょう】,2008/10/26 19:20
に加筆

 某遅筆作家が爆発する話かと…

新所沢の三等兵◆Uk in mixi,2008年10月26日 01:12


 【質問】
 第1次大戦中,ドイツはオーストラリアでどんな反日プロパガンダ工作を行ったのか?

 【回答】
 平間洋一によれば,日豪分断,英豪連携弱体化を目的として,日本の脅威を煽る工作を行ったという.
 日本海軍がヤップ島を占領すると,ドイツのロイター通信は,
「同島は将来,太平洋から南極海に達する日本の覇権確保のための第1兵站基地になるだろう.
 日本の脅威に対抗するため,オーストラリアを白人の手に取り戻せ」
との旨の記事を書いて煽ったという.
 また,ドイツはエージェントを使い,日本の当時の煽動的なジャーナリスト,茅原崋山の「第三帝國」という小新聞の,
「日本の膨張は赤道より南……オーストラリア・ニュージーランド・タスマニアまで及ぶのである」
といった記事をひそかに持ち込んだ.
 この記事は1918年6月のパースの労働党大会や,7月のサウス・オーストラリア州議会で朗読され,反日感情・対日警戒心を高めたと言う.
 この反日感情は徴兵制度の賛否を等国民投票にも利用されたという.

 詳しくは『日英同盟』(平間洋一著,PHP新書,2000.6.5),p.143-145を参照されたし.

 茅原崋山の件は,「敵の中の愚か者を利用せよ」の典型例と言えよう.


 【質問】
 第1次大戦時,ドイツはインドにおいてどのような工作を行ったのか?

 【回答】
 平間洋一によれば,インドに騒乱を起こすため,ガダル党(独立派)などに資金を援助し,宣伝文書や武器などをインドに送り込んだという.
 この工作に,意義を感じたり利益を見出したりして協力する日本人もいたという.

 詳しくは『日英同盟』(平間洋一著,PHP新書,2000.6.5),p.157を参照されたし.


 【質問】
 ウィルヘルム・ヴァスムスとは?

 【回答】
 David Fromkin によれば,第1次大戦中,抜群の成績を上げたドイツの諜報工作員.
 ペルシャ南部で煽動工作を行い,おかげでペルシャでは激しい部隊蜂起が相次いだという.
 そのためインド政府は,サー・パーシー・サイクス准将率いる英印軍を派遣し,苦戦を重ねてようやく鎮圧できたという.

 詳しくは『平和を破滅させた和平』上巻(David Fromkin 著,紀伊国屋書店,2004.8.31),p.330-331を参照されたし.


 【質問】
 第1次大戦においてアメリカ政府は,戦争遂行のためにどんなプロパガンダ政策を取ったのか?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,ジャーナリスト,ジョージ・クリール(1876-1953)を長とする公報委員会を設立して広報活動を行ったという.
 以下引用.

――――――
 クリールは7万5千人の「フォー・ミニット・メン」を雇い,劇場の休憩時間などを利用して,戦争の目的について短い演説をさせ,様々な言語からなる10億枚のパンフレットを配り,『カイザー,ベルリンの野獣』のような映画を作り,「野蛮なドイツ兵」による占領地住民たちに対する「悪行」を公開した.
 「ハンバーガー」は「自由のサンドイッチ」,ザウアークラウトは「自由のキャベツ」と言い換えられ,ドイツ音楽を演奏したりドイツ語を教えることは禁止される.
 そして多くの市民がそれぞれ,ドイツ文化に反対する意見を出すよう求められた.

――――――ポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.39-40

 また,国民の自由を規制する強制力を執行したという.
 軍需生産を遅らせるストライキを防止する目的で,国家戦時労働委員会を設置.
 また,1917/6/15のスパイ行為禁止法(1918/5/16の煽動禁止法で修正)により,当局は反戦論者や,世界産業労働組合,社会党といった左翼団体メンバーを,多数起訴できるようになったという.
 詳しくは上掲書,p.41を参照されたし.


 【質問】
 今,母方の実家に帰っているのですが,じいさん(84歳)が
「自分は戦争時に特務機関にいた」
と言います.
 特務機関って本当に存在したんですか?

 【回答】
 存在したが,大正8年以降とそれ以前とでは,意味合いが全く異なるという.
 以下引用.

●特務機関
 特務機関とは,もともと軍隊(軍,師団,旅団,連隊など)・官衙[かんが](陸軍省,参謀本部,教育総監部,技術本部,製造廠など)・学校の三つの区分に属さない制度,つまり元帥府,侍従武官府,軍事参議院,将校生徒試験委員などのことを呼称した.
 しかし,大正七年(一九一八)のシベリヤ出兵(八月四日,日米両国の出兵宣言発表)に際して,純作戦以外の種々複雑困難な問題が起こり,これを解決するため大正八年(一九一九)二月,参謀部に軍事外交機関を設け,当時オムスク機関長であった高柳保太郎少将の発案によって名づけられたのが,ここに言う特務機関であり,前記特務機関とはまったく本質を異にしている.(以下略)

北村恒信著「戦時用語の基礎知識」光人社NF文庫より


 【質問】
 陸軍陸地測量部の活動について教えられたし.

 【回答】
 国土交通省の付属機関に国土地理院というのがあります.
 この機関は,地形図を定期的に発行しています.
 そう言えば,地形図作成用の写真撮影機は海上自衛隊が運用しているのですが,何で陸上自衛隊やら,海上保安庁じゃないのかしらん.

 その国土地理院の前身の一つには陸軍陸地測量部がありました.
 それが太平洋戦争の後,内務省や建設省を経て国土地理院に改組された訳ですが,その陸地測量部も,地形図を発行しています.

 この地形図,大正時代や昭和初期のものと1937年以降のそれとを比べると,とても不自然なことがあります.
 それは,都市中心部に異様に緑地帯が多いこと.
 その面積は,東京の山手線内,宮城から新宿方向には実に25%以上に上っています.

 種明かしすれば簡単な話で,1937年,戦時体制の進展に伴い軍機保護法が大改正され,軍が機密指定を自由に出来るようになり,空襲の目標となるのを恐れ,皇族邸や,師団司令部,参謀本部,工廠などの軍事施設が全て消されている訳です.
 また,軍事施設だけではなく,破壊されれば市民生活に重大な支障を来す施設や重要工場,例えば,浄水施設やガスタンク,発電所,製鉄所,鉱山の様なものも地図から消されています.
 尤も,要塞地帯とか宮城は元から空白な訳ですが….

 従って,戦前の地図でも1937年以降のそれは,地形図として使うのならば未だしも,戦前の町並みを再現するなどの目的に使うと余り信頼が置けないので,それを使って何かの調査を使用とすると,誤りを犯す可能性があります.

 とは言え,空から見れば丸判りですし,地形図だって,周囲が人為的な角形に仕切られ,中だけ自然がいっぱいありますよ,みたいな加工が為されていたら,どんな迷探偵だって,何かあると喝破するでしょう.

 この手の改竄(これを戦時改描と言います)で尤も甚だしいのは,「毒ガスの島」と言われた大久野島で,この部分はすっかり切り取られて空白になっていたり.

 更に駅名も軍機保護法で変更されました.
 関東では,京浜急行の横須賀軍港が横須賀汐留とか,小田急の通信学校が相模大野になったり,相模鉄道(今の相模線)の陸士前が相武台下になったのが有名.
 中部地方で有名なのは,名鉄各務原線沿線で,各務原基地設置に伴い,一聯隊前とか二聯隊前,飛行団前,補給部前という駅がありましたが,これらは一斉に改称されています.
 近畿で代表的なのは,京阪の師団前は十六師団の最寄り駅だったのが,藤森に改称されていますね.

 これら駅名の改称なんて,「気は心」状態ではないか,と思いますが,当時は大真面目だったのかも知れません.

 因みに,国家総動員体制が整うにつれ,娯楽なんぞまかり成らん,ということで,全国の温泉駅や公園駅の改称が続きました.
 関東の東急東横線にある綱島は,元々綱島温泉駅で,温泉地として有名だったのですが,1944年に「時局の要請」で,温泉が取れてただの綱島になってしまいました.
 戦前には100軒以上の温泉旅館があったそうですが,今は1軒しか無いそうです.
 小田急や京王,京急が東横に吸収され,大東急が発足する時にこれらの改名が行われ,東横の綱島温泉の他,二子読売園は二子玉川に,小田急の鶴巻温泉は鶴巻に,京急のキリンビール前(今は有りません)を単なるキリンに,味の素前も鈴木町となり,コロンビア前は港町と改称しました.
 関西の阪急関大前は,元々大学前と花壇町を統合した駅でした.
 花壇前は北大阪電気鉄道(今の阪急千里線)が開園した千里山花壇という娯楽施設があり,菊人形が有名でしたが,これも「時局の要請」で千里山厚生園と改称しています.
 神戸有馬電気鉄道(今の神戸電鉄)もモダンで,鈴蘭台にダンスホールを開業し,鈴蘭ダンスホール前なんて駅を開設しましたが,これも小部西口なんて名前に改称されました.
 これ,今の鈴蘭台西口です.
 神戸有馬電気鉄道では他に,広野ゴルフ場前が広野新開と改称されていますね.

 今,駅名の改称には億単位のお金が掛かると言われていますが,各鉄道会社や周辺の人はさぞかし迷惑した事でしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月04日21:56


 【質問】
 スペイン内戦時の「第5列」についてご教示ください.

 【回答】
 敵対勢力の内部に紛れ込んで諜報(ちようほう)などの活動を行う部隊や人.
 スペイン内乱の際,四個部隊を率いてマドリードを攻めたフランコ派のモラ将軍が,市内にも攻囲軍に呼応する五番目の部隊がいると言ったことが語源.
 第五部隊.


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