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◆総記

 【link】

 【質問】 中米主要国の国防予算は?

 【質問】 中米諸国の,スペインからの独立までの流れを教えられたし.

 【質問】 パナマやキューバに米軍基地ができるまでの経緯を教えてください.

◆A-C

 【質問】 2ch.軍事板において,たまに「コスタリカが最強」とかいうレスを見受けるのですが,何故なのでしょう?

 【質問】 コスタリカの武装警備隊って,実戦経験あるんですか?

 【質問】 1948年のコスタリカ内戦に至るまでの経緯を教えられたし.

 【質問】 1983年にコスタリカが,永世中立国宣言を出したのは何故か?

◆◆コスタリカは非武装中立国か?

◆Cuba キューバ

 【質問】 キューバ革命について分かりやすく教えて下さい.

 【質問】 キューバ革命はプロレタリア革命なんでしょうか? 民族革命なんでしょうか?

 【質問】 キューバ革命はなぜ成功したの?

 【質問】 エルネスト・ゲバラは何をした人なんですか?

 【質問】 カストロやゲバラがプロレスラーに武術を習った,というのは本当ですか?

 【質問】 キューバ革命は,コーヒー市場にどんな影響を与えたのか?

 【質問】 なんでカストロは敵(ではないにせよ非友好国)に基地を使わせてるんですか?

 【質問】 キューバ海軍の兵力は?

 【質問】 リオ・ダムジ級フリゲートって何?

 【質問】 キューバ海軍のふしぎ魚雷艇について教えてください.

◆D〜

 【link】

 【質問】 1979年からのエルサルバドル内戦の背景は?

 【質問】 グアテマラにおける,「上からのナショナリズム」について教えられたし.

 【質問】 グアテマラにおける「先住民白色化計画」について教えられたし.

 【質問】 エストラーダ追放〜グアテマラ内戦までの経緯は?

 【質問】 グアテマラにおける対麻薬作戦について教えられたし.

 【質問】 ハイチへ災害派遣される自衛隊の陣容を教えてください.

 【質問】 自衛隊のハイチ派遣,どうでしょう?

 【質問】 なぜハイチへ自衛隊PKOは派遣されたのですか?

 【質問】 メキシコ麻薬戦争って,どんな戦争?

 【質問】 今もパナマ運河は,第2次大戦の頃と幅は変わらないのでしょうか?


◆総記


 【link】

media@franciophonie(フランス語圏記事翻訳ブログ,休止?)

最近のコスタリカ評価についての若干の問題

「神保町系オタオタ日記」■(2012-09-18)[トンデモ]「スター・ウォーズ」の文字と呼ばれたマヤ文字

「スパイ&テロ」◆(2010/09/08)写真館C密林のゲリラ

「スパイ&テロ」◆(2010/09/09)写真館Dダメダメな国の代理戦争

●Cuba

「Jakarta Globe」◆(2013/05/29) #Cuba to Expand Public Internet Access

「SPIEGEL ONLINE」◆(2013/02/25) #Kubas Präsident Raúl #Castro wurde für fünf weitere Jahre im Amt bestätigt.
 キューバのラウル・カストロ大統領,「今期5年の任期で最後に」

「VOR」◆(2012/03/27)ローマ法王 ベネディクト16世 キューバに到着

「VOR」◆(2012/10/11)チェ・ゲバラの死亡直前の日記 ウェブサイトで公開
>下のサイトで閲覧可能.
>http://www.chebolivia.org/

「VOR」◆(2012/10/17)キューバ,「鉄のカーテン」除幕か:市民に出国の自由

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/03/28)キューバ  ローマ法王の訪問で,教会と対立してきたキューバの変化をアピール

「ワラノート」:やる夫・チェ・ゲバラが革命を起こすようです

「ワラノート」:やる夫・チェ・ゲバラが革命を起こすようです(2)

「ワラノート」:やる夫・チェ・ゲバラが革命を起こすようです(3)

「ワラノート」:やる夫・チェ・ゲバラが革命を起こすようです(4) 前編

「ワラノート」:やる夫・チェ・ゲバラが革命を起こすようです(4) 後編

『フィデル・カストロ自伝 勝利のための戦略』(フィデル・カストロ・ルス著,明石書店 (2012/9/26)

●Russian Navy in the Central America

「六課」ACS◆(2013/05/26) ロシア海軍3艦隊連合グループは9月にカリブ海へ行く

「六課」ACS◆(2013/07/03) ロシア海軍合同グループは大西洋・カリブ海遠征へ向かう

「六課」ACS◆(2013/08/04) ロシア海軍艦船はキューバのハバナを訪れた

「六課」ACS◆(2013/08/08) ロシア海軍艦船はキューバを去った

「六課」ACS◆(2013/08/27) ロシア海軍艦船はベネズエラを訪れた


 【質問】
 中米主要国の国防予算は?

 【回答】
 セントクリストファー・ネイビス,アンティグア・バーブーダ,セントルシア,セントビンセントおよびグレナディーン諸島,グレナダを除く,各国の予算推移は,以下の通り.

 なお,コスタリカには常備軍はなく,他国の国家憲兵に相当する「治安警備隊」が,国境警備やゲリラ対策に当たっているため,国防予算も見かけ上ゼロとなっている.
 治安警備隊の諸費用は,同国公安省の予算に含まれている.

 パナマでは,1989年の米軍によるパナマ侵攻の結果,それまで国防を担っていた国防軍が,1990年に解体されており,現在パナマに軍隊は存在しない.
 代わりにコスタリカとほぼ同様,「国家保安隊」が国境警備などを担当している.

出典:『Stockholm International Peace Research Institute』
※ 赤字=SIPRI推定値,青字=不確実
見やすくするため,1カ国置きに,数字を太字にした
国名 国防予算 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010
Bahamas
バハマ
Barbados
バルバドス
Belize
ベリーズ
百万ドル 8.3 8.8 9.8 9.4 11 12.7 16.8 15.9 16 19.7 16.1 13.6 15.3 15.8 17.6 19.4 22.1 25.4 28.2 40.5 31.6 30.4
百万米ドル (2009) 4.9 6.8 7.2 7 7.6 8.7 11 10.9 10.1 11.8 7.7 9.1 9.4 9.6 10.3 11 12 13.2 14.5 18.5 16.9 14.9
対GDP比(%) 1.0 1.2 1.2 1.1 1.0 1.1 1.4 1.3 1.2 1.4 0.8 0.9 0.9 0.8 0.9 0.9 1.0 1.0 1.1 1.4 1.2
Costa Rica
コスタリカ
百万コロン 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
百万米ドル (2009) 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
対GDP比(%) 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0
Cuba
キューバ
百万ペソ 1,274 1,377 1,380 1,160 300 1,259 1,303 1,640 1,695 1,876 2,004 2,083
百万米ドル (2009) 1,360 1,407 1,771 1,830 2,026 2,164 2,249
対GDP比(%)
Dominican Republic
ドミニカ
百万ペソ 375 440 529 860 1,172 1,564 1,717 1,460 1,806 2,645 2,858 3,152 4,515 5,882 6,980 5,625 6,435 8,305 8,477 9,153 11,629 11,587 12,326
百万米ドル (2009) 176 146 117 129 169 214 217 164 193 261 268 278 370 443 499 316 239 295 280 285 327 322 322
対GDP比(%) 1.1 1.0 0.9 0.7 0.8 1.0 0.9 0.9 0.8 1.0 0.9 0.9 1.2 1.4 1.5 0.9 0.7 0.8 0.7 0.7 0.7 0.7
El Salvador
エルサルバドル
百万ドル 88.8 106 111 116 111 102 94.7 97 96.4 97.5 96.3 99.8 112 109 109 106 106 109 116 122 117 138 135
百万米ドル (2009) 227 231 267 285 256 207 174 162 147 142 137 141 155 145 143 136 130 128 131 131 119 138 133
対GDP比(%) 3.2 3.4 2.3 2.2 1.9 1.5 1.2 1.0 0.9 0.9 0.8 0.8 0.9 0.8 0.8 0.7 0.7 0.6 0.6 0.6 0.5 0.7
Guatemala
グアテマラ
百万ケツァル 327 364 505 511 677 693 806 843 784 801 894 914 1,225 1,546 1,239 1,245 813 768 993 1,043 1,259 1,192 1,368
百万米ドル (2009) 332 332 326 248 298 273 287 276 231 217 226 220 279 327 242 231 140 122 149 147 157 146 161
対GDP比(%) 1.6 1.5 1.5 1.1 1.3 1.1 1.1 1.0 0.8 0.7 0.7 0.7 0.8 0.9 0.8 0.7 0.4 0.4 0.4 0.4 0.4 0.4
Haiti
ハイチ
百万グールド 10 11.6 14 16.5 17.3 22.4 24.6 41.7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
百万米ドル (2009) 6.9 7.3 7.2 7.4 6.7 6.4 5.2 6.4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
対GDP比(%) 0.1 0.1 0.1 0.1 0.1 0.1 0.1 0.1 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0
Honduras
ホンジュラス
百万レンピラ 725 907 1,261 1,291 1,304 1,410 1,485 2,210 3,886 4,102 4,657
百万米ドル (2009) 76.2 86.9 112 107 99.6 99 98.8 137 217 217 235
対GDP比(%) 0.7 0.8 1.0 0.9 0.8 0.8 0.7 0.9 1.5 1.5
Jamaica
ジャマイカ
百万ドル 180 203 299 928 744 825 1,305 1,681 2,041 1,641 1,802 1,896 2,212 2,936 3,244 3,368 3,804 5,100 6,005 10,677 9,896 8,992
百万米ドル (2009) 46 55.1 50.8 80.3 67.5 50.9 62.5 66.2 74.2 61 58.2 57.2 60.9 73.5 76.6 71 68.2 81.2 89.8 121 115 95.2
対GDP比(%) 0.5 0.6 0.5 0.9 0.7 0.5 0.6 0.7 0.7 0.5 0.5 0.5 0.5 0.6 0.6 0.5 0.5 0.6 0.7 0.9 0.9
Nicaragua
ニカラグア
百万コルドバ 161 289 236 226 238 265 266 286 278 418 391 377 502 548 530 574 662 727 809 851 948
百万米ドル (2009) 93.1 77.2 51.7 43.6 44.3 44.3 39.9 39.3 33.8 34.7 39.9 36.3 46.6 48.3 43 42.5 44.9 44.4 41.2 41.8 44.1
対GDP比(%) 4.0 2.6 2.1 1.2 1.1 0.9 0.9 0.7 0.7 0.8 0.7 0.8 0.9 0.7 0.7 0.7 0.7 0.7 0.7
Panama
パナマ
百万バルボア 103 102 73.1 78.6 78.8 95.2 101 96.6 101 118 104 112 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
百万米ドル (2009) 150 149 106 112 111 133 139 132 136 157 138 146 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
対GDP比(%) 2.1 2.1 1.3 1.2 1.1 1.2 1.2 1.1 1.1 1.2 1.0 1.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0
Trinidad and Tobago
トリニダード・トバゴ
百万ドル 116 138 161
百万米ドル (2009)
対GDP比(%) 0.1 0.4 0.5

ゆうか in FAQ BBS,2011/7/30(土) 1:5
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中米諸国の,スペインからの独立までの流れを教えられたし.

 【回答】

 現在のグアテマラ,エル・サルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,コスタ・リカの5カ国は俗に中米と呼ばれて一括りにされています.
 これらの地域は,16世紀前半にメキシコのアステカ王国を征服したエルナン・コルテスの分遣隊を主力とするスペイン軍によって征服され,その後,この地域は,グアテマラを中心として,メキシコのチアパス州南部やパナマ西端部も含まれるグアテマラ総督領となりました.
 そして,従来からこの地域に住んでいたマヤ族を中心とする先住民達を支配し続ける訳です.

 先住民は,キリスト教を核とする宗教や文化的な強制,半奴隷的処遇,それにスペイン人が齎した伝染病の脅威に曝されながら,しかし,時に柔軟さを発揮して生き抜いていく事になります.
 例えば,18世紀のチアパス高地で先住民こそがキリストと聖母マリアの守護者であり,スペイン人はユダヤ人と同様に救済の道が絶たれていると言うキリスト教解釈が普及したのもその1つの表れです.

 この豊かな創造力により,被支配階級に属した先住民達は,彼らの世界観によりスペイン人より優位に立ち,自らの存在と誇りを保ち続けます.
 そう言う意味では,この地域で作られていた玉蜀黍や馬鈴薯が欧州の食卓に齎され,時に飢饉から人々を救ったと言う事を考えると,その宗教的解釈は一種のブラックユーモアでは無いか,とも思われたりします.

 反面,マヤ系先住民共同体の有り様そのものは,スペイン支配の影響を受けて変化しました.
 政治機構の頂点にはスペイン人行政官が就くものの,その下には先住民の首長(カシーケ),その更に下には部族長等が位置しており,先住民リーダーの共同体に於ける影響力は,未だ未だ大きなものがありました.
 また,宗教的には司祭を中心としたカトリック的な教会秩序が齎されたものの,土着信仰は生き続けており,呪術師,或いは呪医,占い師と言った人々の共同体に対する影響力は保たれています.

 社会的地位の高低は,食糧生産に関わる土地所有の大小に反映され,それ以外の水源を含む土地は,共同体の構成員全員のものとされて,こうした土地所有はスペイン側も承認していました.

 19世紀に入ると,これら中南米地域では,一斉にスペインに対する独立運動が花開きます.
 これは,植民地社会に於て政治・経済的特権を独占していた本国,つまりイベリア半島生まれのスペイン人であるペニンスラールと,それに反発する植民地生まれのスペイン人であるクリオーリョの権力争いに端を発しています.

 欧州から遙か遠方に位置する中南米植民地に於いて,スペインは自らが宗主であり,支配者である証として,ペニンスラールの位置は常にクリオーリョより上位に設定しました.
 これに対して,クリオーリョは彼らも同じ「スペイン人」であると言う意識を抱いており,単に「植民地生まれ」であると言う理由だけで,本国人から差別的に扱われる事に,苛立ちを募らせていました.

 これは謂わば,18世紀後半の1775〜83年に独立戦争が起きた,北米英国13植民地の状況と同じです.
 こちらも,同じ「英国人」であるにも関わらず,本国生まれ出ないだけという理由で,本国から軽視され,重税などの圧政を強いられた13植民地の人々が,本国英国に反旗を翻して独立を獲得する為に闘った訳で,この独立戦争が中南米の独立運動に,多大な影響を齎す事になりました.

 この権力闘争を経て,本国からの独立を果たした中南米諸国ですが,結局,ペニンスラールがその階層から消滅しただけで,クリオーリョが社会の頂点にいる,つまり,被支配層である先住民や黒人が主体的な役割を演じる事は稀であり,独立達成と共に社会的地位の改善が飛躍的に為される事はありませんでした.
 とは言え,この時代では当たり前の話で,当時,最も民主的とされた米国でさえ,先住民族の絶滅には余念がありませんでしたし,黒人奴隷制も暗黙の内に承認されていたのです.
 元々の社会で300年間行っていた支配構造が,おいそれと代わるものではありません.
 従って,この独立とはあくまでも,クリオーリョのペニンスラールからの独立というだけで,先住民やその他の被差別有色人にとっての独立を意味しませんでした.

 ところで,中米地域は更に特殊な環境に置かれていました.
 グアテマラ総督領は,中南米のスペイン植民地の中でも経済的利益に乏しい植民地であり,現在のメキシコを中心としたヌエバ・セスパーニャ副王領等,周辺の巨大植民地の影響をモロに受けていました.
 また,18世紀末にイスパニョーラ島で勃発した独立革命では,宗主国フランスの白人支配層が黒人によって虐殺されたとの知らせは,中米のクリオーリョ支配層を震撼させました.
 これは,全人口の数%に過ぎない白人に支配され続けた,約90%を占める黒人奴隷が,指導者トゥーサン・ルーヴェルチュールに率いられて武装蜂起し,1804年にラテン・アメリカ最初の独立国家であり,世界初の黒人共和国であるハイチを建国した事件で,これは多くの先住民人口を抱えるグアテマラのエリート層にとって,「明日は我が身」の大事件でした.
 その為,中米のクリオーリョ・エリートは,自らの権力の保持と安全の確保に神経を尖らせ,ラテン・アメリカの中で最も保守的な,「スペインからの独立を望まない人々」になっていました.

 此の点で,19世紀初頭の中米エリートは,例え自らの血を流してでもスペインからの独立を目指した,メキシコ,ヴェネズエラ,コロンビア,アルゼンチン等の支配層とは異なっていました.
 この立場の違いが顕著になったのは,ナポレオン率いるフランス軍に支配され,ラテン・アメリカ植民地の独立要求に対して強硬な姿勢で臨めなくなったスペインが,1812年制定のカディス憲法の中で,「君主制の廃止」と「本国と植民地の地位の同等化」を明言したときのことです.
 この憲法を自分たちが推進する独立国家建設承認と受け取って,大歓迎した多くの南米エリートとは対照的に,中米エリートは,ハイチと同じ様に,被支配層の武装蜂起によって政治権力を奪われ,国家・社会が混乱するハイチ化を抑止してくれる筈の,スペイン軍の支援が望めなくなった事に対する不安が大きくなったのです.

 しかしナポレオンが失脚し,王政復古の為されたスペインが,カディス憲法の撤回を求めると,これに反発したラテン・アメリカ各地で,独立戦争の火の手が上がります.
 南米大陸では,後に「ラテン・アメリカ解放の父」と呼ばれるクリオーリョ・エリートのシモン・ボリーバルやホセ・サンマルティン等が指導する独立軍が大活躍し,ポルトガル領ブラジルを除く南米諸地域を次々に解放へと導きました.
 また,メキシコでも,クリオーリョのミゲル・イダルゴ神父を中心とする武装蜂起を切っ掛けに始まった,激しい独立戦争の結果,1821年に独立を達成する事になりました.

 ウィーン体制下での保守的な欧州列強は,ラテン・アメリカ植民地の独立を承認せず,これに圧力を掛けようとしましたが,この地域では影響力を有していなかった英国や米国が,この地域での覇権確立を目指して,新生ラテン・アメリカ諸国を支援し,欧州大陸諸国の介入を牽制した事から,これらの独立国家は国際的に承認を得る事に成功し,一方で,スペインはキューバやプエルト・リコなどを除き,広大なラテン・アメリカ植民地を手放す事になります.

 そうした中でも,グアテマラ総督領のクリオーリョ・エリート達は,困惑していました.
 彼らの多くは,未だスペインから独立する強固な意志を持たなかったからです.
 しかしながら,彼らは保身の為の政治的判断もあり,最終的にメキシコを始めとするラテン・アメリカ独立に付き従う形で,1821年に独立宣言を採択します.
 とは言え,独立戦争を行った訳でも無く,国家という存在は未だ不鮮明であり,どの様な国家になっていくのか,ビジョンを描いた訳でも無く,1822年,一端はメキシコとの併合に自ら進んで加わり,1830年に再びこの地域が結束して,中米連邦共和国を成立させるなど,紆余曲折を続けます.

 1840年になると,中米連邦共和国は各々の地域の思惑から崩壊し,グアテマラからチアパス州南部をメキシコに割譲して,それぞれの国が独立しますが,1847年に中米の中でも最も政治・経済力の高いグアテマラが共和国宣言を行うと,それに右へ倣えと言う形で,
1848年にコスタ・リカ,
1854年にニカラグア,
1859年にエル・サルバドル,
1865年にホンジュラス
が共和国宣言を行い,中米5カ国の基本的な輪郭が漸次作られていきます.

 ただ,この時代には保守主義者のリーダーシップの下,植民地時代の制度・思想・文化が根強く残存しており,未だに「国民」と言う意識は明確に育ってはいませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/28 23:11
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 パナマやキューバに,アメリカ軍基地ができるまでの経緯を教えてください.

 【回答】
 領土拡張に燃え,戦争を待ち望んでいたアメリカは1898年2月,ハバナ停泊中のアメリカ軍艦メイン号が爆発,沈没したことをきっかけ(事故か謀略かは分からないが,スペインの工作によるものと決め付けた)に同年4月スペインに対して宣戦布告,米西戦争をはじめた.
 スペインはすでにマンビー(キューバ独立主義者)との戦争で疲弊していたため,キューバに侵攻してきたアメリカ軍にまたたく間に敗北した.
 そして1898年末パリで講和条約を結びアメリカはフィリピン,プエルトリコを手に入れる(その後ハワイも併合した).
 アメリカはキューバを軍政下においたものの,表立った領有はできなかった.
 だが1901年のキューバ憲法にキューバ国政にアメリカが干渉できる権利を認めさせる条項を盛りこむことを押しつけた(プラット修正条項).
 そのため1902年,キューバ共和国として独立はしたものの,事実上アメリカの属国であった.
 結局はスペインからアメリカに支配が移り変わったにすぎなかったのである.

 スペインを追い払い太平洋での覇権を握ったアメリカは,太平洋への通路を欲した.
 まずカリブ海,中米の押さえとして1903年キューバ東部のグアンタナモ湾に海軍基地を建設.
 そして同年にコロンビア領であったパナマを独立させ属領化におきパナマ運河建設を始める.
 1914年にパナマ運河が開通し,ますますカリブ海,中米諸国への覇権が強まった.

追加@海 in 軍事板


◆A-C


 【質問】
 2ch.軍事板において,たまに「コスタリカが最強」とかいうレスを見受けるのですが,何故なのでしょう?
 多分何かのネタだと思うんですが,元ネタが解らないので教えなさい.

 【回答】
 「コスタリカは軍隊のない平和な国だ」という,いわゆる「平和国家コスタリカ」なる迷妄をおちょくり笑うためのネタ.
 「高度国防国家」コスタリカなるものを創造して空想遊びをしている.

 実際のコスタリカは,隣国ニカラグアの軍事予算の倍,国防予算を費やしている.
 中米でも軍事強国の一つと言っても過言ではない.
 2002年の7月には,コスタリカ領海内にアメリカ軍のコーストガードと海軍艦艇38隻を招き入れ,麻薬取り締まりを実施するなどしている.

軍事板,2002/11/28
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 コスタリカの武装警備隊って実戦経験あるんですか?

 【回答】
 あります.

 1953年にCosta Ricaの大統領に,中道的な社会主義者のホセ・フィゲレス・フェレルが選出されました.
 で,それにいちゃもんをつけたのが,隣国Nicaraguaの大統領,アナスタシオ・ソモサで,彼は選挙でフェレルを応援した,カリブ海諸国からぼ政治亡命者で構成された「カリブの師団」のメンバーがフェレルの示唆で,自分を暗殺する陰謀に加担していると主張,新大統領の選出に不満を持っていたCosta Ricaの前大統領ラファエル・カルデロン・グアルディアを支援.
 カルデロンは叛徒を集め,NicaraguaからCostaRica北部の国境の町,ビラ・ケサダを1955年1月11日に占領します.

 しかし,フェレルは米州機構に調査を要請し,グアルディアの後ろ盾がNicaraguaであることが判明し,ソモサは結局,手を引きました.
 また,米国はCosta Ricaを武器援助などで支援し,武装警備隊は民衆の支援の下,叛徒を蹴散らして,Nicaraguaに彼等を追放しました.

 結局,Nicaraguaは折れ,両国で国境線を警備することで合意し,叛乱は終息しています.

 また,このほか1980年代のNicaragua内戦では,国内の締め付けなどに従事しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/29(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1948年のコスタリカ内戦に至るまでの経緯を教えられたし.

 【回答】
 カリブ海の島々を発見したコロンブスの後に,この地域にやってきたスペイン人達は,この地に,「豊かな海岸」を意味するCosta Ricaと言う名称を付けました.
 確かに,スペイン人達は栄華を極め,16世紀半ばには永住の基盤を固めましたが,この地に40万人いた原住民は激減し,17世紀初頭には僅か1万人程度になっています.

 この地域は,スペイン植民地時代,メキシコを中心とするヌエバ・イスパーニャ副王国のグアテマラ総督領に組み込まれていました.
 コスタリカは,グアテマラを政治経済の中心として,現在のメキシコ南部であるチアバス州南部,エルサルバドル,ニカラグア,ホンジュラス,パナマの西端部と共に,1つの植民地を形成しており,コスタリカはその中でも特に辺境に位置する小さな州でしか有りませんでした.
 そんな地域にコーヒーが伝えられたのは,植民地時代末期の19世紀初頭のことで,この地域にアラビカ・コーヒーが伝えられて,最初の実験的な栽培が行われる様になります.

 当初のコーヒーは貴族が嗜む「エキゾチックな飲物」とか,薬,観葉植物としての位置づけでした.
 グアテマラやエルサルバドルは,インディゴやコチニールと言った自然染料で利益を上げており,こんな新奇な作物に関心を払いませんでしたが,コスタリカには煙草以外,めぼしい輸出作物が無く,近隣諸国に対抗できるような経済的基盤が無かったので,この新奇な作物に自らの地域の発展を委ねることにしたわけです.

 1821年,メキシコやグランコロンビア…これは現在のヴェネズエラ,コロンビア,エクアドル,パナマを含む大国でした…が相次いで独立を宣言すると,グアテマラ総督領内の各地域も独立する事にしますが,これを機に,「辺境の中の辺境」であったコスタリカは,経済的自立の為にコーヒー生産に力を注ぎ,独立の年には早くもサンホセ市が住人に一定の土地とコーヒー苗を分配する開発政策を打ち出し,その10年後には「未開拓地を開拓して5年間コーヒーを栽培した者にその土地の所有権を与える」とした制度を施行しました.
 これは財源の乏しいサンホセ市が,住民自らの手で土地を開拓する様に仕向ける現実的な政策であり,こうした制度の成功により,サンホセはコスタリカの他の地域よりも発展が早く,1823年に首都の座を射止める事になります.

 普通,スペイン植民地を経て独立した地域は,大土地所有制を柱とした大地主階級が,国土の殆どを独占すると言う発展形態を採るのが多いのですが,コスタリカは,こうした施策もあって,中米の中では例外的に小土地所有農民が出現する様になりました.
 逆に言えばこれは,ブラジルの様に大土地所有制の下で奴隷を使役し,大規模コーヒー・プランテーションが展開しづらい状況を作り上げた訳です.

 ところで,1823年,中米の旧グアテマラ総督領だった各国は,隣国である大国メキシコやグランコロンビアに対抗すべく,中央アメリカ連邦共和国を結成しました.
 この連邦は結果的に1839年に崩壊しますが,コスタリカはこうした混乱をも乗り切り,逆にコーヒーを基軸にした国土開発と経済的自立を推進していきました.
 土地の開拓に伴い,コーヒー生産業はサンホセ市を含む標高800〜1,500mの中央盆地全体へと拡大していき,1832年には早くも近隣諸国に先駆けてコーヒーをチリに輸出すると共に,直ぐに英国へも輸出を開始しました.
 連邦が解体された1840年には,コーヒーの輸出量は800トンに達して,コーヒー産業は完全に軌道に乗り始め,1848年に,ホセ=マリア・カストロ大統領の下,独立国家への道を歩み始めました.
 1848年のコーヒー輸出量は1万トンに達し,積み出し港のプンタレナス港も大変賑わいました.

 コスタリカが賢明だったのは,距離的に近いにも関わらず,米国への輸出政策を採らずに,品質を重視する欧州市場へシフトした事でした.
 米国に輸出するには,規模が必要であり,それには大規模プランテーションや奴隷労働などが必要になります.
 しかし,既に先行者としてブラジルが地歩を築きつつあり,それに対抗しなければなりませんが,低コストで大量生産するブラジルに対抗するにはこの国は貧弱でした.
 そこで,有望ではありますが,量が必要な米国市場は避け,米国に比べると扱い量は少ないものの,高品質の豆であれば高価に購入して貰える欧州市場を,輸出先に定めました.

 その方針は,当時,他の中米諸国では隅々まで行き渡らなかった水洗式の精製を,早くから導入した事にも表われています.
 その狙い通り,欧州のクオリティ・マーケットでは,コスタリカ産のコーヒーが高い評価を受ける事になりました.

 こうして,中央盆地は英国系資本家から資本の供給を得て,欧州系白人やメスティーソが支配するようになり,貧農や黒人,そして原住民は,奥地へ追われていきます.
 その跡を占拠した白人は,益々欧州嗜好の都市を作り上げていった訳です.
 そんな訳で,19世紀末以降,実際には先住民や黒人,混血層が存在するにも関わらず,「コスタリカは白人の国である」という誤った認識が浸透していきました.

 また,コーヒー生産については,小規模農園主や零細農が多数形成されていますが,これは,高品質の豆を生産するのに適した環境が,中央盆地に限定された事から,農地の拡大は必ずしも利益になりませんでした.
 代わって利益を上げたのは,最重要過程である精製過程を牛耳る大商人達であり,彼らが,この国の権力を左右するエリート層に繋がっていきました.
 彼らは,1838年にスペインのカタルーニャ地方から移民してきた人々が最初で,「ベネフィシオ」と呼ばれる精製所がこうした人々によって多数建設され,彼らがコーヒー産業に大きな力を持つ様になった訳です.

 1849年には,英国とコーヒーの定期的な取引に関する協定を結びますが,その生産量は限られている事から,その有効利用について様々な工夫や技術革新を行ったり導入したりして行き,1860年になると,その蓄積資本を背景にコーヒー・エリートと呼ばれる大商人達が,中米で初めての銀行を設立して,コーヒー金融をも支配し,他の農業生産にも影響を及ぼす様になります.
 こうして,コスタリカは「コーヒーの国」へと変わっていったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/30 23:34

 さて,1870年代から1940年代に至るまで,コスタリカは「近代化の父」と呼ばれたトマス・グアルディア大統領の下で「自由主義」時代を謳歌しました.
 尤も,その「自由主義」と言うのはあくまでもお題目であり,屡々独裁的な強権を発動したりしていますが….

 コスタリカのエリート階層は,国家の指導の下で,欧州諸国をモデルとした国民国家を形成する事に専心していました.
 その国家経済の基盤こそがコーヒーであり,英国などから外国資本を積極的に導入した国家が,この産業の発展を後押ししていきます.
 こうして,19世紀末にはコーヒーはこの国の全輸出額の90%を占める様になりました.

 この時代には,植民地時代から維持されていた教会所領,農民共有地,先住民共同体が解体されてその私有化が進み,同時に未開地も急速に解体され,中央盆地の東西周辺部にはコーヒー生産地帯が拡大していきました.
 この時期の政府のスローガンは,「住まわせる事は,統治する事である」と言うもので,未開地を格安で市民や外国人に提供し,住民自らがその地を開墾,整備する様に導いていきました.

 こうして誕生した新たな小土地所有者と,土地拡大を狙う大土地所有者の間で,土地を巡る争いも起りましたが,政府は小土地所有者の取り込みを狙い,主に大土地所有者を中央盆地の外部に誘導する事で問題の解決に積極的に取り組んでいきました.
 この為,中央盆地内では小農や零細農を中心としたコーヒー生産システムが確立されていきました.

 屡々この様な国では,権力の集中が発生し,独裁政権が樹立されて,屡々その独裁政権の一族が,国家の収益を私物化すると言う経過を辿りますが,コスタリカは,そうした事を許しませんでした.
 1885年,大統領に就任したベルナルド・ソトは,コーヒー・エリート層を後ろ盾に政治権力を掌握していましたが,段々と政治腐敗が顕著になっていきます.
 そして,その政治腐敗は,都市中間層を中心とする市民から激しい反発を受け,1889年,遂にサンホセ市で約7,000人の市民が大統領官邸を囲んで抗議,また,他の主要都市でも数千の市民が蜂起した結果,ソトは退陣を余儀なくされました.

 これによって,コーヒー・エリート層の政治権力が完全に弱体化した訳ではありませんが,少なくとも彼らは市民運動を恐れるようになり,例え形式的でも民主制を尊重する様になりました.
 1889年に制定された成年男子間接選挙法も,不正選挙の一掃には至りませんでしたが,それでも,市民の政治参加意識は高まりました.
 但しこれらの意識は,都市の市民階層に広まったくらいで,民族的な少数派に対する社会的抑圧は,寧ろ強化される傾向にありました.

 ところで19世紀末期は,世界各国で鉄道敷設がブームになりました.
 コスタリカでも,コーヒー生産地帯を中心に国民統合と発展のシンボルとして,鉄道や道路,特に鉄道が整備され始めますが,グアルディア大統領の時代に始まった鉄道建設は,資金不足,政治家や官僚による資金横領,技術不足等か重なって遅々として進みませんでした.
 この間,肉体労働者として,カリブ海に住んでいたジャマイカ人などのカリブ系黒人や中国人,或いは北部イタリアで食い詰めたイタリア人等が次々に入国し,コスタリカに定住する事になります.
 とは言え,白人の天下であるコスタリカで,黒人や中国人が生きていくのは大変でした.

 それはさておき,鉄道建設事業は結局,途中で暗礁に乗り上げてしまいます.
 その収拾に動いたのが,米国の「鉄道王」,マイナー・キースと言う人物です.
 キースは,1887年に鉄道敷設業者の伯父から事業を引継ぎ,グアテマラからパナマ地峡までを1つに繋ぐと言う壮大な夢を抱いていました.
 キースは資金を調達して,コスタリカの鉄道工事継続を可能にすると共に,それと引き替えに,鉄道完成後から99年間の鉄道運営権と,鉄道沿いの3,200平方キロメートルの免税地の所有権を,政府から与えられました.

 1890年,コスタリカ最初の鉄道が遂に完成し,サンホセ市と大西洋側のリモン港が結ばれる様になります.
 こうして,キースは鉄道というツールを通じて,この国に深くコミットするようになり,19世紀のコスタリカを代表する政治家であったホセ=マリア・カストロ元大統領の愛嬢と結婚して,政界との人脈も築いていき,更には鉄道網をコロンビアにまで張り巡らせていく様になりました.
 因みに,キースの事を人々は,「王冠無き中米の王」と呼んでいます.

 更に1899年になると,キースは米国の大手果物輸入業者であるボストン・フルーツ社と共に,ユナイテッド・フルーツ社(現在ではチキータ・ブランズ・インターナショナル社)を設立します.
 この会社は中米地域に於いて,バナナの生産・流通業の独占を通じ,中米やカリブ海地域の政治経済を牛耳っていく様になりましたが,その原点はこのコスタリカにある訳です.

 ユナイテッド・フルーツ社は,屡々現地の独裁者や寡頭政治家と結び,対外膨張策を進める米国政府の支援を受けながら,無数の土地無し農民が暮らす中米やカリブ地域に,その国の政府の関与が不可能な,排他的な「飛び地」として広大なバナナ・プランテーションを構え,その国のヒト,モノ,カネの流通経路を全て手中にし,農民から莫大な利益を吸い上げる存在となり,ラテンアメリカ諸国への米国の帝国主義的進出の象徴として,「バナナ共和国」と揶揄される様になります.
 コスタリカに於いても,結果的にはコーヒー産業の発展と拡大の為に整備された鉄道が,米国資本のこの国への進出ルートとなり,バナナを基盤としたモノカルチャー・システムを生み出しました.

 とは言え,コスタリカ政府は,周辺諸国より比較的穏健な政府の下,米国の政府や企業と友好関係を維持しつつ,小農中心のコーヒー産業を管理していました.
 また,経済力が付いてきた米国との関係が深まるにつれ,当初,欧州市場に的を絞っていた輸出先も,ブラジルと棲み分けをしつつ,徐々に米国向けの輸出を拡大していく事になります.
 とは言え,近隣諸国が人工染料の開発により,自然染料の輸出で食べられなくなってコーヒー生産へとシフトしてきた事から,コスタリカは農産物の多様化計画を進め,20世紀初頭には全輸出額に対するコーヒーの比率は60%に下がってきています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/01 21:21

 さて,20世紀に入ってから,コスタリカは益々米国や欧州先進国への依存を強めていきます.
 一方で,社会的には欧州で発展していた社会主義の影響を受けた知識階級が育ち,第1次大戦後には共和主義,反ファシズム,平和主義を基盤とし,北米への対抗的アメリカニズムを掲げる中米で初めての本格的な学術雑誌である,『レペルトリオ・アメリカーノ』が創刊されました.
 この雑誌は,コスタリカに留まらず,中米地域全体の知識人が自らの知性を磨き合う重要な学術的空間を提供する事になります.

 しかし,コスタリカの知識人達は,反ファシズムを標榜しながら,自国が他の中米諸国と異なり,「白人共和国」であると言うナショナリズムに毒されており,白人以外の住民,即ち,先住民,黒人,中国人などの有色人種が人種や民族差別に苦しめられる事になりました.
 更に,こうした言説を通じて,コスタリカの国民は全員白人であると言う誤ったイメージが国内外に定着していきました.

 また,こうした知識人達は,往々にして理想主義,啓蒙主義的な人物であることが多く,「粗野で野蛮な」コスタリカの大衆文化を敵視し,その一掃を目指します.
 彼らが重視したのは教育でした.

 1886年以来,コスタリカは人的資源を重視しており,無料の初等義務教育制度が施行されていた為,周辺諸国に比較しても識字率が比較的高い方でしたが,更に彼ら「新知識人」の働きかけもあって,更に教育に力が入れられ,1920年代に於けるコスタリカの9歳以上の人口に於ける識字率は,都市部で87%,農村部で58%に達し,これはhラテンアメリカ諸国の中で際立って高くなり,地下資源に乏しい小国のコスタリカにとって,周辺諸国や大国と渡り合う強力な武器にもなりました.

 こうした繁栄の影で,1920年代はコスタリカのコーヒー産業にとって問題が生じていました.
 19世紀末の「コーヒー・ブーム」によるコーヒーノキの老木化や,農地養分の枯渇による生産量の低下,更にその問題を克服する為の技術的進歩の停滞があり,これに加えて,米国発の大恐慌に直面する事になりました.

 1930年代初頭のコスタリカは,世界恐慌に端を発する経済不況と社会不安で混乱する事になります.
 失業者は激増し,それを救済する政府の政策も実を結びませんでした.
 他の国々と同様に,こうした政府の失策に人々は不満を募らせ,1931年には多くの労働者の支持を得たコスタリカ共産党や,反共的な改革派キリスト教徒を中心とする国民共和党が結成され,既存の自由主義体制を大きく揺るがす事になりました.
 特に,共産主義者に扇動された都市労働者やバナナ労働者は,各地でデモやストライキを繰り返し,コーヒー農業労働者を刺激しています.
 とは言え,この国のコーヒー農民は小農や零細農が多く,比較的穏健で,コロンビアの様なコーヒー農民の激しい運動は殆ど発生していません.

 因みに,この頃のコスタリカの最大顧客は米国となり,19世紀末には主流を占めていた自国精製業者の多くも,自国民から外国人に取って代わられています.
 1850年には精製業者の外国人割合は5%足らずでしたが,1900年には20%に,1935年になると全体の3割を占める33%にまで上昇していました.
 彼ら外国人は,自国民の精製業者と異なり,小農の生産したコーヒーを出来るだけ低価格で購入しようと画策する様になり,結果として経営を放棄したコーヒー農園を買収して,1930年代半ばにはコスタリカのコーヒー生産の約15%がドイツ人を中心とした外国人の経営する農園で為される様になっていきます.
 かくして,自国民の精製業者も,自らの利益を確保する為,外国人と同じ様に,小農のコーヒーを安く買い叩く様になりました.

 この状況に不満を抱いたコスタリカの小・零細農は,コーヒー生産者としての自らの権利と生活を守る為,1932年に,コスタリカ・コーヒー生産者連合(FNCCR)という組合を結成します.
 この動きを見た政府は,生産者組合と精製業者・金融業者と言ったコーヒー・エリートが衝突して問題が拗れる事を恐れ,1933年に公的な仲介組織としてコスタリカ・コーヒー協会(ICAFE)を設立しました.
 この時の政府は,失業者救済の為の公共建設事業に以前の3倍の資金を投入したり,1935年には農業労働者の最低賃金を定めるなど,不況による社会不安や混乱の収拾を行っていましたので,この組織の設立もその一環という位置づけでした.

 ICAFEは必ずしも,組合側の主張を政治に反映した訳ではないのですが,他の中米諸国と違って,右派の軍事政権による,こうした動きの破壊を行わなかったところが,特異な状況だったりします.

 こうした動きが実を結びかけた1939年,第2次世界大戦が勃発すると,欧州諸国への輸出が止まってしまいます.
 米国への依存が高まっていたとは言え,欧州諸国への輸出は未だ全輸出品の半分を占めていた為,その穴埋めの為には,益々米国への依存を強める必要がありました.

 経済不安が渦巻く中,1940年の大統領選挙では,得票率80%を得て国民共和党のラファエル・カルデロンが当選します.
 国民共和党と言えば,その地盤は,反共的な改革派キリスト教徒でしたが,カルデロン大統領は高得票率を背景に,共産党が提案していた改革案を受入れ,社会福祉・社会保障制度の充実や労働法の制定に尽力しました.

 当然,こうした動きは,特権的な立場にあった商業エリートから猛反発を受ける事になりましたが,1943年になると,カルデロン大統領は,社会改革派として知られたサナブリア大司教の仲介により,カトリック教徒を基盤とする国民共和党と,共産党との歴史的な政治同盟が結ばれて,カルデロン政権の安定を図る事になります.
 この「カルデロコムニスモ」と呼ばれた政治に対し,党の内外で,政治改革を標榜しながらも共産党との連合に反対した勢力が大反発を起こしました.

 その中でも,政治家のホセ・フィゲーレスを中心に1945年に結成された社会民主党は,有力な反対勢力となり,1948年の大統領選挙は,2期目を狙うカルデロン大統領と,社会民主党が推薦するジャーナリストのオティリオ・ウラテの一騎打ちとなります.
 両陣営入り乱れて行った不正を駆使した選挙の結果,ウラテが勝利しますが,国会議員選挙ではカルデロン派が多数を占め,議会は不正選挙を理由に大統領選挙の無効を宣言した為,一挙に国内の緊張が高まる事になりました.

 フィゲーレスは武装闘争を準備し,政府に対して武装蜂起を行い,約5週間に及ぶ内戦を行いました.
 この内戦では4,000人以上が戦死する事態となり,国内は混乱しました.
 結局,周辺諸国の仲介により,カルデロンや共産党支持者の財産や生命の尊重,社会改革の継続を条件に政府側が降伏して決着しました.

 しかし,内戦に勝利したフィゲーレスは,この公約を実行しませんでした.
 共産党を非合法化し,カルデロン派を公職から排斥した上,数千名を国外に追放し,更に自分が大統領に据えたウラテをも権力の座から追放し,フィゲーレスは実質的な大統領として暫定政権を切り盛りし,1949年に新憲法が発布されました.
 以後,現在に至るまで「第2共和制」が開始され,自身2度大統領に選出され,1951年以降は社会民主党員を中核にした国民解放党を率いて,1990年に死ぬまでコスタリカの政界に多大な影響力を保持し続けました.

 因みに1949年憲法では,カルデロン時代に制度化された大統領の強大な行政権を制限し,地方自治を促進すると共に,銀行の国有化,外国企業への税率引き上げを実施して国家財政を安定させると共に,女性やアフリカ系住人の選挙権を認め,腐敗選挙を取り締まる選挙最高裁判所を設置するなど,比較的進歩的な内容を含んではいます.

 良く,人々の口の端に上るのが,「コスタリカは軍隊を持たない」と言う点ですが,これは米国との反共軍事同盟の存在を背景に,常備軍を廃止した所為です.
 常備軍の廃止については,もう2つの側面があります.
 1つは,フィゲーレス自身が武装蜂起による権力掌握をした為,その血生臭いイメージを払拭しようとした為.
 もう1つは,自身がその様な形で権力を奪取した事から,暴力装置を背景にした非合法な軍の権力奪取,即ち軍事クーデタを阻止する事にあった訳です.

 何れにしても,平和な日本から物事の一面を見ていると,本質を見誤ると言う好例ですな.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/02 23:12


 【質問】
 1983年にコスタリカが,永世中立国宣言を出したのは何故か?

 【回答】
 フィゲーレスによるカルデロン派の弾圧を経て,表向きコスタリカの政治と社会は安定を取り戻し,1950年代から70年代にかけて,コスタリカの中間層は黄金時代を迎えました.
 この時期の経済成長率は年平均6.6%に達し,経済の多様化が進んで,中間層は周辺諸国に比べて高い生活水準と充実した公共サービスを享受する事が出来ました.
 また,1963年にはその2年前に周辺諸国が開始した中米共同市場構想に加わり,域内向けの繊維産業を中心とした工業化も進展しました.

 1950年代まで輸出総額の80〜90%を占めていたコーヒーとバナナの割合は,1960年代になると減少し,これに伴いコスタリカの産業別構成比は,1次産業が1950年の約60%から25.2%,2000年になると11.6%にまで下がります.
 反対に2次産業の割合は,1950年の11%から1990年代前半以降は50%を越えていました.
 1次産業の比率が下がったとは言え,農園の狭小さを克服する為の生産技術の向上やコーヒーの品種改良が進み,耕地面積に対するコーヒーの生産性は3倍に上昇しました.
 従って,品質を維持しながらも生産量自体は増加し,主要消費国では依然として高値で取引されています.

 しかし,この中間層の黄金時代は,貧農や賃金労働者の生活は向上せず,1963年の段階で農村で土地の所有権を持たない不法定住者が14,000家族にも達しています.
 更に工業化や都市化の進展は,深刻な環境問題も引き起こし,人々の健康に対する悪影響も危惧されていました.

 この為,1960年代に入ると現状に不満を募らせた学生の一部が,政府やユナイテッド・フルーツ社等の多国籍企業に対する反対運動を展開するようになり,その影響を受けて,1961年には中小規模のコーヒー農民も,精製業者のコーヒーエリートに対する待遇改善運動を強化していきます.
 尤も,コーヒー農民は組合運動の経験が豊富で,バナナ労働者の様に過激化する事はありませんでした.

 1976〜77年には,ブラジルの霜害によりコーヒーの国際価格が急騰し,コスタリカもその恩恵を被ります.
 順調な経済の後押しのお陰で,社会的指標も上昇し,社会保障制度の充実を背景に平均寿命は70歳,乳児死亡率は2%,10歳以上の識字率は90%,失業率は5%とラテンアメリカ諸国の中でも優等生になっていきました.
 ところが1979年には,第2次オイルショックでコーヒー価格が急落した上,ニカラグア革命,グアテマラやエルサルバドルでの内戦などが生じて,社会が不安定になり,1980年になるとコスタリカ経済そのものも崩壊の兆しを見せ始めました.

 1980年代のコスタリカ北端部は,革命によって成立したニカラグアのサンディニスタ政権を攻撃する為,米国に後押しされた反革命軍事勢力(コントラ)の根拠地の1つとなりました.
 つまり,下手をすれば,コスタリカが米ソ冷戦に巻き込まれ,戦場と化す危険性を持っていたのです.
 この為,コスタリカのルイス・モンヘ大統領が採った奇策が,1983年の永世中立国宣言でした.
 この宣言により,コスタリカ政府はコントラ軍に対する公式的な協力をしていないと,世界にアピールする一方で, コスタリカに正式な軍事基地を置こうと画策していた,米国のレーガン政権の思惑を,巧妙に逸らす事に成功しました.

 この時,モンヘ政権はコスタリカ政界の重鎮であるフィゲーレス等と組み,実際には政治戦略としての意味合いの強い中立政策を,「コスタリカ社会特有の平和主義」の結晶であると言うイメージに昇華させ,これを国際社会へと定着させる事に成功しています.
 この誇張されたユートピア・イメージを鵜呑みにしたのが,特に日本のマスメディアで,彼らはコスタリカという国を,「憲法によって軍隊を持たない」国,「平和を希求し,永世中立を宣言した」国であると宣伝し,これが日本の社会に受け入れられた訳です.

 …が,実際には,こうしたドロドロした世界の産物であったりするわけです.

 この1983年と言う年は,コスタリカの経済にとっても大きな年でした.
 この国を発祥の地とし,中米諸国の政治経済に大きな影響を与え,自らの利益と対立する政権が出現すると,それを覆す非公然活動に支援を惜しまなかったユナイテッド・フルーツ社が,沿岸部で操業を停止したと言う出来事があったからです.
 1985年に,ユナイテッド・フルーツ社はチキータ・ブランズ・インターナショナル社へと改組されていきますが,1982年のコスタリカ経済は,1979年の時点で国内総生産が10%も落込み,インフレ率も年間90%と悪化し,失業率は9%に上昇して,貧困ラインを下回る家庭が48%に増えるなど,経済危機に見舞われます.

 これに対して,コスタリカ政府が採ったのは,新たな産業の誘致であり,コーヒーやバナナに代わって,繊維産業の他,それを使った布地,パイナップル,観葉植物,海産物などが生産額を伸ばしました.
 また,1990年代半ばにはインテルなどのハイテク産業が進出して,この地に工場を建設し,益々,コーヒーやバナナの比率は下がっていきます.
 因みに,2000年にインテルのコスタリカに於ける事業収益は9億ドルの営業黒字を記録しましたが,殆どは海外に流出し,国内に残ったのは2億ドルでした.
 それでも,この数字は同年のコーヒー輸出額の74%に相当します.

 2000〜2002年になると,コスタリカの全輸出額の内,工業製品の割合は77.1%,農産品が21.1%,畜産・水産品1.8%で,これに伴い,産業構造も,1次産業は約10%,2次産業が約60%,観光などの3次産業が約30%になっています.
 観光産業が増えたのは,国として観光業の発展に力を入れ,欧州のエコツーリストの受入を狙っているからで,1988年頃に年平均10万ヘクタールに上っていた森林破壊を止め,1990年代を通じて森林の回復に努めた結果,2001年までには国土の半分が森林で占められ,2003年には国土の4分の1が国定公園に指定されています.
 余談はさておき,農産品の内,コーヒーの割合は3.1%に過ぎず,バナナの9.1%に比べれば相当低いのですが,それでもスペシャリティ・コーヒーとしてのコスタリカの地位は厳然たるものがあります.

 そう言う意味では周辺諸国とは違って,強かな発展を遂げてきた国と言えるでしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/03 22:32


◆Cuba


 【質問】
 キューバ革命について分かりやすく教えて下さい.お願いいたします.

 【回答】
 1953年7月26日,Fulgencio Batistay Zaldvarを打倒するために,Cuba国民の意識を煽ろうと,Fidel Castroが,
200名の若者と共に,サンチャゴのモンカダ兵営を襲撃しました.
 これは武器の入手などの問題によって失敗に終わり,Fidel Castroたちは逃げ延びますが,数ヶ月の潜伏の後,自首し,裁判の結果,15年の禁固刑を喰らいます.
 この時にFidel Castroが行った自己弁護の抗弁がCuba国民の心を打ち,彼は若者の間で英雄となりました.

 それから11ヶ月後の1955年5月,政治犯を対象とする一般大赦で,Fidel Castroは監獄から解放されます.
 彼等は直ちにMexicoに向い,そこでFulgencio Batistay Zaldvarの打倒計画を練ります.
 今回は武器をきちんと調達し,1956年,81名の軍勢を率いたFidel Castroは,武器弾薬を積んだヨットでCubaに帰還.
 彼等は,多くが捕縛されたり殺害されたりしますが,残党はオリエンテ州のシエラ・マエストロ山脈に逃れ,その山岳地帯から,2年の間,ゲリラ戦を展開します.
 勢力はいや増し,軍や警察も手出しできず,Fidel Castroの部隊は数百人の勢力に膨れあがりました.

 1958年秋,彼はFulgencio Batistay Zaldvarへの全面戦争を宣言し,山岳から降りて,先ず,ラスビリャス州の州都サンタクララを12月31日に制圧,Fulgencio Batistay Zaldvarは,政府が一切自分を支援しなくなったことに気づき,1959年1月1日に政府を3人の軍事評議会に委任し,不正利得を携えてDominicaに家族と共に亡命.1月3日,Fidel Castroは自分の配下の混成部隊を率いて,ハバナに入城し,臨時政府を樹立しました.

世界史板

 【関連リンク】
「ワラノート」:やる夫・チェ・ゲバラが革命を起こすようです


 【質問】
 キューバ革命のことについて調べてるんですが,あれはプロレタリア革命なんでしょうか?
 それとも,民族に主観をおいた民族革命なんでしょうか?
 いくつか本をあさってみたんですが,
片や「はじめから社会主義を目指してたわけじゃない.それどころか反共」という趣旨のことが載ってたり,
片や「最初から労働者階級のための革命だったんだ」ということが載ってたり.
 それに,カストロ自身の発言も二転三転しててよく分からんのです・・・・

 【回答】
 基本は,アメリカの支配下にあったキューバのバチスタ政権を倒して,真の民族自決(キューバは当時,米国の属国状態)を目指そうとしていました.
 で,政権打倒が成功したら,親米路線になろうとしたりするのですが,米国の方から共産主義者認定をされてしまって経済封鎖を掛けたので,仕方なしに,敵の敵は味方という格言通り,ソ連に擦寄らざるを得ないわけで….
ここらへん,ヴェトナムとか,エジプトなんかも同じような歩みをしています.

眠い人◆gQikaJHtf2

 個人的には共産革命というよりは「合衆国の南アメリカコントロールへの対抗」に近いとは思っていますが.どちらかというと民族主義的革命に近いと思いますが,汎南アメリカ思想的なものも見えるので,微妙なところですね.


 【質問】
 キューバ革命はなぜ成功したの?
 というかアメリカは何をやっていたのですか?
 キューバ国内にグァンタナモに米軍の基地というものがありながら,なぜ成功したのですか?
 米軍の支援はなかったのですか?
 傍観していただけ?
 客観的に見たら,いくら当時の政権が腐敗していても,成功するなんてありえないと思うのですが.

 【回答】
 米国は基本的に傍観していただけ.

 1957年当時既に民心は離れており,Fidel Castroの方に人気が集まっていた.
 これに介入する事は,1956年に行ったスエズ動乱に対し,米国が英仏を批判した事に対する自己正当性を否定する事に繋がる行為だった為,積極的な介入を躊躇わせる原因となった.

 また,軍事介入を行う事は,キューバをソ連に押しやるだけと言う判断も働いた.
 そればかりではなく,Fidel Castroを当初は社会主義ではなく民族主義者と見ていた為,介入は第三世界の米国への支持失わせる原因となると言う判断が働いた.
 唯でさえ,この時期,米国の威信が落ちている状況で,これ以上の厄介は避けたかったのもある.

 序でに,軍もFulgencio Batista y Zaldivarを見限っていたと言うのもある訳で.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 エルネスト・ゲバラは何をした人なんですか?

 【回答】
 ゲバラ【Ernesto Che Guevara Lynch】(Cheチェは愛称) 中南米の革命家.(1928〜1967)
 Argentinaのロサリオ市に生れ,1947年にブエノスアイレス医科大学に入学.在学中(1951〜52)Chile,Peru,Ecuadorなど南米大陸をバイクで旅行.1953年医学博士となる.

 当時,Argentinaを支配していた,Juan Domingo Pernの独裁を逃れて南米を渡り歩き,Guatemala革命の失敗を目の当たりに見る.
 1954年,Mexicoに渡り,1955年にFidel Castroと出会い,翌年Grandma号でCubaに赴き革命に参加.
 第二部隊の指揮官として,ゲリラ戦を指導し,革命成就に大きな影響を与えた.

 1959年,革命政権の下で国立銀行総裁.
 1961年,工業相に就任.
 1962年,Cuba統一革命組織幹部会メンバーを歴任し,外交活動でも活躍.
 1965年,Cubaを去り,各地のゲリラ勢力を支援.
 1967年,Boliviaでゲリラの指揮中,政府軍に暗殺される.

 著書に,ゲリラ戦,革命戦争の旅,ゲバラ日記.

世界史板

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 キューバ革命は,コーヒー市場にどんな影響を与えたのか?

 【回答】
 1945年8月,第2次大戦が終結して世界は冷戦の時代に入りました.
 大戦により一旦下落した米国人1人当りのコーヒー消費量は,1946年には1900年時点の1.5倍に達する19.8ポンドとなり,1人が1日に2〜3杯のコーヒーを飲んでいる計算になります.
 しかし,1946年はコーヒーの市場価格が上がり始め,1947年には戦時中の4倍近い1ポンド50セントに達しました.
 これは,ブラジルのコーヒー貯蔵量不足や病害虫による被害で,米国へのアラビカ・コーヒーの輸入が激減したのが原因です.
 この為,窮地に陥った大手コーヒー業者は,「レギュラー・コーヒー」と言う商品を作り出します.
 この商品は,アラビカ種に代わって,安く品質の低いロブスタ種を混ぜた物ですが,安いロブスタ種を原料の50%以上使用したインスタント・コーヒーも主力に躍り出ます.
 更に,ロブスタ種を使用する事も多いエスプレッソを流行させたりしました.

 このインスタント・コーヒーは,第1次大戦頃から米国で生産されていたのですが,第2次大戦後からブームになっていきます.
 これを牽引したのが前述のネスレ社で,この会社は「ネスカフェ」ブランドのインスタント・コーヒーを柱に利益を上げ,1947年に粉末スープで有名なマギー社を吸収合併して総合食品業者へと成長を遂げていきました.
 また,インスタント・コーヒーとレギュラー・コーヒーの成長,更に1960年代にロブスタ種を大量に生産するアフリカ諸国が独立し,かつては「取引する価値なし」と言われたロブスタ種がニューヨーク・コーヒー取引所で商品として扱われる様になっていきました.

 ところで,テレビが家庭に普及すると,資金の潤沢な業者は次々に新しいメディアのスポンサーとなり,自社商品を売り込む様になりました.
 1950年,コカ・コーラ社がウォルト・ディズニーの番組スポンサーとして成功を収めると,ゼネラルフーヅもスポンサーに参入し,ブロードウェイの舞台を元にした生放送ドラマ『ママ』を放映しました.
 『ママ』では何時も主人公のママを囲んで登場人物達が,マックスウェル・ハウス・コーヒーを飲む決まりでした.
 こうした宣伝・広告費に年間100万ドルを掛けていたゼネラルフーヅ社は,やがてインスタント・マックスウェル・ハウスを売り出して,インスタント・コーヒー市場に参入し,ネスレを凌ぐ売り上げを誇る様になります.
 インスタント・コーヒーと言うのは,レギュラー・コーヒーに比べ,味の個性が際立たないので,ブランド・イメージが必要になります.
 逆転されたネスレも,巨額の費用を用いてネスカフェのブランド・イメージを宣伝する一方,新興市場として,欧州や日本に着目し,販路を拡大していきました.

 因みに,当時のインスタント・コーヒー製造法は,煮詰めたコーヒー液を結晶化させると言うものでしたが,ネスレ社は霧状にしたコーヒー液を高熱で瞬時に粉末化すると言う革新的なスプレー・ドライ製法をひっさげて登場したものです.

 他方で,レギュラー・コーヒーの価格は上がり続け,1954年にはブラジルの自然災害により,1ポンド1ドルに達しました.
 戦時中の安いコーヒーに慣れた米国人達はこれに不満を示し,不買運動を呼びかけたりや別の清涼飲料へと転換を図ったりします.
 その上,安価なロブスタ種も出回るようになり,中南米のコーヒー生産国も,自らのブランド・イメージを宣伝する必要に迫られていました.

 しかしながらその間にも,ロブスタ種のコーヒーが国際市場でシェアを増やし,1956年にコーヒー全体の22%を占めるようになり,今度はコーヒー価格が急落し始めました.
 1958年,中南米諸国の代表者達が,供給過剰によるコーヒー価格の下落を抑える為,ブラジルは収穫量の40%,コロンビアは15%を貯蔵する事を決めた中南米コーヒー協定を結びますが,状況は好転せず,遂にロブスタ種のコーヒー先物取引市場が開設される始末.
 危機感を覚えた中南米諸国は,1959年にアフリカのアンゴラ,コートジヴォワール,カメルーンの代表を招いて1年の割当量を決定する協定に調印したものの,これも遵守されませんでした.

 こうした危機感を更に高めたのが,1959年にキューバで起きた社会主義革命です.
 元々,米国は中南米諸国を「裏庭」と見なし,反米政権が生まれるとそれを力で屈服させてきました.
 しかし,それにも関わらずキューバが社会主義化してしまったと言う事は,下手をすれば,他のラテンアメリカ諸国へもそれが伝播する可能性が出て来ます.
 そこで,米国を中心に,再度ラテンアメリカ諸国が結束を固める動きをし始めました.

 丁度,この頃は米国で政権交代があり,新しい大統領にケネディが選ばれます.
 ケネディは,対ラテンアメリカ政策として「進歩の為の同盟」という政策を打ち出しました.
 これは,米国の主導下でラテンアメリカ諸国の農地改革や工業発展を促進しようとするもので,特に貧困に喘ぐ農民を救済する事で,彼らを基盤とする社会主義勢力の農村ゲリラ闘争を沈静化させるのが狙いでした.
 元々,ラテンアメリカ諸国は全体の5%程の土地所有者が,全所有地の80%を占める様な社会であり,これをそのまま放置すれば,キューバの様に社会主義ゲリラの増殖を招きかねないと考えられた訳です.

 この方針に沿って,1962年,ケネディは国際コーヒー協定を締結し,輸入国と輸出国の協調による円滑なコーヒー貿易の実施を目指します.
 1963年には国際コーヒー協定の執行機関として,世界75カ国が加盟する国際コーヒー機構(ICO)が結成され,事務局がロンドンに置かれる事になりました.

 これは世界規模のコーヒー・カルテル組織であり,数年おきに更新される協定に従って貿易の割当量を遵守させ,供給量を統制し,双方が納得しうるコーヒーの相場価格を設定すると言うものです.
 とは言え,ICOの内部では生産量の多寡が,発言力の大きさを決めた事から,事実上,米国,ブラジル,コロンビアの三者による支配が確定し,また,共産主義諸国は加盟せず,非加盟国を経由した「流れコーヒー」や密輸も頻発した事で,ICOの権限や機能を低下させる要素となりました.
 何よりも,内なる反対者として米国民が,コーヒーの価格を危惧してこの協定に反対した為,「米国の消費者の利益を守る」との一文を挿入する事で,やっと1965年に議会で批准された訳で,露骨な米国支配が鮮明だったものでした.

 ところで,この頃にコーヒー業界への参入が2社ありました.
 1963年には完全な異業種で,アイボリー石鹸などのヒット作を持つプロクター&ギャンブル社(P&G)が,西部最古のコーヒー焙煎会社であるフォルジャー社を買収しました.
 フォルジャー社は当時,米国全体の11%を占める大規模な焙煎業者であり,その参入は他の既存企業には脅威でした.
 また,1964年になると,コーヒー業界の最大のライバル企業であったコカ・コーラ社が,インスタント・コーヒー会社のテンコ社を買収してインスタント・コーヒー業界に参入した後,ダンカン・フーズ社を併合して,全米第5位のコーヒー焙煎業者となります.
 これはP&G以上の広告センスと広範な販売ルートを持つ巨大企業の参入であり,業界は震撼しました.

 しかし,蓋を開けてみると,レギュラー・コーヒーの22%,インスタント・コーヒーの51%を占めていた最大手ゼネラルフーヅ社の牙城を崩すに至りませんでした.
 1964年に,ゼネラルフーヅ社は,それまでのスプレー・ドライ製法に代わって,真空状態で氷を除去する事で既製品よりも高品質を実現したフリーズ・ドライ製法のインスタント・コーヒー「マキシム」を誕生させたり,国際コーヒー協定の価格の安定を背景に,コロンビア豆100%の高級レギュラーコーヒーを売り出すなど,積極的な商品展開をしています.

 こうして,大手多国籍食品企業の君臨により,コーヒー業界は安定するかに見えましたが,米国では未だ未だ一波乱も二波乱もあったりする訳です…が,それは又別の機会に.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/19 22:37


 【質問】
 カストロやゲバラがプロレスラーに武術を習った,というのは本当か?

 【回答】
 本当.

 1955年,サンディエスタ政権に命を狙われメキシコに亡命中のカストロ兄弟は,メキシコでチェ・ゲバラと出会った.
 カストロ,ゲバラはメキシコで,ゲリラ戦のエキスパート,アルベルト・バーヨ将軍から銃器の構造,扱い方,行軍,機動訓練など,ゲリラ戦の基礎の実戦訓練を受けた.
 バーヨ将軍はスペイン市民戦争で共和国側についたため,フランコから逃れ,メキシコに亡命していたのだ.

 そこに新たに一つ訓練項目が加わった.武器も失った最後の最後,素手になったときの格闘術,これがコマンド・サンボならヴォルク・ハンの世界だがここはメヒコ,そう,ルチャ・リブレなのだ.
 現在のルチャ・リブレにコマンド・サンボ的なものを要求してもいかがなものか,となるかもしれないが,50年代はまだまだ「闘い」の要素が強かった.1954年メヒコに遠征したテーズは,コスチュームに凝りすぎることに軽べつの眼を向けていたようだが,それでも,である.

 で,カストロ,ゲバラへの武闘訓練を請け負ったルチャドールは「インディオ」ことアルサシオ・バネーガス.カストロ兄弟やゲバラの情熱に打たれて全面的協力を決意した.
 バネーガスは柔剣道をはじめとする護身術のプロフェッショナルで,映画のスタントなんかもやっていたらしい.

ゲバラ:でも,なんでプロレスなの??? 僕らは革命をやりたいのであって,覆面プロレスラーになるためにメキシコくんだりで合宿やってるんじゃないよ.
バネーガス:おまえ,プロレスをなめとるな.口答えはワシに勝ってから言うてみい.

 バネーガスはゲバラにヤキを入れ,以後,ゲバラは最も真面目な生徒となった.
 後にバネーガスは言う.ゲバラはプロレスラーとしてデビューしても,けっこういいとこまで行ったのではないか,と.

 歴史にIFはタブーだが,もしキューバ革命の時期がもう少し遅れていれば,チェ・ゲバラのプロレス・デビューがあったかもしれない.素顔のままで「キューバン・アサシン3号」.国会にプロレスを持ち込むどころか,革命にプロレスを持ち込み「キューバ情勢は”週刊ファイト”を読まなければわからない.」と,井上義啓氏が喫茶店トークで情勢分析していたかもしれない.

(from 「中南米のプロレス」

 【おまけ】
 そのメキシコ・プロレスで活躍した日本人に,ウルティモ・ドラゴンがいます.
 ウルティモ・ドラゴンこと浅井嘉浩は世界的 スターレスラーです.
 彼は学生時代からレスラーを目指し,高校卒業後 新日本プロレスの門を叩きますが,あまりに小さい その身長から,門前払いを受けます.その後も執拗に嘆願を続けますが話にならず, どこぞのジムでアルバイトをしていると,そこの会長と新日の現場責任者,山本小鉄が知人.
 おかげで,結果,一応の入門を許される訳ですが,そもそも低身長の者を使う気などさらさらなかった新日は ,練習生と言うか雑用で追い回すばかりだわ,合宿所にも入れず通いの扱いだわ,で,当然ほどなく食うにも事欠いた浅井選手,練習生の断念を余儀なくされます
(ただし,新日の台所事情が苦しい時等は,小さくても使わざるを得ない事もあり,その例がタイガーやライガー,悪い例が,デビュー後すぐにメキシコに放り出され,一切の給料,援助,通信,等を絶たれた苦労人,グラン浜田).
 その後,ジャパン女子プロレスという団体が発足した際,山本小鉄が団体に関わっている事を知り,何かプロレスに携わるチャンスを掴もうと会場へ挨拶に行くと,丁度そこに居たのが 『メヒコの小さな巨人』こと,グラン浜田と,UWAという歴史ある団体の会長でした.
 浜田選手は新日にデビュー早々追い出され (籍だけ残されているせいで,行動は制限される上,ピンハネもされる,給料の一円だって貰えないのに 自力で稼いだ分を),その上で,メキシコの伝説的選手に上り詰めた苦労人(しかも,メキシコでの活躍を見て, いきなり呼び戻されたあげく,前座扱いされた上に首になったという物凄いおまけ付き).
 思うところもあったのか? ともあれ結果的に,浅井のメキシコ行きとUWAへの所属が決まる事になりました.

 ボクシング並の細かい階級訳のあるメキシコ. メキシコではプロレス――厳密にはルチャ・リブレ (自由への戦い)というレスリング系格闘技ですが―― は,日本で言うところの相撲の様な国技です.
 ですがメキシコは貧しい国な上,社会整備も治安も最悪, さらに,それらを踏まえれば当然ながら,ギャラの安さは異様という表現がぴったりな有様で,食べかけのタコスの切れ端がファイトマネーなんて事も まあ,それなりにザラなくらいです.
 ちなみに,メキシコの屋台タコスは,食べて命があれば ラッキーってくらいの猛毒で,重度の食中毒までは 口に入れた以上,不可避です.整備されていないのは,衛生環境もなのです.
 また,国技ですからライセンス制です.
(海外レスラーが試合する際にはビザと同様交付が必要.
 すごい例としては,ノアの丸藤正道が試合をする際,事務担当が,中々下りない認定に業を煮やし,三沢光晴の名を出し,
『セニョール・三沢の新人だ!』
と言ったところ,次の瞬間,返ってきた答えが,
『NWAタイトルマッチの挑戦者として指名試合とする』
だったそうです.流石ノア.
 NWAについては後述)
 ですからライセンスを収得する為にも, どこかの道場へ通うなり,地下闇プロレスに出るなり, 何等かの手段が必要です.

 そんなとてつもない逆境の中,英語もスペイン語も 話せない,,,と言うか日本語以外話せない,と言うか荷物もお金も持たずに 浅井選手はメキシコにやってきました.
 この手の,レスラーの経験談から常々痛感するのは,身振り手振りがあれば無理に言葉なんて使う必要なし という事です.
 親切な,,,と言うか,見かねた メキシコ人ルチャドーラに引き取られ,浅井選手の下宿生活が始まりました.
 窓からは毎日殺人の現場を見る事ができ,周囲の住民はみんな泥棒とかの類で,たまに外から部屋に銃弾が飛び込んできますが,メキシコに住んでいたら,王侯の類でもない限り 日常的な出来事に過ぎませんから,気にする程ではないのでしょう.

 さて,かようなスタートとなった海外プロレス生活ですが ルチャをさせてみると,この浅井青年あら不思議, 圧倒的と言うか抜群と言うか壮絶と言うか,とにかく瞬く間にその才能を満天下に示し,なんと外国人でありながら,メキシコのスーパー・スターに上り詰めます.
(対外国人となると,会場一丸となって自国民を応援.レスラー側も善玉悪玉関係なく共闘して外国人を追い払うのがメキシコのならわし.鳴り止まない 『ビバ!メヒコ!』コールが物凄い)

 さて,これに目を付けた日本のユニバーサルプロレスリングという, どうしようもない事で有名な日本のプロレス業界の中でも,さらにとびきりどうしようもない団体 (でも,現場で働いていたのは,騙されて働かされてるプロレス・ファンばかりだから,信じられない程ファンサービスが良かったと『謎』さんは言ってた.『謎』さんはこの団体の元練習生)が,浅井を日本に連れて帰りますが,何せその様な団体だけあって,散々問題が紛糾したあげく,メキシコの英雄浅井選手は また日本を離れる事となります.
 その際,後見となってくれたEMLLという団体の会長が 浅井選手に贈ったマスクと名前が「ウルティモ・ドラゴン」です.
 日本語にすると極限龍とか究極龍とか,そういう意味の この名前で,新たにEMLLの絶対エースとして君臨する日々が始まります.

 ちなみに,UWAはNWAの流れを汲む団体で, EMLLはメキシコ最古の団体です.
 NWAとは,その昔昔,まだレスリングの流派が乱立し スタイルも多種多用だった頃――と言うか 一次大戦前だったと思う――そんな頃, その多用性や,それでいてボーダレスな状態 (要するに,フリースタイルやグレコローマンはおろか プロレスや,柔道の様な道着のあるもの,合気道の様なスタイルの流派も全部まとめてレスリングだったし, かけもちでやっているのが普通だった,的な)の為,誰が世界王者かを決めるのは無理という感があったが,実際問題,実力実績から言って, ロシアのジョージ・ハッケンシュミットか,アメリカのフランク・ゴッチか,どちらかしかありえないだろうと言われていました.
 まあ,それぞれヨーロッパ選手権,全米選手権を 制していますしね.
 そしてなんと,この二人の試合が実現し, その際の勝者を王者として認定したのがNWA.
 初代王者フランク・ゴッチとNWAは世界統一団体の 金看板を掲げ,そして賭け,レスリング団体の統廃合を 精力的に進め,ビジネス的シェアとしても全米を席巻.
 ちなみにボクシング部門でもNBAという団体 (後のWBA!,昔のボクシングの記録で WBAもWBCも付かずに世界王者と書かれているのは この団体,,,いや,WBAと改名してからの時期も あるかな,ちなみにWBCはWBAの分家)を この企業は持っていて,両格闘技部門は 大盛況だったのですが,,,この手にありがちな 本業(格闘技)があんまり大儲けだから,副業を,,, というパターンで,大借金を負ってしまいます.
 当然,黒字部門は他の金持ちの手に渡るのですが, NWAを買ったのが,これまたNWAという団体. どっちがどっちか忘れましたが, ナショナル・レスリング・までは同じで 一方はアソシエーション,一方はアライアンス.
 そして米国のシェアを二分しているのも,この両団体, 吸収合併ついでに統一王座戦をやる事になり,その勝者が 『史上最強のプロレスラー』 『タイトルマッチ九百三十六連勝』 『鉄人』 ルー・テーズ. 通算六度王座を獲得し,その内一度は引き分け挟んで 九百三十六連勝(ノンタイトル戦合わせると千を超える) しかもその期間中, 『もっとレスリングを世界に浸透させたい』 と,世界行脚を申請,大揉めの末に遠征を認めさせ, 世界中でその土地の王者と戦い,それを打ち破り, 連勝記録を延ばして米国へ戻ってきて,結果的に全米はおろか,世界的にシェアを独占させた.
 まあ,おかげでただでさえ頭の痛い問題だった独禁法に より一層なやまされる事になるのだけれど.
 ちなみにこの時,テーズに二度に渡ってKOされ 病院送りになったのが,ドイツ王者カール・ゴッチ. 新日本プロレスの神様ね.
 さてそんなNWAの海外侵攻の中,メキシコ支部的に作られたのがUWA.
 なもんでメキシコには 今もNWAの計量級のベルトが多数存在しています.

 さて, ようやく話を戻して,その後浅井選手は日本とメキシコを 行き来する売れっこ大物生活で,多くのビッグタイトルも 手中にし,メキシコには白亜の豪邸まで建てて,, 日本のレスラー仲間に本気で引かれる.
 そんな生活を送っていたのですが,そこに今度は アメリカ,WCWからのオファーが.
 WCWというのは,NWAの後継団体です.
 世界制覇をビジネスシェアでも成し遂げたNWAですが 税金や独禁法の問題は大きくなるばかりな上,そもそも 組織の成り立ちが,プロモーターの集合体体制. つまり,全米にしろ世界にしろ,NWAという大きな 枠組みの中に,沢山の団体が存在するという形, 言うなれば,スカイパーフェクTVみたいなもん?なので 味方同士で食い合ってるって言うか, 本体よりむしろ傘下のでかい団体の方が権力あるってか, ,,,鎌倉幕府みたいなもん?. なので,内実はいつも苦しい.
 どころか,形としてはNWA傘下ながら,実質は しのぎを削る商売敵って団体がいくつもある訳で. あげく,末期は数人のうんこプロモーターの 私利私欲が止めとなって破産状態に.
 この事態を重く見て,立ち上がったのが, 何と,全米メディア王のテッド・ターナー (CNN創設者,タイムワーナー副会長).
 プロレスをこよなく愛する彼は,この一大事に対し NWAを買い取った上,巨額の出資を惜しまず, 採算度外視でTV中継を続けました ,,,って,ニュース専門放送局のCNNで!!.

 まあそれはともかく(えー!!),ついに国際スター選手 ウルティモ・ドラゴンが米国上陸です.
 階級分けが厳格なメキシコや,小さい選手は軽量級で 一括りにされる日本と違い,アメリカは割と 階級差関係なく試合が組まれます.
 なので,ヘビー級のタイトルも獲得し, 前評判通りの堂々のスターぶりを見せつけ順風万般 ,,,だったのですが,まず,怪我で調子を落とします.
 あのウルティモが酷い有様だ,相当大きな怪我だろうと, 会社から手術を勧められます.
 紹介された相手は,,この後に起こる事件の為か 名前は出されていませんが,
『村田兆二さんの手術をしたあの先生』
との事なので,多分ジョーブ博士でしょう.
 肘さえ治れば,再び輝いていられると, すがる思いで受けた手術, 結果はとびっきりの手術ミス.
 まず,肘から下が全く動かない.
 しかも,なのになぜか強烈な激痛が絶えず続くという, ものすごいおまけ付き.
 レスラー生命を絶たれ,当然会社も解雇 そして障害を負い,しかも激痛は二十四時間三百六十五日 決して止む事も,治まる事もなし.

 生きていく事自体不可能そうなこの状態から, ドラゴンは何一つ諦める事すらしませんでした.
 まず,日本やアメリカで何人もの医者を探し 肘を治す可能性を探しました(後に,動くはずのなかった 腕が動き,今では不自由ながらに動くまでに) そして,自分の様に,レスラーになりたくてもなれない 若者の為にと,メキシコにプロレスの学校を建てました. この学校の名前が,闘龍門です.
 廃屋を買い取っただけのこの建物から, 一年もしないうちに『驚異的』との評価を 欲しいままにするレベルで デビュー当時から傑出した能力と個性を持つ新人を 多数,,,と言うかやたらめったら輩出.
 それから一年程度で,選手は日本逆上陸.すぐさま 日本の軽量級戦線の旗手的存在となり, さらに一年ほどすると,ついに日本に興行会社を設立.
 この社会景気,そしてすっかり斜陽産業のプロレス業界で 唯一日の出の勢いで業績を伸ばす奇跡的な会社となり 今なお成長著しいこの団体.
 創設者にして校長にして会長のウルティモ・ドラゴンは,とにかく徹底して揉め事を防いだのが勝因と語ります.
 絶対に派閥を作らない事,些細な事でも人に相談する事を,ひたすら言って聞かせたそうです.
 まあ,とてもそれだけではない,ちょっとやそっとじゃ 言い切れない,あまりに多数のドラマがこの団体には ありますので,気が向きましたら是非文献でも御一読を.

 さて,この団体においての絶対不可侵な存在である ウルティモ校長ですが,事あるごとに復帰を口にする困りものでして,その都度周囲の関係者に 『おじいちゃんお昼はさっき食べたでしょ』的なせつない扱いを受けていたのですが,東洋医療に傾倒したあげく,なんと動く筈のない手が動いて以来,すっかり調子に乗ってリハビリに明け暮れる毎日を何年も送る始末.
 ついに不自由ながらも手が動く頃には,すっかり痩せ衰え,どう考えても復帰も糞もないだろうと思わせたものですが,なんとそこから二年程度で,なんとか復帰は可能なコンディションを仕立てて見せます.
 しかも,WWEとの契約まで済ませて.

 WWEとは,前述した NWA内でしのぎを削っていた団体の最大手で,の割にはNWA本家とは仲が良かった ほうだった団体,WWWFが改名を繰り返した団体です (WWWF→WWF→WWE).
 NWAの破産で,当然ここが吸収合併すると思いきや テッド・ターナーが介入した事により 長い長い不毛な戦いに突入する事になります.
 なにしろ,相手は桁が違い過ぎる資金力があり, しかも,道楽としてやっています.
 どれだけシェアを握ろうとも,根絶は無理な訳です.
 例えばビル・ゲイツがXBOXに大はまりしている様な 丁度そんな感じな訳で,結局相手の抗戦を止める手段が ありゃしません.

 そんなWCWに止めを刺したのはコップの中の騒動でした.
 控室の些細な権力争いから始まって,それらの歪みが 徹底的に拗れに拗れた結果 レスラーを始めとする,現場の人間 というか,現場そのものの機能が全く働かなくなり,大問題かつ被害甚大.
 そして重要なのが,テッド・ターナーの道楽そのものが全く果たせない状態に なってしまった訳で,その後のAOUとの最悪の合併の後始末がてら,ついにWCWをWWFに 引き取らせました.
 ここに,WWFは全米統一を成し遂げ,さらに 百五十以上の国や地域のTV放送や 積極的な海外興行を行い, NWAの系譜の重鎮だったこの団体は,ついにはNWAを再統合し,NWA全盛期の勢力をも 取り戻す事となりました.
 おかげでパンダの方のWWFに訴えられて,WWEに社名変更する羽目に.

 そんなWWEにウルティモ校長が参戦.
 WWEの方でも,超大物参戦用のテロップを がんがん打っています.
『まず自分で,生徒へ 夢を与えてみせなければ 指導者として不十分』
 そんな言葉を出して,ウルティモドラゴン校長は闘龍門最初の卒業生になりました.
 この卒業に関しては,内部でごたごたや揉め事が あったのではないか,そんな不穏な空気も感じられます.
 それに,復帰したウルティモ・ドラゴン選手は やっぱり昔とは程遠いコンディションにしか なれませんでした.
 闘龍門は,日本支部が改名を行い (商標登録の問題らしいが) メキシコ本部は閉鎖されました.
 ウルティモはそれでもWWEのトップ選手でしたが,タイトル獲得はならないままでした.

 一方,日本では,ウルティモ・ドラゴンとの決別が ほぼ公式に宣言されました.
 現在,ウルティモはWWEの出場登録を離れて 今後の方針の交渉中です.
 と,そんな中での素顔出戻り.
 正直,マスクを脱ぐ前にせめてタイトルは獲って欲しい, 今素顔になるくらいなら,WWE行った意味ないじゃん.

(片羽絞め by E-mail)

 なお,このネタの信憑性については,寄稿者は「とあるプロレスラーの話」としているが,まあ,プロレス・ネタに高度の信憑性を期待するのもなんだし.


 【質問】
 なんでカストロは敵(ではないにせよ非友好国)に基地を使わせてるんですか?

 【回答】
http://www.geocities.jp/taihaku_03/geography/enclave/guantanamobay.html
 要するに,キューバ革命以前に結ばれた条約が根拠になっているので,カストロとしても地道に返還を訴えるくらいのことしかできないんですね.


 【質問】
 キューバ海軍の兵力は?

 【回答】
 キューバ海軍は,正式名称をキューバ革命海軍(Marina de Guerra Revolucionaria)と言い,2007年時点で総員3,000人.
 艦艇部隊のほか,沿岸ロケット砲兵(=対艦ミサイル部隊),2個水陸両用強襲大隊(550名)を含む.

 主要艦艇には
ラ・ハバナ La Habana 級(リオ・ダムジ Rio Damuji 級)フリゲート×2
パウク2型コルベット×1
オーサ2型ミサイル艇×6
ソーニャ型掃海艇×2
エフゲーニャ型掃海艇×3
ペリム型練習艦×1
ビヤ型測量艦×1
がある他,ミゼット・サブマリンを4隻配備中との未確認情報あり.
 英語版wikipediaによれば,
サンオ Sang-O 型を1〜4隻,
デルフィン Delfin 型を1〜6隻,取得中であるという.

 また,海軍以外に国境警備旅団が,
ステンカ型哨戒艇×2
ズーク型哨戒艇×18
を保有している.

 【参考ページ】
http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?128802-Photos-and-News-of-Small-Navy-of-the-World!/page8
http://ja.wikipedia.org/wiki/キューバ海軍
http://en.wikipedia.org/wiki/Cuban_Revolutionary_Armed_Forces
http://www.cubagob.cu/otras_info/minfar/far/pfar.htm
http://www.globalsecurity.org/military/world/cuba/warships.htm

Flag of the Chief of the Revolutionary Navy
「Cuba - Naval Rank Flags」より引用)

基地所在地
キューバ海軍のソーニャ型掃海艇
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/03/12 20:36
を加筆改修


 【質問】
 リオ・ダムジ級フリゲートって何?

 【回答】
 リオ・ダムジ Rio Damuji 級は,キューバ海軍の「なんちゃってフリゲート」.同型2隻.
 元は1975〜79年に,スペインにて同型3隻が建造された,排水量2500トンの大型トロール漁船.
 1番艦「ラ・ハバナ La Habana」は,2006年から改装され,2011年に洋上公試合格.
 「リオ・ダムジ」は漁船時代の名前.

 前甲板には「スティックス」対艦ミサイルが搭載されているが,これは退役した「オーサII」型ミサイル艇から取り外したR-20SSM発射機に格納されている.
 また,ZSU-57-2対空自走砲の砲塔57mm連装機関砲を2基,14.5mm機関砲2基を搭載.
 船体後部にはヘリコプター甲板を設置して,Mi-8ヘリコプターの着艦を可能とした.

 このリサイクルの極みのような艦を,キューバ海軍では旗艦として使っている.

排水量:3,200 tons
全長 :107m
全幅 :15m
武装 :「スティックス」対艦ミサイル×2,25mm連装対空砲×2,14.5mm機銃×2

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Cuban_Revolutionary_Armed_Forces
http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?149472-Bluffer%92s-guide-Fortress-Cuba
http://www.globalsecurity.org/military/world/cuba/warships.htm
http://bmpd.livejournal.com/164183.html
http://logsoku.com/thread/toro.2ch.net/army/1313143768/827

側面図
衛星写真
(こちらより引用)

「ラ・ハバナ」
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/03/14 20:20
を加筆改修


 【質問】
 キューバ海軍のふしぎ魚雷艇について教えてください.

 【回答】
 この魚雷艇(名称不明)は,モーターボートの上に,魚雷を固定しただけのシンプルな艇で.魚雷はおそらく退役したチューリャ型水中翼魚雷艇の533mm対艦・対潜魚雷のお古.
 エンジンはモーターボートのモノそのまんまなので,出力不足により低速.
 ただ,一時的に水面下に隠れることができる程度の潜航性はあるらしい.
 乗員は2名で,魚雷の両側に座ることになっている.
 双胴(カタマラン)はしているものの,そうしていてさえ幅が狭いので,沖合いに出たら,転覆することは確実.
 2隻建造されているが,ごく沿岸でしか使い道がないと思われる.
 乗員にご同情申し上げる.

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Cuban_Revolutionary_Armed_Forces
http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?149472-Bluffer%92s-guide-Fortress-Cuba
http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?37335-Cuba-s-Mystery-Torpedo-Project
『ソ連海軍事典』(原書房,1988.12.20),p.324 (チューリャ型水中翼魚雷艇の項)

側面図
航行状態
半水没状態
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/03/19 20:20
を加筆改修

 【しつもん】
 「具体的にはどんな能力があるんでしょう?」

 【東方厨】
「ふしぎ補正の入った美少女が,天から降ってくる程度の能力」

ゆずこせう in mixi,2012年03月11日 10:37

 谷甲州の小説において,地味に活躍した後で,
「この種の兵器は,やはり無意味ではないか」
という乗員のモノローグが,転章で描かれる程度の能力

くるりん★ポポフ in mixi,2012年03月11日 12:12


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