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「オカルト速報」(2014.10.18) 町は餓鬼の群れで溢れ、そこらじゅうに行き倒れの死体が転がって…

『真田幸村の系譜 直系子孫が語る四〇〇年』(真田徹著,河出書房新社,2015)

 真田丸で有名な真田幸村の子孫と言えば,真田幸昌(大助)が有名です.
 彼は大坂落城の時に自害して果てました.
 しかし,何故に直系子孫が生き延びているのか….

 以前取り上げた浅井長政の子孫と同じく,大坂落城と前後して真田幸村の子供は大助だけで無く沢山いました.
 意外に幸村は子だくさんだった訳で.
 長女阿菊(すへ),次女於市,長男幸昌,三女あぐり,四女辯,五女阿梅,六女なほ(御田姫),七女おかね,八女夭折した為名前不明,次男大八,九女阿菖蒲,三男之親,四男幸信とこれだけいます.
 この内,次女は九度山で夭折していますが,四女は何と井伊家の家臣青木次郎衛門に嫁いでいます.

 そして,幸村の身の回りを世話していた五女の阿梅は,夏の陣の際,彼女が殺されるのを不憫に思った幸村が,最後の戦いの直前に対峙していた伊達家の家老,片倉氏に穴山小助の娘と共に送り込んでいます.
 この阿梅は後に片倉重長の側室となり,真田家の伊達家への展開に一役買うのです.

 阿梅が伊達の家老である片倉家に入った事で,真田との接点が出来ました.
 大坂落城後,次男大八,七女のおかね,八女,九女阿菖蒲が片倉家の統治する白石にやって来たようです.

 なお,三女のあぐりは幸村の正室で大谷刑部の女である竹林院の下で養育されています.
 竹林院は夫の菩提を弔うために京都に残っていました.
 あぐりは滝川一益の孫である瀧川一積の養女となって,会津蒲生家の家臣蒲生郷明に嫁いでいます.

 女系は兎も角,男系については幕府,特に知恵伊豆こと松平信綱が執拗に追求をしています.
 従って,次男の大八についてはかなり手の込んだ経歴偽装を行っています.

 先ず,京都に残った幸村の家臣である三井景国が,高野山の真田家宿坊である蓮華定院に
「大八は京での印字打ちで石に当たって死んだ」
と言う報告をして,追求を逃れています.
 一方で,大八は家臣達に匿われて白石に赴き,片倉家の食客となり元服して片倉久米介を名乗ると,更に伊達家に仕えて片倉家の親類衆として門閥の地位に就き,1,000石を領していました.
 そして,名を真田守信に改めたのですが,ここで知恵伊豆から待ったがかかります.

 ただ,こんなこともあろうかと,真田家の由緒を偽装していました.
 勿論,表だって幸村子孫なんて名乗れる訳無いので,真田昌幸の弟で,徳川家旗本となっていた真田信尹の子,政信と言う架空の人物を作り,
「政信が故あって御家断絶の結果浪人し,風の噂で片倉家に真田幸村の娘がいることを聞き,片倉家を頼って白石に来た」
との経歴をでっち上げ,伊達家の公式文書として扱ったのです.

 結果的に,知恵伊豆の追及は免れましたが,真田を名乗るのは時期尚早として,元の片倉姓に戻り,以後72年間,真田を名乗れずに雌伏の時を過ごします.
 しかし,代々の伊達家当主からは親類衆として信頼され,その当主は様々な役職に就きますし,伊達騒動や片倉家の御家騒動にも関与するなど,時々歴史の表舞台にも立っていました.
 特に,幕末の真田喜平太が有名です.

 こんな感じで,この本ではこうした隠れた歴史のエピソードが満載で,真田幸村と言う人の人物像についても,仙台真田家に伝わる古文書を基に,軍記物で描かれている英雄像とは異なる真田幸村の人となりを描いています.
 ある意味,こちらの真田幸村の方が人間的なのでは無いかと思ったりして.

 そして,仙台に真田の旗を立てた後の話も盛り沢山です.
 伊達騒動の際の真田家の立ち位置とか,様々なエピソードに彩られた真田家歴代当主の群像,幕末に表舞台に出て来た真田喜平太と真田幸村との共通点など,興味深い話が尽きません.

 勿論,大坂夏の陣では,実は家康の首を真田幸村が取っていたと言うエピソードも披露していて,真田の一族の会合ではその話で盛り上がるなんて言うのもありますが,変に歴史物としてしゃちこ張らない感じも好感が持てます.

 それにしても,浅井長政と言い,石田三成と言い,真田幸村と言い,歴史の表舞台から消えた武将の子孫が東北で一家を為しているのは興味深いものがありますね.
 意外に,畿内と東北と言うのは遠くて近い間柄だったのかも知れません.

------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/10/24 22:57

『八戸藩 二百年の残像』(名久井貞美編,伊吉書院)

 ISBNがない郷土出版.
 地域の歴史を追う郷土出版というのも,なかなかにいいモノ.
 通販に対応していないのも多いので,現地の書店に足を運ぶ必要があるのが大変だが.

 本書は,南部藩の御家騒動から生まれた八戸藩の歴史を,藩主ごとに追っていく形の内容.
 飢饉,災害の無い代が存在しない,苦労の歴史をまとめた感じ.

 軍事に絡むのは,北方警備に少々,あと九代藩主の時に勃発した戊辰戦争の準備(準備だけで日和見を決め込んだ)と,津軽藩による南部侵攻である,野辺地戦争について詳細な記載がある.

 ただし,著者の立場は中立ではない.
 南部の肩を思いっきり持っているので,全面的に津軽藩に原因がある,云われなき戦いであり,正当な防衛戦争ということになっている.
 この辺は在野の歴史家による郷土出版だし,愛郷心が溢れすぎていたのだと思う.

------------軍事板,2012/04/14(土)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 江戸時代における,南部家・津軽家・松前家の関係は?

 【回答】
 南部家と津軽家と松前家と言えば,北方の3つの地域を代表する大名家ですが,この3つの大名家は近親憎悪と言うか,従来から三つ巴の争いをしてきた為に,非常に仲の悪い家とされています.

 特に,1714年に弘前津軽家と盛岡南部家との間に発生した,烏帽子山争論と言う領土紛争で,幕府が津軽家に有利な裁定を下したとされた事から,
「勝った勝ったの狩場沢,負けた負けたの馬門…」
と言う俗謡が伝わっています.
 因みに,狩場沢は現在青森県東津軽郡平内町に属し,江戸時代は津軽領,馬門は現在の青森県上北郡野辺地町にあり,江戸時代は盛岡領です.

 津軽家は,元々南部家の家臣であり,それが増長して南部家の領土を切り取り,更に上手く秀吉や家康に取り入って,独立大名としての地位を手に入れたとして,南部家からは相当な恨みを買っているとされています.
 その為,例えば,津軽家の当主が先に上の官途を得たのに,南部家はそれに後れを取ったことから,その当時の当主が悶死したとか言う話があったりする訳で,現在でも,津軽の人々と南部の人々は,互いに口も効かないと言う話があったり.

 江戸でも,津軽家と南部家は「先祖の敵筋」であり,江戸城中の殿席が同じでも,一切付き合わない不仲の家として知られていました.

 江戸後期に,肥前平戸松浦家当主の松浦静山が著した随筆『甲子夜話』には,様々な両家に纏わるエピソードが取り上げられています.

 曰く,南部家の不幸に,津軽家から祝儀の使者が送られた,とか,南部家の奥女中が弘前の当主をうっかり「津軽様」と言ってしまい,家来筋に「様」を付けるとは何事だ!と怒られた話,両家に出入りしていた江戸城の茶坊主が,津軽家の紋の付いた羽織を着て南部家に行ってしまい,門番に見咎められて慌てた話…等々,枚挙に暇がありません.

 勿論,両家は互いにその動向に常に関心を向けており,密偵を送り込んで情報収集活動をしています.
 その動きの一端は,盛岡南部家が領境の番所を管轄していた野辺地代官が,津軽領の情報を収集し,盛岡の藩政中枢部に提出した『津軽風説書』によって知る事が出来ます.

 この他,南部家は津軽地方に商人などに身を窶した家中の者や,野辺地商人の奉公人を密偵や隠密として送り込みました.

 1860年に秋田十二所(現在の大館市)の者と称して,津軽領に密偵として入り込んだ南部家中の谷川林平,一条庄之助は,現在の青森県西津軽郡深浦町にあった大間越関所から津軽領に入り,西浜から,弘前,浪岡,青森,黒石を経て,現在の青森県平川市にあった碇ヶ関関所から秋田領に抜け,各地を調査して回っています.

 その報告書である『津軽領秋田領調査報告』では,弘前城下について,戸数5,000,市中繁昌で,職人・商人の活動が盛んであったのが印象的だったとし,一方,侍屋敷は粗末な作りが多く,弘前城は「四方皆平地で」要害の体を為していないと酷評しています.

 そんな両家の間ですが,盛岡南部家側の藩政史料では,「津軽を仇敵視し,維新の時に至るまで来住を絶った」と書かれています.
 ところが,弘前津軽家の藩政史料からは,例えば,津軽領に出入りする南部領民や南部領から出入りする船,津軽に流通する南部産の塩や雑貨に関する記述も見られます.
 中央政府の意向は扨措き,隣接する地域間の経済的結びつきは,強く存在していたと考えられます.

 そう言う意味では,これらの地域の遣り取りも少なからずあった訳で,必ずしも対立関係にだけあったのでは無いと言う事が言えそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/08 23:37
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 津軽家・松前家の関係は?

 【回答】
 青森と北海道の間は,津軽海峡で仕切られています.
 津軽海峡は,長いこと「しょっぱい川」と言われていましたが,両地域の地域的な関係はこの海峡に分断された訳で無く,海の道として,密接に結ばれていました.
 しかし,政治的に見れば,蝦夷と津軽地域の関係は冷めた関係でした.

 1615年3月,松前慶広が大坂に向かう途中のこと.
 慶広が当時高岡と呼ばれていた弘前を訪れ,津軽信枚からの饗応を受けました.
 安土・桃山期にかけて,松前家も畿内政権と関係を結び,隣国であった割には,2人の対面は初めてで,不思議なことに松前家の家譜である『新羅之記録』には,わざわざ,「松前と津軽は隣国なり」と記しています.
 つまり,両家がこの時初めて,隣国であるという「契り」を結んだことになる訳です.

 因みに,こんな疎遠な関係なのにも関わらず,初代津軽為信の長男である信建は,実は松前慶広の婿だったりします.
 松前慶広の次女(もしくは妹という史料もありますが)であった信建の妻は,元々先代季広の三女を娶っていた喜庭家の当代当主であった直信に嫁ぎ,次いで信建に嫁ぎました.
 しかし,1602年9月,信建の上洛中にその妻は縊死したと記録に残っています.

 そうした出来事に限らず,豊臣政権が確立した1592年8月以降,津軽為信と松前慶広は不和になった様です.
 全国統一政権として力を振るう政権には,その巨大な行政機構を動かす為の吏僚が欠かせませんが,その吏僚が大きな力を振るう事もまた多かったりしますから,その辺りの事が両家の対立に関係したのかも知れません.

 余談は置いておいて,為信が死んだ後,その跡目を巡って,騒動が起きます.
 最終的に襲封を果たしたのは津軽信枚でしたが,その対抗馬となったのは,長男信建の息子であった大熊でした.
 この決着は,駿府の大御所裁定にまで持ち込まれ,安藤直次が和睦を周旋しています.

 とは言え,1611年に信枚が正妻を娶った際,選んだのは養女ではあるものの,家康の姪である満天姫ですから,当然と言えば当然ですが.

 これだけの騒動となったのは,大熊の後に隣国の松前慶広が付いていた為でした.
 勿論,信建の妻が自らの女である事から,松前慶広が深く介在したのは間違いない所です.
 実際,万石に満たない特殊な国持大名である松前家にとって,本土の地への復帰は切望する所だった可能性が高い訳で,津軽家を上手く抱き込む事が出来れば,佐賀鍋島家的な活動も可能になると踏んだのかも知れません.

 結局,最終的には家康の裁定により,信枚の襲封が決まったのですが,豊臣家との関係が悪化する中,これ以上両家の関係が拗れて,北方の地が騒擾することを恐れた幕閣が,両家に和睦を強いたのが,1615年の松前慶広と津軽信枚との対面だったと考えられます.

 しかし,何故にこんな北辺の地の小大名に,養女とは言え天下人の娘が嫁ぐという,一見不釣り合いな縁組みが為されたのかについては,諸説あります.
 『津軽一統史』では,関ヶ原合戦で津軽為信が家康に,「無二の忠誠」を尽した為と書いており,『津軽編覧日記』では,江戸城内の能興行で満天姫が信枚を見初め,将軍の上意として縁組みが決まったからとも書かれています.

 また,天海僧正がこの縁組みに尽力したという説もあります.
 天海は,津軽が蝦夷の抑えの地として重要で,また信枚は,秋田の佐竹義宣,仙台の伊達政宗,盛岡の南部利直と言う一癖も二癖もある戦国大名の生き残り達を,背後から牽制することにもなると考えて,家康,秀忠に縁組みを進言したと言う訳です.

 ところで,1611年から翌年に掛けて,大名達が連署して徳川政権に提出した「三ヵ条々書」は,徳川政権が腐心していた大名従属政策を決定づけたものでした.
 この中で信枚は,伊達,佐竹,南部の他,山形の最上義光,米沢の上杉景勝,会津の蒲生秀行等,東国の有力大名10家と肩を並べて連署しています.
 因みに,津軽家と同程度の官位や領知高を持つ大名家は,別途に署名を提出しているので,破格の抜擢であり,本州の北の備えを固める大名でもあり,また満天姫の婿として津軽家が重視されていたものと考えられます.

 また,家康が死去した1617年に信枚は,東照宮を高岡城内に請じることを許可されました.
 これも,天海の尽力が大きかったとされます.
 『東叡山法嗣ノ由来記』と言う史料では,天海は東照宮を祀れば,万一弘前津軽家と因縁のある盛岡南部家が攻めてきた時にも,徳川家にも弓を引くことになるから保険になると,信枚を口説き,一方,秀忠にも信枚からの願出を認める様進言したと言います.
 こうして,東照権現が勧請され,1624年に城東に移り,弘前東照宮本殿は1628年に建造されました.

 因みに,天海と信枚との関係ですが,仏道を通じて師弟関係を結んでいました.
 1631年に信枚が江戸で死去した際には,その葬儀に天海自らが焼香に訪れました.
 信枚の遺骨は,弘前の長勝寺と,江戸常福寺に分骨されますが,江戸の遺骨はその後,天海が開いた上野寛永寺の子院で,信枚が開基した津梁院に改葬されました.
 そう言う意味で,多くの外様大名が苦しんだ幕政初期の頃,津軽家は天海僧正の庇護を得て,その地位は比較的安泰だったと言える訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/10 23:31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 津軽米の流通ルートは?

 【回答】
 江戸時代の幕府,及び各大名家の歳入源として,大きな柱は蔵米でした.
 これを比率に因って農民から収納し,その米を売却して財政に充てた訳です.
 これは大名家だけで無く,大名家中の人々も同様で,知行地から収納された年貢米や藩庫から支給された俸禄米を売り払い,生計を立てていました.

 津軽領の場合,この蔵米は主として上方,つまり京都や大阪方面で売り捌かれています.
 津軽平野で獲れた米は先ず,岩木川を下る小舟で十三湊に集められ,更に十三湊から鰺ヶ沢の藩蔵に送られました.
 これを十三小廻しと言います.
 そして,鰺ヶ沢で御城米船に積み替えられ,西日本を目指したのです.

 また,もう1つの重要な港として,深浦がありました.
 深浦港は,荒天時の風待ち湊として重要であり,北方交易に従事する人々で賑わいました.
 因みに,この北方航路には,特徴的な丸い船首を備え,帆走を補う為に櫂を用いる北国船が用いられています.

 鰺ヶ沢や深浦から出た御城米船は,豊臣政権時代から開始されたもので,大名にとって必要な歳入の調達としてでなく,京都勤番や不時の合戦に備えて,兵糧米を備蓄する必要から生まれたものです.

 当初,北国航路は,北海道を起点に,十三湊や鰺ヶ沢,深浦を経て,北国の日本海沿岸を下り,北陸沿岸を経て敦賀で終点を迎えていました.
 当然,津軽家も敦賀に蔵屋敷を設け,御城米船で送られた米をこの地に陸揚していました.
 この地に陸揚された蔵米は,蓄えられて必要に応じて売却され,蔵屋敷の運営資金にもなっています.
 この留守居になっていたのが,敦賀の商人である庄司太郎左衛門で,蔵屋敷の修理を自前で行ったり,津軽家からの扶持支給を遠慮したり,1633年には深浦の円覚寺に,北国船図絵馬を奉納したりした,かなり裕福な商人だった様です.

 その後,世の中が落ち着き,琵琶湖の舟運が復活すると,津軽家は大津にも蔵屋敷を設け,敦賀で荷揚げした米を運び込みました.
 敦賀の最盛期には,弘前津軽家の蔵米を含め,日本海沿岸諸大名家の藩米が回漕され,年間60~70万俵にも達したと言います.
 1675年時点の敦賀での米相場は,1位が越後蔵米で銀10匁に付米1斗3升3合,2位が庄内蔵米で同じく1斗4升,3位が秋田蔵米と津軽蔵米で同じく1斗5升となっており,昔も今も米所の米の人気は変わらなかったりします.

 しかし,1672年に河村瑞賢が,西廻り航路を整備すると,日本海沿岸を更に南下して,下関をぐるっと回り,瀬戸内海に入って,大坂に直に入港することが可能になり,輸送経費の大幅な削減が達成されます.
 弘前津軽家も,この航路が開拓された当初は,敦賀と大坂の両方に蔵米を送っていましたが,1687年以後は敦賀での陸揚を止め,大坂への廻米に一本化しています.
 これは,その後の1697年に大坂堂島に米相場が開かれる動きがあった事から,米相場の上昇を見越した措置であったかと考えられます.

 幾度か大坂の大名蔵屋敷については取り上げてきましたが,弘前の大坂蔵屋敷は,天満川の川筋に建てられ,現在の天満警察署の辺りにありました.
 当初は東西約20間,南北約26間で約520坪の敷地を有していたのですが,その後,隣接地の購入と増築を重ね,1797年には,元の敷地の約1.4倍に当たる約740坪に達しました.
 そして,敦賀と大津の蔵屋敷が米の回漕を中止した為に先細りとなり,遂に閉鎖に追い込まれたのに対し,大坂の蔵屋敷は,明治政府に召上げられるまで,営々と存続しました.

 因みに,弘前津軽家に提出された米や材木の積出許可申請書である半紙請求状を見ると,近世前期から既にこの地では米の搬出の際に京枡が用いられていました.
 これは縦横5寸,深さ2寸5分,容積1.74リットルのもので,古京枡とも呼ばれます.
 つまりこの時点で,弘前は上方経済圏に包含されていたと言える訳です.
 その後,1697年に幕府が度量衡を統一して現在の升とほぼ同じ大きさの新京枡を定めて,やっとこの古京枡は使われなくなりました.

 ところで,弘前津軽家にとって重要な拠点としては,政治的な首都である江戸は勿論,歳入を確保する為に必要な敦賀,大津,大坂の各蔵屋敷がありますが,江戸と同様の政治的拠点として重要視していたのが京都です.
 しかも,江戸時代の京都には,その留守居屋敷のある場所に,津軽町と言う町すら存在しています.
 弘前津軽家の京都屋敷は,現在の京都市中京区釜座通り御池下ルにあり,この辺りが江戸期には津軽町と称されていました.
 この地は,二条城近くにあり,付近には有力譜代大名の京屋敷が並び,加えて禁裏や一条にある近衛家の屋敷にも近く,立地としては申し分の無い場所です.

 弘前津軽家の京都屋敷は,面積335坪で,釜座通りの西側半分を占めています.
 因みに,その東側には高松神明神社があり,境内の提灯は,「津軽町」そして,津軽家の家紋である「卍」があり,現在でも津軽との関わりを保持していたりするのです.

 で,この弘前津軽家の京屋敷の役割というのは何か.
 元々,全国的な統一政権を構成した豊臣秀吉は関白を標榜していた訳ですから,全国の各大名達は京都に,そして,後に秀吉が太閤となって秀次に関白位を譲り,伏見に行くと,伏見に屋敷を置いていました.
 しかし,秀吉が死去し,その後実質的な支配者に家康がなり,伏見で政務を見ていましたが,関ヶ原の合戦で勝利すると,政治的な拠点は伏見から江戸に変わります.
 それに従い,全国の各大名達の屋敷は,江戸に移転しました.
 17世紀初頭の京屋敷は,150を越えたのですが,江戸後期になると数を減じて約半数に減ります.

 とは言え,京都は文化,ファッションの先進地であり,西陣の織物や漆器などの工芸品など高度な技術を持っていました.
 こうして生み出された高級品は,大名達にとってハイレベルな生活を維持し,大名間や将軍家に贈答するブランド品として必要であり,その調達に京屋敷は深く関わっています.

 また,大名が拝領する官位や官職は,幕府の奏請に基づいて,朝廷が授けることになっています.
 当然,大名の任官には朝廷に於ける情報収集や,皇族や有力公家に対する貢物を送るなどの運動が不可欠でした.
 任官手続きを円滑にしようとするならば,京屋敷に留守居役を置いて,各方面に対する周到な根回しを行わねばなりません.
 この為の拠点として,京屋敷の存在は重要でした.

 この余録として,幕末になると勤皇方,佐幕方に分れていた日本の状況を知る為のインテリジェンス活動の最前線として,京都屋敷が活用される様になっていますが.

 ここまでは,普通の大名家が持つ京屋敷の機能ですが,弘前津軽家は,もう1つ,独自の機能をこの京屋敷に持っていました.
 津軽家は元々,五摂家七清華の筆頭である近衛家を,宗家と仰ぐ関係を結んでいます.
 この為,近衛家との付き合いは非常に重要視されました.
 特に当主が交代時には,津軽家の系図を国元から近衛家に持参して,近衛家の当代当主から,系図に新たに名前を書き込んでもらう事が,正式な跡継ぎの証明だったのです.

 この為,弘前津軽家は京都留守居を定期的に近衛家に伺候させて当主の御機嫌伺いをさせ,親交の継続に努めなければなりませんでした.
 これもまた,後の戊辰戦争の際に有効に働き,1868年に京都留守居の西館平馬が,近衛家から令書を国元に齎した事が,藩論を佐幕から勤王に転換させる事になり,南部等奥羽列藩同盟に加わった東北諸藩の様な苦汁を,なめることが無かった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/11 22:02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 弘前津軽家の拝領屋敷は,どのようなものだったのか?

 【回答】
 大名家と言うのは,江戸に屋敷を構えています.
 基本的にこの屋敷は,上屋敷,中屋敷,下屋敷と言う区分が成されています.
 これらは総て拝領屋敷と言って,幕府からの拝領地でした.
 この他,資産に余裕があれば,抱屋敷と言って自費で屋敷を購入したものがあり,これは別宅として用いられていました.

 この拝領屋敷は,1635年に制度が整えられた参覲交代により,大名当主が江戸と国元を1年毎に往復する必要があり,江戸で生活する為に整備されたものです.
 江戸屋敷の場所は,江戸城に近い程,幕府から優遇されていると見做され,京極家の様に,江戸時代を通じて至近に江戸屋敷があった大名家もあります.

 しかし,拝領地が最初とは全く異なった場所になった場合もあります.
 例えば,弘前津軽家上屋敷は,一番最初に史料で確認出来るのは,神田小川町にあったものです.
 ところが,次に拝領する上屋敷は,神田から遠く離れた本所になってしまいました.

 これは,1687年に烏山那須家の御家騒動に,4代当主の津軽信政が閉門を命じられた事によると思われます.
 この那須家は,1590年に小田原征伐で秀吉に見参しなかった廉で,所領を没収されましたが,何とか秀吉に謝罪して,下野福原に5,000石を給され,関ヶ原の戦や大坂の陣で活躍して1万4,000石を立藩しました.
 福原の那須家は,息子の資重が無嫡断絶となり,除封されますが,1681年に家光側室のお楽の方が家綱の生母となった為,弟である増山資弥を那須家の養子に貰い受け,那須家を継いで1万2,000石で烏山に入る事になり,後に2万石に加増されました.

 しかし,1686年に即し,養子となっていた津軽信政の三男資徳が跡を継ぐ事になりました.
 ただ,資弥には隠し子の実子がおり,その実子が嫡子は自分であると申し立てた事から幕閣に聞こえる事になり,実子があるにも関わらず,資徳が跡を継いだのは怪しからぬとして,烏山那須家は御取潰しとなり,資徳の代は僅か数ヶ月で終わってしまったのです.
 因みに,資徳は後に許されますが,石高1,000石の旗本として再興を許されたに留まりました.

 その迸りを食ったのが,養子となった資徳を出した津軽信政だった訳です.
 1688年,幕命により神田の上屋敷は召上げられ,本所への移転が申し渡されました.
 当時の本所は,江戸城から見て隅田川の対岸に当たる未開地であり,しかも湿地帯であった為,屋敷の普請は難航したと言います.
 幕末に至っても,安政大地震の際には,本所周辺の被害は非常に大きなものがありました.

 上屋敷の構造は,以前にも取り上げたものと大して変わらず,外側をぐるりと,勤番藩士と呼ばれる人々とその家族が居住する長屋で囲んでいます.
 この長屋に居住していた人々は,領主に対し借家賃を支払っていました.

 そのぐるりの内側は,板塀で仕切られ,中は二つに分れていて北側が「奥」と呼ばれる当主のプライベート空間であり,南側は「表」と呼ばれ,当主が政務を見たり,来客を迎えたりする公的な空間でした.

 中屋敷は隠居した当主や嗣子の邸宅であり,上屋敷が罹災した際の避難邸宅となっていました.
 当時の江戸は年中大小の火事が絶えなかったのですが,明暦の大火などで津軽家の上屋敷も幾度も火災に飲み込まれ,焼け落ちています.
 明暦の大火では,当主の信政は難を逃れて,柳原にあった中屋敷に避難しています.

 時代が下ると,中屋敷や下屋敷は必ずしも1箇所しかないと言う訳では無くなり,1856年頃には拝領屋敷は,本所二ツ目の上屋敷の他,中屋敷は本所三ツ目通,品川戸越村,浜町の3箇所に,下屋敷は北本所大川端にあり,この他にも梅で名高い亀戸天神のとなりに抱屋敷を所有していたと記録に有ります.

 因みに,下屋敷は船で廻漕した物資の荷揚げや,その保管の為の蔵地として活用され,庭園を備えた予備邸宅の様な役割も持っていました.

 汐留には伊達家や脇坂家の下屋敷があり,発掘調査で詳細が明らかになっていますが,本所上屋敷跡地は,現在墨田区緑図書館や公園などとして活用され,津軽の痕跡を残したものとしては,津軽稲荷神社と言う神社がある位です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/27 23:01
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 弘前城について教えられたし.

 【回答】
 さて,弘前には立派な城があります.
 「立派な」と言っても,元々が4万5,000石の石高ですから,そんなに大きな城ではありません.
 城郭の規模は,東西南北を単純に掛け合わせたくらいの単純計算で約49ヘクタール.
 同規模の石高を持つ赤穂浅野家が築城した赤穂城は約18ヘクタールで,浜田松平家の浜田城は約12ヘクタールですから,石高に比してみると相当大きな城である事は確かです.
 面積だけから言えば,弘前城の広さは,四国や西国の抑えとして江戸幕府が高松に置いた高松松平家の高松城が,約66ヘクタールと大して変わらない規模になります.
 しかし,弘前津軽家のの石高は4万5,000石で,高松松平家の石高は12万石ですから,石高的には半分です.

 石高が高松の半分以下の大名家にも関わらず,何故これだけの規模を持つ城を築城したのか.
 一説には,徳川家康が津軽為信と懇意だったとか,天海僧正と師弟関係にあった為に優遇されたと言われていますが,当時,大陸で勢力を拡げていた,ヌルハチ率いる満洲軍が,海を渡って蝦夷地に侵攻すると,蝦夷地の松前家だけでは支えきれない可能性が高いと,幕府が対外情勢を分析し,北辺の本土防衛最前線として,この城を築いたのでは無いかとも考えられます.
 その根拠として,西国と四国の抑えの城である高松城と,ほぼ同じ大きさになったのが,情況証拠ですが挙げられます.

 この城は,1603年,初代当主の津軽為信が,当時は高岡と呼んでいた地に町割をしたのが,築城と城下町建設の切っ掛けとされています.
 次いで1609年になると,2代当主の津軽信枚が江戸幕府と交渉して築城の公許を得,1610年に城地を二ツ石と呼ばれていた地に定め,幕府の検使兼松源左衛門と正木藤右衛門の検分を得て,2月に東海吉兵衛が縄張りを開始します.
 その後,本格的な城普請に着手,約15ヶ月の工期を経て,1611年5月に完成しました.
 後に改易された広島の福島家と違い,きちんと幕府の手続きを踏んだ上での築城です.

 この城の資材のうち,石垣の石は長勝寺の西南「石森」や兼平から採取し,五層の天守閣に用いた鉄は,外ヶ浜小国,蟹田で南部鉄吹きを呼んで製鉄しました.
 約15ヶ月の工期で,城部分と城下町が完成し,元々の城地だった堀越から神社,仏閣,家臣団の屋敷,商工民の屋敷を移転しました.
 その後,1614年6月から防衛施設と水の手として溜池と土居が必要となったので,領内の人夫約1万人を動員して城下の南側に南溜池を掘らせました.

 因みに,江戸幕府は武家諸法度で,大名の城郭建設に厳しい態度で臨んだと言われていますが,1614年と言う年には,全国で25箇所の築城が為されたと言います.
 当然,この中には豊臣包囲網の為に築城された,福知山城をや伊賀上野城を始めとする城が多くあった訳ですが,佐賀城の天守閣もこの時期に作られているなど,全国的に多くの城が築かれていました.

 これは中世的な領主権,即ち,家臣達はそれぞれの小規模な城館に住み,一朝事があれば,城から足軽を率いて領主の城に赴き,戦に加わると言う形態から,織豊政権期に確立された,領主の城地に集住させると言う,近世領主権への転換と言うのも多分にあります.
 その為,小規模城館を取毀し,新たな築城の為の資材としたりもしています.

 これが多くなったのは,1615年に於ける元和の一国一城の令以降ですが,高岡の築城はその先駆を為すものと考えられています.
 と言うのも,この城の築城時に大光寺,浅瀬石,黒石にあった城を破却してその建築材を転用していたからです.
 因みに,この城には立派な五層の天守閣がありましたが,これは1627年9月5日,天守の南側への落雷により,火災が発生して炎上してしまいます.
 午後8時頃には天守の4層までが焼け,内部にあった釣鐘が落下して,格納してあった鉄炮の火薬に引火してしまい,大爆発を起こして天守は城の南側に飛散し,焼け崩れてしまいます.
 爆発の大音響は12km四方に響き,保管してあった古記録や文書の類も,総て焼け落ちてしまったそうです.

 ところで南溜池は,当初は防衛施設としての性格が強かったのですが,豊臣氏が滅び,北方の脅威も取り除かれる様になる17世紀半ばには,その性格を薄めていきます.
 特に1649年の寺町大火で焼亡した寺院を,南溜池の南側に移転させる事になり,新寺町が成立しました.
 これ以後,南溜池周辺では在府町,相良町と言った武家屋敷地と桶屋町,銅屋町と言った町人地が造成され,弘前城下町の都市圏に含まれる様になりました.

 その後,南溜池周辺は弘前の景勝地と言った性格が強くなり,住民や領主の憩いの地となっていきました.
 勿論,水源としても重要であり,藩庁は付近住民の溜池への塵芥投棄を禁ずる触書を出したり,塵芥の除去,土居の補修や松や桜と言った樹木の植樹,水口の樋の保全修理などを行い,水源としての保全に力を注いでいます.

 この他,触書としては,南溜池付近をくわえ煙管で通行する事や,この周辺で花火などに興じる事を禁じたり,涼を取る為の水浴,子供の氷渡りを危険として禁じたりもしています.
 更に,渇水時にはこの近辺で雨乞いの祈祷が行われたのですが,その祈祷の見学に人々が群れ集まる事を禁じたり,南溜池での雑喉釣りの禁止などの触書を度々出しています.
 度々出している,と言う事は,そんなに効き目が無かった訳で,今も昔も,公衆道徳と言うのはそれほど違っていなかったと見えます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/28 23:38
青文字:加筆改修部分

 弘前城は,津軽氏領国での初めての近世城郭でした.
 石垣が初めて導入されたのも,その特徴の1つです.
 石垣と言うのは,天守などと共に近世大名の威信を示す重要な仕掛であり,当時の領民や家臣達に与えたインパクトは大変なものがありました.
 特に,本丸天守台西側石垣の巨石は,見るものを圧倒する程の巨大なもので,それ1つで石垣隅の稜線の大部分を占めています.
 ただ,巨石を配するのみの素朴な隅角部の積み方は,慶長年間でも既に主流の積み方では無くなっていました.

 それに対して,石材を交互に組合わせて積んでいく方法が,算木積と呼ばれる方式です.
 この算木積の形状が,石垣を積んだ時代相を探る1つの指標だそうです.
 例えば,本丸西南隅の未申櫓台の石垣は,元禄年間に積み直されたものですが,これは加工度の高い規格化された石材を用いて稜線も通り,勾配には鋭く反りがあります.
 こうした形式の石垣は,本丸北西隅の戌亥櫓下の石垣などに見られます.

 一方で,本丸北東隅や鷹丘橋の西側の石垣の隅角部は,稜線を形成する角石やその後で重さを支える隅脇石は,大きさや積まれ方に統一感が無く,石材の加工も先のものとは違う稚拙なもので留まっています.
 また稜線の調整の為に,石材の間に小さな石を多く詰め込んでおり,反りに対する意識も余りなく,勾配はほぼ直線で構成されています.
 こうした積み方は,算木積が発展する以前のもので,天正・文禄期から慶長・元和期の城に多く見られ,築城当時の姿を残していると言えます.

 こうした石垣を積むのには当然,経験者が必要であり,領内にはそうした技術に精通している技術者はいません.
 そこで,築城時には穴太衆の十兵衛なる人物を雇い入れ,石垣の築造に当たらせていますし,その後の算木積石垣の構築の際には,江戸の石切久兵衛と言う人物の斡旋で,肝煎与八郎,石切平十郎なる人物を雇い入れています.
 前者は,言わずと知れた近江の穴太衆で,彼らは石垣築成に精通している技術者集団であり,後者もその系統から出て,石垣普請を専門に行っていた技術者であったと考えられます.
 こうした人々を雇い入れて,現場監督や工事設計者の立場を依頼した訳です.
 但し,こうした人々が活躍したのは,あくまでも工事初期だけで,ある程度の段階まで進むと,彼らの元で技術を習得した,地元の石切に仕事を任せています.
 そう言う意味でも,初期の石垣普請は,技術習得の場として貴重なものだったのだと思われます.

 この内,本丸東側の石垣は築城当初には積まれておらず,天守台の北側一帯は長らく石垣の無い部分で,それが完成したのは築城後80年余経った1699年に漸く完成しました.

 元禄期の石垣普請は,従来積み上げた石垣の修復と言った側面もありましたが,新規に積み上げる作業も含む,かなり大がかりな工事になっています.
 1694年5月に先ず幕府からその普請の許可を得,早速石垣用の石材の調査を開始しました.
 7月に起工式である「御鍬初」を行い,その年は本丸未申櫓台石垣を修復し,1695年6月から本丸東側石垣の工事を開始しました.

 ところが,順調に進んでいた石垣工事は,その年に津軽地方を襲った凶作により,8月に一端中断します.
 この年は,春になっても寒気が去らずに雪が残り,大風が吹き荒れて大水となった挙げ句,山背も吹き続け,夏でも綿入れの小袖を着る程の寒さとなりました.
 この異常気象は領内に凶作を齎し,未曾有の大飢饉を引き起こす事になってしまいます.
 因みに,この時期の弘前津軽家の財政は,上方の商人資本の借財に頼っていました.
 その返済の引当として,既に上方への廻米が充てられていた為,この年も前年までに収穫しておいた米を,根刮ぎ移出してしまわざるを得ず,結果,凶作により収穫が激減したのにも関わらず,領内に備蓄されていた穀物は殆ど無く,1696年までには領内人口の3分の1近くが犠牲になりました.

 この飢饉は,弘前津軽家にとって藩財政の困窮を招く事になります.
 この為,「減少」と呼ばれる家臣の大量解雇を行ったり,飢饉の痛手からの復興を目指して農政の転換を図るなど,藩政に少なからぬ影響を与える事になりました.
 ついでに,1695年に石垣普請の為,如来瀬村から石を切出した所,大風が吹き荒れて大雨となり,やがて大水となったと言う記録もあり,凶作の原因に石垣普請が捉えられていて,そうした事も中断の原因になったと考えられています.
 しかしながら,一端中断したものの,石垣普請は間もなく再開されました.
 1699年には,石垣普請の再開で百姓を人足として動員した為,田畑への仕込みが遅れたと言う記録もあります.
 今と同じく,公共工事は中止と言うのがあり得ず,結局は領民の犠牲と行政への不信を招くと言う構図があった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/29 23:34
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 弘前城の天守閣再建を巡る内紛について教えられたし.

 【回答】
 弘前城の天守閣は,1627年に落雷からの出火で天守閣に火が回り,その中に保管していた火薬に引火して四散してしまいました.
 以来,天守閣の再建が為されていなかったのですが,4代当主信政の代になると藩政機構が整備され,新田が開発され殖産興業が推進されて,藩政の内外共に充実した時代を迎えます.
 それと共に,信政は弘前城の形態を大きく変更して,本丸を総石垣化し,それまで城の直下を流れていた樋ノ口川を堰き止めて,現在の西濠の基礎となる土木工事を実施し,城内に松を植えて植生を整備したほか,城の大手も北から南に改めて,城内の侍屋敷を城外に移すなど,防御施設から行政施設へと城の性格を変えていきます.

 その信政が自身の治世の総仕上げとして構想したのが,天守の再建でした.
 1708年8月,信政は「天守の再建は若年の頃から抱いていた長年の願望であり,来年の夏には幕府に届出をする予定で,工事費については, 家中の士から商人,農民に至るまで負担を分担させる事で捻出したい」と言う医師を表明しました.
 しかし,この意思は,家中に少なからざる動揺を与える事になります.

 10月,家老の滝川平右衛門が突如免職,閉門を命じられ,それに関連して42名が処分を受けました.
 この処罰の理由は判然としませんが,天守再建に消極的,あるいは反対の人々を一気に藩政から排除した宮廷クーデターであったと考えられます.
 この排除の中心となったのが,今まで財務や産業振興に力を発揮した出頭人と呼ばれる人々です.
 彼ら出頭人が,天守再建に消極的な滝川を始めとする譜代・門閥層との対立を制した事が10月の大量処分となって現れ,それ以後,天守再建計画が実現に向けて加速していきました.

 ところが,その費用調達で信政の計画は頓挫します.
 天守再建の財源として,商人達への御用金の賦課や借上げ,農民達からの夫食,種籾の徴収,家中の士からの借り上げなどを強制的に行いましたが,元禄期の農村の疲弊からまだ復興していない状況でのこうした行為は,農村の疲弊を招くばかりで,結局思った程資金を集める事が出来ませんでした.
 特に夫食,種籾の徴収と言うのは,春に藩庁が農民に貸し出した,再生産を保障する米や金銭を強制返済させると言うものであり,その返済が出来なくなった農民達は,耕作地を棄てて逃散すると言うケースが相次ぎました.

 更に,大坂の商人資本への借銀返済として,天守再建費用の為に強制徴収した米を流用せざるを得なくなる等,その資金計画が極めて杜撰なものであることが発覚しました.
 結局,1710年以降は借り上げが緩和され,10月に信政が死去した事で,天守再建計画自体が画餅に帰してしまいました.

 何処かの国の政府が,巨大なダムや新幹線を財政的裏付け無しに建設しようとしているのに似ていますね.

 こうして,後に残ったのは家中の混乱だけです.
 信政の跡を継いだ5代当主の信寿は,出頭人の代表で財政面などで辣腕を振るった武田源左衛門を切腹させるなど,今度は門閥・譜代層寄りの政策を復活させます.
 これにより出頭人達を排除し,混乱を収拾しようとした訳です.

 それから100年,この天守は再建されなかったのですが,9代寧親の代に三層の天守が新築される事になりました.
 この建築の契機となったのは,1808年12月に行われた10万石への高直しとされています.
 当時,帝政ロシアの南下が問題となっており,その対策として幕府は弘前津軽家と盛岡南部家に対し,蝦夷地への出兵と警備を命じます.
 そして,幕府は南部と津軽の対立を利用しました.
 1805年には7万石に昇格し,1808年12月には更に10万石となり,官位も従四位下,江戸城内の詰め場所も大広間詰となったのは,その出兵への見返りとされており,天守はその石高昇格記念の記念碑的な性格を持っていました.

 幕府からは本丸辰巳櫓の改築の名義で承認を得て,1809年から土台作りを開始し,1810年に棟上げ,1811年3月に完成します.

 一応,この天守は山鹿流兵学に則った雛形が造られ,それを基に建築された事になっていますが,実際には実用性よりも装飾性を重んじた造りをしています.
 例えば,二の丸に面した南東側の1階と2階に張り出しを設け,切妻屋根を掛けて変化を付け,更には縦長の矢狭間を設けていますが,本丸に面した北西側には連子窓を連続させています.
 これは南東側に縦長の矢狭間を設けているだけなので,北西側の連子窓で採光を補っている為と考えられています.
 南東側に装飾的な意匠を施し,北西側は質素共言える造りは,外側への顔と,内側に見せる顔がはっきり異なっています.
 また,南東側1階の張り出しは石落しですが,矢狭間同様,この頃には余り設ける必要が無いものです.
 他にも,外壁の白漆喰が防火構造になっているのに,軒裏は白木の儘となっているなど,戦闘指揮所としての性格よりも装飾性を重視した性格が強い事が伺えます.

 しかし,幕府の命令による蝦夷地出兵は,幕府との取決めでは250名でしたが,弘前津軽家は更に忠勤の度合いを示す為,実際にそれを上回る人数を出しており,1807年の樺太,択捉のロシアによる日本施設襲撃事件,所謂フヴォストフ事件の時には1,002名を派兵していました.
 この出兵は,金方収入の約20%,1807年では何と約37%に達し,しかも高直しと言っても領地が増えた訳では無いので,その皺寄せは領民に掛ってきます.
 これに加えて天守閣の再建を行ったので,その疲弊度合いは頂点に達し,1813年には領内最大の民次郎一揆と言う騒動が起き,その農民達は,弘前城の亀甲門迄強訴に及ぶ程になり,藩政の崩壊を加速させる事になっていきました.

 正に,経済情勢をも省みず,適当な施設を造り散らかした事が,政権の寿命を縮めた事になった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/30 21:44
青文字:加筆改修部分


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