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◆◆◆◆御家人
<◆◆◆士分
<◆◆階級
<◆江戸時代 目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 「御家人」とは?

 【回答】
 御家人は旗本と同様に将軍直属の家臣,所謂直参でした.
 ただ,その旗本と御家人の境界は非常に複雑で,江戸期でも明確な記録の根拠はありません.
 後の世では,その境界の最も明確な規準として,禄高に着目し,家禄若しくは役高200石が境界線とされました.
 これにより,武鑑に於て,200石以上ある者が旗本とされ,一般的にはこれが通用してしまいます.

 しかし,この考えには大きな矛盾があります.
 特に顕著なのは,「番方五組」と言う大御番,御書院御番,御小姓組,新御番及び小十人組の中にある,最後の小十人組で,彼らは100俵10人扶持にも関わらず,旗本に列していました.

 大御番は,戦時には将軍の御先手として活躍し,戦闘力の主軸を為す者で,1592年の5組から始まり,1615年に10組となり,1632年には15組となりました.
 各組は,それぞれ5,000石高の番頭1人に,300石高・御役料100俵の4人の組頭,それに付随する200俵高の番衆50名からなり,この他に200俵高の与力10騎と30俵3人扶持の同心20人が付いています.
 12組の内,2組が二条城,2組が大坂城に詰め,残りは営中と二の丸に勤務しました.
 彼らの内,番衆以上が旗本であり,何れも旗本の士,或いはその子弟の中で家柄と武芸の優れた者が選抜されています.

 御書院番は,戦時には御小姓組と同様に将軍警護の任に当たりますが,平時は江戸城内の要所要所を固め,儀式の際には御小姓組と交代で将軍の給仕を行います.
 将軍外出の際にはその前後を警護し,命を奉じて遠国に出張する事もありました.
 この制度は1632年に6組設けられます.
 各組には,それぞれ1,000石高の組頭がいて,200俵高の番衆50人が属し,80石高の与力10騎と,30俵3人扶持の同心20人が付いています.
 番衆以上は譜代の旗本から選任されました.

 御小姓組は,将軍側近第一の役で,任務は御書院番と同様でしたが,城外の勤務はありませんでした.
 これも1632年に設けられ,本丸に6組,西の丸に4組ありました.
 各組には1,000石高の組頭がいて,300俵高の御小姓衆50名を統率していました.
 彼らには城外勤務がなかったので,与力と同心の配属はありません.

 新御番と大御番は,御書院御番及び御小姓組の他に,1643年8月新たに設けられたもので,始めは土圭の間詰めであった事から,土圭の間組とも呼ばれました.
 将軍外出の際には先駆となり,平常は土圭の間に詰めています.
 最初は6組で編成されていましたが,1724年に二の丸に2組追加され8組となりました.
 各組には600石高の組頭の下に250俵高の番衆20人が属し,総て旗本の嫡嗣で構成されていました.

 小十人組は,扈従から転じたとも,従人の意味からとも言い,戦時は将軍親衛隊ですが,平常は交代で檜の間に詰めていました.
 組の数は,時代によって増減があり,少ない時で7組,多い時で20組にもなっています.
 各組に300石高の2人の組頭がおり,100俵10人扶持の小十人衆20人で構成されています.

 他にも,100俵高の旗本には,御畳奉行,御庭番,御鷹匠,禁裡御賄頭,御小普請方改役,御作事下奉行,御普請方下奉行,御同朋,小石川御薬園預と言った役がありました.

 「貧乏旗本」と言われるのは,この中で小十人組の事で,俗に「百俵六人泣き暮し」とさえ言われていました.
 100俵取りとは,「槍一筋の家柄」と言われ,外出には槍持,草履取及び小者と,最低3人の使用人を抱える必要があり,それに奥向きの女中や下男を加えると,使用人だけでも4〜5人に及び,真に苦しい生活となっていました.

 更に,武鑑に依れば,他に100俵未満の旗本としては,本郷丸山新町に居を構える20俵2人扶持の内藤氏,牛込軽子坂に居を構える25俵2人扶持の塩谷氏,本郷駒込専念寺宿20俵3人扶持の石崎氏,牛込市ヶ谷長円寺谷30俵2人扶持の平野氏,稲守氏,四谷西念寺町39俵8斗3升の田原氏,青山百人町30俵10人扶持の岩上氏,青山善光寺前30俵10人扶持の橋本氏,青山権田原30俵10人扶持の富田氏その他,20俵10人扶持の旗本は10数家に及んでいたと言います.

 こうした小禄旗本が成立した理由として考えられるのは,基本的に江戸幕府の相続が世襲では無く,父の願いにより幕府からその嫡嗣に賜るものであるという前提があります.
 この為,実際には無嫡や頓死による家名断絶や幕府の法令を犯したり,所領の円滑な統治が出来なかったなどの罪科により,所領を没収されたりした者等も多数いました.
 しかし,この様な事象に対し,家光までは果断な措置が下されたのですが,家綱以降は御取潰しによる浪人の増加が社会問題となり,随分と緩和されていきます.
 この様な社会情勢があって,本人や子孫,親類縁者から帰参や取立てを願い出たり,幕府の恩恵によって沙汰のある場合もあり,こうした場合は,特に小禄を与えて旗本に列したので,この様な小禄旗本が成立したのであろうと考えられています.

 一方,上州徳川庄の正田隼人は,500石の御家人であり,しかも無役でしたし,鈴木四郎兵衛は240石取りでしたが御家人となっています.

 更に,町奉行に属する町与力は下は120俵ですが,古参になれば禄高も増え230俵に達する者もいました.
 それでも,彼らは御家人であり,他の諸組与力…御留守居与力,大御番与力,諸奉行与力も何れも200俵(或いは200石)取りの御家人でした.

 制度上には明らかな規定はなく,幕府に於てさえも,「御家人」と言う言葉を旗本や場合によっては,譜代大名を含めて用いた事もありました.
 この為,その分界について1813年(或いは記録に依っては1817年)8月,阿部飛騨守正篤の質疑に対し,「大目付附札」として,
「御旗本は万石以下御番衆までの通称,御家人と申すは,御目見以上御目見以下にて差別之儀に者無之」
と答えたと,『類例要略集』に記載されています.

 将軍に拝謁する事を「御目見得」と言い,拝謁が許される者を旗本,許されない者を御家人と区分したのです.
 ところが,実際に幕府の公文書で「御家人」を定義したものは無く,この「御家人」も如何なる根拠の上に立つのかは明らかではありません.
 先の答えでは,旗本の範囲は小十人組以上の者に限るとなっており,小禄旗本や小十人組以外の鷹匠など100俵高で御目見得以上になっている人々もひっくるめて,旗本格であって,純然たる旗本では無く,御家人の範疇に含めなければならなかったりすると言う矛盾が生じます.

 一方で,幕府は柳営内の待遇や,司法上の特権を総て御目見得以上,以下で区分しており,番衆以上以下では区分していません.
 例えば,旗本に関する事案は,民事・刑事とも評定所で審理し,御目見以下は町奉行所の管轄となっています.
 ところが,番衆以下の場合でも,御目見以上の審議は評定所で行っている訳で,それから見ても,旗本と御家人の分界点は,御目見以上,以下で区分されるべきだろうと言う訳です.

 では,同心(足軽)・中間・小者は御家人に含まれるのかと言えば,複雑だったりします.
 多くの大名家の場合,こうした人々は,分限帳には人名や禄高の記載がなく,人数だけと言うのもあり,下手をすればそれすら書かれていない場合もありましたし,いくつかの大名家では,同心(足軽)でも苗字を許されなかった所すらあったりします.

 明治維新以前は,士分,或いは士格と言う言葉が用いられ,軽輩と言われた卒とは区分されていました.
 しかし維新後は,足軽・中間・小者までが士族になったので,旧士分の者はこれを「成り上がり士族」とか「新士族」と言って蔑みました.

 因みに,御家人と旗本の壁は越えられない壁かと言えば,然に非ず.
 材幹を認められて御目見以上の役職に就く事もありました.
 先述の牛込市ヶ谷長円寺谷の30俵2人扶持の旗本,平野氏は,市ヶ谷長円寺と言う御小納戸同心の役宅のあった場所が居住地であることから,御小納戸同心から勤功によって旗本に昇進したと推定されます.
 但し,その条件は厳しく,御目見以上となるには,永世御目見以上たるべし申渡しのある事が条件でした.
 幾ら親が一時御目見以上の役職に就いていたからと言っても,元々が御目見以下なので,その嫡嗣は御目見以下の役に就く事になっていました.
 こうした御目見以下が御目見以上に栄達するには,御目見以上の職を三転するか,または三代に亘って御目見以上の役を勤めるのが条件になっていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/26 23:26
青文字:加筆改修部分

 さて,昨日は御家人と旗本の境界線について書いていた訳ですが,御家人と旗本の境界は決して越えられない壁ではありません.

 練馬区谷原町高野台と言う場所に,谷原山妙薬院長命寺と言う寺があります.
 1613年慶算阿闍梨と言う木食沙門の創建で,弘法大師作と伝えられる太子像を祀り,境内の規模が紀州高野山に似ている事から,東高野山或いは新高野山と言われ,『江戸名所図会』にも挿画附きで記載されている名刹です.

 この名刹の開基慶算は,小田原城主北条早雲の庶子,勘解由重胤の孫で,父を次郎右衛門重興と言いました.
 慶算の俗名は,勘解由重明と言い,天正年間に北条氏規に従い,秀吉による小田原城攻略の際には伊豆韮山で籠城しています.
 1580年7月の後北条氏滅亡後は,この谷原の地に退き,姓を増島と改め帰農しました.
 谷原の地は古くからの後北条氏の所領で,1559年の『小田原北条家所領役帳』には太田新六郎康資の知行地でした.

 勘解由重明には子が無かったので,弟左内重国の子新七郎重俊に家督を譲り,自身は入道染衣の身となり,名を慶算と改めました.
 その後,高野山に登って阿観禅念を凝らしますが,一夜弘法大師の夢のお告げを得て大師自作の像を得て祀ったのが,現在でもある太子堂になりました.
 慶算は,1616年3月12日に80余歳で入寂します.

 その後,跡を継いだ新七郎重俊は,慶算の遺志を継いで,長命寺の境内を紀州高野山に模し,堂宇を建立した為,前述の通り,新高野山とか東高野山とか言われるようになった訳です.

 ところで,新七郎重俊の子に平太夫重辰と言うのがいました.
 重辰は,後の将軍綱吉が上州館林で25万石を賜り,館林宰相と言われていた頃に神田御殿に仕えています.
 家綱は病弱の上,世嗣が無かったので,綱吉がその後継者となり,1680年5月江戸城に入り,5月8日の家綱薨去により,5代将軍に就任しました.

 重辰は1680年に綱吉の嫡嗣徳松に仕えて御家人に加えられ,150俵を賜り,西の丸に勤仕していましたが,ある日西の丸から退出する際に,飯田町に於いて同僚草間源左衛門から不意に槍を突き出され手傷を受けます.
 源左衛門は,その場で重辰の家来により成敗されましたが,重辰も手傷が元で,1682年5月9日,56歳で死去しました.

 この事件は調査の結果,源左衛門の乱心と判明し,重辰の子である重信の家督相続が許されます.
 平太郎重辰の長子六右衛門重信は,1682年7月12日,父の遺跡を賜り,西の丸に勤めました.
 しかし,徳松が僅か5歳で早世してしまったので,重信は小普請組に落とされ,無役の儘5年が過ぎましたが,1688年12月5日,召し出されて御勘定になりました.
 御勘定と言う役は,老中御支配の御勘定組頭の次席で,御役高は150俵ながら御目見以上,焼火の間席と言う地位でした.
 その後,30年近くこの職を無事に勤め上げ,1714年8月22日に職を辞し,1729年正月21日に78歳で死去しました.

 重信を継いだのが,次子の信包で,1709年4月6日御勘定になりますが,1720年正月28日,御米蔵の立会を勤めていた所,農民が不良米を収めていたのに対して格別の詮索をしなかったのは,落度の至りであるとして,御咎小普請となり,屹度謹みいるよう厳命を蒙ります.
 しかし,小普請に落とされたのはほんの僅かの期間で,4月には職に復し,1743年4月10日50歳で死去しました.

 信包の長子は早世したので,御家断絶になる所,娘に長谷川伝八郎直孝の子を養子に迎え,信都と名乗り,1743年6月2日に家督相続となり,御勘定となりますが,1748年閏10月10日,26歳の若さで死去してしまいます.

 しかし,嫡嗣として信興がおり,信興が僅か6歳にして,12月23日に信都の遺跡を継ぐ事になりました.
 勿論,6歳の子に御勘定になれる筈もなく,小普請支配だったと思われます.
 1762年12月7日,21歳で10代将軍家治に拝謁して,名を信道に改め,1795年7月17日には御書物奉行に任ぜられました.
 御書物奉行は若年寄支配に属し,200俵高.
 焼火の間席で幕府の書庫を管理し,書物の編集などを行う職です.
 この職が信道には合っていたのか,1797年7月21日には国絵図や御城絵図を修理した功で白銀5枚を賜るという栄に浴しました.
 信道は文字にも明るく,学者との交わりも多く,荻生徂徠門下で,折衷学派の開祖にして儒学者である井上金峨に長命寺の由来記を委嘱し,その撰を得て碑を建立しました.
 この『長命寺由来記』は本堂の前に今もあり,高さ3mに達する立派な碑です.

 信道の長子信行が跡を継ぎます.
 信行は1796年6月13日に25歳で11代将軍家斉に拝謁しました.
 信道と同様に,信行も文化人的素養があり,1797年6月17日には学問を試みられますが,その成績が極めて優秀だった事から白銀10枚を賜っています.
 信行は,後に大御番に抜擢されました.
 大御番は,先述の通り,200俵高で将軍の御先手となる番方の中でも特に由緒ある役で,家柄と武芸に秀でた者が選ばれています.

 こうして,増島家は一端野に下りましたが,後北条氏の血を引く名門でしたから,重辰の時に新規御召抱えになり,重信,信包,信都と3代続けて御目見以上の職にあった事から,信道は御書物奉行,信行は大番衆と旗本の家筋になりました.

 尤も,その地位を築くには,実家の長命寺の援助が相当額あったのかも知れませんけれど.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/27 22:11


 【質問】
 御家人の中の階級制度は?

 【回答】
 さて,御家人の身分には様々なものがあります.
 御家人と言えば,株を買うとか色々あって,一代限りと思われがちですが,その中の区分によって身分が明らかであり,その中には世襲する区分もありました.

 御譜代席と言うのが世襲する御家人で,これは御目見は出来ませんが,三河以来の譜代の者に限られた席です.
 世襲なので,父が隠居又は死去した場合は子が家禄を継ぐ,家督相続が可能でした.

 この中でも,席以上と席以下の2つの区分に分けられます.
 席以上は裃役と言って,礼服は熨斗目麻裃,平常は継裃であり,家督相続は躑躅の間で行われました.
 席以下は羽織袴役と言い,熨斗目の着用は出来ませんでした.
 家督相続も焼火の間で行われ,所謂小役人がこの範疇に入ります.

 それに次ぐのが御譜代准席と言い,元々の身分が御抱席の者でしたが,二半場に転役したので,御譜代席に準じるとされています.
 御抱席は一代限りであり,親が死亡して子が出る場合には,新規召抱えの手続きが必要となります.

 ただ,御譜代准席は家督相続が許され,礼服は麻裃,熨斗目着用,平常は継裃でした.
 これは身分は低いものの,将軍に接近する立場の人々であった為に優遇されたものです.
 この席には,奥坊主頭,御広敷小人頭,御露地之者,御台所御簾中使丁,御広敷小遣之者が含まれます.

 諸組与力は各御番及び奉行所に属する役で,騎馬の待遇を与えられていた事から1人2人と言わず,1騎2騎と数えられました.
 俸禄は45〜80石取りであったので,120俵乃至200俵取りに相当します.
 禄高は小十人組より遙かに高いのですが,御目見以下の御家人でしかありません.
 役裃と言い,勤務上裃の着用が許され,普段は裃を着用しません.
 礼服は熨斗目,麻裃,白帷子を用いました.
 諸組与力も,内部的に御譜代席と御抱席の2つに分れており,御譜代席ならば病気その他で隠居が認められ,その場合は,子が家督を相続する事が出来ました.

 但し,その相続は「番代り」と言われ,他の御譜代席とは区別されました.
 御抱席の場合は,隠居が許されず,近親の者が跡目として御抱入れとなります.
 これも実質上,子が御抱入れになるので,譜代と同じですが,形式的には相続では無く新規御召抱えとなりました.

 与力の配下になるのが諸組同心.
 与力と同様に各御番・奉行所等に属し,御譜代席と御抱席に分れています.
 相続方式は与力と同じで,礼服は頭の印を付けた絹羽織に袴,平常は羽織袴でした.
 但し,町奉行所同心に限り,羽織着流しとなっています.

 御徒は,御抱席で勤めを辞めると,近親者が新規御召抱の形で勤めに出ます.
 20年以上勤めた者や,70歳以上まで勤め,子が新御召抱になった場合は,御徒頭支配に入り,終生70俵5人扶持が支給されます.
 この支給額は年金の様にも見えますが,この時,子は7人扶持を賜るのみで,父親の生存中は代番であり,父が死亡した時初めて,子に70俵5人扶持が支給される訳です.
 また,勤続20年未満で病気の為退く場合は,3年間御徒頭の支配に属し,従前通りの俸禄が支給されます.
 そう言う意味では,セーフティーネットみたいなものです.
 礼服は熨斗目白帷子を着用し,平常は黒縮緬の羽織に無紋の袴でした.

 最後が,御目付支配無役人と言い,御中間,御小人,黒鍬の者,御掃除の者の四役を指します.
 こちらは身分こそ低いものの,御譜代席であったので,相続も出来ましたし,無役になった場合は,旗本や他の御家人の様に小普請入りする事無く,御目付支配無役と言われました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/04 22:31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 御先手組とは?

 【回答】
 さて,今日は御先手組の話.
 この御先手組は,少なくとも1601年頃には設置されていた役職で,3,000石以上の無役の旗本または低い役の旗本を頭に,その下に与力10騎,同心30名,もしくは与力5騎,同心20名と言った具合に配属されていました.
 御先手組頭は始め34名おりましたが,後に弓組8組,鉄砲組20組となり,盗賊火附御改本役に出役する他,加役,増役で随時出役しました.
 彼らは,戦時には将軍の先陣を務める者である為,武勇の者が選ばれ,頭分には1,500石高の布衣で,躑躅之間詰となりました.

 この弓組と鉄砲組の比率は時代によって増減があり,1680年代には弓組10組,鉄砲組26組であったものが,1730年代後半には弓組9組,鉄砲組19組に減少しました.
 なお,1605年までは与力はおらず総て同心ばかりでしたが,それ以降は与力も配置されています.
 与力は御目見以下の御家人で,若年寄の支配に属し御譜代席でした.
 この御先手与力が番組衆になったのは1791年12月以降で,それ以降は1番組,2番組という様になっています.

 彼らが住んでいた拝領屋敷のうち,弓組は本郷3丁目の西,小笠原佐渡守中屋敷近辺に設けられ,この一帯を本郷弓町と称していました.
 この地は江戸城から見て鬼門になっていた事から,慶長や元和の頃は御弓組を6組置き,毎日的場で矢を射らせて,魔除けとしました.
 しかし,1625〜27年頃に江戸城の鬼門除けとして新たに寛永寺が建立された為,彼らの仕事が無くなり,その後彼らの屋敷は関口目白台に移され,この目白台地を新弓町と称しています.
 後にこの地は,高田老松町となりました.

 また,1683年に江戸大火で焼失した天竜寺の跡地に,御先手与力10騎が2組住む様になった事から,内藤新宿に二十騎町と呼ばれた組屋敷地が出来ています.

 与力の組屋敷は1戸当り300坪で,そこに自普請で50坪ほどの玄関付門構えの住家を建てました.
 与力は一応,騎馬の待遇を与えられ,1騎2騎と数えられましたが,定火消御役与力以外は馬を飼っている者が少なく,出役で生活に余裕があれば,下男や下婢を2名ずつ遣っていましたが,多くは一僕一婢を遣っているだけでした.

 同心の方は,1戸当り凡そ100坪ほどでそこに12〜13坪の居宅を構え,外見はこざっぱりとした暮らしをしていました.
 なお,同心の組屋敷には必ず2〜3軒の空地があり,元服を迎える息子のいる者は仮御抱えの願を出し,見習勤めをさせました.
 その見習勤めでは,若干の扶持があり,空地の100坪を利用する事も出来ました.

 御先手与力は番士と言って,平常は肩衣を着用し,五節句には熨斗目の麻裃を,また時には服紗小袖麻裃を着る事もありました.
 この熨斗目や肩衣の着用を許可されていたのは,御目見以下では与力と御徒目付与力及び御徒組頭に限られていました.
 平常は下僕1名を連れ,下僕は袋に入れた福草履と傘などを持ち,法被などを着る場合もあり,またはカンバンと言う紺無地の着物に草色の広幅帯を締め,木刀1本を腰に差していました.
 与力は戦争の場合,将軍の先手として行動するので,自分の具足,自分の陣羽織を着け,槍持等を召し連れ,騎馬で出陣します.
 因みに,御徒以下の場合は,具足の新調も容易ではなかったので,城内に海老柄具足と言う赤い具足を備えており,いざ合戦という場合には,これを借りて出陣する事になっていました.
 これを御貸具足と言います.

 その後,泰平の世になると,各組交代で平川口御門,下梅林坂下御門,紅葉山下御門,蓮池御門の警備に当たり,将軍お成りの際には中間に槍を持たせて定めの場所に出張し,御道筋の警戒と固めに任じました.
 特に日光社参の御供を命じられた場合には,供男として侍1名,槍持1名,挟箱1名,別当1名,合羽籠担ぎ1名,宰領1名と御上から下された人足1名の計7名を召し連れ,騎馬でお伴しました.

 交代である事から,平常の勤めは月に4〜5回,同心と供に前記諸門の警備に就きます.
 当番の日は朝5つ(現在の午前8時)に出勤し,与力は出勤帳に月日と氏名を記入し,花押を自署しました.
 なお,花押を許されていたのは士分以上であったので,同心は月日と氏名を記入し,実印を押すだけです.
 勤務は先ず同心が,前番の者から御番所備付の器具,帳面を請け継ぎ,申し伝えの事があればこれを聞き取った後に交代します.
 そして,前番の張幕を払い,白麻地に頭の紋所を黒く染め出した自分の組の幕を張りま,それから当日の勤め向きの用意をしました.

 先ず,当日の火の番役を定め,その任に当たる同心は自分や相役などの弁当の湯茶を用意し,頭の居室や与力番所の火鉢に火を運び,湯沸かしの薬罐に湯を入れるなどの役目がありました.
 御先手組頭は,勤務中常に上の間という奥まった一室に構え,用人2名が次の間に控えていて勤め向の用を足していました.
 又与力は本番所に詰めていましたが,同心は本番所の外に,御門の枡形と言う櫓門と仮葺門の間にある見張番所などに分散して,諸役人などの通行に注意を払いました.

 見張番所の同心は,遙かに見える槍印か提灯印によって,誰が来るかを確認し,それを本番所に連絡する役目を負っています.
 毎朝10時,つまり,四つの太鼓が鳴ると,諸役人が相次いで登城し,その内大老,老中,若年寄が登城します.

 時には御三家や御三卿が通行する事もあり,その際には普段上の間に構えている御先手組頭も出て来て本番所の前に立ち挨拶をします.
 組頭は少し頭を下げ,両手を膝の辺りまで下げるだけですが,与力・同心は下座台に座って低頭します.
 下座台とは,本番所の前にある幅3尺,長さ6尺,高さ5寸ほどの板敷で,これを横に2つ3つ並べ,その上に粗筵を敷いたものです.

 大老,老中や若年寄の通行の際には,数人の同心が六尺棒を突いて本番諸近くの所々に立ち,「下に居ろ,下に居ろ」と言って他の通行人を制します.
 この時,下座台に居並ぶ同心は,異口同音に「ハイヨーハイヨー」と声を掛けるのです.
 これを同心の「制し声」と言います.
 また,大目付,御目付,御側用人等の通る時は,御先手組頭は挨拶に出ず,与力・同心のみ本番所前に居並び低頭しますが,この時の同心は異口同音に「イヤオイイヤオイ」と言う「制し声」を掛けました.

 因みに,大手御門やその他大名受持の門番所には「下座見」と言う渡り者がおりました.
 彼らは,受持の大名が交替しても,必ず次の大名に雇われました.
 大手御門は10万石以上の御譜代大名が,3カ年月番交替で勤めました.
 経営には鉄砲30挺,弓10張,長柄20筋,持筒2挺,持弓2組で,番侍は10名の内番頭1名,物頭1名が常に肩衣を突け,他の侍は羽織袴を着用していました.
 他に内桜田御門,西丸大手御門,外桜田御門,半蔵御門なども10万石以上の御譜代大名が3カ年ずつの経営を命じられました.

 「下座見」はいつも木綿の菖蒲革染めの行灯袴を履き,同じ染色の羽織を着ていました.
 冬は袴と同じ布に包んだ手焙りあんかを抱えて門番所に居並びますが,時の役人は勿論,諸大名の槍印,提灯印を熟知していて,一目で誰が来るかを確かめ,更に,御三家・御三卿を始め,大老,老中,若年寄が通行する場合には,「ヘイヨーヘイヨー」と制し声を掛けました.
 こうした職業を長らく勤めてきただけにその声は美しく,力があると言われました.
 そうした特技があるからこそ,渡り者と雖も,解雇される事は無かった訳です.

 ところで,こうした勤務は概ね泊り番でしたから,当番日には着替えの衣類や夜具を入れた黒張葛籠と,3度分の弁当を,予め組屋敷で雇っている荷持ちの男に運ばせておきました.
 与力の葛籠には着替えの肩衣,麻裃,服紗小袖,夏ならば染帷子,夜具蒲団,寝間着などが入れてあり,大きさは縦3尺5寸,横2尺5寸,深さ2尺5寸の黒張りでした.
 同心のそれは,着替えの数が少ないので,縦3尺,横2尺,深さ1尺の小さなものでした.
 荷持ちは,これらの黒張葛籠を,当番の日に交替時刻後に本番所に運び,翌朝は明番交替時刻前に受取りに来ました.

 御先手組の勤務は基本的には番士でしたが,出役として盗賊火附改加役を勤めたり,学問所出役として昌平黌に出勤する者,御薬園出役と言って御府内の各御薬園に出勤する場合もありました.
 とは言え,出役は一時限りであるので,与力に関しては結構閑だったりします.

 御先手組同心は六尺棒を突いて人を制するので,「棒突」とも言われました.
 弓組と鉄砲組は,何れも30名ずつ配置されています.
 与力と異なり,若年寄の技術検分があるので,平常でも弓組は弓を射たり,鉄砲組は鉄砲を撃って稽古に励ました.

 彼らも平常には,与力と供に御門警備に当たり,彼らも袴,自家羽織で出勤する羽織袴役でした.
 五節句や祝日には役羽織と言い,予て組頭から渡されている背中に1箇所径2寸ほどの大きさで,組頭の紋所を染め出した黒羽二重の丸羽織を着用しました.

 因みに,町与力や町同心は格が最も低い割に莫大な役得がありましたが,御先手与力や御先手同心には殆ど役得がありません.
 精々が当日の火の番に当たった者が,使い残りの炭や灯油を空の炭俵に入れ,黒張葛籠を運ぶ荷持に持って帰って貰うのが関の山でした.

 ところで,小身者は晴雨に関わらず半合羽を着ると言う奇妙な習慣が江戸期にはありました.
 これには次の様な伝説があります.

 三代将軍家光が暇に飽かせて一日中物見の窓から城内を眺めていると,両刀を帯びた者が,両手に炭俵を提げて城門を出る所を見て,御側の者に,あれは何かと尋ねた所,御側の者は,彼の者は御膳所の小身者で,御膳所の残り物をああして持ち帰り,辛うじて生計を立てておりますと答えました.
 これを聞いた家光は,同情したのですが,彼らの給料を上げる事はせず,あのように剥き出しで持ち歩くのは武士として見苦しい,以後掛る者は合羽を着用せよと仰せになり,小者で品物を持ち帰る者は,晴雨に関わらず半合羽を来て勤めに出る様になったと言う事です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/11 23:08
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 【質問】
 「八王子千人組」とは?

 【回答】
 八王子に住まった御家人が,八王子千人組です.
 これは御槍奉行の支配下にあり,殆どの者が甲州武田遺臣の出身で,世襲でした.
 この八王子千人組は,八王子千本槍衆とか,八王子千人同心等とも言われています.

 1582年3月,織田信長の甲州攻撃により,武田勝頼が天目山で自刃を遂げ,滅亡してしまいます.
 武田氏滅亡の後,甲州は河尻秀隆による一国支配が行われますが,本能寺の変で信長が倒れると,甲州に徳川家康や北条氏政が土豪等に一揆を使嗾し,遂に秀隆は一揆勢により無残な死を遂げました.
 こうして,一時的に甲州は無主の地になりましたが,7月に家康はその果実を収穫する為に,氏政と争って甲州に進出し,後北条家に先駆けて甲州を占拠,12月には後北条家支援の一揆勢を鎮圧しました.

 そして家康は,1583年4月武田遺臣9名を浜松城に招き,武田家と出仕の時と同じ待遇を与え,甲斐一国の処置を命じると共に,次の様な分担で甲斐の警備を命じました.
 甲州の総司令となったのが原胤従,武州秩父口を警備したのが萩原昌之,信州佐久郡境を警備したのが窪田正勝,諏訪境口を警備したのが河野通重,興津口が窪田忠簾,富士川口が中村安直,富士山際が泉胤蔵,相州境が志村貞盈,津久井口が山本忠玄です.
 こうして武田遺臣は再び,こうした武将の元に出仕する様になりました.

 そして,1590年6月23日,7月5日の小田原城落城に先立ち,八王子城が城主北条氏照留守居横井監物の出奔により,城下が騒乱状態に陥った際に,甲州在勤の小人組を八王子に移駐させました.
 これが八王子千人組の興りと言われています.

 尤も,これには別の逸話があり,これは信玄の末娘松姫に纏わる話です.

 松姫は,1568年,8歳の時織田信忠と婚約しますが,1572年12月に三方原の戦が起きて,信長が震源と対立した為,婚約は沙汰止みとなり,以後は新館御寮人と呼ばれ,異父兄の仁科五郎信盛の庇護の下で暮らしていました.
 信長の武田侵攻の際には,勝頼と共に天目山に落ち延びていきました.
 しかし勝頼は自刃したので,松姫は天目山奥深くに逃れ,後に栗原の海洞寺に隠れます.

 この頃,松姫に興味を抱いて側室にしようと,家康が八方手を尽して彼女を探そうとしたので,彼女は甲斐を逃れて武州の安下山に潜伏しました.
 その後,秋山虎康の女で,穴山梅雪の末弟彦八郎信邦の妻であったお都摩と言う女性が,松姫の身代わりとなって家康の側室に入りました.
 これが後の武田信吉の母となる下山殿です.

 松姫は自分の身代わりが出来た為,これを機会に八王子の横山に出ます.
 そして,横山に移ってからは,松姫の健在を知って,武田遺臣が次々にやって来て姫を守る様になり,これが後に八王子千人組となったとされています.

 こちらの方は完全に俗説っぽいですが.

 時に,1590年に家康は秀吉によって故地を取り上げられ,関東に移封されます.
 所謂関東討入りと言うものです.
 隣国の甲斐には,秀吉の親族である浅野長政が封じられ,従来からの故地は仮想敵国となりました.
 この為,家康に着いて関東にやって来た武田家の遺臣240名に,町屋敷と若干の田畑を与え,屯田兵として駐屯させ,秀吉と戦争になった際には,小仏峠に進出して浅野軍を迎え撃つ任務を持っていました.
 そして,この場所で優に二時(今の4時間)程食い止めれば,江戸から精鋭部隊が駆付ける手筈になっていました.
 その武器は,長さ1間柄の握り太の樫の槍でした.

 当初,240名だった戦力は,1591年に250名を追加,1599年には代官大久保長安が,武田や北条の遺臣から500名を選抜して,甲州以来の同心と合わせて,1,000名の大兵力に育て上げました.

 先述の通り,この八王子千人組は,長柄槍組と共に御槍奉行の支配下に属し,小頭の下同心100名から成る組10組で編成されていました.
 因みに小頭は,1768年5月に組頭と改名しています.

 戦時は当然重要な槍部隊ですが,平時は極めて閑職でした.
 とは言え,江戸に事ある場合には,真っ先に駆付ける事になっており,1657年と1659年の2度の江戸大火の際には八王子から駆付け,市ヶ谷天竜寺に至り,そこに駐屯して幕府の命を受ける様になっていました.
 また,月の内六斎,つまり,6の付く日は,近くの浅川河原に出て槍の稽古をさせられます.
 それは膝っきりの筒袖に陣笠を被り,両刀を差し,1組ずつ揃って膝頭まで川の中に浸かり,「いよう〜」とかけ声諸共槍をかぶり,「やー」と一声,川面を叩く練習を繰返し,腕の感覚がなくなるまで行うと言うもので,この稽古は,羽織袴姿の稽古見届役が床几に腰掛けて監視していました.
 他にも,弓,刀,乗馬の訓練も一通り行った様で,八王子には馬場横丁と言う地名が残っています.

 1652年以降は組頭5名,同心45名で日光山火消番を勤める様になります.
 当時日光までは,どんなに急いでも4日3晩掛りましたが,1回50名で半年ごとだったので,当番は10年に1度しか回ってきませんでした.
 また,1800年には同心の子弟130名を選抜して千人組頭原半左衛門胤敦に預け,蝦夷地御用として彼の地に渡り,松前奉行の支配下で白糠や勇払に屯田していましたし,1865年9月の長州征伐では,陸軍奉行の支配下で従軍しています.

 この八王子千人組の俸禄は,組頭筆頭の志村源一郎が500石を給されていたのですが,これは例外的で,組頭は普通200俵高,一般同心になると家格は30俵2人扶持にも関わらず,平均12俵半しか支給されていません.
 寛政の改革により,20俵が94名,15俵が440名,10俵が実に466名もいたりします.

 屋敷は,1593年に元八王子が現在の八王子に移転した際,千人組の屋敷も移転し,その広さは東西13町,南北12町から5丁ばかりと言う広大な敷地の者です.
 1789年には此処に,10名の組頭と92名の同心が居住していましたが,1524年には同心は82名となりました.
 それ以外の同心の大部分は,八王子を中心とする近在3里四方の地に土着し,多少の田畑を拝領して養蚕などにも励んでいたそうです.
 正に半農半兵の生活ですが,畑仕事にも脇差だけは離さず,名も武家名と百姓名を使い分けています.
 また,内職として,甲州の産物を仲買し,江戸に持ち出して売り捌くと言う事をしていましたから,10俵と雖も,自分が食べられるだけの収入は得ていたようです.

 因みに,八王子千人組の組頭拝領屋敷の坪数は,
原半左衛門が7,000坪で同心7名と同居,
山本橋五郎が5,100坪で同心8名と同居,
萩原頼母が5,100坪で同心10名と同居,
石坂彦三郎は2,000坪で同心14名と同居,
窪田岩之丞が1,198坪で同心10名と同居,
志村造酒之助が7,198坪で同心10名と同居,
中村万吉が4,356坪で同心7名と同居,
河野松蔵が4,500坪で同心8名と同居,
窪田喜内が3,600坪で同心5名と同居,
萩原弥左衛門が1,917坪で同心4名と同居
しており,平均的な同心の屋敷は1人240坪前後を有していたようです.

 こうした八王子千人組は世襲ですが,ただそれは有名無実で,株のようになっていました.
 『東海道中膝栗毛』の作者である十返舎一九は,本名を重田貞一と言い,1675年に駿河府中に生まれましたが,父親は千人組の株を売って,駿府に移り町人として一生を送った人です.
 ただ,一九は痩せても枯れても御家人であると言う気概を持っていたようで,墓石や過去帳には,元八王子千人同心の子と明記されています.

 ところで,1867年の幕府瓦解により,悲劇的な最期を遂げた人がいます.
 先述の通り,八王子千人組の任務には日光山火消番と言うものがありました.
 幕末最後の火消番御頭としてその任に当たったのが,石坂弥次右衛門義礼でした.

 1868年3月末,官軍の板垣退助が日光山攻撃の為,日光街道,壬生街道から迫ってきました.
 当時,日光山には八王子千人組の50名と,日光奉行支配の50名足らずが駐屯していたに過ぎません.
 しかも,その武器は官軍の先進的な銃砲に比べれば,高々1間の素槍のみ.
 当時60歳だった石坂弥次右衛門は,何としても神君御霊廟を戦火から守ろうと,板垣退助との交渉に臨もうと狂奔し,漸く本宮別所で両軍の談判が行われる事になりました.
 談判の結果,幕兵は一兵残らず日光山から撤退するので,引換えに官軍は砲火を用いない事で決着します.
 かくて,日光東照宮は砲火を免れたのですが,八王子千人組屋敷に戻った石坂に対し,戦わずして良くもおめおめと帰ってきたな,などと周囲は罵詈悪態を浴びせました.

 この為,1868年4月10日,憐れ石坂は自宅に於いて自刃して果てました.
 そして,その死は全く世の中から忘れ去られ,その死から実に99年目の1966年4月10日,やっとその墓地のある興岳寺境内に,彼の顕彰碑が建てられたと言う事です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/13 23:49
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 【質問】
 「御掃除之者」とは?

 【回答】
 さて,御家人と言えば,羽織袴とか裃姿の人々をイメージする事が多いのですが,半纏を着て働く人々も御家人の範疇に入ります.
 まぁ,この辺まで来ると,御家人の範疇か否かについて異説も多いのですが.

 現在の港区赤坂台と言いますから,TBSのある辺りでしょうか,この辺りの一部に,青山御掃除町と言う所がありました.
 松平安芸守中屋敷の西,稲荷坂の両側に組屋敷があります.

 この場所に住んでいたのが御掃除之者と言う役職の者で,俸禄は10俵1人半扶持と言う,御目見以下でも最低に属していますが,御譜代席だったりします.
 この辺りの地は,西の丸の御小人板倉弥作の先祖板倉弥兵衛が,家康の江戸入府の時に三河から御供をしてきてこの辺りを拝領したのが最初で,その後上地となり,後年青山大膳亮の屋敷となりましたが,更に御掃除之者30名に対する大縄地として賜り,青山御掃除町となりました.

 御掃除之者は,その名の通り,江戸城内に於ける清掃を主たる任務とし,その他に走り使い,物資の運搬にも任じました.
 定員は時代により異なりますが,最も多い時で200名以上おり,これを3組に分け,各組を御掃除頭が統括していました.
 この御掃除頭は家康入府の時に既に役職としてあり,御掃除之者は70名がこの頃抱え入れられたと思われます.
 その後,1664年12月に50名を新たに抱え入れ,従来の御掃除之者と併せ120名となりました.
 1731年5月には更に増員して183人,1760年には部屋住の次男や三男から8名を選んで定員を増加しました.

 各組は御掃除頭の下に組頭を置いて直接御掃除之者を指揮監督させました.
 彼らは紅葉山,吹上御庭を始め,浜御殿や千駄ヶ谷の煙硝蔵に配属される者もいました.

 御掃除頭は御目見以下の御譜代席で,100俵高持扶持勤め裃役でしたが,江戸幕府最後の年である1867年には別に勤務金20両が支給されました.
 当初,この職には小人目付の老功のある者から選ばれましたが,後には目付支配無役世話役,つまり,目付支配の無役の者を監督する役,学問所上番,評定番,表火之番から補任され,この役職の後,勘定,火之番組頭及び御添番へと昇進していきます.

 組頭は御掃除之者の中で勤功のあった者がなり,その人数には定数がありませんでした.
 これも御譜代席で30俵4人扶持を給されました.

 御掃除之者は先ほども触れましたが,10俵1人〜1人半扶持で,これでも御譜代席であり,白衣勤めとなっていましたが,1814年7月以降は御抱席の黒鍬者や御掃除之者で10年以上勤めた者を御譜代席に格上げと変更されました.

 なお,御浜御殿に配属された御掃除之者は,お手当金が別途3分支給された上に,大手御門門中の御門の中間に御長屋があり,そこに住まわせて貰っていました.

 たかが御掃除之者と雖も,そんじょそこらの一般庶民とは格が違った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/09 23:37
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 【質問】
 御家人の住居は?

 【回答】
 江戸の場合,町家と武家地とが明らかに区分され,武家は分限の大小に関わらず,町屋に住む事が許されませんでした.
 これは1623年の御触で,「諸士の市民及び処士との雑居を禁ず」とされ,違反者は屋敷を没収されたりした為です.
 こうした形で,武家と町家の分離が図られていきますが,面白い事に,武家地は町奉行支配外だった事から,元々町名が無かったりします.
 良く,駅名や町名なんかで,「由緒ある地名を残せ」等と言う話があったりしますが,江戸の中心部はそもそも町名が無い訳です.
 尤も,それではどこに住んでいるか判りづらい事もあり,便宜上,町名を付ける様になり,それが定着していきました.

 御家人の屋敷は,多くの場合「組屋敷」と言って,組頭統率の下に,1箇所に屋敷を作りました.
 この地区を「大縄地」と呼び,多くは組の名をもって,例えば,御町奉行屋敷とか,御徒組屋敷などと呼んでいましたが,後にはそれが御徒町,百人町,駕籠町,弓町の様に便宜上の町名が付けられていきました.
 この町名には,そこに住む御家人の役職名や組頭の名が付けられ,例えば,本郷森川町は,与力6騎,同心50名で中山道の守備に任じた森川氏信の姓によるものであり,新宿左門町は,従来は武蔵忍城の番士であって,後御先手組となった与力・同心の組屋敷で,忍町だったものが1626年以降,御先手組頭となった諏訪左門の名によって改められたものです.

 以前,秋田城の話を書いた折りも触れましたが,こうした拝領屋敷は坪数が決められています.
 10〜15万石だと7,000坪もの広大な敷地ですが,大名にギリギリの1万石程度だと2,500坪とかなり小さくなります.
 9,000〜1,000石程度までの大身旗本の場合.2,300坪〜900坪程度,これが1,000石未満となると更に小さくなり,600〜500坪程度になります.

 御家人だと,200俵取りの役職の場合は300坪,150俵取りの役職の場合は200坪,50俵程度となると100〜200坪となり,30俵取りでは100坪,15俵取りでは70坪となります.
 町与力は,新参で130俵,古参になると230俵ですから,大体旗本と同じ位の300坪前後の屋敷が宛がわれます.
 一方,御徒衆は70俵5人扶持なので,それよりも小さく,100〜200坪.
 但し,御徒衆は20組もあったので,組屋敷は下谷,本所錦糸町,深川元町など各地にあり,拝領地によって,坪数は異なりました.
 下谷の場合は1戸当り100坪ですが,深川元町では130坪,そして本所錦糸町になると200坪となります.

 組屋敷の構造は,その一画の中央に道路を設け,その左右に2〜30戸の拝領屋敷が整然と並んでいます.
 門は身分や格式により截然と区別され,必ず両開きの冠木門になっています.
 両扉の冠木門が許されるのは,100石以上の士であり,それ未満は木戸でした.
 しかし,一方で30俵とか15俵と言った薄給の人々の組屋敷は,例えば巣鴨駕籠町にあった,20俵2人扶持の御駕籠之者の組屋敷は,門も無い酷い家が多く,例え門を立てても,それは削りもしないの2本の丸柱をそのままに建て,真中に扉が無く,左右に木戸を付け,家人はそこから出入りしたと言い,門の左右には杉などを植えて生け垣としていました.

 大久保百人町の御鉄砲組(伊賀組)の組屋敷の場合,東西に木戸を設け,道を挟んで南側と北側に25戸ずつの同心の屋敷が整然と並んでいました.
 しかも,総面積19.3万坪と言う広大な面積で,同心100人分の屋敷152,574坪,支配与力4名の屋敷7,492坪,支配与力4人の練場が4,270坪,組頭抱屋敷が13,000坪,大筒角場が8,164坪,組鉄炮角場が6,560坪,長光寺1,164坪と,付属施設も充実していたりします.
 御徒組の深川元町の組屋敷も,北に2戸の総門を設けて一画をなし,門を入ると幅3間の道,その左右に1戸当り130坪ずつの敷地を持った御徒衆の屋敷が並んでいました.

 その広い敷地に建つ家は5間ほどで,玄関の次に長四畳があります.
 これは畳を縦に4枚並べた細長いものでした.
 次が長六畳,それから八畳,続いて茶の間で,台所もかなり広いものでした.
 大体がこんな感じで,少し給与の良い場合でも,玄関三畳,次が八畳と六畳,それに台所と雪隠と言うもの.
 更に裕福だと,一間二間ほどの座敷と湯殿を持っていましたが,これは稀なものでした.
 これだけの建物ですから,広さは,現在の我々の建て売り住宅とほぼ同じの20〜30坪で,しかも平屋ですから,今の我々の家よりも狭かったかも知れません.

 残りは空地となりますから,この部分に作物を植えて育てたりする内職が盛んに行われていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/05 23:29
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 組屋敷の防火体制は?

 【回答】
 最初は,定火消御役屋敷.
 今の消防署的な役割を果たします.
 元々,消火活動は各大名家に依っていたのですが,大火が重なると幕府としても自前の消防組織を設置する必要性を痛感し,1658年9月8日,従来の大名火消の他に,幕府直属の消防組織である定火消を設置します.
 当初,この定火消御役屋敷は,麹町,飯田町,伝通院前,御茶ノ水の4箇所に置かれ,1659年8月21日には,更に八重洲河岸と代官町に増設,1662年2月8日には市ヶ谷左内坂と駿河台土手の2箇所を増設して計10組となります.
 更に,1695年3月18日になると,赤坂御門外,溜池上江戸見坂,牛込神楽坂,幸橋外,浜町の5箇所を増設して15箇所となりますが,1704年10月13日に,駿河台土手,代官町,浜町,鼠穴及び神楽坂の5箇所を廃止して10箇所になりました.

 それぞれの御役屋敷には,与力6騎,同心30名,それに臥煙と言う火消中間が300名配属されました.
 臥煙は前にも書いた通り,1組に300名おり,100名ずつ1番部屋,2番部屋,3番部屋と分け,それぞれ10名単位で丸太1本を枕に寝ていました.
 で,火事が見つかって櫓から太鼓が鳴ると,起し役がその丸太を木槌で叩いて寝ているのを起こすと言う寸法.
 尤も,この段階まで寝ているのはおらず,多くは太鼓が鳴るや直ぐに飛び起きたそうです.

 また,これらの屋敷には高さ3丈に達する火見櫓があり,そこに配属された不寝番2名が昼も夜も江戸の町を見張って,火事を発見すると太鼓を打って知らせます.
 太鼓には,出火の遠近により打ち方に緩急を付けており,最も近い時には,太鼓と鐘を「ドン・ジャン・ドン・ジャン」と一つ交ぜにして打ちました.
 因みに,定火消屋敷付近を俗に「櫓下」とも言います.

 出動時には,定火消御役は錏と言う後が2段に分れて垂れの付いた兜に,饅頭紋を付けた革の火事羽織で,馬上の人になり,与力は一重の錏の兜頭巾に革羽織の火事装束で3騎が出動,先頭に立つのが先騎,火消御役の直前を行くのが中騎,後に従うのが後騎と言い,この内,中騎の与力が火消御役を助けて実際に指揮を執りました.
 同心は,革頭巾に革羽織で従います.
 なお,錏や革頭巾は,火消御役は屋敷を出る時から被っても良いのですが,与力と同心は火事場に着かないと,被っては駄目と言う決まりがありました.
 余談ながら,赤穂浪士討入りの際,その途中で兜頭巾を被っていたのは大石良雄だけで,それ以外は全て背中に背負っていたのは,火事装束だったので,この定めに従ったからです.

 火事場で実際に消火に当たった臥煙は,渡り中間であり,幕末には口入頭越前屋勘兵衛が専ら世話をしたと言います.
 100名ずつ3組に分れていて,部屋には部屋頭,小頭,役割がおり,普段は2貫400文の年給と,法被の御四季施がありました.
 なお,彼らは衣服を着ずに,年中火消御役の定紋を染め出した色木綿の法被1枚で暮らし,全身に彫物があるのを自慢とし,髪も生締と言う変わった形で,いざ火事場に着くと法被を脱ぎ捨て,真冬であっても褌一丁で火掛りをしたそうです.

 1658年に設置されたのが麹町定火消御役屋敷で,これは半蔵門外の京極飛騨守の屋敷と並んで堀端にあり,近藤彦九郎が定火消御役として半蔵門詰となりました.
 此処には高い火の見櫓が明治維新まで建っており,この付近を櫓下と言います.
 また,同じく御茶ノ水定火消御役屋敷は,湯島聖堂の西方に定火消御役の内藤外記の屋敷として設置されています.
 更に,伝通院西方長寿寺の南に定火消御役屋敷が設置されています.

 1659年に設置されたのが駿河台定火消御役屋敷で,昌平橋の南に阿部伊予守の上屋敷,それと道を挟んで西隣に松平侶之允が定火消御役となり,その地に役屋敷が設けられています.
 これも明治まで存続しました.
 この地は後に甲賀町と呼ばれていますが,甲賀衆がこの地に住んでいたのでは無く,一説には平塚伊賀守の屋敷の庭に桜の木があって,良い香りがしたので香花町,これが転じて甲賀町になったとも言われています.

 1660年に設置された八重洲河岸定火消御役屋敷は,馬場先門に近い現在の明治ビルの辺りにあり,松平采女が定火消御役を勤めていました.
 因みに,この役屋敷に1809年2月,父源右衛門の死で定火消御役同心として弱冠13歳で出仕していたのが,浮世絵作者として名高い安藤広重です.
 幼少の頃から絵が巧みであった事から,高じて浮世絵師として身を立てる事を決心し,27歳の1823年11月,職を弟の仲次郎に譲って致仕するまで,同心として幕府の禄を食んでいました.

 なお,新坂の上には火消跡がありますが,これは1705年2月に八王子千人組の同心200名が江戸に来て,町回りや火の番を勤めましたが,この詰所の跡でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/06 23:36
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 【質問】
 組屋敷の治安体制は?

 【回答】
 八丁堀と言えば,今でもその名前が駅名に残っていますし,中央区内に地名も残っています.
 兜町の西側が西八丁堀で,茅場町の西側が八丁堀となっており,何れも京橋から隅田川に通じる堀割の東岸に当たります.
 昔は,この堀割一帯を八丁堀と言い,堀割を挟んで北を北八丁堀,南を南八丁堀としました.
 八丁堀の由来は,寛永年間に京橋下から御堀続きまでを通して長さ8丁に渉る堀を掘ったからと言う説があります.
 元々は,武家屋敷と寺院だけでしたが,元和年間に此処にあった法泉寺,願成寺,長応寺を三田や浅草に移し,そこに空いた所に組屋敷を設けました.
 町与力や同心は増減があり,一時は本所二の橋や法恩寺前に組屋敷の一部を設けましたが,最終的に1713年3月以降は,現在の日本橋茅場町3丁目南半分から八丁堀3丁目に至る南北700m,東西150mの範囲に集約し,ここが町奉行与力と同心の組屋敷となりました.
 それぞれの町奉行所に町与力は25騎,同心は120名が配属されていました.

 この地の与力は1人300坪,同心は1人100坪の土地を拝領していましたが,200俵取りの与力の屋敷が46軒あるのに,長屋門は1つも無く,総てお揃いの冠木門です.

 因みに,多くの切絵図には組屋敷の各戸の氏名は記載されていませんが,八丁堀の切絵図には例外的に各戸の氏名が記載されています.
 これは,諸大名家や高級旗本が町与力や同心を常々手懐けておく必要があったので,家来をその組屋敷に遣わす事が多く,その為にも,各戸の氏名を記載したものが必要だったと考えられます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/06 23:36
青文字:加筆改修部分

 御徒衆は1603年に初めて御徒頭が作られ,将軍御成の際にはその儀仗と先駆して道路の警固などに当たりました.
 この為,御成先道固め,御先番,御供番などがあり,他に御鷹尋ね,隅田川在郷番も勤めました.
 この御徒組は20組に分れており,各々の御徒頭は若年寄支配に属し,布衣,躑躅之間詰で1,000石高でしたが,武芸に熟練した者が努める事になっていたので,家禄が少なくとも,一芸に秀でていれば抜擢される事がありました.

 各々の御徒組は何れも御徒衆30名からなり,その内2名が組頭で,150俵高の御抱席でしたが,幕末には御目見以上となりました.
 残り28名が一般の御徒衆で,彼らは70俵5人扶持で御抱席でした.
 但し,御抱席と言えど,服装については一般の御抱席には着用が禁じられていた熨斗目を用いる事が出来,役羽織と称して,黒縮緬の羽織を3年に1枚ずつ御納戸から下賜され,職務上外出する場合は必ずこれを着用しました.
 そして,将軍も御鷹狩りなどでお成りする場合は,これと同様の羽織を着用します.
 つまり,暗殺などに遭遇した場合,将軍は随従している御徒衆の中に紛れて危害を避けると言う配慮があった訳です.
 城中でも,能の催しがあった時には,縁下に必ず黒羽織を着用した御徒衆が控えていました.
 因みに,将軍御成の無い場合は,玄関中の口廊下と檜の間廊下に詰めていました.

 本来,この御徒組20組の内,5組は西の丸付,つまり,将軍世嗣付で,残りが本丸付,つまり将軍付でした.
 西の丸がいない場合は,御住居様と言い,将軍の女で諸大名に嫁した姫の御入用という名目で割り付けられます.

 20組もいる為,その屋敷は各地に点在していました.

 牛込御門と市ヶ谷御門の中間には,北の方から北御徒町,中御徒町,南御徒町があり,東西に門を構え,門内には杉の垣根で囲った組屋敷が整然と並んでいました.
 この地域は元々天竜寺の寺内でしたが,1660年代に天竜寺はその北西に移転し,跡地に組屋敷が整備されました.
 中御徒町の組屋敷からは,1749年3月に御徒衆大田正智の長男として生まれ,長じて狂歌と戯作で一世を風靡した大田蜀山人南畝が出ています.

 また,下谷練塀小路の東の通り,和泉橋から一枚橋に至る辺りの和泉橋通りの辺りには,幾つもの御徒衆の組屋敷がありました.
 この辺りは,現在の秋葉原から御徒町に掛けての辺りです.
 この和泉橋通りの一つ西側の通りは中御徒町と言った時期もあります.
 他にも藤堂和泉守や加藤遠江守の屋敷付近があり,他にも小さな武家屋敷があったり,御先手組久保田勘右衛門の組屋敷もありました.
 余談ですが,大洲加藤家の屋敷の近くにあった御先手組久保田勘右衛門の組屋敷は,江戸末期の戯作者として一世を風靡した柳亭種彦が育った場所でもあります.
 本名高屋彦四郎と言い,小十人組衆でしたが,本所吉田町に生まれて,育ったのが此処だそうです.

 江戸御府内から少し離れ,深川にも御徒15番組の組屋敷がありました.
 場所は深川元町で,高橋に近く,南は小名木川の流れに沿い,東隣は田安屋敷,西側は掛川城主太田備中守の下屋敷に隣接していました.
 北には2個の総門があり,門を入ると幅3間ほどの道があり,その両側に30間ほどの御徒衆の組屋敷が並んでいました.
 この深川の組屋敷は,新開地である為に,御府内の屋敷地よりも広く1戸当り130坪になりますから,その総面積は約4,000坪に達しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/07 23:28


 【質問】
 御家人への俸給の支払い形態は?

 【回答】
 御家人にも,生活の為に給料を支給されています.
 その支払形態には基本的に3種類ありました.

 1つは知行取,つまり,米の収穫のある采地を拝領している人達です.
 以前も書きましたが,当時は米が基準でしたから,米の収穫高が土地の範囲となります.
 例えば,200石高の采地とは,米が200石取れる土地の事で,そこには米を作る田の他に雑穀や野菜を作る土地もあり,山林,沼地も含まれていたので,かなり広い土地になります.
 従って,水田の多い土地と山林の多い土地では,その広さが格段に違います.

 その水田でも,収穫高により,上々田,上田,中田,下田,下々田の5段階に分れています.
 上田の1歩で米1升が収穫出来るのが基準となり,1畝で3斗,1反で3石と計算されます.
 これより2斗多く取れる3石2斗の水田を上々田と呼び,1反で2石8斗の水田を中田,2石6斗が下田,2石4斗が下々田となります.
 この収穫された米は,総て領主が取るのでは無く,収穫した農民と分けます.
 その標準は,大抵の場合「四公六民」であり,領主側が4割,生産者が6割取るのが原則で,収める米を「年貢」と言う訳です.
 但し,その比率は領主によって恣意的に決める事があり,苛酷な領主の場合は「六公四民」としたり,毛利家の様に「八公二民」とか「九公一民」等という甚だしいものもありました.
 尤も,そうした比率を打ち出す領主には,農民は一揆,直訴,逃散などで対抗した訳ですが.

 200石の土地で「四公六民」であれば,領主が80石,農民が120石を取り,これを田原に換算すると,1俵4斗で200俵となります.
 その為,采地200石とは俵取り200俵と同格になり,「100石100俵」と言う基準が生じました.
 とは言え,今回の様な台風などによる風水害その他の異変もある為,実際に領主が80石を丸々得る事は稀ですし,その采地が遠隔地にある場合,受け取るまでに運搬費がかかるので,実際には俵取りの方が有利な場合もありました.

 こうした知行地宛行は殆どの御家人では行われず,御家人の給与は,俵取或いは御蔵米取りです.
 これは幕府の御米蔵から,春・夏・冬の3期に分けて現米で支給されたので,俗に「三季御切米」と呼ばれました.
 勝海舟編の『吹塵録』では,その支給は,俸禄全額の4分の1を春御借米,4分の1を夏御借米,残りを冬御切米と称し,春は2月,夏は5月,冬は10月に支給したとなっています.
 また,1690年に於ける幕府の直轄領は約700万石で,この内約260万石が旗本の知行地であったから,幕府の直接収入となる領地は約440万石,これに「四公六民」の原則を当て嵌めれば,約176万石が幕府の御蔵米として入る事になります.
 そして,この約176万石はそのまま御家人約17,300余人の俸禄と諸手当のみに充てられた訳では無く,将軍家の諸経費,御三卿の御賄料及び格式大名への支給にも宛てられた訳ですから,その分母は益々少なくなる訳です.

 御家人の俸禄に,30俵2人扶持とか20俵3人扶持と言うのが有りますが,この30俵や20俵と言うのは,御蔵米で年間玄米30俵又は20俵を3度に分けて支給される分母の数字になります.
 扶持とは,1人1日玄米5合宛の支給であり,1人5合であるから1年360日として1石8斗,2人扶持だと3石6斗になりました.
 この1石8斗の起源は,北条氏康の言葉として,
「凡そ人間は,高きも低きも,一日に再度づつの食なれば…」
とあり,また『武功雑記』には,
「人の食物はとかく朝暮2合5勺宛可然と,滝川左近将監積り定候由」
とあり,朝夕2合5勺で1日5合の割合となり,後世まで男扶持は1日5合と定まりました.
 なお,女扶持と言うものもあり,こちらは1日3合の定めです.

 幕府には,大奥というものがあります.
 因みに大奥女中衆の構成は,概ね以下の通りです.
 上臈1名,御年寄7名,中年寄5名,御客会釋5名,御中臈8名,御坊主3名,御小姓3名,表使7名,御次2名,御右筆10名,御錠口衆12名,御切手4名,呉服之間10名,三之間15名,此処までが御目見以上で,御仲居6名,御火之番13名,御使番13名,御末が30名.
 この内,最下級の御使番や御末が女扶持で支給されました.

 なお,今日の様に,1日3食になったのは寛政年間以降であり,極めて最近の事です.
 しかも,当初は朝昼晩ではなく,朝夕夜と言うものでした.

 余談は扨措き,御家人の俵取は,最高額が町奉行の古参与力で230俵,最低額は評定所使之者の8俵1人扶持勤金1両2分,或いは御蔵米を司る御蔵奉行に属する小揚之者の10俵1人半扶持まで,無数の階層があります.
 1人半扶持は,1日7合5勺の割合で支給されたもので,小揚とは米を荷揚げする人夫の事ですから,肉体労働の為に増配されたのであろうと考えられます.

 最後の給金取は文字通り,現金で支給されるものです.
 その最高額は20両3人扶持の御蔵奉行組頭で,以下10両3人扶持の御蔵奉行手代,7両2人扶持の御普請役下役,3両1人半扶持の御蔵奉行小揚之者,最低額が1両2歩1人扶持の石出帯刀の支配に属する牢屋下男の給金で,これより下はありません.
 因みに,御蔵奉行小揚之者は,蔵米取の10俵1人半扶持ですが,これはある程度年期を積んだ人の給付額で,初任者は給金3両,1人半扶持となっています.
 町人が,武士を悪く言った「サンピン」と言うのは,「三一」と書き,この給金3両,1人半扶持から来た言葉です.

 時に現在の多くのサラリーマンでもそうですが,今の世の中,純粋な給料だけでは生活出来ません.
 従って,各種の手当で補完する事になります.
 最近は,そう言った手当をも削減して,「生かさぬ様に殺さぬ様に」している感じではありますが.

 江戸幕府でも役に就くと,種々の経費が掛り,家禄だけでは賄いきれない場合が多く,その為,役に就いている限り支給される手当がありました.

 先ずは,御役高と呼ばれるもので,これは『武鑑』に示されていた役職の格式で,「何石高」或いは「何俵高」とありました.
 当然,その職には,それと同等の持高(俸禄)の者が就くのが理想的ですが,人事管理の都合上そうは上手くいかず,禄の少ない者が職に就く場合があります.
 例えば,御普請奉行支配下の御普請方改役は,100俵高7人扶持御役金10両となっていました.
 この為,もし,家禄70俵の者が就いた場合は,30俵が追加され,100俵高の役の格式を保つ様にしています.
 これを「御足高」と言いますが,逆に家禄120俵の者がこの地位に就いた場合は,御足高が無いばかりか,寧ろ家禄よりも低い役なので「引下勤め」と言われ,不名誉な扱いとなりました.

 2つ目が,現在の役職手当の様なもので,御役料,御役金と呼ばれるもの.
 先述の御普請方改役の10両がこれに当り,現金支給なら御役金,知行なら御役知,御蔵米なら御役料となりますが,身分によっては,同じ御蔵米でも,御役料では無く,御役御切米と言う名称になる事もあります.
 また,被下金も御役金と同じ性質のものです.

 3つ目も役職手当的な扱いで,その役に就いている期間に限り,支配の者に与える扶持料で,御役扶持と呼びます.
 定火消御役は,4,000石以上の旗本が「持高勤め」と言って,家禄だけで勤めましたが,「御役扶持」300人を給されています.
 これは,「臥煙」と言う渡り中間の火消役300名を抱えていた為です.
 定火消は,明暦の大火以後に出来た役職で,時代により上下はありますが,概ね10組に分れていて,1組に臥煙という火消役が300名いました.
 各組はこれを100名ずつ1番部屋,2番部屋,3晩部屋に分け,火事の時は総員が法被1枚で出動します.
 彼らには,基本的に2貫400匁の支給で,法被の御四季施がありました.

 4つ目は,御役料と同じですが,役に対する手当では無く,役を勤める上で不足する分を補った御合力米.
 同じような役割ですが,大奥の女中に限って支給されるものに,御合力金と言うのもありました.
 これは幕府創建当初は諸大名からの贈物でしたが,家光の時代から幕府から支給する様になった衣服料の特別給与です.

 最後が,低い身分の者に,御役料や御役金の代りに,勤務上必要な衣服(仕事着)を支給する御四季施代.
 先ほどの定火消に属する臥煙の法被もそうですが,職によってはこれを現金に換算して支給されました.
 例えば奥右筆は,四季の衣服代を24両2分として御小納戸から支給されていますし,御留守居支配の明屋敷番調役の4両2分などがあります.

 この他,御鷹匠に属する御鳥見は,80俵高ですが,他に野扶持5人,御伝馬金10両が支給されました.
 野扶持とは,野良に出て仕手方を使うので,野扶持と言い,御鳥見は元々地形地理を調査するのが仕事でしたので,その出張旅費として御伝馬金10両が支給された訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/03 22:56
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 御家人の内職について教えられたし.

 【回答】
 今日のニュースであったのですが,今の世の中,低所得で非正規雇用の人々がいなければ,会社は廻らなくなっているとか.
 会社の中も階層分化になっていて,正社員と非正規雇用者が対立すると言う感じです.
 しかも,最近では正社員よりも非正規雇用の方が多い訳ですが,その正社員も待遇は非正規雇用者にどんどん近付いて行き,一体,我々が稼ぎ出したお金は,何処に廻っているのかと.
 人件費ゾーンは常に利益計画上,削減のターゲットになっており,毎年減らされているのが現状です.
 それなのに仕事は減らず,サービス残業やら,タイムシートに現れてこない深夜勤務等も増える一方で,疲弊する人々が続出し,心を病んだり,下手をすれば命を絶つ人も多くなったり.

 思うのですが,どうせなら人を増やして休みを増やし,ワークシェアリングをやって,其の分副業を認めてくれないでしょうかね.
 才覚のある人は,副業で稼いで独立出来るかも知れませんし,私のような無芸大食の人間は,そんな才覚は無いので,余り意味が無いかも知れません.
 そう言う意味では正社員にとっては,賭け的な所はありますが.

 江戸期の御家人は,正規雇用とは言え薄給なので,生活に困窮していた者が非常に多かったりします.
 この為,御家人は幕府での勤務だけでなく,内職に専念しなければなりませんでした.
 元々,御家人の勤めは,俗に「三日勤め」と言われ,2日勤めて1日休日と言うサイクルです.
 従って,現在と違って時間に比較的余裕を保つ事が出来ました.
 本来,この1日の非番は,自己研鑽,つまり,武士の表芸である武術や学問に励む為のものです.
 しかし,天下泰平となったら,武術は余り必要では無くなりました.
 その為,高級旗本は出世の糸口となる交際の為に遊芸に身を窶し,生活に困窮した御家人は内職にひたすら励むようになりました.

 諸大名家でも前に尾張徳川家の内職について書いたのですが,同じように各地の大名家で下級武士達は内職に精を出しています.
 例えば,米沢上杉家では上杉鷹山が,小千谷から職人を招いて「米沢織」を創始し,絹織物の製作が盛んになり,下級武士の殆どは賃機で稼ぎ,後には上位武士の家庭までも,養蚕や機織りを副業とするまでになります.

 仙台伊達家も,士分以下の組士や卒の許可内職の種類を挙げていますし,水戸徳川家も家中の士約1,000名の内,100石以下の700名に内職を許しています.

 小田原大久保家では,名産の小田原提灯の製造,染紙,提灯の上絵を下級武士が内職として行い,釣り針,網,楊子,傘等の細工に従事し,何れも「膝隠し」と言う高さ1尺ほどの板屏風の蔭で内職を行っていました.
 この為,外見に比して家計の苦しい事を,「小田原奥さん」と呼んでいたそうです.

 萩毛利家の下級武士の内職は夏蜜柑の栽培で,現在でも萩の旧武家屋敷一帯には夏蜜柑がたわわに実り,萩の風物詩となっています.

 大名家の江戸屋敷でも内職は広く行われ,米沢上杉家は筆作り,麻布の加納大和守の団扇は,俗に「大和団扇」と呼ばれる位,有名なものとなっていました.

 幕府御家人の内職は,最初は広い拝領地の空地を利用する野外作業から始まりました.
 1750年代には,既に麻布の組屋敷で草花の栽培が行われ,代々木や千駄ヶ谷では,鈴虫や蟋蟀と言った昆虫の飼育,更には下谷の金魚,大久保の植木が有名になります.

 とは言え,屋外作業ではどうしても自然に左右されがちですので,18世紀末になると屋内作業が増えて行きます.
 青山では傘や提灯,巣鴨は羽根細工,山の手一帯では凧張りや小鳥の飼育,竹細工が盛んになり,この辺りは一大産業に成長していきました.
 19世紀になると,御家人と雖も,職人気質の者が現れ,麹町辺りでは木版堀の名人も輩出しました.

 現在の港区北青山一丁目には御鉄砲百人組の1つ,甲賀組の組屋敷がありました.
 この組屋敷では春慶塗と傘を内職に採用しました.
 大体,春慶塗2割に傘8割の割合だった様です.

 春慶塗は,檜や樅を材料に,記事にその柾目を活かし,十数回も漆を重ねて塗ってもなお柾目が明らかに見えるのが特徴です.
 特産地は能代や飛騨でしたが,江戸で人気となり,この組屋敷で盛んに作られました.

 傘は,「青山傘」と呼ばれて有名でした.
 傘作りは骨作りをする下工師と,仕上げから塗り色付けをする張師に分れていましたが,御家人の多くは仲買人から骨と紙を貰って張り上げる張師でした.
 こうして出来た製品は,士分であった為に公然と売買出来ませんでしたから,番太に頼んで仲買商に持って行って貰っていました.
 この辺りには,青山傘を扱う仲買商が実に20軒以上も軒を連ねていたと言います.
 その工賃は,金1分が銭1貫600文であった頃,奴傘12本,つまり1把で2貫文程度でした.
 ただこの傘は,江戸末期になると俗に「下り傘」と呼ばれる美濃,紀伊,駿河や遠江の製品に押されて,次第に衰退していきました.

 現在の新宿区百人町1〜4丁目にあった御鉄砲百人組の伊賀組屋敷は,1750年代から躑躅の栽培を始めます.
 特に西の木戸から北側2軒目に住んでいた,組同心飯島武右衛門の屋敷の躑躅が有名で,此処には数千本も植えられていました.
 木の高さは3尺から1丈に及び,その盛りの頃には,諸侯の奥方の乗物や,武士・町人に至るまで群集し,組屋敷の内は終日賑わったと言います.
 勿論,近隣の組屋敷にも同様に躑躅が300〜500本植えられていましたが,この飯島家の躑躅には50軒ほどが束になって掛っても対抗出来なかったそうです.

 なお,躑躅が少ない家は,孟宗竹を作っていました.
 こうした植木類は,旬の頃に観光地として賑わいを齎した他,縁日の屋台や植木売りに卸して,家計を助けていました.
 この伊賀組の躑躅は,明治に入ってからも隆盛を極め,現在の中央線の前身である甲武鉄道が,その最盛期には臨時列車を出す位賑わった程です.
 しかし,1903年に日比谷原が日本最初の洋式公園になった際に多くの躑躅を此処に移植した為,一気に衰退し,1908年以降は躑躅による造り人形も廃止となり,その後も人家が増えると,明治末年には護国寺境内に数百株を移植して滅亡してしまいました.

 牛込弁天町にあった御鉄砲百人組の根来組組屋敷では,提灯の内職が行われていました.
 浅草寺本堂の右にある大提灯は,元禄期に牛込から献じたもので,50年毎に新しくする慣わしでした.
 こうした奉納用大提灯の製作の為,専門にそれを作っていた者の屋敷は非常に大きかったと言います.
 この大提灯の張替えには,当時の金で25両も要したそうです.

 毎年7月6日〜8日にかけて,台東区下谷1丁目にある入谷鬼子母神の境内では,朝顔市が開かれていますが,その歴史は比較的新しく,1950年に下谷北部観光連盟と朝顔同好会が共同で開催したものです.
 元々は,明治初期に入谷付近の寺院が朝顔の鉢植えを作って,諸人に観覧させたのが始まりで,1877年から植木屋が入谷朝顔と名付けて見物人を集めました.
 結局,躑躅と同様にこれも付近に人家が増えて次第に衰え,大正初期に姿を消してしまいました.
 それが戦後に復活した訳です.

 それよりも前,17世紀末には,下谷御徒町の大番組屋敷では草花を作っていました.
 その中に,大番組与力の谷七左衛門と言う者がおり,彼は母が草花を好んでいたので,何時しか草花好きとなり,18世紀初頭までは桜草などを作っていたのですが,1808年頃からは朝顔の変種を作る様になり,人に見せて自慢していました.
 何時しかそれが評判となって,1815年になると下谷御徒町の組屋敷に住む同心達に至るまでが争って朝顔を作り,変わり種を競うようになりました.
 この為,下谷御徒町の組屋敷は「朝顔屋敷」と呼ばれる様になり,花の頃には見物人で溢れるようになったそうです.
 因みに,谷七左衛門はその後大坂城勤番になったのですが,この時も朝顔の種を持って赴任し,この地でも朝顔を流行させたと言います.

 その他,四谷鮫ヶ谷橋の御中間屋敷には,絵筆に堪能な者が多く,町内の稲荷祭に使う地口提灯の絵付けを内職としていましたし,蟋蟀や鈴虫と言った虫売りの卸元は,千駄ヶ谷に住む明屋敷伊賀者が飼育したもので,彼らはその虫籠も作りました.
 青山十番に住んでいた御掃除之者は草花を栽培し,巣鴨駕籠町に組屋敷を持った御駕籠之者は,羽根細工を作りました.
 更に,書籍の発行には欠かす事の出来ない版下作りも,全体で行ったものではありませんが,教養のある御家人の内職の一つになっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/14 22:58
青文字:加筆改修部分


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