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戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 大船禁止令はどんなものだったのか?

 【回答】
 1609年9月,江戸幕府は西国大名家が持つ500石積以上の大船を没収する事にしました.

 此処で,西国大名家からどの様な船を没収したのか…と言うのは,実は余り研究が為されていません.

 古くから有るのは,西国大名家の水軍力抑止の為,軍船,特に安宅船を没収したと言う説.
 これは,蜂須賀家の安宅船請取目録があり,古来から有力な説とされてきました.

 一方,その没収が為された翌年の1610年以降,西国大名家から朱印船が殆ど派遣されていないと言う事で,500石積以上のジャンク型航洋船も含む凡ての大型船舶と言う説もあります.
 こちらの方は証拠が有るわけではなく,貿易額推移から類推した説です.

 この論争に終止符を打つには,幕府の明確な命令が見つかれば,直ぐに片付く話なのですが,事はそう単純ではありません.
 そもそも,どんな命令が出たのかすら明確ではなく,或資料では西国大名の五百石積以上の大船没収であり,別の資料では西国大名の五百石積以上の武者船の没収となっている訳で,単純な話なのに,推理小説ばりの話になって来ている訳です.

 大日本史料には,1609年10月12日付の毛利宗瑞(輝元)書状と18世紀末~19世紀初に掛けて編纂された『島津国史』同年9月25日条の両方が掲載されています.
 前者で,毛利宗瑞は,配下の天野元?に「五百石積上之船」を淡路岩屋にて九鬼家に差出す事を指示しています.
 一方,島津国史では,「五百石積以上駅舫・商船」,つまり,商船を引き渡せとなっています.
 何れにしても,軍船だけではないことを示していますが,朱印船貿易をしていたのは,因幡の亀井家を除けば,九州の大名であり,薩州島津家もその一つでしたから,朱印船も含むとしたのではないか,と言われています.

 もう一つ,阿波蜂須賀家の書状ではどうだったのか.
 当時,各大名家は幕府の政策を確認するのに様々な伝手を使いました.
 特に外様大名は,取次の譜代大名家の家中と懇意にしていた他,幕府官僚の一翼を担う旗本と懇意にして,種々の情報を仕入れたり,便宜を図って貰ったりしていました.
 蜂須賀家にもそうした旗本がおり,その旗本は将軍家(秀忠)と懇意だった関係で,政権中枢部の情報が蜂須賀家にも入ってきていました.

 そして,旗本に予め9月末の時点で,「当家では大船を12隻所有している」と言う書状を出して,政権中枢に情報が入るようにしています.

 実際の触状は,阿波には10月5日に届きました.
 この触状は,9月16日付の将軍家の年寄である本多正信・大久保忠隣連署奉書と,9月29日付の大御所の家臣で堺所司代の米津親勝・京都所司代の板倉勝重連署添状の二通から成っており,翌日,当主である蜂須賀至鎮は,本多,大久保などの幕府年寄などに対し請状を認め,所司代に赴く使者に細かく指示を与え,また,近隣の池田輝政とその家臣に対しても様子を問い合せたりしています.

 さて,この触状には何と書いてあったか…これには,将軍の上意として,軍船・商船を問わず,「領内の凡ての五百石積以上の船」を大船請取の奉行職である九鬼守隆に引き渡せと命じています.
 因みに,折角大御所に命じられた九鬼守隆も後に疑われ,奉行職には幕府船手頭の小浜光隆が加えられています.
 このほか,横目には幕府弓頭の久永源兵衛,幕府船手頭の向井将監が任じられました.

 それは兎も角,この船と言うのは,蜂須賀家の持つ船だけではなしに,自家の家臣は元より,領内の商人が持つ大船も凡て差出すようにとされていた訳で,『島津国史』の編纂時に何らかの形で解釈に間違いが生じたみたいです.

 当時,蜂須賀領内には,蜂須賀家所有の関船にも家臣が保有する船も,廻船にも200石積の船が精精で,500石積以上の船は安宅船2隻だけとなっていましたが,下手をすれば,お家取潰しにも繋がりかねないので,至鎮は即座に部下に命じて浦改めを行いました.
 結果,その2隻の安宅船しか無かったのですが,片方は新造船なのに対し,もう片方は,唐入り時に建造し,殆ど廃船状態の古船でした.
 それでも,蜂須賀家は両方とも進上する様に命令します.
 特に,その廃船寸前のボロ船については,「要らんと言われても置いて帰れ」と厳命してさえいたり.

 10日に再度9月末日付の年寄連署奉書が到来し,翌日に至鎮は請書を出しますが,こちらは念押しの奉書であって,最初のそれと変わっている訳ではありません.
 17日,高松にいた生駒一正から14日付の向井・久永:連署状4通が回され,至鎮は1通は自分宛に請取り,残りの3通を松山の加藤嘉明宛に送りました.
 3通の宛先は加藤家の他,宇和島の富田信高,高知の山内忠義です.
 そして,向井・久永へは準備の進捗状況と浦改めの結果を伝える請状と音物を送り届けています.

 23日には目録を作成して向井・久永に届けると共に,小浜・九鬼に対し経過を報告して,回航地の確認と音物を送付しています.
 こうして回航地は,当初岩屋だったのに,由良に変更された事などが指示され,その地に向け,新造船は27日前後に,古船はそれより遅れて阿波を出航し,11月2日に無事小浜・九鬼両奉行に引き渡されたと考えられています.
 但し,将軍家に引き渡されたのは,九鬼嘉隆が建造した日本丸に匹敵する新造の伊勢船のみで,もう一隻は古船故に進上に及ばずとして目録すら作成されなかったと考えられます.

 そう言えば,隆慶一郎の小説で,未完に終わったので,向井将監を描こうとしたのがあったのですが,この辺りの話を書こうとしていたのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月13日22:43


 【質問】
 大船禁止令は徹底されていたのか?

 【回答】
 西国にある五百石積以上の大船は,悉く幕府に差出されてしまいました.
 阿波の蜂須賀至鎮が安宅船2艘,佐賀の鍋島勝茂が何隻かの伊勢船,筑前の黒田長政は伊勢丸,肥前唐津の寺沢広忠が18端程度の船,豊後臼杵の稲葉典通が大船,播磨の池田輝政は紀伊丸と言う大安宅船を進上していますが,薩摩の島津家久には該当船は無しとなっています.
 これらの船は凡て伊勢船クラスの安宅船であって,航洋船は含まれていないと考えられます.

 と言っても,1609年までの間に,島津家の場合,領主自らが1604年,1605年,1607年,1609年に計8回,鍋島家も同様に領主自らが,1605年,1607年に計3回,黒田家は領内の商人が1607年に1回朱印船を派遣しています.
 となると,島津家が1609年に「大船は無い」としたのは果たして本当か?と言う疑問が湧いてきたりするわけです.

 幕府の奉書には,「五百石入より上の船は,有次第可有御上候,縦あきない船ニて御座候共,不残御上可被成候,以上」と書かれています.
 つまり,これを文面通りに解すれば,500石積以上の船は悉く幕府に差出せという事になる訳です.
 …が,不思議な事に,1610年以降も西国大名の朱印船派遣は完全に停止された訳ではなかったりします.

 1610年には因幡の亀井茲矩,1611年に平戸の松浦鎮信に豊前の細川忠興,1617年から3年連続で,松浦家の家臣佐川信利,1631年から2年連続で平戸の松浦家となっています.
 朱印船貿易は,大御所側近筆頭の本多正純とか長崎奉行の長谷川藤広の様な幕府の中枢にいる人間の取次により,大御所や将軍家から朱印状を交付されねばならない訳で,更に1631年以後は年寄奉書も必要となります.
 もし,幕府が朱印船に利用する大型船をも没収したのであれば,先ず朱印状交付の時点で,幕府の疑念を招きかねない事になる訳で,そうなると,航洋船まで没収したのかと言う疑問が湧いてくる訳です.

 因みに,最初に書いた進上された大船の内,1609年,その進上に及ばずとして大船の所持を許されたのは,池田輝政ただ一人でした.
 ところが,因幡の亀井家は,1609年冬にSiam在住の日本人に80万斤(3200石積)のジャンク船様の船を発注している上,翌年には同じ様に別の型の船を購入しています.
 また,1617年には松浦家家臣の佐川信利が平戸でジャンク船を建造しています.
 つまり没収された大船は,国内航路用の大型商船か軍用船の何れかではないかと言う仮説が成り立つ訳です.

 もう一つの傍証は,島津家が久永源兵衛と向井将監に宛てた書状です.
 これには,
「我が領内には十六端帆の船が最大で,それも五百石積以上ではありません」
と認めていますが,久永源兵衛と向井将監は,
「十六端帆の船でも五百石積以上だったら進上せよ」
としています.
 ジャンクとかその系統の船であれば,笹の葉を網代で編んだ網代帆を用いますが,安宅船や関船の様な軍用船,伊勢船の様な民間船は,三尺幅の莚か木綿布を一端と称し,必要な端数を横に繋いだ帆を用いています.
 即ち「十六端帆」と言う表現については,ジャンク系統の船では有り得ない訳です.

 と言う事は,「あきない船」はジャンク系統以外の商船の事を指していると考えられます.

 では十六端帆と積石数との関係は,と言えば,安宅船や商船は太った船型であり,関船は細長い船型ですので,関船の方が大きな端数を表現します.
 例えば,1624年に広島浅野家が保有した藩船129隻の内,安宅船の最大が十六端帆,関船の最大が二十端帆になっていますが,「十六端帆」とは正に安宅船と安宅船に転用出来る伊勢船系統の商船であることを表わしています.
 しかも,十六と言う数字一種類しか挙げていないのは,それが安宅船用に規格化されたものであると言う推定が成り立つ訳です.

 更に鍋島家の書状には,勝茂が大御所側近筆頭の本多正純や,大御所に重用された円光寺元佶からの内意を知らせるものがあり,これにははっきりと「伊勢船」と書かれていました.
 この書状には正純や元佶から,
「将軍家が近々西国大名の大船を召上げると言う事なので,御家は船道具を念入りに調えた伊勢船を他の大名に先駆けて進上し,将軍家に御家が二心のない事を示せ」
と言われたと書かれています.

 このことは徳川幕府体制初期の大名家が,如何に将軍家の動向に注意を払っていたか,と言う事と,如何に御家大事に汲々としていたかと言う事が伺え,彼らのこうした考えを,正純らが,如何に上手く利用していたかと言う事が垣間見えたりします.

 まぁ,非常に生臭い話ではありますが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月14日23:09


 【質問】
 天地丸って何?

 【回答】
 天地丸(てんちまる or あまつちまる)は,江戸幕府が将軍の御座船として保有した大型関船.

 船手頭の向井忠勝(向井将監)を責任者として建造されたが,建造年は不明.
 1630.8.3に,徳川家光が試乗.
 要目は上口長93尺(28.2m)・肩幅23.72尺(7.19m)・深さ6.3尺(1.9m),または全長34m・肩幅7.6mといわれる.
 16反帆,小艪76挺立.
 500石積で排水量は約100トン,巡航速力3.1ノット,最大速度6.8ノット(いずれも推定値)
 幕府の艦船格納庫(御船蔵)があった隅田川の水深を考慮したためか,やや喫水が浅い.
 上部構造は船体の全長に亘って屋根風に甲板が張られた総矢倉造りで,中央には2階建の屋形が設けられて一段高くなっていた.
 また,その全てが朱の漆塗りだった上,随所に金銅(こんどう)の金具をつけるといった,御座船に相応しい豪華な装飾が施されていた.

 「安宅丸」廃船後は,本船が幕府最大の軍船であり,何度かの大修理により,維持され続けた.
 少なくとも,正徳元年(1711年),宝暦九年(1759年),寛政九年(1759年),弘化四年(1847年)と四回の修理補修が確認されている.
 だが,洋式軍艦整備のため,1862年に船手組が軍艦組に編入されると,遂に「天地丸」は,その他の和式軍船諸共全船廃船となった.
 その後,「天地丸」は船蔵で保管され,1874年(明治7年)以降に解体された.

 現在の海上自衛隊にも海上保安庁にも,その名は踏襲されていない.

 【参考ページ】
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/contents/033.htm
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/espanaKsn-jon1.htm
http://home.att.ne.jp/wind/gakusan/suigun/robata.html
http://kimama-go.rdy.jp/odaiba/funeno.html
http://hi.baidu.com/willian3/item/b6a1547905b3ec3d7144233b

明治7年に撮影された「天地丸」
(こちらより引用)

「天地丸」復元模型
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】, 2014/09/23 20:00
を加筆改修


 【質問】
 なぜ田沼時代に和洋中折衷船は造られることになったのか?

 【回答】
 時は江戸期の田沼政権の時代.
 幕府は,輸出の主力商品である銅に代わって,北国に多数産する俵物を用いようとします.
 しかし,この俵物が収穫出来るのは晩秋から初冬に掛けてで,その頃の日本海は屡々荒れている訳です.

 少し時代は下りますが,1786~1790年の海難数は,延廻船数58艘の内,破船5艘,打荷(荷を捨てる事)船7艘で,乾鮑,煎海鼠,昆布の損害額は銀で234貫に上りました.
 即ち約5艘に1艘は,何らかの被害を被っている訳です.

 こんなにまでして廻漕を行うのは,利益率が非常に良いからで,1カ年にこれら3品を運賃を含んだ経費を含め,924貫で仕入れ,長崎では,これらを1523貫で売却しています.
 つまり,599貫の利益が出ます.
 乾鮑,煎海鼠の利益率は5割5分,昆布に至っては10割に達しています.

 こうした現象を見るに,損害が少なくなれば,幕府に入る収益は極めて多額になるのは自明の理で,そうすると少々の荒天でも破船しない,航行の容易な船が望まれた訳です.

 こうした中,長崎の遠見番である原左右衛門が,町年寄久松半右衛門を通じて,長崎奉行所の勘定方と普請役に,彼が見た,西洋(Holland)船,ジャンク,和船についての所見を述べています.
 彼に依れば,Holland船は,最も便利な船であることに変わりがないけれども,帆柱や帆桁の上で操帆するのは,日本船では船上でこうした操作を行うので,熟練するのは難しいし,何より日本人は慣れていない為に導入は難しいであろう事,中国船の場合は,頑丈ではあるが艤装が良くない為,追風でしか航行が出来ない.
 日本船は,起倒式の帆柱については殊の外便利であり,逆風での帆走性能も良い.
 但し帆は一枚仕立てなので,強風で帆を破られたり,帆柱を切ると破船に繋がるし,胴の間は水密甲板で覆っていないので,高波や大雨には滞船して苫囲いで対処するしか手はない.

 結論として彼は,それぞれ各国の船にも長所も短所もあるので,三者の長所を取入れた(この辺が日本的な気がする)船を作る様に提言しています.
 しかし,彼の言葉だけの説明では具体的なイメージが掴めない事から,勘定方は原に命じて一間ほどの長さの模型船を拵える事にしました.

 原は早速,船大工棟梁で,名門の大串家三代目当主大串五郎平と,本石灰町に住む船大工龍平の協力で船の模型造りに精を出し,16日間で船の模型を完成し,長崎奉行の勘定方に披露した後,2日後には奉行の実見を得る事に成功しました.
 実際にこの船を建造する場合の費用は,194貫目とされ,その詳細な見積もりと設計図が長崎奉行から幕閣に届けられました.

 この船の寸法は全長90尺,幅24尺,深さ11尺で,隔壁を入れた唐船様式の船体に,水切りの事を考え,和船の船首材を追加しています.
 船体の上部には,水密甲板を張った和式の総矢倉が取付けられ,矢倉側面には荷役用に3箇所の開口部を設け,船尾には窓が2箇所開いています.
 帆走設備は,和船と同じく起倒式の主檣に,横帆を2段にかけ,補助帆として船首に遣出帆と2枚のジブ(三角帆)を張り,船尾に下桁の無いスパンカーを掲げると言う西洋船式に準じたものとなっていました.
 但し西洋船式とは言え,操帆は船上で行える様にしています.

 この模型で説得力を得た事により,和洋中折衷船の案が採用され,建造が決まり,大坂の銅座での建造が決まりました.
 本来,原自身は長崎での建造を望んでいましたし,大坂の銅座での予算が高ければ,長崎で請け負うつもりであると表明していましたが,入れ札の結果,188貫目と159貫目の見積もりを出した,大坂九条村町の有力船大工尼崎屋吉左衛門が建造する事となりました.
 この辺,新参者に市場を荒らされたくない銅座や,大坂商人の打算が働いたのは,今も昔も変り有りませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月06日21:41


 【質問】
 三国丸の構造は?

 【回答】
 長崎での建造を願った人々の願いも空しく,結局この船は,大坂の船大工,尼崎屋吉左衛門が受注しました.
 1786年3月の事です.
 この尼崎屋吉左衛門,1800年12月には,あの高田屋嘉兵衛に幕府御用船建造の船大工棟梁に推挙されており,非常に栄えていた船大工でした.
 但し設計図に当たる指図については,長崎の船大工棟梁大串五郎平が描き,それを元に尼崎屋吉左衛門が実際に建造したようです.

 この指図は残念ながら発見されていませんが,少なくとも幕末までは,砲術家として有名な清水赤城からその指図の写しが,津藤堂家の儒者斎藤拙堂に貸し出され,その蔵書となったことが確認されています.
 もしかしたら三重県の旧家の土蔵の何処かに,この船の指図が眠っているかも知れません.
 但し模型がありますから,或程度の推測は可能です.

 この船は,先ず船底材の航(かわら)と言う部分からして変わっています.
 横から見れば,航は船首尾で反り上がり,上から見れば中央が膨らんだ形で,弁才船のそれでもないですし,ジャンク,西欧船とも異なります.
 この形式の船底材は,この船に特異なものではなく,1853年起工の洋式軍艦鳳凰丸の龍骨や,明治期になっても盛んに大阪の造船所で作られたスクーナー擬きの和船でも,同じ様に,中央部が膨らんだ船底材を用いていたそうです.

 この船底材の両端に鑑板と戸立の間に関板(隔壁)を6枚配して骨組みを作り,片舷9枚の棚板(外板)を張付け,まつら(肋材)を20組入れて補強します.
 船体を隔壁と肋材で構成する構造は,全く近世中国のジャンクと同じもので,鑑板そのものはジャンク特有の幅広の船首材であり,完全に中国様式に則った構造です.
 更に,隔壁との間は関板通し貫と言う長大な材を貫通させて隔壁を連結し,強固にしています.

 但し船首材である鑑板は幅広であり,水切りに問題有りと考えた為か,この部分には更に水押(みよし)と言う和船に使われる船首材を取付けています.
 舵の形状は和式ですが,支持方法は洋式で,釘穴や板の接ぎ目には長崎で製造したタールで防水しています.

 上部構造は全く和船に倣っており,船梁を10本入れ,船梁の端に台を置き,その上に垣立と言う欄干状の舷墻を設けて,矢倉控を渡し,矢倉板を張ります.
 棚板の上縁には矧付け,船梁の貫通部には補強の為の外棚(のけだな),それに総矢倉の前部には伝馬船を載せる架台である合羽を設け,帆柱は起倒式で,倒した帆柱にを受ける筒挟みや舳艫の車立も同様です.

 帆走設備は,起倒式の帆柱に25反の和式の横帆を揚げ,補助帆としては,船首に8反の遣出帆と9反の三角帆(ジブ)2枚,船尾に下桁のない6反のスパンカーを張ります.
 元々の計画では,Holland船に準じて二段帆にする予定だったのですが,実際には一枚帆に改められています.
 実際に運用する場合,本帆とジブ・スパンカーの組合わせの方が船上での操帆に有利で,二段帆は,1861年に庄内酒井家が建造した龍神丸しか無い事から,この変更は運用の意見が通ったものと考えられます.

 因みに,明治期に建造された内航の日本形船の標準的な帆走設備は,本帆とジブ・スパンカーの組合わせであり,100年前に既にこうした帆走設備の原型が出来ていたのは興味深い一致だったりします.
 もしかしたら,この船の技術が,地下で連綿と受け継がれてきていたのかも知れません.

 1786年11月,幕府は三国丸の就航を告げる浦触を,瀬戸内から日本海の全ての港や浦に発しました.
 要は,異国船と間違えるなと言う事だったのかも知れません.
 こうして,三国丸は処女航海に乗り出し,大坂から無事に箱館に到着しました.
 1787年5月に箱館から俵物を搭載して長崎に向かっていた三国丸は,6月12日,隠岐の北西海上で,思いがけない船と遭遇し,記録に残される事になりました.
 この時に筆写された絵によって,後世に三国丸の姿が残されることになった訳です.

 その船は,フランス海軍のラ・ペルーズ大佐が率いていた探検艦隊のブソール号,アストロラブ号の2隻で,この艦隊は,ルイ16世から太平洋の探検調査の命を受け,1785年8月1日にBrestを出航,ホーン岬から太平洋を巡航し,日本海を北上している所でした.
 因みに,この2隻は北上を続け,間宮海峡の途中でサハリンが陸続きであると誤認して引き返し,宗谷海峡を通過,南太平洋に向い,1788年3月にオーストラリア東海岸を出航して消息を絶ちました.

 それは兎も角,北緯35度38分,東経132度10分の海上で,2艘の日本船と邂逅し,1艘は乗組員の顔が見える位近くを通過し,アストロラブ号と声を掛け合って急を報じる為に,南の方に姿を消しました.
 その日本船のうちの1艘が,極めて印象的だったのか,同船に乗り組んでいたブロンドラ中尉がその船の側面図と後面図の二種を描き,その姿を留めた訳です.

 ラ・ペルーズ艦隊は其の後,消息を絶った訳ですが,この絵は1787年9月にカムチャツカで下船したロシア語通訳のレセップスと言う人物が航海記録を持ち帰った際,その中に含まれており,ずっと保管されていたのでした.
 他の日本船は記録に留められていないのに,これだけが詳細に書かれているのを考えると,余程吃驚したに違い有りませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月08日22:17


 【質問】
 三国丸のその後は?

 【回答】
 建造された三国丸には,結局,銀159貫目の建造費を要しました.
 銀159貫目と言うのは,1両=60匁と換算して,2,650両に上ります.
 同時期に,大湊で幕府が建造した蝦夷地調査用の850石積弁才船が1,230両ですから,石当り20%高かったりします.

 それでも1年に2度の俵物廻漕に,1500石積廻船を2艘雇う代りに,三国丸1艘あれば済ませられるので,年に銀17貫目ずつ経費節減になる筈でした.
 つまり10年余運航出来れば,投資が回収出来たはずです.

 「筈」と言うのは,実際には1788年9月18日に箱館を出航したのが最後の航海となった為で,実質3年間しか実働がなかったりします.
 この航海の途中,能登沖で暴風に遭い,10月2日に佐渡沖まで流されて梶を傷め,帆柱も切り捨てた為,乗組員は艀で羽州酒田沖の飛島まで逃れ,船は漂流して羽州赤石浜に漂着した上,破船の憂き目に遭ったからです.

 元々,この船の建造理由としては,弁才船が年2回運航出来ないから,それを可能とする為の手段として洋式構造を取入れた船を建造しようと言う狙いがあると思われてきました.
 ところが,1786年から1792年までの片銀の総額と,その船問屋への配分額,早着褒美金の支払額から見れば,必ずしもこの見方は正解ではない事が判ってきています.

 片銀とは,長崎会所が北国筋俵物廻船から徴収した昆布運賃の1割の事で,大坂雇の場合は,大坂と下関の船問屋にそのうちの6分を,長崎雇については,長崎の船問屋にそのうちの4分を還元するものです.
 早着報奨金はその名の通り,1785年以降,所定の日数以内に箱館から長崎に到着した廻船に対し,片銀の会所取分から船主に与えられる報奨金の事で,30日以内なら銀430匁が,35日以内ならその半額が支払われました.

 それによれば,天明年間の1786~1789年の間,少なくとも1艘の弁才船が2航海行っていますし,寛政年間になってからも,1789~1792年の間になると,25~50%の弁才船が2航海行っていました.
 また早着についても,延廻船数のほぼ半数が早着して報奨金を受け取っていたと言う事実があったりします.

 この早着船は,其の後,長崎から二番立船として再び松前に派遣され,新昆布を満載して長崎まで航行した訳です.

 こうした現象が起きたのは,報奨金に釣られたと言うのも有ったかも知れませんが,弁才船の構造が少々の荒い波にも耐えられる様になった事,更に航法の発達が挙げられます.
 後者については,従来の弁才船は地文航法で,長崎方面から秋田の土崎に辿り着くには,能登半島を迂回して佐渡海峡を通り抜け,岸沿いに土崎まで行っていたのに対し,それでは時間が掛かりすぎる事から,隠岐の北から一気に沖に出て,昼夜兼行で一直線,土崎を目指す様に航法を変えた事が大きいと見られています.
 この沖乗りに関しては,1770年に40年間に渡って全国各地の船乗りから情報を蒐集して編纂された,日本初の全国的な水路誌である『増補日本汐路之記』では全く触れていないので,その後に開発か導入された航法であることが伺えます.

 この沖乗り航法は,其の後益々発達し,1837年の時点では,松前から順風なら5~6日,または3日で長崎に来れると言う記録が残っています.

 とは言え,航海技術の向上などが有ったにも関わらず,二番立と呼ばれる晩秋から初冬の航海は危険が伴いました.
 1786~1790年に海難に遭った俵物廻船の積荷は,その殆ど全てが昆布でした.
 新昆布は6月土用から刈り取り始め,松前出港が遅くなれば成る程,積荷に占める昆布の比率は増します.
 その損害額は195貫余で,全体の海難事故の8割に達し,昆布の損害額147貫余は総額の6割に達しました.

 こうまでして,松前からの積荷を急いだのは,その昆布の利益率の良さに他なりません.
 一時期は廻漕方法の改善も検討されましたが,結局,長崎会所の圧力に押し切られて,空手形に終わってしまっています.

 斯うして見ていくと,三国丸の建造は何の為に行われたのかが判らなかったりする訳です.

 ただ,三国丸が建造されて以後の発展はありませんでしたが,少なくとも,洋式船の単純な導入ではない,日本独自の技術を加味した船の誕生である事は間違いなかったりします.
 幕末から明治に掛けての内航商船は,最初に洋式船の導入を行ってみたものの,経済性が悪く,結果的に折衷船の流行を招いた事を考えれば,その先駆性は注目されて然る可きだったりします.

 因みに此を以て,田沼政権が「鎖国の禁令を覆す」と言う考えもありますが,後の松平定信政権でも,「唐蛮制之船」の導入を提案しているくらいなので,異国船導入は内政問題の一環として捉えていたと思われます.
 また,田沼政権の蝦夷地開発政策の推進者である,勘定奉行松本秀持からして,異国貿易は長崎を窓口とするだけで事足り,蝦夷地でロシアと交易する事は,長崎の衰微を招き,金銀銅流出を推進するだけで望ましくない,と否定した訳で,此処からみても,「鎖国の禁令を覆す」事までは考えていなかったのではないか,と言われています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月09日22:42


 【質問】
 松平定信時代の国防強化策のきっかけは?
 また,策の内容は?

 【回答】
 さて,田沼意次が失脚して,幕府の蝦夷地開発計画は中止となります.
 後継の松平定信は,現状維持を是とした訳ですが,1789年5月,国後・目梨でアイヌが反乱を起こし,再び蝦夷地が脚光を浴びることとなります.

 当初,この反乱の背後にはロシア人がいるとされていた訳ですが,幕府が派遣した普請役などの調査で,その原因は場所請負商人飛騨屋久兵衛の不正な商取引とアイヌの酷使によるものが明らかになりました.
 家光の頃だったら,こうした家中不行届は,十分国替え又は廃藩の対象となります.

 当時,幕府にあって蝦夷地の担当官僚だった側用人本多忠籌は,蝦夷松前家の転封と幕府による蝦夷地の直轄・開発を建議しましたが,松平定信は,蝦夷地を外国と見なし,従来通り,蝦夷地は松前家に任せ,ロシアに対しては,開発をしないことで自然の防禦地帯として不毛の儘放置することがよいと考え,御三家と一橋治済もそれに同調した為,結局この案は葬られました.

 1790年には松前家の蝦夷地取締改革案を承認し,乱の事後処理を終えると共に,幕府から検分の役人を派遣して,その改革を監視し,加えてアイヌの為に御救交易を行って,その地のアイヌの懐柔に努めることにしました.

 こうして何事もなく過ぎた様に思われましたが,検分の役人の報告は意外なものでした.
 近年,蝦夷地には五穀が生じると言うのです.
 そもそも,蝦夷地は天然の要害で不毛の地とすることで,無手勝流の防備手段とするつもりだったのに,五穀が生じるのであれば,ロシアの格好の餌食になってくる可能性が高まります.

 そうなるとその防備は小藩である松前家の手に余り,しかも,其処を占拠されてしまうと,奥州も無防備同然な訳で,定信は頭を抱えることになりました.

 折も折,1791年9月5日に伊勢の住人大黒屋光太夫以下3名の漂流民を連れて,ロシア使節Adam Kirilovich Laksmanが根室に来航し,両国の和親を希望して,松前家の吏僚に新書を手渡すという事件が発生します.
 そして,彼らは根室で越冬し,来年3月までに返答が来なければ江戸に直行するとしてきました.

 松前家からの急報は10月19日に幕閣に届けられ,その対応に苦慮する事になります.
 と言うのも,奥州は元より,江戸湾内についても,日本は完全に無防備だからだったからです.
 当時,浦賀に船改めの為の奉行所が置かれていたのですが,軍事力と呼べるものは全くと言って無く,軍船は32挺立の下田丸が最大で,小船まで入れても僅か10隻,その船も殆どが老朽船と言うお寒い状態だったりします.

 11月2日,定信は対応策を老中一同に諮り,国書を受理せず,献上物も受納しない,江戸来航も許さず,漂流民は現地にて受取るが,江戸引き渡しを主張するのなら受取りを拒否すること,もし通商を望むのならば,長崎に回航させ,その為に必要な長崎入港許可証である信牌を与えることなどを決め,20日に尾張と水戸の当主と一橋家当主に対応策を示して承認を受けました.

 此処で注目されるのは,貿易の許可証たる信牌をロシア船に渡そうとしていることです.
 鎖国体制下で日本と貿易を行っていた国は,一般にHollandと清,朝鮮だとされていますが,この三カ国に限らなかった訳です.
 実際に,1724年にはカンボジアの船に通商を許して信牌を授けていたりします.

 それは時間稼ぎの一手でもあり,一方で10月20日に定信は大綱を策定して,老中・勘定奉行・目付の同意を得,11月19日に将軍の決裁を仰いで,江戸湾周辺の要地に寄合や小普請を土着させることを決定し,12月14日には松前家に委任することを前提に,3~5年に一度,普請役・小人目付などに御救交易を行わせ,それが正常に運営されているかどうか,「唐蛮制之船」を作って不時に検分する他,三厩付近を上地して北国郡代を置き,津軽・南部両家に警衛させる「蝦夷御取〆建議」を起草し,老中一同や尾張・水戸両家の当主と一橋家当主の了解を得て,1793年1月29日に蝦夷地防備案の決裁を得ました.

 更に,勘定奉行久世広民と目付中川忠英,森山孝盛らに伊豆・相模・安房・上総・下総を巡検して防衛の要地を選定させますが,定信自ら伊豆と相模に赴き,実地に調査して4月10日に「海辺御備下調」を起草し,老中の承認を得て,江戸湾の防備案も一応完成しました.

 江戸湾防備については,先ずは浦賀と走水の防備を完成させ,其処で異国船の来航を防ごうと言う考えで,残りの部分は追々整備していくという考えだったようです.
 尤も,異国の艦隊が数百艘の船団で来襲すれば,先ず敗北は避けられず,その場合は,定信自ら講和の席に赴かんと言う覚悟を決めていました.

 約150年後の子孫は,そんな覚悟もせずに戦争をおっ始めた訳ですが….

 沿岸に領地を持つ諸家に対しても,1791年9月には参勤交代時には海路を取る事を奨励し,異国船漂流の場合の取扱方を通達したのを手始めに,1792年11月には異国船漂流の節の心得,動員する兵数,船数,砲数,隣国との申合せなどを書面で報告すると共に,不時の検分を行う事を伝え,12月には幕府自身が江戸湾防備に着手する事を告げて,諸家に一層の努力を求め,1793年3月には練兵,船方調練,武器の修復,船見番所の建設など海防を怠らない様に示達しています.

 また,軍事力強化の為,軍船を新たに建造する事にしますが,これも前政権が建造して運航しようとしていた三国丸と同様,和洋中折衷船とすることとし,同型船を4~5隻建造して,浦賀と三厩に配し,異国船との戦闘に備える事となりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月14日22:17


 【質問】
 「唐蛮制之船」とは?

 【回答】
 さて,松平定信は,ロシア船の来航により日本の周辺が全く無防備であることに愕然とし,諸家に海防計画を練らせると共に,江戸湾と北方防備の為に北国郡代と浦賀奉行所の強化を推進する事になります.
 また,浦賀奉行所に配備されている軍船が老朽化していた事から,「唐蛮制之船」を4~5隻建造し,浦賀と北国郡代にそれぞれ配備して,蝦夷地,国後島,ラッコ嶋を不時に見分させ,諸家の海防体制や松前家の勤惰を糺させる他,御救交易用に使用する事を考えていました.

 この「唐蛮制之船」は,日本船では耐航性が余り良くないから,冬期の日本海で航海が可能(と定信は思い込んでいる節がある)と言う事に着目して,ジャンクよりも寧ろ洋式船を念頭に置いていた様です.

 この船の乗組員としては,幕府船手の他に吟味して召し抱えた「水主之名誉之者」を充当する事としていました.
 これは,幕府船手は外海の航海の経験に乏しく,1791年12月に下命された海船帆手修行も翌年から始まったばかりで,経験豊富な船乗りを幕府内から調達する事が出来なかったからに他なりません.

 人員面での施策は何とか成ったものの,船はこれから建造する事になります.
 定信がこれらの船を建造に当たって付けた条件は2つありました.

 1つは,船体構造を異国船と同等のものにするとしても,船体の外観は異国船と誤認しない様に日本船と同様の造りにすると言うものです.
 これは異国船と同じ外観にしてしまうと,異国船が紛れて日本の海域に侵入しても,海防している諸家はそれを見過ごしてしまう可能性があると考えた訳です.
 例えば三国丸の様に,船首材を水押に換え,上廻りを総矢倉にする事や,1853年に島津斉彬が建議した様に,垣立を舷側に取付けて識別にする,更に,1791年に御救交易の為に購入した政徳丸に倣って,船体に赤の塗装を施して識別させるのも一つの手です.

 但し,帆走設備だけは異国船と同様にせざるを得ません.
 その場合は,伝統的な帆印,即ち,船主の標識を帆に入れて識別に使うと言う考えがあります.
 その帆印として使われたのは,幕府の船だから丸に三葉葵と言うのは実は無くて,朱の丸の幟ではないか,と言う推定が為されています.
 遡る事1673年に,御城米を運ぶ雇船に建てさせて以来,朱の丸の幟(朱の丸船印,日の丸船印とも呼ぶ)は,幕府船の標識として全国に通用し,1799年から始まる東蝦夷地直轄の幕府御用船でも同様の船印を用いています.
 因みに,この御用船も政徳丸と同様に船体は赤く塗装していました.
 そう言う意味では,幕末に日の丸を以て日本船とすると言う淵源はこの辺りにあったと推定されます.

 さてさて,識別の件はこれで良いのですが,もう1つの要件は何か,と言えば,商船構造は不可と言うものです.
 此処で想起したいのは,大船建造禁止令の事です.
 武家諸法度に於て大船と言うのは,軍船の事を指し,商船ではない事になっています.
 商船でなければ軍船である訳ですが,航洋船に関しては,その範疇に非ずという理解を幕閣が行っていたと推定されます.
 因みに,1790年に幕府が銅の流出を避ける為に長崎貿易の船の数を減じた時には,中国船の来航が途絶えるのなら,出貿易を行うべしと建議していたりしますので,鎖国体制堅持が幕府の考えではない,即ち,その為に航洋船を建造するに吝かではないとしている訳です.

 では何故,商船構造は禁止としたのか,と言えば,ひとえに抜荷を誘う商船を嫌っていたに過ぎません.
 これは御救交易を毎年することで馴れが生じて不正が生じるで有ろう事,商船構造とすると乗組員の不正の余地が増えるであろう事など,乗組員に対する全幅の信頼を置いていない事を示しています.
 勘定所が唱えていた蝦夷地直轄・開発策に与しなかったのも,清廉・有能・壮健な人材が不足していたと定信が見ていたからでもあります.
 丁度この頃は,田沼体制の粛清が行われていた最中で,1792年には家事不行届で伊奈忠尊が関東郡代を罷免されていますし,1790年には普請役見習で幕府隠密として蝦夷地に派遣された青嶋俊蔵が,松前家家老職と通じた廉で2年の遠島に処せられており,定信が人材不足を痛感する事件には事欠かなかった訳です.

 この「唐蛮制之船」をどの様に用いるかと言う戦略面の話ですが,定信の江戸防衛計画は着上陸戦阻止は難しいので,浦賀,走水以外では船による防禦を行わないとして,上陸した敵は要所に配備した兵力で迎撃するとしていました.
 陸上では伊豆柏窪・下田と相模甘縄に幕臣を土着させ,伊豆伊浜は大名に任せ,神奈川には代官を置いてこれらを拠点にします.

 浦賀と対岸の房州百首の間は三里で,この部分は海は瓢箪の様に狭くなっているので,両方の沿岸に台場を築いて侵入船に砲撃を加え,連筏を浮かべて防げば,先ず食い止められるだろうとして,この部分を防禦の第一線と考え,走水と富津の間は五里とやや広いものの,富津側には二里半の出洲があって夜間の通船は難しく,座礁すれば手の施しようがない,通常廻船は走水寄りに航行する事から,走水の備えを厳に見せ,富津の備えを山陰に置き,走水から砲撃して,鎖で連ねた筏や火船を繰り出せば,砲弾を避けて富津の出洲で座礁するか,出洲を避けて砲弾に当たるかの二者択一となり,此処で十中八九は異国船侵入を防げると考えており,大型軍船による海戦は全く考えていなかったりします.

 結局,彼が考えていた「唐蛮制之船」の活用というのは見せ金にしか成らなかったりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月15日21:48


 【質問】
 松平定信時代の国防強化策は現実にはどうなったのか?

 【回答】
 何隻かの御用船が建造されたものの,しばらくすると「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざのごとくの結果に終わった.

***

 「唐蛮制之船」ですが,残念ながら蝦夷地防備案については,将軍の裁可を得たのですが,1793年5月7日に根室で越冬したAdam Kirilovich Laksman乗船のCatherine号が,同行した松前藩船に遅れた挙げ句,南部の尻屋崎を経て,32日掛かって箱館に入港した一件があり,定信の西洋船に対する不信感を植え付ける事になります.

 彼らの遅延の原因については,はっきりした回答を得られず,結局は判らず仕舞いでした.
 その直後,定信は老中職を解かれた為,結局彼が夢想した「唐蛮制之船」の建造は行われませんでした.

 とは言え,蝦夷地直轄と言う大前提があった時点では,船がどうしても必要となりました.
 特に,蝦夷地に向かう船には天文航海を行う事を幕府天文方が主張し,その航法を行うのは当然沖乗船であることから,耐波性の良い洋式船の導入を主張します.

 この主張に従って,1799年に浦賀で神風丸と言う沖乗船が建造されました.
 これは弁才船風のものだったのですが,船体構造は唐船造りで,水押を付けて和船と似た形態を保っています.
 上部構造物は総矢倉で,和船式の折衷船と言われています.
 天文方の主張する洋式船は退けられたようです.
 其の後,この神風丸をタイプシップにして,様似や大畑で御用船が建造されました.
 これらは様似で景福丸以下5隻が少なくとも建造され,大畑でも同様の船が建造されたようです.
 特異なのは,様似で建造された帆柱5本の飛龍丸で,これは神風丸が3反の弥帆と27反の本帆に加えて,船尾両舷に8反の艫帆を持っていましたが,更に1本弥帆柱と本帆柱の間に中帆柱を建てた形態であると推定されています.

 とすると,この沖乗船群は,三国丸をタイプシップに建造されたものと推定出来そうです.
 但し航海の便を図って,帆装設備だけは和式に変えたものに改造されていました.

 ところが,折角,こうして花開いたかに見えた折衷船の建造も,再び粛清されてしまうことになります.

 1804年9月に,Nikolai Petrovich RezanovがAdam Kirilovich Laksmanに与えた信牌を持って長崎に来港し,通商を要求したのが切っ掛けです.
 1805年3月,幕府は朝鮮,琉球,中国,Holland以外の外交・貿易関係を結ぶつもりはない,それが朝廷歴世の法であると回答して,彼の要求を拒絶しました.
 これに怒ったロシアが,1806年から1807年に掛けて樺太・択捉を襲撃し,利尻では停泊中の幕府御用船万春丸が焼討に遭いました.

 箱館奉行は南部・津軽両家に加え,秋田佐竹・庄内酒井両家にも蝦夷地出兵を命じ,御備船の建造を水主同心露木元右衛門に諮問しました.
 彼の案は6つ示されますが,最も積極的な案は,総矢倉の弁才船に倣った4~500石積の船を5艘建造し,これには無風時に備えて櫓を12挺立とする事,平時には商船,有事には軍船として用いる.
 総矢倉の内側は,菰蓆,古畳,鉄網の幕,木綿の幕で装甲(?)し,船首尾は莚,幕,竹束で防ぎ,船底は三重に仕切って台を二重に掛け,船の喫水を台際まで入れる事で,砲撃でも浸水せず,矢倉から大筒や鉄炮で攻撃するのも自由自在であると言うものでした.

 それ以外の船としては,押送船形の早船,長春丸に倣った500石積の関船,同じく500石の阿蘭陀式ばっていら造り船,16挺立の小早,ちょろと適当な提案をしていたり.

 結局,対露戦用に作られた北方防備船は,重武装・重装甲の総矢倉の弁才船となり,先祖返りした感を受けます.
 最盛期に沖乗船は13艘を数えたものの,1807年末には吉祥丸1艘を残すのみで,折衷船の系譜は此処に一時頓挫を余儀なくされた訳です.

 この理由は定かではありませんが,沖乗船の海難が結構あった事や,水主が不慣れだった事,ロシアに万春丸が焼かれた(しかも,一戦もせずに水主は敵前逃亡した)のが幕閣の中に不信感としてあったからかも知れません.

 最終的に,この和式の御用船は,1809年までに江戸で1艘,大坂で7艘,大畑で2艘,都合10艘が完成したのですが,1812年にロシアとの和議が成って,北方の緊張が緩和された為,これらの船の多くは払下げられ,以後暫くは幕府が船に関心を示す事がありませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月16日22:31


 【質問】
 質問させていただきます.
 三国丸や「唐蛮制之船」について纏めていて気づいたのですが,江戸時代になってもなお,日本では船舶の軍船と商船との分化が起こっていなかったということでしょうか?
 そうだとしますと,それは何故でしょうか?

消印所沢 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 軍船と商船の完全分化はしていないのではないかなぁ,と.
 戦国期に安宅船を作るなどして,軍船と商船を分化する方向には進みますが,対外的,対内的な脅威が消滅して,幕府が諸大名家の海軍力を抑制する方向に進むと,商船は発達するものの,軍船としての発展は止ってしまう訳で.

 抑止力としての軍船が不要であれば,専用船をわざわざ保有する必要はない訳で,そうなると,海軍力を誇示する為にしか使えない船を造るより,商船としての機能もある船を造る方が効率が良い.

 朝鮮でも,この傾向はあって,確かに亀船はありましたけど,これはつい最近日本に攻め込まれたと言う,対外的な脅威があったからこそ,彼の国に妙な気を起こさせない様にと言う抑止力の為に建造されたものであり,それが無い時代は,軍船と言っても,商船の延長線上だったりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


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