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戦史FAQ目次


 【質問】
 銀山に対する「貸付け銀」について教えられたし.

 【回答】
 財務省と日銀が惰眠を貪っているお陰で,日々円高ドル安が進行しているようです.
 世界的に景気が弱含みだったりするので,投機マネーが行き場を失っているようですが,投機を好い加減に規制する方向に持っていかないと,その内飛んでもない方向に行ってしまう気がするのは,気のせいでしょうか.

 江戸期にも,貨幣改鋳と言う経済政策を幕府が行ったお陰で,「銀安銭高」と言う状態となり,諸物価が益々高騰して,庶民の生活や経済活動は非常に苦しくなりました.
 随分前に触れたのですが,この貨幣改鋳は困窮する武家の生活を楽にする為に行った政策で,庶民の生活を全く顧みていなかった訳です.

 まぁ,そんな事はさておき,諸物価高騰,一方で産銀量の急激な減少と銀の買取価格の引下げにより,自分山と呼ばれる民間資本の鉱山経営は,全く不振に陥ってしまいます.

 しかし,代官が川崎平右衛門に代った1765年以降は,寧ろ回復基調になっていきました.
 これは平右衛門の稼方御主法に拠るもので,具体的には「十分一銀」と呼ばれる貸付制度の創設でした.

 これは読んで字の如く,年間産銀量の10%を鉱山開発の資本に充当するというもので,実施は1766年から1780年にかけて実施され,こうして捻出された銀高は年間11貫目から23貫目程度でした.
 当初の2年間は,資金不足に見舞われますが,1768年以降僅かながら黒字となっていきます.
 そこで,後任代官の川崎市之進は,この稼入用の残銀を新たな貸付銀の資本として,1770年以降に御料及び私領内の富農や商人に貸付け,その利銀を鉱山資本に充当するようになりました.

 更に1777年以降に,市之進は新たな貸付銀の整備を勘定所に具申しています.
 これは,5項目からなっています.

第1 1742年に代官関忠太夫以来行っていた拝借貸付の内,備後国に貸付けた利銀187貫677匁余を元銀として年利1割で貸付け,その利銀を「銀山相続」の資本とする.
第2 拝借貸付分の内,石見国分の利銀242貫871匁余を元銀として年利1割で貸付け,その利銀を永久稼所の開発費用に充当する.
第3 邇摩郡磯竹村にある鉛山開発で得た利益銀12貫448匁余を元銀として年利1割で貸付け,その利銀を銅鉛山の開発費用に充当する.
第4 四ツ留役所の諸入用残銀55貫590目余の内,銀25貫目を元銀として年利1割で貸付け,その利銀を四ツ留役所の修復費用及び薪炭の諸費に充て,残り30貫目590目余については,山師,銀吹師への手当や吹入用の前貸し銀とする.
第5 水役銀の諸入用残額14貫目を元銀として年利1割で貸付け,その利銀を陣屋の修復や正月松飾りの費用に充当する.

 何れも,貸付け銀を運用する事で諸費用の捻出を狙ったものです.
 此の具申は,同年にはもう実行の許可が出ており,直ちに実施されました.
 これらはそれぞれ,相続銀,永久稼銀,四ツ留役所囲銀,磯竹鉛山囲銀等と呼ばれ,その後の代官もこの政策を踏襲していきます.
 1844年にはその元銀は,相続銀634貫867匁,永久銀548貫280目,十分一銀615貫目,古銀山囲銀173貫348匁,磯竹鉛山囲銀29貫282匁で,都合2,070貫余にも達した巨大資本になっていました.

 この貸付銀は,御料や私領の身元の確かな者に,代官所が資金を貸付けて運用するものです.
 例えば,1791年の『利銀取立廻状押切帳』の場合,貸付け元銀は十分一銀が604貫499匁余,永久稼銀が258貫76匁余,相続銀156貫122匁余で,これを123口に貸付けています.

 その貸付先は,銀山御料だけでなく,近隣の私領である美作勝山の譜代三浦家,備中新見の外様関家,出雲広瀬の家門松平家,石見浜田の家門松平家,備中成羽の交代寄合山崎家,備中松山の譜代板倉家,備中岡田の外様伊東家,備後福山の譜代阿部家,備前岡山の外様池田家,更に備中後月,小田,浅口5郡の飛地領土を持つ摂津麻田の外様青木家や下総佐倉の譜代堀田家などにも及びます.
 1口あたりの私領は多くて20貫目,少なくとも1貫目,平均すると10貫目程度となっています.
 但し,1人に数口が貸付けられる場合もあり,その場合は巨額貸付となりました.
 因みに,銀山御料の場合は銀山のある邇摩郡の他,周辺の安濃郡,邑智郡を中心に都合39ヵ村55口に及びますが,そんなに多い貸付額ではなく,多くとも4貫目余であり,平均300~500匁程度となっていました.

 そんな貸付は604貫499匁であり,その利息は年1割5分です.
 従って,利銀90貫674匁余が当年分として,代官所の御銀蔵に納められます.
 そして,この元銀と利銀の合計が翌年の十分一銀であり,そこから鉱山開発資本が年間60~70貫目が準備されますが,使われるのはその内30~50貫余となっており,残額は再び御銀蔵に戻ります.
 ただ,これは一カ年の投資額であり,十分一銀以外にも民間資本などが投下されていますから,巨額の公費を鉱山開発に投下した事になります.

 これこそ正に,真水の投資と言う訳です.
 今の財政当局も,少しは知恵を使ったらどうなんでしょう…なんて言うのは言い過ぎでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/24 22:46

 十分一銀を行い始めてから,鉱山開発には石見代官の積極的な資本投下が行われるようになっていきます.
 この資本により,新切山,蔵本山,元泉山,今泉山,新横相の内,修復8箇所,切延8箇所が普請された他,1778年には新たに元泉山永久稼所の普請が行われています.
 この普請の計画は実に4,073尋に達し,その入用銀高は1,324貫306匁余に達しました.
 計画では,これを開発するのに,銀掘が約29.5万人,廃石を運び負う柄山負が約22.3万人,使い走りの手子が約11.8万人,鉱石を叺に袋詰めする入手が約1万人の延べ人数で64万人の雇傭が発生する事になります.
 自分山の経営が不振で,鉱山町の景気も良くない時に,こうした動きは歓迎されるものでした.

 つい最近まで,公共事業での地方の雇傭維持と言う手法を,国や地方公共団体が使っていた訳ですが,その源流は江戸時代の新田や堤,それに鉱山の積極的な開発にあったりする訳です.

 こうして十分一銀の投入により,公費による御直山の開発が進むと,銀山全体の経営がその御直山を中心に展開していくようになります.
 と言うのも,元々,山師による間歩の経営は,既に見てきたように零細資本での経営が殆どであり,資本の蓄積のない山師にとっては,自分の間歩の維持が精一杯で,それ以上の拡張が無理だったからです.
 それに対し,十分一銀とは言え幕府の資本はそれより遙かに多いので,自然と投資は御直山を中心に回っていく訳です.

 1821年の『銀山稼方勘定帳綴』には,この年,各貸付銀から鉱山開発の為に投下された資本総額は銀78貫273匁余で,十分一銀が11貫755匁余,永久稼銀が22貫534匁余,相続銀が43貫984匁余となっています.
 それを資本に稼行された間歩は,新横相,元泉山,元泉山永久稼所,龍源寺山,駒沢山,蔵本山,竹田山,無名異山など9箇所に上ります.

 こうした間歩は,概ね直稼,請負,手当の3種類に分ける事が出来ます.
 このうち,直稼,請負は,御直山に対する直接及び間接投資であり,手当は,山師,下財,吹師等銀山稼人に対する助成でした.
 因みに,御直山の内,直稼,つまり代官所直普請での鉱山は全体の90%を占めていました.

 ところで,石見銀山の間歩経営者の資格と言うのは,ひとえに銀山住人である必要がありました.
 山師の身分は,自らの資本で間歩を開いて鉱石を採掘し,所定の運上を代官所に貢納する事で,先述のように苗字帯刀を認められた特権階級であったのですが,鉱山が衰退し,個々の間歩経営者が零細になっていくとそうも言っておられず,銀山町以外の外部からの資本を呼び込む必要がありました.
 そこで行われたのが,資本は外部の商人や富農などが出し,開発は山師が行うと言うもので,出資者は利益の凡そ1~2割程度を還元して貰う仕組みでした.

 こうして進出した外部資本の中には,住友の様な大資本も参加したのですが,リターンが思わしくなかったのか,見切りを付けるのも早く,数年して撤退してしまいました.

 従って,石見に投資する人々は地方の商人か,大坂の中堅くらいの商人,それに周辺地域の豪農が主だったりします.
 彼らもそんなに無尽蔵に資本を出せた訳ではないので,自然,官への期待が増した訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/25 23:00


 【質問】
 江戸時代の石見銀山の,経営形態について教えられたし.

 【回答】
 石見銀山には山肌にポッカリ開いた穴が無数にあります.
 これの数は600近くに達していますが,この穴のことを「間歩」と言います.
 間歩の意味は,普通鉱山の坑道を意味することが多いのですが,実際には鉱区を含む坑道の事を意味します.
 鉱区は,鉱物を採掘し得る区域であり,鉱業権はこの鉱区に基づいて設定されます.
 江戸期には,鉱山経営者はこの鉱区を代官所に出願し,許可を得て鉱石の採掘を行いました.

 こうした鉱区の設定は各鉱山によってまちまちであり,例えば摂津にあった多田銀銅山では,間歩口を中心に50間をその範囲としていますが,石見銀山では間歩口を中心に13間がその鉱区範囲とされていました.
 鉱区を設定し,採掘権を得た後は,それを保有する鉱業権者が出現します.
 この鉱業権者の事を,「山主」と言いますが,山主の資格は自らの資本で間歩を開発した者を言います.
 こうした間歩を,「自分山」或いは「山師持山」と言いました.
 江戸期の鉱山と言えば,大久保長安などが幕府の資金で開発したように思われがちですが,実は民間資本が多く入っていたりする訳です.

 また,権利関係としては間歩の貫通についても規定があります.
 坑道を掘削中に誤って他人の間歩に侵入してしまった場合,その間歩の山主から5日以内の申告が無ければ自分の間歩とすることが出来ますが,申告があったならば,折角開発した間歩でも,その権利は没収されてしまいます.
 折角資金を投入しても,その鉱区が没収されてしまうと言う,非情な規定でもありました.

 当該の間歩を折角開発し,例え鉱石があっても出水が酷くて鉱石が搬出出来ない場合があります.
 この場合の救済策として,横相を掘ると言う事が許されていました.
 横相と言うのは,鉱脈に対して他の間歩から直角に交わるように水平坑道を掘る方法で,疎水坑道として利用します.
 こうして,水底を掘り抜き涌水が引けて鉱石が無事搬出出来ると,横相を普請した山主がその搬出量の10分の6を,中通りでは10分の4をそれぞれ権利として与えられると言うものです.
 横相主の制度は,既に1604年の「大久保長安覚」に出て来ましたが,後の方が鉱石を得る権利が高くなっています.

 この間歩は,銘々の山主が保有し,これらは一族や縁者に相続されていました.
 ただ,場合によってはこの権利を第三者に貸与する事もありました.
 これを「仕手請取」と言い,契約書には貸与期間を設定して,その間の出鉱は代官所への運上とは別に「山主分一」と称して,得分の一部を山主に渡すことになっていました.
 その上,普請中に富鉱部に当り,複数の切地が設定出来る場合は,切地3挺目が山主にそのまま配当されることになっていました.

 貸与するだけでなく,当然,売買の対象にもなります.
 これは買主から代官所に権利移転の届け出を出すことで成立します.
 例えば,大坂泉屋(後の住友)が布河与左衛門の持山の内,上正蓮寺山,下正蓮寺山,三味線山,福実山の4つの山を布河の経営不振を理由に1736年に売り渡した届けが残っています.
 大坂泉屋は,結局,この経営不振を改善出来ずに撤退し,石州温泉津の加賀屋嘉右衛門と大坂心斎橋南木挽町石見屋忠左衛門に預け置かれ,三味線山は両者の共同運営で銅を産出していました.

 こうした権利関係は,放っておくと有耶無耶になりがちです.
 しかし,幕府にとって間歩を把握するのは運上銀賦課の対象であり,重要な資金源でした.
 そこで,毎年3月には山組頭等の山役人達に銀山内の間歩を調査せしめて,「間歩改帳」と言う基本台帳を作成して,幕閣に提出させています.
 この数を見ると,1715年に127箇所の間歩の内,既に6割近くが休山している状態で,1730年には一旦42.6%に増えるものの,以後,稼働している山は年々少なくなり,放棄されたか,休止している山がどんどん増えていることが判り,1763年には254箇所の間歩の内,稼働しているのは僅か3.9%で残りは全て休山となっていました.
 その後,幕府の梃子入れで少しは増えましたが,それでも8割は休山状態になっています.

 休山した山は,間歩口に封印が為され,稼働する場合は,代官所の役人や山組頭等の立ち会いにより封切りされました.
 但し,その封印に関しては,月日を経て封印が腐ってしまえば,潰山扱いとなり,再開発を希望する者がいれば,山組頭の判断で,自由に稼働させることが出来たようです.

 運上銀賦課には,運上山法と荷分け法の2種類がありました.
 前者は,一定期間の運上額を予め定めておき,それを基準として山師等の入札によって採掘権を請負うものです.
 後者は,坑口に役人を置き,日々掘り出される鉱石を調べて指定日に一定の割合によって領主への公納分と山師の取り分に分配する方法でした.

 石見では通常山主が仕道・寸法・横相切など間歩の普請を代官に出願した時に,山役人,銀山役人,代官などの検儀を受けた後,証文を出して開発が許可となります.
 それを受けて開発を開始した場所を「稼山」と言います.
 この場合は,未だ出鉱がないので間歩役などの運上銀は免除となります.
 そして,富鉱帯に切り当り,出鉱が本格化すると,「早速御請ニ申付」られ,稼山は直ちに「請山」となって,代官所に対して運上銀の義務を負うことになります.

 請山の運上は,1年を4期に区切って期間毎の運上額を山師に入札で競わせて間歩を請負わせていました.
 その期間でなくとも,有望な間歩ならば,当初設定した運上額を増額させることもあり,また,その有望鉱脈を現在の請負者以外に別の請負者が名乗り出た場合,入札をして,運上額が高い方に開発を委託する事になっていました.

 運上の計算方法は,「鏈わけ」と言う独自の仕法で決められました.
 大谷・栃畑・清水・昆布山・休谷の5つの谷を里山と称し,この間歩からの出鏈10俵の内1俵(鏈4貫目)は請人取り分3分の1,山主取り分3分の2に分配します.
 残りの9俵を請人取り分3分の1,山手・仕手・銀掘取り分3分の2に分配します.
 その内,運上は請人取り分に対して賦課され,山手・仕手・銀掘り取り分に関しては,開発費用を考慮して賦課されない仕組みになっていました.
 因みに,石銀・本谷では石が硬いという理由で,請人の取り分は5分の1,山主取り分は5分の4となっていました.

 例えば,1日1夜分の出鏈を6俵とし,それに含有する灰吹き銀量を12匁7分6厘とした場合,鏈わけでは請人取り分が運上額の基準になるので,銀12匁7分6厘の3分の1から5分の1が運上額になります.
 例えばこの山が大谷にあれば3分の1なので,運上額は4匁2分5厘3毛,これは1日1夜ですから,4ヶ月分の運上額は494匁1分3厘となります.
 これを基準として,山師の入札で請人が決まった訳です.

 但し,入札額が低い場合は,請負いとはせず,「御直番山」と称して番人(銀山付同心)を配して鏈わけを実施しました.
 こちらは荷分け制で,日々掘り出される鉱石を調べ,その出鉱量の3分の1乃至5分の1を鉱石の儘公納させます.
 公納させた鏈は,銀吹師や中買に対して入札で払下げ,その代銀を運上として幕府に上納した訳です.

 とは言え,好景気では有効だった競りによる公納も,産銀量が急減する頃にはシステムが破綻を来しています.
 この為,幕府は享保の改革で稼山の運上を1ヶ月判銀2匁5分に,鏈の歩合も場所に関係なく一律15分の1に変更し,更に文化期には稼山は鉱石売却代銀の20分の1,出鉱に対しては16分の1と当初よりかなり軽減されてきています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/14 22:25

 さて,銀山の鉱脈を掘る方法は,戦国期までは3種類ありました.
 即ち,
1つ目が地表に顕れた露頭に沿って溝状に採掘する溝掘法,
2つ目が露頭を直下に掘り下げる吊し掘り法,又は竪穴掘法,
3つ目が鉱脈に沿って斜めに掘り進む犬下り掘法です.

 鉱山開発の初期的段階では,大抵が地表に顕れた露頭部を対象として採掘が行われました.
 山師は山中の沢筋や尾根を歩き,表出する露頭を発見して開発を進めます.
 地表部の露頭が掘り尽くされると,その鉱脈に従って地中へと掘り下がっていきます.
 これを「犬下り」などと言います.

 この方法は鉱脈をそのまま掘り進むので,坑道の普請と鉱石の採掘を同時に行える事になり,経営的には効率の良い物ですが,鉱脈に沿って斜め下に掘り下げる為,自然と坑道は斜坑になり,地下水脈を掘り当ててしまうと,水抜きが出来ず,そのまま坑道が水没する危険性がありました.

 そこで,16世紀末頃から疎水坑を兼ねた「横相」と言う方法が登場します.
 石見銀山での初見は,1600年7月に出された「銀山温泉津御納所之定」に記載されているのが最初で,この頃にはこうした採掘方法が登場したと考えられています.
 この方法は,東西に走る鉱脈に対し,直角に交わるように坑道を掘る方法で,鉱脈に行き着いた時点で左右に伸びる鉱脈を掘り延べていきます.
 地中にある鉱脈の位置や走向を事前に調査し,それに対して正確に坑道を掘り当てていく為には,高度な測量技術が不可欠であり,これは欧州から伝えられた技術ではないかと考えられています.
 この方法では,横相は大抵山の麓から水平の坑道を掘るので,坑道内に堪えた地下水の排水にも効果がありました.
 反面,生産が当初から開始出来る訳では無いので,先行投資が膨大な額に登り,開発コストの上昇を招き,それが山師の経営にも重くのし掛かる事もありました.

 更に元禄期になると,大切と水道と言う2つの坑道を上下にしかも平行で同時に掘る「二重穴」と言う,横穴よりも複雑な技術も開発され,使用されるようになっていきます.

 ところで,探鉱によって鉱脈の存在が明らかになると,先述のように,新口を開く為に代官所に見込み鉱区を出願します.
 石見銀山の場合,13間以内に他の間歩があるか否かを確認し,その上で許可されました.
 また,この出願は複数人でも出来ますが,その場合は必ず1名山師を入れるのが条件でした.
 この場合の山師は鉱山経営者ではなく,間歩を保有し,且つ苗字帯刀が許された者で,石見銀山では彼らに限って鉱区の出願が認められていた為です.

 新口の開発が許可されると,間歩口には「四ツ留」と言う栗丸太を組んで鳥居のように仕立てたものが設けられ,それが設けられると,代官所から祝儀として銀12匁乃至15匁と酒1升が送られるのが慣わしでした.
 坑道の縦横の事を「加背」と言い,その大きさには一定の基準がありました.
 1747年の「銀山覚書」には高さ4尺~3尺5寸,幅2尺~1尺8寸くらいの大きさで開削せよとありました.
 とは言え,初期資本によってはその大きさは必ずしもこの通りになる訳でなく,鉱山経営が不振な状態であればその加背も小さくなっていきました.

 実際の採掘に当っては,先ず岩面を分割(ワリ)して順番に掘られました.
 ワリは岩盤の硬軟によって異なりますが,別子銅山の場合は,縦3尺,横2尺を加背として,18等分に分割し,中央の仕掛から切り始め,以下規定の順番に従って交代で切延を行いました.
 石見の場合は,25に分割し,鎚手(右手)から鑿手(左手)へ25番行った後,再び鎚手に25番に戻りました.
 作業が難しい鑿手側はワリが小さく,容易な鎚手は大きく配置することで,単位時間に於ける労働者の作業量は均等になり,此に基づいて賃銀が支払われた訳です.

 間歩の経営は,経営者である山師の下に銀堀などの労働者が雇用されました.
 その敷地内で働く稼人には,銀掘,手子,柄山負,入手の種別がありました.
 銀掘は別称を「掘子」とも言い,坑道を掘り,或いは切地では鉱石の採掘に従事しました.
 手子は10歳前後の子供がなり,坑内と坑外との連絡や銀掘の呼び出しなどの雑用をこなしていました.
 柄山負も12歳前後の子供が従事し,荷(鏈の叺),柄山(廃石の叺)を背負い,坑外へと運び出すのが仕事でした.
 入手は文字通り鏈や廃石を叺と呼ぶ袋に入れる仕事を担当しました.

 彼らの給与は基本的に貨幣であり,一部は飯米で支給されました.
 一昼夜を5つに割り,1つ分を「一番」として,銀掘では銀2匁,手子は5分2厘,入手は銀1匁と各職能に応じて決まっていました.
 なお,柄山負は一番を銀1匁3分としていましたが,堀場から坑外までの距離により5荷,10荷,15荷などと荷数に増減がありました.
 その勤務形態は様々で,数日間連続して坑内で働く者もいれば,数日間隔を開けて坑内に入る者もいました.
 また,銀掘をしながら,合間に柄山負や手子として働いたり,1日に銀掘と柄山負の両方を兼ねる者もいました.
 この為,賃銀は多い者で37匁余,少ない者なら僅かに2匁と格差が出ます.
 平均的には14匁です.

 但し,名目上,この賃銀は文字通り丁銀立てでの支払いですが,実際に支払われるのは銭で支払われました.
 従って,銀と銭との相場によって,その価値が上下する事があった訳です.

 こうした銀山の経営規模は,江戸初期では相当大きかったのですが,産銀量が低下すると衰退し,18世紀には経営は小規模になっていきました.
 1729年の場合,間歩数は129口に対し,休山は74口,稼山55口と言う規模であり,大抵山師1人で間歩1箇所が精々で,中には1人で3~4箇所の間歩を経営している者もいますが,ほんの数人であり,中には1つの間歩を2人で経営するケースもありました.
 その山師が抱える労働者も,大規模な所では,銀掘14名,柄山負20名と言うのもありますが,それはあくまでも例外的であり,大抵は平均で銀掘が1~3名,手子1名程度,柄山負は廃石の状況次第で1~2名が精々と言うもの.

 時代劇なんかを見ると,鉱山の場面では多くの人足が働いている様に見えますが,石見に限って言えば,殆どが現在の小規模企業並の人員で稼働していた事が分ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/16 22:13

 さて,間歩の経営は儲かったのでしょうか.

 領主への運上金である「山役」は,1581年の毛利氏支配時代には960枚(1枚43匁で換算して41.3貫)が上納され,関ヶ原の合戦後,徳川氏支配になった直後には8,058枚(同じく346.5貫)が上納されています.
 また,「大久保長安覚」によれば,1つの間歩でしかも一請け,つまり4ヶ月の内に1,700枚(1枚45匁で換算して76.5貫)もの山役銀が貢納されていました.
 この様に,江戸初期にはこの銀は幕府の財政を支えていたと言っても良いくらいの状態だったのですが,次第に掘り尽くされていき,1624年に320.8貫あり,大体200~300貫で推移していましたが,1636年の450.8貫を最後に3桁になる事は殆ど稀になり,1713年には僅か4.17貫と凡そ80分の1にまで落ち込んでしまいました.

 例えば,1699年の山役銀は7貫604匁余となっています.
 当時の請山数は23口で,新しく掘った昆布山谷の横穴が銀4貫993匁とその運上額の3分の2を占めた以外は,他の請山は何れも1貫目に満たない程度です.
 取り分け,小林山,助左衛門山の2口に至っては僅かに10目と雀の涙で,全体の生産額も,運上率は3分の1から5分の1でしたから,単純に見て1つの間歩当りの産銀額は精々3貫目と言う,昔の栄光よ今何処状態でした.

 税金はこれだけ払うのですが,山師の稼ぎは大凡次のようになっていました.
 例えば,加背が高4尺,横2尺,切延を5尺2寸5分とし,切落を500貫目として,半分は柄山(廃石),残り半分は荒鏈(粗鉱石)とし,正味鏈はその3割に当る75貫目とします.
 この正味鏈の品位は,100目に付き灰吹銀にして1分5厘,つまり0.15%の品位としましょう.
 山師は,これを丁銀90目にて銀吹師に売却します.

 それを掘り出す費用を見てみます.
 入り用の人数は,1日当り銀掘5人,手子,中負,明り負が各1人の編成です.
 これに鉄子先掛が1日当り4本程度であり,上記の量を掘り出すのに4日程度掛かるとして,その費用は4日分で68匁2分3厘かかります.
 次いで,鉱石を掘り出して選鉱をしますが,此の部分は山師負担で行われていました.
 此の経費が大体11匁8分かかります.

 しめて支出は単純計算で,80匁3厘となり,山師は銀吹師に90目で鉱石を売るので,山師の儲けは差し引き9匁9分程度になります.
 但し,この儲けは4日分ですから,1日にすれば僅か2匁5分程度の儲けしか出ません.
 しかも,このモデルでは,簡単に掘れた場合ですから,岩盤が固く,排水が多くなってその処理に金が掛かったりすれば,儲けはどんどんと薄くなっていきます.

 つまり,鉱山経営と言うのは余り美味しい商売ではなかったと言えるでしょう.

 この原因は,資源の枯渇というのが先ずあります.
 最盛期には精鉱当りの銀含有量は,30~40%に達したのに,それが1710年代になると僅かに4~6%程度になっています.
 当然,鉱石の品位低下は直接産銀量の低下に繋がります.
 また,最盛期には比較的地表に近い富鉱部が開発されていましたが,それを掘り尽くすと,坑道を掘って地中深くから鉱石を運び出すようになり,それに伴い地下水の湧出や通風の問題が発生しました.
 湧水は,通路や切地を水没させて,鉱山経営に損害を与えますし,復旧にはとてつもなく費用が掛かります.

 また,地下深く掘り進むと言う事は,酸素量が少なくなる為,鉱夫達は,以前,秋田の馬肉の所でも触れた気絶とか「ヨロケ」と言う職業病を発するようになっていきます.

 その対策の為に,寸法樋と言う一種の排水設備や,唐箕と呼ばれる送風機を装備させたり,疎水の為の横相や二重穴の掘削を進める事になりましたが,そうした設備や工事の複雑化はより一層,山師の経営を圧迫させる事になった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/17 23:25


 【質問】
 江戸時代の石見銀山の,銀吹師について教えられたし.

 【回答】
 採鉱した鉱石は,製錬過程を経てインゴットとなり,銀座に出荷されます.
 山師は基本的に採鉱だけを実施し,製錬は銀吹師と呼ばれる人たちが吹大工,吹子指と呼ばれる人々を使って行っていました.
 山師は,山主として間歩の採掘権を保有し,かつ苗字帯刀を許された特権階級でしたが,銀吹師はあくまでも吹屋の経営者であり,そこには特権身分などはありませんでした.
 従って,資本さえあれば,そして既に休業状態にあった吹屋を譲渡される事で,代官所に届け出さえすれば,誰でも比較的自由に参入する事が出来ました.

 もっとも,山師と同様に銀吹師も,江戸中期以降は産銀量の減少により苦しい経営を強いられていました.
 1692年の「灰吹位増戻り銀割付帳」によれば,当時石見銀山には都合36名もの銀吹師が活動していましたが,産銀量が最も多い者は大谷の清九郎で55貫目余,次が下河原の十右衛門で43貫目余,下河原の茂右衛門と昆布山の庄兵衛の29貫目が横綱や大関クラスで,この4人だけで実に全産銀量の63%余を占めています.
 ところが,一方で,3分の1を占める12人は1~9貫目程度,17人は1貫目未満と言う惨憺たる経営実態です.
 1貫目未満の零細経営の銀吹師は,全銀吹師の実に50%近くに達しています.
 当然,こうした零細経営の銀吹師は,産銀量が減少すると次第に没落していき,1726年には17名に減り,1747年になると更に減って6名になってしまい,以後1桁後半で推移していき,1836年には4名,そして,1838年以後は僅か3名にまで減ってしまいました.

 銀吹師は,原料となる鉱石を山師から購入して灰吹銀を生産し,それを代官所へ売却して収入としました.
 利益は,そこから吹入用と運上銀を差し引いた残銀になるのですが,その収入はどうだったか.
 例えば,19世紀初頭の資料から見てみると,荒鏈500貫目に対し,正味鏈を100貫目とし,それに含有する灰吹銀を正味鏈100目に付き2分と計算しています.
 この場合,丁銀211匁8分が正味鏈100貫の代銀で,これを鉱石の買入先である山師に支払います.

 吹入の段階では,労働者の手間賃や木炭,他に鉛や錬など製錬に必要な鉱石の費用などが含まれ,都合銀88匁2分です.
 吹入に使う費用では,正味錬の量が同じであれば,こうした物品や手間はほぼ一定量必要なので,買い付けた鉱石にある銀の含有量が高ければ高いほど,銀吹師の収入が大きくなる事になります.

 因みに,入用の費用の内,銀製錬に必要な鉛が全体の54%を占め,木炭が22%を占めます.
 一方で人件費は僅か1割にも満たなかったりします.
 こうした事から,経営的には鉛と木炭の経費が重要なファクターになるのですが,木炭は炭方6ヵ村から一定の値段で供給されていたので,この部分はほぼ固定費と考える事が出来ます.
 しかし,鉛に関してはその供給が滞って生産コストを上昇させる事になり,銀吹師の取り分を圧迫させる要因になります.

 それでは,鉱石の購入金額はどうやって決まっていたのか.
 これは山師と銀吹師間で自由に決める価格では無く,「鏈定法」と呼ばれる特殊な規定によって計算が行われていました…と言ってこれをやり出すと凄いややこしや~なので,それはまた明日.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/19 23:06

 さて,昨日回避した鏈定法ですが,非常に細かく,且つややこしい計算を行っています.

 例えば,正味鏈(精鉱)50貫目に含有する灰吹銀を129匁4分と見積もって,売却代金を求めているのですが….

 まず第1に,灰吹銀129匁4分からそれを得るに必要な吹入用を差し引きます.
 この例の場合,正味鏈50貫目に掛かる吹入用は灰吹銀29匁4分であり,差引きでは灰吹銀100匁となります.
 次に,その残銀から裏吹目欠と称して,灰吹銀の精製に当って生じた吹損を引きます.
 裏吹目欠は通常1割引となりますので,残銀は90匁となります.
 その残高からは,極印所諸役などの運上銀を差し引きますが,この運上銀は名目上「判銀」建てになっているので,それを引くには残銀90匁を,計算上判銀に換算する必要が生じます.

 「判銀」と言うのは,灰吹銀を裏目吹所で精製した高品位の銀で,極印が打たれている事からこの様に呼ばれています.
 「石州銀山歩合類弁談」に依れば,灰吹銀と判銀との交換歩合は灰吹銀105匁4厘に対し判銀100匁なので,灰吹銀を1.0504で割ると,残銀が判銀に換算出来,判銀換算値85匁3分9厘が出て来ます.
 これに極印所諸役6匁を差し引くので,残銀は判銀換算値で78匁7分8厘となります.
 ところが,判銀は実際には通用しない銀であり,あくまでも名目上のものである為,実際に取引する場合は,幕府の通用銀でやりとりが行われます.
 そして,先の判銀換算値を,更に灰吹銀引替歩合で丁銀に換算して,最終的な正味鏈50貫目の代銀は丁銀151匁1分2厘となります.

 即ち,鏈売買定法による鉱石の価格決定方式は,鉱石中に含有する銀品位を基準として,それから吹入用,裏目吹欠,極印所諸役を差引き,最終的に灰吹銀引替歩合で丁銀に換算すると言う,素人では全然計算出来ない代物でした.

 当然,こんなややこしい計算をしている位なら,双方さっさと取引を済ませた方がマシです.
 そこで,実際には簡易計算式が用いられていました.
 これは正味鏈100匁に含有する灰吹銀2分8厘8毛に,吹入用5厘8毛8を引き,その残高に1.5を掛けた積を求めるものでした.
 この吹入用の部分は,一般に「引前」と称し,正味鏈10貫目の吹入用を丁銀11匁2分8厘9毛として各時代の灰吹銀引替歩合(地下丁銀歩合)にて割った商となります.
 因みに,灰吹銀で計算された鏈の売買値段を丁銀に直す為の歩合のことを「買前」と称していました.

 つまり,簡易計算式ではこうなります.
(鉱石中の灰吹銀 - 引前) × 買前 = 鉱石売買価格
 要するに,灰吹銀の買い上げ価格に連動して鉱石の売買価格が決まると言う仕組みでした.
 そう言う意味で,一種合理的な仕組みだったりします.

 ところで,銀吹師が生産した灰吹銀は細かく切られ,大概目方260匁宛紙で包み,これを「裏目銀1枚」と称していました.
 その後,民間の裏目吹所(清吹所)に持参し,灰吹法を用いて品位「7歩36入」を目当てに上銀(花降上銀)に精製されました.
 上銀には銀吹師・裏目師等の極印が打たれ,役人立ち会いの下に包封されて各銀吹師に渡されます.
 翌日,銀吹師は銘々その上銀を代官所に持参し,幕府の丁銀によって買い取られました.

 この時,銀吹師から買い上げる産銀の価格は,代官所が勝手に決めた訳ではなく,実際には幕府へと上納する際の公儀御定位(これが「7歩36入」)を元に幕府が設定したものです.
 幕府はこうした銀を元に,銀貨を鋳造しました.
 それらは丁銀と呼ばれ,銀座で鋳造されたものですが,銀座では全国の鉱山で生産された灰吹銀を原料として幕府が求める品位で鋳造しましたが,各鉱山によって品位がまちまちであったため,それに当って当然銀品位の目利きが必要になってきます.
 そこで,目利きの為の銀位の手引き書が作成されています.

 銀座の銀位は,慶長銀(銀位1割2分引き=銀80%)の品位を基準とし,それと同品位ならば「釣替」と言い,それ以上を「歩入」,それ以下なら「歩引」と称していました.
 従って,上品の灰吹銀は1割入,逆に下品のそれは1割引になっていました.
 これは,慶長年中に灰吹の上銀を慶長銀1割増しで買い上げた事に起因するものです.
 石見銀の銀位に関しては,幕府は1664年以来「7歩36入」であり,慶長銀で買い上げる場合は,灰吹銀100匁に対して慶長銀119匁としました.

 この買い上げ価格の根拠は,以下の通りです.
 銀位「7歩36入」の灰吹銀を原料に,銀位1割2分引きの慶長銀を鋳造する場合,灰吹銀100匁に22匁の差銅を加え,そこから銅代や吹入用等の諸雑費3匁を引いて119匁にした訳です.
 そして,この額が石見銀100匁を代官所が銀吹師から買い上げる時の価格となったのです.

 但し,灰吹銀の銀品位と慶長銀とのそれが等価になるようにしている為,貨幣改鋳が行われるとその時々の通用銀の銀位に基づき,買い上げ価格も変化しています.
 この灰吹銀と通用銀の買上歩合を,「灰吹銀引替歩合」と言いました.

 つ~わけで,次回は貨幣改鋳と石見銀の話なんぞ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/20 23:42

 さて,石見銀山の鉱床には,福石鉱床と永久鉱床と言う2種類の鉱床が存在し,それぞれ産出する鉱石が異なりました.
 福石鉱床では,主に自然銀,輝銀鉱,方鉛鉱を産出します.
 一方の永久鉱床では,主に黄銅鉱等の硫化鉱物を産出します.
 依って,銀山でも銅の生産をも行っていました.
 前者は恵珍山,蔵本山,大久保山の諸坑から産出し,これらは銀を多く含み銅を含まないもので,「小鉉物」と呼んでいました.
 後者の方は,永久稼所,龍源寺山,新横相等の諸坑から産出する物は銅や鉛を含み,これを「大鉉物」と呼んでいます.

 前者の製錬方法は,山下吹と称しています.

 吹床の仕様は,土間に深さ4尺,径3尺5寸の穴を掘り,内側に炭灰(すばい)を塗って深さ5寸,長さ1尺2寸,幅8寸位の溜りになる様に築きます.
 そこに正味鏈60貫目,白面錬30貫目,?鏈10貫目,炉滓10貫目,カラミ10貫目を加え,都合120貫目を1日8ッ吹で処理し,床尻鉛,即ち,鉛と銀の合金を作ります.
 この工程の事を素吹と言いました.

 素吹されて出来た床尻鉛は,灰吹の過程で銀と鉛とが分離されます.
 床の仕様は地面を径2尺5寸から3尺位,深さ3寸位の浅く平らな穴を掘り,その中に松葉灰を詰めて床としました.
 床の上に先の床尻鉛を置き,木炭を置いて火を付けます.
 木炭が燃え上がると,「渡木」と称する椿の木などの生木を床の上に幾本も並べ置き,燃料とします.
 やがて,内部が高温になると融点が低い鉛が溶け始め,その時に吹子から供給される酸素によって,酸化して酸化鉛になります.
 酸化鉛は,表面張力が小さいので灰に濡れやすく,熔けた鉛は次々に灰に染込んでいき,表面張力の大きな銀は灰の上に残ると言う寸法です.

 この様に小鉉物は,結構簡単な方式で製錬が行われたのですが,初期はこうした小鉉物が中心で,後になると大鉉物に変化していきます.

 最盛期の銀山では,仙ノ山の山頂から中腹に掛けて開発が行われ,「福石」と呼ばれる良質の銀鉱石を求めて釜屋間歩,大久保山,本間歩等が開発されます.
 その後,開発の中心は麓へと移動し,黄銅鉱を中心とする永久鉱床に展開し,新横相,新切山,元泉山,龍源寺山が開発されていきました.
 1820年の銀山方役所の書類に依れば,この年の前期に御直山として新横相,永久稼所,元泉山,龍源寺山,大久保山,馬背山,竹田山,正蓮寺山の7箇所で開発が行われ,都合粗鉱で約11万貫目の出鉱がありました.

 このうち,出鉱が最も多かったのは龍源寺山の43%,永久稼所28%,元泉山12%,新横相10%と何れも大鉉物の産出する山でした.

 ところで,石見では銅を産出しているのに,その生産品の納入は江戸初期に見られただけでした.
 1610年に4,880貫,1611年に4,850貫余がそれぞれ大坂表に送られている記録が残っていますし,1632年には温泉津より銅146丸(19,050斤)が長州江崎港に輸送されています.
 しかし,1719年に産銅3,000斤(480貫)を大坂の銅吹所に送ったのを最後に,銅の生産は途絶えました.

 その原因としては,銅生産に於けるコスト高の問題がありました.
 意外に,銅よりも銀の方が生産コストが低く,資本の少ない者でもそれなりに参入出来る世界だったのです.

 銅の生産は,黄銅鉱などの硫化銅鉱が必要となり,小鉉物より複雑な生産工程を経る事になります.
 その精錬方法は,銅山吹と呼ばれていました.
 大鉉物は含銀銅鉱であり,しかも硫化鉱物であるので,焼釜に掛けて脱硫し,それから荒吹の過程を辿ります.
 床の仕様は山下吹と同様で,焼鏈80貫目に白面錬20貫目,カラミ10貫目の合計110貫目を8ッに分けて熔錬します.
 熔けた鏈の状態,つまり湯色は,石は赤色,鏈は青色になるので,赤色の鉱滓を取り除いて「青湯」を残し,これをカラミ掻にて炉の外に掻きだし,水を打って冷却します.
 この固まったのが禛nで,これを再び焼釜に掛けて7日間焙焼して焼禛nにし,?鏈10貫目,炉滓10貫目を加えて合吹床にて熔錬し,その後汲ゴキと呼ばれる道具で,炉内から汲上げ,水を打って冷却させます.
 こうして出来たものを「吹込銅」と呼びます.
 これは,銀鉛銅の合金で,含銀鉛と銅を分離する為南蛮禛zに掛けます.

 禛z床の仕様は,土を材料とし高さ3尺位に築き上げ,上を横口にします.
 そこに先ほどの吹込銅を入れ,含銀鉛と銅に分離しました.
 これは金属の融点の差を利用したもので,炉内の温度を含銀鉛以上銅の融点以下に設定して,熔けた含銀鉛を槇の木などで圧して炉の全部に流し出し,銅を炉内に残すと言う方法です.
 これによって分離された含銀鉛は「禛z鉛」と呼び,炉内に残った銅の事を「銀禛z銅」と言います.
 そして,漸く出来上がった「禛z鉛」を前述の灰吹の工程に掛ける訳です.

 前者の場合は,僅か2工程しかなかったのに対し,銅を生産する場合は,余計な手間がかかり,しかも鉱石の焙焼工程を含めると長期間に及びます.

 当然,これはコストに跳ね返ります.

 1830年の仕様書では,荒鏈3,480貫目を精鉱に仕立てた後,鉱石中の硫化分を除去するのに焼釜で焙焼し,焼鏈960貫目にします.
 これに溶剤として?鏈120貫目,炉滓120貫目を加えて都合1,200貫目を10日間掛けて荒吹(銅吹)すると,硫化銅150貫目が生産されます.
 これを7度吹込み,床尻銅30貫目を得,更にこれに炉滓30貫目,?15貫目を加え,都合75貫目を熔錬すると,最終的には床尻銅(湯折)60貫目となり,これを南蛮禛zで禛z鉛を得,最終的には灰吹法で灰吹銀を得ます.

 南蛮禛zで得た銀禛z銅は24貫目は,再び炉滓24貫目,?12貫目の都合60貫目を合吹し,床尻銅48貫目を得ます.
 これを後1回繰り返し,最終的には板銅115貫400目,灰吹銀697匁6分が生産される事になります.

 この収入は,灰吹銀697匁6分は丁銀換算で1貫32匁8分1厘,板銅115貫400目は丁銀換算で135匁8分8厘で,両者合わせて1貫178匁6分9厘となります.
 一方支出は還元物などの諸経費が1貫286匁3分であり,差引き113匁6分3厘不足です.

 銅の方が銀に比べると非常に安い事が分りますし,その割に複雑な生産工程と費用が掛かる事が分ります.
 つまり,銅で利益を上げようとしたら,大量生産によるしか方法が無かったのですが,石見の零細山師達にそうした資本はありませんでした.
 しかし,宝暦以降は輸出品としての銅のインゴットが大量に必要となり,全国に向けて鉱山開発に関する触書を積極的に出した他,秋田佐竹家領内にあった銅山を上知して,開発を進めました.
 また,1736年には一時廃されていた銅座が復活して,銅鉱石の管理に努めるようになります.
 その為,石見でも代官所が公的資本で銅山開発をする事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/22 22:26


 【質問】
 石見銀山の労働力は?

 【回答】
 さて,御直山の開発が進むと,生産量が増加していきます.
 そうなると銀山には人が必要となりますが,丁度この時,日本を襲ったのが飢饉やそれに附随する疫病でした.

 1838年に大森と銀山の両町で疫病が流行し,多数の死者が出る状態になります.
 銀山町昆布山谷では家数20軒余のところ,20人の死者が出たと言い,1軒に1人の死者が出ています.
 当然,こうした疫病は銀山の稼人にも大打撃を与え,250~260人が罹患し,稼業が出来なくなり,遂には鉱山の操業を縮小せざるを得なくなる事態になってきました.
 そうなると,銀の産出高にも影響を与え,折角持ち直した生産高も再び低下する事になります.

 佐渡金山で触れた様に,こうして今までの鉱夫に変わって投入されたのが,無宿人です.
 無宿人と言うと,何か罪を得た人々と言う感じを受けますが,実際には全てが罪人ではなく,殆どは江戸期の戸籍簿とも言うべき宗門人別帳から除かれた人々です.
 彼らは飢饉や疫病などで農村が荒廃し,そこから弾き出された人々が都市に流入したものです.
 但し,そうした人々の流入が,社会不安や都市の治安悪化等を引き起こした為,1778年4月,幕府は「無宿召捕方之儀御触書」を出して,江戸やその近国に徘徊する無宿人の召し捕えを実施し,彼らを鉱山開発の経費節減と労働者の確保の為,佐渡金山の水替人足として送り込んだのが最初です.

 石見銀山でも無宿人の投入が為されました.
 しかし,佐渡の様に永続的なものではなく,1843年4~7月の3ヶ月程度の限定的なものでした.
 無宿人は5日間の日当の他に飯料を支給する事として,銀山に送り込まれ,柄山負として労働に従事しました.
 その後,数名ずつ都合32名がその期間中に,御直山に柄山負として投入されました.
 無宿人の大多数は,地元銀山領の者で,他に近隣の安芸,備前,長門,周防などの近国の私領が投入されました.
 また若干上州や紀州,摂津の無宿人もいますが,これは彼の地で捕えられ,故郷への帰還を命じられた人々ではないかと考えられています.

 一時的な無宿人の使用後は,人口増加と銀山町への定着を狙い,代官所によって子供養育米と言う制度が作られました.
 これは実子のみならず,他村から養子を得たり,他村に養子に出した2~10歳までの子供1人に対し,1日米3合宛を支給すると言うものでした.
 そして,その後は稼行に精を出して貰おうと言うもの.
 つまり,無宿人と言う質の悪い労働力で数を揃えるより,地生えの子供達に稼行を教え,質の高い労働力を確保しようとした政策の一つでした.

 ところで,こうした銀山町はどれくらいの規模で,どれくらいの人々がいたのでしょうか.

 銀山町は邇摩郡佐摩村に属し,その範囲は惣廻り2里半,東西35丁,南北20丁で,その外周には柵列が設けられ,これを「柵之内」と称して一般の在方と区別しました.
 更にその出入口には,8箇所の口屋を設けて銀山役人を配置し,灰吹銀の抜荷監視や銀山出入りの諸商人から歩一運上を徴収しました.

 この銀山町には,大谷,栃畑谷,昆布山,休谷,下河原,石銀の6地区があり,これを通常「銀山六谷」と称しました.
 この銀山町は,最盛期には「石銀千軒」と呼ばれた程の規模で,仙ノ山山頂付近の石銀にも多くの家屋敷がありましたが,産銀量が低下した江戸中期から後期に掛けてはそうした繁栄は過去のものとなり,後期には麓の大谷,休谷,下河原辺りに集中していました.
 また,「石銀千軒」の頃は寺も多数有り,「銀山百ヵ寺」と呼ばれた程でしたが,これも銀山町の衰退で減りましたが,こちらはそれでもなお1810年代でも26ヵ寺が存在していました.

 その人口も産銀量に左右され,1692年に人口は1,871人を誇っていましたが,産銀量の落ちた1740~1747年に掛けて急激に衰退し,1747年には人口が1,173名にまで減ってしまいました.
 それが御直山の開発に従って回復し,1815年頃には1,657人まで戻りましたが,1838年には飢饉や疫病などで一気に減って1,242人に低下し,幕末の混乱で更に人口が流出して,1862年には1,061人に減っています.

 こうした鉱山町に暮らしていた人々の多くは,技術労働者階級でした.
 柄山負の様に人足的な職種は,非熟練労働者でも十分に賄えますが,銀掘人や吹大工などは技術者であり,多くは地付きと呼ばれる定住労働者で,代々その職を継いで来た人々です.
 しかし一方で,その腕一本で渡世する「渡り」と呼ばれる流動的な労働者もおり,その数は例えば秋田の大葛金山では稼人180人の内1割が渡りの労働者で占められています.

 一方,産銀量が減ると銀山町から出て,別の鉱山に渡る人々もいました.
 その行き先は主に,近隣の出雲佐津目銅山や笹ヶ谷銅山が多かったのですが,町役人に無許可でこうした渡りを行うのは違法で,屡々連れ返されては厳しい罰を受けています.
 尤も,こうした罰則を行うのは逆に言えば,それだけ他鉱山への渡りが特に幕末頃には多かった事が分ります.

 この銀山町に暮らす人々は,山師,下財と明り人に大別出来ます.

 山師,下財と言うのは,共に山方稼の者たちですが,幾度も触れている如く,山師は「銀山師」とも呼ばれ,苗字帯刀と言った特権が与えられました.
 この身分は世襲でもありますが,新たに間歩を開発し,一定の運上銀を代官所に上納する事で,山組頭の取次で取立てられる事がありました.
 山師に取立てられると,山主として自らが開発した間歩の権利,所謂採掘権を認められる他,苗字や旅帯刀等の特権が与えられました.
 また,世襲とは言え,これが株として売買され,その結果山師を交替すると言うケースもあります.

 更に,時代が進むと山師達も変化してきて,山方稼ぎが多いものの,中には吹屋の経営が主になっていたり,吹方日雇や商人になっていた者,山方稼ぎでも鉱山経営者ではなく,代官所直営の御直山に銀掘として雇傭される者,そして,山稼ぎとは全く関係なく,銀山町周辺の農村に田畠を持ち,小作を雇って小作料を収入とした地主適正閣を有した人々もいました.

 下財と言うのは,山師と似たような地位ですが,身分上の特権を持たない山稼人です.
 ただ,名目上は異なるものの,実際の稼方については何等変わりがありません.
 とは言え,苗字帯刀,町方・山方役人の任命,代官所からの切延手当の支給はありませんでした.

 一方,明り人と言うのは,「明り」が山言葉で坑外の事を指すので,採鉱労働以外の仕事に従事する人々の事で,鉱山関係では鏈拵人,淘物師,唐臼踏,吹大工,灰吹師,様吹師など主に製錬に従事する人々であり,それ以外では商人,大工,木挽きなどとなっています.

 2者の比率は時代にも依りますが,平均的には,山師,下財が大体50%前後,後者は40%前後と言われています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/26 23:11


 【質問】
 銀山附地役人の地位変更に関するいきさつについて教えられたし.

 【回答】
 銀山町には,山師や職人などの他,統治者に当る地役人がいます.
 彼らは銀山附地役人と呼ばれていました.

 1751年2月,彼らにとって驚天動地の事が起きました.
 代官天野助次郎が,この地役人全員に暇を申しつけ,その上で希望者を召し抱えると言う事を行ったからです.

 再召し抱えされた役人達は,新たに分限高を定められ,向後父の跡を継いで地役人になる場合には,「父跡番代」とする事を申し渡しました.
 番代とは一般的に,抱席の身分の者が役人の死去や引退などによって欠員が生じた場合に,その代わりに召し抱えられる事を言い,譜代席が代々家督を相続して役人に召し抱えられるのとは区別されています.
 尤も,「父跡番代」は父の代わりにその子が召し抱えられるのですから,世襲制には違いありませんが,それが御譜代か御抱かと言うのは身分上,重要な意味を持ちます.
 つまり,地役人と言うのは「身分」なのか「職」なのかと言う存在形態にも及ぶ訳です.

 こうした一斉罷免が起きた原因は,代官が地役人に対し,名跡売買を行っていたのではないかと言う疑惑を指摘していたからです.
 名跡売買と言うのは,裕福な町人が下級武士と養子縁組を行ってその身分を買う行為で,幕府は屡々禁令を出して,旗本や御家人達が金銭目当てに養子縁組をするケースを阻止してきました.
 実際,代官手代の中には不正蓄財の金銭で,与力株を取得して幕臣の地位を得ると言う事もありました.
 ただ,1751年以降も地役人達は,自分を御譜代であると言う意識を持っていた様で,屡々,地役人の報告書には「苗跡相続」を実施したと言う言葉が連ねられています.
 「苗跡相続」は,御譜代身分の武士に認められているものであり,御抱えの者には許されませんでした.

 ところで,こうした身分の変更は,些細な事で対立の火種を生み出しました.
 1805年6月に,代官上野四郎三郎は,地役人の身分格式について勘定所に問い合わせていますが,これは彼よりも前の代の代官である大岡源右衛門の時代から,手附と地役人との間で席順についての対立が生じた事から,その裁定を幕閣に確認したものです.

 手附と言うのは,所謂代官手代と同様に,代官所の属僚となります.
 但し,1791年から小普請組の旗本救済の為に設けられた職種で,俸録は概ね30俵3人扶持であり,手代と異なるのは彼らが御普請役格の旗本,つまり純然たる幕臣であると言う事です.
 その為,通常服は羽織袴でした.
 ところが,地役人の場合平服が上下勤であり,衣服制では幕臣である手附よりも,地役人が上位になると言う事態になってしまいました.
 これにより,手附と地役人が対立を生じたのです.

 結局,この騒ぎは,四郎三郎の伺いに対し,勘定所が
「銀山役人席順之儀,御家人手附よりも下ニ可被相心得候」
と言う事で,「地役人は手附の次席」であるという真っ当な答えが返ってきました.

 これがややこしいのは,江戸初期に当る鉱山開発期には,銀山役人が諸国を移動して開発をする為,家康から御伝馬朱印状を授けられていたり,また,その功績を表して,わざわざ将軍家康自らが御目見を許し,その役人に官途と胴服を下賜していたりしたからです.
 つまり,近世初期の地役人の中には,御目見以上の身分の者がおり,禄高にしても200俵とか100俵等と言った代官並の者もいたので,先例踏襲主義である幕府政治は,例え身分が御譜代から御抱えに落とされようとも,以前の格をそのまま保持し続ける事が出来たのです.

 しかし,こうした対立を契機に幕閣はその方針を見直し,地役人の平服も羽織袴,席順も手附の次席となってしまい,従来の古格を全く失ってしまいました.

 地役人はこうした名誉的な職分を失ってしまいましたが,反面,こうした身分の変更は,自らを非常に自由にします.
 特に扶持米などに頼らなくても,自らの保有する領地を小作農に貸し出して地代を得たり,山林を所有して,鉱山と取引する事で,収入を得ていました.
 また,こうした余剰資本を元に,両替や貸銀などの多角経営を行い,並の武士よりも活発な経済活動を実施していたりします.

 婚姻に関しても,一般の幕臣よりも自由です.
 例えば,銀山附地役人の名門である宗岡家の場合,初代弥右衛門は長門出身で毛利家に仕え,銀山の支配に当ったのが,関ヶ原の結果,毛利が退転し,徳川家が銀山を支配すると,大久保長安に切米200俵で召し抱えられ,長安配下で石見銀山だけでなく,諸国金銀山の見立御用を勤め,遂には伏見で将軍家康に御目見得を許されて,「佐渡」の官途と知行500石が与えられ,その後,佐渡に派遣され相川金山支配として生涯を終えています.
 その苗跡は倅の喜左兵衛に相続され,一統は何れも寛政期を除いて,幕末まで代々銀山附役人及び同心を勤めました.

 3代目以降は,銀山附役人と婚姻したり,有力寺社の住職の娘と婚姻したり,はたまた,別の大名家の家臣の娘と婚姻したりしています.
 大体,こうした婚姻のパターンとしては,地役人間,諸大名家の家臣,大百姓や名主,商人などの富裕な一般庶民,他に従兄弟と言う4つに収斂されます.

 こうして見ると,武士と言えども,地役人は身分的には色々制約があった割には,意外に自由な行動をしていた事が分りますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/28 21:32


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