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戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 江戸時代の主要輸入品の一つ,砂糖について教えられたし.

 【回答】
 長崎は出島と言えば,オランダや清との貿易窓口として,日本の中で公的に開かれていた唯一の場所でした.
 清は置いておいて,オランダからは様々な文物が齎され,代わりに日本からは毛皮などと共に,当初は銀,後に銅が輸出されています.

 貿易船はもとより,船というものは荒天を航行するために,一定の吃水が必要です.
 これが浅くなってしまえば,重心が上がり,特に帆柱を立てて航行する帆船では,少しの波で引っ繰り返ってしまいます.
 そこで,オランダの貿易船(実際は前に見た様に,デンマークだとか其の他の国の船も,オランダ船の旗の下に来ていた訳ですが)は,バラストとしてあるものを積んでいました.

 日本では文化文政期にならないと国産が中々進まないものですが,織豊期以降,当初は薬として,後には嗜好品として日本の生活の中に深く入り込んで来た白い粉です.
 今は,目の敵にする人が多いですが…(苦笑.

 その白い粉は,「砂糖」と言う代物です.
 これが,オランダ船が日本に来る際,銅の代わりに船底に積まれ,出島で荷下ろしされた後,日本で銅を積んで船底を沈め,再び日本から清やバタビヤに帰っていく訳です.

 砂糖の栽培自体は古くから南方で行われていた訳ですが,大規模なプランテーションで製造したのは,欧州諸国です.
 地中海で栽培されていた砂糖黍は,主にポルトガルの手によって,アゾレス諸島やカナリア諸島に移植され, 更にそこで栽培されていた砂糖黍が,アメリカ大陸の欧州人による発見に伴い,カリブ海諸島に移植され,特にブラジルで大規模に栽培され始めます.
 一方,ポルトガルやスペインに代わって海洋の覇者となったオランダは,そのカリブ海諸島の砂糖黍を,台湾やジャワに移植し,その地で大規模なプランテーションを展開しました.

 余談ですが,ヴァスコ・ダ・ガマが,インドに初めて辿り着いた時,王宮に持って行こうとして,そこの役人に嘲笑されたのが,砂糖だったそうな.

 それは兎も角,鄭成功がオランダ人を台湾から追放するまで,オランダの砂糖生産の中心は,この台湾にありました.
 寺島良安の著わした『和漢三才図会』では,最高級品の三盆としては,台湾で製したもの,交趾がそれに次ぐと書かれて居ます.
 又,氷砂糖も,台湾製が最高級品とされていました.

 この様な砂糖を,オランダが日本向けの貿易品として見逃すはずがありません.
 と言うか,本国に向けてこの砂糖を出荷した所で,安い労働力と比較的欧州との距離が近いブラジルやカリブ海諸島産砂糖と太刀打ち出来ようはずもなく….
 この砂糖は,1636年の段階で,白砂糖約1.3万斤,黒砂糖約11万斤が日本向けに出荷されました.
 翌年の生産は30~40万斤に達し,その約半分が日本向けでした.
 そして,1645年までに白砂糖だけで100万斤の生産が見込まれていました.
 この生産を担ったのが対岸福建省から渡ってきた華僑達で,彼等の勤労意欲は高く,彼方此方を畑に変えてしまったため,道路を潰すほどになっていたりします.

 ジャワの砂糖も同様に1637年頃から作られ始め,年間20万斤程度の生産が行われていました.
 そして,オランダが台湾での地歩を失うと,俄然,この地域の砂糖生産が重視される様になります.
 一方,清国の船は,1661年の時点で,砂糖を産する東寧(台湾),広南(ヴェトナム南部),暹羅(シャム),柬埔寨(カンボジア),カラパ(ジャカルタ)のうち,華南沿岸,東寧,広南,シャム,カンボジア,トンキンの各港から砂糖を積載して,33隻が長崎に着いており,その総量は,白砂糖約59万斤,黒砂糖約22.3万斤,氷砂糖約7.5万斤と報告されています.

 時代は下って,1800年代前半,オランダ船が出島に入港するのは年間2隻とされていました.
 その船は1700年代後半から排水量1,000トンを超える大型船になっており,それには94万斤と言う大量の砂糖が積み込まれていました.
 94万斤と言えば,大体564トン,つまり,排水量の約半分に及ぶ砂糖をバラストとして搭載してきた訳です.

 この砂糖は幾日にも分けて荷揚げされ,砂糖蔵に入れられます.
 出島の砂糖蔵は,この当時6棟あり,それには,「チュルプ(チューリップ)」(日本側呼称二番蔵:以下同じ),「アニェリエール(ピンクのカーネーション)」(三番蔵),「フェルワハティング(期待)」(五番蔵),「復活」(十四番蔵),「大きな倉庫」(十五番蔵)と言う名称が付けられていました.
 他にも,砂糖の量に応じて,幾つかの倉庫が使われた様です.

 砂糖を入れているのは,砂糖籠と砂糖袋で,籠の方は平均的に234kg,袋は平均的に59kgの重さとなっています.
 「平均的に」と言うのは,元々籠や袋が工業的に作られたものでは無い上,誤差のある詰め込み方をしていたからです.
 この為,オランダ船から積み下ろした砂糖の重さを量るために長崎会所と和蘭商館が編み出したのが,「風袋引き」と言う方法でした.

 これは先ず,「風袋引き」の対象となる蔵を籤で選ぶことから始まります.
 少なくとも6棟の蔵に砂糖が収められていたので,砂糖蔵の番号が書かれた籤から適当に2つを選ぶものです.
 それぞれの蔵の中から,砂糖籠200籠を取出し,更にこれを籤によって20籠,無作為に抽出します.
 その籠を除けて一旦別の蔵に入れて,封印し,別の日に2,3籠を取出して,切り開け,中身は日本側の砂糖商人が持参した空き箱に入れておきます.
 残った空籠の目方を量り,20籠全部を同様の方法で量った後,その目方を平均して,日蘭双方で話し合いを重ね(平均値だけで決まれば良いのですが,例えば1隻の船で2種類の籠を積み込むケースがあって,それを統一させるとかすれば,色々話し合いが行われる訳で),最終的に,1籠当りの重さを算出するのが「風袋引き」です.

 これで算出された空籠の重量が,残りの籠を量る際に適用されるので,日蘭双方とも真剣勝負をしていました.

 例えば,1804年では,オランダ船が運んできた籠の内,1隻の籠にはサイズが2通り有り,風袋引きの結果,片方は31.5ポンド,他方は37ポンドと計量されます.
 普通は,この中間の値を採って,34.25ポンド(26斤)で手を打つのですが,この年は日本側は負けて26斤4分の3で落ち着きました.
 翌年は,日本側が粘って26斤半で決着しています.
 グラム数にして僅か150グラムですが,何万斤と言う単位で来るものだけに,その金額は塵も積もれば何とやらで大きくなっていきますから,双方真剣です.
 和蘭商館側は,きれいにして,一粒残さず砂糖を払い落し,籠全体を拭き取るまでするくらい気を遣っていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/25 22:37

 さて,オランダ貿易では砂糖は,彼の国の主力商品として機能していました.
 この砂糖を取り扱う長崎では,最終的に江戸や大坂に出荷する訳ですが,砂糖が人々の通貨の代わりに使われていたりします.
 例えば,和蘭商館に出入りする樽屋への支払いは,船舶戻り荷用の樽を納品すれば,砂糖20斤.

 和蘭商館から寺社への寄進も砂糖で賄われました.
 例えば,聖無動寺へは砂糖最大で12籠,最小で1籠.
 これは,ある年,オランダ船の入港が遅れ,これは洋中風浪の厄ではないか,と,長崎奉行が加持祈祷をさせたら,結願の日に現れて以来のこと.
 諏訪神社とも,秋に行われる長崎くんちや,春の紅毛海上安全祈祷でカピタンが招かれる関係上,毎年白砂糖1籠の寄進が行われています.
 オランダ人の墓がある稲佐の悟真寺からも,墓守代の代わりに砂糖の寄進を求められています.

 当然,奉行やその部下への賂についても,砂糖が用いられています.
 カピタンの恒例の江戸参府でも,供に砂糖1籠を持たせて,要路に配ったり,大砲の音で日本人の水主が驚いて転落死した時の慰謝料としても,砂糖10籠を送ったり.

 こうした贈り物に費やされる出島の砂糖は年間17万斤を超え,19世紀には30万斤にも達しています.
 とは言え,実際にはこの砂糖自身は,籠で本人に渡されたり,寺社に寄進された訳ではなく(勿論,例外は幾らでもあるのですが),殆どの場合,その量の砂糖を売却したその年の代金に見合う銀を,長崎会所の手数料を差し引いた上で渡すと言うものです.
 出島でカピタンが住む家を新築した際,初めて入ったカピタンの第一声が,「これは砂糖6万5,000斤で出来上がった」と言うものでした.

 銀で渡されない砂糖と言うのは,例えば船から荷を上げ下ろしする人足への日払い給与がこれに当ります.
 これは白砂糖で支払われるのですが,この砂糖以外に,余録を取ることがありました.
 先述の「風袋引き」では,砂糖は徹底的に袋から取り除かれますが,これが全部,砂糖商人の空き箱に貯まれば良いのですが,中には床に零れ落ちたりする砂糖とか,荷役の際,手荒な扱いをしたり,籠の縄が緩んでいたりして,地面に落ちる砂糖があります.
 こうした砂糖を「盈物砂糖」,通称「こぼれ」と言い,これらを地面から人足達が集め,島外に持ち出し,換金することが余録となっていました.

 当初は,酒手程度のものだったのですが,この旨味を知ると,もっともっとと言う事で,荷扱いが乱暴になり,大量の砂糖を「こぼれ」にする事が罷り通る様になると,実際の流通に回す量が少なくなっていく程になったので,役所も目溢しが効かなくなってきました.
 面白いもので,長崎にはこうした「こぼれ」を扱う専門の砂糖商人もいたそうです.
 流石に,この状態を放置する訳にいかず,日当とは別に,日々「こぼれ」分を加算する事で収拾を図ることになりました.
 日雇頭には30斤,頭見習いには20斤,並の日雇には13斤,船頭4斤等々….
 ただ,渡した以降の処理については,長崎奉行の代替わり毎,その時々の政策と,砂糖の流通量を勘案して,「こぼれ」専門業者の数を制限したり,会所扱いにしてみたり,砂糖も現物渡しになったり,現銀で渡されたり,現物で渡し,出島を出て直ぐの場所に会所の直営店を出して,此処で一括に買い上げたり,猫の目政策を採っています.

 丸山の遊女についても同様.
 彼女たちには,「小貰い」「大貰い」と言うものがありました.
 当初は,砂糖が貴重品だった為に,出島に入った遊女や禿の袂に,鼻紙に包んだ砂糖を入れてやると言う程度だったのが「小貰い」.
 これが段々と重箱を持ち込んでそれに砂糖を詰めたり,風呂敷に包んだり,化粧箱に入れるなど,遣り様が大胆かつ大事になって門番も見て見ぬふりが出来なくなりました.
 このため,規制が掛かり,オランダ人から貰ったものは端切れ一枚たりとて島から一切持ち出し厳禁で,貰い物は先ず,出島乙名部屋に届け出ます.

 出島乙名と言うのは,元々,出島築造に出資した25名の戸主達で,後にそれぞれの町名主から選出された2名が就いています.
 和蘭商館始め,倉庫や番小屋に至るまで,実は彼等の持ち物なので,壊れたら費用こちら持ちで修理する必要がありました.
 その代わり,年間銀55貫以上の借地料を払ったり,砂糖の付け届けを貰える訳ですが….

 それは兎も角,届け出た品々は船が出航する9月もしくは10月頃に,遅くとも年明け早々には,町乙名を経由してそれぞれの傾城屋に届けられます.
 そして,傾城屋から遊女に下げ渡しとなります.
 こうした品々は,家具とか洋裁の道具,布などがあり,これは市中で無闇に処分出来ず,処分する場合は,丸山なんかの遊女街の町乙名と,売却先の商店のある町乙名同士で,釣合書きと言うのを書いて,やっと処分出来る事になり,煩雑な手続きが必要でした.
 この「小貰い」には,時代が下るにつれて砂糖が用いられることはなくなり,砂糖は「大貰い」に対して用いられる事となります.

 「大貰い」は,昨年のオランダ船出帆から今年の出帆までの1年間に,遊女達を揚げた揚代を傾城屋が計算し,商館側と付合わせた後,それを長崎会所に持って行くことから始まります.
 会所では,和蘭商館と昨年分の不足分清算其の他色々と遣り取りをして,11~12月に会所から支払いが行われます.
 因みに,揚代は遊女が7匁5分,太夫が15匁だったそうです.
 この支払いの際,遊女達にもオランダ人が与えた「貰い砂糖」の代銀が支払われますが,揚代は店に支払われるのに対し,「貰い砂糖」の代銀は遊女本人に支払われるので,彼女たちも支払いの際には傾城屋に付いていくことになります.
 こちらの場合は,人足と違って,砂糖で支払われる訳ではなく,会所が計算した砂糖の分量を銀に換算して,銀で支払われることになっていました.
 遊女達は,この現銀を一旦,傾城屋に預け,傾城屋は御稲荷さんへの勧進,町役人への謝礼,仲宿への礼,日雇の弁当代を差し引いた上で,遊女に残金を渡すと言う形になっています.

 正に,江戸期の長崎と言うのは砂糖で動いていた町だったと言えるでしょう.
 なので,砂糖の品質が悪い,荷扱いが悪い,悪天候と言った障害が起きた場合,カピタンは神に怒りを向けるしかありませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/26 22:12

 砂糖というのは,湿ると商品価値が無くなります.
 さらさらの白い粉であることが高級品の証な訳で,これが濡れてベトベトになっていたりすると,長崎会所の出入り商人達に買い叩かれます.
 その為,砂糖の保管には充分気を遣い,湿気の無い場所,かつ,高い場所に保管されていました.
 それでも,台風の時期などになると,出島は島なだけに,高潮で浸水する場合がありました.
 また,この砂糖はバラストとして用いられていました.
 当初は石灰を丸めたものをバラストとして用い,日本に着いたらそれを捨てていたのですが,それでは旨味がありません.
 其処で,商品価値のあるものとして砂糖が選ばれたのでした.
 バラストと言う事は,即ち,船底に搭載されており,船のメンテナンスが悪くて船底からの浸水があったり,嵐に遭って,ハッチから高波が侵入してしまったりすると,覿面に湿ってしまいます.

 時に1802年,和蘭商館には憂鬱な気分が横溢していました.
 6月25日,Bataviaを出航したマティルダ・マリア号と,米国の傭船サミュエル・スミス・ファン・バルティモア号の2隻の商船が出島に入港したのが,8月6日17時.
 その時点で,搭載していた砂糖は糖蜜でベトベトになっていました.
 前者は,嵐に遭遇して水気を吸ったのが致命的でしたが,両船とも,搭載した時点から,糖蜜化が進んでいたと言います.
 砂糖籠そのものが,古くて痛んだものが多かった訳です.

 こうした事態が何故起きたか,と言えば,欧州情勢の悪化によるオランダ本国の衰退があります.
 更にナポレオンの台頭で,本国が戦乱に巻き込まれたり,英国によって,Bataviaと本国の間が封鎖され,Bataviaでは資金不足に陥り,その為に物産の買付けも途絶し,船の調達も儘ならず,遂には長いこと倉庫に積まれていた古い籠に,これまた随分前に作った砂糖を詰め込んで寄越したと言う訳でした.

 船にあった40籠は完全に破れており,砂糖を荷下ろし出来ませんでした.
 それを引き取ろうにも,荷揚げした砂糖の内,143籠は荷揚げ中に完全に壊れてバラバラになってしまっており,出島中の袋や樽がその収納に動員されていて,結局,和蘭商館は,日本の出入り商人から蓆製の叺150個を注文しなければなりませんでした.
 その荷揚げした砂糖を日本の出入り商人が見た途端,
「これがジャカルタの砂糖であるはずがない.これは中国の砂糖にも劣る」
とカピタンに言い放ち,この一件は長崎奉行にも届けられました.

 当然,有利な取計らいをお願いするために,カピタン達は,奉行など要路に様々な賂を散蒔き,10月末までに何とか砂糖を捌くことが出来ました.

 因みに,この年輸入した砂糖の量は151万斤.
 1797~1801年が少ない年で21万斤,多い年で58万斤,年平均38万斤だったのに比べれば,この6年の総量に匹敵する砂糖を輸入しようとしたことになります.

 オランダが日本との貿易に参入した当初は,砂糖の輸入はほぼ唐船の独壇場でした.
 しかし,その砂糖は安値で売り捌かれてしまっており,綿密な市場分析をしていたオランダは絹織物を輸入の主力商品としていました.

 江戸時代初期にはゼロから多くても10万斤程度と言う時期が長く続きました.
 砂糖が一気にブレークするのは,太平の世となる元禄からです.
 需要を見込んだオランダもその輸入に参入し,1689年は8万斤でしたが,1690年に13万斤,1691年19万斤,1692年41万斤と弾みがつき始め,1700年代からは100万斤を超える位になっています.
 1702年からの6年間で,年平均135万斤に達し,1720年代までこの数値が続きますが,1715年の「正徳新令」で,オランダへの輸出が規制されると,一旦下火になり,ブームは一旦収束します.
 これが復活するのは,宝暦年間で,1755~1760年の6年間で,年平均156万斤に達し,1759年には実に229万斤の輸入量になっていました.

 文化文政の頃になると,国産の砂糖が出回ることとなります.
 そうなると,高級品としての需要しかオランダ輸入の砂糖は価値が無くなり,砂糖の輸入量は先細りとなりました.
 しかし,19世紀初頭のこの時期,Bataviaの商館としても,砂糖に縋るしか無くなり,取引量の半分を砂糖にして日本に送り出した訳です.

 ところが,先述の様に,この賭は裏目に出ます.
 和蘭商館の帳簿上,日本に持ち込まれた砂糖は,1,807,086ポンドでしたが,長崎会所への売上高は160万ポンドとなっています.
 つまり,20万7,000ポンド分の砂糖は,糖蜜となって出島の地に吸われたか,船の鼠を喜ばせたと言う事になったのです.

 国産の白砂糖が作られ始めたのは,元禄期に宮崎安貞が『農業全書』で,日本の財を外部に持ち出すことはあるまい,として,その国産を提唱したのが最初.
 20年後,徳川吉宗がその書に感銘を受け,琉球から砂糖黍の苗を取り寄せ,浜離宮に試植させて育てました.
 次いで,漢籍の砂糖に関する研究書を買い求め,江戸城吹上の庭に陶器製糖汁濾過器を設置して,出来た砂糖黍を砂糖に加工する研究を重ねました.

 更に,尾張,三河から紀伊に掛けて,和泉,淡路,阿波,讃岐,伊予,土佐,筑州,豊州,肥州など温暖な地域に位置する諸国諸家に砂糖黍の種苗を送り付け,栽培を奨励します.
 それも,一度ならず何度も送り,民間の技術者を巡回させ,栽培法を指導,更には窮している大名家には製糖の資金援助すら行いました.

 折から窮乏していた諸家は,一斉にこの砂糖という新規な作物に飛びつきます.
 先ずは,瀬戸内の温暖な気候で大坂への距離も近い讃岐,そして,土佐が栽培に成功し,一頭地を抜きました.
 次いで,阿波と紀伊がそれに続きます.
 とは言え,讃岐や土佐では,こんな事が言われました.
「砂糖作るなら薦から作れ」
 即ち,失敗したら物乞いをする用意をしろ,と言う意味.
 1789年頃の川崎駅や葛西,逆井辺りでも砂糖が作られていましたが,輸入物に劣る代物でした.

 まともなものが生産され始めたのは,文化年代に入ってからでした.
 讃岐国産が一番優れているとされ,1804年からは菓子の類に使われる様になり,1811~12年からは薬種問屋も舶来物に混じって扱う様になります.
 1813年になると,オランダからの貿易船もナポレオンに本国が占領された影響で来なくなり,一気に国産品の需要が拡大し,江戸の砂糖を扱う店の内7~80%は既に国産品のみを扱う様になってしまいました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/27 23:04

 将軍吉宗の有難い押し付け配布や奨励の御陰で,文化文政期には,国産砂糖の質も上がり,洋物に太刀打ちできるようになりました.
 そうなると,オランダの貿易高の半分を占める砂糖が売れなくなり,出島貿易は大打撃を受けます.
 其の上,砂糖の価格が下がると言う事は,長崎会所の掛り物(取引税)の減少に繋がります.
 オランダとの交易は将軍家の独占事業ですから,掛り物減少と言うのは即ち,幕府財政の減収に繋がることになります.

 吉宗が日本の為に良かれと思ってやった仕事が,回り回って彼より後の将軍家の首を絞めることになると言う,何とも皮肉なことになりました.
 長崎会所は幾度も幕閣に訴え,幕閣は輸入砂糖の値崩れに対応する為,吉宗がやった事とは逆に,国産砂糖の生産高の抑圧に転じました.

 先ず,第1に大坂市場への諸国産地からの砂糖の持ち込み制限が行われます.
 これは,1806~07年に掛けて大坂回着高の平均を122万斤として,これを「廻着目当高」に決めます.
 そして,これ以上の諸国からの砂糖の持ち込みを認めないと言う事にしました.
 ところが,この政策はこうした産地の大名家側の反撃を受け,1834年には346万斤に増加,1835年には更に紀州家からの追加分3万斤を含め,1,123万斤と大きく枠を増やしてしまっています.
 何の為に持ち込み制限をしたのかよく判らない状態です.
 その内訳は,讃岐が688万斤,阿波268万斤,和泉142万斤,紀伊20万斤となっており,其処にオランダからの100~200万斤が加わったのですから,あっという間に値崩れしてしまいます.

 1819年に幕閣が打った手が,国産砂糖の減反(あ,どこぞで聞いた様な話だ),本田畑への砂糖黍作付禁止と言う政策でした.
 そんなことではい,そうですかと引き下がる大名家ではありません.
 讃岐の松平家は,「本田畑が駄目なら,荒れ地や野山だと良いわけだ」と,まるで,一休頓智話に出て来る,「このはし渡るべからず」みたいに,せっせせっせと作付面積を増やしていました.
 てな訳で,天保の頃になると,生産高は,既に薩摩(琉球)産の黒糖を含めれば,ほぼ国産で賄える2,400万斤の生産高に達していました.

 その砂糖を用いたのが,菓子や料理の類.
 和菓子が完成の域に達したのは,元禄年間と言われています.
 1693年に刊行された『男重宝記』と言う書物には,男子の教養に関係する茶道関係のものとして,250種類近くの菓子が図入りで紹介されています.
 その中でも,白砂糖を用いたものとして,例えば,「女郎花餅,どうめうじ,こねもの」などが紹介されており,時代は下って享保になりますが,1718年には京都で日本初の菓子製法の専門書『古今名物御前菓子秘伝抄』が出版されています.
 この本の中では,105種の菓子の内,60種程が,白砂糖や煮詰めた粗目を用いた菓子でした.

 文化文政期の江戸.
 馬琴らが編集した『兎園小説』と言う随筆集の中には,こんな記述があります.

――――――
 去年甲申一年の仕入高,桜葉漬込卅壱樽,但し一樽に凡そ二万五千枚程入れ,葉数〆七拾七万五千枚なり,但し餅一つに葉弐枚づつなり,此もち数〆卅八万七千五百,一つの価四銭宛,この代〆壱千五百五拾貫なり.
――――――

 向島にある長命寺の参道にあった山本屋の桜餅についての研究レポートで,この店は年中無休で営業しており,年中桜餅を商っていました.
 年間39万個の桜餅が売れるのですから,日に約1,000個は売れている計算になります.
 一方,山東京伝の弟,山東京山が1846年に書いた『蜘蛛の糸巻』に曰く,

――――――
 鶯餅,一名を仕切場と唱へ,茶店にも用い,通人の称美したものなるに,今や駄菓子や物となりて,おつかァ四文くんねへのいやしき小児のものとなりぬ
――――――

と嘆いていたり.

 この頃,製菓書の出版がブームで,十返舎一九まで自作の絵入り大衆向け菓子作り本の出版に手を染めていました.
 1841年に出版されたもので,作者は,江戸深川佐賀町で,「折詰は拳うつ音より賑はしや」と謳われた,船橋屋織江の主人.
 彼の書いた『菓子話船橋』と言う本が,この手の中では出色の出来でした.
 その中で,彼は,こう書いています.

――――――
 菓子の製ハ益々精しうなりて,上品の物のミ流行して,太白の所へ三盆を遣ひ,三盆の所へ氷砂糖を用るやうに成たれども,手製にハ夫程にも及ばぬ事なり.
――――――

 要は,わざわざ普通の砂糖で代用出来る部分に高級品を使う必要は無いのですよ,と言っている訳です.

 因みに,将軍家斉の晩年の文政頃,御大台所では日に1,000斤もの砂糖を用いていたそうで,御膳番の間でこれが問題となり(何しろ,年間32万斤が消費される),実地見聞してみることになりました.

――――――
大なる半切桶に砂糖三百斤程入れ水を沢山汲み入れ,白木の棒にて攪立見て,此砂糖は砂多く雑り御用に成り兼ねたるが夫にしても用ひ苦しからざるやと申すに付,御膳番答へて,砂雑じりお品は御用に成るまじと答たれば,又跡の砂糖をその如くし,都合三度に及び初めて此砂糖なれば宜しと申たり,その砂雑りと申立たる品は,皆桶を覆して棄て去りしかば,御膳番の衆も大に呆れて(以下略
――――――

 官僚と言うのは,時代は変っても同じ事をしているんだなぁと思ってみたり.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/28 21:32


 【質問】
 江戸時代の製糖について教えられたし.

 【回答】
 前にも書いたのですが,オランダからの輸入品として砂糖黍から作り出した砂糖について,その需要増と,買付けに伴う貴金属流出を嫌った吉宗が国産化を図り,彼方此方の大名家に送り付けたと言う事で,江戸中期からは各地で砂糖黍から抽出した砂糖が生産される様になります.

 特に生産が盛んだったのが,高松松平家と阿波蜂須賀家で,その中でも高松松平家の封土で生産された砂糖は高級品として持て囃されました.
 四国のこの両方の地で生産された砂糖を,俗に和三盆と言います.

 原料は砂糖黍ですが,鹿児島や種子島などで栽培される砂糖黍では上質な和三盆は作れません.
 どうやら土質の違いで,微妙に作物の成分が異なる様です.
 和三盆糖は,香川と徳島両県でも水捌けの良い土壌から成っている特定の地域で栽培された,「竹糖」と言う品種の砂糖黍からしか出来なかったりします.

 これを作るのは非常に手間の掛かる仕事です.
 その為,この世界でも機械化が進みましたし,竹糖の生産量も少ない為,竹糖以外の砂糖黍からも和三盆を作る様になりました.
 但し,特有の甘味や香りを持つ和三盆糖は竹糖を原料にしないと作れませんし,機械化すると5日の工程が1時間に減りますが,味と香りが変わってしまうそうです.

 上質の和三盆糖を作るには,竹糖種の砂糖黍のみを使います.
 それも,11月下旬から2月頃に掛けて収穫した竹糖種の砂糖黍のみが用いられます.
 この時期が最も砂糖黍の糖度が高くなる時期だそうです.
 収穫した砂糖黍は,乾燥してしまわないうちに,2月下旬までには圧搾し,並行して搾り汁を煮詰めて精製して蜜などの不純物を取り除く製糖工程に入ります.
 こうして,6月中旬には製糖作業が全て完了し,次の収穫まで,その和三盆で生活することになります.

 その生産工程は,
「絞り」(砂糖黍を圧搾し,搾り汁を集める)
→「灰汁抜き・煮詰め」(搾り汁を煮立て,牡蠣の殻を砕いた生石灰を加えるなどして不純物を取り除き,再び加熱して煮詰める)
→「冷却」(煮詰めたものを瓶に移し,攪拌しながら冷却する.冷却後は5日以上寝かせる.冷却が終わると精製前の蜜を含んだ白下糖が出来る)
→「精製(蜜抜き)<押し・研ぎ>(白下糖を布に包んで重しを掛け,蜜を絞り出す(押し工程).「押し」を終えた白下糖を,水を加えながら捏ねる(研ぎ).「研ぎ」の後,再び押しを行い,これを5日に亘って5回繰り返す)
→「乾燥」(精製を終えたものを篩に掛け風燥する)
→「完成」と言うものです.

 この中に「押し」と「研ぎ」と言う工程がありますが,「押し」で白下糖の蜜を絞り出し,「研ぎ」では水を加えながら捏ねていきます.
 これは,蜜と蔗糖の水への溶けやすさの違いを利用したもので,蔗糖は溶けないが蜜が溶ける水の量を見極められる能力が必要となります.
 それだけに,和三盆を手作りするのは大変な労力が必要な訳です.
 しかもこの両工程は,新掛け→潰研ぎ→どぶ研ぎ→中研ぎ→上げ研ぎ→上りと5日掛けて5回繰り返します.
 この工程を短縮するには,遠心分離機に白下糖を入れて回すと言う方法があり,この方法では1時間で5日分の工程を出来ますが,風味は劣ってしまいます.

 砂糖と言うものは,含蜜糖と分蜜糖の2種類に分かれます.
 原料は同じですが,蜜を含んでいるか否かの違いで,前者は原料を圧搾して抽出した糖液をただ煮詰めただけであり,精製はしていないもので,その代表は薩摩や琉球の黒砂糖です.
 それに対し,蜜を含まない分蜜糖は,精製して蜜を取り除き,砂糖の純度を高めたものです.
 上白糖とかグラニュー糖もこの分蜜糖に含まれます.

 含蜜糖は精製の度合いが可成り低く,色が黒くて蔗糖の含有率である糖度が低いのですが,反面,葡萄糖,果糖,ミネラルなどの成分が多く,これが黒砂糖の風味やコク,甘味の源になっています.
 一方の和三盆は分蜜糖に含まれますが,とは言え,現在の工業的な分蜜糖精製に比べると蔗糖以外の不純物を完全に取り除くことは不可能です.
 この不純物の残留こそが,和三盆に分蜜糖でありながら含蜜糖に近い成分になり,これが和三盆の風味や甘味の源になっている訳です.

 また,和三盆の粒は舌の上でとろける食感がありますが,これは実際に和三盆の粒の結晶が細かいからです.
 因みに本来の和三盆糖の旨さというのは,乾燥前の生の状態が味も香りも良くて美味しいとされているそうですが,日持ちのことを考えると乾燥せざるを得ないそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/11 16:27


 【質問】
 江戸時代の製塩について教えられたし.

 【回答】
 江戸でも大坂でも,日本全国では殆どの塩は瀬戸内からの移入ものでした.
 これらの塩田は,瀬戸内十州塩田と呼ばれますが,その十州とは,播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,阿波,讃岐,伊予の事を指します.
 この10カ国で全国生産量の80~90%を占めている寡占状態でした.

 とは言え,大名諸家でも手を拱いて十州塩に頼っていた訳ではなく,何とかして十州塩の呪縛から逃れようと,懸命に国産塩の生産を手探りしています.

 三陸海岸は,リアス式海岸であり砂浜は少なく,気候は寒冷,短い夏も霧に覆われることが多く,日照時間も少ないと言う,塩作りには悪条件が整いすぎている位の土地です.
 当然,こうした土地は農耕も不向きであり,あるのは目の前に広がる海だけ….
 其処で,海辺の人々は海に出て魚を捕ったり,塩を作って後背地の農山村と食料の交換を行う必要がありました.
 また,この地域での市場性は全くなかった為に,東回り航路に対する寄港地にも成り得ていません.

 この地方で作られる塩生産技術は,煎熬釜で行われる海水直煮釜方式でした.
 この釜は,帆立貝や赤皿貝を焼いて灰にし,それに海水を注いで練って釜に仕立て,釣釜とした所謂貝釜が先行し,次いで鋳鉄釜が用いられました.

 しかし,鋳鉄釜は一度に大量の海水を煎熬出来る様な大型釜の鋳造と,その運搬技術が無いことから,間もなく和鉄板鋲留継吊釜へと移行する事になります.
 その構造は,長さ1尺2寸,幅5寸5分,厚さ1分5厘くらいの和鉄360枚を鉄鋲9,720本で継ぎ合わせて,直径1条2尺,深さ5寸の大体円形のもので,21本の鉄棒の鈎を付けて釜上部の釣木に吊す構造です.

 この釜は元禄頃に登場し,釜の制作費は1具新設で銭140貫ほど,人夫は鍛冶工6名,他に10名,延べ260名を必要とし,その賃銭は銭27貫文576文となっています.

 これくらいの投資が必要である為,個人経営は不可能で,村若しくは釜主と呼ばれる金主がこれを経営し,釜1具に煮子14~15名が付き,これを賃借して,交代で煎熬しました.
 また,このうち何名かは燃料運搬を専門とする人もいました.
 賃借料は,天明頃で1釜1煎の生産量1石3斗で,その内1回に2斗9升9合(約18%)が支払われています.
 燃料は,この地域の領有者である南部家が無償払下げして生産を奨励しました.
 この燃料無償提供が大きく,三陸での塩生産が続けられた原因でもあった様です.
 燃料は,周辺の木々であり,これを取り尽くすと釜を移動しましたが,17年周期で元の場所に戻っています.

 1釜1回の生産量は1石3斗,これを年175回の煎熬で,1釜年産約230石と推計されており,これは仙台伊達家が行っていた古式入浜10町歩分の生産額に匹敵しました.
 明治期では,石当りの燃料費プラス労賃平均1円55銭であり,燃料費を無償とすると1円16銭となっています.

 八戸南部家では,1666年に3具の直煮釜を,1668年から生産奨励することによって,1693年に久慈通に36具,1730年には67具,1747年には73具と増加し,塩は盛岡南部家にも移出出来る程になりました.
 一方,盛岡南部家でも,1646年の101具から,1683年に123具となり,年々増加しており,これら両家では,江戸後半期に塩引用塩の移入が若干有りましたが,ほぼ直煮法での自給が可能でした.
 ただ,大名家が利益を得る為に,専売制を導入しようとしましたが,一揆によって潰されています.

 因みに,この地方での塩価は1升15文から内陸部では80文と幅があります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/11 22:45

 今回は,瀬戸内海の塩田について触れてみようか,と.

 塩というのは,昨日でも触れたように,一種の装置産業であり,労働集約産業でもあります.
 つまり,塩を作るにはそれなりの投資が必要で,塩が製品化されるまで労務費が結構掛かります.
 奈良・平安時代の塩作りは,浜は一個人のものではなく,入会場であり,共同所有地であったが為に,塩を作るにも農業の片手間,あるいは漁業の片手間で,税の代わりに収める為にその地域の人々が共同で作ったものでした.
 平安時代になると,寺社や貴族の荘園が成立すると共に,山にもそうした所有権が打ち立てられ,塩を造る場合の燃料を手に入れるには,それなりの代償が必要となります.
 但し,この時代までは未だ浜は入会場となっていました.

 平安末期から戦国期に掛けて,段々と浜についても共同所有地から特定個人の所有に帰することになります.
 荘園や武将たちの領地に農民達は縛り付けられ,漁民でも片手間にする事は無くなり,大規模化,一種の工業化していくようになります.
 瀬戸内地方では,こうした塩田は入浜系塩尻法から古式入浜を経て,7反から1町4反歩(これを1軒前と呼びます)の規模の入浜塩田が出現します.

 瀬戸内の塩田は,俗に「瀬戸内十州塩田」と呼ばれました.
 十州とは,播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予の十カ国の事を言い,この十州で実に全国製塩量の80~90%を占めているという寡占的な地位を占めていました.

 この塩田はどれくらい儲かったのかを見てみましょう.
 1820年頃(文政期)の赤穂塩田1軒前の例ですが….

 先ず,人件費です.

 大抵の塩田は浜の土地まで自前と言うケースは,一部を除いてありません.
 地主が塩田を経営する人に対し,塩田を貸し付けます.
 地主は浜の所有者であると共に,製品を集める塩問屋,薪・石炭(火力の強いものが必要なので,早くから石炭が利用されていた)を供給する燃料問屋を兼ね,時には製品を運送する塩廻船問屋を持ち,村役人も兼ねている実力者です.
 彼等は,円価変動と天災に弱い塩田経営の不安定性と言うリスクを避ける為に,所有塩田での手作りは僅少とし,大半は小作に出すようにしています.

 その塩田を借り受けた小作は,先ず自身がなるか,或いは塩田経営の実務面を担当する現場監督である頭男1名を雇います.
 彼は常雇いであり,給銀は200~300匁,別に浜仕事を行った場合のみ飯料米を1日米1升1合を支給します.
 年間で,飯料米は約2石となります.
 彼の労働日数は年間約180日であり,五節句の他,雨天と雨天の後3日は浜が乾くまで休みで,10月~正月のうち,約70日は休浜となっています.
 更に,頭には以下の人々を雇う権限も持っており,昨今の「名ばかり管理職」とはちょっと違います.
 なお,大規模になると,更に助監督と言うべき下奉公と言う日雇中の上級者を1~2名必要とします.

 次いで,煎熬作業を中心として,釜屋造り,屋根葺き,土居拵え,釜建てと言った大工仕事をする釜焚と言う職種が1名居ます.
 彼は年間労働日数は160日程度で,給銀は約200匁,飯料米は約2石を支給します.

 塩田で重労働の実作業を行うのは浜男で,大体4名います.
 彼等は日雇で,その中から優秀な者は場合によっては下奉公と言う職種になります.
 給銀は1人につき,10~3月は1日の賃銀1匁6分,4,5,8,9月は1匁7分,6~7月は繁忙期なので2匁です.
 但し,飯料米は支給されません.

 塩田で浜男よりは軽い作業を行うパート的存在が浜子で,彼等は5名程度おり,老幼者又は女性が主でした.
 給銀は1人につき,先渡し前銀36匁,労働日雇賃1匁3歩で,女性も同額でした.
 但し,彼等は1日仕事ではなく,大抵は日中仕事となっています.

 塩田では,夜間も釜の火を絶やすことがありません.
 釜焚だけではこうした作業が出来ない為,夜間作業員として脇男と言うのを1名必要とします.
 給銀は100匁,飯料米は半分渡しで米約1石が支給されます.
 彼は,釜焚の見習的存在であり,一人前になると釜焚となりました.

 人件費はこのくらいで,彼等は分業制であり,全て賃金労働者でした.
 頭以下,上級職は年雇いであり,下級職は年間働く塩田は決まっているものの,月切または日切でした.
 浜子は塩田立地村出身者や近隣農村からの出稼ぎなどが多かったのですが,浜子については,近くの農家の手間賃稼ぎも多かったりします.
 給与は,給銀と飯米の2本立てで,契約と同時に年給の50~60%が前貸されます.
 浜男は謂わば,身売り的な存在でもあった訳です.
 当然,前借り金を踏み倒す者(走り浜子)もいますが,こうした走り浜子が捕まると片頭を剃って塩浜中を引き回し,浜師に顔を覚えさせ,二度と雇われないようにして放逐すると言う事も行われました.

 とは言え,下層階級だって黙っては居ません.
 赤穂では1735年から早くも団交が開始され,寛政期になると年末の団交は当然になり,最盛期には臨時手当要求の「はやり正月」(サボタージュ)も行われる様になりますし,竹原では,下層浜子による労働組合的組織も出来て,彼等による団交やストライキなども屡々繰り返されるようになっています.

 時に,こうした塩田の釜には燃料が必要です.
 釜屋1軒にて1昼夜に薪が24匁~40匁,1カ年で約5貫~7貫,薪は全て松木か松葉と言う火力の強いものです.
 但し,石炭も使われました.

 この他,年貢を御上に出さなければなりません.
 1軒前の年貢は,米5~6石が平均で,土地の広狭,地味によります.
 それと,運上銀が銀300~500匁.

 地主に対しては,1貫500目~2貫目の地代を支払います.
 地主は釜なども無償で貸し与えることがありますが,その修理費用は全て小作人持ちでした.

 塩を作ると,それを梱包する為に菰,莚,縄,俵と言ったものが必要で,その費用が銀約300匁,塩包装用に必要な俵代は約400匁となります.

 塩を生産するのに必要な釜には,石釜と金釜(鋳鉄釜)の2種類があります.
 石釜は平らな花崗岩を貼り合わせたもので,隙間に粘土などを詰めて塞ぎます.
 大きさは1間四方,深さ5寸,火を入れると昼夜炊き続けるものです.
 この為,30~40日でボロボロになり,築き直し(一塗)ます.
 これが1基約45匁.
 金釜は,1間四方,深さ4~5寸でで,四角形の平釜で,代銀は約850匁~900匁.
 耐用年数は,石釜より長いですが,それでも2~3年です.

 こうして生産した塩は,江戸積み塩値段(差塩5斗入俵)で計算され,高値では1俵平均銀1匁5~6分,中値では8分~1匁2分,下値4分~7分となります.

 1軒前当りの支出平均は,銀8貫130匁と米18石,但し米は自家製ではなく,購うものなので,米代銀は約1貫80匁となり,合計支出は9貫210匁となります.
 対する収入は,中値で4,000俵販売すると約12貫の収入となり,差引2貫790匁の利益となり,これを浜主に約1貫500匁支払えば,残りの約1貫290匁が小作の取り分となります.

 これは,同規模の水田経営に比べると10~20倍の利益が上がりました.
 農民の小作に比べ,塩田経営の小作は随分と割の良い商売と言えるでしょう.
 …但し,Googleと同じく,落とし穴的なものがありますが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/12 22:02

 入浜塩田は,なるほど水田の小作よりも分の良い商売ではありました.
 とは言え,地主に隷属する小作には変り有りません.

 塩田の小作契約は口頭もしくは文書で行われ,期間は1年と明示してあっても,小作料不払,浜方規約違反,過料銀提出延引などの事がない限り半永久的な契約であり,小作には塩田に附属する釜屋,納屋,製塩道具一式が貸与されますし,経営資金,特に労働者への前渡し資金,燃料費,縄,俵などの購入費は地主(問屋)からの融通を受けられました.
 又,塩価が下落したり,天候不順などで塩が不作になった場合にも,地主の保証を得ることが出来ました.

 一方で,道具などの一式を貸与されるとは言え,その修繕費用は小作人負担となっていますし,生産した塩の販売は,地主あるいは問屋(この場合,往々にして地主自身)へ一手販売しなければなりませんでした.

 つまり,少し才覚があり,塩田労働に経験があれば,安易に小作の道が拓けますが,一方で,地主にはとことん隷属する事になる訳で,封建的な親分・子分関係が強かったりします.

 先に見たように,寛政期の赤穂塩田では,塩田での地主の取り分は純益の54%,残りが小作の取り分となります.
 小作とは言え,田畑小作とは違い,10人前後の雇人を抱え,塩田は自己の裁量で経営したものであり,浜子から見れば,彼は雇傭主の立場でした.
 19世紀には塩田が多すぎて需要を大幅に上回り,作れば作る程価格が下がる塩不況が屡々起こっていますが,好況の場合は塩田小作は羽振りが良く,小作人と言いながら,本人は勿論家族も塩田労働に従事せず,茶道や遊芸に耽っている「羽織小作」の禁止の通達が大名家から出される事が有ったくらいです.

 こうした塩田経営は,現在の会社経営におけるフランチャイズ制と似ている感じがします.
 親企業が独立したい経営者に対し,経営資金や,店,資本一式を貸し出し,経営者は親企業の利益目標に到達する為にせっせと働き,純益は一定の割合で親企業に納めると言うあれです.
 不景気の時は人件費を抑える為に,親父自らがレジに立ち,家族経営で乗り切る訳ですが,立地条件が良かったり,好景気だったりして黙っていても儲かるのであれば,バイトを雇ったりして,次第に本人含め家族は経営に関心が向かなくなったり…まぁ,実際に現在ではこんなケースは滅多にないでしょうが.
 寧ろ,不景気でも一定の面倒を見ると言う事で,今の企業よりは温情があるのかな,と思ってみたり.

 また,備前児島郡では,「当作歩方制」と言う特異な小作制度が発展していました.

 野崎武左衛門と言う人が考え出した経営手法で,彼は1827~63年に掛けて,野崎浜・日比亀浜・東野崎浜などを開拓して,総面積142町歩,釜屋72軒を所有する大塩田地主となりました.
 勿論,地主の他に,塩の集荷問屋,燃料(石炭)の購入配給問屋を兼ねており,1848~54年の間には,福田新田540町歩の開発地主として,自己の塩田の浜子飯米約2,400石を,その小作米で賄える程になりました.
 かくて,野崎家は塩田・新田地主であり,浜問屋の三本柱の上で強靱な経営機構を備えることになります.

 此処までなら普通の地主と同じですが,野崎武左衛門は,更に塩田経営を「当作歩方制」によって,更に強化しました.
 この「当作歩方制」と言うのは,1軒前塩田を3種類の持ち分に分けます.
 1つは「担当人」,つまり,直接生産に従事する小作人であり,2つ目は「当作人」と言い,野崎家の親族又は野崎家に功労のあった者で,恩恵的な歩方が与えられる者,最後が「元方」,即ち野崎家自身です.
 当作歩分けの対象となる損益は,1軒前塩田の総生産高から小作料(現物塩)を差引き,残りの販売金から総生産費を差引いた差額です.
 普通は,この差額部分は小作人の取り分ですが,「当作歩方制」は,その損益部分を担当人(小作人)は元より,当作人,元方にも配分する事になる制度です.

 即ち,元方は小作料+この差額部分の一定割合,当作人は何もしなくても差額部分の一定割合を得,担当人は自己の労働賃銀と差額部分の一定割合を得る事になります.
 勿論,この差額部分が大きければ大きい程,担当人の方も実入りが良くなりますから,担当人は自己の収益増加の為に勤勉に働く事になり,それによって収益が増えれば,当作人も元方の一定割合分も増えることになります.
 そして,万一損失が生じた場合でも,元方は小作料分だけは確保出来ます.
 一方で,担当人と当作人,それに元方も含め,出た損失は共同負担する必要があります.

 現在の歩合給制度みたいなものですが,損失も共同で負担すると言うところが違いますかね.
 入浜塩田経営の経営規模は,1軒前単位以上の拡大は困難で,従って,地主の塩田総合直営制は不可能でした.
 そこで,武左衛門は塩田の共同経営・共同負担の形式を採ることで,地主と小作の階級的対立意識を緩和させながら,歩合制によって労働意識の向上を図り,小作人を管理職的労働者へと編成替えさせようとしている訳です.
 初期資本制度的な経営手法と言えるのではないか,と思ってみたり.

 こうした当作歩方制は,1844年頃から萌芽の兆しがあり,1848~60年の塩田不況,1861年以降の塩田好況の時代を経て次第に他地域にも定着していきました.

 ところで,十州塩は全国に移出されました.

 東北太平洋側は,一応自給出来ましたが,宇野・寄島の塩が送られています.
 東北日本海側は,三田尻・同西浦・福川・小野田・多喜浜・竹原・徳島・大塩の塩が送られましたが,三田尻塩の60%がこの地域に移出されています.

 関東へは,大塩・赤穂・味野・宇野・山田・寄島・竹原・生口島・小松志佐・徳島・撫養・答島・福良・坂出・林田・高屋・引田・宇多津・波止浜・生名島の塩が送られていますが,一度関東に揚げられ,東山方面と東北太平洋側に送られている塩もかなりありました.
 又,赤穂の塩の50%は江戸に送られています.

 東海へは,味野・宇野・松永・寄島・竹原・生口島・徳島・撫養・坂出・引田・松原・宇多津の塩が送られましたが,東山方面に送られている塩もありました.

 北陸へは,大塩・味野・山田・尾道・松永・竹原・平生・秋穂・三田尻・小野田・宇部・福川・坂出・伯方・生名島の塩が送られましたが,このうち東山方面に駄送されるものもかなりありました.
 なお,竹原塩・松永塩はその70%がこの地方に送られています.

 東山方面へは伊勢湾・三河湾岸の塩のルートに乗って,松永・林田・高屋・生口島が入り,関東・北陸からも十州塩が入っています.

 近畿へは大塩・赤穂・山田・宇野・味野・寄島・答島・徳島・撫養・引田・松原・潟元・伯方・波止浜・生口島の塩が流通しましたが,大塩塩はその生産地の近さからその生産量の70%,潟元塩は60%が大坂に送られています.

 山陰へは,大塩・生口島・三田尻・平生・麻里布・室積・福川・小野田・宇部・小松志佐塩が入りました.

 山陽・四国へは,土佐方面の高近,安芸で僅かに生産されましたが,殆どの地域では十州塩が使用されました.

 九州へは,宇野・竹原・生口島・三田尻・室積・福川・宇部・麻里布・小松志佐・秋穂塩が送られましたが,秋穂塩の70%は九州向けでした.

 この様に,全国十浦々に送られた十州塩ですが,生産量は年を経るに従って拡大の一途を辿るものの,消費量がそれに追いつかず,屡々塩不況に見舞われたりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/13 23:31

 塩という代物は,生物が生きていく為に絶対的に必要なものです.
 従って,これは絶対絶やさずに手に入れなくてはなりませんでした.

 近世の塩の値段は1升(約1,910グラム)当り幾らだったか….
 瀬戸内塩田地帯では5~6文,東海・江戸で約10文,三陸海岸で約15文,日本海岸・土佐で約10文,薩摩では約7文となっています.
 これらの地域は比較的塩の生産も行われていた地方ですが,これが内陸部になると,振売りで(沿岸部から)2里(約8km)で2倍,3里で3倍と言われました.
 最高値は,一ノ関田村家の1升約300文ですが,これは田村家が移入専売を行って,仙台湾から上ってくる塩に多額の口銭を掛けたからです.
 また,米沢上杉家でも約120文でしたが,こちらは自家生産の製塩事業での価格で,燃料を無償とすると110文で生産出来,これを町場で売ると1升当り10文儲かると言う割の良い商売でした.

 また,米と塩との交換比率は平均すると米1に対し塩6~8程度でありましたが,薩摩島津家では米1と塩1とを交換していたケースもあります.

 近世末期に於て,瀬戸内沿岸の入浜塩田は約4,000町歩と算出されています.
 その塩田の生産量は約400万石と推定されており,瀬戸内沿岸以外での生産地の生産量推定約70万石と併せて,全国の塩生産量は約470万石と推算されています.

 生産される塩については3種類に大別されます.

 前に饂飩の項で触れた様に,純度の低い塩分60~80%の粗悪塩である差塩,それよりも純度が高い,苦汁を煮詰めることで少なくした,塩分約80~85%の上質塩である真塩,真塩を素焼の壺で蒸し焼きまたは焙烙などで煎ってMgCl2をMgOとした焼塩が主な塩の種類です.
 上方~畿内では真塩,農山村では差塩を好みましたが,東北・北陸・内陸部では塩価が高いこともあって真塩は敬遠され,差塩が主となります.
 良く,関西は薄味,関東は濃味等と言いますが,こうした味の好みは,精製化された以後も料理に使う際,昔ながらの塩の量を伝え続けた結果,塩辛くなっていったケースがあるのかも知れません.
 序でに,焼塩などを食するのは極上層部の階層の人であり,また贈答用品として利用される程度でした.

 この塩の運搬には俵が多く用いられていましたが,その容量は全国統一ではなく千差万別で,しかも表示(呼称)容量と内味には可成りの差がありました.
 その上,差塩でも真塩でも苦汁分の除去が十分ではない為,運送や貯蔵の間に多く目減りすることも多く,差塩の場合は俵装の10日後には20%の目減りがあって,これが公認されている状態でした.

 塩俵の形態は,米や木炭俵と違って,3~5俵を立積みに保管し,その平面は円形または梅鉢形でした.
 この容量が統一されなかったのは,先物取引契約後に価格が下落し,その損失をカバーする為とも,悪徳商人が俵の名称の信用の影に隠れて,容量不足の俵を作ったからとも言われています.
 尤も,容量不足のものを出荷したからと言って,契約違反にならないのもこの塩の運搬な訳で,1746年の小豆島の資料では,小豆島から出荷して大坂に納品するまでに,5斗2升4合詰の俵で,8升4合,即ち16%の目減りを公認していますし,別の資料でも,備前・播磨の塩5斗入俵が大坂では3斗7升となり,26%の目減りとなっています.
 1884年と言いますから,明治期になっても,関東奥地に瀬戸内塩が入った時,「俵裏ワズカニ一団ノ残塊ヲ留ムルノミ」と言う記録が残っているくらいです.

 塩の消費を考えると,調味料としてと言うのが多かったりします.
 現在の食卓塩と同様に,また飯や粥の鹹味とし,麺類や餅類の鹹味乃至麺類の繋ぎとして利用されました.
 1985年現在の調味用塩の消費量は約10万トン,近世の人口を現在の4分の1と推計すると,大体25,000トン,即ち15万石程度の消費量と考えられますが,近世の食餌事情を考えるとそれよりも多い25万石が調味塩として使用されたと考えられています.

 また,近世では屡々飢饉が発生した訳ですが,その場合の食餌は野獣・犬・猫・鼠・牛馬を喰い,更に植物質を食餌としました.
 明和年間の『民間備荒録』や天保年間の『救荒孫之杖』『粗食教草』では,葛・蕨・昼顔・百合・山芋・山牛蒡・慈姑・野蒜・大葉子・茅・椎・栃・松・楢・櫟などの葉,根,実,その他彼岸花の根,松の皮,藁餅,更に火山性の白土を備蓄食として挙げています.

 松は白皮を灰汁に入れ,柔らかくなるまで煮て,流水に晒し,細かく刻み臼で搗き,麦粉などを混ぜて餅や団子にする,或いは白皮を臼で搗き,水に浸し,密閉して苦味や悪臭が抜けるのを待ち,汁を漉して乾かして白粉を取り,これに米・麦などの粉を混ぜて餅とし,又は松葉は釜に入れて湯がき,水に晒し,細かに刻んで煎り,搗いて粉とし,藁麦粉等と混ぜて団子として食したと記録にあります.

 藁筵も,重要な食物で,石見日原村では「古くてボロボロになった勝手の藁筵は塩気が染込んでいたので食べられた」と言う記録もあります.

 食べられるものが無くなれば,紙を食べました.
 『経済要録』では,天明年中の飢饉の話として,「我家貧なれども,幸に故紙の多かりしを以て,乃此を水に漬して蒸し,搗て些計りの糖粉を調和し,餅となして此を食せしに…(略)…親族此紙餅を食ふことを知り,村内六曲庵の一切経,宝泉寺の大般若経を始め儒書も皆食て,一郷の男女六七百人終に餓殍の災を免れたり」とあります.

 とは言え,植物質のみを食餌とするのは甚だ危険で,建部清庵が,1755年の奥羽飢饉を機に著わした『民間備荒録』では,植物質食料は塩を加えて食わねば,備荒食として効果がないと次のように述べています.

――――――
 総じて飢饉の時,人の死するは食物の無き故死するばかりには非ず.数日塩を食せず,脾胃に塩と穀気と共に絶えたる所へ,山野の草根木葉を,塩をも加へずして食する故,毒に当りて死する也.塩をさへ不絶食すれば,草根木葉ばかり食しても死なぬものと見えたり.塩は荒年第一の毒消なり.肝煎,組頭良く心を尽くし,其の時々に塩の貯に心を付け,数日塩を食せざる者には塩をあたふる了簡すれば餓死人なかるべし
――――――

 このことは既に1697年の『農政全書』にも,苦行僧が山に入るに当って,塩を竹筒に携行し,草などを食べて毒がある場合には塩で解毒すると記しています.

 この他,塩と食餌との関係は,1850年に佐伯義門が書いた『救饑提要』,東条信耕が書いた『補饑新書』,1854~60年に横川良介が書いた『飢饉考』,1860年の『ききんのこころえ』にも繰り返し引かれているものであった訳ですが,塩の生産地は,そう言った意味では飢饉に非常に強かったみたいです.

 調味塩の他の用途としては,醸造用が挙げられます.
 1934~36年の醤油消費量が年間500万石,近世ではその3分の1と推計すると167万石,その内塩の含有量を,現在より少し多い20%とすると,醤醢や醤油の醸造用には約33万4,000石と算出されます.
 味噌は地域に依って塩の含有量に差がありますが,近世では関東北部以北が33%,その他が23%と算出出来,その消費量を,前者は年間1人約1斗,後者を年間1人約3升として,必要塩量は約49万4,000石となります.
 その他魚醤,ジ(豆偏に支),納豆,蒲鉾の消費量が推定約8万石程度.

 食品保存用には漬物用が圧倒的に多く,年間1人当りの漬物消費量は平均1斗5升であり,近世の漬物は材料1斗に付き塩を平均2升6合を使用したと算出されますので,やや多めに見て,漬物用塩は約125万石,塩魚・醢(塩辛)・鮓については明治初年の乾魚生産量から推定すると,魚類塩蔵用塩は約120万石と推定されます.

 農業・皮革・鉱業・窯業にも塩が用いられています.
 農業では家畜飼料に4万石,選種・肥料・除虫に若干量,皮革の原皮保存用に5万4,000石,鉱業・窯業用に若干,合わせて約10万石が必要となります.

 又,近世では医療用として,一つは死体保存用,もう一つの主な用途は歯磨き用として約4万石が必要とされていますし,宗教的儀礼として,盛り塩や浄めの塩,供物,角力用と言ったものに約1万6,000石が推定されます.

 こうした使用量に目減り分94万石を加えると,近世後期日本の塩使用量は,年間470万4,000石となり,当時の人口を3,200万人と推定すると,1人当り平均20%の目減り分を加えて,1斗4升7合となります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/14 22:07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 江戸時代の塩の流通について教えられたし.

 【回答】
 江戸へは,行徳を中心とした江戸湾岸の地回り塩と共に,瀬戸内産の下り塩の2系統の塩が入っていました.
 主流は勿論,下り塩で,1652~55年に江戸に入った塩船は250~300艘で約50万俵に達し,明治初年でも塩廻船の総数は330艘,積載総量210万俵に達しています.
 この塩は4軒の下り塩問屋,松本屋・渡辺屋・長嶋屋・秋田屋で取り扱い,配給は文政期で21軒の下り塩仲買を通して行っていました.

 その塩の輸送に使う塩廻船は800~1,500石(天保期)積,即ち塩5,000俵~8,000俵を搭載し,1,000石積で船長4丈7尺(約14m),深さ7尺5寸(約2.3m),帆2丈5尺(7.5m),22反帆(1,500石積だと32反帆)の船で,これに船頭(船長),親父(庶務会計),賄(荷物受け渡し),表師又は水切(航海長),水夫(雑役),炊夫(炊事係)の合計12~3人が乗組んでいました.
 塩廻船は基本的には一種の独立した塩販売の機関であり,荷主の代理として又は船頭自身が自己の名に於て産地で塩を買い積み,これを輸送して江戸で販売すると言うものでした.

 江戸の回航地は品川で,船が着くと,先ず下り塩問屋(下り塩問屋は廻船下り塩問屋とも称し,廻船問屋も兼ねています)が廻船式法によって船を改めます.

 次に廻船問屋の支配を受ける「小宿付船」が伝馬船を仕立てて,船頭を迎えて彼を問屋に送ります.

 船頭が問屋に着くと「下り塩仲買」に回章を回し,一定の場所に仲買の集合を求めました.
 仲買の中にいる行事が,問屋と仲買との間に立って塩価を協商し,纏まると手板割を行います.
 手板割とは,一枚の紙にそれぞれの仲買の買付け数量を,符号を以て記入することであり,符号は○印が1杯(赤穂塩200俵,本・新斎田330俵の単位),△印が半杯(1杯の半分)となっています.

 手板割が終わると,仲買は塩瀬取仲間に指示して,「茶船」(10石積の運搬用船舶)によって塩荷を揚陸しますが,茶船が手板を持って本船に向かうと,先ず「廻し俵」を船頭より受取り,「塩直し」(俵の容量検査で専門家が行った)を行った後,塩俵を瀬取ることになります.
 茶船1艘の積載量は,赤穂塩の場合は400俵,本・新齋田塩の場合は660俵となっています.

 茶船によって,運ばれた塩は仲買の店に運ばれ,直ちに小売人若しくは大量需要者に販売し,残りは倉庫に入れました.
 本船の荷卸し完了後に,船頭は手板を問屋に持っていき,塩代金を受け取りますが,この際問屋は船頭に「仕切書」を渡します.
 これは料金明細みたいなもので,塩の値段によって上下した為に,元の荷をどの様に買い取ったかを書いたもので,「五拾俵差し」とか「廿弐俵引け」と言った記載があります.
 前者は,塩価騰貴により,100俵建に50俵加えて,100俵の現品を150俵の価格で買い取ったものであり,逆に後者の場合は,塩価が暴落した為,100俵建に22俵差引いて,100俵の現品を78俵の価格で買い取ったものです.

 こうして仲買に渡った塩は,江戸だけで無く,川船積問屋や奥州筋積問屋等の手を経て,下総・上総・上野・武蔵・相模・常陸・甲斐・信濃と言った国々の他,仙台南部辺りまで送られました.

 この様な塩廻船はどれだけの利益を上げたか,赤穂板越港の廻船問屋である奥藤家の塩船長安丸の場合,1855年3月20日~1868年閏4月14日の13年余の間に41仕立て(航海),年間平均は3.2仕立で4ヶ月に1仕立て割合での運行が行われていました.
 この41仕立の内,38仕立が塩,3仕立が城米回送で,塩積は全て買い積で,仕入先は塩屋村の浜野屋が主ですが,1863年からは御崎新居浜村の徳久屋善之助・川口屋・的形屋・尾崎村の小笹屋が1~2度ばかり見られます.

 1仕立の塩は約5,000俵,城米ならば1,300石で,こうしたことから長安丸は1,500石程度の積載量を持つ船であることが判ります.

 塩の販売先は,江戸の廻船下り塩問屋嶋屋松之助が1859~1861年までの大部分でしたが,1862年以降は同じ塩問屋の喜多村冨之助が大部分を荷受けするようになっており,開港の影響か,神奈川の伊勢屋孫兵衛が5仕立の販売先となっています.
 更に1864~65年は,激動期だった為か,赤穂森家の江戸産物会所への納入が4仕立ありました.
 この他,清水港の吉野屋喜左衛門,伊豆の播磨屋勘次郎,浦賀の阿波屋甚右衛門が1仕立ずつ販売先として現れていました.
 塩以外の添え荷としては,材木・米・木綿・炭・作事荷物・御屋敷荷物があり,これらは運賃積でありましたが,逆に赤穂への帰り荷は全く記録が残っていません.

 これらの廻船では粗収入は13年間41仕立で金5,575両,銀4貫659匁2分,銭712文で平均すると年間430両となります.
 1仕立当りの利益は,荷によって異なりますが,最高は1866年の667両3分2朱と13匁5分5厘の利益がありましたが,同じ年には227両1朱と,2匁6分7厘の損失の時もありましたが,平均すると130~140両の収入がありました.

 支出は修理や,帆柱の建替え,1859年に新造船を建造して1,166両1分2朱掛かっていたりしますので,総合計金2,465両,銀1貫733匁6分8厘,銭2,107文の支出となり,差引金3,040両3分2朱,銀2貫925匁5分4厘の純利益を得,年間純利益平均は約240両となります.

 当然,こうした瀬戸内十州塩を買うのに否定的な考えも江戸の学者達の中にあり,特に江戸後期に活躍した国家社会主義者の先駆である佐藤信淵は,その著書で,江戸湾干拓計画をぶち上げています.

 その理由と目的は,化政期から跋扈してきている黒船による海上封鎖が発生し,西国や東北からの廻船による物資輸送が1年途絶したとするならば,膨張している江戸人口の食糧が不足し,騒擾状態になるのは自明の理であるとし,少なくとも米塩の自給体制を関東地方単位で整える必要があると言うものでした.

 この米塩自給体制を整えるには,江戸湾の干拓以外に無いとして,江戸湾の測量,海岸諸村の海浜遠浅化の聞き取り,湾内海底変動の歴史的研究,流入する河川の地理的調査の結果を示し,行徳・船橋から富津浦までの干潟拡大を証し,利根川分流や小諸川の流路変更による田畑地の拡大計画,更に家伝の勢子石の法を以て,干潟の堆積を速める方法を述べ,更に具体的に埋立工事用の杭とする松木の寸法から必要本数,埋立土砂の必要量,その採取場所,運搬から工事に至る人足数,日当の計算,更に堤防などの干拓技法,海運に繋がる内陸水路の掘削とその土砂の利用,更に新干拓に伴い発生する漁業補償の問題に,港湾問題の解決策,退潮現象による廃田化の問題,江戸湾と瀬戸内海の波浪強度の比較等まで考究しています.

 この考究の結果は,1842年に『物価余論簽書』として結実しました.

 彼は,江戸湾を沖へ100町(約10km),長さ20里(約72km)の地を得る為に,先ず岸から沖へ100町の場所に表(示杭)を立て,勢子杭を打ち並べると,南風の荒波に砂が打ち寄せられ,その内側は2~3年の間に60~70%は埋まるであろうと推定します.
 この他埋土を,御府内の外堀川,出洲,加奈川~羽根田辺りの泥土,新斗根川・仲川・大川などの泥土を浚えて,土船を風に引かせて運び,又,中洲泥を深く浚う時は,水馬や軍船の訓練を兼ねても良いとしました.

 資金については,幕府の支出だけでなく,関東の河川は堆土で河床が浅くなり運送に難渋しており,出水にも水損が多いので,関西で淀川や安治川の川浚えを行った際に,船持ち等に出銀させた例もあるし,江戸でも船持出資させては如何かと問うていて,大体,年間10万両ほど出金させ,10年もすれば埋立は完了すると書いています.

 この埋立地は約72,000町歩にもなり,25,000町歩を新田とするならば,約30万石の収穫があり,此処から納付される年貢は12万石となるとし,浜手2,000町歩を塩田にすれば,凡そ1町歩で晴天2日で塩10石が獲れるならば,1ヶ月に150石,年に1,800石となりますが,晴天を4ヶ月,雨天を8ヶ月としたならば,1町歩で年600石,2,000町歩もあれば,年間120万石の塩が生産出来ると計算しています.
 そして,そのうち10%を年貢として取り立てたら12万石,金に換算すると,1両に米1石2斗5升として,年貢米10万石で8万両,塩1石を銀10匁とすると,12万石で2万両なので,これで収益が年10万両になるから,10年で元が取れる,としています.

 とは言え,塩の生産技術面からすれば,例えば,塩田地盤にしたところで,関東では関東ローム層による水はけの悪い赤土が主で,瀬戸内の塩田地盤砂と撒砂の効率性を棚上げしていたりするので,本当にこれだけの生産が出来るかは一向疑問ですし,実際に,幕末から明治初期に掛けてこの辺りで塩田を開発して塩を生産しようと言う動きがあったのですが,台風の高潮で悉く塩田が破壊されたのがあったので,実現性については疑問符が付く訳で,実際に実現しなかったのも当然と言えば当然かも知れません.
 所詮は実学を知らない曲学阿世の徒と言うべきなのかも知れませんが.

 何れにしても,もし,この干拓が行われていたら,今頃三番瀬はなかったでしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/15 21:22


 【質問】
 江戸時代以降の醤油輸出について教えられたし.

 【回答】
 醤油が海外に輸出されたのは,何も最近の事ではありません.
 醤油の輸出は,実は江戸時代から行われていました….
 日本の輸出品として長崎に集荷され,此処から輸出されていきます.

 当初は清商人が扱って,華僑向けに輸出されていましたが,1647年,オランダ商館が初めて醤油の輸出を手がけます.
 その数は1斗6升入の樽を10樽で,台湾商館に送られ,其処から東南アジア各地に転送されました.
 元禄期の輸出量は僅か93樽でしたが,オランダが手がけた醤油は,台湾,トンキン,シャム,バタヴィア,マラッカ・カンボジア,コロマンデル・ベンガル,セイロン,インド西海岸のスラッタ,モルッカ諸島のアンボイナ,テルナテ,セレベス島のマカッサルなどに販売されています.

 これが欧州向けに輸出されたと記録が出て来るのは,1737年.
 この年は醤油大樽75樽がバタヴィア向けに輸出されましたが,その内35樽はオランダ本国向けに送られたと記録にあります.
 フランスのDenis Diderotが,1765年に編纂した『百科全書』にも,「醤油」の項目があり,其処には日本産の一種のソースで,オランダからフランスに齎され,良い味で中国産より遙かに優れていると書かれて居ます.
 19世紀に入ると,日本醤油の名は既に欧州各国で有名になっています.

 この醤油を意味するsoyとは元々「醤油」から転訛した言葉ですが,当時欧州になかった大豆をも意味しています.
 この語源はオランダ語のsoyaから来ているそうです.
 soyaが転訛して,英語でsoyとなり,フランス語のsoyaになった訳です.
 そう考えると,soy joyなんて商品名は,先祖返りしたというか何と言うか….

 18世紀には中国船が年間630樽余を輸出し,オランダ船は30~70樽の輸出を毎年手がけていました.

 19世紀になっても,例えば1854年,日米和親条約を批准する為の使節が米国に送られ,帰途をインド洋経由にしたところ,持参の味噌と醤油が無くなり,以後,味付けを塩のみに頼っていたそうですが,バタヴィアで醤油を見つけ驚喜したと言う話もありますし,1860年代初頭に幕府が派遣したオランダ使節団も,オランダのハーグで,日本屋と言う日本製品専門の店の事を紹介し,その中で最も儲かる商品が醤油であると記しています.
 因みに,オランダで買う醤油の値段は,1瓶金1分2朱に相当したそうです.

 こんなに儲かる代物ですから(何しろ1瓶1分2朱ですし),当然偽物が出まくります.
 中国や蘭印で作られた商品が,日本産として各地で販売されるようになり,ドイツでも偽物の日本醤油が横行したと言います.
 遂には日本の本物を駆逐して,soyaとかsoy sauceと言う言葉をして,中国産醤油を意味するまでになってしまいました.

 当初は樽で輸出された醤油ですが,後には陶製の瓶に詰められて送られました.
 特に現在まで残っているのは,「コンプラ」と呼ばれる長崎波佐見産の陶器で,波佐見の人々は,出島に異人が移住させられた時,日用品を異人に売り込む特権を有し,彼等は仲間を作って,こうした陶製の瓶を手がけ納品していました.
 幕末には輸出商品容器として陶製瓶が扱われ,最盛期には3合入の瓶が年間40万本も取引されたそうです.

 一方,国内では19世紀になると各地で生産されるようになり,幕末になると,生産地が増え,しかも1軒当りの生産量は増加した為,飽和状態となっていきます.
 この為,開港後は大手業者は,再び海外に販路を得ようと各地に調査員を派遣しています.

 それによると,明治期は中国方面が中心であり,特に満州地域での伸びは結構な量と成っていきます.
 これは,日清戦争や日露戦争を経て日本から移民として満州地域に渡る日本人が多く,その多くが日本醤油を購った為でもありますが,一方で,中国人中流家庭に対してもそれなりに需要が出て来ます.
 そうなると,満州は原材料である大豆,小麦は現地で調達が可能,更に醤油製作技術は,中国でもある程度同じ醤油醸造技術があった事から,現地資本による工場で醤油を製造する様になったり,日本企業が現地生産をするなどして,この地域での輸出は減少に転じています.

 この現象は,植民地と成った朝鮮や関東州でも同じです.

 一方,東南アジアについては,移住者は少なく,現地住民の需要もそれほどなく,輸入量は近世から伸びていません.
 但し,米国については,ハワイ,北米方面に移民が多数いたことから,明治・大正期の醤油輸出は,満州,関東州,ハワイ,北米が中心と成っていました.

 この他,市場開拓として,欧米各地の博覧会に醤油を出品するとか,市場開拓の為に社員をドイツ,オランダ,フランスに派遣したりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/23 21:36



 【質問】
 醤油の起源は?

 【回答】
 日本の調味料で世界的に有名なものと言えば,醤油です.

 醤油は元々,食材を塩漬けにして発酵させた醤から発展させたものです.
 動物性のものとしては,魚醤,肉醤であり,植物性のものとして草醤,穀醤がありました.
 魚の内臓を塩蔵して造ったもの魚醤,日本で言えば秋田の醢汁なんかは結構有名です.
 米,麦,豆と言った穀類に塩を加えて発酵させたのが穀醤,野菜,果物を塩漬けにして発酵させたのが草醤です.

 日本では肉醤は余り発展せず(天智系の顧問だった帰化人を,天武天皇が粛清したからと言う話もあったりしますが),魚醤はその後,秋田では醢汁として生き残りますが,これは更に発展して塩辛に,草醤は漬物に発展していき,穀醤が後に味噌・醤油に発展したと言われています.

 日本で醤油が出来たのは,鎌倉前期の事で,由良興国寺の開山覺心(法燈国師)が宋から径山寺味噌を伝えた事に始まると言われており,この桶の底に溜まった液汁の利用から種々工夫の末に醤油が考案されたとされています.
 紀州湯浅では,既に湯浅醤油の原型と言われるものが,正応年間(1288~93年)に岩佐某によって近隣に売られており,1535年には赤桐右馬太郎によって100余石醸造されて,大坂雑魚場の小松屋伊兵衛に送られ,彼の地で売られたとされていますが,何れも資料が乏しいのでこれが真実かどうかは判りません.

 中国では,明代に大豆,小麦を原料とする醤油の製法が確立し,「醤油」と言う言葉もその頃に造られたものとされていますが,この醤油が日明貿易で浙江省,福建省から堺に渡来し,その製法も伝えられたと言われています.
 ただ,中国の醤油は,旨味は濃厚なのですが,色はそれほど澄んでいるものではなかったりします.
 謂わば,日本にも湯浅辺りで独自に発展してきた醤油の原型があり,それが明渡りの醤油と合体して改良され,独特のものが作り出されたと考えられる訳です.

 前にも塩の話で出しましたが,15世紀から17世紀に掛けて編まれた『多聞院日記』では1565年7月,1568年7月18日,27日,1574年閏11月8日,11日の条に,それぞれ味噌,唐味噌,醤に関係した記述が出て来ます.
 これらの記事に依れば,その3種類は各々異なったものであり,味噌は大豆を煮て麹,塩を合わせて作られますが,醤は大麦,大豆,塩,水で作られていて,その比率は大麦1に対し,大豆0.3,塩0.26~0.3,水0.73~0.8となっており,大麦主体で大豆を配合した穀醤であったと考えられています.
 又,唐味噌は,大豆,大麦乃至小麦,塩,水で作られていて,大豆を1とすれば,大麦乃至小麦を1,塩1,水2.54~2.84となっているもので,これを混ぜ合わせた後,1週間後に塩と水を追加して仕込みを行うと言う,醤油の製法に近いものがあると言えます.

 江戸期になると,醤油の製法はほぼ確立しますが,湯浅では関西の範囲であるにも拘わらず,専ら濃口醤油が中心でした.
 薄口醤油を作り始めたのは,意外にも1878年の事です.
 又,湯浅醤油は,関東の醤油醸造業に極めて大きな影響を与えています.
 銚子のヤマサ醤油の初代浜口儀兵衛は,湯浅に隣接する広村(現在の広川町)の出身で,其処から銚子に下り,元禄年間(1688~1704年)に味噌,醤油の仕込みを始めたと言われ,浜口家の屋号だった広屋と同じ屋号を持つ醤油醸造業者も,銚子で岩崎重次郎など複数に上っていました.
 こうして,醤油の生産は関東から全国へと広がっていった訳です.

 但し,東海地方だけは,豆味噌の製造途中に分離した液汁から出来た溜り醤油が主流となり,これは1699年に商品化されました.
 色,味共に溜り醤油は濃厚であり,これは小麦を殆ど使わず,ほぼ100%大豆からのみ作られるのが特徴です.

 関西の料理に用いられる淡口醤油は,天正年間(1573~92年)に,播州龍野で酒造と兼業の形で醤油生産が始めた横山家と円尾家のうち,円尾家によって寛文年間(1661~73年)に開発されました.
 これは,大豆と小麦の処理方法に工夫を凝らし,塩を多めに,熟成期間を短めにして醤油に色を付けない工夫が為されたものです.
 また,揖保川の水は鉄分含有量が少ない軟水であった事から,更に味が円やかになったとされています.
 この淡口醤油の販路は,寛文年間に大坂に,次いで堺,京都へと広まり,関西一円を主要市場として行きました.
 現在でも,関西の料理には淡口醤油が用いられています.

 天明年間(1781~89)になると,新たな醤油が開発されました.
 これは,防州柳井の醤油醸造業者四代目高田伝兵衛が岩国吉川家当主に献上したのが始まりとされる再仕込み醤油,俗に甘露醤油と呼ばれるものです.
 これは濃口醤油の諸味を絞って出来た生醤油に再び麹を仕込み熟成させ,濃口醤油よりも倍の時間と材料を掛けて作る醤油で,味も色も濃厚です.
 この再仕込み醤油は,中国西部から九州北部に掛けて普及していきます.

 19世紀初頭の1802年もしくは1811年に開発されたのが,白醤油です.
 これは,三河国新川の現在のヤマシン醤油が発明したとも,尾張国愛知郡山崎村で作られたのが最初とも言われています.
 白醤油の原料は主に小麦で,色は淡口醤油よりも淡く,琥珀色をしています.
 淡泊な味と香りを持ち,煮物や汁物に適している醤油です.

 江戸期までに醤油の大きな流れは形作られ,その枠組みは現在でも変わっていなかったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/22 23:05


 【質問】
 江戸期の農村経営は,一般的にはどのようなものだったのか?

 【回答】

 将軍家や諸大名家の農政に一番影響を与えたのが,豊臣秀吉が行った太閤検地です.
 太閤検地は,一定の基準を全国に適用し,面積の単位統一,京枡による量目を前提に,耕作地を実地調査して田・畑・屋敷毎に等級を定めて石盛をし,土地の生産力を米の生産高,即ち石高で表示することにしたものです.

 更に,村ごとに検地帳を作製して,土地の直接耕作者を記載し,その耕作者に石高に応じた年貢を課しました.
 検地帳に記載された耕作者は年貢,労役負担者として,以後,農民身分に固定される事になり,兵農分離が促進されました.
 それは,武士階級と農民階級の居住地域の分離も促し,武士の都市集住が明確化されました.

 この様にして,今まで土地制度の中核を担ってきた荘園公領制は否定される事になり,石高を基準にした知行高を給与された諸大名が全国に配置される,大名知行制度が確立される事になり,これは徳川幕府にも引き継がれて江戸期諸制度の核として継承され,整備されていきました.

 その大名知行制度の内部に於いて,幕藩領主は代官などを通じて農村を支配していますが,村では農民の中から村役人を選定することにより,それを統治機構の末端機関としていました.
 村役人は,東国では名主・組頭・百姓代の三役からなり,西国では庄屋・年寄・百姓代などと呼ばれています.
 村方三役,或いは地方三役は,法の伝達,年貢,諸役の割付など領主支配の末端業務を担うと共に,村内の山野,用水管理,治安維持など村共同体業務に当たりますが,その中で百姓代は特に村政監査役とも言うべき地位を占めていました.
 つまり,村は領主とは半ば独立した自治的運営を原則としていた訳で,薩摩島津家の農民支配形態が如何に特異かがよく判ります.

 村方三役の下,村民には
・田畑・屋敷を持ち,検地帳に登録されて,年貢など諸負担の義務を持つ本百姓(高持百姓)
・田畑を持たず小作をする水呑百姓(無高百姓),
・本百姓に隷属する名子,被官,譜代,家抱等
の階層がありましたが,村の自治に参加出来るのは,年貢などの負担義務を持つ本百姓だけでした.

 村の自治的運営を示す一つに,村請制があります.
 村請制とは,幕藩領主が年貢などの諸負担を村の責任で納入させる制度です.
 検地帳に従って算出された村高によって,村の年貢高が定まると,納入通知書は村に交付されます.
 それに基づいて,村役人が各家に割り付ける仕組みであり,個人或いは家は村方三役によって決定される割付に関心を持つと共に,その完納には連帯責任を負わされることになります.

 また,村の自治的運営は用水管理,消防や水番などの当番(村役)を取り決めることや,それを務めなかった場合の「不参過怠定」などにも及び,違反者には歩米差し出しなどを定めています.
 この様に,村の秩序を乱すものには,村民の協議で制裁を加えることにもなります.
 その中で重い制裁の1つが村八分で,これは村民との交際を絶つことですが,更に重いのは被制裁者が村から消える追放刑と言うのもありました.

 この様な村の自治的運営は,一応は村内に限定されるものの,行政から司法にまで渡る運営を行っています.
 そこには,公儀の法,即ち領主法と村掟との関係の問題が存在することになります.

 村掟は中世から村落共同体の成文規約として見られるようになりますが,江戸期になると領主法に随順する姿勢を取るケースが多くなっていきます.
 即ち,村掟には,その冒頭に領主法遵奉の条項を示すようになります.
 しかし,制裁規定が多いのが村掟の特徴であり,公儀の法と村掟の整合は,現実には困難であった事が推定されています.

 例えば「盗み」をした場合,公儀の法では諸集団の「私的制裁」を禁じ,公儀の法,裁判に基づいた処分を意図しています.
 しかし,公儀には「建前」と「内証」があり,正式の告発があれば公儀の裁判によって対応しますが,内々の報告や盗みと判らぬ形での措置に対しては,内証に対処し黙認する,と言う態度が見られ,結局は村方の意志がほぼ貫徹される形になっています.

 近世の村々は,公儀の法が私的制裁を禁じていた為,公儀の統治体系に抵触せぬ形を巧みに取りながら,村々の法や刑罰体系を厳然と実現させていました.
 即ち,公儀の法と村掟は,対立を基本としながら,一部相互に依存し合う形を以て構造化されていたと言える訳です.

 時に,当時の武士階級の人口比率は,大抵の場合5~6%程度にしか過ぎません.
 この為,居住区を異にする村々の農民を支配し,統治する為には,村方三役を要とした村の自治的運営に依存する側面が相当あったと考えられます.

 こうした村々は,室町期の荘園解体期に現れた惣村から分出,成立していきました.
 中世後期に畿内とその周辺部では惣村若しくは,惣と呼ばれる村が形成され,15世紀には他地域にも次第に拡がり,16世紀になると自立的な村落共同体としての性格を明確に示すようになります.

 惣村が惣村である為の条件は,先ず惣有地,惣有財産を持つ事,次いで年貢の地下請(村請)が実現していること,最後に,惣掟(村法)を持つか,または地下検断権を掌握(自検断)している事があります.
 この他,
・強固な地縁団体としての結合の論理として,仏教(稀に神道)を軸に形成されていた点,
・惣村が内部に一定度の成熟した分業組織を持つ商業を内包していた点,
・惣村内の秩序が階層性を帯びていた点
などがその条件に加わります.

 つまり,こうした惣村のあり方が,そのまま近世の農村に於ける自治的運営に少なからず継承されていたりするのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/31 23:11
青文字:加筆改修部分

 さて,明治維新がやって来ると,他の地域の幕藩体制は次々に消滅していきます.
 ただ,農村に関しては従来通り,村方三役がそのまま村長や区長として横滑りし,農地の集積を経て地主として資本を蓄積し,一部はその資本を元手に,商売の世界に打って出たり,政治の世界に打って出たりした訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/01 23:07


 【質問】
 封建制の時代って,年貢として収める米が今でいう税金みたいなものだったんですよね?
 そうなると,武士は野菜や肉等はお金で買ってたんでしょうか?
 そして,武士は米を売ることによって貨幣を手に入れてたんでしょうか?

 【回答】
 江戸時代はそうですね.
 まあ,あまり肉は買わないと思いますが.
 あと,野菜は屋敷内で作ってたりとか.
 諸藩はともかく幕府の場合は,相場を決めて最初から一部を現金支給もありました.

 当時給与される米は,給与の性質上2タイプあって,どちらもあまり質は良くないんだけど,特に片方が酷い.
 それで普通はややましな方を食べて,悪い方を売却.
 けちというか節約家は反対だったとか.

 換金相場を世情に疎い生粋の武士は気が付かなかったけれど,将軍の愛妾の弟が旗本だったかに登用されて,そこは少し前まで町人だからあの相場は変だって思って,弟→愛妾→将軍のラインで将軍の知るところとなり,勘定奉行だったかが叱責されたとか.

 食い物とか給与の話は,何時の世も切ないですね.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
「蔵元・掛屋は大名が蔵屋敷に送った年貢米の管理や売却などを行い,札差は旗本・御家人が俸禄としてもらう蔵米の売却を行った」
とありますが,意味がチンプンカンプンでわかりません.
 どなたか中学生にでも分かるように教えてください.

 【回答】
 中学校の教科書にもこうやって書いてあるような気がするが.

蔵元:
 大名・大身旗本の蔵屋敷物品の管理および蔵米の公示・落札を行う責任者.
 蔵屋敷は大阪が有名だが,他の地域にもあった.
 藩役人(武士),米問屋・両替商(商人)がやる二通りのケースがあったが,普通は商人.

掛屋:
 大名・大身旗本の蔵屋敷物品の出納を行う実務者.
 落札者からの手付銀・残代銀を受け取る会計担当なので両替商が行うことが多かった.
 責任者である蔵元と兼務していることもあった.

札差:
 幕府から旗本・御家人に支給される蔵米の売却や,蔵米を担保に融資をした商人.
 武士がやることはない.
 かつて国技館のあった浅草の「蔵前」には幕府の米蔵があり,この札差たちの店が並んでいた.

日本史板
青文字:加筆改修部分

 大名は大坂などの蔵屋敷に自国でとれた米を輸送し,蔵元や掛屋と呼ばれる職業の町人に,その管理や売却を任せた.

 武士は札差と呼ばれる職業の町人に,給料として支給された米を現金に交換する作業を任せた.

ぴーす ◆TfYI6zaOr. in 日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 江戸時代から食品の偽装はあったのか?

 【回答】
 日本の食料自給率は40%未満だそうです.
 ついでに,周りを海に囲まれた我が国ですが,魚介類の自給率ですら,自国で賄えずに60%程度しか有りません.
 世界中の海に棲息している魚介類は3万種に上りますが,その内日本近海で利用されている魚は約350種類.
 FAOの報告書では,日本近海と言うのは,
「日本を囲む海は,黒潮と親潮のもたらす水産資源に恵まれた世界で最も生産性の高い水域」
と書かれて居るにも関わらず,です.

 かつては日本の漁獲高は1,000万トンを超えていましたが,現在は全盛期の半分ほどに落ち込んでいます.
 これは世界全体の海の汚染,乱獲による水産資源の枯渇,世界的な燃料費の高騰と利益率の低下など種々の要因によるものです.
 例えば,最近よく言われている鮪にしてからが,その漁獲量,消費量,輸入量とも世界一.
 世界の鮪の漁獲高のうち,全体で3分の1を日本は消費しています.
 段々,鮪も漁獲高を制限されて来つつありますが,その需要は旺盛で,全く留まる所を知りません.

 日本近海は生産性の高い水域であるにも関わらず,消費がそれを遙かに超えてしまっています.
 だって,コンビニなんかで色々売られている弁当とか,回転寿司屋,ファミレスなどを始めとする低価格を売りとする外食産業が隆盛を極めていますもの.

 で,こうした産業では,一定時間経過するとそれは即座にゴミ箱行きとなります.
 従って,残飯も膨大な量に上る,と.
 此の儘,漁獲高制限を設けずに突き進むと,2048年には世界の水産資源の凡そ9割以上が絶滅すると言う研究発表もあり,水産庁の発表では,現在,日本近海の水産資源の内,既に半分近くが枯渇状態となっているそうです.

 後,日本の水産資源の自給率低下の背景にあるものは,もう一つ,消費者の好みです.
 今年は鰻なんかの国産偽装が話題となりましたが,鮪や鮪加工品なんかでは,農林水産省が調査した所,約3,000箇所調査して,300箇所近くで不正表示が見つかりました.
 率にして10%近くに上ります.

 この内,最も多かったのが原産地の不正表示です.
 JAS法では,一般向け生鮮食料品に関しては,原産地の表示が義務づけられています.

 でも,ちょっと待って下さい.
 例えば,鮪なんかは遠洋漁業で獲れますが,大西洋のカナリア諸島沖で日本船が釣った鮪は原産地が例えばカナリア諸島となるでしょうか.
 答えは,ならない,です.
 つまり,その表示は船籍のある国が原産国となり,日本船が大西洋で釣ってもこれは「国産」です.
 逆に,台湾船が日本近海で釣っても,それは台湾に持ち帰られたものとなれば,「台湾産」となります.
で,同じ場所で釣ったとしても,片や日本船で釣ったから「国産」であり,外国船が釣ると「外国産」となります.
 日本の消費者は,「賢い」ですから,国産表示があれば台湾産より確実に売れます.
 なので台湾産ではなく,ラベルを国産と張り替える事が横行する訳です.

 これは我々日本人が他の日本人に馬鹿にされていると思うんですがね.
 それだけ最近の日本人は味覚が無くなってきた証拠ではないか,と.

 同じ様に,日本の国内で売られている魚には,偽物が少なくありません.
 JAS魚介類名称ガイドラインでは,「この名前は禁止」と書かれて居るものもありますが,そうすると,業者はそれを避けた名前を命名してしまいます.
 で,「賢い」日本の消費者達はそれに騙されてさも本物の様に有り難がって買う訳です.

 まぁ,魚介類の名前というのは,学名,標準和名の他にも,市場名,地方名,ブランド名などがあって区別しにくいものだったりする訳ですが….
 黒鮪の場合は,市場では本マグロであり,シビとも呼ばれますし,幼魚は関東や中部ではメジ,関西や四国ではヨコ,ヨコワとなります.
 学名は完全にラテン語ですから,そんなもの製品名表記に書いたって誰も判りません.
 Couger myriasterなんて書かれたって,これが真穴子とは誰も判りませんわな.
 標準和名は発音しやすく,意味を理解しやすい,記憶しやすいと言うポイントがありますが,これとて,日本魚類学会では可成り統一されつつありますが,明確な規則がないので,図鑑毎に違ったりするケースもあります.
と言っても,「ホッコクアカエビ」と聞いても誰も判らないでしょうね.
 これ,市場で言う所の「甘エビ」の事です.

 例えば,泉鯛とかチカダイと言う名で呼ばれているものがありますが,これは真鯛とは全く関係のない魚で,実はナイルティラピアと言う淡水魚です.
 海の魚と思って居るものが,実は淡水魚だったりする訳で,それが素知らぬ顔して「鯛」として売られている,或いは食べられている訳ですね.

 また,黒鮪なんてのは高級魚の一つですが,関東で「万鯛」と言う名前で売られている場合もある魚は,赤身の寿司種やネギトロの材料としても使われています.
 これ,鮪延縄漁で混獲される「アカマンボウ」(と言っても,翻車魚とは別の種類ですが).
 同じく,混獲される「ウロコマグロ」と言うのは,鮪の代替品として研究されている魚です.
 因みに,この魚の名称は「ガストロ」と言うもので,丁度,これを日本船が漁獲し始めた頃にCuba革命が起きて,カストロが有名になった事から,この名前が付いたとか.

 鰹のツナ缶詰に使われているのは,実は鰹ではなく,アロツナスと言う魚だったり.
 最も,鱸目鯖科ですから,鰹と親戚なので,ホソガツオと言う和名もありますが….

 他にも,赤魚鯛と言う魚もあります.
 これは高級魚ですが,一文字少ない「赤魚」は,赤魚鯛の事ではなく,ハゼ科の赤魚やタイセイヨウアカウオである事が多かったりしますし,市場で「赤魚」と言えば,「アラスカメヌケ」の事.
 国産品は北海道で水揚げされ,それは刺身にも使われる高級魚なのですが,輸入品は西京漬けや醤油漬け,干物などに使われるもので,こちらは安価な品となります.

 それはそうと,江戸時代から偽装なんてのはあった訳で.
 江戸時代初期の「江戸前」の代表は,実は鰻だったようです.
 とは言え,鰻の値段は当時から高く,一般庶民は滅多に口に出来ない代物でした.
 そこで,数が多くて人気がなく,安かった穴子が注目され,今では「江戸前」と言えば穴子を指す様になりました.

 で,時代は下って21世紀.
 今,国産の穴子は少なくなり,今や各国から輸入されています.
 その代表格が,マアナゴではなくマルアナゴと呼ばれるもの.
 実はこの魚,ペルー産ウミヘビ科のアンギーラと言う魚.
 海蛇と言えば,爬虫類の蛇を思い浮かべる人もいるかも知れませんが,こちらは鰻目ウミヘビ科ですのでご安心を.
 とは言え,内臓を抜いて頭を除去すると全く穴子と見分けが付かなかったりします.

 ところで,JAMARCは,独立行政法人水産総合研究センター開発調査センターの略称ですが,この団体では,世界中の魚介類を調査研究し,今まで顧みられなかった魚を新水産資源「開発魚」として提案しています.
 ガストロとか紋甲烏賊の代用品であるアメリカオオアカイカなんかも,この「開発魚」です.
 でも,平目の代用品であるオヒョウの様に,既に漁獲制限が為されていたりもしていますが….

 そう言えば,そろそろ正月.
 イクラが無い場合は,手作り人工イクラなんぞ如何でしょう.

 それでは,ケミカルクッキング,スタート!(ぉ.
 材料はアルギン酸ナトリウム,塩化カルシウム,容器,食用色素,それにストローです.

1. 500mlの水に対し,小匙2杯のアルギン酸ナトリウムを溶かし,3~4%のアルギン酸ナトリウム水溶液を作ります.
  この時,非常に溶けにくいのでよくかき混ぜるのが重要です.
2. 1.の水溶液に,食用色素(食紅など)で色を付けます.
  青や黄色を使えば,更にカラフルなイクラが出来上がります(ぉ.
3. 塩化カルシウムは凡そ10%を目安に水に溶かします.
  目分量で構いませんが,濃度が低すぎると固まらないので注意.
4. アルギン酸ナトリウム水溶液をストローで1滴ずつ塩化カルシウム水溶液に落とします.
  塩化カルシウム水溶液中にアルギン酸ナトリウム水溶液が球状に固まれば完成です.

 因みに,これは「人工イクラセット」と言う名称で市販されているとか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/29 22:18


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