c

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆国力 Nemzeti erő
<◆江戸時代(徳川幕府期)
戦史FAQ目次

江戸美人


 【質問】
 江戸時代の知行地は,なぜ飛び地が多くなったのか?

 【回答】
 世田谷は,其の昔,滋賀県でした.
 …と言うのは冗談ですが,世田谷にある豪徳寺は,彦根井伊家の菩提寺で,一帯はその領地になっていました.

 で,その近くに,吉田松陰を祀った松陰神社があるというのが何とも皮肉なのですが….

 江戸時代中期(正徳~享保年間)を例に挙げれば,全国の総石高2,600万石のうち,420万石を将軍が天領として確保しています.
 残りの石高のうち,万石以上の大名と言われる領主260名には1880万石の領分を与え,万石未満の旗本と言われる地頭に2,260名に260万石の知行所を,文官を含む御家人580名には5万石分の給知を与えました.
 残余の武士は,いずれも蔵米取りになります.

 大名家は更に,直轄領を50%として残りを上級・中級の藩士に対し,知行所を与えると言う構図.
 但し,時代が下るにつれ,領主や地頭以外の者は蔵米取りになっていってますね.

 別の統計ですが,旗本のうち2,264名は地方取りで262万石,切米取りは2,836名で61万俵余になっています.
このほか,例外的に現米取り,扶持取り,さらに給金取りという構成です.

 武家以外では,公家に禁裏御料3万石,院御所領・門跡領5.5万石,堂上家領4.1万石,寺社に対し寺領14.4万石,社領11.9万石が進献,寄進されています.

 大名の場合,国持大名,准国持大名とかは,大体一円支配を確立しているのですが,それでも,遠国の譜代大名などでは,将軍の近くに領地を賜るケースがあり,冒頭の井伊家なんてのはその典型例だったりします.
 万石程度の大名で,一円支配が可能というのは,結構少なく,多数は,小さな村々を合わせてやっと万石と言う場合が多かったり.

 また,領地をややこしくするのが知行取りの旗本の存在で,正徳2年では,40カ国,3,677知行所が犇めいている状態になっています.
 このうち,2,921知行所は関東地方,更に武蔵国ではそのうち776知行所と,かなり将軍のお膝元に集約しています.
 次いで中部地方が365知行所,近畿地方が342知行所で,中部は東海道沿い,近畿は畿内に集中しています.
 徳川家が,いざ鎌倉となった時に,どこから兵を集めるか,と言うのがよく分かる配置です.

 ちなみに,これらの領地給付は,1カ所だけと言うのが知行取り旗本の半数を占めている訳ですが,2~6カ所の者が43%になっていたりするので,領地が結構ややこしくなります.
 例えば,武蔵国の山口村の場合,旗本の知行所が9カ所,豊島村では,旗本の知行所が実に16カ所,天領1カ所と言う状態.
 領主が最も多かった村は,下総国安蘇郡赤見村で,この村は3,000石と石高が大きかった所為もあって,21名もの領主が存在していますね.

 こうした旗本の知行所では,各旗本毎に法度を制定していますので,例えば,この小字では,Aと言う旗本の諸法度が適用され,道一つ隔たったこの小字では,Bと言う旗本が出した諸法度が適用される,と言う具合.

 実際にはそこまで厳密な適用は行われなかった様ですけどね.
 しかし,知行換が結構頻繁だったので,年貢を適用する方も頭痛かっただろうな.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月14日
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 江戸時代の一両の現在での貨幣価値を教えてください.
 両以下の貨幣の名称と,現在での貨幣価値も,ついでに宜しくです.

 【回答】
 一両の現在価値は簡単なようで難問.
 以前は簡単に米価で算出していたが,このごろは職人の賃金を基準に換算するのがトレンド.
 日銀のHPに記載があると聞いたので,参照されたし.

 また,江戸時代といっても長い.
 始めの頃は,生活感覚で10万円とも100万円とも.
 幕末は,2.5万円とも.
 一両=米一石=一人一年の食い扶持.××藩が何万石とかいうのも,略,人口に近く,いわばその藩のGDP.
 商品経済が進展して米だけではなくなるので,幕末になるほど,正確ではなくなる.(一石=10斗=100升=150kg)
 一両=4分=16朱=...4000文.
 但し両替料が取られるので目減りする.
 銭は,鋳造の種類でも両替料が異なる.

 この他,大阪では銀本位で,両替が発生.両替は相場で変わる.
 銀は基本は重量基準.せんべい見たいに割って使える.
 金一両=銀50匁,後60匁.(1000匁=1貫目=3.75kg)
 以上,うろ憶えの部分があるかも.

(日本史板)


 【質問】
 江戸時代の貨幣制度について教えられたし.

 【回答】
 江戸時代の貨幣は大別して金貨・銀貨・銭貨の3種類があり,これを三貨と呼ぶズラ.
 金の単位は,お馴染みの両・分(ぶ)・朱の3通りあるズラ.
 これは4進法ズラで,1両が4分,1分が4朱だったズラ.
 種類的には大判(10両),小判(1両),二分金,一分金,二朱金,一朱金があったズラが,大判は贈答用であり,市中で流通するものでは無かったズラ.

 銀貨の単位は,貫・匁・分(ふん)・厘・毛で,1貫匁は1,000匁,以下は10進法で表わされたズラ.
 種類的には,丁銀,小玉銀などがあり,それらを組み合わせて目方(重量)で通用させた秤量貨幣だったズラ.
 なので,この銀貨の場合は小さく切って使う事も出来たズラ.
 これを切遣いと言ったズラ.

 18世紀後半になると,これでは不便だと言う事で,銀貨の計数貨幣も現われたズラ.
 明和五匁銀,南鐐二朱銀,一分銀,二朱銀,一朱銀などがそれズラ.
 こうした貨幣が出たズラは,金貨中心の貨幣政策を幕府が取ろうとしたからズラ.

 銭貨の単位は貫・文ズラ.
 1貫文は1,000文ズラ.
 銭貨は,幕府草創当初は明銭である永楽通宝が使われたズラが,次第に寛永通宝の銅銭が大量に出回るとこれに統一される様になったズラ.
 しかし,銅が足りなくなると鉄銭も作られ,また銭の価値が下落すると,四文銭,天保通宝(百文銭)が出回る様に成ったズラ.

 江戸幕府が成立する前の1601年から,徳川家康は貨幣制度を確立させて,全国支配を万全にしようとしたズラ.
 1601年には慶長大判を始め,小判,一分金,丁銀,豆板銀の鋳造が開始されたズラ.
 家康の政策は,1595年に後藤庄三郎光次が京から江戸に下って,駿府と江戸で小判の鋳造を行い始めてからのものズラ.
 この小判鋳造所の事を,金座と言い,江戸城は常盤橋門の外に置かれたズラ.

 1601年には,更に銀座が設置されたズラ.
 最初の場所は,西は銀の流通で成り立っていたので,伏見が最初ズラ.
 1606年に駿府にも置かれ,1608年になると,伏見の銀座は京に移転しているズラ.
 江戸の銀座は,1612年に駿府から移転したもので,役人達には京橋の南に4つの町が与えられたズラ.
 これらの町は新両替町と呼ばれたズラが,その別称が銀座となって,今も残っているズラよ.

 で,銭座はどうなんと言えば,銭座は常設ではなかったズラ.
 銭座は民間の請負事業として,必要に応じて一定量の鋳銭を行い,それを終えると閉鎖する事になっていたズラ.
 しかし,これでは各所での鋳造技術に差がある為,品質の統一が出来ず,1765年に常設の鋳銭定座を作り,これを金座の兼務とし,1768年には銀座にも銭座を設ける様に成ったズラ.

 江戸幕府開府まで,銭はどうなっていたか,と言えば,永楽銭が主だったズラ.
 金1両当り米は4石,永楽銭1貫文,鐚銭4貫文の交換比率であり,金貨を見るのは非常に稀で,銭での売買が中心だったズラ.

 江戸幕府が成立すると,金貨,銀貨はすんなり統一できたズラ.
 しかし,銭貨はそうはいかなかったズラよ.
 第1には,銅銭の種類が多く,中心は永楽銭を中心とした中国銭であったからと,2つ目は各地の戦国大名達が自領で通用させる為の私鋳銭を作らせたからズラ.
 この為,銭貨を流通させるには,銭を選別して用いる撰銭を行っていたズラ.

 これを解消する第一歩が,1606年の慶長通宝の鋳造ズラ.
 そして,永楽銭の通用禁止と撰銭の禁止を布告したズラ.
 それでも永楽銭の使用と撰銭は跡を絶たなかった為,1608年に改めて禁止令を布告し,金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=鐚銭4貫文と言う交換比率を定めたズラ.

 1619年,秀忠の代に元和通宝が鋳造されたものの,数が多くなくて銅銭統一に失敗したズラ.
 1636年の家光の代に本格的な鋳銭事業が開始され,寛永通宝が作られて全国に流通していく様に成ったズラ.

 1636年6月に銀座役人の秋田宗古に命じて芝浜手と近江坂本に銭座を設け,寛永通宝の鋳造を実施,通用令は石谷十蔵貞清が責任を持って通用させる様にし,鋳造の総責任者は土井大炊頭利勝が就任していたズラ.
 芝縄手の銭座は,新銭座と呼ばれ,一帯は後に新銭座町と呼ばれる様になったズラ.
 この地は浜御殿(今の浜離宮庭園)西側に当り,会津23万石松平肥後守屋敷の脇にある一帯ズラ.
 元々は,葦の群生する海辺で,将軍の鷹狩りの場所だったズラ.
 この地が選ばれたのは,銭の材料や燃料を運ぶ船の便が良いのと,土地を汚染する公害が出る場所を限ろうとしたからと言われているズラ.

 江戸ではもう一つ,浅草橋場にも銭座が設けられたズラ.
 橋場の銭座は隅田川沿いで,白鬚の渡しの直ぐ近くズラが,1656年にもこの地で鋳銭が行われたズラ.
 この地は表約83m,裏約40mの土地で,付近一帯が開発されて家作が許されて年貢を負担する町と成ったズラ.
 そして,一時町人所有地だったズラが,寛政改革で再び幕府召上げとなり,砂糖製法所,油絞り所として利用され,再び銀座役所の土地と成ったズラ.
 流石に,此処で銅を鋳造したので,鉱害で耕作が出来なくなってしまったからズラ.

 寛永通宝を製造する際に,中心と成った技師として,鳴海兵庫と言う人物が居るズラ.
 鳴海兵庫の先祖は,鳴海刑部賢勝と言う人物で,応永年間(1394~1428年)に足利公方義持に対し,朝鮮国から齎した永楽銭3,000貫文を献上し,これでは通用に不足であるとして,京都で銭奉行を命じられ,永楽銭の増鋳を始めたとされている人物ズラ.
 以後,2代目の治部重勝,3代目の兵庫則賢も鋳銭の業務をしていたズラ.
 1510年に11代将軍足利義澄に若君が生まれ,その母が会津の蘆名の娘だった事から,母子が戦乱を避けて会津に下った折,則賢もこれに従ったと言われ,この若君が後に出家して江戸崎(茨城県稲敷郡江戸崎町)の不動院住職となったが,この時,4代目の刑部重則が「境内支配役」となったズラ.
 で,この若君が,後の天海僧正と言われる人な訳ズラ.

 重則は天海と分れた後浪々の身となり,水戸へ行って佐竹家から捨て扶持を貰っていたズラ.
 5代治部重武,6代兵庫賢信も同様に水戸に住していたズラが,天海に江戸に出てくる様に言われ,兵庫賢信が江戸に出た所,家光から先祖代々銭奉行をしていたのであるから,幕府の為にも銭を作れと言われたとされているズラ.

 序でに眉唾の話ズラが,寛永通宝の鋳造は,家光が夢を見た事から始まったとする説もあるズラ.
 家光が見た夢の内容は,お城の南に当る所に「御居城替ル」事になり,其所へ「御歩行にて」出かけられると言う者だったズラが,この夢を不思議に思った家光は,春日局を介して天海に判断を仰いだズラ.
 天海が言うには,「御居城替ル」は「代替ル」と言う事で,「御歩行」とは「御両足」で行かれる意味ズラ,と.
「代」とは代物の事で,銭の事ズラ.
 銭は両足とも言い,国中を良く走り回る事から名付けられたと言われ,銭の事を女房詞で「御足」と言うのも同じズラ,それに足袋を何文とするのも同じ意味ズラ.

 つまり….
「将軍が見た夢は全て金銀の事であり,新たに銭を鋳造する事で治世を安んじ,「泰平楽」にて子孫繁栄の吉事だったんだよ!!!!!!1」
「なんだってーーー!!!!!1」
と言う訳で,早速,土井利勝を呼んで新銭を吹く事と,座の場所や鋳造の鋳物師は大僧正に任せる事にしたと言うことズラ.

 天海は,東叡山の寺号と当時の年号に因んで,銭の名は「寛永通宝」と名付け,吹座は家光の夢にあった城の南と言うことから,芝の網縄手に場所を見立てたズラ.
 で,鋳物師は天海僧正の推挙で,鳴海兵庫が銭座頭領を命じられ,試し銭100貫文を鋳立て,将軍の上覧に備えて土井大炊頭から,褒美として樽肴,時服と金25両を拝領したズラ.
 この時の銭100貫文に対する金25両と言うのは,銭4貫文に対し金1両に交換する様にと言う謎かけだったズラ.

 その後,鳴海兵庫は将軍家若君誕生の用意として,金銭,銀銭を準備する事を命じられ,数や秘法は天海から伝授を受けていたズラ.
 1641年に若君誕生の際には早速それを献上し,時服・黄金を拝領したほか,5歳で若君が元服し,大納言家綱となった際にも金銭・銀銭を鋳立てて拝領物を頂戴しているズラ.

 しかし,蜜月関係は余り長くは続かなかったズラ.
 兵庫の子である平蔵質重は父と共に江戸に来たズラが,天海没した後は,その業績に銭座の話は出て来ず,8代平蔵範明,9代平蔵範重,10代平蔵圓賢と続くのに,定まった仕事は無く,東叡山御門主様え御代々御目見仕り,御年頭御礼に上がると記されているだけだったりするズラ.

 それにしても,語尾にズラを附けると,銭ゲバではなく殿馬になるズラね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/09 22:21

 幕府は金貨・銀貨の国内統一を行ってきて,1636年からいよいよ銭貨の国内統一を開始する事になりました.

 11月から,「寛永の新銭,古銭同時に取り遣り仕り候様に,在在所所申付けべきの事」と号令を発し,寛永通宝と従来の銭を差別無く通用させる様達しを出しています.
 更に1637年からは水戸,仙台,三河吉田,山城高田,長門,備前,豊後,中川内善領内に「鋳銭所」を設置し,大量生産を進める様命じ,鋳銭を希望する場合は,領内の都合の良い場所で鋳銭をさせる様にとも令しています.

 金銀については幕府が鋳造権を独占していたのですが,銭は鋳造権を独占することなく,全国的な生産と流通を企図していました.
 こうして全国で鋳銭が進むと,関東筋や江戸表で流通していた,奥州相馬産の鐚銭は通用停止となります.

 ところで,1650年代まで,江戸市中には金銀両替を行う両替商は,日本橋駿河町と両替町しかありませんでした.
 従って,小判を一分金,二分金にするとか,銭の両替,銀貨を少々銭に替えるなどといった時にも,本郷や四谷,芝,浅草であっても,日本橋南通町,北通町に来る様になっていました.
 この辺りには,露店の銭売りが数百人単位で並んでおり,それぞれが肩に3~4貫文の銭を掛けて両替をしていました.
 ところが,この銭売り,中には悪質な者も居て,通用停止の鐚銭を混ぜたりしていました.

 その後,隙間商売というか,日本橋青物町に小両替屋が出来,粒銀でも一分金でも自由に替えられる事から,庶民は挙ってこの店に来る様になりました.
 この成功を見て,彼方此方に小両替屋が誕生していきます.
 享保の改革では,その数を600軒と定め,大部分は番組両替屋と言う銭屋の組合で,江戸市中を27組の番組に分けて編成されていました.
 これらの店は大規模な本両替屋,三組両替と言う両替専門店とは異なり,何かの商売の兼業であることが多かったりします.

 さて,江戸時代の金・銀・銭でややこしいのは,金銀貨と銭貨の相場が時々の需給関係で変化した事です.
 1680年代には神田の佐竹屋敷の前に市中の銭屋が毎日の相場を立てて,それを基準に両替を行っていました.
 その後,日本橋青物町の辻でも相場が立つ様になりますが,後に日本橋駿河町に「両替屋会所」が設置され,本両替町,駿河町における金銀と銭の相場と市中の相場を統一する様に成っていきます.

 この相場は,元禄から享保期(1688~1736年)は1両に付き3~5貫文,元文~文化期(1736~1818年)が1両に付き5~7貫文,文政以降は常に6貫文以上となっていました.
 これは,金銀貨の質が悪くなる以上に銭貨の質が落ちたからで,この為,銭貨を一般的に使用している庶民達の生活は圧迫された訳です.
 特に,天保期には100文銭が発行されて銭相場を大きく下落させ,更に鉄銭や真鍮銭の登場した幕末には,1両に付き10貫文以上に下落して庶民生活は大打撃を被っています.

 元禄からは貨幣経済が浸透し始める頃になります.
 明暦の大火により,銭が大量焼失したり,その後の復興需要で銭需要が増加し,亀戸の銭座では1668~1683年まで鋳銭が行われ,背面に「文」を刻んだ寛永通宝,通称文銭が鋳造されています.
 1674年には伝馬役の助成金として新鋳銭25,000貫文の拝借を願い出ています.
 この様に,銭の鋳造が活発に行われていきます.

 1694年の銭相場は1両に付き4貫800文,1695年は4貫500文,1696年には4貫400文とほぼ4貫文前後で安定していました.
 ところが,1695年9月から金銀貨改鋳が行われ,元禄金銀と呼ばれる通貨が出回る様に成り,銭相場の高騰が始まります.
 1696年1月には,1両に付き4貫40文と,前年に比して360文ほど高くなりました.
 幕府勘定奉行荻原重秀は,慌てて亀戸に新鋳銭場が用意されましたが,此処で鋳銭が始まったのは1699年と3年後で,しかも,その銭は薄く且つ質が悪くなっており,世の中では「荻原銭」と呼びました.
 重秀曰く,銭は官製であるから「瓦礫」であっても良いのだ,と言い放ったそうです.

 1699年9月21日,江戸の銭相場は更に上昇の一途を辿った為,他地域への両替と移出は禁じられました.
 翌22日には,江戸の町々に1町当り銭50貫文を払い下げる事とし,町奉行松前伊豆守の番所に参集する様命じています.
 28日になると,10月1日より,払銭の代金を1両に付き4貫文替の計算で計12両2分を,町年寄奈良屋番所へ提出する様に命じています.
 1698年の相場は,1両に付き3貫780文となっていましたが,相場過熱を抑える為に荻原銭を投入しても,それを町中に留めず,他地域に移出するケースが多かった様です.
 何しろ,従来の寛永通宝に比べると荻原銭は質が悪かったので,江戸市中で忌避されてしまった訳で.
 なお,京でも1699年10月に新銭座の設置を許されて,1700年2月から荻原銭の鋳造が開始されています.

 1700年11月8日,幕府は三貨の両替基準を決定し,通知します.
 銀貨は1両に付き60匁とし,1701年12月までの1年間に限っては激変緩和措置として,1両に付き58匁より高値にしてはいけないと定めました.
 銭も1両に4貫文替の定めとし,3貫900文より高値の取引を禁じました.
 因みに,この年の相場は,1両に付き3貫710文となっています.

 更に12月21日には,銀貨・銭貨の流通が甚だしく悪い事から,他国への移出禁止,公定値段より高値での売買禁止,貯蔵の禁止を通知し,払底の理由を申し出よと市中に命じています.
 恰も時は歳末で,銭不足は貸借勘定を不可能にする為,1702年12月10日には浅草御蔵で1町に付き銭100貫文を払い下げる事とし,14日に1両に付き銭4貫文の相場で代金を納入させています.

 1705年8月になると銭相場は1両に付き4貫880文と下落しました.
 しかし,11月になると歳末に於ける銭不足・騰貴を予防する措置として,小判切賃と銭の騰貴禁止,銀も1両に付き58匁より高値にしてはいけない旨の通知が出されています.

 1708年閏正月28日,幕府は銭貨通用の円滑化の為と称して,京銭座での大銭鋳造を予告します.
 大銭は,従来の新銭の10文に当るとし,4月から取り交えて流通する事にすると共に,銭相場は3貫900文~4貫文の間で御定相場とする異も命じています.
 通称,宝永通宝と言われた新しい大銭は,荻原銭を鋳造した長崎屋忠七が若年寄稲垣重富に取り入って許可を得たもので,荻原重秀は必ずしも賛成ではなかったと伝えられています.

 大銭の直径は1寸2分5厘,重さ2匁5分1厘であり,1文銭に比べると10倍の価値とされるのに,大きさ,重さは3倍程度しかなく,大銭は庶民達の不評を買いました.
 実際,大銭の価値は10文としては通用せず,7文程度で取引されています.
 それも,幕府が躍起になって10文として通用させようと言う所,ようよう7文で庶民側が妥協したものであって,当初から歓迎されないものでした.

 1709年正月10日,将軍綱吉が薨去します.
 それと共に,生類憐みの令などが廃止されましたが,大銭の流通も17日を以て「下々迷惑」であるとして通用を停止してしまいました.
 この間,銭相場は4貫500文より安い相場で推移していましたが,10月からは再び高値に転じ,1710年の各種銀貨の品位低下により,銭相場の上昇は著しく,その上,宝永小判は慶長小判より重量は半分でしたが,品位は元に戻ったので,三貨の交換比率が変動する事になり,乱高下を繰り返すことになります.

 1712年9月,新井白石と対立してきた勘定奉行荻原重秀は罷免され,10月には将軍家宣が薨去し,銭相場は新たな展開を見せる事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/10 22:17

 1712年9月,勘定奉行荻原重秀が罷免され,新井白石が経済政策をも握りました.
 10月,銭相場はこの間上昇を続け,幕府は銭貨を退蔵している者がいるとし,市中に調査を命じました.

 1713年2月9日から,新井白石の建議に基づき,銭貨の抜本改革が行われます.
 先ず通用の新銭鋳造を停止し,大銭新鋳の願いも認められなくなりました.
 この新銭とは荻原銭の事です.

 1714年5月には是迄の品位を落とした金銀貨の全てを否定し,慶長金銀の品位に復す事が定められました.
 すると,新金銀の通用以前に銭貨は急騰し,7月29日,幕府は銭価の騰貴を禁止する命令を発します.
 8月29日から正徳新金銀の交換が開始されますが,武士の間では流通していない為,円滑な流通を令すると共に,銭高値禁止も再通達しています.
 しかし,銭貨高騰は続きます.
 所謂グレシャムの法則で,新金銀が忌避され,銭の需要が増大し,買占めが行われた事で市中に出回る銭貨が払底し,銭相場が高騰し続けた訳です.
 9月7日,浅草に鋳銭場設置の為,京極高栄に防火役が命ぜられ,21日に勘定奉行水野森美を始めとして目付・勘定吟味役等に鋳造の命が下り,22日に呉服師茶屋四郎次郎,亀谷源太郎,三島吉之進,上柳平太郎,茶屋長曽に鋳造が請負わされました.
 新銭は寛永通宝と同様に製されるべきとされましたが,これが出回るまで12月には再び銭貨抑制の町触れを出さねばならないほどでした.

 この時の銭相場は,1714年5月16日が乾字金1両に対し売値で3貫50文,買値で3貫70文,これが1715年正月には3貫文となっています.
 同年夏には幕府が払銭を実施し,売値3貫350文,買値3貫480文とやや安くなっていますが,1716年12月には幕臣に対し,新銭が売り渡されています.
 この新銭売渡しは,高家衆・御側衆・諸番頭・諸物頭・御役人・御番衆・医者・小役人までの1,000石以上の者に対し5両まで,1,000石未満は2両までとしており,与力・御徒は1両まで,坊主衆同心以下は金2分までとなっていました.
 但し,万石以上の大名と寄合小普請は除かれています.
 つまり,貨幣経済の浸透に伴い,銭貨の高騰で旗本などの武士層が困窮に喘いでいる状況を救う為の措置で,以後行われる幕府の銭相場対策は,全て武士の生活に関連した対策でした.

 こうした銭相場対策の御陰で,ほぼ1両4貫文台で推移していました.
 しかし,享保の改革はあくまでも米価対策であり,元禄以来発展してきた貨幣経済への対応は,吉宗の頭の中には1736年まで存在していません.

 1736年5月12日,金銀改鋳の町触(惣触)が発せられました.
 これは,次の5箇条の項目が含まれています.

――――――
 1. 世情金銀不足の為通用不自由と聞こえるので改鋳を行う.
 2. 吹改金銀の交換比率は,慶長金,正徳享保の新金は100両に付き100両,乾字金200両に付き100両,慶長銀・正徳銀新銀10貫目につき10貫目とし,この比率で差別無く通用させる事
 3.但し,引替金100両に付き65両,銀10貫目に付き5貫目の「増歩」を附けて従来の金銀と交換する.
 4. 引き替えは町人に委任して行うから,武家を始めとし,各人相対にて交換する事
 5. 従来の金銀の数量は判明しているから,貯蔵せずに引替える事.退蔵者は処罰され,退蔵銀は従来通り潰銀として扱う事.
――――――

 この金銀貨は元文金銀(文字金銀)と称され,引替は6月15日から行い,金銀座との仲介は為替両替屋が行う事になりました.
 この引替えに当っては,諸入用として金1両に銀1分,銀100匁に銀1分5厘宛を,金銀主より両替担当者に支払う事としています.
 両替担当者とは,駿河町泉屋三右衛門,本両替町中川清三郎,同海保半兵衛,同谷勘左衛門,本町二丁目富山与惣兵衛,本町4丁目竹川彦左衛門,長谷川町荒木伊右衛門,駿河町三井次郎右衛門,三井三郎助,三井元之助の10名で,為御替御用達の内の「10人組」と「三井組」の成員でした.

 引替所は日本橋通3丁目の表5間余,裏8間の場所を借りて設置され,手代15名,小遣5名,為替両組からの諸手代10名,定番人5名,下男5名を配置して業務を行う事になりました.
 また,25日から見本金銀を買い取り,江戸諸問屋,為替両組,両替仲間,米問屋に分配すると共に,全国に送付する事と成りました.

 幕府側の改鋳担当は,老中松平乗邑を筆頭に,若年寄本多忠統,町奉行大岡忠相,勘定奉行細田時以で,大岡と細田が直接の指示を与えていました.
 そして,2名の下で勘定組頭八木半三郎,青木次郎九郎,菊池文五郎が従い,勘定の遠山半十郎,北条平右衛門,鈴木政之丞,荻原喜四郎,伊藤左内,横山長十郎が実務を担当していました.

 江戸での引き替えは金でこそ100万両が引替えられていましたが,銀は1500貫目で金換算で数万両と予想外に少なかったりします.

 京都でも新銀吹替を行い,江戸との振合いで引替所を設ける様命じられた為,7月2日に三條通烏丸東え入町の三井元之助所持の家を使用し,11日から引替えを開始しました.

 しかし,銀貨の引き替えは順調に推移せず,7月には江戸市中での通用銀が不足する事態を招きました.
 この為,幕府は為替両組に対し,文字銀3000貫目の払下げを引受けさせようと意図しますが,仲間側ではこれを拒絶,脇両替にも大岡忠相の要請を行いますが,これを拒絶しています.
 結局,町年寄奈良屋が間に入り,駿河町・両替町の本両替屋に引受ける事を求め,両町で200貫目だけ,7月10日に1両51匁余の相場で引受ける事になりました.

 大坂でも銀の引替所が作られ,9月23日から引替が開始されますが,10月から始まった金の引替は10月9日と10日で約6万両の引き合いがあったのに,銀は167貫目と更に少なく,幕府の担当者を嘆かせるほどでした.

 何故,銀の引替が少なかったのか?
 これは改鋳後の金銀貨の品位に問題があった訳です.
 金に比して銀の交換比率(増歩)が小であることと,品質の低下が銀の方が大きかった事が挙げられます.
 即ち,正徳金銀に比較しても文字金は1割8分5厘の品位減ですが,文字銀は3割4分もの減になっています.
 こんな品位の下がった貨幣を持つ事は商人にとっては余り魅力的なものではありません.

 幕府の意図としては,銀貨の相対的価値の引き下げにあったので,こうした施策を採っていました.
 金の貨幣価値を相対的に引上げる事は,江戸に在住する武士階級の米穀販売者としての側面と諸商品購入者としての側面の両面からの保護に役立つと考えたのです.
 元々,武士階級は米を経済基盤にしていました.
 そして,米価を上げる事が武士階級の安定にとって至上命題だった訳です.
 米価が上がれば,他の製品の値段が上がろうが武士階級は然程困りはしませんから….

 享保の改革による新田開発が増大し,米の生産量は大きく伸びます.
 しかし,人口増加率は安定しており,消費量はそんなに伸びる事はありません.
 と言う事は,逆に言えば米価は下落する方向に行く訳で,一方で貨幣経済の浸透は,何をするにも銭が必要となり,武士の生活を圧迫してしまいます.
 改鋳は,吉宗が中心と成って行った享保の改革による米価の引上げ政策が悉く失敗した為の最後の切り札となった側面がある訳です.
 実際,この改鋳により,米価は倍に跳ね上がり,武家は大いに潤ったと言う記録があります.

 新旧金銀の通用がオーバーラップする事で,町民生活に様々な混乱が生じています.
 特に月払いのものに関しては,改鋳が行われ相場が変わると支払額が変わる為,延滞が頻発しました.
 何しろ,例えば地代では,7月まで文字金勘定だったものが8月以降5割増になるなどした為です.
 支払いの出来ない店子や地借人は,引っ越しさせる旨の町触れも出されています.

 また,銭貨の相場は改鋳直前から高騰を始めました.
 銭貨相場は5月14日には相場が立たず,書上不能の事態にまで陥っています.
 9月になると,銭相場は文字金相場で3貫文前後の急騰が続き(前年同期は1両5貫文),12日から御定相場1両に売値3貫150文,買値3貫170文としますが,これも守られませんでした.
 19日には,北町奉行稲生正武の番所に町中名主が呼ばれ,勘定奉行,目付同席の上で銭高値に付き,囲銭をする者,売溜銭を払出さぬ者,諸国・上方筋に積登する者の告発を命じられ,24日にはその告発の結果銭屋13軒が摘発されています.
 更に,浦賀・中川と言った関所では銭改めが実施され,諸国への銭流出禁止強化が実施されました.
 これは従来の商品決済が金銀ではなく,銭で行われていた為で,在方の銭相場が江戸よりも高い為,その差額で儲けようという商人達の動きがあった訳です.
 この他,関八州と伊豆,甲斐に対し,銭を江戸に出す様,令を発しています.

 この間,鋳銭は立ち後れ,1736年7月28日から先ず武士を対象に開始され,1両3貫100文の相場のものを3貫600文にて払下げを実施しました.
 そして,庶民へは8月4日から大伝馬町3丁目で行われますが,これに庶民が殺到し,大争乱となりました.
 27日から銭座に同心が派遣されますが,銭の供給が始まったにも拘わらず,9月の初相場は1両2貫920文~3貫の値が付いています.
 こうした中,奉行所は相場の書上げを認めない暴挙に出て,遂には3組の行事が捕えられ吟味に及ぶと言う状態に成ります.
 そして,奉行所ごり押しの結果,相場は3貫150文になるのですが,この様な圧力下では銭の買集めは不可能となり,江戸の両替屋の大半は売払いを止め,休業する両替屋も相次ぎました.
 結局,12月8日からごり押しの公定相場は引っ込められ,相対相場が復活します.
 この時の相場は2貫800文と,公定相場よりもかなり高いものでした.

 1737年になっても,買値は最高2貫880文,最低で3貫160文となっており,中々銭相場は下がらず,11月21日の町触では,買溜めや在方相場高値の場所への銭運送の禁止,密告の奨励と商人仲間内での吟味を命じました.
 1738年,相場の最高は2貫640文に達し,1739年正月には新金銀の引換所が廃止されました.
 銭相場は,その後も高値安定を続け,下値で4貫文に戻るのは1741年,高値で4貫文に戻ったのは更に2年後の1744年になっていました.

 こうした武家中心の貨幣政策が採られた結果,困ったのは庶民生活だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/11 21:43

▼ 江戸の貨幣制度は,複雑怪奇で,現在の様に「1円」が1円の価値を有している訳ではありません.
 ここ数日幾度も見ている様に,1両が4分,1分が4朱なるのは一応建前.
 実際には,金貨は含有している金の品位によって,銀貨も銀の品位によって,通用している貨幣によって替っていきます.

 更に,銭ともなれば,日々その相場は変わります.
 こちらはモロに金貨や銀貨の変動に合せて変わっていきます.
 その上地域毎に,下手をすれば大名や旗本の領地毎でも相場が変わっていったりします.
 従って,江戸で金銀貨を銭に替え,関東や大坂に持って行って交換して利鞘を稼ぐ輩もいた訳で
 …その代表格が長谷川平蔵だったりするのですが(汗.

 さて,今回の銭の高騰,一般的に銭相場が高くなれば,労働の対価として銭を受け取る町人大衆には有利な面がありますが,銭貨が払底している状況では金詰まりの状況を呈し,反って生活の困窮を招く事になります.
 幕府当局者は当初,銭問題は些細なものと考えていた節があります.
 取り敢ず,新規の鋳銭でそれを払い出せば問題は収まると考えていました.
 しかし,実際には銭の鋳造が遅れ,都市庶民層に重大な影響を招きました.
 この銭の鋳造は,銅の不足から来ています.

 一応,諸国産出銅は,幕府の銅の統制機関である大坂銅座もしくは江戸銀座加役として設置された銅座に相対で買入れる様に触れが出されていましたが,銅の横流しや私鋳銭の鋳造が活発に行われました.
 1739年5月28日,銭座出願者の見本銭鋳造禁止の町触れが出されていますが,これは見本銭に託けた私鋳銭の横行を示している事が言えます.
 その為,苦肉の策として,1739年には摂津加島鉄銭,1740年には江戸押上鉄銭を鋳造すると言った様に,大量の鉄銭を鋳造する事になりました.
 この時,必要とされ,鋳造された銭の総量は約580万貫文と言われ,江戸末期安政期の380万貫文,江戸前期寛文期の197万貫文を遙かに凌ぐ数となっていました.
 そりゃ,これだけの数の銭を吹こうものなら,全国の銅が足りなくなるのは当然です.

 この元文期の改鋳は,幕府側の強圧政策の賜物でした.

 文字金銀引替開始直後の1736年6月26日,大岡忠相の番所に呼び出された海保半兵衛名代平兵衛等10軒の名代人は,新金銀引替後の銭相場高値と小判切賃上昇の理由についての返答が不明確と言う理由で全員入牢を申しつけられます.
 両替屋は即刻閉店し,翌日,稼業に差支える旨出牢を求めますが,町年寄奈良屋から奉行の意向として,相場に差支え不届きであると言うのが伝えられ,急遽開店しました.
 結局この入牢は,大岡忠相が寺社奉行に転任した後の8月19日にやっと出牢が許されました.
 彼等は53日間臭い飯(と言っても,主食や副食類の差し入れは自由でしたが)を喰わされたのです.
 釈放後,彼等は神田明神へ臨時の神楽を奉納し,楼門に文銀5枚を奉加,浅草観音の不動堂に5両を奉納する等の喜び様でした.
 更に,奉行所の与力同心を始め,町年寄・同手代・牢屋医師・鍵番・町名主・同手代に金品が贈られ,これら総費用は191両2分と4匁1分8厘に達しました.

 更に9月12日には両替屋三組行事に縄を掛け,御定相場を認めさせましたが,それでも相場が下落しないと言う事で,24日には所持銭に問題有りとして,銭屋13軒の当主・手代が入牢しました.
 と言っても,彼等の内,100貫文の蓄銭を行っていたのは僅かに2名で50~60貫文程度が殆ど,中にはたった2貫文で入牢という銭屋もいました.
 10月18日,彼等に対し処分が下されます.
 13名の内,家財取上の上遠島が4名,追放が1名,家財取上の上追放が1名,所払が2名,家財取上が1名,追放(結局牢死)1名と可成り過酷な処分ですが,遠島の内2名は100貫文超の蓄財があったのですが,残り2名は50貫文余と必ずしも多いとは言えません.
 これが,「国策捜査」だったのは,遠島処分を受けた4名の内,3名は1742年4月に赦免され,所払の1名は1740年に赦免され,銭屋の商売に復帰しています.

 これらの縄かけは,庶民の不満が高じて打ち壊しに走る前に,庶民の不満を彼等銭屋に被せてしまえと言う考えが勝った為に起きたものでした.

 実際に庶民は困窮しており,だからこそ,市中で地代の滞納と言う消極的抵抗を行っていた訳です.
 落首にも,例えば,表題に「六歌仙」として,「文治安全」の作「吹替の人の心のしほるれは細田まかせを悪しくも云らん」とか,「各(おのおの)こまり」の作「色をみてうろたへるのは世の中の人の心は金にそ有りけり」と言った改鋳に関する批判が出ています.
 「安宅」の中にも「下の大きな損の難儀を初めるこそふしきなれ」と改鋳の意図を見抜き,

――――――
 しかるに将監(松平乗邑のこと),弓馬の家に生まれ来て,侫を大君(吉宗)に奉り,家名を東海の波に沈め…有時は四斗代にあたへもしらぬ春の内に,銭少なき武士並みの立居の音も無き,明石の兎角三月の程もなく,米をあが(上)らせなひく世の,其もくさんもいたづらになりはつる,其身のそも何と言へる思案そや
――――――

と米価公定失敗を非難し,更に

――――――
 けにや思ふ米(まい)叶はねこそ浮世なれとしれ共悪い,なを思ひ返して金吹かへ,すく(直ぐ)成人は引込て佞臣は伊豫(本多忠統)ましのよになりて,萬を大難の事をおこし,四五人のからくりにせめられ,此金てす(過)くさせ給ふへきなるに,只世には金も銭気もなきはす(筈)かや,恨めしの大岡(忠相)や,あら恨めしの丹波(細田時以)哉
――――――

と,老中以下の政策担当者の強引な手口を非難しています.
 更に,名奉行と名の高い大岡忠相についても,「鉢木」の中で,上に無理な事柄でも,
「越前にさはかせ(裁かせ),こんきう(困窮)をかまわす,あきれて算用せす,質そんそん(子々孫々)に至る迄,相違もあらは自害をせう,あん(行灯)ともとほさす(点さず)行詰りて候」
と庶民への弾圧の先頭に立っていた事を批難しています.

 1737年になっても,地代店賃の滞納が多く,諸式高騰で難渋しているとして,町名主連名で3割~3割半の地代店賃の増額を要請し,役船賃銀の支払いにも支障があるとして,川舟役銀並びに負銀を3割半増とする様に川舟役所から町中の船持への通達が出ています.
 又,銭不足により,日傭座札役銭も滞納が生じ,請負人足差出が困難であるとして,町々に対し,札役銭の徴収を月1回から3回に増やし,集めた銭は鳶頭方jへ集めよと町名主から触れが出されました.
 日雇者は生計が困難となり,これが札役銭滞納,無札者増加となり,日傭座の経営も困難を生じて来ました.
 この他,時鐘役の維持費,伝馬役も維持費が出せず,役儀が務まらないと云う嘆願が出されています.

 米価の維持に汲々としていた幕閣は,こうした庶民からの危険信号にも耳を貸しませんでした.
 町方の方では1733年に行われた打ち壊し前夜の雰囲気になっていました.
 例えば,町奉行が町方を通行していても不礼を行い,町名主に対しても頭巾手ぬぐいを被ったままの者が見受けられたり,平時の町奉行の通行だけでなく,火事の出動にも不礼の者が多く見られると云った具合.
 幾ら幕閣が怒ったとしても,実際に庶民達の為になる様な政策を行っていないのですから,尊敬の念など起ころう筈もありません.

 吉宗やら大岡越前は,名君とされていますが,実際にはそうでもなかったと言う訳で.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/12 22:53

 今日の東京駅はどうせ阿鼻叫喚の巷と化しているであろうから,行く気にはなれませんでした.
 毎回,無くなりかけてからそれを懐かしがって,群がるのを鉄ヲタ用語で「葬式厨」と云うそうで….
 ニュースでは3,000人からが詰めかけたとか….
 良く事故が起こらなかったものですよ.
 まずはこのまま,事故の無いように,そして無事に運行が終わりますように….

 私も結構,夜行列車を使いましたが,開放式B寝台は,最初こそ知らない人たちが寄り集まって微妙な雰囲気なんですが,何となくポツポツ話をして,次第に打ち解けて夜明けの琵琶湖なんぞを眺めてみたりして….
あれを旅情というのでしょうねぇ.
 高速バスやら飛行機ではこの旅情は味わえませんな.

 それにしても,日本の国は,何でもかんでもポイポイポイポイ捨てすぎじゃないですかね.

 さて,元文期に銭不足で痛い目にあった銭相場ですが,18世紀前半は4貫文前後で推移しています.
 1744年の江戸に於ける銀相場は高値でも金1両に付き60匁6分,金相場(大判相場)は大判1枚に付き11両3分で推移し,以後幕末まで比較的安定してきています.
 これに釣られる形で銭相場も安定してきたのですが,大体年末の節季になると上昇を初めるきらいがありました.
 上昇が始まると,一層の上昇を期待して,銭の買溜め,商人の売溜銭囲置きが起き,それを幕府が銭不足の元凶として取締りを行うと言う図式が確立されて行きます.

 この時期,江戸の両替屋と言うのは大別して3種類に分れていました.
 1つは本両替屋と言い,金銀の両替を主に行う大店で,2つ目が三組両替屋と言って,本両替屋と結びつきながら金銀並びに銭の両替を行っていました.
 最後が銭両替屋で,これは他の商売との兼業で1724年に組合の結成を命じられましたので,別名を番組両替屋とも呼びます.
 銭両替屋はその名の如く,小銭の両替を行っていたものです.

 元々は,元禄頃に「銭屋商組」と言う組合組織があり,日本橋,神田,青物町,小網町,新両替町の5つの町で商売していた事から,別名五組とも言われています.
 この五組の主体は古くから5つの地域で商売をしていた三組両替屋であり,更にこれに有力な銭両替屋が加わっていた組織でしたが,宝暦期に新参の,特に新両替町である芝・麻布近辺の三組両替屋が多数加わり,相場形成に対する発言権を有するようになります.
 また,相場形成に際しても,元々は日本橋の四日市町で日々相場が立てられていたのですが,1757年からは番組両替屋(銭両替屋)の各組1名ずつと三組両替行事2名の合計28名で相場を形成し,上がった相場を町奉行に報告する形式に替えられました.

 これにより,上昇傾向にあった銭相場の下落が起き,相場の安定が図られていきます.

 しかし,1760年以後,再び銭相場の上昇傾向が出て来ます.
 切っ掛けは,大坂の銀相場での銭の相対的価値下落ですが,1762年,幕府は大坂金蔵銀の江戸への為替送金を中止し,江戸への現銀送致をするなどの対策を施しました.
 これは決算期に於ける一時的な払底現象だったのですが,これが切っ掛けとなって1763年からは再び銭不足が深刻となり,1764年春には更に事態が深刻化していく様になります.

 これに先立つ1758年10月,1通の願書が宗対馬守から老中に出されました.
 内容は,鋳銭の願書であり,「交易就不順年々と衰微仕,人民之生業薄,国体甚相疲候」と書かれて居ました.
 つまり,朝鮮との交易が年々衰微し,領民の生業も儘成らず,領国の経済が疲弊しているので,1759年から10年間,銅は自前で用意するので,毎年10万貫文を鋳造したいとの要請でした.
 銅は輸出品としても重要なものであり,12月にこの要請は却下されていますが,既に鋳銭が利益を出すと言う認識が各大名家にも広まっていた訳です.

 1765年8月2日,金座への鋳銭定座の町触れが出され,9月15日より本所亀戸村で鉄銭が吹き立てられて,1774年7月までに226万貫文余が鋳造され,西国では,1767年7月から1774年7月まで,伏見の鋳銭定座でも142万貫文余の鉄銭が鋳造されました.
 1766年は未だ鋳銭の効果が出ていませんが,この2月に美濃・伊勢・甲斐の川々手伝普請に際し,御手伝御用場での諸品,銭相場の高騰があり,江戸でも其の影響が出る事を懸念している事が町触に現われています.

 1767年閏9月,浅草蔵役所から札差三町行事に対し,冬切米金渡しの内,勤仕100俵以下の者に銭を支給する旨の通告がありました.
 10月1日には金渡しの内2割を銭で支給し,金1両に付き4貫500文替とする正式通告が為されています.
 これは旗本や御家人に対し銭の支給を相場以下の値段で行う事を意図したもので,更にこの支給銭を払銭にする場合は,両替屋から連日入札を取り,高値落札者に引き渡す事にしています.

 また,鉄銭と共に銀座で五匁銀が鋳造されています.
 元々,江戸は金貨通用圏であり,銀貨は西国との取引でしか使われていませんでした.
 五匁銀を鋳造する事によって,銭4貫文相場では1個332文として扱えるようになり,江戸だけでなく「東国の田舎筋」も重宝すると自画自賛していますが,実は1766年の銀座上納滞金が約14万両に達しており,その滞納金返済の為に五匁銀の鋳造が行われたのが真相でした.
 しかし,この五匁銀でも東国への銀貨通用は不調に終わります.

 そこで勘定吟味役は救済策の第2弾として,1767年11月18日,銀座に対し,「真鍮銭吹方御用」を命じました.
 これは巷に銭が払底していた為の対応ではなく,鋳造の利益を銀座上納銀の滞納返済に充てる為のものでした.
 返済計画では,年間5万貫文を鋳造し,1両に1貫文(並銭4貫文相場)で払立て,5万両(銀3,000貫目)の収入を得て,諸入用を引き,1年目銀1,912貫目余,2年目以降銀1,193貫目余の純益に依って行う計画で,当初24カ年返済の予定であった滞納銀(約8,000貫目)は7年で返済が可能であると言うバラ色の計画でした.

 1768年5月1日に通用の町触れが出され,6月9日には京橋で銭両替屋による入札が行われ,11日に売払われています.
 総額は600貫文で,1両に並銭4貫576文とまずまずの入札額.
 7月25日には銭の成分が決定され,銅6貫800目,亜鉛2貫400目,白鑞800目での鋳立てが決まり,表面の文字は当時有名な書家であった三井親和の筆でした.
 また,銀座は関西方面での鋳銭も企図し,1768年12月に京都で3万貫文を鋳造したいと願い出ましたが,こちらは1769年2月に抵抗が強く却下されています.
 5月には裏面のデザインが変更され,従来の波数が8(21筋)だったものを屑銀減少を理由に4(11筋)に減らし,直径は9分強,重量は1匁4分と並銭の1匁より軽量な仕上がりと成っていました.

 この真鍮銭の流通は,1769年11月3日時点で,箱根までの通用が確認され,12月には一橋・田安両家に対し300両分を落札価格で売り出しています.
 また,幕府役人に対しても10両以上直買したい者は入札値段並銭48文高で売り渡すとし,1770年4月から実施しました.
 更に,銀座の購入物資の支払いにも買取相場より100文安で真鍮銭を使用する事を許可され,暮れには三伝馬町より後藤・銀座の両鋳銭座から月々各々1,000両分ずつ直買したいとの願いが出されるなど,官を上げてのキャンペーンが行われています.
 そして,1770年6月には1万貫文の増鋳が銀座から願出され,5,000貫文が許可されて年間55,000貫文の鋳造が決定しました.

 とは言え,これを繰り返すとどうなるか….
 明和期には,鉄銭である京都伏見銭,江戸亀戸銭は合計366万貫文,水戸・仙台での鉄銭鋳造約120万貫文,銅銭約50万貫文の合計520万貫文が鋳造され,更に真鍮銭の大量鋳造が約230万貫文,合計すると約750万貫文の銭が鋳造された事になります.
 元文期の貨幣改鋳に伴う銭鋳造が約580万貫文ですから,それを大きく越える訳です.
 この銭が全国に流通すれば良いのですが,江戸時代はそこまで交通が発展している訳ではなく,その流通は緩慢でしたので,江戸や大坂,京都市中に滞留する事になりました.

 と言う事は当然,銭が巷に溢れる事になります.
 銭相場は下落を始め,1771年までに年間安値は5貫文台に突入しました.
 これに対応して幕府は,従来規制していた江戸から他国への銭移出の解禁と,水戸徳川家や仙台伊達家で鋳造していた銭で,市中に流通していた銭の回収を図っています.
 この水戸徳川家,仙台伊達家は,1768年に10分の1の運上を幕府に納める事を条件に,年額10万貫文の鋳銭が認められていました.
 この内,水戸徳川家は,田畑の不作,度々の火災による被害で農民扶助の手当が行き届きかねる為の殖産事業として鋳銭を行ったのですが,結果的に銭が領内にだぶつき,銭相場の下落を招来して,領民達の抵抗に遭った為,江戸に移出したものです.

 1772年9月,全国に鋳銭の願出を禁じ,10月には水戸鋳銭が中止と成りました.
 この年の2月には江戸は行人坂火事により大きな被害を受け,物価高騰と他国銭流入を招き,更に物価高となっていく悪循環に陥っていました.

 幕府は慌てて物価対策を取り,鋳銭を少なくして銭相場を引上げ,諸品の値段の引き下げを図るようになります.
 しかし一方で,銀座救済策は尚止めず,金貨の代わりに流通させようと南鐐二朱銀を1773年10月に5万両分を鋳造して金1万両分を本両替屋6名に無利息3年賦で貸し付けます.
 これは露骨な銀座救済策でしたので,金貨表示通りには通用せず,「売上四分買上八分」の引替賃で交換されました.
 最終的に1774年9月,鋳銭定座と伏見鋳銭は全面停止となり,真鍮銭のみ半減(未だこれに固執している)となりました.
 この理由は,銭相場が大幅下落,対する諸物価は上がり,「米価は下落」している為,「世上難儀」であるとしていますが,この「世上」とは米価が下落して貧窮している武士階級であることは言うまでもありません.

 しかし,この期に及んでも未だ真鍮銭の鋳造を止めない所に,何処かの国の公共事業を思い出してしまいます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/13 23:15


目次へ

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

inserted by FC2 system