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◆日露戦争 Orosz–japán háború
戦史FAQ目次


 【link】

「2ch.軍事板」◆(2003/01/23~) そろそろ日露戦争100周年だが
 レス回収済

DBE 三二型」:日露戦争の時にロシアが作ったプロパガンダポスター/ 情報源エルエル
「История пропаганды」◆(2011/11/15) Русско-японская война. Плакаты России. Часть II. Россия. История пропаганды
日露戦争当時,ロシア国内で出回っていた反日ポスター

The Russo-Japanese War Research Society(英語)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-12) [トンデモ] 日露戦争下の奉天に結集した凄い人達

「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-13)[トンデモ] 日露戦争下の奉天に結集した凄い人達(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-02-24)「二六新報」の秋山定輔
 日露戦争関連

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-07)[明治][文藝] 日露戦争従軍記者としての中山太郎

「神保町系オタオタ日記」■(2009-11-19)川上初枝の父川上賢三
 日露戦争関連

「ワレYouTube発見セリ」:Russo-Japanese War, russian army

●書籍

『検証・日露戦争』(読売新聞取材班著,中公文庫,2010.9)

『戦略・日露戦争』(島貫重節著,原書房,1980.11)

『ソ連から見た日露戦争』(ロストーノフ著,原書房,2009.11)

『日露激突 奉天大会戦」』(瀬戸利春著,学研,2011.7)

 「キャンペーン」の視点で,開戦から奉天までを詳述.
 日露戦争がソ連軍に作戦術の概念を与えたとか,さらっと野心的な本.

――――――軍事板,2011/07/01(金)

『日露戦争』(学研パブリッシング,2011/12/2)

「日露戦争」(児島襄著,文芸春秋,1990.7)

「日露戦争(戦史クラシックス)」(近現代史編纂会編,新人物往来社,2003.6)

「日露戦争 写真集」(国書刊行会,1979)

『日露戦争とサハリン島』(原暉之著,北海道大学出版会,2011.10)

 1905年,日露戦争末期に展開された,樺太での日本とロシアの戦闘と,その後の講和条約の動きを中心に,その前後について着目した論考集.
 戦争関係については,公刊戦史を軸にしているが,ロシア側のそれも濃密に参照していて,寧ろこちら側の方が,日本のそれよりも,詳細に歴史的事実を追っているというのが興味深い.

-----------------眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2011/12/04(日)

『日露戦争と露西亜革命 ウィッテ伯回想記』(ウィッテ著,原書房,2004.9)※オンデマンド版

『日露戦争の秘密 ロシア側資料で明るみに出た諜報戦の内幕』(D.B.パヴロフ著,成文社,1994.10)

『米国特派員が撮った日露戦争』(コリアーズ著,草思社,2005.6)

『歴史群像アーカイブvolume22 Special Issue 日露戦争 歴史群像シリーズ』(学研パブリッシング,2011.12)

『ロシアから見た日露戦争』(岡田和裕著,光人社NF文庫,2011.1)

 内容は邦訳されたロシア側の本の紹介だが,どの本に対しても論評しているし,そう的外れでもないから良いな.
 変な記述もあるが,軍事科学に疎いってのは,本人がちゃんと明記してるし,好感が持てる.

――――――軍事板,2011/01/06(木)
 ロシア内部の右往左往っぷりとか,日本が作り上げた神話とか,新鮮でいい感じ.
 ただ気になったのが,頻繁に「この部分は分量の都合上説明しない」という表現が登場する点.
 気持ちは分かるが,おまえその文章のせるだけのスペースあれば,某かの概要書けたんじゃないか?,と.

――――――軍事板,2011/05/19(木)

『ロシアはなぜ敗れたか 日露戦争における戦略・戦術の分析』(R.M.コナフトン著,新人物往来社,1989.12)


 【質問】
 以下は本当ですか?

-------------------
 不景気にあえぎ,トヨタやマグロでバッシングされ続ける日本をはげまそうというおせっかいか,NHKは司馬遼太郎の『坂の上の雲』などをドラマ化している.
 日露戦争は確かに日本が,世界の大国・ロシアと戦って勝利を収めた歴史的な戦争だ.
 しかし,日露戦争について,われわれが読むことができる資料というのは,ほとんど日本側のものばかりである.
-------------------唐沢俊一 in 『熱写ボーイ』2010年6月号

 【回答】
 唐沢俊一問題に詳しいブログでは,この箇所に関しては以下のように指摘されている.

――――――
 NHKが,『坂の上の雲』のドラマ化を発表したのは2003年なので,「トヨタやマグロ」の件は関係ない.
 「など」って,『坂の上の雲』以外にNHKが日露戦争ものをやっているのかどうかも気になるけど.

――――――唐沢俊一検証blog,2010/4/27

 ちなみにドラマではないが,NHKの「歴史への招待」でも扱われている.

 書籍に関して言えば,確かに日本国内での出版点数は,日本側のものが大多数.
(でも,どこの国でもそれは同じだろうと思うのだが)
 軍事分野が出版の中ではマイナーな上,第2次大戦に比べれば,日露戦争という分野もマイナー.
 加えて,日露バイリンガルは,それ以上のマイナーぶり.
 おまけにロシアが長い間,秘密主義のソ連体制だったとなれば,ロシア側のものが日本で読めるなんて,幸運に頼る以外にないというレベル.

 それでもノビコフ・ブリボイの『ツシマ』という名著もある.
 これは今でも版を重ねているし,『坂の上の雲』でも紹介があったはず(記憶が曖昧だが).

 他に,ちょっと検索してみたところでは,日本人以外の著作としては,

『ソ連から見た日露戦争』(ロストーノフ著,原書房,2009.11)※新装版
『日露戦争 バートン・ホームズ写真集』(バートン・ホームズ著,読売新聞社,1974)
『日露戦争全史』(デニス・ウォーナー著,時事通信社,1978.10)
『日露戦争と露西亜革命 ウィッテ伯回想記』(ウィッテ著,原書房,2004.9)※オンデマンド版
『ロシアはなぜ敗れたか 日露戦争における戦略・戦術の分析』(R.M.コナフトン著,新人物往来社,1989.12)
『日露戦争下の日本 ロシア軍人捕虜の妻の日記』(ソフィア・フォン・タイル著,新人物往来社,1991.6)
『日露戦争の秘密 ロシア側資料で明るみに出た諜報戦の内幕』(D.B.パヴロフ著,成文社,1994.10)
『米国特派員が撮った日露戦争』(コリアーズ著,草思社,2005.6)
『もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から』(コンスタンチン・サルキソフ著,朝日新聞出版,2009.2)
『ルイブニコフ2等大尉 クプリーン短編集』(アレクサンドル・クプリーン著,群像社,2010.1)

 ……お? 思ったよりは出ているぢゃないか.
 絶版も多いのが悲しいところだが.

 それにそもそも,歴史や軍事に興味のない人は,上記のような本は日露両側含めて殆ど読まないから,どちらが圧倒的多数だろうが意味がないのではないか?と思われるのだが.
 逆に深く興味を持つ者にとっては,高い信頼性さえあるのなら,執筆者の国籍を問わず,一冊でも多いことに越したことはない.
 なにしろ,もっとマイナーなサブジャンルでは,文献自体がろくにないことも珍しくない.
 北清事変しかり,普奥・普仏戦争しかり,イラン・イラク戦争またしかり.
 したがって,どの陣営の側の視点のほうが多いか・少ないかなど,やはり大した意味を持たないように思える.

 なんで,そんなどうでもいいことを,さほど字数に余裕があるとも思えないコラムに書き込んだのか?

 上述の「検証blog」によれば,唐沢は引用文のあとにアポリネールの『一万一千の鞭』を紹介しているそうだが,これを日露戦争関連書籍と認識して読む人は,滅多にいないだろう.
 無理矢理,当時話題の「トヨタ」「マグロ」と結び付けたくて,『一万一千の鞭』の中の一部の記述を手がかりに,日露戦争を持ち出してきたように思える.

 こんな形での日露戦争の紹介のされ方は,たとえどのような雑誌媒体であれ,正直,不快ですな.


 【質問】
 日露戦争以前に日本が朝鮮半島に進出したのは,ロシアが朝鮮半島に進出すると,釜山辺りに基地を作って日本の邪魔をしたり,対馬や九州も占領されるかもしれないからと習いました.
 でもロシアの基地なら旅順が既にあったようですし,占領されるなら樺太や北海道の方が,もっと危ないんじゃないのと思ったのですが,なぜ朝鮮半島にこだわったのでしょうか?
 北海道より九州が大事と,当時の政府の中の人は思っていたのでしょうか?

 【回答】
●距離

 当時,ロシアが極東に持つ海軍拠点はウラジオストックだけでした.
 ここを策源地にされた場合,目標が北海道にせよ北九州にせよ,ある程度の距離があるため,対応の余地がありました.
 黄海の奥(渤海)にある旅順港も同様です.

 しかし釜山は,ウラジオストックとは比較にならない近さです.
 釜山から福岡までの距離は,日本海軍の母港「呉」からのそれより近いです.

 しかもウラジオストックからの出口である対馬海峡は戦略的要衝で,そこに浮かぶ対馬には軍事的価値が高い.
 実際,幕末にロシアに占領されかかったこともあります.

●資源・産業・不凍港

 北九州地方は八幡製鉄所や多数の炭坑などがあり,日本の産業にとって重要な地域でしたが,それに比較すれば北海道に重要な産業はありませんでした.
 広大な領土を誇るロシアは,北海道みたいな寒冷地は売るほど持っていますが,不凍港(冬になっても凍らない港)や資源・産業を欲すること切でした.
 北の方の海は凍るんです.
 当時は北のほうの港は,半年近く海氷に閉じ込められて使えませんでした.
 で,ロシアは海への出口を求めてどんどん南下.
 大連辺りもまだまだ寒いから,九州なんかは魅力的に見えたことでしょう.

●守りやすさ

 北海道は広大な土地そのものが防衛陣地(縦深)になりますが,北九州地方は都市部が海岸近くにあり,防御が困難です.
 また北海道は人口密度が希薄であり,食糧等を現地調達することが困難ですが,北九州は人口密集地であり,大軍の維持が比較的容易です.

……といっても,別に北海道を放置したわけではなく,屯田兵を入れたりしています.
 なお▼,樺太千島交換条約で日本は樺太をロシア領と認めておりまして,国際社会で特に異論も無かったことから見ても,▲樺太は当時実質▼的にも名義上も完全に▲ロシア領です.

 いずれにしろ,両方守らなきゃだめ.
 北口だけ防衛して南口からコンニチハでは困ります.
 日本が負けたら,講和条約で結局,千島や北海道を取られることになったでしょう.

軍事板
ばっし(黄文字部分) in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

列強の勢力範囲(1900年頃)
(画像掲示板より孫引き引用)


 【質問】
 日露戦争におけるロシア側の勝利条件は何だったのでしょうか?

 【回答】
 ロシアとしては,時代によって異なるのですが,戦争前の段階では,日本は朝鮮半島を,ロシアは満州地域を,それぞれ互いに権益や経済特権を認めると言うものでした.
 朝鮮半島全体の領有については,ロシアは費用対効果の面から無意味と思っていたようです.
 但し開戦直前の状況では,更に進んで,満州地域全体の領有を目的とし,その地域の安全を得るために,朝鮮半島の一部を勢力圏に納める,あるいは,最低限,朝鮮半島を中立化すると言うものでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/09(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争の時って清国って何やってたの?
 自分の国が侵略されてるのに,まるで動きが見えないんですが…


 【回答】
 表向き中立だが,裏では日本を全面バックアップしていた.

 児玉参謀本部次長は,清国に関係の深い青木宣純大佐に清国人の諜報機関を作らせ,満州での情報収集や破壊工作を行なうように指示していた.
 青木が袁世凱に謁見すると,対露諜報機関は既に作っていて,日本に協力する準備はもう出来ていると言われる.

 清はロシアに満州を取られて,ロシアの進出に危機感を抱いていたからな.
 袁世凱は日露戦争中,金を惜しまず日本に協力した.
 清国人は親露的だと思い込んでいたロシアは,清国人を雇って後方で働かせていたから,諜報員が潜り込むことは簡単だったという.

 その後の日本は満州まで取ってしまったが,満州はロシアの勢力圏のままにしておけば,その後中国と紛争やるのはロシアになって,漁夫の利を日本は得る事もできたかもしれない.

 また,馬賊や匪賊の中には日本やロシアに協力する者もいた.
 張作霖なんかはその類の人間.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争中,清は日本に協力的だったそうですが,自分が読んだ本には,ロシアと清は日本に当たる秘密条約があったと書いてたんですが,それは考慮されなかったんでしょうか?
 本は加藤徹著『西太后』(中央公論新社,2005.9)です.

 【回答】
 露清秘密協定が締結されたのは,三国干渉によって遼東半島を日本が返還した頃.
 この三国干渉を見た清国は,これを利用して日本を押さえることができるんじゃないか?と考え,ロシアと連携して日本を抑える「連露抑日論」が主流意見となったことが,この秘密協定締結にまで至った原因.

 ところがその後の義和団の乱では,ロシア軍は自国の権益のため,協定をたびたび違反してやりたい放題で,清国では今度は逆に日英同盟を利用してロシアを抑えようとした.
 これは清国をして,第2次露清密約(旅順協定)の破棄に成功することとなる.

 このように清国は,日本が進出しすぎていると思えばロシアと結び,ロシアが進出しすぎていると思えば日本と結ぶという,
 よく言えば臨機応変,悪く言えば長期戦略に欠けた,ふらついた行動をとっていたわけ.

 で,日露戦争の頃はちょうど,抑露の側に立っていたということ.

 そして日露戦争中,清は表向きは局外中立だった.
 ただし戦時には中国の地方官憲から日本への献金が相次いだり,戦後日本は袁世凱や中国官憲に多くの勲章を進呈しているから,好意的中立で密かに協力してくれていたことに日本も感謝しているわけだ.

 また,ロシアは満州は中立から除外する心積もりだったが,清は満州も中立であるとして労働者の供給や施設の使用を拒否した.
 ロシアはそれに不服で,清を無視して中国人労働者を使役している.
 満州地域で清が中立ということになると,多くの中国人労働者で輸送を賄ったり,中国の施設を使っているロシアが不利になるからだ.
 ロシアの目からみれば,清の姿勢はロシアに不利に映っていることは間違いない.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 ※おそらくソースは『日英同盟』(平間洋一著,PHP新書,2000.6).


 【珍説】
 日本は,アフガンでロシアと敵対していたイギリスと,利害の一致から日英同盟を結び,ロシアに牽制をしようとしましたが,最後にモノを言うのは言葉ではなく力です.
 イギリスと同盟を組んだくらいでロシアがビビってくれるなら,誰も苦労もしません.事実,ロシアの足は全く止まりませんでした.

 【回答】
 1.連合艦隊の主力艦の殆どは,どこが作り,売ってくれたのか?
 2.ロシアが対日戦用に購入しようとした「建て売り」の装甲巡洋艦や軽戦艦を,日本に代わって購入してくれたのはどこの国か?
 3.欧州から回航される連合艦隊主力艦を,どこの海軍が護衛していたのか?
 4.連合艦隊主力艦は,どこの石炭で動いていたのか?
 5.ロンドンでの戦時債権販売に,誰が協力してくれたのか?
 6.「ドッガーバンクの夜戦」で難癖付けて,バルチック艦隊を足止めしてくれたのはどこの国か?
 7.フランスに圧力かけて,バルチック艦隊の仏植民地への直接寄港や泊地での給炭作業を妨害しまくったのはどこの国か?

(鳥坂 ◆nSC8E.bvp6 in 軍事板)

 英国の有形無形の妨害が無けりゃ,貧弱な日本軍は露帝軍の全力とブチ当り,史実より悲惨な戦いになってただろうよ.
 ベトナム戦争だって,中ソの有形無形の妨害があってアメリカも戦略目標を達成できず,南ベトナム共和国を救えなかった.
 戦争において存在感の有る同盟国ほど有りがたいものはないぞ.

(軍事板)


 【質問】
 ニコライ2世は,大津事件で重傷を負ったせいか,日露戦争後までも日本人を「マカーカ(ニホンザル)」と軽蔑的に呼んでいた(さとう好明著『ロシアのジョーク集』(東洋書店,2007/7/25),p.37)というのは本当か?

 【回答】
 それは,司馬遼太郎の「坂の上の雲」で広まった俗説でしょ.

http://www.ne.jp/asahi/pooh/melody/bekkan/essay/tzar.html
http://www.eonet.ne.jp/~ttab/Etc.html
より,大津事件後のニコライ語録

「日本のものはすべて,4月29日(ロシア暦で事件の日)以前と同じように私の気に入っており,日本人の1人である狂信者が嫌な事件を起こしたからといって,善良な日本人に対して少しも腹を立てていない.
 かつてと同じように日本人のあらゆるすばらしい品物,清潔好き,秩序正しさは私の気に入っている.」

「日本国民が誠意をもって温かく迎え入れてくれたことには,心から感謝している」

「暴漢に襲われはしたが,それで日本人の好意を忘れたわけではない.
 幸いにも私の傷は浅いので,一日も早く全快し,東京に赴きたい.
 大聖堂(ニコライ堂)も落成したと聞いているので,参拝するのを楽しみにしている」

 本当に日本人を「マカーカ」と軽蔑していたんなら,こんな発言は出ないでしょーが.

シア・クァンファ(夏光華) in FAQ BBS

 【関連リンク】
やる夫で学ぶ大津事件


 【質問】
 日露戦争で日本軍は連戦連勝できたのは,日本軍がかなり強かったとしても,まともな軍隊相手に連続で勝ち進むのは難しいのでは?
 ロシア軍が激弱だったりしたのですか?

 【回答】
 日露戦争を扱った本を読むとわかるが,日本は連戦連勝なんてしてない.
 いくつかの重要な戦いでかろうじて勝ちを拾っただけ.

 また,クロパトキン司令官は緒戦の敗北以後,無理せず敵を奥に引き込んで消耗させる戦略を取った.
 これが裏目に出た.

 実際,日本軍は消耗していき,奉天会戦の後は,これ以上の継戦はほぼ不可能となっていた.
 一方,ロシア軍には本国などにまだ余力があった.

 だが,それまでの撤退戦が当時も連戦連敗と映り,ロシア上層部自体が陸戦では勝てないと認識.

 最後の望みの日本海海戦で完敗し,アメリカの仲裁もあって,講和に踏み切ることにした.

軍事板


 【質問】
 日露戦争は引き分けだったの?

 【回答】
 辛勝の方が適切だと思うが.
 講和にて賠償金こそ取れなかったが,ロシアの権益のいくつかを日本は得ている.
 逆にロシアは日本の権益を得ていない.

 朝鮮半島を手に入れたのがどっち側かということを考えたら,戦略的勝利を収めたのはどっち側かも分かるだろ .
 辛勝でも勝ちは勝ち.

 経済的代償は勝利とは直接関係無い.
 「辛うじて勝ったが,貧乏になった」というだけのこと.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争における日本赤十字の活動は?

 【回答】
 日清戦争,北清事変と清国相手の戦争が続いたのですが,1904年2月8日,仁川沖と旅順沖で日露両国艦隊が交戦し,2月10日には日本政府がロシア政府に対し国交断絶を通告,宣戦の詔勅が煥発されます.
 今回の宣戦の詔勅でも,日清戦争同様,明治天皇は国際法の遵守を命じました.
 何しろ,前回の片務的な国際法遵守の相手と違い,今度の敵は欧州の文明国.
 しかも,1899年に開催されたハーグの万国平和会議の主唱者が,ロシア皇帝アレクサンドルII世であったこと,更に「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」が適用された最初の戦争でした.
 この為,国際法の遵守にはより一層の注意が払われ,陸軍は出征各軍に対し,2名ずつ国際法学者を従軍させています.

 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」では,傷病者について第21条にて,「病者及傷者ノ取扱ニ関スル交戦者ノ義務ハ,『ジェネヴァ』条約ニ依ル」と規定していました.
 この規則は,初めて捕虜の権利義務について定めた条約であり,日本でもこの規則を実施する為,俘虜取扱規則以下,海軍俘虜取扱規則,俘虜情報局設置ノ件,俘虜郵便規則,俘虜労役規則,俘虜収容所条例,俘虜ノ処罰ニ関スル法律,俘虜自由散歩及民家居住規則等を制定しました.

 日本赤十字社に於いては,先にも触れた様に,1903年11月に「戦時救護規則」及び「海軍傷病者救護規則」が統合されて「日本赤十字社戦時救護規則」が制定されました.

 戦時救護規則は,第41条にて救護班の準備数を,陸軍に対して112個(看護婦組織94個,看護人組織18個),海軍に対しては4個(何れも看護婦組織)と規定していました.
 しかし実際,1904年1月の時点では,救護班77個(看護婦組織59個,看護人組織18個)の他,甲種病院船2隻,材料庫1個に留まっていました.

 日露開戦を受けて,日赤では11月に戦時救護規則を改正します.
 新規則では,1個救護班の人員が17名から26名に増員され,内訳は医員2名は変らないのですが,調剤員補1名が調剤員に格上げされ,事務員1名を廃して書記1名を加えました.
 そして,看護人長(或いは看護婦長)を1名から2名に,看護人(或いは看護婦)を10名から20名に増員しました.
 また,旧規則にあった人夫2名は削除されました.

 患者輸送縦列については,67名から131名へと大幅に増員されましたが,内訳では輸送人が60名から120名へと倍増したからです.
 更に,新規則では理事1名と看護人長2名が新たに配属されました.

 病院船については,乙種患者輸送船の編成人員29名は据え置かれましたが,甲種患者輸送船へは看護婦長2名が増員され,総人員は52名から54名へと増えました.
 特に病院船に於いては,看護婦の海上勤務が認められ,甲種に20名,乙種には10名の看護婦が配置されました.
 逆に看護人の数は,甲種では40名から20名に,乙種では20名から10名へと減員されています.
 これにより,病院船では看護婦が看護人と共に,救護に当る事になりました.

 ところで日露開戦に当って,日赤に救護班の派遣が命じられたのは,2月7日の日露交戦の前日です.
 先ず寺内正毅陸軍大臣が,救護班2個の編成を求め,これを第2師団のある仙台予備病院に配置する事になったものです.
 救護班は福島と宮城で編成され,15日に仙台に到着しています.
 因みに,2月7日には戦時救護事業統括の為,臨時救護部が設けられ,小沢武雄副社長が長に任命されました.
 翌8日には,弘済丸と博愛丸の日本郵船からの引揚げが決定し,艤装の上,博愛丸は2月19日,弘済丸は22日に横浜を出港し,宇品に向かいました.
 なお,それに先立つ12日,日本政府はロシア政府に対し,「ジュネーブ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約」第2条に基づいて,両船を傷病者及び難船者救護のため使用する事を通告しています.

 救護班の戦地派遣命令は,2月9日に出されました.
 独立第12師団兵站監部に,看護人編成の救護班2個の派遣が命じられ,これらの救護班は,15日と18日に陸軍輸送船で宇品から韓国に向けて出航しました.
 この後,戦地や病院船に衛生材料を供給する材料庫が広島に開設され,6月29日には満州の第1軍兵站監部に,患者輸送縦列1個の派遣が命じられました.

 海軍については,4月17日に山本権兵衛海相より,佐世保海軍病院へ看護婦組織救護班1個の派遣命令があり,戦争終結までに,佐世保と呉の海軍病院に対し,それぞれ救護班2個が派遣されています.

 開戦後は救護班が相次いで編成され,最終的に日赤が派遣した救護団体は,
救護班148個,
病院船2隻,
患者輸送縦列1個,
衛生材料庫1個
の合計152個,総人員は5,170名に達しました.
 その内訳は,
理事6名,
医員364名,
調剤員171名,
看護婦監督1名,
書記203名,
調剤員補5名,
看護婦長184名,
看護人長94名,
輸長4名,
看護婦2,689名,
看護人1,290名,
輸送人156名
でした.
 救護班の内,韓国と満州に派遣されたものは32個でしたが,看護婦は戦地に派遣されませんでした.
 内地の東京,仙台,名古屋,大阪,広島,熊本,函館,旭川,弘前,金沢,姫路,善通寺,小倉の各予備病院に勤務したのが47個,佐世保と呉の海軍病院に勤務したのが4個でした.

 病院船では,博愛丸と弘済丸の他,陸軍が患者輸送用に設備した病院船18隻に,38個の救護班が派遣されました.
 また,後送患者に茶菓を提供して慰労したり,症状に応じて救急措置を施す患者休養所が内地の主要駅17カ所に開設されています.

 因みに,日赤が初めて救護事業を行ったのは,宣戦布告前日に仁川港外で撃沈された巡洋艦ワリャーグ号の負傷者24名が最初だったりします.

 こうしたロシア傷病者と俘虜に関しては,1904年7月に小池正直野戦衛生長官が戦地の衛生部員に対し,以下の訓示を行っています.

――――――
 俘虜患者ハ我カ患者ト同シク,深ク愛護ヲ加ヘキモノタルハ勿論,患者以外ノ俘虜ト雖モ,博愛ノ心ヲ以テ之ヲ遇スヘキコトハ,陸戦ノ法規慣例之ヲ示シ,陸軍大臣亦既ニ之ヲ戒メラレタリ,赤十字条約ヲ精神トスル衛生部員ニアリテハ一層意ヲ用ヒ,各々部下ニ訓戒シ苟クモ冷淡ナル取扱ヲ為シ,若クハ無益ノ問答ヲ試ミテ侮辱ヲ感セシムル等ノ事ナカラシムヘシ,殊ニ俘虜患者護送員ニ対シテハ,其都度注意ヲ与フルヲ要ス
――――――

 こうして日本軍の衛生機関が,戦地で救護したロシア人傷病者の総数は,旅順を含めて21,730名に達しました.
 此の内,1,158名の死亡がありましたが,内500名は旅順攻囲中の壊血病に起因するものでした.

 満州軍総司令部に国際法顧問として従軍した有賀長雄は,主戦場となった満州で救護が困難な理由として,2点を挙げていました.
 1つは,野戦病院の開設に適当な家屋がない事,中国家屋は狭くて不健康な上,隣家との間隔が離れていて診察や食事,医薬の配給に不便でありました.
 もう1つは,患者輸送の鉄道が無い事,満州にも鉄道は敷設されていましたが,それは既にロシア軍によって破壊されており,輸送は凸凹や割れ目,泥砂,石ころが散在し,雨期には川になるような悪路に頼らざるを得なかった訳です.

 第1軍の国際法顧問だった蜷川新は,ロシア負傷者について,
「赤十字及ヒ海牙条約ノ主旨ヲ尊重シ,負傷者ニ対シテハ彼我ノ間其ノ治療方法ニ何等区別ヲ設ケス,共ニ均シク能フ限リノ懇切ヲ以テ彼等ヲ取扱ヘリ」
と述べていますが,日本軍の治療には捕虜のロシア軍医が感謝の意を呈する程でしたが,米飯を食べる習慣のないロシア人からは,常に食事に対する不満が出ていました.
 患者輸送中の物資欠乏状態の中でも,こうした執拗な飲食物要求には相当手を焼いたようです.

 また,戦地で自国負傷者のみを収容し,敵国負傷者の多数を放置したという非難もありました.
 これに対しては,第1軍の国際法顧問である加福豊次が,前線で負傷者の収容に当る衛生部隊は,人員が比較的少ない為,大規模な戦闘で多数の負傷者が出た場合,人情の機微から,自国負傷者の収容を優先させる可能性は否定出来ないとしつつも,日本軍は自国負傷者の収容を優先させる命令を発してはいないし,正規の担架卒だけでなく,補助輸卒隊の一部までも使用して,全力で負傷者の収容に努めていると反論しています.

 本来,救護員は,戦時衛生勤務員は戦闘の危険のある地域には派遣されない事になっていましたが,1904年10月9日,本渓湖患者療養所にいた救護班の看護人長と輸送人は司令官の命令により,中国人人夫を率いて戦線に入り,重症者を担架にて運搬し,帰所すると言う行為を行っています.

 兵站病院については,1905年3月に奉天付近での大規模戦闘が予想されると,旅順で救護中の救護班の一部は大連へ転勤を命じられました.
 各救護班は病室の開設に追われましたが,ロシア人の古いホテルや兵火を被った兵舎を使用しての大連兵站病院の開設だった為,整理と備品の調達に苦労しています.
 3月7,8日からは奉天会戦での負傷者が運ばれ始め,16日以降は重症者が続々と後送されてきた為,各病室は収容能力を超え,患者は足の踏み場も無いほど病室に溢れ,やむを得ず廊下に収容したりもしています.
 医員以下は,早朝から深夜1~2時まで勤務し,度々徹夜も行っています.

 兵站病院第1分院第9号乙病室では,ロシア患者を2階に,日本軍重症者を1階に収容しましたが,日本軍重症者が感情を害した事に配慮し,病院長に具申して,ロシア人患者を1階に収容する事になりました.
 捕虜患者の担当は,言語習慣の差異があって各病室とも喜びませんでしたが,旅順で捕虜患者治療の経験がある救護班は彼らを進んで引き受けました.
 その結果,第8,第9,第12号病室は捕虜患者のみを収容し,第12号病室では,患者数が一時550名程度に達した事もありました.

 奉天会戦での負傷者の約91%は戦傷者で,砲弾創と銃創が最も多く,爆傷,刀剣による刺傷切傷,熱傷,馬蹄傷,捻挫がこれに続き,骨折を伴う者は約6.2%でした.
 これに対し,病者は少数で,脚気,呼吸器系病があるのみでした.

 捕虜患者は旅順と異なり,何れも従順で,良く命令を守り,1人も暴行を働く者がおらず,外出が自由だったにも関わらず,逃亡者は1人もいませんでした.
 また,日本兵患者とロシア兵患者が共に手を携えて散歩したり,互いに手帳を取出して国語を交換したり,手真似で戦況を語り合い,衣服帽子を交換してみたり,日本兵が煙草を出せば,ロシア兵が火を付けるなど少し前に武器を取って戦っていたのが嘘のような和気藹々の状況だったりしています.

 救護班と患者輸送縦列が戦地に於いて治療看護した捕虜患者は,延べ5,658名,護送した患者は3,248名に達しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/30 22:49


 【質問】
 おともらいごっことは?

 【回答】
 田河水泡によれば,日露戦争後に子供たちの間で流行った,戦死者の葬列を真似するという遊び.

[quote]

 深川・仲町の通りを戦死者の葬列が行く.
 白布で包んだ遺骨の箱を小型の砲車に乗せて,二人の兵隊が曳いて行く.
 数人の会葬者がそれに続くが,その先頭にクラリネットを持った人がいて,葬送行進曲を吹奏して行く.
 名誉の戦死を遂げた遺骨が凱旋して来たのだから,道端の人は葬列に向かって手を合わせて冥福を祈る.

 それが毎日続くから子供たちは覚えちまって,おともらいごっこを始めた.
 赤ん坊の眠っている乳母車を静かに曳いて,2,3人が先頭に立ってタンタカタタ,タカタンタアと聞き覚えた葬送行進曲を口ずさみながら行くと,道端にいた女の子たちは,赤ん坊に向かって手を合わせる.
 死んだもんにされた赤ん坊はいい迷惑だろうが,本人は眠っているから悶着は起こらない.

[/quote]
―――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.27

 同書によれば他に,日本海海戦の落書きを壁に描くことも流行した(p.30)という.

 もっとも,田河の町内限定の流行である可能性もあるので,その点は留意されたし.
 どこの地域かを問わず,いかにも子供がやりそうなことではあるが.

消印所沢

▼ 落語でも,(確か『初天神』だったかな.)よく,くすぐりで,子供の遊びで,「おともらいごっこ」が出てきた記憶があります.
(但し,田河水泡は,落語作家高見沢路亭でもあるので,その点は留意されたし.)

水上攝提 by mail


 【質問】
 日露戦争前夜の日本の,兵器国産化の動きを教えられたし.

 【回答】
 日清戦争以前,とにかく日本全体が緊縮財政に喘ぎ,軍備の維持もままならない状態が続きます.
 しかし,日清戦争が日本の勝利に終わったことで,外征軍としての軍備を整える必要が生じ,特に朝鮮半島や台湾などでヘゲモニーを維持する上で必要とされたのが海軍力であり,その膨張に拍車が掛かります.
 そして,艦艇を急速整備したことから,後方施設費も急増し,また大口径砲と艦艇の国産化も進んだことから製造用機械費が急増しました.

 因みに,1899年には海軍拡張計画により,海外に主力軍艦を多数発注した為,貿易赤字が甚だしく,国内的には深刻な正価危機が訪れています.
 日清戦争時の賠償金もすっかり使い果たした状態で,外資導入により辛うじて危機の乗り切りを図る状態にまで陥っていました.

 こうした事から,以後,代艦の国内建造指向が強まり,まずは呉造兵廠拡張案が議会の協賛を受けました.
 また,この年は軍艦水雷艇補充基金が設定されています.
 これは清国賠償金中から,非常準備金として保有する予定の金額から3,000万円を流用し,1904年以降,各前年度末に艦籍のある艦船の代艦建造費として,逓減歩率で計算した金額を毎年一般会計から基金に繰り入れるものでした.

 1900年以後は主力艦搭載兵器製造に加え,主力艦国産化方針が主張される様になります.
 そこで,1904年以後の代艦建造に於いて,軍艦の原材料となる鋼も国産化すべきと言う考え方から,製鋼所の建設が建議されました.
 しかし,これは先の八幡製鉄所が既に軍需独占と言う理由で建設されているのに,海軍が同じ理由により製鋼所を別に建設するのは,財政窮乏の折から差し控えるべきであるとして,貴族院にて否決されてしまいました.
 これに対し,山本権兵衛海相は,大要以下の様に述べて議会を説得します.
「八幡製鉄所は一般産業向けが主であり,軍用材の間接的な供給は可能となるかも知れないが,特殊鋼の製造は行わない為,これら特殊鋼の製造を主目的とする製鋼所を速やかに設置して,軍艦の国産化に寄与したい.
 そうなると兵器の国産化のみならず,戦時の艦船輸入途絶にも対応出来,真の兵器独立が達成出来る」
 最終的に1901年末に海軍製鋼所案が可決され,八幡製鉄所で間接軍用材の供給を行い,呉製鋼所で軍用特殊鋼材を供給する並行生産体制が確立しました.

 製鋼所設立と並行して,1903年度からは呉造船廠に,1万トン超の主力艦建造用主船台の建設も開始されました.
 一方,1902年1月30日には対露戦争準備として日英同盟が締結されましたが,これには日本海軍の「優勢海軍維持」義務が追加されました.
 この為,山本権兵衛海相は,1902年10月に「海軍拡張ノ議」を閣議に提出し,これは閣議決定を経て12月に議会に提出されました.
 この拡張案はその財源を地租に求めた為,猛烈な反対が湧き起こり,遂には議会が解散されて予算は不成立となりましたが,最終的に次の議会で可決され,実行に移されることになります.
 この拡張案自体は,戦闘艦整備を主目的としていましたが,他方で「造船工場ノ施設ヲ完備スルニ必要ナル造修機械」及び「艦船ノ造修ニ必要ナル船渠」を整備する事も大きな目的となっていました.

 ところで,日清戦争後の軍艦国産化は,工期やコスト面から不利であり,また技術的に不可能ともされていましたので,その建造量は艦船建造費全体の10%未満,しかも3,000トン級三等巡洋艦以下の小型艦で,職工の技能熟練維持と戦時輸入途絶に備えての観点からでしか認められませんでした.
 但し,艦船修理部門については輸入艦船の保守・修理の急速な拡張が必要となり,横須賀・呉の2大造船工廠体制から,佐世保を加えた3台造船工廠体制となりました.
 この内,佐世保は修理専門工廠としての存在でした.
 また,この間,兵器造修費に対する兵器製造費の割合が急増しています..
 これは呉造兵廠での艦船搭載兵器製造によって引き起こされた事態でした.

 呉造兵廠は,元々は佐世保工廠と共に修理を受け持っていたのですが,部分的な軍艦搭載兵器の製造開始に伴い,造兵部門の代表となっていきます.
 更に,呉は軍艦の国内建造が低調な時でも造船・造兵部門を充実していき,主力艦国産の動きを開始すると共に,製鋼技術も充実していきました.

 その製鋼作業は,1892年設置の白坩堝炉と容量3トンの酸性平炉から開始され,砲身鋼の製造は1905年7月の製鋼工場設置から本格化します.
 当初は砲身・砲架・弾丸等,小型の部分から製造を始め,1897年からは容量12トンの酸性平炉と1,000トン水圧鍛錬機及び砲材焼入装置の増設,1902年からは4,000トン水圧機及び12トン汽鎚作業を開始し,更に容量25トンの酸性平炉2基の工事を始めました.
 1901年時点で,呉造兵廠の特殊鋼生産能力は60~70トンであり,更に25トン平炉2基増設で装甲板の生産を開始する予定でした.

 そして,1900年の拡張予算が否決された議会に対してのデモンストレーションとして,1901年から既製設備により6インチ装甲板の試製に着手しました.
 ローリングミルが無いので,1,000トン水圧機で試験的に鍛錬作業を行い,且つ浸炭表面硬化法等の加熱作業も苦心惨憺の末実施しました.
 こうして1902年1月に試作品の6インチ装甲板2枚に対する射撃試験を実施し,1枚は好成績を収めたので衆議院議員向けにこれを展示したりと予算確保に向けての涙ぐましい努力をしています.

 1903年,海軍は呉造兵廠と呉造船廠を合併して呉海軍工廠に改組しました.
 この時,製鋼部は独立させて一層製鋼作業の発展を期することになりました.
 この時期の装甲板製造用設備は,25トン酸性平炉2基,ローリングミル,8,000トン水圧機,甲鈑用灼熱炉3基,油槽,水槽,スプリンクラーなどの甲鈑仕上用機械であり,これらの諸設備を用いて,日露戦争中に損傷した装甲板の自製修理に成功すると共に,1905年にはこの設備を用いて装甲巡洋艦「生駒」の装甲板約2,000トンの製造に成功しました.

 一方,陸軍では大砲などの兵器用特殊鋼を八幡製鉄所から供給を受け,大阪砲兵工廠で製造に使用する予定を立てていました.
 しかし,実際には設立間もない八幡製鉄所は民需中心の鋼材供給とし,兵器材料の供給をしない方針に転換してしまいます.
 この為,陸軍はその供給を海軍の呉製鋼所に頼ることとなり,呉製鋼所の特殊鋼需要は,海軍の1.7万トンと陸軍の2,500トンを併せて年間1.9万トンとなりました.
 その供給量は,1905年の段階で2.3万トンと供給を満たす生産が為されていますが,実際には砲身,砲架地金,甲鉄地金,普通鋼材,鋼鋳物にニッケル鋼の2,736トンを併せて23,033トンとなっており,100%が特殊鋼ではなかった様です.

 ともあれ,呉工廠製鋼部は,筑波,生駒,薩摩と言った準戦艦的な艦に対する甲鉄板鋳鋼鈑と,機関主軸類の鋼鉄全部の供給を行っています.
 因みに,それだけでは矢張り賄いきれない為,1905年12月に八幡製鉄所にも25トン塩基性平炉12基を備える第1製鋼工場内に厚板工場を新設し,呉と共に軍用鋼材供給にも進出していくことになります.

 日露戦争と言えば,華やかな戦場の話だけが一人歩きしますが,こうしたインフラを整備することで初めて継続的な戦闘が可能になった訳です.
 これは今の日本でも言えることではないかなぁと思ってみたりして.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/25 21:45


 【質問】
 日露戦争前後の,日本の鉄道輸送力増力策について教えられたし.

 【回答】
 この前,朝鮮戦争の民衆史を読み終えて彼の国の人たちの考え方に辟易したのに,また性懲りもなく,朝鮮半島の鉄道敷設とその維持の過程について書かれた本を読んでいます.
 彼の国の人たちの最近流行の考え方ってのは,誤解を承知で書くと,老人の繰り言ばかりの様なもので,自国で資本を握っている人々がどの様に行動したのか,と言う部分の考察がすっぽり抜け落ちており,
「日帝が…日帝が…」
を叫んでいるだけなんで,読むのも苦痛だったりするのですが,まぁそう言う視座も有りかなあと思って,生暖かく見守りながら読んでいます.

 随分前にタイの鉄道敷設について取上げたのですが,朝鮮も同じ時期に鉄道を敷設しようと考えていました.
 しかし,タイの方は,英仏の対立を巧みに操って,最終的にドイツの技術を組入れ,更に英独の対立関係が生じると,英国から有利な投資条件での資金調達に成功し,結局は自前の鉄道を敷設したのに対し,朝鮮半島のそれは,同じく,日本とロシア,その背後にいる英国とドイツ,フランスを上手く動かすことも出来ず,自国民による鉄道敷設の動きにしても,資金を援助するでなく,ただ傍観して居るのみ.
 これで,「日帝が…日帝が…」と幾ら叫んでも意味がありませんわな.

 取り敢ず,前内閣首班も訴追されるようですから,こうした動きは沈静化していくとは思いますが,やれやれと言った感じです.

 日本では前内閣時代に隣国で出版された本がそろそろ翻訳されてきているのですが,これ,まともに読むと,喧嘩売ってるしかない様な論調の本ばかりですね.

 さて,今日は久々にその鉄道について….

 日本の鉄道がそろそろ助走から安定に発展して行こうとしていた頃,日本の鉄道建設を見ていた御雇外国人のトレビシックが,鉄道貨物輸送量増大に対応すべく,貨物列車の牽引用として1890年に英国に発注し,ダブス社から納品されたのが,通称「B6」,鉄道作業局形式名2100形でした.
 このB6は,輸送難に悩んでいた各線区の救世主として受容れられ,鉄道作業局以外に
日本鉄道に6両,関西鉄道に5両を含め,英国ダブス社(後のノースブリティッシュ社)製の2100形が17両,
英国ダブス/シャープスチュワート/ノースブリティッシュ各社製と,それを元にした国産の2120形が97両,
日本の鉄道に引き渡されず,南満州で使用されて,後,鉄道院番号を持たずに台湾総督府に譲渡されたものが3両
の合計117両が1903年までに導入されます.

 これだけでも当時の日本の鉄道としては大増備ですが,更に整備が図られたのは,ロシアとの戦争を控えていたからでした.
 特に,日本からの軍需物資を,朝鮮半島を経由して満洲の戦場に運び込む為には大量の機関車が必要とされていました.
 この為,英国ノースブリティッシュ社製と日本製の2120形式を171両の他,ドイツのシュバルツコフ/ハノーバー(ハノマグ)/ヘンシェル社製略同型機である2400形が75両,米国ボールドウィン社製略同型機の2500形が168両,鉄道院を経由しない英国製2両の合計416両に達し,一大勢力を築きました.
 これらの機関車の内,187両は南満州に直送されて,現地で活躍していました.

 このB6の軸配置はC1,つまり,動輪が3組に従輪が1組と言うものでした.
 C1は粘着重量は大きかった(即ち,牽引力は大きかった)ものの,軍用軽便鉄道のような簡易路線区では軸重が大きすぎて進入出来ず,先輪が無いので,正方向の運転で脱線する危険がありました.

 兎にも角にも,数が必要な戦時中のこと,多少の不具合には目を瞑って,兎にも角にも運転を行っています.

 さて,日露戦争は何とか日本の辛勝に終わり,B6機関車は戦場から続々と帰還します.
 また,船積みされたものも,向先を日本としたものも多数有りました.
 鉄道車輌には車輌1台1台に履歴簿と言うものが作成されますが,B6の多くの履歴簿は「南満還送」と言う文字から始まっているものが多かったりします.

 日本に戻ってくると,そのC1の軸配置は,余りにも日本の国情を無視したものとなっていました.
 日本は鉄道網を積極的に構築する為,多少の輸送力低下を忍んで,東海道線の様な幹線で使っているレールや道床よりも,レールの重さを軽く,道床も薄くした様な簡易線区が多く造られていきます.
 また,日露戦争の結果,多くの私鉄を鉄道院の路線に組入れた事から,そうした簡易線区が一挙に増えてしまいます.

 そこで,先ずはこうした条件の悪い線区でも利用出来るよう,軸重軽減の為に従輪を1組増したC2の軸配置とした改造型2700形,従輪を増す代わりに動輪の前に先輪を1組取り付けた,1C1形式の改造型2900型が出現しました.
 また,数が多いと言う事は,鉄道院のザク(ぉみたいなもので,様々な実験台に使われています.
 3500形は,1C1の軸形式に改造した上,シリンダー形式をボークレン複式と言うものに替えてみたものですし,後藤新平が鉄道院総裁に就任した時に広軌改築を唱えて,横浜線を広軌に替えた時,その実験車となったのも,2120形式の1両でした.
 因みに,広軌改築は結果的に新幹線が実現するまでポシャりますが,大正時代に整備された9600形式の機関車や1918年製造以後の客車は,簡単に広軌に改造出来る車輌でした.

 英国製,ドイツ製,米国製の同じ様な機関車ですが,この内,最も評判が悪かったのが米国製の2500形だったそうです.

 大正末期から昭和期に掛けて,国産の蒸気機関車が出現すると,これらB6は,あるものは民間に払い下げられたり,あるものは廃車されたりしています.
 しかし,大多数の車輌は,貨車や客車の入換え用として,各地の車庫や駅などで働いていました.
 日中戦争,太平洋戦争でも多数の機関車が徴用されていますが,このB6は老朽化していたこと,最も大きかったのが軍用軽便鉄道での使用に向かない事などから,これらは徴用を免れています.

 従って,1948年9月の時点で英国と日本製の2120形は,239両が残存していました.
 此の時点での生存率は91.2%と言う驚異的な数字です.
 これらは東京鉄道局と新潟鉄道局管内に集中配備されて,検査修繕の効率を図っています.
 ドイツ製の2400形は,75両の内61両が1948年9月に残存,生存率は81.3%.
 英国製のものよりは劣りますが,数が少ない中での生存率は驚異的な数字です.
 流石に,ドイツのメカは世界一ですね.

 米国製のものは生存率が極端に悪く,168両の製造に対し,戦前の時点で79両が廃車の運命でした.
 敗戦時の在籍は僅かに36両ですから,その数字は更に悪くなります.
 この内,2500形をC2の軸配置とした2900形が比較的長命で,改造24両中19両が敗戦時も残存していました.
 これは軸重が低くなったので,規格が低い線路でも入線出来たからであろうとされています.

 其の後,米国製のものはさっさと廃されてしまいますが,英国製の2120形は一部が電化区間延長に伴い,暖房用空気供給用に石炭容量が多い暖房車が要求された為,29両が暖房車マヌ34に改造されました.
 これは,その頃大多数の列車が機関車牽引の客車で,戦後の混乱期で,暖房設備を搭載していない電気機関車があったり,貨物用電気機関車が客車を牽引したりしていた為です.
 当時の改造は資材不足の中大変で,ボイラーは2120形のものを転用し,台枠は石炭輸送用に大戦中大増産された3軸貨車トキ900のもの,台車は客車の鋼体化改造で不要となったTR11台車を改造して取付け,鋼製の車体のみ新製されたもの.
 後に,電車化されたり,世の中が落ち着くにつれて暖房設備を搭載した機関車が増えていった事から,廃車されていきました.

 それ以外のものは,随分長いこと入換え用の機関車として使用されており,首都東京のど真ん中にある田端機関区,品川機関区では,1957年まで,石炭の煙をもくもく吐いていたりします.
 マヌ34は更にそれから15年近く使われ,1971年に漸く廃止になっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/18 22:03


 【質問】
 中国での醤油生産は,日露戦争がきっかけ?

 【回答】
 中国大陸での醤油生産については,日露戦争に端を発します.
 大陸戦線で戦闘を続ける日本陸軍に供給する為,奉天に軍直営の醸造所が1904年に設営されました.

 日露戦争が終了すると,この醸造所は不要となり,醸造設備は民間に払い下げられました.

 1909年,奉天で日本人業者である伊予組が300石を醸造したのを皮切りに,撫順で1909年に102石,本渓湖では1912年に96石の醤油が製造されています.
 また,1914年の遼陽領事の報告では,この地での醤油工場は日本人経営のものが2軒,年間1,250石を製造しているとあります.

 この年の日本からの輸入は208石でしたので,既に現地生産の醤油が量的に勝っていた訳です.
 この数字は更に伸び,1924年では日本人業者が醸造した醤油は約4,500石まで増えています.

 1926年には,南満州鉄道沿線各地,奉天・営口・遼陽・大連・旅順・長春などで生産が行われている事が満鉄資料から読み取れます.
 但し,これらの工場は何れも中小企業経営のものでしたので,生産量が少なく長続きしていません.

 1930年代から40年代にかけては,こうした中小企業に代って,大手企業が大陸に進出していきます.
 例えば,銚子のヤマサ醤油,野田のキッコーマン,小豆島の丸金醤油が代表例です.

 ヤマサ醤油の場合,味噌や醤油を輸出する為に,1940年に満洲ヤマサ株式会社を資本金10万円で設立しました.
 ところが,国家総動員法が1938年に成立し,生活必需品の統制が進んでいくと,原料の穀類を自由に輸入できない状況となり,醸造もままならない事になります.
 勢い,輸出品として製造する事も出来ないので,原料である大豆・小麦が豊富に収穫でき,塩も関東州で入手出来る事から,満洲での現地生産が検討される事となり,生産工場設立を出願し,1942年に味噌・醤油工場建設が認められました.
 資本金は,最終的に100万円に増資し,本社から工場長や営業部幹部が移住すると共に,内地の工場から工場設備や機械類を送付しました.

 1944年から満洲ヤマサ株式会社として,醤油の出荷を開始します.
 当時は,新京の民豊街に製造本工場,住吉町工場の2箇所の工場を持ち,原料は全て大陸産,販売先も全て地元だったそうです.
 住吉町工場は1942年秋から生産開始,本工場は1943年秋から生産を開始しました.
 工場と言っても,住吉町工場は本当の町工場で,従業員は14人,炊事担当の女性1名を含み,2名が管理職の日本人で,残りは全て現地採用の満洲人でした.

 品質面では好評だったそうですが,満洲系の醤油とは製法が異なり,値段も高価だった事から,一般庶民の手には入る代物ではなく,購入先は大部分が日本人で,少数の満洲貴族,ホテルの需要に留まりました.
 また,太平洋戦争の進展は,中国大陸に於ても原料の高騰,売値,特に軍への納入価格は非常に低く抑えられ,大きな赤字を出していたそうです.

 満洲ヤマサは,その後,日本人従業員の根刮ぎ召集で日本人幹部は3名だけとなりますが,満洲の人々の手で工場は稼働し続けました.
 敗戦後,この工場は中国所有のものとなりましたが,日本式の醤油醸造はその後も続けられたそうです.

 キッコーマンは,1935年に奉天で資本金100万円を投じて製造会社を設立,丸金醤油は,1940年に満洲の遼陽市に資本金200万円で醸造工社満洲醤油株式会社を設立し,1942年には朝鮮の馬山に朝鮮丸金醤油株式会社を資本金100万円で設立しています.
 敗戦後も,後者は蒙古食品株式会社と名称が変更され,今でも存続しているそうです.

 中国大陸だけでなく,東南アジアや北米大陸にも日本醤油生産工場の設立が画策された事があり,1907年にコロラド州デンバーで醤油醸造を手がけた日本人がいたり,昭和期に野田の茂木啓三郎と言う人が,シンガポール,クアラルンプール,メダン,シボルガなどの東南アジア地域に醤油工場を作って回っています.

 意外に,工場の海外進出は醤油が先頭を行っていたのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/24 23:07


 【質問】
 乃木希典(のぎ・まれすけ)って誰?

 【回答】
 乃木希典(1849~1912)は,江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれた陸軍軍人.
 西南戦争では薩軍に連隊旗を奪われ負傷.
 日露戦争では第三軍司令官(中将)に任命されたが,旅順要塞攻略に半年近い歳月を費やし,6万人もの死傷者を出した.


 【質問】
 「乃木大将の畑」とは?

 【回答】
 乃木希典と言う人は,根っからの農本主義者だったそうで,退役後は那須の原野に分け入り,木を伐採し,根を起こし,鋤を振って畑や田んぼを開墾していました.
 後に学習院の院長として東京で生活することになりますが,それでも自邸の一角に野菜畑を拵え,学院から帰ってきたら肥やしを運び,種を蒔くと言った生活をしていたそうです.

 現在でも,乃木坂の塀一つ隔てた場所に残っています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008/05/13 23:13


 【質問】
 乃木大将が殉死したとき,大半の軍人は気が狂ったとしか思わなかったが,マスコミが
「明治天皇に殉じた真の忠臣!」
とか煽ったため,いつのまにか英雄に祭り上げられたと聞いたことがありますが,これは事実でしょうか?

 【回答】
 若干違う.

 乃木の自殺のときに言われてたのは殉死じゃなく軍部の派閥争いに絶望したんじゃないか?という見方だよ.
 口には忠義を言いながら実際には勢力争いに明けくれる山県,桂,寺内らに乃木が憤激したんだ.
 乃木の遺書はそんな感じになってるし,だいたい「殉死」の二日前には山県の家に行って「軍隊を私兵化せざること」とかいった意見書を渡して,「この文書の内容を天皇に上奏してもらいたい」と迫ってる.

 これが殉死なわけねーだろ,常識的に考えて.

 じゃあ殉死ってことにしたのは誰か?

 犯人は森鴎外だよ.
 あいつ晩年,歴史小説ばっか書いてたろ?
 「興津弥五右衛門の遺書」って小説を乃木の告別式の当日に中央公論に載せたんだ.
 こいつは熊本藩で起きた古い殉死事件がテーマだけど,告別式当日だぜ?
 鴎外が言外にどんな意味を含ませてたかは猿でも分かる.

 そんなわけで殉死イメージが広まっちまったのさ.
 小説家の影響力は現代じゃさっぱりだけど,戦前はすげー大きかったからな.

 ったく脚気の件といい,鴎外が軍人にからむとロクなことがねーぜ.

◆iqK7ZoWK2. in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日露戦争後,日本に朝鮮人飴売りは,なぜ出現したのか?

 【回答】
 さて,飴売りと言えば,先に述べた様に,江戸時代の飴屋は朝鮮帽子に中国服,それにチャルメラ携えて,それを吹いたり,怪しげなパフォーマンスをしていたのですが,これらは全てが日本人でした.

 しかし,明治維新が成立し,朝鮮半島に進出して行くに従って,鉄道などのインフラ工事で食い詰めた人々が,20世紀初めには日本に渡ってくることになります.
 1907年8月には鹿島組請負で九州の肥薩線が,同じ時期には兵庫県北部の山陰線が建設され,これらの工事には半島から連れて来られた朝鮮人が,大量に従事していました.
 この他にも京都宇治川の水力発電所,岡山の宇野鉄道建設工事にも同様に朝鮮人が投入されています.

 彼等は安価な労働力として,国内各地の炭坑や鉱山,鉄道工事現場に投入されていきますが,そうした労働現場の竣工に伴い,失業した人々や,その労働現場で身体を壊した人々は,路頭に放り出されることになりました.
 ただ,中国人と同様,朝鮮人でも相互扶助の精神は十分にあり,職を失っても,朝鮮人が集まる部落に辿り着きさえすれば何とか生活は出来ました.
 そして,そうした彼等が編み出した生活の手段が,飴売りだった訳です.

 その初見は1909年3月1日の大阪毎日新聞で,朝鮮服に長煙管を加えた格好の「朝鮮の小父さん」が,神戸の場末の町々では大人気だと言う記事が掲載されています.
 その人気は中々上々で,遂には日本人でも朝鮮人の格好をして飴を売る者も出て来る様に成りました.
 それから類推すると,朝鮮人飴売りの出現は1908年頃と推定出来ます.

 関西の朝鮮人飴売りの拠点は,神戸市の荒田町,大阪市の玉造清堀町,難波新川等にあり,親方の下に数名の売り子がいて,同じ家で生活するケースが多かったと言います.
 荒田町の棟割長屋に住む李徳栄なる人物は,日本語が達者な40歳代の男ですが,彼の下には8人の売り子がいましたし,同じく李鳳俊には11名の売り子がいました.

 朝鮮人の親方だけでなく,従来からの日本人飴屋の下に朝鮮人がいたケースもあります.
 大阪では南区田島町の奥田富三郎と言う飴屋の親方には,数名の朝鮮人売り子がいましたし,東京本所区緑町の小林栄次郎なる飴屋の親方の下には,朝鮮人17名,日本人数名の売り子がいたと言います.

 こうした経緯を見る限り,元々は日本人の親方の下で仕事をしていた朝鮮人の飴売りが,やがて独立して親方となり,子分として朝鮮人を抱える様になったのが正直な所のようです.
 と言うのも,彼等の売る飴は,朝鮮半島独自の飴ではなく,日本人が売る飴と変わる所もないとされているから.
 また,日本人の飴売りとは違い,香具師を通した商いでも無かった様です.

 先の李鳳俊親方の場合,飴1箱を78銭で卸し,売り子はこれを1円から1円60~70銭で売りました.
 親方の利益は1箱当り20銭ほどだったそうですが,売り子の商売道具一式は親方の持ち物で,これを貸し与えて利益を得ていました.
 売上は早朝から15時までで,成績の良い者は12箱を売り上げますが,悪い者は夜中まで掛かって1箱を売るのが精々だったとされます.
 その出で立ちは,簡単な金巾木綿で屋根を張った,テント張り状の小屋の売台を,十文字に掛けた紐で引っ担ぎ,市内を往来したと言うもので,このスタイルは東西でも変わり有りません.

 飴を買うのは主に子供ですが,神戸では人力車の車夫,広島では肉体労働者の様なブルーカラーによく売れたと言います.
 これは藺草の取入れ時期によく売れたと言うのと同じ様なもので,貴重な栄養供給源だった訳です.

 朝鮮半島の飴売りの場合は,飴売りは屋台を担いだものではなく,駅弁売りの様な平らな箱を首からぶら下げ,笠(サッカッ)を被って,右手にヨッカウイ(飴鋏)を持ち,これをチャキチャキと鳴らしてそれを触れ歩きの声として町を歩きます.
 であるので,朝鮮半島のスタイルでも無いのが判ります.

 金物との取り替えに関しては,朝鮮半島でも日本でも同じ様に行っていました.
 こちらはどちらが先なのかはよく判りません.
 廃品回収業との関係は,これからの研究課題と言えそうです.

 こうした朝鮮人の飴屋は,1910年代に繁栄を謳歌した後,1917年には激減しました.
 これは,束にした紙や竹の籤棒を引いて,当れば大量の飴をあげると言う売り方が,射幸心を煽るとして規制されたこと,日本人の朝鮮人蔑視が拡がったこと,そうしたトラブルに巻き込まれ,利幅の低い飴屋よりも,第一次大戦の好景気で,労働力不足になり,労働者になった方が金が儲かることから,そちらに転身する飴屋が増えたことが原因です.
 尤も,不景気になると再び飴屋に戻る者も多かったと言います.

 それにしても,この朝鮮人飴売りと言うもの,日露戦争の落とし子みたいなものですねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/26 18:52


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