cc

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆戊辰戦争以降 Bosin-háború
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次

幕府歩兵隊

(画像掲示板より引用)


 【link】

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2013/05/23) 【「超」入門 学問のすすめ ――明治維新と現代日本に共通する23のサバイバル戦略】歴史が変わる瞬間とは? 集団が動く「臨界点」の秘密

「哲学ニュースnwk」◆(2013/04/19) 明治維新で中央集権である江戸幕府を潰す必要はなかったんじゃないの?

『実録 天誅組の変』(舟久保藍著,淡交社,2013/2/28)
> 幕府の直轄領であった大和五條(奈良県五條市)は現在でも穏やかな地方都市ですが,文久3年(1863)8月17日,尊王倒幕を目指した一団によって突如占領されました.
> 「天誅組」と呼ばれたその一団は,幕府に追討を命じられた諸藩の包囲を受け,約40日にわたって西吉野,十津川と転戦し,東吉野で壊滅します.

『レンズが撮らえた幕末日本の城(永久保存版)』(來本雅之編著 小沢健志・三浦正幸監,山川出版社,2013/04)


 【質問】
 薩長土肥ってやっぱ 薩>超えられない壁>>長土肥 って感じなんすかね?

 【回答】
 強さ的には,土佐以外は横並びじゃないのかね.

 ただ,薩摩は薩摩以外の軍をあまり信じていなくて,一番危険な所には必ず薩摩がいってたんで,四藩の中では突出して損害が多い.

戊辰戦争の参加人数/戦死/負傷
薩摩 7,306 / 514 / 743
長州 4,600 / 不明(死者200人強という説をどっかで見た)
土佐 2,717 / 94 / 169
佐賀 5,138 / 75 / 113

 長州は農民出身の兵隊が多かったが,江戸時代の毛利の政治が良かったために,挙国一致な精神が浸透していた.
 練度もあった.

 肥前はやる気はともかく,装備の良さが異常.
 特に砲関係.
 支藩・武雄領2万1600石で,戊辰戦争時の出兵兵力が,
4大隊839人
6ポンド・アームストロング砲6門
4.5ポンド・フランスボーム砲(臼砲)2門
野砲4門
 小隊長以上はレミントン銃装備.
 藩士・足軽はスペンサー銃装備.

 なにこれ(´・ω・`)

漫画板,2013/04/24(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 薩長「官軍」の大将をした皇族は征大将軍と言わなかったのですか?

 【回答】
 東征軍大総督といった.有栖川宮熾仁親王が務めた.
 大村益次郎が作詞をしたこの歌の「宮さん」とは有栖川宮熾仁親王のこと.

宮さん宮さんお馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ

一天万乗の 一天万乗の
帝王に手向いする奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す薩長士
トコトンヤレ トンヤレナ

(日本史板)


 【質問】
 島原の乱では幕府側に実戦経験者がほとんどいなかったため,大苦戦を強いられたという話を聞きましたが,してみると太平の世が長く続いた後の戊辰戦争は,戦術的に戦国時代に比べて稚拙だった,ということがあるのでしょうか?

 【回答】
 海外からの情報は入ってきていましたし,外国人教官による近代軍制教育もありましたから,島原の乱ほどではありませんでした.
 それに,その前に天狗党の乱や征長戦が二回に渡ってありましたから,戦いの記憶が全くない状態で戦争を始めたわけではありません.

 尤も,幕府や有力大名家ならまだしも,1万石程度の小さな大名家などでは未だに甲州流軍学,と言うところもあったみたいですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/11/09(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 鳥羽・伏見の戦いにおいての幕府軍の敗因はなんでしょうか?
 素人考えかもしれませんが,いくら新式の武装をしていた薩長といえども,根拠地から遠く離れた戦場で武器・弾薬・食料の補給は困難に思います.
 幕府軍は大阪城にでも篭って持久戦を強いて,その間に中国地方諸藩に薩長の補給路を絶つように指示すれば,楽勝のような気がします.
 何なら数では圧倒的に勝っているのだし,ソ連軍のようなウラー攻撃でも何とかなったような気が・・

 【回答】
 戦術レベルでいうと,幕府軍の側は指揮官が駄目だったという話があります.

 鳥羽伏見は一般的なイメージとは違って,各部隊の中で一番装備も訓練度も高かったのは,フランス式の教練を受けた幕府の一部精鋭部隊でした.

 ただし幕府軍には,士気もないし武器も酷い部隊も混じっていて,ただでさえ統一的な行動を取るのが難しかった上,指揮官の質で,実戦に鍛えられた薩長に大きく劣っており
ました.
 指揮官が,連隊長クラスから小隊長クラスに至るまでぐだぐだでした.

 そのため,先に高台に大砲を運び込み,少ない部隊を効果的に使った新政府軍相手に,自らミスを繰り返して負けたという塩梅.
 幕府軍の中にも僅かにいた有能な士官が,先頭に立って指揮するうちに狙撃でやられると,士気崩壊して総崩れになったり.
 あるいは迂回攻撃をかけるべきところ,正面からの攻撃に終始してしまったり.
 なぜか京都人は街を焼かれたのに長州贔屓で,伏見では薩摩の陣地に向けて上がろうとする幕府軍に対し,
「うちの敷地を通るのは許さん!」
と抵抗する町人が多く出て,刺激するのを恐れた幕府軍が変な遠回りしてるうちに撃たれ放題とか,悲しい話が.


 以下引用;

------------
http://www.okashi-wakou.co.jp/kyo-pont/ohagi.html

 元治元年(1864年)の9月,京都では「長州おはぎ」が大変に売れたそうです.
 「長州おはぎ」とは,盆の上に3個のおはぎを三角形に並べて,その上に箸を寝かせたものでした.
 長州藩(萩藩)城下町の「萩」をあらわす「おはぎ」を,萩藩主毛利家の家紋「一文字三星」になぞらえて,三角形に3個並べて箸を添えて出されたのが「長州おはぎ」.
 当時は36文で売られていました.
 これは長州藩の公称石高「36万石」を象徴したものです.

 この「長州おはぎ」を買う時には,作法がありました.
「負けてくれ(安くしてくれ)」
と買う者が言うと,
「一戦(一銭)も負けられん(安くしない)」
と売り手が答えます.
 この作法には,禁門の変,幕府による長州征伐など苦境に立っていた長州藩を応援したいという,当時の京都に暮らす人々の想いがあったといわれています.
 このような長州藩を支持する民衆の心情は,「長州贔屓」(ちょうしゅうびいき)と呼ばれ,公の舞台で政治的な批判をすることが許されなかった時代を物語っています.
------------

◆yoOjLET6cE :軍事板,2008/10/19(日)
漫画板,2014/11/05(水)(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分

▼ 鳥羽戦については,根本的には,まさか薩長が武力抵抗するとは思わず,行軍隊形のまま新政府軍の散兵による待ち伏せの十字砲火を食らったことが敗因です.
「大阪に留まって様子を見るべき」
という進言も有りました.

軍事板,2008/08/17(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 幕末(鳥羽伏見の戦いの前まで)で各藩や幕府軍が,大軍を船で輸送したというのは事実なのでしょうか?
 事実だとしたら明確なソースを教えてください.

 【回答】
 いくつも例はあります.
 あの鉄道網が未整備なあの時代は,海路の戦略機動が圧倒的に優位です.

 1863年に,幕府の老中小笠原長行が,兵1600人とともに横浜から大阪へ.
 幕艦3隻と外国傭船2隻で紀州まで運び,そこから幕艦4隻に乗り換えて大阪へ上陸.
 これは幕艦鯉魚門と外国傭船の併用です.
 鯉魚門のほかには蟠龍艦と朝陽艦を使っています.傭船は2隻.
 紀州から加入した1隻については不知.
 京都の武力制圧を企てていたともいわれます.
 会津藩が京都進駐するときも,幕艦による海上輸送が検討されてます.

 第2次長州出兵の際には,幕府の歩兵4個大隊の輸送に艦船が使われました.
 前線でも両軍が上陸作戦やってます.

 鳥羽伏見のときは幕府側が大阪湾の制海権を押さえ,陸兵の集結に活用.
 また敗戦後にも,徳川慶喜の移動だけでなく,残存部隊数千の江戸転進に海上輸送.

 戊辰戦争中の事例は後方の部隊輸送,上陸作戦的な敵地機動とも数多く,顕著な例として新政府軍が
仙台進駐(600人),
平潟上陸(諸藩洋式艦3隻・1500人),
新潟上陸(諸藩洋式艦6隻・1000人)
あたりでしょうか.
 旧幕府側も色々やって,例としては伊庭八郎の遊撃隊200人以上の真鶴行きで,200~300石積みの和船3隻を幕艦大江丸で曳航して運び,途中から独立航行させてます.
 新潟方面での輸送支援に派遣された幕艦順動丸は,新政府艦隊に捕捉撃沈されました.

◆yoOjLET6cE in 軍事板,2009/02/22(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 鳥羽伏見の戦いによって京都が蒙った被害は?

 【回答】
 さて,混乱の中,新政府が誕生して間もない1868年に話は飛びます.

 その正月3日未明,会津,桑名藩兵を中心とする旧幕府軍15,000名が大坂城から京都に向けて出発します.
 一方の防衛軍は,国許から到着したばかりの最新兵器で武装した薩摩・長州軍に加え,安芸や土佐の藩兵を加えた5,000名.

 両陣営は,夕刻に鳥羽街道の赤池付近で接触し,互いに戦闘を開始し,伏見奉行役所や竹田口,八丁縄手,横大路近辺で戦闘を繰り広げます.
 伏見の過半は放火により焼失した他,下鳥羽や横大路近辺でも所々放火による火災が発生し,3日に渡る戦闘が行われました.
 結局,この戦闘は旧幕府軍の惨敗に終わり,6日には伏見から淀まで撤退していきます.
 この時の戦闘で,伏見は3日の17時に出火し,翌日まで燃えさかります.
 5日には淀が燃え,6日には八幡,橋本,楠葉,枚方近辺で火災が起き,伏見だけで家屋4,582軒,土蔵108カ所,寺院10ヶ寺,神社3カ所が類焼してしまいました.
 これは,伏見市街の3分の2が焼失した事になります.

 人的被害では,一般市民は資料が残って居らず,判っていません.
 藩兵では,薩摩が62名,長州37名,土佐2名,安芸・福山・久留米と京都の志士が各1名で合計105名,一方の旧幕府軍は,会津が133名,幕兵100名,新撰組30名,桑名が12名,大垣が10名,浜田が6名,淀が3名,岡崎と小浜が各1名の合計296名となっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/07 23:25


 【質問】
 明治維新の折の戦災からの京都の復興に,豪商たちはどんな役割を果たしたのか?

 【回答】
 さて,ちょいと時を遡る事,1865年,第二次長州征討により諸物価が高騰し,前年に復興を始めたばかりの京都の町衆を直撃します.
 例えば,白米1石の京都小売相場値は,1863年秋に銀171匁,1864年春に銀189匁だったものが,禁門の変直後の1864年秋に銀269匁,1865年春に305匁,1866年春は679匁,1867年春には遂に1,148匁と4年前の10倍近い値段になっています.

 この諸式高直現象に対して,京都の両町奉行所は1865年閏5月に,物価高の原因を輸送の不円滑,そしてその原因は関係業者の横暴と認定していますが,更に,復興に乗じて儲けていた大工,桧皮,瓦師,左官,日雇等の日当が法外に引き上げられているとして,大工頭などの業者に対して,労働賃金の引き下げを命じると言うとんちんかんな対応.
 このため,先年の火事の罹災者や貧窮者は益々困窮していきました.

 この救済には2つの流れがありました.
 1つは,救荒備蓄米を粥にして貧民に与えた奉行所の方.
 もう1つは,京都の有志住民による粥施し場の設置で,此処では浄土宗報恩寺,法華宗本隆寺,日蓮宗妙満寺,立秋壬生寺,祇園林下町の御救場の6カ所にて運営されました.
 此処では1人前に5合ずつ粥を施す為に,午前2時から粥を炊き始め,1カ所で米穀が3石5斗消費されました.
 これらの粥施し場に来たのは3,300名に達し,1865年9月11日から翌年の3月10日まで毎日施しが行われています.
 そして,正月は3が日,7日,15日に1人前小餅10個ずつが振る舞われています.

 この粥施し場を運営したのはボランティアの人々で,寄付をしたのは延べ1,083名に達しています.
 大口の寄付は,
金100両が室町の布屋,問屋町の柏屋,
50両が四条新町の升屋,
40両が室町と四条烏丸の2つの伊勢屋,六角柳馬場の丁字屋,
銀100貫目が新町の三井組,
30貫目が衣棚の島田八郎右衛門,烏丸の小野善助,堺町の越前屋,
300枚が御池の美濃屋,
100枚が東洞院の雁金屋と室町の柊屋等となっています.
 金100両は,現在の貨幣価値に換算すると大体320万円,銀100貫目はその10倍の3,200万円.
 当時もいかに三井が金を持っていたかがよく分ります.

 因みに少額ではありますが,金1,300疋,つまり銅銭13,000枚を寄付したのが大田垣蓮月尼,金1両2分を寄付したのが富岡鉄斎です.

 大田垣蓮月尼は,女流歌人でかつ陶芸家.
 その捻り茶碗は有名ですが,実は彼女の作は少なく,陶工を補助に雇っていたら,何時の間にか陶工がその技を覚えてしまい,この諸式高直の中,何とか生きるたつきを与えてくれまいか,と言う嘆願に応えて,彼らが作った捻り茶碗に,せっせと箱書を書いてあげたそうです.
 普通の人なら,出入り禁止になるのでしょうが,そこは風流の世界に生きた人ですから,中々酸いも甘いもよく弁えていらっしゃいます.

 ですから,中身は本人作ではないのですが,陶芸の世界では箱書が真贋の全てを握っていると言っても過言ではなく,箱書は真筆なので,本物として通っているものが多いそうです.

 富岡鉄斎は洒脱の風で鳴らした新進画家で,幼い頃に大田垣蓮月尼に預けられた人.
 国学にも通じ,後に,維新の世の中になると,大鳥神社の宮司に補せられたりもしています.

 そして,ええじゃないかで湧き上がる混乱の最中の1867年10月13日,徳川慶喜は諸大名家に大政奉還の意志を披瀝し,翌14日に大政奉還の上表を朝廷に提出,15日になると朝廷から勅許がこれに下され,名実共に徳川幕府は消滅します.

 その後,市中争乱の最中の12月9日,朝廷は王政復古の大号令を下し,有栖川宮熾仁親王を総裁とする新政府を発足させ,12日には徳川慶喜が,在京の幕府兵,会津,桑名両藩の藩兵等約1万と京都守護職,京都所司代,両町奉行所と言った全幕府行政機関の役人を率いて,二条城を退去して大坂城に入りました.
 京都の新政府は,取り敢ず御所の北東,一条院宮里坊を仮政庁とし,有栖川宮総裁の下,三条実美,岩倉具視,中山忠能など9名の公卿からなる議定と,福岡孝弟,由利公正,後藤象二郎,大久保一蔵,木戸準一郎,西郷吉之助等14名の参与が「政務」を執る事になります.

 とは言え,幕府の行政機関が根刮ぎ消滅してしまったので,京の町は混乱し,12月15日付の新政府からの達しにより,町奉行所の権能は,当面,丹波篠山の青山因幡守忠敏,近江膳所の本多主勝正康穣,丹波亀山の松平図書頭信正の各大名家が担う事になりました.

 京都の新政府は,上記の弥縫策を採る一方,官僚組織として総裁,議定,参与の三職の他,神祇,内国,外国,海陸軍(当初は海陸軍であり陸海軍ではありません),制度,会計,刑法の七科からなる組織を作りました.
翌年,鳥羽伏見の戦から戊辰戦争に至る頃の閏4月には,太政官の中に立法専門の議政官,司法専門の刑法官,行政を司る行政,神祇,会計,軍務,外国の五官制度に変わり,1869年2月にはそれを変更して神祇,太政の二官と民部,大蔵,兵部,刑部,宮内,外務の六省を置き,太政官の中に左右大臣と大納言,参議を置く制度に変わりました.
 これが1871年7月には,廃藩置県による中央集権体制を作る為三度変わり,太政官制を改正して,別に天皇親臨の最高決済期間である正院,正院配下の立法機関として左院,各省長官連絡審議の行政の場として右院が設けられ,更に1875年には左右両院を廃して元老院と大審院が設置される…など朝令暮改の連続でした.

 また,地方行政では1868年現在,大名家261家と天領81カ所がありましたが,天領は政府領に組み込み,府又は県の名で知事を置き,大名は藩となって,大名に統治させる二元統治体制を取ります.
 しかし,それは長くは続かず,1869年6月には版籍奉還により旧藩主を知藩事に任命し,藩主達は石高の10分の1を政府から給与されるサラリーマン官僚となります.
 そして,1871年7月に廃藩置県となって261の藩は全て県となり,1使(北海道開拓使)3府(東京・京都・大阪)302県の制度となりました.

 この様に,国としての体制は整えられていくのですが,如何せん,この国の新政府には金がありません.

 まず1867年12月,責任者に福井藩士の由利公正が任命され,新政府部内に金穀出納所が設置されます.
 そして,26日,さしあたっての資金調達として,三井組の三井三郎助,島田八郎左衛門,小野善助の3名に,金穀出納所から達し書が出されています.
 例えば,三井三郎助に宛てた達し書にはこうあります.

――――――
 天下の政事は都て朝廷より仰出らる可きは勿論の儀に候得共,未だに幕府より会計方の引渡し無ければ,恐多くも一金の御貯これなき姿にて,何分にも御手薄の御儀なり.
 其組(三井組の事)儀は年来輦下に住居し,往昔より禁裏御両替相勤め来り候儀に付,更に金穀出納所御用達申付け候.
 此御場合を恐察し奉り,急ぎ勤王一途に尽力致せ.
――――――

 文面は高圧的ではありますが,相当泣きが入っているのがよく分ります.
 そして,この3名は4日後にポンと1,000両ずつ献金しました.

 三井は,三井住友銀行や,三井物産,三越など様々な企業体を形成していますが,元々は伊勢松坂出身の三井八郎兵衛高利が1673年に江戸に開いた越後屋呉服店に始まり,その仕入れ先が同じ年に京都に設置されました.
 当時の当主は三井八郎右衛門高福ですが,それより若い三郎助も同族の重鎮となって活動しています.
 本拠は京都油小路通押小路上ルにありました.

 島田は,元禄年間に山城国綴喜郡内里村(現在の京都府八幡市)から京都に奉公に出た島田八郎左衛門が始祖で,独立して呉服屋の「蛭子屋」を開き,後に江戸の出店にも成功して,更に両替商も兼ねました.
 本家の八郎左衛門家の他,与三右衛門家,善右衛門家の2つの分家から成り,合わせて島田組を名乗りました.
 本家の店舗は,衣棚通姉小路上ルにありました.

 小野は,江州高島郡大溝村(現在の滋賀県高島市)から京都に出て来た善助が始祖.
 小野善助は,1705年に上洛し,東北産の生糸を買い集めて西陣機業に供給する商法で成功し,やがて両替商を兼ねました.
 この小野も,善助家,助次郎家,又次郎家の3つに別れていましたが,維新期には3つの家で小野組を組織しています.
 総本店は,烏丸通押小路上ルにありました.

 明けて1868年1月19日,三井・島田・小野は改めて計10,000両を政府に納め,2月11日には天皇の大坂親征費用として3人で計30,000両を納めました.
 因みに,この時は大丸の下村正太郎も10,000両,伊勢屋弥太郎など他の両替商6名も計10,000両を献上しました.
 更に閏4月3日には三条実美が大監察使として江戸に下るに際し,三井・島田・小野で計40,000両を献上しています.

 この頃になると,一般市民も献金を行い始め,市民の献金は,1,074口,金35,566両強に及んだと言います.
 口数は1,000口ちょいですが,実際には何とか町衆とか,何とか借家中と言った集団献金も多く,実際には相当数の市民が献金をしたと考えられています.
 最高額は,船橋清左衛門の1,500両,鳩居堂主人の熊谷久右衛門等6名が1,000両,以下500両,100両と続き,平均的には5両が圧倒的に多かったと言います.
 因みに最低額は,柿本うの両人で各2朱となっていました.

 この他,戊辰戦争に赴く官軍への現物献上として,酒119樽,晒木綿50疋,餅1石5斗,鰹節25箱,壬生菜500貫目と言った実用品から,変わった所では,鶴1羽に扇子3箱と言うものまであったそうです.

 まぁ,地元に権力が帰ってきたと言う事で,郷土愛から出たものでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/08 23:29
青文字:加筆改修部分


目次へ

「戦史別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

inserted by FC2 system