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戦史FAQ目次


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 【質問】
「幕末において水戸藩が目立った動きをできなかったのは,『大日本史』の編纂を明治後期まで延々と,藩財政の1/3を使ってまでやっていたからだ.
 それを始めた水戸光圀が,その元凶」
というのは本当ですか?

 【回答】
 それが水戸藩の役目だったのだから仕方がない.
 光圀が勝手に始めただけなら,ただでさえ財政圧迫しているのに,明治後期までやるわけがない.

 もっとも,水戸光圀公は名君ではなく,とんでもない暴君だった.
 放漫財政で藩財政を破綻に追い込み,領民には重税をかけ,仏教を弾圧して多数の寺院を破壊した.
 光圀が無茶苦茶したせいで,水戸藩は藩士からの借金無しでは藩の経営ができなくなり,光圀の養子は藩主失格の烙印を押された末に,水戸藩からは将軍を出さないという伝統までできてしまったとさ.テラヒドス.

 その結果,失政の責任をとらされるかたちで隠居に追い込まれている.

日本史板


 【質問】
 水戸学とは?

 【回答】
 さて,今日は水戸の話.

 尊皇攘夷運動の急先鋒に立っていたのは長州毛利家もありますが,水戸徳川家も負けず劣らず,この運動にのめり込んでいます.
 しかし,長州はその後坂本竜馬の仲介で薩摩と手を組み,討幕運動に邁進していった上,その後の明治政府でも重きを為したのに対し,水戸は結局,内部的にグダグダになって,明治維新の回天の際には,殆ど活動できませんでした.
 これは勿論,最後の将軍である徳川慶喜が,水戸徳川家の当主である斉昭の息子だったと言うのも少しはありますが,どちらかと言うと,水戸徳川家は自らの内訌のために自壊したと言うべきでしょう.

 その原因の一つに挙げられるのは,水戸学であり,それを継いだ人々の過激な運動に,領民が付いてこなかった為でもあります.

 その水戸学の基を作り始めたのは,第2代当主の徳川光圀です.
 光圀は,史記の伯夷伝を読んで感動し,大義名分論に基づく朝廷崇拝の念が強く,小石川の水戸本邸内に彰考館を設置し,神武天皇から後小松天皇までの歴史を書いた『大日本史』を,1657年2月27日から編纂し始めました.
 この書物は,1720年に250巻が幕府に献上されましたが,実際には未完で,その後,明治時代に入って1906年に全397巻の『大日本史』が完成しています.
 その書物では,神功皇后を后妃伝に入れ,大友皇子を帝紀に列し,南朝を正としているのが三大特筆です.
 つまり,北朝は無かったことになっている訳で….

 更に,光圀は神戸の湊川神社の創建にも関わっています.
 ある日,1人の日蓮宗の僧侶が,小さな墓石を見つけ,これが楠木正成公の墓であると言って,光圀に墓碑銘を依頼してきます.
 光圀は快諾して「嗚忠臣楠子之墓」と揮毫し,その場所が後に湊川神社となった訳です.
 これは,明から亡命して水戸徳川家に寄寓していた儒学者の朱舜水の影響から来たものと言われています.

 光圀の下には,様々な人々が集まってきました.
 まぁ,金があり,鷹揚で,文化的なパトロンとなっている人でしたから,学者も多く来たのですが,中にはあの垂加神道を創始した山崎闇斎の門弟も多く招いています.
 尤も,垂加神道を興す前は,禅宗の僧侶で,長じて土佐の吸江寺に移り,土佐山内家の家老だった野中兼山に師事して儒学を学び,還俗して後,朱子学を谷時中に学んで闇斎学派,別名崎門学派を興しました.
 垂加神道を創始するのはそれから後の話ですが,朱子学を批判して原論に帰れと主張した古義学の伊藤仁斎等は,
「闇斎,僧を厭い儒に帰し,晩年神道を主張す.
 もしこの人長寿ならば,ついには伴天連とならん」
と,その主義主張の一貫性のなさを皮肉っています.
 それはさておき,朱子学の学者として,水戸では崎門学派の門弟を多く抱え込みます.

 一方,光圀は国学の研究も支援しようとします.
 その中でも当代一流と言われた下河辺長流,契沖を招こうとしますが,結局彼らは招聘を固辞しました.
 しかし,契沖の『万葉代匠記』は光圀に奉じられたものです.
 その後,契沖から荷田春満,その弟子賀茂真淵から本居宣長で国学は大成されますが,その曙光を光圀は支援した訳です.

 この他,光圀は明の僧心越禅師を迎えて祇園寺を創建したり,京都本圀寺の僧日隆を招いて檀林を設けたり,以傳僧正を那珂の西方寺に,良雲僧正を吉田の薬王院に招いたりもしていますし,親鸞聖人の旧跡である稲田の草庵にも屡々巡拝し,親鸞の嫡男である善鸞の子孫である如高が住持をしている願入寺を岩船に造って寺領300石を与え,那珂川の渡船の賃銭を全て願入寺に収めさせて手厚い保護を行うなど,仏教も深く保護しています.

 しかし,たとえ相手が僧侶であっても,曲がったことは大嫌いな質で,光圀像の碑文には,「神儒を尊んで神儒を駁し,仏老を崇めて仏老を排す」とありました.

 とは言え,四角四面なばかりではなく,明から心越禅師を迎えた際には,丁寧にもてなして主食を饗応しましたが,禅師の度胸を試そうとして,宴もたけなわの時,隠れさせていた家来に,突如鉄炮を発砲させ,驚かせようと言う悪戯を試みています.
 因みに,この時の禅師は全く動じることなく,平然と杯を手にしていたそうです.
 一方でそんな悪戯を仕掛けた光圀も,「発砲は武家の習い,失礼仕った」と平然と言ってのけたそうな.

 これにはオチが付いていて….

 宴がはねて,別の部屋で光圀と禅師が快談半ばにして,禅師は急に大声で「喝~~~っ!」と叫びます.
 光圀は思わず,杯の酒を零してしまいました.
 で,禅師曰く,「喝は禅家の習い,失礼致しました」と平然と答えたと言います.

 まぁ,こんな面白いエピソードがあるのも,権力の行使よりも,学問を追究しようと言う面が光圀にあったからかも知れませんが,これが権力と結びつくとおかしくなっていきます.
 それが水戸徳川家を迷走に陥れていく訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/14 22:30

 さて,幕末の水戸徳川家.
 幕末になると,水戸徳川家は,どんどん過激になっていきます.
 その中でもまだ森尚兼は,不染居士と号して『護法資治論』全20巻を著し,仏法の排斥を諫めましたが,過激派にはそうした事は通じなかったようです.

 同じ討幕を志した長州は例えば吉田松陰にしても,僧の月照や黙霖などと親交があり,深く仏教を信奉して,水戸過激派の様な排仏主義には批判的でした.

 しかし,水戸の場合はその頂点にいた斉昭を始め,そのブレーンだった藤田東湖,会沢正志斎等が排仏思想を盛んにしていた訳です.

 藤田東湖の父である藤田幽谷は,水戸学を論理的に体系化し,彰考館総裁として『大日本史』の編集に尽力した人物でしたが,その偉大な父を超えようとして背伸びした人間にありがちな視野の狭さで,東湖は,
「仏教を信じるものは愚民であり僧侶は悪賢くて,人民を誑かす道具に仏教を使っている.
 これに善良な民衆が騙されている」
として,仏教や僧侶を攻撃し,
「日本古来の神を崇め祀ることが,日本人の信仰の中心でなければならないのに,現在僧侶が天下の神々を全て仏の末流に隷属させ,神の森に伽藍を創立して神仏を並べて祀り,僧侶と神人が一緒に生活している.
 しかも,その主観者は僧侶である.
 更に朝廷の典礼でさえも仏教儀式を用い,葬祭をはじめとする種々の儀式さえも仏式で行われているのが実情である」
と嘆いています.
 こうした人物ですから,惟神説を引っさげた平田篤胤が入ってくると,自らの地位が危うくなります.
 従って,篤胤を排斥したのではないか,と邪推も出来ます.

 そうは言っても,東湖が信奉している朱子学などは,江戸に入ってからのわずか200年足らずの学問であり,仏教のそれと比べると大きく違いますが,そんなことなどは全くアウトオブ眼中状態でした.
 朱子学は合理的情理性があって然るべき学問なのですが,残念ながらそこまで東湖は人間が出来ていません.
 何しろ,「大きらゐほとけぼふずに薩摩芋なまける人に利口ぶる人」と詠んだくらい,僧侶は憎い存在だったのです.
 そこには朱子学本来の合理的情理性などは微塵もありません.

 もう1人の会沢正志斎も,
「異化(仏教)の徒は横肆にして,天下の財を傾けて以て堂宇を造り,天下の穀を費やして浮冗(無駄なもの,つまり僧侶のこと)を養う.
 天下の仏寺は殆ど50万,僧尼及び奴隷を通計すれば,その幾百万なるかを知らず.それ浮職の民,かくのごとくそれ多く,米穀を費やし農功を妨ぐるもの,ことごとくそれおびただしくして,年穀も甚だしく豊穣ならず」
などと,自分のことを棚に上げて仏教徒を天下の無駄飯食いと言ってはばかりません.
 で,
「本地垂迹の説起こりて,赫たる神明も,胡鬼の分支余裔の如く説きなし,民をして神天を胆仰するの心を移さしむ,『天に二日無く土に二王無し』と申ごとく,至尊きものは二つ無き道理なるに抗弁を以て『天下に万乗の君よりも尊く,太初の神明より尊きもの有り』と説き為して,万民の心を蠱惑す.これ民を欺き世を惑わすの甚だしきに非ずや」
と述べているのですが,要は唯一神道を興し,吉田社を復興して,神道を以て国家の柱としようと言うものであり,仏教を完全に異端化してしまおうと言うものでした.

 その頂点に立つ斉昭も,人後に落ちぬ廃仏論者でした.
 斉昭は,仏教のことを「蛮夷の道」と言って,異端邪説と決めつけ,民を欺き世を惑わすものと言い,民衆が父母先祖を仏などと呼ぶ様なことは迷いの甚だしいものであると言って,民衆が仏教側に付くのを警戒しました.
 その割に,斉昭は歴史を理解しておらず,「仏教は中世以降のものだ」などと記録に残しています.

 こうした人物が頂点にいたのですから,水戸の仏教寺院は好い迷惑です.
 天台宗の薬王院,真言宗の密蔵院,宝鏡院,文殊院,浄土宗の常福寺,浄土真宗の上宮寺,真仏寺,願入寺,時宗の神応寺,臨済宗の常照寺,江林寺,日蓮宗の願成寺,本法寺,妙雲寺,蓮性寺,久昌寺など,光圀が尊崇した寺院や幕府と縁故の深い寺院も軒並み処分されました.

 斉昭や藤田東湖等によって描かれた水戸学の根本精神は,「奉神州之道,資西土之教,忠孝無二,文武不岐,学問事業,不殊其效,敬神崇儒,無有偏党」ですが,その実は,神道の興隆とともに仏教寺院の破却に仏像や仏具類を鋳潰すと言った施策を実施した訳です.

 また,葬式についても,仏葬を禁じ,「自葬式」なるものを新規に始めました.
 これは,
「人が死ねば家人の手によって一切のことを経営し,埋葬が終わると,それを仏ではなく神として祀る」
と言うもので,町人だと五人組で取り扱わせ,祝詞紛いの「葬詞」なるものを唱えさせ,墓石には「…神」と神の字を彫らせました.
 こうして,経営的にも寺院を圧迫させ,最終的に260ヶ寺を廃寺に追い込み,除地や施物の接収で500石余の利益が水戸家に転がり込んできました.
 因みに,自葬はその後も廃仏毀釈とともに全国に広まりますが,中には自葬と称してこっそりと仏式で葬式を営んだり,或いは殺人を犯しても自葬ならば露見しないと言う,不道徳的風潮も発生し,結局,1872年6月26日に政府は漸く政府自らが自葬の禁止を通知しています.

 何れにしても,水戸徳川家の当主は代々定府大名です.
 斉昭は改革の名の下,自領の中のことなどは全く考えず,机上の論理と理想論だけで突っ走った結果,領民の心を壊す挙に出て,幕末には当主に近い人々と,領内の生え抜きの人々との血で血を洗う抗争劇を招いてしまったといえます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/15 23:42

 さて,水戸徳川家の廃仏は激しいものがありました.

 尤も,斉昭の方は最初は躊躇するところはありましたが,周囲の藤田東湖や結城寅寿等が斉昭を扇動して,遂に斉昭も毒食らわば皿までと言う心境になっていったと考えられます.

 例えば,常磐山に東照宮がありました.
 これは1621年に初代頼房が勧請したもので,宮領は500石,別当寺は大照寺でした.
 この東照宮は東照三所権現と言い,中央には家康衣冠の木像を安置し,左には山王権現の影像,右には薬師十二神の内,寅の神である古麻多羅神の影像を掛けていたと言います.

 元々東照宮は家康を神に祀ったものですが,これを東湖達は神式に変えようとしました.
 流石に,初代の勧請でもあり斉昭は即決できず,関白の鷹司政通に書面を以て尋ねましたが,「勝手次第に」と言う返事しかもらえませんでしたし,家臣からも幕府のお伺いを立てるべきであるとして,一旦この事は沙汰止みになりました.

 ところが,執政をしていた結城寅寿は無理に斉昭に断行を勧め,この東照宮を唯一神道に改めてしまいました.
 その上,歴代当主達の霊廟も,その後次々に神式に変更してしまいます.

 因みに,それ以前から斉昭は仏寺の統廃合を進めていました.
 これは財政の逼迫を来し始めた時に寺の資産に目をつけたのと,沿岸防備の砲台を作る際に金属が必要となり,その金属を寺の仏具や梵鐘に求めた事が遠因です.

 これも,1832年2月に東湖から斉昭に書簡を送ってから始まりました.

――――――
 一体国の儀は義公様(斉昭)格別の尊慮を以て,他国より仏寺も少なく,僧尼も少しござ候処,恐れながら御一代にはお手回り兼ねあそばされ,ご子孫様にておって御志をお継ぎ遊ばされ候様にとの尊慮と恐れ察し奉り候う処,その後は余りお世話もあらせられず候う故,ただ今に相なり候うては,恐れながら一得一失と申す気味もこれ有り,御廟瑞龍の外,向山山寺これあり,お祭りご法事又はご普請その外全て両様に相成り居り,御家中も右同様の労これあり候う間,これらの儀は何となく御仕方遊ばされ,大道は次第に行われ,異端はいつとなくわれしらず衰え候うようにつかまつりたく存知奉り候
――――――

 更に5月にも書簡を送っています.

―――――
 西山公(光圀)の御事業大願目の儀,一端たらず候えども,右の内御廟瑞龍ご御創建,神道御崇敬,一郷一社の御定め,寺院破却遊ばされ候う類,ゆくゆく大道を明らかにし給うの卓識明々了々と存知奉り候う.
 尤も久昌寺並びに盤舟寺の事,恐れながら英雄の御奇術とも申し上げ奉るべき候う処,世間の尋常の人,その御深意は相分らず候う故,両寺の僧徒は勿論,世間の人も西山公は法華ご信仰又は仏教御帰依等と心得違い候う者も少なからず候えども,これは無識の論取るに足らずと存知奉り候う.
――――――

 先日,光圀を取り上げた際には,彼は禅師とも普通につきあっていますし,様々な僧侶とも交流を重ねており,神道一辺倒ではなかったのに,東湖は光圀を崇神者であって,崇仏者ではないと嘘を言い,しかも,光圀は自分に厳しい分,他にも厳しく接した事を,都合良く曲解し,更に久昌寺や盤舟寺を廃したのも,光圀がやったのではないのにも関わらず,光圀がやったのだから,斉昭だって出来ると,まぁ,坊ちゃん育ちの貴族を騙している訳です.

 結局,1836年以降本格的に寺社廃合の儀を原田兵助に下し,それを実行することになります.
 海岸防御の為の大砲鋳造は,1841年に最初に行いましたが,すぐにその資材は底を尽きます.
 そして,1842年12月には領内寺院に対し,濡仏・撞鐘供出を命じました.
 その為,濡仏は石に代え,鐘は板木で間に合わされて,供出は強制されました.
 これで供出された金属を用いて,斉昭は大砲を鋳造させ,それは屡々繰り返されます.
 こうした動きには領内でも心配する向きも多く,戸田蓬軒は人心を激高させることになると,斉昭を諫めますが,結城寅寿がこれに反駁して遂に諫言は通りませんでした.

 この結果,水戸徳川家の藩政改革は,寺社の犠牲の上で為され,剰えその金属で砲台を築造出来たので,幕府から報償まで得て,水戸徳川家の勢威は高まりました.
 こうした状態では,誰も斉昭,東湖,寅寿ら家の重鎮に意見できる者はいなくなります.

 更に寺社奉行には,今井惟典と言う者が就任します.
 彼もガチガチの廃仏強硬派で,東湖ですら「氷の様に冷たく,人を憎む心強い,度量のない人間」と評しているほどでしたが,そんなのが寺社奉行になったのですから,水戸家の寺社にとっては推して知るべしです.

 益々,寺社廃合は加速されていき,1843年6月には寺社改正の令を発し,仏教寺院の完全破壊と僧侶の還俗を強制させました.
 この結果,真言宗寺院89,法華宗寺院13,曹洞宗寺院24,天台宗寺院11,浄土真宗寺院8,浄土宗寺院26,禅宗寺院3,時宗寺院5,臨済宗寺院17の合計196寺院が破却されてしまいました.
 この時,惟典は仏像を薦包みにして縄を掛け,奉行所に送って積み上げ,踏み散らしておいたり,またある仏体は水戸に送らずにその境内にて斧で打ち割り,或いは火を掛けて焼きました.
 また,光圀の遺跡である久昌寺の破却では,寺蔵してあった光圀の面を奉行所に持ってきて,眉間に書かれていた妙法蓮経の題目を,指先に唾を塗って刮げ落とすまでのことをしています.
 その上,墓石は全て取り払い,墓所を引き均して畑にしてしまいました.

 この様な状態では,とても領民はこの土地で安心して生活することなど出来ません.
 最初に見た様に,基本的に領民は檀家であり,仏教徒です.
 これらの行動は,斉昭や東湖等にとっては,水戸学の机上の論理を実行に移しただけですが,それは他者の信仰心を踏みにじる行為であることに気がつきませんでした.
 そして,水戸領民は斉昭を憎悪します.
 これ以上廃仏の措置が有るのならば,兵を興して仏恩に報いようとまで相談し合っていました.
 まさに,水戸領内は実は一触即発の状態にあった訳です.

 また,咎無くして寺院を毀され,追放された僧侶達は,更に斉昭を憎悪しました.
 彼ら僧侶達は,東照宮の別当職を解かれた上野吉祥院と共に,内外相応じて斉昭の政策の非を攻撃しました.
 その上,常福寺と薬王院は,江戸の増上寺や寛永寺の宮門跡を動かし,幕府に対する水戸徳川家の廃仏政策の批判書を提出します.

 丁度その頃に,幕府の大老として井伊直弼がいました.
 直弼は,斉昭の幕府に対する物言いに深い嫌悪を抱いており,この時とばかり,それを利用します.
 1844年,幕府は水戸徳川家当主の斉昭を,
「無断で大砲を鋳造したこと,寺院を破却したこと,東照宮を神道にしたこと」
の咎により,隠居謹慎を命じることになりました.
 その後,桜田門外ノ変で井伊直弼は暗殺されるのですが,その切っ掛けは何も日米和親条約を締結したのが切っ掛けでなく,自分たちが蒔いた廃仏が切っ掛けだったとも言えます.

 兎も角,斉昭の隠居や東湖の圧死などで,取り敢ず,水戸の廃仏は収束しましたが,これが後の明治時代に起きた廃仏毀釈の原型になっている訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/16 22:57


 【質問】
 幕末における尾張徳川家の状況は?

 【回答】
 江戸時代の下級武士は,一応,扶持米を給されているとは言え,元禄以降は貨幣経済が発展し,武士と雖も,ものを銭で購わないと生活出来なくなりつつありました.

 従って,江戸でも旗本は兎も角,御家人以下の人々は,その広い敷地を利用して,商品作物を作ったり,手工業に精を出したりしています.
 伊賀同心とか鉄炮同心などの観葉植物作りとかは代表例です.

 これは大名家でも同じで,有名なのは上杉家で,紅花作りに精を出していたりします.

 今回は尾張徳川家の話なんぞ….

 尾張徳川家では,当主が代る度に経済政策や相続法が改変されていました.
 相続法の場合,無役,若死,養子相続をした場合は禄を半減するとか,養子相続をせざるを得ない場合は家名断絶にすると言う時代もありました.
 また,家中の武士に対する扶持米も,当初は現品が支給されていましたが,時代を経るに従って,暴落しても一切保証無しと言う藩札や米切手での支払いに代っていきます.

 相続にしても,御付家老の成瀬家と竹腰家,船奉行の千賀家,鉄炮玉薬奉行,茶道師匠,台所頭,鷹匠については子孫にその相続を約束されていましたが,他の家臣の場合は,厳格な審査を経ないと相続が許されない時期もありました.
 まあ謂わば,それが家臣のリストラをする手段になっていた訳です.

 これでは優秀な家臣が居着かない可能性がある為,内外情勢が緊迫してきた19世紀の半ばになって漸く改革が行われ,家臣の給与を全て世襲制とした世禄制が確立します.
 尾張徳川家の場合,100~500石までの中級家臣が全体の7~8割を占めていましたから,給与が安定するのは何よりの朗報と言えましょう.
 但し,尾張徳川家は何時も多額の負債を抱え,経済政策の腰は定まらなかったりします.

 1846年,田原の赤羽根沖にDenmarkの黒船が通過するなど,Hollandの海の盾を失った日本は,列強の開国の目標となっていきます.
 尾張徳川家でも,多額の負債を抱えつつも,上田仲敏と言う洋学,蘭学を修めた者に800石の禄高を与え,彼に様式の大砲を鋳造させ,知多半島には砲台を設置しました.
 また,尾張徳川家お抱えの16~17あった砲術流派にも国家老を通じて,沖に現われた異国船を,どの様に打ち払うかの戦術を研究する様指示があり,各流派の砲術家がそれぞれの作戦を答申し,鉄砲場では頻繁に鉄炮の試し打ちを行ったり,抱え大筒,棒火矢,子母砲の訓練を実施し,時には死者が出る事もありました.

 しかし,西洋事情を探ると,それまでの火縄銃と甲冑では対抗できないことが判明し,西洋式に軍備を改める必要に迫られます.
 1849年に尾張徳川家は,砲術家達に西洋式の鉄砲の研究を奨励し,上田仲敏を銃陣師範を命じます.
 こうして,尾張徳川家では逸速く西洋式銃隊の編成に取りかかりました.
 この頃,大砲は70両,小銃は3~5両しました.
 上田仲敏は『西洋砲術便覧』を著し,各砲術家達はそれを自流派に取入れて稽古に活かすようになります.

 元々,武術の流派は全てが秘伝で,口伝が建前でしたが,西洋式銃隊はそんな悠長な育成方法では編成出来ず,門弟に対し,手書きの教科書を作成し,それを渡して口伝の代わりとしている流派もありました.

 尾張徳川家の砲術の主流派は,御多分に洩れず稲富流で,その流派の大沢無手右衛門が鉄砲頭となり,御手筒同心組の指導を行っていました.
 次に重用されたのは田付流で,こちらは砲術を通して礼法も又厳しくしつけた為,御側組の指導役となります.
 それ以外の10数流派の砲術は諸流派と呼ばれ,その他一般の武士が学ぶものでした.

 『元禄御畳奉行の日記』で有名な朝日文左衛門重章が弟子入りした水野作兵衛もその流派の一つでした.
 因みに,朝日文左衛門は酒で身を滅ぼした後,養子は病没,御家は断絶しています.

 ところで,上田仲敏の西洋式銃隊の編成に抵抗して,隠居願いを出す守旧派も多数いたのは時代の流れでした.
 その後,1854年になると,日米和親条約が締結され,日本は佐幕派と勤王派,攘夷派,開国派入り乱れて幕末に突入していきますが,尾張徳川家は,その中でも一番混乱した大名家の一つでした.

 14代慶勝は徳川義直の孫,高須松平家10代目義建の次男で,1849年に宗家を継いで尾張徳川家当主となりますが,彼は攘夷論者で,井伊直弼が勅許を得ずして通商条約に調印したのを激しく指弾.
 これが井伊直弼を頂点とする幕閣の忌諱に触れ,一橋派にも睨まれて,1858年7月,安政の大獄の最中,別邸に軟禁されました.

 その慶勝の後を継いだのが,その弟で第5子の15代茂徳です.
 彼は,高須松平家当主から横滑りした人物で,1861年に従二位権大納言に叙任します.
 しかし1862年,兄である慶勝が復帰して従二位権大納言に叙任,1863年には将軍家茂の補佐となります.
 慶勝支持派は勢いを増し,勤王に統一されるかに見えましたが,当主である茂徳を蔑ろにした行為は,彼を意固地にさせ,佐幕派へと追いやっていきます.

 ところが,慶勝が復権した後は今度は攘夷急進派である「金鉄組」が助長して,尾張徳川家を分裂させかねない状態に成った為,茂徳は退隠を決意し,1863年に致仕します.
 後に,徳川慶喜が将軍となった後の一橋家を継いだりしていますが….

 で,この茂徳の後は16代義宜が後を継ぎますが,彼は慶勝の第3子で6歳で元服し,父を後見に封を継ぐと言う事態になり,彼は明治になると若死にして,再び慶勝が17代を襲名する,とまあ複雑怪奇な状態に成っています.

 尤も,水戸徳川家のような昼ドラの争いにはなっていませんが,結構家臣達も立ち位置の確保に苦慮しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/08 22:48


 【質問】
 松平斉貴について教えられたし.

 【回答】
 松江松平家九代当主である松平斉貴は,松江では「やんちゃ殿さん」と呼ばれています.
 これには,「些か困った殿様」と言うニュアンスが含まれています.

 この斉貴,不昧公の孫ですが,先代当主の斉恒が若死にした為,1823年に僅か8歳で家督を継ぎ,20歳前後では世に利発な殿様として知られる人物と成っていました.
 特に,幼少の頃から江戸城に上がっていた関係で,様々な事を実際に目撃し,それを小姓に口述筆記させたので,その書物だけでも長持ちに何棹もあったそうです.
 先例踏襲の幕府は,こうした記録を参考とするため,御城坊主を通じて老中が教えを請うほどの人でした.

 ところが,30路前に政治に飽き,鷹狩りや馬鹿囃子に熱中し,遊び惚けて大酒酔狂淫蕩甚だしく,参勤交代を怠けて松江に帰らなくなりました.
 遂に,家老塩見小兵衛の切腹諫死を受けて慌てて帰国する有様でした.

 こうした状態を憂えた家老の三谷権太夫・忠太郎親子は,広瀬松平分家家老の片山主膳達と諮って,斉貴を廃し,広瀬松平家当主を松江本家の当主に据えようと工作しましたが,これは藩主派に露見して失敗します.
 それでも,この事件を契機として,松江家臣団は,親戚の越前福井,美作津山,肥前佐賀の諸大名家と諮って主君押込め隠居を実行し,津山から松平済三郎を婿養子に迎えてこれを十代当主定安として届ける事になります.

 謂わば,島津家の島津重豪の様な人物(あちらは此処までとち狂ってはいませんが)で,元々が利発な人間なので,時代の先が見えすぎてしまったのかもしれません.

 その「やんちゃ殿さん」は,西洋の新知識の導入を積極的に行いました.
 これは大名家財政が潤っていたからかもしれませんが,西洋の時計を360個集め,時計の間の掛として,小川友忠と言う人を置いて研究させ,藩費にて『西洋時辰儀定刻活測』を出版させたり,電信機,エレキトール,噴水機,写真機などを購入しています.

 その写真機では,これも家人で写真術を習得させた北尾徳庵に自分の肖像を写させ,これが島根初の写真として残っています.

 更にこの斉貴個人の財布を財源に,藩医達が多くの西洋医学書を購入しています.
 これらの多くは,松江松平家が設立した洋医学校の教科書となりました.
 特に本人が中風となると,洋医の竹内渭川院,戸塚静春を迎え洋医学の処方に基づく診察投薬を信頼していますし,天然痘についても,種痘を理解し,貧しい人たちにも無料で種痘を施したので,「出雲では痘痕面が少ない」と評判でした.

 斉貴は測量や砲術にも興味を示しました.
 藤岡雄市はそれらの学問に秀でた事もあり,斉貴は其の学才を愛して天文や航海の書を与えていますし,幕末に活躍した箕作阮甫も,地理学や蘭学を学ばせて遂には士列に引上げ,阮甫の著作は藩費を以て出版しています.
 砲術は斉貴自ら高島秋帆の弟子,下曾禰金三郎を師と崇め,荒川扇平や佐々六郎などを彼の下に派遣して学ばせ,最後には下曾禰の賓客だった金森錦策を家中に召し抱え,松平家軍用方の西洋軍学の指導を依頼しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/15 18:05


 【質問】
 松平定安について教えられたし.

 【回答】
 「やんちゃ殿さん」の後を受けたのが松平定安でした.
 彼は津山松平家の松平斉孝の4男坊で,1852年,17歳の時に斉貴の娘で1850年生まれの煕姫の婿養子となり,1853年に斉貴の押込め隠居で直利として襲封することになりました.
 この年は,諸事多難な年で,6月には黒船来襲があり,そして家斉が薨去,家定が13代将軍に就任する激動の年でしたが,家定の将軍就任に際して,新将軍の偏諱で定安と改名しました.

 因みに,津山松平家は,松江と同じく越前松平から分離したものですが,こちらは一旦改易された松平忠直の系統が御家再興を果たしたものです.
 ですので,津山松平家は,自分達こそ結城宰相の本家と云っていたりする訳で….

 そんな事は兎も角,津山は蘭学が盛んな地でした.
 江戸詰藩医に,桂川甫周・杉田玄白・前野良沢等と交友のあった宇田川玄随がおり,その養子宇田川榛斎は,箕作阮甫や緒方洪庵の師でもあり,宇田川榛斎の養子宇田川榕庵も,近代科学の導入に大きな役割を果たしています.
 斉貴も定安も,この津山蘭学の影響を大きく受けていると思われます.

 また,各地に異国船が出没するようになって,海防が重要になってきますが,松江松平家の海防政策は不昧公の時からに遡ります.
 18世紀末から19世紀初頭に掛けて唐船番が組織され,海岸各地に台場が築かれ,台場は幕末には18箇所にまで増設されていました.

 1855年4月になると,大砲生産の為,松江の袖師に反射炉を建設しました.
 この企画製作は,斉貴の時代に計画されています.
 これより早い反射炉建設は佐賀の2箇所しかなく,江川太郎左衛門の伊豆韮山は1857年,毛利家の長門萩は1858年の完成で,隣国の伯耆六尾は,1857年と相当先を行っていました.

 1855年7月,国入りしていた定安は,大橋川で安流丸を検分しています.
 この安流丸は,長崎で建造された西洋型帆船で,西風の吹く宍道湖を間切りながら西進し,人々を驚かせたそうです.
 また,1862年10月には,長崎で鉄製汽船ゲーセル号と木製汽船タウタイ号を購入し,それぞれ一番八雲丸,二番八雲丸と名付けて使用されています.
 一番八雲丸は,最初幕府艦として,次いで新政府の用艦として重宝されました.

 因みに,幕末の動乱期,家門の立場から2回の長州出兵に参加し,西園寺公望とあわやと言う場面はありましたが,越前松平家の取成しなどがあったからか,定安は隠居して弟が後を継ぎ,松江は浜田とは違って戦場にはなりませんでした.
 1868年8月14日,勤王の意志を示す為,奥州出兵を奏上し,9月8日,朝廷の許可を得て藩兵300名を羽州佐竹家救援のため派遣する事になりました.
 その後,出兵数は400名となり,最後は460名が出兵しています.

 彼等は9月17日に松江を出発後,美保関まで徒歩行軍し,20日朝,新政府軍の飛龍号に乗船.
 22日午後に出羽土崎港(今の秋田港)に到着しました.
 この日は,会津城が陥落,会津保科家が降伏し,実質的に奥羽動乱が終結した日です.
 ただ,局所的な戦闘が続いていた為,諸方面の守備を命じられ,卒1名が死亡しました.
 10月22日,訪れる寒空と風雪に備え,防寒用として朝廷から毛布1着が配布され,11月5日,松江藩兵は酒田に駐留し,此処で越冬する事になりました.

 しかし,東北の寒さは松江の冬とは又違った寒さであり,12月25日にはケット1枚が追加支給されています.
 1869年8月10日,漸く酒田での駐留任務が解かれ,25日に酒田を出発,往路とは逆に徒歩で松江まで2ヶ月掛けて帰還し,10月25日に帰還しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/15 18:05


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