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◆◆◆強兵 "Erősíti a Katonai"
<◆◆新政府誕生以降
<◆明治維新 目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

「司史生の浮草雑記」■(2010/03/19) 明治海兵隊(サムライ・マリーン)


 【質問】
 明治初期に存在した兵部省について質問させてください.

「明治初年(1869年)に軍務全体をあずかる機関として誕生.
 陸海軍・軍備・兵学校のことなどを統轄したが,1875(明治8)年に廃止.
 陸軍省・海軍省が新たに設置された」
との事なのですが,せっかく兵部省の下に陸海軍の両方を置いていたのに,その兵部省を廃止して陸軍省・海軍省の2つに分けてしまったのは何故でしょうか?
 2つの省に分けるより,1つの省の下に陸海軍を置いたほうが良さそうにに思えます.
 一つの防衛庁の下に陸海空自衛隊があるように.

 【回答】
 外征用軍隊への転換の際,そのほうが良いと考えられたため.

 兵部省から海軍が分離したのは,明治5年のことです.
 元々,日本の軍隊というのは,中央政府軍としての御親兵と,地方の治安維持のために鎮台を各地に設けているところからスタートし,その人材は,各大名家の藩兵から募っていた訳です.
 しかし,徴兵制が施行され,平民出身の兵士が各鎮台に入営し,歩兵聯隊9個が編成されました.
 また海軍も明治5年以降拡張が続きます.

 明治政府になってからは兵部省の名の下,陸軍とそれに付随する形で海軍がありました.
(但し当初は,名称順が太政官の下,海陸軍務課,海陸軍務総督という格好で,海陸軍と言う位置づけでした. 「陸海軍」と海軍が従になったのは,明治5年からの事で,明治初年は海陸軍と称しています.
 余談ながら,原敬はその日記で,死に至るまで「海陸軍」と書き記していたそうです)
 なので,兵部省の組織=陸軍の軍政組織でもあった訳で.
 当時はフランスの影響を受けて,シビリアンコントロール的な形で,兵部卿が全体の軍政を統括しようとしていました.

 しかし,屋上屋を重ねる感じになっているのと,誰を兵部卿にするか(薩長の対立が既に始まっている訳で)で揉める形にもなりました.

 また,国内治安優先の軍隊から外征用軍隊への転換を促したのは,兵部大輔の山県有朋で,彼は1871年12月,兵部少輔の川村純義,西郷従道と共に,政府に「軍備意見書」を提出し,常備兵,予備兵からなる徴兵制導入,軍艦,海岸砲台の建造,幹部養成学校や軍工廠の設置を行ない,しかる後に朝鮮半島を利益線として確保し,ロシアの南下に備えるとしました.

 これを実現するには一つの組織では難しく,結果的に分割した方が良いと言うことになり,陸軍省と海軍省を並立させた訳です.

 最終的に海軍が陸軍から自立するのは1903年,勅令第293号の戦時大本営条例を待たなければなりませんが,少なくともそれまでは,(語弊はありますが)一つにまとまっていた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/12(木)
青文字:加筆改修部分

 ※1872年に兵部省から,陸軍省と海軍省に分かれて独立し,後に陸軍省の参謀局が昇格して,独立機構の参謀本部が出来上がる.
 初代の参謀本部長は山県有朋.
 しかし海軍の将官は,参謀本部長が『陸海軍』の統帥権を握っていることに不満を持っていた.

 そして暫くは『陸主海従』の状態が続くのだが,1893年,日清戦争の直前の頃になると海軍は「陸軍は朝鮮海峡に自力で橋をかけて,朝鮮に兵を送るのだろう」と嫌味を言ってきたので,止むを得ず海軍が独自の統帥機関をもつことを認めた.
 これが軍令部となるが,陸軍は戦時に,陸軍が最高統帥権を握ることを確保する為に,「戦時大本営条例」を制定し,参謀総長を『統合幕僚長』とし,戦時には参謀次長と軍令部長をその配下に置くこととした.
 そして日清戦争はなんとか『陸主海従』で乗り切った.

 日清戦争で北洋艦隊を破り,発言力を増した海軍は,『統合幕僚長』に海軍軍人がなれるように迫りまる.
 陸軍はこれに勿論反対,戦時だけでなく平時にも『統合幕僚長』を置くことを主張し,陸軍の参謀総長が『統合幕僚長』を兼任する体勢にするべきだと主張し,明確に『陸主海従』を貫こうとする.

 しかし,今度は日露戦争が不回避となり,海軍の協力を得るために山県はまたもや譲歩せざるを得なくなってしまった.
 しかし,統合幕僚長に海軍軍人に取られるくらいなら,いっその事なくしてしまえ,と言う事で統合幕僚本部を廃止.ここに陸海並立が成立.

 後は,知っての通り,互いに別々の仮想敵を設定したり,予算の取り合いの為に師団増設なり八八艦隊計画などを立てたりと,やりたい放題になってしまったと言う訳.

軍事板,2006/01/12(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治時代前半の軍人,特に将校や下士官て,やはり薩摩長州の武士上がりが多かったんですか?
 それとも,旧幕府側でも将校や下士官になる道は開けていたんですか?

 【回答】
 東条英機の父親の東條英教は明治維新で奥羽越列藩同盟に参加した盛岡藩の藩士の息子.
 維新当時はまだ10代半ばだったが,その後,陸軍に入り中将にまで昇進してる.
 ただ薩長閥でなく山縣と対立したために,中将までしかいけなかったともいえるが.

 日露戦争で猛将として有名だった立見尚文も,幕府側だった桑名藩の出身で,こちらは維新の戦いでもガチで戦い続けた勇者.

――という風に旧幕側でも維新後に軍人になったものも多くいる.

 特に,維新の英雄だった西郷隆盛が起こした西南の役で,多くの旧幕出身者が政府側の兵士として戦ったことが,ひとつの契機になっている.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明治の国軍草創期に,仏式と独式のどの軍制を採用するかで論争があったようですが,両者の優れている点と欠点を簡単に教えてください.

 【回答】
 フランス式白兵主義は堅固な陣地,要塞に依って相手の火力をかわし,機を見てそこからの火力支援を得て相手に接近,歩兵の白兵突撃によって一挙に勝敗を決しようという思想で,ロシア軍もこの立場をとりました.

 これに対してドイツ式火力主義は,迅速機動する小銃・砲兵火力の集中によって相手を圧倒しようという考え方であり,歩兵の白兵(銃剣)突撃に頼ることなく,火力で勝敗を決しようとする戦術思想です.
 敵の柔らかな部分を突くために,それだけで戦略単位として使用できるような形になっています.

 前者は,それなりの築城技術が必要で,拠点防御の観点からは優れており,また,築城の費用は掛かりますが,軍単位の編成費用はそれほどかからない(前線の兵員・装備を主に整備すれば良い)のですが,反面,機動性は低く,それを迂回されると意味を為しません.
 普仏戦争のフランス,日露戦争のロシアがこの思想で軍制を作っていました.

 後者の欠点としては,機動性が良い反面,円滑にそれを移動させる体制が必要ですし,火力の集中が必然となる為,それだけの火力をどのように補充するか,後方の(軍需産業を含めた)支援体制の整備が不可欠で,その実現には費用が掛かります.
 また,前線部隊以外の輜重,医療などの後方部隊も含めてそれが丸ごと一つの戦略単位となる為,人員配備の規模が大きくなり,必要となる人的資源も増えます.
 当然,その維持,管理には多大な費用が掛かる訳で.

 例えば,1868~77年の日本の政府予算に軍事費が占める割合は,平均15.9%でしたが,1878~82年の平均で17.3%に上昇し,1883年以降は常時20%以上となっています.

 日本では戊辰戦争以来,白兵攻撃が地上戦闘に最終決着を与えるものと考えられていたが,実践において白兵戦術が効力を発揮しえたのは,西南戦争初期まででした.
 西郷軍の白刃攻撃自体,弾薬欠乏から余儀なくされたものだったが,初期においては,政府軍もそれへの対抗策として警視抜刀隊の白兵突撃などに頼らねばなりませんでした.

 しかしこの種の斬り込み戦法は,開戦後1ヶ月で過去のものとなりました.
 政府軍は先込め式のエンピール銃から元込め式のスナイドル銃へと装備を切り替えつつありました.
 スナイドル銃は,姿勢を変えず,着剣したままで射撃できたので,白刃を振り翳して突撃してくる西郷軍将兵は,小銃の集中射撃と銃剣の「槍ぶすま」によって次々に倒されました.
 白兵突撃の優位性は,小銃火力の集中使用によって崩されたのです.
 日本陸軍のドイツ式火力主義軍事思想を受容する基盤は,これを機に形成されました.

 以後の日本陸軍にとって,普仏戦争に勝利したドイツ兵学の影響力は圧倒的なものでした.
 日清戦争後,1898年に改定された「歩兵操典」は,基本的にはドイツ陸軍の88年版「歩兵操典」のコピーでした.
(厳密に言えば,88年版ドイツ「歩兵操典」をコピーしたのは1891年版「歩兵操典」だが,98年版「操典」は,その91年版「操典」を,日露戦争の経験に基づいて若干改訂したものであり,両者はドイツ式火力主義に貫かれている点で差異はないと言える).

 日本陸軍は,このような軍事思想を取り入れたばかりでなく,戦略・戦術の基本を「モルトケ直訳」と言われるほどにドイツ式に塗り固めます.
 日露戦争開戦当初,イギリスの観戦武官ハミルトン中将は,日本陸軍の鴨緑江渡河作戦を「純然たるドイツ式」と評しています(ハミルトン<大阪新報社編集局訳>「日露戦役観戦雑記摘訳」上,p.83-84).

 【参考文献】
山田朗著「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,p.23-24 & 29-31

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2004/10/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 質問させていただきます.
 山田朗「軍備拡張の近代史」に,
「フランス式白兵主義とは,堅固な築城(陣地・要塞)によって相手の火力をかわし,機を見て火力の支援によって相手に接近し,歩兵の白兵突撃によって一挙に勝敗を決しようという思想で,〔日露戦争当時の〕ロシア軍はこの立場をとった」
という一文がありますが,とあるBBSでこの話をしましたところ,
「当時のフランス軍がそのような,陣地・要塞にこもった例はない」
と御指摘を受けました.
 考えてみますと,当方にもそのような例は思い当たりません.

 もしそのような例をご存じの方,ないし,ナポレオン3世時代のフランス軍戦術について詳述のあるサイトをご存じの方がおられましたら,ご教示願えれば幸いです.

◆z3kTlzXTZk

 【回答】
 単純に思想としてそういう思想があったけど,現実にそういう機会がなかった,というコトではないのでしょうか.
 フランス軍が参加する戦争そのものが,そもそもどれだけあったのか.
 そのような中で「例がない」ということ自体,反論になっていないというか,
 「はあ,そうですか」という感じがします.

 少なくともナポレオン1世の時代には,縦隊で突っ込んで白兵戦で相手を倒すのがフランス流なことは間違いありません.
 火力を活かす横隊戦術は高度な訓練が必要ですが,縦隊で突っ込ませるだけなら,市民革命が生んだ,国民を招集した錬度の低い兵士でも出来るからです.
 そしてそれ以降大きな軍事用兵思想の変化がないのだとすれば,横隊縦隊といった現象面での変化があっても,
白兵戦>射撃戦
という思想そのものが残存する蓋然性は,高いのではないでしょうか.

ナポレオン◆vYVYAtFe0o in 世界史板

 あと,一次大戦初期のフォッシュ元帥は,その理論の体現者に思えるが.

世界史板


 【質問】
 「一番形拳銃」って何?

 【回答】
 1878年(明治11年),日本海軍向け拳銃として始めて輸入された,S&W のラシアンモデル.
 口径 10.66mm,装弾数 6発.
 海軍ではその後20年ほど輸入して使用,一方,陸軍では拳銃は自弁であり,こだわりを持つ士官は他の拳銃を購入したという.
 つまり制式拳銃というより,いわば「指定拳銃」.
 1893(明治26)年に国産の二十六年式拳銃が登場するまで,士官や砲兵の護身用に使用された.
 ちなみにアメリカン・モデルは,「二番形拳銃」と呼称された.

 【参考ページ】
http://yonyon.dum.jp/collection/rev/swNew3/index.html
http://hneck.web.fc2.com/warJAweapon1.htm
http://page.freett.com/sukechika/meizi11/03wepon/meizi07-2.html

【ぐんじさんぎょう】,2011/06/11 20:40
を加筆改修

日本で使用されていた,という触れ込みの一番形拳銃(S&W No3ラシアン)

滝部 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年05月24日 22:35
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 武家政権を潰して出来た新政府の軍が日本刀(もどき)を携帯し,精神の拠り所とする事に自己矛盾を見出す人はいなかったんでしょうか?

 【回答】
 その「新政府」の人間はみんな武士階級出身だぞ.

 日本の軍人が刀を帯刀したのは,まずは西洋の指揮刀をそのまんま取り入れたからだが,
 西洋のサーベル式ではなく日本刀形になってからの軍刀は,「兵衛太刀(ひょうえのたち)」と呼ばれるものを模しており,これは朝廷に使える近衛の士が帯刀していたものなので,「天皇の臣」とし手の軍人が帯刀巣するにはおかしくない,と言うか正統なものだ.



458 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/10/14(火) 02:43:27 ID:???

 「武家政権を倒した新政府」という言葉で,建武の新政のことかと思った.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 これは本当ですか?

「着物の所為で,昔の日本人は殆どが走れなかったそうな.走るのは,飛脚と馬夫とか忍者の特殊技能.
 薩摩や長州が鳥羽伏見で圧勝したのも,西洋風の練兵で走り方と鉄砲の撃ち方をよく仕込まれていたから.

 明治になると,赤紙で集めてきた兵隊がみんな揃って走れない.最初の訓練は走ることだったそうな.
 小学校の制度で,子供の頃から走る練習をしておかないと強い兵隊にならないからと,軍隊の訓練を取り入れたから,それが連綿といまでも体育が軍隊風で体育会系が上下に厳しいとかと,脈を保っている」

 【回答】
 軍事教練の予備段階として,というのは,体育が学校教育に取り入れられた理由の一つだが,昔の日本人が走れなかったというのは誤り.手を振って走る西洋式の走り方が出来なかっただけ.狂言,歌舞伎,落語など古典芸能における走る動作を見ればわかる.

 昔の日本人は同側歩,つまり右足と右手を同時に前に出す歩き方だった.
 これは今でも細かい所に残っていて,畑を耕す時の鍬を持つ動作も,剣道の動作も,右手右足が前に来る.相撲の動きもそう.こういう動きを「ナンバ」と言う.能や歌舞伎でも重視される.
 もっと言えば,日本人には手を振って歩くと言う身体動作の伝統がなかった.もちろん,走れなかったと言うのは嘘.養老先生と甲野なんとかって武道家が対談でそういう意味の事を言っていたので,一部に誤解があるが,いわゆる手を脚とを連動させての全力疾走ができなかっただけで,日本人的な主観においての走る動作はできた.
 ただし,現代の我々の目から見ると,上半身を固めた非常に窮屈な走り方で,全力疾走であっても,現代の小走りに近いフォームだったと考えられている.

 日本人は膝関節を多用した歩き方で,股関節を大きく前後に動かす欧米人の歩き方とは,基本的に異なる.歌舞伎の藤娘などの練習で,膝を帯で縛って歩く練習をするが,日本人はわりとこういう状態でも歩けてしまう.股関節を使わない歩き方を日頃からしているから.欧米人ではこうはいかない.

 逆に,膝をいっさい曲げずに股関節を大きく前後に動かす歩き方はできない.
 日本人がふくらはぎと太腿の前面(大腿四頭筋)が大きく発達し,欧米人や黒人が大臀筋上部と太腿の裏側(大腿二頭筋)が大きく発達しているのはそのせい.

 走ると言う行為自体,一見似ているようでも,実は使ってる筋肉とかには大きな違いがある.
 だから,欧米人的な意味では「日本人は今も走れない」とも言えない事もない.
 いわんや,幕末~明治の頃はなおさら.

 日本人は上半身と下半身の連動がヘタクソで,欧米人や黒人に比較して,僧帽筋や肩甲骨周辺の筋肉に無意識に力が入り易い傾向がある(肩こりになり易い)ので,火事などでパニックに陥り全力疾走する時は,両手をバンザイした状態で走ったりしたようだ.左右に上手く振って慣性モーメントを得られない以上,上に上げて走る邪魔にならないようにしたのだろうか.

 中国の武術でも,本当に威力のある打撃は同側歩なので,モンゴロイドに共通の動きなのかもしれない.
 ちなみに,左足を前にして刀を振り下ろすと,相手に避けられた時に自分の脚を斬ってしまう.同側歩にあわせた技が発達したのだろう.

 アラブ圏の友人に聞いた話なので確証はないが,アラブでは100年ほど前までは,石を投げる場合はサイドスローやアンダースローしか存在しなかったとか.オーバースローで投げると言う文化が存在しなかったからだとか.
 実は野球のオーバースローも,野球発祥の初期の頃は,存在しなかったらしい.より速い球を投げるために,人工的に発明された投げ方らしいのだ.
 身体操作の文化は,実はわりと短いスパンでガラッと変わってしまうのかもしれない.

 ついでにいうと,今の若い人は西洋式歩行に慣れて来たので,着物を着たときにさまにならない.
 そこで,昔は使わなかった数々の矯正用具を使用し,半ば拘束するような着付けをするので,着物は窮屈という話になる.
 上半身を動かさず,ということは着崩れをせずに歩くには,能楽や茶道でも稽古して貰うしかなくなって来ている.
 春秋の筆法を使えば,日本的な意味では「今の日本人は歩けない」と言えない事もない.

日本史板,2004/01/27
青文字:加筆改修部分

 ※坊さん(キリスト教か?)の帽子の形に似た筋肉ですね.首の後ろのヤツ.
  僧帽弁ってのも心臓にあったなあ...と.

名無す in FAQ BBS


 【質問】
 明治期の,踏鞴製鉄を兵器用素材とする試みについて教えられたし.

 【回答】
 さて,一昨日まで日本の洋鉄の話を長々と書いてきた訳ですが,通商条約で関税自主権を保持していない状態では,海外から安価を武器とし,しかも品質の良い洋鉄が続々と入ってきます.
 それも,レールや兵器用などの高品質鋼が入ってくるだけなら未だしも,今まで国内に於いて踏鞴製鉄で供給されてきた銑鉄ですら,海外からどんどん輸入されてくる様になります.
 そうなると当然ながら,需要に対する供給量が過大になって市場は値崩れが起き,和鉄では経費が利益を上回る状態になって,どんどん事業を圧迫してしまいます.

 当然,踏鞴製鉄側は官に対して対策を要望しますが,これら踏鞴製鉄が行われていたのは,官軍に対して敵対した地域が殆どで,影響力を全く行使し得ませんでした.
 更に,廃藩置県で今までの保護者である大名家が消滅してしまうことで,いきなり裸で路上に放り出される様な状況に陥っています.
 こうして,我が国の和鉄産業はじり貧へと陥っていきました.

 何とかその事業を維持する方策はないか,と踏鞴製鉄の経営者が模索し,辿り着いたのが軍用へと活路を見出すことでした.
 その技術を特殊鋼の生産に転換しようとした訳です.

 兵器用素材としての鉄鋼は,一般産業用素材とは異なる高級,かつ良質のものが要求され,特殊鋼は主に軍艦の装甲板や各種銃砲の砲身材として用いられています.

 鉄鉱石や砂鉄などの原料から金属鉄を造る操作は製錬と言い,鋼を造る操作を精錬と言います.
 踏鞴製鉄の鋼精錬は,前述の様に銑や鉧,歩鉧を大鍛治場で加熱し,鍛打することで包丁鉄を造る工程を取りました.
 近代製鉄では坩堝鋼の開発から始まり,転炉法,平炉法,電気炉法が出現しますが,1950年代までは塩基性平炉法が主流でした.

 一般鋼は塩基性炉で造られる塩基性鋼で,圧延工程を経て,圧延鋼材や鋼板材として一般産業用に用いられますが,特殊鋼は酸性平炉や坩堝炉で造られる酸性鋼で,鋳造や鍛造の過程を経て,特殊用途に用いられます.
 特殊用途とは,例えば機械的強度を必要とするとか,或いは高耐食性が求められるなどです.
 また,製造過程的には,一般鋼が,「低珪素銑生産→塩基性鋼生産→圧延鋼材・鋼板生産」であるのに対し,特殊鋼は,「低燐銑生産→酸性鋼生産→鋳鋼品・鍛鋼品生産」になっています.

 また,一般鋼生産に用いられる塩基性炉では燐や硫黄などの不純物を除去出来ます.
 ただ,この過程では強アルカリ性の下で化学反応を行うので,酸性の珪素を含有する原料では炉壁を侵食してしまい,原料は低珪素銑が必要です.
 更に塩基性鋼の精錬過程では,炭素をほぼ燃焼させてから塩基反応で不純物を除去するので,結果として炭素含有量が低い軟鋼が出来上がります.
 即ち,鋳鋼品や鍛工品には向かず,その代わりに圧延鋼材や鋼板,更に抗張力鋼の生産に向いている訳です.

 一方,酸性鋼は加熱だけで原料鉄を熔解する工程だけを行うので,炭素や珪素の除去が出来ても,燐や硫黄の除去は出来ません.
 従って,鋼材の燐や硫黄の含有量を0.03%に抑えるのであれば,原料銑そのものを低燐・低硫銑としなければなりません.
 酸性鋼の精錬過程には化学反応は伴いませんので,ガスや非金属介在物が発生しないと言う特徴を持ちます.
 勿論,その性質から機械的性質も酸性鋼の方が塩基性鋼より優れています.
 そこで,酸性鋼は特殊鋼の基本鋼として採用される訳です.
 そして,兵器にもちいられるのも特殊鋼に当ります.

 その兵器素材は鋼造用合金材,即ちニッケル・クローム鋼が主で,具体的には砲身材料,大砲,水雷,弾丸,装甲板,砲循などが製作されました.
 それ以外は前述の通り,艦船鋼造材料は勿論,速射砲弾丸用丸棒や砲架材等には一般鋼が用いられています.
 兵器素材は一定規格の高品質が厳しく要求されますが,反面,大量生産の対象にはなりにくく,少量多品種注文生産にならざるを得ません.
 此処に踏鞴業者の付け入る余地があった訳です.

 先日来見てきた様に,明治政府は工部省の管轄下で近代的鉱山経営を模索し,製銑工場も工部省配下に置きました.
 しかし,実際には背伸びした無理な計画が祟って,官営釜石鉱山の経営に失敗し,銑鉄生産が思う様に行かなかったどころか,製鋼や鋳鋼・鍛鋼・圧延などの加工部門まで一貫生産出来る状態には出来ませんでした.

 普通の産業であれば,その分を代替輸入すればいいのですが,軍部としては安全保障上の面からも,こうした部分を放置する状態を看過する訳にはいきませんでした.
 一方で,幕府や諸大名家が直轄した軍需用近代的鋳・鍛造設備は明治になると軍工廠に統合され,製鋼設備を含めて拡充することになりました.
 そこで,製銑部門と製鋼部門を経営的に分離し,前者は工部省から民営に移り,後者を陸海軍直轄経営の工廠として育成していくことになりました.

 1882年,築地海軍兵器局にて坩堝鋼が製鋼したのを皮切りに,1889年に大阪砲兵工廠でも坩堝鋼の検討が開始され,1890年には呉海軍工廠と大阪砲兵工廠に酸性平炉を設置,1896年には大阪砲兵工廠に塩基性平炉を設置,1897年に呉海軍工廠の造兵廠に英式と仏式の酸性平炉を設置し,1900年に大阪砲兵工廠に酸性平炉を設置するなど漸進的に改良を重ねて行っています.
 面白いのは,海軍が酸性平炉を設置してその拡充に努めたのに対し,陸軍は酸性平炉を一旦導入しながらも塩基性炉に切り替え,再び酸性平炉に切り替えるなど紆余曲折をしているところですね.

 陸軍の大阪砲兵工廠は1872年から砲の製造を開始していますが,製造した仏式四斤山砲は青銅製,砲架は木製でした.
 次いで,1880年にはイタリアの砲制を導入し,制式材料を青銅と決定しました.
 本来,この時期に陸軍自体も砲身材料として鋼材を利用するべきであると言うことを承知していましたが,国産の鋼砲製造技術が無く,しかも鋼の原料を輸入に頼る他無いが,当時の日本経済ではそれを許さないと言う現実的な判断を行った訳です.
 鋳鉄砲を鋳造したのは1885年,鋼製砲の製造技術を模索し始めたのは1889年からとなります.
 以後,坩堝や小型の酸性平炉による鋼の製造試験が開始されました.

 こうした鋼の製造努力に関しては,1880年に陸海工部省の三省共同で製鋼工場建設計画が議会に提示されましたが,経済情勢が許さずと言う理由で否決されてしまっています.
 丁度,この時期は財政を縮小し,デフレ政策への転換が始まった年で,時期も悪かったのですが,反面,朝鮮半島を巡って日清関係が緊迫し,日本軍も内乱鎮圧用の鎮台兵から外征用の師団兵に改編されていった時期に差し掛かります.
 この為,益々兵器用の特殊鋼が必要とされたのですが,陸軍は一旦制砲を青銅砲に後退させることで原料として国産銅を利用して生産を行いました.
 一方の海軍は,青銅砲は元から利用出来ませんから,始めから海軍内で独自の鋼製造に着手し,その原料として,呉からほど近い山陰地方や広島県北部で生産される踏鞴製鉄に活路を求めた訳です.

 海軍が1875年に英国に発注した扶桑,金剛,比叡の3隻の主力艦には備砲としてクルップ砲が搭載されていました.
 発射試験の結果,成績優秀としてクルップ砲を採用したのですが,その砲材料も海軍は優秀と認め,1878年に海軍造幣大監大河平才蔵をクルップ社に派遣しました.
 また,1880年には海軍造幣総監原田宗助に命じ,築地海軍兵器局内にクルップ式坩堝製鋼炉の設計を行いました.
 1881年に大河平大監が帰国し原田総監と協力して設備及び諸原料の選択,作業手順の検討を経て,1882年には鋳鋼に成功しました.

 坩堝製鋼作業に必要なものは坩堝用の炉材,原鋼とコークスです.
 これを国内産に求める為の研究が続けられ,原鋼は山陰地方の踏鞴鉄製品しかなく,その包丁鉄と玉鋼の鋼質を調査・分析した上で,使用に耐えうると判断しました.
 1883年1月に,伯耆国日野郡笠木産,同国鑪面山産,及び出雲国飯石郡吉田村産,同能義郡上山佐村産の粗鋼を以て,黒煙坩堝を用い鋳鋼精錬を開始しました.
 更に秋には大河平大監が出雲,石見地方を巡視し,数量に於いても,品質に於いても,踏鞴鋼を坩堝鋼原料として適当と認め,それ以来踏鞴鋼を使用して開発を続けました.

 因みに玉鋼というのは現在の意味とは多少違ったりします.
 出雲の踏鞴製鉄の製品には,「銑」「包丁鉄」「鋼」の3種があり,鋼には最上級は「造鋼」,次が「頃鋼」,切り落とし鋼を「砂味」と呼んでいました.
 造鋼は高級刃物材料として出荷され,頃鋼は大鍛治場で包丁鉄の材料とするか,適当な大きさに砕いて軍工廠に納められました.
 その頃鋼の小型のものを「玉鋼」と呼んでいたものですが,何時からか,この「玉鋼」が上等の和鋼を指す言葉になっていったものです.

 さて,この坩堝鋼を地金として,1883年には1インチ口径の四連ノルデンフェルト機関砲を試製し,1884年に完成して命中試験も好結果を納めました.
 次いで,1885年にはクルップ式短7.5ドイム砲を完成させますが,これが日本初の国産鋼製砲でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/23 21:36

 兵器に使う特殊鋼は,酸性平炉や坩堝炉で作られる酸性鋼です.
 従って,前に見た様にその過程で,鋼鉄にとって有害な硫黄や燐を除去することが不可能な為,原料にはそれらの含有率が少ない銑鉄や屑鉄を原料にする必要があります.

 1885年,英国の河瀬公使から井上馨宛に一通の報告書が提出されました.

 この報告書には,ニューカッスルでの銑鉄の種類と価格を調べた数値が書かれており,その銑鉄の価格は原料となる鉄鉱石が,算出する場所によって異なると書かれています.
 そして,英国に於いては英国産のヘマタイト鉱が,酸性転炉又は酸性平炉法による製鋼に適した原料銑鉄の原鉱として優れており,硫黄や燐の夾雑物が無く,60~70%の鉄分を含み,値段が少々高いとあり,同じ報告の中で,英国クリーブランド産の鉄鉱石は塩基性炉法でないと製鋼が出来ないが,英国はその鉱石を用いた銑鉄をフランスやドイツに輸出していながら,自国での製鋼には酸性炉法を用いていると述べていました.
 更に,自国産のヘマタイト鉱を用いた低燐銑では量的に不充分である為,スペインとスウェーデンから銑鉄を購入しており,アームストロング社の鉱石購入先についても触れていて,アームストロングで大砲用に用いているのはスウェーデン鉱であるという報告もしています.

 既に国産砲を試作していた1885年の時点で,明治政府はスウェーデンとスペインの鉄鉱が,世界で最良の高級鉱原料であることを知り得ており,その買い付けの可能性も調査していた訳です.

 酸性平炉法で装入する原料は,一般に高価な低燐銑と屑鉄,それに少量の鉄鉱石,更にフェロアロイ(合金鉄)が用いられましたが,日本の場合,屑鉄の配合率が著しく高く,70~80%に達していたことが特徴でした.
 これは,屑鉄の方が安価であるばかりでなく,屑鉄には不純物の含有量が少ないことも考慮された為です.
 とは言え,この頃は低燐銑は疎か屑鉄ですら国内調達は殆ど出来ず,両者とも輸入に依存しなければなりませんでした.

 そこで海軍工廠が考えついたのが,屑鉄の代わりに踏鞴鉄製品を使うことでした.
 元々,1882年に坩堝鋼を試作した時にも,包丁鉄や玉鋼を採用して以来,踏鞴鉄製品を使う事に手慣れていたと言うのもあります.
 1901年の国会答弁で,呉製鋼所の拡張案が論じられた折りに行われた政府答弁では,外国鉱石と日本の踏鞴鉄の割合を,3対7で使用していると言うものでした.
 踏鞴製鉄の原料である砂鉄には,燐などの不純物の含量が少なく,還元剤に木炭を用いることから,硫黄の含量も非常に低いので,酸性平炉法の原料としては最適でした.

 因みに,1914年に勃発した第1次大戦の結果,低燐銑の輸入が途絶し,海軍製鋼部は忽ちその生産に窮することになりました.
 その対策として採られたのが,削屑を利用して自製銑鉄を作るというものでした.
 しかし,この対策で作られた銑鉄は,燐分や硫黄分が従来の低燐銑よりも多く,鋼材としての品質が劣る羽目に陥っています.

 この為,新たな低燐銑の供給先を探すことになり,白羽の矢が立ったのが,大倉組が調査していた満州の安奉沿線にある,本渓湖炭田や廟児溝鉄鉱でした.
 大倉組は日露戦争中に陸軍に従って,満州の資源調査を積極的に行っており,1911年に日中合弁で本渓湖媒鉄公司が設立されて,製鉄事業を計画することになりました.
 当初の原鉱は自己所有の廟児溝鉄鉱のみが使われることになっていましたが,大倉組が更に調査を進めたところ,この鉱石の内のある種のものを磁力選鉱してペレット状にすれば,木炭吹製錬を実施することで,「純銑鉄」つまり,高級低燐銑鉄が製造可能であることが確認されました.

 こうして1915年,海軍と大倉組との間に「純銑鉄製造所設立ニ関スル契約書」が交わされ,本渓湖媒鉄公司で製造された低燐団鉱を原料に,広島県大竹市に設立された山陽製鉄所で木炭吹製錬を行い,「純銑鉄」を生産することになりました.
 併せて,本渓湖媒鉄公司では,コークス吹き製錬による「優良銑鉄」の製造を企図し,大倉組を通じて所要資金260万円の内,200万円の政府資金貸付を政府に依頼しました.
 これについては,海軍省と大蔵省の折衝の末,12月に大蔵省預金部資金200万円の低利貸付が行われました.
 この「優良銑鉄」とは,コークス吹低燐銑であり,「純銑鉄」をスウェーデン銑相当,「優良銑鉄」を英国ヘマタイト銑相当と位置づけていました.

 ところが,本渓湖での生産開始は,革命やその後のドサクサで大幅に遅延して1918年12月にずれ込み,山陽製鉄所の製造立ち上げは,更に遅れて1919年に入ってからになりました.
 ただ,山陽製鉄所の活況は長く続かず,その生産ピークはワシントン条約による軍縮直前である1921年の8,000トンが最高でした.

 因みに,スウェーデン銑の品位は炭素3.00%以上,珪素0.70%以上,マンガンが0.30%以上,一方で,燐0.025%以下,硫黄0.015%以下,同派0.030%以下で,これはそのまま海軍規格1号となります.
 海軍規格2号は硫黄が0.02%以下となり,3号は燐と硫黄が0.030%以下,銅が0.040%以下,4号は燐と硫黄が0.035%以下,銅が0.050%以下の品位です.

 これに対し,山陽製鉄所が生産した「純銑鉄」は,特1号が不純物については銅を除いて,ほぼ海軍規格1号並で尚かつマンガンを0.50%以上含有しており,特2号が海軍規格3号並,特3号は海軍規格4号並となっていました.
 特1号は,鋼鉄板,砲塔,砲循並びに砲身その他の造兵用諸鋼材の生産に適しており,品位としてはほぼスウェーデン銑に匹敵し,特2号と特3号は造兵材料に次いで重要な造船材料並びに船舶機関の材料となるもので,品位的にはほぼ英国ヘマタイト銑に匹敵します.
 それ以降の「純銑鉄」としては,上記のものに匹敵しない1号~3号までがありましたが,酸性平炉から鋼鋳物を製造する時に重用されていました.

 こうして高品位鉱は,日本の勢力圏で確保出来る見通しは立った訳ですが,それまで,高品位銑の原料の一翼を担っていたのが踏鞴製鉄でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/26 21:42

 明治期の海軍,海軍工廠では装甲板を国産化する事を目論見,色々と手を打っていました.
 まず,1883年4月に政府工部省の技師が島根県の製鉄業を実地調査すると共に,海軍でも兵器局の大河平造兵大監が同じく島根県を巡視します.

 その翌年,海軍省兵器局から踏鞴鉄製品を「銃器類製造用試みとして買い上げ」する契約が交わされます.
 具体的には,大手の踏鞴製造者である絲原家が鋼と包丁鉄をそれぞれ1万斤(約6t)ずつ海軍省に納入しました.
 また,1884年には大阪府庁を通じ,東京兵器局御用鉄800貫の包丁鉄の注文があり,軍工廠,横須賀造船所,海軍省からも注文が相次ぎました.

 1889年にはこれらの鋼は,極稀(上鋼)から豆目(下等鋼)までの13品目に仕訳して出荷されていましたが,軍では厳しく低燐性を要求してきました.
 同じく大手の踏鞴製造者である近藤家は,大阪で鉄の販売店を経営していましたが,この販売店を通して海軍から発注がありました.
 当時海軍は坩堝鋼の開発に成功しており,その為,低燐の材料を種々検討していた様です.
 また,別の大手踏鞴製造者である田部家では,1886~1888年に掛けて,海軍省兵器製造所から島根県勧業課を通じて鉄製品を受注していました.
 当時,踏鞴製鉄業者は,外国からの輸入品増に伴う鉄価下落により,在庫を抱えて苦しんでいましたので,海軍省からの買い入れは渡りに船でした.
 とは言え,まだ海軍が保有している酸性平炉の規模は3t程度であり,その鉄の買入量が増えることはありませんでした.
 多くて1.5万斤程度,100kg当たりの単価は2円50銭~6円66銭程度でした.
 何とかそれでも業者は窮乏を耐えて,海軍に鋼を納めています.

 1887年から1902年までの約15年は,海軍工廠での鋼鉄生産が本格的に展開し始めた頃です.
 それに伴い,踏鞴製品の受注も増えていきますが,それに先立ち,製鉄業者の間では過当競争や価格下落を避ける為に「賣納同盟契約」が締結されました.
 これは出雲御三家と呼ばれる踏鞴製鉄の大手である櫻井家,絲原家と,それより規模の小さな近藤家が行った一種のカルテルですが,出雲御三家の最後の1家である田部家は何故か含まれていません.
 この内容は,競争入札と指名注文に関わらず,全量を櫻井家38%,近藤家36%,絲原家26%の割合で生産を負担し,品質と価格は三家とも同一とすると言うものでした.
 品質に関しては,試験規格によって各自が責任を持って調整し,万一不合格の場合は各家の責任とする,また,納入に要した経費は出荷の割合で負担する,契約期間は1895年3月10日から3カ年としています.

 そして,彼らは呉海軍工廠への製品納入に際し,広島市の平尾雅次郎商店と代理店契約を結びました.
 平尾商店の契約は工廠の購買庁からの受注と,広島へ水揚げされた製品の納品を請負い,代わりに手数料として5%上乗せする,更に保証金は無利子で立て替えると言うもので,これも契約期間は3カ年でした.

 呉海軍工廠との契約は,品名,価格,納期を決め,説明書として品質規格が示されていました.
 その規格については,燐が0.013%以下,硫黄0.006%以下,砒素0.2%以下,炭素1.5%以下でその他金属は痕跡程度となっており,スウェーデン銑の規格よりも低燐,低硫黄要求が為されています.
 この規格は後に,燐と硫黄のみが品質仕様書に書かれるだけとなり,燐の規格値も0.03%以下から0.02%以下と緩められ,0.03%までなら条件付で受領すると変えられましたが,硫黄に関しては0.006~0.005%以下で,これを緩めることはありませんでした.
 また,契約保証金として海軍側では請負代価の10%を納入することとし,軍事公債証書の添付まで指示しています.
 もし,品質未達のものが出た場合は,請負人の責任に於いて破棄することとなり,契約保証金は没収されることになっていました.
 ただ,代品の納入を認めたり,遅延に際しては遅延金を払えば納入可能となっていたり,,海軍側もかなり柔軟に対応していたようです.

 こうして彼らが納入した品種は,包丁鉄が全契約量の52%を占めています.
 次いで鉧鉄の契約が30.9%で,鋼は17%弱でしかありません.
 その鋼にしても,人間の拳大の鉄を指す玉鋼は当初の時期2年間だけで,後は人間の頭大の鉄である大きな頃鋼が納品物とされていました.
 これは,呉造兵廠の平炉の大きさが3tから12tになったことで,より大きな製品も受け入れられることになったと思われます.

 品種の契約金額は,包丁鉄が100kg当たり11円50銭から1901年には14円80銭まで上がっています.
 鋼は,玉鋼,頃鋼とも同じく10円50銭から11円50銭,鉧鉄は6円50銭から8円50銭と安物でした.
 後に呉だけではなく佐世保へも納品があり,こちらは運賃も加算されて価格は高めに設定されていました.

 こうして1897~1902年まで作られた鉄は総量どれくらいかを推計すると,大体100万貫程度,つまり,3,750t程を海軍に納品したことになります.

 1902年以降は,呉の製鋼所が拡張され,25t酸性平炉2基が建設され,一気にその鉄需要が多くなります.
 この需要に耐える為,今度は出雲三家である田部家,櫻井家,絲原家と更に従来の同盟契約を結んでいた近藤家は,再び「賣納組合」を結成します.
 この製造品の割合は,田部家38%,櫻井家24%,近藤家24%,絲原家16%となり,その事務は従来の様な代理店ではなく,抽選で決めた代表者の持ち回りで行うことになりました.

 品質は一種の試験規格によって賣納することになりました.
 その規格とは燐分を0.02%以下とするもので,更に試験規格以外に低燐の規格注文が有った場合は,売価を3%高くして売るものとされました.

 ところで,その契約量は1903年以降急増します.
 1904年度には全体量が2,150tに達し,最高値に達しました.
 これは1903年から先述の酸性平炉が稼働を始めた時期に一致し,1904年には国産の主力艦級大型艦船が5隻建造出来るほどの鋼を生産することになりました.
 但し,呉製鋼所が生産した鋼は15,452tであり,踏鞴はそのうちの20%程度を満たすに過ぎません.
 残りは結局,海外から輸入した屑鉄であった訳です.

 品種としては,鋼は安定的な契約で50%を維持していますが,頃鋼ばかりでした.
 包丁鉄は全体の37%,鉧鉄は全体では約13%ですが,1903~1904年の2年だけ25%以上を占めていました.
 一方価格は,頃鋼11円50銭,包丁鉄14円80銭,鉧鉄8円50銭でしたが,1904年には包丁鉄が13円50銭,更に翌年には11円に下がりました.
 また,頃鋼も1908年になると7円,1912年には8円20銭と大幅に下落しています.

 これは日露戦争で大量の兵士が動員され,踏鞴製鉄の現場の人員も徴兵されたり,或いは労賃の高い呉工廠や九州の炭鉱へと流れていった為,注文の急増にも関わらず,生産現場の人手不足が深刻になったからです.
 当然,人手不足では労賃は跳ね上がり技術を持たない労働者でも生産現場に迎え入れ,一方で技術を持つ労働者が流出した為に,鋼の品質が悪くなり,海軍の要求する仕様を満たせず,更に契約量を満たせなかった事から,海軍に泣く泣く捨て値で引き取って貰うしか無かった事が上げられます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/27 22:53


 【質問】
 踏鞴製鉄のその後は?

 【回答】
 明治になって踏鞴製鉄の起死回生を賭けて,海軍との鋼取引を行った事は先述しましたが,日露戦争で鋼の大量需要の状態になると人でのかかる踏鞴鋼の生産は無理を生じ,品質の劣る製品しか出来ずに買い叩かれ,結局,業者は大損をする事になりました.
 明治末期になると鉄の価格は洋鉄の価格低下に引きずられて作れば作るだけ赤字になり,更に主要顧客だった呉製鋼所もスクラップ原料が主となって,益々苦しくなっていきました.
 大正初期には第1次大戦の影響による鉄材高騰で一時的に持ち直しますが,それはあくまでもカンフル的な措置であり,大戦後の不況とワシントン条約による海軍軍備縮小による鋼材生産余剰で完全に踏鞴製鉄は止めを刺されました.

 出雲御三家と呼ばれた踏鞴製鉄業者も,転業を余儀なくされました.
 大抵の転業先は,廃藩置県の際,大名家から引き継いだ森林資源を豊富に持っていた事と,踏鞴設備の改造と言う最小限の投資で転換出来る,木炭生産への進出でした.
 当初は周辺鉱工業者に対する木炭の供給が主でしたが,次第に家庭用燃料炭にシフトしました.
 こちらの方が商品価値が高く,利益も大きなものだったからです.
 また,山陰線の開通により鉄道で直接市場である都市部と直結し,都市の膨張による燃料炭の需要増大とマッチしたことも挙げられます.

 田部家の場合は,1912年にあった杉戸炉の火災焼失を奇貨として家庭用木炭の製造に着手しました.
 紀州から製炭技師を招いて技術を導入し,徐々に踏鞴炉を製炭所に転換していきます.
 出来た木炭は,大阪に出荷し,大阪にあった田部家の支店で販売されました.
 絲原家は1920年に製鉄業を廃止して,主任者を阪神方面に派遣したり,先進地である石見地方から技師を招いたりして製炭技術を学んだ後,製炭業を大々的に始めています.
 近藤家は1918年に転換計画を立て,1921年8月に新屋,吉,砺波の3カ所の踏鞴炉を製炭事業所に転換すると共に,新たに川平製炭所を開設して製炭業に乗り出しました.

 何れも,慌てて製炭業に進出した訳ではなく,20世紀初頭に限界が見えてから徐々に転換をシフトしていったものです.
 こうして,従業員の馘首を最小限にとどめ,新たな産業で食っていく様になりました.

 因みに,島根木炭のブランドは,東京,横浜等関東各地でも大きくシェアを伸ばし,岩手県を東の横綱とすると,島根県は西の横綱と称されたそうです.
 そう言えば,東西両横綱とも,踏鞴製鉄の盛んな県ですねぇ.

 ところで,この様に踏鞴製鉄の火は消えたのですが,完全に消滅した訳ではありませんでした.

 既に踏鞴の限界が見え始めた1899年に,松浦弥太郎を中心とする4人の出雲人と1人の伯耆人が出資し合って安来に雲伯鉄鋼合資会社を設立しました.
 彼らの内4名は鑪鉄師でしたが,出雲御三家の様な大規模鉄山師ではなく,新規参入組でした.
 藩政時代は,大鉄山師を保護して新規参入が許されませんでしたが,廃藩置県後はそうした束縛が消え,自由に参入が出来る様になります.
 とは言え,鉄山にしろ,森林資源にしろ既存業者が既に抑えており,鍛冶などの技術も門外不出とされて,新規参入組への技術移転が行われませんでした.
 更に,外部では洋鉄の輸入が急増し,商社の活動も活発になっていたので,新規参入組は追い詰められていた訳です.
 そこで,新規参入組は共同で窮状を打開し,商業組織の近代化を図るべく,合資会社を興したのでした.

 当初は,田部家,櫻井家,絲原家,近藤家と言った大鉄山師の鉧塊を集荷し,砕いて握り拳状の小塊にして出荷する販売業だけを営んでいました.
 需要先は刃物で有名な三木,堺,伏見,貴生川,武生,高知などで,また軍工廠への出荷も行っていました.

 しかし,1902年に納品した錬鉄が呉工廠からクレームが付いた為,品質改良と量産対策で,砕くのに人力に頼るのを止めてスチームハンマーを導入しています.

 1904年,この雲伯製鋼合資会社に伊部喜作と言う技師を迎え入れました.
 伊部は包丁鉄の新しい製造法の研究を始めます.
 これは,踏鞴銑に市販のスクラップを混ぜ,火窪(小型炉)で溶かして精錬,鍛造する方法で,1905年にこれは特許を取得しました.
 この手法は,呉からクレームが付いた品質対策としてより一層の低燐素材を目指した訳です.
 呉製鋼所等軍関係では,坩堝炉法が特殊鋼製造に採用されており,それには純度の高い原料を必要としていて,包丁鉄を利用するのが最も適していた原料でした.
 1905年の段階では,呉海軍工廠に包丁鉄を80t,酸性平炉用の頃鋼を6t納品しています.

 日露戦争が終結すると軍需品の生産は一段落し,好況を呈していた日本経済は恐慌状態となりました.
 雲伯製鉄合資会社も同様に苦境に陥り,1909年に社名を安来鉄鋼合資会社と改名し,伊部が社長に就任しました.
 そして,今までの大鉄山師から納品した鉧塊を加工するだけではなく,素材生産から一歩進んで精鋼生産へと転換していくことを目標としました.
 その為に,経済状況が持ち直した1910~1911年に出た僅かな余剰金を,思い切って製鋼や化学分析機器などに投資しました.

 1912年になると,安来鉄鋼は,当時官営広島鉄山の払下げを受けて設立された米子製鋼所にいた黒沢裕を迎い入れました.
 黒沢は広島鉄山の経験を生かして,伊部と共同で坩堝炉を設計し,これにより銑や鉧を原料とした刃物鋼を作るのに成功しました.
 その坩堝製鋼が軌道に乗ると,更にこれを進めて合金を配合した特殊鋼への進出を計画します.

 当時,鉄鋼生産量が増えるにつれて,それを消費する機械加工分野の裾野も広がりつつあり,工具の需要が増えることが予想されたので,特殊鋼の中でも工具鋼の生産に傾注することになりました.
 とは言え,工具鋼への取り組みに必要な原材料は全て海外依存でしたので,輸入代価を支払うのには大きな資金を要しました.
 しかし,安来製鋼の方向付けは明確になりました.

 更に同じ年には松江電灯株式会社が斐伊川上流に水力発電所を設置し,松江発電所内には鉄溶解実験の為の電気実験炉が設置されました.
 此処では他にガス利用実験も行われ,この地域に於ける鉄鋼技術上の大きな知見となっていきます.

 1914年に入ると第1次大戦の勃発に伴い鉄需要が急増し,伊部社長は生産増強の為の資本参加と融資を,並河理次郎を始めとする安来銀行に働きかけました.
 元々,安来は商業都市として発展してきた町であり,資本蓄積は十分にありました.
 その資本と安来製鋼の技術力とが相まって,今度は特殊鋼生産の為の電気炉建設へと動きます.
 まず,その第1段階として,松江電灯の敷地を借りて安来製鋼松江工場電機製鋼部を1915年にスタートさせました.

 1916年の英国に於ける鉄鋼輸出禁止令,1917年の米国による鉄鋼輸出禁止令に端を発して,鉄不足が全国で憂慮され,国内では製鉄事業奨励法が発令されました.
 この時期,安来製鋼合資会社は株式会社安来製鋼所となり,急増する国内需要に応えるべく,電気炉やスチームハンマー増設,圧延機の完成等の設備計画も相次いで為され,1919年には資本金が1914年の1万円から100万円へと一気に増資が行われました.

 こうして,安来製鋼所は益々発展していくことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/28 22:05

 さて,昨日から安来名物の泥鰌掬い…じゃなくて,安来製鋼所の話を書いてきたのですが,今日はその続き.

 安来製鋼所は,1916年に松江工場の電気炉で高速度鋼の熔解を開始します.
 今までは坩堝炉での作業でしたから,これは画期的な事でした.

 但し,原料として品質的に均一な原料鉄を安い価格で入手する必要が出て来ました.
 従来は,他業者からこうした鉧塊などを購入していたのですが,それでは品質的にも文句が言えず,しかもこのご時世ですから高い価格をふっかけられてもそれを黙って飲むしか有りません.
 そこで,そうした柵から逃れるべく新設したのが鳥上分工場です.

 鳥上の地は良質の真砂を他領に産出すると共に,木炭の入手が容易な場所でした.
 つまり,これは木炭銑を作る工場で,此処に踏鞴製鉄の技術が利用されたのです.
 この工場に設置されたのは角炉と呼ばれるものでした.

 これは,スウェーデン銑に対抗すべく,低燐銑を作り出す方法として1893年に官営広島鉄山で開発されたものです.
 元々,広島鉄山では燐分の多い砂鉄である赤目を利用していましたが,更にコストを削減すべく,それよりより燐分が高い反面,価格が安い鉄含有量40%の鉄滓を利用した製銑方法を開発していました.
 とは言え,その技術は従来の鉧押し法と大して変わらず,鍛冶炉を耐アルカリ性の材料で造り,精錬作業中に砂鉄もしくは砂鉄と石灰の混合物を投入する方法です.
 砂鉄と石灰を投入することで,砂鉄表面の酸化鉄がより塩基性を増し,銑がこの塩基成分に触れると除燐が促進されるものでした.

 この技術が山陰地方の踏鞴業者に伝播し,こうした炉の構造は従来の踏鞴炉を発展させたものでしたから,瞬く間に各業者が採用しました.
 それは,炉の高さを従来より高くし,炉壁には耐火煉瓦を用い,内部に厚さ2寸の粘土を塗りつけておきます.
 炉には熱風装置が設置され,送風には水車踏鞴が使われました.
 原料については,真砂を使いますが,洗いの程度を加減して砂が多く混じっていたもので,十分に乾燥させてから原料の木炭と少量の石灰石を投入します.
 作業は,熱風装置を1時間稼働して炉に予熱を与えてから銑鉄屑を少量投入し,それが熔融して炉底に滴下するのを待って,木炭,砂鉄,石灰石を16:20:0.8の割合で投入し,これにより燐含有量を平均0.015%に低減するのに成功した訳です.

 1918年11月,鳥上分工場の角炉が完成し,火入れ式が挙行されました.
 ところが,運悪くその月に第1次大戦は終結し,各国の鉄鋼輸出禁止令が撤回されたことで市場は大混乱に陥りました.
 恐慌が始まったのです.
 この設備拡張の見通しを誤った伊部は1920年,1919年に特許を取得した高速度刃物鋼の技術を残して,結局辞任に追い込まれました.
 次の社長には安来銀行頭取であった並河理二郎が就任しますが,経済の退勢は如何ともしがたく,1924年には地元資本だけでは支えきれず,共立企業株式会社社長だった鮎川義介…後に日産コンツェルン総帥となりますが…に経営維持の為の救済を依頼することになりました.

 鮎川義介はその話に大いに難色を示したのですが,現地視察の後,技術的に有望と見込んだのか,子会社である戸畑鋳物からの出資をすることになり,鮎川が社長に就任し,技術・生産面の責任者として,住友金属から引き抜いた冶金学者である工藤治人を着任させました.
 当時,工藤は共立企業の関連会社の社長を務めていましたが,就任に当って鮎川の指示で欧米に特殊鋼製造技術研究の為,視察を行わせています.

 新社長に就任した鮎川の経営方針は,製品の量よりも質に重点を置いて,砂鉄を原料とした近代製鋼法の確立する事と,会社の倒産を回避して経理の安全性を保つと言う2点でした.
 当時は昭和の大恐慌に入った頃でしたので,鮎川の指示はもっともと言えます.

 工藤は,先ず内に対して緊縮財政政策を採り,外に対しては販路拡充に努め,経営の安定を図ります.
 そうしておいて,「和鋼と同様の刃物を作る」と言う命題に取りかかりました.

 先ずは従業員に一層の奮起を促すべく,「誠実生美鋼」と言う言葉を浸透させます.
 これは従業員一人一人の真心が良い鋼を作ると言う意味で,この方針は現在でも受け継がれています.
 設備と技術の改良の上に立って,更に販売活動にも熱心に取り組んだ結果,刃物鋼は売れ出しました.
 しかし,その量はまだ会社の屋台骨を支えるには少量だったので,高速度鋼や高級特殊鋼への進出が次の課題になりました.

 工藤は,鳥上の銑鉄を用いて一気に低炭素の鋼を作るべく,炭素量を下げる研究を重ね,海綿鉄と清浄鉄とを生み出しました.

 鳥上の角炉銑は,粒の大凡整った細粒の砂鉄を木炭で吹いているので,白銑が生まれる条件は整っていましたが,刃物鋼の原料とするには,一旦溶解した炭素量の少ない銑鉄を取鍋の中で固めてインゴットにしてから精錬するか,他の低炭素の原料を大量に投入しなければ目的が達成出来ませんでした.

 1927~28年,工藤は砂鉄と木炭を回転炉に入れて,単相電極を装入し,炉の内壁を焼いて熱する事で砂鉄から半熔融鋼を得ることに成功します.
 これは出来た鋼がスポンジ状だったので,海綿鉄と名付けられました.
 その海綿鉄を電気炉で熔融させ,鉱滓を分離し,急激に流水中に入れることで出来たのが豆粒状の清浄鉄です.
 豆粒状にするのを選択したのは,低炭素を実現し,更に熔解しやすく出来,取鍋や鋳型が不要なので原価を低く抑えることが出来ると考えた為でした.

 こうした技術開発とコスト削減の努力を評価した鮎川は,1928年,自ら相談役に退き,工藤をその後継に据えました.

 丁度この頃に軍規格が変わり,坩堝炉ではなく電気炉による精鋼を納入しても良い事になりました.
 従来,軍は坩堝炉から開始したこともあって,民間から納入する精鋼は坩堝炉に固執していました.
 しかし,工藤は何れ軍規格が変わることを見越して電気炉の改良に取り組んでいたのでした.
 こうした甲斐あって,1932年,安来製鋼所は陸海軍航空本部双方の指定工場となり,高速度鋼と言えば安来というブランドを確立していったのです.

 1933年,更に安来製鋼所は発展の為に戸畑鋳物と合併することになりましたが,その年,陸軍の外郭団体である財団法人日本刀鍛錬会から依頼され,鳥上分工場に踏鞴炉を建設して踏鞴製鉄の復元を始めることになりました.
 これは折からの軍用日本刀作成の為の復元であり,この復元作業を通じて,踏鞴製鉄の冶金学的理論を支える基礎技術データを採取しました.
 また,戸畑鋳物の冶金研究所も1934年に安来に移され,いよいよ安来の重要性が高まってきました.
 しかし,1936年に工藤が安来を去り,その翌年には経営的に戸畑鋳物から安来が分離され,日立製作所と合併してその安来工場となりました.

 その後は,国家総動員法,工場事業上管理令に伴い陸海軍の管理下に工場は置かれ,特殊鋼の生産はピーク時の1944年に月産3,300tも割り当てられています.

 しかし,敗戦により工場は一旦閉鎖します.
 11月からは工場を再開しますが,工具鋼を生産の中心に据えることになりました.

 1949年以降は徐々に新鋼種の開発を進め,発条鋼や安全剃刀替刃鋼を生み出しました.
 そして,1951年に砂鉄を粉体のまま装入する方法を解消すべく,一旦これから磁鉄鉱を選鉱し,それに水と木炭を加えて低温で処理して粒状としたものを装入するペレタイジングと呼ばれる手法を導入します.
 これは砂鉄の装入改善と共に,木炭の使用量低減も目的であり,最終的に砂鉄1に対し木炭1にまで使用量を減じることになりました.

 1956年になると,日立製作所から金属生産部門が独立して日立金属株式会社安来工場となり,1965年には新海綿鉄の開発により,角炉の使命は終焉に至りました.
 これは直径3cmほどの砂鉄ペレット材を原料に,焙焼炉で酸化第二鉄に酸化させ,次に還元炉で摂氏1,000度以下の一酸化炭素と水素ガスを用いて還元をして海綿鉄を得ることが出来ると言うもので,これにより和鋼を凌ぐ清浄地鉄を得ることが出来ました.

 この技術はつい最近の1990年まで用いられていたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/29 22:39

 現在,日立金属は様々な製品を展開しています.
 ぐっと家庭に近いところにある製品として,高級刃物鋼は「ヤスキハガネ」と言うブランド名で売られています.
 決して「安かろう悪かろう」の意味ではありません(苦笑.

 実は「ヤスキハガネ」は,現在,世界で用いられる安全剃刀の刃の部分のシェアの60%以上を占めているものです.

 現在はクロムを約12%含有し,ステンレス系の錆びない性質を有する安全剃刀の替刃は,元々は炭素鋼が用いられており,スウェーデンや英国のメーカーが世界市場を席巻していました.

 日立金属では,1950年代に開発した替え刃鋼を以て,ジレットと組んで世界進出を果たします.
 しかし,一番最初に提出したサンプルに対するジレット社の評価は次の様なものでした.

"the dirtiest steel in the world."
 即ち,「世界で最も汚いスチール」と言われたのです.
 これは何も人種差別的にした評価ではなく,実際に顕微鏡で鋼の組織を観察した場合,鉄粒子が不揃いであり,その間に不定形のシリコンやアルミニウム,マグネシウムと言った酸化物,つまり,不純物が介在していたからでした.

 こうした不純物を取り除くには,清浄な鋼を作らなければなりませんが,それには真空溶解などの高度な方法を採用せねばなりません.
 その高度な方法を採用しようとすればするほど,生産に掛かるコストは上昇し,後発製品として,市場的では既存勢力に太刀打ち出来なくなります.

 しかし,日立金属ではその様なアプローチをせずに,比較的廉価で熔解する方法を模索し,高級特殊鋼の伝統に添って製品開発に努力を集中しました.

 例えば,刃先の幅が1ミクロンあり,その中に同じ1ミクロンの大きさの不純物があれば,その部分は脆くなり,刃毀れの原因となります.
 ですから,介在する不純物粒子の大きさは刃先と同等では駄目で,それよりも小さな0.5~0.7ミクロンにコントロールしなければなりません.
 このファインスチールと呼ばれる清浄鋼の生産技術を次々と考案していくことで,日立金属は先端技術分野でも高級特殊鋼製品開発に優位に立つ原動力を為した訳です.
 正に,某鉄鋼メーカーで言うオンリーワン製品の開発と言う事になります.

 更に生産技術だけでなく,不純物に対する考え方が,こうした高品質鋼を生み出すのに重要な要素でした.

 従来,その原料となった奥出雲の真砂砂鉄は,鋼を脆くする銅,硫黄,燐,砒素の含有が極めて低いものです.
 また,珪素,マンガンなどの不純物は鋼を脆くする訳ではないけれども,鍛接し難くなる性質を持ちます.
 真砂砂鉄はこれらの不純物も極めて少ないので,鍛接の際に融剤を用いる必要もありません.
 ずっと見てきた様に,往古から利器刃物を作るには,靱性があって堅い性質を必要とし,不純物の少ない良い原料砂鉄を必要としました.

 その上,踏鞴製鉄は洋鉄で使われる高炉や熔鉱炉に比べると炉内温度が低く,不純物が鋼の中に一層取り込まれにくい上,コークスと違ってより不純物の少ない木炭を用いるので,これで出来た和鋼は高級特殊鋼の原料として極めて優れていることになります.
 とは言え,炭素の含量分布は和鋼の方が不均一で,丹念に折返し鍛錬を行う必要があります.
 それを怠ると,鉱滓を含んでしまいますし,炭素分布が不均一と言う事は面積が広い物を作ろうとすると問題が生じることになります.

 そう考えると,細身の日本刀を作る技術は和鋼としての特性を十分に生かしたものかも知れません.

 自分たちの組織に於いて,長く続いている組織であればあるほど,新たなアプローチが魅力的に見えて,どんどんグダグダに陥っていく傾向があります.
 一旦初心に立ち返る,或いは初心を忘れない,今の物作りで大切なことを日立金属と言う会社はきちんと実践しているからこそ,現在でもトップシェアを誇っているのかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/30 21:08


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