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◆◆◆◆バトゥの西征以降 Tatárjárás
<◆◆◆モンゴル帝国戦史 Háború története Mongol Birodalom
<◆◆モンゴル帝国
<◆13世紀
戦史FAQ目次


 【link】


 【質問】
 モンゴル帝国から侵攻を受けたとき,なぜ冬将軍はロシアに味方しなかったの?

 【回答】
 モンゴルがロシアを容易に攻略できたのは,冬場は川が凍結して騎馬が簡単に川を渡れたからだそうだ.
 モンゴルの連中は寒いモンゴル高原で野宿している連中なので,ロシアの冬は苦にならない.
 むしろ暑い方が苦手みたいだ.
 アッチラのイタリア遠征の失敗も夏場のイタリアの暑さによるところも大きい.

世界史板


 【質問】
 ワールシュタットの戦いは,なぜ起きたのですか?

 【回答】
 〔ハンガリー王国に侵攻したモンゴル軍でしたが,〕しかしハンガリーとポロヴェーツは,みかけより難敵でした.
 とくにハンガリーは欧州ではかなり強力な騎馬軍団を保持していました.
 ポロヴェーツ族はモンゴルと類似した戦法を取り,またモンゴル軍の戦術を知りぬいていました.

 結果,バトゥはモンゴル諸皇子の遊撃隊を先行させ,ポーランド方面からの大規模な撹乱作戦を展開します.
 その間,彼の本隊はロシアやブルガリア人の攻城部隊を整え,歩兵と騎馬の大軍を進撃させます.

 バトゥ軍が執拗にハンガリー王を追っていることからも,このことは証明できると思われます.

Posted by 大鴉 at January 2, 2004 12:05 AM

 〔したがってワールシュタットは,〕陽動というようなものではないですが,バトゥ率いる本隊とは別な性格の軍勢であったと思われます.

 もともと「征西」に関してはバトゥの意志のほかに,モンゴル帝国の諸皇子の意図というのもありました.
 バトゥの意志に関してはポロヴェーツ追討だったにしても,諸皇子がこのプライドばかり高いジュチの子に従ったかどうか微妙です.

 結果,この部隊は北方においてまさに遊撃的な行動を繰り返します.
 が,要塞や城に関してはほとんど攻め落とせないままです.
 一方,バトゥ率いる本隊はロシアとブルガリアで徴発を行って攻城兵器と歩兵部隊を伴って進撃してます.

 なおポロヴェーツ族ですが,もともと彼らはカルカ河の戦いでロシア諸侯とともにモンゴル軍と戦ったことがありました.
 ところが,この戦いの時,ロシア人の流民集団(正体は不明)がモンゴル側に協力してロシア諸侯軍をおびき出して殲滅したことが,兵力過小なモンゴル軍の勝利につながったとされています.
(ロシア人諸侯のほとんどは,モンゴル軍にではなく,ロシア人に討たれている)
 ポロヴェーツはこの戦いで壊滅し,一部が東欧各地に広く散らばって抵抗を続けました.
 ずっと後ですが,マルコ・ポーロの従者の一人がこのポロヴェーツ人であったと言われています.

Posted by 大鴉 at January 6, 2004 05:38 PM


 【質問】
 なぜモンゴル軍はハンガリー王国に侵攻したのですか?

 【回答】
 もともとこの「征西」はハンガリー王国において,反モンゴルの逃亡者であるポロヴェーツ族が保護されていることに端を発したものでした.
 バトゥの征西の意図は,ロシア南部から現ルーマニア地域,バルカン,ハンガリーにかけて拡散し,激しく抵抗しつづけたポロヴェーツ族の戦意を完膚なきまでに叩くことだったと思われます.
 そしてそのためには,ポロヴェーツ族の妻を娶り,その親族をハンガリー宮廷にいれた国王ベーラ4世を捕らえる必要があったのです.

Posted by 大鴉 at January 2, 2004 12:05 AM


 【質問】
 クマン人の詳細希望.

 【回答】
 クマン人とはチュルク語系の遊牧民族で,ロシアではポロベツ人といわれているそうです。
 「東欧を知る事典」によれば,10世紀までは北西カザフスタンで遊牧生活を送っていたが,11世紀に黒海北岸のステップ地帯に,さらにカフカス方面へと進出したそうです。

 彼らがハンガリーへやって来たのは,モンゴル軍に敗北して西へ逃れてきた結果で,国王ベーラ4世の時代でした。
 族長ケテニュに率いられた彼らは,ベーラ4世にハンガリーへの定住を求めます。
 父アンドラーシュ2世が大貴族に対して大幅な譲歩をした結果,王権の強化を目指し大貴族と苦闘していたベーラ4世は,クマン人の軍事力に期待して彼らをハンガリーへ受け入れることにしたのですが,これがモンゴル軍にハンガリー侵攻の口実を与えることになります。

 また,ドナウ川とティサ川の間に住む場所を与えられたクマン人ですが,周辺の農民とのトラブルは頻発し,大貴族達は国王に荷担するクマン人を追放すべく農民を煽動します。
 クマン人を追放しろという要求にベーラ4世は耳を貸しませんでしたが,事態は最悪の方向へ進展していきます。

 大貴族の煽動に乗って暴徒と化した農民たちはクマンの族長ケテニュを殺害,怒り狂ったクマン人たちはハンガリー国内で殺戮と略奪をほしいままにして去っていきました。
 そして混乱するハンガリーへモンゴル軍が攻め寄せてきたのです。
 ベーラ4世は,シヤイヨー河畔のムヒの地でモンゴル軍を迎撃しますが,作戦の稚拙さも災いして大敗北を喫し,ダルマチアまでモンゴル軍に追われて逃げまくる破目になりました。

 戦後,ベーラ4世は大貴族たちに対抗するため,バルカンからクマン人を呼び返し,再びドナウとティサ川の間に定住地を与え,王子イシュトヴァーン(後の国王イシュトヴァーン5世)をクマン族長の娘と結婚させました。二人の間に生まれた息子が後に「クン」ラースローと呼ばれるラースロー4世です。

 ベーラ4世死後,混乱を続けるハンガリー王国で突然,謎の死を遂げたイシュトヴァーン5世の後を受けてラースロー4世は即位しました。
 彼は成人すると,自らの母の家系であるクマン人を頼り,大貴族達と対決するようになっていきます。
 クマン人達は強力な軍事力を持ち,いまだキリスト教に帰依せず,自らの伝統を守って生活していました。
 教会と大貴族は結託し,青年国王とクマン人に敵対していきます。
 彼らはローマ教皇の力を借り,クマン人の改宗を強要するようにラースロー4世に迫ります。
 ラースロー4世は断固としてこれを拒否,教皇特使を彼を破門,ラースローは特使を逮捕し,クマン人の中で生活させます。
 さらに彼は,クマン族長の娘エドウァとクマンの宗教儀礼に則り結婚,王妃を修道院に送り込んでエドウァを王妃とするに至ります。

 ここにいたって,ついに国王に対する十字軍が布告されるにいたりますが,大貴族に買収されたクマン人によって,あくまで大貴族にもローマ教皇の権威にも屈しなかった青年国王は暗殺されてしまうのです。

 「東欧を知る事典」では鈴木広和先生がクマン人に関する解説を書いておられますが,ハンガリーに定住したクマン人について,

 国王アンドラーシュ3世(ラースロー4世の次の王でアールパード王家最後の王・・ギシュクラの追記)に招かれてハンガリー王国内(おもに大平原)に特別の居住地を与えられて住みついた。
 国王に直属する民族集団として自治権を与えられ,その見返りに国王に軍役義務を負い,国王直属軍の重要な一翼をなした。
 近代までその特別な居住区域と自治権を維持し,独自な生活様式を保っていた。
 キシュクンシャーグ,ナジクンシャーグなどの地名は,その地域が彼らの居住地域であったことを示す。

と書いておられます。
 アンドラーシュ3世の時代に定住だとラースロー4世時代の大騒ぎについてどう考えたらよいのか私は分かりません。
 最終的に定住許可が出たのはこの時期ということなのでしょうか??

(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w)


 【質問】
 元のハンガリー侵攻は,文献に残っているの?

 【回答】
 「ルースィ」の彼方にある民族として『元朝秘史』や『世界征服者史』などに「マジャール」の名前が出て来ますが,ベーラ4世の王国を「バシュギルド(バシュキール人)」と呼んだりと,名前だけは知ってるけどポーランドやキプチャク草原の連中とちゃんと区別してるんだかいないんだか良く分らない感じですね.

「「タタル」というのは,我々がタルタル人と呼ぶモンゴル人たちの一部族のことなので,彼らは自分達のことを「タタル」と呼ばれるのを嫌がる」
と報告しているのはカルピニのジョヴァンニ修道士でしたか.

 モンゴル帝国の勢力を「タタル」と呼んだのはホラズム・シャー朝などの中央アジアのテュルク系の勢力が彼らを「タタル」と呼んだのが初めで,周辺の諸言語もそれに倣ったとかいう話を聞いた覚えが・・・ アラビア語の方でも「タタル」だったかな?
 ロシアの『ガリーチ=ヴォルイニ年代記』もやはり「タタル」と呼んでいます.

ギシュクラ・ヤーノシュ◆4yzbf0MFE. in 世界史板

 『元朝秘史』には,モンゴル皇帝オゴデイが派遣したバトゥの西方遠征軍の,目標の国々の一つとして勲将スベエテイ・バアトルが征伐した地域のリストに,「マジャル」の名前が数回出て来ます.

「さらに往昔,スベエテイ・バアトルをカンクリ人,キブチャク人,バジギル人,オルス人,アス人,セス人,マジャル,ケシミル(カシュミール),セルゲス人(チェルケス),ブカル(ポーランド?),ケレル(ハンガリー?)(など)の諸国云々」(村上正二訳注)

 ただ,『元朝秘史』は,のちにオゴデイの後を継ぐグユクが,遠征軍総司令のバトゥと悶着をおこしてオゴデイの怒りを買い,カラコルムに帰還命令が出されてのその処分の部分で終わっていまして,ハンガリー侵攻の部分は載っていません.

 モンゴル側の資料でルースィ征服と欧州侵攻の過程を記録しているのは主に,ペルシア語の歴史書であるアターマリク・ジュヴァイニーの『世界征服者史』とラシードゥッディーンの『集史』でして,『世界征服者史』では現在のタタルスタン共和国のカザン周辺をブルガール(Bulgha^r)と呼び,恐らくハンガリー王国の事でしょうけども「キラール(?Kilar)とバーシュギルド(Bashghird)」と呼んでいまして,それぞれ一章を割いています.
 ブルガールの征服は,ルースィとアスの征服と一緒に述べられてまして,二つの章もそれほど長いわけではありませんが.一方『集史』ではもう少し分量が長く,ブルガールとルースィの征服の後に「マージャ(ー)ル(Ma^ja^r/Maja^r)とプーラ(ー)ル(Pu^la^r/Pu^lar)とバーシュギルド(Ba^shghird)」として名前が出てきてまして,グユクとモンケがモンゴル本土へ帰還した後に,バトゥが遠征軍を五つに分けてそれぞれハンガリー平原に侵攻して来たことが述べられています.

 また,モンゴル側文献には,西征軍が通ったカルパチア山脈の「ヴラフ人」についての記述もあります.
 その際にモンケの末弟であるボチェクが「その地の山々に属すカラー・ウーラーグ(Qara^''U^la^gh)の道を通り,ウーラーグの諸部族を打ち倒した」という記述があります.
 この「ウーラーグ」なる諸族は,東洋学者のP.ペリオなどによれば,状況的に考え,また,音が近いことから,ワラキアのヴラフ人のことでは無いかというのが有力のようです.

 なお,上述のキラールですが,『元朝秘史』では「客列(勒)」と出てくる単語で"Kerel"と読むようです.(原文では「列」の文字の 隣に小さく「舌」という添字があって"r"音で読むように,また「勒」もやや小さめに書かれており,この単語が"l"音の閉音節で終わっていることを示しています)
 19世紀末に『元朝秘史』の研究を行ったブレットシュナイダーE.Bretschneiderは,ご指摘のようにこれをハンガリー語の「キラーイ」に比定しています.

 この単語は件のカルピニのジョヴァンニ修道士が持ち帰り,バチカンに保存されているグユク・ハンがインノケンティウス4世に宛てたペルシア語による勅書にも???Kälär(ケレル:勅書を再発見&実見した東洋学者ペリオP.Pelliotは,このように転写しています)として出て来ていまして,ペリオはブレットシュナイダーの説を引いて,この勅書や『世界征服者史』,『集史』にも出てくるスラヴ人やハンガリー人たちの「王」を指す????/???(Keler/Kil?r)という単語はハンガリー語のKirály,ロシア語のKral'?Krol'?Korol'から出た単語であることは確かだろう,と述べているようです.

 (ペルシア語文に使われるアラビア文字は純粋に子音字ですので,こういった外来語の単語になると,????Kil?rの?の母音以外はどう発音していたのか,母音符号がないと厳密には分らないのが難点ですが)

世界史板


 【質問】
 モヒの戦いとは?

 【回答】
 1241年,バトゥ率いるモンゴル軍と,ハンガリー王ベーラ4世とが,モヒ草原で行った戦い.
 同年,モンゴル軍は三方よりハンガリーへ侵攻.
 一方のベーラ4世は,エンドレ2世が失った王領地の回復に努めて大貴族層と対立していたため,孤立無援.
 ベーラは孤軍奮闘していたが,このモヒの戦いで大敗,オーストリアを経てダルマチア沿岸の孤島に逃亡した.
 ドナウ以東のハンガリーはモンゴルに占領され,人的・物的に大損害を受けた.

 1242年,オゴタイ=ハーンの死でモンゴルが退却すると,ベーラ4世はハンガリーに戻って国土再建に着手.
 のちに彼は「ハンガリー第2の建国者」と呼ばれるようになりましたとさ.

 【参考サイト】
激動ユーラシア:ハンガリー王家
「モヒの戦い」

 このムヒの戦いについては

図説 モンゴル帝国の戦い ロバート・マーシャル著 東洋書林
モンゴル軍のイギリス人使節 ガブリエル・ローナイ著 角川選書
モンゴル帝国史 コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン著 東洋文庫

に記載があります.
 一番わかりやすいのはマーシャルの本かと思います.

ギシュクラ・ヤーノシュ by mail


 【質問】
 なぜモヒの戦いでは,ハンガリー1国で戦うことになったのか?

 【回答】
 「週刊スモールトーク」によれば,ヨーロッパでは当時の2大勢力,神聖ローマ皇帝とローマ教皇が,イタリアの支配権をめぐって争っていたせいで,ヨーロッパの諸王たちは一致団結できなかったためだという.
 そのヨーロッパ連合軍でさえ,モンゴルの一支隊にワールシュタットで壊滅させられたことから考えても,モンゴル軍主力にハンガリー1国で勝てるはずもなかったという.


 【質問】
 バトゥ率いるモンゴル軍に,東欧諸国が蹂躙されている頃,西欧諸国やローマ教会は,何かしら対策を立てていたんでしょうか?
 それと仮定になりますが,オゴタイが死なずに遠征が続いた場合,フランスやイングランドが協力して迎え討ったとして,モンゴル軍を撃退できたと思いますか?

 【回答】
 その時点では,ヨーロッパで,モンゴルの恐ろしさを本当にわかっていて危機感を持っていたのは,リーグニッツ などで直接戦った諸侯を別にすれば,イスラム世界と仲のよかったシチリアのフリードリヒ2世と,あとはせいぜい 商業国家のヴェネツィアぐらいと言っていいでしょう.

 で,オゴデイが死なずに遠征が続いた場合……
 そのほぼ唯一の君主フリードリヒ2世は,教皇から破門をくらっている身なので,なんとかしたいと思っても,諸侯を糾合することができませんし,まして教皇から諸侯に号令してもらうこともできません.
 神聖ローマ皇帝もローマ教皇も旗頭にならないとなると,諸侯は兵は出し合うかもしれませんが,真の意味での連合軍にはなれず,互いに連携をとらずに,それぞれの部隊が勝手に戦い,各個撃破されるというリーグニッツの二の舞になるのが関の山です.
 十字軍で末期のアイユーブ朝(というか,初期のマムルーク朝というべきか)に惨敗したフランスのルイ9世聖王や,そのルイ9世に負けているイングランドのヘンリー3世程度の君主の指導力,戦闘指揮能力では,協力したところで,モンゴル相手にそれほど有効な戦いができたとは私には思えませんね.
 モンゴルは海や船には慣れていないので,海戦持ち込んで渡海さえ防げれば,イングランドは持ちこたえられるかもしれませんが,ひとたび大軍の上陸を許してしまったら,後はもう征服されるだけでしょう.

 目を東に向けて,難攻不落のコンスタンティノープルはというと,この次期はビザンツではなくラテン帝国のもので,せっかくの城壁があってもそれを守るべき兵力が不十分で,攻略は簡単です
(事実,しばらくしてニケーア帝国に奪回される)
 フリードリヒ2世とヴェネツィアなどは,外交的にうまく立ち回って助かるかもしれませんが,それ以外はイタリア 半島もヴァルカン半島も,ドイツ諸侯もフランスも,そしておそらく少し遅れてイングランドも,滅ぼされるか,降伏 して支配を受け入れるか,といったところではないでしょうか.

世界史板,2010/03/20(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 オゴタイ・ハーンの死(1241)をバトゥに伝えた飛脚は,一ヶ月もかからずにヨーロッパに着いてたのに,なんでカルピニかルブルクはバトゥの本営まで数ヶ月もかかるの?

 【回答】
 関所で待たされれば数ヶ月かかるが,自由通行すれば一ヶ月で到達する.
 馬をつかえばユーラシアはそんなに広くない.

 それに,モンゴル帝国は高度な関所や駅のシステムを持ってましたからね.
 あれが一朝一夕に出来たわけはなく,遙か昔からその手のものはあったでしょうね.

世界史板


 【質問】
 オゴダイ=ハンの死後,なんでモンゴル軍はヨーロッパ再侵攻を行わなかったの?

 【回答】
 (1)皇帝グユクと遠征軍総大将バトゥの対立,
 (2)次の皇帝モンケの方針
による.

 オゴダイが死亡したので,遠征軍はクリルタイ参加のためモンゴルへ引き返した.
 オゴダイの息子グユクとトゥルイの息子モンケが有力候補だったが,グユクが即位.
 グユクもモンケも西方遠征軍に参加していたが,グユクが遠征軍の総大将格のバトゥ(一番西を治めていた長男ジュチの息子)と揉めたため,バトゥはモンケを支持していた.
(バトゥは病気と称してクリルタイに欠席)
 その後,皇帝グユクとバトゥが対立したため,西方への遠征は実施されなかった.
 (グユクが西へ行幸する途上で死んだけど,目的はバトゥ攻撃,死因はバトゥ側の暗殺とか言われている)

 グユクが死んだあと,モンケが即位したけど,自分と弟フビライを主力とする中国遠征と,弟フレグのペルシャ方面への遠征が基本方針で,モンゴル全体での西方遠征は,その後実施されなかった.

 その後は,各ハン国が独自に行動して,大元ウルスのハン(皇帝)の下で協力して軍事行動するようなことはなくなった.
 イルハン国とキプチャックも後に対立しているから,さらにヨーロッパや東ローマ帝国に向かう理由は減った.
 本拠から遠くだったり,貧しく農耕・遊牧にもさほど向いていない地域にキプチャック単独で遠征するよりは,イルハン国の領土のほうが,貿易などの面からみても美味しいし.

世界史板


 【質問】
 フラグ汗率いる蒙古軍は,バグダードを攻めるに当たり,星占い師に占わせたというのは本当か?

 【回答】
 本当のことらしい.
 以下引用.

 ジンギスカンの孫フラグカンの率いる蒙古軍は,西南アジアを席捲し,1258年,遂にイランのタブリズを陥れた.
 サラセン帝国の首都バクダッド〔原文ママ〕をこの際,一挙に衝くべきかどうか.
 草原の青い狼,偉大なる世界帝国の建設者の祖父に倣ってフラグカンは,側近にはべる星占い師フサンウッデーに問うた.
 答は
「絶対におやめなさい」であった.「フラグカンよ,もし兵を進めるならば,馬は倒れ,兵は悪疫に伏すであろう.太陽は上がることなく,惑星は運行を停止し,雨は一滴たりとも降らず,地震まで生ずる.
 それどころか,フラグカンよ,あなた自身が今年中に一命を失うに至るであろう」
 6つの大凶事を挙げての強硬な反対である.

 フラグカンは,イランきっての天文学者ナシル・エッジンを招いた.
「いかがなものであろうか?」
「王よ,星占い師のデタラメに思い惑わされる事はありません.
 王よ,機を失せず,直ちに進撃の軍を起こすべきでありましょう」

 はやてのような騎馬の軍勢は,バクダッドへ向かっていた.止まるところを知らぬ激しさであった.
 ナシル・エッジンの予言通り,戦は大勝であった.
 2百万を数えたバクダッド市民は,僅か6週間で40万人に減った.
 160万人が死んだと伝えられている.

 〔略〕

 同じイスラム教徒でも,マホメットの血統を崇めるシーア派に属する「ハッシシン」の一団は,選挙に基づく予言者の後継制をとったスンニー派とは相容れぬ敵である.
 テロリスト達は,十字軍を散々悩ましただけではない.
 3代目ホセインを襲われた怨みも刺し通れとばかり,スンニー派に刺客を次々差し向けたのである.
 先にフラグカンの絶対的な信頼を勝ち得たナシル・エッジン――中世きっての天文学者は,実はハッシシン団の最も有力な秘密結社員だったと言われている.
 さればこそ,スンニー派の牙城,バクダッドの都の即時攻略と,皆殺しの断行をフラグカンに教唆し,煽動したのも頷けようというものである.

(平野一郎=イラン・アフ【ガ】ーニスタン・パキスタン特派員
「シルク・ロードを行く」,朋文堂,1960/8/30,P.62-64)


 【質問】
 バグダード攻略をモンゴル軍はどう行ったのか?

 【回答】
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-weather29dec29,0,4778693,print.story
および
http://www.newyorker.com/fact/content/articles/050425fa_fact4
によれば,まずカリフに対し,バクダードの防壁を壊し,掘を埋めた上で一人でやってきて降伏せよ,という最後通牒を発ししたが,拒否された.

 1257年11月にバクダード攻略開始.
 フラグのモンゴル軍は85万,これにキリスト教徒とイスラム教徒の同盟軍を募り総計は100万人を超える大軍をもって,モンゴル軍は東方と南方から,同盟軍は北方と西方からバクダードに迫った.
 そして,一挙にバクダードを攻めることはせず,周辺の都市や村落を一つずつ落として行った.
 1258年1月に始まった最終的なバクダード攻めにあたっては,一般住民に脱出を命じた後,同盟軍を送り込んでバクダードの隅々まで平定させ,その間,モンゴル軍は高見の見物を決め込んだ.
 フラグは,カネを自分達の贅沢な生活に使い,しかもしこたま貯め込んでいたとカリフ(アッバース朝第37代カリフのムスタシム(Mustasim))とその一族を非難した上で彼らを処刑した.
 バクダードの宮廷と行政機構のメンバー達の大部分も殺害した.
 モンゴルは捕虜はとらず拷問もせず,捕まえた敵兵士は全員殺害した.
 数ヶ月はこういうことが続いたが,その後はバクダードに平和が訪れた.

 詳しくは,太田述正コラム#1604(2007.1.3)を参照されたし.
 論拠が明確であるため,信頼性に特に問題はないと愚考する.


 【質問】
 アッバース朝滅亡時,バグダッド大虐殺80万という数字は本当ですか?

 【回答】
 1258年時点のバグダードは単なる一地方都市で人口も往時の十分の一程度.
 80万虐殺は明らかにイスラーム史家特有のデマ.

 実際はフラグの妻が懇願してキリスト教徒(ネストリウス派)は助命してムスリムを殺したけど,せいぜい数千人程度.

世界史板


 【質問】
 バグダードをモンゴル軍はどう統治したのか?

 【回答】
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-weather29dec29,0,4778693,print.story
および
http://www.newyorker.com/fact/content/articles/050425fa_fact4
によれば,ジンギスカンはイスラム教徒たる一般住民に対しては,アラーは聖なる懲罰としてモンゴルによる勝利を望まれたのであって,モンゴルに抵抗することは神の意思に反することだ,と語りかけたものだが,バクダードの一般住民に対しても同じ語りかけがなされた.
 そしてフラグは,ペルシャ人の敬虔なイスラム教徒であるジュバイニ(Ata Malik Juvaini)にバクダード統治を委ねた.
 ジュバイニはその後の20年の大部分バクダード統治を担当したが,彼の書いたものはいくつか現在まで伝えられていて,イスラム世界の偉大な学問的業績とされている.

 モンゴルはまた,大工・書記・陶工・織工・鍛冶,といった技能を持っている人々を大切にした.
 モンゴルは更に,宗教の自由を徹底し,モンゴル支配下の地域はあたかも世俗国家のようになった.
 バクダードではカリフの旧宮殿の多くは同盟軍に払い下げられ,実際的用途に供された.
 商人に対する税は減じられ,宗教・医学・教育関係者に対しては免除された.
 女性も男性とともに教育された.
 あらゆる臣民に対し,厳格な法が,ほとんど腐敗を知らない官吏によって平等に適用された.
 だから,イラク地域には,キリスト教徒・イスラム教徒・ユダヤ人・仏教徒が流入した.
 こうしてモンゴル統治下のイラクは,イスラム教時代が始まってから今日までの間で,イラクが最も豊かで文化の栄えた時代となった.

 詳しくは,太田述正コラム#1604(2007.1.3)を参照されたし.
 論拠が明確であるため,信頼性に特に問題はないと愚考する.


 【質問】
 モンゴル帝国ってシリアくんだりまで行ったのに,そのすぐ上方にあるビザンツはなんでスルーしたんだろ?

 【回答】
 モンゴルのあの快進撃は,事前の情報収集とそれに基く作戦計画が支えたもので,何も考えずに目の前の土地に進撃していたわけではない.

 また,アナトリア内部からさらにギリシャ方面に進出するには,側面にあたるシリアを勢力下に置く必要があって,それに失敗している.
 さらに,北のバトゥ家とは対立状態.
 南では一敗地にまみれさせられたマムルーク朝が意気軒昂.
 征服した肝心のイランの統治もやんなきゃならない.
 この状況でギリシャに侵攻しても,南に健在のマムルーク朝にアナトリア半島の根っこを押さえられたら帰れなくなる.

世界史板



 【質問】
 じゃあ,なんで欧州と戦ったんだよ?

 【回答】
 バトゥの遠征は,別に最終目的地があるわけじゃないだろ?
 チンギスの西夏遠征とかホラズム遠征とは違う.
 とりあえず侵攻していなかった西に行ってみようかって程度.
 モンゴル内部の対立も当時はなかったから,長躯遠征する余裕があったとも言える.

 無論,そのまま遠征が続いていればヨーロッパ北部は美味しくないってことで,東ローマ帝国とかバルカン・イタリアあたりに向かったかもしれない.
 同じような遊牧民族だったフン族がやったように.

 あくまでIFの話だけど.

世界史板


 【質問】
 モンゴル軍はシリアというよりエジプト狙いだったんじゃね?
 アナトリア半島やギリシャよりエジプトの方が豊かなんだし.

 【回答】
 シリア,エジプト両方だったと思う.

 メソポタミア以上の広大な沃土はユーラシア西部では実質上下エジプトの耕地だけだが,有名なヘレクレイオス1世の
「シリアよさらば! そは敵にとりなんと良き国であろうか」
という言葉にあるように,シリアも穀倉地帯としては通時代的に大変有望だった.

 聖書の時代からカナアンは乳と蜜の溢れる豊饒の国と呼ばれてきたが,基本的に紀元後もやはり「豊饒の地」だった.
 このヘラクレイオスの言葉の典拠になっているアッバース朝時代の歴史家バラーズリーの『諸国征服誌』には,実はこの言葉の説明が続いていて,この「良き国」とは牧場として馬が養える土地が豊富だったことを指している,と述べている.

 アイユーブ朝時代にもシリアの高原や都市近郊に設置した庭園で牧場が営まれ,そこで軍馬が飼育されていたそうな.
 モンゴルのように遊牧のための広大な放牧地を必要とする遊牧民には,シリアはすこし狭い感じがするが,アイユーブ朝時代にさらに整備された耕地からの収益だけでも十分魅力的だったはずだ.

世界史板


 【質問】
 モンゴル帝国が西方まで征服していったときに,当時のビザンツ帝国はまったく無傷だったんですか?

 【回答】
 なんというか,近場のハンガリー一円は荒らされたし,滅ぼされたセルジューク系トルコ勢力が小アジアを侵食してたから無傷ではない.

 モンゴル帝国関係でビザンツ帝国が語られないのは,勿論当時のニカイヤ帝国は第4回十字軍の後,アナトリア内陸の一君主国に零落してしまったという背景もあるが,他にもそれなりに理由がある.

 この時期のモンゴル帝国の西方遠征の行程をまとめると,以下のようになる.

 まず,チンギス・ハンの中央アジア遠征の時,ジェベとスベエデイ両将がホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマド追捕のため,アルボルズ山系南麓からアゼルバイジャン地方を経由して,結局スルターンを発見出来ず,南ロシアへ抜けて中央アジアのチンギスの本陣へ帰還している.
 彼らはアゼルバイジャン周辺でセルジューク朝系のアタベク政権イルデギス朝を降服させ,グルジア王国,大アルメニア王国の軍を破っているが,それよりも西側のルーム・セルジューク朝とは衝突せずに終わった.

 この後アラーウッディーンが,カスピ海南東岸のゴルガーンの近くアーバースクーン島で横死し,息子のジャラールッディーンが任地のガズナで即位した.
 チンギスは,中央アジア遠征に動員した兵力の過半を投入して,このホラズム・シャー朝の残余を討伐しにアフガニスタン方面へ南下している.
 この時チンギスはホラーサーン一帯の再征服はトルイに任せていて,一応トルイはニーシャープールあたりまでは来ていたみたい.

 しばらくホラーサーン地方はモンゴル側からも放置され,インドから帰還したジャラールッディーンとイラン周辺の諸勢力の抗争が断続的に続いていたが,1229年,モンゴル皇帝オゴデイの命令でアムダリヤ川以西のイラン駐留軍としてチョルマグンが派遣され,ジャラールッディーンの歿後間も無いイラン周辺やグルジア,アルメニアへの遠征などを断続的に行っていた.

 オゴデイが没してモンゴル帝国内部が混乱した1240年代,チョルマグンが没した後に,イラン駐留軍の司令を継いだバイジュは,それまで直接対決がなかったアゼルバイジャン以西のルーム・セルジューク朝領内へ侵攻.
 カイ=ホスロー2世率いるルーム・セルジューク朝軍約二万騎は,スィヴァスの西方,キョセ・ダグの地でバイジュ・ノヤンのモンゴル軍と会戦した.
 ルーム・セルジューク朝軍は矢戦で敗退し,カイ=ホスローは首都コンヤまで逃亡.
 スィヴァス市近郊で,ルーム・セルジューク朝側の将軍たちと近隣のアマスィア市のカーディーらが,自発的にバイジュ側と交渉して40万ディーナールの歳貢を支払う事で和平を結んだ.
 事実上ルーム・セルジューク朝はモンゴル帝国へ臣従することになり,カイ=ホスローの息子ルクヌッディーン・クルチ=アルスラーン(4世)はモンケの即位に同席し,モンケに派遣されたフレグに従ってイランへ帰還,ルーム・セルジューク朝の君主として即位している.
 グユクやモンケの即位にはグリジアやキリキアなどからも使節が派遣されていたことが,『集史』や同席した欧州の使節の記録にも出てくるが,ビザンツ帝国の場合は聞かれない.

 一方,ビザンツ帝国がモンゴルと直接関係したのは,パレオロゴス朝のミハイル8世がフレグに,自分の娘を嫁がせたのが殆ど最初で,それまでは少なくともモンゴル側の資料からは目立った記録は無さそう.

 というわけでモンゴル帝国軍と直接対峙したのは,ビザンツ帝国周辺のグルジア,大アルメニア,アゼルバイジャン,キリキアの小アルメニア王国やルーム・セルジューク朝であって,これらはモンゴル軍に手酷く負けたり歳貢の支払いを命じられたりしたが,ビザンツ帝国自体はモンゴル帝国と直接交渉した事も,フレグの時代までは殆ど無かったようだ.

世界史板


 【質問】
 十字軍の遠征はモンゴル軍とばったり遭遇したことはないのですか?

 【回答】
 十字軍は
「一緒にイスラームやっちまおうぜ! 挟撃どーよ? あと,ついでにキリスト教も」
と親書を出したら,
「うっせーバーカ」
と一蹴されたくらいで遭遇はない.
 むしろマムルーク朝が,十字軍とモンゴルの間で防護壁になってたくらい.

世界史板


 【質問】
 とある英国の貴族が,モンゴル軍のヨーロッパ侵攻の道案内をしたって本当?

 【回答】
 ヴィーナー・ノイシュタットで捕虜になった「モンゴル兵」の中に,イングランド人が一人いた.
 尋問の記録が残っているが,マグナ・カルタが制定された頃にイングランドから追放されて,十字軍に行ってテンプル騎士団に入団したりしてた経歴を持つ人物だったという.

 詳しくはガブリエル・ローナイ著『モンゴル軍のイギリス人使節』を.
 モンゴル帝国については結構テキトーなことも書いてるから,鵜呑みにしないほうがいいが.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 モンゴルの高麗征服について教えてください.

 【回答】
 高麗王朝に対し,モンゴル帝国は1231年~1273年に繰り返し侵攻.
 高麗の国土は荒廃し,対モンゴル強硬派の武臣政権である崔氏政権も,最後は崔竩(チェ・ウィ)暗殺により崩壊.
 高麗は全面降伏し,以後80年,高麗はモンゴル支配下に置かれた.

 そもそも,モンゴルと高麗は同盟国の筈であった.
 1219年,高麗はチンギス=ハンと共同して,契丹の,既に滅んだ西遼(せいりょう.カラ=キタイ.黒契丹.1132-1211)の残存勢力を討ち滅ぼした.
 というのも,その残存勢力が高麗北部に侵入し,江東城(カントンソン,現・平安道)を根城にして荒らし回ったからである.

 ところが,この同盟関係は1225年,破綻する.
 同年,モンゴル帝国の使節が高麗領内の鴨緑江で何者かに殺害される事件が起きたからである.
 モンゴルは高麗に対し,高麗の国庫では賄いきれないほどの貢物を要求し,使節はその貢物を得て帰国する途中の事であった.
 犯人が何者であるにせよ,その動機は推測するに難くない.

 これにより,両国の国交は断絶.
 1231年,モンゴルは高麗に侵攻した.

 当時最強の帝国相手に,陸戦で極東の小国が叶うはずがない.
 崔氏は自身の私兵団・三別抄(さんべつしょう.別抄は「臨時編成の精鋭部隊」の意味)を投入して,モンゴル軍に対して抗戦したが,高麗軍は各地で苦戦した.
 その戦闘結果:

●第一次侵攻(1231年)

 ジャライル部のサルタイに率いられたモンゴル軍が侵攻.
 圧倒的兵力差により,一挙に首都・開城(ケソン)までおとされ,高麗はモンゴルに降伏.
 モンゴルは高麗を監視するため,開城その他の都市に監察・統治官であるダルガチ(達魯花赤)72人を配置.

●第二次侵攻(1232年)

 ダルガチ全員を高麗が殺害したため,モンゴル軍の再侵攻を招く.
 ぶっちゃけ自業自得.
 高麗は,モンゴル軍は水上戦に弱いと見て,京畿道沖にある江華島に朝廷を移し,籠城.
 本土の民衆に対しては,海島や山城に拠点を作ってそこで抵抗するよう呼びかけた.
 モンゴル軍は半島全土を荒らし回ったが,江華島の攻略には失敗.
 龍仁附近で行われた処仁城 (チョインソン)の戦いにおいて,サルタクが流れ矢に当たり戦死したため,モンゴル軍は一時撤退.

●第三次侵攻(1235年)

 江華島や山岳地帯に逃げ込んだ高麗人の補給を断つべく,モンゴル軍は慶尚道・全羅道全域に展開.
 高麗は講和を望むようになり,高麗王室から人質を出すことを条件に,1238年,モンゴル軍は撤退.

●第四次侵攻(1247年)

 高麗が,無関係の人間を王室の者と偽って人質に出したため,モンゴル側は激怒.
 モンゴル側は高麗王室の江華島からの退去,海上のすべての艦艇の一掃,反モンゴル的貴族の差し出しなどを強硬に求めたが,高麗側は王族・佺と10人の貴族子弟を人質に出した以外は要求を拒絶したため,4度目の侵攻を招く.
 ぶっちゃけ自業自得(これで何度目だ?)
 アムカン率いるモンゴル軍は塩州に駐屯して,高麗に対し,江華島から松都(開城)への還都,および高麗王室からの人質を再び要求.
 しかし高宗は,江華島から松都への帰還を拒否したため,モンゴル軍は半島全土に軍を再展開して掠奪作戦を開始.
 1248年にモンゴル帝国第3代皇帝.グユク・カンが崩御したことによる一時的な撤退を挟んで,1250年まで掠奪を続けた.

●第五次侵攻(1253年)

 1251年,モンケがモンゴル帝国第4代皇帝に即位すると,高宗に対し,開城への還都と,高宗自身のモンゴル宮廷出廷を再三要求.
 高麗も一旦は使者をモンゴル側に送って近く出陸すると返答.
 しかし実行しなかったため,イェグ率いるモンゴル軍の侵攻を招いた.
 ぶっちゃけ自(ry
 降伏要求を高麗はこれを拒絶するが,モンゴルへの抵抗は諦め,山城や島嶼部に農民を疎開させる.
 その間,ジャラルダイ(札剌児帯)は高麗の降将とともに国土を蹂躙.
 遂に高宗は半島本土帰還と,第2王子の安慶公淐を人質に出すことを承諾し,モンゴルは1254年1月に停戦に応じた.

●第六次侵攻(1254年)

 やっぱり高麗は約束を守らない.
 今度は高麗朝廷上層部を江華島に残留させるという小細工を弄したため,モンケ・ハーンはイェグを罷免して,ジャラルダイを代わりに征東元帥に任命して高麗への侵攻を開始.
 高麗国土は『高麗史』曰く,
「この歳(とし),蒙古兵に捕虜となった男女は無慮206,800余人,殺戮された者計るべからず.
 州郡経るところ皆煨燼となり,蒙古兵の乱あってから,此の時より甚だしきはなし」
「骸骨野を蔽う」
といった惨状を呈することになる.
 こうした破壊・略奪が,小休止を挟んで第4波まで繰り返された.

 モンゴル支配下の高麗では,親モンゴル派(主として文班)と反モンゴル派(主として武班)とが抗争した挙句,1270年に崔竩(チェ・ウィ)が暗殺されて崔氏政権が崩壊.
 その後は元宗(位1259-74)によるモンゴル服従体制となった.
 この元宗は,先に人質として差し出された皇太子であるが,高宗の死去によって帰国,即位していたのである.

 さて,モンゴルは中国において元朝を興す.
 元朝の体制が固まり,高麗への支配力がより強まると,高麗では親モンゴル派と反モンゴル派の対立が激化.
 反モンゴル派の武臣・林衍が,1268年から翌69年にかけて親モンゴル政権転覆と元宗廃位のクーデターをおこし,元宗の弟を擁立した.
 しかし,モンゴルの干渉によってクーデターは失敗し,両班は文武逆転となって,再び武班が文班の配下に置かれることになった.

 元宗は,三別抄が存在する限り反モンゴル派は消えないと考え,1270年,三別抄解散を命令.
 しかし三別抄はこれを拒否して,高宗の又従兄弟・王温を擁立.
 最初は江華島へ,さらに西南の珍島(チンド)へ拠点を移して抵抗した.

 これに対して1271年,元宗とモンゴルの連合軍は珍島攻撃を開始.
 珍島は瞬く間に陥落し,王温とその息子は捕らえられ殺害された.
 このとき三別抄は日本に救援を求めたが,鎌倉幕府はスルーしている.

 それでも三別抄の指導者,金通精は耽羅(現・済州島)に再度拠点を移し,なおも抵抗を続ける.
 しかし1273年には,耽羅もまた陥落.
 金通精は自殺して三別抄は完全に壊滅した.
 この一連の反乱を"三別抄の乱"という.

 高麗はその後もモンゴルの属国として支配された.
 ダルガチが各地にその目を光らせた.
 また,元宗没後の宮中においても,高麗王族はまず元朝の宮廷警護"ケシク"としてモンゴル皇帝側近として仕え,ケシクとして仕えた王族がその後高麗王となるのが通例となる.
 高麗王家は代々モンゴル帝室に入り婿し,しまいには高麗王の血統はクォーター,ハーフどころか,7/8(=88%)~15/16(=94%)までモンゴル人の血が混じる.
 このため,元朝が滅んで北元まで滅びかけた頃になっても,高麗にはまだ親元政権が残るという,元べったりな有様となった.
 高麗貴族の間でも,モンゴル文化が流行.
 それどころか,朝貢の一環として,朝鮮の良家の娘たちを集めて元朝の帝室に差し出す「高麗貢女」まで,高麗のほうから自ら進んで行った.
 貢物とされた女たちは,例えばモンゴル宮廷に入って皇后や王族のそばで働きながら,できうればそこでエリートを見つけて結婚することが望まれていた.
 帝室内に高麗の身内を送って発言力を増していこうという策術.
 モンゴルもこの魂胆をわかっていて,王族は高麗貢女と結婚してはいけないというしきたりを作った.
 モンゴルの年代記にも,「元朝が滅んだのは祖先のしきたりを破って高麗貢女を貰ったから」だと記されている.
 高麗貢女は,モンゴルのしきたりを無視して後宮で権力を振りかざしたので,帝室に対する王族の離反を招き,ひいては反乱が広がったのだという.

 皮肉な形でかたきをうったと言えなくもない,かな?

 【参考ページ】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.137-142
http://www.kobemantoman.jp/sub/185.html
http://ameblo.jp/fugen-blog/entry-11431025242.html
http://ameblo.jp/fugen-blog/entry-11431065997.html
http://homepage2.nifty.com/Kircheis/Retu/Human/human052.htm
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/d02_korea/korea.html
http://yukan-news.ameba.jp/20140911-19335/


 【質問】
 モンゴル帝国は元,4ハン国分裂後,いわゆる今のモンゴル国のあたりはどうなったのですか?
 モンゴル民族はどうなったのですか?

 【回答】
 チンギス創業の聖地ともいえるモンゴル高原は,モンゴル帝国の宗主である大元ウルス(トゥルイ・クビライ家)の世襲直轄領.
 クビライは壮麗な夏の都・上都(シャントゥ)を内モンゴルに築いたが,これはマルコ・ポーロに「ザナドゥ」と呼ばれた.
 その後はさほど経済的に繁栄せず,昔ながらの遊牧文化が息づいていたようだ.

 14世紀,シナ地域に明が興ると,元の皇室はモンゴル高原へ帰還し,いわゆる北元となる.
 しかし内乱が続いてクビライ皇統は断絶,15~16世紀にはオイラートとタタールが覇を競い,かつての大帝国には及ばぬものの,エセン・ハーン,ダヤン・ハーン,アルタン・ハーンなどが明や周辺諸国と抗争した.
 17世紀初頭には,モンゴル諸部族は満洲族の大清皇帝をハーンに推戴,チンギス以来のモンゴルの天命は清に移ることとなる.

 現在のモンゴル民族,というかモンゴル系の言語を話す文化集団は,モンゴルのみならずユーラシア各地に分散している.
 モンゴル国民や,中華人民共和国の少数民族「蒙古族」はその一部分に過ぎない.

 その後のモンゴル諸帝国の興亡はこれに書いてあります.
ちくま新書「モンゴル帝国の興亡」

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 モンゴル帝国から分かれたキプチャク汗国とかオゴタイ汗国とかは,お互いにどういう関係だったのでしょうか?
 援軍をお互いに出し合ったりとか友好的だったのでしょうか?
 それとも,敵として戦争とかしたりしてたのでしょうか?

 【回答】
 モンゴル皇帝モンケが陣没(1259)し,クビライとアリクブケとの後継戦争前後から,ジョチ・ウルスは南方の後のイルハン朝となるフレグ西征軍や東方の大元朝と交戦することがあったが,基本的にジョチ家は機会が有れば,これらトルイ家の2政権と友好関係を回復しようと努めているし,イルハン朝や大元朝もジョチ家との関係を修復しようと互いに使節のやりとりを行っている.

(ただし,ユーラシア史家の川口琢司によれば,中央の統率力が弱まって自立化の道を歩み始める以前,14世紀初頭まではジョチ・ウルスはしばしばモンゴル帝国中央の干渉を受けたという.
 『中央アジアを知るための60章 第2版』(宇山智彦編著,明石書店,2010.2.10),p.30参照)

 もちろん諸王家の課題は,自領土を最大限保持することにあった訳だが,ジョチ家およびクビライ,フレグ家政権の真の懸案は,むしろ中央アジアのチャガタイ家,オゴデイ家とそれに参画する王族たちの取り扱いだった.
 エミルを中心とする中央アジアのチャガタイ家やオゴデイ家のウルスには,クビライの即位やその施政に反対するモンケ家,アリクブケ家などの王族たちが寄り合い所帯の状態で,クビライ率いる大元朝側は,イルハン朝などと共同してカイドゥら中央アジアの反抗勢力の討伐を幾度か企画した.
 ところがバラクやシリギなど,対中央アジア遠征軍中の反クビライ派の王族の寝返りやクーデターで,その都度失敗を強いられている.

 基本的にジョチ・ウルスは,結局のところクビライ政権の宗主権は認めているし,イルハン朝は積極的にクビライ・カアンらへの臣従をイラン地域支配の根拠としていた.
 カイドゥはオゴデイ家領の拡大をねらっていたが,バラクなどの反トルイ家,反クビライ家的な王族たちはトルイ家やクビライに臣従すること自体に不満があったようだ.
 結局1301年にカイドゥが大元朝のカイシャンによって敗死すると,バラクの息子ドゥアはチャガタイ家,オゴデイ家の王族たちに裏工作を行い,成宗テムル・カアンに臣従,
 これによってようやく,モンゴル帝国の諸王家は大元朝を頂点とする体制に帰順するようになった.

 諸王家間の具体的な内容となると,もう少し色々と問題が入り組んで面倒だが,だいたいはこんなところ.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ジョチ・ウルスって何?

 【回答】
 ジョチ・ウルスとは「ジョチ家の所有または国の意味で,ジョチはチンギス・カンの長男.
 チンギスは,モンゴル高原の遊牧諸部族を統合すると,ジョチに「馬蹄が達する限り」キプチャク草原を征服するよう命じた.
 ジョチは間もなく亡くなったが,チンギスの遺命はジョチの次男バトゥに受け継がれ,彼の西征によってジョチ・ウルスはキプチャク草原全域に拡大した.

 【参考ページ】
『中央アジアを知るための60章 第2版』(宇山智彦編著,明石書店,2010.2.10),p.29-30

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/20 21:10
を加筆改修


 【質問】
 ジョチ・ウルスの両翼体制とは?

 【回答】
 中央ユーラシアの遊牧国家にしばしば見られた国家体制で,
ヴォルガ川流域を中心とする西半分(右翼ウルス)を,バトゥの王統が統括(バトゥ・ウルス).
イルティシュ川流域を中心とする東半分(左翼ウルス)を,バトゥの兄オルダの王統が統括した(オルダ・ウルス).
 バトゥはジョチの三男であるベルケ,四男ベルケチェルを恐らく中軍(コル)とし,
右翼諸軍は五男シバンを司令として六男タングト,七男ボアル,八男チラウカン,十男チンバイら8人を麾下において,中軍と右翼諸軍からなる右翼ウルスを形成.
オルダは十二男ウドゥル,十三男トカ・テムル,九男ソンコル,十四男セングムを麾下とし,左翼諸軍からなる左翼ウルスを形成した(資料によっては十一男ムハンマド・ボラと九男ソンコルが入れ替る場合もある).

 【参考ページ】
『中央アジアを知るための60章 第2版』(宇山智彦編著,明石書店,2010.2.10),p.29-30

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/21 21:10
を加筆改修


 【質問】
・モンゴル人が宋を倒して元を建国(1279)
・女真族が明を倒して清を建国

 モンゴル・女真どちらも人口は漢人より遥に少ないのに,漢人の国を倒せたのはどうしてでしょうか?

 兵器にそれほど差があるとは思えませんし,当時は国の人口の多少がそのまま戦力の多少につながるのでは?と.
 しかも漢人の方はホームグランドを守る地の利.モンゴル・女真は延々と遠征を続けなければなりませんし.

 【回答】
 クビライが南宋を攻めた時の戦力の大半は,モンゴルに帰順した華北の漢人軍閥の歩兵や水軍の兵力で,モンゴル人は騎馬兵が中心のごく少数の兵力でも,総兵力では南宋の兵力にも水陸両方で劣らないか,むしろ上回っているぐらいだった.
 むしろ,モンゴル軍が兵力差の面で劣勢だったのは,チンギスやオゴデイの代に金を攻めた時の方.
 明が李自成の乱で滅んだ後に清が入関を果たし,中国内地で李自成や南明の勢力の追討を行ったときも,清は呉三桂や尚可喜や耿仲明・耿継茂親子ら,清に投降した明の漢人将兵に内地の統一を進めさせればよく,八旗の兵力など投入するまでもなかったという事だろう.

 それに,政府が腐敗していたら人口多くても士気は出ないわな.
 兵非貴益多,雖無武進,足以併力料敵取人而已.

(世界史板)


 【質問】
 元朝下の話でしたか,モンゴルによる政権が儒家を軽んじ,社会制度,社会構造に儒の要素を組まなかったことを表す言葉ってありますか?,格言的に.

 【回答】
「一官・二吏・三僧・四道・五医・六工・七猟・八農・九儒・十丐(こじき)」.

 モンゴルは宋代までのような科挙によらず,縁故と血統と実力で人材を登用した.
 先祖がモンゴルに従ってどんな功績を挙げたか,いつ家臣になったか,姻戚関係はどれほど近いかで,「貴族」としての格が決まる.
 官僚は実務家として有能な,イラン系のムスリム商人が登用されることが多かった.

 しかし,モンゴルはチンギスの子オゴデイの時代から,儒教を「宗教のひとつ」としては保護しており,曲阜の孔子廟を再建して孔子の子孫を保護したり,儒学を世業とする人々を「儒戸」として戸籍に登録したりした.
 1315年には小規模ながら科挙を復活し,南宋では弾圧もされた朱子学を,正統な経典解釈として採用した.
 明代に朱子学が「国教化」したのは,これを受け継いだもの.

世界史板,2010/04/05(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アルタン・ハーンの北京包囲について教えてください.

 【回答】
 フビライ・ハーンの子孫とみられるアルタン・ハーンは,16世紀前半からたびたび明に侵入していたが,1550年9月24日,長城を越えて北京を包囲し,明朝に対し朝貢と通商を要求した.
 明は第12代皇帝,世宗嘉靖帝の時代.
 その執政・厳嵩は,兵士らに応戦を許さず,モンゴル軍が略奪を終えて自主的に撤退するのを待った.

 その後,1571年には明と和平を取り決めたが,アルタン・ハーンの存在は明にとって大きな脅威となり,長城の強化事業が行われた.


 【質問】
 兵学,言語,美術,音楽等で,モンゴル帝国の遺産と言えるものは何かないの?

 【回答】
 モンゴル帝国の軍政でいえば,左翼,中央,右翼の3構造が基本だったこと.それまでの遊牧政権では左右両翼体勢だったのは有名だが,モンゴルの場合中央軍が別個に存在していた.
 これはその後のティムール朝やムガル朝,サファヴィー朝などの政権でも基本構造となった.
 北元後のの東方でのモンゴル政権などでも同じだとか.

 文化面では,有名なところで,大元朝時代に景徳鎮でコバルト顔料を使用した染付けが発明され,それまでの白磁や青磁とは別の陶磁器のジャンルが開拓された.
 これらの陶器は,モンゴル王家やその他の外国の王侯への贈答品として,エジプトや中央アジアなどへ大量に発送されている.
 また,それまでイスラーム文化圏では絵画芸術がわずかに写本の挿絵として描かれていたが,イルハン朝後期からその挿絵写本が大量に生産されるようになった.
 作風自体中国絵画の影響が色濃く,現存する絵画には中国風の人物画も多い.
 さらに,用紙の生産の規格化や量産も図られ写本作成自体が向上したため,モンゴル時代以前の作品についても現存する写本はイルハン朝前後に書写されている場合も多い.(これは大元朝でも同じらしい)
 イスラーム文化圏で伝統的な絵画芸術が一般化するのはイルハン朝の影響が極めて高い.

 建築については聖人や王侯の墓廟施設が,墓廟単独ではなくマドラサやモスク,図書館などを併設し,ワクフなどの宗教寄進財産で運営される複合施設としての性格が顕著になった.
 これはイルハン朝時代からあらわれ始め,中東から中央アジア,ウイグル方面全体に流行した.

 あと,『華夷訳語』みたいな片手にあまるくらいの他言語横断型の資料があらわれるのも,モンゴル時代以降の特徴.
 他にも思想面とか色々あるけど,必ずしも「現代」に繋がっていないもの多い.

世界史板


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