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◆◆◆足利氏 前半
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戦史FAQ目次


 【link】

「D.B.E. 三二型」(2012/11/11)◆地蔵菩薩から足利将軍の遺髪か 大津の三井寺
> 博物館によると,三井寺には初代の足利尊氏と2代将軍の義詮の2人について「死亡した際,遺髪を納めた地蔵菩薩が奉納された」という記録が残っており,尊氏か義詮の遺髪である可能性が高い.


 【質問 kérdés】
 室町幕府の歴代将軍を教えてください.

 【回答 válasz】
(「燃えよドラゴンズ」の替え歌で)
 足利将軍家応援歌「燃えよ金閣寺」

いいぞ,がんばれ,足利s 燃えよ金閣寺

1番 尊氏 幕府立て
2番 義詮(よしあきら) 御前沙汰
義満 勘合 貿易だ
義持 禅秀の 乱潰せ
いいぞ がんばれ 足利s 燃えよ金閣寺

5番 義量(よしかず) 早死にで
義教(よしのり) 籤引き 当たり引き
7番 義勝(よしかつ) 赤痢で死
義政 富子に お任せだ
いいぞ がんばれ 足利s 燃えよ金閣寺

義尚 六角 征伐だ
10番 義材(よしき) 都落ち
義澄(よしずみ) 大内 めちゃ憎い
義晴 近江に お引越し
いいぞ がんばれ 足利s 燃えよ金閣寺

義輝 三好に 滅ぼされ
義栄(よしひで) 三好の お飾りだ
義昭 信長 から追われ
最期は 秀吉 御伽衆
いいぞ がんばれ 足利s 燃えよ金閣寺

がんばれ,がんばれ,足利s 燃えよ金閣寺

mixi, 2017.5.14


 【質問】
 足利将軍(&直義)をどう評価しますか?

 【回答】
 一応,近年の研究も踏まえているが,基本的に私の独断と偏見に基づく勝手な評価であることを,あらかじめお断りしておく.
 なお,9代義尚以降は,専門から離れていることもあり,私の評価は定まっていないので省略した.

○尊氏

 やれば本当はものすごくできるのに,極力やろうとしなかった日本史上屈指の変わり者.

 素直にストレートに吐く本音が,そのまま狡猾な策略になってしまう点でも,骨の髄から政治家だった武将である.

 しかし,尊氏の優柔不断さややる気のなさは,彼が権力のおそろしさを心底から熟知していたことの現われでもある.
 頭がよすぎて,状況が見えすぎるから,次にどうしようもない不可避の事態が発生することが,手に取るようにわかるから尻ごみしたんだろうね.

 弟の直義や執事高師直をなくして,仕方がないからたった1人で,しかも病魔と闘いながら全力で戦う尊氏の姿は,ある意味壮絶である.

○直義

 マキャベリストである.
 狡猾にして残忍・卑劣であったが,これは褒め言葉である.
 南北朝時代という乱世を生き抜き,足利氏に天下をもたらすには,彼のような力量を持った人物が確かに必要不可欠であり,その意味で直義は紛れもなく尊氏の弟であったと言えよう.

 ただし,その政治的力量は,やはり今一歩尊氏に及ばず,最後は肉親の情に負けたこともあり,敗北してしまったのだと思う.

○義詮

 武士のすさまじいまでの恩賞要求と,寺社本所に対する荘園保護政策という矛盾した困難な政策課題を両立させ,室町幕府の政権基盤を確立した偉大な将軍である.

 彼の治世は,表面上は醜い内輪もめの連続であったが,その水面下では幕府の足腰が強靭なものとなり,長期政権を決定づけた点で,義詮は類まれな名将だと思う.

 本当に偉大な事業は,案外目立たないところでひっそりと進行しているものなのかもしれない.

○義満

 今後いくら研究が進んでも,この時代が全盛期であるとの見解は,おそらく不動であろう.

 尊氏・義詮時代の不断の努力の成果が,義満に至って一気に開花した.

 傲岸不遜な態度ばかりが強調される義満だが,一方では守護に対して非常に腰が低く,謙虚な態度をとっていたことや,政敵を完全には抹殺せずに温存し,諸勢力の勢力均衡の上に将軍権力の維持をはかるという,一種の政党政治に近い政策なども看過できない.

○義持

 室町幕府の安定期であり,近年再評価が非常に進んでいる将軍.
 篤い信仰心を持っていたことでも知られる.

 確かに堅実な政治であったが,一方では問題先送りの観も否めない.

 義満期から若干見えていた,構造的な矛盾と衰退の兆しが,この時期に顕在化してくるのも見逃せない.

○義教

 公平と正義に基づいた政治を行い,南朝の残党をたたきのめし,九州探題の勢力を削減し,比叡山を焼き打ちし,鎌倉府を滅亡させるなど,顕著な業績を挙げた名将軍.

 大胆にして細心な,政治家としての力量は疑いなく優れており,間違いなく中興の祖と言えるであろう.
 世界史基準で見ても,Aクラスに入ると思う.

 ただし,幕府政治の構造的矛盾とそれに起因する衰退は,表面上の華やかさとは裏腹に,この時代においても一層進行しており,義教のような名政治家と言えども,そこまで見抜くことは難しかったと思われる.

 ある意味,表面上は情けなくても水面下では権力が強化されていた義詮と,対照的な時代である.

○義政

 応仁の乱を起こし,投げやりになった治世後半の姿ばかりが印象に残るが,将軍になった当初は非常に意欲的に政治を行った人物である.

 資質は間違いなく優秀であったが,その政治は,全盛期のものをただ表面的に模倣するものに過ぎなかった.

 体力が衰えているのに無理やり運動しても,ダウンするのは当然のことで,進行していた矛盾が一気に噴き出して破滅を速めた観もある.

「はむはむの煩悩」,2009年11 月20日 (金)


 【質問】
 室町幕府の将軍が事実上,政治の実権を持ってたのは6代将軍・足利義教公までじゃね?
 7代将軍・義勝以降は,常に外戚や山名とか大内とかの有力守護大名に補佐され,権力を握られてたような感じだし.
 まあ,義満も細川氏や斯波氏に補佐されてはいたけど,権力を握られるまでは至らなかったと思う.

 【回答】
 義政も権力を持っていたと思う.
 傀儡ならば,その意思で守護の人事がひっくり返ったり,側近が大きな力を持って批判されるようなことはないでしょう.
 義満のような,大大名を実力で排除できるような力はなかったかもしれないですが.

 たとえば斯波氏のお家騒動なんて,義政の意思がころころ変わったことが,問題を深刻化させた最大要因だものな.
 義政に政治的な権力がないのなら,斯波氏が義政の心変わりに一々振り回されることもないわけだから.

 応仁の乱は,やり方次第では潜在的に絶大な権力を振るえる立場にいる義政の政治に対する姿勢が,今一つ中途半端で意思がハッキリしない(頻繁に決定をひっくり返す)ことが,いろいろな問題を深刻化させて最終的に爆発しちゃったようなものだな.

 あと,義尚段階でも六角氏征伐なんかでは,あれだけ大量の兵力を動員できるだけの軍事力・経済力が残っているわけだし,なおかつ諸大名を動員できるだけの権力も維持している.
 やはり根本的に何かがおかしくなるのは,将軍家自体の分裂が起こった,明応の政変以降じゃないかな.

日本史板,2007/10/21(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 何かの本で,
「9代義尚以降の足利将軍は,いずれも京都の畳の上で自然死していない」
というような話を目にしたことがあるんですが,これって本当でしょうか?

 【回答】
 確かに,京都で自然に死んだ将軍はいないですね.

 だいたい,追放されて地方で死んでいます(10代義稙は,「流れ公方」と言われた).

 13代義輝は,松永久秀に武衛第を襲撃されて戦死しています.

 15代義昭は,最後は豊臣秀吉の側近となって大坂で死んでいますが,これがある意味でいちばん幸福な死に方だったかもしれません.

「はむはむの煩悩」,2007年3月26日 (月) 10:08

 前回のエントリーで,fujiさんから,「9代将軍義尚以降で,京都で畳の上で死ねた足利将軍は一人もいないのではないか?」とのコメントをいただいたが,言われてみれば確かにそうである.

 そこで今日は,9代義尚以降の室町殿がどこで死んだのかを,ざっと見てみたい.

 9代義尚は,命令を聞かない近江守護六角高頼を討伐するため自ら近江に出陣したが,陣中で没した.
 これは室町幕府の場合に限らず,鎌倉幕府・江戸幕府を見渡しても,軍勢を率いて合戦に出陣するという,本来の「征夷大将軍」らしいことをした将軍は実は少なく,まして出陣中に死んだ将軍はおそらく彼だけである.
 義尚はその意味で希有であると言えよう.
 また,義尚は歌人としてすぐれ,歌集も残しているそうである.

 10代義稙は,前回も述べたとおり明応の政変で一度京都を追放され,また将軍に復位するなど,きわめて複雑な生涯を送った人物である.
 戦国時代の畿内の歴史は,敵味方が頻繁に入れ替わるなど非常に複雑怪奇で,専門が近い私でさえ,何度説明を聞いてもよく理解できないほどである.
 最後は,自分を将軍に復位させるのに力を尽くした細川高国を憎んで自ら京都を出て淡路に行き,後阿波に移って没した.
 このため,「島公方」と呼ばれたそうである.

 11代義澄は,義稙に京都から追い払われて近江で没した.

 12代義晴も,三好長慶に敗れて近江に逃れ,そこで死んだ.

 13代義輝は,戦国期の足利将軍としては,唯一京都で死んだ将軍である.
 だがしかし,その最期は松永久秀に武衛御所を急襲されて自殺するというものであった.
 その戦闘の模様は,傍らに刀を何本も刺し立て,取り替えながら敵兵と斬り合うという壮絶なものであったらしい.

 14代義栄は,上洛さえできずに摂津富田で病死した.
 しかも,死没の日付と場所には異説もあってはっきりしないそうである.

 15代義昭は,最後には豊臣秀吉と和平し,再び出家して(義昭はもともと僧侶であったが,兄義輝の戦死によって自ら幕府を再興するために還俗した人である),1万石を与えられて山城槇島に住んだ.
 最期は大坂で死去した.
 実はこの義昭が,後期の室町将軍の中ではある意味で,もっとも幸福な死に方をしたと言えるかもしれない.
 文禄の役のときには,非常に喜び勇んで上機嫌で肥前名護屋まで従軍するなど,何だかんだで根っからの将軍であることを感じさせるところもあった.

 それはそうとして,ざっと見てみるだけでも,戦国期の室町殿の運命は本当に過酷であることがご理解いただけると思うが,しかし反面,ここまで弱体化していながら,なお1世紀の間命脈を保ち続けた室町幕府のしぶとさの方に,私などは目を惹かれるのである.

「はむはむの煩悩」,2007年3月26日 (月)

 ※「徳川家茂が出陣中に大坂で客死してますよ(第二次長州征伐中)」と,同ブログ・コメント欄にて指摘されている.

 【質問】
 足利氏満について教えられたし.

 【回答】
 以前,初代鎌倉公方足利基氏について紹介したことがあったが,これからしばらく,基氏の子どもで,2代目の鎌倉公方を務めた足利氏満について簡単に紹介していきたい.

 足利氏満は,延文4(1359)年に生まれた.父は今言ったように足利基氏.母は元関東執事畠山国清の妹である.
 幼名は「金王丸」といった.

貞治6(1367)年4月,基氏が死去し,翌月氏満が2代目の鎌倉公方に就任するが,このとき彼はまだ8歳の少年であった.
 実質的に関東の主が務まるわけがない.

 そこで,京都から佐々木導誉(71歳)が「使節」として鎌倉に下向して,東国の政務を執り行った.
 佐々木導誉という武将は,本当にあちこちに出てくる不思議な武将である.
 忘れた頃に意外なところにひょっこり出てくるからびっくりするんだよね☆

 京都の将軍義詮は,どうもこのとき鎌倉府の権限を大幅に縮小して,観応の擾乱前の状態に引き戻し,東国を京都幕府の直接統治下に置こうと考えていた節が窺える.
 しかし同年12月,その義詮も急死したためにその構想は頓挫し,導誉は京都に帰る.

 義詮死後,周知のように足利義満が3代将軍に就任する.
 こちらもわずか10歳,幼少での将軍就任である.

 関東の重鎮上杉憲顕は,義満の将軍就任を祝うために,翌貞治7(1368)年1月上洛する.
 この憲顕不在の隙を突いて起こったのが,武州平一揆の乱である.

 以前も紹介したことがあるが,武州平一揆とは,武蔵国の中小武士連合で,観応の擾乱以降,足利尊氏が関東に下向したとき,尊氏の直属精鋭部隊として南朝軍と戦って大活躍し,リーダーの河越直重が相模守護となるなど,関東尊氏党の中核を占めていた勢力である.

 しかし,基氏の時代になって旧直義党で失脚していた上杉氏が復権すると,平一揆の力も衰え,高坂氏重が伊豆守護を務めた以外はずっと逼塞していたのである.

 平一揆の反乱には,宇都宮氏綱と高重茂も加わった.
 彼らについても以前紹介したことがあるが,下野国の宇都宮氏綱は旧尊氏党の元越後・上野守護で,これもかつて上杉氏の復権とともに両国守護を上杉氏に奪われ,反乱を起こしたものの基氏に鎮圧された武将であり,高重茂は高師直の実弟で,以前は関東執事や幕府引付頭人などの要職を歴任した政治家である.

 彼らが上杉憲顕が不在の隙を突いて挙兵したわけであるが,憲顕は3月末に反乱を鎮圧するために京都を出発して関東に戻り,平一揆を武蔵国川越合戦で撃破した.
 6月には平一揆の本拠地川越館を陥落させ,武蔵国全域を制圧し,宇都宮討伐に向かった.

 この合戦の結果,伊豆国は高坂氏重に代わって山内上杉氏の世襲分国となった.
 反乱軍のリーダーの河越・高坂は本領を没収され,歴史の表舞台から消滅する.
 宇都宮氏綱ほか反乱に参加した武将たちは,尊氏が直義に決定的な勝利を収めた駿河国薩?山の戦いのときの恩賞を没収され,それがない者は本領の3分の1を没収される処分を下された.

 こうして氏満政権は,発足直後の危機を迅速に克服し,それどころか政権基盤を一層強化することに成功したのである.
 続きはまた今度・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年7月 9日 (水)
青文字:加筆改修部分

 上杉憲顕上洛は,単に義満の将軍就任を祝うためだけではなかった.
 前将軍義詮の死去とともに新たに管領に就任した細川頼之と,今後の幕府の全国統治体制について話し合うという重要な任務も帯びていたのである.

 当時は,東西ともにリーダーが急死してトップが不在となった異常事態である.
 義満・氏満と幼君を戴いて,政治的に非常に不安定な時期であったろう.
 現実に,東国では前回紹介したように,尊氏時代の勢力を回復しようとした平一揆の乱も起きたのである.

 頼之との打ち合わせの結果,鎌倉府は,憲顕が幼い公方の権限を代行して,恩賞充行や寄進を行う体制となった.
 京都幕府でも,頼之が将軍の代行を行ったが,西国の体制に倣ったのである.
 この頃から,関東管領の役職が確立したのである.

 しかし,その関東管領憲顕も間もなく応安1(1368)年9月に死去する.62歳であった.
 彼の生涯も,激動と波乱に満ちていた.

 その後は,憲顕の子息上杉能憲と,犬懸上杉家の上杉朝房という人物が同時に関東管領に就任する.
 この時期は,関東管領が2人同時に存在した「両管領制」の時代なのである.

 上杉能憲は,このブログをよく読まれている方ならおなじみの人物であろう.
 観応の擾乱のときに,高師直・師泰一族を暗殺した武将である.
 これは,直義の重臣であった父上杉重能の仇を討ったものであるが,重能は養父で,実父は憲顕である.
 直義の北陸没落に従ってそのまま関東に下向し,以降は実父とともに活動し,武蔵守護も務めた.

 上杉朝房は,今言ったように犬懸上杉氏の出身である.
 上杉氏の家系は非常に複雑で多数の家に分かれるが,簡単に言えば,上杉憲顕の子孫が山内上杉氏で,憲顕の兄憲藤の系統が犬懸上杉氏である.
 憲藤の子息朝房兄弟が,憲顕の従兄弟で直義の重臣であった上杉朝定の養子となったのである.

 京都の管領は,細川・斯波・畠山の3氏によって務められたが,関東管領は山内・犬懸の2家から出た
(とは言っても,ほとんどの期間は山内上杉氏が管領を務め,犬懸が管領となった時期はあまり長くはないが).
 ちなみに有名な扇谷上杉氏は,戦国期になってから台頭した勢力である.

 山内上杉氏は上野・伊豆守護,犬懸上杉氏は上総守護を務めたが,武蔵国は関東管領を務めた家が守護を務めた.
 おもしろいのは,管領=守護が交代すると,守護代まで交代することである.
 山内のときは大石氏,犬懸のときは千坂氏や埴谷氏が守護代となった.
 この点,政権が交代すると官邸のスタッフまで交代するアメリカに,ちょっと似ていて興味深いと私は思う.
 一方では武蔵国は公方直轄という意識もあったらしくて,他国に比べてやや変則的な統治システムだったのであるが,西にはこういう国は存在しない点も,東西の相違点の1つである.

 ちょっと話が先走った.
 ともかく,憲顕死後は能憲・朝房の両管領制となったのであるが,その理由はよくわからない.
 東国の重鎮憲顕が死んでしまい,能憲1人で東国を統治するのは荷が重すぎると判断されたのであろうか?

 しかし,実際には現存文書を見る限り,関東管領として活動しているのは圧倒的に能憲ばかりで,朝房の活動はきわめて停滞しており,信濃守護と軍事面での活動が若干目立つ程度である.

 両管領とは言っても,その活動には雲泥の差があったわけで,しかも朝房は上京して将軍に奉公することを希望して,短期間で管領を辞任して本当に京都に行ってしまったようである.
 この結果,信濃国は鎌倉府の管轄を離れ,京都幕府の分国となる.

 その後,上杉能憲も体調を崩し,たびたび病床に伏すようになったらしく,永和3(1377)年頃から,能憲の弟憲春の管領としての活動が見えてくる.
 従来は,憲春も両管領の1人と考えられていたが,どうやら彼の場合は,兄に代わって管領を代行したと考えた方がいいようである.

 そして,永和4(1378)年には能憲も死去し,上杉憲春が正式に関東管領に就任する.
 そうこうしているうちに,幼かった公方氏満も成長してくるが,続きはまた今度・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年7月11日 (金)
青文字:加筆改修部分

 関東管領上杉氏が鎌倉公方の権限を代行している間,幼少の公方氏満の教育は,禅僧義堂周信が行っていた.

 足利基氏シリーズでも紹介したが,義堂周信とは,武家の尊敬を一身に集めた臨済宗の高僧である.
 畠山国清の妹である氏満の母が,義堂に我が子の養育を依頼したという.
 義堂は氏満に,仏教を敬って民を慈しみ,先代基氏のように文学に励んで政治を行うことを教えた.

 こうして氏満は順調に成長し,応安2(1369)年に元服し,応安6(1373)年には判始を行った.
 しかしまだ政治の表舞台には立たず,鎌倉府の評定に出席したのは永和1(1375)年からであるという.
 さらに,初めて自分の署判を記した文書を発給したのは,永和4(1378)年である.
 このとき氏満は,19歳となっていた.

 その間,関東管領は,前回紹介したとおり,上杉憲顕→上杉能憲・上杉朝房→上杉憲春代行と続き,能憲死後は上杉憲春が正式に関東管領となっていた.

 ところが,憲春が関東管領に就任して1年もしない永和5(1379)年3月,突然憲春が自殺する.
 なぜ憲春は自殺してしまったのだろうか?

 当時京都幕府の方では,将軍義満の成長に伴って,長年管領を務めた細川頼之の権力が弱体化しており,斯波義将を中心とする反細川派の勢力が増大していた.
 頼之は求心力の低下を阻止することができず,遂に康暦1(1379)年閏4月,クーデタが起こって頼之は失脚し,義将が管領となった(康暦の政変).

 どうもこのとき氏満は,斯波派と通じてあわよくば京都幕府を打倒して自らが将軍に取って代わろうと策謀していたらしく,憲春はこれを諌めて自害したものであるらしい.

 関東管領は鎌倉公方の補佐役である.
 しかし一方で,京都の将軍とも直結しており,その証拠に関東管領は形式上は将軍に直接任命される役職なのであった.
 そのため,将軍と公方の利害や政策が一致するときは,関東管領の制度はきわめて有効に機能し,東国の安定に大いに貢献するが,両者の利害が衝突するときは,関東管領は常に両者の板挟みとなり,鎌倉公方の暴走を制止する役目を負わされることとなる.
 この後も関東管領は,将軍と公方の対立にしばしば苦しめられることとなるのである.

 康暦の政変は確かに混乱を招いたが,結局は義満が斯波を選ぶことによって何とか収まり,氏満が期待したような大乱にはならなかった.
 氏満の謀反(が真実だったとすれば)は,結局失敗に終わったのである.

 憲春の自害によって,氏満謀反の噂が京都に流れた.
 氏満は,義満に対して逆心がない旨を記した文書を提出し,ようやく義満の許しを得たという.

 憲春死後の関東管領には,彼の弟で山内上杉氏の嫡流である上杉憲方が義満によって任命された.
 何とか東西の決戦は回避され,平和が維持されたが,この直後に起こったのが,小山義政の反乱である.
 この乱についてはまた今度・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年7月14日 (月)
青文字:加筆改修部分

 氏満の謀反騒動が収まって間もない康暦2(1380)年2月,京都の将軍義満は,義堂周信を建仁寺の住職に任命するので上洛せよと命じた.

 本来ならば出世であるので喜ばしいはずなのであるが,長年住み慣れた鎌倉を離れ,我が子のように育ててきた氏満と別れなければならないので,義堂は乗り気ではなかったらしい.
 氏満も,父のように慕っていた義堂と離れ離れになるのはつらかったようである.

 しかし,謀反騒動の直後でもあるし,義満の命令を拒否できるわけがなかった.
 3月,義堂は上洛し,建仁寺と南禅寺の住職となった.

 だが,結果的に義堂の上洛は,鎌倉公方氏満にとってプラスに作用したらしい.
 嘉慶2(1388)年に死去するまで,義堂は氏満の敵対心を疑う義満をたびたび諌めて,東西の友好に大いに貢献したからである.

 義堂が上洛したのと同じ年,小山義政の反乱が起こった.

 小山氏は,鎮守府将軍であった藤原秀郷の子孫で,下野国の大豪族である.
 源頼朝の創業を助け,下野守護を代々務めた.
 南北朝動乱に際しては,北畠親房の勧誘を熱心に受けたが,これに曖昧な態度をとり続け,結局幕府方として活動した.
 観応の擾乱のときは尊氏党として大活躍し,莫大な恩賞を拝領してさらに勢力を強めた.

 この小山氏は,同じ下野国の豪族である宇都宮氏と競合する関係にあった.
 宇都宮氏もこのブログで何度か紹介したとおり,尊氏を助け,隣国の越後・上野守護になるなど大発展した武士であるが,上杉氏の復権に伴って,基氏期と基氏死の直後に2度にわたって反乱を起こし,鎮圧されていた.
 しかし,その後鎌倉府はむしろ宇都宮氏にテコ入れしたらしく,小山義政と宇都宮基綱が同じ下野守に任命されたり,下野国に両氏が同様の権限を行使するなどしていた.

 そのため両氏は対立を深めた.
 康暦2年5月,氏満の停戦命令を無視した小山義政が,宇都宮基綱を攻撃し,基綱を戦死させたことがこの乱の直接の契機である.
 京都幕府でも義満が土岐氏や山名氏や大内氏と戦って勢力を削減させるが,東国でも同様の現象が小規模サイズであるが起こった,
 それがこの反乱の本質ではないかと私は考えている.

 翌6月,氏満は関東8ヵ国に軍事動員令を発し,関東管領上杉憲方・犬懸上杉朝宗・木戸法季の3人を大将として下野国に出陣させ,自らも武蔵国府中に出陣した.

 8月に義政は一度降参するが,鎌倉府に出仕しなかったため怒った氏満は,翌永徳1(1381)年2月,朝宗と法季をふたたび派遣して小山氏を攻撃した.
 小山義政はこれに激しく抵抗するが,12月に降伏し,義政は出家した.

 しかし翌年,義政は3度鎌倉府に敵対し,ついに自害するのであるが,それについてはまた今度・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年7月16日 (水)
青文字:加筆改修部分

 鎌倉公方氏満による2度の討伐を受けた小山義政は,前回も述べたとおり永徳1(1381)年12月に降伏したが,翌永徳2(1382)年3月,祇園城を脱出し,糟尾山中に築城して3度目の謀反を起こした.

 鎌倉府軍は義政を激しく攻撃し,遂に4月,義政は山中で自害した.

 こうして小山義政の乱は氏満軍の圧勝に終わったが,この年の正月,関東管領上杉憲方が管領を辞任している.

 どうも,小山討伐をめぐって,完全に滅ぼすことを目指す氏満と,寛大な処置を望む憲方との間で意見の相違があり,これが憲方辞任の原因であるらしい.

 基氏期の宇都宮氏綱の反乱や,氏満初期の武蔵平一揆の乱でも見てきたように,敵対勢力は壊滅させずにある程度削減したところで温存し,諸勢力の均衡をはかるのが,この時代の政治・軍事の常識であった.
 だから当時の感覚からすれば,上杉憲方の考えの方が普通であったのだが,鎌倉府の勢力伸長を目指す氏満は,小山氏を徹底的に滅ぼす選択肢を選んだのである.

 憲方は,氏満の政策を何とかとどめようとしたらしい.
 既に2回目の討伐のときから憲方は参加していない.
 憲方はまた,小山氏と密接な関係があり,鎌倉府の過度の強大化を警戒する京都の将軍義満の意向も受けていたようだ.
 康暦の政変のとき,将軍と公方の板挟みとなって自殺した兄の上杉憲春と同様に,このときの憲方もまた,両者の間で悩み,苦しんで管領辞任に追い込まれたのである.

 氏満は憲方辞任に対して,後任の管領は置かず,自らが管領の権限を代行した.
 また,憲方は関東管領と同時に武蔵守護も辞任したようで,氏満は武蔵国も直接統治下に置いている.
 そうする一方で,小山征伐を続行して,義政を自害に追い込んだのである.

 義満は,こうした氏満の突出した行動を当然内心快くは思っていなかったはずであるが,当時京都幕府も各地で南朝軍と戦闘しており,また義堂周信のフォローもあって,結局は黙認せざるを得なかったようである.
 「バランス感覚」がここでもまた表れているのである.

 小山征伐が終了した後,永徳2年中には上杉憲方は関東管領と武蔵守護に復帰した模様である.
 小山氏の広大な所領はすべて没収され,一部は公方直轄領となり,一部はこの乱に勲功のあった武将に分配され,残りは小山氏庶流の結城基光に与えられた.

 こうして鎌倉府は,その政権基盤を一層強化するのであるが,興味深いのは,この領土分配に際して,氏満・憲方が義満と意見を調整していたらしいことである.
 鎌倉府は基氏期から恩賞充行権を将軍から与えられていたが,このように膨大な所領を没収したときは,一応将軍の許可が必要だったようである.
 やはり鎌倉府は,完全な独立政権ではなくて,室町幕府の地方機関なのであった.

 それまで小山氏が務めていた下野守護は,反乱鎮圧の大将として大きな功績のあった木戸法季がいったん就任し,数年後結城基光に交代する.
 結城氏はそれまで安房守護だったのであるが,本領に近い下野守護を木戸氏と交換する形になったのである.

 こうして,安定期の鎌倉府守護配置が完了した.

武蔵:関東管領(山内上杉氏or犬懸上杉氏)
伊豆・上野:山内上杉氏
上総:犬懸上杉氏
甲斐:武田氏
相模:三浦氏
安房:木戸氏
下総:千葉氏
常陸:佐竹氏
下野:結城氏

という布陣である.

 結城氏は,小山氏の庶流で,下野国小山のすぐ隣の下総国結城を本拠とした武士である.

 結城基光は,小山義政の乱を契機として,逆に宗家の地位にのし上がり,そのため鎌倉公方の最も忠実な家臣となった.
 はるか後年,4代公方持氏が永享の乱で滅亡した後,結城氏朝は持氏の遺児を擁立して室町幕府と上杉氏に真っ向から戦いを挑んだ(結城合戦).
 結城氏は,それほどまでに公方の御恩を受けて大発展した武家なのである.続きはまた今度・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年7月18日 (金)
青文字:加筆改修部分

 前回紹介したとおり,下野守護であった小山義政が反乱を起こして鎮圧された後,後任の下野守護には木戸法季なる人物が就任した.

 木戸氏は,下野国足利荘木戸郷(現群馬県館林市)を本拠地とする武士で,遅くとも鎌倉初期から足利氏に従っていた,所謂「根本被官」である.
 当時の木戸氏は,鎌倉公方の近臣であり,しかも関東管領上杉憲方の母が同氏出身であるらしいなど,上杉氏とも密接な関係を有していた.

 小山義政の乱では,上杉氏とともに司令官の1人として活躍しており,その勲功などが評価されて,下野守護に抜擢されたのであろう.

 だが,小山氏は完全に滅亡したわけではなかった.
 義政の遺児小山若犬丸が陸奥国の田村氏に匿われ,ひっそりと潜伏していた.
 至徳3(1386)年,その若犬丸が本拠地であった祇園城で蜂起し,守護木戸氏を攻撃した.
 木戸氏は敗退し,足利荘に撤退した.

 鎌倉公方氏満は,自ら軍勢を率いて若犬丸を討伐し,これを敗走させる.
 若犬丸は,その後も常陸国の小田孝朝父子や陸奥国の田村清包の支援を受け,応永4(1397)年に会津で自害するまで,実に11年も鎌倉府に抵抗を続けたのである.

 一方,木戸氏の敗北によって,下野守護はこれも前回紹介したとおり,小山氏庶流の結城基光に交代した.

 結城基光は,下野守護と小山氏旧領のかなりの部分を継承し,小山氏に代わって宗家の地位に登りつめる.
 そして,次男泰朝に小山氏を継承させる.
 基光自身は81歳まで生存し,大勢力となった結城氏の結束を維持し続ける.

 前回も述べたとおり,結城宗家は一貫して親鎌倉公方派の外様守護として,最後まで公方に忠誠を誓うが,分家に転落した小山氏が,永享の乱に際しては,結城宗家に背いて幕府―上杉軍に属して公方と戦ったのは,何とも言えない歴史の皮肉である.

 また話が先に行き過ぎてしまった.
 明徳頃,陸奥・出羽2国が,京都幕府から鎌倉府の管轄下に移る.
 この行政区域変更の理由についてもいろいろ指摘されているようであるが,京都と鎌倉の権力バランスが大きく影響していることは言うまでもない.

 これで鎌倉府は,東国12ヵ国を統治する行政機関としてさらに拡大したのである.
 もっとも,実際には東北の2ヵ国の全領域を実効支配できたわけではなく,現在の福島県あたりが限界であったようであるが,ともかく,発展したことは確実である.

 鎌倉府が行った戦争が,武蔵→下野・常陸→陸奥と,鎌倉からだんだん離れて北上していっている事実に注目されたい.
 氏満期の鎌倉府は,何だかんだで成長期だったのである.

 関東管領は,明徳3(1392)年に死去するまで上杉憲方が務め,その後,子息憲孝が継ぐが,憲孝は応永1(1394)年にすぐに死去してしまい,この間管領としての活動形跡を残していない.
 その後,犬懸家から上杉朝宗が関東管領に起用され,3代公方満兼期の応永12(1405)年まで在職する.
 管領憲方・朝宗は,専門の歴史学者でさえも,当該分野を専攻している方でない限りほとんど知らない無名の武将であるが,全盛期の鎌倉府を支えた名政治家であると私は考えている.

 公方氏満は,応永5(1398)年に死去する.
 39歳であった.と言うと短く感じられるが,公方在任は31年の長期におよび,4代の鎌倉公方の中では最長である.
 波瀾もあったが,鎌倉府の行政組織の整備も進行し,結果的には全盛期・発展期であった.

 氏満死の直後,千葉・小山・長沼・結城・佐竹・小田・宇都宮・那須の8氏を「関東八家」と定め,屋形号と朱の采配が許されたと言う.
 ここに鎌倉府権力は頂点に達したわけであるが,満兼以降の鎌倉府については,気が向いたら書いてみたい.

「はむはむの煩悩」,2008年7月23日 (水)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 尊氏も義詮も次々と亡くなってしまいますし,重臣たちは政治闘争に明け暮れて幕府はグチャグチャだったはずなのに,こういう生臭い駆け引きの糸を裏で引いてたのは誰なんですかね?

 【回答】
 義詮末期には,やはり将軍義詮が表でも裏でも独裁的に牛耳っていたのだと思います.

 義詮は非常に優れた将軍だと思いますね.
 彼が長生きしていれば,管領も鎌倉府もなくなっていた可能性が高かったと個人的には考えています.

 なので義満初期のごたごたは,強力な将軍が不在だったことによる権力の空白に起因する現象だと思いますね.

 管領細川頼之は将軍義満をよく補佐しましたが,やっぱり根本的には力不足だったと思います.

 佐々木導誉は確かに権力抗争に敗北しなかった,優れた政治家ではありますが,「キングメーカー」はあくまでも「キング」ではないですからね.

 結局,導誉は何だかんだ言って外様の庶流の守護にすぎないと考えています.

「はむはむの煩悩」,2008年7月 9日 (水) 20:49
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 小山氏がこれだけ長期間ゲリラ活動を行っている事例は,他にそうそう見られず,何となく,鎌倉府側があえて「泳がせていた」ような気もするんですが.

 【回答】
 私もそんな気がしていました.

 なんか,いつでも簡単にとどめ刺せるんだけど,あっさり刺してしまったら,配下の武士に与える恩賞がなくなってしまい,不満が増大するので,敢えて小山を助ける武士が現れるのを待って,そいつらの所領を没収して少しずつ恩賞を分配していたって感じがするんですよねえ・・・.

 敢えて相手の得意な型を許して,それでも圧勝する横綱のような「王者の余裕」すら感じます.

 満兼期以降の伊達氏の反乱も長期化したようですが,こちらは逆に本気で勝ちに行っても,なかなか勝てない感がありますが・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年7月24日 (木) 13:51
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 京都国立博物館所蔵の「守屋家本騎馬武者像」は,足利尊氏の肖像画ではないのか?

 【回答】
 河合敦によれば,これまで平重盛とされてきた神護寺の肖像画が足利尊氏である(米倉迪夫説)可能性が高い.
 「守屋家本騎馬武者像」については,尊氏の馬は栗毛であること,征夷大将軍とは思えない肖像画の武士の姿から,戦前から疑問が持たれてきたという.
 また,尊氏の子供である義詮の花押が,肖像の頭上に押されている点も,もしこれが尊氏であるとすれば無礼なのだという.
 肖像主については細川頼之(ほそかわよりゆき),高師直(こうのもろなお),高師詮(こうのもろあきら)といった説がある.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.52-56を参照されたし.


 【質問】
 尊氏にとっての「ベストシナリオ」とはどういう形だったのか,日本をどうしたいと思っていたのか,それがさっぱり見えないんですが.

 【回答】
 当時はまったく先の見えない動乱の時代でしたから,いざ当事者になってみるとなかなか明確なビジョンを描くのは難しかったと思いますが,まあ大まかに言えば尊氏が目指していた政体は,鎌倉幕府政治の復活なんだと思います.
 具体的には,執権北条義時・泰時の政治への回帰ですよね.
 また,建武政権のスローガンのひとつであった,醍醐天皇・村上天皇の延喜・天暦の治への復古も,ちゃっかりぱくって掲げていますw

 まあ現実的には,末期鎌倉幕府と建武政権の遺産を多く継承していますけどね.

「はむはむの煩悩」,2008年3月 7日 (金) 14:36
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 足利直冬について教えられたし.

 【回答】
 〔略〕

 直冬の生涯については,瀬野精一郎『人物叢書 新装版 足利直冬』(吉川弘文館,2005年)が,最も最新の研究成果を踏まえ,まとまった伝記であろう.
 今回の記事も,この伝記に多くを学んでいる.

 足利直冬の生年についても諸説あるが,嘉暦2(1327)年生まれとするのが一応つじつまが合うので有力とされている.
 室町幕府初代将軍足利尊氏の庶子で,尊氏の嫡男義詮よりも3歳年上で,越前局という女性とたった一夜限りの関係で生まれたとされる.
 幼名は,新熊野といった.
 子どもの頃は,鎌倉にある東勝寺という寺で,喝食をしていた.
 東勝寺というのは,元弘3(1333)年,鎌倉幕府が滅亡したときに,北条高時以下北条一門が切腹して果てた寺である.
 幼い直冬は,その一部始終を間近で目撃していたらしいのである.
 また,直接目撃せず,鎌倉幕府滅亡後に寺に入ったとしても,戦争の傷跡と記憶が生々しく残る寺院に住んだことは間違いない.

 これは,直冬の人間形成に大きな影響を与えたに違いない.
 このような寺で.北条氏を滅ぼした将軍尊氏の息子だという自負などを持っていれば,おそらく相当いじめられたのではないだろうか?
 瀬野氏も,直冬は問題児としてあらゆる条件を備えていたと述べている.

 しかもこの喝食というのは,年若い剃髪していない僧侶のことなのであるが,どうも年長の僧侶の男色の相手ともなったらしい.
 なおさら直冬の人格に影響を与えたであろう.

 とにかく,直冬は東勝寺に18歳まで住んでいた.
 はっきり言って,きわめて不遇の幼少・青少年時代を送ったと思われる.
 このような直冬が,いよいよ還俗して上洛して父尊氏に対面を求めるのであるが,それについてはまた次回書いてみたい.

「はむはむの煩悩」,2008年12月17日 (水)
青文字:加筆改修部分

 貞和1(1345)年ころ,足利直冬は還俗して上洛し,父将軍尊氏に面会を求めた.
 このとき,直冬は18歳となっていた.

 しかし尊氏は,直冬に面会しようとはしなかった.
 仕方がないので直冬は,玄慧法印という僧侶の許で学問に励みながら侘び住まいをしていた.

 周知のように,尊氏の直冬に対する嫌い方には,尋常でないものがある.
 嫡子ではない妾の子であったので,尊氏の正妻である赤橋登子に非常に嫌われ,基本的に愛妻家の尊氏が登子の怒りを恐れて認知できなかったとする説もある.
 確かにその要素もあったであろうが,それを差し引いても,生涯直冬に対する仕打ちは,きわめて異常なものがあった.
 当時の武士や公家で,側室に子どもがいて,認知すれば父の身分や立場に見合った待遇をされることなど普通のことであった.
 そもそも尊氏だって側室(上杉清子)の子であるし,尊氏のほかの庶流の息子,例えば英仲法俊は,普通に認知されて禅僧となって幸福な一生を過ごした.

 どう考えても尊氏は,心底から直冬を自分の子供ではないと思いこんでいた節がある.
 尊氏にしてみれば,18年前の一夜限りの女性のことなど,おそらくすっかり忘れ去っていたのではないだろうか?
 それが18年も経って,今さら私はあなたの息子ですと言われても,普通の人間ならばぎょっとするに違いない.

 また,この貞和元年という年は,新田義貞・北畠顕家など,南朝の主だった武将が軒並み戦死し,室町幕府が初期の小康状態を迎えていた時期である.
 4歳で初陣を果たし,幼少ながらたびたび合戦に出陣し,父と苦労を分かち合った嫡子義詮などと比べ,尊氏が出世して将軍になって安定してから認知してもらおうなんて,なんて図々しくて虫がいい奴なんだと,その意味でも尊氏は非常に不快感を覚えたのではないだろうか?
 認知してほしいなら,もっと早く名乗りを上げるべきだったのではないか?
 18歳で認知を求めるのは,確かに少し遅すぎる気がする.
 これは直冬の周りにいた大人たちにも責任があるであろう.

 こんな直冬を養子に迎えたのが,尊氏の弟直義であった.
 玄慧法印は,直冬を力量のある人物と見抜いて,直義に直冬のことを話したらしい.
 そして,直冬に面会した直義も,この甥は優れた武将になると考え,尊氏がいつまで経っても認知しないので,自分の養子として,彼を元服させて,「直」の字を与えて「直冬」と名乗らせたのである.

 尊氏はおそらく最後まで,直冬を自分の息子とは思っていなかったのであるが,弟の直義以下,当時のすべての人々が,彼を将軍の子と見なしていた.
 これは私の想像なのであるが,直冬の顔は,父と瓜二つだったのではないだろうか?
 現代に残る足利将軍家の肖像画を見ると,尊氏以下みなそっくりで,独特の顔立ちをしていたようである.
 特にたれ目は,足利家の強固な遺伝であったらしい.
 この辺,ハプスブルク家の下くちびるを彷彿とさせるものがあるが,将軍とそれ以外の人々の認識の相違が,悲劇を生む大きな要因となったのである.

 ともかくこうして直冬も,きわめて不本意で不快であったろう尊氏をよそに,曲がりなりにも足利家の一員となり,初陣を果たすわけであるが,
 それについてはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年12月20日 (土)
青文字:加筆改修部分

 足利直義は,養子とした直冬に初陣を飾らせ,武将としての箔をつけさせようとした.
 やはり武将が家臣の信望を集めるには,合戦を指揮し,勝利するのがいちばんである.
 南北朝時代のような乱世ではなおさらそうであったろう.

 直義がここまで直冬に肩入れしたのは,肉親の情以上に,当時いよいよ顕在化しつつあった室町幕府内部での将軍尊氏派との抗争に備えて,直冬を自派の有力武将に育て上げようとの意図もあったと考えられる.

 このブログでは何度も紹介した史実であるが,貞和3(1347)年,南朝方の楠木正行が河内・和泉方面で蜂起した.
 直義は細川顕氏や自派の山名時氏を派兵するが,彼らは南朝軍に敗退してしまう.
 そこで尊氏の執事高師直が大軍を率いて進軍し,翌年正月,河内国四条畷で楠木軍を撃破して,正行を敗死させた.

 これによって師直の声望が急上昇し,尊氏派の勢力が強くなって直義派は一時弱体化した.
 直義はこれに対抗するために,直冬を南朝の力が依然として強い紀伊国に派遣して,失点を取り戻そうと考えたのである.
 時に直冬は,21歳であった.

 直義は,直冬を従四位下左兵衛佐に任官させ,彼のために光厳上皇の院宣を獲得した.
 そして,各地の武士に出動命令を出し,寺社に戦勝祈願を命じた.
 この時期の幕府政治は,尊氏と直義の二頭政治であったが,原則として,武士の任官も軍事指揮も直義の仕事であった.
 おそらく,幕府の業務の8~9割は直義が行っていたと思われる.

 ここまで来たら,尊氏もさすがに出陣前くらいは直冬と面会したと思われる.
 しかし尊氏は,リアルで直冬を見ても,ますます不快な気分になったのではないだろうか?
 尊氏のような人間は,直冬のような性格の人物を非常に嫌ったような気がする.
 尊氏は,口では戦勝を望むようなことを言ったであろうが,内心は負けてしまえと思っていたのではないだろうか?

 ともかく,貞和4(1348)年5月,直冬は紀伊国に向けて出陣した.
 8月に初めて合戦し,両軍とも多数の戦死者を出した模様であるから,かなりの激戦が繰り広げられたようである.
 直冬軍は紀伊国内の各地を転戦して勝利を収め,9月に引き揚げて京都に凱旋した.

 どうも直冬は,戦争はなかなか強い武将であったらしい.
 直義の全面的な支援の要素を差し引いても,大将として優れた力量を持っていた人物であったことは確かである.
 こういうところはさすがに将軍尊氏の息子であり,直義が見込んだだけのことはある.
 世間の人も,血は争えないものだと直冬を見直し,直冬もこれで実父尊氏も自分を認めてくれるだろうと非常に喜んだであろう.

 しかし,京都に帰った直冬を待っていたのは,尊氏以下諸将の冷たい視線であった.
 続きはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年12月24日 (水)
青文字:加筆改修部分

 紀州の南朝方を鎮圧して,意気揚揚と京都に引き揚げた足利直冬であったが,父である将軍尊氏の仕打ちは相変わらず冷たかった.

 帰京後は,直冬もしばしば将軍邸に出仕するようになったが,『太平記』によれば,仁木・細川といった武将たちと同じ席次を与えられたにすぎなかったという.
 仁木氏や細川氏も足利一門で,数ヵ国の守護を務める有力武将ではあったが,早期に足利宗家と分岐したため,一門内の序列は低く,譜代の家臣にすぎなかった.
 本来は,将軍の子息が同列に並べられるような家ではなかったのである.

 将軍尊氏以外では,尊氏の執事高師直が,直冬を非常に忌み嫌った.
 師直は,特に晩年は,その卓越した政治力のすべてを尊氏の嫡子義詮のために費やした観がある武将である.
 その証拠に,義詮の初期の花押は師直の花押を模したと言われているほどである(※).そんな師直にとって直冬は,突然現れた義詮の将軍後継のライバルであり,しかも系譜的に政敵直義の流れを汲む武将である.
 何としても直冬を2代将軍にしてはならないのである.
 彼が直冬を憎悪したのも当然であったろう.

 こうした情勢を見た直冬の養父直義は,直冬を長門探題として西国に下向させることにした.
 長門探題とは,かつて鎌倉幕府が蒙古襲来に備えて,北条一門の武将を長門・周防守護として派遣したことに始まる役職である.
 長門・周防と備後・備中・安芸・出雲・因幡・伯耆の計8ヵ国を広域統治する機関であった.

 直冬の長門探題就任は,一般的には「左遷」ととらえられ,尊氏も見るのも嫌な直冬を遠くに追放するために直義の提案したこの人事に賛成したと言われている.
 確かにその要素もあったかもしれないが,もっと積極的な意味があったのではないだろうかと私には思える.
 この時代の権力が,基盤を強化するために遠隔地に広域統治機関を設けることは,普通によくあったことである.

 建武政権は,陸奥将軍府・鎌倉将軍府という遠国統治機構を持っていた.
 陸奥将軍府は,北畠顕家が2度にわたって近畿に攻め上り,尊氏を脅かしたので,後醍醐天皇の構想はそれなりに成功したと言える.
 南朝となった後も,複数の皇子たちを全国各地に派遣し,幕府に対する抵抗の拠点とした.
 中でも懐良親王の征西将軍府は,一時は九州全域を支配したほど成功した.
 室町幕府も,鎌倉府をはじめとして,奥州探題・九州探題といった機関で遠国を統治した.
 直冬の長門探題もその一環で,地方に強力な直義派の地盤を築いて,いざというときに戦力にしようとする直義の戦略だったのではないだろうか?
 そして,実際に後年その構想は不十分ながらも実現することとなる.

 ともかく,貞和5(1349)年4月,直冬は京都を出発した.
 評定衆や奉行人以下,多数の軍勢が直冬に随行した.
 こういう事実からも,直義の積極的意図が窺える.

 しかし長門には赴かず,途中備後国の鞆に滞在した.
 これは,この地で高師直・師泰兄弟の悪行の数々を知ったため,京都に引き返して師直兄弟を打倒するためであったとも言われているが,直義と師直の対立など,この時期に至ってはもはや周知の事実で,今さらの感がある.

 そういう目的もあったかもしれないが,直冬が鞆にとどまった最大の理由は,長門に赴く前の中継基地としての利用であり,ここで兵力を整えて,いずれはさらに西進する計画を持っていたためであったと思う.

 備後国鞆は,風光明媚な港で,最近では宮崎駿監督の映画『崖の上のポニョ』に影響を与えた都市として有名である.
 南北朝時代には戦略上の要地で,尊氏もかつてこの鞆の浦で光厳上皇の院宣を拝領した.
 室町幕府最後の将軍足利義昭も,織田信長に追放された後,この鞆に拠点を移している.
 渋川義行・今川了俊といった南北朝後期の九州探題は,備後や安芸の守護にも任命され,九州上陸前に,まず中国地方で入念な準備を行っている.
 直冬の鞆滞在も,この流れでとらえるべきなのではないだろうか?

 それはともかく,直冬が鞆の浦に滞在している間に,中央ではいよいよ尊氏と直義の対立が表面化してきた.
 続きはまた今度・・・.

※佐藤博信「足利義詮の花押について」(同『中世東国の支配構造』思文閣出版,1989年,初出1982年)

「はむはむの煩悩」,2008年12月26日 (金)
青文字:加筆改修部分

▼ 足利直冬が長門探題に就任し,西国に下向して備後国鞆に滞在しているうちに,中央政界は大きく揺れ動いた.

 まず,貞和5(1349)年閏6月,直冬の養父足利直義は兄である将軍足利尊氏にせまって,自身の政敵である尊氏執事高師直を罷免させた.

 しかし同年8月,師直・師泰兄弟は大軍を率いて将軍尊氏邸を包囲し,今度は逆に直義を失脚させ,自身の復権および直義の後任に尊氏嫡子足利義詮を就任させることに成功した.
 このクーデタで,幕府内部の上杉重能・畠山直宗といった直義派が失脚し,尊氏派の勢力が伸長したのである.

 直冬は,備後国から上洛して直義を支援しようとしたが,尊氏派の播磨守護赤松則村に阻止されたという.

 師直は,直義派を抑え込んだ勢いに乗じて,鞆周辺の武士に直冬討伐を命じた.
 9月13日,師直方の備後国人杉原又三郎は,200騎あまりの軍勢を率いて直冬を急襲した.
 不意を突かれた直冬は,命からがら逃げ出すのが精一杯で,ようやく肥後国の武士河尻幸俊の船に乗り込んで,九州を目指して没落した.

 と一応史実ではこういうことになっているが,よく考えてみればこれはおかしな話である.
 直義と師直(と言うか実は尊氏)の対立が激化していることは,もちろん鞆滞在の直冬もよく承知しているところであり,師直が自分を狙って攻撃してくることも状況的に容易に予想できることである.
 油断して官途も実名も不明の武士に不意打ちされて逃亡するなど,いかに直冬が愚将とされていても,ちょっと考えられないことである.
 事実,直冬はこの直前,京都に攻め上って直義を助けようとしたとされているほどである.
 備後からは遠くの地にある肥後国の武士の船が都合よく鞆にあって,何とか助かったというのも変な話である.

 私は,杉原某の攻撃があろうとなかろうと,直冬の九州行きは既定の戦略となっており,直冬はその予定どおりに九州に向かったのだと考えている.
 そのため九州の直冬を支持する武士と入念な打ち合わせと準備を行っていたので,河尻の船に乗ることができたのではないだろうか?
 実際,九州上陸後の直冬の行動を見ていると,敗北によって失意に沈んでいる武将の行動とは到底思えないほど前向きで積極的で,躍動感に満ち溢れているのである.

 ともかく,こうしてついに直冬と九州の関係が始まったのである.
 続きはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年1月 8日 (木)

▼ 足利直冬が九州に没落,と言うよりは文字どおり転進した貞和5(1349)年9月の九州の情勢は,おおよそ以下のような感じであった.

 まず北九州では,建武3(1349)年の東上以来,将軍尊氏が筑前国博多に残した一色道猷(範氏)が九州探題として南朝方と対立していた.
 貞和2(1346)年頃には,道猷の嫡子・一色直氏が九州にやってきて,親子で探題として九州を統治し,筑前・豊前・対馬守護少弐氏や豊後・肥前守護大友氏といった前代鎌倉幕府以来の九州守護と協力して,肥後国の南朝方であった菊池氏と戦っていた.

 南九州では,日向国に足利一門の畠山直顕が国大将として派遣され,次いで日向守護に就任して,薩摩・大隅守護島津氏と協力して,菊池氏を包囲していた.

 これに対して南朝は,興国3(北朝康永1・1342)年,後醍醐天皇の皇子である征西将軍宮懐良親王が薩摩国に上陸し,正平3(北朝貞和4・1348)年に肥後国入りして菊池氏に支えられ,幕府方と戦っていたのである.

 こういう状況下において,直冬はまず河尻幸俊の本拠地であった肥後国河尻津に上陸し,再起をはかることとなったのである.

 一方,直冬の九州行きを知った将軍尊氏と執事高師直は,九州の武士に命じて直冬を逮捕して出家させ,京都に連行することを命じた.
 しかし,直冬の方は九州の武士たちに多数の軍勢催促状を発給して,将軍の命令によって九州にやってきたと主張し,味方として馳せ参じるように命令した.

 尊氏と直冬から,それぞれまったく矛盾する内容の命令を受け取って,九州の武士たちはさぞかし面食らったであろうが,鎌倉府シリーズでも見たとおり,武士というのはとにかく清和源氏の血をひく貴種の武将が大好きなのである.
 これは,現代人がアイドルやタレントが好きなのとどこか似ているかもしれない.
 将軍尊氏の実子で,おそらく父と瓜二つの顔であったろう直冬を支持する九州の武士たちが日増しに増え,直冬の勢力はどんどん膨れ上がった.
 直冬を自分の子と思っていないのは尊氏だけで,九州の武士もみな,彼が尊氏の子であることを疑わなかったのである.

 直冬の出家・上洛命令が効果がないのを見た尊氏は,翌年その命令を直冬誅伐にエスカレートさせた.
 しかし直冬勢力は増大する一方で,その命令もまったく効果がなかった.
 今度は直冬は,「両殿(尊氏・直義兄弟のこと)をご安心させるために」という文言の入った軍勢催促状を発給する始末である.
 憎たらしい直冬が,ほかならぬ自分の権威をもって勢力を拡大するのは,何とも皮肉と言うか,尊氏にとって耐えがたいことであったに違いない.

 さらに直冬は,もちろん尊氏には無断で,自分で勝手に配下の武士に恩賞を与え始めた.
 このブログで何度か紹介したとおり,恩賞充行は将軍尊氏の固有の権限であった.
 直冬はその将軍の最も重要な機能を侵したのである.
 しかも,この時期に発給された直冬の充行下文の数は,尊氏の出した充行下文の数をも上回るほどなのである.
 直冬の活動がいかに活発であったかを窺うことができるだろう.

 ただし将軍尊氏が,恩賞充行を袖判下文形式の文書で行ったのに対して,直冬は日下花押の下文形式文書で行った点が,やや異なるところである.
 袖判下文とは,将軍が花押を文書の右端に記す形式の下文で,当時の幕府発給文書の中で最も格式が高く,尊大な形式の文書であった.
 これに対して日下花押の下文は,左端の年月日の下に花押を記す形式で,同じ下文でも,袖判下文に比べると格式が劣る文書である.
 どうせ無断で恩賞をばらまいているのであるから,自分も袖判にすればいいのにと思うのであるが,直冬は,妙なところで尊氏に対して遠慮があった.
 結論を先に言ってしまえば,結局はこの遠慮が直冬の敗因となり,命取りとなったのである.

 それはともかく,直冬は恩賞だけではなく,守護職まで勝手に任命し始めた.
 守護職の任命権も,恩賞充行と並ぶ将軍固有の権限である.
 詫磨宗直の筑後・伊勢,河野通盛の伊予が現在知られている.
 さらに,筑後守護宇都宮冬綱は幕府から直冬方に寝返り,壱岐島の志佐有も直冬方守護であったと考えられる.

 さらに,北朝は貞和6(1350)年2月に観応と改元したが,直冬はこれを無視して貞和年号を使用し続けた.
 ここに九州は,北朝・幕府方である九州探題一色父子と南朝方の征西将軍宮,そして直冬方の3勢力に分断されたのである.
 直冬勢力は,直冬の官職である左兵衛佐にちなんで,「佐殿方」と呼ばれた.

 こうして勢力を拡大した直冬は,探題一色氏と戦うことにした.
 貞和6年2月,直冬は部将今川直貞を肥前に派遣し,自らは筑後方面へ進軍し,2方面から探題の本拠である大宰府を挟撃する作戦をとった.
 南九州へは,薩摩守護島津氏等を牽制するため,部将吉見頼房を派遣した.
 これに対して,探題方の少弐頼尚が直冬北上を阻止するために出陣し,肥後でも川尻幸俊・詫磨宗直といった直冬方の武将が戦った.

 こうして直冬勢力は,将軍尊氏にとっていよいよ無視できない勢力となってきたのであるが,続きはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年1月10日 (土)

▼ 九州の足利直冬の勢力は日増しに大きくなり,九州探題一色道猷(俗名範氏)・直氏父子では抑えきれないことがあきらかとなってきた.
 一色氏も足利一門の有力武将ではあったが,将軍尊氏の実子である直冬の権威には遠く及ばないのであった.

 そこで観応1(直冬貞和6,1350)年6月,幕府は直冬追討の光厳上皇院宣を獲得し,高師泰が西国に向けて出陣した.
 ところが,石見国が直冬勢力下にあり,師泰は桃井義郷等に阻止されて,九州上洛さえもできない状況となった.
 11月には石見国三隅城より追い落とされて,出雲あるいは安芸に撤退する体たらくであった.

 しかも9月には,筑前・豊前・対馬守護少弐頼尚が探題一色氏を裏切って,直冬方に寝返ったのである.

 以前も紹介したことがあるが,少弐頼尚の先祖は武藤資頼と言って,源頼朝に命じられて武蔵国から下向してきた武将である.
 資頼は大宰少弐に任命され,少弐氏を名乗って古代以来の九州統治の政庁大宰府の中枢を掌握し,筑前守護などを代々歴任して,鎌倉時代ずっと九州地方に君臨してきた伝統的大豪族であった.

 少弐頼尚は,建武3(1336)年2月,筑前国多々良浜の合戦で,足利尊氏軍の主力として後醍醐天皇方の菊地武敏軍を撃破し,尊氏の再起を助け,室町幕府樹立に大いに貢献した.
 その頼尚が,直冬方に転じたのである.

 少弐氏は,今述べたように,九州地方の伝統的な勢力であったので,新参の九州探題一色氏とは折り合いが悪く,何かにつけて対立していたらしい.
 そんな頼尚にとって直冬は,権威として仰いで自らの勢力を拡大できる格好の大将軍であったのである.
 頼尚はしばらくは探題方として直冬軍と戦い,直冬の力量を見定めて,大将として申し分ない力を備えていると判断して,直冬に味方したのである.
 一説には,頼尚は直冬を娘婿としたとも伝えられる.

 北九州2ヵ国1島の守護を兼ねる伝統的大勢力である少弐氏がついたことによって,直冬の勢力はますます膨張した.
 これは将軍尊氏にとって,大いに危機感を抱かせる事態であったに違いない.
 このときの直冬の姿は,14年前,九州で再起して大勢力を結集した尊氏自身の姿を彷彿とさせるものがある.
 直冬が昔の自分と同じように京都に攻め上り,自らの地位を脅かすことを思って,尊氏は恐怖を感じたであろう.

 この事態を打開するために尊氏が考えだした手段は,自ら九州に出陣して直冬を討つことであった.
 直冬は,ほかならぬ尊氏の将軍としての権威や清和源氏の貴種の血統を利用して,勢力を拡大させている.
 それを否定し,粉砕できるのは,尊氏自身をおいてほかに存在しないのである.

 思えば,室町幕府が発足して以来14年,尊氏自らが出陣を決意したのは初めてである.
 幕府が発足してからも,北畠顕家・新田義貞・北畠親房・楠木正行など,畿内や地方で尊氏を脅かす南朝の武将はたくさん存在したが,尊氏は決して自ら出陣することはせず,すべて弟直義や執事師直に対応を任せっぱなしにしてきた.
 その尊氏が,自ら出陣することを決めたのであるから,この時期の直冬の脅威がいかに大きかったかということである.
 これはあまり指摘されない事実であるが,重要なことであると私は考えている.

 10月28日,尊氏は嫡子義詮を京都に残し,師直以下の軍勢を率いて京都を出発した.
 続きは次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年1月12日 (月)

 観応1(1350)年10月,足利直冬を討伐するため,執事高師直等を率いて京都から出陣した将軍尊氏は,途中兵庫に寄ったりしながら,備前国福岡に至り,しばらくここで九州侵攻の準備をすることにした.

 しかしこの間,足利直義が師直・師泰兄弟の誅伐を求め,各地の武士にしきりに軍勢催促を行い,支持勢力を拡大していた.
 直義は,貞和5(1349)年8月の師直クーデタによって失脚して以来,出家・引退に追い込まれていたのであるが,尊氏出陣のどさくさに紛れて京都を脱出し,大和国に逃れていたのである.
 尊氏はこれを軽視していたが,これは戦略的に失敗であった.

 11月21日,直義は畠山国清が守る河内国石川城に入った.
 以前も述べたように,国清は本来は尊氏派の武将であったが,情勢の悪化を見て直義派に寝返ったのである.
 さらに直義は,南朝方に転じた.

 こうした畿内の情勢の急変によって,尊氏は直冬討伐どころではなくなった.
 尊氏は石見国から敗退した高師泰と合流し,12月30日に,京都に戻るために備前国を出発した.
 この後の展開は,このブログでは何度も紹介してきたので,特に詳しく述べる必要はないだろう.
 尊氏は直義軍と交戦したが敗退を重ね,やむを得ず直義と講和したが,師直・師泰というかけがえのない部下を失う痛手を負ったのである.

 この間も九州の直冬はその勢力を拡大し,貞和6(北朝観応1,1350)年10月,少弐頼尚を味方に加えたことによって筑前・筑後両国まで勢力を拡大し,遂に九州探題一色道猷をその本拠筑前国博多から追い落とし,肥前国草野城に押し込めた.
 直冬は,さらに部将今川直貞を肥前・豊前に派遣し,勢力の拡大に努めると同時に,尊氏軍の侵攻に備えた.
 南九州では,直義派の畠山直顕が直冬に味方して猛威をふるい,尊氏派の薩摩・大隅守護島津氏を攻撃していた.

 結局,観応の擾乱第1ラウンドにおける直義の勝利には,直冬の存在と彼の奮戦が大きく寄与していたということである.
 当時の戦争において,遠隔地の敵対勢力というのは,かくも侮りがたく,恐ろしい存在だったのである.
 直冬の評価もさまざまであるが,決して無能な武将ではなかったと,個人的には考えている.

 そして観応2(直冬貞和7,1351)年3月3日,講和した尊氏と直義によって,遂に直冬は鎮西探題に正式に任命され,室町幕府の正式な役職を与えられて認められたのである.

 直冬は同年6月には観応年号を使用し始めている.
 3月に鎮西探題に任命されてから,なお3ヵ月間も貞和年号を使っていた理由はよくわからないが,とにかく幕府の体制に復帰したのである.
 同時に,直冬が発給する恩賞充行下文の形式も変わり,それまでの日下花押から,奥上署判となっている.
 奥上署判とは,文書の左上の部分に署判する形式であり,直冬の場合は「源朝臣(花押)」と記している.
 日下花押よりは格上の形式であるが,将軍尊氏が出した袖判下文に比べると依然として格下である.
 直冬は,どこまで行っても尊氏を立てていたのである.

 また,備後国鞆から自分の船に直冬を乗せて本拠地に迎え入れ,直冬の奮戦をずっと支えてきた肥後国の武士河尻幸俊も,幕府から正式な肥前守護として認められた.
 彼の苦労も一時報われたのである.

 ともかく,幕府の正式な一機関として認知されたこの時期が,直冬の生涯で絶頂期だったのであるが,このピークはあまりにも短く終わった.
 それについてはまた今度に・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年1月15日

 観応の擾乱第1ラウンドで圧倒的優位に立ち,幕府から鎮西探題として正式に認められた足利直冬であるが,その栄華は一瞬で終わったのである.

 講和した将軍尊氏と弟直義がふたたび不和となり,決裂して観応2(1351)年8月1日,直義が北陸へ没落したのである.

 同17日に尊氏は,早速九州探題一色直氏に宛てて,直冬の誅伐を命じている.
 直冬の鎮西探題は,わずか5ヵ月ほどで終わったのである.
 観応年号を使用した時期に限定すれば,ほんの2ヵ月弱の短さであった.

 10月24日,尊氏は南朝と講和し,これ以降南朝の正平年号を使用し始める(正平の一統).
 そして直義追討の後村上天皇綸旨を拝領し,直義を討つために東国に出陣する.
 この後の経緯も,当ブログでは何度も取り上げてきたから読者の方にはご存じの方も多いだろう.
 尊氏軍は直義軍に勝利し,翌正平7(直冬観応3,1352)年2月,直義は鎌倉で死去するのである.

 こうした中央の政治・軍事情勢は,当然西国の直冬にも大きな影響を与えた.
 尊氏・直義の一時的講和によって,直冬と九州探題一色道猷の合戦も下火になっていたが,上述の情勢の変化によって,探題道猷は南朝方の征西将軍宮懐良親王と同盟し,ふたたび直冬との戦争を開始した.
 今まで懐良親王は,直義が南朝に降伏したこともあって,室町幕府の内訌に関しては,静観の立場をとっていたようであるが,今度は尊氏が南朝に降伏したことによって,道猷と同盟して直冬との戦闘を開始したのである.

 直冬は,配下の部将を九州や中国地方の各地に派遣して探題・征西将軍府同盟軍や尊氏軍と戦闘を続けた.
 その詳細な過程は,現在も各地に残る軍忠状によってかなり正確に復元できる.
 が,その模様を細々と記すことは,かえって繁雑・難解になり,本ブログの趣旨とは合わないであろう.
 結論を簡単に記せば,直冬は一進一退の攻防を繰り返しながらも,大宰府にじりじりと追い詰められていったのである.

 この間,東国や畿内においては,直義の死後正平の一統が破たんして,尊氏と南朝はふたたび敵対して合戦が始まった.
 九州においても一色氏と懐良の同盟関係は解消されたようであるが,直冬勢力の劣勢を覆すことはできなかった.
 北朝は,観応3(1352)年9月27日に文和と改元するが,直冬はこれを無視して観応年号を使い続ける.

 直冬は,各地に派遣していた部将たちをすべて大宰府に呼び戻して,九州探題との最後の決戦を挑むが利あらず,遂に同年12月末頃,九州から撤退する.
 結局,直冬の在九州時代は,わずか3年あまりのごく短い期間であった.

 翌文和2(1353)年2月,南朝方の菊池武光は少弐頼尚と同盟し,一色道猷と筑前国針摺原で会戦し,九州探題に壊滅的な打撃を与える.
 一色父子も,数年後に結局九州から追い出されることとなる.
 さらに延文4(1359)年8月,武光は今度は幕府に帰順した少弐頼尚と筑後国大保原で大決戦し,これを撃破する.
 九州南軍は,直冬・一色父子・少弐頼尚と,まるでトーナメント戦を勝ち上がるかのように敵対勢力を次々と破り,全国の南朝方がどんどん衰退していく中で,懐良だけが1人九州で南朝の圧倒的な天下を築きあげ,足利義満の時代に今川了俊が九州探題に任命されて下向してくるまで隆盛を誇るのである.
 一方,中国地方に転進した直冬については,また次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年1月19日 (月)

▼ 九州を脱出した足利直冬は,まずは長門国豊田城に入城した.
 九州では戦に敗れて追い出されたが,周防の大内氏は南朝方で,伯耆・隠岐の山名時氏の一族,越前の斯波氏,そして越中の桃井直常は尊氏に対する抗戦を続けており,山陰から北陸にかけて強力な反尊氏地帯が形成されていた.
 直冬も,すでに九州にいた頃から,部将今川直貞を派遣したりして中国地方への工作を続けており,室町幕府から見ると,まだまだ侮れない勢力だったのである.

 中国地方に転進した直冬は,南朝に帰順する選択肢を選んだ.
 とは言え,直冬の南朝帰順は,すんなりとはいかなかったようである.
 北朝が年号を文和に改元した後も,直冬が観応年号を使用し続けていたことについては前回も述べたが,観応3(1352)年10月30日の感状を最後に,直冬の発給文書はしばらく月日だけの無年号文書となる.
 残存文書で,直冬が南朝年号である正平を使用した最初の文書は,正平8(北朝文和2,1353)年5月13日付の文書とのことである.

 つまり,直冬は半年以上にもわたって正式に南朝方となることを逡巡していたようなのである.
 一方,南朝の方でも,はじめ直義,ついで将軍尊氏と相次いで和平したが,いずれも失敗に終わったので,直冬の南朝帰順に抵抗があったのではないだろうか?
 しかし,強大な室町幕府に対抗するには,結局両者は手を組むしかなかったと思われる.
 三頭政治が理想という意見もたまに聞くが,それは一時的にはあり得ても,結局は二大勢力の対立に収れんしていかざるを得ないのだと私は考えている.

 ともかく,直冬は正式に南朝方となり,同時に周防国府に入る.
 正平8年6月には南朝の後村上天皇から綸旨を賜り,足利義詮追討を命じられる.

 この間,中央では山名時氏や楠木正儀等の南朝軍が京都を占領し,義詮は美濃国垂井に没落している.
 しかし,東国の平定に成功した将軍尊氏が上洛を開始し,9月に尊氏・義詮父子は北朝の後光厳天皇を奉じて,ふたたび入京した.

 この間直冬は,中国地方で勢力を拡大するために活動を続けていた.
 同年12月には,周防から石見に移動している.
 そしてついに,翌正平9(北朝文和3,1354)年5月,直冬はいよいよ尊氏と決着をつけるために上洛を開始したのである.
 続きはまた今度・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年1月22日 (木)

▼ 文和2(1353)年9月,東国をひとまず平定して再上洛を果たした将軍尊氏は,準備が整い次第,足利直冬を討伐するために西国へ出陣する構想を抱いていたようである.
 尊氏が,いかに直冬に脅威を感じていたのかが,この一事でもわかるであろう.

 東国は,尊氏の奮戦によって一応静かになったが,西国では山陰の山名氏,周防の大内氏などの旧直義党や南朝勢力がまだまだ活発に活動しており,直冬を盟主にかついで尊氏に対抗する構えを見せていた.
 九州においても,南朝の征西将軍宮懐良親王の勢力が日に日に増大しており,室町幕府が倒さなければならない敵がまだまだたくさんいたのである.

 この計画は結局は流れたが,この前の東国出陣と言い,弟直義と決裂して以降の尊氏は,それ以前とはまるで別人で,自ら軍勢を率いて積極的に戦う将軍に変貌しているのである.

 一方直冬は,前回も述べたように,正平9(北朝文和3,1354)年5月,いよいよ石見国から上洛の軍を興すこととなった.
 しかし,実際に石見を出たのは,上洛開始から実に4ヵ月後のことであった.
 これは,石見国内の尊氏方が直冬軍の進撃を防いでいた事情も大きいらしいが,それにしても実に遅々たる歩みである.

 そもそも,直冬は正式に南朝方となることも随分ためらっていたようであるし,前年6月に後村上天皇から綸旨を拝領して上洛を決意するまでに1年弱,実際に石見を出るまでにさらに4ヵ月である.
 中国地方でまずは基盤を確立してからというのを口実にしていたらしいが,この間も南朝軍は1度京都を占領しているくらいであるし,上洛が絶対に不可能だったとは言えないのではないだろうか?
 かつて,備後国鞆から船に乗って九州に下り,直ちに積極的な活動を開始した迅速な行動とはまるで別人のようである.

 さらに言えば,中国転進後の直冬の発給文書は,在九州時代と比べて激減しているのである.
 ちなみに,この時期の直冬の恩賞充行文書は,下文形式ではなくなっている.
 奥上署判もやめ,元の日下花押に戻っている.
 つまり,文書の格式も低下しているのである.
 発給数ももちろん激減しており,ほとんど吉川氏宛のものしか残っていない.
 直冬の政治に対する意欲が,九州時代に比べて大いに衰えていることはあきらかである.

 私が思うに直冬は,本気で父尊氏と戦う気など全然なかったのではないだろうか?
 この時期の直冬は,周囲の状況に流されて,ただ部下にかつがれて受動的に行動しているだけで,九州時代のような主体性などまるでなかったように見受けられる.
 自分の準備だ相手の抵抗だといろいろ言い訳をして,できる限り上洛を先延ばしにしようと,のろのろ進軍していただけなのではないだろうか?

 もっと言えば,直冬が目指していたのは「尊氏を倒す」ことではなかった.
 彼はただ,尊氏に「認めてもらいたかった」だけなのではないだろうか?
 常識的に考えて,正妻の子である義詮や基氏が健在である限り,庶子である直冬が将軍になれる可能性など万に一つもない.
 将軍の地位など最初から望んではいない.
 ただ,尊氏に我が子と認めてもらって,分国の1つでももらえれば,それだけで満足だったのではないかという気がしてならない.

 直冬の戦争は,尊氏打倒が目的なのではなく,将軍の息子である自分の武将としての力量が優れていることを尊氏に認めさせ,心底から自分を我が子とは思っていない尊氏に,子どもとして認知してもらうことが目的であったと私は理解したい.

 ともかく直冬は,中国道を京都に向かって進軍していた.
 山陰道からは山名時氏,北陸道からは桃井直常,丹波国からは石塔頼房が直冬に呼応して上洛を目指していた.
 戦況は不利と判断した尊氏・義詮は,それぞれ近江・播磨に脱出して入京した直冬軍を挟撃する作戦を選んだ.

 そして正平10(北朝文和4,1355)年初頭,尊氏と直冬の最終決戦が始まるのであるが,それについてはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年1月24日

▼ 足利直冬についていろいろ勉強してみて感じたことは,直冬とイタリアの15世紀の武将であるチェーザレ・ボルジアが意外によく似ていることである.

 まず,足利直冬の父は将軍足利尊氏,チェーザレ・ボルジアの父がローマ教皇アレッサンドロ6世と,それぞれ当時の日本とイタリアの最高実力者で,しかもいずれも私生児というのがまず共通している.

 両者ともはじめは僧侶で,還俗して政界入りした点もいっしょだ.
 もっとも,東勝寺の喝食に過ぎなかった直冬に対し,チェーザレの方は父の威光を背景に,ヴァレンシア枢機卿という,ローマ教皇を選出できる高位聖職者であったという違いはあるが.

 2人とも,独自の軍事力と統治組織を持ち,父親の権威と威光を背景に,一時かなりの勢力となったところも同じ.

 そして,不運で悲劇的な最期を迎えたのもよく似ているのである.

 両者の最大にして致命的な相違点は,チェーザレが父親に深く愛され,不運ながらも卓越した力量を持った政治家であるとマキャベリなどに高く評価され,ニーチェには超人にもっとも近い人物とされているのに対し,直冬は父に忌み嫌われ,愚将であり,ルサンチマンにまみれた人物であると後世の歴史家に酷評されている点である.

 しかし,直冬だって養父の直義とは血よりも濃い絆で結ばれていたわけであるから,よく考えるとこの点でも近い.
 また,チェーザレもきわめて有能な武将であったには違いないが,当時バラバラに分裂し,フランス等の強国の侵略に苦しんでいたイタリアを嘆いていたマキャヴェリによって過大評価された側面もあると思うから,この点も差し引いて考えると,両者はますます似てくるのではないだろうか?

 本題に戻ろう.
 正平10(北朝文和4,1355)年1月16日,遂に桃井直常や斯波氏頼等の南朝軍が京都に侵入した.
 直冬は同月22日に入京した.

 さる貞和5(1349)年4月に室町幕府の長門探題として京都を出発してから6年ぶりの京都である.
 このとき,直冬は28歳となっていた.
 遂に,実父尊氏との最初にして最後の大決戦が始まったのである.

 前回も述べたように,それぞれ近江と播磨に脱出していた尊氏・義詮父子は,京都に攻め入って直冬軍を挟み撃ちにする作戦を採った.
 この合戦は,2か月間の長期にわたった.
 両軍ともに大量の戦死者を出したが,遂に3月12日,尊氏軍が直冬の本陣があった東寺を攻撃し,陥落させた.

 直冬軍の敗因は,いろいろ考えられるであろうが,結局,父尊氏と本気で戦う気がなかった,
 これに尽きると思う.
 これは私が思うだけではなく,南北朝期研究の大家も同様に指摘していることである.
 入京直後の1月29日,直冬は願文を捧げているが,そこには,
「ここに厳親将父(尊氏)は,敵陣にいらっしゃいます.
 これに対して攻撃するのは,天のめぐみは得られにくいでしょうし,心も砕けそうな気持ちでございます.
 私はただ,彼を取り巻く悪人どもを懲らしめたいだけなのでございます.
 親に対して反逆の気持ちを抱き,私利私欲のために旗を挙げたのではありません」
と書かれている.
 これでは勝てるわけがない.

 ともかく,直冬は敗北して京都を没落し,その後2度と立ち上がることはなかった.
 この続きはまた今度に・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年1月27日 (火)

 父である将軍尊氏との洛中決戦に敗北して京都を撤退した足利直冬は,正平11(北朝文和5,1356)年,安芸国に没落し,そこで依然南朝方の武将として,細々と反幕府活動を続けた.

 しかし,その活動は一層著しく停滞した.
 たまに出陣することもあったらしいが,連戦連敗を重ねていたようである.
 多くの武士を惹きつける,直冬の大将としての魅力もほとんどなくなっていたのである.

 正平13(北朝延文5,1358)年,尊氏が死去し,嫡子義詮が2代将軍として後を継ぐと,直冬の勢力は一層衰えることとなった.
 正平18(北朝貞治2,1363)年には大内弘世,翌19年には山名時氏と,それまで南朝方として直冬を支えてきた中国地方の有力武将が次々と造反し,幕府に帰順した.
 越中の桃井直常もかつての勢威はなく,直冬はますますじり貧となったのである.

 しかも直冬の方も,幕府と戦う動機を失っていった.
 すでに高師直や尊氏は死去していたが,正平20(北朝貞治4,1365)年には尊氏の正妻赤橋登子,正平22(北朝貞治6,1367)年には将軍義詮と,直冬を憎み,敵対した人々が次々と死去した.
 直冬は,戦う目標もなくなったのである.

 そして遂に正平21(北朝貞治5,1366)年を最後に,直冬の発給文書が消滅する.
 直冬はまだ39歳であったが,これを最後に公の場から一切姿を消したのである.
 直冬が日本の歴史に大きく関わっていたのは,せいぜい6年程度である.
 まさしく,彗星のように現われて消えた武将であるが,引退した直冬には,きわめて長い余生が待っていた.
 続きはまた次回・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年1月30日 (金)

▼ 足利直冬の没年も諸説あるが,応永7(1400)年とする説がもっとも有力である.
 とすれば,直冬は73歳で死去したことになる.
 39歳で活動を停止してから,ずっと石見国に隠棲していたらしいが,およそ30年以上歴史の陰でひっそりと暮らしていたことになる.
 歴史上の敗者が,むしろ勝者よりもずっと長生きする皮肉はよくあることであるが,直冬はその典型的な例で,尊氏や義詮よりもはるかに長命だったのである.
 直冬が死去したとき,室町幕府は3代義満の時代で,まさに全盛期であった.

 直冬の妻妾についてはほとんどあきらかとなっていないが,子宝には恵まれたらしく,直冬の子として冬氏・等珊・等章・乾桃・乾珍の5人が知られる.
 名前からして,冬氏以外の4人は,みな僧侶だったようである.

 直冬の嫡子冬氏は,備中国井原荘付近に居住し,臨済宗善福寺を創建したので,善福寺殿と呼ばれていたそうである.
 冬氏についてはこれぐらいしかわかっていないそうであるが,一応平穏無事な一生を過ごしたようである.

 直冬の末子とされる宝山乾珍は,応永1(1394)年に生まれた.
 直冬が67歳の時の子どもである.
 この人は優れた僧侶であったらしく,非常に出世して,相国寺や天竜寺などの住職となった.

 直冬の子どもたちは,父の世代の怨恨は忘れ,こうして室町幕府体制に溶け込んで,それなりに優遇され,しあわせな人生を送っていたらしい.
 やはり尊氏の子孫であることが大きかったのであろう.

 しかし,6代将軍義教の時代となって,直冬の子孫たちは思わぬところで歴史の表舞台に無理やり出されることとなる.
 それについてはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2009年2月 3日 (火)

▼ 足利直冬が死去して40年後,嘉吉1(1441)年6月,播磨守護赤松満祐が,6代将軍足利義教を赤松邸で殺害し,分国播磨に下った.
 嘉吉の乱である.

 赤松満祐はこのとき,直冬の28歳の孫を赤松軍の大将として擁立した.

 この直冬の孫は,直冬の嫡子冬氏の子と推定され,父冬氏と同じ備中国井原荘に在住していたので,「井原御所」と呼ばれていた.
 井原御所は僧籍にあったが,このとき還俗して,義尊と名乗った.

 『赤松盛衰記』によれば,赤松の家臣たちは,井原御所の擁立にはあまり賛成していなかったらしい.
 結局は敗北して衰退した直冬を思い出させる人物を担ぎ上げたところで,大して士気があがらないであろうことも容易に想像できる.
 負けフラグが立ったと思った武士も多かったのではないだろうか?
 とは言え,やがて攻め寄せてくるであろう幕府軍に対抗するためには,尊氏の血をひく人物の権威が必要不可欠だったろうし,致し方のないところであったろう.
 鎌倉公方足利持氏が健在であれば,まず間違いなく東国の持氏と連携したであろうが,あいにく持氏はすでに義教に討たれていた.

 なお,このとき,義尊の弟で義将と名乗る人物も,備中から播磨の赤松の許へ赴こうとしたが,備中守護細川氏久に討ち取られている.

 赤松氏の本拠地である播磨国坂本に入った足利義尊は,自らの花押を据えた軍勢催促状を全国に発給した.
 暗殺された将軍義教に代わって幕府を指導していた管領細川持之は,義尊の花押の写を全国の関所に配布して,義尊の軍勢催促状を持っている使者を逮捕するように命じた.

 9月,山陰から山名持豊(宗全)軍が攻め寄せて坂本城は陥落し,10日,赤松満祐は城山城で自害した.
 義尊は,満祐の嫡男教康や弟則繁たちに付き添われて脱出し,行方不明となった.

 翌嘉吉2(1442)年3月,義尊はふたたび僧侶の姿となって京都に現われ,管領畠山持国の保護を求めたが,持国は義尊を処刑した.

 直冬の末子で,3代将軍義満に厚遇され,京都仏教界で出世を果たしていた宝山乾珍は,近親が嘉吉の乱に関与し,反乱軍のリーダーとなった責任を取って,相国寺鹿苑院塔主を辞任した.
 そして辞任後,半年も経たないうちに,嘉吉1年12月,北山等持院でわずか47歳の若さで死去している.

 こうして,足利直冬の子孫は皆絶えてしまい,今に残っていないのである.

「はむはむの煩悩」,2009年2月 6日 (金)



 【質問】
 瀬野先生の本,書かれるのに苦労されたのでは?

 【回答】
 確かに,瀬野さんは直冬の伝記を書かれるのに相当ご苦労されたと思います.

 尊氏や義詮などと比較して,特に史料が少ないんですよね.
 まあ,途中3年間くらいだけ,尊氏をしのぐほどの量の発給文書を残していたりしますが.

 こうした史料の少なさもあって,直冬研究はそれほど進んでいないようですが,何とかがんばってわかりやすくご紹介できればと思っております.

「はむはむの煩悩」,2008年12月18日 (木) 11:51
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 足利直冬配下の部将・官僚について教えられたし.

 【回答】
 足利直冬がいくら有能な武将であっても,もちろんたった1人ではこれほどまでに戦争を遂行して勢力を拡大することはできなかったのである.
 直冬には,京都を出発して以来彼に従った多くの部将や実務官僚が存在していた.
 また,中国地方や九州地方といった現地に到着してから彼の許に馳せ参じた武士たちも数多くいたのである.
 ここで,そうした直冬の部下たちについて簡単に瞥見してみたい.

 直冬の部将としてまず挙げられるのは,今川直貞である.
 今川直貞は,直冬が九州に上陸した後,肥前国に派遣され,九州探題一色氏の軍勢と交戦した.
 また,将軍尊氏の九州侵攻に備えて,豊前国にも赴いている.筑後や安芸にも出陣したことがあり,直冬軍の事実上の主将として,その軍事的活動が最も顕著な人物である.
 彼は,もちろん足利一門の今川氏出身の武士である.今川氏と言えば,南北朝後期の九州探題今川了俊が想起されるが,今川氏の一族は南北朝初期からすでに九州で探題一色氏に従って南朝方と戦っており,若き日の了俊も九州にいた可能性があるそうである.
 そうした今川氏と九州との関係が,南北朝後期の探題了俊出現の伏線となったのであろう.

 次に挙げられるのは,仁科盛宗である.
 盛宗は直冬側近の武士で,直冬配下の武将が直冬に武士の恩賞を申請するときに提出する推挙状の受理役を務めていた.

 また,尾張義冬という部将も,直冬に京都から従ってきた人物らしい.
 義冬は,大隅・薩摩両国に派遣されて,直冬方の日向守護畠山直顕と協力して,尊氏方の大隅・薩摩守護島津氏と戦っている.
 義冬の出自はよくわからないが,尾張姓を名乗っているところからすると,斯波氏の一族なのではないだろうか?
 ほかにも,新田貞広・吉見頼房・吉見頼平といった部将が,当初から直冬に従っていた武士と考えられる.

 忘れてはならないのは杉原光房である.
 杉原光房は備後国の武士で,室町幕府では直義管轄下の引付方で奉行人を務め,土地に関する訴訟業務に携わっていた人物である.
 それが直冬に従って九州に下向し,直冬の許で,ちょうど尊氏にとっての執事高師直のような仕事を担当していた.
 つまり杉原光房は,直冬の執事だったのである.
 とは言え光房は,師直のように合戦にはまったく出陣していない.
 純粋な文官で,文書発給の仕事しかしていなかったのであるが,直冬にとっては重要な側近であったことには違いない.

 九州に下向してから直冬に味方した武士としては,何と言ってもまず肥後国人河尻幸俊が挙げられるが,彼については今までも再三触れてきた.
 彼は鎮西探題となった直冬から,正式に肥前守護とされている.

 次に,筑前・豊前・対馬守護少弐頼尚が挙げられるが,彼についても再三触れてきた.
 軍事力としては,おそらく直冬の最大の支えになったのであり,直冬を娘の婿にしたという所伝もある.
 また,日向守護畠山直顕についても,多言は要しないであろう.

 ほかに守護クラスの武士では,筑後守護宇都宮冬綱がいる.
 彼は室町幕府創設以来の筑後守護であったが,直冬の九州下向に伴って直冬方に寝返って,「冬」の字まで拝領して冬綱と名乗った.
 しかし,すぐに再び幕府に帰順したらしく,名前も守綱と改めている.

 冬綱が造反した後に直冬によって筑後守護に任命されたのが,詫磨宗直である.
 宗直は,直冬に多数の恩賞地を与えられているばかりではなく,こうして守護にも任命され,さらに直冬の侍所でもあった.
 彼は,豊前守護大友氏の有力庶家であるが,本宗家との対抗上,直冬に味方したと考えられる.

 詫磨宗直は伊勢守護にも任命され,ほかにも,志佐有が壱岐守護,河野通盛が伊予守護,九州撤退後では,吉川経秋が土佐守護となった事実が知られる.
 伊勢や土佐の守護はさすがに実態はなく,直冬の空手形だったと思うが,ともかく広範な地域に自派の守護を任命している.
 そして,周防守護大内氏も直義派=直冬派であり,これが後の直冬の中国転進の伏線となるのである.

 小俣氏連も見落としてはならない部将であろう.
 小俣氏は下野国足利荘内小俣を本拠とする足利一門の武士で,氏連の父小俣道剰は,九州探題一色氏の侍所であった.
 探題府の要人の子息を裏切らせて味方にしたことも,直冬が圧倒的優位に立った大きな要因であろう.

 その他直冬に従属した中小の国人層を挙げれば,おびただしい数にのぼる.
 足利直冬は,こうした九州・中国地方を中心とした多くの武士たちに支えられていたのである.

「はむはむの煩悩」,2009年1月17日 (土)


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