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14世紀 14. Század
戦史FAQ目次


 【link】


 【質問】
 正法寺と厚保地頭の紛争について教えられたし.

 【回答】
 さて,霜月騒動によって一時的に没落した金澤家は,結果的に復活し,金澤実政は鎮西探題に栄進して,その被官衆も一陽来復がやってきます.
 その1人,長門掃部左衛門尉長義は,1298年8月11日から2年後に長門探題北条時村が入府するまでの空白期間,長門守護代を務め,後に九州に渡って鎮西探題引付二番,肥後守護代,肥前守護代を歴任します.

 1305年4月3日,長門掃部左衛門尉長義の孫,長門六郎左衛門朝尚は,祖父の弘安の役の功により,長門国厚保庄の地頭に着任します.
 朝尚はその頃僅か10余歳で,最初の地頭館は西厚保の大村に起きます.
 その後,南北朝動乱期には西方1kmの西厚保本久に移動し,1470年代頃に長門小守護代厚安来守が登場して本久に厚城を築城しています.

 それは扨措き,長門朝尚の着任翌年の1306年に領家の松岳山正法寺との間に紛争が発生しました.
 これは,4期に渡って,実に100年に亘って展開されています.
 領家と地頭の紛争は,例えば,地頭がその武力にものを言わせて不当に荘園を侵害した場合もありますが,当時は現在と違って(現在でも境界紛争は拗れる可能性が高いですが)地籍台帳の様なものはなく,それぞれの自己主張ですので,長引く場合がありました.

 特に,幕府が故意か過誤かに関わらず,杜撰な決定を下した場合は結着に至らず泥沼の紛争を引き起こしました.
 「地頭乱妨」と言われるものは殆どがこの分類に入ります.
 この場合,領家は朝廷の決定を盾に取り,地頭は幕府の決定を盾に取ります.
 互いに権力側の面子も掛かっているので,その争論は水掛け論に終始しました.

 この正法寺と厚保地頭の紛争は,4期に分けられます.
 第1期は,1306~1308年で,これは六波羅南探題金澤貞顕の施行状により一時沈静します.
 第2期は,1323~1325年で,これは探題金澤時直に綸旨が下って争われました.
 第3期は,1333~1335年で,これは長門守護である厚東武実が厚尚種,政忠への通告で沈静化.
 第4期は,1391~1411年で,応永の乱後により厚保地頭が大嶺地頭の由利氏が兼任した為,正法寺と由利氏との間で争われ,大内盛見の手で結着しました.
 この最後の第4期,正法寺は厚狭の箱田氏とも紛争を起こしています.

 この紛争の原因ですが,誠に他愛のないものだったりします.
 厚保の地は松岳山北坂本沓野の一部を,元々松岳山正法寺が領していました.
 1305年に厚保地頭に就任した長門朝尚は,幕府の定めた権限で活動を開始しましたが,沓野の正法寺領であった未開発地の開拓に手を染めました.
 当時,未開発地を開拓すれば11町に1町は自分の給田として認められ,段5升の加徴米も入ってきます.

 ところが,正法寺から異議が出ます.
厚保地頭が開発した土地は自分達の土地であり,免地,即ち税を免ぜられた朝廷から与えられた寺固有の所有地であり,地頭の代行管理の枠外とすべき土地であり,寺が自力耕作するので,寺に返せと言う主張です.
 長門朝尚の着任時,幕府からは細かい点での指示はなく,給領地境は現地に行って決める様に指示されるという極めて大雑把なものでした.
 其所で当該の土地も,地頭が領家に代わって管理して良いものと厚保地頭側では考えていました.

 寝耳に水の訴えでしたが,既に開発は進み,地頭側も相当な資金や労力を投入していました.

 1306年,国司は院宣を奉じ長門朝尚の松岳山免田内,北坂本の沓野開発田及び荒野等の乱妨を止めるように命じました.
 この時期は,連署兼長門探題北条時村が北条宗方の陰謀で,1305年4月23日に暗殺され,北条熙時が短期間後任となり,北条時仲に引き継ぐまでの武家方が不安定な時期の出来事です.
 とは言え,院宣が絡んでいるので,そのまま黙殺出来る性質のものではなく,厚保地頭は直ちに反論を提起しています.
 正法寺は問題の土地に限っては,固有の土地として頑として地頭に管理されることを拒否しています.
 以後,訴訟は水掛け論で終始したと思われ,何の進展もありませんでした.

 1308年9月27日,六波羅南探題金澤定顕から長門探題北条時仲に対し,以後15年間は紛争中止と言う棚上げ案が示され,金澤氏被官である長門朝尚もそれに従うことになり,第1期の争論は終熄しました.

 1321年,1319年に長門探題だった北条時仲が辞任し,1323年に金澤時直が同職に就任する空白期間の丁度中間で,長門探題(と言うか長門守護代と考えられる.)から天皇の綸旨六波羅施行により,松岳山寺領地頭乱妨を止めて寺に返すようにせよとの意向が伝えられました.
 この意向は結局,蒸し返されたものの,本格的な争論には至らなかった形で沈静化したようです.

 1333年に鎌倉幕府が滅亡すると,再び正法寺は蠢動します.
 てな訳で,次回は,建武新政と室町時代の動きを中心に書いてみたり.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/14 21:45
青文字:加筆改修部分

 1332年から鎌倉幕府は凋落の一途を辿ります.
 1332年に楠木正成が千早城に籠もり,護良親王が吉野で挙兵し,後醍醐天皇が隠岐に流されます.

 しかし,1333年2月には後醍醐天皇は隠岐を脱し,名和長年に迎えられて船上山に籠もりました.
 長門探題北条時直は,防長の将兵1,000余騎を率いて東上しますが,備後で村上義弘に遮られ,何故か転じて伊予に攻め込み土居通増の居城に押し寄せますが,北条時直軍の厚東武実が敵に内応していると言う風聞が立ち,豊田種長の献言で兵糧米を遺棄して退却してしまいました.
 3月11日に再び北条時直軍は再び伊予に攻め込み,平井城に攻め寄せて,土居・得能連合軍と合戦しましたが,12日には大敗を喫し,長門勢の田耕氏,山中氏,佐々木氏,馬場氏,厚東氏,岡崎氏,厚氏,箱田氏,豊田氏,岡部氏など,周防勢の深野氏,柳井氏,右田氏,中野氏に戦死が相次いで,北条時直は命からがら長門長府に逃れます.

 3月29日には石見の高津道性が3,000余騎を率いて長門に攻め込み,長門探題軍と美祢郡大嶺で合戦を行いますが,この頃には,厚東氏,厚氏,秋吉氏(岡崎氏),岩永氏(岡崎氏),伊佐氏(佐々木氏),箱田氏(厚狭下津井地頭),河越氏(大嶺奥分地頭),松屋氏(厚狭郡王喜村地頭),由利氏(大嶺地頭)は反北条の軍勢に参陣し,反北条に付かねば即日撃滅される状況に陥っています.

 鎮西では,肥後の菊池武時が鎮西探題に攻め込み,大友少弐の軍勢と戦って敗死しましたが,大友少弐は天下の形勢を見て反北条に寝返り,逆に鎮西探題を攻めて陥落させています.
 京では足利尊氏が挙兵して5月6日に南北の六波羅探題を陥し,関東では新田義貞が上野で5月に挙兵し,鎌倉を陥して,執権北条高時と金澤貞顕を始め一門悉くが戦死か自刃して鎌倉幕府が滅亡しました.

 こうして6月には後醍醐天皇が京に帰り,建武新政が始まる訳ですが,これは教科書でも触れられている通り,倒幕の主力となった武士に冷たく,公家の私心のみで政治を行い,逆に武士の離反を招きます.
 特に,8月に行った諸将の論功行賞は,朝廷は武士に奪われた貴族の所領奪還を考え,一部の武将のみ優遇して,それに劣らない功を上げた武将,例えば赤松氏などには冷や飯を食わせました.
 尤も,北条一門から取上げた土地を恩賞地として分配してもどうしても足りない事態になったのも判りますが,公家の中には,可愛がっている遊女に土地を与えた者もおり,武士達を憤激させています.

 長門守護にはこの結果,輔大納言,即ち万里小路宣房が就任しました.

 ここぞとばかり,松岳山正法寺は,長門国衙と長門守護輔大納言に対し,厚保地頭の乱妨を禁ずるように願い出ます.
 しかも,彼等が提出した文書には,守護地頭の制度を改めようとしていた新政権の動きを示すかのように,厚保地頭とは書かず,「前地頭尚種・政忠」と書いていました.

 1334年5月,万里小路宣房に代り,長門守護として厚東武実が着任します.
 8月26日に,雑訴決断所は長門松岳山領の乱妨を禁じるように厚保地頭尚種に伝えました.
 厚氏は直ちに異議申立てを雑訴決断所に提出し,再び水掛け論が始まりました.
 この判決は,1335年に長門守護厚東武実によって是認され,厚保地頭にその指示を伝えています.

 この1334~35年は,1334年2月に九州で前肥後守護の規矩高政が挙兵して玉砕し,4月には同じく前豊前守護である糸田貞義が堀口で兵を挙げて玉砕,1335年正月には長門国府佐加利山城に北条後裔の上野四郎,越後左近次郎が挙兵し,少弐頼尚によって討滅され,7月には北条時行が鎌倉を攻めて陥落させて,足利直義が敗走しています.
 こうした中,8月に足利尊氏は北条時行を破って鎌倉に入り,その地で叛旗を翻しました.
 12月には足利尊氏は箱根竹下で新田義貞を破り,敗走する義貞を追って尊氏は西走し,それを追って北畠顕家が西上する展開になります.

 1336年2月,尊氏は摂津で敗れ,大内厚東の兵船で九州に敗走しますが,多々良浜で菊池軍と対決して,大友少弐の援軍と高師直の猪突猛進で奇跡的な勝利を得ました.
 こうした情勢を見て,長門守護厚東武実と大嶺地頭由利基久等は兵船を集めて尊氏に提供し,備後の鞆から陸海に分かれて進軍すると共に,防長の兵は足利直義に従って陸路東上し,湊川で合戦して,新田義貞と楠木正成を破り,京の大宮口で名和長年は長門厚東軍,九州松浦軍に敗れ,首を取られました.
 その結果,朝廷は南北に分かれ,南北朝時代が幕を開けます.

 防長諸国の御家人達は厚東武実,次いで厚東武村に付いて,北畠顕家と戦ったり,楠木正行と戦うなど戦闘を重ね,その奮戦の所為か,高師直軍に組込まれることになりました.
 ところが,1349年に足利直冬が幕府によって長門探題となり,備後備中安芸周防長門出雲因幡伯耆と中国8カ国の経営に当らせることにしましたが,直冬は直義と組んで尊氏と義詮と対立してしまいます.
 しかし,高師直が防長の御家人を抑えていた為,軍事力を得られなかった直冬は備後鞆津から四国を経て肥後の河尻幸隆に迎えられて九州に入り,直義は出家してしまいました.

 この時期は何が何やら,なのですが,1351年に尊氏は直義と和して,今度は高師直,師泰を上杉と畠山の兵に襲わせて加古川で殺してしまいます.
 そうは言いつつ,足利義詮の方は直義となお不和で,直義は折角中央に返り咲いたものの,北陸に逃走してしまいました.
 尊氏と義詮は南朝に下って,直義は南朝から追討を命じられています.

 長門では厚東武村が死に,厚東武直が跡を継ぎますが,豊田種藤の一族である種本が直冬に応じて挙兵し,尊氏派の小野資村に討たれると言う事件が発生します.

 1352年,尊氏は直義を毒殺しますが,これにより直冬は後ろ盾を失ってしまいます.
 直冬は九州で一色・大友の軍勢と戦いますが敗れ,長門の豊田種藤を頼って落ち延び,密かに南朝に通じて,11月には南朝に帰順しました.
 この頃,厚東武直が死に,厚東義武が跡を継ぎます.
 足利直冬は軍勢を挙げて,東上を計り,1354年には桃井直常と連合して京都を陥れ,尊氏は佐々木道誉の守る近江に逃れました.
 九州では,1355年に少弐氏と大友氏が征西将軍に通じ,九州探題一色範氏を攻め,一色氏は九州を退却して長門厚東氏を頼りました.
 一方,その長門でも南軍の大内弘世が周防を平定した後,厚東義武の長門霧降山城を包囲します.
 しかし,2月に直冬と尊氏が京で戦い,3月には尊氏が勝利して直冬は周防に逃れています.

 この様に,南北朝時代は何が何やらさっぱりわからん時代で,昨日の敵は今日の友,今日の友は明日の敵状態となります.
 長門でも例外ではなく,守護に組込まれた地頭たちは何とかして家を保とうと苦心惨憺しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/15 18:45

 さて,鎌倉幕府を倒した武家でしたが,北朝と南朝で骨肉の争いを繰り返します.
 しかも,朝廷でも将軍でも全く理念のない争いを繰り返した為,節操のない戦いのみ繰り広げました.
 それに巻き込まれた人達は,好い迷惑です.

 1358年に足利尊氏は死去しますが,この混乱は続きます.
 1月2日に,北朝の厚東義武の本城霜降山城を,南軍の大内弘世が猛攻撃します.
 その結果,城は落ち,厚東義武は城を捨てて豊前規矩郡へと落ち延びていきます.
 藤原氏系豊田氏は大内弘世に与し,6月23日には大内弘世は宮方から周防に加えて長門守護に補されました.
 九州では,少弐と大友両軍が征西将軍懐良親王に叛いて叛旗を翻しますが,菊池武光と共に筑後川の合戦で勝利し,九州の大半を制し,西日本に掛けてはほぼ宮方が制することとなります.

 この勢いに乗じて1359年12月26日,厚東義武は長門奪還を目指して長門国府四天王寺山に兵を挙げますが,大内弘世は大軍を以て攻め込み,厚東義武は命からがら九州に逃げ帰ります.

 一方で,菊池武光は少弐頼国を筑前から追い払い,山名時氏は足利直冬と合流して,丹波で足利義詮の軍勢と戦います.
 少弐が敗れたことで,九州探題斯波氏経はあろうことか周防の大内氏に支援を求めました.
 大内氏も,船が1艘日本に着くだけで莫大な利益を得ることが可能(幕末期の日宋交易の際は,船1艘着けば大規模寺院が3~4箇所建立出来たとされる)である博多をその手中に収めるのは魅力的であり,あっさり北朝方に転じて北朝の防長守護となります.
 厚東武実はそれに激怒して南朝に降り,南朝の長門守護に転身し,肥後菊池軍傘下に入りました.

 野望を胸に,1364年,大内弘世は豊前馬岳で南軍の厚東義武,菊池,名和,原田,秋月の連合軍と戦いますが,当然,兵力の差には勝てず,南軍に復帰することと長門を厚東氏に返すことを条件に和睦し,周防に戻ります.
 ところが,舌の根も乾かぬうちに1366年に再び周防で北朝方であることを宣言した為,菊池と名和の両軍が長門に攻め入り,長門国府を占領しました.
 しかし,こちらはホームグラウンド.
 大内弘世は北九州の北軍と連携し,彼等の補給路を脅かした為,両軍は厚東氏に長門を与えて退陣します.

 一方,大内弘世は更に実力を蓄える為,益田兼見を先頭に石見に攻め入り,これを平定すると共に,長門では厚東氏を追い詰める為に国人達を締め付けています.
 支援が得られなかった厚東氏は結局長門を放棄し,九州に去ってしまいました.
 結局,厚東氏は領国を失い,その後菊池軍の配下で戦国を戦うこととなります.
 石見を平定した大内弘世は,更に安芸に進撃して南朝方の諸国人を下しました.

 そして,1367年には足利義詮が卒去し,1371年にはいよいよ九州の南北朝を終焉に追い込むべく,九州探題として今川了俊が下向しました.
 これに随行したのが,大内弘世の息子である大内義弘で,大内義弘の鬼神の如き活躍で2年後には九州の大半を制圧します.
 その補佐役は,杉重運と平井道助で,その後,大内氏は200年に亘って博多を経営し,また豊前にも所領を得て別府に興禅院を創建しました.
 1373年になると,南朝方の菊池武光が没し,1374年にはそれに代わるように大内義弘は豊前の守護にも任ぜられました.
 征西府は4月に伊予の河野通直に命じて周防の大内氏を攻撃させますが失敗に終わり,菊池武朝は失意のうちに領国肥後に引揚げ,厚東氏もそれに従っています.

 1375年には今川了俊が再び動き,少弐冬資を騙し討ちしますが,これに怒ったのが薩摩の島津氏久で,島津が南朝に転じました.
 一方,大内義弘は,松浦と千葉連合軍と戦ったり,今川仲秋と連携して菊池武朝と戦ったりと八面六臂の活躍で,遂に1381年に菊池武朝の肥後城野城を攻略しました.
 こうして,九州の北部は完全に鎮定され,1380年に大内弘世が没して大内義弘が跡を継ぎ,更に1387年には,この乱の大元の一つだった足利直冬が石見で没します.

 これでやっと世の中が落ち着いたと思いきや然に非ず.
 1391年にはその権力の巨大化を憂えた足利義満の計略で山名氏清が叛乱を起こし,二條大宮で大内義弘と戦うことになりました.
 この結果,山名氏は敗北して大内義弘は紀伊と和泉の守護職を与えられる事にもなりました.
 つまり,大内氏の領国は,周防・長門・豊前・石見・和泉・紀伊にまで拡がった訳ですが,八分の一殿と呼ばれた山名氏清が義満の計略で叛乱を起こし,敗北して討たれたのに,余りに大内義弘は脳天気でした.

 足利義満は博多と堺を使った日明貿易にも意欲的でした.
 それには,その両地を抑えている大内氏が邪魔になった訳です.
 こうして,足利義満は大内氏の内部対立を煽っておいて,1399年に大内義弘を堺に迎え撃ち,遂にはこれを殺してしまいました.
 大内氏の領国は防長二カ国に減らされ,幕軍に降った弟の弘茂が後任となって幕府の援軍と共に領国に帰っていきます.
 留守を守っていたのは大内盛見であり,盛見は幕軍の鋭鋒を避けて豊前・豊後に九州に逃れる事になりました.

 暫くなりを潜めていた大内盛見は,1401年に密かに渡海して長門長府の弘茂を奇襲して破り,盛山城で弘茂を討ち取ります.
 弘茂は豪傑肌ではなく,盛見も攻撃の気配を見せなかった為,わざわざ豊前に渡海してまで盛見を攻めなかったのが徒になった訳です.

 こうして戻った盛見は,杉重綱を先頭に弘茂方の国人を粛清する挙に出ました.
 厚狭の箱田弘貞,豊浦郡の橘氏流豊田氏を滅ぼし,青景秀国は下津の長光寺で一族11人と共に合戦の後自害.
 厚保地頭の大村肥後守は熊野権現の神面を顔に付けて奮戦し,最後には厚狭川に人馬諸共飛び込んで自害しました.
 因みに,この神面は杉氏が大村氏に与えたもので,それを付けての奮戦は,杉重綱に対する強力な皮肉だったと思われます.
 厚保地頭は大嶺地頭の由利尚詮に与えられました.

 本来ならば,こうした事をしなくても良かったのかも知れませんが,外部から来た人間がその領土を帰服させるには,その地の実力者を葬るのが一番ですし,彼等を粛清すれば,付いてきてくれた部下に恩賞となる土地を捻出することが出来ます.
 結局,幕府もこれを追認せざるを得なくなり,1403年に大内盛見は周防・長門・豊前守護になりました.
 更に,筑前進出を図って少弐と対立し,今川氏の後継の九州探題である渋川氏を傀儡にする様にしていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/16 21:04

 で,何で昨日まで延々と南北朝の話を書いてをきたかと言うと,地頭と松岳山正法寺との戦いは未だ終わってなかったからだった訳で….
 それを理解しようとすると,鎌倉幕府の崩壊から此処までの歴史に触れざるを得なかったりする訳で….

 1408年,松岳山正法寺は長門守護となっていた大内盛見に宿訴して,厚保地頭の由利氏,厚狭地頭の箱田氏と四度争うこととなりました.
 最初の訴えから既に100余年が過ぎていますが,未だにこの訴訟は尾を引いており,この種の訴訟としては最長記録を打ち立てています.
 大内盛見は,最終的に,この争論に結着を付けました.
 その方法は残念ながら残されていませんが,神仏崇敬思想の強い盛見の事ですから,代替地を提供した可能性が高いと思われます.

 しかし,従来は中央政府での争論で二進も三進も行かなかった出来事が,中央からの指示ではなく,守護大名の一存で処理出来る時代になって初めて解決をみた訳です.

 上代の律令制度下で,土地は公地公民制でした.
 ところが,律令制度下に開拓した土地は私有地として認めた事がそもそもの発端です.
 占有者は,その土地を開拓出来るだけの資本を持った皇族・貴族・大社寺などであり,土地は「荘園」と呼ばれました.
 当初は,自らの力でその開拓地を開発していましたが,次第に地方豪族が自力開発の土地を中央の権門勢家に寄進した形を採り,実質的にその地方豪族が土地を支配する荘園が出て来ました.
 荘園の名義上の土地支配者は本所又は本家と呼び,実質上の土地支配者を領主,三位以上の位階を持つ者を領家と呼びました.

 荘園主は年貢収納が主な役割であり,土地や人民を支配することはありません.
 そのうち,荘園の在地で直接にその荘園の運営に当る地方豪族が武装化して次第に武士として台頭していきます.

 こうして武士が力を得て鎌倉幕府が成立すると,源頼朝は大江広元の献策を採用して守護地頭を地方支配機関として配していきます.
 地頭には1段(1,000m^2強)につき,年に5升を兵糧米の得分と定めました.
 当初は平家に味方した者の土地を取上げ,全国に500余箇所に地頭を起きますが,承久の乱で上皇方が敗れると,その数は一挙に増え,3,000余カ所以上の地頭配置に至ります.
 そのうち,源氏将軍が暗殺され,執権政治に至ると,北条義時は荘園に配置した地頭の得分を11町に付き1町を給田とすると定め,更に1段につき,年5升の加徴米の取得を継承します.
 加徴米は,農民から直接搾取するのではなく,領家への納米から差引く制度でした.
 とは言え,良田でも当時,1段12斗から16斗の収穫であり,その内の5斗と言えば相当額を差引かれる計算になります.
 こうなると,地元を支配している地頭の方が有利で,荘園制は急速に衰退してしまいます.

 中には,地頭が取り立てた年貢を領主に納めないと言う事例も出て来ました.
 荘園領主と地頭は常に対立していますが,やがて,両者の和解の方法として,下地中分と言う考え方が編み出されます.
 即ち,領家と地頭が荘園を2分して,互いに相手の権利を侵さないものとすると言うもので,幕府はこの方法を推奨しました.

 そして,鎌倉幕府が消滅し,建武新政で再び荘園領主に有利になるかに見えましたが,その政治に幻滅した武士がやがて叛乱を起こし,荘園への武士の押領は常ならず発生するようになりました.
 足利幕府は,荘園領主に納入すべき年貢の半分を武士が兵糧米として取得する半済と言う制度を開始しますが,時限的措置のそれは,何時の間にか常態化し,荘園の土地までも半分を奪い取ることになっていきます.

 鎌倉時代にしても室町時代にしても,地頭が荘園に配置されると,地頭と本所・領家との間に紛争が盛んに起こりました.
 両者の権限に分明を欠くところが多かったのが原因で,その殆どは訴訟となり,幕府がその判決の権限を有していました.
 と言うのも,地頭職は幕府の権限に属していたからです.
 幕府の建前は,公正公平でしたが,武家の権限を増大させ,武士の経済力を高め,その生活を守らなければならない立場から,全ての土地を武士の一元支配とすることを目指しており,裁判は概ね武士に有利であり,不利の場合は,判決の引き延ばしとか,実行されないと言ったケースが続発することとなります.

 更に本所・領家に不利だったのは,領家と地頭の権利の錯綜が甚だしく,しかも荘園毎に事情が異なり,その上,しっかりした成文法は無く,慣習法での判断が行われた為,水掛け論に陥ることが多かったりします.
 その上,本所・領家がその判決に逆らうと,政府批判の科で遠島やら下手すれば首が飛びかねない状態でしたので,ひたすら地頭を乱妨として訴訟を展開するほかなく,裁判は当然,不徹底を極めました.

 因みに,日本の土地は,北条義時が執権だった時に,武士の支配下にあったのは10%でしたが,蒙古撃退の祈願により一時的に社寺の所領が増えたのも束の間,鎌倉末期には約半分が侵略され,南北朝期には半済制度,下地中分で,75%を武士が支配するに至り,守護大名が任命されて分国制が確立すると,荘園は粗方消滅してしまいました.

 そう言う意味では,この正法寺と厚保地頭等の訴訟は,荘園消滅時の一つの光芒的なものだったかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/17 22:21

 さて,松岳山正法寺と厚保地頭の戦いがこれだけ長引いたのは,後についていた勢力の為でした.
 正法寺の主張は,北坂本の一部の土地は,朝廷が承認した寺固有の土地であり,地頭が代行管理すべき土地ではないから寺に返せと言うもの.
 厚保地頭側の主張は,この土地は地頭管理が許される土地であり,それを否定する寺側の根拠は甚だ貧弱であり,納得出来ないと言うものです.

 これは単純に見れば,「地頭による寺の土地の押領」ですが,事は単純ではありません.
 正法寺の知行と言うのは,1400年代後期の文書では厚狭郡に平田21町6反70歩有していました.
 この内から災害地を若干差引き,反当りの年貢米を2斗として計40石ほどです.
 この厚狭郡の土地の中でも厚保村は平田6町6反で,その内から災害地2町5反20歩を差引くと残りは4町4反40歩で,反別2斗の年貢として,正法寺が得られる得分,即ち年貢は8石8斗でした.

 そして,問題の免田及び荒野は2~3反程度,これを地頭が代行管理したとしても,地頭の得分は米2俵か3俵程度であり,経済的魅力は殆ど無いに等しかったりします.
 その上,中世の厚保村には未開発地が広大で,紛争が生じるような土地は地頭にとって正直な所有り難迷惑でしかありません.
 一方で,正法寺にとってみても,小作人を使って直接耕作した場合と,地頭に管理させて年貢を納めさせた場合の比較では大して差がなかったりします.
 それに比して,訴訟の費用は巨額で(何しろ,厚保から出て長府に出る,或いは京まで出向くなどの経費だけで馬鹿になりませんから),土地の価値から見れば,全く採算が取れるものではありません.

 では,この訴訟の意味は何か?
 正法寺は朝廷の系列下にあり,厚保地頭は幕府の系列化の一員です.
 朝廷と幕府がまともにぶつかる場所では,双方面子に拘って,引くに引けない状況に陥っていました.
 鎌倉幕府は守護地頭の制度を設置して,荘園を破壊し,武士勢力の拡大に一向これ努めました.
 これに対し,荘園を守る朝廷側が採った戦術が,全国の荘園管理者に指示して訴訟を盛んに起こした訳です.
 幕府側が地頭に示した規定,指示は極めて杜撰で訴訟の材料はいくらでもありました.
 こうした訴訟を起こすことで,幕府の威信を落とすのが朝廷側の戦術でした.
 かくて,日本列島は荘園と地頭の訴訟が雲のように拡がって,訴訟の無かった土地は皆無とまで言われるまでになります.

 朝廷の訴訟戦術では,荘園主を巧妙に指導しています.
 彼等は,幕府を直接批判すると身に危険が及ぶことになりますから,幕府への批判は一切行わず,地頭を悪者として攻撃し,幕府を間接的に攻めると言う方法を採った訳です.
 正法寺側は,文書上は新院や天皇まで動かしていますが,実態は寺側の工作ではなく,朝廷側からの積極的な支持後援が為されたものと考える事が出来ます.

 厚保地頭の側から見ると,こちらは非常に厳しい立場でした.
 仮に代行管理が不当な土地であっても,一度代行管理の許容される土地として幕府から指示されている場合は,何としてもその土地を守り抜かなければなりません.
 それが如何に杜撰な指示であっても,投げ出すことは地頭の威信ばかりでなく,幕府の威信をも傷つけることになります.
 その上,充分な論拠を持たない相手に対し,直ぐに腰砕けになるようでは,地頭としての職分に対し不適格の烙印を押されかねません.
 幕府が目指すのは,あくまでも,武士による土地の一元管理であり,こちらも陰に日に幕閣の要路から支援を受けていた事は間違い有りません.

 厚保地頭と正法寺の争論は,単に事は小さな土地の奪い合いではなく,全国的に展開された幕府と朝廷の命運をかけた権力争奪の代理戦争の一コマだったのです.
 正法寺のバックに付いて,あれこれ指示を出していたのは朝廷であり,厚保地頭のバックに付いてそれを支援していたのは幕府でした.

 互いに相譲れない相手ですから,争論は常に水掛け論に終始し,中々進展がないのは当たり前です.
 それを解決させたのは,朝廷からも,幕府からも離れた形で,在地を支配していた守護大名です.
 守護大名は,自分の領国の繁栄が第一であり,中央の形勢を気に掛ける必要が余りありません.
 其所で,両者の調停者として名乗りを上げ,矛を収めさせることが出来る様になった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/18 22:07

 さて,大内氏は周防と石見,長門の守護となっていた訳ですが,更に対岸の豊前,そして勘合貿易の利を目指して筑前へも食指を延ばしていました.
 大内盛見は魔将軍足利義教と組んで,筑前の幕領化を目指して蠢動していましたが,筑前深江または荻原にてあっけなく大友・少弐連合軍と戦って討ち死にしてしまいます.
 これを「名将犬死」と世人は呼び,重臣も多数討ち死にを遂げ,大内勢は九州から総引揚げを行いました.
 その跡地には,大友と少弐が入り込んだ訳です.

 盛見の後は,惣領である大内持世が継ぎ,再び九州の地を奪還すべく渡海するのですが,弟である持盛は,持世の継承に不満を持ち,豊前で突如持世を急襲し,再び大内家は2つに分かれました.
 持世は石見に退去し,持盛は長門に入部して,陶盛政を守護代にします.
 将軍家は持世を支援して,山名の軍勢を増援した為,持世は周防に戻り,持盛は豊前に退去します.
 最終的には,幕命により備後,安芸,石見勢も参加した持世方により,豊後篠崎の戦いで持盛が敗死し,その勢いを駆って少弐氏の筑前二嶽城を攻略,更に筑前秋月城を攻略して少弐満貞親子を討ち死にさせ,大友城も落城して大友持直も行方知れずにするなど,北九州での大内家の勢力は大きくなります.

 更に持盛と共に叛乱を起こした満世は,持盛の敗死後密かに京に入って,将軍暗殺を企みますが,持世の雑掌である安富定範と山名の家人山口遠江守等に気づかれ,襲撃を受けて無念の討ち死にを遂げました.
 こうして前途洋々だった様に見えた大内持世でしたが,嘉吉の変により足利義教が暗殺され,同席した持世も重傷を負ってその傷が元で死亡してしまいました.

 こうして,大内教弘が跡を継ぎ,北九州の平定事業も再開します.
 念願だった筑前守護も得,各地に守護代を置いていよいよ本格的に分国統治を開始しました.
 守護代として,筑前には仁保盛安,周防には陶弘房,長門に内藤盛世,豊前に杉重国,石見に問田弘綱を置き,遂に勘合貿易もスタートさせ,大内氏の全盛期を築き上げますが,伊予の河野通春討伐中に病死してしまいました.

 跡を継いだのは大内政弘ですが,この頃から応仁の乱に突入し,大内政弘は西軍(山名宗全方)の主将として東上し,都での大戦に参加します.
 これに対し,東軍の細川勝元は,少弐嘉頼と宗盛直を動かして博多太宰府を攻め,大内の動揺を誘おうとしますが,この策謀は成功せず,大内・大友連合軍の前に両軍はあっけなく敗れ,両方とも敗死してしまいました.
 次いで,細川勝元は将軍足利義政の内書を下して,島津季久,相良為続,島津立久,大友親繁等に大内政弘の領国攻撃を命じ,それに応じた各軍は,豊前に攻め込み,その殆どを平定してしまいました.

 少弐頼忠と宗貞国は,共に九州各地を転戦し,東軍山名是豊は京に来た大内軍と戦い,更に細川勝元は,大内政弘の伯父,大内教幸(大内左京太夫南栄道頓)と筑前守護代であった仁保盛安を唆して,長門赤間で叛乱を起こさせました.
 この叛乱に,両名は大内政弘に付いて,京に赴き,相国寺の戦闘で討ち死にした陶弘房の遺児陶弘護を誘うも,弘護は拒否しました.
 もし,陶弘護が参加していたら,大内は京で根無し草になっていた可能性がありました.

 更に将軍足利義政は,安芸の小早川備後守に内書を送り,教幸支援を要請しています.
 教幸に同心したのは,仁保盛安ばかりでなく,吉見信頼,大友親繁,周布因幡守,小早河備後守,長門の豊田千代徳,飯田家勝,仁保伝国,飯田次郎右衛門,杉原次郎左衛門尉に加え,仁保弘有は,山名政豊と共に畿内の戦線を離脱して仁保盛安の元に奔りました.

 大内政弘としては最大の危機だったのですが,弱冠15歳の陶弘護は周防玖珂郡で周防の兵を率いて教幸軍と戦い,これを破ることに成功しました.
 大内教幸は安芸に逃れ,更に石見を至り,吉見信頼を頼って再び兵を挙げ,長門阿武郡賀年に攻め込みますが再び敗れ,更に陶弘護軍は江良城に教幸軍を攻めて打ち破りました.
 大内政弘も,その反乱を捨て置く訳に行かず,益田兼尭を陶弘護軍救援の為,石見益田から西下させ,吉見信頼軍と長門豊浦郡で合戦に及びました.
 厚氏,一族の大村氏など地の利がある武将達が陶・益田連合軍で活躍し,教幸は此処でも敗れ,豊前に奔りますが,小倉城,高津小城も抜かれて馬岳城に逃れ,最終的に自刃に追い込み,遂に大内家の内訌は終熄しました.

 因みに,陶弘護方は益田兼尭を大内教幸方に奔らすまいと,誓書を度々送り,周防恒富保を益田家に渡すなどして彼等の歓心を買って,遂に味方に付け,勝利しました.
 一方,益田氏の方も陶弘護が大内教幸方に付けばそちらの勝利になるのは間違いないので,彼の去就によって何れに側に付くかを決断したと言います.
 何れにしても,大内政弘は冷汗三斗の勝利だったと言えるでしょう.

 そして,その恩賞として周防守護代に陶弘護が就任し,長門守護代に内藤弘矩,更に長門小守護代には厚安芸守,伴田入道宥盛,永富因幡守嗣久が就任しました.
 小守護代というのは現在の副知事に当る役職です.

 結局,大内政弘はこれ以上領国をかき乱されるのは本望でない事を悟り,東軍に降って,将軍足利義政と日野富子に接近し,幕府は大内政弘と敵対していた,吉見・三隅・周布・福屋・佐波・高橋・厳島・小早川・吉川・天野等の諸豪族に大内との和睦を要請し,大内政弘は,周防,長門,豊前,筑前に加えて,石見仁摩郡,安芸国東西条及び本新当の知行を得て京を離れ,山口に帰ることになりました.
 そして,10年ぶりに九州に渡海し,豊前・筑前を回復して,陶弘護を筑前守護代とし,少弐教頼を討って筑前を平定しました.
 この筑前での戦闘で,旧教幸方に付いた武将達は筑前に於ける知行を失い,反乱軍と戦った武将達に新たに筑前や豊前に知行を与えました.
 因みに,筑前守護代となった陶弘護は周防守護代に専念する為,弟の右田弘詮にその職を譲りました.
 しかし,大内家救済の英雄だった陶弘護は,宴の席次を巡って因縁の相手である吉見信頼と争って刺違えて即死し,吉見信頼も長門守護代の内藤弘矩に斬殺されました.
 尤も,陶家の増長を嫌った大内政弘の差し金であるかも知れませんが.

 こうして,再び大内家に平穏な日々が帰り,山口は政弘の元で小京都と呼ばれるくらいの繁栄を謳歌します.
 とは言え,奈落は直ぐ側まで来ていたりしますが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/19 22:35

 さて,時代は一気に下って1600年.
 将軍足利義稙を迎え,管領代として栄耀栄華を誇った西国一の富有大名の面影は無く,大内は陶の叛乱に滅び,その陶も,毛利元就という希代の英傑によって滅ぼされました.
 主家が滅ぶと,その家臣達の扱いは外様となり,内藤や杉氏も権力から遠ざけられていきます.
 更に,毛利輝元の代になると,毛利両川の一人,小早川隆景はこう吐き捨てています.
「例え主君の名とは言え,理非曲直を弁えぬもほどがある.許し難き佞臣共…」.

 この言葉を発した背景には,輝元による部下の人妻の強奪事件がありました.
 児玉元良の娘を見初めた輝元が,野心を顕にする前にと,元良は娘が12歳になると周防野上の杉元宣と結婚させます.
 諦めきれない輝元は,佐世石見守,椙山土佐,椙山清兵衛親子,脇某と元宣妻の乳母の久芳の局に命じて,元宣妻の強奪を計りました.
 彼等は元宣の任地である筑前に連れて行くと偽って妻を連れ出し,野上(徳山)から無理矢理廿日市まで船で運び,付いてきた元宣の家臣を殺害し,広島まで強引に妻を引っ張っていきました.
 妻は,途中,守り刀で髪を切り,密かに供の者に渡すと,輝元の元に行き,後に二ノ丸殿と呼ばれる側室となりました.

 さぁ,そうなると黙ってられないのは,杉元宣の方.
 1589年,元宣は家来を引き連れ,軍船に乗って東上します.
 行先は大坂の地.
 つまり,豊臣秀吉に輝元の悪業を直訴し,秀吉直臣に取り立てて貰おうとした訳です.

 その伏線として,杉八家の重鎮である杉重良が,秀吉に内応していたのもあり,秀吉は決して彼等に悪感情を抱いてはいませんでした.
 また,そうした隙につけ込むことで,毛利家の領地を削ることも吝かではなかったはずです.

 とは言え,こうした注進をされてしまっては,逆に毛利にとっては一大事.
 其所で,事態を察した小早川隆景は直ちに自軍の船団を動かして杉元宣以下全員を海上で討ち取ってしまいました.

 しかし,元はと言えば,輝元の軽はずみな行動から起こった事件で,あたら有能な家臣を失い,家中に亀裂を入れてしまった訳で,結局,椙山親子は大坂に浪人となって流れ,脇某と久芳の局は切腹を命じられました.
 因みに,輝元と二ノ丸殿との間には後に毛利秀就が生まれています.

 そんなことは扨措き,小早川隆景が憂えていた通り,日本を二分する大戦の際に,毛利家は濡手で粟を目論んで西軍の総大将に就きます.
 更に,輝元は関ヶ原の前線に出て来る訳でもなく,大坂城から一歩も出ずにあたら勝てる戦いを敗北に導いて汚名を残しました.

 毛利家の考えとしては,もし,輝元が豊臣秀頼と共に前線に出て来たら,豊臣恩顧の武将達は敵対を中止するであろうから,西軍が勝利するのは確実,ただ,それには見返りが少なく,その場合は秀頼が将軍又は関白となり,石田三成が実権を握って毛利家は結局大老で終わるに違いない.
 それよりも形勢不利な家康を勝利に導けば,井伊直政が吉川広家に約束したように,今の8カ国120万石から一挙に2倍3倍も夢ではなく,副将軍も夢ではないと算盤をはじいた訳です.

 が,家康は利を追って義を忘れる武将は,信頼しないと言う哲学を持っていました.
 意外にも,家康は関ヶ原の戦いで首謀者となった石田三成を斬首した割には,その親族一同の動静については余り露骨に干渉していません.
 寧ろ,陰に彼等の仕官を援助している節もあったりします.
 もし,毛利元就や小早川隆景が生きていれば,この辺りの読みは全然違っていたでしょうが,三代目の坊ちゃんである輝元や吉川広家には,家康の腹の底を見通すことは出来なかった訳です.

 結果的に200万石,300万石どころか,毛利は防長2カ国に押し込められ,実質25万石に転落しました.
 そして,利を失い,名を失い,天下の笑いものとなった訳です.
 …そう言えば,三代目の坊ちゃんって何処かの国の行政府の長で御座いと言うのもいますわねぇ.

 これまでも見てきたように,佐竹にしても上杉にしても,領地は相当削られたのですが,逆に未開発地を開拓して利用地を広げ,収入を増しています.
 ですから,農民の貢租も4公6民か5公5民,苦しい時で6公4民程度で済んでいました.

 ところが,毛利は違いました.
 まぁ,防長2カ国が山がちと言うのもあるのでしょうが,1625年に行われた寛永検地は過酷なものでした.
 特に,従来は家臣達も自分達の土地を持ち,そこからの収入で生活していたのに対し,殆どの家臣は知行地ではなく,米や銭で支給する事になりました.
 知行地を与えられても,その土地の支配権は実質的に毛利家に握られ,武士と土地が大幅に切り離され,武士のサラリーマン化が進んでいきます.

 これは勿論,毛利家の収入拡大政策です.
 元来の目的としては,1反当りの土地の収穫高は,治安の安定や農業技術の進化で次第に増大する為,年ごとに武士を養う為に必要な土地は狭くて済み,大名家の実収が増えると言う目論見によるのですが,この検地は非常に過酷で,若干の目溢しすら許されませんでした.
 総石高は29万8,480石,物成21万7,890石で,その税率,防長2カ国で平均73%に達しています.
 つまり,7公3民と言う訳です.

 これでは生活出来ませんが,更に言えば,この税率は村々によって異なり,麻生は60%,伊佐・於福・麦河小野・万倉が80%,大嶺上下が85%,厚保村では何故かこの税率が90%,即ち9公1民と言う死の宣告に等しい税率を課せられています.
 何故こんな税率が課せられたかと言えば,安芸・長門・周防・石見・出雲・備後・隠岐・伯耆・備中の9カ国の太守から周防と長門の2カ国に封印された為でもあります.
 これら領国で収納された貢租を,その後に入った領主に返納しなければなりませんし,萩城の築城など資金が幾らあっても足りません.
 そこで,農民に対する苛斂誅求政策で突破しようとしていました.

 これでは,農民達にとってこれでは死ねと言っているようなものです.
 そこで彼等は,抵抗の手段として逃散という手段を執ります.
 その数,厚保で112軒,大嶺で110軒,於福で74軒,万倉で62軒に及び,厚保村では農民総数の実に30%に達しました.
 そして彼等が赴いたのは,其の昔,大内氏が守護を勤め,後に杉軍団に属していた武将達が知行地を持っていた豊前であり,杉氏縁の武将の知行地だった豊前京都郡には周防村,長門村が誕生しました.
 当時,豊前を治めていたのは,何だかんだ言われていますが,それなりに名君でもあった細川忠興でした.
 忠興は難民を排除するより,新田の開発や小倉城築城,城下町整備に猫の手も借りたい忙しさでした.
 当然,毛利からの抗議はあったでしょうが,何処吹く風と馬耳東風を貫いています.
 因みに,その逃散を進めたのは,実は在地領主である厚保地頭の厚氏や大嶺地頭の大村氏などではないか,と言われています.
 彼等の一族が杉軍団に属し,豊前に領地を得ていた為です.

 苛斂誅求の矢面に立った在郷武士達の宥めで,何とか一揆を起こされずに済んで居た毛利家ですが,余り長いことこうした政策を行っていれば,農民一揆が発生し,管理不行き届きと言う事で改易の危険があるので,1646年,毛利家は苛斂誅求策を改め,家臣のリストラを始めました.
 具体的には,苛斂誅求の矢面に立ち,その代わりに給与を支給していた在郷武士を無くし,完全に帰農しない場合は,相伝の土地も管理を許さないとしたもので,こうして昔からの地頭達は,半武士半農民の生活から完全な農民へと移行していきました.
 また,農地の細分化や,どんな狭い山間部の土地でも平地であれば,其所を開拓する様にした結果,1650年頃にはやっと収入が安定してきています.

 やっぱり三代目と言うのは…(以下グチになるので省略.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/20 22:56


 【質問】
 ドージャ・ジョルジの反乱とは?

 【回答】
 この事件は,「ドージャ・ジョルジ」あるいは「セーケイ・ジョルジ」の反乱として知られています.
 エステルゴムの大司教(?)バコーツ・タマーシュがローマ教皇の同意の元に,対トルコ十字軍(1346)を宣言,これを受けて農民たちが続々と集結,その指揮はドージャ・ジョルジに委ねられました.
 農民たちの集まり方に恐れを抱いた大貴族達は,大司教バコーツに募兵の中止と,既に集まった農民の解散を命じるように説得,大司教はこれに応じました.
 また,大貴族達は所領の農民の十字軍への参加の妨害,参加者への弾圧も行いました.

 激怒した農民たちは反乱を起こし,ドージャの指揮の元に,ペシュトを出陣,大平原を越えてハンガリー南部へ攻勢をかけ,城砦を次々に陥落させて行きました.
 しかし,要衝テメシュヴァール(今のティミショアラ)を攻囲している最中に,北部ハンガリーからの軍を率いて救援にかけつけたヤノシュ・サポヤイの軍に破れ,ドージャは捕らえられ,頭に焼けた鉄の王冠をかぶせられ,真っ赤に焼けた鉄の玉座に座らせられて,生きながら焼き殺されました.

ギシュクラ・ヤーノシュ ◆4yzbf0MFE in 世界史板


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