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竹田城 写真ライブラリー

天空の城 但馬 竹田城

村上敦 in twitter(2012/12/16)◆
アマゾンのクリスマス玩具みたいなところから.この発想はなかった…スノードームっぽい彦根城

●書籍

『城 (歴群図解マスター)』(香川元太郎著,学研マーケティング,2012.8)

『図説 織田信長の城 築城に秘められた天下統一への戦略と野望』(洋泉社,2013/04/12)

『日本100名城めぐりの旅』(萩原 さちこ著,学研パブリッシング,2013/04/30)

『三重の山城ベスト50を歩く』(福井健二・竹田憲治・中井 均編著,サンライズ出版,2012/09/23)


 【質問】
 戦国期の場合,城主は城から遠いとこに住んでる事が多いの?

 【回答】
 城と住まいが遠くに離れているというか,城は不便だけど防御力が高い山頂などに築いて,普段の住まいは麓の平地に近いところに館(防御力はあまり高くない)を建てていたってこと.
 山頂だと,スペースが狭いのであまり大きな館は建てられないし,城勤めの武士がいちいち登城するにも不便なので.
 城は非常時に立てこもるもので,普段住むわけではなかった.(無論例外はあります)

 こういう山城を詰城と言った
 典型的なのが甲斐武田氏の要害城.
 有事の際に立て籠もって戦うためのもので,平時の居館はご存知の躑躅ヶ崎館.

 でもこれは本拠地の地勢や周辺事情の必要あって,こういう組み合わせにしただけに過ぎない.
 航路が開かれたら泊地に移ったほうがいいんじゃないとか,領地内でも主敵から守るポイントに山城(砦)をおくのはいいけど,そこからだと総領としての勤めはやりにくい…とかね,

 信長の岐阜時代は,山上と麓の両方を使い分けて住んでいたみたい.
 京都から公家が来たとき,信長は山上の館にいて,
「登って来るのは大変でしょう.
 数日後に麓の館に移る予定なので,そのとき会いましょう」
ということになった話がある.
 取次役の家臣は,麓に屋敷があったようなので,家臣はいちいち山上まで登っていたようだ.

 山城は鉄砲が普及すると,相対的に防御力が落ちたので,平地や低い丘に石垣造りの大きな城を築くことが多くなった.
 そのほうが多数の兵士を収容したり,交通や経済的に重要な地点に築城できるというメリットがある.

 ただし,城主が城内に住まないで,城外に屋敷を作って居住しているってのは,後に築かれた城でも見られる.
 熊本城とか.
 一応,本丸にも御殿があって生活可能だったはずなんだが.

日本史板,2007/12/02(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦国時代の城下町は,どのように作られたのか?

 【回答】
 政治家と建築に関する本て言うのも此処で取り上げられそうなネタなのですが,城下町はどの様にして造られたかと言うのが結構面白くて,今回はこのネタを取り上げてみる.

 日本の大工道具の中に,「曲尺」と言うものがあります.

 鋼又は真鍮製で,直角に折れ曲がった長手16寸,短手8寸程度の物差しの事ですが,現在のメートル法の時代のものなら兎も角,戦前より前の古い曲尺の場合は,表側と裏側とで目盛の寸法が違います.
 規(ぶんまわし=コンパス)と矩(まがりかね=定規)と準縄(みずはかり=準が水盛りで縄は墨縄を表す)の3種は,大工にとって非常に重要な道具であり,「規矩準縄を正す」と言うのは,基準を作ると言う意味に通じます.

 これらの道具は,中国で後漢時代147年の武氏祠石室の像には,人身蛇尾の男女のうち,男が矩を,女が規を手にしているものがあるので,その頃には既にあったものと考えられます.
 日本には,白鳳時代に入ってきたのではないか,と言われています.

 余談は扨措き,長手を左手に持ち,右側に短手が折れている状態が曲尺の表目となり,逆に左側におれている状態が曲尺の裏目となります.
 現在とは違い,これは寸と分で書かれて居ますが,長手に表目の√2倍の目盛りが切込まれていました.
 従って,短手5寸と長手5寸(裏目5寸=表目7.07寸)に線引きし,斜辺を結べば5寸:7.07寸:8.66寸,即ち,1:√2:√3の三角形を書くことが出来ます.
 また,表目の長手には特殊目盛として5寸,10寸,15寸に大きく目盛ってあるのと,裏尺の5寸,即ち表目の7.07寸と裏尺10寸,即ち表目の14.14寸に目盛が振られており,裏尺も同様に,表目5寸に対応する裏目3.54寸と表目10寸に対応する裏目7.07寸,表目15寸に体操する裏目10.6寸に目盛が付されています.

 こうした裏目の登場は,文献上は1712年の『和漢三才図会』に「裏尺即ち曲尺の裏尺なり,其一尺は表の一尺四寸一分四厘余に当る」とあり,規矩術の指南書としては,江戸幕府の大工棟梁であった平内延臣が,1846年に著わした『矩術新書』が初登場となりますが,実際にはこうした規矩術は大工の口伝として長らく受け継がれてきたので,平安時代又は鎌倉初期まで遡ることが出来る様です.

 この曲尺の表目1を直角三角形の短辺に,裏目1(=√2)を長辺に取ると,斜辺√3の直角三角形を描くことが出来ますが,この直角三角形の鋭角部分は計算すると,大体35度26分となり,この角度は,実は日本の中央部緯度,つまり,出雲,松江,鳥取,長浜,岐阜,犬山,甲府,江戸に於ける北極星の高度に当ります.
 従来より,北極星は唯一不動の星として神聖化され,北斗七星と合わさって北辰北斗信仰となり,更にこれが仏教と習合して妙見信仰となっています.
 でもって,北辰北斗の形態は,この1:√2:√3の三角形に通じるものとなると言う偶然…とは言えないかも知れませんが,そうしたものがこの曲尺の根底にあると考えられています.

 日本の古建築に於ても,この1:√2の構図は幾たびも用いられており,正方形の一辺を短辺とし,その正方形の対角線を一辺とする,短長辺の比1:√2の長方形は「日本の黄金比」と呼ばれています.
 現在でも家の間取り,畳,建具,床,天井,家具,調度類には長方形でしかも短長辺の比1:2の長方形が最も多く,次いで多いのは,正方形の一辺を短辺とし,其の正方形の対角線を長辺とする,短長辺の比1:√2の長方形だそうです.
 これは特に和紙の寸法に多く用いられており,美濃紙は0.9尺×1.3尺,半紙0.8尺×1.1尺,奉書紙1.1尺×1.55尺となっています.

 この長方形に対角線を引くと,短辺:長辺:対角線の比は1:√2:√3です.
 また,法隆寺創設当時の伽藍配置に於ける回廊や四天王寺の主要伽藍を囲む回廊の外側線,出雲大社の立面構成に短長辺1:√2の比が使われていた事が知られています.
 創建時の法隆寺の回廊は,単純な矩形で,回廊外周の短辺が180高麗尺で,その長辺は短辺の√2倍であったとされ,四天王寺の回廊外側線も短辺が200高麗尺で,長辺は√2倍であり,これら短辺は,付近の条里の単位と符合すると指摘されています.
 更に,出雲大社も1:√2比が用いられており,大社造は,正六面体即ち立方体を主体とし,その上に直角三角形のプリズム屋根を載せた形が基本形です.
 基本形としては屋根の線を上に延ばして千木とし,下に延ばして軒としています.
 その立面の正方形を左右に二等分する中心に棟持柱屹立し,二等分されて生じる2つの長方形は更に廻縁を巡らせて上下に分断されるとしています.

 これは中国の古代数学の考えで用いられた,「方五斜七」「方七斜十」と言うものを応用したとされています.
 方五は正方形の一辺が五,斜七は対角線が七に成ることを示しており,「方五斜七」「方七斜十」は1.4と1.4286で,√2は1.4142…なので,少し小さい近似値と大きい近似値を実用として使っています.
 とすれば,これが日本にも取入れられた可能性が高いと言う事になります.

 しかし,昔の人も,√の概念を持っていた例,ユークリッドの究極の命題を考えていたとは目から鱗ですわな.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/16 18:56

 江戸初期に主流となった甲州流軍学を集大成した,『甲陽軍鑑』の編纂者で,甲州流軍学の祖と言われているのが小幡景憲ですが,彼の門下に,旗本で大目付を勤めた北条氏長と言う人がいます.
 北条と言う名字でもお分りのように,彼は後北条一門の出で,小幡景憲には1621年に13歳で入門し,北条流軍学を創始した軍学者としても大成しました.

 氏長は景憲の講義を綿密に筆記し,覚書として景憲に『兵法私鑑』として提出し批正を乞いましたが,その出来映えが余りにも見事だったので,1635年,景憲は氏長にこの書を『兵法師艦』と書き改めさせました.
 その後,徳川三代将軍家光の要請によって,1645年に『兵法雄鑑』を著述して献上しますが,元の『兵法師鑑』は,その『兵法雄鑑』に対比して,『兵法雌鑑』と改称して伝わりました.

 この『兵法師鑑』抄地利の巻十に,「えづ・木図・土図にて,城取遠路をするは,寸,町,分間の図を以,可仕なり.口伝」と書かれて居ます.
 つまり,敵地侵攻や敵城攻略の際の絵図として,「寸町分間図」と言う代物があることを示しています.
 分間図と言うのは,1分が1間として表現した1/600(1間=6尺)又は1/650(1間=6尺5寸)の縮尺図の事であり,寸町図と言うのは,1寸で1町を表現した,1/3,600(1間=6尺)又は1/3,900(1間=6尺5寸)の縮尺図の事です.

 逆に言えば,攻略側だけでなく,防御側もその防御陣検討や,軍備配置にこうした寸町分間図を用いた事が考えられ,それは,城造り,町割りにも応用された可能性は否定出来ません.

 更に時代が下って,1636年に小幡景憲や北条氏長に入門したのが山鹿素行です.
 彼は1642年に景憲から甲州流軍学の兵法講授の師証を得,その後,1656年に有名な『武教全書』を著わしていますが,その前の1651年に『兵法奥義』と言う著作を書いています.
 この『兵法奥義』にある奥秘本伝の二星相伝と言う章で,「二星とは大星と北斗星の二星なり…昼は大星夜は七星を専とす」と言うくだりがあり,大星と北斗星の陰陽二星を大事と説いています.

 では,大星とは…

――――――
 大星とは日輪なり.日輪を大星と名付るが伝なり.…日輪よりそふて事を為さば,不レ勝と云事なきなり
――――――

とあります.
 つまり,昼間は日輪を背にして戦えば,勝たないと言う事は無いと書いている訳です.
 一方の北辰北斗とは,

――――――
 前に云,二星の一つなり.北辰の北斗と云は,北辰は天のくるゝなり.それに根ざして運転して,事の行はるゝものなれば,故に北辰の北斗と云.是は専ら夜の用なり.…夜はあらはれたる処の北斗を用るがよし.
 則この北斗を我が後にをびて,剣先を敵へ向けて打時は,不レ勝を云事なし.尤北斗は大星に対するなり
――――――

とあります.
 つまり,夜は北斗を我が後にし,剣先を敵に向けて戦うことを説いており,更に北斗については,破軍尾返の条に,

――――――
 破軍とは北斗の一名なり.尾返とは破軍のまはりめの事を云.…破軍の尾のめぐるをさして尾返と云.破軍を打返し用る心に見ばあやまりなし.唯そのめぐりを考,七星ををびて,尾先を彼に向はしめて戦事伝なり
――――――

とあります.
 即ち,北斗つまり七星は別名破軍と言い,北斗の第七星を破軍星とも呼び,剣先を敵に向け戦うことを用いるのは道理であると説いている訳です.

 北辰北斗はそれらを結ぶことで大三角形を造る事が出来ます.
 昨日に書いた,1:√2:√3の三角形の鋭角部分は,北極星の見える角度になっていると書きましたが,この辺りが遠因ではないかとされています.

 その破軍尾返,北辰と北斗の位置関係が重要視されたのは,何も山鹿素行が最初ではなく,小幡景憲も北条氏長もその奥義に概略同様の事が記されています.
 これの大元を辿っていくと,伊勢神宮の三節祭に辿り着きます.

 伊勢神宮内宮の皇祖天照大神には太一(北辰)が,外宮の豊受大神には北斗七星が秘神として習合しているとされています.
 伊勢神宮の主要な祭として,神嘗祭と2季の月次祭が挙げられ,これを合せて三節祭と言います.
 神嘗祭では,旧暦9月17日子刻を中心として,「宵暁由貴大御食」と言う供食が,午刻には「太玉串奉立と奉幣の儀」が執り行われます.
 この2刻の北斗の剣先は,子の刻は子の方位(北)を指し,午の刻は午の方位(南)を指します.
 同様に,2つの月次祭のうち,旧暦6月17日子刻には,宵暁由貴大御食供進を行い,午刻に奉幣を行いますが,この時に北斗の剣先は,子の刻には酉の方位(西)を指し,午の刻には卯の方位(東)を指します.
 もう1回は,旧暦12月17日子の刻と午の刻ですが,この時は子の刻が卯の方位(東)であり,午の刻は酉の方位(西)を指します.
 こうした,北極星−七星第二星−破軍星を結ぶ構図は,北極星を中心として曲尺の様な形であり,空全体に,斜めの卍形(と言うかもろにスワスチカ)の形を描くことになります.

 で,これを山鹿流兵法の『兵法奥義』巻四秘伝目録にはこの様に書いています.

――――――
 縦横曲尺の相交わりて是を万字に譬ふ.
 陰受け陽受け,開闔相合ふ.
 是を卍と謂ふ.
 独陽独陰なるときは,則ち成らず.地天泰き時は則ち四方を成し,四維を兼ね,方にて円なり.
 或は縄張りに用ひ,或は虎口升形に用ふ.
――――――

 此処では縦横に曲尺の表裏尺を用いて相交わらせた卍字の構成を,「万字の曲尺」と言っており,この構成には北条流の極意である「方円神心」の天円地方の宇宙観と神心則ち天照大神信仰に習合した北辰北斗信仰を意味していたと考えられています.

 こうした北辰北斗信仰は,元々は大陸から伝わったものですが,日本に於ては密教の妙見信仰と習合していったと考えられます.
 真言宗では妙見菩薩となり,天台宗では尊星王大士とも言い,日本人の中に広まり,江戸期に最盛期を迎えます.
 また,妙見信仰は庶民の間では虚空蔵菩薩(明星天子)として発展していきます.
 尤も,北極星と明星(=金星)は全然別の星ですが,庶民レベルでは全く同じ星とされていました.

 武将にも大内氏を始めとして下総の千葉氏一族,細川忠興なども妙見信仰に帰依した人々が居ます.
 彼等は妙見菩薩を軍神とした訳で,城地を決めたり,町割を施す際にも,こうした北辰北斗の考え方が深く根付くことになりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/17 23:10

 さて,ここ暫く,1:√2:√3の三角形だとか,北辰北斗の話とかをしていた訳ですが,今度は城下町の形成です.

 例を小倉に持ってきた訳ですが,高橋鑑種が1570年に小倉城主として入城後,1587〜1600年まで毛利勝信の時代までは小規模ながら紫川河口に位置する城を中心とした町場が形成されていました.

 1600年,関ヶ原の合戦の論功行賞に伴い,細川忠興が豊前国,豊後国の国東,速見の両郡合計40万石を得て,12月に中津城に入りました.
 暫くは中津城で生活していたのですが,忠興は1602年に新城を小倉に定め,1月に鍬入れ,11月に普請成就,そして入城となりますが,城下町の方は,その後細川氏30年の治世でも終に完成しませんでした.
 忠興の築いた小倉城は,紫川河口に臨む左岸の洪積台地,標高10mの地点に本丸,松の丸,北の丸の第1郭を,その北側の第2郭には5軒の家老屋敷を置く二の丸を置き,その南西一帯の第3郭に重臣達の三の丸を構え,内郭を形成します.
 その外側には外郭を形成し,三の丸南側一帯に中級・下級武家屋敷を配し,この武家屋敷は長方形街区で町割されていました.
 一方,二の丸北側及び三の丸西側には町人地が設定され,紫川の西側にあるこの部分は西曲輪と称していました.
 対岸の紫川右岸に広がる沖積平野の低湿地には,新開の東曲輪が構築され,主に町人町を配置し,こちらは碁盤状に町割されています.
 更に西曲輪の西側海岸線には,帯状の帯曲輪があり,3つの曲輪による総構えの構成となっていました.

 こうした総郭形の城下町は比較的小さな規模の大名家に見られるものであり,大藩では他に鳥取と高知くらいしかありません.
 鳥取や高知の城下町は,洪水に対する備えでしたが,小倉城のこれは何に対しての備えだったのかがよく判っていません.
 もしかしたら,偏執狂的な忠興の性格がこの城下町形成に投影されたのかも知れません.

 この城下町ですが,本丸大手門から反時計回りの渦巻状に家格や身分が下がる構成になっていました.
 これは,江戸城が時計回りに同様に家格や身分が下がるという構成になっていたのとほぼ同じ構成で,大手に近い程家格が高いと言う,渦郭式の構成でした.

 地形と身分の関係で見ると,本丸,特に天守は当然最も高く,本丸,二の丸,三の丸と続き,高台の上級武士,新開地の下級武士,谷間・低湿地の町人と言う配置で,江戸とこれ又類似の構成です.

 忠興は,商業振興には水運を重視し,紫川の河口を利用して110間にも及ぶ波戸を設けて港を築きました.
 常盤橋(大橋)を中心とした河口一帯は港の機能が充実しており,関門海峡の要衝の地であると共に,大陸との交易も見据えた配置だったことが伺えます.
 また,常盤橋一帯は,長崎街道,中津街道,香春街道,福岡街道,門司往還の5街道の起点となっており,宿駅の機能も併せ持つようになって,人と物の集散地として機能するように形成されています.
 各街道に沿って商家が立ち並び,町人町が形成されていった他,中津街道や香春街道に沿っては魚町,長崎街道に沿っては室町や立町,門司往還に沿っては京町がそれぞれ形成され,商業地として賑わいを見せていました.

 小倉城下町の東曲輪の町割は京都をモデルにしたと言われていて,碁盤形の街路を現在も目にすることが出来ます.
 この碁盤型街区の内法寸法を算出してみると,30〜33間未満に約8割が分布し,その平均は各方向とも31.2〜31.5間でした.
 平安京や江戸など多くの城下町で碁盤型街区を採用している場合は,内法寸法が約60間なので,近世城下町の中では,小倉城下町がその最小構成と言えるとされています.
 そして,この碁盤型街路は天守を中心として,35間の整数倍の同心円上に重なる事が確認出来ます.

 では何故,35間の同心円なのに,31間平均の街区内法寸法になっているか.
 東西方向の街路を見てみると,碁盤型に見える街路は,実は鳥町筋で折り曲げられています.
 旧街道であった京町筋から見ると,微妙に視点がずれる,則ち,遠見遮断の防御的意図が見て取れる訳です.
 京町筋から南の各町筋は京町筋に並行に通っており,京町筋は東西方向の街路線引きの基軸でもあったと推定出来ます.
 南北方向の各街路は京町筋に直交させていますが,魚町から東側の各筋は,大坂門から見通し直線に直交させ,魚町から西側の各筋は,若干下半角を付けて,桜町口門から見通し直線に直交させるようにしてあります.
 この各街区基線間の寸法平均は,東西方向35.1間,南北方向35間となり,街区の芯々寸法35間で町割したことになります.
 そして,街区内法寸法31間と言う数字は,35間で町割の基線を引き,街路を3〜4間で配した結果と言えることになる訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/18 22:45

▼ 戦国末期から,所謂平城が発展してきたのですが,城を造るのは防備の目的だけではなく,城下に町を作って,経済的な領国の発展を企図する様に成っていきます.
 その為には,新都市建設の基盤となる主要施設配置や土地利用計画,街区計画や宅地割と言った都市計画を実行しなければなりません.
 戦国武将と雖も,単なる戦馬鹿では通用しません.
 福島正則なんかはその代表格と思われがちですが,彼でも,秀吉の影響を受けて城下の整備を熱心に行っています.

 こうした都市計画を町割と呼んでいますが,人口が自然増で緩やかに増加した場合は,都市計画が余り重要ではなく,配置も端正なものでなくとも構いません.
 しかし,人口が一時に増える場合,例えば,首都移転や転封や山城から平城へと城下を移す等の作業を行った場合は,その配置は計画的に設計し,建設されています.
 その例としては,古くは飛鳥京,藤原京,平城京,平安京と言った都の造営に於ける条坊制であり,近世城下町建設に伴う町割を指します.

 近世初期に於ては,国都として建設された平安京が唯一の実在の計画都市であり,理想論から言えば京都の町割が治世者の目指す所となっていました.

 『平安通志』には京の町割について次のように記しております.

――――――
坊ハ町ヨリ成ル 凡ソ坊ヲ立ツル方四十丈ヲ町トシ 四町ヲ保トシ 四保十六町ヲ坊トシ 四坊十六保六十四町ヲ條トシ 毎條ニ四坊ヲ置ク 坊ノ間ニ必ズ大路アリ 縦横之ヲ畫ス 二條以北ハ各三坊ヲ管シ三條以南ハ制ノ如シ 其中央ノ通街ヲ坊門ト称ス一町ニ四行トス 行ニ八門アリ 之ヲ一戸トス 凡ソ町内小徑ヲ開ク 大路ノ邊町ニハ二広サ各一丈五尺 市人ノ町ニハ三 広サ 各一丈 自餘ノ町ニハ一 広サ一丈五尺トス
――――――

 様々な戦国武将が,この様な端整な碁盤の目状のきちんとした町を建設する事で,覇者としての威厳を世に知らしめようとした訳です.

 1519年,武田信虎が築いた躑躅ヶ崎の城下は,甲州流の縄張であり,『甲府略志』には「街路が其初京都の條路に倣ひ 南北に四條の大道を開く」と書かれて居ますし,1590年に江戸の地に転封された徳川家康も,最初の江戸の町は平安京に影響を受けて作られた町割となっています.
 また江戸に入っても,1614年に計画された松平忠輝の高田城下町でも,京都の町に倣った整然とした区画が整備されていました.

 しかし,必ずしも理想通り行かないのが世の常.
 決して暗愚な当主ではないのに,町割については散々叩かれたのが蒲生氏郷です.

 1534年,氏郷は近江日野に城を築き,町割をします.
 氏郷の治世,日野の城下は非常に繁栄をし,町数は79を数えましたが,地形に従って道路は弦状を為しており,碁盤割りに出来ませんでした.

 その後,1588年に氏郷は伊勢に転封し,松坂の城下町を拓きますが,街路は屈折して雑然としていました.
 これをして,松坂権輿雑集と言う書物には,「伊勢の松坂毎着て見てもひだの取様でまち悪し」と揶揄されました.
 つまり,「ひだ」は蒲生氏郷が飛弾守を名乗った事から,衣服の襞(ひだ)に引っかけて,飛騨守造営の町割が乱脈を極めた事を例えたのです.

 その松坂は2年だけいて,1590年には秀吉によって,東北と関東に対する抑えとして,会津に転封となります.
 この会津でも,「黒かはを袴にたちてきてみれば まちのつまるは ひだの狭さに」と言う落書が出回りました.
 勿論,会津の町割の雑然とした様を揶揄したものです.

 其処で氏郷は意を決して,曽根内匠等に命じ,甲州流縄張を以て築城し,郭内には将士の邸宅を列ね,郭外には商舗職工軒を並べ,方1里有半の間,市井を改画して端整なものとしたりしています.

 最終的には甲州流を用いて町割を行う辺り,これが氏郷の弱点だったのかな,と思ってみたり.
 決して,戦の指揮だけで天下を取れないと言うのがよく判る話です.

 こうした町割が得意だったのが,秀吉でした.

 1574年,初めて城を造る事になった長浜の地は,琵琶湖に臨む場所に城郭を建設し,外堀によって武家地や町人地が明確に区分されていました.
 その視軸は,前述の様に城に向かう本町を基軸として矩形街区の町割を施し,地元の今浜と小谷城下から移した町人町を統合して城下町を築いています.
 この街区の芯々寸法は概ね東西42.4間,南北60間の矩形をしており,屋敷割は町筋が交差する地点の屋敷は東西の町筋に間口を開いており,東西の町筋を表通りにしていました.
 こうした型の町割は,織豊系の城下町に広く普及していました.

 それを秀吉がもっと洗練させ,完成させた形が,秀次を城主とした近江八幡城の城下町です.

 この城下町は,1585年に秀吉の意向に沿って建設が開始され,整然とした長方形街区の町割が施されて完成しました.
 これも長浜城と同じく,琵琶湖から導かれた八幡堀によって,八幡山山頂の本丸,山麓の武家地と町人地が明確に分離され,町人地には安土から町が移され,地元の町場も八幡に移されて繁栄しました.
 また,視軸は八幡山の本丸を基点にして本町が線引きされており,街区長辺が縦型に変化した点を除けば,全く長浜と同じ手法での町割となっています.
 更に,街区長辺の方位,則ち町立ての軸は,長浜と同じく巽乾に振れており,街区芯々寸法も長辺60間,短辺42.4間となっていました.
 家臣の屋敷割においても屋敷奥行を同じくする均質な長方形街区の整然とした町並みを整備していました.

 一方,1583年から経始を開始し始めた大坂城は,1598年に至って,船場島之内全域を芯々寸法42.4間に町割して碁盤型の街区を成立させました.
 これは京より小振りでしたが,街路は東西南北に正方形の碁盤型の配置であり,全く京都を模したものとなっています.
 正に天下人の城というべきものでした.

 ただ,熊本や江戸,小倉,名古屋,駿府など後に造られた城の町割の芯々寸法は小倉の35間を除けば全て方60間だったのに対し,秀吉が何故42.4間と言う中途半端な数値を採用したのか,その辺は謎に包まれています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/30 21:23


 【質問】
 なぜ日本の城下町は城壁で守られていなかったのでしょうか?

 ヨーロッパや中国では町全体が城壁で守られ,その中に都市があり,中心部に城の本丸と言いますか,王様や領主がいる城がある型が多いように見られます.

 日本では,城の周りに城下町はあっても,町全体は壁で囲まれることもなく,外部に対してむき出しの感がします.
 平安京や平城京には壁があったらしいですが,それでも外国の城壁に比べるとささやかな,無いよりましかもしれない程度のものだと思います.

 戦国大名は城下町の防御をどのように考えていたのでしょうか?

 【回答】
 外曲輪に城下町を収容したのが小田原城こちらから引用)で,東西50町(約5.45km),南北70町(約7.63km),周囲5里(約20km)の範囲に堀を巡らしています.

 基本的に日本に於ける城は防御施設ではありません.
 どちらかというと,人質と守備兵を入れておく為の施設となります.

 城の管理規定である,「城掟」では,城番衆の行動規程,脱走の禁止など応戦に関する条項はありません.
家臣が出陣する際の質(嫡男とか妻),職人・商人も領国内で営業する為に質を置き,農民は夫役の為に駆り出され,妻子は城内に収容されて質となり,夫役は惣構の城の外周に配置されていました.
 これらは全て,城からの逃亡防止の為の措置です.

 また惣構とか宿城というもので,城下町や家臣団の住地をすっぽり覆うことも行なわれています.
 これも,欠落者防止,人質確保の為に作られています.

 ちなみに,平城になったのは,戦国末期であり,戦国盛期は山城が主流でした.
 この山城が出来たのは,悪党が不法に入手した物資を隠匿する場所として作られた所から発生しており,居住の為のものではありませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/07/22
青文字:加筆改修部分

 ヨーロッパの城塞は,成立過程の観点から言えば,市街を城壁で囲ったというよりも,城の中に街を入れたと言えます.
 中国の場合は主たる仮想敵が遊牧民のステップ系騎兵だったためで,ヨーロッパと中国もその成り立ちには大きな違いがあります.
 日本でも小田原城や大坂城等のようなスタイルの城塞が出現していましたが,普及する前に江戸幕府が成立して城塞の進化が途絶してしまったのです.

軍事板,2004/07/22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦国時代の篭城戦をテーマにしたゲームを作ろうと考えてるのですが,

・篭城するに当たって,どんな準備をしておけばいいですか? 準備すべき優先順位とかありますか?
・篭城戦で相手に出来る敵の数は自軍の何倍くらいが限界ですか?
・篭城の準備期間はどのくらいに設定したら妥当でしょうか?
・羽柴秀吉が中国攻め以降多用したような兵糧攻めをされたら勝ち目はないと考えていいのですか?
・篭城戦の戦い方ってどんなのですか?

 本とか読んでも「城兵がよく守り持ちこたえた」とか「なかなか落ちない」とか書き方がアバウト過ぎて,どうやって守ってるのかぜんぜん分かりません.

 【回答】
 戦国時代の籠城戦といっても実例は1000を下るまいが・・・
 ごくごく一般化した,わかりやすさ優先の回答として聞いてくれ.

 質問1:
 まずは城の強化.具体的には「塀を高くし堀を深くし」などといわれる土木作業.
 飲み水の確保,人員・兵糧収容のための建築も重要.
 物資としては何をさておき食料.米味噌,塩や干物などの保存が利く物が多い.
 戦国時代後半ならば,弾丸や火薬も重要.

 質問2:
 城の規模や構造にもよるが,おおよそ3倍程度の相手ならば籠城が効く,といわれる.
 また,敵が戦闘を仕掛けることができる場所が狭いなら,どんなに大人数であろうと一度に合理的に投じられる規模は限られるので.守備側は交代要員が確保できるならばもちこたえやすくなる.

 質問3:
 敵対勢力との緊張度合いによる.なんの準備もせずに攻められることもあるし,小田原北条氏のように数十年かけて城を強化していった例もある.
 攻める側としては不意打ちしたいし,守る側としては時間を稼ぎたいところ.

 質問4:
 兵糧攻めがいつも効果的とは限らない.秀吉の場合は準備周到さにおいて比類無く,相手に兵糧を蓄えさせなかった上に籠城人数を増やす,という手を打った.
 逆に籠城側が十分に兵糧を蓄積し,人心収攬にたけており,条件が整っていれば数年にわたる籠城戦も可能.

 質問5:
 こればっかりはケースバイケース.
 籠城側がもちこたえる第一条件として,援軍が来てくれる望みが大きい,ということがある.
 希望を失った兵は持ちこたえることができない.飢えにもたえられない.
 秀吉の小田原城攻めにおいて,(当時において)世界最大の城郭だった小田原城に,5万人も籠城しておきながらまったく持たなかったのは,援軍の望みがゼロ,という点が大きい.

 具体例を知る必要が大きいから,「歴史群像」シリーズがわかりやすくておすすめ.

軍事板

 ちなみに大阪冬の陣の軍議の席で,真田幸村は以下のような言葉を残している.

 戦の利というものは,機先を制するということが根本です.
 篭城は,しっかりした後詰(援軍)がなければ敵に気を呑まれてしまい,士卒は退屈し,おのずから気力は衰えてしまい,降参したり裏切り者も出てくるものです.
 この節,日本全国の大軍勢を引き受けて,わずか二里にも足らぬこの城に命をかけてたてこもろうとしても,誰がはせ参じてきましょうや.
 それにまた,一戦もせずにはじめからむざむざと篭城することは,まことに腑甲斐なきことと存じます.

おきらく軍事研究会,2006年5月29日


 【質問】
 日本には欧州や中東の様な破城槌は無かったんですよね?
 城攻めの時は,どの様な方法で城門を破壊したんですか?

 【回答】
 急峻な坂,階段,郭などを配した山城では,破城槌が威力を発揮できないため,利用されることはありませんでした.

 20〜30度もある不揃いな階段を数十メートル登り,90度コーナーを2つ通り抜け,後背を敵の櫓に晒す狭い空間が正門前,といった感じです.
 破城槌が使えない理由が想像できるでしょうか.

 城門を破壊するには,丸太・大砲を用いたほか,火矢・焼き玉(熱した砲弾)などで火災を狙うなどされました.

 ちなみに朝鮮出兵の際には,現地で「亀甲車」という破城槌が考案されています.

 余談ながら,戦国時代期の日本型城塞は,古代〜中世にかけて作られた西洋の都市型城塞に比べて,数世代後のものに当たります.

 よい縄張りと防御施設を備えた山城は,街や居館を石壁で囲っただけの城塞とは比較にならないほど堅固です.
 平城でも大阪城規模のものになると,この時代の大砲を用いても容易には落城させられませんでした.
(家康が大砲の利用を控えさせたとはいえ)

 もちろん,この時期の欧州でも城塞は進歩を遂げていて,さらに17世紀中盤には城塞設計の革新者ヴォーバンが登場し,要塞は飛躍的な進歩を遂げてゆきます.

 中東の特に十字軍王国の城などは,岩山の尾根先を大きな溝を掘って区切り,先端に極めて堅固な要塞を築いている例があります.
 城壁は尾根の崖線上およびこうした人工崖線と一体化し,城壁真下に取り付いた敵兵を側射できる塔も備わるなど,かなり発達した造りでした.

 従って攻める側は巨大な投石機を幾つも作り城壁を崩して攻めます.

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Saone.jpg
 上で述べた十字軍の城の一例です.
 大きな切り石を石灰かモルタルで繋いで城壁と塔を作っています.
 城壁の構造は表面と裏面は切石で,中には小さい丸石が詰められているものです.

 中央右の塔の高さ半ばに細長い黒い線がありますが,これが矢狭間です.
 城壁下に取り付いた相手を横合いから撃つため,この位置に開けられています.
 日本の城でいう,横矢掛かり です.

 日本の山城の場合は地山を巧みに堀で削り,区切り,柵を巡らして守りますから,西洋流の城とは異なります.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中世日本の城攻めは,火矢を打ち込みまくれば簡単に勝利できないんでしょうか?

 【回答】
 ▼まず無理です.
 当時の城は,山城クラスでも弓の射程(15間くらい)を計算して郭や堀切を配置し,場外からや陥落した郭からの攻撃に,城内部の郭の人員や建物が直接晒されないようにしていました.
 で,郭の外郭にある塀やその屋根には,土や漆喰などを厚く塗り,防火していました.
 また,質問者のイメージの火矢は,おそらく映画などに出てくる,先端に布などを巻きつけ,火をつけたものであると思われますが,考証家の名和弓雄氏によると,当時に火矢は,鏑矢(先端に内部をくりぬいた丸い笛のようなものがついた矢)に熾き火や炭火をつめ,茅葺屋根などに放ったものだそうで,板塀や土塀には放火しにくいものだったと思われます.

閻魔さくや in FAQ BBS,2009年10月7日(水) 18時55分
青文字:加筆改修部分

 ▼火攻めを使った事例はある.
 ただし,火攻めを使った事例もなくはない.
 火矢ではないが,夜間に城に接近し,矢狭間や窓から室内に,火の付いた物を投げ込んで火事を起こさせ,混乱した隙に城に攻め込んだというもの.

 このように,城の警備の不意をつけばごく少人数で取れたというのは,日本の戦国時代でいえば竹中半兵衛が稲葉山城を制してみせた挿話などもある.
 外国でいえば夜間に,縄梯子や鉤縄で城壁を登って制圧した話がある.

 なので火矢ではなく,もうちょっと少人数で仕掛けやすい形ならば,簡単に勝利できた事例があるってことになる.

 火矢は弓手が沢山必要で,矢も大量に用意する必要がある.
 イングランドがフランスに攻め入った例でも,数千名の弓手がおり,この弓手の中には騎馬で移動する連中も多かった.
 矢にしても薔薇戦争ともなると,50万発近くを発射したりする.

 これだけ規模が大きくなると,相手もそれなりに備えることになるし,攻め取ろうとする城もそれなりに大きくなるだろうから,色々と難しくなると思える.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 祇園城とは?

 【回答】
 祇園城(小山城)は,鎌倉以来下野守護を長く務め,強大な勢力を誇った小山氏の居城であった.

 南北朝後期,小山義政とその子若犬丸が鎌倉公方足利氏満に対して反乱を起こし,たびたび攻撃を受けて落城した.
 鎌倉府の歴史において小山氏の存在は非常に大きく,この小山氏についてもいずれもう少し詳しく紹介する予定である.

 後年,徳川家康は,会津の上杉景勝を討つために出陣したが,石田三成がその隙を突いて挙兵するに及んでこの祇園城で諸将を集めて会議を開いた.
 これがあの「小山評定」であるが,この結果家康軍は西に戻り,関ヶ原で西軍を撃破して天下を獲り,江戸幕府を開くのである.
 祇園城は,日本の未来を決定づけた重要な場所なのである.

 その後,祇園城は徳川家康の謀臣,本多正純の居城となったが,正純が宇都宮に加増転封となって廃城となった.
 そしてあの有名な宇都宮城釣り天井事件が起こって,正純は失脚するわけであるが,そういうわけで今でも城の遺構はかなり残っている.

祇園城址 with 指

「はむはむの煩悩」,2008年6月27日 (金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 坂戸城について教えられたし.

 【回答】
 この地は,南朝の新田一族が築いた城で,室町初期に守護の上杉憲顕に従って越後に入った守護代・長尾氏の一族が,この地を本拠地にしました.
 1548年に長尾春景に代わって長尾景虎が春日山城主となると,1549年に景虎の姉の夫となっていた長尾政景は景虎に背きますが,孤立無援となり,結局1550年に詫びを入れて無条件降伏しました.
 以後,政景は景虎を支えて活躍しますが,宇佐見定満と船遊び中に酒に酔って池で溺れ,溺死する事件が発生します.
 一説には,政景を闇討ちしたのではないか,と言われていますが….

 そうして,政景の息子であった景勝は上杉謙信の養子となり,後に御楯の乱で,北条氏から来た養子である景虎を討って,謙信の跡目を継ぐことになります.

 後に豊臣秀吉によって,上杉家が会津に移封されると,この地は堀秀治が治めることになり,この要害に,秀治は家老直政の息子直竒に2万石と共に封ぜられます.
 関ヶ原の合戦に際しては,上杉遺臣の一揆に攻め込まれるも,直竒はこれを良く防ぎました.
 堀家はこれで安泰だったのですが,蔵王堂に入った支藩の親良が隠居によって越後を去った後,直竒はその幼主鶴千代を補佐して政務を執っていました.
 しかし,鶴千代が幼くして逝去して領地を収公された前後に,本藩の政務を執っていた天下陪臣の三傑とされた堀直政も死去し,嫡子忠俊を補佐する家老職に息子である直清と直竒とが争い,結局,争論の結果主君である忠俊は改易.
 直竒も減封の上,飯山に転封を言い渡されています.

 これも,息子の忠輝を越後という要地に封じたい家康が,直竒を説き伏せた結果と言う話もあったりします….

 その坂戸城,確かに要害の地です.
 山城で,山頂からは周辺地域が一望の下に見渡せます.
 湧き水は豊富で,水の手を枯らすことは出来ません.
 山麓には幅40mほどの帯状の水田があり,此処は埋田と呼ばれ,沼田堀になっています.
 奥には城主の館があり,東西80m,南北120mの長方形で周囲に低い土塁を張り巡らし,正面に高さ2m,長さ50mの石垣を有しています.
 この城を攻めようとしても,水の手は豊富ですし,突撃も沼田堀で遮られ,進撃スピードが鈍ったところで,土塁や石垣から狙い撃ちされます.
 一度も,落城したことのない城と言われていますが,なるほどその通りですね.

 因みに,今は強者共が夢の跡と言う事で,片栗の花が咲き乱れていました.

 六日町は去年の大河ドラマ戦国ホームドラマで取り上げられた『天地人』の主役を張った,上杉景勝と樋口与六(直江兼続)が生まれ育った地でもあります.
 従って,駅前には戦国Expo等と言うイベントが開催されていました.

 ちょっ,おま,頭痛が….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/03 22:09


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