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戦史FAQ目次


 【link】

『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

 作者は京城帝大理工学部機械工学科卒で,国立海洋大学教授,MITの造船工学科研究員.
 なので,船の構造に関する部分については信頼が置ける分析をしているのかな,と.
 訳者は東大の理学博士で,京大の教授ですから,この部分に関する限り真っ当な訳をしていますし,訳出などについては,阪大の船舶工学科にも協力して貰っています.

―――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月01日 11:12

『朝鮮人のみた中世日本 (歴史文化ライブラリー) 』(関周一著,吉川弘文館,2013/08/20)

『李舜臣のコリア史 秀吉の朝鮮出兵の全貌』(片野次雄著,彩流社,2013/06/25)

『李朝船の造船式図』(金在瑾著,日本海事史学会)


 【質問】
 秀吉の朝鮮侵攻について,イデオロギーとかセンセーショナルな記述抜きで解説した良書って,何がありますか?

 【回答】
 分かりやすいのは
学研の歴史群像赤本の『文禄・慶長の役』
戦争の日本史シリーズの『文禄・慶長の役』 中野等

 専門的
『秀吉の軍令と大陸侵攻』 中野等

 また,
諸星秀俊『明治六年「征韓論」における軍事構想』軍事史学45-1
は,明治初期の陸軍が秀吉の朝鮮出兵を反面教師にして出兵計画たててたという見方をしていて,ついでの参考になるとおもうよ
(征韓論,西郷殺されて出兵したとして,本気で清と戦争するつもりだったのかしら)

 さらに,雑誌になるけど,中西豪とかイイと思う.
 歴史群像のバックナンバーを漁れば,朝鮮の役関係の記事が出てくる.
 最新の歴史群像でも,海上補給の点から朝鮮出兵を書いた記事が掲載されている.

 ただし残念ながら,朝鮮の役関係の記事は,「アーカイブ」にはまとめられていない.
 各記事に,朝鮮戦役に関わる記述はあるけど.
 文禄慶長の役関係の記事は,個別にバックナンバーを漁るしかない.

軍事板,2010/03/23(火)~03/24(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 朝鮮出兵当時の李氏朝鮮の国力はどのくらいだったの?

 【回答 válasz】

 朝鮮の地理については,あまり詳しくないんだが・・・

 秀吉公の征伐のときは,朝鮮国王の米の備蓄は1万石ぐらいだったらしい.
 つまり,日本でいえば中程度の大名クラスの経済力しかなかった.

 で,日本軍がほぼ占領したとき,派遣された大名の協議で全土は1192万石と検地された.
 8人で分割したので,取り分を多めに取りたいという計算も働いて,大雑把に算定したのだろう.

 にしても,王朝の維持のための官僚体制が膨らみすぎて,破産状態にあったとみるべきだろう.
 あちらの人間は体面を重んじるため裕福層でも金を払って貴族階級に入りこもうとするから,後世では両班の人口比率が高くなってしまったとある.
 生産性ゼロで忠誠やら礼儀にやかましい.
 聞こえは良いが,つまり穀潰し.が増えてしまった.

 秀吉公の征伐の,このとき小西行長公と加藤清正公が,いまでいう北を領地として東西で2分割.
 面積こそ広いが,たかが2人の大名の恩賞になる程度の貧しさだったのだ.
 北の石高は,日本流にいうと200万石程度と思われる.

軍事板,2003/04/13
"2 csatornás" katonai BBS, 2003/04/13

青文字:加筆改修部分
Kék karakter: retusált vagy átalakított rész


 【質問 kérdés】
 秀吉の朝鮮出兵の意図を,なぜ李朝側は事前に察知できなかったのか?

 【回答 válasz】
 姜在彦によれば,朋党争いの結果,情報が正しく伝わらなかったためだという.

 文禄の役の始まる2年前の1590年,朝鮮通信使が日本側の要請により,その天下統一を祝賀するために訪日した.
 朝鮮の謁見を受けて「探情」した結果,通信使の正使・黄允吉(ファンユンギル)は秀吉を,侵略の野望を抱いている油断ならない人物と報告.
 だが副使・金誠一(キム・ソンイル)は,黄允吉の見解は不当に人心を惑わすもので,秀吉はそれほどの人物ではないと反論した.
 当時,士林派内部の対立と反目は,国王の権威をもってしても仲裁できないほどになっていたのだが,黄允吉は西人派,金誠一は東人派という対立関係にある派閥に属していた.
 そして王宮の右議政・柳成龍(ユ・ソンヨン)は金誠一とは同門だったため,その意見を支持した.

 李朝における士林派内部の朋党争いが,いかに不毛なものだったかについては,
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001)
を参照されたし.

mixi, 2017.9.18


 【質問】
 秀吉は明の征服を目的としていたようですが,明相手に勝てる見込みはあったんですか?
 明はそろそろ落ち目とはいえ,この時代だとまだまだ強大というイメージなのですが.

 当然見込みがあると踏んだから仕掛けたのだと思うんですが,その際の明の戦力の見積もりや戦争計画と言ったものは,どの程度のものだったんでしょう?
 日本は統一したから次は明,程度の認識だった訳じゃ無いですよね?

 【回答】
 出兵動機についてはまさに,「日本統一をしたから次は明」ってだけ.
 何でそう考えたのか?ってのはいろんな説があるけど,最近は誇大妄想など精神疾患に求めるのが流行してる.
 他に最近の研究では,統一後に分配する土地が無くなった為という説や,(出兵を喜んだ大名も居たから)秀吉一人の発想ではなく,信長から引き継いだものであるという説が有る.
 だから勝つ戦略も何もあったもんじゃない.
 徳間から戦前の日本陸軍の朝鮮出兵の分析が文庫で出ているので読むといい.

 明に勝てる見込みは,日本側が主観的に持っていただけ.
 日本側が得ていた情報としては,明・万暦帝治下での政治の混乱でしょうね.
 実際,モンゴル人や貴州の反乱が,日本の朝鮮侵攻と同じ年に発生している.
 財政もかなり悪化していた.

 日本側の事情としては,各大名を外征させ征服地を恩賞として与え,不満を削ぎつつ強大な戦力を外に向けさせる事が,豊臣政権の安定に必要と考えられた.
 戦国の間に戦力を蓄えた大名達による反乱は恐ろしい.
 また,明を征服する事によって,明に対する朝貢以外は公式にはできなかった,日本と中国の間の交易を完全に掌握して,莫大な利を得る事も大きな目的であっただろう.

「日本を統一したから次は明」
というのは,豊臣政権としては相手が弱っていると判断すれば,飛びつきたいチャンスではあったのだ.
 見通しは甘いけれど.
 日本の戦争計画は,極めて主観的だったとは言えると思う.
 朝鮮を軍事力で威圧し服属させ,補給路を安全にした後に直隷をめざして侵攻するといった所.
 ただ朝鮮は服属せず,王室は逃亡し,民衆もまた日本に服さなかった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 文禄の役,慶長の役は,最終的に朝鮮を征服,あるいは属国化できなかったんだから,日本の負けだろ?

 【回答】
 間違い.
 文禄の役,慶長の役の戦略目標は,明への攻撃であって,朝鮮の征服,属国化では無い.
 朝鮮はただ通り道にされただけだったのだが,明の属国としては,日本軍を何もせずに通す訳にもいかず攻撃した.
 戦力の過半は明からの援軍であり,実態は戦闘が朝鮮半島で行われた日明戦争だった訳.

軍事板



 【質問】
 それにしては,当時の明海軍の活動は聞かないが?
 海上補給路を絶つなんて,ちょっと気の利いた将軍なら誰でも思いつきそうなもんだが.

 【回答】
 陸続きの半島が戦場だから海軍は出なくてもいいじゃないか.
 戦闘の惨禍にあうのはしょせん植民地で,本国じゃないしさ.
 それに,朝鮮での略奪暴行のほとんどは実は明兵の仕業だったりするから,略奪品を海軍とわけあいたくはなかったろう.

 そしてまた,現地での略奪調達方式しか頭になかった明軍には,日本軍が食糧のほとんどを日本から海路運んでいるなんて信じられなかったのさ(笑).
 って,おれも旧日本陸軍の「朝鮮戦役」で初めて知ったんだけどな

 だいたい,基地が無い罠.
 当時の軍船は手漕ぎか帆走だって忘れていない?
 中国本土から出撃して対馬海峡で戦闘するのは大変で効率が悪い.
 李瞬臣がやったゲリラ戦が出来る訳も無いだろう.

軍事板


 【質問】
 秀吉に端を発する,フグ食禁止令について教えられたし.

 【回答】
 河豚を食べるのは,全世界でも日本国民だけだそうです.
 当然,それにまつわる言葉も多く,
「その美味さ一死に値するなり」
とか
「河豚は食いたし命は惜しし」,
「命の洗濯」,
「鉄炮」
などと呼ばれていますが,意外にも,日本でも明治期までは河豚食は禁じられていました.
 日本近海の約50種生息する河豚の内,その内の30種が食用可能ですが,最高級はトラフグとされています.
 それでも,最も美味いのは彼岸の頃に産卵の為に接岸する「彼岸河豚」だそうです.
 三陸沿岸を除いて,筋肉だけが食用を許可されています.

 下関はトラフグの産地であり,河豚の肝を味噌汁の具に用いるという食習慣がありました.
 と言うのも,味噌汁の具に使うものの中で,麩は味噌汁が普及する室町期には,高くて庶民が手を出せなかったからです.
 麩は,主成分が小麦中のグルテンでグルタミン酸が持つ仄かな甘さを特徴としますが,庶民は甘さを求めて,グリコーゲンやトリメチルグリシンを含む河豚肝を用いた訳です.
 当然,その河豚肝には猛毒であるテトロドトキシンも多く含まれていますので,味噌汁食って命を落とすこともあったりする訳です.

 そうした食文化のある土地に,大量に軍が集結したのが秀吉の唐入りでした.
 彼らはその土地で,河豚肝の入った味噌汁を食して,多くが命を落とします.
 これに激怒した秀吉が,直ちに河豚食禁止令を発しました.
 秀吉政権を継いだ徳川幕府も,この河豚食には手を焼き,禁令を継続します.
 特に,武士がその命に反した場合は,家禄の没収と言うきつい御仕置が待っていました.
 更に,明治政府が誕生すると,大分県や石川県が強く反対したのにも関わらず,河豚食禁止令は継続されました.
 山口や福岡がその令を受け入れたのは,明治政府の屋台骨を担っていたから,無碍に断れなかったと言われています.

 しかし,政府側の重要人物である伊藤博文自らが,帰郷の時に食べた河豚の美味しさに気づき,時の県知事に河豚食禁止令の解除を進言したことから,風向きが変わり始めます.
 当時の総理の発言は重く(今は殆ど鴻毛のごとしですが),その結果,多くの府県で禁止令が解除され,トラフグやマフグの刺身や鍋料理も復活しました.
 とは言え,政府側にも面子があり,河豚の販売取締法並びに調理法の指定を発しなさいと,政府のお膝元である東京府に強く命じました.
 お陰で現在に至るも,河豚を含めたあらゆる食品に対する条例が,最も厳しいのが東京都だそうです.

 大分県や石川県が反対したのは,両県が猛毒と言われる河豚の肝や卵巣を古くから食べていたからです.
 大分の場合は,トラフグの肝料理が食文化としてあり,県外への移出は認められていませんが,県内での消費は認められています.
 石川県では某テレビ番組でも紹介された様に,1年寝かせた卵巣の糠漬が有名です.
 石川県衛生試験場の研究では,糠床に繁殖する細菌が河豚毒を無毒化すると言うことだそうで,1997年からは県外流通も可能となりました.

 河豚の美味さの秘密は,イノシン酸とグリコーゲンが作り出すもので,てっさなどを盛りつける際に,伊万里焼の大皿に透き通りそうな身を並べるのは,河豚の細い筋肉繊維が歯に挟まることを防ぐ為の板前さんの心遣いだそうです.

 因みに,蘇東坡なんかも,肝を好んで食していたり,吉益東堂と言う学者など,万病一毒説を唱えて毒をもって毒を制すとの信念に基づき,劇薬を好んで用いたそうですが,ここは犯罪を教唆するところではないのでこの辺りにしておきます(苦笑.

 河豚と言えば,時に毒で死ぬこともありますが,山口県衛生研究所によれば,河豚の食中毒症状は4段階に分けられ,
1度は数時間以内に唇や舌が軽く痺れる程度,
2度になると激しく嘔吐し座っておられない他に,言語障害や呼吸困難を来す,
3度では運動機能の麻痺とチアノーゼ症状を示し,
4度になると意識が激しく混乱し,呼吸と心臓が停止すると言う風に分かれています.
「河豚毒の名医は山中にいる」
と言う言葉は,其処に辿り着く事が出来れば,後は自然治癒するからと言う事を意味しています.
 先の吉益東堂が用いた河豚毒は,1~2度までの間で止めたからであり,坂東三津五郎の様に,出された数人分の肝を勿体ないと食べてしまうと死に至る訳で,さじ加減が非常に難しい食物です.

 もっとも,坂東三津五郎の死後,東京では更に河豚料理に対する規制が厳しくなり,調理には許可証が必要なだけでなく,記録を徹底して,肝臓や卵巣は鍵が付いた容器に入れて管理し,これは焼却場に運ばれるまで開封出来ない仕組みを取り入れていますので,幾ら馴染みの客だからと言って,簡単に河豚肝を出せる店はありません.

 そう言えば,長いことてっさとか食べていませんねぇ.
 まぁ,埼玉は山国ですからしょうがないですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/01/23 22:18


 【質問】
 韓国に古い書物や建物がないのは,豊臣秀吉の侵攻のせいなのか?

 【回答】
 井沢元彦によれば,それは「秀吉がいわゆる朝鮮出兵において,多くの建物や文化財を焼き払ったことは事実だが,全て秀吉のせいではない」という.

 疑り深い人のために,直接韓国側の資料を引いておこう.
「いっぽう,朝鮮国王が都落ちした後,漢城府は極度の混乱に陥った.
 再び『李朝実録』に目を向けよう.
 都城の宮省火(焼)く.車駕将(まさ)に都中を出(い)でんとするに,姦民の先ず内帑庫(ないどこ)(内帑は国王の費用)に入り,争いて宝物を取る者有り.已に駕出ず.乱民大いに起こり,先ず掌隷院・刑曹を焚く.二局の公私奴婢の文籍在る所を以ってなり.(「宣祖修正実録」宣祖25年4月晦日)」
(「朝鮮日々記・高麗日記 秀吉の朝鮮侵略とその歴史的告発」北島万次著 そしえて行)

 この本に書かれている通り,朝鮮の宣祖王は国民を見捨てて王宮を放り出して逃亡したのである.
 そこでかねてから王の暴政に悩まされていた朝鮮民衆は,その無責任さに激怒し,王宮に乱入し,略奪した後に放火したのだ.
 「掌隷院・刑曹」というのは文中にもある通り,朝鮮の非人道的な身分差別を管理する戸籍の保管所だ.
 いわば悪政の象徴であり,だからこそ真っ先に狙われたのだ.

( from SAPIO 2003/10/22号,小学館,p.90-91)


 【質問】
 亀甲船とは?

 【回答】
 亀甲船と言うのは,戦国シミュレーション小説にも良く出て来る訳ですが,大抵は,スマートなボート型の船体に,上面は蓋をして,其処に鉄の槍の穂先が多数刺さっているような図が描かれています.
 世界中の博物館に,韓国人や朝鮮人が寄贈したと言われる亀甲船が展示されていますが,それはどれも想像の域を超えない代物です.

 中には,亀甲船は,
「世界最初の装甲船である」
とか,
「世界最初の潜水艦だ」
などと言う与太話の類まであったりします.
 亀甲船潜水艦説は第一次大戦直後に出回った話みたいですが,潜水艦という奇襲兵器が,当時植民地支配下にあった朝鮮人民の願望として,英雄李舜臣と結びついたものと考えられます.

 実際の亀船はどうだったのか,と言えば,韓船の正統発達型とも言うべきものです.

 日本の水軍は接近戦闘を主として用います.
 倭寇の時分は,海上で迎撃した場合でも接舷して,敵船に移乗し,相手の船上で刀を振るって戦った訳です.
 流石に戦国期になると銃撃も行いますが,砲撃はなかなか発達しませんでした.

 一方,迎え撃つ朝鮮は,弓術が主でした.
 つまり,距離を取った間接戦闘を多用した訳です.
 其の後,火器が中国から伝わると,火器を用いた戦闘方法を開発し,更に砲の発達を促す事になります.

 高麗時代に倭寇が朝鮮半島を繰り返し侵攻しますが,この迎撃に高麗が失敗したのは,敵の得意な接近戦闘に乗ってしまったためです.
 即ち,陸上での迎撃を行おうとして,かえって彼らの得意技に誘い込まれ,そして壊滅した訳.
 20年程そうした敗北を繰り返した末,高麗の軍人達は,倭寇との直接戦闘を徹底的に避けて,海戦で水際にて迎撃,即ち,弓術や火器の間接戦闘で敵船を沈める方法で,勝利を収めています.

 この戦いの中から,高麗時代には,「剣船」と言う特殊軍船が造られました.
 これは直接戦闘が行えないように,船の舷側に錐刀を隙間無く植え込み,倭寇が刀を引き抜いて舷側を攀じ上ってこられないようにした武装船です.
 この船は,倭寇の侵攻時に防御用に用いられ,彼らの侵攻を防ぐ為に,浦口に配置して示威行動をさせたり,鴨緑江を渡って襲撃する盗賊撃退の為に,平安監司が剣船を要地に配備すべしと建議した記録も残っています.
 この剣船があった為に,亀船の蓋板に剣先が植え込まれていたと言う話が生まれた可能性があります.

 ところで朝鮮初期の水軍は,大船,中大船,中船,兵船,快船,孟船,中猛船,別船,無軍船,船,倭別船,追倭別船,追倭別猛船と言う区分に大別されました.
 このうち,大船,中大船,中船は,主力軍艦です.

 倭寇は10名程度の小さな船で襲来するのが常で,その迎撃には大きな船は余り必要有りません.
 とは言え,人数で上回らないといけませんから,30名程度が乗る船が水軍の主力船となりました.
 これが中船です.

 大船は,司令官が坐乗して艦隊を指揮する為の船で,乗員は80名程度,大きさも一番大きなものになっていますが,地域によっては余り大きな船は取り回しが悪く,中船よりは大きく,とは言え,大船よりは小さな船が必要でした.
 結果,生まれたのが中大船です.
 中大船は,乗員50~60名程度です.

 快船は中船より小さく,しかし速力の大きな快速船で,10名位が乗り組んでいます.
 これは主に,首都近辺の防衛用に配備されていました.
 整備単価も安いので,倭寇が落ち着いた時期には,これを中船の代りに主力にする動きもありましたが,小さすぎて,波の荒い場所では機動性が悪い為,転換は行われませんでした.

 無軍船は予備兵力で,一種のモスボール艦船と言えます.
 倭寇がなりを潜めた後は,一気に其の数を増しています.

 別船は,中船と同じくらいの大きさの艦船ですが,中船は火器を搭載しているのに対し,別船は弓を主力とした船で,乗員は25名程度.
 よって,中船に比べると若干戦力が落ちる船です.

 その他の孟船,中猛船,別船,船,倭別船,追倭別船,追倭別猛船などは特殊軍船と言えます.
 船は,民間船を徴用した特設艦船です.
 中猛船は,中大船に櫓を増設し,速力を出せるようにした指揮船で,孟船は,中猛船に準じる軍船を指します.
 倭別船は,鹵獲したか,購入したかした日本船で,見本用か演習用とされています.
 最後の二種類,追倭別船,追倭別猛船は,倭寇追撃用の快速船とされていますが,普通の快速船でないことは確かで,剣船は別にある事から,それでも無い事は確かです.
 では,この二種類の船は何なのか,と言う事ですが,追倭別船は数が少なく,追倭別孟船の方が数が多い事から,前者が亀船の原型ではないか,と考えられています.

 因みに,朝鮮初期と言うのは大体壬辰倭乱より180年程前に当たります.

 これらの複雑な特殊船群は,倭寇が完全に鎮圧された15世紀中頃には整理され,1470年代には大猛船,中猛船,小孟船が記録されるだけになっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月03日22:42

 李氏朝鮮後期,幾ら軍が蔑ろにされたとは言え,未だに日本などの脅威に備え,軍船は全国に776隻存在していました.
 これらは各道に配置されていましたが,戦船,防船,兵船,伺候船の4種類は全体の86%,672隻を占め,全国に満遍なく配置しています.

 戦船は,先日の日記でも触れた板屋船を改名したもので,実質上の戦列艦に当たります.
 これが京畿道に4隻,忠清道に9隻,慶尚道に55隻,全羅道に47隻,黄海道に2隻,平安道に0隻の合計117隻.

 防船は,板屋船の様な2層の上部構造物は作らず,普通の甲板上の両舷端に防牌板を立て,兵士が体を隠せるようにした中型軍船で,干満の差が大きく,水深の浅い西海岸地方で戦船の代りに使われ,戦船と共に巡洋艦的な役割を果たしました.
 これが京畿道に10隻,忠清道に21隻,慶尚道に2隻,全羅道に11隻,黄海道に26隻,平安道に6隻の合計76隻.

 兵船は大型軍船に1隻ずつ付添う従船で,軽武装した軍船であり,駆逐艦とか哨戒艇的存在です.
 平時には哨戒巡察に使われています.
 これが京畿道に10隻,忠清道に20隻,慶尚道に66隻,全羅道に51隻,黄海道に9隻,平安道に5隻の合計161隻.

 伺候船は,戦船,亀船,防船,兵船などに1隻ずつ付属する非武装小型船で,偵察とか連絡などの雑用に使用されました.
 これが京畿道に16隻,忠清道に41隻,慶尚道に143隻,全羅道に101隻,黄海道に5隻,平安道に12隻の合計318隻.

 水軍の体制は,各道には水営が置かれ,更に其の下に各邑鎮が置かれています.
 各邑鎮には,戦船1隻,兵船1隻,伺候船2隻の4隻体制が最も多く,戦船の代りに防船を置く場合や,少し規模の大きい邑鎮では,戦船1隻,防船1隻,兵船2隻,伺候船3~4隻と言う場合もありました.

 朝鮮水軍と言えば,秀吉の唐入りの時に出現した亀甲船が有名ですが,壬申倭乱の際には,活用された亀船(亀甲船)は3隻だけで,艦隊の先鋒に立って,敵船団の真っ只中に突入し,敵を混乱させ,戦船の攻撃を容易にする戦法が採られています.

 従って,1600年代を通じても,慶尚左道,右道,全羅左道,右道,忠清道に各1隻の4隻しかありませんでした.
 要は艦隊毎に整備された訳です.
 しかし,1740年代になると其の数は増やされ,慶尚左道6隻,右道3隻,全羅左道2隻,右道1隻,忠清道1隻,京畿道1隻の計14隻となります.
 更に1780年代には更に増え,慶尚左道14隻,右道3隻,全羅左道10隻,右道7隻,忠清道5隻,京畿道1隻の計40隻となり,これがピークでした.

 これは当時の海防体制が変化した為です.
 朝鮮後期の海防体制は,三道水軍統制使を頂点に,全羅左水営を前営,慶尚左水営を左営,慶尚右水営を中営,全羅右水営を右営,忠清水営を後営とする五営体制となり,各水営は,前司,左司,中司,右司,後司の五司に,各司は前哨,左哨,中哨,右哨,後哨に組織されていました.
 各営の営将は,各道の水使であり,各司では僉使,或は虞候が把摠となり,各哨では萬戸,各邑の守令が哨官となっていました.

 従来は各営が使用してするだけだった亀船が,各司でも前哨基地に置いて,これを突入艦として使用する事になった為,最低30隻は必要となり,重点海域では2隻配備となった為,40隻としました.
 但し,戦船と亀船を並行して配備するのではなく,戦船が配備されれば亀船は配備されず,亀船が配備されれば戦船は配備されないと言う関係になっています.
 つまり,亀船は戦船と同じ主力艦と見做された訳です.

 一方,これには政治的な動きもあります.
 亀船を配備させることで,朝鮮水軍の壬申倭乱に於ける栄光の歴史を想起させ,亀船を実際に運用させる事で,水軍の士気の高揚を図ろうとしたのが軍人向けの動き,また,亀船を配備する地区の住民に向けての宣伝と言う面もありました.
 更に,日本人町や日本人が出入りする浦口に亀船を係留しておく事で,彼らに対する無言の圧力を掛けるという面も無視できません.
 特に慶尚道に重点配備したのは,そう言う意味もあったりします.

 しかし,朝鮮通信使の来航などで日朝関係が改善され出すと,朝鮮の日本に対する警戒感は若干薄れてきます.
 こうなってくると,わざわざ各地に亀船を配置して,臨戦態勢を維持する必要はなくなります.
 また,各道の水軍は,毎年1回ずつ春操或は合操と呼ばれる連合艦隊を組んで,統制使指揮の下で大演習を行わないといけませんでしたが,次第に秋操または分操と呼ばれる各道水営の演習が重要視され,春操は余り行われなくなります.
 なお,流石に春操でも,三道各水営の戦船が1カ所に集結して行う,三道船師都分軍と呼ばれるものは数十年に1度あるかないかと言うものでした.

 こうして各道の水軍が,全国防衛から地域防衛に軸足を置くようになると,1800年代初頭には亀船の数は30隻に減り,1810年代後期には自然減に伴う補充が為されず,18隻にまで減ってしまいました.

 まぁ,それでも19世紀になっても亀船はしぶとく生き続けていた訳ですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月28日21:46

 亀船の全長は110尺になります.
 この全長は,底板の長さ64尺8寸を含み,これに,船首材投影長10尺,船尾材投影長15尺2寸を含めると,合計で上粧長は90尺になり,残り20尺が尾部長になります.
 亀船の底板は10枚の厚い板で構成されています.

 船幅は,船体の幅と上粧の幅があります.
 上粧と船体幅の差は片側で3尺,両側で6尺ありますが,最低でも2尺7寸の幅があれば,櫓役するのに十分なスペースを得られるので,船体幅は26尺,それに6尺加えて上粧幅は32尺になります.
 と言っても,自然木の利用ですから,幅には若干の誤差があるでしょうから,船体幅は24~28尺,上粧幅は30~34尺くらいはあるかもしれません.
 平底船では復元性能に問題がありますが,そもそも東アジアの船は沿岸航法ですから,少々の復元性能の低下はさほど問題になりません.

 高さは外板を7枚貼り合わせて構成する訳ですが,その高さは固着時7尺5寸,防牌板の高さが4尺3寸になり,櫓を出す上粧と船体の隙間を1尺として,船体の高さを8尺5寸,上粧の高さが11~13尺になりますから,全体の高さは19尺5寸~21尺5寸.
 上粧内部に部分甲板を設置したら,更に5~7尺ほど高くなります.

 因みに1尺と言っても,周尺(曲尺の4分の3で,人間の身長を8尺とした),営造尺,布帛尺(布を国庫に収める場合に用いた尺)と様々にあるのですが,船舶の場合は営造尺になります.
 1営造尺は,30.65cmで,日本などで用いられている曲尺30.3cmよりも若干大きかったりします.
 他にも船税を徴収する為の量船尺としては把があり,1把は営造尺の5尺になります.

 重さの単位は,積載できる穀食の体積で表わし,その単位は石か斛です.
 これは朝鮮で最も使われていた斗よりも大きな単位ですが,斗は7寸×7寸×4寸(196立方寸)で,15斗が1小石または小斛,20となら1大石または大斛としていました.
 漕運船では,大石が重さの単位で,これを石と称していました.

 話が逸れましたが,先ほどの寸法をメートル法換算してみると,底板は19.9m,船体長27.6m,全長33.7m,船体幅は7.4~8.6m,上粧幅は9.2~10.4m,船体高さは2.3m,全高6~6.6mとなり,船体長と船体幅(L/B比)は3.75~3.22,船体幅と船体高さ(B/D比)は3.2~3.73となります.
 でもって,総トン数を無理矢理計算すると,船体約105t,上粧部約180tの合計285総トンになります.
 これが板屋船(戦船)の場合では,船体は105t,上粧部122tの合計227総トンになり,亀船の方が若干大きい(と言っても,上粧分の容積が大きいだけですが)訳です.

 この大きさは安宅船よりは小さいですが,関船や小早舟よりは大きく,日本の水軍には十分に脅威だったのではないでしょうか.

 朝鮮時代の各種軍船の定員は,猛船では,大猛船が80名,中猛船で60名,小猛船で30名でしたが,板屋船は大型化して火砲を装備するようになり,定員は急増します.
 一般戦船だと164名,隊指令である各道水使搭乗船は178名,艦隊指揮艦である統営乗船だと30名追加で194名が乗り組んでいました.
 一方,亀船は148名ですが,これも隊司令船と艦隊指揮艦の亀船は定員が増えていました.
 また,偵探船は79名,兵船17名,伺候船が5名でした.

 内訳は,朝鮮後期では,艦長である船将の他,船の運航責任者である船直,帆柱操作要員である舞上,舵を取る舵工,操帆手である繚手,碇を扱う碇手が,戦船と亀船はそれぞれ2名,偵探船は1名.
 兵船と伺候船は,舵工が1名ずつ.
 弓の射手である射夫が,戦船は18名,亀船は14名,偵探船10名,一方,火薬を扱う火砲匠は,戦船は10名,亀船は8名,偵探船にはいません.
 そして,火砲を操作する砲手が戦船と亀船は24名ずつ,偵探船は16名,兵船は2名.
 100名を越える戦船と亀船には,船内治安対策と秩序維持の為に,左右捕盗将が2名ずつ配備されました.

 残りの定員が櫓を漕ぐ櫓軍で,戦船では100名が配備され,左右舷にあった各8本の櫓に配備されます.
 櫓1本には実際に櫓を漕ぐ格軍4名と指揮する長1名が割り当てられ,彼らは2名ずつ2組で普段は交代で漕ぎ,戦闘時は4名全員がその櫓を漕いで全力を出しました.
 勿論,倒れたり,死んだりするのがいるでしょうから,予備戦力として20名を保持して,欠員の出た櫓に配置する事になります.
 亀船の場合は,櫓軍は90名配備されています.
 同じく5名1組の体制ですが,各舷の櫓は9本,合計18本ですから,予備戦力無しで90名がフルに操櫓していた様です.

 なお,戦船でも亀船でも指揮船に当たる船は若干定員が増えています.
 艦隊指揮艦である統営上船は,射夫4名,火砲匠4名,砲手2名,櫓軍20名の30名で,統営上船は,他の戦船と違い,櫓の数が2組増えて機動性を増しています.
 また,戦隊指揮艦である各道水使船は,射夫2名,火砲匠2名,櫓軍10名の14名で,一般の戦船よりも,これも機動性を増す為に,櫓を1組増やしています.
 同様に,亀船も統営亀船と各道亀船は櫓が増えて,機動性を増しています.

 英国の駆逐艦の建造法に,第二次大戦前まで,指揮用の駆逐艦は他の同型駆逐艦よりも若干を大きく作る嚮導駆逐艦と言うものがあったのですが,正に朝鮮の軍船にも同じ様な思想が取入れられ,指揮の為に機動性を増していたのです.

 考えてみると,シャア専用のザク,ズゴック,ゲルググやムサイなども同じ思想だな,うん.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月07日21:49

「復原」された亀甲船
上述の文章によれば,この「復原」もただの空想の産物でしかないようだが
(画像掲示板より引用)



 【質問】
 韓船とは?

 【回答】
 西洋の木造船と違って,東洋の木造船には方形龍骨が無く,船の底は龍骨を底に置いている関係上,西洋の木造船はV字型を為す尖底型なのに対し,底の広い平底船です.
 また西洋の木造船は,船首部が尖った方形船首であるのに対し,船首部は平面的になっている.
 更に西洋の木造船には,肋骨を一定間隔に配置し,底に外板を固着しているのに,それが東洋船にはありません.

 東洋船はこの為,外板は上下の板を互いに固着する必要があります.
 中国のジャンクは,必要以上に隔壁を多くし,日本船では船梁を置いて船が横から押潰されるのを防ぎ,船体の仕切りとして利用しました.
 朝鮮半島の韓船でもこれは同じで,加龍木と言うものを置いています.

 韓船は平底船で,底板は平坦で船首材と船尾材も平坦な平面を形作り,肋骨の代りに加龍木あるいは長釗(ちゃんすぇ)と言う添え木が外板毎に設置された基本構造を持っています.

 船底には,角材を使って組立てた,厚くて平たい底板があります.
 その両側には,板を上に向けて順番に貼り付ける外板があり,外板の上端部には丈夫な頚木(梁)が載せてあり,其の下に両舷の外板材を一つ一つ互いに連結する梁・加龍木(長釗)が設置されています.
 船底の構造は韓船独特のもので,ジャンクの場合,底板の厚さは外板と同じであり,和船の場合は樹木一本から作った単材で分厚くないし,幅もそれほど広くないとか.

 また外板の張付け方も韓船独特のもので,下から上に相互に貼り合わせますが,ジャンクや和船は表面が平らで滑らかになる様に外板を貼り合わせるのが普通でした.

 頚木は,最上層外板である棟頭通し板を深く彫って堅固に羽目合わせ,其の両側の先端部分は船縁の外に飛び出す様にし,柱を建てて欄干を作るか,櫓杭を固定して櫓の支点にしていました.
 また頚木の上には,必要に応じて甲板(階屋)や木足を被せています.

 底板は66尺の角材11条を,38個の長槊(非常に長い四角断面の木釘)で組立て,外板は両舷に各々7個ずつ張付けており,船首部には耳杉(部分出来に貼った外板材)も用いていました.
 外板の厚さは一番下が5寸2分,以降徐々に薄くなり:,5番目の5杉の厚さは3寸4分になりますが,そこから上は再び厚みを増し,一番上の7杉は3寸7分になっています.
 なお,外板は杉とか杉板と呼ばれていますが,木の種類ではなく単なる呼称で,杉材が船材として用いられる様になったのは近代以降の事だそうです.

 船首材は,1個の曲木と6個の比牙の7材で作られていますが,他に柏の木15本で作られた事もあり,結構まちまちでした.
 軍船や政府船では,板を縦に貼って船首材にするのですが,民間船や輸送船では板を横に張付けるのが普通でした.

 船尾材は例外なく後に傾斜した平面で,角形船尾を構成しています.
 但し,その形や傾斜については各船毎に変化しています.
 船尾材は横に広い平面を造り,底板と外板に木釘で固定されています.

 これら底板,外板,船首材,船尾材を横から潰れない様に支える横部材には二種類のものがあり,梁の役を果たす駕木と隔壁の役割を果たす加龍木がその役割を担っています.

 駕木(頚木)は,最上層外板である棟頭通しを貫いて外舷に突き出すのが普通です.
 これは,甲板を船の幅から更に拡げるとか,板屋船や亀船と言った大型軍船の上部構造物をその上に造る為で,一般の船でも舷側に櫓を取付ける為に頚木を長くする事が多かったりします.
 上部構造物がなかったり簡略化された船であれば,頚木の数は非常に少ないです.
 中央付近の駕木については,駕木の下に外板材毎に加龍木を挿入しているものがありますが,外からは見えない様にしてあります.

 上部構造物は,舷欄(下桁),柱木(支柱),牌欄(上桁),牌板,上駕木,上下甲板と女檣,梁柱などで構成されており,これらは一般建築物の二階屋の様な空間を生み出し,板で屋を作っている事から,これらの船は板屋船と呼ばれていました.

 その建築方法は,下体の駕木両端に前後に長く舷欄を配置することから始まりますが,その際舷欄を下の船体より外側に張り出す様にします.
 次に舷欄に適当な間隔を置いて長さ5尺内外の柱木(支柱)を一様に建て,その上端に舷欄と並行に牌欄という長材を載せて固着します.
 舷欄を下桁,牌欄を上桁と為す訳です.
 そして,左右の牌欄に掛けて駕木を渡します.
 要は建築物で言う天井梁です.
 これで骨格を作った後,上下の駕木に甲板を敷き,四面の支柱に牌板を張付けます.
 これまた建築物に例えるなら,上下甲板が天井と床,牌板は壁ですな.

 上下甲板の敷き方には2通り有り,1つは板を横に敷くやりかた,もう1つは韓国式家屋の様に床板を貼るように敷く方法です.

 舷欄と牌欄の間には四面に柏の板壁が張付けてありますが,これは防牌の役割,つまり,装甲板みたいな役割を果たすものです.

 塗装としては,軍船なら龍とか鬼頭が描かれたりしています.

 最後の仕上げとして,上粧甲板を縁取るように女檣と言う欄干を立て,甲板上に司令塔となる高殿即ち将台を作ります.

 これで,韓船は完成です.

 韓船の大きな特徴は,船体全面に船体幅よりも広い上部構造物を持つ事で,これは櫓を漕ぐ人間達を上下甲板の間にある安全な場所に格納する為であり,これにより彼らは,恐怖心に打ち勝ち,櫓を漕ぐのに専念する事が出来た訳です.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月25日22:13



 【質問】
 亀船の戦法は?

 【回答】
 亀船の戦法は,撞破か焚滅の何れかでした.
 前者は体当たり,後者は火箭か火砲で焼き払う事でした.

 体当たりをするには,外板が分厚くなければ,逆に外板に穴を開けられる可能性があります.
 亀船の外板の厚さは4尺(12.26cm)ありました.
 これは大体,現代木船の2倍位の厚さとなります.

 一般に伝統的な韓船は外板の厚さが厚く,中には現代木船の3倍以上になる場合もあります.
 船の長さ方向の曲げに対して支える縦強度は,外板や甲板など船の皮殻を為す部材が受け持ち,船を横から押潰す作用に対して支える横強度は肋骨,隔壁が受け持つ訳ですが,韓船の場合は…と言うか,東洋船は一般的に,横強力部材が不充分で有る為,外板寸法を大きく採らねば成りません.
 また,東洋船は外板の長さ方向での継ぎ目,即ち上下の板が上手く合わず,隙間が出来て水が漏れる事が問題でした.
 外板の寸法を増せば,こうした水漏れを或程度防ぐ事が出来ます.

 更に,木製構造の船では,長く使用する為にそれなりのメンテナンスが必要となります.
 韓船の場合は,改槊と呼ばれる作業を行い,腐った板材や古くなった木釘を新しいものに全面的に交換する大修理を実施します.
 これは一定期間を於いて1隻の船に実施し,その度毎に補充する大木釘を打ち込むので,板材の厚さが厚い程,改槊を実施するのに便利になる訳です.

 ところが,東洋船としては例外的に,亀船や板屋船は上部に巨大な上粧を作る為に,駕木や加龍木が多く,13~14本を用いています.
 また駕木の下には加龍木があるので,其の間隔は6尺程度です.
 つまり,横強度にしても,この駕木や加龍木で十分に保つ事が出来ていた訳です.
 韓船のこのクラスの船では,西洋船に比しても十分な強度を保っています.

 一方,対戦相手たる日本水軍の軍船の構造は,帆走より櫓で漕ぐ方に重点を置き,櫓で漕ぐ限りは韓船よりも速度を出せ,軽快に造られていました.

 和船の一般的な構造では,底に敷と言われる厚い底板を敷き,根棚(加敷),中棚,上棚の3枚の外板を張付け,上船梁,下船梁を左右舷外板に連結・固着し,船首部に方形船首材を取付け,船尾はトランサム桁で造った戸立造りになっています.
 底板は,少し分厚い広板1枚のみで,数枚の分厚い角材を敷き詰めて構成している韓船よりも狭く,外板は韓船が7枚の板を貼り合わせているのに対し,和船は3枚の幅広の板を組み合わせているだけ,船首材は,韓船が組立式平面か僅かに曲面となっているのに対し,和船は単材の方形船首材で造られています.
 横部材についても,韓船は外板の各層に連結固着した加龍木ですが,和船は左右を連結する数個の船梁だけです.

 でもって,帆走設備も,韓船は充実しているのに対し,和船は四角帆1枚のみで極めて初歩的な設備しかありません.

 よって,日本の船団に,韓船が飛び込んで,撞破するのも強ち愚策とは言えません.
 横方向に韓船の船首を打ち込んでしまえば,関船くらいの船なら簡単に穴が空いて,其処から浸水して撃沈されるか,無力化されてしまう可能性は高かったりします.

 板厚の問題は,材質の問題に起因しています.

 韓船は凡て松材で造られています.
 亀船も主要部分は松材で,偶に船首材に柏が使われた他,防牌板と舵の軸に柏が使われた程度です.
 朝鮮半島は,赤松,陸松が産出されていましたし,当局も木が良く生育している場所は,封山,松田に指定して,各道水使に厳格に管理させました.
 封山は,軍船用以外の伐採を一切禁止した養松林で,松田はそれに準じる場所です.
 朝鮮後期には,こうした封山は忠清道に73カ所,全羅道に142カ所,慶尚道に65カ所,黄海道に2カ所など282カ所に上り,松田は慶尚道に263カ所,咸鏡道に29カ所など292カ所あり,防牌板などに用いる松柏木の養松林である黄腸木封山も,全羅道に3カ所,慶尚道14カ所,江原道に43カ所など60カ所有りました.
 中国船ならば,杉や松,樟が使われ,和船は松の他,杉や檜と言った良質の船材が多数産出しましたが,朝鮮はそれしかなかったと言っても過言ではありません.

 しかし,機械的性質を見てみると,日本杉の比重は0.33~0.41,屈曲強度300~750kg/cm,日本檜の比重は0.34~0.47,屈曲強度510~850kg/cm,米松の比重は0.47,屈曲強度950kg/cmですが,朝鮮赤松は比重0.55~0.73,屈曲強度526~977kg/cmです.
 即ち,日本材や米国材に比べ,朝鮮赤松は硬度が最も高く,最も加工しにくい材料です.
 一方で,強度は米松よりも劣りますが,日本材よりは遙かに強いです.
 更に,節が多くて品質が一定ではないなどの欠点があるので,その欠点を補う為には,角材とか厚板で大まかな寸法を出して分厚く加工するしか有りません.

 日本材では,この点,硬度が低く,強度はありませんが,節なども少なく,材として品質の一定なものが得られる為,薄く製材して,曲げ加工などを施す事が出来た訳で.

 更に,亀船と戦船(板屋船)は,上粧が違うだけで,船体部分は全く同じ構造でした.
 即ち,上部構造物を覆ってしまえば亀船,二層の甲板を設ければ板屋船(戦船)になった訳で,建造の際には,このファミリー化で建造で線図を引き直す手間は省けますし,部材の加工を共通化する事でコストを下げる事も可能,また,艦艇の性能も或程度揃える事が可能です.

 この辺り,もしかしたら元寇で用意した軍船建造のKnow-howが蓄積されているのかも知れませんね.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月08日22:34

 【質問】
 亀船の兵装は?

 【回答】
 朝鮮の船の戦法は,体当たりの他に焼き討ちがありました.
 火薬が齎されるまでは,弓矢が主でしたが,火薬が高麗末期に齎されると,船には火砲が搭載されるようになります.
 その戦法は,倭寇との戦闘で発達していきます.

 政府は火薬の維持管理に神経を注ぎ,使用期限が来たような火薬は,真っ先に消費する様になっていました.
 王宮内では,火戯と言う火薬遊びが行われました.
 これは花火ではなく,所謂爆竹みたいなもので,様々な形の紙袋に火薬を入れて騒々しく爆発させると言うものです.
 これは古くなった火薬を消費すると共に,北方の国境を接する胡人や倭寇で屡々海岸線を犯す倭人に対する威嚇の意味もありました.

 高麗朝が倒れて朝鮮王朝になった際に,こうした火器への関心は一時的に薄れます.
 李氏朝鮮の太祖は易姓革命を成し遂げた人間として,火器を政敵に利用させたくなかったのもありますし,世祖も前の端祖を追い出して自らが王位に就いた事から,火器の使用には制限を加えていました.
 しかし,太宗,世宗,文宗と時代を下るに従って,火器は再び重要視されるようになりますが,倭寇の跳梁が下火になっていった事から,主に北方民族の侵入に備えた陸戦用火器としての開発が為され,これらの火器が,国境各地の城に配備されました.

 ただ,こうした陸戦用火器は,海戦に用いる様な砲ではなく,主に手持ちの小火器であるところが違います.

 ところが,16世紀に入ると再び倭寇が活発化し出します.
 これに対応する為に,再び陸戦用小火器から海戦用の砲が再製作され,韓船に搭載されるようになりました.

 そして鋳造されたのが,亀船にも搭載された天字砲,地字砲,玄字砲,黄字砲,勝字砲の5種類の砲です.

 一番口径の大きいのが天字砲で,口径13cm,外径28cm,全長130cmで重量は300kgもあります.
 次いで,全長88cm,口径10.3cm,外径15cm,重量200kgの地字砲で,柄は天字砲より小さいのですが,弾丸はさほど変わらない大きさのものを発射できました.
 玄字砲は,全長80.5cmと地字砲と同じ位の大きさですが,口径は5.7cm,外径12.6cmで重量59kgしかない軽砲です.
 黄字砲は更に口径が小さくなり,全長52cm,口径4.3cm,重量51kg.
 これらの砲は艦載時には童車と呼ばれる砲車に搭載されています.

 勝字砲は全長こそ56cmと黄字砲より大きいのですが,口径は2.2cmで,重量は10kg程度しかありません.
 要は手持ちで撃てる火砲で,勝字砲には砲弾ではなく,大将軍箭,将軍箭と言った矢を放つ為の銃筒でした.
 陸戦用の火器として,矢を発射する銃筒と言うものがあり,1本,4本,8本の矢を火薬で撃ち出すものでしたが,その転用ではないか,とされています.
 亀船の乗員の中に射夫と言うのがありますが,弓を射るのではなく,勝字砲を発射する射手というのが正しいのかも知れません.

 また,発射するものは,大口径砲である天字砲,地字砲では鉄や石の弾丸を発射し,玄字砲では弾丸と大将軍箭,黄字砲は大将軍箭のみ発射するものでした.
 勝字砲は大将軍箭もしくは将軍箭ですから,弾丸を発射する砲は意外に少なかったりします.
 壬申倭乱当時の亀船には,砲門が左右舷6個で合計12個,船首船尾に4個で合計は16個ですが,全羅左水営亀船には36個,統制営亀船に至っては72個に達しています.
 其の殆どは勝字砲が主だったから,この様な数字になっているだけで,本当にこれだけの数の弾丸を発射できる砲を有していた訳ではありません.

 なお,亀船の船首部には龍頭があります.
 このほかに上に龍頭,下に鬼頭が載せられたものもありますが,この龍頭は時々亀船なので,亀頭と間違われる事があります.
 この龍頭,初期の亀船では砲門として用いられていましたが,後代には砲門としての役割は消滅し,威嚇の為に,硫黄煙硝を燃やして口から火を出しているかのように装う為に用いられるようになりました.
 更に鬼頭は,厄除けの単なるシンボル的なものだったようです.
 昔の西洋船にあった船首像みたいなものではないでしょうか.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月10日21:30


 【質問】
 秀吉の朝鮮出兵の際,日本軍の水軍は,李舜臣将軍の水軍と比較して,とても太刀打ちできないものだったんですか?

 【回答】
 日本側は海を渡って来た都合上,船の大半は補給部隊の輸送船団.
 これを考慮しないで「朝鮮のほうが強い!」とか言っても無意味だし,逆に補給線への攻撃が有効な事を無視して「朝鮮はヘタレ」とか主張しても無意味.
 一応,単純な強さ比べでは,朝鮮の戦闘船vs日本の輸送船では,もちろん前者が強かった.
 朝鮮の戦闘船vs日本の戦闘船では,日本が互角以上に,つーかかなり優勢に戦った記録もあるが,平均して日本船のほうが小型であり,不利だった.

 ただし,そもそも輸送船への攻撃作戦がメインで動いてた部隊が,ガチ戦闘を避けたがるのは当然だけど.
 つうか,そもそも軍事的には単純な強さ比べなんて,限り無く無意味に近い程度の意味しかない.
 つうか,登場の船で戦闘艦と輸送艦を分けるのも無理があるだろ.
 むしろ朝鮮の亀甲船が,沿岸でしか行動出来ない低速船だった事を,引き合いに出す方が有意義だ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき,制海権を取れなかったそうですけど,信長が作っていた鉄船とかはその発展型とかは,そのころはなかったんですか?

 【回答】
 朝鮮との戦いに九鬼水軍は投入されてないし,村上水軍の本家筋は織田信長との戦いで消耗し,ロクに再建されてなかったので,小さな水軍衆の寄せ集めしか投入されてなかった.

 というか,ありゃ所詮瀬戸内海のような内海用の軍船.
 外洋でまともに使えるものじゃない.
 九鬼水軍や村上水軍には,瀬戸内海や沿岸航行の為の戦舟しかなく,日本丸も既存の安宅船を大きくした物に過ぎない.
 地元で戦う李氏朝鮮に利が有るのは当然なんだ.

軍事板

信長の軍船の復元図
たしかにこれで日本海を渡ろうとすると,荒天で簡単に転覆しそう
(出典はおそらくNHK『そのとき歴史は動いた』)


 【質問】
 壬辰倭乱で李舜臣将軍が何万人の倭人を殺したか教えてほしい.

 【回答】
 七年間の朝鮮役の間,李舜臣指揮を含めた朝鮮水軍と明水軍の攻撃による日本軍の戦闘死傷者総数は数百人から数千人の規模(最大でも五千人前後)と考えられます.
 また,李舜臣の攻撃で日本軍の補給や連絡が恒常的に遮断されたことはなく,極短期間の攻撃時間以外で補給連絡線の制海権を維持できたことはありません.
 二次的な船腹不足に影響が無いとは言えませんが,海象による事故や寿命の自然減耗に比べるほど戦闘消耗は激しくありません.

 さらに,日本軍には廻船補給計画は元々存在せず,例え朝鮮水軍が存在していなくとも,陸上作戦的な海岸支配と技術的な海路開拓の問題により,漢城方面への海路補給が成立することは非常に困難です.

 李舜臣に対する評価は戦争指導指揮を行なっていたのが明であり,朝鮮独自の勝利ソースの少なさと李舜臣の属した派閥の評価から朝鮮内部で珍重されたこと,それの日本での江戸時代の受け売りと豊臣失政というレッテル貼りが罷り通ったこと.そして,明治以降のマハンの海上権力論を奉戴して海軍権益を拡充した帝国海軍の宣伝が原因となっています.
 これが権威となり,詳細研究や先行研究批判が充実しないまま戦中に頂点を迎え,戦後の史観へ退凋します.

 つまり李舜臣への幻想は,朝鮮役という戦争全体の研究不足が原因となっています.

軍事板

(画像掲示板より引用)



 【質問】
 亀甲船は日本艦隊に大損害を与えてはいないのか?

 【回答】
 与えたとは考えにくいでしょう.

 朝鮮水軍が海戦で使う基本戦術は,敵船を焚滅あるいは撞破する事でした.
 焚滅は,文字通り火を掛ける事で,一定の距離を保ちながら火箭を射て火を付けて沈没させる事を言います.
 一方の撞破は,体当たりの事で,敵船と正面衝突したり脇腹で接触して沈める方法になります.

 日本の水軍の場合,接近しての船戦には強かった為,板屋船は,撞破よりも焚滅の方に重点が置かれています.
 一方の亀船は,敵船団に突っ込んで引っかき回すのが戦法だった為,撞破を多用しました.

 火力的には同じ様なものですが,構造の違いからこの様な戦法の違いが出て来てた訳です.

 但し,火力は同じと言っても,亀船は接近戦が主なので,敵船に近づいて発砲出来る長所がありました.
 一方で,発射する場所は天井が低く,砲の取り回しは狭苦しく,接近しなければ命中は期待できません.

 板屋船は,敵船に容易に近寄れませんが,上甲板に占めた火器の発射位置は高くて命中率が良く,砲の取り回しも広い場所で行えた訳です.

 この様に接近戦に特化した亀船ですから,敵軍が不用意に攻め懸ってくれば,接近戦に持ち込めるので,大いに活躍する事が出来ます.
 壬申倭乱初期の海戦での活躍は,正にこの奇襲戦法の為に大きな戦果を挙げうる事が出来ました.
 しかし一旦,この戦法が敵に周知されてしまうと,朝鮮水軍が発見されるや,敵軍は迂回戦法を採る様になり,戦果は激減する事になります.

 結局,壬申倭乱を通じて亀船は3隻しか作られなかったと言うのは,この点に有るのかも知れません.

 19世紀に入って亀船が激減したのは,陳腐化したのもさることながら,壬申倭乱当時の亀船の大きさから見ると一回り大型化して,戦船と大して変わらない大きさに成った事が挙げられます.
 壬申倭乱当時の亀船は,船体長さ21.5m,底板長さ15.3m,船体幅7.36m,上粧の幅9.2m,櫓の数14本でしたが,18世紀後期の亀船は,船体長さ27.6m,底板長さ19.9m,船体幅7.4~8.6m,上粧の幅9.2~10.4mになっていました.

 しかし,この大きさの船体内部に,櫓を漕ぐ人間と戦闘員とを同一平面上に置くというレイアウトを採っており,内部の居住性は極めて悪く,果たしてこれで上手く戦闘や機動が出来たのかと言う疑問はあります.
 戦船の方は,構造物を2層に分け,上部が戦闘甲板で戦闘員が戦闘する場所であり,砲などはこちらに置かれています.
 下部には櫓を漕ぐ人間が収納されており,彼らは戦闘員に邪魔されることなく,櫓を漕ぐ事だけに専念できました.
 考えてみても,こちらの配置の方が合理的です.

 しかも,この大きさの船に120~150名程度の乗組員が乗る訳です.
 これで上手く戦闘出来るのでしょうか….
 こう考えると,壬申倭乱の際に,12隻の船が300隻の日本艦隊を撃破するのは至難に思えてくる訳ですが….

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月29日21:50


 【質問】
 文禄・慶長の役において,なぜ日本の水軍は,制海権を確保できなかったのか?

 【回答】
 韓船と言うのは一般的に大型艦船で,小艇中心の編制を組んでいた日本船を圧倒した訳ですが(亀船が圧倒したと言う訳ではなく,あくまでも艦隊全体で圧倒したという意味で),どうして大型艦船を装備したのかと言えば,紆余曲折があったからです.

 元々,李氏朝鮮初期の軍船は高麗から引き継いだ猛船でした.
 これもそこそこ大きかったのですが,猛船そのものの基本構造は,倭寇が下火になった頃に構想されたもので,軍民両用に使用出来る漕運船から発展し,民間用にも使用出来ると言う事は,戦闘に特化した訳ではなく,どちらかと言えば物資輸送をメインに考えていたものでした.
 よって,倉庫を設ける為に,物資輸送に邪魔になる横方向に張る加龍木などの横木はそんなに多くなく,元々が帆走が主体だったものに,風の無い時でも航行出来るように櫓役用設備を取付け,更に戦闘用の足場を追加したものです.
 卑近な例で言えば,ガンダムに出て来たチベ級重巡洋艦みたいなものですわな.

 この猛船が規格化,量産されて朝鮮水軍初期の主力船になっていたのですが,1510年に発生した三浦倭乱では,この民間船に毛が生えた程度の猛船では,全く役に立たない状況でした.
 そして,1540年頃には再び倭寇の侵攻が活発化し,この頃には倭寇は中国の寇徒から齎された火砲や火薬兵器で武装し始めます.
 また,船の構造も堅固になり,銃筒の使い方も巧みで,朝鮮軍は太刀打ち出来ませんでした.

 こうした朝鮮にとっての戦乱の時代になると,平和な時代に建造された輸送兼用の猛船に対する批判が高まり,水軍は仕方なく猛船を諦め,10名程度の軽快船で戦闘をしようと試みました.
 最初はこの計画は上手く行くかに見えましたが,倭寇は1520年代には大猛船と同程度の大きさの船に火砲を乗せ,更に1555年の乙卯倭変では,それよりも大きな船を用いて侵攻し,小型軽快船は全く役に立たなくなってしまいます.

 その乙卯倭変の発生を切っ掛けに,再び大型船への回帰を行い,接戦をせずに敵を見下ろして間接武器で制圧すると言うコンセプトの板屋船が建造された訳です.

 この板屋船は朝鮮水軍に於て初めて戦闘専用に建造された軍船で,それから後の亀船,戦船など各種軍船のタイプシップになったものなのですが,この特徴は,従来の猛船が甲板一つの平船で,精々が甲板上に楼閣を建造していた程度に過ぎなかったのが,上粧を作って甲板を二層にしたことでした.
 二層にする事で,上層甲板は戦闘甲板として戦闘員が出入りし,もう下層甲板は航海甲板として櫓軍を収納する事が出来ます.
 下層甲板に櫓軍を収納すると言う事は,敵に露出することなく櫓役だけに専念出来るのですが,これは平船に比べると,櫓軍が戦闘への恐怖心を余り持つ事が無いと言う事と,戦士が恐怖に駆られた櫓軍に邪魔されずに戦闘に専念出来ると言う利点があります.

 また,上層甲板に戦士を配置する事で,敵を高い位置から見下ろして戦える様になった事と,壁が高くなったので,敵の接近戦戦術を控える事が出来るようになりました.
 これは日本の得意戦術である接舷戦闘を妨げる効果があり,高い場所に作られた砲台からは,命中率の向上が期待出来ました.
 これが,壬申倭乱で朝鮮水軍が数的に劣勢ながらも,日本の水軍に屡々勝ちを得る事が出来た要因でした.

 例えば,壬申倭乱で行われた海戦の内,玉浦海戦では板屋船28隻,挟船17隻,鮑作船46隻に対し,日本水軍は各種68隻でしたが,朝鮮水軍で戦力になるのは板屋船28隻だけです.
 挟船は伺候船の事で,連絡とか偵察をする小型艦艇.
 鮑作船は近隣漁村から徴発した漁船で,戦闘能力はありません.

 一方,唐浦海戦は,板屋船51隻に対し,日本水軍は各種軍船71隻で,日本水軍は関船が主力だとするならば,「圧倒的じゃないか,我が軍は」(by ギレン)な状態です.

 閑山海戦でも板屋船54隻に対し,日本水軍は大船36隻,中船24隻,小船13隻となっており,これまた隻数では勝るものの,実質的な戦力では日本を凌駕しています.

 最後の釜山海戦でも,亀船3隻,板屋船74隻,挟船92隻に対し,日本水軍は400隻に達しています.
 とは言え,この400隻の大部分は多分物資補給用の兵船であり,戦闘用艦艇の多くが小早や関船であろうと推定出来ます.
 兵船そのものは,それこそ,朝鮮水軍初期の猛船みたいなものでしょうから,実際に戦闘をした場合は,朝鮮水軍の方が圧倒的な強さを誇る可能性が否定出来ませんね.

 閑山海戦を戦った脇坂水軍の記紀には,
「朝鮮水軍の艦船は大きく,対する日本船は小さすぎて対抗するのが難しかった」
とありますし,豊後臼杵太田家の家来である大河内秀元の従軍記録である「朝鮮記」では,板屋船に対して,
「出撃した我々が各々板屋船の下に取り付いても戦隊が大きいので,二間柄の槍でも届かず,船に飛び込む事が出来ない.
 小銃を雨霰と撃ちかけて櫓役出来ない様にし,火箭を船内に撃ち込んで混乱を起こさせ,漸く勝利を収めた」
とあります.
 …にしても,昔から日本人のDNAには肉薄攻撃しかなかったのね….

 此処からIFになりますが,日本水軍の根拠地は,船の材料の多い巨済島を抑えていました.
 もし本格的に日本が制海権を握ろうと考えたのならば,この場所で板屋船的な船を多く建造し,砲を装備すれば,兵の士気や戦闘能力は遙かに上を行っていたのでしたから,あるいは朝鮮半島の制圧は容易に行ってしまえたかも知れませんね.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月11日22:06


 【質問 kérdés】
 秀吉軍に対し,李氏朝鮮軍の抵抗が微弱だったのは何故?

 【回答 válasz】

 朝鮮では国王に仕える文班(文人),武班(武人)をあわせて両班といい,支配階級だった.
 科挙で採用,両班を取り立てる制度は,いっけん合理的に見えたが無能の見本.
 いわば
科挙=上級公務員試験
両班=キャリア

 西洋人の宣教師からみた朝鮮社会は
「幼少の頃から官吏の道に向かって勉強してる・・・生活能力もない無能な若者がほとんど・・・
 彼らは,あまりに高慢,かつ世間知らずで,罠と奸計のなかで生きる」
 腐敗した官吏の支配する国土は荒れ果てて,「赤池千里,野無青草」という惨状になった.

 秀吉公は,飢饉に苦しみ国庫が空っぽの朝鮮の足元をみて,なめきっていた.
 使節を降伏とみなし,「自分が兵を率いれば大明は亡ぶ」と威嚇した.
 朝鮮使節の正使は震え上がり
「恐るべき人物である.兵禍はかならずおこる」
と報告したが,副使が反対した.
 じつをいうと正使は西人派,副使は東人派の人間であった.
 派閥のあらそいである.
 執権は東人派であったため,侵攻の事実は無いことになった.

 ところが秀吉公は無学であったかもしれないが,理財的な頭脳の持ち主で,死後に残された目録によると,各地の金や銀の貨幣経済を研究して,米も相場の高いときに換金しろと指揮するほどだった.
 米や銭のほか,年に黄金だけで数万枚が積み上げられた.

 ・・・いざ,日本軍が進攻してくると..朝鮮には20万の兵がいることになっていたが,なんと全てが嘘であることがわかった.
 国王は,巡辺使(将軍)をただちに派遣したが,都には300人しか兵がいなかった.
 20万というのは帳簿の上のことで,予算は「清貧」を誇る官吏たちが掠め取っていたのだ.

 巡辺使は,なんとか800人を集めたが,日本兵が鉄砲を一発鳴らすと,戦場から馬で逃亡した.
 そして,安全な場所に着いたのち,紙と筆をもとめて国王に上書した.
 兵が全滅するまで戦ったことを,華麗な筆と美麗字句で埋まった形式どおりの名文で弁解する.

 上にへつらい,白を黒とねじまげる官僚社会の体質は,いまと変わりませんな・・・.

軍事板,2003/04/14
"2 csatornás" katonai BBS, 2003/04/14

青文字:加筆改修部分
Kék karakter: retusált vagy átalakított rész


 【質問】
 晋州城(チンジュソン)の戦いについて教えてください.

 【回答】
 文禄の役における攻城戦.
 開戦以来2か月,日本軍は李朝軍の主力を粉砕し,北方への進撃も予想外に進んだため,釜山から漢城への侵攻路から外れていたため攻撃していなかった晋州城を,余勢を借(か)って攻略することにした.
 文禄元年(1592年)9月,日本軍は細川忠興,長谷川秀一,木村重茲などの2万弱の軍勢を編成し,釜山を出発して進撃開始.
 9月23日に道中の昌原において,慶尚右兵使・柳崇仁の軍勢を撃破して,柳崇仁は敗死.
 10月4日,日本軍,晋州城包囲を開始.
 同月6日より攻撃開始.
 しかし,堅城をもって知られた晋州城は,金時敏ら城兵約3800人,および多くの避難民が城内で防戦に努めた.

 金時敏は日本の銃戦術の強さを取り入れようと,あらかじめ170余挺の銃を鋳造し,また硝薬150余斤をつくって,兵に操射の訓練を施して備えていたという.
 また,城外では郭再祐などの慶州道義兵約1200が日本軍の背後を攻撃.
 7日夜には,救援部隊約2500が到着したため,日本軍は一時攻城を中断して朝鮮軍を牽制.
 10日朝より攻撃を再開したが,晋州城は容易に攻略できないと判断し,長期戦を厭って退却した.
 これが第一次晋州城戦.

 その後,和平交渉が進展すると,和平条件でもあった朝鮮半島南部の獲得を既成事実とするため,秀吉は晋州城方面と全羅道の征服を図った.
 このため起きたのが第二次晋州城戦.
 日本軍の主力は,漢城から釜山周辺へ移動した事で,兵力と補給の問題が解消.
 日本軍は約4万3千の晋州城攻略軍を編成した.
 第1次攻略が失敗だったので,秀吉はその威信をかけて,大軍で攻めさせたのである.

 対する守城側では意見がまとまらず,籠城を主張する倡義使・金千鎰(義兵)に対し,明軍は晋州城防衛に不同意.
 その上,朝鮮軍内部でも方針は分裂し,西人派は籠城を主張し,東人派は消極的だった.
 結果,最終的に晋州城内へ集結した兵力は,李氏朝鮮軍約7000と避難民だけとなる.
 しかも,第一次晋州城戦の中心人物であった金時敏は,そのときに日本軍の鉄砲によって重傷を負って,その後死亡しており,既にこの世の人ではなかった.

 文禄2年(1593年)6月14日,日本軍は昌原より進撃を開始し,咸安を経由して宜寧に集結していた平安巡辺使・李賓(正字は草冠に賓),全羅巡察使・権慄,全羅兵使・宣居怡などの李朝軍を敗走させた.
 6月21日,日本軍は晋州城を包囲すると,攻城用の高櫓を作り,濠の水を南江に落とす土木工事開始.
 6月27日,宇喜多秀家が降伏勧告を行ったが朝鮮側は拒絶.
 29日,亀甲車を用いて城壁を突き崩すと,黒田長政配下の後藤基次や加藤清正配下の森本一久らが突入し,晋州城を攻略した.

 【参考ページ】
http://take8592goole.wiki.fc2.com/wiki/%E6%99%8B%E5%B7%9E%E5%9F%8E%E6%94%BB%E9%98%B2%E6%88%A6
http://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E6%99%8B%E5%B7%9E%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
http://san01.blog26.fc2.com/blog-entry-145.html
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/korea.htm

戦国板,2011/07/25(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 惟政って誰?
Ki az Yujeong?

 【回答 válasz】
 惟政(ユ・ジョン 유정,1544年 - 1610年)は李朝朝鮮の僧.
 尊称は「松雲大師」.
 居所にちなみ「四溟堂」とも号する.
肖像画 - wikipediaより)

 明宗は即位時幼少だったため,実母・文定(ムンジョン)王后が8年間,「垂簾政治」を行ったが,王后の行ったことの一つに,科挙に「僧科」を復活させたことだった.
 惟政はこの僧科の禅科に及第した傑僧である.

 文禄・慶長の役がおこると,朝鮮国王・宣祖は僧たちにも抗日戦を命じ,西山大師休静を八道都総摂に任じたが,休静は老齢であったため,この任務を惟政に託した.
 当初,義僧兵と分類される僧兵は2千余人.
 惟政は順安に本陣を置き,京城-平壌間の秀吉軍の輸送連絡の遮断に当たったという.

 1593年の明への報告では官軍8万4千,義兵2万2千(義兵将123人),そして義僧兵が数千人存在したとされている.
 同年1月の明将・李如松らの平壌攻めでは彼ら義僧兵は攻城の突破口を開き,さらに南下追撃.
 権慄ら朝鮮軍のみでの幸州山城戦では義僧兵は西北斜面を防衛し切ったという.

 秀吉軍が沈惟敬の講和話に乗って京城を明け渡した後は,義僧兵軍は慶尚道に南下し,南岸に長期駐留する秀吉軍と対峙.

 官軍はテンデダメ,義兵軍は反乱軍のようなものまで含めてさまざまだが,郷土防衛軍でその強さは官軍よりはるかにマシ,義僧軍は壮丁(独身男子)で義僧軍は義兵軍よりさらに強く,しかも朝廷に忠実だったという伝承が,様々残っている.

・義兵は指導者は両班層,その地の名望家,儒教思想を共有.
 自発的で官軍に掣肘されない.
 兵士は血縁村落共同体で郷土防衛的.
 課役減免・身分上昇願望.
 両班層から賤民まで広い身分層から成る.

・義僧兵は指導者は仏教徒,仏教を共有.
 僧階層組織で上下統制あり,また広く全国組織を活用.
 生活の場が山岳,身体頑強で山間地理に通暁,自給自足の生活技術集団.
 妻子なく後顧の憂いがない.
 自発的武装集団だったが国家の統制に従い,
「義兵の反政府蜂起例は多いが,義僧兵将で反政府的蜂起の例は見当たらない.」
「実績に比べて叙位任官身分上昇の点で義兵より更に冷遇された.儒教官僚の恣意的な無視過小評価だ」
 身分は限定されており,兵絶対数は義兵より少なかった.

と評価されている.

 また,惟政は加藤清正や徳川家康と会談して講和交渉を行うなど,外交面でも大きな役割を果たした.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/42148450.html
http://blog.goo.ne.jp/mayumiakane1962/e/8b9d629140f3101aeadb6efb110d6554
http://www.jyofukuji.com/11-tyosen/2002/09.htm

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/17 20:00
を加筆改修


 【質問】
 秀吉が死んで朝鮮から撤兵という流れになった訳ですが,戦い続けていても泥沼で敗色濃厚という状況だったのですか?
 撤兵という選択がなされたということは,無理が出てきていたのだとは思うのですが.

 【回答】
 朝鮮から撤兵せずに戦い続ければ,ただでさえ破綻が見えていた補給は断絶し,弱りきった日本軍に明・朝鮮軍と現地住民が襲いかかってせん滅する可能性すら考えられる.
 豊臣秀吉が死んだ後に,補給に携わっていた商人や大名が協力するとは限らない.
 対価を取り損ねる可能性があるので.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 織田秀信が成人してしかも秀吉が死んだあの時期には,清洲会議の約定(秀信が成長するまで秀吉が後見を~)に基づく豊臣→織田の政権返還は,実情的には勿論,名目上でも成り立たない論理となってしまっていたですか?

 【回答】
 小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んだ織田信雄を懐柔するために,秀吉は織田家の家督相続者を信雄とすることを了承.
 信雄は織田家宗家となることを条件に,秀吉との和睦の道を選んだ.
 これにより織田家の家督は,秀信からその叔父信雄へと移り,秀信は秀吉の養子としてその保護を受けた.

 秀吉が柴田勝家を破ったあたりから,織田政権そのものが瓦解してたからね.
 秀吉自身,関白太政大臣にまで登って,信長の生前の最高位である右大臣を越えてしまっていたし.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 豊臣七将の石田三成襲撃事件について教えてください.

 【回答】
 同時代の僧侶である梵舜の日記『梵舜記』によれば,『七人之大名衆三成を襲撃しょうと謀る』.
 この七将とは,石田三成らいわゆる「文治派」と対立していた,いわゆる「武断派」の加藤清正,池田輝政,蜂須賀家政,福島正則,藤堂高虎,黒田長政,細川忠興だと言われているが,文献によっては浅野幸長や加藤嘉明,脇坂安治などが入っているものもある.
 池田輝政の代わりに浅野幸長を入れたりと,中心メンバーの5人以外は,誰だったのか確定してないらしい.
 「武断派」は,いずれも朝鮮での戦闘行動や論功行賞などで,三成に恨みがあった,
 7人は慶長4年(1599年)閏3月3日,前田利家の葬儀のときを狙って,大坂で決起し,三成を襲撃.

 しかし事前に三成は情報を察知.
 三成と懇意だった佐竹義宣が,女乗り物(女性が乗る輿)に三成を乗せ,取りあえず宇喜田家の屋敷に行き,その後佐竹義宣と三成は伏見に向かった――と,『慶長見聞録』にはある.
 伏見城には治部少輔丸と呼ばれる,三成が管理を担当する曲輪(城内の区画)があった.
 治部少輔丸には石田家の伏見屋敷もあり,三成はここに入ったらしい.
 そこを,三成を追ってきた七将に囲まれた.
 そこで佐竹義宣は,伏見城から少し離れた向島にあった徳川屋敷に行き,事態の解決を依頼した――と,これも『慶長見聞録』にはある.
 「三成が直接,家康に助けを求めた」という俗説は,事実ではない模様.

 結局,家康は,朝鮮の役に於ける戦いの査定の見直しを約束すると共に,三成を引退させることで,七将に兵を収めさせ,騒擾を鎮めた.
 『言経卿記』によれば,三成は隠遁したことに,京・伏見の方々が喜んだという.
 どれだけ嫌われていたんだ,三成.

 【参考ページ】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10100036950
http://roadsite.road.jp/history/kiso/kiso2-sekigahara/kiso2-sub01.html
http://yururi.aikotoba.jp/samurai/history/1599mitsunari.html

【ぐんじさんぎょう】, 2014/01/16 20:00
を加筆改修

316 名無しさん@お腹いっぱい.[] 投稿日:2006/10/01 00:42:16  ID:1tG07OJg(2)

【おれたちの嫌いな三成】
 お国言葉で七将襲撃

ピンポーン!(家康伏見屋敷)
清正(尾張)「武断派代表の加藤だけどよう,三成さん,みえなさる?」
正則(尾張)「三成ーっ!こんたぁーけ! おみゃぁ,首でも洗って待っときゃあ!」
長政(播磨)「三成ーっ!どこどいや!はよ出てこんかい,このダボケツ!」
忠興(山城)「三成はーん!どこにおらはりますのん?居留守はあきまへんって!  はよう出てきなはれー,このあほう!」
家政(尾張)「三成ーっ!おみゃぁ,人の言うこたぁええ加減に聞いとるでにゃぁよ!」
輝政(尾張)「三成ーっ!おみゃぁ,そんなことしとったらだちゃかんがねー」
嘉明(三河)「三成ーっ!おしはこすい奴だなー」
清正(尾張)「三成ーっ!いい加減だがやしあらすか~と,殺すぞー!」
正則(尾張)「三成ーっ!わしはおみゃあにどえりゃ~頭だがやきたぞ!」
長政(播磨)「三成ーっ!このくそダボが! まだそこに居るのんは,わかっとーのんじゃー!」
忠興(山城)「三成はーん!いつまでうちら待たせるおつもりですのん? ええかげんにしておくれやす! あんたはんがそこにおらはるんは,うちらにはようわかってますのやー」

輝政(尾張)「あのよぉ.微妙なのが一人ほど混じっとるでにゃあか?」
嘉明(三河)「細川越中,おしはいせてやっとるだら?」
忠興(山城)「いややわぁ.うちは皆さんと違うて氏も育ちもええから,ついついこんな時でも優雅になってしまいましてなぁ」
家政(尾張)「長政の言葉,柄が悪すぎじゃあらすか~か?」
忠興(山城)「黒田甲州はヤクザみたいで,ほんま,品があらへんなぁ…」
長政(播磨)「じゃかましいんじゃー!越中もいてまうどー!」


 …七将襲撃を出身地のお国言葉でやってみたら,細川越中,浮きまくり.
 教養人で武家貴族な細川が,他の6人とどうやって話を合わせてたのか,前々からごっつい疑問.
 あんのか?,話題.
 妻の自慢か?
 長政は方言で喋らせると,三成襲撃してても全然違和感なかった.
 むしろ,武断派の中で一番ヤクザっぽくなった…
 どの方言もネイティブじゃないので,いろいろ間違ってるけど勘弁して.
 播州は父方の故郷なので,悪意はないよ(笑

戦国板,2006/10/01
青文字:加筆改修部分


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