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◆湾岸戦争 Öbölháború
戦史FAQ目次


 【link】

●書籍

『司令官たち 湾岸戦争突入にいたる“決断”のプロセス』(ボブ・ウッドワード著,文藝春秋,1991/06)

 軍事板って感じではないが,戦争へ突入するまでのプロセスが良く解る.
 チェイニー,パウエルが米政権にいる現在,是非読んでほしい.

------------軍事板,2001/05/05(土)

『〈図説〉湾岸戦争』(学研,2003.4)

『ブラヴォー・ツー・ゼロ』(クリス・ライアン著,原書房,1996.12)

 今更ながら読んでみたり.

 全体通して面白いが,個人的に興味をそそったのは,命令が下りて,具体的な作戦立案を,チームで話し合いながら決めている部分.
 冗談も交えて話しながら,スカッドの移動式発射台を破壊するときに,管制センターのドアが閉まっていた際,取っ手の場所,開き方,蝶番,錠前の有無といった細々としたことまで考えている.
 移動手段や支援攻撃なんて大掛かりなものまで,8人で決めてる.

 もう一つ興味深かったのは,2両のAPC+歩兵に対して,著者ら8人の部隊が積極的に攻撃していた場面.
彼我の戦力差に開きがあったりと不利な状況でも,双方の士気,練度如何によっては勝てるのだなぁと感心した.
 イギリス軍は今世紀に入っても,何度か銃剣突撃を行っているが,銃の信頼性以外にも,実から得た教訓があるのだろうかと思った.

 何よりも著者本人の,不利な状況に陥っても諦めない姿勢が読んでいて非常に気持ちよかった.
 特殊部隊物は作戦の中身も凄いし面白いが,当事者自身から感銘を受けることが多いな.

 歩兵としての戦い方やプロ意識を知るには,最良の本だと思う.

――――――軍事板,2011/07/27(水)
青文字:加筆改修部分

『山・動く 湾岸戦争に学ぶ経営戦略』(W.G.パゴニス著,同文書院インターナショナル,1992/11)

 湾岸戦争の補給の話.
 でも,どこの本屋でも見たこと無いです.
 私は取り寄せ.
 出番を失った第377司令部哀れ成り(笑

------------オ-プンエンド:軍事板,2001/06/03(日)

 【質問】
 湾岸危機(湾岸戦争)とは?

 【回答】
 1990年8月2日に,イラクがクウェートに侵攻して始まった戦争.

 そもそもイラクは,クウェートを「植民地主義者の人為的構築物に過ぎない」と見ており,単独の国家たる資格なしと主張していた.(むちゃくちゃだが)
 実は1961年にもクウェートを占領しようとしたんだけど,この時はイギリスに止められて挫折している.

 このイラクのような「植民地時代の国境は無意味だ」という主張は,もし,それが受け入れられるのだとしたら,植民地後の世界に大混乱をきたすことになる.
 その面からも,国連で多くの国はイラクの論理を否定していた.

 そのイラクがクウェートに侵攻した背景について,ナイ教授は以下のように分析している.

--------------------------------------------------------
 いずれにしても,湾岸危機にはさらに深い経済的・政治的理由もあった.
 イラクはイランとの8年に及ぶ戦争で経済的に疲弊しきっていた.
 800億ドルもの負債を抱えており,負債は毎年100億ドルずつ増加していた.

 それと同時に,イラクのすぐ隣には金鉱があったわけである.
 人口わずかなクウェートの,莫大な石油資源である.

 さらに,クウェートの石油政策に対してイラクは怒り狂っていた.
 イラクは,クウェートはOPEC石油合意をごまかしていると主張し,石油価格が1バレル1ドル低下するごとにイラクは年間10億ドルもの損失になるのだと訴えていたのである.
 したがって,クウェートを取ることは,イラクの経済問題の解決に繋がるように見えたのである.

 政治的には,サダム・フセインはイラクの安全保障を心配していた.
 彼には,誰もがイラクを困らせているように見えた.
 1981年には,イスラエルがイラクの研究用原子炉を爆撃していた.
 ソ連の力の低下により,アメリカとイスラエルがかつてないほど強力になっていくように見えた.
 1990年2月にヨルダンのアンマンで行った演説で,ソ連は衰退し,もはやアメリカとイスラエルに対抗できない,とサダムは語っていた.
 サダムは,自らで対抗するしかないと信じるようになったのである.

 彼は,アメリカをテストするためにいくつもの行動をとって見せた.
 皮肉にもアメリカはサダム・フセインを宥和し,責任ある国家の共同体に引き戻し,地域におけるイランの力への有効なバランスとして利用しようとしていた.
 この整合的でないアメリカの政策に,サダム・フセインは誤って導かれ,クウェートを侵略しても大した報復は受けないで済むだろうと考えていた.
--------------------------------------------------------

 だけど,この考えは致命的に間違っていた,
 数度の国連決議では,イラクに対して集団安全保障のドクトリンを適用し,多国籍軍を組織した.
 この理由について,ナイ教授は以下のように述べる.

--------------------------------------------------------
 アメリカや他の諸国はなぜこのような反応をしたのだろうか.

 石油のためだ,という議論があげられることがある.
 たしかに,石油輸出によって,湾岸地域がとてつもなく重要な地域になっていることは間違いない.
 しかし,この危機については石油以上のものがあった.
 たとえば,イギリスはこの戦争に深く関与したが,イギリスは石油の輸入国ではない.〔石油に加えて〕集団安全保障についての問題意識が強かったのである.

 そこでは,1930年代に侵略に対して立ち上がらなかったことの反省が反響していたと言えるだろう.
 さらに第三の次元があった.予防戦争である.
 サダム・フセインは大量破壊兵器を建設していた.
 彼は秘密裏に輸入した物資を使って核兵器計画を進めていた.
 彼は化学兵器を保持していたし,生物兵器を開発しつつあった.
 もしサダムが,これらの兵器に加えてクウェートの石油からの収入を得ることができれば,1990年代後半に世界は,より巨大でより強大かつ破壊的なイラクに直面することになったであろう.
 いずれ戦争をしなければならないのであれば,後になってするよりも今したほうがいい,と論じた人々もいたのである.
 他方,経済制裁でクウェートからイラクを撤退させることができたはずだから,戦争は不必要だったのだという論者もいる.
 この反実仮想は,証明が困難である.
 だが,歴史的に制裁が短期間で所期の効果を挙げることは稀である.
--------------------------------------------------------

 だが,サダム・フセインは撤退どころか,他の政略手段をとって,逃げの一手を打つこともしなかった.
 なぜか?
 フセインは,「アメリカ人は大きな犠牲に耐える根性などない」と誤算していたのが一つの理由としてある.(どっかの島国みたいなこと言ってるな)
 これは,ヴェトナム戦争でのアメリカの対応を見ていたのもあるようだ.

 他にも,自分のプライドとか面子とか,自分が世界におけるキープレイヤーになりたいといった野心もあったんだろう.

<まとめ>

・湾岸戦争の原因は経済的な背景も大きい.(イランとの戦争でイラクは経済的に「もうだめぽ」な状態だった.

・さらにクウェートが石油価格を引き下げたので,イラクが切れてしまった.

・フセインは,アメリカに対して,いろんなテストを行ったが,アメリカの行動を読みきれたわけではなかった.

・イラクはWMD(大量破壊兵器)を製造していた,これに対する予防戦争という側面もある.
 1990年11月には,アメリカがサウジアラビアにおける兵力を2倍に増強,イラクに直接的な軍事的圧力をかけ出した.

・湾岸戦争でいろんな国が結束したのは,WW2でヒトラーに対する対応の失敗も想起されたからである.

 まぁ,国が戦争を起こすときは,だいたい楽観論に逃げ込む場合が多いね.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 湾岸戦争のことを知るに良い本を教えてください.

 【回答】

陸軍…湾岸戦争 砂漠の嵐作戦(東洋書林)
空軍…現代の航空戦 湾岸戦争( 〃  )
がお勧め.
 どちらも著者は米軍の戦史担当,翻訳者(の一部)は防衛庁の戦史担当です.
 海軍の戦史は見たことがありません.

軍事板,2001/08/26
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 湾岸戦争は,フセインが侵攻したようだが,実際はクウェイトが中立地帯の油田を侵略したのが最初.
 それなのに国際社会はクウェイトを非難せず,報復したイラクを非難し,湾岸戦争を起こした.

 【事実】
 イラクとクウェイトの争いは,ワルバ島を巡る長年の領有問題があった上に,「クウェイトは,原油増産によって価格を急落させた元凶」「両国にまたがる油田からクウェイトが盗掘している」とフセインが言い出し,さらにはクウェイト自体がそもそもイラク領だったなんて言い出したのが事実.
 後者2つについては全く根拠なし.

 クウェイトが石油値上げに反対して増産路線を採っていた(UAEも同じ)のは,薄利多売で儲けようという商売方法の違いで,言わば産油国の中の100円ショップ(それでも,最終的には妥協して1バーレル=21ドルまでの値上げに応じている).
 OPECの値上げ路線そのものが,もうそんなに通用しない時代であることは,ヤマニ石油相(サウジ)が回想録の中で,
「現在では先進国は,石油が値上げされれば,石油の代替物を探すようになるから,値上げしても儲からなくなっちゃったよ.先進国の工業力なめてたぜチクショー」
てなこと書いていることからも分かる通りで,クウェイトの行為がイラクに損害を実際に与えたか,クウェイトが石油を値上げすれば,イラク始め他のOPEC諸国が潤ったかどうかは不明.

 余談だが,イラクもかつてはこんなことをやっており,クウェイトの「薄利多売」を非難できた筋合いはないのだが……

 カタールは1961年にOPECに加盟し,他の中東諸国と一致団結して,各時期における原油値上げによる石油収入増を教授した.
 特に1973年一月から発行したリヤド協定は,3ヶ国以上の批准をもって発効することになっていたが,クウェートとイラクが脱落したにも関わらず,辛うじて発効させることができた.

「ARCレポート総集 中近東諸国/1」(世界経済情報サービス,1975/6)

 盗掘と宣伝している油田も、イラクが勝手に自分の領土だと宣伝しているだけで,国際的には紛れも無くクウェートの領土内の油田。
 イラクは過去にも何回か国境線に軍を動員してこれをネタにクウェートから金をゆすっている上,70年代にも解決金として15億ドルをふんだくっている。

 領土問題についても,フセインは、英国に決められた国境線など認めないなどと虚勢を張っているが、現実問題としてあんまりフセインが国境線で軍を展開して威嚇するから、80年代くらいまではクウェートには、エジプト、シリア、サウジアラビアの連合軍が駐留してフセインを牽制していた時代もある。

 さらに,貸付金もチャラにしろと,フセインはクウェイトに要求してもいる.
 クウェートはイラン・イラク戦争中に別口で,当時のクウェートのGNPの半分にあたる150億ドルの献金をイラクにしている。
 そのうえで貸付金の100億ドルを踏み倒されたら本気で国家財政が傾くから,クウェイトはチャラにしないのであって,フセインは強欲もいいところ。

 その本当の狙いは.石油値上げによる手っ取り早い戦後復興費用調達(酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書),国内の不満をそらすことと.クウェイトの油田.そしてイラク自身の原油のペルシャ湾への積み出し港の確保だったと言われている.


 だいたい,自国に比べて強大な軍事国が隣国にいるのに,その相手に向かって軍事的挑発するような国はない.


 【珍説】
 クウェイトはもともとイラク領土だったのに,欧米諸国がイラクから港を奪う思惑でクウェイトを独立させた経緯がある.(阿部政雄
 したがって,「クウェイト自体がそもそもイラク領である」というサダム・フセインの主張は正しい.

 【事実】
 正しくない.

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kuwait/data.html

 16世紀にヨーロッパ列強が湾岸地域へ進出するようになりクウェイトの存在が知られるようになった.18世紀アラビア半島中央部から移住した部族がクウェイトの基礎をつくった.1899年英国の保護国となる.1938年に大油田が発見され.1961年6月19日英国から独立.

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html

紀元前6000年頃からシュメール人が世界で最初の都市文明を興し.紀元前18世紀のバビロニア王国.紀元前7世紀の新バビロニア王国と.古代メソポタミア文明の繁栄の地となった.
アッバース朝(750~1258年)がバグダッドを首都に定め(766年).イスラム文化が興隆.
その後.イル・ハーン.サファヴィー.オスマン・トルコ等の非アラブによる支配を経て.1920年から英国の委任統治を受ける.
1932年10月3日.ファイサル(ジョルダンの初代アブドッラー国王の弟)を王とする王国として独立.

 つまり,1932年のイラク独立の遥か前,16世紀からクウェイトという部族国家は存在していたわけである.
 アッバース朝まで遡って考えるなら別だが,そうなるとイベリア半島や北アフリカ,アフガニスタンまでが,「本当はイラクの領土である」などという無茶な話になってしまう.

 だいたい,たとえそれが歴史的に事実だったとしても,諸外国がイラクのクウェート侵攻を認めるか認めないかという問題とは無関係.
 クウェート人自身が嫌がってたんだから,フセインの言い草は噴飯もの.
 ヒトラーのチェコ,オーストリア併合でさえ,ドイツ系住民の意志という名目があったのに.(世界史板他)


 【珍説】
 アメリカのグラスビー駐イラク大使が湾岸戦争直前にフセインに対して「クウェイトを侵攻しても黙認する」と述べ.クウェイト侵攻を行わせ.イラクを悪者にした.

 【事実】
 大使は「アメリカはイラク・クウェイト間の国境紛争(ワルバ島など)には関知しない」と述べただけである.
 これは,アメリカの友好国が国境問題を抱えている場合に,その問題に対してアメリカがとる態度としては通例のものである.
 例えば日本の場合,竹島問題や北方領土問題,尖閣諸島問題を抱えているが,アメリカのとっている態度はやはり「関知しない」である.
 大使の発言を,サダム・フセインが勝手に「黙認」と受け取った可能性は勿論あるが,その場合でも,勘違いしたサダム・フセインに責任の大部分は帰するであろう.

▼ 軍事面から状況を整理する限りでも,あまり説得力があるとは思えない.

 従来,米軍の作戦計画はソ連の脅威への対応に重点を置かれており,主敵をイラクとした計画変更の動きがあったのは1989年.
 同計画のシミュレーションである,「インターナル・ルック」が実施されたのが1990年.

 湾岸戦争は1990年.
 かなりギリギリというか,間に合ってない「シミュレーションの架空報告が,現実と酷似しすぎているので,間違わないように報告には,”シミュレーション”と明記した」
なんていうエピソードも残っている.

軍事板,2009/07/09(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 以下は本当ですか?

――――――――
 イラクがクウェイト侵攻後に,CIAとクウェイト国家公安局長との非公式会談に関する書類が見つかっている.それによれば,
「イラクの経済情勢の悪化を利用して,イラクがわが国との国境を画定しようとするよう仕向けることが重要である,との点で米側と一致した.
 CIAは,彼らがふさわしいと考える圧力のかけ方を説明し,こうした活動が高いレベルで調整されることを条件に,両国間の幅広い協力関係をつくるべきだと詳述した」
とある.
 やっぱり,米国が裏で糸を引いていたのだ!
――――――

 【回答】
 まず最初に断っておきますが,諜報ジャンルというものは,それを扱った記事や本自体が,意図的に流されたミスインフォメーション工作(誤情報を与えて世論を操作or混乱させる)である可能性を常に含んでおり,本当のところは機密文書が開示されてみないと分かりません.
 ちなみに,アメリカの文書の機密解除は1950年代くらいまでのものでして,それ以降の諜報工作の歴史は推論に頼るか,または今後の機密解除を待つかしかありませんので,予めご了承ください.

 さて,ご指摘の件ですが,その文書は駐米イラク大使が国連に提出したものです.
 侵攻した側が,「この侵攻はアメリカの陰謀だ」と国連に訴えているわけで,その事実一つとってみても,怪しむに十分です.

 また,仮にその文書が本物だとしましょう.
 としますと,(1)クウェイト公安機関は,それを焼却する暇もないほどの奇襲によって占領されたということになります.時間的余裕があれば,敵に占領される前に機密文書は残らず焼却処分してしまうのが当たり前だからです.
 ドイツでも日本でも,実際に多くの文書が焼却されています.

 ところが一方,その文書には,「イラクがわが国との国境を画定しようとするよう仕向けることが重要である」とあるように,(2)イラク軍の攻撃を公安機関は事前に予想していたことになります.

 (1)と(2)は互いに矛盾しており,ゆえにその文書が本物である可能性は極めて低いと言えるでしょう.

 さらに,イスラーム圏でのアメリカの諜報能力は非常にお粗末であり,とても謀略を行う能力を有しているようにも思えません.

 元CIAのロバート・ベア氏は,その自著「CIAは何をしていた?」において,官僚的ことなかれ主義とヒューミント(人間による諜報)の劣化と,エイムズ事件の余波とで,殆どアメリかが盲目になっている現状に警鐘を鳴らしています.
 同著によれば,湾岸戦争後の1996年でさえ,35人のイラク作戦班の内,10%がアル中,別の10%が「お荷物」,5人に2人は契約で仕事に復帰した退職者で,残りはイラクに無関心という連中,だったとしています.

 同著を裏付けるように,ニューズウィーク日本版'03年2/12号は,「ずっこけスパイ大作戦」と題し,いかにいい加減な情報源に米諜報機関が頼っているかを指摘していますし,また,パウエル国務長官が,「イラクが査察に非協力的」として提出した証拠が,どれも確証と言えるようなものではなかったり,すぐに見破られるような捏造証拠だったりしたことも,米の諜報能力の劣化を物語るものと言えるでしょう.
 真に迫った捏造書類一枚作れないような機関が,イラクという,それなりにしっかりした防諜力を持つ国(H. スマイダ『偽りの報酬』)をハメることができると思いますか?

 CIAは今日ではただの肥大化した役所に過ぎないのです.

 ここからは一般論になりますが,いわゆる大計画・陰謀が発覚するときは書類一枚では済みません.
 互いに関連し,補完しあう情報が次々に出てきて初めて強力な証拠となります.
 逆に言えば,書類や証言一つでは誰も決定的証拠とは言えないでしょう.



 【反論】
 「イラクという,それなりにしっかりした防諜力を持つ国」と言いますが,今週のニューズウィークによれば,イラクの情報機関はそれに負けず劣らずいい加減だったらしいです.
 フセイン政権の末期になると極端な事なかれ主義と縁故主義(ティクリット閥偏重)によって諜報機関としての能力が大きく低下し,情報機関のトップは部下を叱責してばかりだったとか.
 例えば,機密書類に情報提供者の名前を明記したり(情報源の秘匿は諜報活動の基本!),身分を隠さなければならないはずの諜報機関の人間が身分の証であるバッジを一般人に見せびらかしていたりもしていたそうです.
 その他にも,情報部員が一般人を虚偽のスパイ容疑でからかうと言う悪戯をしたのですが,その際に残った電話の発信記録から電話番号が判ってしまい,その後情報機関の電話には口コミで広まった番号から悪戯電話が殺到したそうです.
 その他にも,フランス経由のアメリカの対イラク軍事行動に関する機密文書が途中で握りつぶされていたり,情報機関の長官が幹部を集めてアメリカの軍事行動に対する報告を求めてもまともな答えが返ってこなかった・・.
 など,イラクの諜報機関の能力が著しく低下していた事柄が書かれていました.

 イラクの諜報機関も国内に関して言えば「疑わしきは片っ端から罰せ」式の取り締まりでそれなりに反抗の芽を摘むことに成功してきたのでしょうが,外に向けた(特に対アメリカ)の諜報能力に関しては非常にお粗末だったようです.
 【再反論】
 まず,仮にイラク諜報機関の能力がいい加減であるとして,それが件の文書の信憑性を補強する材料にはならないでしょう.

 また,貴氏の引用した記事は,諜報機関内部の腐敗の例(モサドを含め,腐敗はどの諜報機関でも起こりえることです)ですが,イラクの防諜力の源泉は,イラク国民の中に張り巡らされた監視網にあります.

「職場で,学校で,あるいはサッカーチームの中で,友人同士の世間話が,結果的に重要な情報を「密告」したことになってしまうことはしばしばだ.どこに諜報機関の目があるのか分からない.うっかりすると,ほんの幼児ですら,「家庭の内情」をリークする存在になりかねない怖さがある」
「個人個人が,諜報組織を駆使して支配しようとする強大な国家権力と,一対一で対峙しなければならない」
「国家と個人の間にあるべき社会的庇護膜は,バアス党政権によって徹底的に破壊されているのである.「恐怖の共和国」の本当の恐怖は,誰が敵で誰が味方なのか,全てフセインというフィルターを通してでなければ分からないシステムになってしまったということにある」(酒井啓子『イラクとアメリカ』)

 ですから,少々の腐敗では,この監視体制はびくともしないのです.
 同じような監視体制を敷かれている北朝鮮社会が,上層部は腐敗だらけであるにも関わらず(脱北者の証言に共通),スパイが入り込むことは容易ではない,ということを考えてもらえれば,理解いただけるかと存じます.

 【質問】
 自分の持ってる資料集の,[湾岸戦争]のとこで,
影響;
 イラクがイスラエルによるパレスチナ占領と,自国のクウェート侵攻を結びつけたため,パレスチナ問題解決の必要性が認識される→中東和平会議開催

 これは,イスラエルのパレスチナ占領とクウェート侵攻がどのような点で結びついたのかわかりません.
 というよりも,パレスチナ問題と湾岸戦争を全く別問題として勉強してしまい,2つの関連が何もわかりません.
 教えてください.

 【回答】
 インチキだよ,そりゃ.
 フセインが湾岸戦争をイラクvsイスラエルを支持する国と位置づけてイラクの立場を正当化し,パレスチナ支持のアラブ諸国のイラク支持を取り付けるために,パレスチナ問題を利用しただけの話.
 実際のところは全く関係がない.
 イラン・イラク戦争で抱えた借金に困って,弱小国のクウェートを併合しようとしたのが湾岸戦争だ.
 クウェートに大国イラクと戦える戦力がある筈もなく,湾岸戦争を戦ったのはアメリカを中心とする多国籍軍だ.
 そしてパレスチナ問題は問題として,湾岸戦争と何の関係も無く,解決の必要性は認識されていたのだ.
 「結びついた」ではない.
 フセインが口実に利用しただけのこと.

 しかしアメリカが一貫してイスラエルを支持していることは,中東では子供でも知っている
 民衆には根強い反米感情が元々あるのです.

 理屈ではイラクに非があると分かっていても,感情としてアメリカの仲間になりたくないのです.
 政治家は民衆の感情を無視できません.
 無視すれば民衆の支持を失い,失脚するだけです.
 それこそがフセインの狙いです.
 要はアラブ諸国の民衆の反米感情を喚起するために作った話です.

 だからパレスチナ問題と湾岸戦争は,政治的外形的には全くリンクしていないが,アラブの民衆の感情としては全く切り放せるものではないともいえます.
 アメリカが絡んでいるという,その一点でパレスチナ問題と湾岸戦争は関係があるといえないこともない.
 その資料の執筆者は,そういう考えで湾岸戦争を題材にしてアメリカに関するアラブ民衆の感情を読者に考えさせようとする狙いで,そのようなことを書いたのでしょう.

 感情を決して軽視してはならない.
 極端にいえば感情が歴史を作ってきたのです.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 湾岸戦争のことなんですが…
 PLOがイラクを支持したのは,フセインのその,湾岸戦争=イラクvsイスラエル支持の国,という勝手な設定を鵜呑みにして,っていうのが理由ですか?

 【回答】
 いや,そういうことではない.
 フセインのデッチ上げたほら話であることは百も承知なのです.
 しかしアメリカが一貫してイスラエルを支持していることは,中東では子供でも知っている
 民衆には根強い反米感情が元々あるのです.

 理屈ではイラクに非があると分かっていても,感情としてアメリカの仲間になりたくないのです.
 政治家は民衆の感情を無視できません.
 無視すれば民衆の支持を失い,失脚するだけです.
 それこそがフセインの狙いです.
 要はアラブ諸国の民衆の反米感情を喚起するために作った話です.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 資料集の,冷戦のページで,
[マルタ会談=冷戦の終結]→湾岸戦争
となっていますが,冷戦終結と湾岸戦争の関係ってどんなことでしょうか.
「東西対立に代わり,第三世界で大規模な紛争が起こった」
ということならわかりますが,,
他にありましたら教えてください.

 【回答】
 関係ないね.
 冷戦中だってインド・パキスタン戦争や中印国境紛争やイランイラク戦争や中東戦争,ビアフラ戦争,ユーゴスラビア紛争などいくらでも紛争は起きている.
 そして,それらの紛争は必ずしも米ソの代理戦争であったわけではない.
 東西冷戦が戦争の原因となったわけでもない.
 年表で並べれば,マルタ会談=冷戦の終結]→湾岸戦争ってことになるのかも知れないが.
 イラクは冷戦の終結を待って,クウェートに侵攻したわけではない.

 マルタ会談は冷戦の終結を内外に示した象徴的な出来事ではあるが,それをもって冷戦の終結とするのが正しいのかどうかは異論があるところ.
 実質的にはもっと早く終わったとする立場もあれば,いやまだ終わってないとする立場もある.

 ともかく冷戦の終結と湾岸戦争は直接的な関係は何もない.
 ただし冷戦の終結と湾岸戦争を結びつける視点が,成立しないかというとそれも違う.
 冷戦時代の東西対立の構図に代わって,新たな対立の構図が存在することが,湾岸戦争によってクローズアップされたといえないこともない.
 それは湾岸戦争によって生まれたとはいえないが,人々の意識において浮上したという側面は否定できないと思ふ.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イラク軍がクウェートに侵攻した時に,クウェート軍は反撃したんですか? なんか,何も抵抗しないまま占拠されたようなイメージがあるのですが.

 【回答】
 反撃は行われたが衆寡敵せずだった,とクウェイト政府は主張している.
 以下,駐日クウェイト大使館のサイトより抜粋.

 当初,クウェイト政府をはじめ世界の国々はイラクがクウェイト本土を侵略するとはまったく考えていなかった.侵略するとしても,クウェイト領土内のルメイラ油田の確保と以前から触手をのばしていたブビヤン,ワルバの両島を占拠すれば,それでイラクは満足するだろうと楽観的な見方をしていた.
 だが,サッダームは見事にこの予想を覆した.
 国境を警備していた第35連隊をはじめとするクウェイト陸軍は,イラク軍の奇襲に一時混乱はしたものの,すぐに兵を立て直し,反撃に移った.
 戦いは早朝から午後まで約8時間にわたって繰り広げられ,クウェイト軍はアリー・サーレム空軍基地を死守するなど善戦を続けたが,衆寡敵せず,イラクの大軍の前に敗れ去った.クウェイト軍による組織だった抵抗戦はイラク侵攻後,約20数時間で終わり,クウェイト市内はイラク軍の戦車に蹂躙された.砲声が市内に響き渡り,各地で火災が発生し黒煙が立ちのぼった.
 こうしてイラクのクウェイト占領は着実に実施されたのだった.

 ジャービル首長,サアド皇太子をはじめとする主だったサバーハ家のメンバーと政府首脳は,市内に留まって軍の指揮をとろうとしたが,あまりにも突然の攻撃だったため,指揮命令系統が混乱し,また情報が錯綜していた.
 そうこうしているうちに,イラクの大部隊がダスマン宮殿に迫っているとの情報に接し,もはや反撃の機会は失われてしまったと判断したジャービル首長は再起を期して,一旦クウェイトを脱出する決意をした.ジャービル首長はサアド皇太子ならびに他数名の要人と共にヘリコプターでクウェイトを飛び立ち,隣国サウディアラビアに無事,脱出することができた.
 一方,ダスマン宮殿では,ジャービル首長の弟でクウェイト・オリンピック委員会委員長のファハド殿下が宮殿の警備隊を指揮して,イラク軍と勇敢に戦っていた.
 しかし,激しい銃撃戦の末,ファハド殿下は銃弾を身体中に浴び壮絶な戦死を遂げた.このダスマン宮殿の戦闘は激戦の一つであった.


 【質問】
 なぜカフジのアラビア石油鉱業所の邦人達は,開戦前に避難させなかったのか?

 【回答】
 後に社員や大使館筋から聞いたところでは,同鉱業所はサウディとの2000年の契約更改を睨み,ある種の誠意を見せる必要があったという.
 いかにも日本的発想だが,邦人らにもしものことがあれば,サウディ当局はかえって困ったに違いない.

 布施らに証言した社員によると,従業員らはシェルターとして地面に埋めた土管の中で,絶え間ない砲撃と爆裂の音を聞いた.着弾した砲弾から無数の金属片が唸りを上げて飛び散り,砲弾の直撃は避けられても,破片にやられる可能性もある.
 彼と一緒の土管の中にいたアジア系の女性従業員は,恐怖のあまり激しく泣きだし,殆ど気が触れたようになったという.

「どうしてもっと早く避難しなかったのか.避難したいと言ったのに,許可してもらえなかった.
 私は日本に帰ります.会社は辞めますよ」
 彼は憤懣やるかたない表情だった.怒りに混じって九死に一生を得た安堵感が,彼の表情を複雑にしていた.

 状況を聞けば聞くほど,全員無事だったのは信じ難い僥倖だった.
 仮に一人でも負傷していたら,あるいは何人かが不幸にも亡くなったとしたら,その後の日本の外交政策は変わらざるを得なかったのではないだろうか.

 外務省当局者は後に,
「危険になった場合は,同鉱業所を守るよう多国籍軍に依頼してあった」
という主旨の発言をしたが,これはどう考えても認識が甘い.
 戦闘の推移を敏速に予知するのは困難だし,戦争の中で多国籍軍,具体的には米軍が一企業を本当に守ってくれるのか.
 現にイラク軍はカフジに一時攻め込んで占拠したが,多国籍軍はこれを防ぐ事はできなかった.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.148-151,抜粋要約)


 【質問】
 「ナイーラの証言」とは?

 【回答】
 アメリカ下院議員の人権議員連盟の公聴会で,15歳のクウェイト人少女が,啜り泣きしながら話した証言.後にこれが偽証と判明し,スキャンダルとなった.

「私の名前はナイーラです.クウェイトから逃げてきました.見たんです.武装したイラク兵士が病院にやってきて,赤ちゃんを保育器から出して,冷たい床の上に置き去りにして死なせたんです」
と,少女は語り,ブッシュ大統領は,自らの演説の中で,この証言を10回以上は引用している.
 また,公聴会の後,アムネスティ・インターナショナルは,312人の赤ん坊がイラク兵士によって虐殺されたと発表している.

 だが,湾岸戦争後のアメリカのCBSの取材で,ナイーラという少女は,実はアメリカのワシントンに駐在するクウェイト大使の娘だったことが判明する.
 そもそも彼女は,戦争時にはクウェイトではなくワシントンにいたのだ.
 しかも,彼女の両親は王室の一族.
 この証言を演出したのは,アメリカでも指折りの広告会社であるヒル・アンド・ノートンだった.

 アムネスティは湾岸戦争後,
「イラク兵士による虐殺情報は誤りだった」
と発表するが,肝心なときに腰砕けになるのは,人道団体によく見られる弱点である.

(橋田信介「戦場特派員」,実業之日本社,2001/12/20, P.184,抜粋要約)


 【質問】
 クウェイト侵攻後,同国内でのイラク軍兵士の残虐行為はあったのか?なかったのか?

 【回答】
 あった.避難民の多くの証言がある.

 クウェイトに出稼ぎに来ていて,サウディアラビアまで逃げてきたパキスタン人電気技師(30)は,
「ジープに相乗りして逃げてきた.途中,イラク兵が約100mの距離から機銃を掃射した」
と語り,隣にいた会社員(32)は,
「イラク軍は逃亡者と見れば容赦なく殺す.女性の場合は暴行される.クウェイト国内では既に数百人の逃亡者が殺されたという情報が流れている」
と,眉をひそめた.
 別の難民は,クウェイトの様子を次のように語った.
「中心街はイラク兵が物資を略奪した後に破壊され,放火された.侵攻前のクウェイトの面影は,どこにもない.
 〔略〕
 イラク軍はイラク通貨を普及させるためにクウェイト国内の全銀行を閉鎖した.
 手持ちの金がなくなれば,飢えて死ぬしかない」
 また,クウェイト人の会社員(35)は,イラク兵とパレスチナ人による市民への暴行が続いている事を証言した.
「侵攻以来,自動小銃の音が聞こえない日はなかった.
 イラク軍はパレスチナ人に武器を与えて協力させた.
 パレスチナ人達は,他人の家で暴行や略奪を繰り返す.彼らはモスクにアラファトの肖像を掲げて,『クウェイト解放』を喜んでいる」
 〔略〕
 イラク憎しの誇張もあろうかと思ったが,後に,これらの証言は全て事実に即していることが分かった.

 検問所前で取材する内に,一人のタイ人男性が逃げてきた.25歳の会社員.彼は40℃近い暑さの中,焼けた砂の上に座り込んで,荒い息を吐いた.呼吸を静めた後で,彼はクウェイトの男達への怒りをぶちまけた.
「侵攻後,クウェイト人女性達は反イラク・デモを起こして,イラク兵に射殺されたんだ.
 男達はどんな抵抗をしたというのか.難民になるのが嫌なら,なぜイラク軍にもっと抵抗しなかったのか」

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.91-93,抜粋要約)

 そのそばで53歳の男性が,
「サダム(フセイン大統領)は人間じゃない.武力でなきゃ道理が分からないんだ」
と声を張り上げた.侵攻前はクウェイト市の病院の医療技師.今は難民達の健康管理に当たっていた.
 この医療技師の証言は,何とも恐るべきものだった.
「侵攻したイラク軍は,重病患者の集中医療装置を取り外し,薬品や酸素ボンベまで持ち去ったんだ.患者は何人も死んだ.
 12人の医師が殺され,10人の看護婦がイラク兵に暴行された.
 幼い子供の患者がイラク兵の軍靴に踏まれて死ぬのを,私はこの目で見たんだ.
 撤退期限が1月15日なんて遅過ぎるくらいだ」

(同,p.133-134)

 イラク戦争後には,イラク軍のクウェート侵攻時に捕虜として連行され行方不明になっていたクウェート国民などの処刑された死体が,イラク国内で発見されている.

 国連のカジ事務総長特別代表が2004/12/13、安全保障理事会に提出したイラク情勢の報告書によれば,
1990年のイラク軍のクウェート侵攻時に捕虜として連行され行方不明になっていたクウェート国民など346人の処刑された遺体がイラク国内で見つかったことが分かったとされている。

 クウェート政府は湾岸戦争(1991年)後、605人がイラク軍に連行されたと主張。イラクの旧フセイン政権に対し身柄の返還を求めてきたが、
同政権側は「クウェート人捕虜はイラクにはいない」との主張を繰り返していた。

 報告書によると、見つかった遺体のうち209人分の身元が判明しているという。

(日経新聞,2004/12/14)


 【質問】
 クウェイト侵攻後のアラブ諸国による様々な和平調停工作には,どこに問題があったか?

 【回答】
 ヨルダンのフセイン国王,モロッコのハッサン2世国王,リビアのカダフィ大佐らは仲介に熱心だった.
 しかし,これらの仲介は必ずしも攻勢とは言えず,クウェイト人にすれば母国喪失の不安さえ感じさせるものだった.

 その典型は,アラファト議長の和平案だった.
 1990/8/27,イラクを訪問していた同議長は,
(1) クウェイトにアラブ平和維持軍を配備する
(2) ジャビル政権に代わる新政体樹立のための各種選挙を,半年以内に行う
ことを提案.事実上,ジャビル首長退位を求めるものだが,この提案にはヨルダンやアルジェリアも乗り気だった.
 クウェイトにはパレスチナ人約30万人がいて,外国人居住者の中では最も多い.
 これらのパレスチナ人にも選挙権を与え,まずは王制か共和制かの国民投票を行い,「民主的」な政権を作ろうというのだ.

 この「アラブ和平構想」は,「クウェイトの将来はクウェイト人に決めさせる」というフセイン大統領の3項目提案(8/12)に基づいていた.
 同大統領は,イスラエルの占領地撤退と同時にイラクがクウェイトから撤退する「リンケージ」方式も提案していた.撤退の花道を用意しろというのである.
 クウェイト民主化やパレスチナ問題解決に繋がれば,イラクも撤退の大義名分は立つ.
 イラクの意を体するかのように,フセイン国王は,身内の事は身内に任せてくれ,と「アラブ内解決」を米欧に説いていた.

 しかし,PLO提案にはクウェイトの政体変更の含みがあり,フセイン国王も10月2日,アンマンに海部首相を迎えるに当たっての記者会見で,クウェイトの現状を1967年の第3次中東戦争後の状況に例え,
「アラブ・イスラエル紛争も,この23年間,多くの国連決議にも関わらず,対話への目立った動きはなかった」
と語った.
 これは,
「クウェイト問題に手を出すな」
という無言の要求とも受け取れた.

 〔略〕

 だが,イスラエルの占領を非難するアラブとしては,身内(イラク)による小国占領を許してはおけないはずである.
 フセイン国王は建前としては,イラクの撤退とジャビル政権の復権を主張したが,パレスチナ問題とクウェイト問題を同列に見て長期化を予想するような発言は,明らかにイラクのフセイン政権およびクウェイトに住むパレスチナ人の利益に配慮したものだった.

 〔略〕

 アラファト議長の提案やフセイン国王の発言は,必ずしもクウェイトをイラクおよびパレスチナ人の国にしようというものではないが,クウェイト侵攻を奇貨として,巧みに利益誘導を図ろうという印象も拭えない.
 戦車で祖国を踏み躙られ,難民生活を強いられたクウェイト人達が,
「PLOやヨルダンがイラクと,クウェイトの財産を山分けしようとしている」
と感じても無理はなかった.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.128-131,抜粋要約)


 【質問】
 冷戦後初の危機といえる湾岸戦争では,なぜ集団安全保障が機能したのか?

 【回答】
 これについては,3つの理由があると思われる.

1.あまりにも明白な侵略行為であったこと.

 これが,1939年代の状況と非常に良く似ていたため,当時の失敗が政治家の頭によみがえった.

2.このケースで失敗すると,冷戦後の秩序が成り立たなくなるというイメージの共有

3.国連加盟国の中でも小国の数多くが,国連の行動を支持したこと.

 これは「自分たちもクウェートの二の舞にはなりたくないという恐怖が想起されたようだ.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi

 【質問】
 では,国連の集団安全保障は新しい世界秩序の基礎になりえるのか?

 【回答】
 残念ながら,ほとんどのケースではそうはならないだろう.

 ナイ教授は以下のように分析している.
--------------------------------------------------------
 たとえば,国連安保理の常任理事国は,コソヴォやイラクでの戦争を承認することには,同意できなかった.
 つまり,いくつも重要な問題がある.

 第一に,国連システムは,明白な侵略があった時に最もよく機能する,
 これを内戦に当てはめることは,はるかに困難なのである.

 第二に,集団安全保障は,拒否権が行使されない時にのみ機能する.
 したがって,もしアメリカとロシア,中国,イギリス,フランスが合意できなければ,集団安全保障は,拒否権が行使されない時にのみ機能する.
 したがって,もしアメリカとロシア,中国,イギリス,フランスが合意できなければ,集団安全保障は再び骨抜きになってしまうであろう.
 いずれにせよ,1945年に国連ができたときから,集団安全保障は安保理で拒否権を持つ5大国には適用されないよう設定されていたことを忘れてはならない.

 第三に,集団安全保障は,加盟国が必要な資源を提供して,初めて機能する.
 したがって,巨大な軍事力を保持する国家がその持てる力を提供しなければ,集団安全保障が機能するとは考えにくいのである.
 集団安全保障は1930年代に惨めな失敗を喫し,冷戦には野ざらしにされたが,ラザロ〔Lazarus イエスが死から蘇らせた男,ヨハネ11〕のように,1990年にペルシャ湾で死からよみがえった.
 しかし,これは小さな奇跡に過ぎない.
 第9章に見るように,集団安全保障は冷戦後の世界秩序が必要とするものの,ほんの一部にしかすぎないからである.
--------------------------------------------------------
 要するに,

・集団安全保障は冷戦後の秩序構築に決定的な役割は果たせない可能性が極めて高い.

・冷戦後の秩序構築において,集団安全保障は,必要な要素のほんの一部である.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 イラク戦争ならまだしも,明らかなクエート侵略で,そのイラクを倒すために世界の多くの国が国連決議に基づき多国籍軍として参加したのに,中国とロシアがまったく協力しないというのは,イラクを庇うようで国際的にあまりにも体裁悪くないですか?
軍を派遣なんて出来ない発展途上国や小国,憲法の拘束と当時の政権の事情があった日本ならわかりますが.日本も軍は派遣しなかったけど,確か最も費用を拠出した国ですよね.
 中国やロシアは,湾岸戦争に経済的に協力でもしたのでしょうか?
 まったく協力しないというなら,いくら諸悪の根源である旧東側の二国といえど,それなりの一理でもある大義が必要と思いますが.

 【回答】
 別に問題無い.
 国連と安保理は,武力行使をいかに制限するかというシステムなわけで,武力行使をしないことをわざわざ責めるような仕組みにはなっていない.
 安保理決議にしても,ぜひ加盟国全てでイラクに鉄槌を!みたいな雰囲気ではなく,やりたい国はまぁやってもいいんじゃない?という体裁を取っている.


 【質問】
 イラクのクエート侵略により起きた湾岸戦争のとき,多くの国々が参加して多国籍軍を編成しましたが,多国籍軍には参加していない中国やロシアは,対外的にどういう声明を出して参加を拒否したのでしょうか?
 両国ともイラクのクエート侵略には黙殺を貫いたのでしょうか?

 【回答】
 中国はイラクのクウェート侵攻を批判しながらも,正規の手続きを経た国連軍ではない「多国籍軍」が,イラクに対して武力行使をすることには反対し,安保理で棄権に回りました.
 ソ連は,空爆開始前にイラク政府からアメリカとの仲裁を頼まれて以来,地上戦の始まる直前まで繰り返し双方に和平案を示してきました.
 もし両国が,「戦争が始まったから」と多国籍軍に参加したりしたら,それこそ「無節操な国だ」と世界中から批難されたでしょう.


 【質問】
 なぜドイツは湾岸戦争に派兵しなかったのか?

 【回答】
 法的に不可能であり,また,世論も支持しなかったため.
 そのため資金援助を行う事になり,小切手外交と批判されたが,外交のある程度の自主性はすでに確立されていたので,日本のようにトラウマになることはなかったという.

 以下引用.

 ブッシュ(父)大統領が国連のお墨付きを得て主導した多国籍軍への参加は,ドイツでは論外だった.
 ドイツ連邦軍はNATOの枠組みに取り込まれており,NATO域外に出動する事は不可能で,世論も全体としては支持していなかった.
 それゆえ,1兆円を越える高額の資金援助を行う事になり,日本と同じに小切手外交と批判された.

 しかし,ワシントンからの批判には,ドイツはある意味では慣れっこになっていた.
 コール政権で連立与党の少数派である自由民主党を代表して副首相兼外務大臣の職にあったゲンシャーは,ドイツの特殊な位置と地理を利用して,アメリカとはいつも,目立たない程度に一線を画しつつ,対ソ連外交で交渉と融和に努めていた.
 そのため,レーガン政権の中枢からはゲンシャリズム(Genscherism)と言われ,評判が悪かった.
 しかし,こうしたある程度の自主性があったがゆえに,ゴルバチョフも,ドイツは信用できると判断したのである.
 小切手外交批判も日本の外務省のようなトラウマになることはなかった.

三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.134-135

 ただし本書は,ソースとしては信頼性にやや難があるので,その点は留意されたし.
 また,日本とドイツとでは,人種的問題や価値観の点から(良い悪いは別にして),アメリカからの信頼度という点で日本にハンデがあることも考慮されるべきだろう.

 なお,後述のように,ドイツは派兵こそしていないが,多国籍軍を積極的に支援している.
 また,トルコにF-104を展開させてもいた.
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01252/contents/049.htm


 【質問】
 湾岸戦争の際,ドイツは多国籍軍に全く協力しなかったのか?

 【回答】
 補給で多大の貢献をしたという.
 以下引用.

実際には裏での補給活動で大変な実質的援助をしていたことは,あまり知られていなかった.
 というのも,湾岸に向かうアメリカ軍の中継と補給は,その多くがフランクフルト経由であったし,NATOの枠組みで兵器は統一されていたから,兵器の供給や部品の交換は全面的にドイツ連邦軍の備蓄で賄われた.
 開戦後に社会主義インターナショナルの用事で来日したブラント元首相は冗談混じりに,
「もしも今ヨーロッパで何かあっても,ドイツ連邦軍は飛行機の一機も飛ばせない.交換部品がないのだ」
と,冗談めかして言っていた.

三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.135

 ただし本書は,ソースとしては信頼性にやや難があるので,その点は留意されたし.

 この,ドイツの「裏では援助」パターンは,のちのイラク戦争でも踏襲されている.

 【参考画像】
多国籍軍進攻ルート


 【質問】
 本当に拍手喝采になったでしょうか?↓

――――――
湾岸戦争に際しては,とりあえずペルシャ湾に護衛艦の2隻も派遣しておけば,それで西側陣営の一員としての面目は保たれたのである.

 その上で,米ソを始めとする,イラクのサダム・フセイン政権に大量の兵器を売却したり,兵器製造技術を供与した諸国の責任を追及し,国連において,兵器輸出の規制強化を訴えたならば,国際世論は拍手喝采であったに違いないのだ.

――――――林信吾著『反戦軍事学』,p.219

 【回答】
 冷笑されたでしょう.

 第1に,湾岸戦争における日本の批判というのは,要するに
「中東の石油資源を大量に使っている国のくせして,中東の安定に少しも貢献していない」
ということでした.
 もしホホイの言うとおりに,護衛艦2隻でお茶を濁していたとしますと,日本への非難の度合いはさらに増したでしょう.
 護衛艦は憲法上の制約により武力行使できないわけですから,掃海艇とは違い,文字通り事実上何もせずに行って帰ってくるだけ,という事態になったでしょうから.

 第2に,そんな,湾岸戦争という目の前の危機に対して何もしない国が,実際に危機に対処しようとしている国々に対して,あれこれ批判すればどうなるでしょうか?
 まず確実に総スカンを食らうでしょう.
 自分では何もアクションを起こさず,そのくせ口出しばかりする人は,まず嫌われますが,それと同じことです.

 第3に,ホホイは国連のことを,正義執行機関か何かと勘違いしているようですが,国益の前には事実さえ歪めるような国家がいくつも加盟しているような機関では,主張を担保できるだけの強制力を持たない国の主張が,正義として受け入れられるかどうかははなはだ疑問です.
 そもそも万国共通の普遍的正義が存在するのかも疑問です.
 日本にも自らの正義を信じて,郵便局に強盗に入った中学生だかがいましたね(笑)
 Aにとっての正義が,必ずしもBにとっても正義であるとは限らないのです.


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