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【質問】 ヨーロッパにおける傭兵制度の進展について教えてください.
<◆中世欧州総記
戦史FAQ目次


 【質問】 ヨーロッパにおける傭兵制度の進展について教えてください.

 【回答】
 絶対主義時代における傭兵制度については,19世紀の軍人たちが専ら国民軍の見地から盛んに批判的に論じており,彼らの見解は現在においても有力な定説と目されている.
 そして,その中には傭兵制の歴史的過程をかなり明確に指摘しているものもある.

 「戦争は政治の一手段である」と身も蓋もなく言い切ったクラウゼヴィッツは,その著書「戦争論」の中で次のように述べている.
「封建制度は漸次に衰退し,統一的領土国家が形成され,国家的結合は一層緊密になり,身分上の服従関係物質上の関係に変じ,ついで金銭関係が漸次に大多数の関係を支配し,封建的軍隊は給金を給付される軍隊となるにいたった.
 傭兵制度はかかる変化への過渡を形成するものであって,従って一時は大国の器械ともなった.
 しかしそれは長くは続かなかった.
 短期の契約で雇用された兵士は,常設的な軍隊に変じ,国家の兵力は今や,国庫の負担をもって設けられた軍隊によって維持されることになったのである」
 そしてクラウゼヴィッツは,アンリ4世の治世には封建軍と傭兵と常備軍の三種類の軍隊が並用され,その後,傭兵は三十年戦争の頃まで残存し,18世紀においても僅かながらその存在の痕跡を認めることができると述べている.

 確かにクラウゼヴィッツが指摘するように,近世初期の傭兵制は一時的偶然的に成立したものではなく,封建制の解体と続く絶対主義の確立と密接な関係をもって成立した産物であった.
 傭兵制はクラウゼヴィッツが主張するように封建軍から常備国民軍への過渡的形態に他ならないとしても,その過程は彼が言う程に短期のものではなく,またそう単純でもなかった.

 そんだけ.

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 正規の,もしくは純粋な意味での封建軍は,封土を媒介して成立した軍事的主従関係を基礎として成立する.
 この場合,軍役奉仕すなわち出軍義務には時間的空間的な制約条件が付加されていたが,臣下が軍役免除金を支払って軍役を免れる慣行もまた存在していた.
 ドイツ皇帝フリードリヒ・バルバロッサは,イタリア遠征の際にこの免除金によって現地傭兵を大量に調達できた.
 このような軍役免除金の慣行は,他面においては金銭を支給されて軍役奉仕を行う者の存在を示唆している.
 彼らは,封建軍の中ではいまだ「給金を支払われている補助軍」的な存在ではあった.しかるに,この手の「補助軍」的な存在が封建軍の中で次第に幅を利かせるようになると,封建制の紐帯とも言うべき封土が金銭化するようになっていく.
 最も注目すべき点は,これらの金銭が主君からの恩恵としてではなく,正当な労働に対する報酬としての意味が強いことで,これはすなわち封建的主従関係の希薄化を意味していた
 こうして封土による主従関係を基として成立していた封建軍は大きく変化を見せる.
 軍役提供に際して土地を担保に金銭を授与するようになり,封土よりもむしろ金銭の授与に重点が置かれるようになる.
 こうなると出陣のために金を払うことと封土にかえて金を与えることの差がなくなり,一人で複数の主君に対して軍事的な主従関係を結ぶことも,また全く封建的主従関係にない人間のために金銭の獲得を目的に軍事奉仕を提供することも可能になってくる.
 このいわば「傭兵化した封建軍」は,14世紀のヨーロッパ諸国で広く見られるようになっていた.
 そんだけ.

契約戦士

 この「傭兵化した封建軍」においては,封土が金銭に変わってはいたが,いまだ主従の間には封建的身分関係が明示されており,それに基づいて一定の契約金が付与されていた.
 故に「傭兵化した封建軍」の傭兵化がどれだけ進展したとしても,純然たる傭兵軍とは言い難い.むしろ傭兵軍は封建制の崩壊を伴って出現した封建関係の崩壊の過程で伝統的な主従関係を喪失した貴族や騎士を中心に農民や下層民をも加えた一個の武装集団が,封建社会解体の混乱期に形成された.
 彼らは言うなれば一種の野武士団,盗賊騎士団であり,各地に散在し,専ら金銭の獲得を目的として求めに応じて有力諸侯に雇用されて従軍した.
 戦争を商売とするこの集団は有利な条件を求めて諸侯,君主とも雇用契約を結び,平時には一種の失業状態に陥って略奪を行うこともあった.
 この手の傭兵集団は,14世紀のドイツではrittergesellschaft,百年戦争期のフランスではcompagnie,15世紀のイタリアではcompagnie di venturaと呼ばれて悪名を流しまくった.
 これらの傭兵軍はどれも雑多な階層で構成されており,騎士身分の下級貴族がその中核をなし,それに郎党,奴隷,農民,職人等が参加していた.
 しかし時には有力貴族の庶子や次男三男も多く参加しており,諸侯が高額な契約金をもってこのような傭兵集団を雇用していたという事実と相まって,封建制の危機の深刻化を物語っている.
 そんだけ.

悪党と手を結ぶ

 封建危機の進行は,封建制の国家規模での再編成によって,絶対主義体制の確立により一応の克服を見た.
 政治的に見れば,混乱した封建秩序を再建し強力な絶対主義を築き上げるために,第一に軍事力の集中強化が要求された.
 傭兵軍は封建的秩序の混乱を体現した忌むべき存在ではあったが,皮肉にも同時に当時唯一の頼みとなる軍事力でもあった.
 王権はこれを整理統合し,自己のみに所属する軍隊を編成することにより,絶対王権形成のための軍事力の集中を図った.
 こうして,傭兵軍はいわば常備軍化していく.
 フランス王シャルル7世の編成した軍隊は,封建的要素が色濃く残るものの,同時にこうした常備軍的性格をもつものでもあった.
 また15世紀のイギリス軍は,全国的統一規模のものではなく,有力諸侯によって編成された軍隊であったが,やはり常備軍としての要件を備えていた.
 勿論,このような常備傭兵軍による軍事力の集中を可能とするためには,その物的基盤を保証する王室または諸侯の財政の充実が前提となっていた.
 王領からの収入のみならず,臨時税や間接税,戸別税等の様々な徴税権の独占が同時進行していた.
 更にその常備傭兵軍の中核が貴族や騎士と呼ばれる階層で構成されており,根底には封建的性格が根強く残っていた.

 しかし,絶対主義下の軍隊が全てこの常備傭兵軍によって構成されていた訳ではなかった.
 常備化された傭兵集団は間もなく,壮丁の徴募兵と俸給制度を基礎とした常備軍へと改編され,純粋な意味での常備傭兵軍は,主に外国人傭兵部隊として存続した.
 例えばフランスでは伝統的に,スイス人とドイツ人で編成された部隊が維持し続けられた.
 無論,これらの他にも僅かではあるが純粋な封建軍も存在していた.
 しかし,いずれにせよ絶対主義軍隊が傭兵的性格が濃い常備軍であったことは否定できない.
 そんだけ.


新義ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀,制禁ノ事

 盗賊騎士団はその社会的立場と成立の経緯から,当時の封建社会と異なる一種独特の組織的体質を有していた.
 前述の1328年に盗賊騎士団が皇帝と交わした傭兵契約によれば,イゼンブルクのヨハネス以下25名にのぼる多数の人物が,皇帝と契約を結び,しかも彼らが,「我々自身と我々の仲間全員のために」と言明していることから,盗賊騎士団が封建的階層秩序を止揚した,いわば成員の平等を原則とする同志的結合とも呼ぶべき代物の上に成立していることが推察できる
 さらに,フリードリヒ1世バルバロッサが1158年に発した勅令では,「都市の内と外,都市と都市,私人と私人,あるいは都市と私人の間に結成される集団,あらゆる誓約団体は,血縁的結合をも含め,いかなる形のものであれ,余はその結成を禁止し,既に成立したものに対してはこれを解散せしむるものである」と述べ,かかる同志的結合集団が,既にこの時期に発生していたことを示唆している.

 同様のことが1224年のフリードリヒ2世の治世の際にも発生している.
 フリードリヒ2世の忠実な封臣リバルドゥスの従士たちが,ハウスブルク渓谷に拠り,誓約によって成立する団体や同盟のごときものを勝手に結成しようとした.
 その団体の中にはリバルドゥスの軍事力の中核を担っていた従騎士が多く参加しており,しかもあろうことか,彼らがこの団体の指導的立場にあったことから,処置に困ったリバルドゥスはそのような団体の結成の可否についての裁決を皇帝に求めざるをえなかった.
 これに対し,フリードリヒ2世は自らの許可無しにいかなる団体の結成をも禁ずる決定を下している.
 このように,従士たちが領主を除外した誓約によって,恐らくは各自平等の立場から結成した団体を,そのまま盗賊騎士団と同一視することは出来ないが,彼らが容易に放浪して盗賊騎士団へと変容していくことは十分に推測できる.

 そんだけ.


義理と人情の渡世

 しかしながら,盗賊騎士団の同志的結合と呼ぶべき性格は,いわゆる高度に理念化されたものではなかった
 前述の年代記の記述でも見られるように,彼らは幾度も離合集散を繰り返し,しかもそれは何らかの金銭的な利害と常に絡み合っていた.
 このことは,彼らの同志的結合が,より刹那的でかつ極めて稀薄な性質になる傾向にあったことを示している
 つまり,盗賊騎士団内の封建的階層秩序を否定するという性質が,成員の金銭的利害の一致という一時的な動機によって導かれているということ,そしてこの金銭的利害こそが彼らの組織の本質を決定していたことを意味している.
 盗賊騎士団が戦闘員の他にも家族をはじめ多くの非戦闘員を含んでいたのも,また騎士身分のみならず雑多な階層で構成されていたことも,このような組織的性格を前提としていたからである.
 盗賊騎士団の利害追求型同志的結合は,妻子や売春婦のような非戦闘員のみならず,金銭的利害を媒介することによって一般の都市民や農民,下層民をも積極的な戦力要素として内に取り込むことになる.
 かのジョン・ホークウッドもその出自は鞣革業者の息子だったと言われている.
 いずれにせよ,盗賊騎士団は従来の封建軍隊の中核をなしていた封臣軍とは全く別の種類の軍隊だった.

 そんだけ.


戦争の犬のプロ

 ケルン年代記によると,1228年に,ブラバント公ヨハネスとゲルレンス伯レイノルトの不和が募り,遂に両者が戦争準備をはじめたことについて次のように記されている
 この際,
「ブラバント公ヨハネスは,ケルン市民及びその他の多くの貴族や従者に報酬を与え,味方に引き入れた.
 これに対してゲルレンス伯レイノルも,多くの者を味方にしたが,彼らは各地で行われた種々の戦争に熟練している連中であった」
 「種々の戦争」というものが,大軍同士による野戦というよりむしろ,小規模な攻城戦や小部隊による襲撃,伏撃,略奪といった小競り合いであり,そしてその手の小競り合いに「熟練している連中」が容易に盗賊騎士団に身を投じる存在だったことは言うまでもない
 しかし一方で,この係争にケルン市民もまた報酬を得て参加していることを考えると,この戦争熟練者の中に,民兵としての経験にものをいわせて盗賊騎士団にその身を託することによって,ようやく生計の途を見出した都市部の下層民が含まれていたことが推定できる

 15世紀以前の都市における階層分化が,具体的にどのようなものであったかは明らかではないが,多かれ少なかれ,時代が下るにつれて都市民間の貧富の差が顕著となって,貧困化無産化が進行する傾向にあった
 特に,アウグスブルク,ゲールリッツ等の商業と輸出工業が発達した都市では,この度合いが極めて深刻で,社会構造全体において安定性に欠けていた.
 少なくともケルンのような大都市では,このような傾向が早い時期から存在し,その内部に相当数の無産下層民を抱え込んでいたと考えられる
 特に,1329年のブレスラウ,1351年のシュパイエル,1392年のハルシュタット及びラウフェンで,それぞれ職工が賃金問題を巡ってストライキやサボタージュや一揆を起こしていることは,ギルドの閉鎖性が強化された結果,生計の目途が立たずにランツクネヒトに身を投じた15世紀末の遍歴職人のように,既に14世紀において盗賊騎士団に身を投じて熟練兵となる以外に生きていく方策のない下層民が,都市の内部に相当数潜在していたことが推測できる.


 そんだけ.


手に持つ鋤を槍に替え

 農民であっても事情は変わらなかった
 1244年,バイエルンのラント・フリーデは,次のような布告を行って農民の武装に制限を加え,騎士と農民の間に明確な一線を画そうとした
 「農民及び彼らの息子は,教会に行く場合に限って,鉄兜,鉄帽,革鎧,両刃の短剣,鎖鎧その他の軍装を着用することを許可する
 農耕に出る場合には,短いナイフと鋤だけしか携行してはならない
 帯剣できるのは家長のみで,その他の者には許されない
 ただし,犯罪人を捕縛し,外敵の侵入を防ぎ,国の危難に備えるために必要なものは,欲すれば如何なるものであれ,家の中に貯蔵してもよい」
 しかし,このような12世紀の身分法思想の名残はすでにこの時代においてはほとんど消滅していた
 前述のエッセン女子修道院長が1328年に発した布告では,「悪しき人々の攻撃」によって苦難に陥った修道院領の農民を守るため,「領民にして,馬,甲冑その他の武器を所有する者があれば,その馬や武器は所有者の死後もエッセンの防備のために子孫または相続人の手に保有されるべきである
 余も余の役人も,かかる馬や武器を遺産相続やその他の理由によって没収してはならない
 また何人も,これらの馬や武器を負債の故をもって差し押さえてはならない」と規定されていた
 盗賊騎士団が横行した14世紀では,むしろ農民の武装化は強化される傾向にあり,これは逆に農村部の下層民が,容易に盗賊騎士団に身命を売り渡せたことをも意味していた
 特に農民戦争期のドイツ南部では,農地の細分化と農民の小作農化貧農化が進行したが,14世紀においても,このような傾向は既に認められていた
 正業をもってしては生活し得ない貧困小作農にとって,盗賊騎士団が極めて魅力的な職場となったのは当然だった

 そんだけ.


赤貧の騎士

 これらの都市民や農民の下層分子を組織し取り込んだ盗賊騎士たちも,何も好き好んで放浪していた訳ではなかった
 この時期に出現したテリトリウム(領邦制)国家の形成は,それ以前に存在していた個々の権利の集積ではなく,かつてのインムニテート(不輸不出権)圏の散在性を否定し,隣接地に対してはインムニテート圏の不当な拡大,新しい特許状の獲得,売買,交換に対し,広汎な封鎖地域を形成し,そこに新しい権力原理による統一主権を確立しようとするものであった
 大グルントヘル(荘園領主)が領邦領主へと変貌していく反面,他者はそれに服属していった
 領邦国家を作ることができなかった大土地所有者は領邦領主の主権にとっては障害物であり,消滅する運命にあった.
 この場合,地代収入の減少や公権利の消失は彼らの没落を早めた.
 このような競合関係が生じた際に,こうした抗争に巻き込まれた小土地所有者である騎士階級は,新しい領邦領主に従属するか,または盗賊騎士団を結成して各地を放浪するかしかなく,いずれにせよ没落の道を避けられなかった.
 騎士身分で領邦領主となった事例は僅かしかなく,14世紀には,同一家系の出身でありながら,ある者は騎士として生活していたのに対し,他の親戚は農村や都市で労働に従事しているような例さえ少なくない.
 無論,全ての盗賊騎士が土地を失ってしまった訳ではなく,盗賊騎士団の中には一定の根拠地を持ち,そこを基点に各地で活動した集団も少なくなかった.
 しかし,いずれにせよ領邦成立に伴う経済変動によって,騎士たちが彼らの土地からの収入のみを頼りにして満足な生計を立てられなくなっていたことは明らかであり,そこに彼らの没落の原因があった.
 更に,種々の事情で土地を手放さなければならなかった場合,彼らの没落はより凄まじかったに違いない.

 そんだけ.


支配者の剣

 前述したように,領邦国家の出現により,下級貴族である騎士は大別して二つの選択を迫られた.
 領邦に隷属した騎士は,後に等族議会を通じて,領邦の絶対主義化に抵抗する機能を果たすことになる.
 もう一つは,いずれの領邦にも属さず,結果として帝国議会に出席権を持たない帝国騎士たちで,彼らのうちの少なからぬ数が,盗賊騎士へと転身することになる.
 ドイツにおいて,盗賊騎士団がシュワーベン,フランケン,アルザス,ラインの各地方で多数発生したのは偶然ではなかった.
 これらの地方は,いずれも強力な領邦が成立していなかった.
 多くの群小領邦が発生したこれらの地方では,そのどれもが弱体なため,騎士が領邦に吸収される可能性も低く,それだけに帝国直属の身分を維持しつつも,それ相応の経済力を持ち得ない彼らは,盗賊騎士団として活動していく.
 前述したように,ラント・フリーデ運動が,こうした盗賊騎士団の絶滅を意図したものであるのも当然だった.
 ラント・フリーデ運動によって支配権の確立を目指した領邦にとって,主として都市を喰い物にする盗賊騎士団の活動は,領邦領主の経済的基盤を実力で脅かすものと考えられたからだった.
 ただし,領邦成立の過程における必然的結果として盗賊騎士団が発生したと単純に結論づけられるほど,事態は単純ではなかった.
 領邦成立期に盗賊騎士団を傭兵として使ったのは,実は領邦領主自身だった.
 1283年,ルドルフ1世はその勅書の中で,土地の永久平和を守るために傭兵軍を編成する権利を認めている.
 また,1356年に金印勅書の結社禁止規定では,諸侯や都市が国土の治安と防衛を目的とした相互協定や同盟の結成が承認されている.
 実のところ,盗賊騎士団の活動こそが領邦の発展を強化し,それが更に盗賊騎士団自身の消滅をも早めることになった.

 そんだけ.


王様は二言目には金と言い

 フリードリヒ1世バルバロッサは,軍役免除税に関して三つの勅令を発している.
 1158年に発せられたものでは,「余は,ドイツ及びイタリアにおいて皇帝戴冠式のために公示された出征に,自ら出陣するか,または封土に応じて軍費を支払うことによって,おのれの主君を助けざる者はその封土を失い,主君はそれを没収して,自らの用に供する権利を持つことを,ここに厳に布告するものである」と記されている.
 また同年,「公示された出征において,主君によって召集された者は,誰でも定められた期間を自ら従軍するか,適当な代理人を主君に提供するか,あるいは封土の年収の半分を主君に納めることをなさない場合は,主君は彼の者の封土を没収して,自らの用に供する権利を持つことを,余は厳に布告するものである」
 さらに1160年の「ローマ進軍についての規定」では,「この法によって出征を命ぜられた者で,主君に従って軍勢を引き連れて集合しない場合は,余の面前で権利回復の望み無しにその封土を奪われるべきである.
 (中略)
 しかし,留まらんと欲して主君の許可を得た者は,その年の封土の現金その他の収入を軍費として支払わなければならない」
 軍役免除税を意味する「軍費」の徴集こそ,「他の傭兵を集め得るための金銭の提供」であり,盗賊騎士団を雇い入れるための有力な財源となった.
 このような重大な意義を持つ軍役免除税を納める相手が,皇帝に対してではなく自己の主君に対してであったこと,
 そしてこれを怠った場合に没収された封土の所有権が,皇帝ではなく当該主君に帰属することは,既にオットー2世の勅令でも示されており,軍事統帥権の二重構造を示唆するフリードリヒ1世の勅令は,当時既に慣行となっていたものの再確認に過ぎない.
 もともと現実の出陣の代償としての意味を持つ軍役免除税は,中世初期以来,名目的に存在していた自由民の一般的な従軍義務を理由として,広く徴収されて傭兵を雇うための有力な財源となっていた.
 やがてこれらの主君が領邦領主へと移行していき,その過程で実際の出陣よりもむしろ軍役免除税の納付を奨励することによって,自らの勢力拡大のために盗賊騎士団を傭兵として利用していくことになる.

 そんだけ.


最初の一匹はどこに

 もっとも,領邦国家成立の時期はフリードリヒ1世バルバロッサの時代よりも後のことであり,シュタウフェン家滅亡と,それに続く大空位時代こそが領邦の発展に絶好の地盤を提供することになる.
 しかし,当時既に新しい領邦成立の萌芽はすでに芽生えていた.
 1180年のハインリヒ獅子公失脚の際に出された,フリードリヒ1世の宣告文では,次のように記されている.
「かつてバイエルン及びウェストファーレン公であったハインリヒは,教会と帝国貴族の自由と彼らの財産を奪い,彼らの権利を侵すことによって著しく圧迫した.
 このため,諸侯及び貴族の激しい訴えによって召喚されたが,余の面前に出頭することを怠り,その後も教会と諸侯並びに貴族の権利と自由を侵害することを止めず,
(中略)
バイエルン,ウェストファーレン,エンゲルン公領並びに彼が帝国より受封した全ての領地は,ヴェルツブルクにおいて開催された厳粛なる法廷において,諸侯の一致した判決によって没収されることになった」
 この事件の告訴が諸侯と貴族からなされているのに対し,判決に関与したのは諸侯のみであり,ここでは諸侯と一般の貴族が明確に区別されて用いられている.
 この宣告文が発せられた時には既に,単なる「主君」の間に分裂が起こり,そのうち一部が諸侯と呼ばれる存在へと変化しつつあったことを示唆している.

 そんだけ.


都合のいい人

 封土を介して発生した封臣の軍役義務は,必ずしも無制限なものではなかった.
 国土防衛戦のような総力戦における根こそぎの総動員令を除けば,「東部地方へ」,「州の中で」,「二日行程は自弁で」,「河岸まで」,「一日行程の行軍」等,地域的時間的な制限があらかじめ決められているのが常であった.
 もっとも,この手の制約は封建軍に限ったものではなく,国民徴集軍でも同様だった.
 そして,このような制約の多いシステムの克服こそが,領邦実現を目指す王権にとって克服すべき重要な課題の一つであった.
 貨幣収入の増加によって自らの強化を図った領邦王権が,一方で軍役免除税の徴収によって封建軍の現実の出陣を無用とし,他方で貨幣の力によって思うがままに運用し得る軍隊,すなわち傭兵軍を自らの権力の基盤に据えようとしたのも,ある意味で自然の成り行きだった.
 こうして盗賊騎士団が脚光を浴びることになる.
 1360年,ブレティニーの休戦によって敵地で解雇されたイングランド傭兵のように,何時でも何処でも放棄して,他と代替できるこの軍隊は,権力強化を目指す領邦王権にとって極めて有力な手段を提供した.
 1314年にゲルレンス伯レイノルトとオーストリア公フリートリヒが交わした協定では,ゲルレンス伯がオーストリア公の要請に応じて,契約金を受け取って自らの指揮下にあったソキエタスを提供している.
 このような盗賊騎士団の雇用は,領邦権力にとって必要不可欠なものだった.
 没落騎士を中核として都市民や農民の下層分子をも内に取り込んだ盗賊騎士団は,領邦実現を目指す諸権力の競合の産物であると同時に,自らを傭兵として領邦権力に身売りすることをその本質としていた.
 彼らが出没したのが,シュワーベン,フランケン,ライン,アルザス等の各地方であったのも,群小の領邦国家が発生した.
 これらの地方が,単に領邦の吸収を免れた盗賊騎士を多く輩出しただけでなく,彼らが傭兵として雇用される機会が極めて多かったことをも示している.

 そんだけ.


全てを解決する素敵な道具

 領邦成立を巡る競合関係の煽りを受けて没落を余儀なくされた騎士が,非騎士階層まで抱き込んで組織した盗賊騎士団が,領邦権力に有力な軍事的基盤を提供していたことを考慮すれば,領邦国家にとって盗賊騎士団は必ずしも全面的な抹殺の対象にはなり得ない.
 「土地の永久平和を守るために傭兵軍を編成」したり,金印勅書の結社禁止令で「州や国土の一般的な平和のために,相互に組織する同盟や協定」が除外されているのがいい例である.
 しかし,一方で領邦国家が支配権確立の有力な手段としたラント・フリーデが,その主要な目的として盗賊騎士団の根絶を掲げていることも否定できない.
 この盗賊騎士団の二つの矛盾する性格は,いつ解雇されてもおかしくなかった彼らの不安定な立場に起因している.
 ラント・フリーデが実は一種の空文規定だったのか,それとも盗賊騎士団が必要悪的存在だったのかについては,この際どうでもいい.
 最も注目すべきは,貨幣収入が増大した領邦国家にとって,金銭で動員可能でありそれ故に非常に指揮掌握が容易な盗賊騎士団が,極めて使い勝手の良い軍事力だったという事実にある.
 もっとも,盗賊騎士団自体は必ずしも当時のドイツの軍制を代表する存在ではなかったし,ドイツに存在した軍事力の中核をなすものでもなかった.
 現実の軍役奉仕のかわりに提供される軍役免除税が,傭兵動員の有力な財源になるという慣行は,すなわち正規の封建軍もまた,傭兵として出陣できることを意味していた.
 強力な財源を有する領邦国家は,封建契約外の従軍に対して金銭の支給を行うことによって,封建軍の地域的時間的制約を克服しただけでなく,実質的に金銭契約下の傭兵軍と酷似した封建軍を,無制限に,そして大量に戦争に投入することになる.

 そんだけ.

29 :お手当をください :03/12/27 09:22 ID:???
 14世紀以降,伝統的な封建軍の傭兵化が進行していく
 封建軍動員文書で金銭報酬の支給に関して記されたものは13世紀以前にも存在しているが,それでも金銭支給に関する
規定の全く見られない文書も相当数存在していた
 これが14世紀に入ると,動員文書の殆ど全てで金銭報酬の支給が言及されるようになる
 そこには,支給される手当が主君からの一方的な恩恵ではなく,正当な労働に対する報酬だとする認識が強く働いている
 1311年6月,皇帝ハインリヒ7世は,「オーストリア・シュタイエル公レオポルドは来る聖ニコライ殉教日
(12月6日)まで,イタリア地方において100名の騎兵と100名の弓兵をもって余に奉仕することを約したので,
余は当該期間における奉仕の代償として,6000マルクを与えることを公に約した
 しかして,余はその支払を,まず10日以内に1500マルク,ついで7月に1000マルク,8月に1000マルク,
9月に1000マルク,10月に1000マルク,11月に500マルクを支払って,聖ニコライ殉教日までに
6000マルクを完済せんとするものである」と述べている
 当時の傭兵の1ヶ月分の報酬の基準は,騎兵で4マルク,装備練度の優良な歩兵で3マルク程度であり,このことを
考慮すれば,各月ごとの支払が月々の報酬を意味していると考えてまず間違いない
 オーストリア公レオポルド麾下の封建軍は,紛れもなく賃金の対価として軍役に就いているのである


 そんだけ.

30 :クリスマスまでに :03/12/27 09:23 ID:???
 1310年,ホーエンベルク伯ルドルフは,「公正なる我が主君ローマ皇帝ハインリヒ7世は,余に500マルクを
与えたので,余は主君を助けることを約束するものである」と語って出陣しており,金銭給与を軍役の前提条件とする慣行が
一般的だったのはまず間違いない
 1314年,バイエルン公ルードヴィッヒは,皇帝即位のための兵力提供を各地の封建領主に要請した際に,
「戴冠について支障が起こった場合でも,クリスマスに半分,復活祭に残り半分というように,前述の金額は支払われるで
あろう」と,計画が失敗しても約束した金額を支払うことを明言している
 ここで,いかなる政治的陰謀とも関係せずに専ら傭兵として従軍する封建軍の存在が,軍事作戦立案において必要不可欠な
前提条件となっていたことはまず間違いない
 また,1310年にハインリヒ7世がフォーシニーのユゴーに宛てた文書で,「もし前述の数以上の軍勢が集められる
ようなことがあっても,余は汝が満足できる待遇をなすことを約束するものである」と記しているのは,場合によっては
契約外の兵員の提供をも辞さない程に,封建軍の傭兵としての従軍が非常に有利だったことを示している


 そんだけ.

31 :戦争の算段 :03/12/27 09:24 ID:???
 封建軍に対する報酬が,上からの恩恵ではなく軍役奉仕のための条件となっていた以上,報酬の支払に対して確実な保証が
要求されたのは当然だった
 1310年,ハインリヒ7世は「余の忠実なるヴァイセンブルクの貴族ヨハネス及びペトルスの兄弟は,彼らが常に
聖なるローマ帝国に対してなしてきた真の忠誠と誠実を余に約して慣習的に調達された武器と馬をもって8名の騎兵と2名の
弩兵とともに忠実に奉仕することとなったので,余はこの兄弟に対し,軍費を自ら調達する必要がないように184マルクを
与えることを約束するものである
 しかしながら,余はこの金額を直ちに調達することはできないので,余及び帝国の所有しているハスレ渓谷を土地住民を
含め担保として提供し,秋に60マルクを,残りを謝肉祭までに必ず支払うこととする
 それができなかった場合,前述の渓谷は彼らの保有に任せることを認めるものである」と述べている
 このように支払完了まで土地の占有を許した例はかなり多い
 またハインリヒ7世が1313年にサボイ伯アメデゥスに手交した文書では,「余がアルプスを越えてより次の一ヶ月間に
至るまで,伯が余に提供した奉仕に対し,伯が余より既に受け取ったものを除いて,余は今なお8000フローリンの借財を
伯に負うものである」と記されており,借用証書の意味も持っていたと考えられる
 更に,「ギレルムス伯またはその後継者に前述の金額が支払われるまで,全ての兵士と楯持ちはケルン市に進入し,そこに
留まって撤退しないであろう」という宣言も見られ,場合によっては実力行使さえ躊躇われなかった


 そんだけ.

32 :忠誠のお値段 :03/12/27 09:25 ID:???
 このように,封建軍が賃金の報酬を前提に従軍するようになり,しかも報酬の履行のために様々な効果的な方策が
とられていたことは,封建軍の性格に大きな変革をもたらさない訳にはいかなかった
 1301年に提出された文書では,「我々は尊敬すべきトリエル大司教ディルテルスに忠誠を捧げ,10名の軍勢とともに,
皇帝となった前オーストリア公アルベルトに対し,大司教を援助することを約した
 それに対して,大司教は我々の一人ヨハネスに対して年内に90マルクを支払うことを約した
 それが履行されるまで,我々は相応の土地を占有するものである」
 また1314年,皇帝ルードヴィッヒは,「余の忠実なる貴族ヨハネスは,余の帝国の繁栄のために示した献身的にして
誠実なる真情と,彼が余ならにに帝国の騎士であることを鑑み,余は彼が慣習に従って葡萄酒その他の商品に課税して
300マルクを得ることを認めるものである」と文書に記している
 忠誠を捧げた者に対して封土の授受よりもむしろ金銭の給与が考えられるようになっており,封建的主従関係においても
もはや封土が第一義的な価値を持つものではなくなりつつあった
 しかも,ここで述べられている金銭授与は傭兵に支払われる金銭給与とは事情が異なっている
 こうなると,封土の変形としての金銭の授与と,軍事作戦の都度支払われる報酬との間に明確な一線を引くことは困難で
あり,同時に数十人の諸侯と忠誠関係を結んだナッソー伯ゲルラッハは極端としても,封建軍が金銭さえ貰えればどこにでも
出陣する傭兵軍と類似してくることは避けられなくなっていた


 そんだけ.

33 :ご褒美を下さい :03/12/27 09:25 ID:???
 傭兵化した封建軍と盗賊騎士団には,両者ともに傭兵契約下で従軍していただけでなく,前者は後者に容易に移行する
傾向にあり,その性格に極めて似通った部分が少なくない
 しかしながら,両者の間には契約締結上の明白な差異が存在していた
 1328年,ヨハネス以下24名の盗賊騎士が皇帝と交わした傭兵契約書で,「我々自身と我々の仲間全員のために」
と記しているように,契約当事者は単なる代理人として軍役奉仕を約束するだけで,何ら特別の報酬を要求する者では
なかったのに対し,傭兵化した封建軍は,皇帝ハインリヒ7世がフォーシニーのユゴーに宛てた文書で,
「余は準備金として130マルクを支払い,彼が軍勢を率いて余のもとに到着してより1ヶ月以内に更に2400ポンドの
銀を与えることを約束するものである」と述べているのをはじめ,多くの場合,一種の契約金が問題となっている
 このような両者の契約上の差異は,一種の同志的結合を本質としていた盗賊騎士団に対し,封建軍が大幅に傭兵化しても
なお階層的身分秩序を維持していたことに起因している
 そして,契約金不要な盗賊騎士団が領邦権力を補強する新しい軍制の萌芽となる可能性があったことは一面において
否定できない
 皇帝ヴェンツェルがシュワーベン地方のシュレグラー・ブントなる盗賊騎士団を1394年に雇い入れ,1396年の
解散後にその成員を自己の家臣団に組み込んでいるし,1370年代以降,盗賊騎士団の野盗的な活動は漸次沈静化の
方向へと向かっている


 そんだけ.

34 :神は重い槍を祝福する :03/12/27 09:26 ID:???
 15世紀に入ると,傭兵の契約形態に大きな変化が認められるようになる
 1427年,帝国議会はある決定を下した
 「異端に対する戦いを遂行し,神の加護によって事件を落着せしめるため,傭兵を集めるに決した
 しかして金銭を受け取って従軍したい者は誰でも,例え囚人であっても受け入れられるべきである」
 ここで言及されている「異端」とは,紛れもなくボヘミアのフス派のことである
 市場や祭などの群衆の多数集まる場所で,請負人によって鳴り物入りの宣伝と募集が行われたランツクネヒトのように,
集団傭兵契約を行う盗賊騎士団を介さず,市民や農民を個人契約の形で吸収することによって成立する新しい傭兵制度の
普及である
 この変化には戦術上の要求が大きく関わっていた
 クルトレーとモン・ザン・ペヴェールのフランドル民兵軍や,ナンシーでブルゴーニュ公を殺したスイス槍兵は,
当時無敵を誇った純粋攻撃兵器である装甲槍騎兵に対して重槍兵密集陣の防御兵器としての戦術的可能性を示した
 一度,戦場における歩兵の戦術的有効性が認識されるや,量的に大量の兵員を調達できる有力な源泉として,市民や農民が
領邦領主の前に大きくクローズアップされるようになった
 戦史上類を見ない畸形的な衝撃力を備えた装甲槍騎兵の圧倒的な戦術的優位に翳りが生じはじめた
 勿論,装甲槍騎兵が戦場から姿を消すのは16世紀末まで待たねばならなかった
 しかし,無敵の突撃兵器である装甲槍騎兵の威力に対抗できる可能性が保証されつつあった
 装甲槍騎兵がデビューする前の10世紀以前の戦場を支配していた戦闘の方程式が,再び少しずつ戦場を支配し始めようと
していた
 戦場に単純に大量の兵力をぶち込めばぶち込む程に勝利の可能性が見えてくる戦争のスタイル対応すべく,軍隊は変容して
いく
 克服すべき障害は幾つもあり,更なる年月と労力と創意と血肉が要求されることになるが,変化は止まらなかった
 騎士と市民と農民を同列に置いた新しい軍隊に,盗賊騎士団の付け入る余地は全くなかった


 そんだけ.

35 :遍歴の騎士故郷に帰る :03/12/27 09:27 ID:???
 盗賊騎士団の中核をなしているのが騎士である以上,各地を放浪する盗賊騎士団は,領邦領主と対等の立場で双務的な
傭兵契約を結ぶことを望みこそすれ,必ずしもその永久的な隷属下に入ることを望まず,場合によっては領邦権力に反抗する
危険性すら持っていた
 この傾向は特にイタリアの傭兵隊長に顕著で,比較的主権の確立していたドイツではイタリアほど極端ではなかったが,
彼らドイツの盗賊騎士団も一つ間違えれば危険物となり得る不羈奔放な性格は同様であった
 盗賊騎士団を構成していた没落騎士が,必ずしも土地を所有しない浮浪の徒ばかりだった訳ではないこと,あるいは
帝国騎士の没落は否定できない事実としても,全ての騎士が盗賊騎士という諷刺語そのままの状態にあった訳ではなく,
なお相当量の土地を所有していたこと等はこのことを裏づけている
 14世紀末,盗賊騎士団と比較的良好な関係にあった皇帝ヴェンツェルに対し,多くの領邦領主が盗賊騎士団の解散を
要求して圧力を加えたのも当然だった
 当時,領邦主権と等族議会の二元構造が必然だったとしても,権力強化を目指す領邦にとって,領邦権力に本質的に
超然的な立場をとる盗賊騎士団の存在を公認する訳にはいかなかった
 領邦を側面から支えるラント・フリーデ運動において盗賊騎士団が攻撃対象になったのもこのような事情によるものだった
 そしてその動きは領邦の強化と等族議会の弱体化が進むにつれて加速していく
 やがて15世紀に入って戦術上の変化が軌道に乗り始めた時,没落の度合いを深めた騎士,市民,農民が従来とは全く
異なる立場から新しい傭兵軍に参加するようになると,盗賊騎士団は完全に消滅する


 そんだけ.

36 :領主のものは領主へ :03/12/27 09:28 ID:???
 中世国家の形成に際して,レーン制は個々に発生した地方領主権力の組織者としての役割を演じた
 しかし一方で,このレーン制による支配関係では,封臣の封主に対する独立性の維持,封主の封臣に対する服従の要求と
いう不断の利害の対立があり,この対立は結局は両者の実力関係いかんによって解決された
 このような対立は封主と封臣の間だけでなく,更に独立的な権力者相互間においても常に不可避的に存在し,この一種の
無政府的な闘争状態に対処するために,封建的支配者は自ら武装せざるを得なかった
 しかし封建的支配者の軍事力は,彼ら自身のフェーデに備えるためのみならず,被支配階層の反抗を抑圧する機能もまた
有していた
 勿論平時に農民を規制する手段としてはまず荘園裁判があり,農民の個人的反抗に対して直ちに軍事力が行使された訳では
ないが,それでも封建権力の基盤をなす軍事力は,領主権にとって潜在的かつ基礎的な強制力として働いていた
 しかし農民の反抗が個々の領主の保有する軍事力を超えて集団化組織化された時,封建領主たちは必然的に平時の
無政府的対立を放り投げ,ここに反乱鎮圧のために統一された封建軍事力が動き出すことになる


 そんだけ.

37 :本命 :03/12/27 09:28 ID:???
 中世末期最大の農民一揆であるドイツ農民戦争においても,多くの領主が同盟や協定を結んで農民団と対立した
 ロートリンゲン公アントンは,1525年5月,自領であるロートリンゲンの一揆を鎮圧し,ついでアルザスに侵入し,
5月15日,ツァーベルンで当地の農民団を撃破し,1万8000の農民が殺されたと言われている
 その後,5月下旬に帰国するまで中部アルザスの農民を襲撃してまわっている
 ヘッセン方伯フィリップは,1525年5月上旬,フルダ修道院領の一揆を鎮め,5月15日,フランケンハウゼンで
ミュンツァー指揮下のミュールハウゼン一揆軍を撃破し,その後,ザクセン公ゲオルグと協同してミュールハウゼン一揆を
完全に鎮圧した
 ブランデンブルク辺境伯カジミールは,シュワーベン地方とフランケン地方に挟まれたリース及びその周辺の農民一揆を
各個撃破して5月8日にオストハイムでその主力を撃破し,更に北フランケンに進軍してキッツィンゲンで
ビルトハウゼン農民団を殲滅した
 彼らは一揆農民に対する残虐な仕打ちで有名になったが,それでも各地で農民団を軍事的に撃破した事実は間違いない
 しかし,彼らは個々に独立して戦っていたに過ぎず,農民戦争で決定的な役割を果たしたとは言い難い
 反農民勢力の中核をなしていたのは,強力な封建諸侯の個人的な軍事力ではなかった
 それは文字通り危機に直面したドイツ南西部の中小封建領主によって組織されたシュワーベン同盟軍である


 そんだけ.

38 :戦う農夫 :03/12/27 09:29 ID:???
 ドイツ農民戦争の時期は,ドイツ傭兵ランツクネヒトが一般化しつつある時期でもあった
 ランツクネヒトの普及は同時にドイツにおける優秀な歩兵軍の出現を意味していたが,ランツクネヒトの普及が
マクシミリアン1世の政策によるかどうかは別として,とにかく農民戦争の時期ががその勃興期に当たっていたことは
間違いない
 ドイツ南西部はランツクネヒトの故郷であり,多くの農民は傭兵に応募した経験があり,このためにしばしば農民団は
傭兵団として組織され,傭兵が指導者となった
 リース農民団は,各村から選ばれた24名の委員からなる委員会が最高指導部を形成し,これによって役員が任命されて
いたが,委員も役員も全て傭兵上がりで,中には1525年のパヴィアの戦闘から帰ったばかりの者もいた
 5名の隊長には各々7,8名の護衛兵が配属され,旗手,下士官,衛生下士,給養下士,書記,鼓笛手,陣営内の警務を
司る憲兵1名が任命されており,全員に報酬が支給されていた
 また,リース農民団の旗には,握手した農民と傭兵の姿が描かれていた
 このような傭兵団的な組織の農民団はリース農民団に限らず,タウベル農民団,フルダ農民団,ヴェルテンベルク農民団,
ミュールハウゼン農民団等,至る所に存在しており,他にも傭兵が村々に一揆を煽動し指導して歩いていた例少なく
なかった
 農民戦争を戦った農民団はその名からイメージされる純朴な農夫の群でも,圧政に耐えきれず立ち上がった義民の集団でも
なかった
 彼らは紛れもなく一線級の訓練と経験を積んだプロの戦闘集団だった


 そんだけ.

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