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<第二次世界大戦FAQ


 【質問】
 戦前・戦中の日本の金属資源開発の状況は?

 【回答】
 先日から読んでいた,『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』読了しました.
 三輪さんの著作や,もしかして軍事板FAQを参考にした?と思われる節無きにしも非ずですが,まぁ,太平洋戦争初心者レベルを卒業し,次のレベルにステップアップするくらいの人にはお勧めの本と言えるかも.
 日本の戦争政策が如何に行き当たりばったりで,戦後も同じ道を辿ってきたか,分り易く書いてますだ.

 さて,鉄話の代りに,今日は錬金術の話なぞ.
 鉄鉱石は鞍山一帯で産出し,それを元に撫順炭砿の石炭と組み合わせて製鉄を行っていますが,その製鉄所で必要な耐火煉瓦を調査していた最中の1924年,煙台炭砿で礬土頁岩を発見しました.
 当初は通常のカオリン(元モー娘.の彼女じゃなく,粘土の一種で陶磁器の原料)に比して著しく礬土(酸化アルミニウム)が多かったので,ボーキサイトに区分されましたが,これとは異なるもので,「礬土頁岩」と命名されました.

 この地層は一般粘土層と同じく層状であり,鉱量は相当多いと考えられ,1925年以降,各地で地質調査を実施します.
 この結果,復州,本溪湖,牛心台,田帥夫,小市などで礬土頁岩を採取することが出来ました.

 資源小国の日本は,礬土頁岩からのアルミ精錬に着目するのですが,ボーキサイトに比べ,アルミナ分が少なく,硅酸分の分離が困難,更に精錬費の高さが工業化に二の足を踏ませました.

 斯うした中,日本本国の研究機関では「粘土からアルミニウム」という課題に挑戦しますが,全て挫折し,唯一満鉄が,1925年に鞍山製鉄所で試掘と同時に始められ,一方の撫順炭砿では1926年に理化学研究所に試料を送って研究を依頼しました.

 そして,前者は1930年に満鉄中央試験所に移管され,硫酸法(湿式法)を開発,それより前の1929年に理研では乾式法が開発され,実用化の道が拓けました.

 1932年に関東軍の要望で,工業化試験を実施し,結果,理研の乾式法は開発中止となり,湿式法に乾式法の長所を取り入れたアルミン酸カルシウム法を1935年に開発,1936年には撫順に満州軽金属製造を設立して,年産4,000tの設備を建設,1938年に最初のインゴットを出荷しました.

 これも南方のボーキサイトが確保されるまで,日本のアルミニウム生産の一翼を担っていましたが,1945年の敗戦後,ソ連は設備,機器,資材一切を接収し,以後,再建されることなく幻の技術になっています.

 また,ロシアは炭砿と金銀鉱に興味を示し,満洲でその開発を試みました.
 満洲は産金地としても有名で,しかも山金,砂金共に土法によって採掘されていた為,満洲での権益確立後,満鉄は主要金鉱11カ所の他,調査箇所900カ所で企業的可能性を調査.

 その結果,満洲採金が1934年に設立され,その後も満洲の全面積の76%を対象に,調査が行われています.
この中には治安が悪い箇所とか前人未踏の僻地なども含まれ,多くの犠牲を払いました.

 最盛期には直営鉱業所15カ所,請負金廠20数カ所,採金夫は2万人に達する一大産業となり,1937年度の産金高は398万8,601グラム(当時の貨幣換算で,1,211万1,197円)に達するものでしたが,太平洋戦争後は採金夫の確保が難しく,1943年で会社は解散しています.

 このほか,大石橋付近では,地質調査所によって,層厚2,000mに達するマグネサイト鉱床が発見され,その鉱石は苦土(酸化マグネシウム)分47%,鉱量15億トンと推定される巨大なものでした.
 その採鉱,精錬,加工,販売を一貫して行う会社として,南満鉱業が設立され,満洲の外貨獲得手段として,大豆と共に貢献しました.

 これで得られたマグネサイトから金属マグネシウムを製造する企業化試験もまた,中央試験所で行われ,1933年に日満マグネシュウムを設立して,直江津,宇部に工場を建設,また1937年には更に改良した製法が開発され,満洲軽金属を設立,営口に工場を建設して,金属マグネシウムの生産を行っています.

 斯うして考えると,ただ一つ,石油だけが無かった訳で.
 石油採掘の試掘の場所が,後山脈一つ超えていれば,太平洋戦争は無かったかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月24日22:53


 【質問】
 これは本当なんですか?

――――――
 この当時,日本は石油や鉄屑など,戦略物資の80%程度を米国からの輸入に頼っていた.
 鉄屑と言われて首をひねる読者がいるかもしれないが,要するに,製鉄所の能力が低くて,鉄鉱石からの精錬だけでは,需要を満たすだけの鉄を産み出せず,溶かして再利用できる鉄屑が貴重な資源だったのである.

――――――『「戦争」に強くなる本』(林信吾著,ちくま文庫,2007.12.10),p.142

 【回答】
 戦略物資の多くを米国からの輸入に頼っていたことや,戦前日本の製鉄の質が劣っていたという点に関しては,確かにその通りなんですが,鉄屑の輸入理由に関しては…….

▼ 鉄屑はそれ自体,一つの重要な資源でして,鉄鉱石の代替資源というだけの存在では決して有りません.
 鉄屑はそれ自体,一つの重要な資源でして,製鉄所の能力の高低だけが,それを輸入する理由ではありません.▲

 たとえば電気炉による製鉄では,ほぼ鉄屑だけが原料です.
(冷鉄源と呼ばれます)
 また,転炉でも溶銑の他,少量のくず鉄が原料とされています.
(転炉で鉄屑を使うのは,温度調節のためらしいが,ソース未確認)

 このうち電気炉は特殊鋼を生産するのに向いているそうです.
http://ameblo.jp/yk08-blog/entry-10040392636.html

〔転炉が〕日本に導入されたのは1957年です
が,
戦前の日本において主力であった平炉による製鋼で米国から輸入しているくず鉄が重要な役割を果たしていました.
「Wikipedia」:平炉

 そういえば同書の参考文献には,鉄屑がどのように使われるまでは書かれていませんからね.
 先入観をもとにして,想像でモノを書いちゃったんだね(笑)
(でも製鉄の方法は,当方は小学校の社会科の授業で教わりましたけどねえ……
 社会科見学の授業を,ホホイは受けなかったんですかねえ?)

 ちなみに同書には他にも,類似の現象が幾つか見られます.
 同書は基本的には書籍紹介の羅列で成り立っている本なので,紹介されている本の内容に沿っているうちは比較的マトモ(少なくとも『反戦軍事学』などよりは遥かにマシ)なのですが,そこから一歩でもはみ出すと,途端にトンデモな記述が表れてきます.

 せめて,どこからどこまでが,何を参照にした文章なのか,範囲を明示してくれると良かったのですが……

ゆきかぜまる in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年07月05日 01:38(黄文字部分)
&消印所沢

▼ ちなみに,講座派の方らしい小山弘健氏の,『図説世界軍事技術史』(芳賀書店,1972)の257ページの記述より,シーメンズの方法を元にして鉱石と屑鉄から溶鋼を作る方法を考え出したとするような記述があり,それを元にして「マルタン 屑鉄」のキーワードで検索すると,次の文が見つかります.
http://www.sankyoren.com/publish/Metal-0905.pdf

bugaisha in FAQ BBS,2009年7月5日(日) 22時30分
青文字:加筆改修部分

 このページを読むと,やはり屑鉄を入れるのは温度制御のためとのこと.

▼ 余談だが,『太平洋戦争3 「南方資源」と蘭印作戦』(森本忠夫・黒野耐他著,学研,2009.6)付録の復刻版「写真週報」には,
「海の底から屑鉄回収」
という静岡県清水港の記事が載っていた.
 清水港出入りする船から落下した鉄板やワイヤー,チェーンなどを回収している,という話.
 記事では,
「鉄や銅の特別回収では一般家庭からの回収は好成績をあげたが,特別施設(工場,会社,銀行,娯楽施設や宿泊施設など)は芳しくなかった.
 こうした心がけを見るにつけ,一般家庭はもちろん,特別施設の鉄銅回収には率先して協力してほしいものだ」
とあるのだが,何というか,こう…ねぇ.

グンジ in mixi,2009年06月28日16:01
青文字:加筆改修部分

▼ 【反論】
 以下参照.
 「ヒストリーチャンネル」の実況で拾った,ちょっと悲しい話↓

 鉄を作るには,鉄鉱石から作る方法と,鉄屑をリサイクルする方法がある.
 今の日本だと,鉄鉱石から作る方がコストが安いんだけど,鉄鉱石から鉄を作るには,巨大な設備投資のかかる高炉という炉が必要なんで,設備投資をする金が無いなら,鉄屑をリサイクルする方が,民間の小さい炉でもできて,遥かに楽.

 そんな感じだから,戦前の日本の高炉は,官製の巨大炉2つで日本の生産量の殆どを占めていて,それだけじゃ全然足りないから,民間の小型炉では,アメリカから大量の鉄屑を輸入していた.

 これじゃいかんと,日本政府も貧乏な中から何年もかけて,民間の製鉄会社が高炉を建設したり,小型炉も新型に換装することに補助金を出すことを目的とした予算を,どうにかこうにか捻り出した.
 のにバカが日中戦争始めちゃって,その予算を食い尽くした.

 おかげで,鉄屑が無いと,鉄がまともに作れないという貧弱な生産体制のまま,鉄屑の3/4を輸入してたアメリカと戦争ですよ.
 アホとしか言いようが無い.

 結局,戦後もその体制のままだったのがコストに反映して,鉄が欧米の1.5倍の価格だったから,普通だったらどうにもならなかったんだけど,朝鮮戦争でそんな鉄でも飛ぶように売れたから,それでようやく,民間製鉄会社が自前で高炉作ったりその他の炉の換装したりして,やっと50年代に他の工業国並みになったってのが事実なんだよね.

漫画板,2013/05/14(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 満州での製鉄状況は?

 【回答】
 さて満洲には,鉄鉱石が鞍山一帯に埋蔵されており,高麗や遼代に採掘されていました.
 しかし,程なく採掘が行われなくなり,1909年に満鉄が調査を行うまで全く顧みられませんでした.
 満鉄は1911年,この鉄鉱山を日清共同経営とする事を,清国に打診しましたが,日本を警戒した清国の受容れるところと成らず,程なく清朝が倒れ,中国内部がゴタゴタして暫く放置され,1916年になり,鞍山地区の鉄鉱開発を目的に,やっと日中合弁振興無限公司を設立することに漕ぎ着けました.
 1919年に,同公司の供給で鉄鉱石を加工する第一溶鉱炉が鞍山に完成し,満鉄鞍山製鉄所として,初期には富鉱を原料として成果を上げます.

 この鞍山の鉄鉱石の埋蔵量は50億トンなのですが,その内,鉄の含有量が50%を超える富鉱は0.1%に過ぎず,此の儘では直ぐに尽きてしまいます.
 其処で,殆どを占める貧鉱を活用する方法を模索し,鉄鉱石発見以来18年掛けて,1926〜27年頃に貧鉱から製鉄をする方法を確立し,その企業化に成功しました.

 これは採鉱には液酸爆破法を用い,選鉱に際しては還元焙焼法を用いて貧鉱処理を行うもので,この知見を元に,1927年に鞍山製鉄所は満鉄からの分離と根本的刷新が決定され,翌年銑鋼一貫作業の計画を提示,更に翌年,京城に本社を置く満鉄子会社として,昭和製鋼所が設立され,製鋼工場の建設が進められましたが,折からの不況で製鋼工場の建設は遅々として進みませんでした.

 1930年,製鉄の方では,鞍山では高炉の増設,改造により銑鉄年産28万トンを達成します.
 翌年,満州国が成立すると満州国政府の重点政策案件として,鞍山製鉄所の銑鋼一貫工場の建設が取上げられ,1933年に昭和製鋼所に対し,鞍山での工場建設を認可,満鉄から鞍山製鉄所を分離し,昭和製鋼所に譲渡することになりました.

 1937年,満洲重工業開発が設立されると,昭和製鋼所はその傘下に入り,鉄鋼増産五箇年計画の中心となって,大拡充が行われ,1945年には満洲製鉄に統合されて敗戦を迎えました.

 1942年,第一次五箇年計画終了時の生産計画では年産で,銑鉄280万トン,ルッペ50万トン,鋼塊283万トン,鋼材135万トンに上り,これらは日本の製鉄所で更に加工され,製品にされています.
 但し,この数字は太平洋戦争中の為,計画達成は無理で,実際には資材難,原料炭の質の低下,諸条件の悪化でこれを下回っています.

 こうして一度,満鉄は製鉄工場を手放しましたが,中央試験所では1934年以来,海綿鉄(鉄鉱石や砂鉄をコークス粉や木炭と混ぜて1000度程度の低温で還元した海綿状の鉄塊)を用いた特殊鋼の開発を進め,これによって造られた特殊鋼は,欧米のそれと変わらない良質のものでした.

 この成果に注目した軍の要請で,撫順炭砿にフルサイズの実証実験工場を建設し,1939年に運転を開始.
再び,鉄鋼業に参入することになりました.

 第一期工事で成果を収めたので,引き続き工場拡張の為の第二期工事が開始されます.
 しかし,この工事は資機材入手難で遅延し,1941年にようやく完成.
 1942年には海綿鉄6,605トン,鋼塊7,542トン,各種鋼材5,736トンを生産していました.

 折からの米国による屑鉄輸出規制に伴い,原料鉄として海綿鉄の需要が増し,三カ年継続事業で年産2万トンの特殊鋼増産計画が行われました.

 この計画は結局達成出来ませんでしたが,航空機用特殊鋼は殆ど全品種,ダイス鋼,高速度鋼など工具鋼,発条鋼,炭砿需要の中空鋼,鉄道部門のステイ材など多様な製品を作り出し,品質も高く評価されました.

 1944年度の生産高は,鋼塊各種12,000トン,鋼材9,000トンと向上しています.

 満鉄式海綿鉄製造法は,鉄鉱石を回転炉で予備還元し,電気炉で製鉄または製鋼することで,高炉方式や屑鉄投入方式よりも良質な鉄鋼が得られました.
 この為,戦後もこれをベースとして各種手法が各国で開発され,長く使用されています.

 虎は死して皮を残す…ではありませんが,満鉄は鉄道技術だけでなく,各種の先端技術企業でもあったわけです.
 …オーパーツではありませんよ,念の為.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月25日22:28


 【質問】
 太平洋戦争時の,金銀白金を巡る日本の状況は?

 【回答】
 さて,金の話.
 時代は下って満州事変の頃にまで飛びます.
 12月になると金輸出停止に踏み切り,紙幣を金貨に交換する兌換も停止しました.
 そして,金の裏打ちが無くなると,満州事変以後,日本は急坂を転げ落ちるように,財政は急激な膨張を続けます.
 どちらかと言えば,金よりも軍需物資の確保が優先事項となり,鉄鋼・機械・食品などの民需品は圧迫されていきました.
 金の生産資材もこれは同じでした.

 1937年7月,盧溝橋事件により中国との実質的な戦争が開始されました.
 こうなると,事態は一変し,直ぐに軍資金として利用出来る金の需要が高まり,「産金法」「重要鉱物増産法」が施行され,金鉱山業,金精錬業に対する奨励金の交付と,産金業に必要な資材の輸入税免除と言う産金業に対する特別優遇措置が行われ,産金増産の資金融通,貧鉱の採掘での損失が出た場合は政府がその損失分を補填するなど増産と政府への集中が行われる様に成ります.
 また,大蔵省造幣局は産金地帯を持つ札幌,秋田,熊本に出張所を開設し,金,白金の分析と買取を開始しました.
 札幌出張所は,南六条西二丁目にあり,完全な分析設備を備えて鉱物の試験や,金銀地金の精製,砂金,指輪,時計などの金製品を分析して買上に当りました.
 当時の市街では,金買人と言う職業があり,簪の折れたものや,指輪,金歯の壊れたものがないか,各戸を回っていたそうです.

 1941年12月以降は太平洋戦争に突入し,軍需物資の輸入が困難になると,国内生産で賄わねばならず,金鉱山にも増産を強制,市町村の住民は「勤労報国隊」として,また,「学徒動員」「女子挺身隊」を動員しても,なお採掘夫は足りず,朝鮮人を強制連行しての低品位鉱脈の大量採掘体制を敷き,乱掘を行っていきます.

 当然,こうした乱掘により採掘された低品位鉱を精錬しても,生産費の方が多く掛かってしまい,目標額に達しません.
 其所で,政府は「御国の為,勝つ為」と,国民に対する貴金属の供出運動を展開していきました.
 これは,鍋釜だけでなく,後に金製品や白金などの貴金属にまで拡大されていきます.
 戦後,これらの物資を隠匿して云々と言われたりもした訳ですが….

 山師達も腕まくりをして金鉱石を探し求めました.
 彼等は,御国の為とかそんなのではなく,単に自己の利益の為.
 そして,糸筋ほどの鉱脈を見付けると,図面と「他の鉱山の鉱石」を持って鉱山局へ金鉱開発を申請します.
 勿論,金鉱なんかまともに出やしません.
 つまり,助成金が目当だったりする訳で,役所もまんまと騙されてしまっています.

 因みに,日中戦争以後,政府は歳出を普通の税収で補えなくなり,多額の赤字国債を発行していきます.
 1941年末の公債の発行高は87.8億円でしたが,1944年には269.9億円に達しました.
 此の額を超えているのが今の日本なのですが,それは扨措いて….
 こうした公債は日本銀行などに引受けさせた為,日本銀行券の発行残高は,1941年末に59.78億円だったものが,1944年末になると177.45億円に達し,インフレの足音が聞こえていきます.

 そう言えば,某書店の新書で,ヒトラーの経済政策が大恐慌に有効だなどと書いていたものがありましたが,あれは,「借金しても踏み倒せば全てOK」と言う,危険な政策であることが分かっていない本ですわな.
 1939年の段階で,既に公債の発行は抜き差しならない所まで追い詰められていた訳で.

 余談は扨措き,1943年以降,連合軍の通商破壊戦によって海上は封鎖され,軍需物資は完全に途絶,これにより,貿易決済の為に利用されていた金が不要になってしまったので,政府の政策は此処で180度転換します.
 即ち,1943年になると,「金鉱山整備令」を発布して多くの金鉱山を閉山,休山に追い込み,北海道でも大小100余の鉱山が対象となります.
 そして従業員達は,より重要な鉄鉱山,銅山や石炭の生産現場やダムの工事現場へと異動させられています.
 ただ,金鉱山全てが閉山,休山になった訳ではなく,金の他に銅,水銀,珪酸など重要物資が並行して産出する様な鉱山は操業が認められていました.

 1945年8月15日,日本は無条件降伏をして太平洋戦争は終結しました.
 以後,政府は重要産業として鉄鋼業や炭坑を指定し,輸入重油をこれら諸産業に配給することで,他の産業への資材供給を企図したのですが上手くいかず,1948年頃に漸くその産業の血流が流れるようになっていきます.
 それと共に貿易が再開され,となると,決済手段として金が必要と成ってきた為,1948年以後に国内の金鉱山は復旧を図り,生産の再開に向けて努力を始めました.
 最初は微々たるものでしたが,1950年6月の朝鮮戦争勃発は日本産業界に干天の慈雨を齎し,1952年頃から各鉱山の産金量は増大し,1955年には戦前の水準に戻っています.

 現在でも補助金詐欺は跡を絶ちませんが,国は60年前と同じ事を未だにやってるんですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/26 22:07


 【質問】
 太平洋戦争中の北海道の白金鉱山の状況は?

 【回答】
 さて,砂金と密接な関係にある貴金属として第一に挙げられるのが砂白金です.
 日本では,北海道の中央を南北に走る脊梁山脈を境に,山脈の西側を稚内から浦河まで帯状に走る部分が,砂白金の唯一の産地となって居ます.

 砂白金は,クロム鉄鉱または磁鉄鉱と共に暗緑色乃至黒色の蛇紋岩鉱床中に極めて微量に含まれており,それが様々な破壊作用で砂白金粒が分離し,川の中,下流の堆積層に沈んだものです.
 その大きさは普通0.05mmで重さ2g程度であり,3.75g(1匁)以上のものは稀であり,1921年に鷹栖で発見された2匁51(9.41g)を最高に,1941年にニセイナイにて発見された2匁03(7.61g),1匁65(6.19g)しか発見されていません.

 旧河床または上流の砂白金は大粒で角張っていますが,下流になるほど細粒となり,海岸での発見は例外なく微細なものとなって居ます.
 形状は,稜角に富むもの,円磨されたもの,粒状など様々な形をしていますが,飛鷹の沙流川上流のニセウからは稀に六方結晶形が,雨竜地区の政和,犬牛別のそれには砂クロムが付着したものが多く発見されます.

 漂砂鉱床は地殻変動の影響を受けやすく,雨竜川は数km日本海側にありましたが,天塩山地の隆起で徐々に現在位置まで移動しています.
 戦時中,帝国砂白金は,天塩山裾から雨竜川までの旧河床の砂礫層を大々的に採掘し,砂白金産量の70%以上をこの旧河床で採掘しており,これからも雨竜川の移動が実証されました.

 余談ながら,プレートテクトニクス理論は,戦前の日本では全く顧みられず,種々の葛藤を経て1960年代頃にやっと受容れられるようになったそうな….

 因みに,砂白金の鉱床には0.5%から50%の割合で必ず砂金を産出する特徴があります.

 ところで,金無垢は昔から貴金属として利用されていましたが,白金が記録されたのは極めて新しく,1748年のコロンビア(当時はスペインの植民地)でスペイン海軍の士官ドン・アントニオ・ウロアが天文学と鉱物探査をしながら7年を過ごしていた時,ニューグラナダのポパヤン地域を流れるピント川とチョコ湾で砂金に混じって白色で銀より重く溶けない金属を発見したのが最初です.
 ウロアはこの白色金属を銀の一族と考え,スペイン語で「銀」を表わす"Plata"を附けて「ピントの小さい銀」,即ち"Platina del Pinto"命名します.

 「銀より重く溶けない金属」と言う代物に科学者が注目し,ウロアの報告書は数カ国語に翻訳され,1884年までに6種の白金族元素が発見されました.

 元素としてのプラチナは,英国の科学者チャールズ・ウッドが,1741年にジャマイカで入手したコロンビアの白い金属を,友人で医者,科学者でもあるウィリアム・ブラウン・リッグと2人協同して本格的に実験,研究した結果,1751年に新元素として英国王室協会で発表した事に始まります.
 それから53年後の1804年に英国の物理学・科学者のウィリアム・H・ウラストンが,パラジウムとロジウムを,同じ年にその友人S・テナントがイリジウムとオスミウムを発見しました.
 因みに,ウラストンはプラチナの精錬と加工に成功し,販売会社ジョンソン・マッセイ社を立ち上げました.
 最後のルテニウムは,1844年にロシアのカザン大学で化学教授を努めていたカール・カーロヴィッチ・クラウスが,プラチナ製錬所から出る残渣物に着目し,研究を繰り返して2年間をかけて漸く抽出に成功した元素です.

 日本では,「白金」と言えば貴金属のプラチナですが,天然の砂白金には2〜3種の他の白金族との合金が多く,「砂白金」の「白金」は「白金族」を表わします.

 北海道のそれは,イリジウム,オスミウムを多く含有する砂白金族であり,学名はイリドスミンと名付けられました.
 砂白金とは,漂砂鉱床からさんする砂状をした白金族の天然合金の総称であり,白金鉱石,砂白金には,普通2〜3種の白金元素の他,鉄,錫,銅などの金属を微量に含み,且つ稀に金や砒素を含有していることがあります.
 多種多様な鉱山を有している日本には白金鉱山こそ無いのですが,中部北海道の稚内から浦河までを貫く区域で砂白金が産出し,日本もコロンビアやタスマニア島に次ぐ世界三大白金産地として知られた時期もありました.

 プラチナは「溶けない金属」でしたが,王水には溶け,苛性ソーダなどの水酸化アルカリや塩素と反応します.
 ただ,空気中では酸やアルカリに極めて安定し,1オンス(31.1035g)のプラチナは4.3kmに及ぶ細い線や,箔にするとテニスコート一面分にも延ばせます.
 更に,他の白金族との合金も可能なので,これを活用して触媒として,また,宝飾品として利用されるようになりました.

 この白金も御多分に洩れず,1931年の満州事変以後は急速に値上がりを始め,政府は「白金使用制限規則」を設けて,装飾品,装身具の民間への使用を禁じ,航空機始め兵器の精密部品,電気工業,医療機器用に重要資源である白金を一手に集荷する為,東京に6店舗,大阪に4店舗,京都,広島,北海道に各1店舗の指定商を決めて回収に当らせました.

 北海道では名寄の島田商店が白金指定商となり,この会社は,鉱区主を会員とした組合を設立して砂白金の集荷と生産強化を図りました.
 戦争が進展するにつれて,増産計画書に基づいて天塩,和寒,沼田,夕張の各現場で割り当てられた現場である沢や川を掘りまくりました.

 太平洋戦争の勃発は,イリドスミンの輸入を完全に途絶させ,北海道産が頼りとなりました.
 この為,商工大臣岸信介は,船橋要に急命し,1943年12月22日に,軍の協力の下で「帝国砂白金有限会社」を旭川に設立させました.

 帝国砂白金は主産地の鷹泊に大隊本部を設置し,海軍元請土建業の菅原組が原野を切り開き,道路を作り,事務所や職員,徴用者の住宅,挺身隊宿舎の建設,鉄道が敷設され駅を設置します.
 これにより,駅前に商店が並び,督励に要人が訪れるので旅館が建ちます.
 更に,開拓者の入植が急増し,定住者が増加すると寺院や病院が建ち,未踏の原野に忽然と1つの市街地が出現しました.

 社長となった船橋要以下150余名の職員が鷹泊の大隊本部から3個中隊に分れてそれぞれの現場各隊に派遣されて,増産に当りました.
 この帝国砂白金は,戦時中のこともあって軍隊組織を採用し,鷹泊に大隊本部と第1本部を置き,幌加内,和寒,夕張と全道の砂白金産地の要所に大隊を置き,全部で4個大隊が配下にいました.
 船橋要は,社長ではなく,連隊長並の地位にあり,大佐の軍服を着て指揮に当りました.

 鉱区主は作業員と共に徴用され,鉱区は全て強制買収,産地周辺の雨竜開発,炭礦汽船,王子製紙の造林も買収し,問寒別にあった北海道大学演習林も開放させて,雨竜川を中心とした全道の砂白金産地は全て直轄として,砂白金と砂金を一手に掌握しました.

 しかし,労働力の不足から1943年以降2,000余名の「ロームシャ」を朝鮮半島から徴募し,それでも足りないので徴用学徒勤労隊,女子挺身隊も混じって冬期間も休まず採掘を続けました.
 また,菅原組は多くの人夫を引き連れ,事務所,倉庫,飯場の建設,川の堰き止め工事,表土の除去作業,物資輸送用の道路を切り開き,山奥まで電気を引き込みました.
 この会社は1943〜45年に掛けて,延べ約85万人を動員しましたが,採取総高15貫400余匁しか採れませんでした.
 つまり,60kg程度しか採掘出来なかったのです.

 松の根より低い産出額ですが,労働者側は,その数に比して経験者が少ない上,労働者の待遇が悪く,生産意欲が上がらなかった事.
 一方,会社側としては生産が最悪の場合でも,会社は補助金によって賄われるので,個人の損害が無いと言う国策会社特有の弊害が出ていたのもあります.
 因みに,白金60kg程度の採掘に対し,政府の支出額は4,000万円に達しています.

 例によって,壮大な無駄遣いに終わった訳ですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/18 22:27

 さて,砂白金の採取法自体は砂金の採取法と違いはありませんが,戦時中,雨竜川で行われたのは,「河床掘り」と言う大規模な方法が採用されていました.

 これは,川幅40〜50mもある雨滝川の水流を堰き止めて堰き止めた川の水は,大誘水路に導き,その間干上がった河床から砂白金を採取する方法で,人海戦術でその河床を浚うというものです.

 もう一つの方法としては,天塩山系の麓から雨滝川まで数kmの川の移動の跡である旧河床の表土を,5〜8mに渡って菅原組の数百名の「ロームシャ」が掘り下げ,砂利層が出て来ると,其所に大量の人数を投入して採掘すると言う方法がありました.

 何れも,今では絶対に出来ないであろう人海戦術で,中国の大躍進時代を我が国も笑えません.

 その砂金の採取法は,昔からある流し堀りが先ず第1に挙げられます.

 これは川の中の石を取り除き,片側に一列に積み上げ堀場を作り,揺板を水の中に沈め,上に載せたメッカイ笊と呼ばれる笊にカッチャで砂礫を入れ,笊を揺すって砂利を棄て,揺板を揺すって軽い土砂を流して砂金を採る方法でした.
 名人は,揺板に山盛りにした土砂を水の中で揺すり,半分ほどになったら,其の上にカッチャで土砂を山盛りにして揺することを2〜3度繰り返し,半分残った揺板の土砂に水を少々入れて軽く叩くと土砂の中から砂金が一列になって流れ出してくるので,これを赤色の絹布で受けていました.
 因みに,揺板には未だ土砂が残っていましたが,その中には一粒の金も残っていなかったそうです.
 更に,砂金を採取する際には,必ず川の中央に立って水の流れを見て,寄場(溜場)を適確に判断し,金が何所に沈んで溜まっていくかを一瞬で見分けたとか.
 また,川底を掘って,赤鉄鉱と土状鉱物の混合物である小豆石が多ければ其所には砂金,白濁り水が出たら其所は砂白金の川と言うとはっきりを言い当てたそうです.

 次いで使われ出したのは,樋流しです.

 これは1900年5月にアラスカ・クロンダイクで砂金を掘っていた米国人が来日して齎した「スライスボックス」法を改良したものです.
 彼等は,2年後には帰国してしまいましたが,その「スライスボックス」に代わって樋を用いた方法を考え出しました.
 この方法では,旧河床や段丘など川から遠く離れた砂金場では樋を幾本も繋ぎ,大量の土砂を流すことで採取量の増大が見込まれました.
 土砂を流すには水が必要ですが,水が無い場所では川から水を天秤棒で運んでいました.
 後に夏の間に水を集める様,幅60cm,深さ50cmほどの溝を1〜数カ所掘っておき,春3〜5月頃,溝の下に樋をかけて雪解け水を利用して,樋流しをしていました.

 砂金が含まれた土砂を掘り崩して水の流れる樋に投げ入れると土砂は水に押し流され,樋の最下部の桟やネコと呼ばれる部分に比重の大きな金属だけが残るので,それを揺板に移して,水中で揺すって砂金を採ります.
 この方法を採用した場所では,流し掘りに比べると大量の土砂を処理出来,生産量は格段に上がっていました.

 少数派ではありますが,砂金の溜場が見つかると,木製または金属製の水中眼鏡で水の中を覗き,金粒を細い竹の先に附けた松脂の「モチ」(松脂を食用油で練ったもの)でひっつけて取る「メガネ掘り」と言う手法も使われた様です.

 こうした砂金の採掘場所は彼方此方移動する必要が有る為,砂金堀は衣類,毛布,米,味噌,鍋,豆ランプまたは蝋燭,燐寸,雨具の代わりになる油紙,鉈などの生活用具一式を大きな袋に入れ,それらを背負子に固定し,其の上に商売道具である揺板,カッチャ,笊を結わえ付け,腰には熊除けの鈴またはラッパと予備の草鞋をぶら下げて,川筋を試掘しながら彷徨していました.

 良さそうな場所が見つかった場合,或いは山中で夜を迎えると,仮小屋若しくは笹小屋と呼ばれる住居を作成しました.

 仮小屋は,若木の幹を4本,鉈で伐り,2本ずつ左右の地面に突き刺します.
 笹竹または細木の長いものを地面に置き,其の上に笹,または葦などを10〜20cmほど敷き,其の上に笹竹または細木で抑え,下の横木を蔓草で固く結んだものを2枚作ります.
 この2枚を三角の骨組みに結んで出来上がりと言う極めて単純な住居です.

 この仮小屋は,1時間程度あれば出来たとか.
 太平洋戦争で,旧陸軍が促成した三角兵舎のルーツは此処にあったのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/19 22:20


 【質問】
 太平洋戦争中の北海道金鉱山の状況は?

 【回答】
 先日は,松前の砂金鉱山の話を書いてきた訳ですが,金山は地形学的に見て,丘陵地乃至1,000m以下の比較的低い山に多く,上部が浸食されて丸くなっている事が多かったりします.
 北海道は浅熱水性鉱脈ですから,1,000m以上の高山や,比較的新しい火山である樽前山,羊蹄山,駒ヶ岳には金は存在しません.

 明治期に北海道の彼方此方から砂金が採れる事が伝わりましたが,ウソタンから流れてきた砂金堀数人が,枝幸からオホーツク海岸沿いに川筋を探見しながら南下し,紋別の八十士川支流の十二号川上流で砂金山を発見しました.
 これを発見した砂金堀によるスパイ戦擬きの出願争いがあり,且つ,書類の不備から鉱区が重複し,それが原因で双方から400名に及ぶ人夫が出て紛糾,警察官が派遣されて3名の逮捕者が出るなど,1年に亘って紛争が続きました.
 最終的に妥協が成立し,八十士川協同組合が設立し,採掘に取りかかりました.

 この砂金山は,長年の風化作用で上部が土砂状となって崩れ落ち,砂金山となったものでした.
 採掘は露天掘りで危険性皆無,スコップやカッチャで土砂をトロッコに積み,川へ運んで流し掘り,樋流しで採取しました.
 品位が高く,安全で効率的な山でしたが,次第に土砂を掘り尽くして,明治末期には20貫から10貫未満へと採取量が激減し,売却して住友が取得しました.
 住友では調査の結果,金鉱脈であることに加え,水銀が多量に埋蔵されていることから,鴻之舞支山として運営しています.

 八十士川から砂金山が見つかったことは周辺地域の探鉱熱を煽り,八十士から直線距離で7km足らずの上藻別六線沢で金銀露頭(後の三王金山)が発見されました.
 更に数km奥地に入った所からも,1916年に大露頭が発見され,これが後に鴻之舞金山として開発されました.

 これもまた,第一発見者がよく判らず,片や探鉱家今堀喜三郎と沖野某の組,片や池澤亨などの組がそれぞれ独自に見つけたことにより,壮絶な出願戦が繰り広げられました.
 沖野は発見直後,採取した鉱石を持参し,札幌鉱務所に鉱区出願し,1916年3月13日付で試掘権を得ます.
 最終的に鉱務所の正確な実測により,第1,第2号露頭が沖野,第3号露頭が池澤の鉱区となり,鉱務所の説得で双方共に組合を作って探鉱と採掘事業を行い,これを鴻之舞と名付けました.

 しかし,小資本での開発には限界があり,1917年2月,住友鉱業が90万円でこれを買収することになりました.

 住友は1918年12月から本格的に操業を開始すると共に,探鉱を進め,次々と大富鉱帯に着脈,1トン当り最高品位金2,000g,1トン当り銀20kgと名実共に日本最大の金銀鉱床となりました.

 こうして住友の手によって採掘が進められていきますが,1931年の満州事変以降,大量の軍需物資の輸入買付の為に決済用に金の需要が急増し,日本銀行の買上価格も引上げられました.
 1937年以後,「産金法」制定により国家統制を受け,国によって増産を命じましたが,戦火拡大による坑夫の応召による労働力の不足で思うように産出量は増えず,遂には,朝鮮半島や中国から「ロームシャ」を当初は募集形式で,後には徴用で鴻之舞に送り込み,坑内作業に従事させることになりました.

 ところが,1941年12月の太平洋戦争で事態は一変し,海外貿易が途絶すると共に,決済手段としての金の必要性は薄れ,金山の整備休廃と言う方向へと国の政策が180度変わりました.
 その後,通商破壊で物資輸送路が絶たれていくと,国内の銅,鉄,鉛,石油,石炭等の戦略物資確保のため,不要不急鉱山である金山は休鉱となり,1943年4月1日を以て,全国の金山坑夫,職員,「ロームシャ」は,各地の銅山,鉛鉱山,亜鉛鉱山,銅製錬所,炭坑,建設工事に異動させられました.
 鴻之舞は金銀山でしたので休山,支山の八十士は水銀を産出する為,継続となりました.
 因みに,住友が鴻之舞に投資した金額は6,000万円,鉱石の産出は累計500万トンで,その売却額は1億2,000万円に達したと言います.

 こうして最盛時1万数千人を誇った街は消滅しましたが,対外貿易が再開されると,決済手段として再び金が必要と成ります.
 戦後間もなくGHQは鴻之舞の再開を許可し,1949年7月に製錬所が完成し,以後,設備が拡大して鉱石処理能力も向上し,1954〜55年には戦前の最高水準を上回る2971.5kg,2967.2kgの産金量を誇っています.
 ところが,コストは上昇するのに加えて,金の品位は低下,更に政府の金買上げ価格が低く抑えられた為利益が出ず,高度経済成長の波に揉まれるようにして,規模を縮小し,1973年10月末に閉山となりました.

 その後,再開の話も持ち上がりましたが,廃液を処理する調節池の決壊で以前に漁業が被害を受けたことから,紋別市の同意が得られず,そのまま沙汰止みとなり,結局,鴻之舞は静かに時を過ごしています.

 因みに,金鉱石は精錬すると廃滓の処理が問題となります.
 特に,金鉱石の精錬には,青化精錬を使いますが,これには青酸カリを使用し,その廃滓は沈殿池に放棄していました.
 これが決壊すると河川や海,農地を汚染することになり,農漁業への被害が甚大になります.
 鴻之舞は閉山後,既に36年が経っていますが,未だに坑内から湧出す坑水を薬品で処理し,基準値以下の無害であることを確認して放流しています.
 この坑水は永久に続くこともあり,鴻之舞,手稲の各金山と言った青化精錬処理を行っていた鉱山では,坑水処理の為,現在でも数人が処理を行っているそうです.

 高度経済成長と言うのは,結局はこうした鉱害を海外に押し付け,輸出したものと言えるんじゃないですかねぇ.
 そうした資源を無駄遣いしておいて,「子孫に緑を残そう」「日本の緑を大切に」なんてちゃんちゃら可笑しいと思うのですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/17 22:08


 【質問】
 戦時中,なぜマグネシウムを日本は自給できたのか?

 【回答】
 理研で,食塩のニガリからマグネシウムを製造する方法を開発し,工業化に成功していたため.

 以下引用.

------------
 ピストンリングと共に大河内研究室が創案した金属マグネシウム工業化にあたっては,資金が足らず,最初,商工省に工業奨励金を申請した.
 理化学興業の創業時代で失敗も多く,まだ経営は軌道に乗っておらず,あちこちずいぶん赤字を出して,理研の第2の危機と評する声も出た.
 この工業化計画そのものを冷眼視する技術者もあって,計画の縮小を忠告する者もいたが,彼は断固強い確信をもって予定通り作業を進めた.

 世の中は,深刻な不景気のさなかであった.

 工業化の見通しがつくと,屑ゴム再生法なども併せて,さらに大蔵省預金部から融資を受けようと猛運動した.
 が,緊縮財政方式をとっていた井上準之助によって最終的に否決された.

 やむをえず,小坂順造の信濃電気の資本と提携して,直江津の工場を一部利用し,余剰電力とここの施設によって工業化に着手し,昭和7年,理研マグネシウム株式会社を設立した.

 しかし,より大規模な工場が欲しい.
 山口県の宇部は電力供給にも恵まれ,原料のニガリも供給し易いので予定地としたら,たまたまマグネサイト鉱から金属マグネシウムを精錬する技術を開発中だった満鉄が接近してきて,その結果,満鉄が資本金を50%引き受けて筆頭株主となった,日満マグネシウム株式会社が設立されて,大きな工場が建てられた.
 生産開始1年後には上海事変が起こり,以後,航空機の発達によって加速度的に需要は増え,大河内の先見の明のおかげで,太平洋戦争が終わるまで,当初,輸入に頼りきりだった,ジュラルミンに必要なマグネシウムに関して我が国が不自由することはなかった.

 田中〔角栄〕は,
<私は……山口県宇部の日満マグネシウム工場の仕事まで,あらゆる工場の事業計画と工場設置計画に参画させてもらったので,今でもそれらの工場の中に配置された主要機械の配置まで覚えている>
と書いている.

------------宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.209-210

 それにしても,たった1年前というきわどいタイミングではある.


 【質問】
 兵庫大仏って何?

 【回答】
 戦前日本において,奈良の大仏,鎌倉の大仏と並んで,日本三大大仏の一つに数えられていた大仏.[1][2]
 兵庫県神戸市兵庫区の天台宗寺院,能福寺(のうふくじ)にあったが,1944年,金属類回収令で国に供出され,消滅した.[1]

 能福寺は805年,最澄により能福護国密寺として創建された.[2]
 桓武天皇の勅命により中国に留学していた伝教大師最澄が帰途,兵庫和田岬に上陸し,歓待した庶民によって建てられた堂宇に大師自ら刻んだ薬師如来像を安置し,能福護国密寺と称したのが当寺の開創と伝えられ,伝教大師による我が国最初の教化霊場とされている.[4]

 また,平清盛ゆかりの寺でもあり,清盛の墓所や清盛塚も境内に存在する.[2][4]

 大仏が建立されたのは明治24(1891)年.[1]
 鎖国が解除されて兵庫港が開港したことで,キリスト教信者が急激に増え,危機感を抱いた仏教徒らによって建てられた.[2][5]
 その際,莫大な金額を寄進したのが,兵庫の豪商・南条荘兵衛である.[2][5]

 また,幕末の頃から見世物としての大仏建立ブームがあった[3]ことも見逃せない.
 今の台東区にあった佐竹が原の大仏や,サンフランシスコで開催されたパナマ太平洋博覧会において建立された,竹籠製の大仏がその代表的存在である.[3]
 本気の信心と,ブームとしての大仏建立と,その二つがないまぜになって出来たものであろうことは想像に難くない.

 できた大仏は座高8.5mの青銅製.[2][5]
 明治から大正時代にはこの大仏を中心にたいそうな賑わいを見せ,お土産屋はもちろん小屋掛けの見世物も出ていたという.[2]
 海外からの観光客も多く,英文の碑も建てられた.[2]

 しかし前述したように,1944年5月に解体,金属回収供出され,大仏は消滅.[1]
 おまけに,翌年3月には神戸大空襲により,伽藍も全焼している.[1]

 なお,大仏建立100年目に当たる1991年,大仏が再建されている.[1][2]
 初代の大仏と姿がかなり異なっているが,これは現代の神戸市の耐震基準に合わせ,重心が低く設計されたため.[5]
 確かに,初代は見るからにトップヘビーである.
 先の金属回収の際,大仏の胎内に納められていた胎内仏は供出されることなく保存されており,大仏が再建されたとき,再び胎内に納めたという.[5]

 【参考ページ】
[1] http://news.mynavi.jp/news/2012/11/20/070/
[2]http://1st.geocities.jp/hiro_1th/kimasita18/ittekimasita18.html
[3]http://www41.tok2.com/home/kanihei5/Hyogo-hyogodaibutu.html
[4]http://www.y-morimoto.com/s_saigoku/s_saigoku23.html
[5]http://kobe.travel.coocan.jp/kobe/nofukuji.htm
[0]https://www.youtube.com/watch?v=B0rTNLfbtd4

初代・兵庫大仏
(こちらより引用)


 【質問】
 戦争に備え,平時から希少金属を硬貨にして国内に置いておいて,戦争が始まった際それを回収して使用したという話を以前見たのですが,何の金属ですか?

 【回答】
 十銭・五銭硬貨がそうです
 昭和8年に十銭・五銭白銅貨を改正し,材質をニッケルに変更しました.これは軍需資材に必要なニッケルを備蓄する為であったと言われています.
 わが国でほとんど産出しないニッケルは,砲身や砲弾に使われる金属だったからです.
 昭和12年には支那事変から日中戦争へと戦時下となりました.
昭和15年には十銭・五銭がアルミ貨になり,
昭和16年にはアルミ一銭貨がさらに小さくなりました.
 しかし戦局は悪化の一途を辿り,遂にはアルミニウムも使えなくなってしまいました.
 昭和19年には占領下のマレーから大量の錫を移入したので,貨幣も素材をアルミから錫に替えました

 戦争末期には金属不足になったことから,陶器のお金を作って・・・という計画もありました.

 なお,アメリカの5セントニッケル硬貨についても,そういう伝説がありますが(日本語版Wikipediaの「ニッケル」の項目等),
「戦争のために硬貨に」
していたという事実はありません.

 ただし,第二次世界大戦中に米国の硬貨のニッケルの比率が変えられたのは事実で,米国以外の国でもWWII中には,ニッケル硬貨の合金比率が変わっている例があります.


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