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木炭バス


 【link】

「神保町系オタオタ日記」■(2006-01-25) [文藝]石井研堂と朝倉文夫  『石井研堂』(山下恒夫著.リブロポート シリーズ民間日本学者)
>戦時下の物資不足で,ギブスに使う言葉が病院にはなく,寿郎氏[研堂の長男]が彫刻家の朝倉文夫の家まで出向いて,わけてもらった.

「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-22)大日本帝国と風力発電

『決定版 太平洋戦争3 「南方資源」と蘭印作戦』(森本忠夫・黒野耐他著,学研,2009.6)
> 南方資源や経済関連の記事が多数でした.
> 特に戦前の日本の貿易の問題を解説してる所などは興味深かったり.

『調査・朝鮮人強制労働 1 炭鉱編』(竹内 康人著,社会評論社,2013/08)


 【質問】
 戦前日本は南方資源地帯の獲得に動きますが,昭和初期から終戦までの期間,鉱産物の自給率はどの程度だったのでしょうか?
 戦時中,無茶な資源採掘を行ったのは知ってますが,それでどの程度賄えたのか気になりまして.

鉄鉱石87%
石油75%
高オクタン価燃料についてはほぼ100%輸入
石炭11%
生ゴム100%

以上数値は昭和5-9年の平均値
http://www.meti.go.jp/hakusho/tsusyo/soron/S24/H05-01.htm

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本の資源輸入は戦争にどう影響を受けたのか?

 【回答】
 戦前日本も負のスパイラル状態でした.

 自動車工業に於ては,1936年に自動車製造事業法が公布され,トヨタ自動車や日産自動車などの許可会社は,大衆車を月産1,500台生産する計画で,工場の建設に取りかかり,資材や工作機械,特殊鋼,電装品などを欧米に発注しました.
 ところが,1937年7月7日,盧溝橋から日本と中国の宣戦布告無き戦争が勃発し,臨時輸入に充当していた30億円は,軍関係の戦備に充てられます.
 一方で,満洲の産業開発は進捗せず,資源開発も儘ならず,結局,重要戦略物資を欧米から輸入する足枷の中,更に日中戦争拡大の泥沼により,欧米からの輸入資源は徐々に絞られ始め,結局,民需よりも軍需に偏った,
 しかし一方で重要戦略物資を輸入に頼ると言う,いびつな経済となっていきます.

 1938年の昭和13年物動計画の重要7品目のうち,航空ガソリンの67%,アルミニウム49%,電気銅40%,車輌向けガソリン34%と4品目が輸入主体でした.
 このほか,屑鉄と粘結炭は鉄鋼メーカーに納品されて,製鉄原料となっています.

 ところが,輸入資源が禁輸措置などで減少に転じると,重要産業の生産力は低下していきます.
 普通鋼の場合は,米国を中心とした輸入材が1939年に30万トン入っており,これを含めて510万トンの生産額でした.
 これが翌年の屑鉄禁輸になると,輸入額は7万トン低下し,普通鋼生産の合計は480万トンに低下,元々,1938年当時の物動計画では年度計画で472万トンだったのに対し,輸入鋼が暫時減少し,1941年にはその計画を10%割り込む441万トンに低下していきます.
 特殊鋼でも事情は同じで,1939年に輸入は3.3万トン余で,合計48万トンの生産だったのですが,1941年には普通鋼より更に低下が著しく,35万トンにまで生産が落ち込みました.

 ガソリンは以前にも触れましたがもっと深刻で,1938年の物動計画では石油製品53万klの輸入を予定し,国内精製で101万klを生産予定だったのですが,日米通商条約破棄の影響で,27万klに落ち込み,1939〜40年に米国による実質上の禁輸で,1941年には7.8万klまで輸入が低下,国内精製も基となる石油がないので,42万klまで落ち込みます.

 航空ガソリンは車両用よりも高品質のガソリンであり,1938年の物動計画では輸入10万kl,国内精製5万klと輸入品が主となっていました.
 この為,陸海軍とも燃料廠を建設して国内精製の増強を図り,1939年には輸入実績5万klに対し,国内精製7万klに達します.
 しかし,1941年には輸入4万kl,国内精製は6万klと低下していきます.

 更に輸入資源が減少する一方で,軍需用の物資は増大の一途を辿り,普通鋼は1938年で25%程度の軍需で残りは民需だったのですが,1941年には46%に急伸し,特殊鋼は1938年の23%から1941年は66%,電気銅は50%,航空ガソリンは90%の軍需占有率で,普通のガソリンでも1939年14%だったのが,1941年には29%に急増しています.
 結果的に,国民生活に直結する部分の生産力は低下し,国民生活の質は低下する一方だった訳です.

 こんな首根っこ掴まれた状態で,よく戦争を決断したものだと後世の我々は思ったりする訳ですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月24日21:30


 【質問】
 日本が戦争中にさまざまな資源が輸入できなくなりましたが,鉱物資源の場合,必要量に対して日本国内や大陸,台湾,朝鮮半島でコストを度外視して採掘しても戦前の必要量すら確保できなかったのでしょうか?
 日本の鉱物資源は種類が豊富で量が少ないのは知ってますが,大陸や半島でどれだけの資源を調達できたのか,コストを度外視しても調達できなかった資源,ある程度は確保できた資源を知りたいです.

 【回答】
 石炭,鉄鉱石など連合国の通商破壊で日本本土への輸入が叶わなくなった資源の場合,本当に採算を度外視して,鉱脈があれば人的資源を投入して採掘を行ないました.

 しかしながら,重要な問題として,当時の日本は重工業における生産の為の機械を,ほとんど自前で用意できませんでした.ぶっちゃけ後進国に毛が生えたレベルでしたから.

 その結果,その鉱山開発に必要な採掘機械生産への投資や,資源配分が行なわれなかったため,既存の鉱山から採掘機械を転用するなどして,本来,重要鉱山(例えば,室蘭の鉄,常磐,筑豊の炭坑など)で使用すればもっと生産が上がったであろうものまで影響を受けており,そうした資源開発をすることは反って生産効率を落とすことになっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/10/01
青文字:加筆改修部分

 例えば石炭の場合,廃坑に捕虜を送り込み,取りこぼしの石炭を根こそぎ採掘するようなことが行われていたそうな.人力で.
 当然,落盤事故続出.

 以上,バタアン死の行進を生き残り,この過酷な労働からも辛うじて生き残った,レスター・デニー氏の証言.
 ただし,デニー氏は現在,鉱山会社を相手取って訴訟中であるゆえ,その点は留意すべし.

消印所沢 ◆z3kTlzXTZk :軍事板,2004/10/02
青文字:加筆改修部分

 あと,石油は開戦時の日本の領土領域からは絶対に必要量が確保できないものだった.
 たとえその後になって油田が発見された土地でも,その当時では採掘する技術や石油が産出する,という調査資料がないし.

 そもそも,コストを度外視したら,国家経済が破綻してしまいます.
 そうなったら戦争どころではなくなるかと・・・.

 ついでに重要な問題として,当時の日本は重工業における生産の為の機械を,殆ど自前で用意できなかったってのがある.
 ぶっちゃけ後進国に毛が生えたレベルだったから.
 どのみち無理な戦争だったのよ…

軍事板,2004/10/01
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ww2当時,日本はどうやって飛行機や戦車に使う鉄,服の繊維,銃の火薬を調達していたのですか?

 【回答】
 鉄鉱石は中国から輸入,コークスも中国から輸入(日本のは北海道のものを除いて品質が低くてお話にならない),鉄鋼を作るのには屑鉄が必要でしたから,これは米国から輸入していました.
 米国の輸出停止で,どうしようも無くなり,国内で金属回収運動ということで,寺の梵鐘からビルに設置されていたエレベーターのゲージまで回収してそれに充てますが,更にそれが消耗すると,金属加工で出た金属屑を回収して屑鉄の代わりにしています.

 服の繊維は,綿糸や羊毛の輸入は途絶しますので,麻を中心に,更に化学繊維としてスフの増産が奨励され,民需向けには綿糸,羊毛にはスフが混入されるようになりますが,羊毛に関しては,軍需向けのものもあり,こちらは,ある程度保護されています.
 化学繊維としては,木材パルプを用いたスフとレーヨンが増産されます.スフは羊毛の代用品,レーヨンはエジプト綿の代用品です.
 絹糸は未だ自給が可能なので,一定量は残されます.

 しかし,大戦が進展するにつれて,こういった産業は不要不急産業(輸出が出来ないから外貨獲得源としての価値がない)として,軍需産業に転身させられています.
 一番大きいのは,航空機の部品製造への転身で,工場の女工ごとその製造に入ったケースが多いです.

 火薬は,TNTの主原料のトルオールが,石炭乾留工程の副産物ですので,製鉄所で生産出来ます.
 その他の原料も或程度は国産化出来ますので,一応の自給は可能でした.
 但し,大量生産出来るかと言うと,少し疑問符が付きますが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/12(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大戦の末期に海上封鎖で塩が不足したそうですけど,海に囲まれた日本で何で塩不足なんかが起きるんでしょうか?

 【回答】
 製塩には大量の燃料が必要となる.
 近代以前だと,塩田は周囲の林や森から伐採と植林を繰り返し複数の生産地を使いまわしていた.
 戦前なら燃料は石炭が相場だろう.石炭は北海道や九州辺りが産地.
 海上交通が破壊されれば燃料不足で製塩が出来なくなるのは自明の理.

 また,当時の製塩方法は入浜式製塩.
 これは気候,海岸の地形に左右されやすく,瀬戸内の十州塩が製塩の大半を占めていたように産地が偏り易い.
 同上の理由で輸送が阻害されれば,他の地方への塩の供給が止まる.

 更に,日本本土上空を米艦隊の艦載機や硫黄島等から飛んでくる陸軍戦闘機が飛び回るようになると,日中海水を焚いているとその煙を上げている設備が銃撃された.
 海水焚きの製塩は24時間以上焚き続けなければならないので,日中釜に火を入れられないと製塩が出来ない.

 加えて東海地震で塩田が被害を受け,徴兵による若壮年の労働力不足で,数少ない生産量が壊滅状態になった.

 工業用の塩は満州などから輸入していたのが,途絶えたということもある.
 海上封鎖されてるので輸入出来ず,どうにもならない状態だった.

 それに,イオン交換膜法がある現代でも日本は塩の一大輸入国だ.
 それより遥かに効率の悪い入浜式製塩をやっていた戦前なら,ちょっとでも妨害を受ければあっさり塩不足が起きる.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前・戦時中の日本の炭鉱の状況は?

 【回答】
 鉱業法に於ける鉱山の定義と言うのは,金,銀,銅,亜鉛,マンガン,ウラン,硫化鉱などを産出する金属鉱山,硫黄,石灰石,耐火粘土,珪砂など産する非金属鉱山,石炭,亜炭,泥炭を産する炭砿に分けられます.
このほか,岩石や石材を採掘する山は,採石法で規定されますが,この採石法は鉱業法に準じる規制が為されています.

 で,南関東天然ガス田の北東,茨城から福島に掛けては石炭層が拡がっています.
 それが最初に発見されたのは,いわき地方の内郷にある弥勒沢で,時は江戸末期.
 今までは,燃える石として珍重されていただけでしたが,江戸末期から明治初期にはエネルギー源として脚光を浴びます.

 こうした常磐炭田の特徴としては,阿武隈高地東縁で石炭層が露頭し,東側に向けて約10度の傾斜で深度を増し,海に至るものです.
 従って石炭層が露頭しているか,比較的地下に浅い部分には鉱業権者が殺到し,鉱区が細分化され,個人経営もしくは零細資本の炭砿が多数作られます.

 これら炭砿のうち,福島県の湯本・内郷地区からはカロリーの比較的高い石炭が産出されましたので,これに目を付けた浅野,川崎などの大手資本が進出し,大規模な開発が行われていきます.
 一方,他の地域では,石炭のカロリーが低い為,大手の進出が無く,小規模・零細炭砿が数多く分布していました.
 斯うした炭砿では,採掘規模も小さく,輸送手段も貧弱で,大規模な積み出しも出来ないため,海運が発達して,九州や北海道から安く良質な石炭が入ってくる様になると,関東の企業でも,これらの石炭を買うことなく,結局,早くに潰れていくことになります.

 また,茨城県の炭砿も湯本・内郷よりもカロリーが低く,大手の進出が無かったのですが,こちらの鉱山主は,湯本・内郷地区の大手炭砿で技術・経営を学んだ人々が多く進出しました.
 但し茨城県側の炭砿は,開発着手が遅かったため,十分な資本が蓄積できなかったりします.

 小規模零細炭砿が生き延びたりするのは,例えば近くに石灰鉱山や耐火粘土などの大規模な非鉄鉱山がある場合で,此処に大資本が進出して,色々な施設を建設する時に,工場用動力として売却するとか,これら大資本の建設した専用鉄道に便乗して,常磐線や磐越東線に輸送し,其処から関東地方に輸送するルートが確立された場合でした.

 1938年10月になると,採掘場所のうち最も東方に当たる場所で小名浜坑が開削されます.
 この採炭箇所は地下600mに達し,その石炭は6,000カロリーの高品位炭でした.
 エネルギー資源の乏しい日本が,斯うした炭砿開発を放っておく筈が無く,1944年10月から出炭を開始します.
 当時は,海上交通が徐々に通商破壊で蝕まれ,海外や筑豊,北海道からの石炭が関東の工業地域に計画通り輸送出来なく成りつつあり,大いにこの炭砿は注目を集めました.
 このため,国家総動員態勢下でこの開発は最優先とされ,1938年からは勤労報国隊,徴用鉱夫を「黒ダイヤ戦士」として称揚し,人的資源の動員を図りますが,更に不足気味の二次産業従事者を増やす必要があることから,1943年6月に「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され,中学生以上の勤労動員が強化され,常磐炭砿にも,福島県立磐城中学校5年生が,動員されました.
 彼らは通学元別に分けられて,各施設建設現場に通いますが,特に特殊専用側線の建設には,生徒全員が動員されました.
 常磐線湯本駅から鹿島坑(小名浜坑から改称)までの2.12kmを建設します.
 これには常磐炭砿の社員の監督の下,建設の指導には仙台高等工業学校土木科の生徒が指導し,学生による建設作業が進みますが,更に建設速度を上げるため,朝鮮人労働者や,連合国軍俘虜も動員されました.

 連合国軍俘虜は,いわき地方では古河好間炭砿と磐城炭砿鹿島炭砿に充当され,前者は仙台捕虜収容所第二分所で,収容人員は英国人101名,ポルトガル人67名,カナダ人46名,米国人17名,その他15名の合計246名,後者は仙台捕虜収容所第一分所となり,英国人232名,カナダ人198名,オランダ人135名,米国人2名の合計567名が終戦時に暮らしていました.
 彼らのうち,身体の丈夫な者は炭砿作業に動員され,それ以外の者は専用側線作りに動員されています.
 この専用側線は,丘陵をダイナマイトで爆破して鶴嘴で切り崩し,その土砂を炭車に積んで現場に赴き,スコップで積み上げるというもの.
 石炭の燃殻を道床に流用したりと結構無茶な作業をしていましたが,無事側線が完成したのが,1945年8月10日.
 結局,戦局には何ら寄与せず,戦後の復興に一時的に役立ったものの,常磐炭砿の石炭には硫黄が多く,大気汚染がClose upされると,販売ルートが閉ざされてしまい,1973年までに閉山されてしまいました.

 その後に出来たのが,常磐ハワイアンセンターだったりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月20日22:08

 1897年6月に日本鐵道磐城線(今の常磐線)が開通する前後に,炭砿と磐城線を連絡する鉄道が幾つか計画されていました.
 但し,本来は専用鉄道ですが,専用鉄道規則は1900年にならないと施行されなかった為,自家用鉄道と称しています.

 北海道で米国の地質学者から鉱山・地質・測量技術を学んだ元士族の桑田知明と言う人も,自分が開削した秋山炭砿と高萩駅との間4.22kmを自家用鉄道で敷設する計画でした.
 しかし,沿線住民から耕作の為の灌漑,人馬の通行に不便だから敷地を変更してくれと言う嘆願が茨城県知事宛に出され,敷設は必ずしも順調とは言えませんでした.
 それから10余年後の1908年には,1年の工事延期願を出しています.
 その工事実態が明らかになっていない事から,1909年11月になると鉄道院から茨城県を通じ多賀郡に,実態調査を命じています.
 これに対し,多賀郡長は,1905年12月25日にこの鉄道が竣工した旨を回答しています.

 一方で,桑田知明はこれとは別に,1909年3月に同じく高萩駅から秋山炭砿に向けて,3.98kmの馬車軌道による特許申請を行い,8月に特許認可,そして,9月13日に竣工しています.
 ところが,先の1905年竣工の専用鉄道は,実は影も形もなかったりします.
 謂わば,幻の鉄道となっていた訳です.

 桑田知明の拓いた秋山炭砿は,鉱区内のトラブルに悩まされた上,販売成績は芳しくなく,1914年には,後に大手の大日本炭礦となる,茨城炭砿に売却されてしまいました.
 しかし,専用軌道や専用鉄道の権利は譲渡されませんでした.
 大日本炭礦では,専用馬車軌道を整備して,1930年頃に内燃機関車を導入します.

 ただ,世間は不景気の波が吹き荒れ,大日本炭礦も,1910〜20年代の好景気に闇雲に鉱区を拡大したツケが出て,経営が苦しくなります.
 其処で,秋山炭砿の直接経営に見切りを付け,1931年8月に鉄道諸共,上田炭礦と言う会社に,賃貸する事になりました.

 ところが此処で,桑田知明氏から大日本炭礦に免許の移転届けが鉄道省に出されておらず,上田炭礦は,正直に届けを出した為に,逆に鉄道省から詰問を受ける羽目に陥ります.
 上田炭礦は事情を知りませんから,事実関係だけを淡々と報告するに留まりますが,逆にその釈明は疑惑を招き,鉄道省は茨城県に対し,3月に経過の調査を指示する事になりました.
 茨城県の方としても,古い記録が残っておらず,しかも,最初の鉄道免許は,専用鉄道規定の公布前だった事で対応に苦慮し,結局,知らぬ顔の半兵衛を決め込みましたが,当時の鉄道省の官僚は,仕事熱心だったのか,4ヶ月後の7月に催促をしています.

 とは言え,先人の好い加減な報告が発端になっていて,それが公式な回答になってしまっていたので,茨城県も苦慮していました.
 そうこうしている内に,11月に再度,茨城県知事宛に鉄道省から督促状が届きます.
 これまた,知らぬ顔の半兵衛をしている内に,1934年2月に再再度督促状が届き,上田炭礦がこれに回答するも,当局は納得せず,6月には上田炭礦に,「責任者を出せ」と迫っています.

 上田炭礦から泣き付かれた大日本炭礦は,漸く重い腰を上げ,7月に鉄道省に対し,1914年の買収当時,設備一切を桑田知明氏と共有し,茨城炭礦を設立,1917年に大日本炭礦と商号を改称したと弁明します.
 つまり,免許の譲渡届けを出さなかったので,当初から共有していたものと強弁した訳です.

 色々工作したのかも知れませんが,8月には結局,大日本炭礦はお咎めなしとなりました.
 即ち,実態の無い架空の鉄道免許も,架空の儘引き継がれた訳.

 1940年になると,戦時景気に乗って,新たに勃興した高萩炭礦と言う会社が,臨時資金調整法の適用を受け,磐城炭礦の所有していた廃鉱区を買い取り,未だ経営危機に喘いでいた大日本炭礦から,不採算炭砿となっていた北方,手綱,秋山の各鉱区を買収します.
 でもって,架空の鉄道免許も,高萩炭礦に譲渡されました.

 太平洋戦争が始まると,常磐炭砿の石炭は京浜工業地帯への手近なエネルギー供給源として俄然注目を浴びます.
 そして,炭砿からの産出石炭を円滑に輸送する為,国鉄の手によって(実際には学徒動員や捕虜によった訳ですが),特殊専用側線と言うものが建設されます.
 ドサクサに紛れて,高萩炭砿もこの特殊専用側線を敷設する許可を1943年に得たのですが,これがその架空免許を用いたものでした.
 資材は鉄道省から払下げられ,優先的に工事が進められますが,戦況が逼迫して,特殊専用側線の一日も早い竣工を願った鉱山局長直々の視察の結果,千葉から鉄道聯隊の応援150名を得て,工事を進めましたが,1945年に入ると空襲を受け,昼間の工事は不可能になり,専らカンテラ光の下での夜間工事となりました.
 この頃には建設資材も不足し,結局,この特殊専用側線が竣工したのは,1945年9月25日の事でした.

 まぁ,嘘から出た誠とでも申しましょうか….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月04日21:30


 【質問】
 戦前日本の鉱山の,厚生福利の変遷は?

 【回答】
 時に,今日のニュースサイトを遅ればせながら見ていたら,更新料の有効性を争う裁判で,最高裁がこれを有効と認定しました.

 関西では,敷金礼金を結構高く設定します.
 その内,敷金に関しては,退去時に原状回復費が差し引かれた残りを返してくれるので,比較的長い間家を借りる事になります.
 一方,関東を中心に,家を借りる場合,敷金礼金はそんなに掛りませんが,2年ないし3年程度で更新料を支払わないといけないそうです.
 それを支払うのが嫌で,転居する人が多くいる訳です.
 今回の件,一概にはどちらが良いかは言えませんが,借りる側からしたら,数年に1度,大きな出費が待っているので,余り良い気持ちはしないのではないでしょうか.
 まぁ,それが嫌で私なんかは家を買った訳ですが.

 今の企業は,福利厚生費を無駄金と見ている傾向にあります.
 ですから,昔は寮やら社宅やらを社員に宛がってくれたのに,今ではそれは売り払い,殆どの企業では,従業員が自分で探したマンションなどを寮とか社宅扱いにしてしまっています.
 そう言う意味では,昔よりも今の方が居住環境は劣悪になっているような気がします.
 何しろ,そもそもの月給が年功序列時代よりも下がっていますし,家賃補助があるとは言え,その金額も雀の涙ほどですから.

 さて,労働の直接的な対価に対する賃金に対し,福利施設は間接投資です.
 とは言え,こうした福利施設は,本来労働力を確保し,労働効率を高める上で,これらは事業主が積極的に研究すべき,重要な課題と位置づけられていました.

 ただ,当初からこの様な思想があった訳ではありません.
 三菱の鉱山を例に取ってみると,次のような変遷が伺えます.

 岩崎弥太郎率いる三菱が鉱業に進出したのは,1873年に岡山の吉岡鉱山を買収した事が切っ掛けです.
 1881年には長崎の高島炭坑を買収し,海運業を分離した後は,鉱業を財閥の主要な柱に位置づけています.
 明治10年代には積極的に鉱山や炭坑を買収し,その数は50に達しました.
 これらの中では,後に鉱業の主力となっていく福岡の新入炭坑,鯰田炭坑,秋田の尾去沢鉱山等が含まれています.
 こうした買収鉱山,炭坑は,江戸時代の残滓を引き摺っていた事が多かったので,三菱では新しい時代に合わせるべく組織の改革に着手します.

 1886年に,三菱に於ける近代的労務管理及び労働者扶助施策の出発点となる,「吉岡鉱山部組織概則」が制定されます.
 此処では,従業員の作業,賃金,労働時間が明文化された他,「坑夫手子組合規約」や「恩備金規則」も定められました.
 この考え方はその後,尾去沢鉱山にも適用されていきます.
 改革が遅れた鉱山,炭坑では,1888年の高島炭坑の飯場制度の様に問題となったケースもありますが,三菱の中にも,先ずは労務管理的な施策を打ち出していった部分もあった訳です.

 ただ,買収鉱山,炭坑ばかりなので,三菱本社の統制が効くには限りがあり,性急に改革をしたのでは,現地管理者の反発を買う恐れもあり,その動きは漸進的に進められました.
 例えば,1898年制定の「使傭人扶助法」の様に,共通の規則も定められましたが,殆どの場合は,場所毎の状況に配慮しながら個別に類似の規則を制定し,後にそれを共通の規則に整えて統合していくと言う形が採られました.
 労働者の住宅施策に関しても同様に,各地の個別事情に対してまず規則を制定し,それを1907年の「住宅手当支給内規」や,1909年「社宅取扱規程」に収斂して行っています.

 また,1914〜15年にかけては庶務部調査課が,社内外の状況を独自に調査し,報告書で纏めた『労働者取扱方ニ関スル調査報告』が作成されました.
 この中では,「労働者の居住する家屋の良否,清潔如何」は労働者の仕事ぶりに影響し,それ故,「労働者の臣の発達,永久の繁栄を望むものは此の点につきて経済の許す限り相当の施設」を設置すべきだと結論づけています.
 この報告書の中には,鉱夫の募集,労働時間,賃金,日用品の供給制度,鉱夫の住居,鉱山での診療施設,鉱夫の救恤制度,教育と感化の制度,鉱夫の監督取締制度,鉱夫の慰安娯楽,鉱夫の貯蓄制度と金融制度,雇傭関係契約の終了に関する制度などが取り上げられており,特に住居に関しては質の問題にまで踏み込んで報告が作られています.
 そして,社宅の「通風,採光,位置,防火,防寒の設備」や「共同浴場,水道,下水,塵埃捨場などの衛生設備」を完備して居住者を満足させる事が重要であると説き,三菱の鉱山や炭坑の住居については,三室構成の平面や収納の多い点から,尾去沢鉱山の鉱夫長屋を当社の模範として紹介しています.
 逆に言えば,それ以外の住宅は不満であると述べている訳です.

 明治末期から昭和初期にかけての所謂,大正デモクラシーを挟んだ時代,工場法や鉱業警察規則が制定され,飯場制度の廃止に関する国会決議など,国としても労働者の福利厚生に一定の配慮を行うようになった時期ですし,また,各種の団体がこうした福利厚生に目を向け,調査を開始した時期です.

 三菱でもこれを受けて,福利施設の充実を図り,扶助制度に関しては以前と同様に個別の規定も見られますが,1916年に「鉱夫救済規則」,1918年には「炭坑鉱夫勤労賞与規定」など,共通の規定が多く制定されていきます.
 また,福利施設に関しては,飯場を意味する「納屋」と言う言葉が「社宅」に改められ,1924年には「労務研究会」が組織されて,社内外の福利施設の整備状況に関する調査が積極的に行われ,その調査結果は囲碁の施設整備に関する基礎資料として活用されていきます.

 この時期,高島炭坑端島坑,後の軍艦島には鉄筋コンクリート造の社宅が建設されていますが,こうした施設の整備費用として,1918年に三菱鉱業が三菱本体から分離独立する際に,岩崎家から贈与された100万円を元に,「労務者福祉増進基金」が設定されています.

 1925年時点で,尾去沢鉱山には,平均9.2畳の社宅616戸,寄宿所8棟,保健・衛生面では病院設備が本棟と出張所,隔離病舎の各1棟,給水設備は米代川の水を揚水して住宅方面に配水する簡易設備を設け,職員用共同浴場1棟,鉱夫用共同浴場2棟,理髪店,火葬場,共同墓地の整備,娯楽面では劇場が1棟,集会場が2棟,移動図書室には蔵書196冊を置き,山内6地区に分けて巡回しています.
 この時代ですから,祭祀として山神社を設け,体育設備として柔剣道場1棟,テニスコート3面,必需品販売施設として精米所,倉庫が全部で4棟,呉服,菓子,米穀及び酒屋など10店が入った共同売店が1棟有り,それを補完するものとして共益会供給所4棟,露天市場2箇所がありました.
 他にも消防施設や託児所,人事相談所など,正に「ゆりかごから墓場まで.」を地で行く状況でした.

 また,その施設の中でも,例えば,チフスと赤痢の予防注射や衛生講話が行われたり,芝居や活動写真等が併せて24回,つまり月に2回行われたり,遠足会や運動会が11回,ほぼ月1回の割合で行われたりしています.

 昭和に入ると,福利施設に関する調査を継続しつつ,主に社宅建設に関する取組みが強化されています.
 特に1937年になると,「職員社宅設計基準」が制定され,職員の職階に応じた面積規模や戸建て形式,便所,浴室,物置の設置可否について詳細な規準が設定されました.

 例えば,長の社宅は50〜60畳未満(寒冷地は65畳未満),室数は8,便所は2箇所で浴場と物置のある1戸建て.
 副長社宅は39〜50畳未満(寒冷地は55畳未満)で,室数は7,他の付帯設備は長社宅と同様.
 課長社宅は33〜39畳未満(寒冷地は45畳未満)で,室数は6,便所は1〜2箇所で浴場と物置のある1戸建て.
 正員社宅は25〜30畳未満(寒冷地は35畳未満)で,室数は5,便所は1箇所で浴場は原則有り,物置のある原則1戸建て又は2戸建て.
 准員社宅は18〜23畳未満(寒冷地は25畳未満)で,室数は4,便所は1箇所で浴場は原則無し,物置のある原則2戸建て又は4戸建て.
 ……とこんな感じですが,多分,現地に於ける社宅を規格化したものと考えられます.

 とは言え,何となく,以前書いた,大名家家中の士達の家の規則を近代化しただけのような気がしますが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/15 23:44
青文字:加筆改修部分

 さて,大手企業の社宅には最先端の設備が備えられていました.
 先日触れた南洋興発の社宅もそうですが,従業員の福利厚生の為,様々な施設がありました.

 この中で,どの社宅街にも存在するのが,保健・衛生施設です.

 そう言えば,私が会社員生活を最初に始めた事務所には併設して工場が有り,その中に病院が置かれていましたっけ.
 会社の健康診断はいつもそこでした.

 別子銅山では,1883年に早くも住友私立別子病院の開業に続き,社宅が置かれた四阪島にも,1905年に住友病院四阪島出張所を設けています.
 日立鉱山では1906年に付属病院,小坂鉱山では1908年に鉱山病院が開業しています.
 また,足尾銅山でも1935年までに3つの付属病院と1つの診療所を備えていました.
 更に釜石製鐵所でも,1887年の釜石鉱山田中製鐵所発足時からの社宅の一部を診療所に充て,請負制で診療を行っていますし,王子製紙苫小牧工場の王子病院は,北海道では函館,札幌,室蘭の3つの市立病院に次ぐ歴史を持ち,1910年の工場建設時に発生した軽便鉄道事故を契機に工場構内に設けられました.
 病院が独立した施設になっていたのは,釜石が1903年,苫小牧は1912年です.
 医療施設は,当時の工場や鉱山の労働災害発生リスクの高さからすれば,整備は当然だったのかも知れません.
 こうした付属の医療施設は,ただその会社に所属している労働者の為だけに非ず,その周辺地域にある一般住民も対象としており,鉱山の付属施設の場合は,特に僻地医療の拠点とも成っていました.

 鉱山でも工場でも,各職場には必ず共同浴場が備えられていました.
 一般的に職場の浴場は,鉱山や炭坑では坑口付近に置かれ,工場では構内に設けられるようになっていました.
 また,社宅街でも特にブルーカラーの人々用に,共同浴場が設置されていました.
 ホワイトカラーの人々の社宅は,先に見たように,内風呂が設置されているケースが多かったからです.
 尤も,基本的に従業員は,職場で汚れを取る為に風呂に入って帰宅するので,社宅街で浴場を利用するのはその家族が殆どだったそうですが,この共同浴場は,従業員の住宅施設の延長線として,設置されたと言えます.

 理髪所,飲用水の確保と排水施設,塵芥焼却,公衆便所や糞尿処理施設も,保健・衛生施設の範疇に入ります.
 理髪所は,大きな工場では独立している建物でしたが,例えば,王子製紙の豊原工場では職工倶楽部に,知取工場や敷香工場では共同浴場に併設するなど,工場規模によって設置場所が変わっています.
 また,別子銅山の新田倶楽部の様に,理髪店,浴場,娯楽室,喫茶室,図書室を備える複合施設になっているケースもあります.
 飲料水の確保手段として,企業は共同水栓の整備を手がけていますが,これは工場排水や鉱毒を垂れ流す事による周辺住民の迷惑料としての役割も担っており,社宅街のみならず,それとは無関係の一般家庭にも配水をしていました.

 レクリエーション施設として,企業が手がけたのは,グラウンド,テニスコート,武道場が比較的早期に整備されています.
 王子製紙の苫小牧工場では,操業開始時から遊歩場がありましたが,釜石製鐵所では,1919年の公園整備に続き,100mの直線コースとと200mのトラックを設けた本格的なグラウンドの整備を行っています.
 このグラウンドは,後に日本製鐵の社長に就任した三鬼隆の主導で造成されたものですが,三鬼は会社の許可を得ずに整備した為,東京への転勤を命じられたと言われており,必ずしも本社主導で行われたものばかりでは無かったようです.
 別子銅山でも同様に,新居浜に観客5万人を収容出来る,大規模なグラウンドの整備を行っています.

 1930年以降は,更に施設の充実が図られ,プールは1931年に小坂鉱山に,1936年に釜石製鐵所に設置されています.
 この他,北海道の鴻之舞鉱山や樺太の王子製紙野田工場にはスキー場が設けられていましたし,苫小牧にはスケートリンクを整備するなど地域に併せた特色を設けています.
 特に,鴻之舞鉱山のスキー場にはナイター設備まであり,こうした施設は,他にも三菱の尾去沢鉱山や細倉鉱山の付属施設にも設置され,花岡鉱山にはスキージャンプ台まで設置されていました.

 生活必需品販売施設としては,供給所というものがあります.
 此処では社宅居住者が,容易に日常生活用品を入手出来,多くは掛売で,しかも市場価格よりも廉価で商品を販売しました.
 こうした施設は,逆の見方をすれば,労働者に支払った賃金を再回収する施設と言うべきもので有り,社宅の自己完結性を高めるものでもあります.
 例えば,日立ではこうした事を称して,「柵内」と言う言葉がありますし,王子製紙の豊原工場では,既成市街地に隣接するものの,一般商店に頼る事無く独自に排球所を設けて自己完結的な販売システムを維持しました.
 供給所は,規模の大小こそあれ,各地の工場や鉱山の社宅街には優先的に設置されたものでした.
 取扱品目は,東京に近い日立では1919年に500種類を超えていました.
 その中で,日常生活用品と生鮮食品の取扱いについては,釜石のように供給所の取扱品目として一元販売するケースがある一方,苫小牧のように日常品は消費組合を通じて売り,生鮮食品は魚菜を設置してそちらで売ると言う,チャネルを分けたケースもあります.
 後にはこの供給所経営が重荷となり,切り離すケースが続出しますが,その嚆矢となったのは,別子銅山で,1948年に配給所を別子大丸として独立させています.

 教育は本来福利には含まれるものでは無く,企業で学校を経営するケースは,工場内で技術実習をする学校を設けているくらいしか,現代ではありません.
 しかし,戦前期には企業で小中学校,女学校,青年学校,実業学校を運営したケースが多々ありました.
 青年学校や実業学校は,そもそもが企業の技術習得の為の教育機関なので,あって当たり前ですが,社宅街が整備され,従業員が多く集まる場合,そこに住む家族の数も多くなり,行政サービスで学校の創設を待っていられません.
 そこで,企業自ら小学校などを経営する事になります.
 その嚆矢は,1873年に開校した別子銅山の私立足谷小学校です.
 また,最盛期の足尾銅山には,児童数1,600人を数えた公立小学校3校に加え,私立小学校が2校有り,この児童数は2,300人を超えていました.
 この他,公立小学校を助成するケースもあり,例えば明延鉱山では,年間5,000円の運営費の寄付,1935年に行った校舎建設などの支援を行ったり,釜石のように1881年に創設した私立小学校を1935年に釜石市に移管したりもしています.

 町から離れた施設である鉱山や炭坑,それに工場でも,給料を得るとそれを博打や過剰な飲酒に費やしてしまったりするケースが多くあります.
 当初は余り重要視されませんでしたが,作業効率を高め,離職を防ぐ為にも,企業は積極的に慰安・娯楽施設を設置しました.
 大抵は倶楽部や劇場を設置するのですが,例えば倉敷紡績の大原孫三郎が作り上げた大原美術館は,既存市街との関係を保ちながら社宅街が形成された倉敷において,従業員の情操を育む施設と言う面が強く,一種の類似施設と言えます.

 屋外には自然と触れられる農園や,子供と楽しめる遊園地が設置される事も多く,体育施設もそう言う意味では,娯楽・慰安施設の一種とも言えます.
 こうした施設は,明治期には特に重要視されなかったものの,第1次大戦に伴う好況期で労働争議が盛んだった頃に,多くの施設が建設され,昭和初期までに拡充されていきます.

 ただ,ホワイトカラーの交流施設として,早くから設置されたのが倶楽部です.
 これには食堂や大広間,応接室が設けられた他,ビリヤード場が付属したり,来訪者の宿泊施設としての機能を持つ場合が多く,迎賓施設としての役割も担っていました.
 職員向けの倶楽部は,この為,外国人技師や役員等の社宅が近い,市街地内で利便性が高い場所に設置されています.
 例えば,筑豊炭田の田川に設置された百円坂倶楽部の「百円」は役員の高額収入に由来し,「坂」は彼らが高台に住んだ事を意味しているもので,その施設の性格を端的に表しています.
 こうした施設は,和洋並立のケースが多く,和館に宿泊室,洋館に食堂やビリヤード場を充てる様な構成が見られます.
 また,こうした建物の設計は,最初は自社で行われますが,後には設計を著名な建築家に依頼するケースが多く見られます.

 一方,ブルーカラー向けの倶楽部や集会所は,職員のものとは別に建設されます.
 こちらは,慰安施設と同じく,大正期からの建築が主になります.
 基本的には,冠婚葬祭や宴会用に供される事が多く,その中には図書や新聞,雑誌を常備し,囲碁,将棋,卓球,ラジオなどの娯楽を楽しめる施設になっていますが,八幡製鐵の大谷会館は,労働者向けにも関わらず,食堂,応接室,ビリヤード場が設置された他,卓球,喫茶,図書,集会,理髪の各室に,大浴場,売店を加えた大建築で,現在は結婚式場に用いられています.

 また,演芸や幻灯は早くから行われたのですが,何れも諸室の転用か,野外での実施と考えられており,常設劇場が現れたのは明治末年頃からです.
 相知炭坑には1910年に1,200人収容の劇場があり,集会,碁会,宴席が開催されていましたし,豊国炭坑では,1,000人以上収容の集会場で,芝居,浪花節,活動写真,手品が無料で提供され,鯰田炭坑にも同様の施設があった事が記録に残っています.
 同じ頃,小坂鉱山では1910年に800人収容の康楽館が落成し,日立鉱山でも本山劇場が1913年,3,000人収容の共楽館が1916年に竣工しています.
 他にも2,000人収容の夕張炭坑演芸場,別子銅山四阪島の2,000人収容の劇場などが建設され,筑豊には50近い劇場があったと言います.

 その内部は所謂芝居小屋形式が多く,江戸以来の伝統的な造りを踏襲しています.
 ただ,小屋組は周辺施設と同様にトラス構造で,大きな梁間を可能にしています.
 中には小坂の康楽館や苫小牧娯楽場の様に,洋風のものもあり,日立の共楽館は,歌舞伎座を手本に東京への視察を経て,従業員の手によって完成させています.
 これらの施設では,演劇や芝居の他に活動写真が上映され,各種の講演が行われました.
 従業員で構成する組織がその運営に携わるケースも多く,特に日立共楽館では,土間に置かれる長いすを自由に取り払う事が出来る工夫が出来ていて,山神祭の催しとして納涼目的の噴水が置かれたり,相撲場となったり,展示会場として使われた他,周辺住民の為の児童映画会も開催されたりしています.

 因みに山神祭は,鉱山の守り神のお祭りで,重要なレクリエーションでもありました.
 大企業ではこうした山神祭が大規模に,しかも派手に行われるので,周辺の炭坑からも多くの坑夫が消えて,その祭りを見に行ったという記録もあります.
 イベントによるレクリエーションでは,運動会が催される事が多かったりします.
 これに活躍したのが,先に述べたグラウンドです.

 そう言えば,会社主催の運動会なんてのは死語になって久しいですねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/16 23:35


 【質問】
 撫順炭砿について教えられたし.

 【回答】
 今,岩間敏さんの書いた『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』と言う本を読んでいたりするからで,著者が石油公団(今はJAGMECにいる)の中の人だった所為か,今も昔も変わらない,日本の資源外交の拙さを批判する内容の本です.
 朝日新書なので色眼鏡で見る人も居るでしょうが,古巣の資料も駆使出来るし,専門家でもあるのに,私の様な素人にも分り易い文章でつづられているので,面白く読めています.

 撫順炭砿は,1000年前から高麗人によって炭層が発見され,細々と利用されていましたが,清になって東北部一帯が皇帝の故地となり,採掘が禁じられました.
 19世紀末にロシアは進出しても,その採掘経営は非常に小規模なもので,本格的な開発は,日露戦争の結果,満洲に進出した満鉄の調査の後に行われました.

 余談ですが,青島にもドイツ資本の手によって炭砿が幾つか開発されていたのですが,第一次大戦の結果,日本が接収する事になりました.
 ところが,ドイツはその地域開発にあたり,中国の地元軍閥や有力者(特に袁世凱)を利用し,中国側もこの動きを利用して,殆どの施設や鉄道を共同開発し,資本はドイツ側と中国側,中国側はそれも民間の商人が半分づつ保有していました.
 ですから,本来,日本が接収するのは可笑しな話な訳で,Versailles条約会議で,揉める元になっています.

 それは扨置き,撫順炭砿は調査の結果,炭層が東西17.5km,南北1.5〜2.5kmに分布し,層厚は東端が6m,西端が80〜120mで,埋蔵量9.5億トンと,想像を絶する規模でした.
 更に,その炭層の上には油母頁岩層があり,これまた54億トンの埋蔵量でした.
 当初は23万トンの生産量でしたが,1937年には1000万トンを超え,当時の日本全体の石炭採掘量は年間4000万トン弱ですから,1つの炭砿だけで,日本全体の4分の1に上ります.

 石炭の質は漆黒で光沢強く,揮発分に富み,燃焼は強く盛んで7000カロリーの火力を有する良質な有煙長焔瀝青炭であり,鉄鋼生産に極めて向いています.

 石炭1トンを産出するのに,何立方メートルの被覆層を取り除くかで,坑内堀か露天掘かを判断しますが,当初は坑内堀とされ,1914年から古城子,1928年から楊柏堡で露天掘を採用しました.
 但し,実際には出炭の半分は坑内堀でした.
 1939年に,東西両露天掘の合併が完了し,東西6,200m,南北1,000m,深度130m,年産310万トンの大露天掘炭砿となりました.
 東側部分は現在採掘されていませんが,当初,1961年に掘り尽されると見られていた炭層は,現在でも西露天掘部分での採掘が続いています.

 一方,坑内堀は,大山坑,東郷坑(日露戦争の大山巌と東郷平八郎に因む)より成る,埋蔵量8,015万トンの大山採炭所,老虎台坑,万達屋坑より成る,埋蔵量2億300万トンの老虎台採炭所,新屯坑,龍鳳坑,塔連坑より成る,埋蔵量1億4,700万トンの龍鳳採炭所の3カ所の事業所で構成され,採掘が進むに従って深部開発が必要となり,1937年に龍鳳坑で東洋一の大縦坑1本が完成,老虎台には年産240万トンの老万大斜坑が1945年に完成し,大山坑も年産150万トン大斜坑に着手するところでした.

 撫順炭砿の他に,満鉄には,会社設立と同時に開発した年産40万トンの煙台と,6万トンの瓦房店,131万トンの蛟河,10万トンの老頭溝が採掘を続けていましたが,採炭量的には撫順には遠く及ばないものでした.

 このほかの炭砿開発計画としては,製鉄用粘結炭不足に対応する為,富錦炭砿の開発,これは1944年度年産14万トンの産出だった炭砿に施設を整備し,かつ,輸送手段も佳木斯〜富錦の鉄道を複線化して輸送量増強を企てたもので,1947年度には年産80万トンとする予定でしたが,結局完成に至らず,幹部が抑留されただけでした.

 更にポスト撫順炭砿として,埋蔵量3億トンに及ぶ光義炭砿の開発を目論みましたが,これまた,ソ満国境の僅か10kmの地点であり,ソ連軍侵攻と共に現場放棄されています.

 撫順炭砿の最大出炭量は,1937年度の1,034.5万トン(うち露天掘453.3万トン,坑内堀499.7万トン,地区外からの移入分80万トン)で,炭砿に働く人々は,主に中国から満鉄の所謂「四等運賃」で運ばれた人々ですが,太平洋戦争が始まると人的流入が途絶えたり,日本人の徴兵が続いて人手不足となった為,1944年度には636.5万トンと約3分の2弱に落ち込んでいます.

 この撫順炭砿の収支は,基本的に黒字基調で,1937年度には鉄道収入対比で17%を占め,大体10〜20%の間で終始しています.
 但し,新規炭田開発のコストが嵩み,1944年度から赤字決算に転じていました.

 如何に,戦争が企業の利益を圧迫するかの好例かも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月22日21:37


 【質問】
 第二次大戦までの,八重山諸島における採炭について教えられたし.

 【回答】
 さて,八重山諸島には様々な日本最西端があります.
 曰く,日本の最西端であるのは確かですし,日本最西端のバス停があり,日本最西端の駐在所があり…等々.
 しかし,その八重山諸島にある西表島に,日本最西端の炭坑があった事は余り知られていません.

 西表島の西部には,八重山夾炭層と呼ばれる石炭を含む地層が走り,その存在は近世末期には知られていました.
 しかし,実際に採掘が開始されたのは,明治に入ってからの事で,1885年に三井物産が元成屋で試掘を始めています.
 1886年,三井の益田孝と時の内務大臣である山県有朋が,汽船長門丸でこの地を訪れ,西表炭坑を視察,山県は帰任後の「復命書」にて西表炭坑での採炭に囚人を充てる事を提言し,これが早速実施に移される事になります.
 山県の提言によれば,西表島は人口も少ないので,ここに集治監を設け,囚人をして蔗圃開墾と炭坑採掘に当たらせれば,経費も少なくて済み,困難な事業にも耐えられると言うものでした.

 こうして,1886年に180名の囚人が沖縄監獄から連れてこられ,採掘に従事させられる事になります.
 当時,既に炭坑に於ける囚人労働は北海道や九州で既に実施されていたので,西表島でもそれが適用された訳です.

 三井物産は,元成屋の官有地5万坪を借区して,ここから産出された石炭を,大陸の福建や香港などに輸出しました.
 この為,内離島には長崎税関出張所まで設置されました.
 しかし,この地は何度も書いてきたように,マラリアの猖獗地であり,囚人達は相次いでマラリアに罹り,半年で33名が死亡,翌年も27名が死亡しています.
 この状況下では,普通の炭坑夫が仕事に従事するのは困難で,囚人以外の坑夫達は,1889年に三池炭坑に全て引揚げてしまいました.
 結局,三井は1892年にこの炭坑を代理人に貸借して,西表から撤退しましたが,代理人も3年後には中止してしまいました.

 三井が撤退した後に進出したのが大倉組です.
 1895年,内離島の南風坂坑を中心に,坑夫1,200名を投じて採炭に乗り出してきました.
 この背景には,前年の日清戦争で勝利した日本が,産業を興すのに石炭が必要となっていた事,更に日清戦争で台湾を手中に収めた日本は,更に中国大陸や南方への進出を目指していた事もあります.
 大倉組は,新造船「鶴彦丸」を西表と香港や上海に就航させ,石炭の搬送に当たらせています.
 しかし,この新造船は2回目の航海の際に沈没してしまい,大倉組も様々な障壁から,1899年には採炭中止に追い込まれてしまいます.

 大倉組の撤退後に進出したのは,沖縄広運と言う会社でした.
 この会社は,まだ沖縄県が琉球藩だった時代に,内務省から下賜された郵便船「大有丸」を基に,1887年に旧琉球王家の尚家資本を中心に設立された会社で,海運業だけでなく,貿易商社の丸一商店,新聞発行にも手を染めています.
 そして,この会社が炭坑にも進出したのですが,坑夫500人を投入して採炭し,石炭は台湾に輸出しましたが,1907年には事業を中止しています.

 大正に入ると,日露戦争後の重工業化時代や,第1次大戦の好景気を背景に石炭の需要が大幅に伸びます.
 当然,この地にうち捨てられていた炭坑にも脚光が浴びせられ,様々な会社が西表に進出してきました.

 まず進出したのが,1906年に首里の高嶺朝申,高嶺朝教,小峰幸之の3人が設立した八重山炭鉱汽船という会社です.
 この会社は,船舶業を営んでいたのですが,設立後数年は台風やマラリアなどで振いませんでした.
 しかし,第1次大戦の好景気で事業は軌道に乗り,西表の炭坑から産出した石炭は,同社の船舶で大陸沿岸都市や台湾などに輸出していました.
 西表の炭坑に於ける坑夫は864名おり,県人470名と半数以上を占めている他,他府県人212名,台湾人150名,中国人28名などとなっています.

 次いで,1916年には岐阜の資産家,山之内豊太郎が設立した西表炭坑が採炭を開始,1918年に西表炭坑は沖縄炭坑と改称し,坑夫,従業員1,000名を有して内離島で採炭を始め,産出した石炭は,香港,上海,那覇に輸出していました.

 その後,第1次大戦後の不景気で,1921年に八重山炭鉱汽船は敢えなく撤退してしまいますが,その後に河野吉次という人物が,琉球炭坑という会社を設立して,その炭坑を引き継ぎ,内離島の新坑で坑夫1,350名を使って採炭を開始,産出した石炭は,台湾,香港,上海,那覇に送り出しています.

 この他,何れも坑夫200名前後の小さな炭坑である星岡炭坑,共立炭坑,高崎炭坑などがそれぞれの会社から分離独立したりもしています.

 この頃の坑夫は,明治期の直接雇用と異なり,「斤先」と称する下請け制度の下で行われています.
 坑夫達は,他の炭坑で見られるような「納屋制度」,所謂,飯場の下で働かされました.
 これは納屋頭の下に坑夫を配し,納屋頭が坑夫の雇い入れから身上保証,作業割り当て,現場監督,更には雇い主から一括して貰った給金の給付まで行う仕組みです.
 特にこの制度は,坑夫の生活管理まで行っていた制度であり,坑夫の逃亡を防止する為の制度でもありました.
 坑夫は高窓の付いた独房のような長屋に,数十人が雑居し,入り口には「人繰り」と呼ばれた現場の労務管理者が,四六時中目を光らせ,万一逃亡しようものなら草の根わけても探し出され,捕まると簓になるまで叩かれました.

 坑夫の生活は,朝6時に坑内に入る1番手,昼過ぎから坑内に入る2番手に分かれていますが,ノルマが達成できない場合は,3番手として夜中にも坑内に入らされました.
 採掘作業は「先山」と呼ばれる男達が行い,石炭を坑外に運び出す「後山」の仕事は,夫婦者の場合は女性が受け持ちました.
 しかし,西表炭坑は炭層が薄い為,坑道は狭く,採掘は「狸掘り」と呼ばれるやりかたで,横に寝ながら行われていました.
 この様な過酷な労働条件でも賃金は低く,その上病気になろうものなら,更に借金として治療費が加算されます.
 マラリアが治らないのに,熱が下がれば坑内に駆り出され,やがてそのうちに体力が消耗し,死に至りました.

 その上,炭坑では「炭坑切符」なるものが発行されていました.
 これは前回の鰹の時にも出て来た金券ですが,炭鉱会社はこれを賃金の代わりに発行し,会社の直売店から日常雑貨を購入しました.
 つまり,会社から見れば格好の資金回収策でしたし,お金を得た坑夫達がその金を元手に逃亡するのを防ぐ役割もありました.
 しかも,一種の私製金券ですから,会社が潰れてしまえば紙切れ同然となってしまうことも多かったと言います.

 大正末から昭和初期に掛けては,経済不況の御陰でエネルギー源たる石炭も売れず,しかも,品質が良く安価な中国の撫順炭が出回って,国内の石炭市場を圧迫していました.
 琉球炭坑は1932年に,河野合名会社として250人程度で採掘するほどに小さくなり,沖縄炭坑も1935年頃には謝景坑で,台湾人坑夫が僅か70名程度の規模で採掘しているに過ぎませんでした.

 ところが,満州事変以後の軍需景気は,再び石炭産業の景気回復の端緒となります.
 全国的に石炭の増産が叫ばれ,新坑開設,休坑の復興が進みました.
 そして,西表炭坑にも新たなプレーヤーが登場します.
 今度は,1936年に名古屋のセメント工業が資本を出した南海炭鉱が進出しますが,直轄事業ではなく,各地に下請け炭鉱を抱えて採掘を始めました.

 この中で頭角を現したのが,野田小一郎の丸三炭坑でした.
 野田は元々納屋頭をしていた為,坑夫の扱いに長けており,炭坑景気の追い風に乗って急成長しました.
 その丸三炭坑宇多良鉱業所は浦内川の支流,宇多良川沿いのジャングルを切り開いて,一大炭坑村を出現させました.
 「炭坑村」には,坑夫達の寝泊まりする納屋が十数棟,300名を収容できる集会所を兼ねた劇場,小学校もあり,夜はアセチレンガスによる照明で不夜城と言われ,最も文化的な炭坑とまで言われました.
 坑夫達は,沖縄県の20%を筆頭に,福岡,熊本,鹿児島,台湾,広島,長崎,愛媛などで,中でも福岡と熊本が多くいます.

 1939年以後の国民総動員体制の中で,こうした炭坑は大増産体制が敷かれます.
 このため,坑夫の労働は強化され,健康状態は悪化しましたし,せっかく文化的な炭坑とまで言われた山も,再び圧制炭坑へと逆戻りし,逃亡者が相次ぐ事態になっていきました.

 太平洋戦争後は,西表島で船浮要塞の建設が始まり,坑夫達も建設要員として動員され,外離島の砲台建設の為,急峻な山道を想い資材を担いで上ったりもしました.
 1944年にサイパンが陥落すると,軍は持久戦に備えて石垣島の主峰,於茂登山に複郭陣地を構築し,八重山農林学校に置かれていた第45旅団司令部を,この地に移動させました.
 この陣地構築にも,坑夫が動員されています.
 尤も,大戦中は石炭を輸送する船もなく,炭坑は操業中止状態でした.
 更に,1945年に連合軍の空爆が始まり,白浜や宇多良の炭坑施設は軍事施設として爆撃を受け,灰燼に帰してしまいました.

 敗戦後,人々は故郷に次々と引揚げていきましたが,帰る宛のない人々は行き場もなくそのまま留まっていました.
 米軍は一時期,島の北側,上原地区で炭坑を再建し,採炭を行っていましたが,後に払い下げられ,沖縄の人が酒屋などに使う石炭を細々と採掘していましたが,1960年代には採炭は中止となり,炭坑は再び元のジャングルに戻っていきました.

 2007年,経済産業省は漸くこの地の炭坑の施設の内,トロッコレールの煉瓦支柱などを「近代化産業遺産」として認定し,林野庁は国有林を整備して,炭坑跡が見学できる環境を整えつつあります.
 ジャングルに埋もれた歴史が,再び日の目を見た訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/28 23:11


 【質問】
 日本は火山国なので戦時中に硫黄が不足する事はなかったのでしょうか?

 【回答】
 国内に硫黄鉱山があったので.硫黄が不足する事はなかった.
 廃墟マニアには有名な岩手の松尾鉱山がが有名.

 もっとも,国内の硫黄鉱山は戦後は,石油を脱硫する過程で人工硫黄が安価に大量に得られるようになって採算が取れなくなり,皆閉山した.

 松尾鉱山は硫黄分の強い排水を未処理のまま北上川に流した為,一時は北上川を”死の川”に追いやった.
 そのままでは流域のの農業が絶滅してしまうので,莫大な費用を掛けて処理施設が作られ,現在も稼動中.

 余談だが,この松尾鉱山に出稼ぎに来ていた朝鮮人労働者が鉱山労働を辞めて帰国しようとしたものの,朝鮮戦争の為に帰国が不可能になり,生計を立てようと盛岡の街で屋台を出したのが,「盛岡冷麺」の発祥.

軍事板


 【質問】
 せっかく南方の資源地帯を確保したのに,なんでそこに現地工場を作らなかったの?

 【回答】
 たとえ作っても本土に運び込めない,というか他の場所に運べないので無意味.
 日本が敗北した原因の根本は海上輸送線を護れなかったから.
 なので実のところ南方資源地帯から資源をいくら入手しても無駄だった.

 また,たとえばアルミ精錬には大量の電気が必要で、発電所から作るとアルミ工場が精錬を開始する前に,日本国内の備蓄が尽きます.
 .それよりはボーキサイトを国内に運び込んで精錬した方が,よっぽど手っ取り早い..

 工場とは少し違うが,南方油田地帯を占領した後,大慌てで採掘用資材を南方に送り出し,あまつさえ国内や満州で操業し始めていた油田からも資材をわざわざ取り外させて南方へ送り,結局戦争中盤はどこもかしこも採掘機材設置中…で石油は手に入らず,終盤にようやく設置が終わった頃には,タンカーを沈められまくって運べず…なんてこともあったらしい.

軍事板


 【質問】
 箱根の杉並木は,どのようにして戦時供出を免れたのか?

 【回答】
 戦争末期になると,各地でも資源供出と言う事で,様々な資源が徴用されました.
 特に,通商路を維持する為に,必要な戦時標準船を製作するのに,大量の木材を供給する必要が有りました.
 各地の森林は軒並み伐採され,伐採した後,戦後になって森林回復の為に大量に植えられたのが杉な訳で.
で,今や杉は日本人に目の仇にされています.

 時に箱根にも元箱根から箱根関所跡に向けて湖畔沿いに国道1号線があり,途中に明治天皇の離宮庭園を一般開放した恩賜箱根公園があります.
 この国道1号線に沿う様に,江戸時代初期に植えられたとされる杉木立が残っています.
 現在では,この樹齢400年を超える杉は観光客の格好の記念撮影スポットとなっていますが,太平洋戦争中は,この杉並木すら,木材供出対象として狙われました.

 1944年春,神奈川県知事から箱根事務組合役場(当時の箱根は箱根町,元箱根村,芦之湯村の3つに分れていて,事務効率化の為にそれぞれに役場を置くのではなく,事務組合役場が統一して行政事務を執り行っていた.この役場は現在の箱根町立箱根小学校の場所にあった)に1通の文書が届きました.

 知事からの文書には,軍の船舶用材として芦ノ湖畔にある杉並木の内,30〜50本程度を伐採して供出せよと言う内容が書かれて居ました.
 この杉の本数は,杉並木のほぼ1割にあたります.
 こうした文書は各自治体に出されており,例えば,南足柄市にある大雄山最乗寺境内にあった杉30本が供出されています.

 さて,この杉並木は箱根町に所有権がありました.
 その事務を担当していたのが,勧業課書記だった田中隆之と言う人でした.

 田中氏は,禅寺奥禅院の僧侶で,当時は50代半ばであり,以前は朝鮮や台湾と言った外地で警察官として勤務し,警察官を辞めて,禅寺の僧侶となった変わり種の人ですが,この人は非常に硬骨の人でした.
 その命令を受け取った田中氏は,町長の安藤氏に口頭で命令のことを知らせた以外は,最初誰にも話さなかったと言います.
 その後も執拗に供出命令が届き,役場の職員たちの耳にも次第に入ってきましたが,田中氏は無視し続けました.

 そして,遂には役場に憲兵がやって来たり,県庁への呼び出し命令が来たりします.
 横浜の県庁に行った田中氏は,担当の県職員から改めて杉の供出を求められました.
 机の上には伐採関係の書類が置かれていました.
 のらりくらりと県職員の攻めを躱す内に,昼休みとなり,休憩の為,県職員が席を離れた隙に,田中氏は強硬手段に出ます.
 田中氏は,それらの書類を持ってきた風呂敷包みに放り込んで一目散に県庁を飛び出すと,途中,桜木町駅前にあった軍属募集所に寄って,従軍僧を志願する手続きを済ませました.
 役場に帰ってきた田中氏は,無断で持ち出した書類を全て燃やし,直ぐに従軍僧として外地に向かってしまいます.
 関係書類と共に役場の担当者も忽然と消えてしまったことから,結局,杉並木の供出は沙汰止みとなってしまいました.

 田中氏は,その後1946年に復員しますが,この件については死ぬまで口を閉ざしていた為にその逸話が知られることは近年までありませんでした.

 似た様な話は日光の杉並木にもあって,こちらは地元住民が身体を張って反対し,こちらもあの立派な杉並木を護ったそうです.

 お上の言う事には無条件で従わざるを得なかった時代なのに,それが無体な事だと身体を張って阻止した人が日本にもいたんですねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/19 21:22


 【質問】
 物資不足によって作られた陶製代用品には,陶貨や陶製手榴弾の他に何かありますか?

 【回答】
 画像は戦時中に作られた,陶器製鏡餅……
faq06j02.jpg
faq06j02b.jpg
faq06j02c.jpg

「なにもそこまでして,正月を祝わなくても〜」
とか
「陶器より餅の方が高かったのか!」
とか,思わなくもありません.

ベタ藤原 in mixi支隊


 【質問】
 「瀬栄陶器」って何?

 【回答】
 戦前から戦後にかけ,名古屋の主要輸出産業は陶器だったが,「瀬栄陶器」もそうした会社の一つ.
 明治29年,瀬戸初の法人組織として設立された瀬栄合資会社が,そのルーツ.
 太平洋戦争中,陶製手榴弾を開発して,相模海軍工廠から発注を受けた他,陶製地雷,防衛食器(缶詰ならぬ「陶詰」)などを製作していた.

 【参考ページ】
http://pottery.blog.ocn.ne.jp/pottery/cat5716794/index.html
http://www12.ocn.ne.jp/~pottery/gyokai/gyo_18.html
http://www47.tok2.com/home/yakimono/honoo/12-05.htm
http://www.geocities.jp/prism11_vyb05736/factory.htm
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/genbutu/genbutunihonshi16.htm
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/quiz/n10-3.htm

【ぐんじさんぎょう】,2010/06/25 21:00
を加筆改修

 不意にマイミクさんからこんな物が届いていました.

 これは,一輪挿しにでも再利用しますかね(笑

 ブツは,戦時中の物資不足の折に,全国の焼き物産地で製造された陶器製手榴弾の一タイプ.
 これは瀬戸産だそうです.
 持ってみると,意外とズシリとした重みを感じましたが,破片効果は望み薄そうで…
 これはある意味,悲しい歴史の証人.

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月28日02:12


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