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「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-08) 星製薬とダイヤモンド社


 【質問】
 KS磁石鋼とは?

 【回答】
 本多光太郎の金属材料研究所が開発した特殊鋼.
 当時,世界最強磁石鋼だったという.

 以下引用.

――――――――――――――――

 本多〔光太郎〕の鉄鋼,合金の研究は,艦船,大砲など,軍事的用途に直結するので着目され,住友金属が後援して,まず第1次大戦中,東北帝大に設立された「臨時理科学研究所」第2部から発足し,彼の部門は鉄鋼研究所,さらに金属材料研究所へと発展する.
 ここから登場したのが,まず大正5年のKS磁石鋼である.
 タングステン,クローム,コバルト,炭素を含む特殊合金で,世界最強の磁石鋼として国際的に注目され,ジーメンス,GEなどが相次いで特許使用権を購入して,住友財閥の投資を稔らせた.

 金属材料研究所は日本の冶金工学の中心となり,陸海軍や民間産業からの研究者も受け入れた大研究所に発展した.

―――――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.115

 ちなみに,これが永久磁石の研究開発の始まり.


 【質問】
 戦前の電球生産会社の状況を教えられたし.

 【回答】
 電球と言えば,最近地球温暖化の目の敵にされ,肩身の狭い思いをしている訳ですが,大正から昭和に掛けて,電気の利用法と言えば,照明であり,電灯の明かりと言えば電球を指しました.

 関西でこうした電球を生産したのは,1904年の錦商会と言う会社で,その生産規模は日に20~30個程度でした.
 その後,その先見性から社業が拡大し,数十人の従業員を持つ町工場に発展しました.
 錦商会の経営者だった井上守は,更に経営規模の拡大と近代化を図るべく,大阪電灯の社長土居通夫に話を持ちかけました.
 大阪電灯は,発電した電気を売る売電会社で,契約者には外国製の電球を供給していましたが,1907年に30万円を出資して,大阪電球と言う会社を興し,錦商会を吸収するとともに,井上が支配人となり,専務には大阪電灯の技師長であった池田虎一郎を迎え,本社を大阪に置いて,大阪を地盤に西日本を中心に販売網を形作り,九州へ進出.
 九州では代理店として門司の黄薇商会が総代理店となり,益々業容が拡大していました.

 とは言え,独自に電球を造る技術は未だ無く,最初はドイツのA.E.G.と提携します.
 後にこれを解消し,米国G.E.系の東京電気(前身は白熱社と言う電灯メーカーで,1939年芝浦製作所と合併して東京芝浦電機となる)と関係を深めています.
 1930年にはこの東京電気に統合され,大阪電気は消滅しますが,1931年には早くも東京電気の子会社として大阪電気が分離し,関西での電球,家電製品の販売に携わっています.
 流石に,大阪でブランド名として確立していた「サン電球」の名を捨てるのが惜しかった様です.

 先走りましたが,この大阪電球は,1916年から『サンニュース』と言うPR冊子を発行し,代理店や小売店に配布しています.
 例えば,電球を使った先進照明の事例,業界の動きが紹介されたりしていますが,1919年の新年号には,「電気商に対する戦時節約例33」と言うコラムが掲載されています.
 これは,米国の雑誌"Electrical Merchandizing"の前年9月号の記事を翻訳,転載したものですが,米国が参戦して国内も戦時体制に移行する中で,節約を徹底し,其の余力を国家に捧げるべく如何に経営努力を果たしたかと言う事を分析している記事です.

 第1条は,「何故に包むのか?」とあります.
 包むまでもない商品は包まなくても良い.
 もし客から苦情があれば,政府の要求で紙を節約していると言う意志を,笑顔と丁寧な態度で表せば満足して帰って貰えるとしています.
 他にも,「新しく皺のない新聞紙で包装せよ」とか,二重で十文字ではなく,「糸は一筋に巻け」と包み方に関する項目があります.

 更に,「封書にせず葉書で」や,「電話で話し,歩くな」と言った指導も….
 得意先回りを止めて,電話で説明すれば,店員の人数も給料も少なくて済みます.
 要は経費の節減です.
 経費節減策として,特に人件費の圧縮には,「時間定め事務員」,即ち,パートタイムの事務員を雇えとか,「取締役には補助人は無要」つまり,秘書イラネですね…などと言った提案もあります.

 売り方にも,「古品を売り出せ」とか,店内の不要場所は「貸店をせよ」,「紙屑も財産である.売れ」と言った言葉が並び,Just In Time方式の売り方や応接販売を止めたりと言ったノウハウが紹介されています.

 果たして,その後の不景気の際に,彼等がこれらの記事を参考にしたかどうかは不明ですが.

 因みに,「マツダ」電球の「マツダ」と言うのは,現在のMazdaの事ではありません.
 別に東洋工業でこれを造っていた訳ではなく,1910年にG.E.を始めとする各国でタングステン電球を扱う企業が,共通のブランドを採用する事で合意が為され,世界各地で使用されたブランド名です.
 従って,この「マツダ」は日本語ではなく,ゾロアスター教の光の神である「アウロマツダ」に因んだ外来語です.
 日本では,この「マツダ」ブランドは,先ほどの東京電気が獲得し,これを販売する様になります.

 当初は大口需要家向けだった電球ですが,大正中頃からマツダブランドを扱う小売店が現われました.
 1918年に大阪の大宝寺町で創業した中田電気商店は,マツダランプを専門に販売していた為,マツダ屋と呼ばれる様になっていました.

 その後,東京電気は,大正から昭和初期に掛けて,従来の電球の他に,映写用電球,自動車や列車用の前照灯など,様々な光源の国産化を果たし,商品の名に「マツダ」を付けていきます.
 1915年には大正天皇御大典事業に各種の投光器を開発し,投入すると共に,1926年には独自のネオンサインを開発したり,1934年に高圧水銀ランプ,1935年にはナトリウムランプを開発し,更に1940年に蛍光ランプを試作,これを壁画模写の現場に提供したりしています.
 また,写真の光源として,元来マグネシウム閃光粉を焚いていたものの代わりに,フラッシュ用閃光電球を開発し,1931年に商品化しています.

 今の東芝は,こうした電球の開発とからくり儀右衛門以来の重電との合わせ技で成り立っている訳です.
 この時代,未だ松下(今のパナソニック)は未だ幼児期で,自転車用ランプを開発していた時期です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/01 22:55


 【質問】
 陶磁器業は大東亜戦争を,どのようにして乗り切ったのか?

 【回答】
 日本が戦時体制に突入した時代,日本では東洋陶器が中心になって水洗便器を製作していました.
 昭和に入ると下水道網建設の進展に伴い,特にビルディングではほぼ100%水洗トイレが設置され,東洋陶器は,九州小倉の工場だけでは足りなくなり,茅ヶ崎に関東以北向けの工場を建設することになります.

 ところが,戦時体制は民生産業としての陶磁器業を縮小に転じさせます.
 便器と言うのは,謂わば不要不急な製品であり,陶器である故に労働集約的な産業,しかも焼成の為に燃料は食いますし,その製品は殆どが輸出品でしたから割を食ったのも当然でした.
 取り敢ず,欧米向けが駄目になった代わり,販路としては満州,そしてアジア向けの輸出が伸びますが,一方で,駐屯地などの軍の固定施設や艦船,軍用列車などに納品する衛生陶器の需要も増えていきます.
 この動きも,大戦前半までであり,後半になるとこうした衛生陶器を生産することも無くなりました.

 そして,各企業は軍需品に生産を転換しました.
 東洋陶器は点火線用碍子や呂号兵器用の電解槽,隔膜板などを生産しますし,名陶,高島製陶,村万製陶は,呂号用の部品.豊橋製陶は耐酸瓶,丹司製陶は陶管へと生産を転換しますが,陶器産業だけにロケット関連の部品生産などが多くを占めました.
 一方,伊奈製陶は,電纜管と半磁器タイルの生産が主となり,大戦後半には軍需用耐酸炻器の生産に集中します.

 こうして太平洋戦争を乗り切った各社ですが,他の工業製品とは違い,その復興は素早いものでした.

 敗戦国日本の占領の為,1945年8月28日に占領軍先遣隊が日本に到着しますが,それに先立ち,緑十字機で日本からマニラに派遣された軍使に対し,連合国軍からの最初の要求の一つは,「提供せらるる一切の建築物及び施設はその目的に適する如く完全なる家具及び設備を有し,適当なる照明及び衛生設備を備うべし」とされ,細目にも,「600名の士官の為,浴室及び便所の施設を有するホテル及び宿舎等」が要求されていました.

 其のトイレも,腰掛け水洗式でないといけません.
 秋になると,暖房工事の要請も届きます.

 こうした要請に応える為,陶器産業,特に戦前から衛生陶器,即ち便器類を生産してきた東洋陶器,名陶を筆頭に,直接もしくは公益営団からの発注を受け,便器生産に乗り出します.
 1947年9月以降は特別調達庁が設置され,受注,発注,納品を統括しました.
 この特別調達庁からの発注は,“丸進”事業と呼ばれましたが,数社ある便器製造会社の中で,東陶がその90%を受注する寡占状態を実現しました.

 元々,洋風便器の製作ならびに生産量では右に出るものは居なかった上,名陶がその頃資金繰りに窮して,市場からの退場を迫られていた事もあり,東陶が相当額を受注出来た訳です.
 また,便器だけでなく,洗面器,浴槽,給排水・給湯設備,暖房,ガスなどの末端に使われる水栓やバルブについては,戦時中,軍需用に生産を続け,敗戦後に突如として発注先が無くなり途方に暮れていたバルブ業界にも恩恵を齎し,一部のメーカーはその量産技術を以て,従来は金物問屋が扱っていた量産品の分野に進出し,大手になっていき,大手と金物問屋に従属する中小メーカーと言う状態に市場が分割されていきました.

 因みに名陶が倒れた後,東陶の独占状態になったかと言えばそうではなく,新たなプレーヤーとして出現したのが,同じ森村系のメーカーで従来はタイルを主製品としていた伊奈製陶だったりします.

 ところで,当初は資材不足もあり,全部を水洗式トイレとするのは無理でした.
 其処で,接収住宅のトイレの汲取り便池を空にして,砂を敷き詰めた砂便所なども設置されました.
 また,工事をする人材も不足しており,全般的に遣っ付け工事の側面が高かったりします.

 しかし世の中が落ち着いてくると,米軍のマニュアル通りに工事を進めることを求められてきました.
 例えば管工事のネジ接合は,当時の日本では麻を巻く事で良しとされていましたが,米国の基準では必ずメタリック・コンタクトを接続しなければなりませんでした.
 即ち,施工技術と共に金具の精密さや品質向上も求められ,これに応えることが,日本製品の品質向上に繋がっていった訳です.

 住宅については,占領軍用の家族宿舎として,Dependent House(DH)と言うものが接収住宅の改築も含め,13,000戸が建設されました.
 此の事業には,極めて少数の米国の軍・民双方の建築家,エンジニアの下に,日本の建築家,ドラフトマン,エンジニアを集め,それによりデザインブランチが構成されました.
 但し,資材,設備,施工などは全部日本の負担でしたので,日本の施工技術を用い,日本の規則,慣習に合せる必要が生じました.
 衛生設備では,一家族に対し,寝室のトイレ,シャワー,化粧台各1個が標準で付き,トイレから浄化槽までのパイプの太さ,未浄化排泄物を排水溝に流し込まない様にするなど,詳細な基準が示されています.

 此の経験が,後に日本の公団住宅の設備の基準となっていく訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/05 22:22


 【質問】
 戦時中の石鹸生産状況を教えられたし.

 【回答】
 御多分に洩れず,戦時体制は民需産業を圧迫していきます.
 1939年の26万トンをピークとして,石鹸の製造も,主原料の硬化油,副原料の苛性ソーダの輸入困難により,生産量が減り,原料の確保との戦いとなります.

 1940年以降,1月に第一次石鹸公定価格の告示に伴い,統制品となっていき,同時に業界団体も全国石鹸製造業連合会から全国石鹸工業組合連合会に改組され,原材料の配給から製品,設備の検査・取締りまで担うことになります.

 花王石鹸はその当時,長瀬商会と言う名称でした.
 この長瀬商会(石鹸製造部門は大日本油脂と言う会社)は,業界のリーダー的な存在で,統制に積極的な役割を果たします.
 1942年7月,石鹸公定価格が不備で,石鹸偏在が問題となってきたため,日本石鹸配給統制株式会社が設立され,一層の流通段階での統制を図ることになりました.
 また,より民需産業を軍需産業に転換する為に,不要不急産業は整備される事になり,石鹸業界も大企業以外の工場は軍需への転換を余儀なくされ,大企業でも,主要原料の不足対策として,多角経営に移行する事となり,付加価値の多い製品の多角生産を開始します.

 1940年以降の花王石鹸の新商品は,婦人用「さくら石鹸」「花王薬用石鹸」,高級石鹸「レオ石鹸」,髭剃り用粉石鹸である「花王粉石鹸」,化粧品としてバニシングクリーム,洗顔クリーム,ポマード,チック,タルカム,歯磨き,クレヨン,蚊取線香に各種油脂製品とその代用品に及びました.

 また,1940年5月,株式会社鉄興社との共同出資で,有機合成事業法に準拠した資本金250万円の日本有機株式会社を設立します.

 これは鉄興社大浜工場で生じる副産物である水素ガスと,大日本油脂の精密油脂技術を利用して,カルナウバ蝋代用品(ワックスT),亜麻仁油代用品とスチロール樹脂の生産を企図したもので,酒田市の臨海工業地帯1万坪の敷地に,酒田工場が建設されることになります.
 また,これに加え,石炭液化用の触媒製品の生産も準備しますが,こちらは魚油の入手難から実施不能となり,1942年3月,椰子油,糠油の精密利用とそれに付随する事業に変更されました.
 この為,日本有機経営の実権は長瀬商会に渡り,1943年10月からは,戦力増強企業整備の一環として,硬化油,脂肪酸,石鹸製造業設備のうち,酒田工場は脂肪酸部門の操業の他,硬化油部門は硬化糠蝋,石鹸部門は戦時石鹸の生産のみ許可されることになります.

 戦時体制が進むと,原料供給は更に窮屈となり,1939年5月には早くも朝鮮共同油脂との提携を行っていましたが,11月には亀井商店との共同出資で,塩竃市に資本金18万円の東北油脂を設立し,魚油石鹸,ダークオイル,魚蝋,ウインター油などの製造を開始しました.
 この他,傍系会社として,花王製品の大口直納機関として長瀬商事,化粧品製造として原化学工業,製函材自給の為に月星林業,絵具類製造として大日本クレヨンと東京クレヨン,専属機械製造工業として三栄化学機械製作所(後,花王機械製作所と改称)の各社を設立しました.

 この他系列工場の整備も進められ,主なタイアップ工場としては,大阪の三輪石鹸(満州向け花王香皂製造),日本曹達,朝鮮製油などで,各社で石鹸類の製造を委託することになります.

 こうした多角化,系列工場の整備に加え,研究陣も既に油脂工業全般への転換準備を終えていました.
 潤滑油については,1937年8月から油脂の階段水素添加の研究が開始され,1941年6月,油脂水添脱水法の発明により,生産技術の研究が完了しました.
 この生産用に,1941年中に大日本油脂東京工場敷地内に新設工場第1期工事を開始すると共に,1942年3月には早くも第2次拡張命令が出され,6月にその第2期工場用の敷地を和歌山市に求め,20余万坪の工場を建設し始めます.
 また,標準燃料,ノルマルヘプタンの製造研究は1941年2月に半工業的製造試験成功と共に,1942年2月に平井工場が着工されました.
 更に,パラフィン酸化触媒に関しては,1940年2月にこれを完成,パラフィン酸化生成物からオレフィンを合成し,その重合でシリンダ油や潤滑油製造の半工業装置の試運転が,1942年1月から開始されました.

 代用石鹸については,油脂やアルカリ類の使用量が少ないものを研究し,1942年8月,石鹸分30%のベントナイト入り戦時石鹸が,「戦勝石鹸」と言う名称で労務者用配給品として製造されています.

 こうした戦時下の特許取得数は100件を遙かに突破し,1943年には2名の研究員が陸軍技術有効賞を受けました.

 一方,戦局の苛烈化と共に,油脂工業はグリセリンの重点生産と欠乏した鉱物油系に代わる動植物油脂系潤滑油及び機械油剤の増産,これに伴う脂肪酸分留工業の高度化が実施されることになります.

 大日本油脂東京工場は,1942年6月に早くも陸軍航空本部付管理工場となり,1943年10月には新設中の和歌山工場が陸軍燃料廠付管理工場となります.
 この両工場は,1944年1月に軍需会社法に基づき,第一次の軍需会社に指定され,大日本油脂会長は軍需事業責任者として,生産管理者に就任しました.
 また,平井工場は1943年12月,日本有機酒田工場は1945年3月に海軍監督工場に指定されました.

 こうして,東京工場は潤滑油生産設備の増強を進める一方,和歌山工場は1944年12月に重要設備の建設を完了し,試運転に漕ぎ着けます.
 しかし,この和歌山工場の方は水素添加工場は試運転中に事故を起こし,多数の死傷者を出しました.

 東京工場では他に,葡萄糖を原料とするソルビットと,高周波電気絶縁材料としてのスチロール樹脂の研究が進められ,その成果を受けて平井工場において年産600トンのソルビット生産設備と,スチロール重合体製造設備の新設着工が1943年に開始しました.
 この他,企業整備で東北油脂と合併した帝都塗料工業所を,1943年3月に買収して志村分工場とし,薬莢塗料製造を開始しました.

 陸軍当局からこの他委嘱された研究は,油脂より航空潤滑油製造の他,酸化防止剤,油性向上剤,計器油,作動油,グリス・各種ニトリルの製造がありました.
 敗戦まで生産されていた軍需製品は,先に挙げた航空潤滑油,戦時石鹸の他,粉末醤油,紙石鹸,戦場消毒殺菌剤,凍結防止剤,防曇剤,海水発泡消火剤,機関燃料(焼玉機関用,ディーゼル機関用,戦車用),グリス,薬莢塗料,電波兵器用スチロールモノマー,ガソリンのオクタン価向上剤であるブロチン,オクタン価測定標準燃料であるノルマルヘプタン,ソルビット,米糠ワックス,ケトンワックス,完硬魚油脂肪酸,軟膏基剤であるセタノール,戦車モビール油代用品である硫化植物油等が挙げられます.

 敗戦が近付くにつれて,空襲が頻発,東京工場,平井工場,日暮里作業場,花王機械平井工場は,東京大空襲で3分の2~全焼の被害を被り,志村分工場は4月14日,花王機械蒲田工場は翌15日に全焼,和歌山工場も7月9日と30日に空襲を受けました.
 この為,急遽平井工場の焼残りであるスチロール生産設備,東京工場の焼残りであるグリセリン,石鹸設備を酒田工場に疎開させる命令が出されたり,東京工場の航空潤滑油生産設備は埼玉県野上町に疎開させる命令が下されました.
 和歌山工場でも,6月にほぼ竣工し,潤滑油の出荷を開始しましたが,空襲を受けたことから奈良県吉野郡大淀町への疎開命令を受けています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/23 23:08


 【質問】
 太平洋戦争が蝿取り紙に与えた影響について教えられたし.

 【回答】
 カモ井加工紙と言う会社があります.
 この会社は,1923年2月15日に倉敷で起業した会社で,最初に扱った商品は,「ハイトリ紙」でした.
 経営者の鴨井利郎氏が元々銀行マンだったのですが,物作りが好きな人で,老舗問屋である鴨井商行(現在はカモ井食品工業になっている)の経営者鴨井銀三に認められ,末娘の養子となりました.
 そして,取り組んだのが鴨井商行の取引会社が見本市で見つけてきた「蝿取り紙」に着目し,蠅を生態研究したり,その製品開発を行ったりして,実用化のめどを付け,製造を開始したのが「ハイトリ紙」です.
 なぜ,「ハエ」ではなく「ハイ」なのかと言うと,岡山ではハエの事をハイと呼びます.
 そう言えば,兵庫でもハエではなく,ハイだった様な….

 当時,蝿取り紙も海外からの輸入品で,大正中期からドイツや米国から輸入されたものが国内に出回っていました.
 しかし,一般には高価な品で,富裕層しか買えないものであり,利郎は,外国製品に負けない品質と誰でも帰る安い価格の品をと言う事でこのハイトリ紙を開発したのです.

 最初は余り売れませんでしたが,その質の良さと,価格の安さ,そして取引先銀行の後押しもあって,徐々に販路が拡大し,全国各地に特約店を整備しました.
 時に1923年と言うと,9月に発生した関東大震災がありますが,これによる衛生環境の悪化が蠅の大発生を招き,東京では1924年からは毎年7月20日を「ハエ取りデー」と定めて,衛生運動を行いました.
 これは,捕った蠅を袋に入れて町内の衛生係に持っていくと,一番蠅の多かった人に桐箪笥などの景品を貰えたと言う行事だったそうです.
 こうした僥倖にも支えられて社業は順調に拡大します.

 当初のハイトリ紙は,平面に止まる習性のあるイエバエ用に,ハトロン紙に松脂をくっつけると言う商品でしたが,上からぶら下がっているものに止まる習性のあるヒメイエバエには効果が余りありませんでした.
 そこで開発された商品が,リボン型の蝿取り紙,昭和年代で子供の頃を育った我々にはお馴染みの,天井からぶら下がっている飴色のものです.
 これが完成したのは1930年.
 これは爆発的なヒット商品となり,この分野では全国のシェアナンバー1の地位を確立しました.

 因みに,1932年にこの業界には他に26社がひしめき合っていたのですが,その売上総合計とカモ井加工紙の1社のそれに遠く及ばなかったそうです.

 1924年から,植民地の朝鮮半島,関東州,台湾,それに満州方面に進出し,海外でも売れに売れます.
 当時,平壌警察署や平壌府の連名で,「毎月10日20日30日は蠅取デー」としたり,平安北道警察部でも,
「煙草飲ム暇ニ蠅捕リマセウ 蠅ハ病ノ種ヲ播ク」
と言ったキャンペーンが張られたり,蠅の媒介による伝染病には当局も苦慮していた様が伺え,こうした地に進出したのは正解でした.
 更に,南方諸地域,北米,南米にもハイトリ紙の需要は予想を上回るものが有り,各商社はカモ井加工紙のハイトリ紙を競って手に入れようと注文が殺到しました.

 更に,1933年には家庭用・家畜用の蚤,蚊,蠅,南京虫などを駆除する,ピレトリン製剤の液体殺虫剤「キリメツ」を開発し,これも国内は元より,朝鮮,満州,台湾,中国本土でも「激烈滅止」としてヒット商品となりました.
 この商品名は,英語のKillと日本語の滅するの合成語です.

 ところが,1934年に創業者の鴨井利郎が急死.
 次いで,1937年に勃発した日中戦争により,中国本土での日本商品ボイコットで輸出量は激減し,1941年には遂に中国向け輸出は停止されました.
 更に,太平洋戦争により製品は軍用品として需要が拡大,軍指定工場となり,上海と京城にも工場を設立して軍に製品を供給しました.

 しかし,製品を供給しようにも,キリメツの原料である除虫菊が,食糧増産の煽りを受けて作付けが禁止され,抽出剤の石油が入手困難となり,1943年にキリメツは製造休止.
 更に敗戦が追い打ちを掛け,資材や原料の枯渇と輸出市場の消滅により,市場が縮小し,その上,米軍が大量に持ち込んだDDTのお陰で,社業が苦境に立ちます.

 それに対応する為,1946年には株式会社化し,高級加工紙への進出を目論みますが,資金的困難により一旦加工紙事業は見送りとなります.
 敗戦の混乱が収まりつつあった1949年には,薬品に頼らないハイトリ紙が見直され市場が回復,世の中の安定と共に原材料の入手も容易になり,キリメツの生産再開を果たしました.
 1952年には新商品であるBHCが製造開始され,加工紙と言うよりも殺虫関連の会社として成長を遂げていきました.
 1950~60年にかけて,ハイトリ紙は売り上げピークとなり,年間4,500万本も売れたそうです.

 とは言え,技術は進歩しており,何時までもハイトリ紙に頼ってはおけず,培っていた粘着技術をベースに新たな商品を展開しようと開発を続け,和紙を使った粘着テープの開発に成功し,その生産を開始し,工業用粘着テープの分野に参入しました.
 丁度,高度経済成長の只中で,しかもハイトリ紙の信用により,この分野でも急速に市場に浸透し,クラフト紙を使ったクラフト粘着テープや,スフ材を基材にした粘着テープなどを次々に開発しましたが,建築現場向けの青いマスキングテープである「No.3303」も売れ,シェアは60%を誇っています.

 現在では,ハイトリ紙の生産は海外に移転しました.
 平紙型は機械で簡単に生産出来ますが,リボン型は収納する部分がどうしても機械化出来ず,人力に頼らざるを得ない為,人件費の安い海外に移転せざるを得なかったそうです.

 とは言え,このハイトリ紙,日本では余り蠅を見なくなり,殺虫剤の性能も増しているので余り売れなくなりましたが,現在でも年間2,500万本を生産しています.
 国内向けは,薬品を利用出来ない食品工場や食材加工業者,畜産農家向けが主ですが,虫が付くと商品価値が無くなる様な製紙工場や車両塗装工場でも利用されているそうですし,他に捕虫センサーとして用いたりしています.
 海外向けは80%,2,000万本だそうです.
 意外にも,この数は年々増えていて,欧米各国に輸出されています.
 元々,ハトロン紙に松脂を塗っただけのシンプルな商品であり,現在では松脂は石油系潤滑油,要は灯油と天然樹脂に変えられましたが,何れも天然成分由来であり,エコ商品として注目されているからだそうです.
 最近では,野生動物による田畑の被害を防ぐ為に,出入り口に蝿取り紙を吊すと,その粘着力を厭がって,撃退すると言う使い方も出て来ているとか.

 ところで,カモ井加工紙と言えば,最近注目を集めている新商品が,「mt」と言う商品だそうです.
 mtと言うのはmasking tapeの頭文字.
 つまり,建設現場や塗装工場などで用いられているマスキングテープを趣味用として売り出したものですが,その切っ掛けはギャラリーカフェに集う人々から発信された1通の工場見学希望のメールだったそうです.
 彼女たちは,店でも雑貨として扱っていたマスキングテープを使って様々な使い方を提案して一冊の自費出版本を出していました.
 その製作期間は1週間だったそうですが,100冊用意した本は完売し,急遽増刷することになりました.

 そして,第2弾には工場見学も織り込もうと言う事で,国内に工場のあったカモ井加工紙に目を付け,メールを送ったのだそうです.
 当初,会社側は戸惑ったそうですが,自費出版で製作した本を送って貰うと,そこには自分達が想像していなかったマスキングテープの使い方が描かれていました.
 社員達も目から鱗で,しかも,異業種の人たちの工場訪問は新鮮でもありました.

 工場見学の際,彼女たちはDICのチャートを持ってきていて,新しい色のテープを作りたいと言う希望があったのですが,そもそもが大量生産の工業用途です.
 残念ながら彼女たちの希望には添えませんでした.

 しかし,カモ井加工紙の物作りというのは問題解決型であり,マスキングテープにしろどんな商品にしろ,試作品を作ると営業マンは,時に技術者を連れてヘルメットをかぶって建築現場や塗装工場の現場に赴き,実際に利用している人の意見を聞きに行きます.
 今回も,こうした意見を聞いて面白いと思ったのが営業のトップでした.
 そして,彼女たちに新色を作るならどんな色が良いか聞いて,全20色の小ロット生産の和紙マスキングテープ「mt」が開発され,新たに雑貨品の分野に進出しました.

 この新商品は特に若い女性達に大人気となり,2008年度のグッドデザイン賞を受賞しました.
 理由は,「創作者の商品に対する愛情が,訳もなく様々な色彩のテープを買いたくなる衝動を呼び覚ましそうなチャーミングなデザインであった」と言うもの.
 ハイトリ紙を作っている会社が,よくもこんなお洒落な商品を開発したものです.

 昨年にはパリで開催されたメゾン・エ・オブジェにジェトロブースのテーマである「和紙」の関連商品として広報ブースに置かれました.
 それから数ヶ月後,担当者がパリに残して帰った「mt」を用いて,フランスのELLEが見開き4ページの特集として大きく取り上げ,以後,FIGAROなど海外メディアも挙って取り上げることになり,カモ井加工紙も欧州に本格進出して,今やバイヤーのセレクトショップやMoMAのショップにもmtは置かれているそうです.

 現在では居山浩二氏がアートディレクションに加わりました.
 国内でもmtがディスプレイの必需品となっており,昨年のクリスマスの限定セットは注文に製造が追いつかないと言う状態になっています.

 因みに,この会社の社是は「程」だそうです.

 我々社員は常に身の程を知り,行き過ぐることなく謙虚な気持で事に当り,組織にありてはお互いに分を守る事によって仕事の能率を向上せしむるであろうし,和が自ら生まれてくる.
 こうした会社は芯が強い上に,浮ついた部分が無く,長続きする典型でしょうか.
 昨今の拝金市場主義の経営者に投げつけてやりたい言葉ではあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/22 21:56


 【質問】
 現在の日本はベアリングで世界の3分の1のシェアを持ち,品質にも定評がありますが,大戦中の国産ベアリングの品質はどうだったのですか?
 google検索したところ,1916年に国産第一号が生産され,1944年には3500万個を生産したとありましたが,品質についての言及が見当たりませんでしたので.

 【回答】
 欧州SKS製のそれに比べると凡そ10倍も精度が悪いものでした.
 SKS製が表面の凸凹が0.002mm以内.
 対して,国産のものは,1940年のもので,表面の凸凹が0.012~0.015mmもあったりします.
 但しキ61生産の際には,真円度0.002~0.003mmのものを選別して使っています.

 後,ローラーベアリングの場合は,表面硬化法で処理されており,表面はBenz製と同様な硬度でしたが,その厚みは1mmしかなく(本来は1.5mm以上は必要),滲炭部の組織を見ると,Benzのものはmartensite組織ですが,国産のものはmartensiteにtroostiteが析出され,製鋼法にも問題があったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/27(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 興南化学コンビナートとは?

 【回答】
 日本窒素(旧朝鮮窒素)が朝鮮北部,興南(現在の北韓・咸鏡南道)に建設した,当時東洋最大のコンビナート.
 1929年,第一期工事完成.

 当時の興南での暮らし振りについては, 『正論』 2006年5月号,グラビア頁に証言が掲載されている.
 以下引用.

 北沢玉枝さん(90)が興南高嬢の技術者だった夫の保次さん(故人)に嫁ぎ,朝鮮の地を踏んだのは昭和9年のこと,まだ18歳の新妻だった.
 保次さんは金沢高等工業(旧制)を出て,昭和4年に興南工場に赴任,玉枝さんと結婚した当時は,硫安工場にいたという.
 月給は内地(日本)よりも高い108円.
 洋風の広い社宅はスチーム暖房でポカポカ,有り余る電気によって,お風呂はいつも熱いお湯が流れており,炊事も電気炊飯器を使用,トイレは水洗だった.
「内地よりはるかにモダンでいい生活をしていました.
 家にはお手伝いさんがいましたし,食材や必要な物は工場内の倶楽部に注文すれば,家まで届けてくれる.
 病院や学校など敷地内に何もかもがあり,一つの街のようでした」
と,北沢さんは振り返っている.

 また,以下のブログに,最盛期の同コンビナートについて記されている.
 なるほど,東洋一と評されるにふさわしい規模といえよう.

 鎌田正二著『北鮮の日本人苦難記 -日窒興南工場の最後ー』という本がある.
 鎌田氏は元チッソの社員で,チッソの前身の日本窒素が戦前に北朝鮮の興南(今の咸鏡南道咸興市)に大規模コンビナートを築き,敗戦で社員が日本に引き上げる苦難を描いたものである.

 チッソは1906年に初代社長野口遵によって鹿児島県大口市に建設された水力発電所がその第一歩で,1908年に熊本県水俣市でカーバイドの製造を開始,社名を日本窒素肥料とし,石灰窒素や硫安の製造にも着手して,日窒コンツェルンの中心となった.
(第二次世界大戦後,日窒コンツェルンが解体され新日本窒素肥料となり,1965年にチッソと改称した.)

 北朝鮮の屋根といわれる蓋馬高原には鴨緑江の大支流が北に向かっているが,これを堰きとめて大人造湖を造り,日本海に向かって落とせば素晴らしい大電力になるとの構想が立てられた.
 野口遵は1926年,日窒の全額出資で朝鮮水電を設立,1929年に第一期工事が完成して送電が開始された. 
 この電力を消費するために建設されたのが興南工場で,1927年に朝鮮窒素肥料を設立,硫安の製造を開始した.

 その後,工場はドンドン拡大された.
 肥料工場では硫安,硫燐安のほか,過燐酸石灰や乾式燐酸からの燐安の設備をもつに至った.
 また火薬の原料であるグリセリンを自給するための油脂工場が昭和7年に完成した.
 グリセリンは延岡及び興南に建設された朝窒火薬の火薬工場に送られた.
 脂肪酸からつくる洗濯石鹸,化粧石鹸は,内地,朝鮮はもちろん,満州,台湾,中国の市場に向けられた.
 興南肥料工場の東北に興南金属工場がつくられた.アルミニウム工場,マグネシウム工場,カーボン工場,製鉄工場などがあった.
 アルミニウム工場は朝鮮木浦(モッポ)附近の明礬石を原料とした.
 宝石工場ではアルミナを酸素水素焔で溶融して,軸受けなどに使われるルビー,サファイアの原石をつくった.
 本宮工場では,苛性ソーダ,エチレングリコール,ブタノール,アセトン,アセチレンブラックなどアセチレンを原料とする諸工場ができ,またアランダム工場,塩化アンモニア肥料工場,アンモニア工場が建設された.

 日窒燃料工業の竜興工場ではアセチレンからアセトアルデヒドをつくり,アルドール,クロトンアルデヒドを経てブタノールとし,これよりイソオクタンを製造した.

 朝窒火薬では硝酸,硝酸アンモニア,過塩素酸アンモン,綿火薬,黒色火薬,導火線,カーリット,ダイナマイト,窒化鉛,ヘキソーゲン等の工場が並び,火薬綜合工場となった.

最盛期の能力は以下の通り.
http://kaznak.web.infoseek.co.jp/blog/chisso-konan.htm

 日本窒素は興南以外の朝鮮で,咸鏡北道の永安工場,灰岩工場(朝鮮人造石油),平安北道の青水工場(日窒燃料),南山工場(日窒ゴム工業)の諸工場があり,永安,朱乙,吉州,竜門に石灰の鉱業所があった.
 また満州で吉林人造石油,北支太原で華北窒素,台湾で台湾窒素,海南島で日窒海南工業,それにジャバ,スマトラ,マラヤなどに進出していた.
 しかし日本窒素の事業の中心は興南であった.

 〔略〕

「化学業界の話題」,2006年5月 2日 (火)


 【質問】
 興南工場は戦後,どうなったのか?

 【回答】
 ソ連軍によって接収
⇒朝鮮戦争で大打撃
⇒現在は,その残余の老朽設備が稼働中とか.

 以下引用.

 昭和20年8月,ソ連軍が朝鮮半島に侵入.
 興南工場の日本人従業員と家族は,身一つで社宅を追い出された.
 そして始まった,略奪,暴行…….
 日本人は全ての財産を奪われ,石もて追われるようにして,その地から引き揚げざるを得なかったのである.

 先の大戦で無傷だった興南工場は,朝鮮戦争時に米軍の攻撃を受け,多くの工場が灰燼と化した.
 その後,北朝鮮によって,いくつかの工場が復興され,現在も「興南肥料連合企業所」として稼働しているが,設備の老朽化で生産能力は日本時代とは比べるべくもないという.

in 『正論』 2006年5月号,グラビア頁

 〔略〕

 興南工場は第二次世界大戦中は,何等の損傷を受けなかった.

 1945年8月19日,ソ連軍が元山に上陸,26日に興南工場はソ連軍に接収された.

 しかし,朝鮮戦争が始まり,1950年7月末から8月初めに米軍の爆撃で工場は完全に破壊された.

ーーー

 インターネットの記事に,1991年4月,在日朝鮮人企業との合弁の国際化学合弁㈱という会社が興南に工場を建設したという情報がある.
 事業内容は北朝鮮に眠るモナザイド等のレア・アース(希土類)の製錬で,さらに塩酸,硝酸,苛性ソーダ,アンモニアなどの関連工業の技術向上をはかるとの目標を掲げているという.

「化学業界の話題」,2006年5月 2日 (火)

 まあ,北韓の工業がほとんど壊滅的である事実を考えると,今頃は当時の機械類などは盗まれて売り払われ,操業停止していたとしても不思議ではない.

 ちなみに,在日朝鮮人企業と北韓との合弁企業の話は,しばしば出るが,その後を追うと,
「北韓に有り金巻き上げられて放り出される」
パターンがあまりにも多く,上述情報が成功するかは非常に疑わしい.


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