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(画像掲示板より引用)


 【link】

「神保町系オタオタ日記」■(2011-11-23) [柳田國男][図書館]奥田啓市鹿児島県立図書館長と全日本科学技術団体聯合会

「人民網」◇(2013/04/23) 中国,戦時中の強制労働従事者らが旧三菱に賠償要求

「人民網」◇(2013/05/14) 強制労働問題 中国人代表団が安倍首相に要望書


 【質問】
 日本の技術力って,当時そんなに劣っていたんですか?

 【回答】
 「技術力」の格差を実感するには,本を何冊も読むより,日本工業大学にある工業博物館にいってみるのがいいと思います.
 当時の工作機械がずらっと展示されてるんですが,国産のものと米・独製では作りが雲泥の差です.
 国産工作機械は部品の合わせ目がいい加減で,やすりで削って無理やり噛み合わせた跡だらけです...
 技術者にいわせると,技術ってのは要するに精度だということですから,巨大な「技術力」格差があったわけです.

 うちの親父は航空自衛隊で整備整備やってたけど(’50〜’60年代),工具ひとつ取っても工業水準の差はものすごかったらしい.
 米軍はPROTOの工具を一定期間が過ぎると廃棄してたそうな.
 メッキのしっかりしたまだまだ使えるものだったため,米軍が廃棄したものを拾ってきて自分用の工具にしていたそうな.
 特攻隊の記念館で見た日本製の工具は,錆びてるとはいえかなりお粗末なものでした.
 勝てるわけ無いなぁと思いました.

 電線もひどいもんだったからねぇ
 方やアメさんはゴム被覆の打ち出し縒り線.
 此方日本は金槌で叩き出した単線紙巻き.

軍事板

▼ 以下は,「金属加工のマジシャン」と呼ばれる,世界的にも技術力を認められている企業の代表のお言葉.

――――――

「1個,2個は誰でもできるんです.
 でも何千万個,何億個と同じものができなかったら,できたという意味に入らないんだよ.
 スタートから何十億個目まで全部同じ規格じゃなかったら,できたうちに入らない」

――――――岡野雅行(岡野工業代表社員) in 『カンブリア宮殿』(村上龍著,日本経済新聞出版社,2007.5.25),p.113


 【質問】
 戦前日本の新興工業都市計画について教えられたし.

 【回答】
 1937年に勃発した日中戦争は,日本の発展に大きな影響を与えました.
 都市部での人口増加は頭打ちとなり,都市空爆の恐れから都市部への集中を止め,都市分散へと国の施策がシフトする様になります.
 特に,1937年には防空法が公布されてからは,過密都市への危険性が国民一般にも理解され始め,1940年に「防空」と言う項目が都市計画法に加えられました.

 一方,1939年以降,生産力拡充を第一義に,商工省では工業の地方分散計画を立て始めますが,こうした計画遂行を担ったのが,1937年に創設された企画院です.
 企画院の位置づけとしては,商工省が企画していた地方工業化計画や内務省の地方計画を統括すべき位置にあり,1940年の第2次近衛内閣では国土計画設定要綱が決定され,資源の合理的な利用計画,工場立地の地方分散と都市膨張抑制を謳いました.
 この国土計画設定要綱は近衛内閣の基本政策であり,計画を常に率先してやって来た都市計画官僚と生産基盤インフラ建設にシフトした土木官僚が接近し,総力戦体制の主役に躍り出てきました.

 この接近の結果が,1941年に都市計画と一般土木を包括した内務省国土局の設置であり,都市計画と鉱業開発をセットにして新興工業都市計画が一躍脚光を浴びることになりました.
 これはドイツの社会学者であるラルフ・ダーレンドルフによる「総力戦」の定義と重なります.
 彼は,ナチス社会革命説と,強制的画一化・均一化(Gleichschaltung)の概念により,戦争が齎した社会の変化の理解に大きな転換を齎したと言う説を採り,総力戦は,万人に機会の平等を保障する開かれた社会への意図せざる社会革命の遂行を促進した,としています.

 新興工業都市計画は,
日本化学工業と日本砂鉄工業を中心とする八戸,
海軍工廠を建設する仙台,
日立製作所の企業城下町とする多賀,
中島飛行機小泉製作所を中心とする太田,
鐘淵ディーゼル工業など種々の工場を中心とする川口,
陸軍兵器製造所を中心とする相模原,
海軍工廠を建設する大和,
海軍工廠を中心とする豊川,
豊田自動車工業を中心とする挙母,
陸軍兵器廠を中心とする勝川,
海軍燃料廠と石川産業を中心とする四日市,
グンと整備都市計画を基盤とした鈴鹿,
住友金属と不二越を中心とする東岩瀬,
住友金属を中心とする河西,
日本国際航空を建設する宇治,
日本製鉄を中心とする広畑(広),
倉敷絹織,立川飛行機を中心とする福浜,
海軍工廠を中心とする周南,
日本曹達,日立製作所を中心とする苅田,
九州飛行機,九州造兵廠を中心とする春日,
海軍工廠を中心とする川棚,
海兵団のある佐世保,
海軍航空工廠を中心とする大村
と,東北の八戸,仙台,日本海側の東岩瀬を除けば,ほぼ戦後の太平洋ベルト地帯に重なります.

 これらは1937年頃から,全国各地の都市近郊や農村部で行われていた大規模な軍需工場建設と,それに伴う用地取得,関連インフラ整備の為,都市計画法第13条を用いて,公共団体施行の土地区画整理事業方式を導入し,それに沿って行われています.
 これが1940年になると,総動員体制の一層の拡充と共に,国庫補助の付く新興工業都市計画事業となりました.
 工場誘致の他,インフラ整備,防火道路などの広幅員道路に防空緑地を採用した土地区画整理の施行,従業員の為の公園や子弟の為の学校も合わせて計画する住区理論を採用した住宅団地を建設するという,戦後のニュータウン計画を先取りしたものでした.

 この計画で注目すべき事は,以下の点です.

 用途地域制については,1938年の市街地建築物法の改正を適用した住居専用地区,工業専用地区を導入して,著しく増える通勤工場労働者の交通の便と健康・安全を確保しようとしたこと.
 次いで,防空への配慮が極めて厚くなったことで,防火区割としては広幅員道路を30m以上とし,植樹帯を設け殿中は敷設しない.
 鉄軌道両側には街路を,主要交差点や大工場正門には広場を設置し,街路の構造も6m以上として歩道の幅員を広く取り,充分な幅の植樹帯を設け,自転車道も設置すること.
 更に運河水路や在来水路の保存拡充と,工場付近の地勢や業態に応じて運河を造り,防火区割もする.
 公園緑地は10%以上とすること.
 その上,市民の日常生活空間としては,1国民学校,1市場を近隣単位として,密度は100名/haを目処とする近隣住区制度を導入することも挙げられていました.

 この事業の最大の目玉は,土地区画整理を都市計画法第13条に基づいて,地方政府が施行することで,減歩率は30%程度と想定されていました.
 そして,財政上の措置として,幅15m以上の街路にして幅11mを超過する幅に対してその事業費の3分の1,特殊街路,防火避難専用街路,緑地(いずれも用地費を除く)の事業費に3分の1の補助が国から出されることになっていました.

 この事業が逸速く取入れられたのは,姫路市郊外にある広村,現在の新日鉄広畑製鉄所のある場所です.
 1937年3月に日本製鉄の進出が決定し,広村役場に仮事務所を設置した後,1939年2月に着工して2年弱で地区は大変貌を遂げます.

 広地区の東北部には山陽線の英賀保駅があり,そこを中心に南に延びる放射状の幹線街路,南西部にある日鉄工場正門に向かって延びる南北の幅員28mの植樹帯を中央に有する幹線街路が先ず造成され,商業地域の中には歓楽街の指定も予定されていました(これは戦争の激化で実現せず).
 従業員の社宅は,1939年から1944年に掛けて住宅営団建設分を含め,11,047戸が建設され,敗戦時までに幹線道路で予定の80%が完成し,その他の街路も50%は完成していました.
 歓楽街地区は最終的に社宅に変貌しています.

 1940年に住友金属の進出が決定した,和歌山県河西地区で計画された新興産業都市計画事業の場合は,こうした準備万端整えたものでは無く,国権を盾にした有無を言わさぬものでした.
 本来は,買収対象地域の農地を取ってしまって,地域住民の生活が成り立たなくなるのを回避すべく,土地区画整理事業によって買収地域全体の土地改良を行い,その中から捻出した土地を代替地として与えて彼等の生活を保障するのが筋ですが,それが逆転してしまっています.
 河西地区の場合は,買収を行うや否や,直ぐにインフラ整備事業に着手していますが,県側は後手に回り,買収された人々の代替農地を提供する為,買収地外で新興産業都市計画の準用による河西土地区画整理事業を実施した訳です.

 河西地区のそれは,1941年には当時としては巨額な310万円と言う予算を投じて1942年から着工され始めました.
 計画では4年の工期で,幅40mの幹線道路,緑地帯,下水道を完備し,想定人口を5万人として,国民学校を5校,公園を総面積の3%として5.3万坪,墓地1箇所,火葬場2箇所の敷地を確保し,街区も用途地域別に形状を指定して減歩率を24.7%と設定しました.
 第2期事業では,3年計画で1944年度予算として計上され,新たに幅員200〜300mの農耕緑地を設け,市街地の防災,防火の役割を託すと共に,戦時下の自作農維持と食糧増産の一助とすべく,農耕緑地には60.8万坪の緑地帯を確保する計画でした.

 実際には,戦争の影響から進捗は捗捗しくなく,幹線道路の設置が僅かであった他は,殆ど実現を見ずに終わっています.
 但し,その事業地外に計画された土地区画整理事業の計画的市街地と,住宅営団の設計思想を取り込んだ社宅地区が,戦後に良質な街区インフラとして受け継がれただけで,後は幻と消え果てたのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/11 23:17


 【質問】
 東大阪市は,なぜ日本有数の中小零細工場の密集地となったのか?

 【回答】
 東大阪市は,古くは室町時代初期,河内守護に任ぜられた畠山氏が若江城を築き,以後,畠山氏の守護代の遊佐氏が治めた地として知られる.
 大坂冬・夏の陣では若江が激戦の地となり,大坂方の武将・木村重成がここで戦死している.

 その後は,長らく湿地帯であったために開発は遅れがちで,鉄道こそ
大正3年に,上本町と奈良を結ぶ大阪電気軌道(現・近鉄奈良線),
大正13年に,布施と八尾間(現・近鉄大阪線),
昭和6年に,城東貨物線(現・おおさか東線)
が開通したものの,戦前までは鋳物工場が散在する程度の農村地帯だった.

 それが変わったのは,昭和6年からの耕地整理.
 127ヘクタールに上る耕地が整理され,企業誘致の態勢が整えられた.
 その背景には戦争準備のための工業化が急がれていたことがあった.
 戦中,この地域には機械金属,鋳物工場が建ち始める.

 が,本格的に工場密集地となったのは,戦後の高度成長期からで,交通の便が良く,地価の安かったこの地域に,中小企業が移ってきて,東京オリンピックの行われた昭和39年ごろには,同地に農地は殆ど無くなったという.

 工業化も「官」の号令だけじゃ,そんなにすんなりは行かないよね,というお話.

 【参考ページ】
塩野米松『ネジと人工衛星』(文春新書,2012.9.20), p.8-9
http://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000007265.html


 【質問】
 終戦までの産業動員について教えられたし.

 【回答】
 さて,人が足りないと言うのは最近極限まで人件費を切り詰め,且つ,派遣の人材でも目ぼしいのがいない(と言うか安い金で人を集めようとしても,それなりの人材しか集まりませんわなぁ)と言うのがあったりしますが,日中戦争が開始された日本でも,人手不足は深刻でした.

 即ち,戦線の拡大に伴う健康な成人男子の徴兵が続き,国内労働力が不足したことが第一の理由です.
 動員兵力は,
1938〜40年が100万人台,
1941〜42年が200万人台,
1943年以降は毎年200万人の増加となります.

 一方で,産業に対する労務動員計画は,
1939〜40年までは毎年100万人の人員充足が目標で,
1941〜43年が毎年200万人,
1944年には一挙に450万人の就業を必要としました.

 但し,戦前期(1938〜40年)は未だ比較的労働力に余裕がありました.
 1939〜40年度の供給目標を100万人としていましたが,その方策は1939年度は,
「専ら職業紹介機関による小学校卒業者,女子等の新規労務の給源確保が中心」
で,1940年度も,
「前年度と大体同様の方針」
で計画策定が行われました.
 即ち,この時期の動員は,新規に労働市場に入ってくる労働力を,必要とする業界に誘導するのが主目的となります.

 例えば,この時期の『写真週報』には,集団就職列車で東北から上京する小学校新卒者を取り上げ,彼等を暖かく迎える都会に迎えられる様子が描かれており,貴重な給源である農村の新卒者を,都市の工業労働者へと誘導する様に誌面が作られています.

 一方で女性労働に関しては,どちらかと言えば方針が不明確で,政府としては女性の就業を,「勧奨」してはいますが,特に具体的な政策は持ち合わせていません.
 従って,女性の労働を『写真週報』で取り上げていながら,女性労働を呼びかける具体的な文言が見あたらなかったりします.
 また,その労働も,後の様に工場で鉢巻きを締めてリベットを打つ様な過酷なものではなく,未婚の有閑女性がボランティアで子供の相手をすると言う程度のものが紹介されているくらいです.

 この時期は,国家総動員と言っている割には未だ余裕があり,労働者保護の為,営業時間や商店員への休日について定めた「商店法」を1938年10月に施行し,彼等の休みの使い方についても懇切丁寧に指導していたりします.

 これが一転したのが,太平洋戦争勃発と言う事件です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/01 21:13

 さて,一昨日の続き…少々夏バテ気味ですが.

 1941年には関特演の為,新規動員50万人が行われました.
 一方で,軍需産業を中心に工業分野への労働者供給目標数は221万人と倍増し,労務動員が緊急の課題に浮上します.

 この労働者不足を解決する一つの解として,1941年11月に国民勤労報国隊令が公布されました.
 これはドイツの労務動員政策を参考に,年間30日以内の比較的簡単な作業と言う制限付きながら,国民の広い層を強制動員の対象とするものです.
 また,1939年の国民徴用令も1940年10月,1941年12月に改正され,当初は国の行う総動員業務に限られていたものが,先ず政府の管理する工場,事業所に広がり,最後には民間事業所への動員も可能となりました.

 その結果,新規徴用者数は,1939年に850人,1940年に5.2万人だったのが,1941年には26万人弱の動員となり,1943年まで倍倍ゲームで増えていきました.
 但し,徴用者が増えたとはいえ,1943年前半までは,女性の労務動員,学徒勤労動員は未だ積極的に行われては居ません.

 1941〜42年の給源は,「動員強化ニヨル転職者」「其ノ他ノ有業者」でした.
 即ち,物資動員の強化による原料不足や,1940年7月公布の奢侈品等製造販売制限規則(所謂7.7禁令)により,失業或いはその危機に瀕していた中小の商工業者です.
 政府は,彼等に職業訓練を施した上で,軍需部門への転業を企図していました.
 企画院は,1941年に
「本年度の労務動員計画の給源は殆ど大部分,職業転換の円滑な実施によって初めて確保することが出来る」
と述べ,翌年も,
「本年度の国民動員計画の正否は,一に懸って職業転換が円滑に行われるかどうかにあると言っても過言ではない」
と述べています.

 こうした行政の施策を背景に,『写真週報』の記事は,中小業者の転業にスポットを当てた記事が度々登場します.
 例えば,頭飾造花職人,鞄職人,嫁入り用品の製造販売,理容師などの人々が,国家の要請する仕事に転職し,晴れ晴れとした生活を送る姿を見せる事で,彼等の転職を促進しようとした記事とか,パン屋の主人と料理見本職人がそれぞれ転業し,収入の減少は避けられないものの,精神的に満足する生活を送っている事を示して,転業を促進しようとした記事があります.

 とは言いつつ,転業者達は父祖の職業を棄てて一介の工員として働かざるを得ない者が多く,その心情を斟酌すると共に,生活環境の激変に伴う経済的,精神的影響も大きく,生活感情も鋭敏なので,労務管理に於ては微妙な取り扱いを要すると言う報告もあります.

 一方,労働力で最も不足していたのが,鉱山労働者です.
 政府は,1941年1月1日〜3月31日の期間を,全国石炭増産強調週間に定め,5月1日〜7月30日までを全国金属増産強調週間に定め,労務問題に特に力を注いでいます.
 こうした中,『写真週報』の記事にも鉱山労働者が取り上げられています.

 記事の構成は,帰還兵士が募集に応じて鉱山に就業し,立派な坑道戦士になると言う筋立てです.
 先ず,健康診断を受けて入山し,衣食住に余り金が掛からないので鉱山では金も貯まり貯金が出来る.
 鉱山には消防隊や救急隊が組織されているので,万が一の事故でも安心であり,プールや日光不足を補う太陽灯も常備されているので,健康が維持され,雨の日には将棋や新聞を読んでゆったり出来る….
 とまぁ,鉱山の職場としての魅力を伝え,「鉱山が君たちを待っている」的な記事でした.

 他にも,高島炭坑を取材して,炭坑労働者の為に近代的なアパートが整備され,土日には映画会,漫才会などの催し,女性従業員にはお花,お茶などのお稽古が行われる様子を伝えたり,炭坑の住居は家賃(電気代,水道代含め)が1円60銭で破格の安さであると共に,隣組菜園,新鮮な魚が市場に並び,公衆浴場は無料で四六時中開いているなど充実した生活が送れる炭坑の快適さを取り上げたり,炭鉱労働者へのインタビューでは,「坑内は夏涼しくて冬は暖かい」「炭坑にいても魚が食べられる,毎朝毎晩風呂に入れる,家族と一緒に平和な生活が送れ,勿体なさ過ぎる」などと言う発言を取り上げたりしています.

 転業者や鉱山労働者の他に,徴用者の記事も良く取り上げられています.
 徴用された少年工を取り上げた記事は,少年工の一日として,規則正しい寮生活,山盛りのご飯(白米!)が食べられ,仕事から帰れば母親代わりの寮母が繕い物をして置いてくれるなど楽しそうな寮生活の記事が出ていました.

 こうした記事は,何れも今日の目から見れば極めて嘘くさい訳ですが,炭坑労働者の例を取れば,賃金は日中戦争前に比して170〜80%にしかならず,かつての福利施設,消費生活に於ける炭坑の魅力の大半が消失し,かつ,ノルマに追われ,安全面を無視した操業で,生命の危険に晒される実態がありましたし,徴用が厳しくなると,国民の批判も高まる傾向にありました.

 女性の労務動員については,緩慢ながら強化が図られ,昭和16年度労務動員計画では,
「女性ニ付テハ,男子労務者ノ代替トシテ,未婚女子ヲ主タル対象トシテ,之ガ動員ヲ強化ス」
と明記されています.
 1941年度の女性動員の目標数は前年比倍増ですが,特に女子無業者の動員目標は前年の3倍となりました.
 但しあくまでも,女性の自覚に漠然と訴えかけるものであり,強制性はありません.
 これが覆(くつがえ)るのは,1943年後半からです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/03 21:31

 さて,労務動員の強化は,国民に不評な政策でありました.
 其処で政府は,あの手この手で勤労者を鼓舞しようと試みます.

 1940年11月には大日本産業報国会が結成され,この発足当初に最も重点が置かれたのが「文化活動」であり,その一環として,音楽演芸指導や産業戦士への慰問が盛んに行われました.
 例えば音楽には慰安,疲労回復だけでなく,労働を喜びに高め,団体訓練,士気の鼓舞などに想像以上に効果があるとして,職場で音楽団を結成する事を奨励したり,わかもと工場や栗原紡績工場の様に,従業員の素人演劇に熱心な会社を紹介してみたりしています.
 また,労働者への慰問興行の催しも盛んに行われました.

 とは言え,実際に労働者はどの様に受け止めていたか,と言えば,産業報国会自身がまとめた『産業報国運動に関する希望調査』に依れば,産業報国会に寄せられた「希望又は感想」(自由回答式)7857の回答の内,「映画紙芝居などの催しを多くし,慰安と共に時局認識の徹底を図られたし」と言う回答が744も寄せられ,これは産業報国会文化部に対する「希望」の中で2番目に多いものでした.
 しかし,
「健全娯楽を指示奨励されたし」は39,
「素人演芸会の開催を図られたし」は7,
「ブラスバンドの結成に尽力されたし」は僅かに3
に止まり,従来から庶民が楽しんできた興行的な娯楽に高い支持があった一方で,労働者参加型の「健全な娯楽」は空回りしていた印象を受けます.

 尤も,上から与えられる娯楽が本当に労働者の支持を得たのかと言えば頗る疑問があり,この調査よりも後に行われた,産業報国会幹部と企業の労務管理関係者の座談会では,労働者の慰安の為に,著名な浪曲師を招待し,メガホンで呼びかけても聴衆が集まらなかった工場の例や,ある工場では従業員の為に「立派な喫茶店」を作ったのに,工員達は其処に来ず街に繰り出す例が報告されています.
「娯楽といふものは求めるもので,与へるものぢやない.
 それを与へようと考へてゐるものですから,そこにどうしたつて無理が出る」
との企業の労務管理関係者の発言に,産業報国会の関係者が同意していたりする訳で.

 街の映画などの興行が相当な収益を上げていた時点は,こうした上からの押え付けを嫌った庶民達の,せめてもの抵抗だったのかも知れません.

 1941年12月に太平洋戦争が勃発すると,勤労精神の高揚の為の記事が『写真週報』にも頻出する様になります.

 そのパターンは3つに分けられます.

 1つ目は,社会的地位の高い政治家或いは会社経営者が現場に降りて労働者に感謝し,或いは労うことで,労働意欲を高めようと言うものです.
 例えば,「地下千二百尺の東条総理」と言う記事では,東条英機首相が作業服を着て炭坑を視察,「しつかり頼むよ」と労働者を激励してみたり,「岸商相地下千尺に入る」では,岸信介商相が作業帽を取って労働者に,
「これだけの増産を確保されるには,並大抵の御苦労ではないでせう…」
と頭を下げる写真を掲載したり,「社長を陣頭に」と言う記事では,10頁に渡って,三菱重工,日産自動車,片倉製糸紡績,昭和電工と言った企業の経営者が背広を脱いで,例えば片倉製糸紡績の社長が,工場に足を運び,女工達に対し,
「ホウ積んだナ,危なくないか」
と心配する姿とか,昭和電工の専務がスコップを手にしながら,
「どうだ君,具合はいいか」
などと声を掛け,労働者をいたわる姿を映し出しています.
 今の日本でも時々,政治家のパフォーマンスとして良くやられる手ではありますね.

 2つ目は,国民に緊張感を与え,勤労,増産を促すものです.

 例えば,
「敵アメリカは戦備に狂っている」
と題した記事では,米国の豊富な物資,卓越した工業力を描写し,本文では,
「アメリカが一般に,物資に於て格段に豊富であり,その資力に物いはせて,少なくとも武器だけはふんだんに造つて,我に反攻を試みようとしていることは知つておかねばならない」
と書き,国民に緊張感を与えようとするケース.
 また,Rabaulの航空戦が盛んに行われている頃には,
「歴戦の荒鷲は銃後に何を望んでゐるか」
と題した記事で,航空隊員達の座談会を企画し,
「我が機は決して性能でも何でも負けやしないが,敵は何んと言つても量で来る.
 一機でも多く飛行機を造って我々に与へて貰ふことが大切だ」
とか,
「銃後の人たちは浮かれ過ぎてゐるやうな気がする.
 一機でも余計に造つて我々に与えて戴くことが必要だ」
と発言するなど,前線の人たちの言葉を通じて,銃後の産業戦士を鼓舞するケースなどがあります.

 3つ目は,少年工の不良化が大きな問題となり,彼等を労る事に注力されたものです.

 1943年1月に,政府は,「勤労青少年補導緊急対策要綱」を閣議決定し,青少年の補導徹底,不良化の未然防止,教化錬成の充実を期する為の措置を講ずる程になっています.
 産業報国会と関係機関との対策協議会では,田舎から出て来た少年工は,「母恋しい」から,潤いを与える為の「母性的指導」を必要とすると言う意見が挙げられています.
 つまり,青少年不良化の原因としては,
「身分不相応の収入,監督者の不足,生活環境の単調などが挙げられ,要は家庭を離れた年少者に対する,家庭教育の延長としての寛厳宜しきを得た潤いのある公権的職場補導が緊要」
と言う訳です.

 こうした対策として,大日本婦人会の女性達がボランティアとして,裁縫,掃除,洗濯,掃除などを行う事が挙げられています.
 つまり,周囲の大人達は少年工に対し,母親の様に優しく接することを求め,一方,少年工には周囲の期待に応えて,真面目に労働に勤しむ事を促すと言った施策が採られる様になります.

 ただ,こうした余裕があるのも1943年前半まで,1943年後半から1944年前半になると,労務動員が急速に強化,特に女性に対する動員が強化され,新規徴用工の徴募も強化,更に,学徒の勤労動員が本格化するなどして,増産に次ぐ増産が叫ばれ,労働者のモチベーション維持何ぞは消し飛んでしまいます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/08/04 22:39

 さて,1943年後半から労務動員が急速に強化されています.
 1943年6月に労務調整令が改正され,一定職種(軽作業)の男子就業が禁じられます.
 つまり,彼等に代わる誰かをその現場に送り込む必要が出て来ました.
 そこで9月に,「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」が次官会議で決定され,女子挺身隊の結成による労務動員が開始されました.

 この頃の女子挺身隊と言うのは,市町村長,町内会,部落会などの協力の下で,女性を自主的に挺身隊に参加させるものであり,挺身隊の加入状況は良くありませんでした.
 この為,1944年3月に,「女子挺身隊制度強化方策要項」を閣議決定して,非協力者に対し,強制的に就業命令を可能とすることで,女子挺身隊の組織率をアップする事になります.
 更に8月になると,女子挺身勤労令が施行され,女子挺身隊に法的根拠が与えられることになります.

 こうした経緯により,この時期には女子労働と言うのがクローズアップされることになります.
 特に,1944年3月の強制参加までは,女子挺身隊の組織率を上げる為に,あの手この手の勧誘手段を使っています.
 例えば『写真週報』では幾度となく,女性の工場労働が表紙となっており,特にこの傾向は1943年後半から44年前半に集中していたりします.

 これは大別して3つに分けられます.

 第1に,娘の就労を厭う比較的余裕のある親に向けての啓発記事.
 女性が働く工場を取り上げ,工場では洋裁,和裁,華道など女性の嗜みを教えているとか,工場の中庭には清潔な洗濯上があるなど,清潔で花嫁修業も行える職場環境を整備していると喧伝して,娘の就労への親の抵抗感を軽減させようとするものです.
 「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」でも,女子の動員については特に気を遣い,
「女子勤労管理ニ一段ノ創意ト工夫ヲ凝シ之ガ刷新強化ヲ図ル」
と言う方針を定め,
「女子従業員ノ為更衣室,洗面所,便所ハ男子従業員ト区分シテ之ヲ設ケシムルコト」,
「女子従業員ニハ家庭ノ主婦トシテノ心得其ノ他女子トシテノ躾ニ必要ナル施設ヲ為シ修養ヲ怠ラシメザルコト」
などと規定しています.

 第2に,女性労働が戦争遂行上不可欠であることを強調して,女性の就労を促そうと言う記事.
 「飛行機工場は昼夜兼行の増産だ」と題する記事では,7頁にも渡って女性が飛行機工場で働く姿を特集したものですが,この写真の被写体は殆ど全て女性であり,キャプションにも,
「此処では女子工員は単なる男子工員の補助ではない.
 重要部分の組み立てまで,立派に女手ばかりで行はれてゐる」
とあり,工場が女性だけで動いている様な錯覚を起こさせる誌面構成だったり(実際には女性の比率は30%程度),女性の作業の正確性も評価され,真空管を造る女性の写真のキャプションでは,
「挺身隊と女子工員の血の出る様な増産魂で造られた真空管には,検査の必要もない程だ」
と激賞しています.

 奇しくも米国のメディアでも,同じ様な誌面構成を取って,女性の工場労働への参加を促す事をやっていたりするので,この辺り,日米双方が同じ事を考えていた事がとても興味深かったりします.
 尤も,日米ではその生産の質に雲泥の差があった訳ですが.

 ただ,米国と違うのは,「アメリカは既にその全能力を出し切つてゐる」のに対し,日本には「日本精神」と「労務給源として未だ日本女性が控へている」と書いている点.
 論理的な訴えかけではなく,情に訴える点が極めて日本的.

 第3に,その敵国アメリカの女性動員を引き合いに出し,敵国が頑張っているのだから日本もそれ以上に(ryと言う記事.
「敵アメリカの女でさへ,こんなに動員されてゐる」と言う記事では,
「ジャズに浮かれ,スポーツに溺れ,世界一にだらけ切ったヤンキーと誰しも考へたアメリカも,開戦と同時に態度を改めた.
 若い女はもとより主婦までが軍需工場へ.あのヤンキーでさへこんなに必死なのだ.
 寧ろ我々の方が,ある点では立ち後れてゐなかつたであろうか」
との書き出しで始まり,
「バルチモア,デトロイト,バッファローの各地では,幼児を持つ主婦まで既に募集してゐる」
と言った例を挙げ,写真は米国の航空機工場で働く大学卒の女子技術者の姿を配しています.
 と言っても,米国でも「母」の賃金労働に対する抵抗感は根強く,未婚女性と子育て後の中高年女性が就業するM字型パターンとなっていたりする訳で.

 こうした啓発活動にも関わらず,女子挺身隊の組織率は上がらず,結局は1944年3月の強制参加へと舵を切る訳ですが,これを受ける形で,「工場はあなた方挺身隊を待つてゐます」と言う記事では,
「『可愛い娘を工場なんぞに』と言う,間違った考え方をする母親がこれまでなかつたらうか」
と非難の矛先を親に向け,これからは
「勇躍出産陣に参加しようといふ娘達の出鼻を,母親達のこの無自覚と無理解が再び挫いてしまつてはならない」
と強く諫めています.

 結局,強制参加による労務動員が可能となった為,以後,写真週報には女性就労に関する宣伝は殆ど掲出されなくなりました.
 要は,今更宣伝するまでもないと言う事でしょうか.

 一方,新規徴用工についても,倍増し100万人台に達しています.

 1943年10月27日に次官会議に於て,「戦力増強国民徴用援護強化運動実施要綱」が決定されます.
 この運動は,「応徴精神ノ発揚振起ニ努ムルコト」などを目標とし,実施方法で各種刊行物を用いた宣伝活動を強化すると言うものでした.

 これに基づいた記事,
「征くも送るも赤紙と同じ心で 応徴者の心をくんで迎へませう」
では,中年の元喫茶店主が徴用に応じ,出征した弟に宛てて出した手紙という形式で,徴用の心境を語ると言う記事です.
 この記事では,応徴が名誉なことで出征と同じ扱いであることを強調し,近隣住民にも応徴者を盛大に送り出すことを求め,応徴者の政府への救済措置(例えば,応徴前後で収入に大きな差がある場合は,政府が差額を補給する制度があるなど)を伝える事で,徴用への国民の不満を緩和しようとしています.

 また,彼等に対する勤労精神昂揚の手段としては,敵討ち精神や敵愾心が多く利用されました.

 例えば,「撃ちてし止まん」と題した記事では,少年飛行兵の友達を思い出しながら,
「うんと敵機を叩き落としてくれ!」
と叫びながら,飛行機のベアリングを懸命に造る少年工の姿や,戦場で片手片足を失った帰還兵の工員は,亡き戦友を思い出しながら,
「この旋盤のバイトに仕上げられてゆくピストンリングの一つ一つが,鋼鉄の武器となつて君の,僕の代わりに宿敵の息の根を止めてくれるのだ」
と敵愾心を露わにすると言う構成が取られています.

 更に,山本五十六の戦死が公表されると,
「元帥の仇はキット討つぞ 闘志に燃え立つ生産工場」
として,元帥の仇を討つ為に増産を誓う少年工の姿か取り上げられています.
 アッツ島玉砕に際しては,
「我ら一億英魂に応へん」
と題して,様々な職種・年齢の国民の写真を掲載し,キャプションには彼等の「発言」が付されています.

 例えば,産業戦士は,
「第一線で皇軍将兵と生死を共にする兵器を造る私共は,兵隊と一緒に突撃するつもりで,この職場を死守します」
と決意を書けば,炭坑の勤労報国隊員は,
「辛い,とんでもない.みんな,あたりまへなこつと思つてゐます」
と談じ,中年男性は
「こん畜生,と思ひましたがね.
 役員でございと腕章を捲いて威張つてゐる時ぢやありませんや.
 自分が真先立つて転業しなきあ駄目だ,と軍需品のミシン下請工場に転じましたよ」
などと,然りげ無く,軍需関連部門に職種を転換したことを語っています.

 こうした方策は,1943年12月に決定された
「戦時国民資料確立に関する基本方策要綱」
で取り上げられたもので,これには,
「戦争の実相に基き国難来の感覚を極力感得せしめて,之に対する反撥心と敵愾心を昂揚し,国を挙げて国難に赴くの満々たる闘志と戦意の強化を図ること」
と言う方針が盛り込まれており,この記事もこれに沿ったものになっています.

 現在の我々も,こうした方策に載せられない様にすべきではないかな,と思ったりもしますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/05 21:31

▼ さて,1944年7月にサイパン島が陥落し,最早空襲は避けられなくなります.
 それに伴い,動員兵力も増大します.

 一方で,飛行機を中心とする兵器の増産が声高に叫ばれ,1944年度の国民動員計画では450万人の動員目標が決定されます.
 しかし翌年になると,
「生産青年層に於ける新規給源は殆ど皆無の窮状に立ち至り,勤労動員の需給調整は極めて至難な事態」
になった為,1945年度の国民動員計画の策定は中止されました.

 このサイパン陥落後,勤労精神の昂揚のさせ方が変わります.
 従来は,「敵討ち」の論理だったのですが,更に敵国の残虐性を強調し,「怒り」から労働を引きだそうと言う形になっていく訳です.
「きつとこの仇は討つぞ」
と題する記事では,主題は敵討ちです.
 しかし本文の中に,
「かよわい婦女やいとけない幼児にまで鉄と砲弾の嵐を浴びせ,その血潮を流れてゐる上を進んだ敵,この憎い敵を撃ちのめすことはただ一つ,職場に闘ふことだ」
と米国の残虐性を強調し,写真のキャプションにも,
「この祈り,この怒り,さあ,全精力を上げて石炭を掘るのだ」
とあります.

 当時,サイパンが陥落した事で,国民の戦意喪失が出て来ました.
 警視庁情報課の報告では,サイパン陥落により,
「一般庶民層ニ於テハ異常ナル衝撃ヲ感ジツツモ,士気頗ル振ハズシテ…,大半ハ戦局ノ前途ニ若干ノ不安危惧ヲ禁ジ得ザルモノノ如ク…,一部少数ニ敗戦的思想」
が看取される様になり,それ故に,
「戦意昂揚ヲ企図スルニ非ラザレバ,極メテ憂慮セラルル事態ニ到達スルヲ免レザルナリ」
と言う状態でした.
 また,
「工員ノ勤労観念弛緩又ハ著シク,反抗的ナリトノ声明多キ実情ニシテ,去ル七月十八日発表セラレシサイパン島全員戦死ニ関シテモ,職場ニ於ケル感激ハ,従来ニ比シテ極メテ低調」
であり,
「勤労管理ノ是正,生産意欲ノ昂揚ハ刻下重要ナル課題ト謂フベキナリ」
となっていました.

 政府としても,戦意を喪失しつつある国民を刺激し,労働意欲を高める為に,米国の残虐性を強調することが必要になった訳です.
 1944年10月には,「決戦与論指導方策要綱」が閣議決定されます.
 この中では,
「敵ニ対スル敵愾心ノ激成」
が目標の一つとされ,その為に,
「米英人ノ残忍性ヲ実例ヲ挙ゲテ示」
す事が方針とされた事が確認出来ます.
 以後,英米に対する姿勢も,敵愾心を増す様に描かれていきます.

 また,是迄は模範的労働者が描かれていましたが,この頃からは怠業者が登場します.
 例えば,「鐘のなる丘」「がめつい奴」で有名な菊田一夫が『写真週報』に,
「写真劇 闘はんかな時いたる」
と言う記事を掲載しています.

――――――
 徴用されて懸命に働く主人公.
 その職場にサボる労働者がおり,
「まあ一杯やれよ…馬鹿正直な奴ほど損をするんだぜ.お前がやらなくたって誰かがやってくれらあな」
と談笑している.
 そんな中,サイパン島全員戦死の報が伝わり,主人公は,
「だれがさうさせたのだ」
と唖然と座り込む.
――――――

と言うストーリーですが,サイパン敗退を銃後国民の怠慢に求め,増産を訴える記事となっています.
 つまり,こうした怠業者を取り上げざるを得ないくらい,労働者の勤労意欲の衰えが深刻になっている現れとなっている訳です.
 尤も,この頃になると,国民も「笛吹けど踊らず」で,こうした宣伝に乗っからない様になってきていますが.

 1945年になって空襲が頻繁となると,労働者の勤労意欲は更に衰え,欠勤率が急上昇します.
 1943年9月〜1944年9月までが20%だった欠勤率は,1945年7月には49%に上りました.

 こうした欠勤者を職場に引き戻すべく,
「押し切れ!この一戦」
と題した記事では,
「戦災に名を借りて戦列を離脱してゐる者は果たしていないであらうか.
 或ひは隘路(戦災に伴う物資供給途絶)を口実として,或ひは他の致さざるを顧みて生産への努力を惜しんでゐる者はいないか」
などと書いております.
 が,そもそも,労働者を食べさせることが出来ない状況で,且つ,戦災により焼け出された労働者が新しく住む場所を見つける必要があったり,家族を田舎に引揚げさせる手配をしたり,空襲で失った生活必需品を確保するなど,生活を支える為に現実的な様々な事情があった訳です.

 この頃から,「特攻精神」が盛んにお題目の様に唱えられ,
「特攻に続くぞ生産陣」
とか
「造れ! そして送れ!」
と言った記事が盛んに出没します.
 今でも同じですが,結局は精神論に行き着く訳ですな.

 最後に,戦中の政府広報に従事し,戦後は広報学の権威となった小山栄三と言う人は,次の様に述べています.

――――――
 戦前戦時中の情報とか,宣伝とか言いますと,二つの意味があって,一つは謀略的な意味が入った広報と,PR的なストレートな広報とが二つあります.
 労務動員関係の広報は,色々な意味で謀略的な意味を持った広報に位置づけられるのではないでしょうか.
――――――

 さて,皆さんは現在の報道に踊らされていませんか?

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/07 22:12

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日米では,戦時の女性就労について,どんなところに差があったのか?

 【回答】
 米国も女性労働者を採用しています.

 例えばDouglasの場合,1941年当時,1300名の女性のうち,生産現場にいた女性は24名に過ぎませんでした.

 しかし米国も,太平洋戦争勃発後,生産現場から熟練,半熟練工が徴兵され,労働力不足が懸念されました.
 例えば,Californiaに於いて,1942年1年間で15000名の航空機産業従事者が徴兵され,それは,技術者の37%,機械工の24%,検査工の23%に上っていて,航空機工場側は軍部に「代替不可能な労働者」に対する徴兵猶予を求め,陸海軍は,30日〜6ヶ月の徴兵猶予を決めますが,一時しのぎにしかなっていません.
 つまり,米国も日本と同様の状況になっています.

 最初は航空機産業側も,軍事機密保持の関係上,身元の確かな人を採用する傾向にありましたが,生産が拡大強化されるにつれて,そんなことよりも量を重視することとなり,働ける者は誰でも採用するようになっています.
 LosAngelesでは,1942年末に航空機産業従事者の36%が女性です.
 前述のDouglasでは,1943年末の時点で,女性の航空機生産従事者が3万6千人強に達しています.
 また,未成年者についても,16〜18歳の男子を対象としたSchool Work Programが行われ,例えばLockheedでは,1943年2月以降,4500名の未成年者を雇用しています.
 彼等は,4週間Full timeで航空機工場で働き,次の4週間高校へ通学する「4-4Plan」,あるいは,4時間働き,4時間学校に通い,週末と休暇中は1日8時間工場で働くと言う形態を取ることもあり,一部では学校工場もありました.

 これら米国で生産活動に従事した女性は,どちらかというと,航空機産業に職を求めてやってきた人々で,彼等は職場を良くしようという気概があり,工場におけるQC活動が奨励され,女性側からも積極的な生産活動に対する能率向上活動があり,このことは,当初懐疑的だった航空機産業の経営者も認め,女性の更なる積極的な雇用に繋がっています.

 一方の日本の場合は,統制力の強い雇用が行われ,不要不急産業,とりわけ紡績産業をリストラした女性や,若年労働者を個別に徴用という手段で航空機産業に従事させるもので,極めて強制力が強く,労働の士気という面では米国よりも劣るものでした.
 例外は,近江絹糸(今のオーミケンシ)から転換した近江航空機で,元々の女工がそのまま産業転換して残り,30名の男性工員を名古屋の三菱重工に派遣し,航空機生産技術を習得,彼等が帰還後,1ヶ月掛けてSkill Transferを実施し,女工に航空機生産技術を教えた上,紡績産業時代の生産設備を活用して,絹糸紡績の流れ作業を航空機生産に応用することで,高い生産性を維持したそうです.

 品質管理という面では,米国の場合は,自動車産業の充実があげられます.
 例えば,1942年4月に,西海岸に配置された主要航空機メーカー8社で,West Coast Aircraft War Production Councilが設置され,戦闘機や爆撃機などの主要機種の生産に関して互いに協議し,部品の標準化,互換性の向上を図っています.
 1942年10月には東部の航空機メーカーも同様の協議会を設置し,1943年4月にNational Aircraft War Production Councilが両者の統合で誕生しています.
 この協議会では,各社の企業秘密である生産技術,経営管理技法を積極的に公開し,航空機メーカーによる情報交換を行い,主要機種の生産についての生産提携,機種限定による生産集中が討議されています.
 例えば,この結果として,BoeingB-17は1944年末までの1万機のうち,Douglas Long Beachで2000機,Lockheed Vegaで2000機が生産分担されています.
 そして,機種限定,生産部品の標準化が図られると,自動車産業の組立ラインを本格的に航空機に応用され始め,Consolidated Valteeの工場に初めてこの設備が導入,これによって,半年のうちに,最終組立に要する時間が75%,コストを40%削減することが実証され,各社がこうしたラインを導入することになります.
 これらのラインにも様々な補助的な機械が導入されており,生産性の向上に寄与しています.

 一方の日本では,工程管理のノウハウが十分に習得出来て居らず,経営者はこうした専門家の養成にも積極的ではありませんでした.
 航空機メーカーは,生産機数のノルマ達成にのみ目が向き,調達資金は工場の拡張にのみ費やされ,生産ライン改善に目を向けた企業はほぼ皆無でした.
 また,熟練工がこうした機械化に抵抗し,工作機械も熟練工向けの(質の低い)万能工作機械ばかりで,非熟練工でも容易に扱える単能工作機械が不足してしまったこともあげられます.
 また,陸海軍の仲の悪さに加え,戦時中の日本では,海軍の基本機種は53,サブタイプが112,陸軍でも基本機種37,サブタイプが52もあり,部品の互換性が非常に低かったこと,更に航空機産業に限らず兵器産業は部品集成産業で,下請工場の部品を最終組立するのですが,この下請工場の多くが小規模町工場で,技術水準が低く,本社工場が品質の管理を十分行えなかったと言う面もあげられるでしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/18(水)
青文字:加筆改修部分

 今読んでいる本は,軍需産業に於ける女性労働を扱ったものなのですが,資料をしっかり読み込んでいる感じを受けます.
 この本は,航空機産業に於ける,日本と米国の女性労働を,米国西海岸の航空機メーカー(Boeing,Douglas,Lockheedなど)と,群馬県の航空機メーカー(言わずと知れた中島飛行機太田工場)とを対比させて,戦時期に於ける女性労働力の活用から起こして,その労働力をどの様な産業に配分するか,そして配分された女性労働力をどの様に企業が活用したのか,と言ったことを日米で比較しながら論じている秀作です.

 女性の役割については,類型化されたものとして,まず,枢軸国の女性に対しては,労働力としての女性の役割は限定的で,戦時下で国家の母としての役割が第一義として割り当てられ,伝統的家父長制の維持,国家のために身を捧げる兵士を産み育てるのが女性の任務であり,産業,国防の局面での女性の役割は可成り限定され,労務動員でも未婚の若い女性がその対象となり,職場でも母性保護が求められ,役割には制約が多く,国家が女性を労働力として最大限に活用しなかったのが,枢軸国が大戦に敗れた一つの遠因としています.

 一方の連合国の女性は,大規模に軍需産業に動員されて生産に大いに貢献し,あまつさえ女性兵士の存在が有るように,これを以て連合国は民主主義的で男女平等であると言うもので,第二次大戦中,女性を労働者として活用した数は,英国で800万人,米国で600万人,対して,日独共に僅かに300万人に過ぎないという事からもそれが言えるであろうとされてきました.

 しかし,プロパガンダを廃した視点から見ると,両陣営とも女性労働に対するアプローチは非常に類似した形を取っています.
 ただ,米国の場合は,動員が思うように進まず,女性徴用という形態も終戦までに結局実現することなく(Rooseveltが実は非常に懐疑的だった)終わっていて,女性の労働力としての大量動員は企業努力の結果,女性が働き口を求めてこういった軍需産業に就職しに行く形態が多いのが意外な所.

 日本の場合は,中央集権的な強制徴用を主に行っていますが,これも,兵士に農業などの第一次産業従事者が取られた為に,軍需産業への徴募が非常にきつくなっていたりする事実がありました.

 で,日本の女子徴用の形態は,3つに分けられます.

 1つ目は最も多い形態で,女学校単位で結成された卒業生の挺身隊,これは学校長,同窓会が中心となり,上級学校進学,家庭の問題が無い限り,挺身隊に参加,末期には卒業式直後に学校生活そのままに挺身隊に組織するケースがあり,1944年3月までに全国で23,581名の既卒者,121,563名の新卒者が学校単位の女子挺身隊に参加していました.

 2つ目は,こういった網から漏れた家事手伝い,家業従事,無職の女性で,地域の女子青年団,大日本婦人会支部,隣組などを通じて割り当てられた人数を確保する形で編成された地域別挺身隊で,1944年3月までに146,996名の女性が参加していましたが,大都市では就職先が多いために,挺身隊に参加させられない様にさっさと就職するケースがあったり,地方都市や農村部では,貴重な労働力であって,かつ,農業従事者はこの動員から免除されていたため,次第に組織率が低下し,また,動員先とのミスマッチもあって,出勤率は平均54%に過ぎませんでした.

 3つ目は,小規模でしたが,官庁や会社,銀行などの不急産業に従事していた女性を挺身隊に組織する,職域別挺身隊というものです.
 これは,警視総監から各職場の長に命令を下し,それぞれの職場に人数を割当て,割り当てた人数は挺身隊を組織し,1年間軍需工場で働くと言うものです.
 例えば,朝日新聞東京本社では300名程度の女子社員のうち15名が「朝日挺身隊」として東芝大井工場に出勤し,赤坂や芳町の芸者衆が「芸者挺身隊」を結成して,航空機部品,電波兵器組立工場に派遣されたりしました.
 これらの人数は,敗戦までに472,573名に上り,1944年3月時点では,201,487名の挺身隊員のうち,45,881名が軍の作業に派遣され,民間では機械工場に47,636名,航空機,その関連部品工場が46,237名が動員されていました.

 労務的には,これらの人々は通勤可能範囲で動員されていましたが,重点産業の工場などは大都市や工業都市に集中していて地方では職場が見つからず,長野県の様に,20の学校挺身隊が編成されたものの,地元工場で働けたのは僅か8隊,その他は愛知県豊川の海軍工廠や,東京の中島飛行機,川崎の富士電機に派遣されたり,唯一編成された地域別挺身隊も,川崎の東芝に派遣されたりしています.

 さて,日米ともに,航空機生産は手作業が多く,熟練作業によってその生産が支えられてきました.
 ちなみに,1930年代末期,米国で作られた航空機は,軍用,民間問わず,6,000機程度でした.
 第二次大戦が勃発してRooseveltは,航空機生産目標を5万機に設定しますが,1940年の時点で,まだ12,804機,41年に19,433機,42年にやっとその目標に近づき,49,445機となり,43年に更に倍,92,196機に達し,44年に100,752機になりピークを迎えます.

 この時期,英国は1941年に20,100機,42年に23,600機,43年に26,200機,44年には余り変わらず26,500機であり,生産が限界に達していたのか生産量は変わっていません.
 また,ドイツは,1941年で11,766機,42年に15,556機,43年にシュペーアの登場で生産力が増強されて,25,527機,それでも,英国と良い勝負に過ぎないのですが,44年に英国を抜いて39,807機に達しています.

 で,我が日本はと言うと,1941年の段階で5,088機,42年に8,861機,43年にこれも航空主兵政策で,生産が一気に増え,16,691機と倍増し,44年には28,180機と意外にも英国を抜いていたりします.

 米国の航空機生産の立ち上がりが意外に遅かったりしますが,これは,一つは生産設備の問題で,第一次大戦に米国が参戦した際,その生産設備の拡張は各企業の自己資金で賄われていましたが,拡張直後に戦争が終結してRecessionが発生してしまい,多数の航空機メーカーが倒産を余儀なくされた記憶が新しかった事と,もう一つは,熟練工による生産が行われていたので,労働力確保が難しいと言う側面があったから.
 前者は,その設備をRFCによる資金援助や政府がDPCを通して購入した生産設備を軍需産業にリースしたり,減価償却の年限を軍需工場の生産設備に対し,5年とすることで対応しますが,熟練工については,他の軍需関連産業と奪い合いをすることとなり,生産に支障を来すようになっています.
 其処で考えられたのが,部品の標準化と大量生産方式の導入で,意外にも,第二次大戦が始まって暫くしての導入な訳です.
 で,大統領直属の国防諮問委員会を作り,この委員長にはGM社長のヌードセンを充てた訳で. つまり,自動車産業の大量生産,部品標準化方式を航空機業界に当てはめようとしたのですな.

 こうして,非熟練労働者による航空機生産方式が模索されたのですが,航空機の組立についても,都市部の本工場で最終組立を行いますが,この工場の半径200マイル内の地価の安い郊外に,Feeder Plantと言う200〜500名程度で運用する小規模工場を多数設けて,此処で生産した部分品を本工場に持ってきて最終組立を行う方式が採用されています.
 この施策は,郊外に住む人々に対して都市部への通勤を回避(実際,燃料統制でバスの本数が減らされるなど問題があった)出来,しかも,家の近くに工場があることで,主婦層の就業を促すことも可能,また,都市部では家賃が高く,住宅が不足しがちだったのに,郊外では家賃も安く住宅も建設しやすいことから,他地区から流入してきた非熟練労働者に対しても歓迎されることになりました.
 また,Feeder Plantを多数設けることによって,生産を分散化出来たので,国防上も有利になりましたし,同じ部品をいくつもの工場で生産することで,小ロット生産とか小規模改造の部品を容易く製造出来るようになっています.

 日本も思想的には同じような事をしていた筈なのですが,日本の場合は,Feeder Plantの設置よりも先に,自社の設備拡張に主眼が置かれました. 集中生産方式を採って,周辺の土地に進出していく形です.
 これは交通網の貧弱さと言うものに依拠したのかもしれません.

 これが改められ,分散化し出したのが,1943年から.
 航空主兵政策の実施による航空機生産拡張と,空襲対策の強化にほぼ一致し,例えば,中島飛行機では,太田製作所(陸軍機製造),小泉製作所(海軍機製造),前橋工場(精密機械加工,部品製造)が太平洋戦争前までに整備されていましたが,この年から亀岡工場(板金部品の太田への供給)を始めとして,不要不急産業である衣料工場が産業転換で中島の部品製造,製品組立工場となっていきます.
 1945年には,生品工場が設置されて疾風が月産150機,堤ヶ岡工場では同じく疾風が月産100機製造することになっていました.
(ちなみに,その頃の疾風は中島だけで600機の月産生産割当があった)

 しかしながら,製造という面から見ると,米国がFeeder Plantで行っていたような,面的な結節をしていた訳では必ずしも無く,機体の組立,部品の製造を各所でバラバラに行っていたのが殆どでした.
 一方,部品メーカーについては,現代の系列取引のように,垂直型関係が築かれていきます.

 理想論から言えば,垂直型で裾野を広げれば,親工場の新設,拡張をすることなく,部品の生産数は多くなり,従って最終製品の生産が増えるはずでしたが,熟練工が徴兵されたり,或いは高賃金を得るために熟練工が本社工場に転職したりと言った事例が多く見られ,労働力不足が深刻化し,遊休労働力である,主婦層や学生などが動員された訳です.
 都市近郊では,「家庭工場」「隣組工場」が作られ,主婦労働力が活用され出しました.
 例えば,立川では1942年12月から,隣組を利用した協力工場が43カ所造られ立川飛行機の下請となり,其処では800名の主婦が「鵬翼工作隊」として活動していました.
 一応,これらは一種のFeeder Plantに近い性格のものでしたが,規模は小さく,生産方式は原始的,加えて,本社からの技術指導も品質管理もなく,我流で作っていたので,生産性は極めて低かったりしていたので,軍用機生産には大きく貢献することはなかったのでした.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 太平洋戦中,熟練工が徴兵されて女子や中学生?が工場で働いたため品質が低下したそうですが,全工場労働者に占める女子や中学生の割合というのはどれぐらいだったのでしょう?

 【回答】
 1940年10月の時点で,機械工業に従事している男子は1,879千人,女子は225千人.
 1944年2月の時点で,機械工業に従事している男子は3,524千人,女子は787千人です.

 1944年の時点での労務動員計画では,学校在学者は男子1,133千人,女子が920千人の動員を見込んでいましたが,これらが全て工業に従事した訳ではなく,農業や建設奉仕に回す分もあります.
 学徒動員の軍需生産と食糧生産,建設工事の割合は大体,50:43:7の比率です.

 産業全体で行くと,1944年の労務動員計画では,男性2,536千人,女性1,986千人となります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 滋賀県内の女子高に対する,勤労動員の状況について教えられたし.

 【回答】
 1944年,「勤労即教育」の通年動員が決まり,各地の高等女学校から生徒が動員されました.
 滋賀県内の各女学校へは,地元のみならず,名古屋の工場への動員要請が行われました.
 この名古屋の工場への動員要請は愛知のみならず近隣各府県に行われた様で,京都,滋賀,岐阜,静岡などからも動員で名古屋へ生徒達が送られています.

 因みに,京都府の校長会では,愛知県への工場動員について特にクレームが激しかったと伝えられています.
 地理的な遠さも然る事ながら,兵器工場地帯故の空襲の危険性が認識されていたからだと思われます.

 この動員令は最終学年が対象でしたが,此の年,中等学校の年限は総て4年次となってしまったので,5年生と共に4年生も卒業年度に掛かって動員の対象となってしまいました.
 この内,身体検査で不合格になった者を除き,名古屋動員の人員が7月中旬には決定され,下旬には現地へ出発と言う慌ただしいスケジュールで行われました.

 滋賀県の高等女学校から動員された生徒達は,岡本工業笠寺工場,三菱重工業名古屋航空機製作所,同道徳工場,三菱電機大曾根工場の3箇所に送り込まれました.
 その数,全部で13校有り,各工場とも学年が揃うようになっていて,2学年が動員された学校では,それぞれの学年が別の工場に動員されました.
 機密保持の意図からか,他校の交流も少なく,更に工場内では一般工員の中に学徒が分散配置され,引率者の教諭達は,生徒の掌握が難しかったと言います.

 滋賀高等女子実業の引率教師は次のように報告しています.

――――――
 作業配置も種類も一校同一箇所,同一種類が指導,団結上は便利である.
 適性によって類別するならば,滋賀学徒一丸として適性適所,適性種類に幾つかに分けて,これを適性箇所,種類の同二点に集め,学徒としての熟腕を振わせること.
 会社側の学徒を一般工員の中に差し挟み,学徒に望むにこれらの模範になれというのは余りに力のなさ過ぎる会社指導者の泣き言である.
 会社側本来の工員は,会社側の責任として学徒の熱線まで,学徒の態度にまで早急に訓練すべきである
――――――

 この動員,4年制の学校は無論4年生のみの動員でしたが,残りの5年制の学校は4年,5年(または専攻科)とも動員の学校と5年生のみの学校,4年生のみの学校と差がありました.
 更に,4年制だった大津市立高女は,最終学年ではない3年生が動員になっています.
 4年生のみ動員した学校は,既に5年生が1944年度の早い段階で県内航空機関係の軍需工場に動員されていた関係で,送らずに済んだのが原因です.
 ただ,航空機関係の軍需工場ではない,或いは直接携わっていない,例えば,繊維関係やパラシュート生産に就いていた学校の5年生は,引き戻されて名古屋に動員されていました.
 また,水口高女の様に,学校工場の真綿製造の為,5年生が下級生に指導する必要が有るとの理由で,4年生のみ動員された場合もありました.
 この辺は,学校関係者と動員担当者との虚々実々の駆引きがあったのかも知れません.
 5年制で5年生のみ動員されたのは県立大津高女だけでしたが,これは吉田電機と言う会社の学校工場に指定された為に当初は選に漏れていたのですが,その稼働が遅れた為に,動員に引っかかったと言われています.
 大津市立高女の3年生は,最終学年だった4年生が,早くから住友金属堅田伸銅所に動員され,技術習得と作業が軌道に乗ってしまったことから,員数合わせの為に動員されたと言われています.

 有無を言わさぬ動員が進められていく中で,唯一名古屋動員に参加しなかった学校があります.
 それは県立長浜高女です.
 この学校は4年制の学校で,卒業学年の4年生はその頃実務訓練中で,早くから県内軍需工場に派遣された訳ではありませんでした.
 その前の年の農村宿泊勤労奉仕で,1名の女生徒が重病にも関わらずに帰宅が許されず,勤労奉仕後直ぐに入院したものの,胆嚢炎から腹膜炎を併発して死亡しました.
 そうした出来事があったからか,学年主任の先生が,名古屋の動員担当者と丁々発止の遣り取り(主に三菱化成長浜工場への動員を材料に交渉をしたと言われている)を行い,その動員に抵抗して回避に成功しました.
 日頃から戦争に批判的な先生で,息子にも
「この戦争は負ける.命を捨てるようなことは絶対に許さん」
と言って,息子の軍隊への志願に徹底的に反対したそうです.

 因みに,この時代,長浜農学校では未だ英語教育をしていました.
 農学校の校長は1945年,軍に呼び出されて
「英語教育を止めよ」
と叱責を受けましたが,
「戦争に勝てば,又英語が必要になる」
と言って軍の命令に抵抗し,遂に敗戦まで英語教育が貫徹されたそうです.
 そう言う意味では,長浜には肝が据わった人々が結構居たのかも知れません.

 そんなこんなで1944年7月24日,13校の女子学徒約1,900名が2本の特別専用列車で名古屋に向かいました.
 三菱航空機名古屋製作所の学徒は熱田駅で下車,岡本工業笠寺工場の学徒は笠寺駅で,三菱電機の学徒は途中中央線に乗り換え,大曾根駅で下車しました.
 三菱の名古屋製作所が準備した寮は,菱和寮で2階建て4棟のコンクリート造りでトイレは水洗,床屋まであり,各階に源氏物語や大仏次郎などの図書が備えられていて,女生徒を喜ばせました.
 三菱電機は,双葉寮,若葉寮,霞寮を用意し,岡本工業も木造2階建てとは言え,関西寮を用意しています.

 三菱航空機では零戦など戦闘機のネジ等の製作,検査,翼の鋲打ち,ドリルでの穴開けなどの作業で,身体が弱い者は,松坂屋の5階で事務作業を行っています.
 道徳工場では,新司偵の製作,三菱電機では小さな航空機部品作り,鑢掛け作業を行っていました.
 岡本工業は元々自転車メーカーでしたが,航空機の脚部製作,メッキ,塗装作業や疾風の油圧装置を作ったりしています.

 ただ,住設備は立派でも,衣食は非常に貧弱,特に食は絶対量が不足し,おやつに冷凍蜜柑や無花果が出る事もありましたが,ご飯は芋ご飯,豆粕ご飯,得体の知れない丼物,カレー(らしきもの),小粒の梅の精,蝗の塩ゆで(丸干し)などが出ました.
 幾ら戦時中とは言えそこは女の子,田んぼで捕まえたそのままの姿が食卓に載っていて殆ど誰もが手を付けずにいたら,翌日,その蝗にお湯を掛けて次の夜の食膳に出たと言います.
 冬に蜜柑を食べて,その皮を火鉢で焼いて食べたとか,夜中に窓に積った雪に塩を塗して食べたと言う体験談もありました.
 中には畑の胡瓜をこっそり頂いて皆で分けて食べたと言う話もあります.
 郷里からの小包には総て検閲が入り,食べ物は没収されて皆に分けられましたが,密かに持ち込まれるはったい粉(大麦の粉を煎ったもの),炒り豆や炒米が必需食料でした.

 こうした生活に耐えきれず,1〜2の学校で逃げ帰る生徒が出ていました.
 そうした「帰りたい」と言う声が工場の人達に聞かれて監督官から怒られたり,その声が高まったある学校では,引率の先生が良寛の「何故に家を出でしと折ふりは 心に恥じよ墨染の衣」と言う詩を引いて説得に当ったりしたそうです.

 そうこうしている内に,この地域へ不気味な足音が近付いてきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/16 23:29

 名古屋では1945年に入ると地震や空襲で被害が相次ぎます.
 名古屋での動員学徒の死者は157名で,殆どが空襲死でした.
 奇跡的に滋賀県の学徒からは死者が出ていません.

 東海地震では,道徳工場が倒壊し,多数の死者が出ています.
 元々,道徳工場は専用工場ではなく,紡績工場だった煉瓦積みの建物を買収したもので,しかも生産用の大型設備を入れた為に,一部の柱や梁を外していたことから耐震性が著しく劣っており,マグニチュード8.0と言われた揺れに堪えきれなかった様です.

 三菱電機の工場では,名古屋市立第三高女の学生達が研修後,学校工場を開設していましたが,1月23日の空襲で防空壕に爆弾が落ち42名が亡くなりました.

 地震にしろ,空襲にしろ,既に名古屋は国内でも安全な場所では無くなっていました.
 こうした状況を打開すべく,先ず,壊滅的被害を受けた道徳工場が富山へ疎開し,呉羽航空機の工場を利用して生産を再開しました.
 この生産に携わる為,その工場に動員されていた学徒達も富山に移動させられています.
 疎開後,2月24日には疎開工場生産第1号機が初飛行し,工場の生産も軌道に乗ったようですが,既に彼方此方で物流は分断され,原材料は空襲で手に入らず,3月末には手待ちと言う状態に陥っています.
 その一方,呉羽航空機本体では,木製戦闘機キ106が3機完成したりしていました.

 三菱本体工場組と岡本工業組はそのまま残りましたが,3月24日の大空襲を体験すると,先ずどの学校の教師もこのままでは生徒の命が危ないという認識をしていました.

 ところで,最上級生達は3月末で卒業となります.
 しかし,戦時体制下では卒業後も附設過程の専攻科と言う形での動員が決まっていました.
 例え進学した所で,此の年の工専や師範学校の入学式は7月ですから,6月まではそのまま動員が続けられることになっていました.
 また,家業の農業(食糧生産)に従事する事や進学を理由に帰郷する生徒も一部には居ましたが,「御国の為に尽す」責務からそうした許可は中々出なくなりました.

 其所で教諭達は生徒達の命を守る為に,非常手段を数多く取りました.
 例えば,岡本工業笠寺工場にいた愛知高女5年生は,引率教師が,工場を管理していた軍需管理部中部管区の大佐と殆ど脅迫とも言える直談判で,卒業式後,大垣の北方にある神戸に疎開していますし,日野高女の校長は会社側と「ものすごい交渉」を行い,尾張一宮への疎開を拒否して滋賀県への帰郷を決行しています.
 後者は,専攻科2年の卒業生を3月29日に一時帰省の形で帰した後,専攻科1年生,本科4年生も学校工場を名目に引上げました.
 当然,客車などの手配はなく,貨車による強引な帰郷だったと言います.
 県立大津高女の引率教諭は,生徒を連れて歩いて滋賀へ帰ろうとしたり(監督将校に説得されて神戸に疎開が決まった),愛知高女の三菱電機動員の生徒達も,引率教諭の交渉によって四日市室山に疎開になりました.

 こうした動きは他の学校にも波及し,彦根高女の4,5年生も新年度は名古屋郊外の岩倉工場へ,岡本工業にいた学徒は,岐阜の垂井に疎開し,大津市立高女も岐阜県中津川の疎開工場に移っています.

 滋賀高等女子実業の場合は,「通年動員は年度末まで」と言う理解で校長と工場側がギリギリまで交渉を続け,3月31日に名古屋を脱出してカバン一つで帰郷しました.
 因みに,その後直ぐに彼女たちが暮らしていた寮は空襲で全焼したそうです.

 日野高女は滋賀に戻った後,八日市航空隊の軍服修理や洗濯などの雑務を行った後,住友通信の学校工場勤務となり,滋賀高等女子実業は通勤の形で東レに再動員になっています.

 ところが,岡本工業や三菱電機,三菱重工の道徳工場と違い,大江工場に動員された女学校へはその動きが波及することがありませんでした.
 そして,5月17日の名古屋大空襲を迎えた訳です.
 この空襲で滋賀県では2名の学徒が犠牲となり,5名が重傷となりました.

 この出来事を受け,どの学校も最早生徒の安全を保ち得ないと判断し,一斉に帰郷しました.
 大抵は焼け跡の整理を1日だけ行って5月19日に帰郷しましたが,その後も名古屋の三菱重工からは生徒達や卒業生に,戻るように要請が来たと言います.
 その要請を断る為,教師達は彼女たちの就職に県内を東奔西走し,名古屋再動員を阻止していきました.

 また,富山や岐阜,三重に行った女生徒達も櫛の歯が抜けるように,農業要員や進学を理由に帰郷していきます.
 彼方此方で空襲があり,最早家も職場も同じ状況であれば,親の中でも子供を取り戻そうという動きが出るのは当然のこと,それに既にもう国策に応えることの無意味さを悟った学校関係者の密かな協力もあり,小グループで引上げていきました.
 ただ,残留生徒と引上げた生徒のとの間には微妙な軋轢があったとも言います.

 富山に移った旧道徳工場の生徒達は原材料が乏しくなって,5月以降は工場休日となって遠足や授業に振替えられる事が多くなりましたが,滋賀に戻ることが出来ませんでした.
 一方,三菱電機岩倉工場と岡本工業垂井疎開工場の生徒達は敗戦前に「学校工場」を名目に引上げました.
 これは7月末に大垣が空襲を受け,地方都市も危険になった事が原因です.
 この時期,国策を振りかざす工場側との交渉はかなり難渋したと言われています.

 この時代,それこそ教師達は命がけで工場側,つまり軍部と交渉に当った訳です.
 よく,「教え子を戦争に送るな!」と言うスローガンを耳にすることがありますが,今の教師にそれだけの気概があるのでしょうかね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/17 22:36


 【質問】
 朝鮮半島からの徴用者のフェリーは,大戦末期の44年9月から45年7月まで運行されましたが,徴用船の損害はどの程度だったんでしょうか?

 【回答】
 徴用船の被害は多数有りまして,それをこのスレでやったら可成りの数を消費します.

 一例を挙げると,関釜連絡船の場合,新羅丸,景福丸,徳寿丸,昌慶丸,金剛丸,興安丸,天山丸,崑崙丸が運行されていましたが,新羅丸は1945年に関門海峡で触雷,沈没.
 景福丸は最後まで関釜航路に従事していたものの,下関,博多が機雷により封鎖されたので,青函航路に転属中に敗戦.
 徳寿丸は生き延びましたが,昌慶丸は宮津に退避した所で,艦載機の攻撃を受け大破着底.
 金剛丸は,1945年5月に博多湾で触雷し,水没.
 興安丸は,1945年4月に下関で触雷し,修理状態で敗戦時は須佐湾に退避,戦後までとりあえず生き延びました.
 天山丸は,1943年10月に撃沈されたものの浮揚し,修理の後,再就役しますが,1945年7月に艦載機によって炎上し,3日後に沈没しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 投稿日:2007/01/18(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前にも工業規格はあったの?

 【回答】
 戦前の工業規格についてですが,19世紀後半に英・米・仏がそれぞれ独自の規格を策定し,本国と影響圏で標準化を進めています.
 その後英米は両者の規格統一化を部分的に進め(ようとし)たユニバーサル規格を,仏は欧州諸国を巻き込んで現在のISO規格へと発展していきます.

 戦前の日本では尺貫法等も含めた種々の規格が混在していましたが,ISOをベースとして1921年に日本標準規格JESを策定し標準化を図ります.
 戦前の経済状況もあって,基本的にこれは官調達向け規格の性格が強かったのですが,現在で言う自動車の形式認定や建築の確認申請等,民間にも直接規制がかかる分野もありました.

 しかしながらJESへの一本化は中々進まず,JES自体もISOだけではなくユニバーサルや米式規格も入れて並存を認めるようになり,工業規格の一本化という理念は大幅に後退してしまいます.

 やがて戦時経済化と経済混乱の下,規格を大幅に緩めた臨時JESが1939年に制定されます.
 その他にも,民生品レベルでは町工場レベルで規格外の代物も作られていました.
 この他の軍規格や航空機規格等は基本的にJESベースだったのですが,元のJES自体が混在を認めていたのですから共通性は言わずもがな‥

 なお,JESについてはこちらも参照してください.

http://www.ndl.go.jp/jp/data/theme/theme_honbun_400112

http://www.horagai.com/www/moji/nihon/hosetu1.htm


 【質問】
 「系列会社」は何故できたのか?

 【回答】
 1938年の総動員体制では,今の日本に繋がる様々な制度や考えが作られています.
 昨今話題の年金制度とか,健康保険制度とか,月給制,終身雇用制と言った事もありますが,経済界では,部品メーカーの囲い込み,即ち「系列」取引の形態が出現しました.

 1937年の日中戦争勃発以降,資源の輸入が困難となり,商工省は重要資材の割当制を行い始めます.
 1938年だけでも,輸出入品等臨時措置法の関係省令が30も出されています.
 3月1日の綿糸配給統制規則に始まり,
揮発油及重油販売取締規則,
臨時輸出入許可規則,
銑鉄鋳物ノ製造制限ニ関スル件,
綿糸販売取締規則,
需給調整協議会規則,
「ステープルファイバー(スフ)」及「ステープルファイバー」糸販売価格取締規則,
鉄鋼配給統制規則,
繊維製品販売価格取締規則…其の他綿製品,
皮革の製造・加工・販売制限,
鋼製品の製造制限,
鉛・亜鉛・錫等使用制限,
米松(船材に使用)販売制限,
「ゴム」並びにそれを使用した製品(ゴム靴とか)の使用・販売制限,
工作機械供給制限,
人造絹糸販売価格制限,
綿製品加工の許可制,
石炭の配給制度,
鉄鋼配給制度
などなど.

 こうした制限物資を入手出来るのは極限られた企業か,あるいは各企業が共同出資して作った統制組合でしかなく,中規模以下の企業では,独立してやっていこうにもそもそも資源が手に入らなくなってしまっていました.
 勢い,こうした状態ではにっちもさっちも行かない訳で,統制組合の影響下に入るか,大企業の系列に入るしか無くなる訳です.

 その資源は,物動計画を検討するに当たり,商工省で製品の原材料単位を設定しました.
 そうして割当てられた資源や工業機械は,必要とされる工業分野に優先的に配分されました.
 1938〜40年まで,この優先配分先の第1位は自動車産業でした.
 しかも当時,この優先配分先たる自動車製造許可会社は,トヨタと日産の2社しかありません.
 商工省は,両社に物動計画から自動車資材の配給を優先的に受ける統制組織として,日本自動車製造工業組合を設立させ,ここで算定した資源の必要量を基に,自動車の生産量を掛けた分を原材料の統制組合から渡す調整を行っていました.

 自動車の場合,原単位計算は,1台の自動車製造に要する原材料の単位とされ,例えば鋼材の場合,乗用車では1台当たり,普通鋼0.216t,特殊鋼0.136tの計0.352t,小型トラックの場合は,普通鋼0.070t,特殊鋼0.184tの計0.254tとして,それに必要台数分を掛けて鋼材量を算出した訳です.
 でもって,生産の効率性は,その原単位計算と実績の差を出す事で可視化出来ます.

 この原単位計算,基は日産がグラハム・ページ社の設備一式を購入し,大量生産体制を技術指導する際に同社の技術者によって技術指導されたのが最初で,これが両社が幹事会社となっていた日本自動車製造工業組合によって採用され,トヨタもこれを取入れたと言う経緯があります.

 ところが此処で問題になったのが,購買価格の不統一とその未発達さでした.
 つまり鋼材や部品などの規格が統一されていなかった為,それを基にした購買規格が設定出来なかった訳です.
 これを解決する為,トヨタ,日産,東京自動車(後のいすゞ)の自動車許可会社3社,陸軍,商工省が集まって,鋼材規格と部品規格の統一とその標準化を2年間掛けて行っています.

 と言うのも,トヨタの工場ではドイツ製の機械を大量に使用していた為,その単位計算はメトリックで行っていたのに対し,日産の工場では先述の様に,米国のグラハム・ページ社の設備一式を導入した為,米国式のインチ・システムとなっており,その調整に手間取った為です.
 結局,日産が折れ,日産側はインチをメトリックに換算して原単位計算を行う事になりました.

 こうした動きは,自動車製造工業組合が最初に取組み,物資の合理的要求を行う事となり,資源割当に対して大きなアドバンテージとなります.
 この為,他の工業分野にも大きな影響を齎し,各工業の統制会でも同じ様な原単位計算の設定を為す事になりました.

 こうして,厳密な原単位計算の設定に基づく資材の割当制度が,更に部品メーカーの系列化に拍車を掛けました.
 部品メーカー側も原単位計算により,コスト管理を求められます.
 従来の丼勘定では,何より儲けが出ませんから….

 ある程度の技術力を有している部品メーカーなら,トヨタか日産,いすゞのいずれかの系列に入る事で,少なくとも資材と一定量の注文を確保出来ます.
 とは言え,トヨタはメトリック・システム,日産はインチ・システムであるので,両方に軸足を置くと言うのは余力が無い限り,不可能.
 結果として,トヨタ系列,日産系列と言った形での垂直統合に成らざるを得なかった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi, 2008年01月26日21:07

▼ さて,時代は下って1942年.

 太平洋戦争勃発に伴い,戦時体制に流れていく訳ですが,当初検討されていた物動計画は,其の後の米軍による通商破壊作戦と海軍に引き摺られた島嶼戦への船幅投入により,還送計画がどんどん崩れ,南方からの還送資源不足による計画達成困難から,年度計画だったものが四半期毎の策定に縮小します.
 そもそも南方還送資源を潤沢に用いて,拡大再生産を行う予定だったのが,結果的に縮小再生産に代わってしまった訳です.
 1944年になると,普通鋼は1942年の7割程度,ガソリンは半分以下に低下します.

 こうした物資が本国に送られたとしても,供給力が低下する事で,結果として軍需に最優先で回され,民需を圧迫します.
 更に,これらの原料を用いて生産された資材は,超重点主義に基づく傾斜生産方式として大量生産システムを発達させ,系列取引の一段の強化が図られた訳です.

 1942年当時の陸軍軍需動員計画では,南方平定作戦に26,000台のトラックを必要としました.
 当時,陸軍部に於ける計画は,太平洋戦争では,火砲15,000門,戦車3,000輌,自動車70,000台を使用するとし,その燃料としては7ヶ月分を確保するとしていました.

 6月には,参謀本部が重慶攻略作戦,俗に言う「51号作戦」を策定します.
 この為には,5,000台の自動車で装備される部隊を主力にした電撃戦を計画しますが,南方からの燃料還送計画の遅れと船舶輸送力不足の為,自動車や航空機の燃料が不足しており,結果的にこの作戦は中断されました.

 ところで,従来から自動車産業は,軍部の必要性から資材割当が第1優先とされ,それに基づいて生産計画を立て,工場設備を整備していました.
 1943年に策定された昭和18年度物動計画に於ても,鉄鋼,船舶,石炭,軽金属,電力,非鉄金属,石油,硫安,工作機械と重要機械,鉄道車輌と自動車,ソーダ,セメントの12産業を重要産業に指定します.
 しかし実際に配分された資源は,南方からの還送量不足の為,例えば,ヂーゼル自動車工業と日野重工業の場合,1942年度の鋼材配当量43t(17,000輌分)に対し,1943年度は38t(14,000輌分)などとなり,生産力と設備能力との間に約30%の余力を生じせしめてしまいます.

 この余力を,「航空の生産増強に充当する事」とされ,余剰整備能力は,先ず航空工業への転換協力を第一義とし,次いで海軍資材の整備促進を図る事,として,特殊艇(○ゆ艇),高速艇,大発に用いる各種エンジンの生産を命じられました.

 そもそも,自動車製造事業法の制定理由の一つが,自動車製造技術を応用した航空機エンジンの製造でもあり,自動車産業から航空機産業への転換を促す事も十分可能だった訳です.

 1943年9月には絶対国防圏が設定されます.

 この影響で,陸軍の戦力整備の主眼は陸戦兵器から航空兵器へと移ります.
 地上兵器の軍需工業を整備圧縮する順位としては,1.戦車(装軌車),2.地上弾薬,3.航空爆弾,4.自動車,5.地上武器,6.機械,7.衣糧・衛生・獣医材料などとなりました.
 このうち,戦車(装軌車)類に関しては更に,装甲兵車,軽戦車,中戦車の整備を極力抑制する代りに,自走砲車体と牽引車は,関連部門の需要に応じて整備量を規制するとしています.
 また,乗用車関係では,乗用車と側車整備を一時中止,その他は現行整備比を基礎に圧縮します.

 其の上,折角系列化した部品産業も,航空用部品に転換する会社が相次ぎます.
 これは,ボルトやナット,ネジ類,気化器,鋳鍛造品,アルミ製品と言った部品技術の応用が利く上に,軍需の航空分野での買上げ価格が高く,即ち,利潤が自動車産業のそれよりも遙かに高くなってきた影響もあります.
 自動車産業では,系列業者引き留めの為に部品代を引上げざるを得なくなり,従来の価格体系を乱されてしまうという影響がありました.

 こうして済し崩し的に自動車産業の余剰設備を活用すると言う名目の下,日産は東京人絹の静岡県吉原町にある工場を買収し,その地で日立航空機立川工場で生産を予定していた練習機用エンジンハ47の生産を命じられ,本体たる横浜工場でも航空機エンジンの生産を開始し,1944年3月から1945年8月までの生産台数は1,612台,月産200台程度でした.
 一方,トヨタも液冷のハ40生産を命じられ,子会社の東海航空工業を設立して,その生産準備を行いますが,実際に生産したのは,挙母工場,刈谷工場でハ13甲を151〜160台生産したに留まりました.
 因みに,東海航空工業は現在のアイシン精機です.

 更に,末期になるとトラック用エンジンは,特攻艇用エンジンに転用され,10,000基がそれに充てられる事となり,其の分,自動車生産は落ち込みます.
 トラックの生産を維持する為,大阪造兵廠を中心に,代燃装置の増産を計画し,現在の代燃装置よりも更に簡易な装置を試作して,全国に普及させるつもりでしたが,結局,この計画は敗戦までに終わらず,空襲などで日本の工業は止めを刺された訳です.

 しかし,歩兵にとって最も重要な戦車を蔑ろにせざるを得ないと言うのは,みんなビンボが悪いんやじゃないですが,陸式としては本末転倒な気がしますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月27日21:35


 【質問】
 太平洋戦争中の日本における,特許権の扱いは?

 【回答】
 例えば,無線機用真空管の場合,東芝が当時に於ては圧倒的なシェアを誇っていました.
 これは,GEの特許実施権を東芝が持っていたのですが,敵性特許権については,1917年公布の「工業所有権戦時法」で,戦時の国家に於ける特許権取消しの法的根拠を得ていましたし,敵性特許権以外の特許権,実用新案権についても,1923年3月23日公布の勅令「特許発明等実施令」として,これらの工業所有権の実施権を内閣総理大臣が設定出来るとしています.

 1941年12月7日時点の敵性特許権3137件のうち,戦時法で取消しされたのは1829件あります.
 東芝が持っていた無線機用真空管の特許については,これ以外の抜け道,所謂,「軍需省による技術交流」の名の下に,図面が沖電気や日本電気,川西航空機などに提供され,彼らはその図面に基づいて生産設備を整えています.
 実際には技術交流とは言えず,東芝が一方的に技術を提供したに過ぎませんが.

 後,英国の場合,Vickersは日本製鋼所の株式回復と共に,三菱重工に対する防雷具の未払い分3,216円
を請求して,1949年に支払われています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2007/10/01(月)
青文字:加筆改修部分


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