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◆◆◆太平洋・インド洋方面の連合軍総記
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<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第2次世界大戦


 【link】


 【質問】
 日米戦争勃発時の英印軍の戦力って,どのくらいのものだったのでしょうか?
 イギリス人およびインド人兵士の人数,師団数,戦車・火砲・航空機の数など,分かりましたら教えてください.

 【回答】
 戦前の数値ですが,インド軍は総兵力166,600名.
 うち,英国人部隊は58,529名で,英人部隊としては,4個歩兵師団と騎兵5個旅団.

 インド海軍は,スループ1隻+追加2隻,測量艦1隻程度.

 インド空軍は,兵力2,300名で航空機200機.
 うち,戦闘機7個中隊,直協飛行隊4個,爆撃飛行隊4個,輸送爆撃隊1個.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/01/29(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争中の連合兵の対日本兵観ってどんなもんですか?
 やっぱりチビで眼鏡をかけた出っ歯な黄色い猿?

 【回答】
 プロパガンダのイラストを見たことがあるが

チビ
釣り目
出っ歯
頬骨が出てる
鼻が上を向いてる

という部分が強調されてて,人間もどきの気味悪い怪物みたいだった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【反論】
 日露戦争以来くすぶりつづけた,日本に対する白人の悪意は〔日米交渉から第2次大戦中において〕こうして爆発した.

 〔以下,8ページに渡り,『いかに米国が日本を黄色い猿扱いしていたか』の記述が続く〕

小林よしのり著『戦争論』,p.234

 【再反論】
◆残虐行為,差別:
 日本,枢軸側もやってる事だし.
 自分に都合のいい情報しか出さない,不都合な情報はカット,ってのは,小林が批判していた,南京虐殺問題や従軍慰安婦問題などでの左巻きの連中の手法そのまんまなんだけど.
 質量共,日本のほうが過大評価されているんじゃないか?とか,大陸や半島の主張は捏造水増しとかでアレだから,という点は私も同意できる所があるが.

◆米はWW2で,黒人だけで構成された第15航空軍・第99飛行隊というのが有って,終戦まで北アフリカ,ヨーロッパで活躍した.
 日本陸海軍が,「(国籍は)日本人」の大陸や半島系の人種たちでそのような部隊を作るとは思えん. 高砂族等の僅かな例外があるくらい.
 満州国軍なんざ,終始日本軍から軽く見られていたり.
 ※まあロスケやシナの迫害(自国民含む)は,アメ公欧州日本の非じゃないよな.

 そもそも単一民族に近い日本(というと,左巻きの連中はグダグダ言うだろうが無視)と,インディアン奴隷だった黒人その他多種の民族を抱えるアメリカを単純に比べるのはどうだか.

◆小林自体,日本の戦争は,宗主国の欧米と戦い虐げられた同胞のアジア人を解放して大東亜共(以下略)という考えだろうが
『欧米列強に歯向かったアジア人は日本人が初めて』
という嘘で他のアジア人を蔑視してるように読めるがな.
 絵も他のアジア人種はボロボロな描き方だしな.
(でそ,ういったアジア人種よりも欧米列強の人間のほうを立派に描くんだよな)

(キルロイ ◆dtIofpVHHg in 軍事板出張スレッド ,コヴァ板)


 【質問】
 太平洋戦争中の米兵の心理状態って皆,kill japかfack japみたいな感じだったのでしょうか?
 反戦を訴える米兵とかはいなかったのでしょうか?

 【回答】
 真珠湾奇襲攻撃によって世論が開戦に傾くまでは,政府も国民も日本と対決するつもりは全く無く,したがって反戦世論も多かった.

 なので,開戦に踏み切ったあとも継続して,反戦派の人たちはいるにはいた.
 日本憎しに鞍替えしちゃった人が増えたので,開戦前ほどの数は無かったけどな.

 兵士個人としては
「あんまり戦いたくないけど命令なので仕方ない」
という人もいれば
「絶対戦いたくない」
な人もいただろうけど,詳しい統計があるわけでもないから,何人あるいは何割かはいただろう以上のことは言えない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争中の米軍における日本語教育の状況は?

 【回答】
 米国は1941年夏に陸軍省が陸軍情報学校(MISLS)の母胎の設立を企画します.
 これは万一の場合に,日本軍から獲得した文書や地図の翻訳,捕虜に対する尋問,司令部と前線との交信傍受をする為に必要とされたものでした.

 また,陸軍省軍事情報部極東課では,日本陸軍の将校が,日本語は世界で最も難解な言語であるから,そのまま暗号としても役に立つと自慢していたり,白人が決して日本語をマスター出来ないと豪語しているのを見聞していました.
 従って,日本軍の指揮官が無造作に日本語で作戦命令を口頭で部隊に伝えることを予想した訳です.

 但し,日本語を理解できる人材は少なかったため,学校設立が企画され,第四軍の中に設立資金2000ドルで作られることになりました.
 この日本語学校は,第四軍情報将校が中心となって開校を準備し,その生徒を西海岸の陸軍部隊にいた日系二世兵3700名から募りました.
 開校準備は着々と進み,John Fujio Aisoを中心とした講師8名から成る教授陣や教材を作成し,古い航空機格納庫を教室に,オレンジ配送用の空き箱を机や椅子に加工して,曲がりなりにも1941年11月1日にSan Franciscoで第四軍情報学校が開校することになりました.

 一期の生徒数は日系人58名,2名が日本で暮らした事のある白人でしたが,その入校条件は,日系人は高卒以上で日本語の或程度の知識があること,白人はIQ125〜150で,日本語を学ぶ意欲のある事でした.

 その教育科目は,日本語の読解,作文,翻訳,日本地理・地図の他,日本軍の組織,用語,日本の政治・経済・文化,獲得文書分析法,捕虜尋問法となっており,特に彼らにとって難関だったのは,草書の解読だったそうな.

 1942年5月に彼ら第一期生は巣立ちますが,その時には45名しか卒業できませんでした.
 それだけスパルタ教育.
 彼らのうち,10名は教師として学校に残り,17名がGuadalcanalに,18名はAleutian列島に派遣されました.

 当初はこの学校其の物が極秘だったので,司令官や白人兵士からは白眼視され,時には味方から撃たれる事もありました.
 そのため,白人兵が常にbodyguardとして付けられていました.
 そんな苦労を経て,彼らの集めた情報の価値が上層部に理解されるつれて,彼らの評価は高まり,各戦線からの派遣要請が第四軍情報学校に舞い込むことになった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月09日22:23

 第四軍情報学校は,1942年2月以後,San FranciscoからMinnesotaのCamp Savageに移転を余儀なくされます.
 これは,1942年2月19日にRooseveltの出した行政命令第9066号,俗に言う,日系人収容命令で,西海岸から日系人を移動させたことに伴うものです.
 例え軍人,情報部員でも,日系人を西海岸に置くことが許されなかった為の措置でした.

 6月になると,1期生の頑張りもあり,彼方此方からの日本語要員派遣要請で,軍レベルでは対応しきれなくなり,遂には陸軍省直轄の陸軍情報学校に格上げされました.
 この頃の学生達は60%が収容所からの日系人志願者で,残りが442連隊や日系人非戦闘部隊の志願兵でした.

 そのカリキュラムは,月〜金の0730〜1620(昼食時間1145〜1330)と1900〜2100と9時間もの間,授業が行われ,軍事訓練は毎週水曜午後にあり,土曜日午前中がテストと言うものでした.
 授業は実に9時間で,軍事訓練にはCamp周辺でのcross-countryが取り入れられました.

 こんな状態ですから,学生も授業を受けるだけでは追いつかず,消灯の2300以降でもベッドの中で毛布を被って,懐中電灯の灯で勉強したり,点灯が許されるトイレの中で勉強したりしていました.
 更に,教室はバラックで寒く,真冬には毛編みのマスクを顔に付けて勉強しなければならない程でした.

 しかし,志願者は引きも切らず,1942年6月の生徒は200名,教師15名だったのが,1944年1月には学生は1100名,教師100名に達しました.
 こうなると,Camp Savageは飽和状態となり,陸軍情報学校は1944年8月になると,Minnesotaの州都Saint Paulに移転し,広大な敷地と綺麗な校舎を持つ学校となります.
 翌年1945年1月の在籍学生数は3000名,教師陣160名に達しました.

 また,カリキュラムも,文書解読中心だったのが,日本軍捕虜の尋問が増えたことで,通訳としての需要が求められ,日本語会話も取り入れられるようになりました.
 更に,占領地行政や保護難民の受け入れ要員として,女性兵士も51名が所定の教育を経て,前線に送られています.

 1945年8月15日に日本は降伏しますが,それで役目が終了した訳ではなく,占領軍政要員が緊急に必要になったため,その後10ヶ月,陸軍情報学校は残っています.
 彼らは,GHQでの通訳,極東軍事裁判での通訳,日本政府文書翻訳などで活躍しました.

 最終的に陸軍情報学校は,1946年6月に21期生を送り出して,当初の目標を達成した後,事実上閉鎖されて,CaliforniaのMontereyに移転し,陸軍語学学校となりました.
 現在でも,防衛外国語センターとして存続していたりします.

 こうした陸軍情報学校の卒業生は,128の部隊に配属されました.
 その殆どは太平洋戦線の米軍部隊に有りましたが,ビルマ・インド戦線に展開する英国軍,中国戦線に展開する中国国民党軍と中国共産党軍,南太平洋戦線の豪州軍やニュージーランド軍にも応援として派遣されています.
 彼らの任務は,日本軍の情報を入手し,英語に翻訳して司令部に報告することで,またこのほかに,洞窟や穴に籠もっている日本兵や民間人への投降勧告も行っていました.
 その情報収集のためには,戦場で獲得した日本軍部隊の作戦計画や兵士の日記等文書類の翻訳,日本軍指揮官の兵士達への口頭による命令の盗聴,捕虜への尋問,無線通信や電話の盗聴,東京発の短波放送の傍受などが行われていました.

 ちなみに,日本軍指揮官の兵士達への口頭による命令の盗聴とは,所謂,日本兵が集結している近くに忍び込み,将校が何を話しているかを聞くことで,この盗み聞きで次の攻撃日時が判明して反撃手段を講じるなどの措置を米軍司令部が取れたりするケースもありました.

 このほか,味方が窮地に陥っている所へ日本語で偽命令を発して,日本軍を混乱に陥れる事もありました.
 十字砲火を受けていた米軍部隊に,とある二世兵が入っていて,咄嗟に「撃ち方止め!」と大声で叫ぶと,暫くその十字砲火が途絶え,その隙に部隊が窮地を脱するなどの功績があったそうです.

 英語を敵視していた日本軍では,考えも付かない話なのかもしれません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月11日20:26


◆◆◆◆中国軍総記


 【質問】
 中国軍は
「チンピラ,ゴロツキに毛が生えた程度」
と言う評価だったり,
「ドイツ製装備と軍事顧問団により,かなりの精強を誇った」
と言う評価だったりしますが,どちらが真実なのでしょうか?

 【回答】
 どちらも真実を表している.

 例として国府軍の場合だが,これは軍閥との連合軍でもあるので,その中に馬賊,匪賊が含まれていた.
 国府軍本体は,ドイツ製装備と軍事顧問団の指導により,第二次上海事変以前までは在支派遣軍より戦力が上だった.
 この軍事力という背景があったから,協定違反等で強気の態度に出ていた.

 ただ,輜重部隊が常設でないと言う,致命的な欠点があった.
 兵站と言う概念が,戦術レベルで欠けていた.
 その為,戦況が連合国側に傾くまで武器弾薬以前に,食料の不足が問題になっていたくらい.
 軍閥の部隊によっては,その支配領域から出ると,活動が不可能になるくらい.
 ソ連やアメリカからの支援があっても生かし切れず,終戦まで戦況を大きく覆すことができなかった.

 ただ,美式中国軍という,アメリカ軍流の訓練と装備を受けた中国軍は,日本軍を火力で圧倒することに成功している.

軍事板,2005/05/18(水)
青文字:加筆改修部分

中華民国陸軍歩兵
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 陳雷とは?

 【回答】
 陳雷(チョンレイ)は1917年生まれ,
 1936年中国共産党に入党.
 1938年,中国東北地方の抗日連合軍に参加.金日成は当時の彼の同僚だという.
 中華人民共和国の成立以後,中国共産党の黒竜江省委員会の書記,黒竜江省省長,中顧委委員などの職を歴任.
 2006年12月5日,黒竜江省ハルビン市で死去.

 以上,ソースは「Record China」,2006年12月11日5時53分付


 【質問】
 国民党軍の装備はどんなものでしたか?

 【回答】
 ▼国民党軍の軍装はほぼドイツ式.
 国民党軍の軍装は,主としてドイツ式.▲

 小銃もGew98とか98Kとかとか使ってた.
 拳銃はP-08と何よりもモーゼルミリタリーが大量に装備され,現地工場まであった.
 ヘルメットが普及しなかったのか,略帽被ってるのが普通で,東洋人がドイツ軍装してドイツ製兵器を持ってる姿は,パッと見親衛隊の「東洋人義勇兵」部隊みたい.
(軍服の色が違うけれどね)

 航空機ではHe111A-0や,後にユンカースJu87として逆ガル翼になる前の原型機とか,マニア垂涎のレアな機体が国民党軍に売られ,使用されている.
 「中国的天空」(著・中山 雅洋)とか見ると面白いぞ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 写真は,週末に届いた台湾で出版された中国国民党軍の野砲と歩兵砲/対空砲,小火器と軍装本.
 以前入手した戦車/装甲車本と同じ出版社が出しているもので,あるマイミクさんに年初にお願いしていたモノですが,ようやく年内に届きました.
 どうも長らくお手数をお掛けしてしまいましたm(_ _)m

 全ページでは在りませんが,写真も資料性が高いクリアなモノが多く,例えば
おそらく捕獲した日本軍の38式野砲使用例や,
ドイツから輸入したラインメタル製105ミリ砲や,
お馴染みの37ミリPak35/36対戦車砲から,
ソビエト製の45ミリM1932対戦車砲
更に対空砲本ではブレダ製20ミリ対空機関砲に驚き,
小火器本ではフランスから輸入したホチキス機関銃写真まであって,もう百花繚乱,魑魅魍魎.

 軍装本も素朴なイラストで和まされますが,一番嬉しかったのは,中国製ベルグマン短機関銃の縦マガジン・バージョン写真が在った事.
 マガジン装弾数も40発だった事が確認出来ます.

 以前入手した,熊本連隊のアルバムにも,この縦マガジンの中国製ベルグマン短機関銃の捕獲写真がありましたが,こうやって見ると色々な工場で作られていた様で,そこに関する記述もあり,今後読み解いて行きたいものです.

 因にこれは,押し入れから出て来たベルグマン
 おそらく海軍陸戦隊海兵の遺品でしょうか.
 1997年10/22の朝日新聞東京版朝刊の切り抜きより.

 この中国製ベルグマンは,工場によって出来具合いが随分と違うので,おそらくライセンスでは無く,バチではないかと…

 いやー,それにしても日本軍は,こんな連中を相手にしていたのかと,在る意味関心させられました.
 国民党軍も調べると面白いですね,

 今後こういう資料が広まると,ドイツ装備の中国軍ジオラマを作るモデラーも出て来そうです.
 いや,台湾ではもう始まっているのかも(笑)

よしぞうmaro' in mixi,2007年12月03日16:20〜12月06日 02:10

 某誌の原稿を書くために調べていたところ,ドイツのPak35/36を中国で生産していたという記述を発見しました.恐らく,国民党軍がドイツから軍事援助を受けていた時期にライセンス権を取得したのでしょうが,実際に生産に入ったのは1942年からで,終戦までに100門ほどが造られたそうです.

 1942年からPak36作ってどうすると思いがちですが,敵の日本軍の戦車なら充分相手に出来たでしょうし.
 ヨーロッパではとっくにお役御免の2ポンド砲を,オーストラリア軍を終戦まで使っていたという記録もあったりしますが,75o砲対戦車砲なんて太平洋戦線では,牛刀で鶏を切るようなものでしょう.

 そう言えば,光人社FN文庫の「小銃・拳銃・機関銃」の299ページには,日本軍に押収された「民国四年式機関槍」の写真が載ってますが,民国四年というと西暦1915年に当たるので,かなり古い銃ですね.
 上海工廠製ともキャプションがついています.

 世界中から兵器を集めて,博覧会状態だったと言われる国民党軍ですが,国産兵器も少しはあったんですね.
 中でもフランス製のストークス砲をベースにした82o口径の迫撃砲,民国二十年式八糎迫撃砲は,国民党軍ばかりか満州国軍でも制式兵器だったという,隠れた優れものだったようです.
 
 それから写真の三八式野砲ですが,国民党軍は日本との関係が悪くないときには輸入していたそうですから,もしかすると正規に買ったものかもしれません.
 その他にも,コピー生産バージョンの十三式(民国十三年=1924年式でしょうか?)野砲というのもあったそうです.

印度洋一郎 in mixi,2007年12月03日 18:08〜12月06日 21:29


 【質問】
 中国って日本の終戦前に独自の軍備を生産していたのですか?

 【回答】
 中国で建造された軍艦は存在します.寧海級軽巡洋艦の二番艦「平海」がそれです.
 寧海級は中華民国海軍の艦艇として日本で設計が行われ,一番艦「寧海」は播磨造船所で建造されましたが,「平海」は播磨造船所から派遣された行員の指導の下,江南(上海)造船廠で1931年7月起工され,32年9月に進水しました.
 その後播磨造船所に回航され,儀装された後に36年6月竣工しています.
 この後37年に揚子江沿岸で日本海軍航空隊機の爆撃を受けて浸水擱座しますが,翌年日本軍が接収して浮揚し佐世保に回航し,しばらく放置された後,43年末、呉工廠で海防艦への改造工事に着手して,44年11月に二等巡洋艦「八十島」として再就役します.
 その直後フィリピン方面に出動し,11月25日 ルソン島西岸にて米軍機の爆撃を受け沈没しました.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

 自国の陸軍で使用するモーゼル小銃など小火器は国産化していました.
 また,150mmの中迫撃砲,240mmの重迫撃砲も確認されています.
 陸軍では上海工部局で1915年には急造ながら装甲車の製作を行なっています.
 なお,ヴィッカース6t戦車が「国産戦車」として内外に喧伝されたこともありますが,こちらは国産ではありません.
 航空機も海軍航空廠が上海にあり,1918年以来数種類の水上偵察機を製造しています.軽巡洋艦搭載用の偵察機は国産機です.
 空軍では広東省に飛行機工場があり,AP-1と言う軽爆撃機を製造しています.
 第二次大戦中は,Curtiss Hawk75(P-36の輸出簡易型)の製造を企画した他,Curtiss WrightのCW-21戦闘機の製造を行なおうとしていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 南京政府軍について,その戦力規模,組織構成,使用した兵器,参加した戦闘及び戦果,敗戦後の経過について教えられたし.
 治安維持,及び河川哨戒規模で,軍隊とは呼べなかったのでは?と疑問に思っています.

 【回答】
 「もう一つの陸軍兵器史 知られざる鹵獲兵器と同盟軍の実態」(藤田昌雄著,光人社,2004.2) を買われると良いでしょう.

 南京政府軍は治安維持が主任務であり,昭和18年当時の総兵力は約40万人でした.
 装備はほぼ支那軍からの鹵獲品です.

 昭和18年における編成・配置は以下のとおりです.

警衛軍:首都警備
第一方面軍:中支
第二方面軍:中支北方
第一軍集団・第二軍集団:武漢方面
広州綏靖軍:南支方面
蘇豫邊區綏靖軍:北支〜中支
華北綏靖軍:北支

 また,南京政府海軍は警備舟艇を主力とした小規模な河川海軍で,河川の警備活動が主任務でした.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2004/09/21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大戦時の中国戦線の国民党の米軍式陸軍は強かったのでしょうか?

 【回答】
 強かった.
 この,いわゆる「美式中国軍」はインパール作戦において,北部ビルマで日本軍を壊滅に追い込んでいます.
 装備は米軍のものだし,訓練は行き届いていて,武器弾薬は豊富だし,衛生管理,兵站がしっかしている.そして何より給料がしっかり出るで(笑)

 一方,通常の国府軍の場合は指揮官が給料をピンハネするので,雀の給料でやる気無しだったそうです.

 もっとも,最初のうちは蒋介石に自由な指揮権がない上に,在中米軍司令官のスティルウェルと彼の仲が超絶に悪かったので,1944年(昭和19年)10月にウェデマイヤーが後任にやって来るまで,支那大陸では活躍させてもらえませんでした.
 支那では自分の指揮下にない軍隊は,敵とほぼ同義なので.

軍事板


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