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(画像掲示板より引用)


 【link】

「Togetter」◆(2010/10/14)芝村裕吏(@siva_yuri)氏の語る「判子兵」と日本軍の補給軽視

『徹底検証・日本の軍歌 戦争の時代と音楽』(小村公次著,学習の友社,2011年)

 7章構成で,1-4章までが「軍歌の通史」として非常にうまくまとまってる.
 5-7章は各論.
 5章は日本軍歌において哀調系が出てくる(「戦友」とか)のはなぜかという考察.
 6章は「戦後の軍歌」,第7章は「近代音楽史と日本」という感じ.

 俺が一番面白かったのは6章.
 戦後を射程にした軍歌本って,今まで殆ど見かけなかったから,非常に珍しい.
 しかもその対象が,本当にごく最近.
 インターネット時代の軍歌の扱われ方なんかも載ってる.
 俺はこの6章だけで,2520円(税込定価)出す価値あると思ったね.

 全体的に非常に面白くて勉強になる.
 軍歌に興味持った人に薦める第一歩として,非常に良い本だと思う.
 軍歌本の中では,間違いなく大当たりに属する.

――――――軍事板,2011/05/15(日)

『太平洋戦争のロジスティクス 日本軍は兵站補給を軽視したか』(林 譲治著,学研パブリッシング,2013/12)

『陸軍“めしたき兵”奮戦記』(「丸」編集部編,光人社NF文庫,2012/3/31)

 パラ見報告な…

 5つのまったく違う兵種の話なんだが,巻頭に10cm加膿砲の写真があって,その解説に
「国内の訓練では,最大で射程半分しか射てなかったが,ノモンハンで初めて,実戦最大射程の火薬を詰めたら,反動の大きさで事故が相次ぎ,ハの字に開く支持脚が折れたり,筒内で焼け付いた薬缶を回収しようとして,怪我人が出たりした」
という内容のことが書かれている.
 陸自の時代だけではなく,当時から最大撃てなかったんだね.

------------軍事板,2012/03/26(月)
青文字:加筆改修部分
 タイトルにもなっている炊事兵をはじめとして,直接戦闘を行う兵科ではない仕事をこなした人々の記事を掲載したものである.
 全6話収録なので,以下簡単にその概要を説明すると,

(1)炊事(上等兵):野戦重砲兵第七連隊→同補充隊→野戦重砲兵第十八連隊(1939年6月〜10月)
場所:国府台

(2)有線通信(尉官?):野戦電信第三十五中隊(1942年(?))
場所:長江周辺
 ※著者が直接戦闘を行っているのはこの人だけ.
 全体的に「血沸き肉躍る」系の雰囲気がある.

(3)陸軍航空整備(軍曹):飛行第二十一戦隊(1942年末〜1943年秋(中心は1943年9月))
場所:パレンバン,ラングーンなど

(4)海軍航空整備(一等整備兵):茂原海軍航空隊(1944年7月〜10月)
 ※入隊直後の「無章」整備兵の話.
 色々なもので殴られまくり,
 ちょっと息抜きしてまた殴られる,という感じの話の構成.

(5)海軍軍楽隊(下士官):南遣艦隊(第一南遣艦隊)「鳥海」→「香椎」→南西方面艦隊司令部兼第二南遣艦隊「足柄」→連合艦隊司令部「武蔵」→パラオ地上司令部→連合艦隊司令部「大淀」(1941年〜1944年9月)
 ※一番扱う範囲が広いがやや薄く,また戦局が悪くなると兼務の暗号員の話が中心になって,軍楽隊の話はあまり多くない.

E駆逐艦航程管理(少佐):第一航空艦隊「秋雲」(1941年11月〜12月)
 ※著者は秋雲の砲術長で先任士官だが,取り上げられている話題は,「駆逐艦はどんなふうにして真珠湾への往復を行ったのか」ということ.
 当時著者が書いた日記をベースにしながら,航海中の訓練や補給,そして波浪の大変さなど,真珠湾への道中における色々な話が掲載されている.

 一部の話を除いては,取り上げられている期間も短いが,その分描写は濃密.
 また,所属・階級,取り上げる地域や期間なども,割とバラバラでうまい編集だと思う.
 いずれの話も,一般的な戦記ではあまり表に出てこないような任務の話で,これらいわゆる「地味な仕事」の話をまとめて,手軽に読める良い本.

 なお,本の後ろを見ると,1992年に『陸軍めしたき“どぶ長”奮戦記』として単行本化されたものを,改題したらしい.

-------------軍事板,2012/05/13(日)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 なぜ日本軍はロジスティックスが貧弱だったのか?

 【回答】
 これこそ,まさしく国力の不足以外のなにものでもないわけですね.
 例えば太平洋戦争中の我が国の最大のネックは,石油以上に粗鋼生産力の低さにありました.鉄は産業の米といわれます通り,あらゆる産業にとって無くてはならない存在ですが,何しろ当時の我が国は法律によって製鉄会社が規制されるという状況にあり,戦争の必要によって粗鋼生産能力を急速に向上させる事が不可能な状態にありました.
 なにしろ,鉄鋼会社の管轄は商工省であって,陸海軍省は指一本触れる事ができなかったのですから.
 例えば貨物船を必要数作ろうにも,年間600万トンの鉄を巡って,あらゆる陸海軍を含めたあらゆる部局が奪い合いをしていたわけであり,そうした状況を調整するための最終的な権限を有する存在がいなかったのです.

 日本軍が抱えていた問題とは,簡単に言うならば行政権の最終的な責任者が存在せず,それぞれの役所の長の寄り合いが妥協で政治を行っていた,というその点にこそあり,それは日本軍だけの問題ではないわけです.
 つまり,当時の日本に必要であったのは,まさしく行政権を統合して執行できるようにするための政治改革であり,経済を官僚が統制するその非効率性を打破する行政改革であり,大陸経済との結びつきが強すぎたために,大陸の混乱状況が即日本の政治や経済に影響を与えるという状況から脱却するための構造改革であるわけです.

 つまるところ,通説による日本軍批判では,2ch.軍事板の構成員に理解し得るような形での説明は成立し得ないのではないかと,私は考えるわけですが,いかがでしょうか?

(名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc from 週刊オブイェクト〔転載〕,2005/11/8)


 【質問】
 主計係というのが軍隊にはあると聞きました.
 旧日本軍にも会計帳簿はあったのですか?
 あるとするなら,発射した弾薬,敵の攻撃による被害は会計上,どの様に処理するのですか?

 【回答】
 当然,陸軍,海軍とも軍隊は官僚組織で,兵に現金を支給する必要がありますし,物品がなければ,兵器は動かせませんから,こういった部署もあります.

 日本陸軍の場合経理部と言い,兵科の中将に相当する主計総監がトップです.
 経理部は陸軍の経理,被服,建築を担当します.
 経理部に対する事務処理面での陸軍部内の信頼はかなり厚かったようです.
 この経理部に配属される将校相当官となったのは,兵科将校の内,不健康者,当該兵科に不満を持つ者,あるいは,大学法経学部,建築学科卒業生,専門学校卒のいずれかが充当されています.

 日本海軍の場合は,主計科と言い,庶務,会計,給与,被服,糧食,厨業を担当します.この主計士官は,視力の低い海軍志望者の憧れの的でした.
 士官担当官教育は,,経理学校で行ないますが,その教育科目は,軍制,庶務,兵学,衛生学,精神科学,法律学,経済学,財政学,会計経理,会計学,理化学及数学,文学(国漢・歴史・地理・仏独英語のうちから一つ)でした.

 いずれにしても,帳簿はあります.
 が,一般的に言って,弾薬やら損害やらを扱う訳ではなく,あくまでも兵士の給与や糧食の管理が主な仕事ですから,その内容は推して知るべしか,と.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

海軍主計士官時代の中曽根康弘
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 旧軍での軍楽隊はどうやって選抜していたんですか?
 志願したりもできたんですか?教えてください.

 【回答】
 陸軍の場合は,元々は管弦楽もやっていたので,音楽学校卒業生を主に採用していました.
 しかし,1931年からは,管弦楽の研究演奏を中止し,吹奏楽一本槍となっていますので,明示的に音楽学校卒業生を採用することは無くなり,陸軍戸山学校で,2年間学んで配属されることになっています.

 海軍の場合は,横須賀海兵団練習部で適性を見られ,新兵から配属されます.
 軍楽術練習生として,1年,その後,軍楽術候補生教育を行い,その後,軍楽下士官兵となった者の中で優秀な者は選抜され,特修科軍楽術練習生となり,更に技術秀逸且つ,音楽上の理論を修めるのに適当で,将来管楽,弦楽の教員に充てまたは,各種奏楽指揮の職に適すと認める者を選抜して,2年の教育を行います.

 軍楽練習生は管楽として,楽器奏法・合奏,理論として,音楽通論・楽譜書法,唱歌として,音階・音程,外国語として,独文綴字・音楽上用語読法を,特修科軍楽練習生は管楽・弦楽楽器奏法・合奏・奏楽指揮法・各種楽器教授法・和声論・音階・音程を教授しています.
 なお,特修科は,官立音楽学校(東京音楽学校,今の東京芸大)委託修業の方法もありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/23(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本軍の軍楽隊に入れる人って,エリートだったのでしょうか?

 【回答】
 音楽学校を卒業しても就職先は限られてるからな.

 時代によっていくらかの違いはあるだろうが,旧陸軍では基本的には志願者から選抜され,陸軍戸山学校で音楽教育を受け,その後に各隊へ配属となった.
 團伊玖磨や芥川也寸志が,陸軍戸山学校軍楽隊出身だ.

参考:陸軍戸山学校軍楽生徒採用に関する資料
http://sikan.gungaku.net/koubun/saiyo/rikuto1917.shtml

 旧海軍の場合,横須賀海兵団で新兵教育を受けたあと,引き続き横須賀海兵団の練習部で練習生として1年程度の教育を受けてから,各地の海兵団軍楽隊や艦隊司令部付き軍楽隊に配属となった.
 少なくとも海軍においては軍楽兵は志願者のみ.
 もともと定数も少ないし,軍楽兵を志願しない者が,「使えないから」と軍楽隊に入れられることはない.

 現代でも人気職の1つだよ,自衛隊の音楽隊.
 「高校で吹奏楽の経験があります」程度では入れない.
 当然オーディションがある.
 音楽でメシが喰え,しかも安定しているという貴重な職場だし.
 オーディションもあるから,小さい頃から音楽教育を受けられる程度に裕福な家庭の出自は多いかもね.

 うちの吹奏楽の先輩は県内高校で屈指のトランペッターとして地味に有名だったんで,音楽隊入れたそうだ.
 部そのものは所詮田舎の吹奏楽部なんで県内3位〜4位をうろうろしてる程度な上に,その先輩を筆頭に他の先輩方が卒業してったので,すっかり落ち目になってしまったが.

 日本人は隊長のみ,残りは現地採用の楽器が使えるインド人や中国人などで編成されていた,第29軍軍楽隊のような例もあるが.
(from wikipedia )

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本軍でも演習や基地などの一般公開は行われていたのでしょうか?
 また,現在ある「自衛隊まつり」のような,軍と一般市民との交流行事などはあったのでしょうか?

 【回答】
 軍旗祭などと称する営戍地(駐屯地)の一般公開や,軍艦の公開なども,時折行われていました.
 現在と比べるとかなり制限されていますが,それなりの交流は行われていたようです.
 むしろ徴兵制のおかげで,大多数の国民又はその家族は軍隊と関わりを持っていましたから,ある面では現在以上に身近だったかも.

軍事板

 一方,少なくとも要塞に関しては法律で厳しく秘密保持が徹底されてて,近くの海で泳いだり漁をしたりもだめだったりといろいろ厳しかったみたいです.
 地図なんかも要塞の周辺は白紙みたいですよ.

ポ◆AH4kD1XSgw in 軍事板


 【質問】
 日本の軍歌を,出来るだけ音楽的・文学的に考察した本をご存知ありませんか?
 なんでこう哀調を帯びたメロディと歌詞が多いのか興味があって,林秀彦の『日本の軍歌は芸術品である』を読んでみたら,軍歌にかこつけた現代日本批判で,めげた…

 【回答】
 音楽・文学的側面から見た軍歌とかいう以前に,実は「軍歌」っていうジャンルそのものが,学問不毛の地という・・・
 堀内敬三『定本・日本の軍歌』とか,堀雅昭『戦争歌(いくさうた)が映す近代』,倉田喜弘『日本レコード文化史』あたりかなあ.
 最近読んでないから,記憶が定かで無い状態での紹介になっちまうが.

 政治的側面なら戸ノ下達也『音楽を動員せよ―統制と娯楽の十五年戦争』,『「国民歌」を唱和した時代』あたりになると思う.
 戸ノ下達也は多分ここ10年ぐらいは,軍歌研究の第一人者になるんでねえかな.

 他には,「君が代の全て」だったか「海ゆかばのすべて」というCDのブックレットで,で音楽的な面でそれぞれの曲を解説してた覚えがある.
 公立図書館のAVコーナーによくあるCDなので,借りてみてくれ.

軍事板,2010/11/14(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧軍将校の装備,主に軍服について質問です.
 昔から世界的に将校の装備は自腹だったそうで,その為独軍の将校の制服などはカスタム仕様が多く,細かく見るとバラバラですが,旧軍ではどうだったのでしょう?
 できれば昭和初期から終戦の範囲で,どうだったか教えていただければと思います.

 自分が調べた感じではカスタマイズは普通と言う意見と,規律が厳しかったのであり得ないという意見に別れていてよくわかりません.
(物資の枯渇も原因?)
 海軍は元々派手だからやらないかなあ…とか,実は素材や裏地など高校生ばりにこそこそカスタマイズしてたかも,等想像が止まりません.
 よろしくお願いします.

 【回答】
 将校の衣服は基本的に私費特誂品で,材質と仕立が官給品とは差がありました.
 生地は夏服は綿地,冬服はウール地で,フォーメーションは兵服と同様です.
 しかし,布地は若干将校の方が青味が掛かっています.
(但し,戦訓から第一線の将校は官給品である兵服を着用し,階級章を外すケースも多かったとのこと)

 短袴も同様に,冬はウール地,夏は綿地ですが,時代が下る毎に,混紡,化繊地となっていきます.

 長靴は黒又は茶色牛革ですが,第一線の将校は兵と同じく編上靴となりました.
 特に南方では皮の手入れが大変なので,長靴より布製ゲートル,革靴より地下足袋が好まれています.

 下着の襦袢と袴下は白い綿地ですが,これは私物が多く,偕行社で購入したお仕着せ品が多く,褌は私物で酒保にて購入するケースが多かった様です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧軍では,内部向けの雑誌とかは作ってなかったんですか?
 「セキュタリアン」みたいな.

 【回答】
 旧軍も作ってた.
戦車将校向けの「機甲」,
参謀本部発行の「参情月報」,
陸軍兵器学校将校集会所発行の「陸軍兵器学校記事」,
陸軍技術本部発行の「軍事と技術」,
憲兵司令部内編纂の「憲友」,
関東軍司令部発行の「完勝」,
など,いろいろな内部向けの雑誌(機関紙)があったようだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦闘要報と戦闘詳報,陣中日誌は異なるものですか?

 【回答】

○陣中日誌

 中隊以上の部隊・高等司令部の各部課で作成し,「甲」と「乙」の2種類がある.
 「甲」は戦史の資料とするもので,各部隊の経歴・遭遇した実況・所見等を記載する.
 「乙」は将来の改善の資料とするもので,編制装備・補給・衛生・資材等に関する軍事の経験を記載する.

○戦闘要報
 一部の戦闘が終わったとき(又は当日その局を結ぶに至らなかったとき),日没後速やかに,各部隊隊長が当面の戦闘経過概要,彼我の態勢,敵情判断及びこれに対する自己の企図,
 彼我の損害概数,弾薬燃料の残余と消費量概数などを報告するもの

○戦闘詳報
 一方面の戦闘終了後,各級指揮官が,戦闘の詳細を記録して提出する報告文書
 主要記載事項は,戦闘前の彼我態勢の概要,各時期における戦闘経過,関係部隊の動作.彼我の交戦兵力,敵の団隊号・将帥の氏名・編制・装備・戦法,戦闘後における彼我の形勢概要,戦訓など

軍事板


◆◆◆◆施設


 【質問】
 この前,タレントで夏の怪談には必ず呼ばれる稲川淳二氏が,心霊スポット(?)をグラビア・アイドルと共に訪れる「稲川淳二・恐怖の現場」で,八丈島の旧日本軍が掘った洞窟を訪れるというのがあったのですが,ここはおそらく第67旅団の戦時司令部だと思われますが,稲川氏の話だとここに陸海軍が2万人の兵力を使って掘ったと言ってましたが,いくら何でも2万人は大げさだと思うのですがどうでしょう?
 せいぜい工兵隊2000人ぐらいだと思うのですが・・・.

 ちなみにこんなのは教科書レベルですが,八丈島では米軍は上陸作戦を展開せず,戦闘はなかったので第67旅団戦時司令部予定地跡地が,戦没者の霊が出るという心霊スポットというのは無理があるとは思います.

トランスフォーマー7 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年08月03日 08:42
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 八丈島には,海軍の208,305設営隊と第二回天隊,八丈島警備隊,陸軍の独立混成67旅団が居ました.
(あとはレーダー施設と飛行場要員)
 また,防衛陣地の設営は工兵のみの仕事ではなく,歩兵や砲兵など諸兵科が総出で行うものです.
 機械力の乏しい日本であれば,なおさらです.
 二個設営隊と一個旅団,さらにその他の部隊と軍属を加えれば,かなりの人数にはなりますので,二万はそれほど不思議な数字ではないと思います.

 戦死者に関して言えば,病死を別として,戦後の11月に集積していた弾薬が爆発し,25名内外の方が亡くなっています.
 参考までに.

極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年08月03日 20:05
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争中の小笠原諸島の防備は?

 【回答】
 小笠原諸島の軍事施設整備は,1909年に島村速雄司令官麾下の第2艦隊が父島の地勢と望楼適地等を調査する為に派遣されたことから本格的に開始されました.
 翌1910年にも,第2艦隊が派遣され,二見湾のキャパシティや防御法などについて詳細な調査を実施します.

 1914年7月に第一次大戦が勃発すると,8月に日本は連合国側に立って参戦した為,ドイツ統治の南洋群島に隣接している小笠原諸島の防備が懸念されて,1914年9月には早くも父島北特設望楼を設置し,11月には電信業務を開始します.
 その後,1917年12月,海軍は父島に貯炭場を設置,1918年6月には通信を円滑にする為無線通信所を設置しました.
 こうして海軍の基地が次々に置かれてきましたが,戦後の1919年12月には南洋群島の連絡線として,父島の価値が向上し,その防備の為に陸軍基地の建設が決定します.
 1920年8月には,陸軍は門田宥工兵少佐率いる築城部父島支部を設置し,10月から同支部が住民から用地の買収を開始しました.
 今度建設される施設は軍事機密の最重要なものである要塞であった為,東京憲兵隊麹町分隊の管轄下に父島憲兵分駐所が設置され,憲兵が常時島に派遣される様になります.
 また,1921年3月始めには,父島,母島にある軍事施設附近での撮影など幾つかの行為が禁止され,6月から要塞の工事が開始されました.

 大村第1砲台,第2砲台は7月に,大村第3砲台,第4砲台の工事は12月に開始されましたが,1922年2月のワシントン海軍軍縮条約の第19条で,太平洋に於ける領土と保有の現状維持が呼びかけられ,要塞の建設は一時的に中断します.
 しかし,1920年代後半には中国を巡る緊張関係が高まったことから,軍部は小笠原諸島を如何に国際条約に反さずに要塞化するかを検討し,1928年2月,先ず海軍が艦艇への給油の為,二見港に燃料貯蔵施設を建設し,陸軍は「修理・建替え」名目で,要塞の整備を続けました.

 1932年には「東京府第1農場」と称して,洲崎飛行場の建設が開始されました.
 因みに,「東京府第2農場」は,1933年に建設が始まった硫黄島の飛行場の事です.

 1936年12月にはワシントン海軍軍縮条約が失効し,大手を振って軍事施設の整備が可能になりました.
 海軍は南鳥島に飛行場を建設し,硫黄島の滑走路を増設,洲崎飛行場は500m滑走路が完成しました.
 1937年6月には夜明山と旭山の頂上にある通信施設を拡充しましたが,その後,偵察機や爆撃機を欺く為か,通信施設に隣接した幾つかの建物は,校門と二宮尊徳像を正面に設置して学校に「偽装」されました.
 そして,1939年4月には父島海軍航空隊が新設され,配備されています.

 一方,陸軍も争う様にして施設を拡充し続け,1940年12月にはこの地に三重の制限が敷かれ,加えて兄島での撮影も禁じられる様になりました.

 太平洋戦争時には更に増強が続けられ,1944年始めには父島,母島,兄島の兵力増強を決めて,小畑英良中将を司令官とする第31軍を編成し,その指揮下に大須賀應少将を司令官とする小笠原地区集団を編入しました.
 更にこの第31軍は,海軍の南雲忠一中将の指揮下に入りました.

 1944年5月,陸軍は2つの旅団を基幹とする第109師団を編成します.
 第109師団は硫黄島を含む小笠原諸島の防衛を任務とし,師団長には栗林忠道中将が選ばれました.
 映画などにもなった様に,栗林中将は司令部を主戦線である硫黄島に置き,父島には堀江少佐が率いる派遣司令部を置いて,輸送,通信,諜報,その他の目的の為に維持されました.
 父島の分遣隊が何故堀江少佐だったのかは定かではありませんが,栗林中将は立花少将を司令官には不適任と考えており,堀江を自身の代理に任命したと言われています.

 小笠原には更に小笠原兵団が6月26日に編成され,晩秋には地上戦の準備を開始しました.
 硫黄島が攻撃を受け,遂に陥落すると,次は父島であると一気に緊張が高まり,堀江少佐は同時攻撃もあり得ると覚悟していました.
 因みに,小笠原兵団の配備は,第304聯隊が兄島海峡を挟んで父島の真北の兄島に,第308聯隊が父島の北西部全域,第305聯隊は南東部全域に配置され,第305聯隊の直ぐ北側に第306聯隊が配置され,その西側には父島の南西部を担当する第307聯隊が配置されました.
 敗戦時の兵員総数は13,550名を数えています.
 海軍は,港や通信塔など海軍施設が多くある島の中央部に配置されていました.
 海軍は敗戦時,7,659名を数えました.

 海軍は,1941年5月から振分山と清瀬高台に防空砲台を建設し,6月には沖港を防備する為,静沢に対艦砲台を建設します.
 この砲台は,1942年3月に完成し,此処には英国アームストロング社製の6インチ砲が配置され,兵舎や弾薬庫,発電所が建築されており,これは母島で初めての本格的な海軍陣地でした.
 この間,沖港にはグアム攻略予定の歩兵第144聯隊やサイパンに駐留する第5根拠地隊が配備され,上陸訓練を行っていました.

 米軍は,この小笠原要塞の情報を殆ど持っていませんでした.
 戦後,海兵隊がこの地を訪れ,その防備の堅さに驚嘆しています.
 初期占領部隊の司令官となるリキシー大佐は次の様に記しています.

―――――
 父島の港を取り囲む海岸の防備と大砲による防備は是迄のものとは比べものにならなかった.
 開口部に鉄製の扉が付いた,コンクリート製の砲座が,山の上に数え切れないほど有った.
 飛行場に設置されたかも知れない迫撃砲と機関銃の砲火は,どんな上陸作戦をも阻んだであろう.
 適切な場所に日本が施した熟練したカモフラージュの為に,我が海軍の着弾監視兵は巧妙に設置された陣地を発見するのに非常に苦労する事になっただろう.
 砲座は高く評価されるべきである.
 日本の作戦は,湾や飛行場への侵入を許し,それから米軍に「仕掛け」を食らわせる予定だった.
 こうした陣地の殆どは,東側に面した狭い斜面に位置していた為近付くことが困難で,艦砲も届かなかった.
――――――

 また,他の海兵隊員も,此島を「難攻不落の防衛体制」と評し,「この装備の砲火から生還出来る上陸強襲部隊は無かっただろう.このしまが置き忘れられたのは幸運だった.飛ばして進むより他になかったのだ」と書いています.

 ただ,こうした讃辞とは別に,ラドフォード海軍大将の回顧録には辛辣にこう書かれています.

――――――
 (父島は)艦隊による侵攻を躱す為の防備を固めていて…対空防備には重きを置いていなかった.
 またしても日本の戦略は誤っていた.
 米軍が島を空爆する様に成って,その脅威に対抗することに注意が向けられたが,大した効果を上げられなかった.
――――――

 実際には空爆後も無線通信塔はそのまま立っていましたし,要塞に凹みが殆どありませんでしたが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/24 23:47

 第二次世界大戦前に,南洋群島と本土を結ぶ重要な地点に位置した小笠原諸島には,様々な軍事施設が設置されました.
 1906年,父島にはマリアナ諸島とボニン諸島を通じてホノルルと東京を結ぶ海底ケーブルが敷設され,1914年には海軍通信基地が設置されて,以後,島は要塞化され,湾の拡充や道路網の整備が行われていきます.

 その後,1921〜22年のワシントン海軍軍縮条約の発効で,太平洋諸島の更なる要塞化を禁止し,日本海軍の軍事力を現状維持に制限する事に先駆け,小笠原諸島の要塞化が急がれ,1921年11月には各所の要塞化が完成しました.
 其の上で,1922年2月22日,外務省は,「ワシントン海軍軍縮条約第19項の精神に従って,日本政府は小笠原諸島と奄美大島の要塞化を直ちに中止することを決断した」と言う声明を発表した訳です.

 しかし,1937年の日中戦争勃発以降,そして,海軍軍縮条約の失効に伴い,日本は太平洋諸島の軍事基地ネットワークを構築し始め,その為に陸海軍から膨大な兵士を送り込み,伊豆諸島,小笠原諸島,硫黄島,サイパンやテニアンなどの南洋諸島を日本の「外堀」として,父島は国策に則って要塞化された島の一つになりました.
 小笠原諸島は主に供給基地として,つまり弾薬の備蓄庫や洞窟に設けられた食料庫が設置され,更に1,000kmの範囲を覆うラジオ無線施設が父島の夜明山と旭山に建設されて,これらの島々は軍の実質的に軍の支配下に置かれ,1930年代には外国人訪問者は殆ど来なくなっていました.

 因みに,当時は未だ,白人系入植者の末裔がこの島に住んでいました.
 戦争が起こるまでは彼等は日本人達と上手くやっていたのですが,太平洋戦争が始まると,学校の指導者と警官が白人系入植者の子供達に,家で彼等の親が何語で話しているのかを尋ね,英語を話していると答えると,彼等は白人系入植者を尋問の為に呼び出しました.
 其の上,ずっと監視されていたので,白人系入植者の長だったセボリー一族は,祖父の遺品,例えばペリー提督が贈与した旗すら燃やしてしまったりしました.

 父島の重要性は,1944年になると一層増しました.
 海軍通信施設は,東京の大本営と中部太平洋の日本軍とを繋ぐ,重要な中継地であり,対空監視哨も置かれ,通信傍受基地もありました.
 この傍受基地は1941年11月に設置されたと見られ,米軍側ではそこから発信された通信を傍受していましたが,実際にこの施設が発見されたのは1944年半ばになってからのことでした.
 通信傍受については,中部太平洋地域全ての通信を傍受し,日本本土へのB-29来襲を察知し,本土に伝える事で迎撃態勢を整えることが出来ています.
 当時,これらの施設を防衛する為に,対空砲の砲手を赤坂御所から父島へ異動させた程,その防衛には念が入っていました.

 また,硫黄島への補給路としても父島,母島は重要な存在でした.
 更に父島には1932年11月に着工し,1937年6月1日に完成した(名目上農業用の)小さな空港もありました.
 硫黄島の攻防の後,父島への上陸も検討されましたが,父島には硫黄島の21,000名を上回る25,000名の兵士が駐留しており,地形は険しく山がちで平地はごく僅か,更に上陸出来そうな海岸は全て機関銃やその他の武器で厳重に防備されている上,海岸は入江になっていて,湾内には要塞が設置されていました.
 ところが,その要塞は湾の奥に有った為,実際に守備隊の射程圏に入らなければその位置を発見することが出来ません.
 父島の北隣にある兄島の見返山にも砲台が築かれており,二見湾に上陸しようと米軍が集まると格好の標的とすることが出来ていました.
 勿論,硫黄島と違って,緑豊かな自然のある父島には,水も食糧も充分に溜め込まれていました.

 米軍側は偵察を通じてある程度,島の地形を把握していましたが,殆どの要塞は非常に巧妙に地形と一体化されており,多くが戦後になってやっと,それも偶然の形で発見される程でした.
 これらの施設は多くが1944年以降の建築ですが,1937年以降外国人訪問者の入島制限を行っていた関係で,きちんとした情報を手に入れる事が出来ませんでした.

 戦後,とある米国の退役軍人がブラッドレー元帥に対し,
「硫黄島は地獄だったが,(それを上回る防備の)父島の攻略は不可能だっただろう」
と述べたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/23 23:27


 【質問】
 戦前には沖縄には日本軍の大規模な基地ってあったんでしょうか?

 【回答】
 ありませんでした.

 沖縄が軍事基地化されてなかったのは,ワシントン条約の要塞化禁止条項に引っかかったからです.
 軍事拠点としての価値は,フィリピン封鎖作戦時の策源地として台湾を支援する好適地にあり,また本土〜台湾の連絡線中継点として重要な価値があります.
 日本が戦前フィリピン攻略or封鎖時に,沖縄をどう利用するつもりだったかは,作戦計画を読めば理解できます.

 んじゃ,なんで無条約時代に入ってからも軍備増強が遅れたかというと,単純に優先順位の差です.
 より最前線に位置するマーシャル諸島やトラック諸島,そして台湾本土の強化の方が先に着手された,それだけのことです.

軍事板,2009/08/09(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前日本が千島列島に設置していた基地や駐屯地の位置や機能を知りたいのですが,そういう情報がわかりやすく説明されている本やサイトは無いでしょうか?

 【回答】
 手に入りやすいのでは中山隆志「一九四五年夏 最後の日ソ戦」が簡単に触れてる.
 庄司幹雄「近代千島列島誌」に割りと詳しかったと思う.
 戦史叢書の北東方面海軍作戦や陸軍作戦をあたるのも手だろう.

 ただ,以下あやしげな記憶だが,戦前には千島列島にはほとんど防衛施設がなかった.

 陸軍北千島要塞@幌莚島が,1941年夏になってようやく要塞歩兵隊・重砲兵隊を配置.

 海軍は1937年以降に幌莚島・松輪島・択捉島に滑走路を整地.
 常駐航空戦力はいない.
 択捉島単冠湾に係留・給水設備程度.
 あとは占守島片岡湾なんかにも漁港があった.
 1941年夏頃に若干の防空部隊を置いた.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争までに沖縄や北方領土が要塞化されていなかったのは何故ですか?

 【回答】
 サイパンを含むミクロネシアの非武装化については,1919年のパリ講和会議で決定されていますす.

 沖縄についてはワシントン海軍軍縮条約の第19条です.
 ワシントン海軍軍縮条約の第19条では,太平洋防備制限事項として
イギリスは香港に
アメリカはフィリピン・グアム・アリューシャン列島に
日本は千島・小笠原・奄美大島・沖縄・台湾・澎湖諸島に
新たな根拠地や要塞を建設しないとの協定が交わされました.

軍事板

ソ連軍海軍歩兵,北方領土に侵攻す!の図
(『ロシア海軍歩兵設立300周年記念本 大祖国戦争の海軍歩兵』より)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20r01n.jpg
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http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20r01n03.jpg

CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月30日18:15


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