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(Picture Prepositioning Ship : PPS@軍事板常見問題 mixi別館より)


 【link】

『暁の珊瑚海』(森史朗著,文春文庫,2009.11)

 一次資料を丹念に調べている本.
 p.112に,97式艦上攻撃機はTBDと方を並べる優秀機というような記述あるが・・・・・・
 まあ,確かに世界のTOP2の雷撃機だが,この表現はどうか.
 雷電の開発経緯に関しても,ちと粗い感じ.
 まあ,帆足大尉の事件が中心で,おまけのようなものだが.
 機械的な事に関してはあんまり強くは無いのかもしれない.
 というか,興味の主眼がそこじゃない.

――――――軍事板,2010/06/19(土)
 嶋崎少佐機の機内で起こった事件には,言葉にならない衝撃を受けました.
 今まで,珊瑚海海戦の失態と言えば,タンカーを空母と間違えた事,敵空母に危うく着艦しそうになった事くらいかと思っていましたが・・・
 読み応えありまくりなのですが,これでまだ本の半分です.

――――――軍事板,2009/12/15(火)
青文字:加筆改修部分

 日米の一次資料を丹念に調べた本だと思う.
 臨場感もあるし,読みにくい文章という話も聞いたことあるが,それほどでもない.
 面白い本で,珊瑚海海戦についてここまで詳細に書かれた本は少ない.
 自分も,大破した翔鶴に零戦と99艦爆が着艦していたなんて,初めて知った.
 情報量はかなり多い.

 が,しかし.これだけ一次資料を読み漁り研究をしている人なのに,基本的ミス散見されるのは何でだろう.
 p.112に,97艦攻はTBDと肩を並べる優秀機と書いておいて,読み進むとTBDは97艦攻機の半分の雷撃速度しかないとか,こき下ろしている.
 後,雷電開発経緯に関しても間違っていないけど,大雑把な感じ.
 まあ,帆足大尉の殉職という事件に触れるために書いただけで,主題じゃないが.

 戦史とか人間描写には興味あるけど,メカニック的なものにはあまり興味がない人なのかね.

――――――軍事板,2010/01/08(金)
青文字:加筆改修部分

 雷撃速度が遅いのは魚雷の問題だ.

――――――軍事板,2010/01/08(金)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 友鶴(ともづる)事件とは?

 【回答】
 1934/3/12,同年2月に竣工したばかりの「千鳥」型水雷艇2番艦「友鶴」が,波浪によって演習中に佐世保港外の海上において転覆沈没,死者100人を出した事件.
 転覆原因は,過重武装が艦の重心を高くしたことによる復元力不足だった.
 日本海軍は,600tに満たない水雷艇に,本来1000t級の駆逐艦並みの性能を求めたのである.

 事件を機に,他の艦種の復元力調査が行われた(4/4,臨時艦艇性能調査委員会設置.委員長・加藤寛治).
 結果,千鳥型と並行して設計された空母「龍驤」「蒼龍」,潜水母艦「大鯨」,最上型巡洋艦,その他駆逐艦・掃海艇・敷設艦艇・駆潜艇において復原力不足が発見された.
 海軍首脳部は大きな衝撃を受け,殆ど全ての艦種を対象とした性能改善工事,設計の根本的変更を行わざるをえなかった.(戦史叢書「海軍軍戦備(1)」,p.437-440)

 詳細は,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.126-127等を参照されたし.

 なお,ソース未確認だが,
「近年の研究では,復元性の不足よりも,艇長の操艦ミスとの指摘も多い」(Wikipedia)
という話もある.


 【質問】
 第4艦隊事件とは?

 【回答】
 1935/9/26,演習中の連合艦隊の一隊(演習の最の艦隊名「第4艦隊」)が岩手県東方海上でぼうふううに遭遇,駆逐艦6隻,空母「龍驤」「鳳翔」,巡洋艦「最上」「妙高」,潜水母艦「大鯨」が大きな損傷を蒙り,将兵54名が死亡した事件.
 重装備・軽量化という技術的無理を冒した事に起因する,船体の強度不足が原因だった(戦史叢書「海軍軍戦備(1)」,p.440-443).

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.127-を参照されたし.

▼ 1935年9月26日に,三陸沖で演習中の艦隊が台風に巻き込まれ,多数の被害を被ったものです.
 第四艦隊は,4年に1度の大演習において,日本が世界に誇る戦艦群を擁する第一,第二艦隊からなる青軍に敵対する敵艦隊となる赤軍の役目を果たす艦隊でした.

 この演習は9月下旬の艦隊決戦で終了する予定で,第四艦隊は函館沖に集結した後,24日20時45分に補給部隊,25日6時00分に水雷部隊,16時00分に主力部隊が出撃します.
 水雷戦隊は那珂,鬼怒を中心とする初雪,朧,夕霧,曙,潮,天霧,望月,三ヶ月,睦月,夕月などの駆逐艦で構成されて先陣を切り,100km後方に給油艦鶴見などの補給部隊が航行し,更に100km後方に主力部隊として,空母龍驤,鳳翔,潜水母艦大鯨,水上機母艦神威,巡洋艦最上,三隈,妙高,那智,羽黒,足柄,川内,北上,木曽,大井が航行し,後衛には100km後方に巡洋艦厳島,波風,羽風がジグザグ状に100kmの距離を置いて進み,更に潜水艦伊65などが警戒を行っていました.

 当時の海面は,25日未明に台風7号が四国に上陸し,日本海に抜けた為,荒れていたものの,台風7号の北上によって次第に収まってきていました.
 その台風は25日22時現在,台風7号が日本海の北海道近辺に992hPaで北上しつつあり,6時に熱帯低気圧から台風になったものが980hPaの気圧に成長しつつ,日本の南海上を北西に進み,両台風共に三陸沖への影響は全く無いと予想されました.
 第四艦隊の気象担当艦であったのは重巡洋艦那智でありますが,その予報に安心して,通常配置となっていた訳です.

 翌26日午前6時,那智艦上では大騒ぎになります.
 6時の気象通報では,昨日22時の予報と違い,南海上を北西に進んでいる筈の台風が艦隊の目前に来ており,更に気圧は960hPaにまで発達しています.
 この儘行くと,昼過ぎには艦隊が台風と遭遇することになります.
 艦隊司令部では,一時艦隊を西に反転させる事を考えていましたが,既に視程は悪くなり,艦艇同士の衝突も予想され始めました.
 また,艦隊司令部内には,日米決戦では艦隊が台風に巻き込まれる可能性もあるのだから,と言う空気もあり,反転は断念されました.
 そして,全艦,台風に向けて突き進むことになったのですが,こうした前代未聞の艦隊機動により,図らずも気象学的には貴重な資料を採取することが出来ました.
 後に,台風の風に関する理論が急速に発展すると共に,風と波の関係式が作られました.

 10時,台風は艦隊の前方400kmにありましたが,各艦に装備されていた気圧計の降下が急激となり,急激に強い風を観測する様になりました.
 12時頃には,台風は艦隊の前方200kmとなり,風速は毎秒25mを突破し,大波が荒れ狂う状態になります.
 13時40分頃,台風は艦隊の前方80kmとなり,風勢は急速に強まって毎秒32m以上を観測.
 14時30分に台風の中心を通過しました.
 その周囲では40m以上の風速を記録していましたが,中心は15m以下の風速でした.
 この中心を過ぎる頃は,荒天の最高潮で,波高14〜18mの波が直撃し,龍驤,鳳翔の艦橋の窓硝子が破損してしまうほどでした.
 水雷戦隊の方は,そんなものでは済まず,10時頃から毎秒20m以上,14時には毎秒35m以上,視界は極めて不良となります.
 この時は台風の中心から東に200kmの位置でしたが,風は収まらず,台風が衰えて温帯低気圧の様相を見せ始める時点で,其処から伸びる前線が水雷戦隊の付近にあり,付近の風向は不連続となり,15m以上の三角波が発生します.
 この波によって,初雪と夕霧の艦首は切断し,多くの艦に艦橋の破壊を齎しました.

 これらの犠牲を払って得られた知見は,外部には一切の発表を禁じられました.
 艦隊の被害事実もぼかされ,部外発表は,演習中に初雪と夕霧が衝突して被害が出たとされています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/15 21:32


 【質問】
 第4艦隊事件において切断された初雪艦首部には,生存者がいた可能性があったのに,なぜ撃沈処分とされたのか?

 【回答】
 軍事機密を守るため.
 波で切断された艦首部には機密暗号書や図面を格納した金庫のある士官室区画が含まれており,これが沈没せずに外国に流れ渡ることを恐れた.
 巡洋艦による曳航も試みたが,失敗.
 そこで砲撃で沈めた.
 悲惨.

 詳しくは「世界の艦船」2006年10月号,p.111(岡田幸和=元造船技師=著述)を参照されたし.

 重武装と極端な高速力を両立させるため,特型の船体は極端に軽くされたという.
 以下引用.

――――――
 排水量を1トンでも切り詰めるため,藤木造船官達は船体強度計算を綿密に行って強度を限界まで切り下げ,関係部署に部材の軽量化を強く要請した.
 このような船体強度と重量の厳重な統制は,わが海軍ではかつてなかったことである.
 〔略〕
 しかし,その内容は極めて厳しいものだった.
 船体軽量化の結果,特型の公試排水量に対する兵装重量比が,睦月型の0.1から0.3に増加したにも関わらず,船殻艤装重量比は0.31から0.30に低下した.
 砲室を付した3基の連装砲と,,3基の3連装発射管が兵装重量を押し上げ,その代償に船体を軽くしたことがよく分かる.

 凌波性の向上によって波涛の中でも艦首を没しようとしない特型の前部船体には,艦を座屈させようとする力が,今まで以上に大きくかかるようになったけれども,この部分には重量28.tの連装砲(仰角を75度に引き上げたII型以降では31t)が搭載されていた上,綿密な計算によるとはいえ,ホギング(Hogging)現象に対する前部船体の縦強度は睦月型より2〜3%低く抑えられていた.

 これらは,従来の造船官があえて踏み込もうとしなかった危険な領域だった.
 特型の比類のない高性能は,「個艦優秀思想」に基づく危険を含んだ未知への挑戦によってもたらされたこと…….
 それが第4艦隊事件の原因になったことを忘れてはならない.

―――――― 「世界の艦船」2006年10月号,p.83(中川務著述)

第4艦隊事件で艦首が切断された「初雪」
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 第4艦隊事件後,どのような対策がとられたのか?

 【回答】
 第4艦隊事件後,10月10日に野村吉三郎大将を委員長に,山本五十六中将を主席委員とした査問委員会が開かれ,この艦隊機動が徹底的に究明されました.
 当時の資料には次の様にあります(×印は判読不明)

「気象作戦上の教訓
・気象電報の改善
(1) 速達…国内気象通信法の改善…準備中
(2) 統一…国内的統一…司令部にて××
(3) 内容豊富…準備中
(4) 戦時の通報…研究」
 このうち,(1)の改善に関しては,22時の観測に基づく臨時警報は,23時30分,23時48分に送信されたのですが,受信艦はゼロ.
 その観測データに基づいて,0時25分までに送信された海軍演習用秘密気象通報は16隻受信.
 24時の観測に基づく1時5分送信の臨時警報の受信艦ゼロ.
 3時の観測に基づく,4時50分,5時18分の臨時警報も受信艦ゼロで,やっと,6時の観測に基づく7時の連合艦隊特殊気象通報が受信され,大騒ぎになった訳で.

 この査問委員会で,気象台の責任を追及する動きがありました.
 しかし,事実は気象台などは何度も気象情報を送信しているのに,それを受信した艦が無かったと言う明確な理由がある為,山本五十六中将は責任の転嫁は不可能である,と述べています.

 こうした教訓を生かした形で,1936年7月に勅令を以て海軍水路部でも観測所の設置が可能となり,1938年に南洋群島のパラオに南洋庁気象台を設置したのを始め,観測拠点を南方の島々に次々に設置していき,不十分ながらも観測網が随時整備されてきました.

 もう一つ,この教訓は艦船の復元力強化に生かされた一方,台風の進行方向に対して,右後方,即ち第四象限が一番危険であることが判りました.
 つまり,日米艦隊決戦時に台風が近づけば,日本は相手の艦隊を第四象限に誘導させることで,大きなダメージを被るはずであると言う事になる訳です.
 これこそ,「神風」!

 1940年7月から,観測拠点の整備に伴い,海軍でも太平洋天気図がルーチンワークとして作成できるようになります.
 今までは,日本付近の狭い範囲の天気図だけだったので,格段の進歩です.

 また,1938年,海軍は西太平洋で大海洋観測を実施しました.
 この観測は,海軍水路部所属の観測船「第一海洋」,「第二海洋」等も参加しましたが,隠密裏に行う関係上,大部分は民間のキャッチャーボートをチャーターして行われました.
 これは,強力なディーゼルエンジンを備え,長大な航続力,良好な凌波性を持っていることから抜擢されたもので,しかも,当時は南氷洋捕鯨最盛期でもありましたので,こうした船は多数有りました.
 また,南氷洋が冬,即ち,北半球が夏の間は,髀肉の嘆をかこっており,若干の観測用設備を付けるだけで長距離観測が可能となる船が多数利用出来ました.
 これらの船は東京湾に集結し,ほぼ同時に出航.
 各船は先ず扇型に展開しながら南下し,北緯30度に達すると真南に向きを変え,北緯5度まで南下.
 その後,反転して往路からやや西のコースを辿って帰投すると言うものでした.

 この観測船には,日本の若手気象学者達が乗り組んでおり,その中には,後に北海道大学教授となった福富孝治,神戸海洋気象台長となった菱田耕造などの人材が揃っていました.
 こうした観測結果は,知見,情報として整理され,海軍部内で活用されることになります.
 この為,日本海軍は気象によっては大きなダメージを受けることはなく,米海軍は屡々気象によって大きなダメージを被っています.
 しかし,これは微々たる損害であり,戦局を好転する力にはなりませんでした.

 残念ながら,「神風」は吹いても,その力は小さかった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/15 21:32
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次ロンドン海軍軍縮条約の内容はどういうものだったんでしょうか?

 【回答】
 英米は15隻保有,日本は9隻,フランス,ドイツも保有している戦艦の代艦を建造出来ます.
 但し,主力艦の排水量は35,000tまで,備砲は14インチ砲までと言う制限がありますが,条約未締結国が出た場合は,此の限りにありません.
 空母は,排水量23,000tまで,備砲は6.1インチ砲までと言う制限があります.
 巡洋艦は,排水量8,000tまで,備砲は同じく6.1インチ砲までと言う制限が付きます.
 また駆逐艦は,制限がありませんが,潜水艦は前回同様,排水量2,000tまでで備砲は5.1インチ砲までとなっています.

 排水量関係の状況は手元資料が無いので不明です.(多分何処かに埋もれていると思いますが)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/22(水)
青文字:加筆改修部分

・主力艦
 甲級−10000tを超えるか備砲口径8インチを超える水上軍艦にして航空母艦,補助艦または乙級主力艦以外のもの.
 乙級−航空母艦以外の8000t以下の水上軍艦にして,備砲口径8インチを超えるもの.
 艦齢−26年
 制限−イ)35000tを超えず,また備砲は14インチを超えざること.ただし1922年12月6日締結せられたワシントン条約の当事国の何れかが,
 1937年4月1日前に之に同意せざる場合には,最大備砲口径は16インチとする.
  ロ)17500t未満の甲級主力艦または主砲10インチ未満の主力艦を起工せざること.

・航空母艦
 主として海上において航空機を搭載しかつ行動せしむるよう設計せられた水上軍艦.
 甲級−飛行甲板を有するもの.
 乙級−飛行甲板を有せざるもの.
 艦齢−20年
 制限−イ)23000tを超えざること.
  ロ)備砲口径6.1インチを超えざること.
  ハ)口径5.25インチを超ゆる砲10門を超えざること.

・軽巡洋艦
 航空母艦,戦闘用小艦艇,補助艦船以外の水上軍艦にして100tを超えざるもの.
 甲級−備砲口径6.1インチを超ゆるもの.
 乙級−備砲口径6.1インチを超えずかつ3000tを超ゆるもの.
 丙級−備砲口径6.1インチを超えずかつ3000tを超えざるもの.
 艦齢−甲級,乙級は1920年1月1日前起工のものは16年,同日以降起工のものは20年,丙級は16年.
 制限−甲級は起工せざること,ただし他国の軽巡洋艦の建艦状況によりては本制限より離脱し得.
  乙級は8000tを超ゆるものは起工せざること,ただし他国の軽巡洋艦の建造状況によりては本制限より離脱し得.
  丙級は制限なし.

・潜水艦
 海面下において行動する様設計の一切の艦船.
 艦齢−13年
 制限−イ)2000tを超えざること.
  ロ)備砲口径5.1インチを超えざること.

・戦闘用小艦船
 100tを超え2000tを超えず,かつ
 イ)備砲口径6.1インチを超ゆる, ロ)魚雷を発射し得る, ハ)速力20ノットを超ゆる
 の何れの特性をも有せざる水上軍艦.
 艦齢は定めず,制限なし.

・補助艦船
 100tを超ゆる海軍水上艦船にして戦闘用艦船以外の用途に使用せられ
 イ)備砲口径6.1インチを超ゆる, ロ)備砲口径3インチを超ゆるもの8門を超ゆる
 ハ)魚雷発射装置を有する, ニ)装甲を有する, ホ)28ノットを超ゆる
 ヘ)主として航空機を行動せしむる如く設計せられたる, ト)カタパルト2基を超ゆる
 の何れの特性も有せざるもの.
 艦齢は定めず,制限なし.

・小艦船
 100tを超えざる海軍水上艦船.
・事前通報,一般規定等
 イ)本条約実施前起工または現有のものはそのままとす.
 ロ)第3編には建艦の通告及び情報の交換に関し詳細規定あり(略)
 ハ)第4編には艦船の譲渡禁止,亡失時の代換および戦時におけるまたは非締約国の建艦による
   もしくはその他一般に状況の変化ありたる場合の本条約による制限離脱等に関し規定あり(略)

・有効期間
 イ)1937年1月1日以後にして批准完了の時機より実施す.
 ロ)1942年12月31日まで効力を有す.

 なお,本条約は英米仏3国によって締結されましたが,1937年1月15日,
 イタリアが主要海軍国全てが受諾することを条件に,主力艦に14インチ以上の砲を搭載しない旨を表明しています.
 当然ながら日本が受諾してませんから,有名無実化しましたが.

 出典は・・・忘れた(苦笑
 多分,戦史叢書とかその辺りだったと思うけど.

ゆうか ◆9a1boPv5wk

 第二次ロンドン条約については,外務省の日本外交文書に収録されてたはず.
 コピー実家なんで確認できないですが,外務省の該当ページからすると,昭和60年刊行の1935年ロンドン海軍会議あたりが該当するのでは.
 戦史叢書の『海軍軍戦備』にも載ってるかもしれませんが,当方,該書読んでませんので確認できず.

 なお,英語でよければ,第二次ロンドン条約の内容はこの辺で読めます.
http://www.navweaps.com/index_tech/tech-089_London_Treaty_1936.htm

名無しクルセイダー信者 in FAQ BBS


 【質問】
 浅間丸事件(1940/1/21)とは?

 【回答】
 1939年9月1日,ドイツはポーランドを攻撃します.
 これに対し,英国とフランスは,9月3日に宣戦布告を行う訳ですが,ドイツの戦力が東欧に集中して,西部戦線が張子の虎の最中でも,英仏がドイツ西部を突く事はなく,ずるずると言ってしまった訳です.
 その後,ドイツが戦力を再結集して低地諸国やフランスを席巻するまで,the phony warと呼ばれる状況が続きます.

 とは言え,海上では両陣営は激しい戦いを繰り広げていました.
 …まぁ,潜水艦自体は足りなかったり,司令長官が水上艦主体の戦闘に固執したりと,これまた体制が整わなかったので,首尾一貫した訳ではありませんでしたが….
 9月3日,英国の客船アセニア号13,475総トンがUボートに撃沈されたのを手始めに,開戦後僅か半年の間に,英国の商船約120隻(約50万総トン)が敷設機雷,Uボートの雷撃,仮装巡洋艦の襲撃その他で撃沈されました.
 「戦争屋」Winston Churchillは,海軍相に就任すると早速対独封鎖網を設定すると共に,英国を取り巻く防衛網を作り上げ,更に商船護衛とドイツ船捜索を開始しました.

 第一次大戦後,ドイツでは一旦無に帰した商船群を再建し,世界各国に航路を広げていました.
 特に中南米航路,米国航路,中国・日本航路が幹線になっています.
 9月3日,英仏の対独宣戦を聞いた公海上のドイツ商船は,英国艦艇による拿捕を逃れる為,一斉に中立国の港を目指して針路を変えました.
 また,ドイツ船だけではなく,ドイツ人が乗組んでいる船も夫れに倣います.
 こうして,英仏の対独宣戦から数週間で,10隻以上の船舶と数百名のドイツ人船員が,中立国の港,主として米国の港で立ち往生することとなりました.
 特に,この米国では,スタンダード石油が彼等を雇用していましたので,英国政府からの妨害,拘束を逃れ,同社の保護とドイツ政府の援護の下,中立国の船を利用して祖国に戻ろうとしていました.

 一方,カリブ海を航行していたノース・ジャーマン・ロイド汽船の客船コロンブス号(32,354総トン)は,開戦の報を受けて,船客745名をハバナで下ろした後,メキシコのベラクルスへ遁走しました.
 このコロンブス号は,英国政府がメキシコに圧力を掛けた為,同港に居られなくなり,12月14日,ドイツに戻るべく決死の出港を試みますが,12月19日,米国ノースカロライナ州ケープ・ハッタレス沖320マイルの地点で,英国軍艦ハイぺリオン号の停戦命令を受け,これを逃れられないと悟った船長は,拿捕を避ける為,自船に火を放ち,キングストン弁を開けて,コロンブス号を自沈させました.
 女性9名を含む,579名の乗組員達は,追跡していた米国海軍巡洋艦タスカローサ号に収容され,米国に向かい,米国政府は彼等を,遭難船の乗組員としてニューヨークのエリス島に収容しました.

 その3週間後,ニューヨーク・タイムズ紙が,コロンブス号の乗組員達が正規の手続きで米国を離れ,イタリア船(未だ当時はイタリアは参戦していない)で大西洋を渡ってポルトガルに赴き,リスボンから航空機でドイツに戻ろうとしていると報じました.

 英国政府としては,これを何としても阻止したいとしていました.
 と言うのも,彼等船員の中には,兵役に服すべき年齢の者が多くいて,その多くは海員として長年経験を積み,航海技術,無線通信技術,ディーゼル機関の運転技術に長けていました.
 と言う事は,彼等が本国に帰れば,軍人としての訓練を受けるだけで,其の儘,仮装巡洋艦なり潜水艦なりに乗り込めば,海軍兵力の増強に繋がる訳です.
 この為,先ず第1段階として,英国外務省からポルトガル政府に圧力を掛け,同時にイタリア政府に対しても,ドイツ人船客の受け入れを拒否するよう交渉を行いました.
 この試みはある程度成功します.

 しかし,新たな流れが作られました.
 これこそ,米国の東岸から大陸横断鉄道を使って西岸に渡り,中立国日本の客船を利用して,彼の国へと至った後,国鉄,朝鮮鉄道,満鉄,シベリア鉄道(当時は未だソ連はドイツと戦争状態にない)を経由して,故国に帰るルートだったのです.

 こうした中立国船舶の臨検と,同船舶に敵国人を発見した際に,これをどの様に取り扱うべきかについては,1939年9月27日,Arthur Neville Chamberlain首相,Winston Churchill海相,Halifax外相などを始めとする6〜8名の軍事会議で協議されました.
 この日の会議には,駐ワシントン大使並びに,駐ローマ総領事からの報告書と助言に注目が集まります.
 これは次のようなものでした.

1. 中立国,特に米国やイタリアの感情を損なう様なことは避ける.
2. 一般論として中立国の船舶から抑留するのは,現職又は予備役であるとを問わず軍人及び軍務に服しうる者,並びに敵国の代理として知られている者及び軍事的に有用となりうる技術者とする.
3. ヨーロッパに向けて復航の途にある船舶については将来的には何処かの港に閉じ込める方策とする.
4. 出来る限り,公海上にある中立国の船から敵国人を抑留することは避ける.
5. 此の目的についての公文書は作成しない.

 10月30日,英国海軍省はこれらの方針を実行に移すよう各方面に指示をしました.
 ジブラルタルの場合,「中立国の船舶から敵国人を抑留するについては戦時禁制のものに限定し,しかも臨検を行うのはヨーロッパに向かう中立国の船舶に限定する.」と言う指令が為されています.
 また,如何なる理由があろうとも,米国の船舶だけは停船させてはいけないと厳命が下されています.

 数週間後,駐ワシントン英国大使は,米国政府に対して彼等の臨検方針を説明し,欧州に帰ろうとしている兵役年齢にあるドイツ人達の乗船を,米国の海運会社が拒否するよう協力を求めました.
 英国政府は,これらドイツ人達を孤立させる計画を米国政府に知らせ,彼の国の政府の協力を得ることに成功します.
 こうして,12月までに敵国人取り扱いの根本的な問題を解決した後,駐ワシントン英国大使は,次のような報告を本国に送っています.
「報道に依れば,スタンダード石油会社に雇用され,同社のタンカーに乗船していた約400名のドイツ人船員が下船して米国の港から祖国に帰ろうとしており,更に50名以上のドイツ人船員が中南米の港から帰国する手立てを探している」

 1940年になると,英国政府はその帰国阻止の為,海軍に対し,太平洋を航行する中立国の商船(日本の定期客船,貨客船)に注意を払い,軍人になり得るドイツ人拉致の為,躊躇することなく,これら商船への臨検を強化すると言う方針を立てた訳です.

 英国政府は,1940年初頭に約50名のドイツ人が浅間丸に乗船して,太平洋を渡るという情報を入手していました.
 しかし,太平洋は手薄で,サンフランシスコには南方約1,300マイルの地点に仮装巡洋艦ラジプタナ号が配備されているだけでした.
 最高速力17kts/hのラジプタナ号では,臨検どころか,速度を上げられて逃げられる恐れがありますし,北米西岸では危険が大きすぎました.

 其処で,英国政府はその臨検を香港の英国東洋艦隊司令部に下命することとなり,1月9日,海軍省は東洋艦隊司令長官に対し,「公海上に於て浅間丸を臨検し,リストに記載あるドイツ人を抑留するよう」命じました.

 その臨検に当り,英国外務省は,日本海軍による妨害に遭わないよう,臨検は出来る限り日本の陸影が見えない地点で行う事と,中立国船舶の臨検と敵国人抑留についての英国側の方針を,一般論として駐英日本海軍駐在武官に伝えておくべきであると提言し,その提言に従って,海軍省は駐英日本海軍駐在武官に会見を申し込み,船名を特定せず,
「軍役に服し得るドイツ人の中立国船舶からの抑留はあり得る」
との方針を伝えました.
 勿論,英国側の方針は,即座に日本本国に報告されました.

 この方針は,到底日本海軍には承服しがたいものでした.

 日本は1909年の海戦に関するロンドン宣言を採用し,日本の海戦法規は,1914年10月6日,軍令海第8号として制定されていました.
 核心となるロンドン宣言第47条は,そのまま我が海戦法規第82条となり,そのロンドン宣言第47条は,
「敵国軍隊に編入せられたる一切の人員にして中立商船内に在る者は,該船舶を拿捕するを得ざる場合と雖,之を俘虜と為す事を得」
と規定していました.
 この
「軍隊に編入せられたる一切の人員」
と言う語句の定義が問題の箇所となった訳です.
 ロンドン宣言自体は,英国が批准しなかった為に条約として成立しませんでしたが(英国としては,人的にも物的にも将来戦力となり敵となりうるものは,全て敵と見なすと言う考えがあったから),各国政府は従来の国際法の集積であるこの条文を,海戦に関する指針と見做した訳です.

 1月18日,英国政府の申し入れに対し,日本の海軍省は,我が国の海戦法規に則り,次のような内容の回答を英国政府に申し入れるよう,訓令を出します.
「英国政府の申し入れ内容は,従来の国際慣行に反するもので,日本政府としては軍隊編入者(予後備と雖も現に軍役に無い者は含まない)以外は輸送差支えないとの見解を堅持する.
 従って,英政府申入れの件は我が国として承認出来ない」
と.
 つまり,日本としては中立国船舶から拉致,抑留出来るのは,現実に軍隊に編入されている,つまり,現役軍人のみと言う主張でした.

 ところが,日本海軍省の珍しく至極まともな対応に対し,外務省は今も昔も変わりません.
 日本郵船のサンフランシスコ支店は,英国海軍の臨検,ドイツ人船員の抑留の可能性を憂慮して,浅間丸のドイツ人船員受容れに当り,同地の領事館に対し,意見を求めました.
 この時,領事の返事は以下のようなものでした.
「日本船舶から拉致抑留さるべき者は,現に軍隊に編入されている者でなくてはならないので,それ以外の者については,日本の立場を充分明らかにして拒むべきものである.
 しかしそれにも拘わらず,軍艦が強力を以て望んでくる場合は致し方在るまい」

 さて,この話が如何なったかは,次回のお楽しみ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/16 22:51

 1940年1月11日,英国東洋艦隊司令長官は,最新鋭巡洋艦リバプール号のA.Red艦長に対し,浅間丸臨検と,ドイツ人船員連行を命じました.
 この艦は6インチ砲12門を備えた軽巡洋艦で,ほんの数週間前に東洋艦隊に配備されたばかりでした.
 Red艦長は,浅間丸の臨検を日本から少しでも遠い海域で行う計画を立て,万全を期して,リバプールだけでなく,仮装巡洋艦アラワ号も同行させて香港を出航しました.

 同じく1月11日,浅間丸はホノルルに寄港した後,18ktsの速力で横浜に向け航走していました.
 途中で連続して時化に遭った関係で,スケジュールは通常よりも遅れていました.

 1月21日は日曜日,その日は曇りで寒く数日来の荒天に伴い,若干のうねりが残っていました.
 浅間丸は,横浜まで約100マイルの距離にあり,51名のドイツ人を含む125名の乗客は17時の横浜検疫錨地到着予定を知らされ,下船準備を始めていました.
 そして,昼食を知らせるチャイムが鳴り,乗客は食堂に集まり始めます.
 多くの人にとって,これが浅間丸での最後の食事になるはずでした.

 12時40分,浅間丸が房総半島野島崎灯台南東35マイルの地点に差し掛かった時,突然,1隻の英国巡洋艦が浅間丸に接近し,「我を避けよ」「汝の船名を知らせ」と信号を矢継ぎ早に送ると共に,浅間丸がこれに応えると,空砲を発射しました.
 これにより,浅間丸では無線電信を使用する事が不可能となります.

 浅間丸が停船すると,約200mの距離に近付いていた英艦からランチが下ろされ,浅間丸に横付けされました.
 ランチには士官4名と水兵15名が乗組み,13時15分,臨検士官3名(指揮官G.H.Greenway)と水兵9名が搭乗し,船長に面会を求めました.
 当然,彼等は武器を携帯していました.

 浅間丸の渡部船長が面会に応じると,指揮官は停戦を命じた事を丁寧に詫びた後,乗船している数名のドイツ人を戦時禁制人として抑留しなければならない事を船長に告げました.
 これに対し,渡部船長は,
「国際法で公海上にある船舶から乗客を連れ去る事は出来ない.
 持ち去る事が出来るのは積荷に限られている」
と反論,2人の論争は果てしなく続きましたが,やがてイギリス艦隊の士官は,渡部船長に対し,
「戦争開始前に乗船した人たちには何ら制限していない.
 しかし今は戦争が開始されている.
 我々は此の船に軍籍にあるドイツ人が乗船している事を知っている」
と,ドイツ人の身元調査を要求します.
 此処に至って,この場所が公海上であり,国際法上止むを得ないと判断した渡部船長は,西沢一等運転士,南条事務長,事務員1名を立ち会わせてこれに応じました.

 10分後,ドイツ人船客全員が1等ラウンジに集められ,リストとの照合による尋問が開始されました.
 約1時間の尋問の後,47名の船員と4名の商人のうち,「兵役に関係ある者」として21名の引渡を船長に要求します.
 因みに,その全員が,英国海軍省の名簿に記載のあるスタンダード石油会社のタンカーから下船した船員でした.
 渡部船長は頑強にこれを拒否しますが,結局,英国海軍士官はドイツ人船員21名を拉致します.
 その際,指揮官は,渡部船長に対し,英艦名と自身の名前を明らかにせず,ドイツ人抑留の調書も作成しませんでした(当然,渡部船長は再三,彼に要求しています).

 ドイツ人船員達もタダでは起きません.
 21名の内,1名の船員が英国水兵を殴り倒し,別のドイツ人船長に仲裁すると言う事件も起きています.
 また,元一等運転士は,パントリーに逃げ込み,舵手は煙突周りのストアの中に隠れて出て来ませんでしたが,幸い,彼等を深追いすることなく,英国水兵達は粛々と21名を拉致して,去っていきました.

 14時35分,英国巡洋艦から「航海を続けよ」と言う信号が送られ,浅間丸は漸く解放されました.

 21時,浅間丸は横浜に入港します.
 既に概要は陸上に電信で伝えていましたので,報道関係者が群がり,乗客達が撮った写真や証言で臨検時の模様を知った記者達は,その足で事件の詳細を更に追うべく,英国大使館に押し寄せました.
 こうして,ドイツ人拉致事件は夜の内に配信され,瞬く間に世界を駆け巡り,大ニュースとなります.

 当初,日本の新聞は此の事件に関して事実のみを報道していましたが,日を追う毎にその論調は激しさを増してきました.
 当時の駐日大使R.L.Craigieは1月23日付の報告で,次のように書いています.

――――――
 本日の新聞法道によって日本人の憤りが爆発し,一般市民の意見も反動勢力によって沸騰している.
右翼勢力は国会の開催を求め,また,反英勢力が随所で集会を行っている.
――――――

 当然,こうした生温い対応をした渡部船長に対しても,日本の新聞は舌鋒鋭く批難しています.
 例えば,1月24日の朝日新聞のコラムには,「船長達に望む」と題し,こんな風に書いています.

――――――
 船長が腹の据わった人ならば,…日本政府の命令がない限り1人も引き渡す事は出来ない.
 それが不服なら政府と交渉せよ.
 それともあくまでこの場から連行したいなら,浅間丸を撃沈して海中から拾って行け,と断固彼等の要求を撥ね付けたはず.
 天野屋利兵衛は男で御座ると言える人に…
 以下略
――――――

 すんごい無責任な論調.
 また,別の新聞には,
「武士道精神の喪失だ,その精神的低調を憂慮する」
などと,例によって熱しやすい国民感情を煽るだけ煽る記事が掲載され,渡部船長の自宅には,投石があったり,「日本人の恥辱」とか「切腹せよ」と言った投書が舞い込み,船長の子供達は通学すら出来なくなりました.

 そして,日が経つにつれ,こうした行為を「英国の海賊行為」とか「海賊船」と言った調子で批難する様になり,英国軍艦の執った措置は「国際法違反だ」,そして,日本沿岸の目と鼻の先で起こった行為について,「我が国を侮辱するものだ」と報じるようになりました.

 さぁ,こうなれば熱しやすい日本国民の事(苦笑.
 事件発生から幾日も経たない内,40を超える団体が英国大使館を訪れ批難と抗議を行いました.
 例えば,
「24日憤激せる大日本青年党青年500名が靖国神社に国威宣揚,英国懲伏の祈願を行い,その足で英国大使館に直行,我が国近海に於ける浅間丸事件は帝国に対する一大侮辱にして我国民の光栄を冒涜するものだと,クレーギー大使にドイツ人の引渡と謝罪を求めた」(25日の都新聞朝刊)
…てな感じ.
 更に25日になると,「全国を包む撃英の声」「排英,市民同盟も活躍」「英艦の不法に千葉県民の激昂」,
26日には「繰り返すな我らの汚辱“自ら死に場所有り”」日本海員組合横浜支部,「目には目,歯には歯」
と更に見出しや論調は過激になる一方.

 個人的には,この時期の政治状況に於けるメディア操作というのが見え隠れするように思えますね.

 当時は,対英米宥和派の米内内閣だったりします.
 一方で,陸軍や海軍の一部はドイツとの同盟を叫び,「バスに乗り遅れるな!」とばかり,英米派の追い落としを図ろうとしています.
 海軍でも伏見宮を頂点とする親独派勢力が,枢要部を抑えてたりしますので,英国からの警告は枢要部で無視された可能性は否定出来ませんし,逆にその警告を敢えて無視し,問題を起こして,その後の責任を英米派になすりつける事によって,その追い落としを図ろうとしたのではないでしょうか.
 あわよくば,これを奇貨として,対英宣戦を行い,ドイツと連携しようとしたと言う仮定も成り立ちます.

 マスコミの批難には,全く海軍に対する批難というのが出て来ていないのが不思議なくらいです.

 ところが,26日に報知新聞朝刊で素っ破抜きが出ます.
 「浅間丸事件の驚くべき怪事実」と言う見出しで,以下のように報じられました.

――――――
 浅間丸のサンフランシスコ出港以前に我が大公使,総領事即ち在外使臣全部に対し,此の種事件の発生したる場合に処すべき帝国政府の方針並びに態度に付き,重要訓令が発送されており,イギリス海軍による臨検を受けた際の措置については,渡部船長が特に佐藤在サンフランシスコ総領事より言渡されていた.
 外務省に対しては佐藤総領事より渡部船長に指令した旨報告が到達している
――――――

として,渡部船長の採った行為は外務省の見解に基づくものが明らかになり,船長への批難は止み,彼への同情論に変わっていきました.

 勿論,貧乏くじは英米派の牙城たる外務省だったりします.
 ただ,同情論が出たにしろ,以前に「腹を切れ」と投書した人がその後過ちを認めて詫びたとか,新聞記事で,「武士道精神の喪失」なんて事を抜かした人物が謝罪した記事もありません.

 寧ろ冷静なのは海外の日系新聞で,1月26日付の「The Hawaii Hochi」は
「布哇の立場より浅間丸事件を観る」
と題した長文の論説を掲げていますし,事件解決後になりますが,ハワイの「日布時事」2月15日付は
「世のあらゆる批難と罵倒をヂッと堪えた渡部船長〜腰抜けは一体誰か? 今ぞ“宥罪”晴る〜会津魂を称へつつ,涙で語る夫人」
と言う長文の見出しで,世の批難や罵詈誹謗に堪えた船長や家族の忍苦の日々を労っています.

 こう考えると,今も昔も日本のマスコミは変わってないなぁと思ってみたりするのですが….
 次回は,蛇足ながら解決に向けての足取りについて追ってみたり.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/17 22:31

 浅間丸事件が起きて,日本の輿論は激昂します.
 最初は船長への攻撃だったのですが,実は船長は外務省の見解に忠実に従ったに過ぎないと言う事が判明し,今度は弱腰の外務省への風当たりが強まります.
 裏側では,親独派の工作もあったりしますが….

 海軍省の動きですが,1月21日の午後遅くに事件の情報が海軍省に上げられ(此の時点で相当時間が過ぎている),直ちに関係者が集まって協議を行っています.
 その結果,従来からの主張に基づき,現役軍人名簿に登録されていないドイツ人が拉致されたのであれば,英国政府に抗議をすべしと言う結論に達しました.

 1月22日10時30分,有田外相はクレーギー大使を呼び出し,浅間丸からドイツ人船員を拉致した事に対し強く抗議すると共に,以下のような覚書を手渡しました.
 それにはこの様に書かれて居ます.

――――――
 交戦国はクレームする権利を有するも,拉致出来るのは現役の軍人であるべきだ.
 加えて此の事件は日本近海で発生した.
 日本政府は此のイギリス艦艇の採った行為を最も非友好的な行為と考える.
――――――

と強い調子で英国政府を批難し,「速やかに全ての事実を明らかにする」事を要求し,「同じ様な行為が繰り返される」事については,強い警告を与えたものでした.
 今の政府にこんな激越な調子の覚書が出せるかと言えば,疑問だったりしますが….

 クレーギー大使はその強い文言に内心驚きつつも,英国軍艦は国際法で認められている原則に基づいて臨検を行ったと述べ,覚書の内容は本国に伝える事を約して外務省を辞しました.
 彼は,大使館に戻ると,直ちに手交された覚書の内容を本国に打電すると共に,彼の見解を付しました.
 それには,発足して間もない米内内閣の窮状と,日中戦争が始まって2年,その間に醸成された日本人一般大衆の不穏当な感情についての説明が為されていました.

 当時,浅間丸の他に,数隻の日本商船が北米や南米から日本に向かっていました.
 郵船の楽洋丸が1月25日横浜入港予定,商船のらぷらた丸も同日,郵船の龍田丸は2月2日入港予定で,何れにもドイツ人船客が乗船していました.
 その後も,銀洋丸,ぶえのすまいれす丸,あるぜんちな丸,白山丸,平洋丸と陸続としており,何れもドイツ人船客が乗っているもの,あるいは予約を入れているものと考えられていました.

 1月23日,日本の外務省は更に一歩踏み込みます.
 クレーギー大使を呼んだり迄はしませんでしたが,英国大使館員を召喚して,3隻の日本商船が米大陸から日本に向けて航行中である事を伝え,その3隻の船名を記載したリストを手渡します.
 そして,次のように忠告しました.

――――――
 もし,これらの商船に対して臨検が行われれば深刻な事態が生じるであろう
――――――

 更に同じ日には念を入れて有田外相はクレーギー大使を再び召喚し,警告と共に,日本海軍がその3隻の護衛に出動する事を仄めかしました.

 夕刻,大使館に戻ったクレーギー大使は,次のようなメッセージを本国に送ります.

――――――
 もし,浅間丸と同じ事が再び起きれば,日英関係は破局を迎え,そして両国は戦争になるだろう.
――――――

 1月23日朝の閣議でハリファックス外相がクレーギー大使からの報告を纏め,日本政府に対する回答とクレーギー大使への指針が纏められました.

 結論から言えば,「両面戦争は避けたい」と言うもの.
 従って,状況が手に負えなくなる前に解決しておきたいと言う点で閣議は一致し,一方で,ドイツ人船客を乗せた日本の商船を見逃さないような方策が必要とされました.

 1月25日,ハリファックス外相は浅間丸事件に対するクレーギー大使への指示原案を内閣に提示,議論が交わされた後,閣僚は一致点に達して,2通の指図書が作成されました.
 1通は,平文で打たれたもので,日本政府への正式な遺憾の意の表明と,事件の正当性を論証したものであり,英国としては,日本側が1909年に出されたロンドン宣言を以てその違法性を主張したのに対し,英国側としては,以下のように論駁しています.

――――――
 どの政府もロンドン宣言を批准しなかった.
 よって,日本政府の主張は実態のないものである.
 また,兵役年齢にあるドイツ人はドイツの法律により兵役に就く事になっており,戦時に於ては彼等は軍人の一部である
――――――

 …まぁ,詭弁ですわな.
 更にドイツ潜水艦による無差別攻撃について述べ,
「英国政府はどんな手段にてもドイツ潜水艇の脅威を絶たねばならないのである」
と結んでいます.
 この見解書は1月27日に,有田外相にクレーギー大使から手渡されました.

 もう1通は,暗号文で事件の解決に向けて用意されたものでした.
 この10日間,東京でクレーギーと有田外相や外務次官,ロンドンでハリファックスと重光葵大使が事件解決の為に動いていました.

 2月1日,有田外相は浅間丸から拉致した21名のドイツ人船客の返還と,本件についての正式謝罪文を要求します.
 有田外相は,先に手交した英国政府からの長文の覚書で,遺憾の意を表したことは大変喜ばしいと述べ,正式謝罪文は,政治的必要性に基づく正式文書であり,また,日本政府は21名全員の返還には固執しないと申し添えました.
 2月5日までに彼等の間で数回の交渉が持たれ,英国側は最終的に21名中9名を「兵役に適さない者」として,日本政府に返還する事を条件に持ち出し,両者とも暫定的な合意に達しました.

 2月6日,チェンバレン首相は,21名のドイツ人の内9名を「兵役に適さない者」として,然る可き手続きに則って日本側に返還する,と発表しました.
 また,彼は付け加えて,日本の船会社は「交戦国の軍人や軍人に成り得る者」の乗船を拒否するよう指図を受けたとし,「今後,浅間丸事件のような事例は起きないだろう」と語っています.

 同日,貴族院本会議(第75回帝国議会)に於ても有田外相が,浅間丸事件についての簡単な説明と共に,事件解決の為,英国政府が遺憾の意を表明した事,浅間丸から拉致された21名の内9名が返還されると述べ,我が国政府は今後とも残りの船員の返還を要求していく事を付け加え,更にこう答弁しました.
「今後我が国の船は,交戦国の軍人となりうるような者またはその疑いのある者の乗船は拒否する事にする」
と.
 そして,
「将来に於ては類似の事件の発生は避けうるものと確信する」
と結びました.

 何か,同じ様な光景をつい最近見たような気がしますが….

 2月29日,英国海軍の仮装巡洋艦カニンブラ号が香港から横浜港外に到着し,8時30分,スタンダード石油会社のタンカークリオ号船長以下9名が,受取に出向いた外務省山田欧亜第二課長に引き渡されました.
 9名は午後に駐横浜ドイツ総領事に引き渡された後,ホテル・ニューグランドに宿泊,3月7日,横浜から特急「かもめ」号に乗車して,祖国ドイツへと帰国の途につきました.

 こうして,浅間丸事件は一応解決されました.

 英国政府としては,9名の解放と言う痛みを伴いましたが,太平洋航路経由で日本に向けて移動していたドイツ人船員の流れを止める事が出来,日英開戦による欧亜二正面戦争と言う最悪の事態を避ける事が出来ました.
 日本政府としては,これ以上の戦線拡大を避ける事が出来,且つ,21名中9名の船員を取り戻す事で,ドイツの逆鱗に触れる事もなく,米内内閣の延命に取り敢ず成功しました.

 但し,戦争にすることで,一気にドイツとの関係を構築してしまいたい親独派に取ってみれば不十分な対応となりましたが,少なくとも国民に対し,反英感情を抱かせる事に成功し,後の日独伊三国同盟の下地を作った事になります.

 ドイツ政府は…余り表に出ては来ませんが,実は彼等も得をしています.

 1月27日にニューヨークからジェノバ港に入港したイタリア客船レックス号に,自沈したドイツ商船コロンブス号の乗組員597名が乗組んでいました.
 彼等は,英国軍艦の臨検に遭ったにも拘わらず,英国士官は兵役に関係がないとして,全員の帰国を許可しました.
 当時,浅間丸事件がクローズアップされている最中の出来事なだけに,英国側が手加減したのではないかと言われています.

 正に三方一両損な訳ですが,最も損を被ったのは,市井のドイツ人船員達であり,渡部船長のような職務に忠実な船員達でした.
 因みに,渡部船長は,1月24日,世の批判を浴びて浅間丸を下船.
 4月13日は南洋航路の横浜丸に乗船しますが,1942年8月1日付で陸上へ転籍,そのまま1943年8月31日付で郵船を退職しました.

 彼は,1915年,欧州航路に就役していた八阪丸がドイツ潜水艇に無差別撃沈された時の二等運転士で,その遭難にあっては一艇を指揮した人でもありました.
 因みに当時,日本船は海運業界で信用の置かれていなかった(日本人だけで運航するのは先ず無理とまで言われ,保険料がかなり高かった上,荷主は中々荷を日本船に託したがらなかった)のですが,八阪丸は雷撃を被った後の対応が迅速で,乗客は元より乗員にも1人の死者を出す事もなかった事から,連合国各国から賞賛を浴びた船でした.
(ついでに,戦後,この八阪丸を日本のサルベージ業者が引揚げに成功し,船艙内部にあった金の延べ棒を回収した事でも名を馳せたりしています)
 以後,日本船の乗組員は優秀である事が知れ渡り,保険料が第一次大戦中にも拘わらず欧米船を下回る程だったと言います.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/18 22:04


 【質問】
 開戦時,海軍は開戦派,戦争回避派のどちらが主流だったのか?

 【回答】
 「この時点(昭和16年頃)ではむしろ開戦派が主流だった」という.
 以下引用.

 海軍は開戦を決意してから準備するのでは間に合わないとして,40年8月から対米戦の準備を本格的に始めた.
 その準備が翌41年4月に完了したので,
「時間が経てば,日米海軍の戦力差は飛躍的に増大する.日米戦うとすれば昭和16年をおいて他になし」
というのが彼らの考えだった.

 開戦派の中核は,海軍省と軍令部の事務推進機関として作られた「第1委員会」のメンバー,石川信吾・海軍省軍務2課長や富岡定敏・軍令部作戦課長らだ.
 第1委員会は41年6月,政府や陸軍を「戦争決意の方向に誘導」すべきだとする文書を作成している.
 永野修身(おさみ)軍令部総長らが
「石油がなければ座して死を待つことになる」
という「ジリ貧」論から対米開戦を主張したのも,第1委員会の意見が色濃く反映している.

土門周平談 from 読売新聞 2005/12/22


 【質問】
 大平洋戦争前夜,アメリカは日本がどうしても宣戦布告してこない場合,アメリカの砲艦が日本に撃沈された事にして対日宣戦する予定だったと聞いた事があるのですが,(パネーじゃないよ><),真偽のほどはさておいて(多分トンデモ)その砲艦の名前を忘れてしまったので知ってる方,お教え願えますでせうか?


 【回答】
 イザベラ号で,第1次大戦モノの個人所有のヨットを改造したものです.

 排水量は900t程度,最高速力は名目上25kts/hでしたが,15kts/hが精々で,魚雷発射管2門と3インチ砲を装備して,一応,アジア艦隊に属していました.
 其の手の船は,もう2隻用意されていて,50t程度の3本マストの帆船で機関銃1梃装備のラニカイ号,更にその半分ほどの帆船,モーリー・ムーア号がありましたが,何れも実際には使用されていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2009/07/04(土)
青文字:加筆改修部分


◆◆◆珊瑚海海戦以降


 【質問】
 年表を見ていて思ったのですが,真珠湾攻撃から珊瑚海海戦まで半年近く,アメリカ海軍との間に大規模な海戦がおきなかったのはなぜですか?
 この期間,海軍はインド洋であまり意味のないような(?)作戦をチマチマとやっていたように見えるんですが.
 この頃なら航空戦力も米軍を上回っていただろうし,米側の準備がととのわない内に海戦をたたみかけておけばよかったんじゃないかなあ?と思います.

 【回答】
 太平洋戦争の目的は,あくまでもインドネシアの地下資源を手に入れることです.
 とにかくインドネシアを手に入れるために,間に立ちはだかるマレーとフィリピンから米英軍を追い出すのが第1段階.
そしてインドネシアを手に入れるのが第2段階.

 この3箇所を制圧することが大本営の思惑であり,ビルマやソロモンはオプションに過ぎません.
(そのオプションに力を入れすぎて自滅したわけですが)
 したがって,無駄に艦隊が出て行く必要性はないです.
 真珠湾攻撃というのは,単に山本さんの博打に過ぎません.
 ただし,成功すれば米軍はフィリピンの支援はできなくなるし,失敗してもマレー・フィリピン攻略準備はできてるし,山本さんのギャンブルはどう転んでも大本営の損にはならないので認められただけです.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/11/07(月)
青文字:加筆改修部分

 インド洋作戦てのは,セイロン島の在英海軍を叩く為の物だったのだけど,英海軍がアフリカ東岸まで後退させたので機会がなかったのです.
 ちなみに
1月初頭,柱島→中旬,ビスマルク諸島,ラバウル→末,トラック
2月初頭,米マーシャル諸島空襲に対応して出撃(中止→中旬,ポートダーウィン空襲
3月ケレベス島スターリング湾を拠点に行動,各地を空襲.
4月インド洋作戦

軍事板,2005/11/07(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 MO攻略部隊への命令骨子は?

 【回答】
 「戦史叢書 南東方面海軍作戦<1ガ島奪回作戦まで」(昭和46年)によれば,

(1)X-10日トラック出撃.ツラギ攻略部隊の作戦を支援.のちポートモレスビー攻略部隊の作戦を支援し,敵水上部隊及び航空機に対して同隊を援護.

(2)ポートモレスビー攻略当日,「祥鳳」飛行機隊をもって陸戦に協力.ポートモレスビー南方海域で攻略作戦を支援.

(3)ポートモレスビー攻略後,陸上基地が整備されれば「祥鳳」飛行機隊の半数を進出させ対空警戒を実施.

(4)状況によりX+2日のサマライ攻略に策応して同地の航空攻撃を行い陸戦に協力.

(5)基地航空部隊がポ−トモレスビーに進出したならば,基地派遣の「祥鳳」を復帰させ,攻略部隊・南海支隊の船舶引き揚げ援護しつつビスマルク諸島に帰投.

※MO主隊の編成
 第6戦隊(青葉,衣笠,加古,古鷹),祥鳳,第7駆逐隊の駆逐艦1隻(漣)

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 珊瑚海海戦のときに,日本艦隊の攻撃隊はアメリカ側に比べて少ないですけど,空母の数で上回っていて,日本では最大級の2隻も参加してるのに,どうして少なかったんでしょうか?
 あっという間に航空機がなくなって,撤退してるような感じなんですけど.

 【回答】
 もともと搭載してる数が少なかったんです.

▼ 「戦史叢書 南東方面海軍作戦<1ガ島奪回作戦まで」(昭和46年)によれば,「祥鳳」は搭載戦闘機を更新するため,4月上旬から横須賀に帰っていましたが,4月29日にトラックに帰投し,MO攻略部隊に合同しました(南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報).
 当時の作戦可能機数は,零戦10機,九六戦4機,艦攻6機(祥鳳戦時日誌,祥鳳戦闘詳報).▲

 翔鶴型のほうはたしかに搭載能力が大きく,真珠湾攻撃時には常用72機が定数でしたが,珊瑚海海戦の際には定数が54機に減らされてしまっていました.
 搭乗員が足りなかったようです.
 開戦後に空母も陸上航空部隊も増えてますし,よそから借りた乗員は返さなきゃいけないし.

 その上,
油送船攻撃と夜間攻撃で11機喪失.
(『モリソンの太平洋海戦史』,p.136によれば,この11機は攻撃後の夜間着艦で喪失したという)
 祥鳳と運命を共にしたのが22機.
 これだけで合せて30機以上,まともな攻撃前に消耗.

 さらに,翔鶴が損傷して2隻分収容せねばならないこともあって,出撃して帰還時に損傷が大きいと判断された機体は,海中に投棄されてる為.さらに航空機が減っていました.

 おかげで昼間の攻撃隊の数も少ないですし,作戦終了時の残存戦力が激減してるんです.

◆yoOjLET6cE(黄文字部分)他 in 軍事板
軍事板(2013.6.9追記分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 珊瑚海海戦時の日本機の損害は?

 【回答】
 九七艦攻は祥鳳12機,翔鶴・瑞鶴各18機の内,祥鳳の全機は艦と運命を共に.翔鶴・瑞鶴の36機中実に30機が喪失.
 ただし海上に不時着し,機体のみ放棄したものも含めます.

 九九艦爆は翔鶴21機,瑞鶴22機搭載.
 海戦により7日に1機,夜間攻撃で11機,8日の本番で9機を失ってます.

 最後に戦闘機ですが,
祥鳳に零戦10機(内4機分解状態)と九六艦戦4機,翔鶴・瑞鶴各零戦21機.
損害は祥鳳沈没の際に11機(3機のみ陸上基地に不時着帰投),
 8日の米空母攻撃で1機(不時着水,搭乗員は救助),直掩隊の防空戦闘で2機(1機は不時着水,搭乗員救助).

 秋本実氏の「日本軍用機航空戦全史」から該当部を拾うと,こういう結果になりました.

 都合,
九六艦戦×4,零戦×52,九九艦爆×43,九七艦攻×48の計147機(内4機分解状態)
で海戦に突入し,
残存は零戦×42(内3機は陸上基地に不時着),九九艦爆×22,九七艦攻×6
ということになりますね.
 喪失率は
艦戦隊(14/56)=25%
艦爆隊(21/43)=49%
艦攻隊(42/48)=88%
全体  (77/147)=52%が完全喪失
というものすごいことになってます.
 これに損傷機を含めれば,先の戦史叢書の「3分の2を喪失」というのも十分に納得いく数字です.

 損害の大部を占めるのは,まず祥鳳の沈没に伴うもの.全26機中23機が喪失してます.
 そして結果的に無意味になってしまった夜間攻撃です.
 艦攻と艦爆ばかり,しかもベテランばかりを17機(艦爆11・艦攻6)も失ってます.
 5航戦の攻撃力は艦爆43+艦攻36ですから,2割以上も全くの無為に喪失したことになります.

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 沈没時(5月7日)の「祥鳳」の状況は?

 【回答】
 「戦史叢書 南東方面海軍作戦<1ガ島奪回作戦まで」(昭和46年)によれば,
0515 戦闘準備を完整
0530 船団の上空直衛のため艦戦4機,艦攻1機を発進
0630頃 MO攻略部隊旗艦「青葉」から敵機動部隊発見の連絡を受け,艦攻(雷装)の発進準備を開始
※ 艦攻の発進準備が終わらないうちに「衣笠」索敵機から敵空母機が発艦したとの報告(0808発信)を受け,全飛行機の発進に努めたが上空警戒機の収容と重なったため急速発進できなかった
0830頃 艦戦3機を発進させる
0850頃 敵機15機以上を発見
0907頃 2隊に分かれた敵機に爆撃されたが,すべて回避し被害なし
0910頃 更に10数機から爆撃されたが,すべて40〜50mの至近弾となり被害なし
※ この間,対空砲火により敵機1機を撃墜
0917 艦戦3機を発進させた直後に20数機以上の爆撃機と雷撃機を認め,回避運動を開始.
0920 飛行甲板後部エレベーター付近に被爆,飛行甲板が大破し後部格納庫後部に火災が発生.間もなく右舷後部に魚雷が命中,動力電源が破損し操舵装置が動かなくなる
※人力操舵に切り替えようとしたが,相次いで命中した爆弾・魚雷により人力操舵も不可能となる.速力も漸次減少し火災・浸水が激しくなる
※0930頃までに爆弾13発,魚雷7本が命中し,船体は火災に包まれ,上甲板まで浸水
0931 総員退去下令
0935 全没
※この間,対空砲火により敵機4機を撃墜
※発進できた艦戦6機は,敵機撃墜5機(うち不確実1機)を報告し,3機はデボイネに不時着(他の3機は行方不明)

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 珊瑚海海戦では米艦隊はレーダーを持っていながら,なぜ有効活用できなかったのか?

 【回答】
 誘導が適切を欠き,また,防空兵力が少なすぎたためだという.
 以下引用.

 このとき〔1942/5/8〕,アメリカ空母レキシントン Lexington CV-2 は,CXAM対空警戒レーダーによって,距離130kmで日本攻撃隊(艦戦18,艦爆33,艦攻18)を探知し,艦隊上空に艦戦8機を配備すると共に,敵攻撃隊の前程に艦戦9機を派出したが,艦攻隊に向かった2機は,直衛戦闘機に阻止されて目的を達せず,艦爆隊に向かった3機は,高度不足のため会敵に失敗,約30km前方まで誘導された3機も敵を補足できなかった.

 もう1隻の艦隊空母ヨークタウン Yorktown CV-5はさらに悲惨で,直ちに投入できる艦戦がないため,低速の艦爆を発艦したが,逆に4機を撃墜されてしまった.

 レーダーで敵機を早期に発見し,無線電話で防空戦闘機を邀撃地点に誘導して,艦隊の前方で阻止するというこの戦術は,艦隊防空上,画期的なものだったが,誘導が適切を欠き,30%という低い艦戦比が示すように防空兵力が少な過ぎたため,本来の効果を発揮できなかったのである.

「世界の艦船」2005年4月号,p.83(中川務著述)


 【質問】
 珊瑚海海戦における,日本艦隊の防空上の問題点は?

 【回答】
 レーダーの欠如と母艦との更新の困難さとから,組織的防空戦闘が不可能だったことだという.
 以下引用.

 この海戦でアメリカ艦隊が,未熟とはいえCIC(戦闘情報処理センター)による艦隊防空のシステム化を指向したのに対して,日本側はレーダーを欠くだけでなく,戦闘機用無線電話の雑音が酷く,母艦との交信が殆どできないため,迎撃戦闘は個々の搭乗員の判断に任せざるを得ず,組織的防空戦闘が不可能であるという深刻な問題を内蔵していたのは,注意を要する点である.

「世界の艦船」2005年4月号,p.83(中川務著述)


 【質問】
 珊瑚海海戦において,空母レキシントンはダメージ・コントロールによって帰航させることはできなかったのか?

 【回答】
 損傷後,応急作業にいったんは成功したが,その後,航空燃料の気化ガス爆発があり,行動不能になったため,1942/5/8に味方の手で処分された.

 ソースは「世界の艦船」2005年4月号,p.27より.


 【質問】
 ドゥリットル隊爆撃機不時着を巡る,日ソ間の悶着について教えられたし.

 【回答】
 1942年初頭,日本は緒戦の戦勝に沸き立っていましたが,ソ連に対しては,1月10日の大本営政府連絡会議で決定した施策の中でも明らかにされた様に,静逸を保持すると言う点で軍も政府も一致していました.
 この為,駐ソ大使であった建川美次大使の後任には,外交界の長老であり平和主義者である佐藤尚武元外相を起用しました.
 佐藤大使は,3月19日に満洲里からシベリア鉄道に入り,3月28日,漸くクイビシェフに到着しています.
 とは言え,この地では外交官と雖も行動の自由は効かず,わずかにロンドン放送を聴きながら敵国側の情勢を知りうる程度だったと言います.

 しかも,疎開していると言っても外務人民委員部にはヴィシンスキー,ロゾフスキーの両外務人民委員代理がいるだけで,モロトフ外相と会見する為にはモスクワに出張らなければ成りませんでした.
 4月6日,漸く佐藤・モロトフ会談が実現し,例によって,日ソ中立条約の確認が主な議題になっています.

 ところで,4月18日,日本では驚天動地の事件が発生します.
 米国が航空母艦から双発爆撃機を発進させると言う離れ業を用いて,東京,横浜,名古屋,四日市,神戸などを爆撃したのです.
 そして,爆撃を行ったB-25爆撃機16機は,大陸中国に向けて飛び去り,各地に不時着しますが,1機だけ,ソ連の沿海州に辿り着いた機体がありました.

 この話は22日にハバロフスク発タス通信として,「18日,米軍用機が沿海地方に着陸したが,乗組員の言に依れば,同機は同日日本空襲に参加したものであり,方向を失ってソ連領に着陸を余儀なくされたとのことである.
 ソ連官憲は,一般に認められた国際法の規則に従って,同飛行機及び乗組員を抑留した」として,24日の新聞に掲載されました.

 即日,佐藤大使はソ連外務人民委員部にヴィシンスキー外務人民委員代理を訪れ,この事件は日本からすれば,ソ連が米国側に基地を提供したのと同様であり,真相を通報されたいと申し入れました.
 しかしヴィシンスキーは,米国に基地を提供したのと同然との主張には根拠が無く,米軍機はソ連の招きもなく飛来したもので,方向を失っての不時着である為,国際法の原則に基づいて処置した次第であると回答します.

 そこで佐藤大使は,それがソ連側の招待無く突然飛来した機体であっても,この様な事件が再三再四反復されるのであれば,日本側としては個々のケースとして取り扱いかねることになり,先にモロトフ外相に対しても,米国に基地を与えるごとき事は極めて重大なことで,日ソ関係を機体ならしめるものである点について注意を喚起した次第であるから,今後何百機も着陸し,所謂ソ連側の抑留を受ける場合は,基地供与も同然であると重ねて申し入れを行います.

 しかしヴィシンスキーは,今後この種の事件が再発するかどうかは,ソ連側の意志には関係なく,再発するにしても,ソ連が国際法に準拠して行動する限り,ソ連が米国に基地を提供する問題は生じない.
 先にモロトフが,基地提供の問題は現実的問題ではないと言うことを指摘した通りで,ソ連側の措置は国際法に合致している,と答えるだけでした.
 そこで佐藤大使は,ソ連側の説明では将来の保証になり得ないとして,ソ連としては将来に於いて米軍機の着陸の為に,ソ連領を利用することを拒絶することが重要である,と申し入れて,一旦この会談は終了しました.

 4月30日,佐藤大使は再びヴィシンスキーを訪問し,本省からの訓令によって次の覚え書きを読み上げながら,申し入れを行いました.

――――――
 18日,日本に来襲した米機中1機は,新潟県上空に認められたのに鑑み,ソ連領に不時着したのは同機なるべしと推断されるところ,他の米機(複数)が中部中国方面に向かって遁走したことから見るも,右1機は故意にソ連領を目指して遁入せるものと認むるのほかない.
 而してソ連政府が同機及びその乗員を抑留したことは,一応中立国としての義務を履行したものと認むべきも,米国側が故意にかかる方法を採った以上,今後も右が計画的にかつ大規模に繰り返さるる可能性を否定し得ない.
 その場合,ソ連としても欲せずして,米空軍の日本襲撃を著しく有利かつ容易ならしむるものである.
 かかる事態が今後繰り返さるるに於いては,米国は日本空襲の為故意かつ計画的に貴国領土を軍事基地として使用するの実質的結果を招来し,帝国としてとうてい黙視しがたきに至るべく,従って日ソ間の従来の関係に重大な影響を招来する虞れが有り,米国又正にその点を窺い居るやも知れない.
 ソ連政府に於いては,累次声明された如く,大東亜戦争に対する中立的地位の厳守及び日ソ間の平和的関係の保持の方針を堅持し,かつ第三国に対する軍事的基地の不供与などを約する以上,第三国の策謀を排し,かつ日ソ間に前記のごとき事態の紛糾を見ることを防止する為,米国に対し今後日本を襲撃した米国機がソ連領に不時着するごとき事の再び起こらない様措置方を申し入れるなど,有効適切な措置を講じることを要望する.
――――――

 その上で佐藤大使は,日本としては交戦国が中立国の領土を故意に戦争目的に利用することは,中立国の権利侵害と認められると共に,中立国が交戦国のこの様な意図を承知していながら,これを黙視することは中立国の義務怠慢と認めるものである点を強調した上,日本政府の見解に依れば,ソ連は米国機のソ連領飛来を阻止する為必要な措置を執るべきであり,1922年のハーグ空戦法規案第42条の規定を見るも,以上の措置の中には日本側申し入れの末尾にある政治的考慮も含まれると述べています.

 これに対しヴィシンスキーは,中立国が交戦国の意図を承知しながら,これを黙視するのは中立国の怠慢であるが,現在の所その様な問題はあり得ない.
 1922年の空戦法規案は,まだ国際法規となっていないし,所謂阻止の方法として如何なる措置を執るべきかについて明示していない.
 中立国が交戦国に対して勧告を行い,又は威嚇を加えて飛来の阻止を図っても,なおかつ不時着を見る場合には,これを抑留する以上のことは予見していない.
 飛来阻止のための措置は,ソ連政府の決定すべき事に属すると答えています.

 5月4日,ヴィシンスキーはソ連政府からの次の様な正式回答を,佐藤大使に提示します.

――――――
 米国軍用機のソ連領着陸に関する貴大使の申し出及び本年4月30日御提出の覚え書きについては,同問題が4月24日と30日のヴィシンスキー代理及び貴大使間会談に於いて,全て十分明らかにせられたことを指摘せざるを得ない.
 既にご承知の通り,方向を失った結果ソ連領に不時着した米国軍用機は,その搭乗者と共にソ連官憲により抑留され,かくしてソ連側は国際法の原則により,かかる場合のため定められた一切の義務を履行した.
 この全然明白な事情については,既に前記会談に於いて貴大使の留意を求めたが,同時に本年4月18日と類似の場合に於いて,ソ連官憲が米国飛行機及びその搭乗者を抑留するを以て,米国が日本空襲の軍事基地としてソ連領土を利用するものと断定しようとするのは,何ら根拠のないことについても貴大使の注意を喚起した.
 日ソ間の現存関係維持のため,ソ連政府に於いて必要な手段を執るべしとする日本側要望については,ソ連政府は4月18日の場合に関連して,国際法上一般に認められた規定,並びに日ソ間現下の関係を継続せんとする希望に基づき行動している旨,通報することを必要と認める.
――――――

 実は,前回の佐藤大使の申し入れがあまりにも強硬だったために,ソ連側の受取り方も深刻だった様です.
 『ソ日外交関係史』では次の様に書いています.

――――――
 日本外交当局は,準備中の対ソ攻撃のために口実を作ろうとしていた.
 1942年4月18日,米軍用機がソ連領土に不時着したので,ソ連当局は国際法の原則に基づき剛毅の搭乗員を抑留した.
 日本政府はソ連に対して,この種の事件の再発防止対策を取る様に要求し出した.
 日本政府はこの事実を利用して,国内に反ソ気分を煽ろうとした.
――――――

 ま,殆ど言いがかりに近いものではありますが,日本の強硬な態度にソ連側も恐慌を来したのではないかと言うことが伺えます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/30 23:11


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