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 【link】

『八月十五日の天気図 沖縄戦海軍気象士官の手記』(矢崎好夫著,光人社NF文庫,2004.12)

 1944年に士官学校を卒業して沖縄に派遣され,1945年3月に東京の海軍本部へ異動,さらに国分と福岡の航空基地に異動して,終戦を迎えた海軍気象士官の戦記.
 生存者から聞き取った,異動後に壊滅した,沖縄の海軍部隊の戦闘の様子も収録されている.

 沖縄では気象業務の傍ら,敵上陸に備えた地上戦の訓練を実施して,決戦に備え,東京では東京大空襲に遭遇,国分では菊水作戦で指揮官機への同乗を命ぜられたが,作戦が中止になるなど,とにかく色々なことを経験している人である.

 特に沖縄からの異動は,艦砲射撃が始まった時期に行われたギリギリのものだったようで,地上戦を指揮することになると考えていた著者も,その部下にも,青天の霹靂だったらしい.
 本来の業務である気象に関するエピソードのほか,そのような沖縄での訓練の様子や,あるいは菊水作戦で出撃する特攻隊員の様子などが,細かく語られている.
 特に沖縄戦における海軍部隊の様子は,凄惨の極み.

 著者が,学歴を持つ兵士の,決戦に対する覚悟を評価していることや,航空隊における記録係の仕事の描写は,興味深かった.
 また,B-29が本土上空で気象観測飛行を行っており,その信号を日本軍が傍受して,自らの気象図作成に使用していたという話も,興味深かった.

 一方で前述のような様々なエピソードが載せられていて,純粋な戦争気象の話はそれほど多くないので,そういう話が目的で購入すると不満が残るかもしれない.
 また,著者の特攻に関する考えについては,賛否両論あろうが,いずれにしても様々な環境に身を置いてきた著者の半生は,読み物として面白くなっている.

――――――軍事板,2011/07/03(日)

『空白の戦記』(潮書房,1985.11)

 最近は,古本屋で見つけた昔の丸別冊の従軍記集を読むのが楽しみだ.
 おととい買った『空白の戦記』は当たりだった.
 ガダルカナル撤退後のソロモン戦関係の従軍記を,『丸』本編から集録したもの.

 特に船舶工兵の幹部が書いた話が面白過ぎ.
 あちこち掛け合って,武装大発の装備を整えるんだが,司令部がよこした貴重品の97式自動砲を,威力がしょぼいと嫌がったり,47mm速射砲を借りては来たけど,試射したら船体が壊れてあきらめたり,チハから降ろした戦車砲を愛してやまない元装甲艇乗りとか.
 筆者自身は鹵獲品愛好家で,チェコ機銃やら米軍の50口径を集めて回る.
 下士官の中には,私物の大発や速射砲を持ってるつわものがいたり.
 この話だけで300円の元は十分取れるわ.

――――――軍事板,2009/12/08(火)

『ソロモン海「セ」号作戦 コロンバンガラ島奇蹟の撤収』 (種子島洋二著,光人社NF文庫,2003.8)

 昭和18年9月,玉砕寸前のコロンバンガラ島将兵1万2千を救出する為に行われた「セ」号作戦において,大発部隊の指揮を執られた方の回顧録です.
 「村雨」艦長時代,夜間,米軍のレーダー射撃を受けた時,最初,爆撃機に攻撃されてるものかと思った話や,山本五十六がラバウルを訪れていた時,現場指揮官達はそれをどう思ってたか,参謀達の情報の出し惜しみっぷりとか,司令部が命令する無茶な指示などが書かれていて,興味深い物があると思います.

 敵駆逐艦,魚雷艇がひしめく深夜の海を,大発で突破し,コロンバンガラ島へ突入する「セ」号作戦の部分も燃える物があります!

 マイナー戦記が好きな人にはお勧めな一冊です.

------------ ベタ藤原 ◆MNjfnp0E :軍事板,2002/06/22
青文字:加筆改修部分

「ワレYouTube発見セリ」:Battle of Leyte Gulf-Decoy

「ワレYouTube発見セリ」:Battle of Leyte Gulf-The Imperial Navy

「ワレYouTube発見セリ」:Battle of Surigao Strait

「ワレYouTube発見セリ」:Battle off Samar

「ワレYouTube発見セリ」:The battle od the Cape Engano

「ワレYouTube発見セリ」:The US Pacific fleet 1944


 【質問】
 南太平洋海戦について質問です.
 数日前に飛鷹がエンジントラブルで海戦には不参加となりましたが,搭載機の一部を隼鷹に移乗させたとされています.
 このとき移乗されたのは雷撃機7は分かりますが,他の戦闘機,爆撃機はどのくらいですか?
 また,移乗されず飛鷹に残った機数はどのくらいですか?

 【回答】
 戦史叢書「南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで」によれば,10月22日,飛鷹はトラック帰投に際し零戦16・艦爆17を陸揚げして基地航空部隊の指揮下に入れ,零戦3・艦爆1・艦攻5を隼鷹に移載した.
 搭載飛行機数は不明であるが,10月1日現在の搭載機定数(隼鷹)は,零戦21・艦爆18・艦攻9であった.
 10月17日のルンガ泊地攻撃で,隼鷹の艦攻は自爆7・不時着2の損害を出している.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 南太平洋海戦において,レーダーを持つ米艦隊が日本攻撃機を阻止できなかったのは何故か?

 【回答】
・敵味方識別に手間取ったこと
・戦闘機隊が日本機を発見するのが遅かったこと
・管制指揮官が経験不足だったこと
によるという.
 以下引用.

 この戦闘で,アメリカ空母エンタープライズに装備していたSC対空警戒レーダーは,早期に目標を探知したものの,敵味方識別に手間取り,敵と確認した時,日本攻撃隊(艦戦12,艦爆21,艦攻20)は,既に艦隊から70kmの地点に接近していた.
 このとき,防空戦闘機38機(エンタープライズのCICによって一元的に統制)が艦隊の外方18kmに配備されていたが,発見が遅かったため,迎撃に必要な高度を取る時間的余裕がなく,戦闘機管制指揮官の経験不足もあって,大半の日本攻撃機の阻止幕突破を許してしまった.

「世界の艦船」2005年4月号,p.84(中川務著述)


 【質問】
 南太平洋海戦において,日本艦隊が米攻撃機を阻止できなかったのは何故か?

 【回答】
 統一指揮の欠如によるという.
 以下引用.

日本艦隊は翔鶴のレーダーによって,アメリカ攻撃隊(艦戦8,艦爆15,艦攻6)の接近を距離145kmで探知した.
 この時点で上空に艦戦15機が配備されていたが,アメリカのような統一指揮を受けていなかったため,艦隊の至近で個々に迎撃せざるを得ず,敵艦爆15機中,11機が阻止を突破して翔鶴を爆撃,損傷を与えた.
 この海戦では従来の戦訓によって,日米共に艦戦の搭載機数を増加し,艦戦比が41%に達していたが,それでも攻撃隊を阻止できなかったことは,防空戦闘機の増加のみでなく,運用方法のさらなる改善が必要であることを強く示唆している.

「世界の艦船」2005年4月号,p.84(中川務著述)


 【質問】
 南太平洋海戦に日本海軍は勝利したにも関わらず,なぜガダルカナル島奪回はならなかったのか?

 【回答】
 確かに戦術的には日本海軍は勝利を収めた.
 米軍側の損害,
・ホーネット沈没
・エンタープライズ損傷
に対し,日本海軍側は
・翔鶴損傷
・瑞鳳損傷
に過ぎなかった.

 しかし,日本軍は多数の艦上機と熟練搭乗員を失って母艦戦力が大きく低下.

 そのため,島奪回はならなかった.

 ソースは「世界の艦船」2005年4月号,p.30.


 【質問】
 「ダンピールの悲劇」について教えてください.

 【回答】
 81号作戦の下,1943年2月28日に,Rabaulから,New Guineaに戦力増強をするため, 増援部隊,兵器,弾薬,食料などを満載した,8隻の老朽貨物船の輸送船団が出港しました.
 輸送された陸軍将兵は,第18軍司令部と第51師団の残余を合わせた約7000名でした.
 東洋海運の大井川丸には,独立工兵第15連隊が乗船していました.
 他船には第51師団歩兵第115連隊なども乗船していたようです.


 しかし,当初から敵機に見つかり,昼間は哨戒機が張り付き,夜間も照明弾を投下するなどして偵察が続き,3月2日に,大同海運の旭盛丸がまず撃沈され,3月3日には,目的地のラエ,サラモア目前のダンピール海峡に敵機が待ちかまえ,まず,三光汽船の建武丸,東洋汽船の愛洋丸,海軍特務艦野島,岸本汽船の神愛丸,日本郵船の太明丸と続き,最後に第一分隊の長船であった山下汽船の元独船帝洋丸,第二分隊の長船であった東洋海運の大井川丸が沈み船団は全滅,護衛の駆逐艦8隻のうち,4隻が失われ,3600名の将兵,乗組員が死亡しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/04(月)
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/11(月)(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分

 「ダンピールの悲劇」に遭った輸送船名は,以下の8隻です.
野島(運送艦),旭盛丸,建武丸,愛洋丸,神愛丸,太明丸,帝洋丸,大井川丸

 また,「血も涙もない事」を申し上げますと,「ダンピールの悲劇」はもともと81号作戦と名付けられていたものですが,この由来は「当初からイチかバチかの作戦」だったからです.
 諧謔趣味のある自分ですが,さすがにコメントする言葉が見つかりません.

イナゾウ中佐 :軍事板,2005/07/11(月)
青文字:加筆改修部分

▼ ちなみに『撃沈された船員たちの記録』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2008.5),P.87〜124によれば,この八一号作戦では,ポート・モレスビー攻略作戦の為の増援部隊を輸送中,乗船した部隊の将兵に「鯛の尾頭付き」が振舞われたり,見習士官以上には「氷の浮いた桃のジュースとビスケット」が出たり.
(全滅覚悟の輸送作戦だった為,せめてもの心遣いだった)
 また輸送中,将兵の中から「仮病とは思われない」程の重症の発狂者が続出したとか.
(狂った方がある意味で楽かもしらんなぁ…,という状況下での輸送作戦だった)

グンジ in mixi,2008年05月25日17:13
青文字:加筆部分


 【質問】
 ビスマルク海海戦での漂流者虐殺について教えてください.

 【回答】
 昭和18年3月3日に起きたビスマルク海戦(空襲)の結果,陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が敵機の攻撃により沈められましたが,沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ,浮遊物につかまり漂流中の千名の兵士達に対して,アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない,機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し,映画撮影のカメラマンまで乗せて,何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました.
「決して男らしいやり方ではなかった」
と,第五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました.
「隊員の中には気分が悪くなる者もいた」

 救命ボートやその周辺を文字どおり血の海に変えたその殺戮の様子を,機上から撮影した実写フィルムが,十年ほど前にオーストラリアのテレビ局から放映されて,国民に大きなショックを与えました.
「我々はフェアーな戦をしたと思っていたのに.....」(ジョン・ダワー著『容赦なき戦争』,平凡社,2001.12)
と,

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2のスキップボミングについて教えてください.
 ググッてみたのですが諸説あるようです.
「ビスマルク海海戦で初めて日本の輸送船に大規模に使われた」
までは共通ですが

1) ビスマルク海海戦以後,米軍の(日本のソフトスキン)への標準的攻撃法になり,大量の船腹が沈められた

2) ビスマルク海海戦は特殊な例で,危険な攻撃法であったため,以後組織的には行われなくなった.

3) 米海軍,もしくは単発機は行わなかったが,米陸軍のB25による攻撃でよく使われた

どれが本当なのでしょうか?

 【回答】
 2)が一番近いと思います.

 ビスマルク海海戦(日本側で言う「ダンピールの惨劇」)以降,スキップボミングは攻撃法としてあまり用いられていないようです.
 その理由は明確ではないのですが,おそらくスキップボミング自体が変則的な攻撃法であったため,これ以降大規模に用いる必要がなくなったのではないかと.
 また,考案者であるウィリアム・ベン少佐が1943年1月に事故死したのも,関係あるかもしれません.

 ソースは『第二次大戦航空史話』(秦郁彦,中公文庫,1996.9)です.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 米海軍のマニュアルにも掲載されてるんで,なぜ広く行われなかったか(あるいは知られなかったか)はわかりません.

 どうもスキップボミングには,信管の調整とそれようの専用爆弾じゃないとできないようなので,艦に搭載という制約のある海軍ではあまり行われなかったんじゃないかな?
 あと投下タイミングとか,投下後の退避方法などタイミングもシビアだったから,専門の爆撃手が乗ってる陸軍機のほうがやりやすかったのかも.
 ちなみに海軍の戦闘機,攻撃機が爆弾で攻撃するときは,緩降下爆撃で攻撃してたようです.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1943年の3月,南洋諸島の”元”ドイツ信託統治領(WW1の以前の名残)からドイツ人を中心とした尼さんや使用人の中国人や何やらの宣教団を,第八艦隊?第八駆逐隊 の密封命令に基づき,駆逐艦「秋風」上で機関銃で処刑して海に捨てた……って言う日本人によるドイツ人の虐殺事件をご存知の方いらっしゃいませんか?

 【回答】
 一日,焼き焼きしてたから遅くなったわさ.

 「秋風艦上の虐殺事件」
 1943.3. 東部NewGuinea,カイリル島とマヌス島にいた海軍分遣隊長が,駆逐艦を使って両島にいる外国人抑留者を全員ラバウルに移送するよう命令を受ける.
 カイリル島には26名(ロークス司教ら12名の神父と修道士,11名の修道女,彼女たちが世話していた2〜7歳の中国人3名.
 3.16PM. 彼等は「秋風」に乗船,翌日午後,マヌス島の40名(3名の神父,3名の修道女,ドイツ人プロテスタント宣教師夫妻2組と1人の子供,2名のドイツ人農園主,2名の中国人と3名の原住民.)が乗船.
 なお,ドイツ人の他,少なくとも5名がオランダ人,1名がマジャール人,1名が米国人.
 3.18.AM.10:00 秋風はカビエン沖に停泊,海岸と信号をかわした後,ラバウルに向けて航行を開始.
 カビエン沖60マイルの地点で,艦長(佐部鶴吉少佐)が,士官全員に外国人の殺害を命ぜられたことを伝える.
 外国人たちは,前方の乗員室に連れてこられ,目隠しをされ,船尾に特設された処刑台に連行.両手首を縛られて吊され,小銃の一斉射撃にて銃殺され,そのまま,海中に放り込まれる.

 処刑開始は正午,終了が午後3時半.
 その後,秋風は午後10時にラバウルに帰港.

 豪州側は,三川軍一中将と大西新蔵参謀長を1947年1月に逮捕したものの,管轄権の問題で米国側に委譲され,不起訴に終わる.
 これは,「秋風」の艦長,先任将校が戦死,秋風自体も米潜水艦によって撃沈され,乗組員は全滅したため,三川長官との命令関係を立証できなかった為とされている.

 詳細は,豪州国立公文書館 Series MP742/1細目336/1/1444「秋風虐殺事件調査ファイル」を参照してください.

 ちなみに,ビハール号事件の際にも,南西方面艦隊作戦命令の別冊「参謀長口達覚書」が根拠になったと言う話もありますが,その資料そのものが発見できていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
・PT-109衝突沈没事故の顛末
・魚雷艇長ケネディの能力
を教えてください.
 ヒストリーチャンネルでは伝説・美化されているという論調ですが,実際のところそんなもんなんでしょうか?

 【回答】
 1943年8月1日,ニュージョージア島から出撃したPTボートは,4隻の駆逐艦と海戦を行います.
 米軍がその出撃を知った時,動員出来るのはその島の基地の魚雷艇15隻のみで,昼間の空襲で2隻が撃沈され,数隻が損傷しました.
 しかし,日本軍駆逐艦を発見したPTボートは,各艇個別に戦闘を開始してしまい,協同戦闘を行わず,結局半数のPTボートは目標を発見出来ないまま基地に戻らざるを得ませんでした.
 また,発見したPTボートも30本の魚雷を放ちながら1発も命中しませんでした.

 PT109は魚雷を発射しようと艇体を右に向けた時,天霧と衝突して艇体が二つに折れてしまいます.
 乗組員2名が即死し,ガソリンに引火,Kennedyは全員海に飛び込む様命令しました.
 ガソリンは,天霧の航跡で散らされたので程なく鎮火し,艇体の一部に乗組員は掴まることが出来ました.
 乗組員達は,波間に漂うPTボートの残骸から,砲座の一部で筏を造ってそれに泳げない乗組員2名を載せ,11名の生存者は7km離れたギゾ島に辿り着きました.

 暗くなってからKennedyはブラケット海峡に向けて泳ぎますが,味方を発見出来ず,自身は潮に押し流され,危うく死ぬところでした.
 翌日は別の部下がPTボートを探しに泳ぎましたが成功せず,8月4日に別の無人島に移動し,8月5日にKennedyと別の少尉が近くの島で日本軍のカヌーと食糧,水を見つけ,島に戻り,そのカヌーを使って再びその夜にPTボートを探しますが,これまた遭遇しませんでした.
 しかし,偶々島に帰ると,原住民が2名島に上陸しており,彼らに手紙を託してやっと,米軍との連絡が取れ,8月8日に帰還することが出来ました.

 未だ魚雷艇としての戦術が浸透していなかった為,戦果が挙がりませんでしたが,彼の艇長としての能力は平均的なものであると思われます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2007/08/21(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヴェラ湾夜戦って何?
 3行で教えて!

 【回答】
 1943.8.6 21:30過ぎに起きた,コロンバンガラ島への輸送任務に従事していた日本海軍駆逐艦4隻と,「東京急行(鼠輸送)」遮断任務にあたっていたアメリカ海軍駆逐艦6隻による海戦.
 コロンバンガラ島とベラ・ラベラ島に挟まれた狭水道に有るベラ湾へ進入した時,同水道に待ち伏せをしていた米駆逐艦6隻の艦隊と遭遇し,海戦が生起した.
 この米駆逐艦群には,目標までの距離と方向が測定出来るSGレーダーが搭載されており,日本海軍は電探攻撃によるアメリカ軍の先制攻撃を受け壊滅した.

 【参考ページ】
http://temple-knights.com/gunreibu/battle/battle-of-vella-gulf.html
http://ww7.enjoy.ne.jp/~zuikaku1944/180806.html
http://www.nihonjiten.com/data/35093.html
http://rengoukantai1942.web.fc2.com/kantaisen19.htm


 【質問】
 第21ウェワク輸送について教えてください.

 【回答】
 八雲丸,大栄丸の2隻を,第35号駆潜艇,第10号駆潜特務艇,第47号駆潜特務艇,第49駆潜特務艇が護衛した船団です.
 八雲丸は大阪商船の持ち船で,3月12日7時にパラオ発.陸軍徴用船として,第21次ウェワク輸送作戦に参加.
 1944年3月16日16時に船団はホーランディア入港,
 17日14時出港.
 18日19時にウェワク入泊.
 猛スピードで揚陸作業を実施し,18日23時離岸を目標としたが,22時に敵機動部隊より集中砲火を受ける.
 19日0時30分に一旦ムシュ島南方に避難.
 この時,第10号駆潜特務艇が被弾大破し,同島東岸に擱坐.
 結局,これ以上の揚陸は無理と判断し,パラオ帰投命令を受ける.
 19日4時に砲撃の止むのを待って,西方に航行中,9時に敵機の大編隊が出現し,戦闘を開始.
 19日11時頃に南緯2度40分,東経143度40分(ウェワク北方100km付近にて重爆撃機百数十機の大編隊から水平爆撃を受ける.
 この時,八雲丸は1番船艙に爆弾数発が炸裂し,船体が急速に左舷から沈没.船砲隊48名,船員56名,他6名戦死.
 その後14時15分にB-25の大編隊が出現し,数機を撃墜したものの,第47号駆潜特務艇が撃沈,第49号駆潜特務艇が行方不明(恐らく轟沈).
 大永丸は2,3,4番船艙に被弾し,機関部に直撃弾を受けて左舷に傾斜しながら沈没,こちらは,アイタベ東方37km.

 結局残ったのは第35号駆潜艇のみでした.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi支隊


 【質問】
 第三段作戦とは?

 【回答】
 予想される米海軍の本格的反攻に備え,策定された作戦構想.
 作戦方針は昭和18年3月25日に,軍令部から山本連合艦隊司令長官あてに指示されたが,山本長官の戦死(4月16日)により,連合艦隊各部隊への令達は8月にずれ込んだ.
 令達では当分の間は,主作戦をソロモン方面で航空作戦を主体に行い,同時に水上部隊はトラックに在泊して,いずれかの方面から来るであろう米軍に備える事になっていた.
 基本方針は,来攻する米艦隊・航空戦力を撃滅する事としており,航空優勢を確立し,次いで機を見て敵艦隊を日本軍の前進根拠地等において奇襲,海上・航空兵力の緊密な協同によって先制撃破する事とされた.
 新任の連合艦隊司令長官である古賀峯一大将(大艦巨砲主義者といわれるが,山本長官はかねてより自分の後任と考えていた人物だとしている)は,
「兵力は既に米軍の半分,勝算は三分もない」
状況と見ており,連合艦隊首脳部は戦局は「玉砕戦期」(福留繁参謀長の回想)に入っており,それゆえ損害を度外視して敵に損害を与える考えであった.

(また「マーシャル付近に出没する米機動部隊に一撃を加え,この時期に終戦をやることにする」という回想(当時海軍兵備局長だった保科善四郎)がある事から,真偽の程は不明だが,海軍首脳部首脳部内には終戦に向かうべきだという考えが芽生え始めていた可能性は否定できない,としている)

 いずれにしても古賀長官は,中部太平洋に来るであろう米艦隊を,マーシャル諸島付近で迎撃する事を希望していたとしている.
 空母戦力は減少していたが,戦艦・重巡部隊は大半が無傷で,基地航空部隊も健在である事から,空海の緊密な協同による先制攻撃なら撃破の可能性があると思われ,また古賀長官は
「作戦指導の基本原則は,艦隊決戦主義によることが,戦果を期待し得る唯一の戦法である」
と語ったとされる事から,連合艦隊は空母主体となる攻勢主義を捨て,航空支援を受けた水上艦隊による漸減邀撃決戦に回帰したとしている.

 【参考ページ】
「決定版太平洋戦争6 「絶対国防圏」の攻防」(歴史群像シリーズ)P46-47)

グンジ in mixi,2010年03月24日23:53


 【質問】
 Z作戦とは?

 【回答】
 第三段作戦に基づき,連合艦隊が策定した物で,昭和18年8月15日に「連合艦隊Z作戦要領」として各部隊に下達.
 アリューシャンからニューギニアまでの広い正面を甲・乙・丙の邀撃帯に区分し(乙は第一・第二法,丙は第一〜七法にさらに区分),来攻の恐れがある場合には「○○作戦○○法警戒」が発令され,より恐れが高まった場合には「用意」,来攻して初めて作戦が発動される事になっていた.
第一邀撃帯:甲作戦 千島列島方面
第二邀撃帯:乙作戦 本州東方海上(第一法),南鳥島方面(第二法)
第三邀撃帯:丙作戦 大鳥島方面(第一法),マーシャル方面(第二法),ギルバート・ナウル・オーシャン方面(第三法),南鳥島・大鳥島同時攻撃(第四法),大鳥島・マーシャル同時攻撃(第五法),マーシャル・ギルバート方面同時攻撃(第六法),ソロモン北方海面(第七法)

 Z作戦が発令された場合,航空機,潜水艦,監視艇は敵部隊の発見に努め,作戦が発動さた場合は基地航空兵力が敵空母を先制攻撃して航空優勢を獲得.
 その後は敵情に応じて輸送船団または艦隊を攻撃.その間,水上艦隊は配置地点に進出して敵を撃滅する事になっていた.
 区分されていた邀撃帯には航空兵力が分散配置され,作戦実施に際しては基地伝いに進出,主作戦方面に機動集中する予定であった.
 その為,艦隊決戦を目指すとはいえ,基地航空隊の役割は重要であり,その機動を支える島嶼の防衛も重要であった.

 【参考ページ】
「決定版太平洋戦争6 「絶対国防圏」の攻防」(歴史群像シリーズ),P.48

グンジ in mixi,2010年03月25日23:06


 【質問】
 Z作戦の問題点は?

 【回答】
・米軍の来攻場所が不明
 古賀長官はマーシャル近辺で迎撃する事を望んでいたが,米軍がどこから繰るかは明確にはわからず,福留参謀長は回想録で,
「これはアメリカ艦隊を決戦にひきずりこむというような積極的な計画ではなく,むしろ,アメリカ艦隊がやってくるまで待とうという戦法」
「古賀大将は待ってさえいれば,敵艦隊は必ず所望海面に現れると信じていました」
というように心許ない物であった.

・タンカー不足
 作戦の戦略的土台は内線戦略で,机上の計画ではどこに来攻があっても対応可能な優れた作戦であったが,連合艦隊には攻撃を行なう為に必要な燃料を運ぶタンカーが不足していた.
 連合艦隊はインド洋方面への連合軍の来攻を想定した「Y作戦要領」を発令していたが,両作戦を同時に備える戦力も,戦力を東西にスイングさせて機動的に運用するのに必要なタンカーや給糧艦などもなく,Z作戦発動後,Y作戦の必要が出た場合は対処できそうに無かった.
(この問題については軍令部が「当面は東に備えよ」との方針を出した事から一応の解決を見ている)

・日本の情報能力の低さ
 米軍の暗号を解読している訳でもない為,通信解析などから米艦隊が出撃したと判断しても,その目的地を正確に把握して迎撃する事ができず,連合艦隊は米機動部隊の来攻を捉えてタイミングよく攻撃を行う事ができなかった.
 9月と10月に米機動部隊がマーシャル・ギルバート方面に出現したが,連合艦隊の出撃は両方とも空振りに終わり,その間にも燃料は減少.
 その為,10月6日に米機動部隊がウェーク島を攻撃した際には,連合艦隊はZ作戦の発動を控えざるを得なかった.
 10月中旬には様々な情報(米軍通信の増加,米軍首脳部の異動,米潜水艦の行動など)により,中部太平洋および本土方面への米機動部隊の来攻の公算大と予想され,マーシャル諸島エニウェトク(ブラウン)環礁にまで進出したが会敵できず,さらにトラックの燃料タンクがほとんど空になった事から,連合艦隊の出撃はほとんど不可能となった.
 その為,連合艦隊は米艦隊が攻略部隊を伴ってきた場合を捉えて攻撃を行う方針へと転換,攻略部隊を伴わない単なる機動戦に対しては,Z作戦を行わない事にした.
(上陸作戦ならば米軍は一ヶ所にとどまる為,会敵が容易になる)

 【参考ページ】
「決定版太平洋戦争6 「絶対国防圏」の攻防」(歴史群像シリーズ),P.48-49

グンジ in mixi,2010年03月25日23:06


 【質問】
 Y作戦とは?

 【回答】
 Z作戦と同様,連合軍がインド洋方面に来攻した場合を想定した邀撃作戦で,チモール島からベンガル湾までを第6〜9邀撃帯に区分,敵輸送船団を第一攻撃目標とし,空母の搭載機も陸上基地での運用を優先していた.
(予定戦場の蘭領インドネシアは多島海で多数の航空基地が存在する)
第6邀撃帯:YA作戦 チモール島東方面
第7邀撃帯:YB作戦 チモール島以西の小スンダ列島とジャワ島方面
第8邀撃帯:YC作戦 ジャワ島西部,スマトラ島方面
第9邀撃帯:YD作戦 スマトラ島北部を含むベンガル湾方面

 【参考ページ】
「決定版太平洋戦争6 「絶対国防圏」の攻防」(歴史群像シリーズ)

グンジ in mixi,2010年03月25日23:06


 【質問】
 1944/3/31の海軍乙事件において,なぜ関係者は後に昇進できたのか?

 【回答】
 海軍部内の宥和を乱すことへの懸念が働いたためだという.
 一般に,組織は時間が経過すると,組織自体が人間を掣肘するようになる,事勿れ主義が跋扈するが,部内の融和を誇った日本海軍は,細かい人事考課に厳しい反面,肝心な作戦や統帥の失敗に対しては,殆ど厳正な処置をとらなかったという.

 石渡幸二はこれについて,「戦争遂行のための真摯な姿勢は全く見られない」と評している.

 詳しくは,「世界の艦船」2005年8月号,p.90-91を参照されたし.


 【質問】
 海軍乙事件が起こらず古賀峯一がGF長官であり続けたなら,戦争はどうなったでしょうか?

 【回答】
 基本的に変わらない展開を辿ったと思われる.

 ただ,古賀長官は就任後最初の会議での有名なやり取り,
「既に我が海軍には3分の勝ち目もないだろう」
「まだ3分はあるということです!」
「陸軍の原則では3割を失ったら全滅と判断される.つまりはそういうことだ」
で解るように,
「もうこの戦争には勝てない」
と悟っていたようなので,もしかしたら講和の方向へ誘導する努力をしたかもしれないな.
 無駄だったろうけど.

 仮想戦記的に考えるんなら,海軍きっての戦艦派だっただけに,マリアナ決戦で戦艦を主体にした作戦を考えたかもしれない.
 レイテ決戦が半年繰り上がったような戦況になったかも.

 それと,海軍乙事件が起きないなら,あの事件での重要な失点である「暗号文書の流出」が起きない事になるので,それで少しは・・・
 いや変わらないか.

軍事板
青文字:加筆改修部分


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