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<第二次大戦FAQ


(画像掲示板より引用)


 【link】

「国防研究会」◆終戦時の日本海軍艦艇


 【質問】
 住吉震洋隊陣地爆発事件とは?

 【回答】
 1945年8月15日,日本は敗戦を迎えます.
 当然,軍も矛を収めなければなりませんでしたが,「これは陰謀だ!」と息巻いて,決して敗北を認めない輩もいました.
 海軍の第8特攻戦隊第23突撃隊手結方面派遣の震洋隊は,予科練出身者で構成された170数名の部隊で,夜須町住吉海岸に布陣していました.
 隊員は山腹に防空壕を穿ち,幾つもの横穴を掘って震洋を格納していました.
 この震洋は,25隻保有していました.

 震洋は今更書くのも何ですが,ベニヤ板の二重張りで建造された小型のモーターボートで,長さ3m,幅1m程度,豊田のトラック用6気筒エンジン2基を搭載して,23kts/hを出し,艇首に爆薬250kgを装填してあり,一朝事あらば,それに乗って敵艦に体当たりをするだけの代物でした.
 当然,ベニヤ板ですから,ちょっとした浮遊物にぶつかっても沈没するものです.
 連合艦隊のなれの果ては,こうしたものしか造れなかった訳です.

 玉音放送から一夜明けた8月16日,夜須町や手結方面の人たちはパニックに陥っていました.
 前夜半,海上に夥しいサーチライトの光が交錯するのを目撃した人がいたり,夜明けには水平線上に米軍艦らしき艦影を見たと言う人も現われ,今にも高知に米軍が上陸するのではないか,と言う不安に包まれました.
 その不安を裏書きするかの様に,手結の海軍陸戦隊は慌ただしく戦闘準備を開始し,住民に対する避難命令も出され,住民の中には疎開の準備をする人も出て来ました.

 そんな大騒ぎの後に夏の長い日は暮れていき,涼風が立ち始めた午後7時頃,事件が起こります.
 突如として手結南山の向こうに巨大な火柱が立ったかと思うと,轟然たる爆発音が地を揺るがし,入道雲の様な黒煙が立ち上りました.
 数秒の間隔を置いて,2回目の爆発が,そして,更に前にも増して強烈な3度目の爆発が起き,何度も爆発は続いて,その都度,赤茶けた火柱が黒煙を背にして不気味に浮かび上がっていました.

 これは住吉の震洋隊陣地で起きたものでした.
 16日午後,震洋隊の須崎本部から,「敵機動部隊本土上陸の目的を以て土佐沖航行中につき,直ちに出撃準備をせよ」という無電が入りました.
 全員総掛かりで艇を壕から出して海岸に並べ,エンジン調整に掛かった所,その内の1隻が漏出したガソリンに引火して燃え上がりました.
 隊員達は必死になって消火活動をしていましたが,燃料タンクが過熱して爆発.

 誘爆を心配した隊長は,全員に退避命令を出しました.
 約15分後,火勢が衰えたので再度配置につき,事故艇を海上に押し出して投棄しようとしましたが,その刹那,艇首の火薬に引火して爆発,作業中の兵はあっという間に四散してしまいました.
 その後,これが起爆剤となって,附近の艇やドラム缶に炎が引火して爆発炎上し,25隻の震洋のうち,23隻が木端微塵となり,隊員175名の内,111名が死亡,33名が負傷するという大事故が起きたのです.

 そもそも,こうした事故での犬死にが何故起きたのか.

 8月15日夕刻,手結駐留の海軍陸戦隊の大隊長が士官を集めて,「本日正午の放送は,中央の一部幹部のクーデターか,または米国のデマ放送かも知れぬ.幹部諸君は慎重に行動されたい.なお,本大隊は浦戸本隊司令を通じ,呉鎮の命令により行動する」と説明します.
 16日午後2時半,「敵艦隊土佐湾に侵入の模様.合戦準備を為せ」と言う通信が入り,大隊は戦闘配置に付き,手結港の魚雷艇隊,住吉の震洋隊が出撃準備に入ります.
 電波管制の為通信状態は極度に悪く,詳細については本隊と連絡が取れない状態での戦闘配置,出撃準備でした.

 ところで,手結の海軍陸戦隊本部は浦戸にあり,震洋隊本部は須崎にあります.
 しかし,命令系統が異なるにも関わらず,ほぼ同じ内容の出撃準備命令が同時に出された…とすると,その命令を出した根源は,呉鎮守府しかあり得ません.
 浦戸本隊の内部では少壮士官を中心とする抗戦派の勢力が強く,また,呉鎮守府の若手将校も彼等と気脈を通じていた事から,後世から見ればこうした馬鹿げた命令が出された訳です.

 これを受けた方も受けた方で,本来,軍首脳は既に敗戦の事実を認識していたはずなのに,そのデマ命令を鵜呑みにしてしまったのが,如何に天皇の命令と言うのが,当時の軍人にとって軽いものであったのか,また,若手将校の増長が酷かったか,この一事を見てもよく判ります.

 結果的に,これが折角戦争を無事生き延びられた若者達の命を奪ってしまった訳です.

 17日朝,夜須町の助役と手結山地区勤労報国隊長は,爆発現場への立入が許されました.
 当時の住吉はただの砂浜でしたが,その砂浜を埋め尽くして,黒く焼け焦げた震洋艇の残骸と,鋭い裂け口を見せたドラム缶の破片が散乱し,これに交じってバラバラになった「人間だったもの」が彼方此方に飛び散って足の踏み場もなく,辺りには異臭が立ちこめていたそうで,それは此の世のものとは思えない,息を呑む光景だったそうです.

 この部隊の隊長は奇跡的に生き残りました.
 責任を取って自決しようとしましたが,説得されて事後処理に当り,軍の要請を受けて,消防団と地区民は総出で文字通り骨肉の収集を開始しました.
 海上には漁船を出し,海士を潜らせて捜索をしましたが,五体満足な遺体は殆ど無かったそうです.

 18日午後,砂浜で合同慰霊祭が行われ,多数の参列者が見守る中で遺体は荼毘に付されました.
 その後,彼等は忘れられた存在でしたが,1956年8月16日,有志の努力により「震洋隊殉国慰霊塔」が漸く建立されました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/26 22:22


 【質問】
 日本海軍は戦後の復員輸送に当たり,どのような活動をしたのか?

 【回答】
 太平洋戦争に敗戦した我が国は,外地に展開した軍隊,移住した移民を回収しなければなりませんでした.
 その数,630万人…軍人軍属が300万,一般邦人は330万人.
 当時の豪州の人口に匹敵する数の殆どを僅か2年程度で,日本に送り返した訳ですね.

 当時,日本で使用可能な海軍艦艇は132隻,18万トンしかありませんでした.
 Nimitzは,まず,これらの艦艇を復員輸送に資することを認めます.
 また,これだけでは足りませんから,GHQは民間船を55隻,復員用として使用することを認めました.

 日本政府としては,更に多くの民間用船舶を復員船に使用することをGHQに願い出たのですが,餓死寸前の内地に必要な物資を輸入できなければ,国内で餓死者が多数出るであろうことが自明の理であり,GHQはこれを却下.
 このため,当初の復員は4年以上掛かると考えられていました.

 次いで,日本政府は,米船舶の貸与を申請しています.
 これにも当初GHQは難色を示します.
 何しろ,連合軍の復員輸送などにも使用していましたからね.

 結局,1945年末にLiberty型輸送船100隻,LSTを85隻,LST改造病院船を6隻貸与します.
 実は,この船舶は当初,国府軍の日本占領地域に,国府軍の十三軍と十五軍を輸送する為のものでしたが,国共内戦の激化で宙に浮いたものでした.

 国共内戦がなければ,四国辺りに国府軍が展開した訳で.

 これらの船舶のうち,旧海軍艦艇は,復員を延期した元海軍軍人が運航しました.
 彼等は,海軍省が第二復員省になると即日充員召集で雇用して,高等官八等の第二復員官となりました.
(後に,第一復員省,第二復員省は1946年6月に統合,縮小して復員庁となる.)

 また,貸与船は当初は米海軍軍人が,後に,戦時中に徴用された輸送船の乗組員が運航していました.
 この貸与船には14000名もの乗組員が必要で,元々,戦時中の徴用を徴用解除していたのですが,急遽その徴用解除を中止して全国の予備船員を召集しますが,戦時中酷使されまくった乗組員達は真っ平御免とばかりに,その召集に応じず,船員の確保には苦労したようです.
 加えて,新たに結成された全日本海員組合と,船舶運営会との闘争もありました.

 運航に際しては,軍艦は武装を撤去し,居住区,便所を増設し,食糧や衣糧は旧海軍軍需部が保管したものを流用,艦船を動かす燃料は,米国海軍のタンカーから補給を受けました.

 1945年9月28日,陸軍は上陸地支局を,小樽,浦賀,新潟,清水,敦賀,広島に,10月1日,海軍が海軍収容局を,横須賀,佐世保,呉,舞鶴,大阪,大湊にそれぞれ設置しますが,10月15日に地方引揚援護局が設置され,これらの収容施設は総て,援護局に統合され,中央責任官庁は厚生省になりました.

 さて,復員輸送ですが,先ずは南方の食糧自給が困難な離島から開始され,9月30日に第一陣の高砂丸がメレヨン島から別府に入港,10月8日には氷川丸がミレ島から浦賀に入港,10月18日,ウェーキ島からの将兵と,ぼちぼち開始されています.
 海軍艦艇が投入されたのは,1945年末から開始され,翌年1月から2月にかけて,貸与艦艇が投入されました.

 1945年末までに復員,引揚げが為されたのは,南朝鮮が約33万人,華北1万人,比島1万人,南洋諸島約1200人,樺太,千島,満州,北朝鮮などから独自に入手した機帆船などで脱走した者3〜4万人の合計40万人.

 海軍艦艇で最大のものは,空母「葛城」で,元空母だけあって収容能力は桁違いで5000人収容可能,しかも航続距離が長いので遠隔地からの引揚げに向き,速力も速いので輸送の回転効率が良く,
1945年12月18日の南大東島から始まり,
翌年1月15日にブーゲンビル島のトロキナ,ラバウル,
2月14日にトロキナとラバウル再び,
3月21日から北ボルネオを仏印,
4月28日から比島のサンジャック,
5月24日にはシンガポール,バンコク,
7月3日には再びシンガポール,
9月26日からスマトラ島のメダンとタイのゴーシチャン
と,一月単位で8回の輸送を行っています.
 一方,雑木林型駆逐艦の場合は,収容人数300〜500名と少なく,航続距離も短いので,近隣諸国が目的地の場合が多かったりします.
 例えば,「欅」の場合は,マニラに3回,台湾の高雄,中国の汕頭,台湾の基隆に4回,上海に3回,コロ島に2回,グァム島と言う感じで引揚げ輸送に携わっています.

 貸与船は,LSTの収容人数が1200名,Liberty型貨物船が3200名収容,このほかに9隻のC1型貨物船が貸与されています(これは民需用で,復員輸送用ではありませんでしたが).

 こうして,1946年6月下旬までの半年で,その年の引揚者総数は62万7700名を数え,敗戦から1年の内に,中国,比島,仏印,タイ,ビルマ,ジャワ,ボルネオ,ニューギニアなどの南方各地域からは完了,残りは,千島,樺太(32万人),北鮮(15万人),満州(175万人)などの残留邦人268万人のみとなりました.

 このうち,満州からは1946年9月から引揚げが開始され,10月以降はシベリア抑留者の引揚げも開始されています.
 ちなみに,1946年4月には,佐世保引揚援護局内に婦人健康相談所が出来ています.
 これは,この地域で強姦に遭った被害者の不法妊娠や悪性婦人病の中絶,治療を斡旋する機関です.

 結果的に,シベリア抑留者を除き,当初4年以上と考えられていた輸送は2年で完了しました.

 GHQはこの要因として,「最大の要因は,艦船の驚異的な高稼働率を実現した乗員と関係者の熱意と努力にある」としてこれを高く評価しています.

 幾ら敗戦後で軍人が白眼視されていたとは言え,こうした地道な輸送に携わった人々をもっと顕彰しても良いと思うんですがねぇ.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 復員船には,空母以外にどんな船が使われたんですか?

 【回答】
 使用された船舶の内訳は次のようになっています.
*米軍輸送艦(リバティー級輸送艦)       102隻(1,078,344総トン)
*同戦闘用輸送艦(大型戦車揚陸艦LST)    99隻(373,824総トン)
*日本商船(客船・貨客船・輸送船)        46隻(258,768総トン)
*旧日本軍艦艇                    133隻(327,190排水トン)

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2009/08/19(水)
青文字:加筆改修部分

特別輸送艦「宵月」(元は防空駆逐艦)
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦後の掃海任務中の「ストライキ」について教えてください.

 【回答】
 「第40号海防艦」と言う薄っぺらい本があります.

 この艦は,丁型海防艦の1隻として,1944年9月7日大阪の藤永田造船所で起工し,9月20日にキールと船体下部の組立開始,11月15日には進水式,そして,12月22日竣工. 正味,4ヶ月弱で艦艇1隻出来上がりです.
 しかし,この型の中には建造中にきちっと艤装員が検査をしておらず,回航中に船体からの漏水で,配備即入渠という艦も有ったようです.

 それから1ヶ月,呉周辺の瀬戸内海で猛訓練を行い,2月初旬に最初の船団護衛任務に就き,暫く香港,台湾のヒ船団を護衛しますが,1945年5月に舞鶴に転属し,以後敗戦まで日本海で船団護衛に当たっています.
 だから,この艦は生き延びたと言えるでしょう.

 敗戦は新潟港で迎えますが,8月16日に新潟を出港し,小樽へと向かっています.
 これは,ソ連軍の進駐に備え,婦女子を引揚げさせる為の派遣だったそうです.
 ちなみにこの航海で,この海防艦は艦長の命令で,爆雷を一発投下しています.これ,新鮮な魚介類を捕るための投下だった訳.

 さて,この艦の話は敗戦以降も続きます…というか寧ろこっちの方が長い.

 一旦解散したものの,艦の状態が良かったからか,敗戦後の後始末任務に駆り出され,引揚げさせた兵士を呼び戻し,先ず,鎮海で弾薬の海中投棄作業,次いで,朝鮮海峡に日本が敷設した繋維機雷…4,200平方海里の海域に〆て6,000個の機雷が,4線に渡って敷設されたもの…これの掃海任務に就きました.

 この掃海任務には,最初は旧海軍が使用していた大掃海具二型を使いましたが,機雷がぶつかって自爆する危険があったため,一旦引揚げて,米軍からパラベーン掃海具の引渡を受け,掃海作業を再開しています.
 後者の方が,使い勝手が良かったそうですが,危険な任務には変わりなく,戦争を生き残った海防艦や,米海軍の掃海艇などが触雷し,沈没していました.

 最終的に,1946年4月までに3,179個の機雷を掃討しました.

 この間,第40号海防艦などの掃海部隊は,触雷沈没した米海軍の掃海艇の乗組員を救うため,我が身も省みず機雷原に乗り入れ,死者の収容と怪我人の手当,生存者の救出と大車輪の活躍をし,後に米海軍から杉山中将宛に感謝状が出されていたりします.

 しかし,この米海軍の掃海艇沈没によって,日本側艦艇は掃海を中止し,米海軍の指揮官に対して,
1.安全なる掃海方法,設備の再検討
2.事故発生時の遺族補償
3.掃海手当の増額
などの条件を提示し,3月7日に佐世保に帰投,ストライキを敢行しました.

 3月29日,率先して帰投した第40号海防艦艦長は,米軍に対する命令違反者(ストライキ第一号)と言う理由で,軍法会議に召集されますが,彼の言うことの方が筋が通っており,取り調べも,尋問もなく,法務官舎で2ヶ月軟禁状態となって,酒をかっ喰らって麻雀をしていたらしいです.

 その後,艦長は交代し,再び下関海峡での掃海任務に従事.

 1946年9月に特別保管艦に指定され,翌年8月29日に戦時賠償艦として,中華民国に引き渡され,「成安」と改名して,戦後も台湾に逃れて使われ続け,1963年に除籍されたそうです.

 掃海任務は戦後も長く続けられた訳ですが,こうした地道な任務に就いている人々には頭が下がる思いです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi

日本海軍の掃海作業の様子
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 B-29によってバラ撒かれた機雷は,戦後の掃海が容易なようには設計されていなかったのか?

 【回答】
「ハッハッハ,大丈夫デース! 昭和23年頃には感応力ヲ失イマース!」
 そして3年後.
「あのう,まだまだ機雷の被害出てんですけど……?」
「ハッハッハ,チョーーート計算みすガアッタヨウデース!」
ってな顛末.

 以下引用.

 昭和20年8月15日太平洋戦争の終結により,4ヶ月余り続いた関門に対するB-29の機雷攻撃は終止した.
 しかし,大量の感応機雷が投下された関門の危険性は持続し,航行が著しく制約された.海軍は,下関防備隊跡に下関掃海部を置き,掃海隊を所属させて関門の航路再開に努めた.
 しかし,米軍の資料によると関門に投下された米軍の機雷は4329個(日本側資料によると4696個)に達し,これを掃海によって絶滅することは容易ではなかった.
 昭和20年11月末海軍が解体した以後も掃海部は存続し,掃海作業が継続された.

 米軍投下の感応機雷の命数は順次延長されていた.すなわち,米軍は日本に投下した感応機雷は昭和23年ごろ感応力を失うと日本政府に通告していたのであるが,5年たっても10年経っても触雷事故が発生するため米国は順次その命数を延長してきたのである.

http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/kanmon8.htm


 【質問】
 パチンコ屋で軍艦マーチが流れるようになったのは何故ですか?

 【回答】
 確かなソースとは言えないが,
http://www.ne.jp/asahi/mili/surva/1stgame/gunkan.html
によれば,
「昭和26年春頃に有楽町駅前の『パチンコ・メトロ』の元海軍航空機搭乗員の店主が気晴らしにかけたのが始まり.
 そのままMP本部にひっぱられちゃったものの,音楽を流すだけであれば問題なしとされ,無罪釈放.以後ひっきりなしにかかるようになってそのうち全国に広がった」とか.

 まあ,この手の「業界初」話は,どの程度信頼できるかだね.

(ふー in 軍事板 & FAQ BBS


 【質問】
 以下の話は本当ですか?

――――――
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=119209&log=20100113

ジャーナリストの高山正之氏の「Voice」3月号の記事,「パチンコをやめろ」に言及.そのルーツを以下のように紹介している.

=日本では賭博は禁止だったが,マッカーサーは朝鮮人が国に帰還するまでのあいだ,パチンコ屋をやることを日本政府に認めさせた.
 賭けごとは日本人の堕落を促すと読んだためだ.
 さらに彼は,軍歌いっさい厳禁のなかでパチンコ屋に限って,軍艦マーチを流すことを認めた.
 どこまでも日本を貶めた.

 パチンコで日本人を堕落させる計画は,彼の期待以上にうまくいった.
 なぜなら朝鮮人は帰還しないで,パチンコとともに日本に居座ったからだ.
 経営者の95%が朝鮮人という業界は,日本人の射幸心をあおって,いまも年商20兆円を稼ぎだしている=
――――――

 【回答】

 資料持ってきたけど,〔略〕

――――――
〜最も確かな話として元海上自衛隊東京音楽隊長の谷村政次郎氏が『行進曲「軍艦」百年の軌跡』の中で次のように紹介している.
有楽町のガード下にオープンしたパチンコ店「メトロ」から突然 「軍艦行進曲」が大音量で流れたのは,米軍占領下の昭和26年の春頃のことであったという.
 米兵と戯れて「パンパン」が街を闊歩する風潮に,いらだつ気持ちがそうさせたようである.
 店長は,大分航空隊の艦上偵察機搭乗員として終戦を迎えた元海軍軍人であった.
 店長は日比谷交差点の角にあったMP(ミリタリーポリス)本部に連行されたが,意外にも単なる行進曲ということでOKが出た.
 その裏事情については,進駐軍が「軍艦行進曲」を気に入って,「ピース(平和)」と改題して演奏していたからだ,と言われている.

 やがて有楽町のパチンコ店の成功に倣って,全国のパチンコ店が「軍艦”マーチ”」 を流すようになったというのが「パチンコ屋の軍艦行進曲」成立史であった.〜

――――――「歴史と旅」2001年9月号より

 以上.
 ・・・高山さんも前は面白い本書いてたのに,もうダメだな.

名無しさんま,02/01/25
ぴぴ in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年01月13日 13:47
青文字:加筆改修部分

>741の続きです.
【行進曲「軍艦」百年の航跡」(大村書店,谷村政次郎著)を買いました.
・・・いや,すげえ面白いですこれ.水交に連載していた原稿をまとめたそうなんですが,日本海海戦から平成の時代まで,軍艦マーチを軸に海軍史が綴られています.

――――――
第三章第二節
■終戦後,行進曲「軍艦」の演奏は禁止されたか?

▽パチンコ店での「軍艦」の始まりは有楽町
 パチンコ店で「軍艦」が鳴り響くようになった起源は諸説あるようであるが,もっとも信憑性の高いものを紹介する.
 パチンコ産業の歴史は意外と古く,大正末期から昭和初期にかけて欧米から渡来し,当初は露天で営業していたという.パチンコという呼び名もその頃から既にあった.
 平成三年に,鹿児島テレビは「軍艦異聞(くろがねいぶん)」というドキュメンタリーを制作した.
 瀬戸口藤吉の出身地のテレビ局として,「軍艦」と作曲者をあらゆる角度から検証してみようという,意欲的な企画であった.

 この中で日本遊技業協会の担当者が,戦後名古屋辺りからパチンコ機械が製造され全国に普及した話をしている.
 名古屋を中心に集中していた航空機の製造工場に残されていたボールベアリングと,知多半島を中心に盛んに行われていたハウス栽培用のガラス板が結びついて,パチンコ台が作られたというのである.
 敵航空機の攻撃目標にされる恐れがあったため,地中に埋められていたガラス板が,物資の乏しい当時としては,いち早くパチンコ台の製造を可能にしたのである.

 昭和二十六年の春頃,有楽町の一店のパチンコ店から突然「軍艦」が大きく鳴り出した.
 びっくりして飛んで来た丸の内警察署有楽町派出所の警ら係渡辺巡査部長が,
「行進曲停止,許可あるまで待つように!」
と申し渡した.
 そして経営者を,日比谷交差点の角にあったMP(ミリタリー・ポリスの略,憲兵隊)本部に連れて行った.
 占領下の当時としては,大変なことをしでかしたかのようであった.

 このパチンコ店「メトロ」の経営者田中友治氏は,昭和十三年六月第四十八期偵察練習生として横須賀海兵団に入団した航空機搭乗員であった.
 大東亜戦争開戦直後のイギリス東洋艦隊の「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を撃沈したマレー沖航空戦には,元山航空隊員として高井中隊の「九六式陸上攻撃機」に搭乗して参戦し,大分航空隊の艦上偵察機「彩雲」搭乗員として終戦を迎えた歴戦の勇士であった.
 現在,東京の五反田駅近くで和風割烹「赤のれん」を経営している田中氏は,復員後事業に成功し,有楽町駅の東京駅寄りの喫茶店を買い取り,当時大衆に流行り始めたパチンコ店に改装して,営業を始めた.

 しかし,終戦後六年目とはいえ朝鮮戦争が始まったばかりの当時としては,米兵と腕を組んで歩く日本女性が目につき,敗れたとはいえ帝国海軍軍人として大東亜戦争を戦った田中氏には,気分のいい光景ではなかった.
 ある日店内にあった「軍艦」のレコードが目に止まり,気晴らしに表に向かって思いきりボリュームをあげてかけてみた.
 その結果が前述のとおりとなったわけである.
 丸の内警察署から通訳を同行し,MP本部で問題のレコードをかけることになった.
 単なる行進曲に担当者は
「OK! 何も問題はありません」
と答え,なんのおとがめもなかった.
 当時,連合国軍総司令部が管内にあった丸の内署は,いろいろな面で神経を使っていたようである.
 そのお膝元で「軍艦」が鳴り響いたことによる,過剰反応であったようだ.

 MP本部のお墨付きをもらったことから,以後安心して連日「軍艦」が鳴り響くことになった.
 近くの東京都庁職員も,朝から威勢のいい「軍艦」を聞きながら出勤し大喜びだったという.
 娯楽の少ない当時としては,パチンコ店は大繁盛で東京都内に十軒の店を持つまでに成功した.
 その店がすべて「軍艦」を景気よくかけるので,他のパチンコ店もこれに倣い,やがて全国的に普及していったのである.
――――――

――――――
巻末著者紹介より
谷村政次郎(たにむら まさじろう)
吹奏楽史研究家.
昭和32年,海上自衛隊音楽隊入隊.各地の音楽隊を経て,第11代海上自衛隊東京音楽隊長.練習艦隊の遠洋練習航海で世界各国を歴訪.平成6年退官後,吹奏楽史研究家として行進曲「軍艦」を軸に,日本の吹奏楽史を辿る.日本吹奏楽指導者協会理事.日本スーザ協会会長.昭和13年生まれ.
――――――

ぴぴ in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年01月19日 09:15
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 先日の産経新聞で台湾出身の「元日本兵」の特集があったんですが,その中で,国民党軍では,日本からの賠償艦34隻の保守や運用も台湾出身兵が行っていたとの記事があったのですが,日本からの賠償艦について教えてください.

 【回答】
 駆逐艦では,
峯風級の波風,陽炎級の雪風,秋月級の宵月,松級の楓,杉,橘級の初芽,蔦

 海防艦では,
択捉級の隠岐,対馬,鵜来級の四阪,御蔵級の屋代,1号級の81号,85号,205号,107号,67号,215号,40号,14号,194号,118号,198号,104号,192号.

 砲艦は熱田,多々良.
 駆潜艇は28号級の49号,1号級の220号,223号,7号級の9号.
 敷設艇は夏島級黒島.平島級の済州
 旧イタリア艦の敷設艦興津.
 掃海特務艇1号級の4号,14号,19号.
 河用砲艦の旧イタリア艦の鳴海,日本製の鳥羽,安宅,勢多,二見,伏島,墨田,旧ポルトガル艦の舞子,橋立級の宇治.
 二等輸送艦103号級の172号,

 以上が引き渡されました.

 このうち,隠岐,四阪,海防艦81号,85号,14号,194号,118号,198号,河用砲艦の全て,駆潜艇220号,223号,掃海特務艇4号,14号は後に中華人民共和国に寝返ったり,捕獲されたりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/08/06
青文字:加筆改修部分

台湾駆逐艦「丹陽」(旧「雪風」)
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦後アメリカは長門を水爆の実験体にしましたが,イギリスなどの他の連合国に持っていかれた日本海軍の軍艦などはあるでしょうか?

 【回答】
ソ連

 駆逐艦春月:
 TSL-64と改名されて,武装をソ連式に改め,1959年まで現役,1965年まで標的艦.
 最後は対艦ミサイルの実艦的となって沈没(ちなみに,1959年の状態はレーダーを魚雷発射管の位置に装備,後部の武装を撤去してヘリコプター発着甲板が設けられていた.

 他にも,駆逐艦,海防艦,敷設艦初島,駆潜艇28号,輸送艦など結構多数が引き渡されていますが,引き渡し後の動静は不明.

英国
 駆逐艦夏月始め多くの小艦艇が引き渡されましたが,いずれも日本もしくはシンガポールで解体.
 敷設艦若鷹のみ,Laburnamと改名され,マレー連邦の海軍義勇予備員の宿泊艦兼練習艦としてシンガポールに繋留.

米国
 駆逐艦花月のみDD-934のハルナンバーが供され,各種実験に使用されましたが,残りは,長門,酒匂,伊201,伊203始め各種艦艇は実艦的か解体.

中華民国
 駆逐艦波風は1949年に台湾に行き,1960年除籍.
 駆逐艦雪風を丹陽と改名して,1959年に武装を米国式に改め,1971年まで使用.
 駆逐艦宵月も同様で,1963年除籍.
 駆逐艦楓,杉,初芽,蔦は1950〜60年代まで現役.
 海防艦17隻のうち,8隻は中華人民共和国海軍へ.
 砲艦2隻のうち,1隻は中華人民共和国海軍へ.
 駆潜艇4隻のうち,2隻が中華人民共和国海軍へ.
 掃海艇5隻のうち,3隻が中華人民共和国海軍へ.
 河用砲艦10隻のうち,全部が中華人民共和国海軍へ.
 二等輸送艦103号は,台湾へ逃れ,1955年に座礁.
 敷設艦済州は,1949年に台湾に逃れ,1953年にフリゲートに改造され,1964年除籍.

中華人民共和国
 海防艦隠岐は,1953年に武装をソ連式に改め,フリゲートに類別され,南方艦隊に配属.
 海防艦四阪は1960〜70年代に武装をソ連式に改め,東方艦隊に配属.
 丁型海防艦2隻は,東方と北方艦隊に配属.
 砲艦橋立は,1950年代に武装をソ連式に改め,東方艦隊に配属.
 いずれも,1980年代まで多数が現役でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 イタリア新型戦艦接収における,ソビエトと英米の間であったような駆け引き,日本の大型艦の引渡しの際にはなかったんでしょうか?
 ソビエトは日本の大型艦に興味などなかったんでしょうか?
 敗戦国のあらゆる資産を貪欲に接収したソ連が,何故日本の艦船を一隻でも多く,しかもソ連が保有していない空母を接収できる機会を何故逃したのかが,長年の疑問でして・・・.

 【回答】
 興味がないと言うより,回航するだけの手間を考えるなら,欧州の自国勢力圏に沈んでいる船を引揚げた方が ,費用対効果は大きいですし,何より,日本の攻撃で大型の海軍艦艇が撃沈されていません.
 従って,代艦を求める根拠がない.

 しかも,大型艦を動かす人材に乏しいと来たもんだ.
 でもって,海軍艦艇として空母は,鳳翔と隼鷹の二隻.
 もし,大型艦艇を分けるとしても,主に戦闘をした英米の二カ国で分捕っておしまい.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2006/09/30(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦後,日本海軍の残存艦艇が連合国に引き取られたとき,英米はすぐにスクラップにしたけど,中ソは自国の海軍に編入したと聞きます.
 回航するため,あるいは自国の乗組員の養成のために,旧日本人乗組員も連れ去られたりしたのでしょうか?

 【回答】
 英国も1隻だけ,自分の国の艦艇として使っていたものもありましたけどね,なんて重箱の隅を突いてみましたが,船の基本構造はそんなに変わりませんので,まぁ,戦闘行動とかしなければ,一応,動かすだけは出来ます.

 回航については,第二復員省(旧海軍省)から人を募集して出しています.
 回航後は,慣熟訓練を軽くやって引揚げました.

 ソ連は不明ですが,中華民国の場合は,元々の日本海軍に,台湾省出身者もいましたので,彼らを下士官や専門技能兵として扱い,それなりに動かすようにしています.

眠い人◆gQikaJHtf2 : 2007/01/06(土)


 【質問】
 ビキニ環礁では長門が実験で持って行かれたようですが,一発目では沈まなかったと聞きました.
 一発目を食らったときの長門ってどんな状況だったんですか? 装甲はべこべこだったんでしょうか?

 【回答】
 一発目(A実験)は空中爆発なんで,上部構造物に若干の被害があった程度です.
 ちなみに,爆心から250mしか離れていなかった「酒匂」は,艦橋より後ろの上部構造物がほぼ吹き飛ばされています.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板

終戦時の長門
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 長門が原爆実験に使われたとき穴を開けられたというのは本当ですか?

 【回答】
 長門はB実験(水中爆発)の際に左舷後方に亀裂が生じて,そこから浸水して5度傾斜しました.
 このために,ツリムを取るため右舷艦首部を切り開いて浸水させ,傾斜を復旧させようと試みています.

unknown

▼ また,米海軍歴史センターの解説によれば,BAKER実験(B実験,水中爆発実験)の際,長門には機雷がとりつけられたという.
 以下引用.

――――――
http://www.history.navy.mil/ac/bikini/bikini6.htm

The former Japanese battleship Nagato after the BAKER blast.
Despised by the sailors at Bikini for its role as flagship of the Pearl Harbor attack force,

mines had been strapped to her sides to facilitate her sinking.
Both blasts damaged, but did not immediately sink the battleship, although BAKER caused the slow but continuous flooding that produced the list seen in this view.
――――――

 それでも沈むのに5日間要したという.

――――――
http://tinyurl.com/ccohll

In the second test (BAKER, an underwater explosion) on 25 July 1946 she was severely damaged, and eventually capsized and sank five days later.
――――――

軍事板
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 終戦時に残っていた艦艇を,浮揚改修して「大型護衛艦」にすることは可能だったでしょうか?
 そうしていれば,今頃
「榛名,第9次改装終了.ついにイージスシステム搭載」とか
「伊勢・日向の艦載機,AV-8からF-35へ変更」
などという,心躍る報道が行われていたかも……

 【回答】
 帝國海軍の大型艦は,終戦時にはみな「浮かぶスクラップ」と化していたので,どれも修理するにはあまりにも金と手間がかかりすぎるものだったでしょう.
 例え米軍が保有を許してくれたとしても.

 榛名も伊勢も日向もみな空襲で大破して着底し,写真を見ると解りますが到底,軍艦として使える状態ではありませんでした.
 長門も空襲で破損した上に機関が故障しており,マトモに使える状態にするには,海自の予算が数年分くらいは必要だったかと.

 戦後も戦艦を運用した国は,アメリカを除いて総て早期に退役させています.
 まず間違い無く「大型護衛艦」等と言う無駄な事には使わないでしょう.

 ちなみに,伊勢と日向は鉄橋の橋脚などになったそうです.
 個人的には,戦艦であった時よりも,鉄橋になった時の方が余程国民の役に立ったと思います.

軍事板,2006/02/05(日)
青文字:加筆改修部分

旧海軍駆逐艦の内,戦後唯一,海上自衛隊で再就役した「わかば」
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦後,呉海軍工廠はどうなったのか?

 【回答】
 戦艦大和ですが,呉海軍工廠の造船ドックで竣工しました.
 このドックは第二次大戦後,播磨造船所が貸与を受け,呉分工場として船の修理に使用されました.
 因みに朝鮮戦争時には,年間178隻の船を修理していたそうです.

 1951年8月,ニューヨークに本社を置き,バージニア州ノーフォークに主工場を持つNational Bulk Carrier Ltd.(NBC)がこの呉の15万トンドックに目を付けました.
 この頃,エネルギー革命に伴う大型タンカーブームを予想した訳です.
 そして,NBCはこのドックを播磨造船所から借り受け,NBC呉造船部を創立し,そこの従業員660名共々移籍させて,大型船の建造を開始しました.
 1952年1月,早くも第1船ペトロ・クレ,38,021重量トンを進水させました.
 以後も続々と大型船を建造し,1956年には,85,515重量トンの当時世界最大のタンカー,ユニバース・リーダーを送り出しています.
 こうして米国資本の下,呉造船所は大型船建造のノウハウを蓄積していった訳です.

 1962年9月,NBCは呉造船所を播磨造船所に返還します.
 そして播磨造船所は1966年,呉造船所を国から正式に払下げを受けると同時に,40万トン建造可能の第2建造ドック建設の許可を取り,1971年9月に世界第3位の372,698重量トンの日石丸を進水させ,更に80万トン建造可能の第3建造ドックにより,1973年484,337重量トンの日精丸を進水させています.

 こうした船の大型化は,油田やガス田から石油,ガスを消費地に運ぶ際,長距離をパイプラインで運ぶ事が可能になったのも一因です.
 生産地から大型船が着岸出来る港までパイプラインを結ぶ事によって,原料積出港から消費地の港まで,迂回することなく,直接輸送することが可能となりました.
 特に,パナマやスエズと言った運河を通る必要が無くなった為,船を思い切って大型化出来る様になり,大量輸送によるコスト削減が可能となります.

 これに伴い,日本でもエネルギー革命が起こり,従来の水力や国内石炭による発電の競争力が無くなったり,硫黄鉱山も石油から脱硫して得る硫黄の方がコストが安いので,次々に閉山していくことになります.

 更に,大型船の建造方法は,戦時標準船の大量建造で培われたブロック方式,即ち,船首と船尾を除いて幾つかのブロックに分割して標準化し,陸上で組立てたブロックをドックに運び接合して造船する方法が一般的になりました.
 エンジン,制御,居住空間と言った区画は全て船尾に一体化され,船首部と共に独立して組立てることで建造時間を短縮し,建造原価を切り下げることに成功しました.

 例えば,1964年建造の89,962重量トンの田島丸は,船台工事期間を従来の半分の66日に短縮,全建造期間を5ヶ月にしました.
 20年前の苦闘から見ると偉い違いです.
 また,大和建造にはホ鋲が615万本以上消費されましたが,戦後の造船技術は接合に全熔接を使用し,鋲接合は皆無となりました.
 船型も運河通過条件を考慮しなくても良いので,幅と深さの制限が無くなり,幅広で深く短船体の寸胴型が標準となりました.
 因みに,この寸胴型の船体は播磨造船の社員で,後に日本電電公社総裁となり,リクルートでその座を追われた真藤恒氏によって発案され,英語で,"Shinto-Senkei"とか"Keizai-Senkei"と呼ばれています.

 造船業は1944年に記録した169万トンを,1956年に越え,1969年には930万トンを記録し,全世界造船量1,931万トンの内,48%を占めました.
 造船業が潤うと言う事は,その原材料である厚板生産が必要となります.
 製鉄業は原料搬入が有利な臨海部に工場を構え,1980年に粗鋼生産で米国を追い抜きました.
 炉内容積3,000m^3の高炉数は1975年に15基あり,2位ソ連の6基を遙かに引き離しました.
 また,製鋼の核となる上吹き転炉数も1975年に98基と,2位米国の79基を引き離し,転炉鋼生産率も82.5%で,高級鋼材や高級鋼板を用いる自動車の成長に寄与することになりました.

 臨海製鉄所は,大型船の接岸が可能な埠頭を持ち,原料源の豪州依存は,運河サイズを超えた大型船による原料輸送を可能としました.
 例えば,コークスは従来,米国東岸のハンプトンローズ積の強粘結炭を導入していました.
 これは,東海岸から運んでくるので,パナマ運河を通らねば成らず,船型が限られていたのですが,豪州からの輸入には10万トン級の鉱石船が利用可能となりましたし,鉄鉱石も10〜20万トン級の嵩高船型が使用された鉱石船でブラジルから輸入,しかもこの場合は喜望峰回りとすることで運賃軽減に成功し,直接原価のみ成らず,複数の競合原料源を用意する事になり,日本の鉄鋼業の競争力改善に寄与することになります.

 とは言え,今は原料高騰の時代.
 ブラジルの鉄鉱石にしても,豪州の粘結炭にしても,原料のコストは50〜90%増となってきました.
 また,石油の高騰に伴う運賃の高止まりもあって,今,再びこうしたメーカーには厳しい時代が来ようとしていますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/07 21:52


 【質問】
 連合軍呉進駐時の様子は?

 【回答】

 1945年9月19日,米第6軍先遣隊が和歌山に到着し,20日には第2総軍と呉鎮守府代表者との会談を行いました.
 席上,第6軍先遣隊司令官であったH.W.キーファー代将より第2総軍司令官宛に,
・一定地帯より一定期日に武装軍隊を撤退する事(呉地方は9月26日まで),
・一定期日に武装軍隊の移動を禁止する事(9月28日以降,神戸〜広島間の幹線道路移動禁止)
などを主な内容とする禁止事項と,第2総軍管轄地域内進駐予定が提示されました.
 特に呉に関連の深い第10軍団については,「呉,広島地区ニ第十軍団本体ノ到着ニ必要ナル諸準備ヲ実施スル」ため,その先遣隊が9月25日に和歌山に到着,26日に呉に出発する予定なので,その日までに軍の代表者を派遣する様に,との命令が出されています.
 この時点で,呉への進駐は9月28日へと繰り上がりました.

 他方,9月20日には米海軍ヒル中将より佐世保鎮守府司令長官宛に,広湾上陸に関する特別指示が出されました.
 その内容は,
・9月26日以降の広湾及びその周辺での艦船立入禁止,
・「豊後水道並ニ広湾迄ノ航路ノ掃海ヲ担当シアル米海軍先任指揮官ニ対シ可能ナルアラユル援助ヲ与フ」る事,
・広地区に於ける上陸作業の為の,「海岸ノ総テノ機雷,障害物ノ清掃除去」及び岸壁,桟橋,起重機などの修理・清掃,水先案内,
・旗艦への呉鎮守府司令長官等の出頭,
・広湾の海図の提出
等がありました.
 特に,掃海は重要且つ急を要する問題であり,日本海軍の敷設特務艦等10数隻が徹夜で掃海試航に当たりました.

 9月21日,呉鎮守府は,早速第10軍団の進駐が9月28日に前倒しとなる旨の布告を行います.
 9月23日には,占領軍の揚陸地点に指定された広に呉鎮守府広地区連絡部を設置,翌24日には米海軍掃海部隊の35隻が郡中沖に仮泊し,伊予灘と安芸灘の掃海を開始しました.
 当然のことながら,日本海軍もこれに呼応し,掃海作業を行っています.

 9月25日,米陸軍第10軍団先遣隊長F.R.マスター大佐と陸海軍代表3名が会見し,その席上,翌日に先遣隊員6名が,大阪より空路呉海軍航空隊に向かうので,受け容れ体制を整える様に申し入れが為されました.
 なお,先遣隊の任務は,呉・広島地域に於ける米占領軍受入施設,必要人員の調査・整備と,中国・四国地方全域の軍事使節の調査でした.

 9月26日12時を期して,第6軍の要求に従い,日本軍は呉・広島の中心点及び広・仁方を結ぶ線の中心点より半径10マイル以内より武装兵の撤退を行いました.
 そして,12時30分,先遣隊のマスター大佐一行6名は,空路大阪から呉市広町の呉海軍航空隊に到着します.
 一行は呉鎮守府に於て,鎮守府首脳に先遣隊の任務に就いて説明,その後,宿舎に充てられた呉潜水艦基地隊で,弾薬,火薬の関係者を召集して情報の提供を求めると共に,広島県知事,中国地方副総監に対して終戦連絡地方事務局の設置を要望しました.
 因みに,呉市長も呉鎮守府からの電話で呼び出されましたが,結局,要望が出ませんでした.

 9月27日には,先遣隊事務所を呉鎮守府司令長官官舎に設置し,終戦連絡地方事務局も呉鎮守府構内に仮設置しました.
 この日から先遣隊員達は呉,広,吉浦等の海軍施設を中心に本格的な調査が開始され,兵舎,病院,工場,港湾,娯楽施設などに使用する為,9月28日に広地区,9月29日に呉地区の最初の接収予定施設が決定されました.

 その内,呉地区の接収予定施設は当初14施設,
・火工部と潜水艦基地隊,
・第11海軍航空技術廠兵器部,
・工員宿舎,
・第11海軍航空技術廠補給部,
・軍需部倉庫,
・海兵団・警備隊,海友社,
・官舎地帯・水交社及び海仁会,
・海軍病院,
・官舎地帯,
・鎮守府司令部構内,
・練兵場及び施設部,
・呉工廠造機部の一部施設,
・呉工廠艤装工場
その他施設が指定され,後に3施設,乙廻燃料置場,呉駅前,第4船渠が追加され,合計17施設となっています.
 また,鉄道輸送や上水の確保,上陸に必要な通訳,技術者,労働者の供給も要請されました.
 この内最も多く必要とされた兵舎は,大部分海軍施設で賄える事が判明したのですが,その為,広島から学校誘致の計画で行き先まで決定した計画がおじゃんになったりもしています.

 こうして進駐準備が本格化したにも係わらず,予定の9月28日になっても一向に第10軍団本隊の揚陸はありませんでした.
 そして9月30日に至り,「輸送船等は3日以後広湾入港の予定」とされ,10月2日18時から呉・広方面への外出,同じく10月2日18時から4日6時までの呉港内の船舶航行が禁止されました.
 その後,第10軍団の進駐を前に接収予定地域と行軍予定道路の整備,航路掃海,広地区上陸作業の準備,進駐当日の対応等が検討されました.

 ところが,10月1日に至り,輸送船等の広湾入港は10月5日,進駐部隊の上陸は10月6日となり,これに沿って船舶航行と一般市民の外出禁止期間が改められました.
 更に10月2日にも船舶航行禁止期間に若干の変更がありましたが,結局10月4日12時より,広燈台を中心とする15浬圏内東経132度45分以西の安芸灘に於ける総艦船舟艇の航行を禁止する措置が決定されました.

 第10軍団の上陸予定日である10月6日には,進駐地区の陸上交通制限が8日まで敷かれ,海田市〜仁方間鉄道の一般軍人乗車制限が7日まで実施されました.

 しかし,前日に広湾に到着予定だった輸送船が,天候不良の為入港出来ず,6日8時15分になって,L.F.リーフスナイダー海軍少将座乗の指揮艦「マウント・マッキンレー」を中心とする輸送船約30隻が広湾に到着しました.
 その為,この日は金沢呉鎮守府司令長官等首脳10名が10時にリーフスナイダー少将,次いで同じく指揮艦「セシル」に第10軍団司令長官サイバーと陸軍少将を表敬訪問し,関係書類の送達を実施し,その後,ウィリー陸軍代将を指揮官とする基地隊約500名が呉鎮守府構内に進駐しました.
 因みに,10月2日に呉鎮守府は下山手町に移転しています.

 呉鎮守府首脳との会見時,サイバート少将は以下の様に通告してきます.

------------
 第10軍団の責任地区は島根,広島,鳥取,岡山各県及び四国なり.
 我任務左の如し.
1. 降伏条件の実施監督
2. 最高指揮官の命令実施の監督
3. 連合国人の本国還送
4. 公益の破壊防止に必要な警戒
5. 軍需品武器及び軍事諸施設の破壊防止
6. 日本国民の平和生活への復帰
 第41師団長は呉,広島地区(広島及び島根県を含む)担当
 第24師団長の内,師団長直属部隊は四国,分遣隊は岡山及び鳥取県を担当
 第41師団と第24師団分遣隊は10月25日頃到着予定,士官4名及び通訳数名よりなる特別幕僚団を第10軍団司令部に派遣すると共に,同様の特別幕僚団を第41師団司令部に派遣すべし
 右将校は各地区の現状を精知しある事を要望し,各司令部はこれにより必要なる情報を要求する
 右将校は本軍団及び師団の各担任地区の現状に精通する事が必要で,これらの将校は適切なる情報を取得するために使用する.
------------

 10月7日早朝6時,遂に19,500名に上る占領軍がトラックやジープで広・呉地区に進駐を開始します.
 8時には約3,000名が呉から列車で海田市に向かいました.
 こうして12時には概ね兵員の進駐を終了.

 呉地区には
第10軍団司令部,
参謀部(呉海軍軍法会議に設置),
幕僚部(呉海軍下士官兵集会所に設置),
基地隊(呉鎮守府構内に設置),
憲兵隊司令部(呉海友社に設置)
など約8,000名.
 広地区には第10軍団第41師団司令部(第11空技廠工員養成所に設置)など約8,000名.
 海田市には陸軍軍需品倉庫に1個連隊約3,500名が展開しました.
 そして,午後からは軍需品の陸揚げが開始されています.

 正に,日本に対して,米軍の圧倒的な機械力を見せつける様な展開でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/28 23:23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 海軍予科練は旧制中学相当とありました.
 なら,戦後に新制大学や旧制高校,専門学校などに入った人は結構いたのでしょうか?
 予科練にいた祖父は,多くのひとはガテン系の仕事についたり,実家で農業をやったりしていると.
 制度が変わって進学できなかったんでしょうか?
 うちのじいさんも夕張炭鉱でした.

 【回答】
 海軍兵学校とか陸軍士官学校とかは,学費不要かつ全寮制で下宿代不要とかいうことで,当時において希な高学歴である大学進学も可能な程度の学力はあるものの,家庭の事情で学資も通学費もないので,普通に進学できないから進んだ,という人も多かったというけど,予科練も,それほどではないにしても,思いつきで潜り込めるほど甘い学校ではなかったでしょう.
 ただし,学資がないせいで,普通に進学する余裕がない人が,海兵や陸士以上に多かったろうから・・・

 したがって,

> 制度が変わって進学できなかった

・・・のではなくて,元々,普通に進学する余裕はなかったのが,そのままになった,と考えるのが穏当ではないでしょうか.

 いずれにしても,お祖父さんと同じくらい勉強すれば,相当なものということですな.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 元海軍だった祖父の遺品に海軍短刀が発見されたのですが,警察に届け出たときに,没収されない方法はありますか?

 【回答】
 海軍短刀と言いましても,
・日本刀と同じように鍛えた物
・ナイフと同じように油焼(油で焼き入れ)したもの
・ただの鉄を素延べして油焼したもの
・当時の最新技術の不錆鋼(ステンレス)製の物
・素延べ油焼にクロームメッキを掛けた物
などが有ります.

 日本刀と同じように鍛え,焼き入れした物は美術品として登録がとれます.
 それ以外は違法な刀剣として切断(15cm以下に)されます.
 没収されることは有りません.保有権の放棄を勧められることは有りますが.

 実際は黙って保管しとくのが良いと思いますがね※.遺品であるし,美術品とは認められなくても資料的価値はありますし.
 その内,銃刀法が改正されるのを,期待して待ちましょう(まず無理だと思うが)

(剣恒光 ◆YR1Hskt.M.)

 ※異論が出そうな記述であるが…….


 【質問】
 太平洋戦争時の数少ない現存艦だった「こじま」は,少なくない反対の中,解体されてしまいましたが,解体の原因は何でしょうか?
 千葉県の公式の発表では,老朽化に伴う危険や消防法にひっかかる等になってはいますが,やはり旧海軍艦艇という事がネックになり,保存されなかったんでしょうか?

 【回答】
 「こじま」の前身は,海防艦「志賀」.
 戦後,海上保安庁の練習船「こじま」となった後,除籍後は千葉市に払い下げられ団地内に宿泊施設となっていたが,解体.

 「こじま」解体についての経緯はここに.
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki/kojima/siga.html
 典型的なお役所仕事的対応ってことみたいだな.

 昔,近所に住んでた者だけれども,「こじま」は経年劣化と錆でもうボロボロだったよ,
 固定はされてたけど,喫水線あたりに錆で穴ぼこ開いてたし.
 やっぱり金がネックだと思う.

晩年の「こじま」.確かにボロボロやね……
(画像掲示板より引用)


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