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工作艦「明石」

(画像掲示板より引用)


 【link】

「Togetter」◆(2014-06-14) 第三十八号海防艦が撃沈した潜水艦について

大日本帝國海軍特設艦船DATA BASE

「三毛猫艦橋」:漢たちの『橋立』型砲艦

『海防艦第二〇五号海戦記 知られざる船団護衛の死闘』<「山猫文庫第3版」◆(2011/06/18)

『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』(木俣滋郎著,潮書房光人社NF文庫,2013.6)

『小艦艇入門』(木俣滋郎著,光人社NF文庫,1999.12)

『常民の戦争と海 <聞書>徴用された小型木造船』(中村 隆一郎著,東方出版,1993.8)

 三省堂の自由価格本コーナーで,定価の6割引きで購入.
 日中戦争・太平洋戦争で,和歌山県において徴用された漁船,機帆船などの小船舶をめぐるエピソードを記した本.
 著者は和歌山県における戦災調査を行っており,和歌山県における空襲を扱った本も出している.

 著者が書いているように,もともと輸送船は一般軍艦と比較してあまり取り上げられず,さらにこのような小型船舶は「その他もろもろ」として扱われる傾向があるため,この本のように様々な資料や当事者の証言が集められ,一部とはいえ小型船舶の実相が描かれることは,大変珍しい.
 また,この本の発行は1993年であり,まだ当事者が比較的生き残っていたことも重要である.
 そのほか註はないものの,資料については引用元がきちんと示されている.
 帯の言葉は煽っているが,著者は和歌山県,それも確証が取れた船舶のみを扱うことの限界を認識しつつ,聞き取りを資料に照らして可能な限り正確な情報を集め,それを誠実にまとめている.

 ただ,地図が裏表紙の和歌山県地図1枚しかないため,徴用船舶の活動した地域のイメージがややしにくかった.
 高校程度の地図帳に載っている地名が多いので,地図帳片手に読めば良い話なのだが,中国・南方で各1枚程度入っていてもよかったのではないかとも思う.
 また,船舶の写真もそれほど多くなく,船舶にあまり詳しくない私には,船の大きさのイメージがつかみにくかった.
 そのほか,引用元からの誤りなのか,パレンバンをスマトラ島と記述している.

 著者は軍人の戦記において,徴用機帆船の扱いがひどく,そのような意識が,原住民を「土人」と呼ぶ表現につながるのだと憤慨する.
 しかし士官を含む軍人の多くは,漁民・農民など庶民階層の出身である.
 彼らが軍隊教育の中で,どのようにそういった意識が植え付けられたのか,という興味が生じる.
 また,中国大陸における滑走艇乗員の体験談や,1942年と45年の船員募集新聞広告の差などは興味深い.

 資料が多くない題材について,丁寧な調査を行ってまとめている,良い本である.

――――――軍事板,2010/11/14(日)

『戦う日本漁船 戦時下の小型船舶の活躍』(大内建二著,光人社NF文庫,2011.10)

 WW2の日本における,商船ではない小型船舶の種別,用法,動員する際の船別の分類などについてと,それらの活躍について.
 タイトルは漁船となっているが,機帆船等の小型輸送船も含めた内容.
 イギリス,アメリカの小型船舶動員についても述べられているので,そちらに興味のある人にもどうぞ.

 とりあえず,20~40tクラスの漁船で船団を組み,途中台湾等に寄港しながらとはいえ,ラバウルまで航海とか,正気の沙汰とは思えない.
 中型イカ釣り漁船サイズの船にやらせる仕事じゃねぇ.

 動員の方法も陸軍の場合,港に行って良さそうな船を見つけたら,今から準備して行けという完全防諜の方法を採用.
 異常.
 周りを取り巻く状況が違いすぎるとはいえ(特にアメリカの援助),後半で述べられているイギリスの動員方法と比較すると泣けてくる.

-------------軍事板,2012/01/20(金)

>動員の方法も陸軍の場合,港に行って良さそうな船を見つけたら,
>今から準備して行けという完全防諜の方法を採用.

 これは,はたして一般化していいものなのか,非常に怪しい話だと個人的には思ってる.
 種本になってると思しき,中村隆一郎「常民の戦争と海」(東方出版,1993年)
(たしか参考文献には挙がってなかったと思うが)
には,一事例としてそういうのが紹介されてたが,著者自身もびっくりの話で,検証が必要というような書き方だった.

-------------軍事板,2012/01/20(金)

>非常に怪しい話だと個人的には思ってる.

 これは初期の漁船徴用で,船籍簿と実際の船が全然違っていたり,登録されていない船が多数あったり,意図的に老朽船を供出したりされた陸軍の,自衛策という気がする.

-------------軍事板,2012/01/20(金)

 欧米には「プレジャーボートも闘うゼ!」というような気風があるんだな.
 例えばダンケルク敗走のとき,民間人が自分のフネ供出してるだろ,たしか.
 ただ,それが悪しき方向に発露すると,シーシェパードみたいなことになるんだろうな.

-------------軍事板,2012/01/20(金)

『帝国陸海軍補助艦艇 総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌 』(学研,2002.4)

 歴群マガジンの「日本の軍用船」コーナーを独立別冊化.
 解説も分かり易く資料価値もあり.
 日米の国力差,日本の特異な船舶行政もよく分かる.
 意外と良い本だった.

 しかし,表紙が飛行艇母艦「秋津州」なのに,本文に「秋津州」の解説記事が全然無いと言う罠.

------------軍事板,2002/06/10

 【質問】
 ABSD-1級浮きドックについて3行以上で教えてください.
Kérem, mondja meg a úszódokk "ABSD-1" osztályt három vagy több sorban.

 【回答】
 米海軍によって1943年に建造された,非自走式の分割式浮きドック.
 艀2隻分の長さのパーツA~I, Kから成り,これらを目的の海上で横一列に並べ,それぞれ横付けさせて固定,注水して半自沈させる.
 そこへ戦艦などを入れた後,半自沈させていたドックを,排水して浮かび上がらせるという仕組み.
 第二次大戦中は主に太平洋で使用され,戦後も1980年代まで使用された.

 【参考ページ】
http://stanza-citta.com/hime/page/12
http://www5e.biglobe.ne.jp/~vandy-1/absd.htm (リンク切れ ⇒アーカイブ
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1559-3584.1946.tb01721.x/abstract
http://ww2db.com/ship_spec.php?ship_id=849

ABSD-1にて修理を受ける戦艦「ウェスト・ヴァージニア」
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2016/12/12 20:00
を加筆改修


 【質問】
 第二次大戦当時,日本には前弩級戦艦や装甲巡洋艦,防護巡洋艦などがありましたが,工作艦となった朝日以外に,浮いているだけでなく外洋を航行できた艦はあったのでしょうか?
 その場合,機関の改装などは為されたのでしょうか?

 【回答】
 富士 特務艦(運用術練習艦)
 敷島 特務艦(練習特務艦)
 摂津 特務艦(標的艦)
 春日 特務艦(練習艦)
 浅間 特務艦(ただし座礁による損傷のため,ずっと繋留状態)
 常磐 敷設艦
 吾妻 特務艦(練習艦)
 八雲 一等巡洋艦に類別(戦時中は内海での練習艦)
 出雲型の出雲・磐手は一等巡洋艦に類別

 日露戦争でも活躍した「八雲」は,長らく兵学校練習艦として使用されており,昭和17年からは巡洋艦籍に復帰していますが,さすがに作戦行動は無理でした.
 ただし,昭和20年になると対空浮き砲台としての任務に就いており,さらに敗戦後には,復員輸送艦として,昭和20年から21年の6月にかけ,復員輸送に従事しています.
 敗戦時,外洋を行動可能だった唯一の装甲巡洋艦でした.

 やはり日露戦争で活躍した「出雲」は,上海事変や日中戦争では支那方面艦隊の旗艦として行動.
 太平洋戦争中は兵学校の練習艦として使われ,敗戦直前,昭和20年7月24日の呉空襲で大破着底しています.
 兵装の近代化などは行われていたようですが,機関は石炭炊きレシプロ機関のままだったようです.

 同じく日露戦争で活躍した「磐手」は八雲同様の経緯を辿り,戦争末期には主砲を撤去して高角砲を装備し,対空浮き砲台となりましたが,出雲同様に大破着底.

 やはり装甲巡洋艦の「常磐」は,大正11年に敷設艦となり,一時予備艦とされましたが,昭和15年から現役任務に復帰.
 太平洋戦争の全期間を通じ,敷設任務や警備などについていましたが,昭和20年8月9日,津軽海峡,大湊付近で空襲により大破.
 沈没を防ぐため,大湊港外の海岸に擱座.
 その後,現地で解体されました.

 日本初の弩級戦艦「摂津」は標的艦として活動.
 これまた呉空襲で大破着底.

 このほか戦艦「富士」,装甲巡洋艦「春日」なども大戦末期まで艦籍にありましたが,いずれも練習艦として,内地に係留されたままだったようです.

 これらの艦は全て,機関については換装されないか減少しています.

軍事板,2004/12/12
青文字:加筆改修部分

家の倉庫から,こんな写真が出てきたんだが 〔略〕 出雲かな

軍事板,2011/06/20(月)


 【質問】
 沖縄に配属された自爆ボート部隊について教えてください.

 【回答】
 これは陸軍の「○レ」(マルレ)という特攻モーター・ボート部隊で,「海上挺身戦隊」と呼ばれ,また,その支援部隊は「海上挺身基地大隊」と呼ばれていました.

 沖縄戦当時,慶良間列島には

座間味島
・海上挺進第1戦隊(球16777) 指揮官梅澤裕少佐
・海上挺進基地第1大隊(暁16788) 指揮官小澤義廣少佐
 →20.2.17臨時独立第1大隊改編本島へ移動
・特設水上勤務第103中隊(球8886) 指揮官市川武雄中尉 第二・第三小隊欠,将校・下士官・兵40名,朝鮮人軍夫約300名

阿嘉島
・海上挺進第2戦隊(球16778) 指揮官野田義彦少佐
・海上挺進基地第2大隊(暁16789) 指揮官古賀宗市少佐
 →20.2.17臨時独立第2大隊改編本島へ移動
・特設水上勤務第○○中隊(資料不足にて不明)

渡嘉敷島
・海上挺進第3戦隊(球16779) 指揮官赤松嘉次大尉
・海上挺進基地第3大隊(暁16790) 指揮官鈴木常良少佐
 →20.2.17臨時独立第3大隊改編本島へ移動
・特設水上勤務第104中隊(球8887) 指揮官中山忠中尉 一個小隊-将校・下士官・兵13名,朝鮮人軍夫210名-のみ配備.

と言う部隊が配備されていました.

 海上挺進戦隊は戦隊長以下104名とマルレ艇100隻からなり,各部隊は

海上挺身戦隊(球16777~9)
 戦隊本部 11名(10隻)
  第一中隊
   中隊本部 4名(3隻)
    第一群 9名(9隻)
    第二群 9名(9隻)
    第三群 9名(9隻)
  第二中隊
  第三中隊

という編成でした.
 戦術単位は一個戦隊,戦闘単位は一個中隊とし一コ群を行動の最小単位と定めていました.
 見れば分かるように各艇乗員一名ですが,戦隊長及び各中隊長艇のみ複座の指揮艇で,装備としては機関短銃9挺-資料によっては4挺の説あり-に拳銃・軍刀・手榴弾などを装備していたようです.

 海上挺身基地大隊については,手元の資料が少ないので編成の詳細は判明しませんが,勤務隊と整備中隊などからなり,兵力は約1000~900名であったと推測されます.
 しかし,昭和19年11月に沖縄の第32軍から第9師団の台湾抽出が決定し,翌年1月までに移転を完了,補充として本土から送られてくるはずの第84師団も一旦は派遣が決定したものの,本土決戦用兵力不足や海上輸送の危険性などから派遣中止となりました.

 この為,沖縄本島の防備兵力不足と言う事態を招き,第32軍は昭和20年2月12日に海上挺進基地大隊を,特攻作戦上絶対必要な最少人員以外の勤務隊を主力として,兵力を歩兵大隊に準じて独立大隊として編成し,本島に抽出する事を決定しました.

 作戦上必要と判断された勤務隊の一部と整備中隊主力は残置され海上挺身戦隊の指揮下に入り,また作業援助要員として本島から特設水上勤務中隊が来島し戦隊の指揮下に入った.
 また島民の一般協力や防衛召集による防衛隊編成-集団自決用の手榴弾は防衛隊などの手から住民に配られたケースもある-など増強措置も執られたようです.

 これらの部隊編成は

海上挺身基地大隊残置部隊
 勤務隊(約150~200名程度?)
 整備中隊(約50名程度?)
  人員 
   合計で約200~250名

  装備
   重機関銃2
   軽機関銃5
   小銃約200
   擲弾筒2
   無線機


特設水上勤務中隊
 第一小隊
  第一分隊
  第二分隊
  第三分隊
 第二小隊
 第三小隊

 人員 
  将校・下士官・兵 計40名
  朝鮮人軍夫約250~300名
  
 装備
  小銃約40(朝鮮人軍夫は非武装)

であったと推測されます.
各島の配備人員には差があるので,員数については参考程度に願います.

 なお,慶良間列島で編成した三個臨時独立大隊は,沖縄本島で各兵団に配属され第一線部隊として配備されたが,編成上は歩兵大隊に準ずるものの,充分な訓練期間もなく,装備も小銃を中心としたものであった為,苦戦したと言われています.

 昭和49年に刊行された沖縄県史第10巻(沖縄県教育委員会編)では「鉄の暴風」以降の論旨を基本的に踏襲しているものも多く,○レ艇の出撃中止・自沈命令-暗にこれが集団自決を招いたと言いたいのであろうか?-に関して戦隊長であった赤松大尉の責としていますが,これは事実ではなく,偶然にも米軍上陸時に戦備視察の為に来島中であった第11船舶団長(軍船舶隊長)大町茂大佐の指導と命令によるものでした.
 むしろ赤松戦隊長はこの機を逃さず戦隊全力をもって来航した米軍艦艇への出撃を意見具申しています.
 沖縄の多くの書籍には,この出撃回避を赤松戦隊長の怯懦に起因しているという記述があるそうですが,これは軍隊に対する全く不見識と言うほかありません.
 軍隊という組織にあっては,上官の命令には例え個人的に反対であっても,命令を遵守することが軍紀維持の根幹であり生命であるからですね.

 軍事研究2005年3月号によれば

軍事研究2005年3月号P157・元海上挺身第三戦隊木村幸雄氏の証言

 敵艦は目の前,手の届くところにいっぱい停泊している.まさに好機到来,まもなく中隊長の命令が下るものと誰もが緊張していた.
 私は敵来襲の場合,特に離島の挺身隊戦隊長は状況を分析・判断し戦機を逸しないためにも,独自の見解で出撃命令を出せる権力を持っている者と思っていた.
 ところが軍の指揮系統は,そんな単純なものではなかった.
 特攻艇の運用については3月10日から12日にかけて,船舶団長大町大佐統裁のもと,那覇において牛島軍司令官をはじめ陸・海の首脳や海上特攻関係者が一堂に会し,海上挺身攻撃の兵棋演習が実施された.
 この演習の結果,特攻艇の出撃海面が割り出された事により最大の戦果を挙げるための作戦が検討された.
 軍司令部ではこの作戦を重視し,改めて各線隊長の独断出撃を厳重に禁止し,状況によっては全戦隊を那覇に集めるように指示した.

 ここにもあるように特攻艇の運用に際しては企図の秘匿を絶対的最重要事とし,特攻艇の出撃は軍司令官の決定により軍船舶隊長が命令し戦隊長が実行すると厳重に決められていました.

 目の前に敵が居ながら軍からの出撃命令なく出撃できない戦隊長の苦悩は如何ばかりか,結果的に全特攻艇の1/3を慶良間に集結させていながら,全く戦果を挙げることなく全艇を自沈させる事になった訳ですが,上が現場の手足を縛るとどうなるかという好例のような気もします.

(多事某論)


 【質問】
 震洋とは?

 【回答】
 海軍の体当たり自爆ボートです.

 某海軍特攻ボート戦友会の役員会にお邪魔したときの食事会では,ヴェテランの方々から(といっても私以外は全員そうですが)また興味深い戦中の話を聞かせて頂きました.

 ボート船体左右に付けられた120mmロケット弾(ロサ弾)を跳弾させて,敵艦にめがけた発射訓練や,どうせ縦揺れする海上での命中精度が期待できないのなら,と末期に敵グラマン艦載機への威嚇に山の上にこのロサ弾を固定して撃とうとした話やゴーグルをしなくて発射紐を引っ張った搭乗員がバックファイアで大火傷を負った話などは,戦記マニアとしては初耳でした.

 写真は3月の靖国神社での慰霊祭当日に展示してあった,2人乗りの震洋五型の模型で,操縦席左右にある,仰角設定が可能な可動式のロサ弾発射台が見えます.

 ロケット推進機関の特攻艇と言えば,震洋では実験段階で終わりましたが,ロケットエンジン装備の七型艇もありました.
 ただし最大速度60ノット以上は,小型艇の限界を超えて制御不能な一面もあった様で,三菱長崎造船で造られた試作機は,試験走行中に機首を上下動して波に突っ込んで破損したそうです.

 陸軍のマルレ艇と震洋艇は,1945年1,2月のフィリピン戦で各140隻と50隻が特攻攻撃を行い,米軍艦艇23隻を撃沈または大破させています.
 また,沖縄戦や慶良間群島でも出撃を繰り返し,数多くの犠牲を払って11隻に損害を与えています.
 さらに,終戦直後の8月16日に高知の基地で出撃中に,111名もの爆死者を出す痛ましい大爆発事故が発生しています.

 こういった特殊兵器の話も,関わった方々が物故するとその内容は永久に忘れ去られてしまうので,今後も機会を見て話を聞いて行きたいと思います.

 下記は,震洋隊の戦史をまとめたサイトのひとつです.
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinyo-his.htm

 震洋艇搭乗員だけでも1300名以上の戦死者を出していますが,日本の場合,特攻と言えば航空機特攻ばかり話題に上る傾向がある様に思えます.
 こういった一般に知られざる歴史は,残った者が語り継いで行きたいと思います.

 通しの震洋部隊戦史については,同戦友会役員の方が書かれた
『還らざる特攻艇』益田善雄著/霞出版社
という名著が在ります.
 また,同戦友会前会長や現会長も監修された,
『日本特攻艇戦史』木俣滋郎著/光人社
も陸軍マルレ部隊についても深く書かれてお薦めでしょうか.

 今後,震洋部隊に興味を持つキッカケにでもなれば幸いです.

 余談ですが,横須賀に配属された予科練航空兵達が防諜の理由で階級章の水色の桜を水兵の黄色に変えさせられて士気に影響した話,あるいは進級したばかりの下士官が,海水で下士官章を洗って塩っ気を付けと箔付けをしたといった,本では読めない話が多く聞け,また色々と勉強になった海軍記念日の午後でした.

 こういった当事者にとって辛い思い出は,中々聞く方にも神経を使わせますが,やはり私も無理に聞こうとせず,ヴェテランの方達が話したくなった時に降りてくるのを待つよう心掛けています.
 でもお酒が少し入ると,スムーズに話が引き出せるのも,経験上確かです(笑).

よしぞう(maro') in mixi,2006年05月28日23:54
~2006年05月30日 16:21

(青文字:加筆修正部分)

 なお比島戦では,陸海の特攻艇部隊共に戦果を記録していますが,米軍の対策が急速に進んだためもあり,短期間で無力化されてしまっており,陸海の特攻艇ともに,ロケット推進,ジェット推進による高速化などを模索しつつ終戦に至っています.

 ロサ弾の発射機は,金属製,木製,完全固定のもの三段階程度の仰角設定が可能なのものなど,様々なバリエーションが写真から確認できます.
 模型のものは仰角設定が可能な,もっともよく見られるものですね.

まさとし in mixi,2006年05月29日 21:17

faq39b14s.jpg

よしぞう(maro') in mixi,2006年05月28日23:54

ボーフォード製1/72シリーズ『特別攻撃機コレクション』より
faq101031sp.jpg

 模型というよりこのシリーズ自体の販売に付いて,皆さんのご意見が色々と在るとは思いますが,海軍震洋会の準会員でもあった私にとっては,今だかつて模型化された事がついぞ無かった震洋特攻ボートが,しかも一型艇と五型艇と両方リリースされるとあっては,もはや買うしかなかったのです.

 ちゃんと操蛇もスクリューも再現されており,コレは中々のモノだったので,ネット販売で追加のバラ買いをしました.
 これは,震洋会会長やデチマ・マス部隊のヴェテランの方々へプレゼントしたいと思います.

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月28日19:34
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 震洋のエンジンについて教えられたし.

 【回答】
 第二次大戦中,ロケットエンジンは各国で試作され,主に航空機に使用されました.

 船舶には同様の機構を持つワルター機関として,ドイツで使用されたくらいですが,これは推進力を反動に頼っていないので,今回の話からは置いておいて,このロケットエンジンを船舶に用いようと言う発想で実際に試作までされたのは,追い詰められた日本でしか無かったり.

 元々,1944年3月に軍令部が種々の特攻兵器を提示しますが,艦本四部から対案を3つ提案しました.
 1つ目が30馬力程度の船外機を搭載して速力30ktsを発揮する小型艇,
 2つ目が自動車エンジンを搭載して速力28ktsを発揮する中型艇,
 3つ目が水中翼船で230馬力の船外機を搭載して速力40ktsを出す高速艇です.

 このうち,実現容易なものとして,2つ目の自動車エンジンを搭載した艇が選定され,量産試作に入りました.
 これが所謂,後の「震洋」です.
 2ヶ月で設計,試作し,試験を重ね,10月から1軸艇の量産が軌道に乗ります.
 その頃に,指揮用の2軸艇の試作要求が出され,1軸艇の結果を加味して生産が為された為,試作に当たっての障害はなく,1軸艇の半数が毎月生産されることになり,1軸艇を震洋1型,2軸艇を震洋5型と称することになりました.
 他に魚雷艇代用として3軸艇の震洋8型が製作されますが,こちらは性能不足で,試作のみでした.

 搭載エンジンは,日産のエンジンの方が性能が良かったのですが,陸軍が多数採用していたので,海軍向け割当が無く,結局,トヨタのトラック用エンジンKC型を改造の上採用します.
 改造点は,圧縮比を5.7から6.4とし,普通揮発油に四エチル鉛を添加してオクタン価80の燃料を用い,回転数3200で,出力70~73馬力のものを75~78馬力にパワーアップしています.
 1944年5月から1945年5月まで,月250台のエンジンが供給され,生産が続けられました.
 生産計画では月産600隻,陸海軍合わせて1万隻を9月に用意する予定でしたが,実際には3,000隻しか生産されていませんでした.

 これで実際に本土上陸が行われた場合,軍令部の作戦計画では,敵輸送船2,000隻に対し,海上で撃破するものを24%の470隻と仮定しました.
 その算定の基礎としては,航空兵力による特攻攻撃が推定奏功率6分の1で210隻,水上・水中特攻兵力は出撃前に10%の被害を受け,推定奏功率を蛟竜3分の2,海竜,回天3分の1,震洋10分の1として260隻と計算していました.
 後知恵で見てみると,如何に楽観的な数字か,と思ったりする訳ですが….

 この震洋にRocket Engineを搭載すればどうだろう,と言う考えが浮かんだのが,1944年6月のサイパン攻防戦での敗戦でした.
 この時,航空機は殆ど戦果を挙げられませんでした.
「爆弾が命中しなかった」
「次戦までに航空魚雷の生産が間に合わない」
「ならば,飛行機から海上特攻艇を敵の手前数キロから降ろして,高速攻撃を仕掛ければ,( ゚Д゚)ウマー.」

 こうして夢想されたのが,航空機の爆弾や魚雷代わりの特攻艇で,時速150kts!
 それを研究したのが三菱造船.
 一方,陸軍は陸軍で,火薬ロケットで高速艇を造ったものの,結果が良くない為,液体ロケットでの特攻艇研究を三菱造船に命じていたり.
 例によって,例の如し.
 結局,三菱の担当者が陸海軍での統一仕様を求めたのに,頑としてこれを受付けず,製作時の障害になっていたりします.

 さて,そんな対立にもめげず,三菱造船では最初に過酸化水素型の推力750kgのロケットを試作します.
 時速150ktsに最適な船形は手探りで,余りに高速な為,試験水槽で台車が止まらず,負傷者8名を出して漸く2つの船形が決まりました.
 こちらは震洋6型で,1型艇の船体を改造して三菱長崎で完成.
 1945年1月に先ず試運転が行われますが,500m航走した所で50ktsに達したものの,燃焼筒の加熱とその加熱部に燃料がこぼれ落ちた為に火災が発生し,あっと言う間に焼失します.
 この時にテストしていた技師2名は命からがら海に飛び込み,事なきを得ました.

 一方が固体ロケットを10基搭載した震洋7型ですが,こちらも60ktsに達したところで波に頭を突っ込んで破損してしまいます.

 取り敢ず6型が有望とし,燃料漏れの改善,燃焼室の冷却法改善,船形の改良などが行われますが,相変わらず船底の破損は続き,遂には飛行艇の艇底に似た格好のボートを造ったり,それに水中翼を付けたりして波に対する安定は向上したものの,空中でのバランスが悪くなって,成功しませんでした.

 それでもめげずに試作を続け,何とか安定した運転が可能になったのですが,長崎造船所が原爆渦に見舞われる等して,結局,物になりませんでした.

 そんな狂気のものは,実用化されない方がマシではありましたけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月09日22:55


 【質問】
 太平洋戦争に駆り出された漁船についての本はありませんか?

 【回答】
 漁船つ~と,この辺が鉄板かなぁ.
『常民の戦争と海』(中村隆一郎著・東方出版)

 ちょっと違って内航客船の話だけど
『金十丸,奄美の英雄伝説』(前橋松造著・南方新社)
も面白いですよ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2011/09/26(月)
青文字:加筆改修部分

 「戦う日本漁船」買ったが,さすがの大内先生でも漁船戦記は無理だったか.
 毎回書き下ろしなんだし,売れないと次回作が出なくなるんじゃないかと思って買い支えしているけど,漁船本はちょっとどころじゃなく物足りない印象・・・
 ちょっと詳述してあると思えば,特設哨戒艇の話だったし.
 体系的な記録が残ってないのは確かだけど,大内センセの調査は甘いと思う.
 地方の町村史や漁業史には,それなりにエピソードも残ってる.

 そろそろ新しい分野を開拓して欲しいとも思う.
 次は「大発の戦い」とか「内火艇航海記」とか,さらに小さい方へいくか,もしくは全然違うジャンルに進まれるか.



861 :名無し三等兵:2011/09/27(火) 18:30:40.97 ID:???

> 「内火艇航海記」

つ 「先任将校」光人社NF文庫

軍事板,2011/09/26(月)~09/27(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争中の日本に,水上機母艦と呼べるものは何隻あったか?

 【回答】
●八八艦隊の随伴タンカーからの改造:能登呂 神威(かもい)

●実体は多目的艦:千代田,千歳,瑞穂,日進

●厳密に言うと飛行艇母艦:秋津洲 千早(起工中止) 5031~33号艦(起工中止)

●民間船改造:神川丸,香久丸,衣笠丸,山陽丸,讃岐丸,相良丸,聖川丸,君川丸,国川丸,富士川丸(短期間就役後,航空機運搬艦に変更)

●日本初の水上機母艦:若宮(戦争前に引退)

●人によっては,無理矢理この仲間に入れそうなもの:速吸(「はやすい」と読む.水上機を搭載した給油艦.本当は「流星」攻撃機を載せたかったらしいが)

https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/345885355834212354
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/345885598776705025
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/345885893413990400


 【質問】
 水上機母艦なら空母ほどの大掛かりな改装は要りませんよね?
 なら日本海軍は商船改造空母より,商船改造水上機母艦を多数揃えればよかったんじゃないですか?
 日本には水上戦闘機も水上爆撃機ありましたし.

 【回答】
 水上機母艦をつくって何をやらせるか?という部分を考えてください.
 滑走路を作らずに済むという利点のあった水上機基地や飛行隊も,大戦後半では閉鎖されたり陸上機に機種改編したりしています.
 水上戦闘機や水上爆撃機ってのがあっても,それが戦闘で役に立たないのでは,戦力として整備する意味もありません.

 そして戦闘に役立たせようにも,水上機の性能の限界はいかんともしがたいものがあります.
 また,水上機を収容するには,母艦はいちいち停船して,一機ずつクレーンで持ち上げないといけません.

軍事板

特設水上機母艦
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 水上機母艦「能登呂」seaplane tender NOTORO について教えてください.

 【回答】
 「能登呂」は元は1920年(大正9年)8月10日に竣工した,八八艦隊計画の給油艦「能登呂」型10隻の第一艦だったが,水上機母艦「若宮」老朽化により,その代艦として1924年(大正13年)に佐世保工廠にて水上機母艦へ改装されたもの.
 船尾機関型のタンカー船型であったため,「若宮」に比べて高い航空機収容力を有し,昭和初期の海軍航空戦力を担った.
 艦橋前後の上甲板も広く,艦内スペースも余裕があり,格納庫,軽質油庫,飛行機修理工場,発動機調整所など航空関係の諸施設を充当するには好都合であった.
 ただし,給油艦としての機能も,そのまま残されていた.
 1934年(昭和9年),類別が特務艦(運送艦)から,同年の艦艇類別変更で新設された水上機母艦へと変わり,正式に軍艦籍となった.
 1937年,搭載機の大型化に対応し,天蓋を撤去.
 日中戦争勃発に伴い,第3艦隊付属となり,上海上陸作戦に搭載機をもって参加.
 以降,大陸沿岸での各作戦を支援した.
 1941年(昭和16年)7月,千歳型,瑞穂,日進の艦隊配備,特設水上機母艦の順次徴用に伴い,「能登呂」は搭載機を降ろして佐世保鎮守府警備艦となる.
 大戦中は水上機母艦籍のまま,航空機輸送,重油輸送に従事.
 1943年以降は,数回の雷撃による損傷修理に終始.
 終戦時はシンガポールにて未修理,行動不能状態のまま,オイルタンクとして使用されていた.
 戦後,海没処分.

 艦名は,樺太の西能登呂岬に由来する.

 【参考ページ】
衣島尚一『日本海軍艦艇図面集3 航空母艦,水上機母艦,潜水艦』(月刊「モデルアート」5月号臨時増刊 1999)
http://www4.ocn.ne.jp/~d98/notoro.html
http://dougakan675.blog49.fc2.com/blog-entry-97.html
http://battleship-pictures.xrea.jp/photograph_p/notoro.php
http://www.asahi-net.or.jp/~zq9j-hys/NOTORO.htm
http://www.combinedfleet.com/Notoro_t.htm

側面図
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/06/06 20:00
を加筆改修


 【質問】
 水上機母艦「神威」について教えてください.

 【回答】
 上海事変における「能登呂」の実績が良好であったことから,同様の艦をもう一隻持つことにし,「能登呂」と同じく給油艦から改造されたのが,この「神威」.
 「かむい」ではなく「かもい」と読む.
 元は,電気推進艦研究のためアメリカに発注され,ニューヨーク・シップビルジング社で建造された艦で,1921.9.14起工,1922.9.22竣工している.
 それを1932年から改造に着手し,翌8月に完成した.

 「能登呂」よりも本格的な改造を施され,搭載機が増えて九五式水偵が常用11機+補用1機となり,航空作業甲板には,より運用し易くするための運搬軌条も設けられた.
 また,竣工時には船首楼と艦橋および機関室との間に,天蓋を設けていたが,1939年,飛行艇母艦に改装されることとなって,軌条も天蓋も撤去された.

 1933年(昭和8年)末,航行しながら洋上で水上機を収容できるようにするためということで,当時ドイツで実用化されたハイン・マット・リールを装備した.
 しかしこれも1938年の修理の際,デリックポストのみを残して撤去されている.

 「神威」は1937年の第二次上海事変から実戦に参加.
 太平洋戦争開戦時には第4艦隊に所属し,ウェーク・ギルバート島攻略などに参加した.

 太平洋戦争中は,航空部隊の補給・輸送任務に従事していたが,1944年初頭にマカッサル付近で潜水艦の雷撃を浮け,損傷.
 その修理の際に,水上機母艦としての設備を撤去し,以後は給油艦として使用された.
 1945年4月,香港にて空襲を受け,大破・行動不能状態となり,そのまま放棄.
 終戦時も香港にあり,戦後,英国によって解体された.

 【参考ページ】
衣島尚一『日本海軍艦艇図面集3 航空母艦,水上機母艦,潜水艦』(月刊「モデルアート」5月号臨時増刊 1999)
http://ameblo.jp/pico3298/entry-10002200016.html
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_kamoi.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~zq9j-hys/KAMUI.htm
http://www.geocities.jp/usio_no_ibuki/ship_page_Auxiliary_vessel/Kamoi.htm
http://www.combinedfleet.com/chitosesp_t.htm
http://www.modelshipgallery.com/gallery/cv/ijn/kamoi-700-jl/jl-index.html

側面図
(こちらより引用)

写真
(こちらより引用)

写真および模型
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/07/04 20:00
を加筆改修


 【質問】
 特設航空機運搬艦に飛行艇は積めますか?
 第11航空艦隊の各戦隊に運搬艦が配置され,陸攻を運搬していましたが,飛行艇部隊の横浜空・東港空にも当然ながら補充が必要なわけで,果たして大艇が運搬艦の格納庫に納まるのだろうかと疑問が沸いた次第です.

(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

 【回答】
 飛行艇は搭載できません.大艇の補充は基本的には空輸になっていた筈.

 空運乙は,若干機(2~3機)の水偵を後部上甲板上に露天格納するほか,主翼,胴体を分解して船倉内に10機が搭載出来るようになっています.
 また,前後部の船倉,甲板間貨物倉の大部分がドラム缶入りのガソリン,爆弾,魚雷の格納所であり,前部は人員と各種雑物件の収容所となっていました.

 りおん丸の場合は,前部中甲板区画は航空隊兵員,飛行場設営隊員など500名分の居住区画,船橋楼内の上甲板区画が船固有の兵員室,船尾楼は准士官以上の居住区で,40名収容.
 貨物倉内の一部には機械工場,木工工場,鍛冶,熔接工場が設置され,石炭庫と真水タンクを増設しています.
 なお,名古屋丸は潜水母艦からの改造であり,船倉内に解体機を搭載しませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 軍艦の種別の接頭語である「仮設」「特設」「仮装」「特装」の区別がよく分かりません.

 民間船のふりをして奇襲攻撃をする軍艦を「仮装**艦」というらしいですが,資料によっては「仮設**艦」とか書いてあったりしますし・・・.
 「特設**艦」とは民間船を徴用して軍艦にしたものを言うらしいのですが,例えば日本帝國海軍の空母飛鷹,隼鷹は民間の客船の徴用改造艦なのに「特設空母」とは呼ばれてませんし・・・.

 正直意味がさっぱりです.
 どなたかご教授下さい.

 【回答】
 うろ覚えですが,「特設」は法令用語です.

 日華事変勃発前に,徴傭船を特設軍艦・特設特務艦船・特設特務艇に指定する制度が設定されました.
 日露戦争でバルチック艦隊を発見した信濃丸も,太平洋戦争でインド洋通商破壊をした報国丸も構造・任務そのものは「仮装巡洋艦」ですが
 信濃丸は法令がない時代の船なので「仮装巡洋艦」,報国丸は法令に従って「特設巡洋艦」です.

 「特設空母」は,春日丸・八幡丸・出雲丸・橿原丸が指定されていますが,呼ばれているのは空母艤装中に限られ,改造完了とともに正規軍艦に編入されています.
 新田丸とりおでじゃねいろ丸は,特設空母時代がありません.
 新田丸は艤装完了まで海軍籍になく,りおでじゃねいろ丸は艤装完了まで特設雑用船でした.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2004/08/16
青文字:加筆改修部分

仮装巡洋艦「信濃丸」
特設巡洋艦「愛国丸」
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本帝国海軍が保有していた特設艦艇の在籍数を教えてください.
 といっても曖昧すぎるので,太平洋戦争海戦から終戦まで一度でも艦籍を置いていた艦で教えてください.

 【回答】
特設航空母艦×5
特設水上機母艦×9
特設航空機運搬艦×11
特設巡洋艦×14
特設敷設艦×9
特設急設網艦×2
特設水雷母艦×4
特設潜水母艦×7
特設掃海母艦×3
特設砲艦×91
特設捕獲網艇×43
特設防潜網艇×8
特設敷設艇×6
特設駆潜艇×265
特設掃海艇×124
特設監視艇×407
特設工作艦×6
特設港務艦×2
特設測量艦×2
特設電纜敷設船×3
特設病院船×7
特設救難船×8
特設運送艦船(給兵)×13
特設運送艦船(給水)×9
特設運送船(給糧)×36
特設運送船(給炭)×8
特設運送船(給炭油)×14
特設運送艦船(給油)×76
特設運送艦船(雑用)×247

ゆうか ◆9a1boPv5wk in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 商船が日本海軍に特設艦艇として編入される場合,乗員は海軍の軍人がやってくるの?
 特設巡洋艦のような戦闘任務だと,戦闘艦乗務経験のある艦長じゃないと運用できそうにないので疑問です.

 【回答】
 乗組員ごと徴用されるのが普通です.
 当時の商船乗りは,海軍予備員の肩書きを持っているので,そのまま予備士官・予備下士官などに任命されて,航海及び戦闘に従事することになります.

 ダメコンにしても,その船を知り尽くしている元々の乗員の方が有利でしょ?
 平時の商船でも,座礁したりして,応急の浸水対策が必要になることはよくあります.
 商船士官は,海軍予備士官として,最低限の軍事教育を受けています.
 そもそも戦争半ば頃までの日本海軍は,ダメコンにあまり力を入れていません.
 商船員だからって不利にはなりません.

 発足から大正の頃までの海軍予備員は,名前だけの名誉職に近かったらしいのですが, 昭和に入ってからは海軍の演習の時にも招集されて勤務に就くようになって, そのときの評価としては,
「戦術判断などに関しては現役軍人に一歩譲るが,船の運用そのものや,見張りなどの技術に関してはむしろ優れていることも多い」
というようなものだったそうです.

 戦術判断に関しては,兵学校出身の将校(現役復帰した予備役でもOK)が数人いればどうにかなるし, 元の乗組員をそのままスライドさせても大きな問題はないと思いますが.

 ただし,火砲の操作などについては,本職の海軍軍人が派遣されてくるのが普通.

 特設巡洋艦だと,戦闘部署には予備役の士官を現役復帰させて,配置していますね.


 【質問 kérdés】
 海防艦「占守」について3行で教えてください.
Kérem, mondja meg az tengerparti védelmi hajó SIMUSU a három sorban.

 【回答 válasz】
 北方海域の漁業保護のために建造された「占守」型の1番艦で,1940.6.30竣工.
 しかし太平洋戦争では終盤まで,東南アジア方面での船団護衛任務に従事.
 終戦後,復員輸送に従事した後,賠償艦としてソ連に引き渡され,1959年に除籍となった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://romanship.web.fc2.com/sonota/shimusyu.html
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_simushu.htm
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/74656168b0deb5dcd7ac055d42a4ecd7

終末公試中の占守(1940年6月、日比沖)
(wikipediaより)

【ぐんじさんぎょう】,2017/5/16 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 海防艦「国後」について3行で教えてください.

 【回答 válasz】
 北方海域の漁業保護のために建造された「占守」型の2番艦で,1940.10.3竣工.
 アリューシャン列島や千島列島など,主に北東方面海域で行動したが,キスカ島撤退作戦従事中の1943年7月26日,国後は軽巡洋艦阿武隈に衝突.
 終戦後は復員輸送に従事したが,1946年6月に御前崎で座礁して,さらに救援にきた駆逐艦神風も座礁,2隻とも放棄された.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/transport/kaibokan.htm
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/74656168b0deb5dcd7ac055d42a4ecd7
https://www.jacar.go.jp/glossary/fukuin-hikiage/column/column1.html
http://kansenkun.web.fc2.com/sabu03/sabu03-06/simusyu/simusyu.html
http://rouenn.blog.fc2.com/blog-entry-110.html

熱田島旭湾の国後(1942年)
(wikipediaより)

【ぐんじさんぎょう】,2017/5/18 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 海防艦「國後」の艦歴は?
Milyen történelem volt Kunasziri?

 【回答 válasz】
1939年 3月 1日 鶴見製鉄造船(後の日本鋼管)にて起工
1940年 5月 6日 進水
      10月 3日 竣工
1941年11月20日 単冠湾において,南雲機動部隊(第一航空艦隊)の入港に備え,哨戒にあたる.
      12月~   津軽防備隊に所属し太平洋戦争に参加.津軽海峡警備に従事
1942年 1月15日~ 千島防備部隊に編入され,大湊-千島列島間で行動
       6月     アリューシャン攻略作戦支援
       7月     本籍を舞鶴鎮守府に
      11月25日 新編された千島方面特別根拠地隊指揮下となる
1943年 上旬    北方部隊(第五艦隊)や千防部隊の僚艦と共に幌筵島方面で行動
       7月 5日 ケ号作戦準備にともない,北方部隊に編入
       7月 7日 ケ号作戦(キスカ撤収作戦)のため,幌筵島を出撃.特設運送船「日本丸」指揮官指揮下で同船を護衛
       7月15日 諸条件が整わず,第一次突入作戦中止
       7月22日 第二次作戦のため,幌延再出撃し,再び日本丸を護衛
       7月23日~24日 濃霧のため長波,日本丸,國後,多摩が後落
       7月26日17時44分 濃霧のため軽巡「阿武隈」右舷中央部に衝突.國後は艦首部に軽微な損傷
       8月 1日 幌延帰投.千島方面特別根拠地隊に編入
       8月 2日~ 北方部隊編入を解かれ,再び船団護衛任務に従事
       8月 5日 千島方面特別根拠地隊から改編された千島方面根拠地隊に編入.以後,船団護衛に従事
1945年 4月10日 大湊警備府第百四戦隊に編入
       8月15日 北海道方面にて終戦を迎える
      10月 5日 帝国海防艦籍から除籍
      10月12日 帝国艦船特別輸送艦と呼称され,以後,復員輸送に従事
      12月 1日 第二復員省の開庁により舞鶴地方復員局所管の特別輸送艦に定めらる
1946年 6月 4日 輸送任務中,静岡県御前崎付近で座礁.船体は放棄される
       6月26日 特別輸送艦の定めを解かれる
       8月    解体開始
1947年 7月    解体完了

 【参考ページ Referencia Oldal】
『丸スペシャル 海防艦』(潮書房,1979)
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_simushu.htm
http://mimizun.com/log/2ch/army/1126222901/

mixi, 2017.5.19


 【質問 kérdés】
 キスカ撤退作戦の際に起きた,海防艦「國後」と軽巡「阿武隈」との衝突事故について教えてください.

 【回答 válasz】
 時は1943年7月26日のこと.

 その4日前の夜,キスカ守備隊を救わんと,幌筵を出発した第一水雷戦隊でしたが,23日,濃霧のため駆逐艦長波,補給艦日本丸,國後,軽巡多摩が後落.
 この中で國後のみ電話連絡さえ途絶えたのでありました.
 24日,霧の晴れ間を利用して高角砲の試射をしましたところ,その砲声を聞きつけた多摩・長波・日本丸は水雷部隊に合同できたものの,國後だけは依然として行方不明.

 26日夕刻,水雷部隊は,先頭から日本丸 - 阿武隈 - 多摩 - 木曾 - 島風 - 五月雨 - 夕雲 - 風雲 - 秋雲 - 朝雲 - 薄雲 - 響 - 若葉 - 初霜 - 長波の単縦陣を形成,各艦距離600-400m,速力11ノットで霧中浮標を曳航しながら航行しておりましたところ,17時44分,霧中視界500m以下の霧の中から國後が突然現れたものだから,さあ大変.
 阿武隈の右舷中央部にゴツンと衝突してしまいます.
 一方,國後は艦首を損傷.
 しかし後進をかけ,阿武隈と多摩との間を何とか通り抜けたのでした.

 おかげで隊列は大混乱.
 単縦陣の先頭2番目を航行する阿武隈が急に減速したものですから,後続の艦も皆,急減速をかけることになってしまいました.
 先頭車両が急ブレーキを踏んだようなものです.
 おかげで,今度は若葉と初霜が衝突してしまいます.
 慌てて初霜が後進しますってぇと,今度は初霜は長波の左舷に衝突.
 とんだ多重衝突となってしまいました.
 これで,いちばん割を食ったのは若葉で,他の3隻は軽傷だったのに,若葉は最大速力14ノットに低下して,幌筵に帰投する羽目になってしまいます.

 しかし,まあ,禍を転じて福と為すと申しますか,この事故で水雷部隊のキスカ島突入予定日は28日から29日に延期になったのですが,これがかえってアメリカ軍の意表をつくことになります.
 29日,キスカ島に突入した水雷部隊は,守備隊将兵の撤収に無事成功.
 7月31日から8月1日にかけて,幌筵島に帰投できたのでありました.

 一方,アメリカ軍は30日,キスカ島に対して艦砲射撃を開始.
 8月15日に上陸しましたが,もぬけの殻だった島には犬が2頭残されていただけだったそうです.

 さて,この國後,終戦まで上手く生き延び,復員輸送に当たりますが,そこでの最期のドタバタは,これは次回の講釈で.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://mokeidaisuki.blog.so-net.ne.jp/2009-07-14
http://www.stampmates.sakura.ne.jp/Pcfic/Usa-Aleutian.html
http://www004.upp.so-net.ne.jp/hanain/grandfleet/kiska.html

mixi, 2017.5.19


 【質問 kérdés】
 海防艦「擇捉」について3行で教えてください.
Kérem, mondja meg az tengerparti védelmi hajó ETOROFU a három sorban.

 【回答 válasz】
 太平洋戦争開戦により計画された「擇捉」型1番艦で,占守型の工程を簡易化した略同型艦.
 1943年5月15日,竣工し,主として内地-台湾間の護衛に従事.
 戦後,復員輸送に従事した後,1947年9月7日~10月13日にかけて解体された.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.iris.dti.ne.jp/~miyazaki/gallary/warship-1.htm
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_etorohu.htm
http://romanship.web.fc2.com/sonota/etorofu.html

「択捉」
(wikipediaより)

【ぐんじさんぎょう】,2017/5/17 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 海防艦「日振」について3行で教えてください.

 【回答 válasz】
 日振(ひぶり)は日振型海防艦の1番艦として,1944.6.27,竣工.
 8.2~8.5まで佐世保海軍工廠で主機械の修理を受けた後,8.5~8.12,門司から台北へ向かうモタ22船団を護衛.
 8.17から,本土からマニラへ向かうヒ71船団の護衛に加わったが,8.22,マニラ西方にて米潜水艦ハーダーによる雷撃で撃沈された.

 大戦後期の護衛艦艇には,こうした儚い寿命のものも多い.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_hiburi.htm
http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/pdf/hi71.pdf
http://www.down.ne.jp/ish/ijn/axhist/hiburi.html
http://hitujimokei.seepmodel.com/work/hiburi/ ※模型写真あり

【ぐんじさんぎょう】,2018/2/17 20:00
を加筆改修


 【質問】
 戦時中までの日本の気象観測船について教えられたし.

 【回答】
 1912年4月15日,Titanicが氷山に衝突して沈没しました.
 乗務員の生還率24%,一等船客の生還率は62%,二等船客は41%,三等船客は25%で平均生還率は32%となっていますが,それでもTitanicからのSOS無電によって,それだけの人が氷海から救い出された訳です.

 それは兎も角,この巨船の沈没は,英国は元より各国にも衝撃を与えました.
 1913年,「海上に於ける人命の安全に関する国際会議」がロンドンで開催され,SOLAS(Safety Of Life At Sea)条約が起草されました.
 これは第一次大戦によって日の目を見ませんでしたが,1929年,第二回の会議が開催され,この会議に於てSOLAS条約が全会一致で採択され,1933年1月1日から発効することとなりました.

 この結果,船体構造の強化や救命・消火・無線通信施設の充実,SOSの24時間聴取の義務づけが為されることになりました.
 又,海上気象情報の船舶への伝達が開始される様になります.

 日本では,SOLAS条約よりも前,1914年12月11日から,中央気象台の暴風警報が逓信省海外無線電信局から海上船舶に転送される様になりました.
 その後,第一次大戦は日本に空前の海運ブームを齎し,船舶に対する気象情報提供のニーズが高まります.
 折しも,1917年は台風の当たり年で,9月に関東を直撃して死者500名,10月には全国で死者1,300名と言う惨事を引き起こしていました.

 この為,暴風警報の精度向上や早期発表の要求が海運業界から出される様になり,1920年8月,兵庫県立神戸測候所の敷地に,関西の海運業者達の寄付により,海洋気象台が開設されました.
 これは現在の神戸海洋気象台の前身に当ります.
 なお,当初,この海洋気象台には無線電信の設備が無く,これでは機能を発揮出来ないと憂慮した中橋徳五郎文相(彼は大阪商船社長など関西財界の重鎮でもある)は,有吉忠一兵庫県知事(神奈川県知事から兵庫県知事に横滑りした内務官僚)に働きかけ,阪神地区の有志の間を奔走して無線電信発信装置を設けました.
 因みに,1912~18年の中央気象台の総経費は年間7万円で推移しており,1920年に業務の拡大で20万円の予算を扱う様になりますが,寄付の総額はその総経費を軽く超える30万円以上に達し,如何に当時の日本の海運業界が潤っていたかが判ります.

 海洋気象台では敷地内に建てられた高さ55mの無線柱を使って,1922年12月4日から気象実況と暴風警報の無線放送を開始,これは世界最初の気象専用放送設備であり,NHKのラジオの仮放送よりも2年前の事です.
 当時の無線受信設備は,陸上で10~20台,船舶で400~500台でしたが,関東大震災で海洋気象台の無線施設の威力が実証されたことから,中央気象台も無線施設を建設し,1925年2月10日から無線放送を開始しました.
 海洋気象台は他に,全国20カ所の観測を無線電信で受信して,1日3回取り纏め,一定時刻に放送していました.
 これにより,受信設備を持つ船内では居ながらにして太平洋地域の天気図を作成することが出来ました.

 1923年8月から海洋気象台では,「北太平洋天気図」を発刊することになります.
 これまた,世界最初の広域海洋天気図であり,海での諸現象の解明に貢献をすることになり,又,太平洋戦争時には,アリューシャン列島など各地の気象情報の殆ど唯一の資料として軍に利用されることになるものでした.

 この様な様々な効果を目の当たりにして,各地でも海洋気象台設置の要求が強まり,第2号として,1942年8月に函館海洋気象台が開設されています.
 現在は,更に長崎と舞鶴に海洋気象台があり,4つの海洋気象台と東京の気象庁の5カ所で分担して日本近海の気象観測を行っています.

 ただ,海洋気象台はあくまでも陸地に設置されたものであり,海上の実際の気象を把握するには,その海域を航海していた船舶のデータを収集するしかありませんでした.
 出来れば,こうしたデータも自前で収集したいとして,毎年の様に予算の要求を出していましたが,中々その必要性が認められず,1921年に「海洋丸」と言う僅か3トンの内火艇が建造されるに止まりました.
 それでも,海上観測に関するノウハウの蓄積の為,「海洋丸」を用いた観測は大阪湾や琵琶湖で行われていました.

 そして,海洋観測の為の専用船が建造されたのは,1927年の事.
 トン数僅か125トン,全長27.4m,全幅5.5mと言う正に漁船並の船体を持つ「春風丸」が建造され,任務に就くことになりました.
 この船は,小さな船体に似合わず,大車輪で働き,北はサハリンから南は宮古島まで,日本の海域という海域に出没し,3年間で総航海日数539日,総航海距離30,000kmと,酷使と言ってもいいくらいの使われ様でした.
 1930年の観測では,日本海に浅瀬を発見し,これを春風堆と名付けていますが,これは現在の北大和堆と呼ばれています.
 これが何故,「春風堆」から「北大和堆」となったかと言えば,海軍水路部の測量船「大和」が精査した為です.
 「大和堆」にしてからが,元々は水産講習所の天鴎丸が発見したもので,測量船「大和」が精査して命名していたりします.

 春風丸の業績を糧に,更に気象台や大学,海軍が海洋観測船を建造していきます.

 国内の観測網を整備し,国内沿岸の海洋観測が曲がりなりにも行われていたのですが,一つ,手を付けられていない海域がありました.
 1934年9月21日,九州南海上から北上してきた台風が室戸岬に上陸,室戸岬の観測地点では,当時世界記録となる912hPaの気圧を観測し,その発達の儘,近畿地方を襲い,大阪湾に高潮を発生させ,この為,阪神地方の低地地域を中心に死者,行方不明3,036名などの人的物的大損害が発生しました.
 因みに,室戸台風の調査報告書で使われた「高潮」と言う言葉,元々は関西地方での言葉だったのですが,これを機会に全国に広まっていくことになります(関東では高潮は風津波と呼ばれていた).
 また,特報(現在の注意報)と警報の二種類に気象の通告が分かれたのもこの室戸台風後の事です.

 この結果,海洋観測での穴を防ぐべく,南方海上の気象観測拠点が強化され,硫黄島測候所,ラサ島測候所,南大東島測候所の開設と,気象観測船の建造が計画されました.
 観測船の建造は,東北地方を襲った大凶作の対策からも要請されました.
 この年の大凶作は,三陸地方沖の海面水温が前年に比べて著しく低いことが指摘された事もあり,従来の陸上の気象観測だけではなく,親潮や黒潮の動向を観測する必要がある,とされた為です.
 もう一つ,僻地に造る測候所の職員交代や,生活必需品,観測機器の輸送なども任務とされていました.

 1937年8月,兵庫県相生の播磨造船所で竣工し,凌風丸と名付けられた気象観測船は,従来よりも大きな1,179トン,全長77m,全幅11mであり,しかも,珍しいことに建造中の人身事故が皆無と言う船でした.

 以後,7~10月は京浜や阪神を基点として小笠原諸島と南西諸島の間を航海して,台風の発生,接近を警戒し,その空白海域のデータを集める地道な作業に就き,11~3月は,オホーツク海に赴き,海面,海中温度,塩分の観測を行って,北日本太平洋側の観測所と共に,東北地方の凶冷予測資料を収集します.
 その間,離島測候所の建設材料の運搬,測候所職員の交代,生活必需品や観測器材の補充などフル稼働をしていました.

 又,小型の観測船として,1936年に八戸測候所に親潮丸(17トン),宮古測候所に黒潮丸(31トン),1938年には大島測候所に朝潮丸(58トン)が建造され,太平洋戦争の最中にも1942年8月,函館海洋気象台の為に夕汐丸(143トン)が建造されていました.
 ただ,凌風丸はその観測設備の優秀さから,海軍に徴用されてしまい,南方海洋観測も頓挫してしまいました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/14 21:45


 【質問】
 「間宮」について教えてください.

 【回答】
1)
 「間宮」は日本海軍において,艦艇や戦地に食糧を供給するために建造された補給艦であり,海軍では「給糧艦」と呼ばれた.
 艦内の冷蔵庫や冷凍庫には,1,000t食料・食材――この量で,1万8千人の艦隊将兵の食事を約3週間まかなう事ができる――を貯蔵でき,また,専門の職人が軍属として乗り組み,アイスクリーム,もなか,饅頭などの嗜好品から蒟蒻,豆腐などの日本固有の食品まで多くの加工食品を製造した.
 さらに,「間宮」には艦隊の無線検知艦としての役割もあり,充実した無線設備が搭載され,艦長も通信畑のベテランが任命されることが多かったという.
 大戦中も食糧輸送に従事していたが,1944.12.20,サイゴンからマニラ方面へ糧食輸送中,南シナ海,海南島東方において,米潜水艦「シーライオン」 (SS-315) の雷撃を受けて撃沈された.

2)
 ブラウザ・ゲーム「艦これ」におけるアイテムの一つで,他の艦艇の疲労を全回復させる.
 史実の「間宮」はれっきとした軍艦であったにも関わらず,このゲームでは
1回だけの使い捨てアイテムでしかないところが理不尽.

3) いいえ,それは「まみや」違いです.
 「魔実也」で改めて検索し直してください.

 【参考ページ】
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_mamiya.htm
http://houzankai.blog.fc2.com/blog-entry-1621.html
http://www13.plala.or.jp/gunreibu/kyuuryoukanmamiya.html

ブラウザ・ゲーム板,2013/06/30(日)
青文字:加筆改修部分

「間宮」写真
(こちらより引用)


(こちらより引用)


 【質問】
 日本はアメリカ軍の様に魚雷艇を活用できなかったのでしょうか?

 【回答】
 日本海軍は根本的に魚雷艇と言うものの本質を見誤り,研究も怠り,それ用のエンジンもボルトやナットが不足して量産出来ず,30Kts/hが出る艇など殆ど居ない艇は,全くと言って良い程戦力になっていません.
 そもそも,南太平洋の島嶼戦で,泥縄式に作った訳ですから.

 しかも,あの手の艇は,制空権があればより有利になる訳ですが,制空権が無ければ,良い的にしかならなかったり.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2007/08/21(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 特設工作艦について教えてください.

 【回答】
 「特設」と言うのは,民間の船を徴用して,海軍の籍に入れたものです.
 特設工作艦(工作船でなく)なら,民間の6,000総トンの貨物船に工作施設を備え,損傷応急修理を目的とし,工作施設は戦況の最後まで機能を果たさなければならず,しかも,この艦を失えば,味方の修理能力が落ちることから,敵からも執拗にねらわれたため,損耗の最も多い艦種です.

 その施設は,例えば,上甲板に作業場,飛行機工場,電気・航海・光学・無線工場を持ち,第二甲板には各科倉庫,機械工場,工具室,魚雷工場,木工場を,船艙内に新設した甲板には索具および塗具倉庫,救難要具および鋼材などの材料庫,造兵・造機材料庫,補機室,鍛冶工場,溶接工場,造船・造兵材料庫,そして,船艙には弾薬庫,救難関係倉庫,糧食庫,修理材料庫,鍛冶工場,鋳物工場を備えています.

 専門の工作艦には,明石,そして旧式戦艦の改造である朝日がありましたが,1941年の松栄丸を 皮切りに,山彦丸,八海丸,山霜丸,白沙,そして,2TM改造の慶昭丸が改造されています.
 これら特設艦は全部撃沈されています.

 たとえば山彦丸は1944年1月10日に,小笠原付近で暴風雨下,機関室に被雷.
 航行不能となり,同航船山国丸が曳航して八丈島八重根湾で避泊した時に,被雷箇所から切断し,後部が沈没.
 前部だけでも座礁させるべく曳航中に再度被雷したため,前部も沈没したと言うことです.
 戦死者は4名.
 八丈島とはいえ内地で,しかも,僚船がいて,湾内だったのが不幸中の幸いでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/01/22
青文字:加筆改修部分

 山彦丸でぐぐってみたら,貨物船時代の山彦丸の写真が載ってるページがあった.
http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa1/showa1_hokubei_yamashita.htm

軍事板,2005/01/22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本陸軍は飛燕をニューギニアに出した際,エンジン修理用の艦船を準備し送ったと思うのですが,この船について詳しいことをご存知の方は是非お願いいたします.
 たしか,「ニューギニア航空戦 幻」という本に出てきたと記憶しています.

 【回答】
 日本陸軍は,船舶航空廠の名で,2隻の航空機整備母船を保有していた.
 片方は,ラバウル方面に進出した第17船舶航空廠の弥彦丸.
 エンジン整備のほか,プロペラ製造などもできた.1944年にフィリピンへ移動中撃沈.

 以下に若干の解説あり.
http://navy.ap.teacup.com/yamanekocave/194.html
http://www.warbirds.jp/ansq/1/A2000817.html

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍の,特設巡洋艦を用いた通商破壊戦は,なぜ戦果低調だったのか?

 【回答】
 『特設艦船入門』(大内建二著,光人社NF文庫,2008.4)では,その問題点として,

・日本海軍は報国丸,愛国丸の二隻(他に清澄丸も作戦支援として参加)を通商破壊戦に展開させていますが,投入兵力が少なく,作戦期間も短い:
 日本が投入したのは大戦中この二隻だけで,作戦期間も二,三ヶ月程度.
 ドイツは十隻を投入し,三次に渡って三,四隻を半年から一年以上展開.

・通商破壊戦に不慣れ:水偵が発見した商船に停船警告の為に爆弾を投下したり(本船が接近するまでに報告されてしまう),戦果が少ないという理由で早期に切り上げたり(独海軍は成果が少なくとも辛抱強く作戦を継続した).
などを挙げ(P.35~55,169~181),
「より基本的な問題として,日本人の特質として通商破壊作戦に求められる基本的な姿勢ともいえる,執拗なまでに最後まで敵を追跡する気概,に欠けている点が,常に作戦を中途半端に終始させた原因であったともいえるのである.」(P.169)
と指摘しています.

グンジ in mixi, 2008年04月13日17:21


 【質問】
 戦史叢書の「海上護衛戦」を読んでいて疑問に思ったんですが,「掃海隊」のところに「第七博多丸」とか民間船っぽい名前があるのですが,これは徴傭船舶なんでしょうか?
 だとしたら,民間でどんな種類だった船が徴傭されて,掃海隊に組み込まれたのでしょう?

 【回答】
 126隻の民間船が特設掃海艇として,大戦中に徴用されました.
 300総トン程度のトロール漁船や小型貨物船が多く,後は捕鯨船の改造もあり,希に沿岸定期航路の小型客船等というのもありました.

 因みに,敵の投下機雷の多数が磁気機雷や磁気・感応機雷となった大戦末期には,こうした鋼製の特設掃海艇は利用出来ず,木造の駆潜特務艇や掃海特務艇が出現すると共に,船団護衛に回されています.

 第七博多丸は,日本水産のトロール漁船で,1923年に博多トロール社の為に,播磨造船所(今のIHI)で建造され,福岡に船籍を置いて,黄海や東シナ海で鯛のトロール漁業に使われました.
 1934年に博多トロール社が日本水産に合併され,大戦を生き抜き,徴用解除後は1960年頃まで引き続き,北九州を基地に漁船として使われていたようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/07/12(木)


 【質問】
 「秋津洲」について教えてください.

 【回答】
 大型飛行艇への補給、整備を任務とする飛行艇母艦であり,1942.4.29に竣工した.
 船体後部が飛行艇収容スペースに当てられており、飛行艇を引き揚げる35tジフクレーンを,艦尾に装備.
 ただし,船幅が16m弱の船に全幅40m近い飛行艇を搭載するため,飛行艇の主翼はほとんどが海上へはみ出し、飛行艇を搭載したままの航行は不可能であった。
 本艦は,日本艦艇には珍しく緑と黒のカムフラージュをしていた.
 大戦中は艦形を活かし,物資輸送、魚雷艇の輸送、工作艦任務などに従事したが,1944/9/24、フィリピンのコロン湾において,米空母艦載機の攻撃を受け沈没した.

 同型艦として「千早」も起工されたが,起工直後に建造中止となっている.

 【参考ページ】
http://www4.ocn.ne.jp/~d98/akitsushima.html
http://military.sakura.ne.jp/navy/o_akitu2.htm
http://www.geocities.jp/bane2161/akitusima.htm

「秋津洲」二面図
(こちらより引用)

同・写真
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/09/08 20:00
を加筆改修


 【質問】
 病院船に関する日本軍のスタンスは?

 【回答】
 『特設艦船入門』(大内建二著,光人社NF文庫,2008.4)によれば,陸海軍では病院船の考え方も異なっており,

海軍:「動く総合病院」であり,その為の各種医療設備や専門の医師(軍医),病室を備えていた.
 また海軍の病院船には看護婦は乗船しておらず,代わりに専門教育を受けた下士官,兵がその仕事を行った.
陸軍:傷病兵を医療設備の整った施設への輸送が目的であり,医療設備や医師は必要最低限.陸軍の病院船には看護婦も乗船,勤務していた.

となっています.(運用条件などは両者とも同じ)


 【質問】
 病院船・阿波丸を沈めた艦長は,罪を咎められなかったの?

 【回答】
 時系列としては橘丸と交錯するんで,ほんとは大問題になるはずだったのを,弁護人が
「見ろ,やっぱジャップはクソだ!
 阿波丸だけ違うっていう確証があるなら見せてみろ」
って軍事法廷でやった.
 当然そんな証拠出せないので,うやむや終了.
 ということで無罪放免と相成りました.

 日本には遺憾の意を伝えたけどね.
 何運んでたか知らんけど,臨検して確かめたわけじゃないから,いちおう頭下げた.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 阿波丸が米潜水艦に沈められたのは,アメリカ側が禁制品を積んでいた情報を掴んでいた為といわれますが,それならばどうして撃沈という強引な手段ではなく,橘丸の時の様に,洋上で臨検を行わなかったんでしょうか?

 【回答】
 阿波丸撃沈は軍需物資の輸送が直接原因ではないです.
 潜水艦の一部に,阿波丸への攻撃禁止の命令伝達が正しく行われなかった為です.

 アメリカは禁制品の搭載を察知してましたが,捕虜への物資輸送という名分と,その家族への配慮から黙認する方針でした.

 中立国を介した異例のやり取りで,アメリカは阿波丸撃沈の責任を認め,戦後この潜水艦の艦長は軍法会議で有罪判決を受けました.
 但し日本側は賠償請求については,その権利を放棄しています.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二氷川丸について教えられたし.

 【回答】
 『特設艦船入門』(大内建二著,光人社NF文庫,2008.4)によれば,第二氷川丸は元々はオランダの病院船オプテンノールで,ジャワ島攻略戦の際に駆逐艦「天津風」が臨検,拘留(もろにジュネーブ条約に違反する行為).
 その後,海軍が接収(返還しようにも本国,蘭印ともに降伏しており,返す相手がいない)して「天応丸」(のちに「第二氷川丸」に改名)として使用しています.
 そして終戦時,ややこしい事を避けるため,舞鶴で自沈させています.
 もっともオランダにはしっかりバレて,賠償させられてますが.
(ちなみに本書では自沈について,
P.136では爆薬を仕掛けて爆沈
P.254ではキングストン弁を開いて沈めた
とあるが,「海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡」(三神國隆著,光人社NF文庫)では船底に爆雷を仕掛けた上でキングストン弁を開放,作業員全員が下船して離れた場所で爆破,となっている.(P.36~39)
 また昭和18年12月に同船に日赤の看護婦か乗務しています.(日赤第508救護班.海軍病院船に看護婦が乗務したのはこれが最初で最後.P.117))


 【質問】
 「橋立」は砲艦にも関わらず,なぜ航洋性を持たせたのか?

 【回答】
 「橋立」は,戦前の日本が想定していたシーレーンの防衛を期待された海洋型砲艦でした
(平時では中国での権益保護,対中戦では中国近海の哨戒,対米戦ではシーレーン保護)
 しかしシーレーンが大幅に拡大した結果,航続距離がネックとなって護衛戦力の主力となりえませんでした.
(台湾やサイパン,せいぜいパラオまでだったが,シンガポールやニューギニアにまで拡大.そら砲艦ではあかんわ)

 【参考文献】
『帝国の艦船 日本陸海軍の海洋軍備』(学研,2008.1)

グンジ in mixi,2007年12月31日12:33


 【質問】
 日本海軍で魚雷艇の活躍はあまり聞かないような気がするんですけど,何故,重用しなかったんでしょう?

 【回答】
 一応,島嶼防衛用に大量生産をしています.
 大型艇はドイツのSボートを原型に,小型艇はイタリアのMASと英国のもの(中華民国から鹵獲したもののコピー)を原型に開発しています.
 但し,高速小型舟艇に必要な船形の開発に失敗したのと,高速小型舟艇に必要なエンジンの開発に失敗した(大馬力のガソリン水冷発動機が無かった)為,高速舟艇用エンジンとしては,航空廠の倉庫に仕舞い込まれていたエンジンの埃を払って搭載しています.
 また,空冷星形をやむを得ず搭載するものもありました.
 このエンジンの状態がまちまちで,その状態によっては34ktsを発揮したものもありましたし,逆に20ktsも出ないものもあったりしました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 活躍できなかった主因は技術格差.
 例えば,三菱重工が魚雷艇用主機として製作したZC機関を戦後,海上保安庁の高速巡視艇に流用したが ,公称20ノット以上の予定が,公試運転で16ノットを超えることはなく試作艇のレベルを超えなかった.
 一方,海上保安庁がアメリカ海軍から貰った十隻近い魚雷艇は,ほとんどがスクラップ状態だったが,なんとか部品を組み合わせて運用可能な巡視艇1隻を組み上げた.
 驚くべきことに船体が新造された後も,その主機は流用された.
 当時,このくらいの差があった.
 ドイツから潜水艦で魚雷艇用エンジンを持ち帰ったが工作精度が全然違い複製できなかったし.


 【質問】
 どうして前の大戦で日本は,魚雷艇をたくさん持たなかったのですか?

 【回答】
 それに必要な適当な船舶用エンジンが,当時の日本にはありません.
 日本の魚雷艇整備で隘路になったのは,艇体の研究遅れもでしたが,なによりも適当な主機に恵まれなかったことです.

 Eボートのような小型高速ディーゼルは,日本では量産が困難で,かつ,ガソリン機関も,40ノットの高速を発揮するのに,適当な馬力のものがないのです.
 末期には,排水量20~25トンの小型の魚雷艇を,何種か建造しましたが,航空機用発動機の中古品寄せ集めの主機で,17ノットから30ノットの艇までとばらばら,惨憺たる有様でした.

軍事板,2001/02/28(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 魚雷艇エンジン生産が,うまくいかなかったのは何故か?

 【回答】
 三菱重工の丸子機器製作所では,戦車エンジンの製造を行っていた訳ですが,海軍の機器も生産されていまして,海軍用魚雷艇エンジンとして生産されたのが,「七一号六型」です.
 これは,元々,ItalyのMAS艇に搭載されていたIsotta-Franschini水冷W型18気筒エンジンを分解スケッチしたもので,これを海軍規格に図面化したものです.
 社内呼称YWG.
 このエンジンは87オクタンガソリンを燃料とする航空機用エンジンに逆転機とセルモーターを取り付けたもので,丸子で部品を作成し,三菱川崎機器製作所で組立てたもので,1942年2月11日に50時間の試運転をすることが出来ました.
 このエンジンを魚雷艇用機関として,海軍は非常に期待し,1942年6月に年産480台の生産設備拡充を命じ,更に茨城機器製作所を半官半民で建設する様命じますが,資材不足で生産は遅延し,実用機が完成したのは,試運転から1年が経過した1943年2月,以後,月産3~4台という,今では考えられないペースが続きます.

 この頃,艦本協力問題というのが持ち上がります.
 これは,大型海軍艦艇が生産されなくなったので,遊休と化している艦本の設備を,航空機関係の生産に振り向けようというものですが,大型機械は,航空機の部品の様な小型精密の加工には向かず,艦本の小型機械は,小型艦艇の部品生産で手一杯.
 結局,趣旨は良かったのですが,艦本の技術員を遊ばせる結果になってしまいました.

 業を煮やした海軍は,英国で行われているというノックダウン生産を取り入れることになりました.
 メーカー約50社で生産された部品を,川崎機器製作所に集約し,最終組み立てを行うというもので,そのメーカーは,横須賀,呉,舞鶴,佐世保の各工廠,三菱の長崎,横浜,神戸の各造船所,造機系の新潟鐵工,池貝製作所,神戸製鋼,阪神内燃機,久保田鉄工,栗本鐵工,歯車は日立亀有工場とか長谷川歯車に,園池や津上製作所に治工具,その他,ピストン,ピストンリング,発電機,気化器などを専門メーカーに分割発注します.
 これが開始され,試行錯誤の末,1944年5月から生産が軌道に乗ります.
 とは言え,目標である月産40台には遂に達しませんでした.

 主要部品のみならず,それらを組立てるのに必要なボルトやナット類が不足していたのも一つの原因.
 その原因を突き詰めていくと,ボルトやナット類を生産する工場では,切削油や油を拭くボロ布が入手出来ないとか,熟練工が兵役や疎開で居なくなった…など.

 また,特殊鋼の原材料問題も相変わらず出て来ます.
 クランク軸の素材は,高抗張力のニッケル・クロム・タングステン鋼なのですが,ニッケルの不足により,ニッケルをマンガンに置換えた代用鋼が製作されますが,三菱長崎で鍛造され,三菱神戸で加工された代用鋼のそれは,梱包を開けると輸送中の振動で見事に真っ二つに折れていたそうです.

 他の製品でも,ニッケル,コバルト,モリブデンの代用品として,シリコンマンガン鋼とか,マンガンクローム鋼とか,シリコンマンガンクロム鋼,特殊炭素鋼が用いられ,鉄鋼材は,木製か竹製,合成樹脂に変更され,銅や銅系統の材料は,鋼材,木材,竹,セルロイド,アルミ,亜鉛,錫などに変更される等という指針が艦本から出されていたりします.

 生産の隘路は資材だけではなく,部品加工精度と検査治具の問題は,工業界の何処にでも顔を出す問題でした.
 測定具の精度は,被検査品の一桁上の精度が必要ですが,太平洋戦争により精密加工機械の輸入が途絶し,精度の悪い日本製機械を使用しなければならなかったのが,その原因.

 結局,このエンジンは真価を発揮しない儘に,1945年1月に生産を中止されることになります.
 資材不足,航空用空冷エンジンの2倍に上るアルミを消費するのが,生産打切りの直接の原因でした.
 このエンジン製作の為に素材は1000台分手配されていましたが,実際に作られたのは,1943年10月から1945年2月までの間に,僅か340台,月平均20台,最高月産台数は月35台でした.

 このうち,実際に魚雷艇に搭載されたのは272基で,このエンジンを積んだ本家のMAS艇は40ktsを遙かに超えているのに,日本製のそれは,艇体やスクリュー設計の経験不足とも相まって,35ktsを出すのが精々でした.

 DBと言い,Isottaと言い,日本の精密機械工業ってのはそんなものを作るレベルには至ってなかった訳ですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月05日21:34


 【質問】
 日本海軍の魚雷艇があげた戦果を教えてください.

 【回答】
 1944年7月15日に編成された第27艇隊が,1945年3月27~29日の3回に渡って米艦を攻撃し,撃沈したのが唯一の戦果です.
 第1回目と第2回目の攻撃で,複数の駆逐艦級の艦に魚雷を命中させたとあります.
 しかし連合国側では,この日の喪失は触雷や特攻機の突入としており,何に対して戦果を挙げたのかが不明になっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2007/07/16(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本陸軍の37mm舟艇砲って,狙撃砲とか十一年式平射歩兵砲からの転用ですか?
 あるいは,戦車砲や速射砲と同じものですか?

 【回答】
 舟艇砲は九八式三七ミリ戦車砲の設計を流用しています.
 本砲は昭和18年5月から設計が開始されましたが,主な変更点は
・耐水性を高めるために砲腔,砲尾,閉鎖機にクロームメッキが施されていること,
・砲腔に防水栓が付けられること,
・駐退復座機室に水抜き穴が開けられていること
などです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/03/18(土)
青文字:加筆改修部分


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