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◆◆◆装備
<◆◆海軍 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第2次大戦FAQ


撮影:ベタ藤原


 【link】

「kojii.net」■(2010/06/07)リソースの配分
>「大量の生徒が勤労動員されてきたのに,担当させる仕事がなかった」

「豊川市役所」◆出版物
http://www.city.toyokawa.lg.jp/enjoy/syuppanbutu.html
豊川海軍工廠資料集 pdfデータ版等

メガとんトラック」:ショッカーの秘密基地にもなった元要塞の無人島「猿島」に行ってきた - GIGAZINE

「ワレYouTube発見セリ」:Essex Aircraft Carrier

「ワレYouTube発見セリ」:Casablanca Aircraft Carrier

「ワレYouTube発見セリ」:Lexington Aircraft Carrier

「ワレYouTube発見セリ」:Yorktown Aircraft Carrier

●書籍

『一海軍士官の太平洋戦争』(斉藤一好著,高文研,2001.12)

 開戦の年に士官学校を繰り上げ卒業した士官の体験記.
 長門→雪風→水雷学校→伊400と乗艦.

 コロンバンガラ夜戦で雪風にて魚雷戦を指揮.
 遠距離で撃ちすぎじゃないか?と苦言を呈された.
 後で,「内心,恐くて早く発射した」と認めている.
 93式酸素魚雷は8万円で,これを7本無駄にしたのは反省.
(1本故障で射出できなかった)

 雪風時代は,機関長がいかに故障箇所を見つけて修理期間を長く取るかで,自慢話をした.
 士官もこれを歓迎する空気があった.

 伊400から晴嵐の射出は,故障ばかりで3機連続出せたことなど,訓練でも1回もなかった.
 実戦でできるのか?って整備責任者に聞くと,「大丈夫」と言うだけ.
 訓練で上手くいかないのに,実戦で上手くいくわけない.
 伊401との洋上邂逅も,日本近海ですらできず.敵地近くでできるわけがないと感想.

 半藤氏とのエピソードが酷い.
「同氏が文芸春秋の編集長をしていたとき,別冊の戦記物特集の中で,私は伊400の終焉について執筆するように依頼され,原稿を送りました.
 ところが折り返し彼から,あなたの文章は暗すぎて他の論稿との釣り合いがとれないとして,全面的に書き換えたものが送られてきました.
 私はとんでもないことをするものであると思い,それを断りました」
 結局,没原稿となった模様.

 太平洋戦争は大義の無い侵略戦争で,そのお先棒担いだのを反省.
 日本海軍の戦争責任については,まだ反省が足らないと認識している.
 実戦経験者が,安直な戦争美化とか軍国主義に対し,反対の立場をとるのは納得がいく話だとは思う.
 天皇の戦争責任についても言及.
 天皇の責任が有耶無耶になったのは,確かに政治的なものであったのは事実だろう.
 東京裁判については,自虐史観,報復裁判という言説に距離を置いている.
 それを否定しているわけではないが.
 事後法の部分を問題としているが,パリ不戦条約の存在から,議論の余地は残しているのではないかという立場.

 戦後,東大行って,弁護士.

 考えに賛成できるかどうかは別として,自分の内心に正直な人だと思った.

――――――軍事板,2010/01/16(土)
青文字:加筆改修部分

『海軍技術戦記』(内藤初穂著,図書出版社,1980)

 古い本なので,図書館にあれば……
 防弾タンクや,自動消火装置から松根油まで,様々な技術開発について,取り組んだ技術者の視点で書かれている本.

――――――軍事板,2010/06/12(土)

『機動部隊』(淵田美津雄&奥宮正武著,学研M文庫,2008.10)

『空と海の涯で 第一航空艦隊副官の回想』(門司親徳著,光人社NF文庫,1995.10)

 基本的には副題通りの本の様子.
 著者は主計科だったようだ.
 まだちょっと読んだだけだが,末期になると上層部がだいぶ煮詰まって来ているのがわかる.
 この本の発行は昭和53年12月5日だが,本の終わりの部分に
>53.12.20 文教館(?)にて
>サンデー毎日広告を見て 懐かしく思い求む
>○銀官政○○代の提○者
と書いてあって,その下に著者を含む数人の名前が並び,一番下に
>「レイテ湾の○艦隊」
と書いてあった.
 この本を最初に手にした人は,どんな人だったんだろうか.

――――――軍事板,2010/04/20(火)

『呉・江田島歴史読本 読む・見る・歩くおとなのための街歩きガイドブック 別冊歴史読本 62』(新人物往来社,2013.4)

『末期の水物兵器集』(こがしゅうと著,イカロス出版,2006.12)

 二等輸送艦や特四式内火艇,伏龍など,「人気勢力図のその他」に光を当てた作品集.

 故コンバットコミック誌で読んで以来,こがしゅうと氏の作品が好きになって,単行本が出たと知って購入.
 最初はそのコンバットコミック誌の作品を集めたものかと思ったのですが,個人出版誌を添削・修正したものでした.
 でも面白かったです.
 漫画や解説も面白く,特に25ミリ機銃はかなり面白かったです.
 ゲストページの吉原昌宏の手による,「マッチョなサブ姉さん」はリアルでブキミです.(笑)

 ところで,仮称五式撃雷(伏龍の持ってる棒機雷)の解説のなかで,水中抵抗や海流の影響などにより発生する竹竿のしなりやブレで標的を正確に突けない,という問題があったそうです.
 んで,解決案の一つとして
「棒機雷の撃雷部分を頭に乗せて,標的に頭突きをする」
というのがあったそうです.
(笑…えねぇ)
 ペーパープランでしかなかったそうだが,戦争が長引けば出現の可能性は,艦戦「烈風」より高い,との考察にはうなずくしかないわけで.
 でも,信じたくねぇよ.

――――――グンジ in mixi,2007年02月03日23:09

『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全860余隻の栄光と悲劇』普及版(片桐大自著,光人社,2003.8)

 寝しなに読んでるんだけど,しみじみ良い本だよな.
 オレが持ってるのは普及版だけど,いろんな知識を堪能できるというか.
 自衛隊の艦にも触れてるけど,海自オンリーでこういう趣旨の本が出たら欲しいな.

------------軍事板,2012/02/12(日)

◆◆◆総記


 【質問】
 連合艦隊/聯合艦隊を英訳すると?

 【回答】
*正解
The Combined Fleet

 ただし旧日本帝国海軍(IJN)が自分の連合艦隊を呼ぶときはGF(Grand Fleet .・・・General Fleetとも言われてるが,英語圏ではあまりいわないし,英国海軍を手本にしていたことから,Grand Fleetの方が通りがいいと思われる)と呼んでいた.
 逆に,英語圏固有名詞としてThe Combined Fleetとかくと,旧日本帝国海軍(IJN)の連合艦隊を指すことが多い.
(とりあえずWikiでは「Combined Fleet」の項目はIJNになってる).
 他にはトラファルガー海戦のフランス・スペイン連合艦隊(Franco-Spanish Combined Fleet)を指す時にも使われる.

*誤訳
 IJNの連合艦隊については,常見問題の別項で解説されている通り,一カ国のみで構成されている艦隊である.
 しかし,「連合」と書くといかにも多国籍軍っぽいので,「この前の負けいくさ」を知らん「今のわかいもん」が「連合」とみて,敵側である連合国(Allied Forces)の艦隊と誤訳することがある.

Fabius (KT) in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ゲーム「艦これ」の,三川艦隊や西村艦隊クエストに出てくる「第四戦隊」とは何のことでしょうか?
 調べても分からなかったので,詳しく教えてくださるとありがたいです.

 【回答】
 巡洋艦以上15隻前後と駆逐隊(1駆逐隊は駆逐艦4隻で構成)3〜6ぐらいで構成される艦隊の場合,その艦隊の中で同一姉妹艦4隻とか,まとまりのいいグループ3〜4隻で構成した隊がある.
 これが「戦隊」.
 艦隊を組む際,常時全艦が一緒に居る訳ではなく,必要に応じて複数戦隊で組んで作戦に当たる訳だ.

 そういったものの1つ,第二艦隊・第4戦隊として,1941年4月10日から1944年終わり頃まで,高雄型4隻鳥海,高雄,愛宕,摩耶で構成されていた戦隊があった.

参考

 大ざっぱに言えば,ヤン艦隊の中のアッテンボロー分艦隊みたいなもの.

ブラウザ・ゲーム板,2013/06/15(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本海軍において「艦」 と「艇」の違い,境目とは何でしょうか?

 【回答】
 「艦」と「艇」を分ける明確な基準はありません.
 最小の「艦」は,佐久間艇長で有名な第6号潜水艦(大正8年に潜水艇を潜水艦に改称).全長22m強・排水量60t弱.
 最大の「艇」は元セニャーウィンの見島.全長79m,排水量5000t弱.
 日露戦争後に量産した駆逐「艦」を大正末にそのまま掃海「艇」に流用したこともあり,サイズは基準ではないです.

第6号潜水艦カット・モデル
(画像引用元:あれこれそれ調査団

 任務が同じで「艦」と「艇」が対応して違いが見られるのは
・駆逐艦と水雷艇(境界は600t)
・敷設艦と敷設艇(とはいえ規定なし.最小敷設艦八重山は1100t,最大敷設艇神島は770tで大きく違う)
・潜水母艦と潜水艦母艇(これも規定なし.潜水艦母艇の運用は近海に限定された巡洋艦崩れの老朽艦).大正8年に潜水艇はすべて潜水艦に改称され,潜水艇に留め置かれたものは1隻もなく,明確な区別があるとはいえません.
・「特務艦」と「特務艇」:
 特務艦は実戦には参加せず,後方支援を行うもので,戦闘時は沈まないよう逃げるか祈るか….
 特務艇は沿岸部や軍港に限定されますが,戦闘となれば射撃に機雷敷設に爆雷投射に突撃していく戦闘用の船です.

 砲艦と砲艇,海防艦と海防艇は任務そのものが明確に違うので,同列には扱えません.
 「砲艇」は日華事変時には実在しました.「砲艦」では進入できないクリークや池でパトロールや機銃掃射などを行うもので,類別表には記載されない「雑役船」扱いです.
 「海防艇」は終戦に間に合わなかった幻の類別で,「海防艦」が船団護衛をするのとまったく違い,こちらは回天運搬船でした.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/09/09(金)
青文字:加筆改修部分

 なお,艦艇の区別は中国の秦〜三国時代の頃には確立していたようです.
 『艦』:形が監獄に似ているから艦.
 『艇』:2人乗り程度の小型の船.

軍事板,2005/09/09(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦艦みたいな主力艦には熟練兵が多数集まったってことですか?
 大和,武蔵は精鋭のあつまりなんですかね?

 【回答】
 海軍に入った新兵はまず各鎮守府の「海兵団」なる教育機関に入れられます.
 そこで基礎訓練を受けつつ適正・資質・能力・人柄をチエックされて,各艦・機関に配属されます.
 戦艦のような主力艦には優秀な人材が割り振られますし,GF旗艦なら最優秀な人間が集められます.

 ベテランも同様です.
 児玉譲著『戦艦大和』に出て来る主砲方位盤射手(主砲の引き金を引く人)は日本海軍最高の名人(日向の主砲方位盤射手で戦技会で日本一になった人)が選ばれていますね.

呉海兵団兵舎(現・海上自衛隊呉教育隊資料館)
画像引用元:Joyful Hiroshima


 【質問】
 旧海軍の軍艦は「大和」(奈良県),武蔵(埼玉+東京)等,地名が多いですが,陸軍の師団のようにその地域出身者が多かったりするんでしょうか?
 もちろん士官は別でしょうが.

 【回答】
 軍艦の戸籍と水兵さんの戸籍が一致すれば,そんなチャンスはあります.

 旧海軍の艦艇は,各鎮守府に配当されます.
 大和は呉鎮守府,武蔵は横須賀鎮守府だったかと.

 鎮守府はそれぞれ召集できる都道府県が決まっています.
横須賀…北海道・山形以外の東北・関東・東海・山梨・長野
呉…京都滋賀を除く近畿・中国
佐世保…四国・九州
舞鶴…京都・滋賀・北陸・山形

ということで,たまたま大和に奈良県人,武蔵に埼玉県人が乗れるわけですが,長門は横須賀鎮守府なので,山口県人は乗れません.
 陸奥も佐世保鎮守府なので,岩手県人は乗れません.
(ま,陸奥は横鎮に転籍したんですが)

鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2004/11/25
青文字:加筆改修部分


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 【質問】
 太平洋戦争時の日本海軍の観測員の視力はすごいと聞いたんですが,どれくらいすごいんですか?(視力はいくらか?何kmぐらいまで見えたのか?)

 【回答】
 日本海軍の駆逐艦は夜襲を得意としたので,見張員には高い夜間視力が求められた.
 目を闇に慣らすため,見張員は昼間は赤い照明だけをつけた控え室にこもり,ビタミンD錠剤(暗視ビタミンと呼ぶ)を服用したりヤツメウナギの蒲焼を食べたりした.
 本当かどうか知らないが,優れた見張員は視力が4.0あったとか夜間30,000m先の艦影を見つけることができたという話がある.


 【質問】
 日本海軍艦艇の廃艦所要弾数を教えられたし.

 【回答】
扶桑
46cm砲弾9発,40cm砲弾12発,
36cm砲弾16発,20cm砲弾50発,
15.5cm砲弾70発,15cm砲弾100発,
14cm116発,

妙高
46cm砲弾4〜5発(半徹甲弾で4〜5発),40cm砲弾5〜6発(半徹甲弾で5発),
36cm砲弾6〜7発(半徹甲弾で6発),20cm砲弾14〜18発(半徹甲弾で18発),
15.5cm砲弾20〜24発(半徹甲弾で24発),15cm砲弾28発,
14cm砲弾32発,12.7cm砲弾48発,長10cm砲弾76発.

5500トン軽巡
46cm砲弾4〜5発(半徹甲弾で4発),40cm砲弾4〜5発(半徹甲弾で4発),
36cm砲弾5〜6発(半徹甲弾で5発),20cm砲弾12〜16発(半徹甲弾で12発),
15.5cm砲弾16〜20発(半徹甲弾で16発),15cm砲弾19発,
14cm砲弾21発,12.7cm砲弾32発,長10cm砲弾50発.

2000トン駆逐艦
46cm砲弾3〜4発(半徹甲弾で3発),40cm砲弾3〜4発(半徹甲弾で3発),
36cm砲弾4〜5発(半徹甲弾で4発),20cm砲弾11〜14発(半徹甲弾で8発),
15.5cm砲弾14〜18発(半徹甲弾で10発),15cm砲弾12発,
14cm砲弾20発,12.7cm砲弾22発,長10cm砲弾30発.

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦間期に日本艦艇の問題が,友鶴事件や第四艦隊事件で明らかになっていますが,欧米ではこの手の問題は起こらなかったのでしょうか?

 【回答】
 ぱっと思い出すのは,1899年にイギリスで進水した駆逐艦コブラ(HMS Cobra)が,回航中の1901年9月18日に荒天に遭遇し,中央部が折れて沈没した事件.

(名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE)

 第四艦隊事件の時に発覚したように,重量軽減の為に主構造を強度不足を起こすような,軽量化みたいな無茶は流石にやらなかったけど,過剰武装による復元力の低下は結構問題になっている.
 アメリカでは対空機銃を増設して復元力の低下を招き,太平洋戦争で台風による被害を出しているし,ドイツに関しては復元力の低下を是正する為に,補助艦の多くが戦時中の一番大切な時期をドッグで過ごすことになっている.

<米海軍TFの台風による主な損害>

昭和19年12月17日
 損傷・戦艦4空母2軽空母2護衛空母4重巡3軽巡4駆逐艦以下17
 航空機142

昭和20年6月5日 
 沈没・駆逐艦3
 損傷・軽空母4護衛空母4軽巡1駆逐艦以下12
 航空機146


 【質問】
 戦前から戦中の日本海軍は,損傷艦の曳航をどの程度実行していたんでしょうか?

 【回答】
・成功例

 18年4月3日,ソロモンで空襲大破した青葉を川内がカビエン−トラック間で曳航.

 さらに青葉はもう一度
 19年10月21日,マニラに到着する寸前に被雷し航行不能になり,鬼怒がマニラ港まで届けてます.

 18年9月12日,被雷大破した知床をルオットから佐世保まで曳航(担当艦失念),帰路に再度被雷したものの佐世保まで何とか生還.

 18年9月24日,トラックから帰還中の大鷹が父島沖で被雷,同行中の冲鷹が横須賀まで曳航.

・失敗例

 17年5月11日,ブカ島沖で被雷した沖島をラバウルへ睦月が曳航するも,バック牽引のため機雷投下口から出火爆沈.

 19年10月4日,ビートンからスラバヤへ厳島を曳航中の若鷹が被雷大破.さらに取り残された厳島も7日に被雷戦没.

 19年10月24日,フィリピン海戦中に落伍した千代田の曳航を五十鈴が再三試みたものの,敵機に阻まれ断念,回避運動中に見失い,千代田は砲戦戦没.

 実行はしているのですが,うまくいくケース,いかないケースは,時の運とやっぱり技能に左右されますね.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/12/20(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍とラムネの関係について教えて下さい.
 消火器用の炭酸ガスにノズルをつけて,瓶のシロップに炭酸水を注ぎ込むというのは,あちこちの艦でやっていたようですが,何故か,大和と間宮の専売特許みたいに言われています.
 大和のラムネ製造機と,小艦のラムネの差って,機械工業とマニュファクチャの差ですか?

 【回答】
 日本の場合,この手の娯楽装備は私物で,建造時に造船所から贈与されたり,酒保が積立貯金したり士官が寄付したりして購入されていた.
 昭和初期の夏季大演習の報告で,間宮の艦長が,本艦に無いのは任務上問題だと主張.
 これを受け,巡洋艦以上の艦と潜水母艦と給糧艦は標準搭載が決まり,既に私物で搭載してたのは管理換えになった.
 だから間宮のラムネ製造機は,公式に新規搭載された最初のものになり,最初からラムネ搭載を前提に建造された艦は大和とかの時期が最初になる.

 ちなみに,米国専売特許みたいなアイスクリーム製造機だが,重巡衣笠は新造時に造船所からの寄贈で搭載していた.

「アイスクリーム製造機寄贈に喜ぶ」の図
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 白黒写真一枚を見ただけで「これは大和だ」とか「これは武蔵だ」とか見分けている人がいますが ,皆さんはどこを見て大和,武蔵や長門,陸奥や金剛,比叡などの同型艦を見分けているのでしょうか?
 自分は大和と長門を見分けることすらあやしいのですが……

 【回答】
 軍艦は量産されているものであっても,造船所や建造時期の違いから「一品モノ」なので,細部に違いがあるのです.
 造船所が違えば個々の部品を製造している地元メーカーが異なるわけで.
 また,建造期間が長いため,前艦の実績が取り入れられて微妙に改正が加えられるためでもあります.

 具体的な相違点はそれぞれの艦級を調べてくださいとしかいいようがないです.
 光人社「写真 日本の軍艦」なんかで,個艦の識別ポイントの解説なんかが載ってます.

 また,新発見の(orあまり紹介されない)写真を見せられた場合,前後の状態が判っていると,それとの比較や造船所のクセで判ったりする.
 写真を眺めていると,なんとなく見分けるコツが判ってくる.

 さらにマニアの場合,残っている旧海軍艦艇写真の数が限られてるので,その写真そのものを覚えていて判別していることが多いかと.

軍事板

識別方法の一例
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 太平洋戦争当時,その錬度と装備で世界最強と謳われた帝国海軍水雷戦隊についてですが,圧倒的な打撃力を持つ戦艦部隊や重巡部隊と比して,魚雷を主武装とする水雷艦隊の強みはどのようなところにあったのでしょうか?

 【回答】
 酸素魚雷の優位性と水雷戦術の練度に拠る所が大きいですね.
 魚雷,特に酸素魚雷は弾頭の破壊力が大きく,艦載砲とは大きく差があります.
 艦載砲では駆逐艦に集中して数十発命中させても,すぐ沈ませる事ができるとは限りませんが,酸素魚雷なら一本〜二本当てるだけでも重巡程度にとっては十分に致命傷になりえます.

 それにより水雷戦に持ち込めば,駆逐艦数隻で米重巡艦隊を一方的に壊滅させるというような,海戦史上に特筆的な戦果をあげたりしています.

 あと,世界最強というのは言いすぎ.
 日本軍の駆逐艦は正面戦力を担う(というか,駆逐艦も正面戦力にしなきゃならないくらい,戦力が他国,主にアメリカに比して不足していた)ために,他国と比較して重武装な駆逐艦となってたんで,単艦比の武装面ではやや強力だったのは確かですが…

軍事板
青文字:加筆改修部分

酸素魚雷
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本海軍では駆逐艦や潜水艦は軍艦に分類されていないので,菊のご紋章が付いていないと聞きました.
 海戦に参加して乗組員も軍人なのに,なぜ軍艦扱いされなかったのですか?

 【回答】
 日本海軍内部での格式の問題.

 日本海軍でももちろん,駆逐艦や潜水艦も軍艦.
 ただ,日本海軍では「軍隊に所属する船」という一般的な意味での「軍艦」とは別に,一部の艦を,特別な意味で「軍艦」と呼ぶ区別があった.
(戦艦とか空母とか)
 この場合,(日本)海軍の軍艦は陸軍の連隊に対応する概念.
 大佐が連隊長・艦長をつとめる,連隊旗・軍艦旗を下肢される部隊.
 駆逐艦・潜水艦は中小差が長で,数隻まとめた駆逐隊とかが「軍艦」と同格.

 駆逐艦は小型で品位のある設備はつけれないし,集団で使うのが通常と言う事情もある.

 国際法上の軍艦ではある.

軍事板,2008/10/25(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍では,潜水艦や駆逐艦の艦長の地位は,全体から見てどの辺だったの?

 【回答】
 潜水艦や駆逐艦は,数隻単位で予算が計上されて建造されるので,日本海軍では一隻単位で建造される巡洋艦や戦艦などの「軍艦」とは同格とみなされない.
 各艦の艦長は少佐や中佐が任じられ,「潜水艦長」や「駆逐艦長」が正式の肩書きとなる.
 「軍艦」の場合は大佐が任じられ「艦長」となる.
 四隻くらいで編成されて大佐が司令を勤める潜水隊や駆逐隊ではじめて同格となる.
つまり
駆逐隊or潜水隊=軍艦
隊司令(大佐)=艦長(大佐)
という関係になる.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争末期の海戦の本を読むと,58.1とか38.2とかアメリカの任務群の一覧が載っているものがありますが,空母〜駆逐艦までの軍艦しか載っていません.
 他にどういう艦種が任務群に含まれているのでしょうか?
 軍艦だけなのでしょうか?

 【回答】
 第二次大戦中のアメリカ海軍の任務部隊(Task Force)のリスト.
http://pacific.valka.cz/forces/index.htm

 任務部隊(TF)は,たとえば第3艦隊の
第38任務部隊と,その下の任務群(TG)や任務隊(TU)は,空母とその護衛艦艇部隊,
第34任務部隊は戦艦部隊.
第31任務部隊は海兵隊とその揚陸艦及び護衛艦艇を含む上陸部隊,
というふうに文字通り任務(Task)ごとに編成されている.
 その編成内容は作戦や時期ごとに変わる.

 蛇足かも知れないが,第38任務部隊と第58任務部隊は艦隊司令部が交代して,頭の番号が変わっただけで同一の部隊.

軍事板,2010/02/12(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋を航行するソ連船を巡る,日ソ間のやりとりについて教えられたし.

 【回答】
 さて,ソ連と中立条約をしつこいくらい確認していましたが,事件は会議室で起こっているんじゃない,現場で起きているんだ!と言う訳で,太平洋を航行するソ連の船が問題の発端になる事が多くありました.
 ソ連船は当然中立国船舶なのですが,戦火を蒙ったものもあり,敵国からの物資輸送に従事するもの有り,日本の周辺を経由して国内の連絡に当たるもの有りと様々な事情で運航されています.
 当然,日本海軍としては,怪しい船舶を見つけた場合,それを臨検する権利を有しています.

 ところが,この臨検の過程で,ソ連側から著しい不信感をもって迎えられた事も,また事実です.
 『ソ日外交関係史』にはこう書いています.

――――――
 日本当局は,1941年4月13日の中立条約とポーツマス条約による自己の義務に違反して,ソ連の極東海上輸送を妨げ,それによってソ連の軍事力に甚だしい損害を与えた.
(略)
 ソ連の海上輸送に対する制限は,日本側によって三方面から行われた.
 1つは公海と公海とを結ぶ海峡の航行禁止であり,それは一般に認められる海洋自由の原則に反し,宗谷海峡航行に関するポーツマス条約第9条を侵害するものであった.
 第2は,日本軍艦によるソ連船舶の臨検と抑留であり,それに伴う国際法の通則の侵害である.
 第3はソ連船舶への攻撃とその撃沈である.
(中略)
 脅迫と外交的威嚇によって,米ソ経済関係を破壊し得なかった日本政府は,実力を行使し始めた.
 ソ連の船舶は,銃撃・爆撃・海峡通過中の抑留など種々の行為を受けた.
 日本当局のソ連船舶に対する津軽海峡の閉鎖によって,ソ連船舶は別の不便かつ危険である朝鮮海峡を利用せざるを得なかった.
 日本潜水艦は,ソ連船アンガラストロイ,コーラ,イリメニの3隻を撃沈した.
 1941年8月から1944年までの間に,ソ連商船178隻が日本の武装船に抑留されたが,その内3隻は武力を行使された.
 日本の飛行機は1941年12月,ソ連船ペレコープ,マイコープの2隻を撃沈した.
 1941年12月には,クレチェト,スヴィリストロイの2隻が香港で撃沈され,更に他の2隻が甚だしい損傷を受けた.
 1941〜45年の間に,ソ連船18隻が拿捕又は撃沈された.
 1941年12月31日,在東京ソ連大使は,ソ連船の銃爆撃と撃沈について日本政府に抗議した.
――――――

 まぁ,言いたい放題ですね.

 当然,日本側にも理由があります.
 まず,海峡通航の問題についてですが,1941年12月,太平洋戦争勃発と同時に,日本は国土の周辺12カ所に防御海面を設けます.
 それは,津軽海峡方面,宗谷海峡方面,東京湾方面,伊勢湾方面,紀伊水道方面,豊後水道方面・下関海峡方面,佐世保方面,若狭方面,鎮海湾釜山方面,澎湖島方面,高雄方面,基隆方面です.
 こうした海域内では,航路の指定を受けた特許船舶を除き,一般船舶の通航を禁じました.

 但し,宗谷海峡に限ってはポーツマス条約第9条第2項を考慮して,日の出から日没まで,幅2海里の水路を一般船舶に解放する為,防御海面を通航する外国船は,日本海軍の特許を受ける事を要する旨,同文通牒で在京外交団に通報しています.

 この通牒に対し,在京ソ連大使館から,津軽海峡は航海を結ぶ海峡であるから,その通航禁止は国際法違反であり,宗谷海峡の航行制限も又同様に国際法違反であり,かつポーツマス条約違反であると為した上,宗谷海峡は冬期凍結し,対馬海峡を迂回する場合は行程が2倍以上となるので,津軽海峡を自由通航とし,宗谷海峡の制限を撤廃する様に要求してきます.
 これに対して日本側は,1942年3月14日付口上書を以て,太平洋が戦場となっている以上,自国沿岸防護の措置は当然の権利に基づくものであり,宗谷及び津軽両海峡には日本海軍の特許によって通行できる道を開いている事を述べ,他方,ソ連こそ自国極東水域を設定し,ポーツマス条約に違反して間宮海峡の通航を不可能にし,ソ連の漂流機雷によって気比丸が触雷沈没したことを挙げて,ソ連政府の猛省を促しています.

 更に,1942年4月14日,日本側は日本近海に於いて海軍が哨戒防備を実施し,航行船舶に対して行動管制を行うことに関連し,ソ連船舶の為にも危険防止の見地から,日本海方面をカムチャツカ又は米州間を航行する場合,当分の間の措置として,隠岐,対馬,北緯33度10分・東経128度08分の点,北緯32度0分・東経128度0分の点,屋久島,鳥島,北緯32度0分・東経144度0分の点等を連ねた航路を指定し,その内方に進入しないことを勧告し,やむなく同海面に進入する場合は,その船舶の行動予定を速やかに日本海軍に通告し,対馬海峡通過日時,発着地をも事前に通告すべき事を要望しました.

 ところが1942年12月15日,在日ソ連大使館は外務省に対して,冬期流氷の為宗谷海峡の通航が危険なので津軽海峡を利用する必要が生じたとして,ソ連船の津軽海峡航行許可を求めてきます.
 また1943年1月20日には,マリク大使(参事官から代理大使を経て大使に昇格)が谷外相を来訪して,前年3月14日の外務省口上書は津軽海峡の通航について,既に同意しているものと見なし,ただ通航方法,進路,禁止海面については日本の特許を要するだけであるとなし,問題解決が長引いた結果生ずべき危険に対する責任は,日本政府が負うべきものであるとの申し出をしてきます.
 谷外相は,ソ連側の申し出は政府に於いて検討中であるが,責任問題は日本政府の関知するところではないと,マリクの申し出を拒否しました.

 因みに翌21日,谷外相はマリクの来訪を求め,前日の申し出に対して日本側の回答を伝えました.
 この回答では,津軽海峡の通航については特許を必要とするもので,軍事上の理由により特許しない場合もある訳であり,通航に関しては一般的に同意を与えたものではなく,従って日本側としてはソ連側要望を拒絶して差し支えない次第である,としながら,しかし,ソ連との友好関係を考慮し,オホーツク海の流氷危険期である2〜4月の間は,ソ連船が宗谷海峡可航水道通過後オンネコタン水道通過まで,適宜の航路を取り得ることを認める(但し,許可は1月25日以降とする)として,北海道近接航路を取り,危険な場合は日本領海内に投錨待機する事を認めるとの譲歩を行いました.

 しかし,マリク大使は尚も津軽海峡問題の再考を求めたので,谷外相は同海峡通過の特許を与える意志のないことを答えると共に,ソ連の漂流機雷,航行危険区域,間宮海峡の航行不許可に再び言及して,その注意を喚起しました.
 また,1943年1月28日,更に外務省は,対馬海峡を通過して太平洋に出るソ連船の為の航路を短縮し改正したものを在京ソ連大使館に通告しています.

 そういう意味では,日本は相当譲歩しているのですが….
 また個々の船舶の話も,殆ど言いがかりに近いものだったりします.
 それについては,又明日.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/28 23:10

 さて,「中立国」であるソ連船舶は,1941年12月以来,太平洋で度々被害に遭っています.

 まず1941年12月20日及び,21日,ミンダナオ島南方でソ連油槽船のマイコープ号が,爆撃を受けて沈没しました.
 マリク代理大使は,1942年1月7日と3月24日に西外務次官に抗議を行っていますが,日本側の調査の結果,日本の航空機が爆撃した事実は無い事を回答しました.
 その後,12月25日になってダバオ南方海上で同船が米国軍機の爆撃で沈没し,船長以下乗組員34名がマラバライで日本軍の保護下にあることが判明したので,日本側はこれをソ連大使館に通報すると共に,大使館の希望によって乗組員を上海に送り,満州経由で帰国させました.
 因みに,マラバライ滞在費などは全て日本が立て替えています.

 また,1941年12月31日には,スメターニン大使から東郷外相宛に,ソ連汽船ペレコプ号がウラジオストクからスラバヤに向かう途中,12月17日にボルネオ島付近で,日本の航空機による空襲で沈没し,乗組員8名が死亡したとして抗議してきます.
 しかし,外務省が現地軍当局に照会して調べたところ,日本の航空機による爆撃は確認できなかったとの回答を得たので,その旨をソ連側に回答します.
 更に,日本軍がナツナ島を占領後,ペレコプ号生存者32名が大ナツナ島に避難し,その内4名が加療の為オランダの飛行艇でボルネオに赴き,更に9名が本国官憲と連絡の為,帆船にてボルネオ島に向けて出発したので,同島残留者は19名であることが判明し,8月3日に日本側からソ連側にその事実を通報しました.
 その後ソ連側は,19名の本国送還と13名の行方捜査を依頼してきますが,病者4名の行方は未だ判明せず,ただ9名の行方だけが判明しただけでした.
 この4名は,最終的に1943年1月に漸く行方が判明し,彼等をシンガポールに集め,便船で上海に送って,後に帰国させています.

 結構,ソ連船の乗組員に対しては,日本側の取り扱いが非常に丁寧です.

 更に,1941年12月14日,日本軍が香港を攻略した際,碇泊中のクレチェット号(2,282トン),シンフェロポリ号(2,696トン),スヴィルストロイ号,セルゲイ・ラゾ号が撃沈されたり損傷を被ったりしています.
 これについても,12月21日にスメターニン大使が,東郷外相にクレチェット号沈没について抗議をして来ました.
 この事件についても,日本側の過失ではなく,英国側の措置であることが判明したので,1942年1月19日にその旨をスメターニン大使に説明しています.

 残り3隻のソ連船は,最初九龍岸壁に係留されていましたが,台風の危険を考慮するのと船体保全の必要があり,更に繋留地一帯がソ連人滞在を不許可とする地域であり,他の船舶の修理妨害にも成る為,5月上旬,現地軍当局は現地のソ連代表に対し,船舶の安全に必要な程度の修理を加えた上,他の場所へ転錨することを提議しました.
 その結果,7月20日に応急修理を終え,船舶を転錨させましたが,ソ連側はこれらの船体保全の責任を逃れる為か,監視員としてソ連船員を乗船せしめることを承諾しませんでした.
 そこで各船に4名ずつ,九龍造船所使用監視人であるインド人を乗り組ませることにしました.

 こうして無為に過ごしているソ連船を見て,猫の手も借りたい船舶不足の日本側は,これら3隻を買い取ることをソ連側に提起し,東京で船舶の転錨,監視員や売却の諸点についてソ連側と交渉しました.

 しかし,ソ連側はこれを不満とし,7月21日にシンフェロポリ号の修繕続行とスヴィルストロイ号とセルゲイ・ラゾ号の両号を,日本側の手でウラジオストクまで曳航することを要求してきます.
 日本側はそれを不可能であると拒絶したところ,ソ連側は自国船舶で両船を曳航することを要求してきました.
 ところが,香港と雖も,戦闘区域であり,日本側はこれを承認できず,船舶の価値ある内に,これを売却する様に再度申し出ますが,ソ連側はこれを拒否しました.

 8月15日,ソ連側は,日本側の手で上海まで曳航すること,ソ連の曳船を上海に入港させることを申し出,更にソ連側は,日本側が船舶の修理を中止し,日本船による曳航を拒否し,無通告で転錨し,船中の財産及び備品の保護措置を執らず,船長・乗組員の船への往復を許さず,乗組員は日本官憲により侮辱的取扱いを受け,殴打された事などを挙げて日本政府の責任を問うと共に賠償請求権を留保し,侮辱的取扱いの完全撤廃などを要求し,その後も繰り返しその要求を行ってきました.

 この要求に対し,日本側も外務省職員を現地に派遣して実情を調査の上,1943年1月28日付口上書で,ソ連船の修理を依頼していた香港・黄埔塢有限公司は,英国資本の会社であって,香港に於ける戦闘開始に先立って一方的に修理を停止したものであり,日本政府は同会社の契約を継承する義務のないこと,船舶の応急修理,転錨,乗組員の乗船などに現地日本官憲は便宜を供与しようとしたにも関わらず,ソ連側は自国船舶保全の責を回避したこと,その結果,3隻の蒙った盗難及び浸水などの損害に対し,日本政府に於いて責任を負い得ないこと,塞孔及び排水作業は行われたこと,船舶監視の為,双方から数名乗り込ませる日本側の提議はソ連側から拒否されたこと,日本官憲がソ連国民に差別的侮辱的取扱いを為したことは無いこと等を通報しました.

 しかし,相変わらずソ連側はなおソ連船の曳航問題について,日本側の回答のないことを不満としたので,日本側はこれら船舶を買い取るか,他の懸案と引き替えに解決したいと申し入れましたが,ソ連は遂に首を縦に振りませんでした.

 それにしても,日本の外務省も,ソ連の難癖によく付き合っていられると思いますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/29 23:25


 【質問】
 『終戦と帝国艦艇』 が気になっております.
 \3990 なので決断出来ずにおります.
 手にとってから判断したいのですが,都会が遠くなかなか出来ません.

 ご購入された方の書評を頂ければ幸いです.
 叔父が復員時にお世話になった,空母葛城の記述はありますでしょうか.

 【回答】
 復刻版に巻末資料が追加された本です.
 終戦後15年を経過し・・・と当時の雰囲気が味わえる本.
 大型・小型艦に関わらず,写真と簡単な解説でまとめてあります.
 終戦時残存艦船に興味がある人には,基礎資料として必携です.

 葛城に関してはそれほどでも.
 数行程度,写真も数枚です.
 むしろマイナー小型艦艇の写真が非常に多く,マイナー艦好きにこそ勧めたい.

 葛城なら最近,国内未発表?らしき写真がたくさんネットに出てきましたよ.
http://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/4816115708/
http://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/4816116012/

軍事板,2011/01/29(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争中,関東方面の港のなかで,おもに南方への兵士・物資の送り出しに使われた港はどこでしょうか?
 ていうか,東京・横浜の埠頭のうちどこが中心になったのか,ということでもかまいませんので教えてください.

 【回答】
 当時の関東方面で荷役に使える港湾は,東京港,横浜港,横須賀港くらいしか有りません.
 第一種重要港湾は,関東では横浜になります.
 横浜以外の港湾は第二種重要港湾になります.

 太平洋戦争初期から中期に掛けては,陸軍物資は東京港から,海軍物資は横須賀港から出発していますが,後に東京港が多くなり,後期になると横浜港からの出発が多くなります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/04/22(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧海軍・海自の軍港,大湊について質問させてください.
 陸奥湾のどこかに軍港を設けるにしても,その位置が大湊になった理由は何でしょうか?
 都市に近くて便利な青森湾や,陸奥湾の最も奥に位置し防衛しやすそうな野辺地湾でなく,大湊が選定されたのは何故でしょうか?

 【回答】
 同じような疑問を抱いた方は昔にもいたようです.

時事新報 1912年7月26日〜29日記事:大湊港視察記
> 青森港の改良に意を注ぐに如かざるやの感なき能わず

 しかしながら,歴史的に大湊が天然の良港であったことは間違いありません.
(現在は水深の浅いことが問題になってるらしいですが)
 記事中,目にとまったポイントとしては,

1)地理的に風の影響が少なかったっぽい.
2)デンキ.
  > 尚各河川何れも落差の大なるものあるを以て将来工業の原動力たる
  > 発電装置を為すには最も適当なるが如く見ゆ

てなとこですかね.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 丹賀砲塔砲台って何?

 【回答】
 沿岸防備用の砲台で,大分県の佐伯湾,豊後水道を見下ろす女郎崎,標高約60mの山頂を10m削って平らにし,廃艦になった巡洋艦「伊吹」の後部砲塔を移設して,1933年に設置されたとされる.
 30cm砲×2,射程約26km.
 しかし1942年1月,実射訓練の際に,弾丸が砲台内で爆発し,16人死亡,28人が重軽傷を負い,砲台は放棄された.

 1991年,旧鶴見町はこの砲台跡を展望所として整備しており,現在は誰でも観覧可能.

 【参考ページ】
http://kyushu.yomiuri.co.jp/entame/isan/0601/is_601_060121.htm
http://kyushu-heritage.jp/map/17tanga/17tanga.html
http://d.hatena.ne.jp/mereco/20090301/p1
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/9734/tanga.1.html
http://www.kyushu01.com/01/0710/0710-142.html

【ぐんじさんぎょう】,2011/07/12 20:40
を加筆改修

 去年の春見に行ったよ.
 弾薬庫跡とか揚弾用水圧室とか残ってましたな.

ゆずこせう in mixi,2011年07月09日 21:13

佐伯・丹賀砲塔砲台跡
faq110622tn.jpg
faq110622tn2.jpg
faq110622tn3.jpg

ベタ藤原 in mixi,2011年06月21日21:58


 【質問】
 鶴御崎砲台って何?

 【回答】
 豊予要塞の一部だが,一つだけ離れた位置にあった砲台.
 敵艦の海峡への侵入を防ぐと同時に,当時軍港であった佐伯港を守るために,細長く突き出た形の鶴見半島の先端近くに造られた.
 また,丹賀砲台の事故後,第2砲台も建設された.
 現在,望楼跡は鶴御崎灯台として利用されており,また,砲台跡も「ミュージアムパーク鶴御崎」として整備されている.

 【参考ページ】
http://panorama.photo-web.cc/tiiki/saiki/houdaiato.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/9734/syu-hen.html
http://ryuudesu.blog.shinobi.jp/Entry/63/
http://homepage2.nifty.com/C_Penguin/travel/sentan/tsurumi/tsurumi.html
http://ameblo.jp/ns-c35-235/entry-10939691782.html

【ぐんじさんぎょう】,2011/07/14 20:20
を加筆改修

 大分に住んでいたとき,何度か訪れましたが,砲台に登るエロ...もとい,エレベーターの雰囲気が,まさに秘密基地♪といった感じでお奨めですよ〜!
(でも,一人で行くとちょっと怖いかも...)

カブリモノスキー in mixi,2011年07月12日 20:52

佐伯・鶴御崎砲台跡

ベタ藤原 in mixi,2011年06月21日21:58


 【質問】
 トラック泊地の意味が分からない.
 日本にそんな名前の軍港ないだろうから,南洋なのか?

 【回答】
 簡単に言うと,日本海軍の南方にある主力海軍基地.
 基本的に南洋作戦はここから出撃してた.
 場所はココ.
(http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/02list/trukmap001.jpgより引用)

 トラック環礁は東西60km,南北50kmもある壮大なラグーン(環礁湖)内に9つの島(比較的小型の火山島群)を持ち,極小の珊瑚礁島が散らばってできている.
 火山島は春夏秋冬の名がつけられた四季諸島と,水曜,木曜など「曜日名」がつけられた七曜島の2群があった.
 散在する極小の珊瑚礁島には,櫻島とか竹島とかの植物名がつけられていた.
 島数は250.
 環礁は,上の幅がほんの数メーターから数10メーターが海面すれすれに出ている,超長大なリング状の珊瑚礁で,リングのところどころが死んだ珊瑚虫の殻が白い砂の堆積となって,水面に現れた島になっている.
 堆積してできた島には,数本の椰子が生えて,これらの環礁上の島々を,中心部にある火山島から見た方位に従って,子島(ねじま)とか午島(うまじま)とか,十二支名を付けていた.
 また,環礁にはところどころ切れ目があり,船が航行できる個所は水道と呼ばれていた.

トラック環礁地図
(こちらより引用)

 第一次大戦中,当時ドイツ領だったミクロネシア(トラック諸島もここに属する)を,日本は管理下に置いた.
 大戦終了後は,国際連盟からミクロネシアの統治を委任され,日本は信託統治領として管理した.
 トラック礁湖は広大で水深もあり,連合艦隊の停泊地としても,絶好の条件を備えていたので,帝国海軍の大根拠地(泊地)となった.
 武装化は禁止されていたのだが,1933年の国際連盟脱退,1939年のワシントン軍縮条約失効以降,加速度的に基地整備が進んだ.

 民間人や軍人・軍属など約2万人の人々が暮らすようになり,島には町が作られ,病院や小学校,映画館までが立ち並んでいた.
 「小松」や「南国寮」などといった有名な海軍料亭の支店もあり,将校の接待や会談にも使用された.

 昭和17年8月,連合軍の本格的な攻勢が始まると,日本軍は来る決戦に備え,連合艦隊の拠点を日本国内から,前線に近いトラック諸島に移した.
 だが,昭和18年11月に,トラック諸島の東にあるギルバート諸島,翌19年にはマーシャル諸島を喪失すると,連合艦隊司令部は,トラックを拠点とした決戦は時期を逸したと判断.
 昭和19年2月10日未明,連合艦隊主力がトラック諸島を離れ,2月17〜18日のトラック大空襲により,輸送船31隻,艦艇10隻,航空機279機を失い,2000人以上の死者を出すに至った.
 連合艦隊の拠点としての機能を失ったものの,トラック諸島が米軍の基地として利用されることを怖れた大本営は,多くの将兵を送り込こんだが,戦況が悪化し補給が絶たれると,兵士たちは自給自足を余儀なくされ,終戦までに5000人にのぼる将兵や民間人が,餓えや病で命を落とした.

 戦後はアメリカの信託統治領となったが,1986年にミクロネシア連邦として独立.
 現在,トラック諸島はチューク諸島と呼ばれ,ミクロネシア連邦のチューク州の州都となっている.

 そしてその海底には,今尚,多数の艦船の残骸が横たわっているという.

 【参考ページ】
[証言記録 兵士たちの戦争]トラック諸島 消えた連合艦隊|番組|NHK 戦争証言アーカイブス
トラック島戦記
切手で綴る「太平洋戦争」物語<第3部 米国の反攻> 第15章 カロリン
チューク諸島 - Wikipedia

ブラウザ・ゲーム板,2013/08/04(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争時のソ連極東艦隊(太平洋艦隊?)の規模はどのぐらいだったのでしょうか?
 ググってみたりしたのですが分かりません,教えてください.

 【回答】
 太平洋戦争時と言っても,1941年と1945年ではかなり差が有る.

 1945年初頭の時点のおおよその艦艇数は,
巡洋艦2隻(18センチ砲9門)
駆逐艦10隻程度(嚮導駆逐艦1隻,中型駆逐艦9隻程度)
海防艦6隻
潜水艦60隻弱(ほとんど沿岸用小型潜水艦)

 巡洋艦2隻は,1942年末と1944年末にアムールで竣工した艦であり,太平洋戦争開始時には無かった.
 この他,太平洋艦隊から北洋艦隊に転属した駆逐艦や潜水艦もあり,1945年初頭ではこれくらいの規模になっていた.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1942年ごろのタイ海軍の戦力を教えて下さい.

 【回答】
海防艦:Ratanakosindra(英国製),Sri Ayuthia(日本製)
駆逐艦:Phra Ruang(旧英国R級駆逐艦)
水雷艇:Puket級7隻(イタリア製)
スループ:Tachin級2隻(日本製)
魚雷艇:Kantan級3隻(日本製)
敷設艇:Bangrachan(イタリア製)
潜水艇:Sinsamudar級4隻(日本製)
砲艇:Chow Phraya(旧英国Hunt級)
哨戒艇:CMB-6〜9(英国製)
漁業保護艇:Sarasindhu級3隻(国産),Sriya Monthon
王室ヨット:Maha Chakri

眠い人◆gQikaJHtf2
青文字:加筆改修部分

海防艦トンブリ Dhonburi
スリ・アユタヤ Sri Ayuthia は,これの2番艦
(画像掲示板より引用)


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