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(画像掲示板より引用)


 【link】

「おおやにき」◆(2010/03/13) 輜重輸卒とチョウチョウトンボ

『輜重兵マル秘日記』(上原要三郎著,国書刊行会,1983)

 故障だらけのトラックよりも,ウマの方が使えねぇ.
 よう分かりました.

――――――軍事板,2011/01/02(日)

『実録鉄道連隊』(岡本憲之&山口雅人著,イカロス出版,2009.2)

『戦場の衛生兵』(武田貞太著,文芸社,2001.7)

 工兵隊(工兵第32連隊のようだ)所属の衛生兵だった著者の戦記.
 入営から中国での治安戦,南洋への配置転換と終戦までをコンパクトにまとめた本.
 小見出しなど所々に俳句が入る.
 衛生部門の組織のほか,戦場・行軍における衛生兵の活動や工兵隊の行動が,前半の中心.
 一方,後半は襲撃を受けつつ南方の島へ移動し,隣接する島に上陸した米軍を警戒しながら,自給生活を行う描写が中心となる.
 現地人との交流の描写も多く,宴会で歌われたという歌や,簡単な言葉も載せられているのが興味深い.

 図版は数枚だが適切なもので,本文の理解を助けてくれる.
 珍しいところでは,南方移動時の輸送船団の隊形が掲載されている.

 難点は,薄い割に値段が高いところだろうか.
 従軍の全期間にわたって細かく描写がされているわけではないが,著者が伝えたい要点を押さえた構成となっており,工兵隊付衛生兵という珍しい身分の兵士の戦記が,コンパクトに読めるところが魅力だろう.

――――――軍事板,2011/05/21(土)

『第四十四兵站史 東部ニューギニア猛第四,八一七部隊第四十四兵站地区隊・行動の実録』(三田寺午之介著,猛四,八一七部隊第四十四兵站史刊行委員会,1995)

 副題だけで,どういう内容かある程度想像できるだろう.
 所々に地図,イラストがついていて,専門用語もできるかぎり解説しようと頑張っている印象は受けた.
 さらに第一部から第七部の最初に,その部の概略がかかれているのも好印象.
 文中と本のラストに,参照資料がかかれている.

 中身のほうだけど,副題から想像した通りのもので,旧陸軍オタなら読む価値はある.
 豊富な地図が,部隊の行動を教えてくれる.

------------軍事板,2012/01/14(土)

 【質問】
 祖父が戦時中に陸軍の建築隊にいたらしいのですが,建築隊ってなんですか?
 工兵とは違うのでしょうか?

 【回答】
 おそらく「建築勤務中隊」.

 戦史叢書「陸海軍年表 付 兵語・用語の解説」から引用.

――――――
建築勤務隊
 各種建築作業に従事し,古くは建築輸卒隊と呼称された.
 主要な任務は,戦地及び要塞において倉庫・廠舎・その他の臨時諸建築物の建築・修理,時として鉄道・橋梁等の構築や防御工事の補助に従事した.
――――――

 任務は広義の工兵の一種だけど,いわゆる工兵みたいな戦闘工兵ではない.
 各種建築隊は後方での兵舎建設や補給路整備,飛行場建設,要塞建築なんかをする.
 兵科も本来は輜重兵系列だと思う.

 通常の工兵は,同じ建設作業でも塹壕掘りとかの野戦陣地設営がメインだし,火炎放射器とか破壊筒での直接戦闘も行う.

 建築隊と呼ばれる部隊には3種類あって,
ア)建築輸卒隊,
イ)建築勤務隊,
ウ)野戦建築隊
がある.
 アは,輜重特務兵(元の輜重輸卒)部隊で,建築資材の運搬や建築の補助をする.
 イは,輜重特務兵が輜重兵に統一されたのに合わせた名称変更.
 ウは,軍属主体の建築隊.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本軍の従軍僧は,米軍の従軍牧師のような存在だったのか?

 【回答】
 否.単なる道具だったという.
 以下引用.

------------
 日本軍の場合は,単なる「葬式専門の道具であった.僧などはおよそ笑うべき存在であった.唯神の道を宣布する神官ですら,単なる道具として利用されたに過ぎない.

 戦闘部隊はよく戦争の余暇に慰霊祭なるものを挙行した.
 職業柄も弁えず,身分不相応な太刀を手挟んだ従軍僧は,このときとばかりぐっと肩をいからして,三界の大導師然として,さももったいぶって儀式を執行した.
 日頃から軽視されていた従軍僧が得意になるのは,このときばかりであった.

 しかし部隊長も将兵も,彼が得意の鼻をうごめかすに足るほどの敬意を払ってはいなかった.また,慰霊祭自体にも深甚なる哀悼の意を表してもいなかった.
 これは単に,外に対する一つのジェスチュアに過ぎなかった.
 部隊長は敬虔にして思いやり深いということを,内外に誇示する一つの手段でしかなかった.
 たいていこういう場合,新聞記者は招待されていた.

 従軍僧は,真の使命を達成するために努力もしていなかった.大部分の使命は,戦線見学と,帰国してからの自己宣伝の素地を培うことであった」

------------(森田正覚=正覚寺住職,「ロスバニオス刑場の流星群」,芙蓉書房,1981/9/25, p.91)

 【質問】
 旧日本陸軍に,現在の陸自武器科に相当する武器装備品の高段階整備をもっぱら行う部署はあったでしょうか?
 有ったとしたら,何と言う名称で呼ばれていたのでしょうか?

 とりあえず,旧軍に武器科は無かったようですし,旧軍輜重兵の任務と陸自武器科の任務は違うようでした.

 【回答】
 各師団には兵器勤務隊120名程度,くろがね4起1台,自動貨車8台,武器修理車1組,軽修理自動車1組で編成された部隊があります.
 此処で,各武器の修理を行うようになっています.
 装備を最も充実させた部隊では,材料廠というものを有しています.
 これは,そのまま修理工場というものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/10/05(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 被服廠(ひふくしょう)って何?

 【回答】
 旧日本陸軍部隊に支給する被服品の調達,分配,製造,貯蔵を担当した工場と,これを統括した機関の総称.
 鉄兜や防毒面,革帯,彈薬盒,背嚢,雑嚢,救命胴衣と云った装具類も扱っていた.
 旧日本軍の場合,1890(明治23)に陸軍被服廠本廠が創設され,
1927年に「大阪陸軍被服支廠」と「広島陸軍被服支廠」が,
太平洋戦争開始前後に「奉天陸軍被服支廠」(のち関東軍被服廠)が,
1944年に「札幌陸軍被服支廠」が,
1945年4月には「東京陸軍被服支廠」「仙台陸軍被服支廠」「名古屋陸軍被服支廠「福岡陸軍被服支廠」が,それぞれ設置された.

 【参考ページ】
http://www.arch-hiroshima.net/arch-hiroshima/arch/delta_south/hifuku.html
http://okwave.jp/qa5073352.html
http://blog.goo.ne.jp/12240106/e/5fc9c8c4dfe4c70588b6c53fe660a859
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%A2%AB%E6%9C%8D%E5%BB%A0/

【ぐんじさんぎょう】,2009/8/1 21:00
に加筆

(画像掲示板より引用)


◆◆◆◆医療


 【質問】
 軍医の制度について説明しろ.
 日本陸軍の衛生機関はどういう構成だったんだ?
 陸軍病院・兵站病院・野戦病院(1〜4)・衛生隊・包帯所などなど.
 軍医はどういう部隊に何人ずついたんだ?

 【回答】
 陸軍病院というのは国内の固定的な医療機関.

 兵站病院というのは戦地での作戦用医療機関.軍レベルなどの直轄部隊.
 ただし満州などにはかなり常設的なものがありました.

 本部に少数の軍医はいるけど,前線からの負傷者移送が任務.

 包帯所は連隊とか大隊付きの臨時の医療機関.
 普通は大隊本部所属の軍医が,衛生兵を集めて仮設します.

 野戦病院の編制定数については,第1〜3の各野戦病院が,それぞれ300名程度だったようです.
 このうち軍医が17名前後で,残りは主に衛生兵.通常,トップは軍医少佐の院長です.

 師団衛生隊は本部と隷下中隊数個があって,衛生兵だけでなく普通の兵隊さんも多いようです.
 戦闘時には,各連隊へ分割配属されます.
 衛生隊本部の直轄部隊として衛生部が置かれて,少数の軍医がいます.
 予備軍医のプールとしての機能もあったようです.(「軍医さんよもやま物語」)

 なお,治安師団など一部の師団では師団衛生隊が欠け,代わりに患者収容隊が軍隊区分で臨時に編成されることがあったようです.

◆yoOjLET6cE in 軍事板●初心者歓迎 スレ立てる前に此処で質問を 491
(重複スレッド)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本軍の医療についての質問なのですが,大隊規模の部隊の場合,軍医(医師免許所持)や衛生兵(医師免許なし)は何人くらいいんでしょうか?

 【回答】
 前者だけだが手元にあった資料から引用

第7師団(昭和19年8月20日現在)

歩兵第26聯隊
 聯隊本部 軍医大尉(1),軍医少尉(1)
 第1大隊本部 軍医中尉(1),衛生見習士官(2)
 第2大隊本部 軍医大尉(1),衛生見習士官(2)
 第3大隊本部 軍医中尉(1),衛生見習士官(2)
 歩兵砲大隊本部 軍医中尉(1)

歩兵第27聯隊
 聯隊本部 軍医大尉(1),衛生見習士官(1)
 第1大隊本部 軍医中尉(1),衛生見習士官(2)
 第2大隊本部 軍医中尉(2),衛生見習士官(1)
 第3大隊本部 軍医少尉(1),衛生見習士官(2)
 歩兵砲大隊本部 軍医中尉(1)

歩兵第28聯隊
 聯隊本部 軍医大尉(1),軍医少尉(1)
 第1大隊本部 軍医中尉(1),衛生見習士官(2)
 第2大隊本部 軍医中尉(1),衛生見習士官(2)
 第3大隊本部 軍医中尉(1),衛生見習士官(2)
 歩兵砲大隊本部 軍医中尉(1)

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 自分の爺さまは戦争中衛生兵をやってたらしいのですが,日本軍の衛生兵ってどんな事やってたんですか?

 【回答】
 病院に例えると,医者が軍医で看護士が衛生兵.
 衛生兵には大きく分けて,病院勤務と隊付があます.

 主に入営時に衛生兵となった人が病院勤務となりますが,病院勤務の衛生兵はまさに看護士で,病院では経理部を除いて大半が衛生兵であり,病院での業務の多くに携わります.

 隊付の衛生兵は一期の検閲が終わった後に衛生兵となった人が大半で,陸軍病院で基礎教育を受けて衛生兵となって原隊へ帰り,そこで勤務します.
 これが,いわゆる映画とかで「メディーク」とか叫ばれてる人達です.

 歩兵の場合,大隊本部にいる軍医の一人が戦時には衛生下士官兵を率いて仮包帯所を開設し,衛生兵はそこにいるか,中隊の指揮班に数名いて,負傷者の救護にあたります.

 基本的に簡単な怪我などは自分で応急処置が出来るように教育を受けたそうですが,それが出来なかったり大怪我だったり薬や包帯がなかったりすると,
「衛生兵,前へ」
となって前線に出て手当てをするか,負傷者を引っ張って,担いで,あるいは担架で後方まで下げてこなくてはなりません.
 隊長の許可なしに兵隊が後方に下がると,敵前逃亡になるからです.

 また,こうした前線に出る衛生兵は包帯嚢という,治療用具の入った鞄のようなのを持っていました.
 これには包帯と消毒済み脱脂綿,ヨードチンキ,消毒薬やガーゼと三角巾が一組になった包帯包なんかが入っていました.
 眼鏡が入ってたとも聞いたことがあります.
 その中でもヨードチンキは「ヨーチン」と呼ばれ,衛生兵の別名になるほど有名でした.
 これは軍医の許可を得ずに使ってよかったので,ちょっとした擦り傷とかならヨーチンをつけて済ませたりもしました.
 また,平時ではヨーチンを使うぐらいしか能がないという蔑称としての意味もありました.

 それから,衛生下士官になると医療嚢を携帯したそうです.
 こちらは中身までは知りません.

 このほかにも,野戦病院とか兵站病院とかにも衛生兵はいるんですけど,長くなりすぎたので書きませんでした.

軍事板,2005/03/30(水)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 携帯嚢にヨーチンの瓶いれといて割れないのか?
 というか当時のヨーチンの保存は瓶でしょ?
 軍医と違って最前線の衛生兵ですし,それに突撃大好きな日本兵でもあるし.
 突撃したら衛生兵も関係ないかw

 【回答】
 今調べなおしたけど,やっぱりヨードチンキは包帯嚢に入ってる.

 確かにビンというか,ガラス容器だったけど,ここの写真を見てみて.
http://www13.ocn.ne.jp/~seiroku/iyakuhin.html
 こんな風に大きな試験管に綿なんかで支えて入れて,割れないようにしていたようだ.
 もっとも,試験管のほうが割れないかまでは知らないけど.

 それと,衛生兵は通常小隊には配属されないから,突撃の機会は多分あなたが思ってるより少ないよ.

軍事板,2005/03/30(水)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 ヨーチンは赤チンと同じもの?
 【回答】
 全く別の薬品です.
 ヨードチンキはヨウ素にヨウ化カリウム(ヨウ素=ヨードが名前の由来)を加えたエタノール溶液.
 赤チンの殺菌成分はマーキュロクロムの2%水溶液.
 赤チンは赤,ヨーチンは茶色.

 化学式:
ヨウ化カリウム>KI
マーキュロクロム>C20H8Br2HgNa2O6

 ちなみに,赤チンは水銀化合物を含むため,昭和48年から国内生産は停止され,現在販売されている赤チン(マーキュロクロム溶液)は海外生産品です.
 ヨードチンキは傷口の消毒のほか,うがい薬などに普通に使われています.

 ヨウ素系消毒殺菌剤のウガイ薬ではイソジンガーグルが有名.処方箋薬かつ売薬(モノは両方全く同一)
 ヨウ素系殺菌剤はいくつか種類が有ります.
・ポピドンヨード
 ヨウ素のままだと正常な組織に対する刺激,攻撃性が強いので,ヨウ素にある処理をする事によって刺激,攻撃性を弱めたもの.
 イソジンガーグル等のウガイ薬から外科等への消毒薬として使われる.

・ヨードチンキ:既出通り.ヨウ素とヨウ化カリウムのエタノール溶液.

・番外:手元にある『ジリパ』という外傷救急薬
 陸自在隊時に,私物の救急用として買った.
 20ccの小型のもので防水煙草入れに入れていた.1/4しか残って無い.
 成分はヨウ素のみで,溶剤はエタノールでなく水の模様.
 蛇足だが,自分は喉をやられた時,イソジンガーグル原液を数滴喉に垂らすというのを効果が有るのでやっているが,本当は記載通りに薄めてウガイする.
 傷口への消毒にも兼用しているが,それも使用方の範囲外.

 ヨウ素系消毒殺菌剤の殺菌剤は外科手術でも使われているそうです.
 献血に行くと,最初にアルコールで広範囲を消毒してから,針を刺すあたりに茶色いコイツを塗られます.

(キルロイ ◆dtIofpVHHg他 in FAQ BBS)


 【質問】
 帝国陸軍の衛生兵になるには,どういう手順を踏んでたんでしょうか?

 【回答】
 入営後,学科の試験があって,それで篩い分けられています.
 其処で衛生兵に選ばれた者は,陸軍衛戍病院で6ヶ月間,看護学の専門教育を受けます.
 其処では,包帯術,担架術,調剤術,磨工術(メスなどを研ぐ技術),按摩術などを学びます.
 普通,2〜3年掛けて専門学校で学ぶものを促成栽培で半年で学びますので,夜昼無しに勉学に励まねばなりません.
 教科書として,「看護学教程」があり,これには赤十字条約も収録しており,これも丸暗記させられます.
 勿論,医者の代わりに注射も行いますので,これの実地教育も行います.

 課程は朝8時から午後5時までぶっ通しで行われ,その間,普通の兵士と同様に武道の稽古もあるので,夜間も延灯願いを出して,初年兵同士集まって勉強したそうです.

 半年後,課程を修了して衛生兵となり,以後はOJTになります.
 平時の場合は,午前中は診断に従って処方箋と調剤して薬を包み,午後は診断簿の整理,夜は中隊を回って,診断の有無を問うて回ったり,顕微鏡で細菌検査も行っていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 陸軍病院の状況は?

 【回答】
 日本軍では日常的にビンタを使った制裁が行われたのは有名ですが,『従軍看護婦物語 日赤看護婦の見た中国戦線』(水井潔子・水井柱共著,光人社NF文庫,2007.10)によれば,病院でも例外ではなく,指示を守らなかった患者に衛生兵が制裁を加える事もあったそうです.
 また,著者も奉天の陸軍病院に出張した際,看護婦が下士官からビンタされる場面を目撃しています.

 ただ,婦長を務めた錦州陸軍病院錦西分院では,軍紀・風紀には厳しかったものの,分院長の性格もあってか,転送された患者からは「家庭的な雰囲気だ」言われるほど和やかだったそうです.

 しかし,それも敗戦を期に一変.
 病院からの移動命令や安東での生活など苦しい状況に追い込まれ,中国軍の命令でそれまで一緒だった仲間たちともバラバラになってしまいます.
(さらに帰国まで色々ありますが,とても書ききれません)

 さらにこの間,(御難を恐れて)看護婦としての経歴を隠して病院で患者の付添婦として働いています.

 また水井柱氏のエピローグによればこの時期,安東で両親を失った兄弟をを保護し続け,共に帰国を果たしています.

 帰国後も看護婦として働き,70歳を過ぎて日本赤十字社の国際救護の従軍看護婦に登録しています.
(本人にとって幸か不幸かはわかりませんが,オーダーが来る事は無かったそうです)
 この赤十字魂には頭を下げるしかありません.

グンジ in mixi,2007年12月31日13:15


 【質問】
 衛戍病院とは?

 【回答】
 日本人が初めて建設した洋式病院は,1871年の横浜共立病院ですが,本格的な大規模洋式病院は,陸軍が1873年に建設した第1師団隷下の東京第一衛戍病院です.
 陸軍がこうした病院を必要としたのは,戦争による戦傷を治療するのは勿論のこと,精神的な病気への対応もあったからです.

 当時の日本は徴兵制を敷いておりましたが,その入隊年齢である20歳と言う年齢は,統合失調症の好発年齢でもありました.
 特に維新期の日本では,今までの和式生活からいきなり洋式生活に放り込まれるなど生活環境は激変する訳ですし,隊内での虐めなどストレスも相当あったと考えられ,入営してから発症するケースも多かった様です.
 更に,西南戦争以降の各地での戦争により戦争神経症を発症する事も多くなります.
 こうした精神病の発症に対応する為,衛戍病院には精神病者を収容する設備を持っていました.
 1912年の段階で,全国に83カ所,衛戍病院は設置されましたが,その内24病院に精神病者収容の施設を持っていました.

 最初にこうした施設が建設された東京第一衛戍病院には,1874年建設で広さは65坪の施設がありました.
 この施設は専用の精神病棟ではなく,あくまでも一過性に病気が原因で興奮した兵士を収容する保護室的なものでした.
 即ち,継続治療が必要な場合は,何処かに移送しなければならなかった訳です.

 東京第一衛戍病院を皮切りに,第16〜18師団衛戍病院に精神病室が作られ,外地にも1910年に羅南衛戍病院,1913年6月に30坪程度の広さを持つ京城衛戍病院精神科病室が設置されています.

 因みに現在,東京第一衛戍病院は国立国際医療センターとなっていたりします.

 千葉には国府台衛戍病院がありましたが,此処には1885年6月に9坪の広さを持つ精神病室がありました.
 この国府台衛戍病院の前身は,1872年3月に東京教導団兵学寮病室として,東京辰口旧備前邸内兵学寮に設置されたものでした.
 1899年10月に国府台衛戍病院と改称し,1936年11月には国府台陸軍病院となって,1938年からは,日本陸軍の精神障害者兵士の診療を中心となる病院となっています.
 そう言えば,渡辺洋二さんの書かれた本で,『重い飛行機雲』だったか『異端の空』だったかに,墜落して一時的に記憶障害となり,この病院に強制入院させられたパイロットの話が出て来ましたっけ.

 何故,国府台陸軍病院がこうした患者を診る事になったかと言えば,先述の様に,徴兵年齢と言うのが統合失調症を発症する好発年齢であると言う他に,1937年に勃発した日中戦争による軍の人的資源拡大の中で,今まで選りすぐりの者を兵士として徴兵したのが出来なくなり,その入営についての間口を広げた為,心身共に頑健な兵ばかりでは無くなり,精神発達遅滞の兵隊や戦争神経症を発症しやすい兵隊が続々と生まれてしまい,彼らが戦場に出ることにより,こうした精神障害患者が続発したことに伴うものでした.

 因みに,この国府台陸軍病院は,現在では国立精神・神経センターと統合しています.

 又,陸軍監獄令第34条には「精神病,伝染病その他の病気のものは衛戍病院に移し,そこを陸軍監獄と見做す」として法的にも整備されました.
 余談ながら,海軍監獄令も同じ第34条として,「衛戍病院」が「病院」に変わった他は全く条文は同じだったりします.
 陸海軍の仲が悪いとは言え,こんな些末な部分では同じ条文を使い回していた様で,この辺興味深いです.

 その海軍は,1884年9月に海軍軍医学校第二付属病院と,海軍第一療品廠,更に財団法人東京海神会病院を設置しました.
 これらは現在では東京医療センターとなっています.

 これらの衛戍病院は,現在3カ所に現存しています.
 流石に,何れも精神病室ではないですが,1つは1878年に名古屋城三の丸に建設された名古屋衛戍病院で,現在は明治村に保存されています.
 これは6病棟が中庭を挟んで配されている分棟式配置で,これがビルディング化する前の洋式大病院の典型でした.
 現在,明治村には管理棟と1病棟,渡り廊下が移築されています.

 2つ目は,樺太の豊原市,現在のユジノサハリンスク市に設置された樺太守備隊豊原衛戍病院です.
 1908年に樺太守備隊司令部建築係が設計して伊東亀太郎が施行した煉瓦造り平屋構造の建物ですが,これは現在でも8戸建て集合住宅として現存しています.
 長さは20間(約36m)前後で,樺太に現存する日本期建築では守備隊司令官社と並んで最も古い建物となっています.
 内部には十字型の廊下が配されています.

 最後に,台湾には台南衛戍病院があり,これは八〇四医院と名を変えて現在も現役として運営されているそうです.

 衛戍病院は,1936年11月勅令第三八七号による衛戍病院改正で陸軍病院と名を変えました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/07 21:54

 第一衛戍病院は1874年に建設されました.
 しかし,明治末期になると老朽化して基礎に狂いが生じ,患者の収容に支障を来すことになりました.
 そこで,改築を建議し,それが認められた訳ですが,その間,患者達の扱いがどうなったかと言えば,大抵の外科的,内科的な患者は,第1師団の他の駐屯地にある病院,例えば,横須賀,佐倉,国府台と言った場所に転院させられています.

 ただ,精神病室に収容されている患者は,遠いところに送り込む訳には行きません.
 そこで,代用病院を指定して,そこに収容することになりました.

 その代用病院と言うのは,陸軍戸山学校にほど近い,新宿区の後に東京医科大附属となる戸山脳病院や,大久保駅の近くにあった山田病院などが充てられたと考えられています.
 特に戸山脳病院は,第一衛戍病院からほんの数分で歩いて行ける場所にありました.
 この病院は,現在の新宿区若松町の西にあり,東に警視庁第8機動隊,北には統計局,新宿中学校に囲まれた場所です.

 戸山脳病院は,1900年2月に完成し,1913年には建坪620坪,定床223名の大病院であり,1920年には更に拡張して,建坪を800坪とし,定床314名に増やしています.
 その院主は杉村正謙元警視庁警部であり,院長は森繁吉医学士でした.
 当時,精神病院は戦前まで警視庁管轄でしたから,院主,今の理事長に当る役職に就いたのは,警視庁の警部を勤め上げた人物だったのには特に違和感がなかったりします.
 警部まで勤め上げたほどの人ですから,それなりに要路には顔が利いたのでしょうか.

 杉村院主の死後は,息子の杉村幹が跡を継ぎますが,1927年10月末に東京医科大学に売却されました.
 この時,敷地は2,723坪,建坪は887坪,入院患者数は350名で,従業員100名という大規模病院でした.
 その後,精神科リハビリテーションの先駆者である加藤晋佐次郎が院長になりますが,1929年2月に,患者の失火で全焼し,10数名の死者を出してしまいました.
 この敷地は借地でしたから,結果的に廃院となってしまいました.

 この加藤晋佐次郎は,その後,下北沢の駅の上に医院を建てて,精神神経科の医院を経営していたそうです.
 その頃の彼は,夏はシャツ一枚か猿股一枚で過ごして,早朝に起きては近所の溝浚いをしていたとか.
 全然医者らしからぬ人だったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/08 23:12


 【質問】
 旧軍の野戦病院って,だいたいは医者1人?

 【回答】
 師団にも時代にも依るが,基本的には医者が一人しかいないということはない.

 「旭川第七師団」(示村貞夫著,総北海出版部発行)掲載の第7師団将校職員名簿(昭和19年8月20日)から引用

――――――
第1野戦病院
 軍医大尉1名(病院長),軍医中尉5名,軍医少尉1名
 衛生少尉1名,衛生見習士官5名
 薬剤中尉2名
 主計少尉1名
第2野戦病院
 軍医大尉1名(病院長),軍医中尉4名,軍医少尉1名
 衛生少尉1名,衛生見習士官6名
 薬剤中尉1名,薬剤少尉1名
 主計少尉1名
第3野戦病院
 軍医大尉1名(病院長),軍医中尉5名,軍医少尉1名
 衛生少尉1名,衛生見習士官5名
 薬剤中尉2名
 主計少尉1名
第4野戦病院
 軍医大尉1名(病院長),軍医中尉7名
 衛生少尉1名,衛生見習士官4名
 薬剤中尉2名
 主計少尉1名
――――――

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 質問です.
 自分は医者なのですが,この前,バイトで民間病院の当直にいきました.
 この病院は100年の歴史がある病院で,前の院長まで3代にわたって一族で経営してきた病院です.
 当直室になんと,「戦地におけるマラリアの治療について」とか,「戦傷整形外科」とかいう,昭和10年代の医学書がドサーリとありました.
 戦地においては全身麻酔がかけられない場合が多く,無麻酔で四肢切断術を行うとかの記載もあり,なんだかなあ・・という感じです.
 それで質問と申しますのは,当時は戦地の野戦病院には抗生剤はなかったのか?ということです.
 戦闘による外傷は汚染創であることがほとんどであり,創部の洗浄や郭清では不十分です.
 ぜひ抗生剤で,感染予防や感染した場合の制御を行いたいところですが,その手の医学書は全然なかったのです.
 もしかして感染症になったら体力のない人はすぐあぼーんだったのかなあ?と思いまして.

 【回答】
 京都大学から東北大学に,ペニシリンが入っていた.
 しかし日本は工場設備の被災により,それを大量生産させることができなかった.

――――――
 わが国では,太平洋諸島の各地で日本軍が全滅となり始めた1943年12月に,ドイツから届いた医学雑誌のペニシリン記事を軍医が読んだことが契機になり,44年1月陸軍軍医学校でペニシリンの研究が始まった.
 また,44年1月の朝日新聞記事で,日本で初めてペニシリンが広く公表された.
 軍医学校での研究はわが国の医(基礎と臨床)・薬・理・農学研究者の先鋭で行われ,同年11月には粗製ながらペニシリンが実用化され臨床に使われた.
 しかし物資の不足,工場の空襲で大量生産に至らず,45年8月の終戦を迎えた.

――――――抗菌薬開発の黎明(2006年12月)早島町 木村医院  木村 丹

 まあ,まだ医学書に記載されるまでではなかったと言うことだろう
 新薬の効果は,それがはっきりした時点で文献に初めて記載されから.

 ただし日本軍の戦死者続出は抗生物質云々より,日本はなぜかリンゲル点滴をやらんかったことの方が大きい
 リンゲルさえやってりゃ,戦死者は三分の一以下になったって推計すらある.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ また,
http://cobs.jp/life/regular/hatsumei/bn/020201.html
によれば,

――――――
その1

 昭和18年12月.一隻の潜水艦が,同盟国ドイツから極秘裏に日本に帰港した.
 この潜水艦が持ち帰った機密資料のなかに,一冊のドイツの医学雑誌があった.

 雑誌中の小さな記事に着目した,時の軍医少佐・稲垣克彦は,当時東京帝大バイ菌学教室の助手であった梅沢浜夫に,記事を直ちに和訳するよう要求.
 その記事とは,ベルリン大学のキーゼ教授による“Penicillin(ペニシリン)”なるものの臨床報告だった.

 第二次大戦中のこのころ,欧米の連合軍には急を要した開発テーマが3つあった.
 それは,レーダー,原子爆弾,そしてペニシリンである.
 なぜペニシリンかといえぱ,当時,戦死の直接の死因のほとんどは,実は破傷風などの細菌感染だったのだ.
 銃弾を浴びての「名誉の戦死」は少なく,戦場で負傷した兵士は次々と細菌に冒され,かすり傷から死に至ることも稀ではなかった.
 その負傷兵を救命する「ペニシリン」なる夢の万能薬が,英国で開発された…….

 この噂を外交官から耳にしていた稲垣は,キーゼレポートを見て噂が事実であると確信.
 直ちに軍にペニシリン研究を取り上げるよう進言した.

 しかし,上層部はなかなか首を縦に振らない.
 なぜなら,「新薬ペニシリンなる噂は,情報混乱のために敵が流した虚偽情報であるかもしれない」という意見を,軍医である稲垣自信,キッパリと打消すことができなかったからだ.

 そんな折も折,昭和19年1月27日,朝日新聞の海外特派員からの記事が一面を飾った.
「敵英国のチャーチル首相,新薬ペニシリンで救命す」
 肺炎で倒れたチャーチルが,ペニシリンによって奇跡的に救命したというのである.
 のちにこの記事は特派員の早とちりで,投与された薬はぺニシリンではないことがわかったのだが,ともあれ,この誤報によって,産学共同研究によるペニシリン国家プロジェクトは晴れて発足する.

その2

 敵国語である「ペニシリン」は,ヨウカン(=羊羹,当時は最高の貴重品)一本を懸賞に掲げた和名募集の結果,「碧素(ヘキソ)」と命名され,昭和19年 2月1日,第一回碧素委員会が開催された.
 このとき大学や研究機関の植物学,バイ菌学,薬学など各学会を代表する錚々たる研究者たちが参集し,碧素をつくる青カビの培養を各自進めることが決まる.
 日本全土がB29の爆撃対象となり,空襲警報が鳴るたぴにフラスコをもって防空壕に逃げ込むことが日課となった9月のある日,例のキーゼレポートを翻訳した梅沢は,各大学で培養された菌株のなかから,一つのフラスコの培養液に菌膜を発見する.
 それを凍らせて乾燥させると,黄色い粉末が出現した.
 これこそが米英でイエロー・マジック(黄色い魔法)と呼ばれたペニシリンだった.
 新聞各紙は直ちにこれを大々的に報道.
「冠絶せる万能薬,大量生産にわが軍陣医学の凱歌!」(毎日),
「驚異の新薬,敵米兵を遙かに凌ぐ大戦果!」(読売)
など,戦意を喪失した国民を励ますかのように,各紙の紙面に晴れやかな題字が躍った.

その3

 ペニシリンの名が初めて登場するのは1929年.英国のフレミング博士によって偶然に発見された話はあまりにも有名だ.
 しかし,当時の学会では「バイ菌による病気に,微生物の化学療法などありえない」というのが常識で,のちにノーベル賞を受賞することになったフレミング自身,その価値がわからなかったのだ.

 ペニシリンが注目されたのは,1941年,英国オックスフォード大学で拮抗作用が確認されてからのこと.
 しかし,大戦中,欧米でもぺニシリンは抽出できず,その生産量も極わずか.
 粗製ペニシリンは投与した患者の尿を捨てずに保管し,その尿から抽出したものを再び息者に投与するといった有り様だった.

 そんな時代に,世界と孤立し,空爆にさらされながら,日本は高純度のペニシリンを単離することに成功した.
 梅沢の精製した碧素は,640万倍に薄めてもブドウ球菌の発育を阻止することが認められ,極めて高い抗菌作用があることが確認されたのだ.
 かくして,国産抗生物質第一号「碧素」は,翌年の終戦まで生産され,多くの負傷兵の命を救ったのだった.
――――――

 ただし上記引用文章は,ところどころ誤りが入っているような気がするな.

>しかし,大戦中,欧米でもぺニシリンは抽出できず,その生産量も極わずか.

 1944年5月の時点で米国では月産約28g,実に2万人分の治療量を量産していた.
 さらにその後,21社の製薬会社で量産した結果,月産約140kg,1億人の治療が可能な生産量に達した.

>粗製ペニシリンは投与した患者の尿を捨てずに保管し,
>その尿から抽出したものを再び息者に投与するといった有り様だった.

 フレミング博士は当初菌の分離試薬として発表しており,早速試薬として販売された.
 1939年の段階で,既に高価だが買うことのできる薬品だった.

 最後の行についても,日本で戦時中にペニシリンで命を救われたのは少数という話だ.

 ソースとしては弱いが,これもあった.

――――――
 日本におけるペニシリン(当時は『碧素』と呼ばれていた)は,1944年1月27日に陸軍大臣から開発命令が下り,軍医学校の稲垣克彦少佐をリーダーとする碧素研究会において,半年から7ヶ月以内に完成という期限付きの下,開発が進められました.
 そして,同年11月16日に完成が報告され,12月から培養と量産が開始されています.
 当時,日本にもたらされていたペニシリンに関する情報は,ドイツからもたらされた論文等ほんのわずかでした.
 しかも物資不足甚だしい戦争末期,さらに,ペニシリン開発に先行していたアメリカの開発データ(アメリカは1943年にペニシリンを完成)を見たわけではありません.
 このような状況の中で,アメリカですら14年かかったというペニシリン開発を,わずか10ヶ月ほどで完成させた日本の研究者たちの努力は称賛に値するでしょう.

 この陸軍で開発されたペニシリンが初めて臨床で使われたのは,広島は呉市で敗血症を患って重態だった少年に対する治療だそうですが,この経緯というのがちょっと変わっています.
 治療には碧素(ペニシリン)を使うしかないと言われた少年の父親が,上京して碧素を探したが見つからず,駅かバス停の待合いで途方に暮れていたところ,偶然そこにいた軍の医療将校を見つけ,碧素をご存じありませんかと尋ねたら,事情を聞いたその将校は,これを使いなさいと持っていた碧素のアンプルを渡したそうです.
 その将校は碧素の開発に携わった人物でした.
 少年は碧素によって無事全快し,現在も存命中だそうです.

<『たけしの万物創世紀』スペシャルより>

http://www.warbirds.jp/ansq/9/I2000434.html
――――――

 ただしこちらの記述も,ここがおかしい.
>アメリカですら14年かかったというペニシリン開発を

 ペニシリンの略史をまとめると,
1928年 フレミング博士が偶然ペニシリンを発見
1929年 菌分離試薬として発表.その後販売される.
1938年 フロリー教授がペニシリンの抗菌効果に注目
1940年 連続抽出装置にて得た充分な量のペニシリンでマウス実験を行う
1941年 臨床結果を学会誌に発表.7月にフロリー教授渡米.
     米国の医学研究委員会でペニシリンの研究が推進される
1942年 11月のボストンの大火災にて大量の臨床機会を得る
1943年 後半から深部培養法による大量生産が開始される

 つまり,ペニシリンの抽出自体は1929年に完成しており,ある程度の量産は1938年から1940年までの2年間で確立している.
 さらに1941年から1943年までの3年間で,米国はペニシリンの「大量生産」の技術を獲得している.
 ちなみに日本が1944年から,森永三島工場で作ったペニシリンは,英国で1942年ごろに使われ,1943年には時代遅れとなっていた表面培養法で,英国の雑誌に載った記事を元に工場設備を作ったという.
 既にある技術を資料を元に再現したのだから,10ヶ月でできてもある意味当然.

 なお,フロリー教授のチームは国家からの支援を受けていなかった.
 欧米で国家が乗り出したのは,1941年の米国医学研究委員会から.

 自衛隊ニュースにもあった.
 どれが本当なんだろう・・

――――――
<彰古館 往来>

ペニシリンと軍医
〈シリーズ 39〉

 ペニシリンは,医療従事者でなくても誰でも知っている抗生物質です.
 ペニシリンは,戦後米軍によって大量に国内に持ち込まれ,アオカビから精製する方法は,国内の至るところで薬品会社が設立される要因ともなりました.
 この様に,戦後になって導入されたイメージが強いペニシリンですが,既に戦時中に開発されていたことは,あまり知られていません.

 昭和18年(1943)12月,市ヶ谷の総力戦研究所での教育を終えた稲垣克彦軍医少佐は,今自分が出来ることは何かと考えます.
 その頃,外国からの医学情報は途絶していましたが,ドイツから最後に帰還した伊8号潜水艦で届けられた医学雑誌に触発され,ペニシリン開発を決心します.
 翌年2月,陸軍軍医学校が中心となり,当時としては極めて異例ですが,陸軍だけではなく,海軍軍医学校,民間の大学の研究室までを組み込んだペニシリン委員会が発足したのです.
 古来我国では,鰹節にアオカビを付着させて腐敗を防ぐなど,アオカビが持つ或る種の毒性によって,細菌の繁殖を抑える効果を経験的に知っていました.
 この毒性の強いアオカビを全国から収集し,培養するところから研究がスタートしたのです.
 当初は難航した,組織運営の上の問題や技術的な問題も徐々に解決し,アオカビの収集と,強い菌種の育成も軌道に乗り,静岡県の森永食糧工業三島食品工場のプラントを利用して,僅かながら先行量産が始まります.
 学会と業界もまた手を結んで,ペニシリンは僅か9ヶ月で開発に成功したのです.
 森永では静岡県立三島北高等女学校の女学生が,挺身隊員として白鉢巻姿で作業に励み,陸軍軍医学校では第一高等学校生が勤労奉仕に従事し,研究成果の統計作業のほか,英独仏伊西露語の特訓を受けて医学書の翻訳を行ない,ガリ版刷りで学会に配布していたのです.
 また,適性語のペニシリンを日本語に変換する命令を受けて,一高生達に公募した結果,有力候補の「あおかびん」を押さえて「碧素(へきそ)」が採用されました.
 ここに和名「碧素」が誕生したのです.

http://www.boueinews.com/news/2005/20050415_10.html
――――――

――――――
(2)

 昭和20年3月,量産に向けて準備中のところ,東京ではB29の空襲が始まります.
 物資の補給もままならず,アオカビの培養と供給,一高生の昼御飯など全てが枯渇し,自分の僅かな食事を減らし,臨床実験用のマウスに与える者など,皆が栄養失調すれすれの状況でした.
 三島工場から送付される僅かなペニシリンは,陸軍病院や大学病院に配布しました.
 民需にまわす余裕は全く無かったのですが,5月24日の東京大空襲や,8月6日の広島の原爆投下の際には,試作品のペニシリンが使用されました.
 純度の低い碧素は,投与直後に副作用による発熱がありましたが,熱傷患者に劇的な効果がありました.
 終戦後,開発に携わった科学者,学生の多くが抗生物質の研究者となっています.

 碧素開発の資料は稲垣軍医が終戦の混乱の中を守り抜き,現在は内藤薬博物館に寄贈され,これらの資料を纏めた文献が彰古館に保管されています.

http://www.boueinews.com/news/2005/20050415_10.html
――――――


555 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/08/19(火) 20:21:01 ID:???

 あおかびんwwwwwwwwwww

軍事板,2008/08/19(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 その昔,野戦病院で働く若い看護婦は,傷病兵達にモテモテだったという話を聞いたことがありますが,実際,そういう心理はあったのでしょうか?

 【回答】
 女性の少ない職場で,僅かな女性が職場の花となるのは当然の心理.
 加えて,怪我とか,病気で寝込んでるときに若い女性にやさしく看病してもらったら,普通にメロメロになるぞ.

 このあたりは山本七平が,『私の中の日本軍』で書いている.

 ただし,以下のような話も伝わっている.

――――――
465 名前:名無しさん@八周年:2008/05/30(金) 01:23:56 ID:xjSYDgjG0

 戦時中の話じゃないけど,じいちゃんは薬剤軍曹だったんだが,特に笑えるエピソードは無いんで割愛.

 で,問題なのが戦時中,中国戦線で従軍看護婦やってたばあちゃん.
 従軍看護婦ってのは,前線の殺伐とした雰囲気でスレる上,兵隊たちにちやほやされるもんで,大抵古兵や下士官,将校も恐れる鬼看護婦になる場合が多い(じいちゃん談)

 親父が小学生の頃の話だが,ただでさえばあちゃんに頭が上がらないじいちゃんなのに,あろうことかコソーリやってた浮気がバレた.

 ・・・ばあちゃんがブチ切れて,床の間に架けてあったじいちゃんの軍刀を抜き払い,
「この前線も知らん軟弱軍曹風情がぁ! 性根を叩き直してくれる!」
とじいちゃんを追い掛け回した.
 じいちゃんは堪らず家を逃げ出し,親父がばあちゃんを必死でなだめた後,じいちゃんを探しに行った所,河原の橋の下でひざを抱え,子犬のように震えていたと.

ばあちゃん怖い.

――――――http://copipe.info/archives/1897

軍事板
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 なんで旧陸軍には,兵種に獣医科があるの?
 何の世話するの?
 食料用家畜とか?

 【回答】
 日本陸軍では,獣医部は,軍馬病毒の予防,傷病馬の治療など馬事衛生に関することを所掌するのが主な業務で,また,食用獣の検査と蹄鉄に関する部分を取り扱います.

 1930年代には日本に馬が150万頭おり,そのうち,労役に耐えうる6〜17歳までの馬は,雄60万,雌40万頭です.
 平時で陸軍全体の馬匹は36000頭ですが,戦時には70〜80万頭の馬を管理しなければならなくなります.

 ちなみに,陸軍の軍馬については民間から購入する場合,購入価格は400〜500円程度になります.
 兵士の人件費よりは高く,維持費が年間1000円程度になりますので,大切にされることが多かった訳です.

 馬は勿論居たし牛も使われたし,何より二等兵が一番利用された.
 その馬達の為の獣医である.
 ただし二等兵は基本的に軍医にも獣医にもかかることは無かった.

 位としては以下の通り.
馬>二等兵

眠い人◆gQikaJHtf2,2006/10/31(火)


 【質問】
 日本陸軍の獣医将校の待遇などについて教えてください.
 昔南方戦線で,人も治療したような獣医将校の回顧録を読んだことがあります.

 【回答】
 獣医部では陸軍で使用す主に軍馬の医療(稀に軍犬の医療も)を担当します.
 その任務は軍馬病毒予防,傷病馬の治療,馬事衛生一般に関する業務と,合わせて,食用獣の検査,蹄鉄に関する業務を取り扱います.
 1930年代,平時の陸軍では36,000頭,戦時になると70〜80万頭の馬が必要になるので,この任務は重要です.

 獣医部の将校担当官は,大学・専門学校獣医科卒業生を見習獣医として採用し,陸軍獣医学校で教育した後,二等または三等獣医に任命します.
 もう一つのスキルパスとして,上等蹄鉄工長(後,獣医務准尉)を実業学校令に基づく獣医学校に派遣し,卒業と共に,獣医師免許を得ることで三等獣医となるケースもありましたが,後に獣医師免許取得は不可能になりました.
 実業学校令に基づく獣医学校というのは,大体,尋常小学校卒業後に進学する形になるので,課程自体は大体が農業高校みたいなものだと思ってください.
 なので,医師としての専門性を有する技能を付与するのは問題有りとされたみたいです.

 実業学校での獣医師免許取得が不可能になったので,少尉候補者は,陸軍獣医学校で教育した後,獣医務准尉の上の階級としての獣医務少尉から獣医務大尉までの階級が出来ました.
 但し,彼等は,獣医師免許は持っていません.獣医師免許を持っていないので,医療行為は出来ません.
 主に彼等の業務としては,食用獣の検査,簡単な病気の治療や予防,それに一番重要な業務として,馬への蹄鉄を打つ業務があります.
 一種,人間を診る医者に対する看護師みたいなものを想定していただければ良いのではないでしょうか.

 最高位は獣医中将で以下,獣医少将,同大佐,同中佐,同少佐,同大尉,同中尉,同少尉が獣医師免許を持っている者で,獣医師免許のない者は,獣医務少尉,同中尉,同大尉までとなっています.
 以下,獣医師免許のない獣医務准尉,獣医務曹長,獣医務軍曹,獣医務伍長と続きます.

 余談ながら,大学以外の獣医師養成の専門学校としては,官立では帯広,私立では慶応義塾,麻布,日本,公立では山口県立,大阪府立,東京にありました.
 これらは高等農林学校に属するものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/02/27(月)
青文字:加筆改修部分

従軍中の犬
(画像掲示板より引用)


◆◆◆◆輜重


 【質問】
 旧日本軍では,輜重部隊に対する差別があったというのは本当ですか?

 【回答】
 輜重輸卒が兵隊ならば,蝶々・トンボも鳥のうち,なんて揶揄されるくらいに.

 西南戦争時に輜重軍夫として雇われたのがヤクザ達だったから,以来,評判が悪いんです.
 また,輜重輸卒は他兵科からの転属が主だったっので,『ダメな兵隊の吹き溜まり』と思われていました.

(軍事板)

 ただし,兵隊としては規格外だったからと言って,それがすなわち「優秀ではない」ということを意味するわけではないので,念のため.
 例えば次のような例がある.

 軍隊は,要領を旨とすべしとよく云われたが,木戸一郎なる兵は,この要領を地で示したような男であった.
 彼は福岡県築城出身で,私達と同じ輜重隊の召集兵であった.職業は何であったか,誰も的確に知らない.セールスマンと言えばそのようでもあるし,商売人にも見えるし,会社員とも思われる節も窺われるが,結局,彼の本職を探り得た戦友は一人もいなかった.
 実に愉快な男で,長い戦地生活を共にした私は,一度として彼の塞いだ顔を見たことがなかった.歩き方も飄々として,容貌は比人に似て色も浅黒く,一見,日本人離れした面白い顔をしていた.
 一(いっ)ちゃん,一(いっ)ちゃんと皆から親しまれ,飄逸な仕草と,ウィットに富んだ言動と,巧みな話術は苦しい軍隊生活の中でも常に爆笑を誘い,一陣の涼風に似た心地良い感情を戦友達に撒き散らしていた.

 私が彼と会ったのは,ダモルティス(フィリピン)に上陸して,お互いに裸同士で食糧や色々の梱包物を,海水に浸かり乍ら運搬しているときであった.
 私の教理は行橋市であったし,築城とは目と鼻の先の距離であったため,特に親しみを感じたためもある.
 彼はいつどういう風に上官に取り入ったかしらないが,裸の運搬兵が知らぬ間に制服を着用して小銃に着剣し,糧秣の監視員に成り済まし,ニヤッと私を横目で見て笑うのである.
 私達は皆,空腹で働いていたが,木戸二等兵は立哨しながら口をもぐもぐさせ,何やら食べている風であった.
「おい!」
と,私が呼ぶと彼は含み笑いをして,
「腹が減ったかい? ちょっと待っておれ」
と,気軽に天幕の中に入っていき,さも自分の店の菓子箱から菓子を持ち出すように梱包の箱を少しこじ開け,中から乾パンや携帯食料を持ってきてくれたのである.
 当時,糧秣の配給のうるさい頃である.判れば重営倉にもなりかねない泥棒行為であった.
 彼は梱包を帯剣で器用に抉じ開け,2,3個失敬してはまたもとの通り釘付けするのだが,その手際の良さ,速さは現代の鼠小僧のようであった.
「腹が減ったらいつでも来いよ.爆撃されれば元も子もなく吹っ飛んでしまうからなあ.遠慮するこたあないよ」
 そう言って私や他の者にも与え,自分も常時口を動かし,済ました顔で立哨していた.
〔略〕

 鶏を声も立てずに捕まえて食べる方法も,彼から教わった者である.左の掌に米粒を載せ,そっと差し出すと,鶏が首を伸ばしてくる.その首をギュッと握り締め,右手の帯剣で一気に首を切り落とし,皮と肉の間に人差指と中指を差し込み,皮を強引に引き裂くと,真白い丸裸の肉が手元に残って,そのまま丸焼きにするのである.
 その動作が,ものの1分とかからない早業であるから,恐れ入った次第である.これでは家の前でやられても,鶏の気付くに気付く者はない.

 やることなすことが人の意表を突く彼であったから,一ちゃんの呼び名もいつしか一郎兄(ニイ)と尊兄の愛称で戦友達から呼ばれるようになった.

 日本軍が大戦果を収め,コレヒドールが攻略され,私も一郎兄も他の部隊に転属されて別々に別れたが,一時平和となったマニラのパサイにある病馬廠で,奇しくもまた再会したのである.
 そのときは私は,馬の肥料の牧草集めに彼方此方と各地を走り回ったり,自給自足の畑の耕作に汗を流したり,病馬の手入れや夜の厩舎の見張り当番などをやったりして多忙であった.

 このように少しの暇もなく私達が働いていた時,彼は何の使役にも出ずに,兵舎の横の小屋を医務室と半分に仕切ってもらい,別格の個人部屋を持ち,悠然とタバコを吹かしながら皆の苦役を眺めていた.
 見ると,何と左右の腕にこれ見よがしに4,5個ずつの腕時計を嵌めているではないか.聞けば時計の修理を専門にやっているという.
 いつの間に,誰の許可で時計屋になったのか,初めて知った私は,驚くよりも唖然として言葉もなかった.彼に質すと,全然素人だよと平気で笑っているのだ.
 手先の器用さで,初め准尉の時計を頼まれ,簡単な捩子の修理をしたのが糸口であったが,時計の中を開けてみたこともない者達からすれば,優秀な修理工に思われたのであろう.また,一郎兄の大風呂敷にかかれば,准尉の心を誑かすことくらい朝飯前であったかもしれない.
 准尉の口利きで,曹長,班長と手当たり次第に時計を預かって,修理業を始めたのであった.
 そうなると,どこか静かな一室が欲しいと言い出したに違いない.
 で,医務室の中を区切ってもらい,そこを根城にしたのだ.

 兵士は動作所作が激しく乱暴だから,時計の狂う率も多い.1週間に一度の外出で,時計の修理を店に出す煩わしさが省け,その上,無料であるから皆が重宝にし,誰にも遠慮することもなく気の向くまま,時計を弄繰り回していれば良いのである.
 一度,彼のところに遊びに行った折,修理している手つきを見ると,お世辞にも上手とは思えなかった.
「本当に時計の修理をしたことがあるのか?」
と,私は不審に思って聞くと,
「やったことなんかあるもんかよ」
と,薄ら笑いをしている.
 呆れたのはそればかりではない.
 見ると,歯車の間にパッキンとして紙を挟んだりしている.
「おい,そんなことをしてよいのか?」
 私は真剣に聞いたが,
「はははは,これで暫くはうまく回るのだから,チョロイもんだよ.捩子の足らないのは,別の時計から失敬してさ,つまり要領だよ」
 誠に人を食った話である.
「すると,最後の一つか二つはいつも修理不能ではないか」
「そうなんだよ.後から持ってきた奴は,運が悪いんだよなあ,はははは」
と,呵々大笑している.なにをか言わんやである.

 夜の外出は将校でないとできないが,彼は私の制止も馬耳東風で,夜毎出かけていた.もちろん正門からでなく,裏の塀を乗り越えて闇に紛れていくわけで,比人の愛人に会うためであった.
 器用な男は行動だけでなく,語学にも通じるらしい.比人の彼女に教えられた彼は,立派に通訳ができるほど,タカログ語が堪能であった.軍服を脱いでちょっと惚けた顔で比島語を喋っていれば,誰も日本兵と思われないほどであった.

 兵隊の夜間外出は絶対禁止である.が,この規則も彼には通用しない.毎晩兵を乗り越えて出かけたが,そのときは愛人から貰った比人のシャツを着込み,ズボンも替え,ご丁寧に帽子まで被っていくのだった.
 長い間,彼の無断外出は私以外知る者がなかった.
 ある朝,私が彼の部屋に入ると,愛人から貰ってきたマンゴーをぱくつきながら,
「おい,昨晩はとうとう憲兵さんに捉ったよ,はははは」
と,他人事みたいに笑って驚かせたのであった.
「え? だから言わんことじゃない.いつかは露顕するぞと注意したろ」
「いや,まいったよ」
「それでどうした? よく無事で帰れたな」
「うん,それがまた傑作なんだ」
 彼の顔からは,当惑した影が微塵も窺われないから不思議な男である.
「重営倉だぞ」
 漫才しみたいな相手であるが,心底から心配したのだ.
「塀を乗り越えて百米も行ったところで,巡回中の二人の憲兵にばったり遭遇し,不意に呼び止められたので,俺もドキッとしたよ」
「そりゃ当前だろう.そしてどうした?」
「それがさ,おいと日本語で俺を呼ぶのだ.俺はとっさに知らんぷりをして,口笛を吹きながら,そのまま行き過ぎようとしたんだ」
「ふーん,心臓の強い奴じゃなあ」
 私は呆れて次の言葉を飲んだ.
 返事もせずに行き過ぎる不審な人物に腹を立てた憲兵2人は,
「おい! こら!」
と,馳足で走ってくるが早いか,一郎兄の後ろ首を掴んだと言う.
「もう万事休すと思ったよ.はははは」
 タバコにゆっくり火をつけて,美味しそうに煙を吐き出した.
「こら! お前は日本兵と違うのか?」
 憲兵は顔を突き出して怒鳴ったという.
 一郎兄の風貌も態度も比人と見紛う程よく似ており,一寸見だけは判別もできない男であった.
「ふふっ,憲兵の奴,ピリ(比人)にそっくりの俺の顔だけ見ても,自慢じゃないが判るものかよ」
「……」
「俺は糞度胸を決めてさ,タカログ語で
『マガンダンガビポ,マイニット』(こんばんは.何ですか? 暑いですね)
と言って,
『アコ,アイシサントス』(私の名前はサントスです)
『アコ,ヒンディ,コ,ナイインティン,ディハン』(私,わかりません)
と言ってやったんだ」
「……」
 憲兵も比島語を勉強しているが,愛人から教わっている彼のタカログ語は流暢で,面相も本物に負けないほどだから,誰が見ても判別はできるはずがない.
「すると憲兵さん,ポカンとしてさ,暫く俺の顔を穴の開くほど見つめていたが,
『此奴,本当のピリらしい』
と,2人で話し合い,よし,行けと,手を上げて放してくれたよ」
「よかったなあ」
 当の本人よりも私のほうが安堵したのである.
「この後の芝居が難しいんだ.余り急いではまた怪しまれるからさ,ペコと頭を下げて,
『ワラン,アヌマン,ポ』(どういたしまして)
『マラミン,サラマット』(ありがとうございます)
『パアラム』(さようなら)
と,続けて言ってやったら,(うん)と相槌を打って見送ってくれたよ」
「へえ!」
「もう大威張りさ,大手を振って彼女の処に行ったよ.
 しかし,掴まった時はさすがの俺もドキッとしたなあ」
 話とは裏腹に,一つも驚いている風もない一郎兄であった.

(泉桂吉〔元第16師団兵士〕,「比島への道」,
新風舎,2003/9/6, p.33-38,抜粋要約)

 こういう人材は,輜重隊より中野学校に入れた方がよかったんじゃ…….

輸送中の米俵
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日本陸軍についての質問です.
 「勤務隊(中隊)」と「輸卒隊」の違いは何なのですか?
 どちらも「水上〜」「建設〜」等があり,一見,任務的には同様にも思えるのですが.

 【回答】
 勤務隊と言うと,師団にある兵器勤務隊と,大戦時に編成された臨時勤務隊があります.

 前者は,師団内に於ける兵器修理の為の組織で,それには兵士が所属していました.
 後者であれば,補給の望めない地区に派遣される師団や独立中隊などの自活の為に,鋤や鍬を持って,農地を切り開いたりする軍属の集団で,徴用された人が多かったみたいです.

 輸卒隊は,輜重兵部隊に配備され,駄馬や輓馬の馬の口を取る役割を持つ,輜重輸卒(1931年に輜重特務兵と改称)の集団のことです.
 その教育期間は2ヶ月で,その中身は徒歩,輓駄馬,梱包積載,陣中勤務からなっていました.
 彼らは戦時召集されて任務に就きますが,長期にわたることを想定せず,万年二等兵でしたが,板垣征四郎が陸軍大臣に就任した1937年に一等兵への進級が認められ,1939年にやっと輜重兵と改称されました.

 但し,正規の輜重兵とは武士と足軽のような関係で,輜重兵は長靴,長剣を帯びて馬に乗り,二等兵でも一個班15名の輸卒を統率するのに対し,輸卒はゲートルにゴボウ剣で馬の口を取る仕事をしていました.

 余談ながら,輸卒を統率する必要があるため,輜重兵は二等兵であっても,軍曹並みの指導力を必要としたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/06/17(金)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 太平洋戦争時の軍直轄部隊などとして見られる「水上勤務中隊」というのは,前者に近い系列の,港湾設備や港湾配置船舶の整備運用をする兵士と考えてよいのでしょうか?
 それから大陸方面の一部師団指揮下に「建築輸卒隊」というのがありますが,これは,工兵の補助を行う「準」兵士集団ということでしょうか?
 【回答】
 ちょっとその辺に関する資料が不足しているのですが,特設水上勤務中隊の場合は,泊地や停泊場等の水上業務・桟橋等を管理するための兵站部隊です.
 桟橋の建設とか,物資の陸揚げ,小型舟艇の操船などを行っていたようですね.

 建築輸卒隊は,後方施設(野戦病院とか補給処などの)の建設,その施設(便所とか炊事所とか倉庫など)の建設,井戸の開削や復旧,後方補給路の補修,破壊橋梁の修理なども任務となっています.
 これは工兵そのものであり,その配下として,所謂,土方が配属されていたと言うことだと思います.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/06/18(土)
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 【質問】
 『飢死した英霊たち』(藤原彰著,青木書店,2001.5)ってどう?

 【回答】
 藤原彰氏が,
「戦死者の過半は栄養失調だった.
 戦争なんて華々しいものじゃない」
と主張した本だったかと思います.
 所謂コヴァな方々への反論として書いた,なんて作者が新聞に載せていたような.
 「日本軍最強!」みたいな人が迷い込んできた時に,「これでも読め」と参考にさせる本としては無難なものだと思いますし,そのように使うのは作者の本望でもあるでしょうね.

名無し整備兵 in 軍事板,2009/09/25(金)〜09/26(土)
青文字:加筆改修部分

 藤原彰は日本陸軍の元士官.
 戦後に旧軍の問題点を暴いた人.
 本書は,徴兵された兵隊たちの栄養失調症や餓死の内容.

 『飢死した英霊たち』自体は2001年の本でも,日本軍の死因は大部分が餓死や戦病死という話は,藤原彰が長年言い続けてきたこと.
 藤原が『軍事史』を書いて,左翼系軍事史学の先鞭を付けたのが1961年.
 これは服部卓四郎の『大東亜戦争全史』(1953〜56)年や,西浦進らの戦史研究など,旧軍出身者に戦史研究が独占されていることへの反発からといわれる.
 今でこそ実証史学が主流となっているが,戦後の軍事史学界は左右のイデオロギー対立の場という側面があったわけだ.

 藤原・大江両氏の思想に賛同するかはともかく,彼らが旧軍中心の研究体制に一石を投じたのは事実であって,その辺は素直に評価しないといかん.
 オタク的な軍事趣味を過大評価して,史学を舐めたらあかん.
 晩年の藤原氏(というか,近年の左翼系軍事史研究)に色々アレな所があるのは百も承知なんだけどね.
 歴史学としての軍事史研究の歩みを踏まえた上で批判していくのと,単に現在の通説と比べて「何を今更」と一刀両断してしまうのは,似ているようで違うと思う.
 なんつーか,もう少し先行研究へのリスペクトを持とうよ,と.

軍事板,2009/09/25(金)〜09/26(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 小林よしのり「戦争論」で,
「先の大戦では,悲惨な戦場ばかりではなかった.
とか言って,親戚の叔父さんの事を書いた下りで,
「わしの部隊では,食料はたんまり有った」
とのエピソードを紹介していたけど本当?

 【回答】
 本当かもしれない.
 だが,
あれこそ旧日本陸軍の悲劇の象徴なんだよ.
 日本軍は補給線が機能していなかった為,前線には物資が届かなかった代わりに,後方には必要以上の物資が溢れるといった現象が,日中戦争の時から現れていた.
 「戦争論」と銘打つなら,西尾とか渡部とかのドキュソの話を鵜呑みにするのでは無く,もっと軍事の勉強をするべきだったね.
 あっ,そんなヒマも気もないか.
 しょせん,その場の勢いで書き飛ばすだけだもんね.

軍事板


 【質問】
 旧日本陸軍では給食を作るのはどういう人達だったのでしょうか?
 陸自みたいに指揮官だけ専門職で,炊事作業は交代で兵が作っていたのか,それとも海空自みたいに専門の給食兵が当たっていたのか?
 旧海軍は主計科の人が専門で作っていたみたいですが.

 【回答】
 平時の炊事は現在の陸自とほぼ同じで,普通の兵隊を数ヶ月交代で炊事所に送り込む方式だった.
 ただ,一般的に成績の悪い兵隊が送りこまれる傾向にあったため,炊事所勤務兵の進級は遅めで,さらに実際はいったん炊事所に送り込まれると,なかなかその勤務から抜け出せなかったとか.

 もちろん役得もあり,調理後の一番いいところを味見と称して食べ放題だったり,つまみ食いもOKで,腹を空かしていた兵隊にはある意味天国のような場所.
 他に,教練にあまり出なくてもすむとか,炊事所勤務兵の間では「俺たちは落ちこぼれ」という意識からくる連帯があり,一種和気藹々としていて,私的制裁も他に比べ軽めだったとか.

▼ 昭和15年6月発行の,支那派遣軍荻洲部隊の戦場写真集「我殲滅譜」(非売品).
 昭和12年10月の上海戦線から江南追撃戦,徐州作戦と昭和14年8月までの戦場での歩みを写真で記録したもので,多くの興味深い情景写真が含まれまていました.

 左は野戦炊事の風景写真で,こういった資料もまた貴重です.

よしぞう(maro') in mixi,2006年07月03日01:21


 【質問】
 ふと思ったのですけど,太平洋戦争中,日本軍の潜水艦で缶詰飯が食べられていたのは周知の事実ですが,陸軍で缶詰飯って食べられていたんでしょうか?
 インパールにしても米を入れた袋がどうのこうのって話はよく聞くのですが,缶詰飯が…… って話は聞きませんよね.

 誰か缶詰飯が陸軍で食べられていたかどうか判る人居ませんか?

ベタ藤原

 【回答】
 乾麺麭なら缶詰がありましたね.
 陸式は,飯を炊くのが主流だったりする訳で,生米はありますが,缶の飯は無かったんじゃないか,と.
 その代りの乾麺麭の缶詰では.

2006年08月22日00:28 眠い人 ◆gQikaJHtf2

以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より


 【質問】
 第二次世界大戦中の日本陸軍には,ドイツ軍が使ったフィールドキッチンのようなものは配備されていたのでしょうか?

霞ヶ浦の住人 ◆SJ6H1biwJ2

 【回答】
 日本陸軍の大行李に装備された野戦炊具は,鉄竈と釜で構成されている.
 大行李というのは大隊に配属される補給部隊で,人員は輜重兵連隊から抽出した者.
 つまり補給専門の部隊.
 これが1個大隊に5基装備され,輜重車(荷車みたいなもの)で運ばれる.
 一部の部隊では炊事車や炊事自動車が配備されたが,それらは全軍に配備はされなかった模様.
 炊事車が試作されたのは昭和初期の頃で,それを母体に量産されている(大量ではなさそうだが)

 なお,独軍もフィールドキッチンは中隊には配属されず,中隊の炊事班は大鍋などの野戦炊具を使って調理する.

軍事板
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 【質問】
 旧軍での炊事の最小単位は?

 【回答】
 中隊ごとの炊事にこだわってたようだが,個人の回顧録系の戦史を読むと,ソレすら出来ずに個人携行の生米を泥水(誇張だろうけど)で一日一回飯盒炊飯して味噌で食ってる.
 鶏,豚等が「現地調達」できる場合は罪悪感無く実行している.勿論,生で食ってるとは思えない.

 これは場所によってはほぼ常態化している.ネットですぐに探せる例だけでも

 私が老河口作戦中に何を食べていたのかほとんど記憶にない.
 出発の時5kgの米と携帯口糧として乾パン(3個)を携帯されられた.
 作戦中に正式に補給を受けたのはそのときとあと2〜3回であった.4か月以上にわたる作戦中の食糧のほ とんどが現地調達だったというわけであった.
http://www.geocities.jp/ktoyo2004/sub7..html

 炊事の単位が分隊であった記述も良く見受けられる.

 私の班には中国人が2人付いていてその人たちが主になって食事の準備をしてくれた.
 私たちは薪を探したり,副食物の材料を集めたり,出来た食事の配分に当たった.

 米は各人が携帯する米がら出すのだが古年次兵や下士官から先に出す事になっていた.荷物の負担が軽くなるからである.
 しかし,彼等は1kgは残していたようである.

(軍事板)

 なお,「飯盒炊飯」の,よりマニアックで正確な表現は「飯盒炊爨」になります.広辞苑の「飯盒」の項の用例では後者だけが載っています.

 ちなみに,Wikipediaの「飯盒」の項は軍事色が強く,なかなか参考になります.

(電脳遊星D@アウトドア好き in FAQ BBS)

最近入手した,戦前の陸軍部隊内務班での食事風景写真

よしぞう(maro') in mixi,2007年03月03日01:49


 【質問】
 洞窟陣地内で行われたという蝋燭炊飯は,本当に可能なのですか?

 【回答】
 上手に使えば,15センチぐらいのろうそく1本で,一合の飯は炊ける.
 煙も全く出ません.
 ただ,これで毎回飯を炊くことは考えられないのだが……
 実際には夜の内に薪を使って,一日分の飯を炊いたそうで.

軍事板
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 【質問】
 帝国陸軍では基本的に食料などは現地で調達するのが基本らしいのですが,主に南方作戦の時などは何を食べてたんですか?
 食料の補給は全く無かったんですか?

 【回答】
 補給がちゃんとある頃は,ご飯に味噌汁に・・・っていう普通の食事が出てた.

 補給がなくなると・・・それこそ食べられそうなものは何でも喰う羽目に.
 オオトカゲは鳥肉みたいでおいしかったとか,そういう話が.

 1943年になって米軍の潜水艦部隊が本格的に活動すると,マトモな補給は来なくなった.
 結構あとになっても食料の補給は行われてたが,輸送船がガンガン潜水艦その他に沈められるので,ほとんど届かなくなった.
 ただ,かろうじて届いても,送られてきた物資も現地の実情をよくわかってないものが多く,塩鮭とか魚の粕漬け”だったと思われるもの”(どれも南方の気候の為輸送途中で完璧に腐ってた)が入っててがっかり・・・と言うような事もよく起こったとか.
 それでも戦闘地域以外ではサツマイモやタロイモなんかを植えたりして,自活する努力をしている.

 日本兵の生活に関しては本が結構出てるのでそれを読んでみるといい.
 光人社NF文庫の「兵隊よもやま物語」なんかは基本としてお奨め.

軍事板
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 【質問】
 先の大戦で,アリューシャンにいた日本軍は,鮭を捕って食いまくって,まるまると太った兵が多かったというのは,マジですか?

 【回答】
 実のところ,アリューシャン方面に上陸した日本軍の食糧事情がよかったのは,豊漁でなおかつ野菜なども栽培できた,最初の数か月の夏の間のみ.
 海空からの米軍の圧力が激しく,日本側の制海・制空権の確保が難しくなったため,この方面は補給も不足がちでした.

 さらに昭和18年に入ると,米軍はアムチトカ島に飛行場を建設して,アッツ・キスカ両島に連日の猛爆撃を加えるようになったため,輸送船による補給はほぼ途絶えています.

 このためアッツ島では,主食であるコメは一か月分の備蓄を,六か月で消費するように計画され,一日の支給は一人当たりわずか一合にまで減らされています.
 野菜の類は,採取した苔とわずかばかりのモヤシしかなく,頼みの綱の漁も,米軍の爆撃で漁労班がしばしば襲われたために禁止せざるをえず,将兵は飢えに苦しむことになりました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
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▼ アッツとは対照的にキスカ島では,終わり頃こそ米は不足しがちだったが,水産資源,特に鮭や鱒が豊富で,最後は食べ飽きて,カロリーの高い筋子だけ食べて,残りは捨てていたくらいだった.
 救助に当たった海軍の水兵も,陸兵が丸々肥えているのにびっくりした.

 キスカ島から幌筵に帰還するまで,阿武隈などでは「垢たっぷりおにぎり」食わされて居た陸兵さんたちだが,帰投してからは,北方部隊上層部の計らいで,御馳走たっぷりだったそうな.
「肉がいいか? トンカツもあるぞ,刺身にするか,他には何を食いたい?」
 ガ島の経験から,彼らが皆痩せ細って戻ってくると思ってたらしい.

 ただ,キスカ島から撤退した陸軍部隊は,「キスカの幽霊部隊」と呼ばれ,千島列島の防備に回されて,終戦後のソ連軍の侵攻迎え撃った後,シベリア抑留で本当の飢餓を体験する事になる.

軍事板,2004/04/02〜04/03
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 【質問】
 日本陸軍の食事は,平時も質素だったの?

 【回答】
 平時の兵隊は,庶民よりはいいもの食べてた.
 陸軍の話だと,棟田博の「陸軍いちぜんめし物語」が面白い.
 各種平時の食事のエピソードや,軍隊生活が分かる.
 コロッケを食べて,
「田舎のうちじゃ,こんな上等なの食えん」
とか,炊事の兵隊が自分たち用にビフテキやトンカツを作る話とか.

軍事板,2003/12/18
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 【質問】
 日本海軍の海軍カレーは有名ですが,どうして陸軍カレーは有名じゃないんですか?

 【回答】
 海軍の場合は長期の洋上任務で,曜日感覚がなくなるのを防止するために,「金曜日には必ずカレーを食べる」伝統を作りました.
 このように,カレーを食べなければならないれっきとした理由があるために海軍カレーは有名となり,また各艦個々に味に工夫をこらしたのです.

 陸軍ではこのような理由が必要ありません.
 ゆえにカレーを食べるにしても,別に曜日を決めたりといったことがないので,特段有名になる事情がないのです.

 また,海軍であれば,たとえ戦争が始まっても,「戦闘」にならなければ艦の厨房が使えますが,陸軍だと戦場に「展開」しただけで,調理器具は野戦対応したものだけになり,暖かいかどうかが重要になるくらいに,一気に食事のレベルが落ちます.
 カレーは「大きいなべで作るとおいしい」などといわれますが,大きいなべをあっためる火力を持った調理器具も,中を満たす水も,戦場によっては容易に入手困難になりえるので.
 軍艦だと,電気や蒸気を使った乗組員の数に見合った調理器具,そして作戦行動分の真水があります.

 あと,調理にあたる人員も,海軍は専門の教育を受けた要員ですが,陸軍は基本的に所属部隊員の持ち回りです.

軍事板
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 ちなみに陸軍の飯炊き係には,カレーは「余計洗う手間がかかる」と不評だった.

軍事板,2003/12/18
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 【質問】
 戦場では日本陸軍兵士は,食糧をどのくらいの量持ち歩くことになっていたのですか?

 【回答】
 携帯糧食6日分の内訳
精米 870g×3日分
 麦飯にすると水分が多くなり腐りやすいので野戦では原則として米オンリーとのこと
乾麺麭 690g×1日分
圧搾口糧 690g×2日分
 1食分は圧搾膨張玄米(54g×3包)+圧搾田麩(8g×3個)+圧搾梅干(4g×1個)+圧搾砂糖(8g×5個)
缶詰肉 150g×1日分
 牛肉大和煮缶詰
乾燥肉 30g×6日分
携帯粉味噌 30g×6日分
 今のインスタントみそ汁(焼麩1gとワカメ3g入り)
携帯砂糖 20g×6日分
 砂糖をプレート状に固めたもの(4枚/日)
携帯食塩 5g×6日分
 食塩を焼き固めてプレート状にしたもの
乾燥魚肉 90g×6日分
 おそらく鰹節
味噌 75g×6日分
栄養食 45g×6日分
 卵黄粉・粉乳・水飴にビタミンとバターを練り込み低温乾燥し表面を糖衣したもの

 学研の歴史群像太平洋戦史シリーズ39「帝国陸軍戦場の衣食住」から引用.
 ちなみに,この「戦場の衣食住」は軍板住人必読の良書だと思う.

 米は,大隊でまとめて運ぶ場合や,兵士がきれいな靴下に1足につき1回分の米を入れて持ち歩く場合も.

 兵個人が持つ携行口糧の定数は甲(麦入り精米870g)と乙(乾パン230g×3食分)を合わせて2日分,
 副食として牛缶1個,干し肉または干し魚,乾燥野菜,調味料(粉味噌や粉醤油).

 戦闘応急配食には状況の応じて第1種から第5種まであるが,第1種から第4種までは,240gの白米から2,3個の握り飯を作り,1食分として配食する.
 第5種は乾パン,缶詰,水を容器に入れ各所に置いておく.
 麦飯870gというのは,「2合(米220g+麦70g)×3食分」で6合分の米麦.
 個人携帯用の牛缶は150g

軍事板
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『のらくろ』より


 【質問】
 うろ覚えなんですが,先の大戦で,陸軍は侵攻先での闘いで必要な食料は現地調達と聞いたようなんですけど,これは本当ですか?

 【回答】
 当時の軍隊はみんなそうです(米軍などを除く).
 限られた兵站はどうしても本国から送ってもらわないと調達できない装備品を優先して,食料は原則的に現地調達する.
 もちろん現地調達してばかりだと時間がかかるし,地元民の反感を買うので,出来れば全部本国から送った方がいい.
 しかし,それができたのは大金持ち米軍など一部の軍と状況のみ.
 日本軍がどれだけ頑張ってカンパンや米,味噌を送る努力をしても,現地の必要量を満たすことは不可能だった.
 このことは口減らしのために捕虜処刑することにつながったりする.

モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
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 特に中国戦線についてはその傾向が強い.
 どこの部隊かも忘れたが,華南から仏印まで歩いた部隊は,補給はほぼ略奪だったそうだ.
 時たま塩が支給された時だけは,物々交換が出来たそうだが.
 太平洋戦線では,それも叶わず,飢え死にコース.

 また,佐々木春隆氏の一連の著作を読むと,大陸打通作戦の最中,者の属した第40師団は一年以上,食料の補給がなかったらしい.
 当然その間は現地調達という名の略奪に頼っていたわけで.

 ただし誤解のないように言っておくが,現地調達というのは普通は
「現地後方で軍の兵站組織が食糧などを購入すること」
を指す.
 大軍で長期間駐留する場合だと,現地の食糧生産力が不足することもあるから,本国から送付というのもあるだろうが,新鮮な食料などは現地で買う.
 日本軍でもドラム缶に米詰めて駆逐艦で運んだ例もあれば,軍票が紙くず同然となったのでウィスキーや古着,米ドルなどで,部隊の主計が現地民から芋を買うこともあった.

 それとは別に,対価を払わずに食糧その他を得ることもあった.
 小は農家の軒先から卵を盗むことから,大は師団司令部が空き家から机を持ち出す,橋を架けるのに民家を材料にするなど.

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 【質問】
 日本軍は中国で略奪しまくりながら進軍しましたよね.
 たとえば,ある地域に日本軍の部隊が複数いて,どっちが先に略奪するかとか,どっちがどの範囲を略奪するかとかで,揉めたことはありますか?

 【回答】
 1.基本的に略奪とは言わない.
 現地調達もしくは徴発というのが用語的に正しい.
 軍票によるお買い物や物々交換(まあ軍票が空手形になることも)
 それらは最初にその地域に入ったものが当然先に行っており,後から来た部隊は買う(または奪う)物がないということも.
 自分の立場というのは自分で守らないと,誰も守ってくれないよ.

 また,すべての地域で徴発しもって進軍したというわけではない.
 軍のスタイルとして略奪を旨とした支那軍,ソ連軍と行動されたらたまらない.

 さらにいえば,軍隊は必要以上の食糧があっても行軍の邪魔になることがあるので,根こそぎ調達するとは限らない.
 兵数は多くても行軍中なら1箇所にとどまる期間は短く,とりあえずその地域の余剰食糧の何割かで済むことも .

 2.徴発を行いもって進軍する場合,九州部隊などが先に進撃していると住民の帰還が悪く,日本軍の評判が悪くなっていることがある.(あくまでも後続隊の言い分)

 3.徴発エリアは部隊によって暗黙のうちに決まる.

 4.住民の宣撫が上手だと,安全保障上も主計的にも有利な条件で支配できる.
 逆だと八路の浸透を有利にする.

軍事板
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 【質問】
 日本軍は,太平洋戦線での食料の衛生管理ってどうだったんでしょう?
 湿気の多い所で暑いし,大変そうですが.

 【回答】
 一言で言えば「劣悪」
 シベリア出兵などの経験もあり,寒冷地での食料研究は進んでいたが,南方での食料研究は進んでいなかった.
 おまけに,冷蔵庫も無い輸送船で運ばれるのだから,もうどうしようもない.
 箱詰めの塩鮭を送ったら,全く食べられなかった,なんて話も聞いた事がある.

 さらに,送られた食料はいったん糧秣集積所に集積して分配するのだが,倉庫も無く露天積みするから,スコールにやられたりで滅茶苦茶.
 かくて前線にとどくのは,かびて青くなったりコクゾウムシだらけの米.
 副食は粉味噌とわずかばかりの乾燥野菜と缶詰.それすらも事欠くありさま….

 その米を,インパールやニューギニアでは泥水や,下手すりゃ死体が浮かんでるような水たまりの水で炊いた.
 それも,1個小隊に米一掴みしかない重湯みたいな代物.
 「ドキュメント太平洋戦争」に,
「お,今日は米が三粒もある」
って喜んだという元兵士の証言があったな.


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