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 【link】

『陸軍大学校』(上法快男編,芙蓉書房出版,1973/12)

 その名の通り,旧日本陸軍の幹部養成学校について詳しく書かれた本.
 陸大校長経験者2人を始め,多くの将官に話を聞き,参考資料もきちんとあげられているので,信頼性は高い.
 陸軍大学校の沿革,明治から昭和に至る陸軍の思想,教育方針の移り変わり,陸大教育の問題点など,陸大と,その出身者が牛耳った旧陸軍を語りたいなら目を通すべき本だと思う.
 また,日本陸軍に多大な影響をもたらしたメッケル少佐についても多く語られているため,メッケル少佐を知りたい人も一度読むべき.

 内容は非常に充実しているが,特に興味を惹いたのは,陸軍軍人が陸軍大学校をどう見たか.
 ほとんどが陸大教育を受けた軍人や,教えた教官(校長)で,15人の陸軍軍人の言葉が載っている.
 もっと政治・外交・経済など勉強をするべきだったという意見や,もっと戦史の勉強やソ連以外の対策をするべきだったという意見などさまざま.
 メッケル話も多い.

 それから悲しいことに,帝国陸軍は東南アジアどころか,中国の地誌すらよくわからないまま戦争をしていたらしい.
 稲田中将によれば,漢口作戦時に昔の中国人はどうやっていたかを,部内外の歴史家に当たったものの,収穫無しだったとか.
 このため作戦路の有無もわからず,地理の大まかな判断で,第2軍を西進させたとのこと.
 この言葉をみて,これじゃあ日中戦争がああなったのも当然だわな……と俺は感じた.

 ついでに,陸大で教科書として使われていたものをあげとく.
「統帥綱領」
「戦闘綱要」(作戦要務令)
「対ソ軍戦闘法要綱」(ソ連常識)
「統帥参考書」 昭和7年 陸軍大学校幹事 陸軍少将 今井 清

--------------軍事板,2012/03/09(金)

『陸軍大学校〈続〉』(高山信武著,芙蓉書房,1978/12)

 『陸軍大学校』の続編.
 著者は陸大第47期生で大本営参謀などを務め,終戦時は大佐.
 その後は自衛官として,北部方面総監や陸幕副長を歴任.

 後半走り読みのうえ,少し長い書評になるが許してくれ.

 前作が,陸軍大学校の教育方法や歴史を語っていたのに対し,今回はその教育内容,つまり実際に陸大で教えられていた戦術や戦略の教育内容が語られている.
 松村劭の『戦術と指揮』くらいは読んでおくのを推奨.
 参考文献はあとがきにあり,軍隊用語や符号解説も附録として少し載っている.

 具体的な内容だがまず,この本は第一部,第二部,第三部に分かれている.
 第一部は教育概説や戦争指導論など,陸大の話というよりは陸大の話を交えながら近代戦争を語るという風になっている.
 しかし,この本の真骨頂は第一部第五章の,実際の講義内容.
 これは,特に優れた教官陣の講義を実際に再現し,一部教官は著者の記憶をもとに,実際に図と問答をもって,部隊戦術を教わる形になっている.

 第二部は昭和陸大の戦術討論と,明治陸大における再審試験の内容.
 前者では遭遇戦や包囲など,各場面における教官と学生の指導場面があり,後者では明治の陸大再審試験の内容が記されている.

 第三部は著者による,過去を振り返りながら,将来起こる戦争への意見.
 最近(この当時)沸き起こる,日本の中立は可能か不可かなどの意見も書かれている.

 感想;
 上にもあげたとおり,個性豊かな教官陣の講義が,この本で一番面白かった.
 特に,小畑敏四郎と岡部直三郎は,ほぼ対極というほど戦術が異なり,
「仮に同一戦況であっても,小畑軍司令官と岡部軍司令官とでは,決心が違うのではないか」
と言われるほどで,自己の兵法を確立する必要性が説かれている.
 陸大全体で言うなら攻撃こそ全て.みたいな思想が強調されていた.
 しかし,「戦略・戦術の大原則には何れも合致しているにせよ,ある特定の状況において,どの原則を適用するかは,人それぞれによって変ってくるということだ」と書かれている.
 遭遇戦が例に出されているが,小畑兵法は,戦機を看破しての逐次戦闘加入方式,岡部兵法は,戦力を統合しての統一戦闘加入方式が重視されていたようだ.

 ついでに実際にあげられている教官陣の名前もあげとく.
 括弧内は,講義を聞いた俺の感想.
小畑敏四郎(徹底した戦機の看破と好機の捕捉 積極攻勢)
岡部直三郎(勝利の前に不敗を目指す.堅実派)
永田鉄山(軍の暴走を憂慮し,皇道派などの派閥を憂慮していた)
村上啓作(統帥参考書・戦争要論の著者で昭和日本兵学の最高権威)
中村明人(仏の将軍と呼ばれた人格者,戦術では勝つべきを為して戦うを徹底していた)
石田保政(殲滅戦の研究家としては恐らく世界最高の水準をもち,メッケルとともに陸大に胸像が置かれた)
四手井綱正(戦史研究・教育を長年行い,戦争史概観を著した.陸軍の人間ながら日本海海戦の講義もしている)
満井佐吉 (戦術講義中もしばしば時世を慨嘆した.永田を殺害した相沢の特別弁護人として弁論を展開した)
メッケル(明治の陸大教官.時代が違うためこの人だけは講義場面無し)
など,どれもウィキペディアにページがある大物ばかり.
 なお,戦術討論・指導場面があるのは,小畑・岡部・中村・石田・四手井・満井(この人だけ図はないけど).
 また,メッケルは前巻で,少し戦術指導場面がある.

 第二部も,白紙戦術が好きな人や,戦術を学びたい人間には,感涙ものの内容だろう.
 なにより,図があり,全部現代語訳(ここ重要)されているという意味で凄く嬉しい.自衛隊関連の出版物を高い金出して買うよりは,こっちのほうが安いと思う.

 余談だが,参考文献にもあげられていた,四手井綱正の『戦争史概観』と村上啓作の『戦争要論』,そして第二部後半の明治陸大再審試験が,『既往十年間陸軍大学校初審再審試験問題答案集』として近デジで読めるので,興味がある人は読んでみると良い.

------------軍事板,2012/03/10(土)〜03/11(日)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 (帝国陸軍の)幼年学校,陸軍士官学校の入試科目,教育内容がどういうものだったかをオンラインで調べたいのですが,海軍兵学校と違ってウェブではなかなか資料が見つからず,苦労しています.

 【回答】
 陸軍幼年学校は3年課程です.
 入学資格は,13歳以上15歳未満という年齢上の制限だけで,学歴上の制限はありません.
但し,その試験は(当時の)中学校1年程度の学力試験,即ち,国語,漢文,外国語,歴史,地理,数学,理科(地学・生物学)から出題されたみたいです.
 外国語試験は英語,フランス語,ドイツ語から選択されます.
 このため,高等小学校卒業程度の学力で幼年学校に入学するのは難しかった様です.
 辻ーんの様な例外は居ますが.

 教育内容は,基礎素養教育(普通の中学校教育に相当)が主であり,これに外国語の習得が加わります.
 外国語は,フランス語,ドイツ語,ロシア語のいずれかを選択するもので,英語はありませんでした.(昭和期にやっと英語と中国語が加わりますが)
 ちなみに,軍事知識の教育は,同年代の中学生が学校教練で学ぶものの方が豊富だったと言われています.

 幼年学校卒業,または中学校卒業した者は,その後,陸軍予科士官学校にて2年間教育を受けます.
 入学資格は幼年学校卒業生もしくは,中学校卒業程度の学力を有するもので,16〜20歳の者です.
 この試験内容は,中学校4年程度の学力試験で,国語,漢文,外国語,歴史,地理,数学,理科,公民から
出題されたようです.
 ちなみに,東北の中学校の例では,200名中,1935年までは,成績上位30番以内が入学出来,1936年には上位5,60番以内,1937年には更に増え,100番〜120番でも合格出来たそうです.

 陸軍予科士官学校では,国語及び漢文,外国語(英独仏露中のうちから一つ),歴史,数学,理科(物理,化学),地理及び地質,心理及び論理,公民(法制及び経済),図画の様な,高等学校高等科の科目と,教練,陣中勤務,射撃,剣術体操,柔道馬術,訓話,内務班指導及び検査などがありました.

 この過程を修了後,半年間の士官候補生勤務を経て,本科に進みます.
 陸軍士官学校では,戦術学,戦史,軍制学,兵器学,射撃学,航空学,築城学,交通学,測図学,馬学,衛生学,教育学,外国語,校内教練,校外教練,陣中勤務,射撃,剣術,体操,馬術,典範令,服務提要などのカリキュラムがあります.

 なお,教育学を履修するのは,軍隊教育の教育者として,彼等を養成する必要がある為であり,これは必須科目として,陸士から,東大教育学科に派遣される場合もありました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 旧陸軍の士官学校の予科とは何なのでしょうか?

 【回答】
 陸軍士官学校予科は大正九年(1920年)に設けられたもので,従来あった陸軍中央幼年学校を改称したものです.

 それ以前の士官への道は
*陸軍地方幼年学校(予科)→陸軍中央幼年学校(本科)→士官候補生→陸軍士官学校
*中学校(旧制)→士官候補生→陸軍士官学校
の二つがありました.

 しかし,この二つは互いに派閥を形成して幼年学校出が中学校出を差別し,また幼年学校出のほうが優遇される傾向が強くなりました.
 このため,これら二つのコースを統合するために中央幼年学校本科を廃止して,陸軍士官学校予科として幼年学校・中学校出身双方を入校させました.
これにより
*陸軍幼年学校/中学校4年修了→陸軍士官学校予科→士官候補生→陸軍士官学校本科
というコースが出来上がりました.

 残念ながら,幼年学校と中学校出身者の対立はその後も続いたようです.

 なお,昭和十三年には入校者の増加に伴い,陸軍士官学校予科を陸軍予科士官学校として陸軍士官学校から分離させています.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE


 【質問】
 第二次大戦の頃の陸軍学校の流れを教えてください.

 【回答】
 以下の通り.

4月:陸軍幼年学校入校.大体の人は旧制中学を1,2年で中退して入ります.
                       |
                       |期間は3年,3月卒業
                       ↓
4月:陸軍予科士官学校入校.ここで,中学を4年次まで終了或は卒業して
   陸士の試験を受験,合格した人も合流します.
                       |
                       |期間は2年,3月卒業
                       ↓
4月:予科を卒業して,士官候補生となり隊付を始めます.
                       |
                       |期間は6ヶ月
                       ↓
10月:陸軍士官学校or陸軍航空士官学校に入校
        |        |
        |        |
        ↓        ↓
          見習士官

 あくまでもこれは法令上の話で,実際は,戦争やら,廃止されてた地方の幼年学校の復活やらで,かなり変わってます.
 士官学校の期間は本来なら20ヶ月,航空士官学校は28ヶ月なんですが,短縮に次ぐ短縮で,むちゃくちゃです.


 【質問】
 旧日本陸軍の幼年学校について教えてください.これは,陸軍士官学校に入るための学校だったのですよね?
 とある本だと,陸軍幼年学校は陸軍士官学校予科に入るための学校で,陸軍士官学校予科は陸軍士官学校本科に入るため,と書いてありました.

 陸軍幼年学校は12歳から3年,陸軍士官学校は1年10ヶ月,そのあとは軍勤務,だと思っていたのですが……

 【回答】
 陸軍幼年学校は,1897年から1918年に掛けては,3年制の陸軍地方幼年学校(東京,仙台,名古屋,大阪,広島,熊本,後,1903年に東京は陸軍幼年学校予科となる)と,1年8ヶ月制の陸軍中央幼年学校がありました.
 これは中学校4年修了(修了年の9月から)で地方校に入り,次いで中央校に進学すると言うスキルパスを経ます.
 1920年に中央幼年学校は陸軍士官学校予科となり,軍縮の影響で,一旦東京以外の地方校は廃止となります.
 しかし,1936〜39年に地方校は復活し,三年制4月入学となりました.

 年齢的には,12歳は入学資格がありますが,直接尋常小学校卒業生は入学させず,実際には,13歳以上15歳未満という年齢制限を課しています.

 幼年学校を卒業すると,運が良ければ,陸軍士官学校予科進学となります.
 しかし,中学校→陸軍士官学校→陸軍大学校のスキルパスが優位にあったりします.

 幼年学校的なものは米国にもあります.
 映画にも何回かなっていると思いますので,探してみては如何でしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 ; 軍事板,2006/02/12(日)
青文字:加筆改修部分

 一般的な例だと,中学一・二年で中退して幼年学校(地方幼年学校)にはいる.
 それくらいの学力がないと難しいい.
 中には高等小学校から行った人もいるけど.勉強しないでぶらぶらしてたらまず無理.

 幼年学校は軍縮とか軍拡とか軍の規模に合わせて数が調節されて,廃校されたり復活したりと思っとけば良いかと.
 で,幼年学校卒業者と中学から士官学校に受かった人たちが士官学校に入るんだけど,このときにまず士官学校の予科に入る.
 予科を昔は中央幼年学校といったというくらいの認識で,初めはの内はよいと思う.
 予科を出て半年位の間,実習みたいな感じで実戦部隊で見習いをして,それから士官学校の本科に入る.
 本科を出ると士官学校を卒業したことになって,見習い士官になる.

 陸軍大学というのは,もともと参謀養成の学校だったんだけど,そのうち,ここを出ないと出世がとても困難なようになっていって,高級指揮官の養成施設みたいになっていった.
 入れるのは限られた一部の人たちだけで,誰でも入れるところじゃない.

軍事板,2006/02/12(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 祖父は,「大学行きたかったけど,陸軍士官学校に行った」そうなんだけど,そういう進路ってよくあったの?

 【回答】
 優秀だけど,家に大学に送ってやれるだけのお金のないときには,よくあったことらしい.

 たとえばウィキペディアによれば,

 海軍は徹底的な学力主義で,全員の席次が明らかになっていたが,陸軍士官学校では成績は非公表であった.
 士官学校の成績よりも,陸軍大学校に合格するか否かが,陸軍将校の一生を左右する重大問題であった.
 大体,上位2割以内でないと陸大の合格は困難であったようである.
 陸大卒は天保銭組と呼ばれ,参謀や中央の要職を歴任するが,無天は余程の勲功でもない限り,その殆どは軍人としての生涯を部隊勤務で終わる.
 後者の場合は,将官に進む割合はかなり低く,大佐から少佐,人によっては大尉で予備役になるものもいた.
 今の自衛隊とは異なり,陸軍将校には身分の保障は無いため,いつ予備役編入で,クビになるかわからない,実に不安定なものであった.

 それでも,わずか20歳そこそこで高等官になれる陸軍士官学校は魅力的で,全国の中学の秀才を集め,
「一高〔=現在の東大〕・海兵・陸士」
などと並び称されるほどであった.
 また,上級学校に進学できない貧しい家庭の子にとっては,無料で進学できる陸士は憧れの的であった.

 まあ,縁故も金も何もない人間が立身出世しようと思ったら,軍人になるのが一番手っ取り早い,と古来より言うし.

 なお,パウエル前国務長官はROTC出身.これは自衛隊における貸費学生+予備自衛官補みたいなもの.
 米軍はROTC出身者が幅をきかせてるっぽい.


 【質問】
 旧陸軍の軍制についての質問です.

 士官を養成する制度として,正規(職業軍人=予備ではないと言う意味)では陸軍士官学校,予備に幹部候補生制度(甲)
下士官を養成する制度として,予備に幹部候補生(乙)制度
があったのは分かりましたが,正規の下士官を養成する機関としては,どのようなものがあったのでしょうか?
 つまり,士官学校出ではないが,職業として軍人を選択し下士官を勤め上げる人たちの育成は,どのようになっていたのでしょうか?
 そのような人たち(正規の下士官)はいなかったなんてことはないと思うのですが.

▼ 【回答】
 幹部候補生ちゃあ本来は,土官学校出身の幹部と違って,戦争中必要だが大量消費される下級指揮官(中隊長くらいまで)を大量生産する為に作られた制度.
 試験等により選抜されて,甲種が少尉〜 乙種が下士官.
 ぶっちゃけ,イイ人材を取り込むために軍が考え出して,それなりに昇進等,優遇されてた制度.
 元々は100円少尉だったっけかな・・・
 金持ち子弟の優遇制度だったのだが,廃止されて,2次大戦の頃に復活した筈.

 本来の制度では
予備役編入・除隊→在郷軍人(市民)に戻る→必要に応じ召集→下士官として軍務につく

 太平洋戦争のパターンでは
予備役編入・除隊→即日召集→下士官として引き続き軍務につく
 「予備役編入・除隊→召集」は書類上の処理だけで,実質的には同じ部隊で引き続いて軍務についてるわけ.

 で,戦前の話だが・・・
 兵隊奴隷,下士官道楽,士官は商売と言われてた.
 給料的にも,そうだった.
 最上層の下士官は最下層の士官である新品少尉よりは給料よかったが,兵隊出身で下士官経由で士官のそこそこになるのは,めっちゃムズイ.
 少佐になったら「兵隊大将」と呼ばれるくらい稀なことだった.
 新品少尉はまあ 今でいう新入社員かな.
 古手の準社員より時間当たり給料は少なくても,そのうち上がる.
 下士官はまあ・・・農家の次男坊三男坊の重要な就職先でもあったので,派遣社員のそこそこ専門資格持ち くらいかな.
 ちなみに士官はとらば〜ゆの自由が無かったが,下士官以下は任期切れたら転職可能.(戦争中等で召集(赤紙)されたら無理だが)
 その代り下士官は定年が士官に比べて早かった筈.

 幹部候補生でなくても,兵隊から年月かけて下士官になるのが 平時の普通.
 昇進していったら,各種学校へ半年とか派遣されて技能を覚えて,昇進していく.
 で,ある程度以上有能なら,任期切れる頃には上から継続してくれって頼まれる.

>下士官には職業軍人はほとんどいなかった

 乙幹(下士官)を志願した時点で,職業軍人の道を選択したことになる.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 平時の場合は,徴兵による兵役期間満了時に,志願することで下士官に任命されます.
 但し,兵隊の時の成績が余りに悪いと下士官への進級は成りません.

 1927〜38年までは,歩騎砲兵科の下士官候補者は,各地の陸軍教導学校にて1年の教育を行い,修了後,軍教育隊にて教育を行っています.
 教導学校は,仙台,熊本,豊橋に設置され,1938年に呼び士官学校に転用されました.
 他兵科については,各学校で下士官用の教育を行います.
 また,上等兵で徴収期間が満了して除隊する場合,下士官適任証を受けると,召集を受けた場合には下士官として登用されることになっています.

 1938年以降は軍容拡大のため,少年飛行兵,少年戦車兵制度により,陸軍航空学校,戦車学校生徒 として一年間教育して,兵長として隊付勤務させ,一年で伍長に任ぜられることになりましたし,兵役延長により,歩兵,砲兵については即日召集で下士官に登用するケースもありました.
 各部下士官については,技術下士官は陸軍兵器学校生徒から,経理部下士官は経理部少年委託生徒 から補充する制度がありましたし,憲兵下士官は憲兵上等兵(後には憲兵兵長)から昇進させることに なっていました.

 このほか陸軍野戦砲兵学校では,戊種として6ヶ月の教育が下士官に為され,自動車学生としては,同じく 下士官に6ヶ月の教育が為されます.
 陸軍重砲兵学校では,丁種として下士官に6ヶ月の教育が,千葉陸軍高射学校でも丁種として下士官に6ヶ月 の教育,陸軍工兵学校では下士官候補生教育がある他,丁種として下士官に4ヶ月の教育を行います.
 輜重兵も同様に,下士官候補生教育の他,丙種で6ヶ月の下士官教育,通信学校は下士官候補生教育の他,丁種として下士官に8ヶ月,鳩学生として下士官向けに2〜4ヶ月の教育が為されます.
 経理学校は下士官候補生教育のみ,軍医学校は丁種として3ヶ月の看護教育,獣医学校は蹄鉄下士官に対する教育が行われます.
 憲兵学校では,下士官候補者教育が1年,丁種として下士官向け教育が6ヶ月あります.
 兵器学校では,下士官養成で2〜3年,下士官教育は戊種として4ヶ月.
 機甲整備学校では,下士官教育は戊種として6ヶ月.
 騎兵学校も,下士官候補者教育の他,丁種として下士官向けの教育がありました.
 千葉戦車学校では,下士官候補者教育が1年,下士官教育は戊種として4〜5ヶ月.
 航空学校系では,航空通信学校で下士官教育が行われています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 旧陸軍の幹部候補生制度について教えてください.

 【回答】
 旧陸軍の幹部候補生制度は本来,中学校の学校教練に合格した者が徴兵後に志願,受験して幹部候補生となり,2年間の訓練終了後に見習士官を経て予備役少尉となるというものであったようです.

 日華事変後になると,大学卒業者(当時は社会的エリート層)と言えども一兵卒として徴集される可能性が高くなってきたので,大学卒業者達の多くは,どうせ兵役に服する事になるのなら,上記の制度を利用して将校に成っておこうと考えたようです.
 元来,中学校(現在の高校)卒業者なども受験する試験であったので,彼ら大学卒業者にとってはそれほど難しいものでもなく,結果として大半の大学卒業者は少尉任官と同時に予備役編入,そして即日召集という形で軍務に就いたようです.

 また,昭和19年には「特別甲種幹部候補生制度」が制定されました.
 これは,速成士官を養成するための制度であり,学徒出陣者の多くはこの制度で少尉に任官していたようです.
 対象は大学,高等学校,専門学校に1年以上在学した者及び師範学校卒業者です.
 従来の幹部候補生制度との相違点は,採用と同時に伍長に任官し,その後予備役少尉となるという点です(従来の制度では,2等兵から始まる).

 以上の各幹部候補生制度の陸軍内での位置付けとしては,とにかく戦時下で消耗の激しい下級将校(小隊長クラス)を十分に確保しておきたいという狙いも下で実施されていたようです.

(日本史板)


 【質問】
 うちの爺さんが,昔は甲種幹部候補生に受かった後に陸軍経理学校に入ったって言ってたんですが,甲種幹部候補生ってどれくらい難しいんですか?
 海軍兵学校や陸軍士官学校はなんとなくわかりますが.

 【回答】
 幹部候補生は,予備役,後備役として士官を養成し,有事の際に指導者として徴兵される人々です.

 甲種になるのは,大概は四年生大学卒程度の学力(当時は大学に進む人自体が少なかった)が必要で,入隊して,二等兵から幹部候補生に採用されると,直ちに一等兵の階級となり, 2ヶ月後に上等兵に昇進します.
 幹部候補生採用から三ヶ月を過ぎると銓衡が行われ,予備役士官候補となる甲種幹部候補生と,予備役下士官候補となる乙種幹部候補生に分かれ,甲種になると一ヶ月後に伍長,その後三ヶ月後に軍曹に昇進し,陸軍予備士官学校での教育を受け,各種学校で11ヶ月の教育を受けます.
 その間に曹長に進み,見習士官を命ぜられ,四ヶ月所属部隊で本務に必要な教育を受けた後,少尉に任官します.

 士官学校候補生を経るルートが正規のルートですが,こちらは高学歴者を対象にした別ルートです.

 ちなみに,中等学校卒業者は,一年半在営すると軍曹に,高等学校・専門学校卒業者は十ヶ月で軍曹に,大学卒は十ヶ月で曹長になります.

 太平洋戦争では,士官が払底したので,1944年に特別甲種幹部候補生制度が出来ます.
 これは大学・高等学校・専門学校一年以上在学並びに師範学校卒業生が対象で,採用と同時に伍長として兵科なら予備士官学校,経理部なら経理学校で一年の教育を行い,見習士官を半年勤めると予備役少尉になります.
こうなると,殆ど促成栽培状態ですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 陸軍経理学校について調べています.
 この方
http://www6.ocn.ne.jp/~futou/sub32.htm
は終戦近くの時に卒業された9期生らしいですが,陸軍経理学校はいつ開校されたんでしょうか?
 検索すると,大正から存在するらしいですが,終戦近くで9期生となると計算があいません.どうしてでしょうか?

 【回答】
 陸軍経理学校は,明治19年(1886年)に開校した陸軍軍吏学舎が元になっています.
 当初は初級経理部士官を養成するため,下士官から選抜された生徒を採用していましたが,明治23年(1890年)に陸軍経理学校と改称されてから高級経理官の養成を行うようになりました.

 陸軍経理学校の生徒は上記の通り,下士官や兵科の尉官から選抜されていました.
 しかし,明治36年〜大正11年までの19年間と,昭和11年以降敗戦までの10年間は一般から生徒(主計候補生)を募集しています.
 9期生ならおそらく昭和19年入学という事ではないかと.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/03/12(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
質問です陸軍と山学校ですが,軍楽隊onlyの学校では違うのですか?
〔原文ママ〕

 【回答】
806 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/09/01(月) 00:53:41 ID:???

 戸山学校は,軍楽・喇叭・体育・剣術・狙撃の学校.

陸軍戸山学校校歌
1 帝都の乾深緑の  戸山の森に集い来る
  誉れも高き丈夫は わが陸軍の精鋭ぞ
2 風さえ薫る樹の間より 打つや鼓の進軍譜
  喇叭の響き湧き添えば 心の駒も勇むなり
3 赤陽照らす広庭に 健脚競い争えば
  勇士の顔に雄々しくも 燃ゆる血汐の映ゆるかな
4 玉座栄えある道場に 武道の精を究めては
  無双の刃霜凍り 声に護国の叫びあり
5 芙蓉の麗姿仰ぎつつ 鍛え鍛えし狙撃術
  神技の光いや冴えて 必中弾の音高し
6 神々しくも大帝の 立たせたまいし躑躅山
  武蔵野原は広くして 赤城筑波の嶺高し
7 歴史も古き深緑の 戸山の森に湧き出づる
  泉は万古かぎりなき 神州士気の源ぞ


808 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/09/01(月) 01:10:03 ID:???
>806
 よく「戸山」だって分かったなあ.
 おいらは何のことか分からなかったわ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

昭和18年2月発行の写真専門誌「報道写真」3月号

 当時のカメラや印画紙の広告等にならんで,報道班員の手記等が目を惹きましたが,収穫だったのは,4ページに渡った陸軍戸山学校の雪中行軍および演習写真特集.
 軍用スキーや竹ストック,かんじき等のクリアな写真や,スキーを履いたままの三八小銃の射撃シーンは興味深いものがありました.

よしぞう(maro') in mixi,2006年12月19日02:51


 【質問】
 戸山流居合って,剣術としての評価は高かったのでしょうか?

 【回答】
 戸山流は陸軍戸山学校で作られた,全く剣術にたいして素人の士官に,軍刀の基本繰法を教えるメソッドです.
 あくまで0の所から全員を,5の位置まで引き上げることが目的なわけです.
 50や100の剣を作るためのモノではありません.

 そいう意味で,メソッドとしては評価されていると考えます.
 でなければ,教育方法の変更をすることになります.

剣恒光@Free Tibet ◆yl213OWCWU in 軍事板,2009/07/13(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 東條を始めとする日本陸軍の対米開戦支持派って,アメリカに留学経験とか行った経験ないのでしょうか?
 五十六のようにアメリカの強大な工業力を知っていれば,対米開戦という愚考を犯すことはなかったのでは?  

 【回答】
 いわゆる「バーデンバーデンの密約」に代表されるように,当時の陸軍では,ドイツに留学したメンバーが派閥として非常に大きな勢力を持っていました.
 当時の陸軍では,陸大を卒業した将校の多くが一度は,専修語学の国を対象とした外国出張の機会を与えられていました.
 帰国後も彼らは派閥を形成し,陸軍内部で大きな勢力を形成していきます.

 なお,英語専修の場合は英国が出張先に選ばれたようで,今村均大将と本間雅晴大将は大正7年に英国に出張しています.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE


 【質問】
 なんで牟田口みたいな奴が士官学校を上位で出て,出世できんだろうな?

 【回答】
 いろいろ言われているけども,牟田口の場合は連隊長,師団長と優秀だったんだけど,軍司令官で大ポカしてる.
 無能をさらすところまでは昇進できて,そこで足踏みする傾向があるとかいう法則もある.

 また,士官学校などの教育が軍事一辺倒で幅広い教養を身につける機会を得られなかったことが影響しているという見方もある.

 一般に,天才肌で戦術理論家としては極めて優秀でも,指揮能力がヘボいことは珍しくない.
 特に軍というのは階級があがるごとに,やる仕事が目まぐるしくかわる.
 叩き上げで中隊長としては理想の人物でも,連隊長としてはカスだったとか,師団長としては優秀でも軍団規模を動かしたら無茶苦茶ということはよくある.
 優秀な軍政家が実戦部隊率いさせられることもよくあるし,一度やらせてみるまで厳密にはわからん.

 結局,向き不向きがあると言うことだね.
 将才のある人物,王佐の才のある人物… その人物の失敗だけを見て無能と言うのは少し可哀相だ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ ※ピーターの法則
http://www.h7.dion.ne.jp/~shindan/dokushonote4.html
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