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なんきん

(こちらより引用)


 【link】

「ストパン」■(2008-12-14)[読書][歴史]南京事件の入門書を読む

南京大虐殺資料集

南京事件 小さな資料集

南京事件FAQ

 色々異論もあるでしょうが,南京事件について議論したければ,上記サイト関連のところでどうぞ.
 FAQ BBSでは歓迎いたしません.

「ネトウヨニュース」◆(2013/05/03) 【プロパガンダ】日本軍の中国人殺戮「三光作戦」〜ユダヤ人虐殺に決してひけをとらないホロコースト

平野耕太 in twitter(2013/05/22)◆

 満州事変は覚え方,「石原莞爾が満州で戦えイクサー1(1931)」だし,ヒトラー政権は「アドルフヒトラーがドイツで冒険!イクサー3(1933)」だし
https://mobile.twitter.com/hiranokohta/status/337139654014926848
盧溝橋は,「イクよ・・みんなで・・盧溝橋(1937)」だし,1900年代は大体最初に「イクぞ!」とか「イグッ!」ってつくので,超エロい.
 一世紀間エロい.
 とんでもなくはしたない時代ですよ.
 なんのつもりだ.
 そんなにほしいのか.
 もっとか.
 こうか.
https://mobile.twitter.com/hiranokohta/status/337140995927969793
ドイツ「イクーーッ!イグゥーー!」
英国「おやおやドイツちゃん,もう股間のアルザスロレーヌ地方はこんなに」
ドイツ「なんでも言うこと聞きますから!何でも言うこと聞きますから!」
フランス「じゃあコレにサインしろ」
ドイツ「イクーー!イクゥー!」
 1919年イクイク,ヴェルサイユ条約
https://mobile.twitter.com/hiranokohta/status/337144248107421696

「北京・平河趣聞博客(ぺきん・ひらかわこねたぶろぐ) 」◆(2010/03/10)映画「南京!南京!」の日本鬼子の小幡竜さんとあった.

目からウロコの南京大虐殺論争


 【質問】
 南京攻略戦って何?

 【回答】
 南京攻略戦とは,第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後の1937.12.1,大本営による南京攻略の大命(陸大命大八号)によって始められた攻撃.
 ただし実際は,第十軍の独断による南京への進撃が,11/19頃から行われており,12/7には南京市への最初の攻撃が行われた.
 防衛司令長官・唐生智を残し,市内からは中国政府要人や公務員が逃げ出して無政府状態の中,12/10から日本軍による総攻撃が始まり,12/13には陥落した.

 【参考ページ】
http://okwave.jp/qa602667.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6
http://www.geocities.jp/torikai007/japanchina/1937.html(重いので注意)

 南京事件とのからみで,政治的なサイトが多くてうんざり.

【ぐんじさんぎょう】,2009/7/29 22:00
に加筆

歩兵第13連隊第6中隊の兵隊の個人アルバム「支那事変 思ひ出」

 まだまだ戦争初期の段階なので,こんな立派なアルバムを個人名入りで配っていた様です.

 13連隊と言えば,熊本の第6師団.
 日中戦争の始めから激戦に加わっていますので,こういう写真も在りました,

 南京戦攻略直後に日本領事館で,庭のポールに日章旗を掲げようとするアルバムの持ち主.
 右端のパナマ帽が大阪毎日新聞の記者の様です.

 また,切り込み偵察で渡河直前の記念写真も興味深い.

 全員褌姿にゴム引き地下足袋を履き,真ん中のアルバムの持ち主は短刀を腰に下げています.
 まさに,第一次戦時にピアーヴェ河を裸で,口にナイフをくわえて渡河したアルディーティ兵(突撃兵)のごとし!

 日中戦争勃発直後,昭和12年末の第6師団の編成はこちらにあります.
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/sougou/sosikizu/D006.htm

 熊本出身の第13連隊は,昭和18年にソロモン諸島に送られて,ニュージョージア島のムンダ飛行場争奪戦で,米軍に効果的な奇襲攻撃を仕掛けて,多大な損害を与えています.
 ここでも九州男児の面目を保ったと言えましょうか.

 その後はブーゲンビルで戦っています.

 このアルバムの持ち主は,その後の負傷で一度中国から内地に帰還して,このアルバムが残された模様.
 その後の再召集で南方戦線に送られたかは,不明です.

よしぞうmaro' in mixi,2007年06月30日13:13
〜07月02日 10:27


 【質問】
 南京虐殺について書いた本を何冊か買うとしたら,どれが良いですか?
 写真について検証した本とかえぐいですが,どれだけ信用出来るのかさっぱり.
 中国人はこれだけ残虐だとか証明するのに,女性の性器に草を突っ込んで殺した写真とか載せてるけど,こういう本って,そういう趣味の人が喜んで買うだけなんじゃないですか?

 【回答1】
 初心者であり軍板でならば,まずは中間派を薦めるのがいいだろ.
 大虐殺派と幻派はその後で読めばいい.

板倉由明『本当はこうだった南京事件』日本図書刊行会,1999年
秦郁彦『南京事件』中公新書,2007年
原剛「いわゆる『南京事件』の不法殺害」軍事史学会『日中戦争再論』錦正社,2008年

 ただし,そもそも南京に限らず,旧軍の戦争犯罪について二三冊本を読んだだけで分かった気になろうという行為,神をも恐れぬ所業としか言いようがない.
 大学の単位取るためにレポート出さなきゃならないんならともかく,ブログか何かで自分の「見解」なるものをを開陳しようとか,どっかの誰かを「論破」しようとしてるなら,悪いことはいわんから止めとけ.
 お前さんのたどり着いた主張が肯定派・否定派であるかに関わらず,不毛な泥仕合に新たな一ページを付け加えるだけで,事件の真相の解明には何も寄与しない.

 どれだけ不毛かを端的に知りたければ,
秦郁彦の『昭和史の謎を追う(上)』(文春文庫)
を読むこと
(その際には,秦自身が論争の当事者であることも考慮に入れるべし).

 史料捏造・誹謗中傷・場外乱闘・内ゲバ,なんでもありの泥仕合ぶりだ.

軍事板,2009/02/03(火)〜02/04(水)
青文字:加筆改修部分

▼ 【回答2】
 南京関連で信頼できる本を書いている人は,秦郁彦と笠原十九司くらいだろう.
 逆に東中野修道,小林よしのり,兵頭二十八は全く信頼できない(笑)

 ただし秦も最近は,年のせいか意固地になってる部分が感じられ,新しい本は正直言って,往年の信頼感は無くなってきてる気がするが.

軍事板,2009/11/18(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 とあるブログに,

――――――
1937年6月(南京事件の6ヶ月前)については,人口統計が残っている.

南京城区:853,781人
南京郷区:161,669人
合計:1,015,450人

 ざっと100万人である.

 この後,8月から日本軍による空爆が始まるが,地上戦自体は12月から始まっている.
 避難の必要性を感じるのは,早くとも上海戦が終結する11月ごろと考えるのが自然であろう.

――――――http://ameblo.jp/scopedog/entry-10016653477.html

とありますが,本当に「自然」なのですか?
 南京事件当時,実際の人口はどのくらいだったのですか?

 【回答】
 秦郁彦曰く,「神のみぞ知る」で,全く不明というしかないようです.
 その理由として,蒋介石南京脱出以後の人口の出入りが分からないからだとしています.

――――――
南京の人口については,1936年末に南京市が調べたときの約100万人というのが一応オフィシャルな最後の数字です.
 しかし,これがその後どう変動したか,特に日本軍が南京に迫ってから蒋介石以下の首脳が逃亡して漢口に移る.
 そして,市民の相当数もやはり脱出する.
 そういう事態になってからの出入りが分からないので,問題の南京陥落直後,事件があったとされる当時の人口は不明です.

 その場合に注意しなければならないのは,いわゆる難民区の市民数について,難民区の世話をしていた国際委員会の人たちが語る20万ないし25万人という数字がよく引用されますが,これは比較的信頼度が高いとは思えるものの,忙しい難民の世話係がいちいち数えているはずがない.
 これはあくまでも目分量で,確実性に欠けます.

 問題は,難民区以外の市内にどのくらいの市民がいたかです.
「全員が難民区に逃げ込んでいるから,空っぽのはずだ」
という議論がありますが,私はそうは思わない.
 例えば神戸の大地震のときに思ったのですが,避難住宅を用意しても,壊れた自分の家がいいからと動かない人は少なからずいた.
 南京は日本軍の砲爆撃を殆ど受けていませんから,家はあまり壊れていない.
 したがって,自分の家に留まっていた人はかなりいただろうと思います.

 そのような要素を考えてみると,南京の人口についてはやはり掴みようがない.
 「神のみぞ知る」なのです.

――――――『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.33-34

 さらに言えば,目端の利いた人間なら,戦況不利と見て蒋介石より先に避難することもあるでしょう.
 たとえば,よく「日本軍は民間人を見捨てて逃げた」と俗に言われる,満州へのソ連軍侵攻ですが,このとき危機を事前に察知して逃げ出した民間人も,少数ながら存在します.
 逆に頑固に残ろうとした人がいても,これまた不思議ではありません.
 そういったことまで考えると,1937年になってからこっちの人口など,分かりっこないということになります.
(上述ブログの『統計』は,どこから出てきたのか,出典が不明ですので,同ブログ主の平均的信頼性を考えると,出典が不明のものを信頼するのは躊躇われます)

 なお本サイトは,南京虐殺否定論に与するつもりは全くありませんので,念のため.
 ハートマン軍曹ふうに言えば,「否定視も過大視も,平等に価値がない!」

 ※ この信頼性については,「週刊オブイェクト」内を「scopedog」の名で検索してみれば,おおよそ推し量ることができるでしょう.

 【質問】
 南京大虐殺では結局,何人虐殺されたんですか? 諸説入り乱れて良く分からんのですが・・・

 【 序 】
 まず最初に心得ておくべきは,軍事板では南京虐殺やホロコーストについての話題は好まれない,ということである.
 これらは既に戦史の域を離れてプロパガンダの道具と化しており,プロパガンディストの罵り合いに発展し易いからである.
 「アンネの日記」の項でも述べられているように,細かい部分での議論は専門家に任せたほうがよろしい.
 素人が適当に議論の端っこだけつかまえて,討議しようったって,水掛け論の信仰告白にしかなりゃしない.
 もし専門的に討議したいのだったら,BBSで不毛の論争を繰り返すよりも,大学の史学科に入るなど,相応しい場を求めた方がよろしい.
 まあ,人それぞれの人生だが….

 【回答】
 さて,その南京虐殺ですが,「幻」説から「30万人」説まで,外交的意図も絡んで諸説入り乱れており,現在も真相はよく分かっていません.

 ただし,虐殺否定と30万人説は,完全に否定されているようです.

<捕虜や便衣兵を揚子江沿岸に連行して射殺・刺殺した件に関して>

 まず,虐殺否定説では,その論拠である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」によって,その殺害は交戦の延長としての戦闘行為,そして,便衣兵は捕虜の資格がないので殺害しても不法殺害にならない,としている点.
 これは,武装解除している捕虜・便衣兵を自己の管理下に置いていながらそれを殺害するのは,戦闘の延長とは言えず,叛乱を起こしていない限り,不法殺害となる.
 また,第一線部隊ではその処断権限はなく,軍法会議あるいは軍律会議の判決により処断すべしと言う,国際的慣習であり,現に上海派遣軍,中支那方面軍,第十軍に軍律会議があるので,勝手に処断できないはず,と言う論旨.

 また,下関付近での包囲撃滅戦,揚子江を船や筏で逃げる兵士を射殺したのは,ハーグ陸戦規則の第23条ハ項を根拠にしているが,これは,「武器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」を禁じており,降伏の意思表示を示さずに逃亡する敵兵はこれに当たらない,としている.

 その人数に関しては,「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」での数値を論拠に,30万人説が打ち出されてはいるが,日本側の証言・史料からは,第9師団歩兵第7連隊の安全区掃討作戦による便衣兵殺害の6,670名,第16師団第33連隊の太平門,下関,獅子山付近の捕虜3,096名の殺害,山田支隊の幕府山付近に於ける捕虜など数千名,第十六師団第30旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千名,第114師団第66連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜1,657名をそれぞれ殺害しており,日本側は都合20,000名であり,民間人の死者は,金陵大学のSmythe教授の調査によって(但し,これは推計の範囲を出ないと注記している)南京市部における暴行死者2,400名,江寧県の被殺者9,160名.

 これに加えて,第16師団歩兵第38連隊の捕らえた捕虜7,200名を南京に護送して収容.
 第6歩兵師団歩兵第45連隊第2大隊が5,500名の降伏捕虜を釈放,国崎支隊の歩兵第41連隊が,2,350名の捕虜を武装解除後,釈放.
 また第16師団歩兵第30旅団が2,000名の便衣兵を収容している.
 この何割かが死亡したとしても….

 当時,南京にいたのは,中国軍の南京守備隊は実質兵力10万人弱,民間人は避難民が続出して,残っていたのは15〜30万人.
 30万人説だと,南京に誰もいなくなってしまう訳だが,実際には20万人以上の人がいる.
 従って,差し引き10万人以上であり,その数割は逃亡したか,中国軍に殺害されたか,病死したかしたとすれば,数万人というのが妥当な線…(ちなみに,秦氏は4万人説を唱えている).

 後は,埋葬記録の矛盾とか百人切りの虚実についても史料を挙げて反論している.
 結果,虐殺はあった.だけど,数十万人規模のものはなかったと言う形です.

 なお,南京なんですけど,30万人説も含めて向こう系の方々の言う「南京」は行政区分としての南京行政区(当時.省と同格で日本の関東地方みたいな感じ),こっち系の方々のいう「南京」は南京城区(市街地,っても広いけど)と異なっています.
 また被害者の範囲についても,こっち系は南京城攻略戦の過程で直接殺害された数,むこう系は南京地方に日本軍が侵攻し掌握していた期間に直接・間接的に犠牲になった数(犯罪・餓死・病死等含む.但し期間・死因の範囲をどこまで含むかは人によって異なる)と異なっています.
 当然これらの原因は日本軍や戦争だけではないですけど,なんて言うかあの戦争による犠牲全体の話みたいな感じで,どちらかと言うと戦争犯罪云々ではなく戦争そのものの倫理的な面についての話なんです.
 ここら辺を踏まえておかないとまるっきりスレ違いの話になってしまいますです.
 でも向こうでもこっちでも,裏の取れてない数字や思い込みだけで語る方々も多いわけで…

 ちなみに30万人の数字は,国府軍が当時発表した「上海攻囲軍と南京守備軍計80万人のうち損害30万人」が一人歩きしたと思われます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2他

 【念の為もう一度】
 上記に異論のある向きもあるかもしれない.
 だが繰り返すが,もし専門的に討議したいのだったら,BBSでの論争など,素人同士の水掛論になるだけで不毛.
 それよりは,大学の史学科に入るなど,相応しい場を求めた方がよろしい.


 【質問】
>少なくとも30万人説を単純に否定できない,とだけは言える
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10026915716.html
のでは?

 【回答】
 「単純に否定できない」というのは印象論に過ぎませんので,どうとでも言えますが,30万人説がどのように登場してきたかの経緯を見ると,根拠は薄そうです.
 その経緯を以下に引用します.

――――――
 それにしても,中国側の言う30万人虐殺の根拠は何でしょうか?
 この数字は東京裁判で中国側の検察官が出してきた数字です.
 ただし,判決では採用されていない.
 判決では20万人以上ということ_なりますが,その数には確実な裏づけがなく,法廷として認めたのは留保条件付きで6万2000人です.

 ところが,松井大将の論告では10万人になっている.
 なぜ違うのか,アメリカの法律専門家に聞きますと,要するにA級戦犯を裁いて刑を科すわけですから,死刑にするのに十分と考えれば,細かい数字は副次的であまり関係はないのだろう,とのことです.
 台湾では公式の日中戦争史(百巻)を刊行していますが,それには南京虐殺の数字は10万人とあり,松井大将の論告と同じ数字です.

 ちなみに,日本人で一番大きな数字を出した人は,東京大学教授の樺山紘一氏です.
 1996年版の『現代用語の基礎知識』に100万人と書いてあります.
 この数字について樺山氏に新聞記者が質問したところ,
「中国でそう聞いたような気がするが,間違っていたら次の版で訂正する」
と答えていたのですが,なんと翌年の版では項目さえも消えていました.

 最初に英文で虐殺事件を伝えたティンパーリが,30万という数字を使っていますが,表現が曖昧で
「中国軍の死傷者は上海・南京戦全体を通じて少なくとも30万人,一般市民の死傷者も同じくらい」
という程度の表現です.
 また,軍人の死者と負傷者は一般に1対3の割合といわれていますので,30万人ということは10万が死者で,20万が負傷者ということ_なります.〔原文ママ〕

 ティンパーリの執筆が終わったのは昭和13年(1938)の3月でした.
 しかし,すでに前年の12月に,ティンパーリはこの数字を本国に打電しようとして,日本の検閲に引っかかっている.
 その検閲の中身を,広田外務大臣は日本の在外公館に,参考までだがと断った上,ティンパーリがこういう数字を使っていると伝えています.
 それを早合点した人は,広田が30万人という数字を認めたと勘違いしています.

 このあたりが30万人説の起源らしいと思われます.
 ただし,軍人と一般市民の区別が曖昧で,半世紀も経つと,中国では軍人も一般市民も日本人に虐殺されたということで,あまり意識上の区別はないらしい.
 ですから,そういう感覚で受けとめたほうが良いのかもしれません.

――――――『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.38-39
青文字:加筆改修部分
 なお,※部分「意識」については,同書に出典の記載はない.

 また,2003年現在の,中国側による犠牲者算定方法は,次のようなものだそうです.

――――――
 東京裁判で中国が,この南京事件を持ち出したときには,第1の被害者証言の積み上げを大急ぎでやりました.
 ただし,国民政府は8年近く重慶の山奥にいましたので,戻ってきて僅か2,3ヶ月で調査しなければならない.
 したがって,生存者を探し出しても,その証言を検証する時間的余裕が殆どない.
 そのまま積み上げた数字が43万人であったり,34万人,26万人であったり,数字自体が甚だ不安定です.
 なお,日本軍あるいは日本政府幹部の証言もあるのですが,数字が出てくる事例はない.

 被害者証言というのは,法廷の手続きから言いますと,そのままでは証拠として採用しにくいものです.
 たとえば,揚子江河岸で大量に殺された屍骸の下に入って生き延び,怪我をしたまま洞窟に潜んだ被害者が,月の光の下で数えたら5万7418人だったという証言,これが一ヶ所としては最大規模です.
 端数がなければよかったのでしょうが,何人という単位まで端数があるので,たいていの裁判官は首をかしげるでしょう.

 第2番目の埋葬記録ですが,死体の埋葬に携わったのは慈善団体の紅卍字会と崇善堂で,これが4万と11万で合計して15万だという.
 しかし,埋葬したのが全て虐殺された人間の死体であるかどうかは,別な話です.
 この中には戦死者が入っているとか,その戦死者は揚子江に流れていったはずだとか,議論をやるときりがない.
 いずれにしても,崇善堂の11万という数は,はなはだ怪しい.

 中国はこの第1と第2を併用しています.
 被害者証言の積み上げが19万で,埋葬記録が15万,重複がないという前提で,この2つを加えると34万に成るという単純な計算です.
 また,19万について言えば,八大虐殺現場とされている数を全部足しても,11万にしかならない.
 あと8万足りない.
 しかし中国に対して,数字が合わないよと指摘した人は今までいません.

――――――同,p.35-36

 数合わせのために都合のいい数字を採用したという疑い濃厚でしょう.
 少なくとも,このような曖昧で,中身にも疑問のある数字を,単純に肯定することはできない,とだけはいえると思います.

▼ 実際,中国人研究者の中にも,30万人説は政治的な色彩を帯びたものであって,学術的ではなかったと述べている人もいます.
 以下引用.

------------
中国研究者,南京事件で講演「30〜40万虐殺」に懐疑的

 1937年末の南京事件を研究している中国人研究者2人が30日,都内で講演し,30万から 40万人の虐殺説に疑問を呈した.
 両氏は,これらの過大な数字は,中国内での反日感情の 高まりなどに伴う,「政治的な問題に影響されたものだ」などと指摘した.
 昨年末に始まった日中歴史共同研究の中国側座長である歩平・中国社会科学院近代史 研究所所長も,同じ立場をとっているといわれ,数字で争って,対日関係を悪化させてはなら ないとの中国側の空気を反映したものとみることもできる.
 張氏は
「中国の初期の研究は学術的ではなかった」
と語り,80年代の中国の研究は感情的で,政治的な色彩を帯びていたと指摘した.
 さらに,資料も中国側からみた3冊の本に依拠していたという.
 中国で現在,一般に流布されている南京事件の30〜40万人虐殺説について,
「中国の 学者にとって,確かに難しい面がある」
と述べて,中国人研究者への当局からの圧力を 示唆した.
------------

 ちなみに同ブログでは,「論拠」を並べていますが,それらはどれも
「あるんじゃないかなあ?」
「想像に難くありません」
「不思議ではありません」
という,想像の範囲でしかないものです.
 これでは根拠ではなく,信仰告白に過ぎません.


 【質問】
 (南京事件の犠牲者数について,昨今では40万人以上,あるいはそれ以上などという数字もとりざたされているが,この数字は)産経が出している『蒋介石秘録』がソースでは?

http://ameblo.jp/scopedog/entry-10053587358.html
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 40万人説を最初に出したのは,南京大学歴史部です.

 以下に,どんなところがどういう数字を主張しているかを紹介します.
 『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.31の図表の引用です.
 なお,
「日付」→「年月日」
「単位:1000人」 → 「単位:1万人」
と,原典から変更しています.

主要文献で見る虐殺数(単位:1万人)
文献 年月日 a軍人 b民間人 計(a+b) 出所
抗敵報 1938.4.30 4.2 盧溝橋博物館蔵
M.S.ベーツ証言 1938 1.2 2.8 4.0 東京裁判でも証言
ジョン・ラーベの
ヒトラー宛上申書
1938.6 5.0〜6.0 ラーベ『南京の真実』
(1997), p.317
Battle of China
(movie)
1943 4.0 米国の製作
a東京裁判判決
b東京裁判判決
1948.11.12
1948.11.12
5.0
1.2
20+
10+

松井将軍への論告
中国軍事法廷判決 1947.3.10 30+ or 34
(集団殺害19
個別分散殺害15)
南京虐殺記念館 30 入口に表示
南京大学歴史学部 40 『南京大虐殺』
(1982), p.146
台湾公式戦史 10+ 『History of the
Sino-Japanese War』
(1971), p.213
洞富雄   20+ 『南京大虐殺』
(1982), p.146
秦郁彦 3.0 1.0 4.0 『南京事件』(1986)
a偕行社
b板倉由明
c畝本正巳
1.6
0.8〜1.1
1.6
0.5〜0.8
3.2
1.3〜1.9
0.3〜0.6
『南京戦史』p.364, p.373,
『軍事史学』26-1
板倉論文(1990)
田中正明 きわめて少数 『"南京虐殺"の虚構』
(1984)
樺山紘一 100 『現代用語の基礎知識』
(1996)
高校用教科書
(山川出版社)
2002年版     数万〜40 『詳説日本史』

 ちなみに「ゼロ説」は上記表にはありませんが,論外として切り捨てられたのでしょう.


 【質問】
 南京事件に関する,撫順戦犯の供述書は信頼できるか?

 【回答】
 秦郁彦によれば,真実,虚実が混交して見分けのつきにくい代物であるという.
 まず,別項にあるように,認罪そのものが心理的脅迫の下に行われたものであり,冤罪を発生させる余地が十分ある.

 また,南京事件に関係する撫順戦犯は,
(a)佐々木到一中将(第16師団の旅団長)
(b)太田寿男少佐(南京碇泊場司令部員)
(c)東口義一1等兵
の3人.

 (a)は認罪を拒んだまま,1955.5.30に獄死した模様であり,本人の供述書は今のところ出てきていない.
 『南京大虐殺図証』(中国中央档案館監編,吉林人民出版社,1995)には,石垣林之助兵長の「佐々木到一に対する検挙書」(1954.7.15付)なるものが載っており,佐々木が
「(南京の)住民1万余を射殺し,死体をガソリンで焼いた」
と石垣に話したことになっている.
 しかし秦が,存命中の石垣本人に尋ねたところ,石垣は南京に行ったこともなく,1年近い入院中に51年8月,佐々木が同じ病室に入ってきて出ていっただけの関係であり,検挙書には覚えがなく,筆跡も違っており,
「収容所側にとりこまれていたアクチーブが,代筆したのではないか」
と答えたという.

 (b)の供述書は1990年,毎日新聞が入手.
 同書には,南京陥落から2日後の1937.12.15に着任,18日までに15万の死体を処理した旨,供述されていた.
 が,前後して,その部下だった梶谷軍曹の日記が見つかり,太田の着任が25日と明記してあったことで,供述書の内容が虚構であると判明.

 (c)東口の「上官罪行検挙書」は,『南京大虐殺図証』に掲載されており,それによると,命を受けて難民区に入り,600人を捕らえて殺害した旨,書かれている.
 しかし秦が東口本人に尋ねたところ,末端兵士の東口は佐々木旅団長を見たこともなく,撫順でも会った記憶はないと回答している.

 詳しくは『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.65-66を参照されたし.

 これら「供述」の実態は,安っぽいプロパガンダに過ぎないようだ.


 【質問】
 中国が南京大虐殺で30万人殺されたと主張してますよね?
 日本軍の装備で物理的に可能なんですか?

 【回答】
 私は30万人説には否定的ですが・・・

 南京攻防戦を含めた半年〜1年での死者数が「30万人」という数字なので,出来ないことはないと思いますけれども.
 だいたい4ヶ月分くらい(1会戦分)の師団の作戦用弾薬がそれぞれ1丁/1門あたり小銃300発,軽機8000発,重機20000発.
 まあ日本軍はこの「1会戦分」も滅多に充足できませんでしたが,南京には数個師団入れ替わってますので,机上の計算としては可能です.

 ただこれを当時の弾薬消費量や補給状況から追った試算というのは見たことがないですねー.

軍事板


 【珍説】
 南京で日本軍に虐殺された3千万人の中国人の内,800万人位が石油で焼かれたらしい.
 中国人は熱に弱いので証拠もすべて灰になってしまったらしい.

 当時中国国内には内燃機関が普及していなかった為ガソリンがなく,仕方なく南京市内の全豆腐屋から中華油揚げを略奪して燃料としたと言われている.

 「日本鬼子の残虐行為」98年版より

 【事実】
 死体が残るかどうかは燃焼時間と状況によります.
 例え1000度超の火で焼こうが,燃焼時間が短ければ肉も残ります.火葬場で高温の窯で焼いて,かなり時間がかかるように,人一人を灰にするには,かなりの火力&時間が必要なのです.
 全ての死体を石油で焼いたという主張は論外です.
 石油の有無以前に痕跡がひどいことになります.
 また,石油で数十万人焼いたら,どの程度の石油が必要になるか見当も付きませんし,下の方は焼け残ります.

 常識で考えて,あり得ませんね.

111 :名無し三等兵 :04/08/10 15:59 ID:???

きっと中国人は植物から進化した生き物なんだよ.
113 :名無し三等兵 :04/08/10 16:07 ID:???

それで柘植っちは中華鍋を携行してるんれすね.

 【質問】
 たとえ数万人だったとしても,虐殺を行ったのなら,日本は加害者,悪者じゃないの?
 それとも,そういう見方は自虐的?

 【回答】
 私たちの祖先だけが悪く残虐だ,ではなく, …本来は精密な言い方をしなくてはいけないのですが, どんな人間でも環境によって残虐な行動を行える事実,を知っておく必要があると私は思います.
 そのために,「どんな状態で人は残虐になりえるか」を知ることが求められると思います.
(ですから,現代史での,他国,社会主義下の粛清・虐殺などの大きな悲劇も同様に.)
 その民族がすばらしいから悪い行動はしないというのは幻想であると思います.

 現在のほとんどの日本人は戦争をすることは望んでいないと思いますし,他国からの誤解は解かなければいけませんね.
 ただ,「日本が」でなく,どんな民族でも国民でも,短期間で戦争賛美に傾く要素,社会の脆さがあることを認識する必要もあるのではないでしょうか.
 戦争になりやすい傾向にどこまで至っているかどうかは,調べたり考えることはできると思いますよ.
 自分を被害者に見立てて,国や民族単位で相手側を侮蔑したり憎悪をつのらす,そういうメディア報道に一喜一憂する性格傾向の社会での蔓延などは,〔日中,日韓の〕お互いに良くないとは思います.

たーぼー in mixi

 私は20何年前に中学生だったけど,
「自分の祖先がこんなに残酷だった」
と言われて自分が自虐的になったとは思えないな.
 他の国の残虐行為が隠蔽されていたわけでもないし…
 ナチスの本や,古代からの中国残虐物語(笑)とか,子供心にもひえ〜と思いながら読んでたし.
 それこそ「日本人」じゃなくて「人間」て,ひどいことするなぁ,と思ったものでした.

 でも大人になって,そういう残虐行為って遠くにあるものではなく,意外と身近にあって,いつ自分がかかわるか,自らやってしまうかわからないものだと思うようになりました.

さとねぇ in mixi

 俺が本当に,恐れているのは・・
「己の非を素直に認めて,それを改め・・相手の主張をとにかく尊重してその通りに自分が実行すれば必ず相手は,判ってくれる・・良い結果が生まれる・・」
<簡単に言えば・・「至誠!!天に通ず」的思考
 これを極限まで貫いた時に・・どんなに尽くしても・・相手は判ってくれなかった・・もっと要求はエスカレートしてきた・・その動きは止めらない・・つまり・・騙されていたことに気がついたときに・・一番過激なことを主張して行動しそうなのが・・「至誠!!派」だと思います.

 ☆男女の別れでも・・尽くしつくしたオンナほど・・相手に裏切られたときのショックで過激なことすること多いよね<爆

 俺は,中韓との関係を今後もより改善させるためにも・・彼らの無茶苦茶な主張を冷静に端的に彼らより多い回数で「NO」を主張したい!!
<黙っていたり・・見当違いな回答したら・・無茶苦茶な要求の主張に対して黙認になります・・

みつき.in mixi

 歴史というのは,多くが,あったか無かったか分からない中を証拠と事実を集めていって,可能性の高いものを仮想・暫定的にあったものとしていく作業であり,都合の悪いものに特別に厳格な証明条件をつけるのは科学的な手法とは別のものです.

 〔略〕

 優先的に何が取り上げるべき価値あるものなのか,何を歴史的事件と見なすのか,どんなつながりがあると見立てて説明するのか,誰を歴史的人物とするのか,どの範囲で文化と呼ぶのか,秀れた文化財・芸術と見なすのか.取り上げるべき事実の選択,その並べ方(歴史の流れの提示)にはどうしても,思想と,どのようなことを知ってもらいたいかという意図が入ってきてしまうものだと思いますよ.
(教育と歴史に思想を持ち込んではいけないという極論に極論で返させていただければ,
「無思想の教育・教科書作成ができる」・
「過去の歴史を現在の価値観で判断しないやり方で歴史を見る」
というのがまず,浅い思想であるとも〔略〕言える余地があります.
 〔略〕
 扶桑社の教科書には思想が無いのでしょうか.
 十分に強い思想を背景にしていると思いますし,説明・解釈も相応に記載してあったと記憶しています.

 東アジアに集中して多い暗記型中心教育でない, 生徒に資料を使って調べさせる,ディベート,等の授業のやり方は,私も従来から支持しています.

たーぼー in mixi


 【質問】
 南京事件について小林よしのりが書いていたことの,具体的にどこら辺が出鱈目なんだ?

軍事板
青文字:加筆改修部分

 【回答】
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/uso-hon.htm
見れ.

 小林戦争論2の,南京事件に関する記述に限定して言えば,

(1)当時の東宝が撮った記録映画『南京』を,南京に虐殺はなく,のどかだったことの証拠として挙げてる.

 ⇒それは軍部が取らせた国策映画.
 南京国際委員会のマッカラム氏の日記によると,
『難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て,ケーキ,リンゴを配り,僅かな硬貨を難民に手渡して,この場面を映画撮影していた.
 こうしている間にも,かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り,構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが,こちらの写真は一枚も撮らなかった』

 その映画の製作者白井茂氏も,
『虐殺の現場は二度見た.
 一度は柵があったように思う.
 はるか離れているところで,銃殺していた.
 数は憶えていない.
 揚子江でない川のところで,機関銃で撃っているところも見た.
 私なら抵抗すると思ったが,彼等は従順に死を待っていたようだ.
 川にとび込んで,向うに泳き着いた者もいた.
 二百人ぐらいいたと思う.場所は憶えていない』
と証言しているし,その映画の録音技師藤井慎一氏も
『小さな川の傍の門の中で捕虜らしき者を撃っているのを見た.
 白井氏と一緒だった.
 いくつかの死体に石油をまき,火をつけた.
 中に生きている兵隊がいて,"早く射て”と胸を指さし,"蒋介石万歳”と言ったので,大変驚いたのを憶えている.
 それ以外にも,銀行の裏で百人以上が殺されているのを見た.
 胸のあたりを銃剣で突いていたように思う.
 虐殺の噂は聞いたように思うが,見たのはこの時だけである』
と言ってる.

 そもそも当時の検閲制度の検閲基準だと
「4. 左に列記するものは掲載を許可せず
(12)我が軍に不利なる記事写真
(13)支那兵または支那人逮捕訊問等の記事写真中,虐待の感を与える虞あるもの
(14)惨虐なる写真,ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし」
となってるので,虐殺を記録した映画なんて記録不可能.

(2)『外国人ジャーナリスト,日本の新聞記者も,そこ(南京)にいっぱいいたのにだれも虐殺など見ていない』

 ⇒『ニューヨーク・タイムズ』記者F.T.ダーディン氏が目撃していて,タイムズに記事を載せている.
 毎日の鈴木二郎記者も
『13日に中山門の城壁の上で,一列に並べられた捕虜が一人一人銃剣で突き殺されていた』
という記事を書いてる.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 中国の南京大虐殺記念館の無料化で,日本への憎悪にかられる中国人が激増!
 もとを正せばこれってアメリカの「東京裁判」のせいじゃないか.
 やつらの戦争犯罪「原爆」の犠牲者と釣り合わせるためにでっち上げたのが南京虐殺の虚構.
 アジアを分断して日・中の間に憎悪の亀裂を作るために.

小林よしのり from SAPIO 2004/4/14号,p.67

 【事実】
 ……(失笑).

 サピオのこの号の小林よしのりの記述には,
「それ,論拠は何?」
と質したくなるような記述満載なのですが,中でもこれは特筆すべき「見解」ですな.
 で,小林クンよ,論拠は何?


 【質問】
 本宮ひろ志の漫画「国が燃える」の南京虐殺の描写は,どの点が問題なのか?

▼ 【回答】
 南京虐殺の写真を作品のリアリティを保証する証拠として使った時に,捏造とされる写真を使い,さらに捏造の証拠である部分(服装が当時の日本兵と違うなど)を,『自分で書き換えて』(日本兵の軍服に描き直すなど)使ったこと.

 他の場合でもフィクションの中とはいえ実名で証拠写真を書き換えて,事実として使うことは十分名誉毀損が成立します.
 三国志ものなどでも,『史料を改変してさも事実のように描写する』のは非難される行為です.
(大河ドラマやNHKスペシャルでも,過去学会や研究者などからの抗議がありました)
 『事実は事実,漫画は漫画』と言いたいなら,史料の改編・捏造はすべきでありませんでした.

http://perape.hp.infoseek.co.jp/memo/002/0929_motomiya.htm(リンク切れ)

('A`)<ひろ詩です…軍靴の音で夜眠れません.
('A`)<ひろ詩です…若者の右傾化が心配です.
('A`)<ひろ詩です…ぶっちゃけ集英社が悪いとです.
('A`)<ひろ詩です…朝日新聞が擁護してくれません!
('A`)<ひろ詩です…中国で漫画描かないかと誘われてます.
('A`)<ひろ詩です…南京大虐殺記念館に漫画が展示されたとです.
('A`)<ひろ詩です…パチンコ屋に版権を売りました.
('A`)<ひろ詩です…サラリーマン金正男を執筆中です.
ひろ詩です… ひろ詩です… ひろ詩です…

電脳遊星D

 まず本サイトの基本スタンスとしましては,南京事件論争は政治化している現在,なるべく政争には踏み込まない方向です.

 その上で,google検索レベルで調べ直してみましたが,賛否両論あるようです.

 それぞれの意見を集約した,代表的と思われるサイトを以下に挙げます.
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8312/
http://page.freett.com/tekkin1989/kunimoe/newpage1.html

 当時,

>捏造とされる写真を使い,さらに捏造の証拠である部分
>(服装が当時の日本兵と違うなど)を,
>『自分で書き換えて』(日本兵の軍服に描き直すなど)使った

などと批判されましたが,
写真の改竄といわれるものも,「必ずしも改竄とは断言できない」といえるようです.
 後者のサイトの主張,「改竄以外の可能性も色々ある」に対し,前者のサイトは断言できるに足る証拠を示せてはいません.

 しかしだからと言って,問題がないとまでは言えないかと存じます.
 後者のサイトでは,「漫画だから創作が混ざることもあっていい」と主張していますが,そういった「しょせんマンガだから」といった類の主張は,マンガなどの創作物の影響力の大きさを軽視しています.
 小林よしのりの「ワシはしょせん漫画家だから」と同じ言い訳でしかありません.

 田母神・元空幕長の「コミンテルンの陰謀だから侵略じゃないもん!」論文の問題でも分かりますように,歴史を専門としない人々の歴史観は,まさにそういったマンガや小説やテレビや映画…で作られるからです.

 例えば,いまだに多くの人々が「アラビアのロレンス」を真に受けていますし,真珠湾攻撃で日本軍が病院にも攻撃を加えたなどの話も,映画「パールハーバー」が放送されるたびに信じる人が少しずつ増える有様です.
 「戦艦大和は片道燃料での特攻」の話が広まったのも,どうやら「宇宙戦艦ヤマト」にそういうアナウンスが出てくるためでもあるようです.
 映画「300」にイラン政府が抗議したのも,そうした影響力の大きさゆえです.
(抗議したくなる気持ちも分かる.あれではペルシャ王クセルクセスが丸っきり変態だ)

 そうした創作物の影響の大きさを考えますと,仮に創作上の都合でしかなかったにせよ,写真や史実を描きかえる行為は,特に南京問題のような微妙な問題に関しては慎重になるべきであっただろうと愚考します.
 その意味で抗議は妥当と思われます.
 秦郁彦氏もこの問題に関しては抗議していたように記憶しております.
 その秦氏による批判を当方はまだ読んではおりませんが,おそらくはそういうことでしょう.

 よって「本宮ひろ志の記述には問題は無かった」という主張には,大いに疑問が残ります.

消印所沢 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 所謂「南京事件」に関しまして,『南京事件「証拠写真」を検証する』 という本が刊行されています.
1.この書物に対して批判的な検証を行っている文献およびサイト
2.1の批判に対し反論を行っている文献・サイト
をご紹介ください.

 【回答】
画像資料検証専用板
の1にあります.
「当掲示板は南京事件等日本の戦争犯罪をなかったものにしよう,正当化しようとする言説に対抗して設置された掲示板式資料検証集です.」
だそうです.
 掲示板形式で見にくいかもしれませんが,『南京事件「証拠写真」を検証する』で取り上げられている写真についての反論が数多く載っています.

南京事件143枚の写真
 こちらも1です.
 『南京事件「証拠写真」を検証する』で取り上げられた写真が再検討されています.

(はてな)


 【質問】
 第1次長沙作戦とは?

 【回答】
 第1次長沙作戦(1941.9)は長沙方面の中国軍を撃滅,重慶政権を動揺させ,転覆や和平を強要させる事が目的でした.
 しかし,対米戦への兵力転用の為に作戦規模が縮小され,結果的にこれまでのピストン作戦(敵の攻勢の機先を制して出撃,敵戦力を撃破して占領地域の安全と敵の戦意喪失を図る)になってしまいます.
(大本営や支那派遣軍からは中止論も出ますが,第11軍の阿南中将は兵力削減前に打撃を与えなければ自活自存できない,として作戦を決行)
 第40師団は作戦序盤に百羊田で不期遭遇戦が発生,その後の行動に齟齬が生じますが,全体に影響を与えるほどではなく,作戦は終了.
 作戦目的を果たせたわけでもなく,また早めに切り上げた事などもあり,これらが第二次長沙作戦の(苦戦の)伏線になっていきます.

 詳しくは,『長沙作戦』(佐々木春隆著,光人社NF文庫,2007.9)を参照されたし.

グンジ in mixi,2007年11月10日16:46
青文字:加筆改修部分


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