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「いくじったー」◆(2014/12/05) 警察と救急の人と一緒に扉を開けると、ゴミだらけの部屋の中に足を紐で繋がれた子供が置き去りにされていた

「楽しいことないかな速報」◆(2015/04/23) 【愕然】私「アパートから異臭がする」大家『これはヤバいやつだ!通報しろ!』私「!?」→ドアを開けて突入すると・・・・
>お爺さんはどこか南の島で兵士をしてて、
>激戦地の島でほぼ全滅の部隊にいたらしいです。
>だからそういう死に直結したヤバい匂いを察知したんじゃないかと。

「ワレYouTube発見セリ」◆Tarawa

「ワレYouTube発見セリ」◆US Marines Battle of Guadalcanal

●書籍

『アンガウル,ペリリュー戦記』(星亮一著,河出書房新社,2008.6)

 ちょっと微妙.

 著者の星亮一という人は東北の歴史がメインの作家らしいのですが,どうも太平洋戦争に関して不勉強な部分があるっぽい.
 海軍軍人に関する著書も書いているわりには,その視点はステレオタイプな素人目線を脱し切れていないような.

 序盤は著者が太平洋戦争の概況を解説してるんですが,これがどうも読んでてもぞもぞする.
 ガダルカナル戦で川口支隊長が戦死したことになっていてはあ?と首をひねったり,
 いまさらという感じの南雲提督批評とか,ルーズベルト陰謀説の紹介とか,気になることが多いんですね.

 中盤~後半はアンガウル,ペリリュー生き残りの兵士からの聞き取りを再構成したもので,軍板住人にはお馴染みの(w)船坂弘の著書や戦史叢書やら参考文献にしてるんで,それなりに読めます.
 しかし,序盤の著者の解説はいかにも不勉強だったです.

 文献の調査などは行っているようなので,引用部分はそれなりに読めるのですが.
 アンガウル/ペリリュー戦記としては読みやすいんですよね.
 ただねー,著者の主観が安っぽい反戦主義者的でいかにも邪魔でしたよ.

――――――名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板(青文字:加筆改修部分)


 星亮一は東北の歴史に関しても,戊辰戦争は薩長が悪い!奥羽越諸藩は可愛そう!が基本スタンスなので,作者の主観の入っている部分は信用できないです.

――――――軍事板
青文字:加筆改修部分

『ガダルカナル戦記』第1巻(亀井宏著,光人社文庫,1994.1)
『ガダルカナル戦記』第2巻(亀井宏著,光人社文庫,1994.4)
『ガダルカナル戦記』第3巻(亀井宏著,光人社文庫,1994.6)

 愛蔵版で1000ページ超え,文庫で3巻という大作.
 対米戦のターニングポイントと言われる,ガダルカナルの攻防について書かれた書籍は多々あるが,その中でも出色の存在.
 生存者もこの世を去りつつある中で,同分野で今後これ以上の本が出る可能性は少ないと思う.

――――――軍事板,2010/06/12(土)

『ガダルカナルの戦い アメリカ側から見た太平洋戦争の天王山』(エドウィン・P. ホイト著,元就出版社,2001.6)

『神を見た兵隊―ガタルカナル兵隊戦記』(牛尾節夫著,光人社,1982/07)

 読んで損は,無い.
 中公文庫 ウースンクリーク/野戦病院 日比野 士朗も,読む価値あり.

-------------伊-400:軍事板,2001/01/27(土)

 「戦記」とタイトルに付いていても,戦闘のシーンはなく,飢えと古参兵の横暴に関する記述だけだったような気がする.
 「牛尾」さんって,電機メーカー?の社長さんかね?

 追記:
 けなしているのではありません(念のため)

-------------軍事板,2001/01/27(土)

『玉砕の鉄獅子 サイパンからの帰還』(下田四郎)

 先日の浜松町で行われたビクトリーショウにて,SATのブースで本を売ってらっしゃった小林源文氏に,サインを頂きつつ入手.
(握手もした.イラストレーターの上田信氏もいましたよ)

 下田四郎氏が自費を費やして,サイパンの砂浜に埋もれていたチハタンを日本に帰還させるまでの回想録みたいなものだが,手続きやら何やら,資料書類と発掘作業写真が満載で,結構楽しめた.
 靖国神社に奉納してあるチハに,あんなドラマがあったなんて知らなかった.

 名前がみたて(御楯)号.
 左側面に書かれた,「みたて」の字を標的に米軍が射撃練習したらしく,その後,何十年も放置され,S47年辺りにゴミ置き場で,ゴミと一緒にガソリンをかけて燃やして,タナバクの埋立地にゴミとして埋めたのだそうだ.
 掘ったらゴミの山が出るわ出るわ,水もでるわで大変な作業だったらしい.
 その時,内装品は燃えたんじゃないかな.

――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2009/12/16(水)~12/17(木)

『菊と竜 祖国への栄光の戦い』(相良俊輔著,光人社,2004.5)

 古典過ぎけど.
 最後の玉砕戦のより,通りがかった他の兵団から物資を強奪するところが印象に残ってる.
「弾さえあれば,もっと戦える」
という心意気は立派だけど,味方から物資を奪わねばならないなんて,軍隊としてどうよ?と,旧軍の補給体制の不備を思い知らされたよ.

------------軍事板,2012/01/02(月)
青文字:加筆改修部分

『極限の戦場 西部ニューギニア戦線 飢餓地獄を彷徨した将兵の証言』(久山忍著,潮書房光人社,2012/11)

『ココダ 遙かなる戦いの道 ニューギニア南海支隊・世界最強の抵抗』(クレイグ・コリー他著,ハート出版,2012/05/31)

『最悪の戦場 独立小隊奮戦す』(緩詰修二著,光人社NF文庫,1999.11)

 イラワジ会戦関連.
 最悪というタイトルなのに,読後感はいいよ.
 米運びから始まって,対戦車戦闘で栄光を極める瞬間がある.
 ある意味,サクセス・ストーリー.

――――――軍事板,2010/12/02(木)
青文字:加筆改修部分
 日本最強の対戦車砲小隊の本.
 滝沢聖峰でマンガ化もされた.

 個人の体験記なのになぜ名前を変えてまで三人称表記にしたのか謎だ.
 にしても,その撃破した戦車のうち半分は,機動砲ではなく速射砲(37mm)での戦果なのが恐ろしい.
 もちろん貫通は無理で,衝撃による装甲や機材の内部剥離を狙ったみたいだけど.

 本来は機動砲装備の小隊で,前半は37㎜速射砲に装備変更して活動してたんだわな.
 後半は47mm機動砲を使ってる.

------------軍事板,2012/01/03(火)

『最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル・インパール戦記』新版(高崎伝著,光人社,1999.8)

 文庫版を古書店で4年前に買ったものです.
 単行本は昭和49年の発売ですね.
 この者は,福岡の歩兵124連隊の本部指揮班の上等兵で,中支からジャワ,ボルネオ作戦を経てパラオから,川口支隊の中核として餓島に上陸,その後ビルマを転戦し,終戦を迎えたかたです.
 作者はユーモアのセンスもあり,読んでいて笑い,また涙する場面もあり,戦記としても傑作の部類に入ると思います.

-------------軍事板,2012/01/03(火)
青文字:加筆改修部分

『戦場 学んだこと,伝えたいこと』(新装版)(長嶺秀雄著,並木書房,2003.5)

 詳しい人なら,特に新しい発見はないかも知れませんが,レイテの決戦場で,指揮官という立場から書かれる事は少ないので,貴重な本でした.
 塹壕の実際の運用について,細かく書かれています.
 日本兵は塹壕の中でトイレをしないので,塹壕から出る事がある.
 そこが危険なのだとか.

-----------------軍事板,2011/10/14(金)

『戦争 虚構と真実 冷徹なる戦争論』(尾川正二著,光人社NF文庫,2013.5)
> 一兵士として,ニューギニアの最前線で戦ったみずからの実体験を踏まえ,世上に流布,既成事実と化している「戦争の嘘」をするどい洞察力と精緻な分析力で分かり易く解き明かす

『タッポーチョ 太平洋の奇跡 「敵ながら天晴」玉砕の島サイパンで本当にあった感動の物語』(ドン・ジョーンズ著,祥伝社黄金文庫,2011.2)

 かなり変った経緯で出版された本だな.
 著者はアメリカ人なのに,先に日本語版が出て,それでいて訳書というわけでもないようだ.

 サイパンで包囲された日本人グループが,終戦まで戦闘を避けながら,記念品漁りに熱心で,あまり掃討戦をやりたがらない米兵と戦うという話だが,男女が狭い範囲で一緒に暮らせば,誰と誰がくっついてどうのという話は尽きないようだ.

-----------------軍事板,2011/11/03(木)

『タラワ1943』(デリック・ライト著,大日本絵画,2009.11)

『中国遠征軍』(主編;張承鈞&衛道然,中国語)

 1943年,初期ビルマ戦で敗北した後から,1945年中国転戦までの中国遠征軍(日本側は雲南遠征軍などと呼ぶ)の戦歴が述べられてる.
 拉孟戦(松山戦役)の中国側の損害って約7千名なんだね.
 本の内容自体は小ぎれいにまとまってるが,大陸文字なので非常に読みづらい.
 参考文献に『大東亜戦争全史』と,防衛庁防衛研修所戦史室の本(おそらく戦史叢書の全訳が妙訳)の中国訳が挙げられているのが興味深い.

 抗日戦に関してはイデオロギー的な問題で,台湾の本のほうが信頼できると思うが,イマイチ入手方法が分からん.
 次は『中国抗日戦争史地図集』でも買うかなあ.

――――――軍事板,2010/06/13(日)

『中国大陸徒歩四六〇〇キロの戦場体験 兵士たちの日中戦争』(永沢道雄著,光人社NF文庫,2012.4)

『帝国陸軍の最後』(伊藤正徳著,光人社文庫,1998.2)

『マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録』(田中宏巳著,ゆまに書房,2009.8)

 650ページくらいの本.大作.
 ニューギニア戦線というと,「小岩井戦記」に代表されるように,体験者の悲惨な実戦経験を綴るものが多い.
 この視点の本は,沢山出ているが,全作戦を俯瞰し,分析したものはは少ない.
 同書はその少ない本の中の一つ.
 太平洋戦争の中で,ニューギニアの戦闘がどう位置づけられるのかという視点で書かれており,非常に興味深い本.

――――――軍事板,2010/06/12(土)

『米軍が記録したガダルカナルの戦い』(平塚柾緒 ひらつか・まさお 編著,草思社,1995.10)

 これは,文書は全然「米軍の見た」じゃないが,写真の量がすごい.
 日本兵の蝿の集る死体写真が山盛り.
 小学生ならトラウマになること必須.

――――――軍事板,2009/09/21(月)

「山猫文庫第3版」◆(2011/06/11)鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第1章・中編)

「山猫文庫第3版」◆(2011/06/16)鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第1章・後編)

『ラサ島守備隊記 玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ』(森田芳雄著,光人社NF文庫,2011.2)

 1944年,大東諸島の南端のラサ島(沖大東島)に守備隊を率いて着任し,以降終戦まで同島の守備にあたった隊長の戦記.
 著者は神宮皇學館を卒業,近衛連隊に徴兵後幹部候補生となり,除隊後は国語教師をしていたが,2度目の再召集でラサ島守備隊長(配備時は第56兵站警備隊第4中隊長)となった.
 終戦時階級は中尉.戦後は教師に戻らず燃料関係の商売をしていたようだ.
 1960年代に出された本に,1995年に追記を付して刊行した河出書房版を文庫化したもの.

 ラサ島守備隊は,部隊規模がそれほど大きくなかった割に,配備先のラサ島を所有するラサ工業の協力(人的資源やダイナマイトなど)を,全面的に受けることができたため,陣地構築を大規模に行うことができた.
 また,沖縄本島から南東に400キロ,部隊主力が配備された南大東島からも南に150キロ離れている小島であることもあって,戦備に関して高い緊張度を保つことができ,海軍や企業を含む島全体を掌握しやすかった.
 さらに1945年初頭には,民間人が全員退島したため,その後の艦砲射撃や空襲に対しても,被害を抑えることができた.

 著者は陣中日誌を処分せずに持っていたため,来襲敵機の機数などもかなり細かく書かれている.
 そのほか歩兵砲陣地について,平射用のほか即席の対空砲として運用できるよう,陣地を構築していた話や,とにかく上級部隊からの情報が遅くてイライラしていた話などが興味深い.
 元国語教師らしく,文中要所要所で俳句が挿入される.

 本書のサブタイトルは,「玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ」.
 遠く離れた島に送られた場合,敵が来る=玉砕っていう意識が強くあらわれていることが多い.
 独ソ戦みたいに広大でも陸続きだと脱出の機会も多いし,たとえ包囲されても最悪足で何とかならないことはないが(実際そういう例もある),周りが海だとそうはいかない.
 そのあたりが,「隔絶しているから頑張ろう」という意識になる一方で,圧倒的な敵の上陸に際して,「すぐに玉砕しよう」的な考えになってしまうのだろうか.

-----------------軍事板,2011/11/08(火)

『私は魔境に生きた 終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活十年』(島田覚夫著,光人社NF文庫(新装版),2007/09)

 これ,サバイバル記録文学として出色の出来だね.
 吉村昭の『漂流』(吉村昭著,新潮文庫,1990)に匹敵するんじゃないか,あるいはそれ以上かも.

―――――――軍事板

 自らの実体験に基づく手記だからね.
 ロビンソン・クルーソーとは各段の差だね.

 満足な道具も無い状態で,しかも敵にも原住民にも見つからない場所での開墾.
 発火方法や,遺棄され錆びだらけのサンパチのレストア,挙句の果ては実包の再生.
 M1のカートリッジに38の弾頭を充填までするとは.

――――――シチュー砲 ◆STEW.ibjrE in 軍事板

 さらに驚いたのは著者の観察力.
 ジャングルの生態系やら原住民の風習などの描写の細かい事.
 ジャングル生活当時はろくに記録する媒体もなかったのに,よく覚えているもんだと.
 しかも文章も簡潔で無駄がなく,すごく読みやすい.
 おまけにこれだけのものを,内地に帰還して一年と少しで書き上げたというのは信じられない.
 さらには著者は,この本を書き上げるまでまとめた文章を書いたことがほとんどないって・・・.
 もうね,驚異の塊みたいなもんですよ,ホントに.

 そういう観察眼の鋭さとか,手先の器用さ,好奇心の強さみたいな資質があったからこそ,ジャングルで生き延びられたんかもね.

 未読だけど,簡潔論理明瞭な文章なら,たぶんその通り書いているんだよ.

 この種の人々の記憶=思考方法=体験はだいたい一致していてさ.
 多次元方程式「ニューギニア置去り」があるとして
「おれはまず何をするだろう?」
と,要素を素因数分解して,次項方程式につぎつぎと行動をインプットし,その通り実行して回答,「救援隊が来るまで生存」を得たんだろうな.
 覚えているというより,多次元方程式を帰国後,一気呵成に次々と解いていく過程を執筆したんだろうて.

――――――軍事板
青文字:加筆改修部分

『われソロモンに死すとも ガダルカナル戦記』(潮書房光人社NF文庫,2012/11/30)


【質問】
 ガダルカナル攻防戦とは?

 【回答】
 南太平洋の小島,ガダルカナル島を巡る戦い.
 日本軍将兵は3万1千人が参加,最終的な死者数は2万人.内戦闘死が5千人.残りはすべて病死及び餓死である.
 一方,連合軍死者数は1600人であった.
 大本営発表では「撤退」を「転進」と発表.
 緒戦において,日本軍は小兵力の暫時投入により虐殺され(一木支隊が壊滅),これにより制空権を握られ,補給路を絶たれた.

 この戦がまともな戦であったなら,ソロモン海海戦などもなく,連合艦隊水雷部隊が残存し,南太平洋での制海権の維持でき,故・坂井三郎氏が活躍したラパウル基地の航空兵力への補給も続行,制空権の維持も可能だった.
 もともと両軍ともに,ここへの飛行場建設のために生じた戦闘であり,すでに完成していた飛行場を陸軍主力と海軍機動部隊とで維持できたと思われる.

軍事板

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 知っている方は教えてください.
 山岡荘八著作「小説太平洋戦争」で,ガダルカナル攻防戦での記述に昭和天皇が,日光の御用邸で米軍上陸の報を受けて,ただちに帰京すると主張したとあります.
 このあたりのやり取りの根拠となる書籍を探しています.
 一応ググッてはみましたが,それらしい解答は得られませんでした.
 よろしくお願いします.

 【回答】
 米軍の総反攻の開始だぞ!って奴か.
 それなら,伊藤正徳「帝国陸軍の最後」で俺は読んだ.
 文献頼みの,山田朗「大元帥・昭和天皇」には載ってない話なんで,伊藤氏の立場からして,関係者から直接聞いたんじゃないかと思う.
(軍人としての昭和天皇については,「大元帥・昭和天皇」は必読.
 版元が新日本出版社って時点で,昭和天皇個人への贔屓は一切ないのは判ると思うが,読み終わると,その話絶対に実話だって確信するぞ)

 なお,『大元帥・昭和天皇』については,『昭和天皇の軍事思想と戦略』という改題改訂版が出てる.

 しかしなあ.どっちを読んでもつくづく思うが,昭和天皇が文字通りに大元帥として統帥権行使してたら,カリフォルニアに日の丸立てて,ハワイ独立させて終わったよなあ,あの戦争.

軍事板,2010/10/12(火)
青文字:加筆改修部分

※ 要出典


 【質問】
 ガダルカナル島で全滅した一木支隊(旭川歩兵28聯隊基幹:支隊長 一木清直大佐[歩兵28聯隊長])の寄港地を教えてください.

 【回答】
 釈迦に説法の譬えかと存じますが,一木支隊移動の概略からご説明します.

 一木支隊は,ミッドウェー作戦に参加するため編成された部隊(島の占領が任務)です.
 しかし,海軍機動部隊がミッドウェー海戦で敗北したため行き場を失い,しばらくの間グアム島警備に当たっていました.
 約1ヶ月のグアム滞在後,大本営から一木支隊に対し,内地への帰還命令が出ました.
 しかし支隊がグアムを出港したその日に,米海兵隊がガダルカナルに本格侵攻をかけたのです.(昭和17年8月7日)

 それを受け大本営は,一木支隊に対し「グアムに引き返すよう」指示しました.

 その後,同支隊はガダルカナル奪回作戦の先陣として出撃したわけですが,このあたりの事情は複雑なので割愛します.

 以下,判明した寄港地です.
 何かのご参考になれば幸いです.

●昭和17年5月18日
  広島の宇品港出航
  ⇒陸軍徴用の「善洋丸」と海軍徴用の「南海丸」に分乗したそうです.
   なお,北海道から宇品までは鉄道で移動しています.

●5月26日1000
  サイパン入港

●5月28日1730
  ミッドウェー方面に向けてサイパン出港

 6月5日 ミッドウェー海戦

●6月5日正午頃
  「西方に転進せよ」との連合艦隊司令長官命令(海戦の敗戦をうけて)

●6月13日
  退避のためグアム島アプラ港入港,上陸.
  ⇒ミッドウェー敗戦の秘匿という防諜目的があったようです.(「井本日記」)
   一木支隊は上陸後,グアム警備任務につきました.
 
 グアム警備任務は7月下旬に解除され,内地帰還命令が出ています.

●8月7日早朝
  宇品に向けてグアムを出港(ぼすとん丸,大福丸に乗船)
  22時過ぎ,大本営より「直ちにグアム島に引き返し乗船のまま待機.使用予定東
  部ニューギニア」との参謀総長指示を受領し,グアムに引き返した.

●8月8日
  グアム出港

●8月12日1830
  トラック島入港

●8月16日0500
  トラック島からガダルカナルに向けて出港

(その後の概略)

●8月18日
 2030 ガダルカナル島タイポ岬西方に進出
 2100~2300 第一梯団全員の揚陸

●8月19日
 0000 部隊前進開始
 1700 偵察部隊が全滅との報が入る

●8月20日
 2000 テナル川の線に到達

●8月21日
 未明より猛烈な敵砲火.
 午後には部隊背後から戦車6両の攻撃が加わる
 1500頃 支隊長自刃(第一梯団:777名戦死,30名負傷,128名生存)

 調査に当たっては,以下の個人・団体に多大なご協力をいただきました.
 この場を借りて御礼申し上げます.

製パン居士様
北海道立図書館北方資料室様
防衛庁防衛研究所資料室様
戦前船舶研究会 遠藤様
財団法人水交会様
財団法人偕行社様

 現地で倒れた英霊の鎮魂を祈ります.

おきらく軍事研究会,平成18年(2006年)9月27日


 【質問】
 「ガダルカナル戦記」という本の内容についての質問です.
 川口支隊の川口大佐が昭和17年8月30日に出した指令なのですが,舟艇機動を使って上陸する部隊の中に,「独立工兵第六連隊」という名前があります.
 この連隊の詳細を知っている人はいますか?

 調べた限りでは,「工兵第六連隊」は上海の鉄道連隊しかなく,ラバウルにいるはずもありません.
 また,ガダルに投入できる戦力が一木支隊と川口支隊しかなかったはずなのに,唐突に工兵1個連隊もの兵力が出現したのに,かなり違和感を感じています.

 【回答】
 独立工兵第6聯隊は,昭和12年7月27日に広島で編成された「乙工兵」(船舶工兵)で,工兵第6聯隊とは別の部隊.
 大発などの舟艇を装備し,舟艇機動部隊の輸送を担当.
 ちなみに舟艇機動部隊に所属する独立工兵第28聯隊の1中隊(2小隊欠)も同じ.
 ただし,駆逐艦乗船部隊の独立工兵第15聯隊は「甲工兵」だから,普通の野戦工兵.

青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ガダルカナル島戦において,第二師団の部隊で島に上陸せず,引き返したものは存在するでしょうか?
 祖父に以前話を聞いたとき,ガ島に送られる筈だったが,船が途中で引き返したという事を聞きました.
 調べたところ第38師団の部隊で輸送船が引き返したというのは発見したのですが,第二師団の記録は見つかりませんでした.
 出身地や戦争で行った地域の話から,第二師団で間違いないと思うのですが・・・

 【回答】
 戦史叢書「南東方面陸軍作戦<2ガダルカナル・ブナ作戦」によれば,第2師団所属でガダルカナル島へ上陸していない部隊は次のとおり

●ジャワに残留
 捜索第2聯隊の主力
 野砲兵第2聯隊の1個大隊(第6中隊と第3大隊(第9中隊欠))
 師団第4野戦病院の半部

●ラバウルに残置
 捜索第2聯隊第4中隊
 師団病馬廠の一部

●ブーゲンビル島に残置
 師団第2野戦病院の主力
 師団防疫給水部の一部

上記部隊以外の可能性
 定員の関係から輸送船等に乗船できなかった
 輸送船に乗船しガダルカナルまで行ったが上陸できずに戻ってきた
 輸送船等に積めなかった(積まなかった)馬・兵器・機材・物資等を管理するため残留した
など.

青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ガダルカナルに港湾施設は無く,日本軍は揚陸艦投入した訳ではないにも関わらず,日本軍が戦車を持ち込むことができたのは何故ですか?

 【回答】
 ガダルカナルに重機材が運搬できているのは,当時日本海軍が保有してる最良の高速輸送艦とも言うべき,「日進」の働きが大きい.
 甲標的作戦用に備えた,力量の大きなクレーンと,28ノットの高速,駆逐艦と同等かそれ以上の火力を持つこいつがいなければ,重砲などの重機材の投入は困難.
 「水上機母艦」っていう分類に惑わされて,運用の実態を把握するのを怠ること莫れ.

Posted by 名無しT72神信者 at 2010年08月27日 09:14:58

「週刊オブイェクト」◆(2010年08月26日)コメント欄
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大舛松一とは?

 【回答】
 与那国島の墓地に,ある大尉が眠っています.
 大舛松一と言う人ですが,この人はかつて,沖縄を熱狂させた人でした.
 彼は,1917年に与那国村に生れ,沖縄県立一中,陸軍士官学校に進み,卒業後,各地を転戦.
 1943年にガダルカナル島において,米軍との激戦の中で壮絶な死を遂げます.
 この死が上聞に達し,個人感状が沖縄県人として初めて授与されました.

 この報が伝わると,沖縄県下では熱狂的な大舛ブームが湧き起こりました.
 演劇や芝居で演じられ,新聞紙上には「大舛大尉伝」が掲載されました.
 県教学課では顕彰運動週間を設け,尽忠報国の大舛精神の顕彰運動が軍官民一体となって推進されました.

 「軍神」を生んだ地元八重山では,教育界や大政翼賛会が,大舛大尉に続け,と熱狂的に叫び,『大舛大尉をたたえる歌』が児童や青年等によって歌われ,八重山の地元紙であった『海南時報』では「軍神大舛大尉に続け」と銘打ったキャンペーンが繰り広げられました.

 これは沖縄県人の皇民化教育の徹底など,数々の施策を行ったにも関わらず,未だに「ヤマトンチュ」になれない「劣等県民」に対して,沖縄の政界,教育界の指導者の苛立ちを表わしています.
 指導者達にとっては,大舛大尉の死による「感状」と言うのは,沖縄県民の天皇陛下への忠節をアピールするのに絶好の機会になった訳です.

 こうして,大舛大尉は軍神に祭り上げられていくのですが,「大舛大尉に続け」とは即ち,「死ね」と言う事でした.

 もう一つ,与那国島にあるその頃の熱狂の遺物が,天蛇花の岸壁に彫り込まれた,1943年制作の伊波南哲と言う人の詩碑「讃与那国島」です.
 伊波南哲と言う詩人は,1942年に『麗しき国土』と言う戦争讃美の詩集を出版しています.
 この序文は高村光太郎,題字は棟方志功の作です.
 そう言う人物が書いたのが,「讃与那国島」でした.
 この詩も,戦争讃美の詩で,与那国の住民や駐屯する日本軍の士気を高めるものとして造られたものでした.

 敗戦後,郷里に引揚げてきた伊波南哲は,与那国島でこの詩碑と対面する事になります.
 詩を揮毫した仲嵩嘉尚は,この詩を揮毫したので,戦争犯罪人として裁かれるのではないかと恐れ,詩碑から氏名を削り取っています.
 心配になった伊波も,詩を削るかどうかを当時の与那国警察署長に尋ねましたが,署長はその必要なしと回答しました.
 かくて,この詩碑は残される事になりましたが,戦後,『麗しき国土』は絶版にされています.

 今は「無かった事」にされてしまった出来事ですが,昨今の話を見聞するにつれ,同じ時代が再びやってきている様な気がします.
 世代が変わり,それまでの世代の意識がなくなっていくと,人は又同じ事を繰り返すのでしょうかね.
 それじゃ,余りにも進歩がないと思うのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/13 22:29


 【質問】
 ニュージョージア島・ムンダの戦い(1942/7/25~)について調べているのですが,この戦いについての本は戦史叢書くらいしか見あたりません.
 体験者の個人戦記でも良いのですが,何かありますか?

 【回答】
 陸戦隊の戦記でいくつか関係するのを読んだことがあります.
 ちょっとすぐには出てこないのですが,少なくも福山孝之「ソロモン戦記」光人社は,コロンバンガラの話があったと思います.
 あと,種子島洋二「ソロモン海セ号作戦」光人社は,撤退作戦をやった舟艇部隊の話です.

 それと,英語が読めれば,米軍の公刊戦史がネットで読めますよ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ちょっとお聞きしたいのですが,
「太平洋で米軍が日本軍のトイレを偵察したら,ウンコの量が多くてびっくりして,兵力の概算を誤った」
って話,昔からよく言われてるじゃないですか.
 あれって出典は何処なんでしょうか?
 コメを食うからウンコが多いという話も根拠を聞いた覚えがないです.
 単なる都市伝説なんでしょうか?

Tono in mixi支隊

 【回答】
 「信じられないが本当だスレ」まとめサイトにも同様の話があって,そのレスでは「糞尿博士世界の旅 中村浩」からと書かれてました.
 それの真偽までは私は分かりませんが.

しお in mixi支隊

 トイレの数だったんじゃないかなぁ~
 ただこの「トイレの数を~」と云うのは,やや疑った方かもいい話かもしれません.
 日本軍の暗号,通信読解に関わったホルムズ氏の話では,
「日本軍の兵力は,通信読解でほぼ分かってた! トイレの数? そんなモン数えてたかもしれないけど,通信読解はそんなモノを数えるより正確だった」

ベタ藤原 in mixi支隊

 厠の数に関してですが,タラワ島 ベティオ環礁を事前空撮した写真には,桟橋上に突き出た厠が海岸線に並んでいるのがはっきりと写っており,捕虜情報で得た
「何人に付き厠を一つ設置するか」
から計算して,守備兵力が4000人台である事を特定出来たと,アメリカ人の書いた本で読みました.

Llagas in mixi支隊

 その話は確か,サンケイの赤本『タラワ』がソースです.
 今は NF 文庫で出てますね.

井上@Kojii.net in mixi支隊


 【質問】
 マリアナが陥落しそうなのに,ニューギニアで決戦みたいに戦ってたり,硫黄島が陥落しそうなのにフィリピンで決戦みたいに戦ってたりするのはなぜですか?

 【回答】
 アメリカの対日侵攻計画は2ラインあったから.

 マリアナ-硫黄島は海軍(ニミッツ)ライン.
 ニューギニア-フィリピンは陸軍(マッカーサー)ライン.

 最初はどちらか一本に絞るはずだったが,両者お互いに主張して譲らず,特にマッカーサーがフィリピン奪還に固執したために話が纏まらなくなり,ルーズヴェルト大統領自らが仲介して2ラインの侵攻計画になった.

 日本側はその2ラインにその都度決戦を仕掛けてるので,戦力を分散してるように見えるし,実際そうなった.


 【質問】
 ニューギニア戦(1942.3.7~1945.8.15)での怖い話を教えてください.

 【回答】
 妄想と思われないように注意してと(笑)
 うちの爺さんはニューギニアから生還した,運のイイ陸軍兵だが,良く魚を捕る時に手りゅう弾を海に投げ込んでね,その時に手足がヒレで,体がスベスベしたデカいワニがたまに捕れたそうだ.
 焼いて食ったら,美味しかったと話してくれた.

オカルト板
「tigerbutter」:太平洋戦争中の不思議な・怖い話より孫引き)

 ニューギニア方面に派遣された兵士の体験談の中には,その手の怪物,怪獣の目撃談が他戦線と比較して多く含まれている
 戦後,部隊史などをまとめるために行われた聞き取り調査や,新聞社などが発行したドキュメントなど,ある程度,公式な性格を持つ資料の中にも,似たような体験が多く記録されている.

 その中でも特に多いのは,爪と長いくちばしを持つ大コウモリ,足が鰭化している巨大ワニ.
 当時,古代の爬虫類の外観がどのくらい普遍的な知識だったのかは不明だが,申し合わせたように,この二種の目撃談は余談として頻出する.
 中には実際に被害が出て,任務として退治しに行ったなんて話もあるから,それが未知の動物かどうかはともかく,何かがいたのかもしれない.

 ちなみにこの手の話は,現地の人たちも良く語るのだが,彼らは渡来した人々が持ち込んだ話や,戦争の風景も,神話や実体験として扱ってしまうので,参考にはならない…….
 残念.

オカルト板
「tigerbutter」:太平洋戦争中の不思議な・怖い話より孫引き)

 ニューギニアのあたりのある戦場でのこと.
 大規模な戦闘をした部隊があって,その後,その部隊の前線基地に,夜な夜な,死んだ兵隊たちが現われるようになったそうです.
 彼らはいずれも,足がちゃんとあり,懐かしそうに
「よお!」
とか言いながら,現われるのだそうです.
 いずれも確かに戦死した連中ばかり.

 神主の息子の兵士がまじないをやったり,お経をよめる兵士がお経を詠んだりしても,まったく効き目無し.
 そのうち,ズカズカ上がり込んできて,貴重な飯をバクバク食う始末.
 しかも,いきなり手がスルスルっと伸びて,木の実を取ったりして,明らかに化け物化している様子.
 怖いやら迷惑やらで困っていたのですが,なんとも手の施しようが無い.

 見るに見かねた中尉だか大尉だかの隊長さんが,幽霊たちが集まっているところへ,ツカツカと歩いていって,いきなり大声で,
「全員,整列!」
と言うと,素直に整列したそう.
 そして,
「貴様らは,全員戦死した兵隊である.
 よってこの世にいてはならん.
 全員あの世へ行って成仏するように.
 これは命令である!」
 隊長が涙を流しながら言うと,幽霊たちは,しばらく呆然とした顔で佇んでいたが,そのうち全員が泣き始め,やがてボロボロと土人形のように崩れていったそう.
 あとにはその土だけが残り,彼らは二度と現われることはなかった.

 兵隊たちはその土の大部分は現地に埋め,残りを少しづつ日本に持って帰って,供養したそうです.

軍事板某所よりコピペ in オカルト板
「tigerbutter」:太平洋戦争中の不思議な・怖い話より孫引き)

兵隊の土人形

 コンベンションや市で見かけて余裕がある時にポツポツ買っていますが,今回も良さそうなものがあったのでゲット.
 軍用犬とおぼしき,ちょこんと座った白犬がラブリーです.

 イタリアにももっと小さな兵隊人形がありますが,これは複数集めて遊ぶ子供の遊具としてで,日本は日本人形の様に一体で愛でますね.

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月30日02:09

 ラジオ番組で水木しげる先生(歩兵第229連隊の補充兵としてラバウル派遣)
「先生にとって鬼太郎とはなんですか?」
パーソナリティーの問いに,先生は一言
「金のなる木ですかな」

オカルト板
「tigerbutter」:太平洋戦争中の不思議な・怖い話より孫引き)

 やっぱり一番の不思議は水木先生,というお話でしたとさ.


 【質問】
 奥崎謙三って誰?

 【回答】
1956年  不動産業者を傷害致死罪で懲役10年.
1966年  大阪刑務所を満期出所.
1969年1月2日  新年皇居参賀で「ヤマザキ天皇を撃て」とパチンコ玉を撃つ.
1976年  天皇ポルノ写真事件.
1980年 参院選全国区に出馬
1983年12月15日 衆議院兵庫一区から立候補中,大竹市で旧軍隊時代の上官の長男に発砲.
1983年12月17日 殺人未遂容疑で,神戸市で逮捕
1987年12月17日 殺人未遂で懲役12年の判決
1998年8月20日  府中刑務所出所

 奥崎は,ニューギニア戦線で多くの日本人を餓死・病死させた責任者を狙ってる.
(現地人や下級日本兵が食肉にされたとの話も)
 昭和帝や,元上官を捜し当てて殺人未遂.
(「ゆきゆきて神軍」映画になった)

 でも,昭和帝にはパチンコ玉だからね.
 殺す気なら狙撃か爆弾でしょ.
 ただし,彼は天皇「制」が巨悪の根源と理解してるようだから,可能性はあるかも?

 「奥崎 天皇」の検索で沢山出てくるよ.
 「奥崎 映画」でも出てくる.

 俺は,奥崎の気持ちが分かるよ.
 人肉を食い合う地獄を見た,正義感が強すぎる男って感じ.
 戦争中も,理不尽な上官命令には抗議していたらしい.

日本史板,2003/01/21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 玉砕って何? 以下の説明で合ってるの?

――――――
 全滅という言葉も実は,一般に受け取られているように,一人残らず戦死した状態ではない.
 〔略〕
 旧日本陸軍では,玉砕と言った.

――――――林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.72

 【回答】
 玉砕と全滅は違うぞ~
 玉砕=殲滅だがに……

 全滅というのは,同書でも,また,本サイトでも別項に述べられているように,人員の3分の1が戦闘不能になり,部隊としての戦闘を継続できなくなること.
 一方,殲滅というのは,損耗約10割.文字通り,部隊が消滅してしまうことです.

 例えば,最初に「玉砕」という言葉が使われたアッツ島(1943/5/29玉砕)では,山崎保代陸軍大佐以下,2400名の守備兵のうち,生還したのは27名.戦死率,98.88%.
 ちなみに,戦後の遺骨収集により,最後の万歳突撃では,山崎大佐が文字通り先頭を切って突っ込んだことが確認されています.

 グアムでは守備兵2万のうち,1万8千余名が戦死.戦死率,約90%.
 ビアク島では戦死,約1万3千.生還者83名.戦死率,約99%.(ただし,早期に500名ほど脱出している.それを計算に入れても約95%).
 サイパンは正確な数は不明.
 ペリリュー島は,正確な数字は諸説あるが,一説には,総兵力9838名のうち,生還者は446名(軍属含む).戦死率,95.47%.
 硫黄島では戦死者20129名(軍属含む).生還者1033名.戦死率,95.12%,

 「報道に際して,味方が全滅したという表現を避けたのだとされるが,」(同書,p.72)
については,「全滅した」という言葉を「殲滅された」と入れ替えれば,まあ,だいたいその通り.
 さっきふれた山崎大佐は,「軍神」とされて称えられたり,アッツ島玉砕が「軍人の華」として喧伝されたりもした.
 困難な状況下での勇戦は称えられるべきだろうが,「神」だの「華」だのはどうかと思いますね.

  その後に続く文章,
「『生きて虜囚の辱めを受けず=捕虜になるくらいなら死ぬ』
という教育が徹底していて」(同書,p.72)
は,これもどうかと.
 別項に述べる通り,『戦陣訓』のせいだというよりは,日本社会の空気,ムードが,捕虜になることをためらわせたと言っていいでしょう.
 サイパン島からの生還者なんて,軍人・民間人の別なく,そのあと,ひっでー扱いをされてます.
 「空気」に弱い,という日本人の特性は,今も昔も変わってないようですね.

 どうも,「大東亜戦争は軍人だけが悪い.日本国民は犠牲者だ」という認識が一部にあるようですが,そのせいでしょうか?,日本社会のせいではなく,「軍人教育のせいだ」と矮小化されることがあるのは.
 実態としてそうではなく,むしろ,民間の方が先走って暴走――英語禁止,外国人への投石(被害者はドイツ人にも)など――さえしていた,というのは記憶されておくべきでしょう.

 この本は,2~3冊本を読んで,2ch.軍事板に行き,自説を滔々と述べて叩かれるような,厨房が書いたエッセイ程度のものでしょう.
 暇なときに,著者をバカにしながら読むには丁度良い本ですわ.

ベラ藤原(青文字) in mixi支隊に加筆

▼ なお,部隊が全滅と言う意味での用法は,先の大戦からだろうが,西郷隆盛なんかも,自分個人の死の意味で,「玉砕」という言葉を使っている.

軍事板,2008/10/31(金)
青文字:加筆改修部分

万歳突撃後の死屍累々
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 旧軍で玉砕命令が出るときって,命令を出した人も玉砕するのが原則ですよね?

 【回答】
 そもそも玉砕って,大本営発表で全滅の事を玉砕と称したもので,さらに元々は,アッツ島守備隊の全滅のときに,漢詩から引用して玉砕と言ったのが始まり.
 「玉砕しろ」なんて命令は出ない

 あと,命令も漢詩風の訓示なんてものは「付け加え」であって,実際に出るのは死守命令とかだ.
 離島や包囲下の部隊に対し,後方の司令部から何か抽象的な漢詩みたいな電文が送られてきて,
「実際には命令なんかでないけど,撤退も不可能で,降伏も許可されないから結局,皆死ぬまで戦う」
って状態に追い込まれて全滅して,最後の通信が届いた後で,後方の司令部は「あの部隊は玉砕した」と称するパターンが一番多いはずだ.
 この場合,後方の司令部は玉砕してないわけで.

 ちなみに「漢詩風の命令」ってのは,明確に「総員玉砕セヨ」とか言わず,前置きがくどくて,とにかく必死の覚悟で戦え的な文語体のやつのこと.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本軍では,なぜ玉砕命令下で偶然生き残るのも許されないんですか?
 最後は,死ぬことそのものが目的であるように思えますが,玉砕することで軍には何か利益があるんですか?

 【回答】
 玉砕命令ではなく,死守命令.
 通常,防御や遅滞行動では期限と地点が定められるが,遅滞する地積も無い状況で,より多くの時間を稼ぎたければ,可能な限り防御戦闘を行って敵を足止めせねばならない.
 命令の趣旨は「生きてる限り闘って,敵を足止めせよ」なので,生きてるのに戦闘を放棄して敵に行動の自由を許しているのは,命令違反.
 死ぬ事が作戦目的ではないので,軽率に攻撃に出て玉砕し,短期間で敵に行動の自由を与えてしまうのも同様に命令違反.
 前者と比べて,後者は戦死しているので責任の追及ができないだけ.

軍事板,2009/07/17(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 硫黄島やペリリュー島で生き残ったわずかな兵は,なんで助かったんですか?
 気を失って捕まったりが多い?
 それとも降伏した人も結構いるんですか?

 【回答】
 投降者はまずいない.
 ほとんどが,気を失ってた人たち.
 例えば硫黄島の守備隊員で,戦傷で気絶して米軍に救助された人の手記があるよ.

 大概は負傷して気絶したところを救助された,と言うのがほとんどだが,自ら降伏したって人もゼロではないだろう.
 そういう人は体面を慮ってその事を自分からは言わないだろうから,いてもあまり記録には残らないだろうけど.


 ただ,戦争後半になると例え動けないくらい負傷していても,日本兵は米兵が近寄ってきたのを見計らって,懐に隠し持った手榴弾で自爆したりしたので,米兵の方も負傷して気絶してるからって,容赦はしなかった.

 さらに,終戦まで隠れたままで,終戦後に投降した人も結構いる.
 ペリリュー島の37人だったか,組織的に行動してた組がいたり.

 一例として硫黄島にいた海軍兵が書いた「十七歳の硫黄島」
 少尉率いる飛行兵の一団は,米軍の投降呼びかけに応じて,地下壕を出た.
 最初に少尉が出て交渉して来たあと,戻ってきて飛行兵グループをつれて投降.
 著者は,その後も逃亡を続けてたが,意識不明となり,はっきりした記憶があるのはもうグアムと.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大陸打通作戦ってどういう作戦なんですか?

 【回答】
 昭和19年初頭から行われた,中国での大規模な攻勢です.
細かいことは
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-ichgo1.html
このあたりで


 【質問】

――――――
 大本営参謀の堀 栄三が,水際防御を止めて,内陸に深く穴を掘り,潜むことを指導しました.
 ペリリュー島や硫黄島の防御は,その指導に沿って行われました.

――――――霞ヶ浦の住人 ◆SJ6H1biwJ2 in 軍事板

というのは本当ですか?

 【回答】
 堀参謀が指導したかどうかは知らんが,少なくともペリリュー島は「水際防御」ですよ.

 サイパン戦の戦訓により,
『主陣地は海岸から適宜後退して選定する』
と定めた「島嶼守備要領」が,大陸指示第2130号で示達されたのが昭和19年8月19日,
 ペリリュー島に米軍が上陸したのが昭和19年9月15日.
 常識的に考えて,4月末からサイパンと同様に水際防御で陣地構築されていたペリリュー島が,1か月程度で陣地配備を変更できるとは思えない.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 堀参謀が指導したのは,水際玉砕を禁止し,抵抗力のある陣地構築についてです.
 ですから水際陣地か内陸陣地かは二の次です.
「戦艦は2個重砲連隊,重巡洋艦は1個重砲連隊相当以上の火力があり,したがって上陸に備えた米国艦隊の艦砲射撃は,戦艦1隻につき2個師団重巡洋艦は1個師団に敵対すると考えよ」
と初めて,陸軍が理解できる言葉で作戦要領をつくりました.

 さらに,戦艦級の40cm砲については陣地は最低1m以上の鉄筋コンクリート構造にすべきとの指導が,初めて行われたのです.
(それまでは遠距離からの24cm級榴散弾に対する防御から,40cm程度とされていました.)

 ぺリリューもタラワも内陸と呼べるほど奥行きはありませんから,陣地は水際になりますが,いずれも米軍をかなり苦しめたのは事実で,堀参謀のガイドライがも大きく貢献していると思っています.

陸軍入門者 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ペリリュー島での米第1海兵師団の損害は?

 【回答】
 日本軍守備隊は以下の陣容.
第十四師団第二連隊(水戸,3,300人)を基幹に第十四師団戦車隊(12両),
第十五連隊第三大隊,独立歩兵大隊,海軍部隊等で総兵力約10,100人.

 米軍側は以下の陣容.
第一海兵師団(24,200人),第八十一歩兵師団(19,700人),海軍部隊(5,000人)の総兵力約48,700人.

 戦闘結果は以下の通り.
日本側:玉砕
米軍側:第一海兵師団(死傷者約6,300),第八十一歩兵師団(死傷者約3,700).

 これだけだと,意外に第一海兵師団の損害が少ないように見えるが,その詳細は,

 第一海兵師団,基幹3個連隊.
第一連隊:損害率56% → 戦闘能力喪失認定
第五連隊:損害率43% → 戦闘能力喪失認定
第七連隊:損害率47% → 戦闘能力喪失認定

 第一海兵師団はガ島戦にも参加した,当時米軍でも屈指のエリート部隊.
 守備隊の善戦に対する,陛下の御嘉賞は異例の11回を数えた.

http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-pll.htm

 本防衛戦の詳細については,児島襄氏の「天皇の島」参照.

軍事板

 画像は,パラオの監視塔の壁面に書かれている文字.
 これには,ちょっと泣きそうになった……

ベタ藤原 in mixi支隊


 【質問】
 サイパン玉砕戦を知りたいんですが,お勧めなの教え下さい.

 【回答】
「太平洋戦争 上・下」児島襄/中公文庫
「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴[13] 悲劇のサイパン 絶対国防圏の崩壊」三ヶ野大典/フットワーク出版
「悲劇のサイパン島」堀江芳孝/原書房
「アメリカ海兵隊の太平洋上陸作戦 上」河津幸英/アリアドネ企画
「烈日サイパン島」中日新聞社会部編/東京新聞出版局
「タッポーチョ」ドン・ジョーンズ/祥伝社
「サイパン島作戦」陸上自衛隊幹部学校親会/東宣出版

 全体的に見るとしたら,これらのものだと思う.

 各部隊別に見たいなら,18,118,135,136連隊と独立山砲兵第三連隊は連隊史が出ているらしいので,それらを探してください.
 戦車第9連隊関係では,「慟哭のキャタピラ」が光人社文庫に入ってるから手に入りやすいかと.
 ちなみに今は「サイパン戦車戦 戦車第九連隊の玉砕」に改題してるようです.
 内容がわかりやすくなってるね.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
「マリアナの沿岸砲までラバウルに持っていく」
というのは本当にあったことなんでしょうか?

 【回答】
 本当は直接にサイパン戦について書いた本がいいのでしょうが,とりあえず.大井「海上護衛戦」学研M文庫の109~110頁によると

――――――
 内部の防備が犠牲にされた.
 サイパン,トラック,パラオなどに備えつけることになっていた大砲も部隊もソロモンやギルバートなどに流用された.
 すでに備えつけてしまってあったものまで,わざわざ取り外して,これを最前線にもって行くという始末でさえあった.
――――――

 同書216頁によると,19年2月に現地にいた海軍参謀曰く「サイパンには高角砲一門すらない」

 また,同じく当時,サイパンにいた海軍空挺部隊の士官によると,

――――――
 この島に送られてきていた防御用の水上砲や,対空砲などすべての砲火器は,ことごとくトラック島へ,あるいはラバウルへ運び去られていく.
―――――――

ということが起き,昭和18年末にはサイパンに重砲が皆無に近くなったとのこと.
(丸エキストラ版第41集・山辺雅男少佐の手記抄録)

眼い人 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 南雲中将は海軍出身ですが,陸戦となったサイパン防衛戦の指揮はきちんと,執れていたんでしょうか?

 【回答】
 サイパン島の防衛責任者は第31軍の,北部マリアナ地区集団長(第43師団長)である斉藤義次陸軍中将.
 南雲中将は中部太平洋方面陸海軍部隊の最高指揮官だったが,サイパン防衛戦を直接指揮した訳ではない.

 以下引用.

――――――
大本営発表(昭和19年7月18日17時)

 一 「サイパン」島の我が部隊は七月七日早暁より全力を挙げて最後の突撃を敢行所在の敵を蹂躙し其の一部は「タポチョー」山附近迄突進し勇戦敢闘敵に多大の損害を与え,十六日迄に全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む.
 同島の陸軍部隊最高指揮官は陸軍中将斉藤義次,海軍部隊最高指揮官は海軍少将辻村武久にして,同方面の最高指揮官,海軍中将南雲忠一亦同島に於て戦死せり.

 二 「サイパン」島の在留邦人は終始軍に協力し,凡そ戦い得るものは敢然戦闘に参加し,概ね将兵と運命を共にせるものの如し.
―――――――

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】

――――――
「wikipedia」:サイパンの戦い

 多くの民間人が戦いの末期にバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した.
 多いときでは1日に70人以上の民間人が自殺した.
 アメリカ軍は自殺を防止するために島内にその旨の放送を繰り返していたが,日本軍に吹聴されたプロパガンダのためにほとんど効果がなかった.
 但し,アメリカ軍によって集められた邦人の老人及び子供の周りにガソリンがまかれ火が付けられたり,米軍の呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性全員が裸にされ,トラックに積み込まれ運び去られたという証言もある[1].

――――――

 これ本当?

 【回答】
 本当なのかの確証は多分取れないだろうが,「そんなことがあるわけない」とは言えないだろう.

 ただ,米軍を弁護するわけではないけれど,
「米兵が来たので死んだ振りをしてやり過ごそうとしたら,ガソリンをかけて焼かれた――衛生の為に乱暴な手段として死体を焼却処分しようとしたのであって,人間を焼き殺すことが目的だったわけではない」
とか,衛生の為汚れた服を脱がせてシャワーを浴びさせようとしていたのを
「降伏した人を裸に剥いて,建物の中に連れ込んでいる(その後暴行したに違いない)ということになった」
という,ある種の誤解に基いた話になってしまった,という例はある.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 サイパン島では「バンザイ・クリフ」が有名ですが,同島の日本軍には,投降者は誰もいなかったのですか?

 【回答】
 いました.
 米軍側には,投降を説得するための特殊コマンドまでいました.

 以下引用.

訃報 ~サイパンの笛吹き男~
●ガイ・ガバルドン氏
(太平洋戦争中,サイパン島上陸作戦に参加した元海兵隊員)
 ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると,8月31日,フロリダ州で心臓病のため死去,80歳.
 44年6月,海兵隊二等兵として南太平洋のサイパン島上陸作戦に参加. 玉砕戦を挑む日本軍に対し,「一匹おおかみ」と自ら名付けた「説得作戦」を提案し,実行した.
 日本軍が潜む洞窟などに一人で夜間に潜入.片言の日本語で降伏後には尊厳をもって取り扱うことや,日本への帰還を約束,一日に約800人の日本兵を連れ出すなど計1000人以上を降伏させ,「サイパンの笛吹き男」と呼ばれた.
 この活躍ぶりはのちにテレビドラマや映画にもなった.
(2006年9月6日付け中国新聞より引用)

 サイパン戦と云うと 『バンザイ・クリフ』 が有名ですが,その一方で,こういう人も居たんだ~ もっと知られてても良い人だな~ と思いましたのでここに転載し,ガイ・ガバルドン氏のご冥福を祈りたいと思います.

 この人を題材にしたドラマや映画があるものなら,ぜひ見てみたいものですねぇ……

ベタ藤原 in mixi,改

(画像掲示板より引用)

サイパンの偽対空機関砲
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 サイパン島以外にもスーサイドクリフという場所のある島があるとききました.
 その島の名前を教えてください.

 【回答】
 沖縄本島の糸満市米須山城海岸のこと.

 また,テニアンにもそう呼ばれた岬があったようだ.
 悲しい話だ.

軍事板


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