c

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆◆政治動向
<◆◆◆マッカーサー統治
<◆◆通史 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次世界大戦FAQ


 【link】

「寄星座」:ジェームズ・アワー関係図

「寄星座」:白洲次郎は,戦後日本を好き勝手に生きるようです


 【質問】
 前にNHKで題名忘れたけど津川雅彦出演で,現憲法制定過程を描いたドラマを見たんですが,あの当時の日本の政治家って,今よりは英語が出来た人多かったんですか?
 GHQの担当者相手に日本側の連中が,通訳なしで英語で喋ってるような場面が多かったように思えますが.やっぱり帝大出身者が多数いたからですか?

 【回答】
 どっちかというと,GHQ対策で英語が出来る人間が重宝されたのが近い.

 戦前だと,今みたいにまず英語,その次に〜という感じではなく,英語,フランス語,ドイツ語あたりがメジャーな欧州語として併存していた.
(昭和天皇も英語より,フランス語の方が得意だったとか)
 なんか旧制高校に入ればあとは,よほど成績が悪くない限り,どこかの帝大にはほぼ確実に行けるから,その余裕から語学に打ち込んだもの多数とも聞く.
 また実際,あの当時の旧制高校の人は,会話はともかく外国語読解力は凄いみたいだし.
(もっとも一方では,マルクスに傾斜するヤツもいたが)
 そういう「下地」があるから,語学でもまあ出来る人が多かったのかも.

 だから,まぁエリート層は”外国語”は今よりも出来たと思うけど,それが英語であるかどうかはその人次第だった.

 あとは,当時の幣原首相は,語学ができる人が好みだったせいもあるかもしれない.
 幣原は,『英語の大家を以て自他ともにこれを認めている(吉田茂・談)』くらいであり,また,
「幣原は語学が出来る人を重宝した.
 だから私はあまり覚えが良くなかった」
と,吉田茂は書いている.
(あくまで吉田の印象であって実際どうだったかは分からないが)

 ちなみに軍人の場合は,陸軍はドイツ語,海軍は英語という傾向があったようだ.

日本史板,2007/11/09(金)
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 「アメリカン・リベラリズム」は,「社会福祉」に関しては政府が積極的に干渉するが,他の分野では市民の「自由」を拡大していく「進歩派」である.
 「自由主義」だが,抑圧からの自由であるので,「社民系」というか,ソフト・ソーシャリズムの路線になる.

 日本の占領政策は,アメリカでのニューディール政策で失敗した,このソフト・ソーシャリスト(サヨク)達が行ったので,日本社会党,共産党から日本自由党・日本民主党(後に合同して自由民主党)まで全部,このアメリカの民主党リベラルの理念と大差ないものになってしまった.

 日本には,アメリカの共和党のような保守政党の理念は入ってこなかった.
 保守の思想とは何かを政治家も知識人も,よく分かっていないのである. 

(小林よしのり「戦争論」3, p.72-73)

 【事実】
 嘘ですね.

 確かにGS(民生局)はニューディーラーに牛耳られていました.
 しかし,GHQはGSだけではありませんよ.
 一方では,反共主義者の巣窟だったGII(参謀第二部)が影響力を発揮していました.
 あまりに容共リベラルなGSとGIIは仲が悪く,GSのケーディス次長はGIIによって失脚させられたりしてます.

 さらに日本の保守派は戦時中,右翼と軍部によって脇に追いやられていたわけですね.
 復活後,軍部の暴走と敗北によって無茶苦茶になってしまった日本を,GHQによる無秩序な改革から,良いものだけを取捨選択すべく頑張ってましたよ.
 吉田茂などは,GSとGIIの争いを利用もしていました.

 こちらから先制奇襲したにも関わらず完敗し,全土を占領下に置かれるという,今より格段に悪い立場だったにも関わらず,タフに交渉した祖先を,あまり見損なうもんじゃないですよ.

 サンフランシスコ平和条約に対する反応で,ニューディーラーに毒された(あるいはアカと繋がっていた)日本の政治家はだいたい分かりますよ.
 彼らは命脈を保ったが,主流にはなれなかった.

(軍事板)


 【珍説】
 例えGHQの指導がなくったって,日本は自力で農地改革を成し遂げてたはずだ!(劣化林間)

 【事実】
 うろ覚えだが,確か戦前の革新官僚も農地改革を考えてたりしたらしい.
 だが,それを実行する政治力が無くて,結局戦後GHQの力でようやく農地改革がなされたって話だそうな.

 あと,占領終了後には農地改革で土地を安くで買い上げられた地主に対しては,国庫から補償する法案が国会で通ってたりする.
 この辺りから見るに,地主の政治力は当時はすごく強かったんだなー,と.
 そういう「抵抗勢力」を排除して農地改革を進めることが戦前にできたのか?,かなり疑問な訳で,場合によってはフィリピン辺りのようなグタグタになったおそれも排除できない.

軍事板

 実際,史実の農地改革なんて本気で廃案にされかけましたからねえ.
 GHQ指令が降りた後ですら難航したくらい.
 内容も,抵抗圧力の前に後退.

地主の「一町五反」を限度としてそれ以上の土地を譲渡,という案(当初案)
  ↓
「3町歩」
  ↓
「五町歩」

……となり,ここまで譲歩してもなお議会で集中砲火を浴び,GHQが「農地改革に関する覚書」を出さなければ廃案になるところまでいきましたとさ.

名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in 軍事板


 【質問】
 第二次世界大戦後,最初に首相になった皇族の人の名前を教えてください.(読み方も)

 【回答】
 東久邇宮稔彦 ひがしくにのみやなるひこ.
 1887‐1990(明治20‐平成2).

 久邇宮朝彦親王の第9王子として京都で生まれる.
 陸軍士官学校卒業.1920年以来,フランスに7年間留学.
 陸軍内部で皇道派と衝突,左遷された経験をもつ.
 敗戦直後の45年8月17日に,最初の皇族内閣を組閣し,降伏文書調印,軍隊の復員・解体などの終戦処理にあたったが,占領軍との連絡調整に限界を感じ,組閣後2ヵ月で総辞職した.

 47年10月皇族の身分を離れた.
 その後,新興宗教(ひがしくに教)の教祖にまつりあげられたこともある.

日本史板,2003/03/10
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 吉田茂って誰?

 【回答】
 吉田茂(1878〜1967)は,大正・昭和時代の政治家・外交官で,
 日独伊三国同盟に反対して職を追われたが,第2次世界大戦中も和平活動を続け,昭和20年4月には,和平論者として憲兵隊によって投獄さる.
 終戦後は自由民主党を結成し,首相として欧米諸国とわたりあった.


 【質問】
 GHQ側から見た,白州次郎の印象は?

 【回答】
 日本国憲法を起草した米国陸軍大佐チャールズ・ケイディスによれば,策士的であり,ちょっと信用をおけないところもあったという.

 以下引用.

[quote]

 憲法起草に関してもうひとつ,おもしろく思い出すのは,白洲氏の,人をおどろかすやり方です.

 憲法草案を英語から日本語に翻訳する作業のため,日本側と徹夜で交渉を続けていた時,ミス・シロタが
“こういう日本語では格式ばりすぎて,天皇がラジオを通じて話すのと同じような調子の皇室用語風なので,一般国民の大多数は理解できないでしょう”
と発言しました.
 日本在住の長い他の通訳二人もこれに同意しました.
 私は日本語が全然わからないのだけれど,とにかく,
“一般国民にもっとわかり易い日本語に訳すことはできないか”
とみんなに提案しました.

 そこでまた最初にもどって,すごく時間がかかる作業が始まりました.
 オックスフォード大学に留学した日本人の弁護士が集まって,言葉のひとつひとつについて訳を決めていくのです.
 ずっとそれが続き,午前四時ごろになってもちっともメドがつかないので,私は責任者として
“これではいつまでたっても終わらないから,なんとか早く仕上げる方法はないか”
と問いただしました.

 そうしたら白洲氏がおもむろにポケットに手を入れて紙をとり出し
“ケイディス大佐,あなたが作りあげたいというのはこれではないでしょうか”
というのです.
 みると彼は,GHQの憲法草案を,一般国民にわかりやすい日本語に全訳したものを持っているのです.
 会議のはじめから彼はそれを持っていながら,翻訳の過程でなにか日本側に有利な訳がでてこないかどうかなどを期待したため,黙っていたのでしょう.
 私たちはそのために何時間も浪費したのです.

 〔略〕

 外務省の公式の翻訳です.
 一般国民にわかりやすい日本語になっていました.
 日本側はこれと,もうひとつ難解な日本語の訳と両方を準備していたのです.
 白洲氏はとても抜け目のない人物で,どうしてもそれを提出せざるえないという瞬間まで,黙っていたのです.

 〔略〕

 彼にはちょっと信用をおけないところもありました.
 当時,彼は私のオフィスに毎朝やってきたものです.
 白洲氏はタバコをよく吸っていたので,私はPXの十セントほどのタバコをよくプレゼントしました.
 PXから支給されても私はタバコは吸わなかったからです.
 彼は朝,私のところへ来て
“牛乳配達が牛乳ビンを回収に来ました”
などといってその日の新しい情報を私から得ようとしたものです.
 私も秘密ではない情報をよく彼に知らせました.
 彼はそれを終戦連絡事務局とか首相とかに流していたのでしょう.

 その後,白洲氏は大きなパーティーを開く計画を立て,民生局のメンバーの全員を招待しました.
 芸者ハウスでの大パーティーで,民生局の百人近い全員が招かれました.
 しかし私は局次長として,将校がみんなで芸者パーティーに行けば,アメリカの新聞記者にきっとそれを書かれ,本国で批判をあびるだろうと考えて,そのパーティーに行くなという命令を将校全員に出したのです.
 その後,白洲氏は私の前に全然,顔を見せなくなりました.
 パーティーのことで気分を悪くし,きっと日本側に対しても面子を失う結果となったからでしょう.
 彼は民生局とのつながりを日本側に誇って語っていた形跡があり,きっと私のとった措置に憤慨したのでしょう.
 でも私としては禁止令を出さざるをえなかった.
 将校がもし多数,芸者ハウスに行って写真でも撮られたら,それこそ乱交パーティーのような感じに受けとられかねなかったのです.(笑い)

[/quote]
―――古森義久ブログ,2007/08/30 10:55

 日本側から見た白州次郎像については,各種書籍を参照されたし.


目次へ

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

inserted by FC2 system