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 【link】


 【質問】
 英連邦統一軍は,どのようにして出来たのか?

 【回答】

 さて,太平洋戦争は米軍が中心になって日本と戦争を繰り広げたのですが,英国,オーストラリア,インド,ニュージーランド,カナダと言った英連邦軍も戦闘を行っています.
 その戦闘は,英連邦と言う統合軍では無く,各国独自の軍がそれぞれ戦っていたものです.
 戦争末期に海軍は統一軍を構成したのですが,陸軍の方は,先ず対日本土侵攻軍で,統一軍が構想されました.

 1945年7月4日,英国のチャーチルは,「英国政府は,日本本土に対する作戦に参加する為,英連邦軍を編成するのでオーストラリアも陸海空軍を参加させて欲しい」とオーストラリア政府に申し入れます.
 チャーチルとしてはオーストラリア政府の合意が得られれば,統一軍の編成を,米国のトルーマン大統領に提案するつもりでした.
 しかし,オーストラリア政府はこの時期,多忙と混乱の極みにありました.
 チャーチルの提案の翌日,7月5日にカーチン首相が死亡し,7月13日に労働党のチフリーが新首相に選ばれ,ビーズリーが国防相に就任します.

 こうした中で,7月13日の国防委員会の開催を挟んで関係者による意見の調整が為され,7月20日に当時ポツダム会議に出席していたチャーチルに,
「オーストラリア政府はオーストラリア派遣軍を含む英連邦軍の編成が太平洋に於ける英連邦の威信を保つ上で最も望ましい事に同意するが,現状は対日侵攻のために単一の英連邦軍を編成し,訓練する時間的余裕があるかどうかを最優先に考慮する必要がある」
と回答し,一方でチフリーは,マッカーサーに対して7月27日,対日本土侵攻作戦にオーストラリア軍1個師団を加えて貰いたいと言う希望を再度強調しています.

 8月1日,オーストラリア政府は英国政府に対し,対日本土侵攻作戦に参加する際,単一の英連邦軍を形成する条件としては,米軍とオーストラリア軍との間で為されてきた様に,納得出来かねる作戦に対してオーストラリア軍を使用する事を拒否する権利を持つべきであると主張し,同時に,英連邦軍総司令官の任命に際しては,中東や太平洋に於て優れた功績を挙げたオーストラリア人将官がいるので,考慮すべきであると伝えています.

 これに対して英国政府は,陸海軍の司令官に英国人,空軍司令官にオーストラリア人の起用を提案しますが,この内,日本本土侵攻の中心となる陸軍司令官に起用が予定されたC.ケイトリー中将は,対日戦の経験が無いと言う難点があり,到底,本土侵攻作戦への参加を目指すオーストラリアの賛意を得られる人物ではありませんでした.

 結局,日本の降伏に伴い,対日本土侵攻英連邦軍は関係政府の同意を見る事無く消滅してしまいます.
 この原因の1つには,独立したオーストラリア軍の対日侵攻を企図したオーストラリアと,単一の英連邦軍編成を意図する英国との思惑の相違があったと考えられています.

 8月13日,日本の降伏直前になって,英国政府は,英連邦関係国政府に対し,日本降伏後の英連邦の採りうる方針を伝え,協力を依頼しました.
 この中で英国政府は,「オーストラリア,英国,インド,カナダ,ニュージーランド陸軍から派遣される各1個旅団と,戦術航空派遣軍によって編成される単一の英連邦軍を形成して,日本の占領に参加する」事を提案しました.

 この提案に対し,オーストラリアは8月17日,海軍1個戦隊,陸軍2個旅団,空軍3個戦闘飛行中隊(ムスタング装備)を編成して日本占領に参加すると回答しました.
 しかし次いでオーストラリアは,連合国最高司令官の指令にのみ従うオーストラリア人司令官の下,独立した対日交戦国として貢献する事を強調しました.
 また,「この貢献に当たってオーストラリアは,脇役としてでは無く,長期に亘って対日戦の緊張と重責に堪えた太平洋方面の主要な交戦国として,これに従事する」事を言明します.
 この姿勢に対応するかの様に,オーストラリア政府は米国政府に対し,太平洋戦争に特に貢献した事を踏まえ,日本の降伏文書調印式に参加する必要がある事,独立した対日占領軍を派遣する事,関連した国際会議のメンバーとなる事を要請しています.

 一方,ニュージーランドは,8月29日,英国の自治領省に対し,地中海に展開中の旅団群を6ヶ月間に限り派兵すると回答しました.
 また,アジアと太平洋に伝統的に興味の無かったカナダは,9月1日に欧州に於ける任務のために対日占領軍に参加できないことを明らかにしました.
 インドの場合は,8月13日の提案に対して直ちに日本派遣軍の選別が為されており,日本の敗戦に英国軍の主力として寄与してきた国として,当然の事として英国に同調したものと考えられます.

 8月31日,英国政府はオーストラリア政府に対し,
「英連邦の基本的利益は,別個の複数軍よりも単一軍を編成した方が守られる」
と再度説得を試みました.
 その際,英国政府は,単一軍であれば総司令官や司令部幕僚の大半をオーストラリア人によって編成しても良い事,但し英国太平洋艦隊は統一軍に加わらない事などの譲歩案を提案しました.

 この案に対しオーストラリア政府は,独立軍の派遣を要求する強烈な主張を展開しました.
 そして9月10日に至り,オーストラリアは,
「太平洋に於ける英連邦の威信を維持する事の重要性を大戦中一貫して実践唱道してきており,日本に対する最終的勝利への貢献に見合った評価や高い地位を与えられて当然であり,また,カナダと英国太平洋艦隊が含まれなければ統一軍では無い」
として,当初案の通り単独軍を派遣する事を主張しました.

 オーストラリアの主張は,英国政府首脳部を驚かせ悩ませる事になります.
 こうした事態に対処するため,英国統合参謀本部は,ロンドンに到着したオーストラリアの外務大臣エバットに最後の望みを掛け協力を要請しました.
 エバットは,チフリー首相に対し,オーストラリア政府が任命する総司令官を始めオーストラリア人が中心となって編成される単一軍ならば太平洋地域の問題にオーストラリアがリーダーシップを発揮する事は可能であると再考を促す電信を送ります.
 9月10日,戦時内閣の閣議で,エバットの電信に関する討議が為され,数名の出席者はあくまでもオーストラリア独立軍の派遣を主張しましたが,当時の参謀総長ノースコットは,それは米国や英国に船舶や基地,補給を依存する米軍の分遣隊に成り下がる以外不可能な選択肢であると発言しました.
 これまで病気のため欠席していたシェダン国防次官がノースコットの意見を支持し,オーストラリアはこれまでの主張を代えて,単一の日本占領英連邦軍への参加を決定しました.

 この日,戦時内閣は以下の様な極秘の覚書を作成します.

------------
 英連邦軍の日本占領参加の件
 1945年9月19日付議事録(4,400号)戦時内閣の決議

 戦時内閣は次の基準に基づいて,日本占領に参加する単一の英連邦軍に,オーストラリア派遣軍を参加させる事を決定した.
1. 総司令官
  オーストラリア人将官が単一の英連邦占領軍の海陸空軍の総司令官に任命される事
2. 幕僚
  占領軍司令部の大半はオーストラリアから派遣されるが,その他の国の軍から適当な代表派遣を受け容れるために規定を作成する必要がある.
  司令部幕僚のオーストラリア班の定員は戦時内閣の承認によるものとする.
3. オーストラリア派遣軍の兵力
 英連邦占領軍に所属するオーストラリア派遣軍は次の編成による.
  海軍…巡洋艦2隻と駆逐艦2隻(これは暫定兵力であって今後再検討により変更あり)
  陸軍…初期の編成は1個旅団群の予定であるが,今後追加の1個旅団群の募集について検討予定.
  空軍…ムスタング戦闘機3個中隊
4. 総司令官のマッカーサーに対する責任
 作戦上の事項に関しては,占領軍の総司令官は連合国最高司令官であるマッカーサー将軍の指揮下に置かれ,将軍に直接折衝出来る.
 但し,在日本沿海水域の英国太平洋艦隊の任務戦隊は,英国太平洋艦隊司令長官の作戦上の指揮下に留まる事に留意の事.
5. 総司令官の英国政府及びオーストラリア政府に対する責任
 政策と管理上の事項に関して,総司令官は英国政府及びオーストラリア政府に対して,統合参謀本部を通じて連帯して責任を負う.
 この統合参謀本部は,オーストラリア参謀本部及び英国参謀本部の代表1名若しくは代表団からなり,両国参謀本部を代行して,その権能を行使するものにより構成される.
 総司令官に対する指令は,総て統合参謀本部を代行するオーストラリア参謀本部を経由して発令されるものとする.
 英連邦軍総司令官に対する指令は,関係政府間の協議によって立案されるものとする.
6. 政府間及び各国政府と連合国最高司令官の通信連絡
 政策及び基本方針に係わる重要な問題総てに関する政府間の通信についての既定の手続きは,統合参謀本部の取り決めには影響されない.
 各国政府は,現状通り連合国軍最高司令官と直接交信する権利を保留するものとする.
 この通信経路は統合参謀本部を通じるか,統合参謀本部に因るか,又は参謀本部が本国政府との直接連絡の方法に因るかのいずれにせよ,総司令官から発信された政策及び基本方針に係わる重要な問題総ての場合について守られなくてはならない.
 技術的な事項は,海陸空の各軍務の経路を通じて各参謀本部が処理出来る.
7. 統合参謀本部機構のオーストラリア政府機構との関係
 全般的な管理目的に関し,又政府間の意見交換を要する事項の付託に関して統合参謀本部を,国防大臣が政府側の責任者である国防省の機構の一部であるオーストラリア参謀本部委員会の拡大会議と見做すものとする.
 同様の原則が,統合参謀本部が新しく設ける特別委員会にも適用され,英連邦その他の国の派遣軍に代表派遣の場を提供するために現存の委員会の委員の拡充を必要とする場合にも適用されるものとする.
 この統合軍機構に派遣されるオーストラリア国防省の幹部任命配置は取極めにより行われるものとする.
 この内容は,英国とニュージーランドの両政府及びマッカーサー将軍にこれから連絡の予定である.
 一方,三軍の代表からなる小規模代表団がオーストラリア軍の日本派兵に関して軍務レベルで事前準備を進めるために,直ちに訪日の予定である.
 代表団は英連邦軍の他の国の派遣軍に関して事前の処置を執る必要があれば,関連する英国及び自治領代表と協力するものとする.
------------

 この決定は9月21日に英国に発信され,10月1日,英国はこの条件を受け容れて,オーストラリアに対して,日本占領英連邦軍の組織やその他の細目が完備出来次第,英連邦を代表して交渉する様に提案しました.

 この様に,オーストラリアが強硬な態度を取ったのは,太平洋戦争というものがオーストラリアにとって初めて自国領土が侵略,占領されかねない事態に至った戦争であり,そうした危機的状況であったにも関わらず,
「オーストラリアが常に外交や海軍力の面で頼っていた英国が,オーストラリアの安全を有効に保護してくれる能力が最早無い」
と言う事がはっきりした為でした.

 オーストラリアはこの戦争で米国と協力し,日本を南太平洋地域から駆逐する事に成功しました.
 そして,この戦争を通じてオーストラリアは,太平洋地域の防衛が自国の安全にとって不可欠であり,それは英国に依存して得られるものでは無く,自国の防衛力と米国との協力,そしてこの地域の安全保障に係わる会議に参加する事によって得られると認識した訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/30 23:39
青文字:加筆改修部分

 さて,対日占領軍の形成を巡り,1945年8月13日から開始された英国とオーストラリアの交渉は,9月21日にオーストラリア政府が提案した7項目の条件を英国政府が受諾した事により,基本的な一致を見ました.
 この7項目の内,
式と官吏に関する部分は,統一軍の総司令官とその幕僚の大部分はオーストラリア人とする事,
総司令官は作戦事項に関して連合国最高司令官に対して直接責任を負い,政策と管理の問題については統合参謀本部を通じて英連邦関係各国政府に責任を負い,総司令官への指令は,統合参謀本部を代行するオーストラリア参謀本部が発令する事
など,オーストラリア,特にその参謀本部に有利な内容になっていました.

 にも関わらず,10月1日に英国政府は,オーストラリアの提案に賛意を表明します.
 しかし,その中で英国政府は英国及びオーストラリア政府に対する総司令官の責任,英連邦関係各国政府間と関係各国政府と連合国最高司令官との交信,統合参謀本部機構のオーストラリア政府機構に対する関係を明確にする様に要請してきました.
 英国政府自身は,この統合した英連邦軍の要となる統合参謀本部の性格について,英国と米国との間で大戦中成果のあった統合参謀本部と同様のものを想定するとの見解を示しました.

 英国政府の見解によると,統合参謀本部の英国からの派遣官は単なる代理人で,審議の案件については英国参謀本部に相談して決定する事になると述べています.
 こうした見解の上で,英国政府は,英米同名の統合参謀本部と区別するために「在オーストラリア統合参謀本部(JCOSA)」と言う名称とする事,今後,指揮系統については英国とオーストラリアの参謀本部が交渉を続け同意が得られた時点で,オーストラリア政府が米国政府と交渉する事に同意しました.

 これに対し,オーストラリアのシェダン国防次官は,10月4日,オーストラリア国防省内には英国とは幾分異なり,作戦面の諮問に応える参謀本部委員会と管理面でその役割をする国防委員会が存在する事を指摘します.
 そしてこれからの問題は主として管理面にあるのだから,これまでオーストラリアが米国の代表や英国海軍と提携したのと同じ様に,英国代表も加わった拡大国防委員会で問題に対処する事が望ましいと回答しました.
 これについては,9月21日の参謀本部重視の提案の矛盾に気づいた国防次官のシェダンが巻き返しを図ったのでは無いかと思われます.
 そして,オーストラリア政府は,統合参謀本部の名称をJCOSAにしたいと言う英国の提案に賛意を示しています.

 10月12日,英国政府はオーストラリア政府の一連の提案に対し同意し,JCOSAのインド代表は英国が兼務する事を表明します.
 同時に,総司令官としてノースコット中将が適任であるとの見解を示しました.
 10月15日にはニュージーランドも同調し,17日にはニュージーランド,11月21日にはインドがJCOSAへの参加が承認されました.
 これを以て,英連邦各国の合意が整ったと言う事で,10月18日からオーストラリアと米国との交渉が開始されました.

 10月15日,英連邦軍を形成するための今後の方針がオーストラリア政府国防委員会で討議されます.
 そして,「英国とニュージーランド参謀本部代表団は,計画の促進と迅速の処理を図るため,早期にオーストラリアに着任する事が望ましい」等5項目が決定されました.

 この結果,11月29日にR.グレアム英国空軍中将が,12月5日にJ.C.ヘイドン英国陸軍少将,そしてニュージーランドから総参謀長代理のG.H.クリフトン准将が,12月12日にはインド軍総司令官代理のW.J.コーソーン陸軍少将,そして,到着日不明なれど,R.H.ポータル英国海軍少将が相次いでオーストラリアにやって来ました.
 これに対し,オーストラリアの代表は,海軍軍令部長のL.ハミルトン海軍大将,陸軍副総司令官のスタディ陸軍中将,空軍参謀長のジョンズ空軍少将でした.

 12月4〜5日の両日,第1回JCOSA委員会が開催され,BCOFの編成概要,各国部隊の兵站管理,アンザック師団の上級指揮官の任命,司令部と司令部要員の占めるオーストラリア軍人の割合,英連邦占領軍総司令官と師団長への財政権の委任と言う5項目が討議されました.

 最初のBCOFの編成概要については,総司令官の下,英印師団,アンザック師団から編成される陸軍2個師団と,英国とオーストラリアからなる海軍,英国,オーストラリア,ニュージーランドによる空軍からなっていました.
 これによると基地部隊がそれぞれ英印師団とアンザック師団に分かれており,この段階では基地部隊の統合は決定していません.
 それぞれの兵力は,司令部が2,700名,英印師団14,000名,アンザック師団12,000名,空軍6,200名で,海軍は明記されていません.

 2つ目の管理政策については,可能な限り統合化が試みられましたが,軍隊の日本到着を待たなければ不可能であるとして先送りされました.
 ただ,兵站支援の初期の段階では日本に到着後90日間はそれぞれの国が自分で責任を持つ事とするものの,ニュージーランド軍の工兵機材や装備がオーストラリアから供給されるなど,若干の例外は認められる事になりました.
 なお,その後の兵站管理は,原則としてオーストラリアが責任を持つ事になっています.

 3つ目の上級指揮官の任命については,JCOSAはオーストラリアのJ.A.チャプマン陸軍少将を司令官に,ニュージーランドのW.ソーントン陸軍准将を参謀長に任命する様勧告しました.
 結局,12月24日のJCOSA委員会に於て,英印師団に対応するアンザック師団は編成せず,両国派遣軍はBCOF司令部の直接指揮下に置かれる事になりました.

 4つ目のBCOF司令部の編成については国籍階級別人員明細が提出され,JCOSAはこれに対し暫定的にこれを承認し,BCOFが日本の何処に配置されるかはっきりした時点で再検討される事になりました.
 オーストラリアは司令部要員の50%,必要があれば60%を提供する事になりました.

 最後の議題はこの段階ではまとまった方向が出されませんでした.

 不確定要素が多く,兎にも角にも,こうして英連邦占領軍が産声を上げる事が出来たのですが,前途多難を思わせる船出だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/31 23:31


 【質問】
 英連邦統一軍の占領政策は?

 【回答】

 さて,BCOFには当初計画書すらありませんでした.
 それは拙いだろうと言う事で,1946年3月15日に第1次案が,5月15日に正式案が立案されます.
 「英連邦軍日本占領参加計画書」によると,英連邦関係各国政府の見地によるBCOFの目的は次の3つでした.

a. 日本占領に於て,英連邦に相応しい代表である事
b. 日本人及び連合国人の見る所,英連邦の威信と影響力が保持され,発揚される事
c. 日本国民に対して可能な限り,民主的な生き方と生き甲斐を実例を以て示し,且つ感銘させる事

 次いで,計画書では連合国最高司令官の指揮の下で指揮の下で割当地区内でのBCOFの軍事的役割として次の3つを挙げています.

a. 連合国の全施設及び武装解除待ちの日本の全施設の安全警護
b. 日本の施設と兵器装備の武装解除と処分
c. 軍事統制(これにが軍政は含まれない)
 a.に於ては,武装解除の必要な旧日本国の軍備は,既に米軍により「武装解除待ち」の状況にあり,軍事占領による目的である軍政は,米軍専管であると明記されています.

 1946年3月20日,「米第8軍行政管理命令第19号」が発令されました.
 これに呼応して,BCOFは,11月27日,「占領軍指令第17号」を発令し,管下の各隊に配布しました.
 因みに,広島を軍事占領した第34オーストラリア歩兵旅団に於ては,これを元に12月19日に「BCOFの占領任務」を作成していますが,これによると基本任務と特定任務に分けて19項目が列記されています.

 基本任務は先の英連邦関係各国政府から見た先述の3項目と,米第8軍行政管理命令第19号」第5項に規定された6項目の計9項目から成っています.
 先述のものは略し,残りの6項目は次の様になっています.

a. 日本の軍事的占領を維持する上での連合国の目的は,
(1) 日本が世界の平和と安全保障にとって再び脅威とならない事を確実にすること
(2) 他国の権利を尊重し,国連憲章の理想と原則を反映した諸目的を支持する平和的にして席になる政府の成立を積極的に齎すこと.
   連合国はこの政府が民主的自治政治の原則にできる限り忠実に従うことを望むものの,連合国の責任に於て,民衆の自由意志に指示されない如何なる政府の形態をも日本に強制する事は無い.
b. この最高方針を推進するために
(1) 日本の主権は,本州,北海道,九州,四国の各島と,近接した約1,000の小島に限定されている.
(2) 日本を完全に武装解除し,非武装化すること.
   軍部の権威と軍国主義の影響力を日本の政治,経済,及び社会生活から一掃すること.
   軍国主義と侵略の意図を掲げる団体や組織を断乎として排除すること.
(3) 日本国民に,個人の自由に対する願望及び基本的人権,特に宗教,集会,言論,出版の自由の尊重を培う様鼓舞すること.
   また,日本国民に民主的な代議制機関を形成する様鼓舞すること.
(4) 日本国民に,平和時の国民を満たすにたる経済を自力で発展させる機会を与えること.

 また,特定任務は,次の10項目から成っています.

 基本的にBCOFは次の2項目に関連する総ての事項に係わる.
(a) 日本占領の基本的目的
(b) 占領軍の安全保障と利益
 各編成部隊はその責任分担区域内で,軍政を除く,以下の軍事的占領の特定任務を遂行する責任を負う.
(a) 国内情報の収集と公布宣伝
(b) 連合国の財産の安全な保管と連合国人の生命の保護のため,日常の警護,巡察,警戒配置による対策の準備
(c) 災害対策の計画作成
(d) 治安維持
(e) 敵国装備の処分
(f) 復員,帰国センターの監督
(g) 陸上及び航空による通信,連絡の維持
(h) 監督面と連合国最高司令官総司令部指令を徹底することが必要な場合の軍政部に対する支援

 1947年3月5日,JCOSAの計画参謀部は,BCOFの目的に関する文書を吟味した結果,「BCOFに特定された目的については,所定の成果を挙げている」と判断しています.

 ただ,特定された任務以外の目的が達成されているかについては,オーストラリア政府内でも評価が分かれていました.
 1946年12月に訪日し,半月に亘ってBCOFの実情を視察した陸軍大臣C.チャンバーズは,チフリー首相宛にに送りBCOFの改革を求めます.
 その中で,チャンバーズは,英連邦関係各国政府側の見解としてBCOFに与えられた3つの目的の内,英連邦に相応しい代表」は評価していますが,2つ目の威信という点では,日本人の目からは軍事面では成果を挙げていると思えるが,連合国人としての立場からすれば,軍事面でも軍政面でも米第8軍に従属しすぎて,軍政から除外されているので達成出来ていないと評価し,3つ目の日本人に民主的な生活を例示するという点に於ては,物心両面から敵に優れていれば勝者なのだという自尊心と自負心に訴えられるのに現状ではそうなってないと言う評価を下しています.

 これに対し,デッドマン国防相は,1947年2月28日付けの首相宛書簡で,1と3については同意したものの,2については,反論を行い,日本全体の占領は米軍が作戦指揮を執るのは当然のことであり,日本の軍政に参画するのは,その方面に高度な訓練を受けた要員が必要であり,最初からそれを望まなかったのであると,当時の事情を追認しています.

 この両方の書簡はJCOSA内でも検討されました.
 その結果,BCOFの特定の任務は成果を挙げているが,BCOFの威信を日本国内で高める活動として,担当地域内に於ける軍需品処理の監督,闇市の強制排除面での日本の警察の援助,連合国最高司令官総司令部指令を徹底するための日本の学校の視察,南海地震の被災地区救援の4つの事例を追加するとしています.

 ところで,公式文書内では米国と英連邦の占領任務が統一され,両者及び英連邦関係各国間には矛盾が生じていない様に見えますが,これは「連合国最高司令官の指令の範囲内」であり,特に軍事的役割以外では,占領した日本を舞台に,関係各国の立場の相違に起因する対立が表面化しました.
 米国は,日本が再び世界の脅威にならない様に民主手菊花に帰ると言う戦後処理の目的を,共産主義との対抗上,日本を急速に自由主義陣営の一員として育成しなければならないという様に転換を迫られていました.
 これに対し,英連邦関係各国に於けるBCOFの任務は,依然として,非武装化した日本が再び連邦の脅威とならないよう,報復を含めた日本の民主化でありました.
 この為,BCOFの本来の目的は,連合国最高司令官から与えられた軍事的役割以外に,英連邦の威信を高めること,占領によって経済的利点を確保することでした.

 こうした動きは,日本の占領政策を進める上で必然的にGHQと英連邦代表との間に対立を齎しました.
 英連邦はその戦前に受けた脅威から安全保障や経済的利益を優先し,日本を出来るだけ低水準の状態に止めようとしたのに対し,米国は西側自由主義体制の防衛を考えて,可能な限り日本の復興を早めようとしました.
 こうした立場の相違は,対日理事会をオーストラリアの威信の発揚の場として見做して,時に中立的な立場を執るなど,米国の対ソ路線に積極的に賛成しなかった英連邦代表のW.M.ボールの地位を奪うことになります.
 これは同国人からは,米国人の「私に与しないものは敵に与するもの」と言うキリスト教的狭義の犠牲になったのだと後に評価されていますが,どちらかと言えば,米国の戦略転換の必要による制裁だったと言えます.
一方で,軍人同士の関係は概ね良好な関係を維持していました.
 これは,米国の要員不足の肩代わりとして,英連邦軍を用いようとしたGHQの便宜供与も関係しています.

 更にややこしいことに,米国と英連邦の間だけで無く,英連邦内でも対日占領政策上の対立があったりしますが,それはまた次回に.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/01 23:41
青文字:加筆改修部分

 さて,対日占領政策上の対立の話の続き.
 先日は,英連邦と米国の対立を述べていたのですが,英連邦関係各国でも同じ事が言えます.

 英国の場合,占領政策の目的は,「日本で英国の威信を高めると共に,日本の軍国主義復活の恐怖から太平洋地域の英連邦とアジア地域の英領植民地を保護しながら,日本経済の復興を予想して英国の経済利益に有利な早期講和の立場を築く事」でした.
 こうした英国の政治的院と英国の経済的利益を重視する政策は,必然的に,BCOFの日本占領と軍政参加への要望と,政治的威信を高めるために現に効果のある東京と,経済的に重要な神戸への進駐を要求することになりました.
 ただ,当時英国は第2次世界大戦の終結に伴う経済的逼迫状況に置かれており,欧州防衛に米国の援助を必要としていた事から,連合国最高司令官を公然と批判することは出来ませんでした.

 しかし,まともな兵力を出せない弱みがあり,軍政への関与とか神戸への進駐と言う国益の追求は,日本占領に際して全権限と豊富な援助資金を持つ米国と,英連邦を代表するオーストラリアの同意を得ながら達成することは困難であり,財政難,人的資源の不足による兵力補充難と言う事も有り,目的を達成すること無く,早々にBCOFから英国軍を撤退することになります.

 そのオーストラリアの日本占領の最高目的は,「二度と日本が侵略の道を歩むことが出来ない様にすること」であり,これには「日本に対する報復の要求と民主化の要求が関連していた」と述べられています.
 此の点は英国の方針と大して異なる所ではなかったのですが,初めて自国が侵略されたオーストラリアにとっては,太平洋地域防衛が自国の安全にとって不可欠であり,それは英国に依存しても叶えられるものでは無いという新たな認識の下,これまでに外交実績の無いまま自治領として初めて英連邦を代表して米国との交渉に臨んだために,そこに英豪の対立が生じたのです.

 嘗てのアジアに於ける輝かしい大英帝国の威信と利権を守りたい願望を,米国によって打ち砕かれた英国にとってオーストラリアは,英連邦全体の伝統的な協力関係を損なうものと映り,米国と交渉しつつBCOFの統合による占領目的の達成に腐心していたオーストラリアにとって,英国は自国の勢力温存と将来の利益を主として,未だに宗主国の立場を要求していると考えたのです.

 更に,このBCOFには新たなプレーヤーが登場しました.
 1947年に独立したインドです.
 インド派遣軍の総司令官が出した通達は,インド兵に対し占領軍の任務として,先の英連邦関係各国が要請した3項目に基づいていましたが,「英連邦に相応しい代表であること」は,「日本占領に於て,インドを立派に代表すること」に変わっていました.
 また,英連邦の威信の維持や民主的な生活方法を例示すると言う点については,司令官は厳しい問題を抱えていました.

 インド軍は当初,世界の強国だった日本に対して,民主的な方法と生き甲斐を適切に示して威信を挙げることが出来ませんでした.
 と言うのも,これこそ「インド人が手に入れようとして,英国と闘争していたものであったからであり,どの様に宣伝公布に努めようとしても,インド対英国の政治的状況は変わりようが無かった」からです.
 当初,インドは未だ独立していなかった上,インド軍がビルマの辺境の地で日本軍を敗走させたのも,もう過去のものになっていました.

 ただ,インド軍は日本人との交流を通じて,BCOFと日本人との間に好印象を齎す役割を演じたと種々の記録に書かれています.
 また,両者の交流を通じて,インド人は日本人にインド兵の飾らない実直なキビキビした訓練の成果を印象づけ,日本人から勤勉や教育の普及状況,そして科学技術の進歩状況を学んだと云います.
 この印象こそが,英連邦諸国が占領目的に掲げた精神でした.
 此処には,日本人によく似たグルカ兵に代表される同じアジア人としての親密さと,独立を前にしたインド人のアジアの先進国から学ぼうという姿を読み取ることも出来ます.

 第268インド歩兵旅団司令官シュリナゲッシュ代将は,離日の際,インド軍は英連邦を立派に代表出来たと述べています.
 これは,英印旅団のインド人ではなく,占領成果を挙げた英連邦の中のインド軍の発言だと云われています.

 最後に,ニュージーランドがあります.
 この国の立場は,K.L.スチュワート准将曰く,「我が国は太平洋問題に非常に関心があり,この理由で,又戦後の英連邦の負託に応え貢献する目的」で英連邦の要望を受け容れた事を強調しています.
 太平洋圏に於ける自国の安全保障と,連邦内の協力関係の保持から,彼の国はBCOFに参加したのですが,ニュージーランドは,アジアに於ける植民地を維持を目的とする英国の立場には反対でした.

 こうした呉越同舟の状態で,英連邦軍は日本に足跡を刻むことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/02 23:05


 【質問】
 BCOFが配置される地区は,どのようにして決まったのか?

 【回答】

 さて,BCOFが配置される地区は,英国は東京,もしくは神戸地区を希望していたのですが,BCOFの展開を任されたオーストラリア軍によって,修正されます.
 初代BCOF総司令官を務めたノースコットは,後にオーストラリア全国軍人協会に於ける講演会の席上,
「我々が進駐した地区は,自分の意志で選んだものである」
と述べています.

 BCOFの占領担当地区として,マッカーサーから示されたのは,北海道,神戸・大阪,広島の3つの地区でしたが,北海道案はオーストラリア人やインド人には寒すぎるというので,直ぐに断りました.
 英国が望んでいた神戸・大阪案については,40,000名に満たない軍隊が,1,600万名を擁する地区を統治するのは不可能だとして検討の結果断り,結果として残ったのは,気候温暖で環境の優れた広島県とその周辺地区を選択したのです.
 こうして,1946年3月7日よりBCOFは広島へと歩を進めました.

 1946年4月18日より第34オーストラリア歩兵旅団司令官を務めたR.N.L.ホプキンスも,ほぼ同様の見解を述べていますが,彼は上記理由の他に,BCOFの占領地区は,
「良港を備えた自己完結型の独立地であり,しかも米国の占領地区に挟まれていない地区が望ましい」
と言う希望条件を満たしていたと述べていました.

 これに対し,インド軍公刊戦史の編者であるR.シンは,BCOFが占領地区を選定した基準を7つ挙げ,その可能性を有する4地区について具体的に検討を加えています.
 先ず,英国が望んでいた東京地区は,最重要地区で既に米軍が大挙して進駐しており,BCOFの入り込む余地がありませんでした.
 続いて,工業地帯である名古屋地区は,当時は中華民国軍が進駐する可能性があり,選定されませんでした.
 残る2地区の内,神戸・大阪地区は産業や文化が発展し重要な港や娯楽設備に恵まれ,進駐地区として最も適している様に思われましたが,
「神戸は在日米軍の『第1級の主力港湾』に指定され,他のどの港よりも遙かに多量の補給物資がこの港を経由しており,又,在朝鮮米軍の基地でもあるため,BCOFに提供される可能性は少なかった」
としています.
 また,もし米国の承諾が得られたとしても,ノースコットは米軍の施設を引き継ぐための時間的余裕やドル資金が無く,大都市で万一の事態が発生した場合の対応能力への不安から,気候が優れているだけで,都会的な文化が遅れ娯楽施設の少ない広島・呉地区を唯一の道としたと述べています.
 こうした記述から,インド軍は少なくとも,英国と同調して,インドと経済的関係の深い大阪・神戸地区を希望していたものと考えられています.

 BCOFの占領地区が広島県とその周辺地区に決定したことに対し,英国は軍政から除外された上に威信を保持するのに重要な東京や,戦前から経済的基盤を有している神戸・大阪でも無いことで不満を表明すると共に,1945年12月21日に,JCOSAに対し,
「BCOFの東京進駐に関しては1個分隊の駐屯にも触れていない」
と打電しました.

 此の点については,直ちにGHQの対応があり,1946年1月31日,関係各国政府から発表された公式声明の中の第10項に,
「BCOFを代表する1個大隊規模の警護隊を,東京都に配置する規定を策定中」
であり,
「この分遣隊はBCOFの各国派遣軍から交替に送られる」
と明記して,小規模部隊の派遣とは言え,確実な成果を得ています.

 ところで,マッカーサーとノースコットの間で話し合われ,締結された『マッカーサー・ノースコット協定』に於ては,
「今後,ノースコット総司令官が他地区を偵察して,別に必要な場所が示されれば,連合軍最高司令官によって追加地区を空軍基地用に割り当てられることがある」
と言う合意事項がありました.

 1946年3月8日,BCOFの占領地区は,
「より適当な収容施設,訓練地と飛行場を提供する為」
と言う理由で,山口県と島根県に拡大されます.
 その後,鳥取県と岡山県そして,四国四県も占領地区に組み込まれることになりました.

 3月18日,オーストラリアに於てJCOSA委員会が開催されました.
 この会議には通常の委員に加え,ノースコット総司令官,東京で英国首相代理を務めていたガードナー英国陸軍中将など5名が出席したもので,BCOFの懸案事項についてノースコット総司令官の説明を求めると共に,調整を図るために開催されたものです.
 この内,占領地区については,広島県以外の中国四県及び四国四県と大阪・神戸地区について検討されています.
 中国・四国地区全域への占領地区拡大について,ノースコット総司令官は,米国の占領軍によりこの地区の非武装化などの占領業務はかなり遂行されており,現有兵力を増加しないで占領地区の拡大が可能であること,空軍基地として岩国だけでは不十分である事,占領地区の拡大はマッカーサーの意志である事,現地区ではニュージーランド軍など,後続派遣軍の宿舎の確保が難しいこと,そしてこの件は総司令官の責任と権限に属していると強く主張し,BCOFが中国・四国地区全域の占領業務を担当することについての同意を取り付け,最終的に英連邦諸国の合意を取り付けることに成功しました.
 中国地区は,広島を除くと,山口へは3月23日,島根へは4月15日,鳥取へは5月15日,岡山へは6月10日に占領を開始し,四国地区は5月23日から一斉に占領業務を開始しています.

 一方,予てから英国が要請しJCOSAを通じて建議していた大阪・神戸地区の占領に関しては,ノース緒kっと派マッカーサーと交渉し,JCOSAに対し正式な回答を出すことが義務づけられましたが,この問題に関しては,米国の占領軍がこの地区を重要視したこともあって交渉が難航し,1946年10月15日になって漸く小規模な神戸分区を開設出来たに留まりました.

 因みに,BCOFの兵力は元々広島県だけを対象とするには過大な兵力で展開していました.
 そもそも,占領当初は米英中ソ4カ国による分割統治も考えられていた事から,将来の拡大を含みつつも取り敢えず1県のみを担当すると言う事で派遣されてきました.
 しかし,ソ連と中華民国は占領軍派遣が中止となった事,また復員や除隊が緊急事態となっていた米軍が急速に占領軍を縮小せざるを得なくなったことが,BCOFの占領業務地区への拡大に繋がっていったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/03 22:20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 BCOF進駐の実際の段取りは?

 【回答】

 さて,地区も決まっていよいよBCOFの進駐が開始されます.
 因みに,1945年12月18日に合意したマッカーサー・ノースコット協定に因ると,BCOFの進駐日程は,次の様になっていました.
 英国海軍港湾分遣隊が1946年1月28日に呉港に到着するのを皮切りに,2月1日にオーストラリア軍主力である第34旅団と,飛行場建設中隊,先遣梯団及び基地部隊,第1系列空陸梯団が進駐,2月23日にアンザック師団司令部,英印師団先遣梯団が,3月15日に英印師団の本隊,最後が3月23日のニュージーランド旅団となっています.

 しかし実際には,ニュージーランド旅団以外は予定通りの進駐を行っていません.
 その原因は,1945年12月18日の協定成立後,29日に英連邦諸国が曲がりなりにもその協定を承認したのに対し,米国の承諾が1946年1月19日と非常に遅れたため,関係各国政府の公式声明が1月31日まで出せなかったことに起因しています.
 米国は承諾に際し,今後中華民国或いはソ連の参加に関し締結される協定に依っては,英連邦軍の規模を再検討すると条件付けている様に,中華民国とソ連が日本占領に参加するかどうかと言う情報収集に時間を要していたのです.

 日本に対しては,1945年12月25日に終戦連絡呉事務局より終戦連絡中央事務局に,
「米二十四師団司令部ハ松山ヨリ岡山ニ移駐シ呉地区米第四十一師団帰還ノ後ヘハ英濠軍ノ進駐略々確実」
と報告されている様に,少なくとも合意文書締結の1週間後には察知していたものと思われます.
 そして,それから1ヶ月後の1946年1月23日にはかなり具体的な報告が為されますが,進駐地区を広島,島根としたり,司令部を広島市又は江田島と想定するなど,その後の動きとはかなり異なる結果となっています.

 1946年1月31日,横浜から呉港に巡洋艦ホバートと駆逐艦アーチン,2月1日にはBCOF海軍部隊が香港などから入港しました.
 早速,BCOF先遣隊として,J.M.マックゴアン大佐と呉地方復員局員の会談が行われ,席上,先遣隊は日本側に対し,水道・電力の復旧と治安維持への協力を要請すると共に,下記の様な進駐計画を提示します.

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・オーストラリア軍進駐計画兵力
呉に約9,000名,
広に約9,000名,
海田市に約5,000名,
尾道福山地区に3,000名,
岩国地区に8,000名,
江田島に5,000名.
 合計39,000名にして,大部分はオーストラリア軍にして最高指揮官もオーストラリア軍とする.
 この他,英国軍,ニュージーランド軍,インド軍にして主力は4月15日頃に呉に上陸予定.
 この内,江田島については,旧海軍兵学校本校のみを占領し,大原分校は広島文理科大学が使用予定のため,占領はしない.
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 岩国地区は,戦災などにより8,000名の収容が不可能であり,一部防府の仕様を仄めかしています.
 進駐時期は約1週間後との見解を示しましたが,米占領軍はBCOFの進駐を2月10日頃と想定し,BCOFの進駐後は,広地区の第24師団,呉地区の軍政関係を除いて,直ちに全員撤収する準備を調えています.

 最初の陸軍部隊は2月13日に到着しますが,2月14日,呉地方復員局の係官はマックゴアン大佐と会見し,次の様な情報を知らされています.
 此に於て,まともな情報が漸く日本側に入ってきた訳です.

1.  BCOF総司令官はJ.ノースコット中将で,2月末頃,東京を経由して呉に着任の予定
2. 海軍司令部は米第10軍司令部の跡を整備し使用する予定であるが,旧呉海軍下士官兵集会所も随時利用する.
3. 2月13日,約1,200名のオーストラリア軍が到着,14日から上陸を開始し,各地に分駐する.
  主力は4月中旬に到着予定だったが,3月20日頃までに全員進駐する予定.
4. BCOFの兵力及び編成
 (a) 基地部隊指揮官はウィルソン大佐
 (b) 陸軍 英印軍1個師団,オーストラリア軍1個旅団,ニュージーランド軍1個旅団
 (c) 空軍 英国,オーストラリア,ニュージーランド,インドの混成部隊
        空港は岩国の使用が困難なため,目下防府飛行場を調査中で,駐屯地は未定.
 (d) 海軍部隊は,当面グリンデル大佐が指揮官を代行する.

 BCOFを形成する1軍として最初に呉港に上陸した第34オーストラリア歩兵旅団の編成は,1945年10月に開始されました.
 この内,第65歩兵大隊への現地志願兵の募集は,大戦中は中東作戦に従事し,その後蘭印ボルネオのバリクパパンに駐屯していた第7歩兵旅団を対象に10月12日から開始され,次いで10月16日から,大戦中はアフリカ戦線でトブルク,エル・アラメインと戦い,以後太平洋に転じてラエ,フィンシュハーフェン,タラカン,ラブアンを転戦して,主にボルネオのラブアンに駐屯していた第9歩兵師団から第66歩兵大隊への志願兵が集められました.
 最後に,10月20日から第67歩兵大隊が,ニューギニア,ブーゲンビル島,ソロモン諸島,ニューブリテン島に駐屯していた第3,第6,第11の各歩兵師団から編成されました.

 この時,オーストラリア軍は同軍特有の問題に直面しました.
 元々,オーストラリア軍は,伝統的には小規模常備軍(PMF)とこれを支援する大量の志願予備軍(CMF)よりなり,両軍の軍人には海外勤務を強制出来ないことになっていて,戦時には海外遠征が可能な帝国軍(AIF)を募集することになっていました.
 当時,CMFの軍人を海外勤務が可能なAIFに異動させることは禁止されており,日本占領軍の編成に当たっては,戦地勤務の軍歴を有するものでも,更に海外勤務の志願を条件とするという制約がありました.

 1945年10月に募集が始められた日本占領英連邦軍に参加するオーストラリア派遣軍は11月末の移動に備えて,一端モロタイ島に集結を急ぎますが,米国との交渉が長引き,日本進駐が遅延したため,兵士達の間に不満が拡がり,2,000名以上が志願を取り消して帰国してしまいました.
 この補充の志願兵不足に加え,派遣軍の規模が拡大したことで,4,300名の欠員を生じる事になります.
 この不足分は現役兵の志願者1,300名と,新たな募兵によって賄われる事になり,モロタイ島で彼等の訓練が行われていきました.

 1946年2月7日,輸送船スタンフォード・ビクトリーが,オーストラリア人将兵を乗せてモロタイ島を出港し,5日と14時間という速い航海で,同船と貨物船2隻は,第34歩兵旅団と基地部隊の先発隊約1,000名,車輌20台,資材500トンと共に2月13日に呉港に到着します.

 オーストラリア部隊第1陣の到着を待って,英国海兵隊の軍楽隊によりオーストラリア人の愛唱歌「ウォルチング・マチルダ」が演奏されるなど簡単なセレモニーが実施され,日本人港湾労務者を使役して,直ちに荷下ろし作業が開始されました.
 2月14日に上陸した基地部隊の先発隊は,本隊のための設営を開始しましたが,米軍の時と違い,特別警戒は行われていません.

 第34歩兵旅団先発隊の将兵は,2月16日,呉駅まで行進し,そこから進駐軍列車で海田市まで行き,米軍も利用した旧陸軍需品倉庫を利用した臨時兵舎に落ち着きます.
 その日は雪が降りました.
 殆どのオーストラリア兵にとって,雪は始めてみるものでしたし,暑いモロタイから来た兵士達にとって,気候の激変は士気を下げる結果になったと言います.

 このあとも,タオス・ビクトリー,パーチング・ビクトリー等の輸送船が陸続と到着し,広島県の占領を担当する第34歩兵旅団や基地部隊要員を乗せて呉に入港,3月7日を以て,広島県の占領業務は,米軍からBCOFに引き継がれることになります.

 4月1日時点の第34歩兵旅団の内,第65歩兵大隊は福山に全部隊が集結,第67歩兵大隊A中隊は大竹,B中隊は広島に駐屯中であり,海田市には旅団司令部と第66歩兵大隊が残されていました.
 その後,呉市広町に駐屯していた第5英国歩兵旅団が四国と岡山に移動したことにより,広島県の占領業務は呉基地地区と江田島を除いて,6月25日から第34歩兵旅団が担当することになります.
 7月11日には,第34歩兵旅団司令部,第66歩兵大隊(一部分遣隊を除く),第28オーストラリア野戦中隊,第34オーストラリア歩兵旅団通信分隊,第252オーストラリア補給処小隊分遣隊,第20オーストラリア野戦救急部隊分遣隊,第343オーストラリア軽修理分遣隊,第34オーストラリア歩兵旅団金銭出納室,第34オーストラリア歩兵旅団憲兵中隊(一部分遣隊を除く),第34オーストラリア歩兵旅団郵便分遣隊が海田市から呉市広町に移駐しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/04 23:28
青文字:加筆改修部分

 さて,前回はオーストラリアだったので,今回はニュージーランド.
 ニュージーランドは,広島県では無く,山口県へ1946年3月23日より進駐を開始しました.
 第2ニュージーランド海外遠征軍(通称,JAY FORCE)は,1945年10月8日から,イタリア戦線を戦った第9ニュージーランド歩兵旅団を中心に兵員を募りました.
 しかし,JAY FORCEの司令官に任命されたフレイバーグ将軍は,名誉ある英雄として愛する人の待つニュージーランドへの凱旋を6ヶ月間遅らせても良いと希望する軍人が5,000名もいるとは考え難いと主張し,それが政府に認められた結果,兵力は4,000名に縮小されました.

 1945年10月から日本に出航する1946年2月まで,JAY FORCEはイタリアのフィレンツェに待機し,日本に於ける任務に備えて訓練を続けますが,その合間に部隊間で,ラグビー,サッカー,ホッケー,卓球などのスポーツが盛んに行われています.
 これは,待機期間が長引いた事により士気が低下する事を懸念しての苦肉の策だったようです.
 この時期,ニュージーランド政府は,BCOF形成を巡る英連邦を代表する米豪交渉が長引いて,同軍の日本への進駐が遅れた事に不満を持ち,派遣軍の撤退を考えていました.
 この為,JCOSA委員のR.グレアム空軍少将を伴ったノースコット総司令官は,1月初旬にニュージーランドに赴き,政府を説得して事なきを得たと言います.

 因みに,JAY FORCEの司令官は,1945年11月15日付でフレイバーグ将軍からK.L.スチュワート准将に交替しました.

 こうした経緯を経て,1946年1月,日本占領への準備が本格化しました.
 1月22日,JAY FORCEの先発隊がフィレンツェを出発,1月26日にナポリから輸送船ジョージックに乗船し,インドのボンベイで別の輸送船シェシールに乗り換え,2月28日,英印師団基地部隊と共に呉港に到着しました.
 一方,2月初旬にフィレンツェからナポリに移動した主力部隊は,2月21日,ナポリで輸送船ストラスモアに乗船しましたが,船内で麻疹が流行って,途中のシンガポールで119名の将兵を下船させたりしながら,3月19日に呉港に辿り着きました.

 JAY FORCEの上陸作業は3月20日より開始され,翌日,遠征軍の一部が呉港のFバースで隊形を組み,完全な戦時隊形を整えて呉駅に向けて行進しました.
 そこで専用列車に分乗し,旅団司令部と通信中隊は下関市長府に,第27ニュージーランド歩兵大隊と第19ニュージーランド陸軍輜重兵中隊は山口市に移動します.

 3月22日,第22ニュージーランド歩兵大隊が長府へ,第25ニュージーランド野戦砲中隊,第7ニュージーランド野戦病院,第5ニュージーランド野戦衛生分隊,第102性病診療分院,ニュージーランド教育・レクリエーション隊が山口市に進駐しました.
 この他,第4ニュージーランド港湾分遣隊は呉に留まり,イタリアから到着した貨物の積み卸しに当たります.

 3月23日には,第2ニュージーランド師団機甲連隊,第6ニュージーランド総合病院部隊と第4ニュージーランド療養所隊が江田島町に渡りました.
 第5ニュージーランド工兵中隊は山口市に移動,第16ニュージーランド工作所隊と基地兵器補給部は,呉駐屯のオーストラリア兵器補給部に合流しました.
 なお,ニュージーランド郵便部隊は,呉に郵便部を設立し,支所を長府,山口,江田島に設置しました.
 また,同日,英国海軍の空母グローリーが,ニュージーランド第14飛行中隊と第16ニュージーランド眼科部隊を乗せて到着し,此処に,第2ニュージーランド海外遠征軍が勢揃いしました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/05 22:43

 さて,BCOFを形成するもう1つの核が,英国とインドの混成軍である英印師団です.
 この編成は,早くも1945年8月末にインド軍総司令部に於て検討が開始され,日本占領英連邦軍として1個英国歩兵旅団,1個インド歩兵旅団と師団分遣隊からなる1個師団の派遣を決定し,英印師団司令官には,第17インド師団を指揮して功績のあったD.T.コーワン少将を選任しました.

 そして,英印師団の1個英国歩兵旅団は第5英国歩兵旅団として,ビルマ戦線で活躍した第2歩兵師団のドーセット連隊第2大隊,クイーンズ・オウン・カメロン高地連隊第1大隊を基幹に,同じくビルマ戦線に参加した第36歩兵師団のロイヤル・ウェールズ・フェージリア連隊などから構成されました.
 もう1つの1個インド歩兵旅団は,第268歩兵旅団として,ビルマ戦線で活躍した第1パンジャブ連隊第5大隊,イタリア戦線に参加したマハラッタ軽歩兵連隊第1大隊,ビルマ戦線に参加した第5ロイヤル・グルカ・ライフル連隊第2大隊によって編成されました.
 更に両旅団に加えて,第7インド軽機甲中隊,第30英国野戦砲中隊,第16インド野戦砲中隊や工兵隊が参加する事になりました.

 1945年9月10日,英印師団司令部要員はデリーに集結,2週間後には部隊指揮のためにナシクに近いマーシャルキャンプに移動し,日本占領のための訓練が開始されました.

 しかし,ワシントンとロンドン,それに東京での交渉が進まず,日本への出発の時期が明らかに出来なかったりします.
 この為,オーストラリアやニュージーランドと同じく,将兵の士気の低下が心配され,ノースコット総司令官は1946年1月18日,JCOSAのインド軍最高司令官代理であるW.J.コーソーン少将を伴ってインドを訪問し,第268インド歩兵旅団を査閲した後,主な将校と会談し,
「我々の日本での仕事は,平和を勝ち取るためであり,此の事は,戦いに勝つために我々が果たした役割と同様に重要なのだ」
と演説して,占領軍務の重要性を強調すると共に,
「我々が日本に遠征するのは,独立した部隊としてでは無く,完全に集成統合された英連邦軍の編成としてである」
と統一軍意識を強調しています.
 なお,こうした方針に基づき,ノースコット総司令官は,4月にインド人の考え方や習慣を知るため,J.G.シン大尉を副官に任命しました.

 漸く準備の整った1946年2月6日,英印師団先発隊17名が空路インドを出発し,2月16日に呉に到着しました.
 続いて主力部隊の展開を支援するために必要な基地部隊1,600名が2月8日にインドを出航し,約20日の航海の後,2月28日に呉に到着しています.

 主力部隊は二手に分かれて進駐してきました.
 第5英国歩兵旅団を含め師団司令部や師団部隊を搭載した3隻の輸送船からなる第1梯団は,3月17日にナシクに近いボンベイを出港,4月5日に呉港に到着しました.
 また,第268インド歩兵旅団と師団部隊を搭載した輸送船1隻と,第268インド歩兵旅団本体を搭載した輸送船1隻がぞれぞれ第2梯団として4月29日にボンベイを出港し,5月19日に呉に到着しています.

 これら英印師団の到着当時,既に英国の占領地区は中国・四国全域に拡大する事が決定していましたが,実際の配備の段階になって米軍第24師団との交替の時期など調整をする必要があり,英印師団へ割り当てられた占領区域は,最初呉市広町と島根県でした.
 広町には師団司令部,師団部隊,第5歩兵旅団司令部と本隊の大部分,また管理部門を担う基地部隊が呉に駐屯しています.
 島根県には4月初旬に,ドーセット連隊が進駐し,4月15日に米軍から占領業務を引き継ぎました.

 第268インド歩兵旅団は,呉に到着すると腰を落ち着ける間もなく,任地の島根県と鳥取県に進駐しました.
 5月20日,第268インド歩兵旅団司令部が島根県松江市に開設され,浜田市にはマハラッタ軽歩兵連隊,鳥取市には第1パンジャブ連隊が配備されました.
 なお,第5グルカ・ライフル連隊は同じ第268インド歩兵旅団に属しながらも,英印師団予備隊として岡山に移動しています.
 なお,鳥取の占領業務の引継は,師団司令部開設前の5月15日になっています.

 第268インド歩兵旅団の到着を待っていたかの様に,第5英国歩兵旅団の再移動が実施されました.
 これは,専用列車で呉市広町から岡山県宇野に行き,そこから船で高松に渡り,更に四国全県に展開するという方法が採られました.
 第5英国歩兵旅団司令部は,香川県善通寺市に開設され,クイーンズ・オウン・カメロン高地連隊は松山市,分遣隊が高知市に,ウェールズ・フュージリア連隊は徳島市にそれぞれ移駐しています.
 また,当初島根県を担当したドーセット連隊は,5月15日に松江を離れ,3日掛けて列車とフェリーを乗り継いで高知県後免町に展開しました.

 英印師団を統括する英印師団司令部は,岡山県岡山市に開設しました.
 岡山市にはこの他,第5グルカ・ライフル連隊や師団部隊が,同じ岡山県の倉敷市には第7インド機甲中隊が展開しました.
 こうして見ると,岡山県の場合は,師団司令部は英国が主導権を持ち,実戦部隊はインド軍によって担われるという,正に英国とインドの混成部隊だったのですが,インド側としては必ずしも英印師団として英国人と共に行動する事を必ずしも望まず,在日英印師団は時を移さず解体され,第268旅団群が独立したインド旅団となり,S.M.シュリナゲッシュ准将の指揮するところとなった様で,実質的には英国軍とインド軍は独立していたようです.

 因みに,岡山での米軍第24師団とBCOFの引継については,準備のために早めに岡山にBCOFが進駐した事もあり,1946年4月に引き継いだとも言われていましたが,実際には6月10日以降となっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/06 22:43


 【質問】
 BCOF海軍・空軍部隊の,日本進駐の実際の段取りは?

 【回答】

 日本進駐英連邦軍の形成に際して,英国太平洋艦隊当局は,前以て港湾部隊1個部隊を上陸港に派遣することとし,1945年10月31日にこの旨を東インド艦隊司令長官に伝えます.
 当時,東南アジア司令部管轄区域に於ける上陸作戦を実施するために,訓練を積んだ兵員,補給品,装備がインド及びセイロンに集結していたためでした.
 こうして,セイロンに於てBCOF海軍部隊として,J.A.グリンデル英国海軍大佐の指揮する第2504海軍部隊,通称“C(Charlie)”戦隊が誕生しました.

 12月18日に成立したマッカーサー・ノースコット協定により,呉港の管理は,日本の港湾業務に当たっている米国海軍指揮官の下で,英国海軍港湾分遣隊によって実施される事になります.
 かくして,BCOFの港湾分遣隊は1946年1月初旬にコロンボを出港し,マドラスとボンベイの両港で需品の船積みが実施されました.
 1月3日にLST3505号,1月6日に民間の物資輸送船ヒッコリー・クレストが先ずコロンボを出港し,1月9日にはグレニアンが第2504海軍部隊を乗せてコロンボを出港,シンガポールを経由して1月19日に香港に到着しました.
 此処で1週間滞在して,オーストラリアから舟艇や自動車を積載してきた民間の輸送船エンパイヤ・チャーミアン等を加え,C戦隊が編成されます.

 このC戦隊は,英国の軍艦グレニアンを旗艦とし,護衛艦としてインド海軍の軍艦コーベリーが付き,英国海軍の修理工作艦ムル・オブ・キンタイア,油槽艦エンパイヤ・サルベージ及びタンクレッド,給水艦ゴールデン・メドウ,重量貨物船エンパイヤ・チャーミアン,補給品輸送船ヒッコリー・クレスト,そして戦車揚陸艦LST3505,この他,第10機雷掃海小艦隊が付属していました.

 1月27日,C戦隊の基幹部隊が出港し,2月1日にBCOFの最初の部隊として呉港に到着しました.
 そして,その前日に入港していたオーストラリア海軍戦隊司令の座乗する旗艦ホバートの歓迎を受けています.

 直ちに米国側の港湾部長との会談が為され,2月18日より呉港の管理は英国海軍に移管される計画が立てられました.
 2月13日にはBCOFの先遣隊を乗せたスタンフォード・ビクトリーが到着し,25日までに米海軍は撤退しました.
 港湾施設が戦災により破壊されていたため,グレニアンが呉港の専用バースに繋留されたまま宿舎として利用されていましたが,6月3日,第2504海軍部隊は,グレニアンからコモンウェルスと改名された陸上施設に移動しました.
 なお,この日は梅雨の真っ最中で,余分な骨折りと言われたのですが,兵舎そのものは快適だったと言います.

 ところで,マッカーサー・ノースコット協定では,英連邦軍は必要と認められた時には当初の占領地区である広島県以外に空軍基地を建設できることになっていました.
 こうした事もありノースコット中将は,占領地となる広島を視察,進駐に必要な調査を実施する一環として,米国第10軍団から観測機を借用してBCOFの空軍基地候補地を物色しました.
 その結果,山口県の岩国基地が有力候補となったのですが,岩国は破壊が激しく,BCOFの空軍部隊総てを収容するには無理がある事が判明しました.
 これを補うため,山口県内の防府飛行場が追加され,更に1946年3月にはBCOFの占領区域拡大に伴い,鳥取県西伯郡大篠津村にあった元海軍航空基地,美保飛行場が追加されました.

 BCOF空軍の主力を形成したのはオーストラリア空軍第81飛行連隊です.
 この部隊に日本進駐のニュースが伝えられたのは1945年9月1日でした.
 1946年2月10〜11日に掛けて,司令部要員,第5オーストラリア空軍飛行場建設中隊など地上軍と物資を,グレンジャイル,リバー・ムラムビジーに搭載して,北ボルネオのラブアンを出発,2月21〜22日に呉港に到着し,その後岩国に移動して,岩国と防府の滑走路整備に全力を傾注しました.
 3月1日には英連邦飛行連隊司令部第1陣が呉に上陸し,この日から司令部が開設されました.
 一方,第81飛行連隊の主力を形成する第76,第77,第82飛行中隊の83機のムスタング戦闘機は,3月上旬にラブアンを出発し,空路79機が3月10日に岩国,3月11日に防府に進出しています.

 オーストラリア空軍機以外の英連邦軍機は,航空母艦で岩国に到着しました.
 この内,英国空軍に属していた第11と第17,それにインド空軍の第4飛行中隊はスピットファイアを装備して,定数兵力全機がクアラルンプールより航空母艦ヴェンジャンスに搭載されて,4月28日に岩国に到着しています.
 このインド空軍と英国空軍の一部乗員は,別々の船で既に岩国に辿り着いていました.
 なお,英国とインド空軍は,3月30日の先発隊に続き,5月20日に本隊も美保基地に移駐し,此処に駐屯していた米国陸軍航空隊は,5月31日に熊本県に移駐しました.
 また,ニュージーランド空軍第14飛行中隊の乗員とコルセア戦闘機は,オークランドから英国空母グローリーで3月23日に呉に到着していました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/07 23:41
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 BCOFの兵站は?

 【回答】

 英連邦軍が日本占領軍になる事が決定し,呉がその根拠地となる事が分かったのですが,12月末,米海軍情報によると,その呉は空襲で破壊されていることが判明しました.
 1946年1月16日に,BCOF司令部の兵站担当陸軍大佐がメルボルンから東京に向かい,現地調査を実施,空襲を受けたにも関わらず,3箇所のバースが使用可能である事を確認しました.

 2月から5月にかけては,英連邦軍の受入を行った頃です.
 これは港湾施設の破壊,悪天候,日本人労働者の未熟練,道路の不備により困難を極めました.
 こうした中で2月13日から3月11日まで,第42オーストラリア港湾作業中隊は,日本人沖仲士と労働者を上手く使用して,1日平均2,091トン,合計50,175トンの荷揚げ作業を実施しました.
 その後,3月12日以降は第241インド船渠作業中隊が加わり,3月31日までに61,496トンと作業効率が向上,4月には前者148名,後者461名の両中隊の協力により,1日平均3,777トン,扱い高113,235トンを記録,合計で1日平均3,041トン,合計225,032トンの荷揚げを実施しています.
 5月以降は,部隊到着が一段落したこともあり,1日平均1,627トンで推移しています.

 この時点では,陸軍上陸用舟艇(ALC)が2隻と4隻のワークボートが活動していたに過ぎなかったのですが,既に展開していた海軍から艀や曳船の協力を得られたこと,日本船を54隻調達したこと,米第8軍が保有していたLCVPを12隻,日本人乗組員と共に借用することが出来た為に何とか達成出来ました.

 呉から各進駐地区への兵員と物資の移動は,主に鉄道によって行われました.
 この鉄道移動はBCOF移動管理グループが担っていましたが,2月中に到着したのは全体の3分の1に当たる60名のオーストラリア部隊だけで,残りは英印軍第1梯団と共に到着しました.
 鉄道は主に呉港に到着した部隊や物資の移動と輸送に利用されましたが,数的にも充分で,車輌も首都圏と異なり良好な状態でした.
 なお,BCOFには上級将校旅行用客車5両,将校専用売店列車2両,独立救急客車4両,雑貨売店・冷蔵車2両の改造が認められていました.

 1946年6月以降はそれまでに大部分の部隊が到着していたので,呉港で取り扱う輸送量は大幅に減少し,2つの港湾作業部隊は,港湾地域を清掃したり,道路や波止場を修理する余裕が出来る様に成りましたが,9月4日には結局インド軍が帰国しました.

 鉄道については,この時期,占領地区が中国・四国地区全体に拡大したため,新たな地区への兵員や物資輸送が開始された事から,BCOF移動管理グループは総ての地方拠点に分遣隊を設置しました.
 また,パトロール,敵国兵器の捜索と廃棄,建築材料輸送,情報交換,連絡船運航,娯楽用として多くの船舶が必要となり,7月の終わりまでに陸軍上陸用舟艇12隻とワークボート14隻が追加されたものの,呉地区の需要を満たすことが出来ず,多数の日本船舶を調達したり,修理したりして用いています.

 この時期は1日平均1,122トンであり,比較的落ち着いているのですが,各拠点間の兵員や物資の輸送が盛んであった事,更に別府や九州のホテルで休暇を過ごす将兵を退屈でいつ着くか判らない列車の旅から解放するため,呉〜別府間フェリーを運航したりしています.
 なお,12月21日には南海地震が発生して港湾設備も大きな被害を受け,修理が急がれたりしています.

 一方鉄道は,この時期に客車と貨車合計67両,乗客走行距離約1億8,357万4,336名/km,貨物走行距離約963万832トン/kmを記録しています.
 この内,別府以外の地で休暇を過ごす将兵達は,食堂車付きのBCOF休暇急行列車で往復移動するようになり,BCOFの利用に供するため,鉄道工作隊が改造した11両の客車を含む31両の二等客車,二等客車と荷物車の合造車を改造で9両,貨物列車7両が新たに割り当てられました.
 また,指揮官専用列車1両,食堂車4両,士官売店列車2両,雑貨売店・冷蔵車2両で編成された特別列車も運行されています.

 航空機による輸送は,ほぼ一定していました.
 例えば,1946年9月1ヶ月の間,オーストラリアからダコタ機が週3回,ニュージーランドからダコタ機が週1回,香港からサンダーランド飛行艇が週2回運航されていました.
 これらは主に郵便輸送に用いられているのですが,急を要する兵員や物資の輸送にも用いられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/11 23:35
青文字:加筆改修部分

 さて,BCOFの補給はオーストラリアが全体的に責任を持ち,物資はオーストラリアやニュージーランドから輸送する事になっていました.
 とは言え,体制が整うまで3段階に分けてこの仕組みを整えることになっていました.

 先ず第1段階は1946年8月1日までで,この段階では各国派遣軍自体が日本に携行する補給品と軍需品によって兵站支援を行う事になっていました.
 次いで第2段階として,1946年の年末まで,この間,オーストラリアが他の国の派遣軍に対する追加兵站補給義務を負います.
 最後が1947年1月1日以降で,軍需品以外はオーストラリア(一部ニュージーランド)から全物資が輸送されることになっていました.

 これら物資の輸送回数は,英国とインドからは特別積荷以外は3ヶ月毎,ニュージーランドからは直接輸送が3ヶ月毎,オーストラリア経由では月1回となっており,オーストラリアからは週約3回と定められていました.
 また,日本で維持が必要な補給品の要求量水準は,オーストラリアからの積出品目は最小60日分,最大90日分,その他総ての供給源からの品目は最小60日分,最大150日分となっていました.

 前述のように,初期段階では各国派遣軍の責任で補給されることになっていましたが,生鮮食品については1946年5月7日から全軍に対してオーストラリアから補給することになっており,オーストラリアはニュージーランド海外遠征軍に対して,弾薬,石油製品類,工兵資材の提供などの補給をする事になっていました.

 しかし,この時期の兵站支援は不十分な面が多く見られました.
 それは,主として各国軍に初期段階兵站支援についての分担決定内容の通知が遅れ,準備不足の儘日本に向かったためです.
 不足物資については,特に生鮮食品が深刻でした.

 この為,1946年年末には,広島と東京近郊にBCOF自身が下肥を使用しない菜園を開くための調査が開始され,前者には1947年6月15日に直営農園が出来,約12,950平方メートルの内の約7,770平方メートルにトマト,約5,180平方メートルの敷地にレタス,大根,西瓜,真桑瓜,胡瓜が植え付けられています.
 夏以降,これらの野菜が収穫出来るようになり,従来の冷凍野菜に加え,サラダ用に各部隊に週の半分供給されると共に,衛生問題も含め質的問題も大きく解決に向かいました.

 一方,軍需品では軍用車両と衣服の不足,不備が目立ちました.
 英印師団では比較的新車が多かったものの,オーストラリアとニュージーランド両軍の車輌は中古品が多く,しかも日本の酷い道路事情に適した車輌が少なかったことにより,電気・機械工兵部隊は兵站部隊用に徴用した日本船舶の修理に追われると共に,車輌の修理にも追われることになります.
 衣服は,オーストラリアとニュージーランド軍は船の到着が遅れて特に厳しい状況に追い込まれました.

 酒保は当初,各国軍が携行した物資を使用して,自国職員によって運営しましたが,それぞれの軍によって物資の量と種類,同じものでも価格が相違するという問題が生じました.
 これは,1946年6月以降,酒保の運営がBCOFに一元化されたことで問題が解消しましたが,インド軍将兵に特有の物資については,他の場所での調達が困難なものも多く,7月4日に輸送船が入港するまで入手出来ませんでした.

 収容施設についても,前述のように,BCOFの占領地域には大都市が少なく,それらの大都市は殆ど戦災を受けて破壊されており,軍事使節の設定には大きな困難を伴いました.
 特に最初の部隊が進駐した海田市と,基地部隊が置かれた呉の状況は深刻でした.

 この様に,兵舎や兵站支援の多くの部門,そして休暇用ホテルなどのアメニティ施設が不備なことに対して,米国と余りにも違いすぎることに多くの兵士が不満を持ち,怨嗟の声が上がり始めました.
 特に,イタリアから少ない物資を携帯して到着したニュージーランド軍兵士の不満は大きなものがありました.
 彼等の手紙には,「衣類は配給不足,生野菜は滅多に出ない,米軍から割り当てられた建物は悪い.缶詰肉や乾燥野菜など兵隊がぞっとするものが毎日の献立なんだ」と言った窮状が訴えられており,日本での軍務を終えて帰国した兵士達も口々に,「缶詰食糧など二度と見たくない」と不満を漏らしました.

 1946年9月19日,"New Zealand Truth"紙に,次のような手紙が掲載され,政治問題化しました.

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 占領軍の兵士として我々は,行動も外見も模範となるようにと期待されているが,我々の貰う軍服では,実際にはこれは出来ない相談だ.
 この地区では優に60%の兵隊は例の編み上げの紐靴を履いて歩き回っているのに補給所は新しい靴の支給が出来ない.
 夏の軍服は何とも酷い.
 この部隊には,ズボンは全部で6名分だけ!
 これが第一装用の例なのだ.
 シャツがくたくた,カラーがすり切れているの普通のことで,背中の抜けた型が最も流行していることになる.
 これら全部が,米兵や英兵やオーストラリア兵の服装と比べると何とも奇妙に際立っているのだ.
 我が空軍と比べてもこのギャップは大きい.
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 こうした問題を解決するため,ロバートソン総司令官が自ら休暇ホテルの確保に尽力しました.
 12月にはオーストラリアのチャンバーズ陸軍大臣が来日し,詳細な調査をして帰国し,多くの提言をしています.

 兵站支援との関係については,7月1日からインド軍を除くBCOF将兵へ補給される物資について,オーストラリア軍が西太平洋で採用していた基準を適用して,同日から彼等の兵站支援を引き受けた例が挙げられます.
 此の点はこれ以降,兵士達の不満が減少していることからかなりの効果があったようです.

 兵站物資の不足は,管理不備から生じる事も有りました.
 7月1日以降も,英軍からオーストラリア軍へ,オーストラリア軍は英軍に食糧を充分に供給していないと苦情を寄せましたが,調査の結果,英軍の手に渡ってから闇市に横流しされていたことが判明しました.
 食糧品の不足については,BCOFの将兵が日本人に余分に食事を与えるのも一因とされています.
 酒保の物品の横流しについては,MPの動員を中心に次第に強化されていきますが,こちらは顕著な効果を上げるまでには至っていません.

 食糧品以外の兵站支援物資や軍事使節は,日本に於ける調達によって補充されました.
 当初,連合軍は日本の生産力が壊滅的打撃を被ったこともあって,極力,兵站物資を持ち込んで進駐したのですが,軍事施設の建設,修理,家具の購入,電気,水道については調達によって賄われ,それが円滑に進むことで特に軍事施設の改善が為されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/12 23:16

 さて,補給の話の続き.

 初めて呉にBCOFの補給物資が到着したのは,補給先発隊を搭載して1946年2月13日に入港した「スタンフォード・ビクトリー」に依るもので,以後9月30日に至るまで,モロタイやオーストラリア,英国,インド,イタリア,New Zealandから将兵や補給物資を搭載した88隻の船が呉に向けて航行し,この内30隻が最初の6週間の内に到着し,荷揚げを完了しています.
 こうして,補給先発隊が受領した補給物資の総量は45,000重量噸に達しました.
 この間,一度に5隻の船が入港して補給物資の受け取りに右往左往したり,盗難に遭ったりもしました.

 BCOFの補給と輸送は,統合軍であると言う事で種々な困難を伴いました.
 即ち,各国軍毎に別々の糧食基準があり,部隊毎に補給物資に関する会計や注文方法が異なり,各国から要員を集めた結果,軍内部に於ける会計システムに相違があったこと等です.
 これに加えて,生産力が壊滅的打撃を受けた日本からは,食糧品を購入出来ないと言う点も加わりました.

 ところで,初期の部隊は先述の様に,平均90日分の物資を携行して日本に進駐することになっていました.
 これらの物資は呉基地にて集荷され,岡山,長府,高知,東京など13の補給所に鉄道によって輸送されました.
 9月30日までに,英連邦陸軍輜重隊によって,呉から13,237トンに相当する貨車1,667両と冷蔵車225両からなる貨物列車488本分の物資が各地に輸送されています.

 当時の食糧補給状況は,1946年5月現在で保有量は53日分であり,配給は充分でした.
 個々の物品では,パンは毎日,生肉は週6回,卵とバターが週3回補給されていましたが,5月18日以降,馬鈴薯と玉葱は支給されず,生鮮野菜を搭載した貨物船は5月23日まで到着しないと言う苦境に陥りました.
 その後,菜園を開くなど様々な努力が為され,12月には肉とバターは週6日,馬鈴薯,玉葱,キャベツなどの野菜が週5日,果物は週4日,卵が週3日と言う形で,野菜を中心とする生鮮食品の供給はかなり改善されたとされました.

 しかし,同じ時期に日本を訪問したC.チャンバーズ陸相は,新鮮野菜の少ない事の不満を至る所で聴かされる羽目になります.
 不審に思った陸相が直接数日のメニューを調査した所,野菜や肉は当たり前に提供されていたことが判明したのですが,兵士の不満はその中身,つまり,「現在配給されている野菜は乾燥したものであり生では無い」という点にありました.

 その原因は,それらの野菜の多くが赤道を越えたオーストラリアで集荷され,長時間掛けて呉に輸送され,しかも呉で一定期間保管した上で,各軍に配分しなければならないと言う事でした.
 こうした点を克服するため,呉に22万立方フィートの冷蔵施設が完成したものの,新鮮野菜への渇望を満たすことが出来ませんでした.

 生肉としては,牛肉,マトン,豚肉,兎肉,ソーセージなどが輸送されてきました.
 これとは別に1946年7月16日には,輸送船「リバー・ミッタ」により,生きた羊がオーストラリアから到着し,インド人を大いに喜ばせました.
 これらの羊は,インドの宗教儀式に則って屠殺され,食卓に上りましたが,以後,定期的に生きた羊が輸送されて来ています.
 但し,10月15日以降は,オーストラリアでも宗教儀式に則った屠殺が可能となり,生きた羊を輸送するだけのスペースが不要となった為,それだけ余分に生鮮食料品の輸送が可能になりました.

 食糧品補給のための施設としては,先述の冷蔵庫の他に,倉庫,製パン工場,屠殺場,ソーセージ工場等が挙げられます.
 この内,製パン工場については,1946年2月14日に第47オーストラリア野戦製パン小隊が呉に到着し,呉基地内で2月19日から製造を開始しました.
 次いで英印師団,第2ニュージーランド海外遠征軍に於ても,それぞれパン製造を開始しました.
 なお,1947年10月1日からはソーセージの生産も開始されました.

 BCOFの調理水準は当初非常に低いものでした.
 1946年2月と3月は配給率が低く,1日3回の食事を供するのも困難でしたが,その後は量的な面は次第に解決されていきます.
 しかし,石炭や木を燃料とするコンロしか無いなどの施設不備,責任者が部下を充分に管理していないことに因る横流しの横行,多数の日本人に許可無く食事を提供している事,コックの訓練が不十分であること等のため,問題は中々改善されませんでした.
 此の点を改善するため,石油焜炉を米軍より借用したり,料理教室を開催するなどの努力が進められ,質的向上も図られていきます.

 食糧品の他,輸送業務に関連して,石油,潤滑油,ガスや車両の管理等も輸送部隊の管轄でした.
 燃料補給関係では,吉浦町乙廻の旧海軍燃料置き場の地下5万トンタンクが吉浦前進燃料補給所として利用されています.

 輸送隊は,1946年2月13日にオーストラリア陸軍第122輸送隊が到着し,彼等は2時間半後に米軍から借用した車輌を用いて荷揚げ作業を開始しています.
 その後,2月23日に第120,第121,3月6日には第119輸送隊が到着しています.

 これら4つの輸送隊は工作所やオーストラリア陸軍第168一般輸送中隊と共に,呉基地内で昼夜分かたず作業を行い,9月30日までに,242,682トンの物資と455,465名の将兵を輸送し,6,126本のタイヤを修理しています.

 また,4月初旬にはオーストラリア陸軍第169一般輸送中隊が呉に到着し,海田市に進駐しました.
 彼等は中古車輌を兵器補給部から引き受け,走行可能な状態に修繕し,5月末までに36両を完成させ,9月末にはこうした再生車輌を75両保有するまでに至りました.
 同じ時期,この部隊は49,014トンの物資と,100,380名の将兵を輸送したと記録されています.

 英印師団にはインド陸軍第169輜重中隊が付属され,4月13日に呉に到着しました.
 同隊は新型車両などの完全装備で編成され,当初,広に駐屯しましたが,5月19日までは呉基地で任務を遂行しました.
 その後,彼等は英印師団と共に岡山に移動しています.

 軍需物資については,各国派遣部隊が12ヶ月分準備し,それ以降は共通物資がオーストラリア,それ以外の特有なものは各国がそれぞれ用意する事になっていました.
 又兵器補給部には,軍需資材を受領,保管,支給するために,必需品を補給する基地兵器補給所,車輌や小型機を供給する基地車輌補給所,武器弾薬を補給する基地弾薬補給所が設置される事になっていました.

 1946年2月8日,メルボルンから陸軍兵器補給部副部長が呉に到着し,13日には「スタンフォード・ビクトリー」に,2名の将校とオーストラリア陸軍第21兵器補給部先発隊が到着,先発隊は同時にBCOF兵器補給部先発隊としても活動しました.
 兵器補給部の内,基地兵器補給所と基地車輌補給所は呉港内に,基地弾薬補給所と車輌補給所が広の旧海軍航空隊跡地に設置されました.

 4月になると,旧日本軍施設からあらゆる種類の物資,中でも家具や食器を調達するために調達班が設置されました.
 これは4月に設置された戦場軍需品回収部隊により,江田島とその周辺から利用可能な物資を回収していき,それらの物資は調達班に回され,集められた家具は江田島の大原に設置された修理工場で修理され,実用に供されました.
 なお,7月27日には倉庫の火災で877個の家具を焼失する被害にも遭っていますが,呉港区域では調達物資を保管する倉庫が不足したため,海田市に移動し,8月1日から活動を開始しました.

 倉庫不足は3月16日から5月19日にかけてBCOFの主力部隊と物資を搭載した船が次々に入港したのが原因で,軍需品も倉庫に入りきらず野積みする状態になっていたりします.

 8月17日,広にあった基地弾薬補給所は江田島の旧海軍施設がある切串に移転しました.
 これは広の施設が狭く建屋が無いと言う不充分なものであり,危険物を扱う施設としては不適切で,早急な移転が望まれていました.
 この他,基地弾薬補給所は江田島の秋月にあった旧海軍施設を引き継ぎ,約9,290平方メートルの12棟の地下倉庫と多くの建屋を入手したことから,倉庫不足は緩和されました.

 この他,兵器補給部には,オーストラリア軍やインド軍,ニュージーランド軍の将校用売店が属していたり,4月に広に設立されたインド陸軍機動洗濯・入浴部隊と,それが岡山に移転した後に任務を7月15日に引き継いだオーストラリア陸軍第16前線機動洗濯・消毒部隊があったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/13 23:29


 【質問】
 BCOFの医療体制は?

 【回答】

 さて,米国が呉地区に進駐した時,旧日本海軍の病院施設を利用して,米陸軍第2野戦病院と第361衛戍病院を開院していました.
 BCOFは,この2つの病院を米軍から引き継ぐと共に,新たに江田島の旧海軍兵学校の一角を病院に転用することにしています.
 1946年3月5日,旧呉海軍病院の施設を流用して,200床のベッド数を持つインド陸軍第92総合病院が開院し,ほぼ同時期には旧広海軍共済病院を流用して,英陸軍第80総合病院が開院しました.
 そして,旧海軍兵学校の一角を利用してオーストラリア陸軍が第130総合病院を開院しました.
 この他,防府にオーストラリア空軍病院,岩国に英国空軍病院が開院しています.

 ただ,これらの施設は殻だけ出来て,中味が伴っていない状態でしたので,呉港にオーストラリア陸軍第130総合病院の病院船「マヌンダ」が停泊して,医療班をバックアップしていました.

 ニュージーランドは第9歩兵旅団と共に第6総合病院の職員が来日しました.
 当初,彼等は江田島の第130総合病院の設立を援助するように命令されたのですが,第2ニュージーランド海外遠征軍が,担任地の山口県と江田島は余りにも遠距離であると反発し,最終的に山口県内に第6総合病院を設置する許可を取り付けます.
 第6総合病院は,宇部市岐波の肺結核患者用の療養所を転用し,1946年6月28日に開院,この時,ニュージーランド陸軍第7野戦病院の入院患者76名を受け継ぎました.

 このあと,BCOFは中国・四国全域に展開することになるのですが,岡山には米陸軍野戦病院の敷地内に,英国陸軍第80総合病院と,30床のインド陸軍第92総合病院の分院が,美保には英国空軍野戦病院,恵比寿にも野戦病院が開院,BCOF全体の病床数は1,203となっています.
 因みに,第80総合病院は,日本人患者の状況を配慮すること無く,短期的な予告で国立岡山病院を接収したことから,岡山市民の反感を招いたりしています.

 1947年夏には,江田島の第130総合病院が640床,呉と岡山の第92総合病院が2箇所に分かれて合計で800床,岡山の第80総合病院が200床,岐波の第6総合病院が150床となっており,同年秋〜冬には東京に英国陸軍病院が開院しました.

 1948年にはインド軍の撤退に伴い,1月8日に第92総合病院が呉の英国駐屯地病院になり,2月23日には英国軍の撤退によりオーストラリアの第130総合病院が業務を引継ぎ,呉と江田島の2院体制となりました.
 この時期,英国の第80総合病院が閉院となり,日本側に施設が返却されます.
 9月30日には東京の英国陸軍病院が閉院となり,第130総合病院が業務を引き継ぎました.
 また,呉と江田島の2院体制となっていた第130総合病院は,徐々に江田島の施設を引揚げ,年末に殆ど移転が完了しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/14 23:31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 BCOFの兵力縮小について教えられたし.

 【回答】

 さて,1946年12月末,当初35,436名の計画で投入されたBCOFの兵力は,その後占領区域が中国・四国へと拡大されたため,37,021名を数える様になりました.
 派遣国別に見ると,オーストラリアが11,918名で全体の32.2%を占め,インドが10,863名で29.3%,英国が9,806名で26.5%,そしてニュージーランドが4,444名と一番少なく12.0%となっています.
 ただ,英国の9,806名の中には,英国が経費を負担したインド人2,533名が含まれており,実質的にはインド兵が一番多くを占めていました.
 また,海軍は英国のみ,空軍は英国とオーストラリアでほぼ総てを占めています.

 その12月,呉を視察した英国の新任陸軍大臣J.フリーマンは,日本駐留のBCOFを構成している英国占領軍3,000名の撤退を予定している事を表明しました.
 その理由として,
日本占領が初期の予想以上に少ない兵力でも効果が上がっている事,
英国本土の人的資源不足を解消する為,復員を早めたいという事
でしたが,撤退は陸軍のみで,司令部や海空軍の撤退は対象外となっていました.

 この方針は既に1946年10月に内閣国防委員会で決定していました.
 11月11日にはこの決定がオーストラリア政府に通告され,11月26日には了承されていました.
 また,11月19日には在東京英国首相代理のガードナーを通じてマッカーサーにも此の事が伝えられており,殆ど既成事実となっていたのですが,ロバートソン総司令官がその事態を知ったのは,英国代表では無く,マッカーサーから,
「オーストラリアも部隊を一部撤退するつもりか」
との質問を受けて初めて知り,初めて
「英国が私に隠れてまたしても何かを企んでいるに違いない」
と感じたと言います.

 その後,彼は本国からの電報で事態を確認すると共に,「英国軍を全面撤退させるのでは無く,名目的にはこれまでと同数の部隊を残しておき,此処の部隊の兵員を削減する」計画を立てましたが,軍事的任務の不要な日本で政治的目的の為のみに派遣軍を残す必要が無いと主張され,結局,英国派遣軍の一部撤退が直ちにBCOFの解隊に結び付かないと判断したマッカーサーによって英国政府の要請は受諾されました.

 こうして1947年2月20〜21日,第5英国歩兵旅団は日本からマラヤに転出しました.
 これに伴い,四国の占領任務は3月10日で第34オーストラリア歩兵旅団に移譲されました.
 また,3月19日には第268インド歩兵旅団司令部が岡山に移動し,4月1日に英印師団司令部が解隊された事に伴い,岡山,島根,鳥取の占領責任を受け継ぎました.
 この英軍の撤退は,3月までに第5歩兵旅団と管理部隊の一部4,539名に達したと報告されています.
 なお,JCOSAはこの時に陸軍司令部とBCOF司令部を,三軍を統括する政策司令部に改編しようとしますが,ロバートソン総司令官の反対もあり,実現しませんでした.

 表向きの英軍撤退の理由としては,前述の様に日本占領の所期の目的,特に軍事目的が達成された事,英国に於ける人的資源が不足していた事が挙げられますが,元々の英国の目的は,英国の威信を保つために東京の占領と軍政の参加を希望したり,経済的利益を守るために神戸を占領地区に加えようとしていました.
 これは一応,東京へは1946年4月に分区が開設され,5月6日に第34オーストラリア歩兵旅団から選抜された1個大隊が東京に派遣されたのを最初に,各国軍が2ヶ月交替で当たる事になりましたし,神戸分区も10月15日に開設され,6名の士官と44名の下士官兵からなる小規模な司令部と小分遣隊によって編成された事により,部分的に達成していますが,BCOFの占領行政への参加は出来ず仕舞いでした.
 結局,英国は先の2つの問題と,戦後の財政難に直面して,当初の目的を達成出来ないまま,派遣軍一部撤退が行われたのです.

 英印師団を構成していたインドもまた難題を抱えていました.
 1947年1月22日にインド制憲議会が独立宣言決議案を可決しますが,これに対してムスリム連盟が反対し,国民会議派とムスリム連盟の衝突が全国に拡がる混乱状態になっており,それに加えて,アトリー英国首相が2月20日に1948年6月までにインドに主権を移譲すると言明し,6月にはムスリム多数派地域の分離独立が決定するなど,インド独立問題が急展開を見せていました.
 この様な情勢で,インドは海外に駐屯している総ての軍部隊を1947年末までに引き揚げる事を要望し,3月22日にオーストラリア政府に伝えました.
 オーストラリアは,BCOFを維持し他国に波及する事を防ぐ為には,インドの協力が必要であると説得に努めましたが,インドの決心は固く,4月9日にオーストラリア政府は,米国政府に対し,インド政府の要求により,マッカーサー・ノースコット協定に従ってインド派遣軍を全面的に引き揚げる意向を正式に予告しました.
 因みに,マッカーサー・ノースコット協定には「英連邦軍は6ヶ月予告に撤退出来る」となっていたのですが,インド政府は6ヶ月以内の撤退を要望すると言う意向がありました.

 5月30日,BCOF司令部によってインド派遣軍が年末までに撤退を完了する旨の計画及び準備命令が出されました.
 当初,撤退は12月にかけての3段階だったのですが,7月17日,インド軍最初の撤退部隊として第5ロイヤル・グルカ・ライフル連隊第2大隊が呉を出航し,その後第2段階として第268インド歩兵旅団司令部の独立インド軍に人気の高かったS.M.シュリナゲッシュ司令官が8月18日に離日しました.
 この時,岡山駅は別れを惜しむ数百名の日本人とインド人で溢れたと言います.
 また,この日には第1パンジャブ連隊第5大隊も撤退しました.
 そして年末を待たずして10月25日には,インド軍全部隊の呉港からの撤退が補給品6隻分と共に完了しました.

 インド派遣軍撤退により,広島の軍事占領を担当していた第34オーストラリア歩兵旅団は,広島と四国四県に加え,岡山の占領を担当する事になり,第2ニュージーランド海外遠征軍は,山口県と島根県が割り当てられました.
 なお,鳥取県は8月15日を以て英連邦飛行連隊が占領業務を引き継ぐ事になりました.

 更に追い打ちを掛ける様に,インド派遣軍と同時期にニュージーランド派遣軍の撤退も俎上に上ります.
 ニュージーランド政府は2月22日に同国派遣軍の縮小をオーストラリアに通告すると共に,ニュージーランドの人的資源の不足,海外派遣軍の除隊要員の補充困難を理由に,BCOFの軍事的占領の役割とそれを継続する価値があるのかを疑問視し,その回答を要求してきました.

 ニュージーランドは,BCOFが軍政機能を有しておらず,占領政策には殆ど影響を与えない事,日本人には米国占領軍の下部組織とみられている事に不満を持っていました.

 こうしたニュージーランドの要求に対しオーストラリアは,BCOFの存在価値とそれを構成しているニュージーランド派遣軍の重要性を説いて同軍の撤退を思いとどまらせようとしました.
 こうした中で4月16日には,4,239名の第2ニュージーランド海外遠征軍を,空軍はそのままで2,400名の下士官・兵に縮小する事で合意が成立しました.
 これもインド軍の撤退と合わせてGHQの承認を得て,6月中に約1,850名のニュージーランド陸軍が帰国しました.

 結果的に,オーストラリアの占領地区には,インド軍の撤退に伴う岡山に加え,ニュージーランドの帰国による山口県と島根県が加わる事になります.

 その上,海軍の撤退も為されています.
 4月17日に開かれたJCOSA委員会に因れば,当時,呉の英国海軍港湾分遣隊は,士官29名,水兵297名により構成されていたのですが,士官9名と水兵69名を削減し,士官2名と水兵15名を横浜に送る事になりました.

 こうした相次ぐ各国軍の撤退の結果,BCOFの性格が変わりました.
 BCOFの目的と役割は基本的に「英連邦軍日本占領参加計画書」に記した通りでしたが,新たに日本の復興に援助を与える事になり,軍事的占領は影を潜め,陸軍兵力は英国軍2,400名,オーストラリア軍9,500名,ニュージーランド軍2,400名の最大14,300名とし,従来の野戦部隊中心から新たな目的と任務にそった形に変更されました.
 また,海軍と空軍の役割も従来の組織,兵力構成を考えて再編成されるとしています.

 なお,この時点でもBCOFの占領地区に神戸を含むかも知れないと言う姿勢を変えていなかったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/08 23:21
青文字:加筆改修部分

 さて,BCOFはかなり縮小され,1948年4月1日時点で,英国は845名の編成定員に対して海軍66名,陸軍547名,空軍738名の合計1,351名が,オーストラリアは11,049名の編成定員に対して陸軍6,922名,空軍1,281名の合計8,203名,ニュージーランドは2,763名の編成定員に対して陸軍2,203名と空軍252名の合計2,455名と,合計12,009名となりました.
 割合としては,英国は11.25%,オーストラリアが68.31%,ニュージーランドが20.44%となっています.
 インド軍は消滅し,英国軍は3分の1以下となり,BCOFの実態はほぼオセアニア系の軍隊となっていました.

 この急激な縮小は,人的資源の不足と財政難に悩む英国が1947年11月に英国派遣軍の第2次撤退を提案し,これが1948年2月2日に承認され,陸軍450名,海軍95名,空軍300名を残して3,200名が2〜4月の間に撤退を行ったからに他なりません.
 なお,4月1日時点では編成定員を上回っていますが,4月28日には輸送船ランカシャーにより,約600名が呉を出港していました.

 英国派遣軍の第2次撤退に伴い,東京と神戸分区が縮小されました.
 そもそもが,英国の横槍で開設した分区でしたが,英国の撤退により,その主張は根拠が無くなり,こうした事態に至った訳です.
 また,第34オーストラリア歩兵旅団は基地部隊や司令部要員の補充を実施しなければならず,旅団自体が定員割れを起こす事態に陥っています.
 英国空軍の撤退により,第84オーストラリア飛行連隊司令部は防府から岩国に移り,英連邦飛行連隊司令部の任務を引き継ぐ事になり,一方,岩国にいた第4ニュージーランド飛行中隊が防府に移動しました.
 更に,英国空軍が美保基地から撤退した事により,鳥取県の占領任務は第34オーストラリア歩兵旅団に移管されましたが,常駐部隊の派遣は行わず,また,美保基地は5月7日に米軍に引き渡されています.
 こうした中で6月1日,BCOF司令部と基地司令部が合併し,江田島にいた多くの司令部要員が呉へと移動しました.

 この後,第2ニュージーランド海外遠征軍も第2次撤退を実施し,1948年7月23日から9月までに2,052名が帰国し,11月25日には陸軍と空軍が何れも最後の部隊が撤退して,4名の要員を残すのみとなりました.

 これらの撤退を受け,オーストラリア政府は1948年4月28日に国防委員会を開催し,次の様に決定しました.

 BCOFのオーストラリア派遣部隊は陸軍1個大隊,空軍1個中隊,軍艦1隻の海軍支援部隊と,それらを兵站補給するために必要な管理部隊からなる総勢2,750名に削減する.
 この縮小は,船舶の配船に応じて段階的に進め,1948年12月31日前後までに計画を実行,これを米国政府の同意を得る様に手配する.
 元々,オーストラリア政府の立場としては,軍事的見地からすれば,BCOFの価値はその兵力に比例するという観点に立っており,太平洋戦争に於て築かれた米軍との友好関係は強化されるべきであり,戦前の様な日本の復活と日本が英連邦と非友好的な大国の餌食になる事を阻止するために,講和条約の締結までは占領の継続が必要であり,また締結に際し有利な立場を得る為にも同軍の存在は必要としていました.
 その為の兵力として総勢約7,000名を考えていたのですが,兵員不足のために充足する事が出来ず,1948年12月31日までに3,700名に減少させ,それ以降は2,750名乃至米軍兵站支援に期待して1,350名に縮小するかの二者択一を迫られました.
 結局,4月28日の会議で2,750名の縮小案に落ち着きました.

 この案を5月7日に米国側に提示したのですが,米国からの回答は,
「名目上のBCOFを残す事に過ぎず,人口1,000万名のBCOF地区占領には不適当」
と言うもので,逆に米軍1個歩兵師団(但し1個連隊欠)相当の兵力と必要な管理補給部隊を加えたものを駐留するように要請してきました.
 即ち,米軍提案では18,000名の兵力が必要というものでしたが,BCOFの兵力は7月1日現在で9,761名に過ぎず,しかもその数は7月に撤退が決定した2,429名のニュージーランド軍が含まれての数字でした.
 かくしてオーストラリアは,9月2日,米国の提案は現有兵力の増加を意味しており,現在のオーストラリアは1個旅団を維持する事さえ不十分な3軍の兵力状態であり,先の2,750名への縮小案を承認するよう回答,早期の承認を求めました.

 逆に米国は,BCOFの兵力10,500名案を再提案してきます.
 …とは言え,10月1日現在のBCOFの兵力はオーストラリア軍6,188名を中心とする7,034名でした.
 オーストラリアはあくまでも2,750名への縮小案に固執するか米国の再提案を受け容れるかについて悩みますが,結局11月24日に米国に対し,これまでの縮小案を実施するしか無い事を伝え,1949年2月7日,米国は同国が望む規模のBCOFを維持出来ないとオーストラリア政府が決定した事は遺憾であるとした上で,それを承認しました.

 こうした中で,BCOFの兵力は縮小され,第34オーストラリア歩兵旅団は解隊される事になります.
 12月17日にはBCOFの占領担当地区は中国・四国全体から広島県と山口県岩国警察管区に限定され,他地区の占領業務は米国第8軍第1軍団に引き継がれました.

 1949年3月31日のBCOFの兵力は,国防委員会による計画の陸軍1個歩兵大隊として,第67歩兵大隊,空軍1個飛行中隊として,第77飛行中隊,それに海軍港湾部隊と管理部隊若干からなる,2,750名に近い2,788名まで減少しました.
 その内訳は,オーストラリア陸軍が2,343名,空軍が381名,海軍が39名,英国陸軍が9名,海軍が7名,空軍7名,ニュージーランド陸軍が2名と言うものです.
 その後,若干の変動はあったものの,1950年3月1日当時も2,350名前後を維持していました.

 しかし,元々,オーストラリアは日本の軍事的脅威を永久に復活させない事を占領目的にしていたのですが,米国の占領目的は冷戦を経て,日本を自由主義圏の防波堤とする方向へと転換していきます.
 この為,オーストラリアにとってこれ以上の駐留は講和条約上の有利な条件を得たいという政治的理由は認められるものの,軍事的価値が少なくなっていきました.
 一方で,国内に於ける3軍の人的資源不足は益々顕著となり,1950年3月31日にBCOFの全面撤退を決定して米国など関係国に伝えました.

 このオーストラリアの要請に対し,米国は1950年5月19日に承認を与え,こうして1946年以来の英連邦軍による日本占領業務はわずか4年で中止に追い込まれていきます.
 こうしてBCOFの全面撤退が決定したのですが,それから約1ヶ月後の6月25日に朝鮮戦争が勃発し,6月30日にはオーストラリアのメンジース首相は,米国に対しBCOF空軍の使用とBCOFの日本からの撤退延期を承認しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/09 23:03
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 BCOFの朝鮮戦争派遣までの経緯は?

 【回答】

 さて,1950年6月25日未明,朝鮮半島の38度線を越えた朝鮮民主主義人民共和国軍は,直ちに三方に分かれて南下し,大韓民国軍を撃破した後,6月28日にはソウルを占領しました.
 米国の要請によって開かれた国連安保理は,6月25日午後2時に開会され,ソ連代表が欠席する中で北朝鮮軍を侵略軍と認め,38度線以北への撤退を要求することを決議.
 米国政府は更に海空軍を韓国へ,第7艦隊を台湾海峡に派遣する事に決定し,6月27日正午にはトルーマン大統領が出撃命令を下す声明を発表しました.
 同日午後3時に開かれた国連安保理は,韓国援助を求めた米国の提案を,再びソ連代表が欠席の儘採択しました.

 6月30日,米国は遂に地上軍の投入を決定します.
 7月7日,国連安保理は,国連軍最高司令官を米国政府が任命することを要請,8日にはトルーマン大統領がマッカーサーを国連軍最高司令官に任じました.
 そして,7月25日になると,東京にマッカーサーを最高司令官とする国連軍司令部が設置されます.
 しかし,本土と沖縄に駐屯していた米軍の投入にも関わらず,北朝鮮軍優勢の状態が続き,韓国軍を含む国連軍は釜山の一画に追い詰められました.
 あわや全土が占領される迄に至ったのですが,伸びきった補給線を米空軍とオーストラリア空軍が爆撃した為に,維持が出来ず,北朝鮮軍にも一時の勢いが見られなくなります.

 こうした中で9月15日,米第8軍が洛東江沿いに反撃に移るのに呼応して,第10軍団が仁川に強襲上陸を敢行しました.
 これにより,退路を断たれるのを恐れた北朝鮮軍が撤退したことにより戦局が一転,攻勢に転じた国連軍は,9月30日の韓国軍に続き,10月7日には逆に38度線を突破して北上,当初38度線を維持すると言う目的は,朝鮮半島全体 を非共産化するという目的に代えられて軍事行動が拡大し,10月20日には国連軍が平壌に入城,更に北上を続けました.
 これに対し,国連軍の北進に抗議していた中華人民共和国は10月25日頃から「人民義勇軍」を投入し,11月25日に大攻勢を掛けて国連軍に大打撃を与えた後,1951年1月初旬には国連軍は再びソウル撤退を余儀なくされました.

 その後,1月下旬以降に国連軍はソウルを奪回して38度線を北上しますが,戦線は膠着状態に陥り,こうした中で,3月24日,マッカーサー最高司令官は「中国本土の攻撃も辞せず」と発言して,これが大統領権限を無視したとして,4月11日に罷免され,後任にM.B.リッジウェイ中将が任命されます.
 その後7月10日から休戦交渉が開始されますが,交渉は難航し,やっと1953年7月27日に休戦協定が調印された訳です.

 ところで,この中で英連邦軍の役割について触れてみると,先ず,韓国軍の崩壊に直面した米国が,自国軍を派遣すると共に,国連加盟の友好国に対しても派兵を要請しました.
 こうした事態に対し,マッカーサーは,沖縄を含む日本の占領任務に就いていた軍隊を急遽寄せ集めて朝鮮半島に派遣しています.
 その中には装備も訓練も不十分な部隊も含まれており,兵員不足に直面したマッカーサーは,日本に駐留しており,その殆どがオーストラリア軍で構成される少数のBCOFまでも自分の指揮下に置いて朝鮮半島に投入することを望みました.

 とは言え,先述の様にBCOFは縮小の一途を辿り,1950年5月19日に全面撤退することになっていました.
 その結果,1950年6月28日現在のBCOFは,陸軍がオーストラリア連隊第3歩兵大隊2,094名,空軍がオーストラリア空軍第77飛行中隊253名,オーストラリア海軍41名,英国海軍4名,英国陸軍6名,英国空軍1名を残すのみとなっていました.
 ただ,事態の深刻化を受け,6月30日にBCOFの日本撤退は延期されることになります.

 6月27日,米国は英連邦など友好国に対し,空軍と海軍の投入を要請しました.
 英国はこれを受けて6月28日,航空母艦1隻,巡洋艦2隻と駆逐艦数隻を投入すること,他の英連邦諸国の参加を歓迎する事を発表しました.
 その声明を受けたオーストラリア政府はその決定に賛意を示すと共に,極東海域にある駆逐艦ショールヘブンと砲艦バターンの2隻の軍艦を韓国支援のために安全保障理事会に委ねることを決定し,カナダ政府も駆逐艦3隻を朝鮮に派遣しました.

 6月29日,マッカーサーはロバートソンBCOF総司令官に対し,日本に進駐している第77飛行中隊のムスタング戦闘機を,北緯38度線より南部の作戦に使用するため,国連軍の指揮下に入れるように要請します.
 ロバートソンは政府に対して,第77飛行中隊とショールヘブン,バターンの38度線以南に於ける作戦行動使用の承認を求めると共に,米国は日本国内にムスタングのような航続距離の長い地上攻撃用の機体を有していないので,緊急に作戦に参加する必要があると付け加えました.

 こうした状況の中でオーストラリア政府は,6月30日,第77飛行中隊を国連軍指揮下に委ね,38度線以南の作戦に使用することを承認し,第77飛行中隊は7月1日から直ちに作戦行動に参加することになりました.
 その後,8月4日には南アフリカ共和国がムスタング飛行中隊2個の参加を決定しています.
 そして,10月20日には,第77飛行中隊を基幹として,第30輸送中隊,第391基地中隊,第491整備中隊と司令部からなる第91(混成)大隊が編成されました.

 勿論,陸軍の参戦も要請されましたが,オーストラリア,ニュージーランド,カナダの何れの国も当初は朝鮮半島に自国陸軍を派兵することに消極的でした.
 しかし,再三の米国の要請により,遂に7月26日にオーストラリア,英国,ニュージーランドが陸軍の派遣を決定しました.
 なお,派兵の決定の順番は,先ずニュージーランド,次いでオーストラリアであり,英国は両国の後塵を拝することになりました.
 これが,米国への支援と英連邦内の主導権を巡って再び対立を生じさせることになります.
 一方カナダは今回も慎重で,8月7日になってやっと朝鮮派遣軍の募集を開始すると発表しました.
 更にインドは,日本占領には精鋭部隊を派遣しましたが,今回は非戦闘部隊の医療部隊を派遣する事にしました.
 しかし,インドと対立するパキスタンと,南アフリカは地上軍の派遣を行いませんでした.

 さて,7月26日に派兵を決定した3カ国は,朝鮮派遣軍の編成について交渉を開始しました.
 そして8月10日に英国及びニュージーランドの代表を交えて開催されたオーストラリア拡大国防委員会に於て,英国は1個歩兵旅団群と1個装甲連隊,オーストラリアは1個歩兵大隊,ニュージーランドは1個野戦砲連隊と小規模の部隊本部を提供すること,これらの軍は英国人司令官の下で1個拡大旅団群を編成することを確認しました.
 また,兵站については呉に有るBCOFの基地施設を使用し,朝鮮へ派遣される英連邦軍の管理上の指揮権は,BCOFのロバートソン総司令官が執る事になりました.
 但し,作戦上の上層指揮権が国連軍司令部にあるのは言わずもがなでした.

 7月26日からBCOFの中核を形成するオーストラリア連隊第3歩兵大隊の朝鮮への移送準備が開始されました.
 8月6日には広に於て,朝鮮へ派遣のための大隊の編成を開始,26名の将兵を除いた第3大隊の大部分が朝鮮への派遣に同意しました.
 その後直ちに,賀茂郡原村に於て装備の到着を待つ間に訓練が実施され,9月中訓練は強化され,装備品の支給も完了し,大隊は9月24日までに編成準備を終了し,同日広のキャンプに戻り,27日には朝鮮に向けて出航という慌ただしさでした.
 この日朝鮮に向かったのは,在朝鮮オーストラリア軍補給区司令部として将校2名と下士官兵12名の計14名,オーストラリア連隊第3歩兵大隊の将校40名と下士官兵956名の合計996名,在朝鮮オーストラリア軍野戦病院として将校1名と下士官兵25名の合計26名,在朝鮮オーストラリア軍渉外班として下士官兵14名の合計1,050名でした.

 朝鮮派遣軍決定の発表が1時間遅れた英国は,実際の派遣では英連邦内でのトップを切ることに意欲を示しました.
 この目的を達成するため,香港の守備に就いていた第27英国歩兵旅団を朝鮮に派遣する事にしましたが,その実態は定員割れの2個大隊で編成された装備も訓練も不十分な弱小師団に過ぎず,英連邦内部の先陣争いから拙速的に計画されたものでした.
 それは兎も角,第27英国歩兵旅団は,ライバルのオーストラリア連隊第3大隊より1ヶ月早く8月29日に釜山に到着しました.
 そして,前述の通り,9月28日に第3大隊が到着,第27英国歩兵旅団と第3大隊が合同し,10月1日から第27英連邦歩兵旅団となり,再びロバートソンの指揮下に入ることになりました.

 11月中旬には,兵力,装備共に充実した第29英国歩兵旅団が到着し,1951年4月には遅れていた第27英連邦歩兵旅団と第28英連邦歩兵旅団との交代も行われました.
 この他,1951年1月には,ニュージーランド砲兵隊第16野戦砲兵連隊,5月にはカナダ軍の主力である第25カナダ計歩兵旅団が加わります.

 因みに,カナダ軍の参加は,この戦争に連邦色では無く国連色を強調することを意図したカナダ政府の主張する国連軍第1英連邦師団を前提としたものでした.
 1951年4月9日,オーストラリア国防省に英連邦関係諸国が集まり,第1英連邦師団の編成についての会議が開催され,その骨格が決定しました.
 司令官は58%の兵力を英国が派遣していると言う事で伝統的原則に従って,英陸軍のA.J.H.キャッセルズ少将に決定,他の重要ポストは,カナダ22%,オーストラリア14%,ニュージーランド5%,インド1%と言う兵力構成比率に従って決定されることになっています.
 なお,南アフリカも後に2名の陸軍将校を司令部に派遣しています.

 国連軍第1英連邦師団は,1951年7月28日に作戦を開始しました.
 同師団は米国第8軍第1軍団に属し,国連軍(第1軍団司令官)の作戦指揮下に置かれていました.
 以後,英連邦諸国の合同軍部隊は,1953年7月27日の休戦に至るまで,第1英連邦師団長の下に戦ったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/10 23:43
青文字:加筆改修部分


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