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(画像掲示板より引用)


 【link】

「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■(2010/03/15)[ネタ]リットン調査団は誰によって送られたのか

「とある素人の歴史考」◆(2010-02-14)「満州事変が抱えていた矛盾」

『満州事変と政党政治 軍部と政党の激闘』(川田稔著,講談社,2010.9)

『「満州帝国」がよくわかる本』(太平洋戦争研究会著,PHP文庫,2004年12月) 初心者向け


 【質問】
 大陸進出が国の政策として確立されたのは,いつ頃か?

 【回答】
 1926年頃だという.
 以下引用.

 1894〜95年の日清戦争後から陸軍が主張し始めた大陸進出論に対抗して,海洋発展という新たな海軍戦略の思想を打ち出したのは佐藤鉄太郎中将(鈴木貫太郎中将と同期)で,1892年,大尉の時に「国防私説」,1902年,少佐のときに「帝国国防論」を書いて世論に大きな影響を与えた.

 陸軍は,最後の決戦を戦うのは陸軍であるから,国防は陸主海従でなければならないと主張し,かつ大陸進出の必要性を強調していた.
 佐藤はこれに対し,
「島国である日本は海主陸従でなければならない.
 イギリスは大陸征服に向かわず,富を海外に求めて繁栄している.
 侵略征服する国は必ず滅びる事は,歴史が証明するところである」
と論じた.

 当時,海軍は制度上,陸軍の下位にあった.
 陸軍大将か中将を庁とする参謀本部の中に海軍軍令部が置かれていたから,軍令部の独立はかねてからの海軍の悲願だった.
 山本権兵衛海相は,佐藤の「帝国国防論」を武器として陸海軍対等を主張,03年の暮れにようやく軍令部が独立した.
 しかし,大陸進出論と海洋発展論は並列のままだった.

 日露戦争から4年後の09年,佐藤大佐はさらに論を進めて「帝国国防史論」を出し,
「国防よりも大陸の発展,満州と中国における事業を重視する誤った考えがあるが,国防より侵略に走る事は亡国の原因になる」
と論じた.
 山本時代の海軍は一貫して,大陸進出に反対した.
 ロシアが敗れて国力が低下すると,海軍のみではなく,財界とその支援を受ける報道界も,大陸進出に反対するようになった.
 先鋒となったのは「東洋経済新報」であり,13年には満州放棄論を唱え,次いで小日本主義(大陸に進出せず,軍備拡張を避け,国内開発を優先する)を打ち出した.
 この年,海軍は佐藤の執筆になる「国防問題」を発表して海主陸従を主張し,経済発展と人口問題の解決を大陸に求めるのは誤りであるとして,大陸進出論の見直しと陸軍の拡張中止を求めた.

 この13年に発足した山本内閣は,こうした新政策の実行に乗り出したが,翌14年のシーメンス事件で山本大将は予備役編入となり,大陸進出論は再び勢いを得た.

 しかし15年から海相,22年から23年までは首相兼海相として大正期の海軍をリードした加藤友三郎大将もまた,大陸進出論には反対を続けた.
 加藤海相は21年11月から22年3月まで,全権委員の独りとしてワシントン海軍軍縮会議に出席したが,原敬首相と戦略思想において一致していた.
 帰国後,首相になった加藤大将はないから,米英との軍核戦争で勝ち目は大海軍の建設は諦め,大陸進出を見直し,シビリアン・コントロールを導入して軍縮を進めるという施策に着手したが,翌23年,病を得て辞任,間もなく死去した.

 大正最後の年となる1926年,加藤寛治軍令部次長は講演の中で,大陸は日本の死活地域であるとした.これまでの海軍の戦略思想を転換して,陸軍と同調したのである.
 軍令部次長がそうした場で私見を開陳する事はないから,あらかじめ財部彪海相,鈴木貫太郎軍令部長の承認を得ていたと見て間違いないであろう.
 こうして,経済・国防両面に於ける大陸進出が,国の政策として確立されたのだった.

「世界の艦船」2005年8月号,p.84-86(左近允尚敏 Sakonjoh Naotoshi 著述)

 国内で資源が殆ど採れない日本の陸軍が,初めに着目したのが中国大陸の資源だった.
 1917年(大正6年),中国北部や中部の資源調査を行った参謀本部の小磯国昭少佐(のち首相)は,「帝国国防資源」の中で,
「支那の原料を欧米人に壟断せられざるの処置あること緊要なり」
と指摘した.
 小磯は,朝鮮半島の釜山と日本本土を海底トンネルで結ぶ鉄道建設構想も提案している.
 背景には,島国日本が経済封鎖されることへの恐怖感があった.

 陸軍はまず,満州(中国東北部)を国防資源の確保先として狙った.
 関東軍高級参謀の板垣征四郎は,満州事変を起こす半年前の31年(昭和6年)3月,満州の重要性について,
「(満州は)国防資源として必要なる殆んど凡ての資源を保有し,帝国の自給自足上絶対必要」
と強調した.

 翌32年,満州国建国で,日本は大豆,コウリャンなどの他,鉄,石炭などを手に入れた.
 だが,石油は,満州や,37年(昭和12年)からの日中戦争で占領した中国国内では見つかっていなかった.

読売新聞 2005/12/22


 【質問】
 田中上奏文とは?

 【回答】
 日本の大陸侵略意図の証拠として使われてきた,プロパガンダ用の偽文書.
 当初から偽文書と判明していたが,中国では本物として広まっているという.
 以下引用.

 昭和2年に政府が中国関係の外交官や軍人を集めて開いた「東方会議」の内容を当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書を装い,「世界を征服しようと欲せば,まず中国を征服しないわけにはいかない.これは明治天皇が遺した政策である」などと書かれている.
 4年に中国語の印刷物が現れ,英語版やロシア語版も登場した.
 あり得ない日付が記されるなど事実関係の誤りが多く,当初から偽文書と判明していたが,中国では本物として広まった.
【2006/03/02東京朝刊から】

産経朝刊 2006/03/02/09:26


 【質問】
 アメリカにおける排日移民法案成立(1924)に,なぜ日本があれほど反発したのですか?

 【回答】
 加藤陽子によれば,アメリカでは排日移民法が通るはるか前に,中国からの移民を制限する排中移民法が成立していたわけだが,
「中国人よりも日本人が上等であり,中国人は劣等国民として高等国民たる日本を兄として敬い,その教えを請うべきだ」
と思っていた日本人アジア主義者にとって,日本人が中国人と同等の差別待遇の対象と指定されることはプライドを傷つけられ出来事だったからだという.
 また,中国における日本人の威信低下を将来し,既に中国で起きつつあった反日運動,侮日運動に拍車がかかることを日本が恐れたのだという.

 詳しくは,
http://www.bk1.jp/review/0000477986
を参照されたし.


 【質問】
 昭和2年(1927)の南京事件とは?

 【回答】
 2百人の中国軍兵士と女子供を含む数百人の一般人暴徒による各国領事館銃撃事件.
 英国人2人,日米伊仏デンマーク人各1人が死亡,
 暴行,略奪は床板,便器空瓶にまで至った.
 このとき日本は完全無抵抗を貫いたが,米英は軍艦より砲撃.

 後に北京のソ連領事館を捜索したところ,クレムリンからの「指令」文書が発見され,これにより,領事までもが殺されそうになったイギリスは,ソ連と断交 した.

 この事件について中国刊行の「中国歴史」は現在,
「・・・英,米,日などの帝国主義は狂ったように南京城を砲撃し,中国軍民二千人余りを死傷させた・・・」
などと記述している.

がおまる in mixi


 【質問】
 済南事件とは?

 【回答】
 昭和3年(1928)に起きた,中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件.
 略奪被害戸数136,被害人員約400.

 中国側も立ち会った,済南医院での日本人被害者の検死結果は,以下の通り.

藤井小次郎
 頭および顔の皮をはがれ,眼球摘出.内臓露出.陰茎切除.

斎藤辰雄
 顔面に刺創.地上を引きずられたらしく全身に擦創.

東条弥太郎
 両手を縛られて地上を引きずられた形跡.頭骨破砕.小脳露出.眼球突出.

東条キン(女性24歳)
 全顔面及び腹部にかけ,皮膚及び軟部の全剥離.
 陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり.
 両腕を帯で後手に縛られて顔面,胸部,乳房に刺創.助骨折損.

鍋田銀次郎
 左脇腹から右脇に貫通銃創.

井上国太郎
 顔面破砕.両眼を摘出して石をつめる.

宮本直八
 胸部貫通銃創,肩に刺創数カ所.頭部に鈍刀による 切創.陰茎切除.

多比良貞一
 頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創.
 腹部を切り裂かれて小腸露出.

中里重太郎
 顔面壊滅.頭骨粉砕.身体に無数の刺創.右肺貫通銃創.

高熊うめ
 助骨折損,右眼球突出.全身火傷.左脚の膝から下が脱落.
 右脚の白足袋で婦人と判明した.

 他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され,人定は不可能であった.

がおまる in mixi


 【質問】
 陸軍悪玉論って,いつ頃,何を根拠に広まったんですか?

 【回答】
 出版事情がややよくなってきた昭和25年ごろから戦記ブームが起きて,その初期は海軍関係者ばかりが回想を発表した.
 当然ながら自分たちに戦争(敗戦)責任はなく,陸軍の無茶苦茶な作戦で負けたんだって内容.
 これがどんどんエスカレートして,開戦責任も陸軍だけに押し付ける論調が形成されてしまった(昭和30年代初期).
 陸軍関係者はこのころから慌てて,自己弁護を含む回想を大量に出版し始めたけど後の祭.
 かくして歴史は作られたんだよ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 もっともプロパガンダというものは,人々をして信じさせる素地がないと成功は難しい.
 「陸軍悪玉論」の場合,その素地があった.

 大陸利権の保護を名目に戦争を主導したとされるのが陸軍だからだ.
 そもそも満州事変起こしたも陸軍だしな.
 東条が首班として戦争を指導したのも,地味に大きい.

 しかし海軍や議会,国民がまったく無罪かと言えばそんなことはないと思う.
 人は責任を押し付け合い,悪者探しする生き物だってこったな.

モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「海軍悪玉論」ってどうよ?

 【回答】
 対中戦争の方の経緯を無視した論.
 そっちの方で米の中国利権と衝突,禁輸措置,石油確保のための南方進出ってあるのであって,海軍がいきなり石油を求めだして,米に喧嘩売ったわけではない.

 海軍だって対米戦は苦戦するどころか勝ち目が薄いから,なるべく戦いたくないって解答してる人たちもいた.
 山本五十六を筆頭として.
 特に,通商破壊されたら守りきることが出来ないし,手も足も出ないってのは,研究分析されてとっくに判りきってた
(米の保有潜水艦数と日本の保有対潜駆逐艦数からしてもう…)

 それでも,
「やれるか?」
と訊かれたら
半年ぐらいは戦えます」
って答えなくちゃならなかったのが,軍人の辛いところであり,それは陸軍も同じ.
(近衛が山本から聞いたという「半年は暴れて見せます」発言自体の信憑性も問われているけどね)
 全部,海軍がそうした政府内調整や外交方針や交渉の手動権を握ってたとかいうんでなければ,海軍が突っ走ったとかいうのは言いがかりでしかない.

 もちろん,海軍は対米戦には消極的だったというのも間違い.
 支那事変当時から,渡洋爆撃や空母による沿海都市爆撃,長江を遡っての武漢三鎮攻略の支援くらいしか出番のなかった海軍内では,不満が燻っていた.

 同様に陸軍にも,英米可分論を唱えて対米戦には消極的な一派もあった.
 しかしだからといって,陸側の良識派の一部の声だけ根拠にして,「陸軍が対米戦に消極的だった」なんて論理は明らかに間違い.

 結局,陸海両方の良識派は陸海軍の強硬派の声を抑えきれずに,戦争に引きずられて行ったんだから.

 禁輸措置がとられる前と取られた後とで,米英との交渉やら何やらで難航や失敗や強硬に出ているのが,南方進出までの経緯にあるのであって,つまりあれは当時の「日本全部が突っ走った」でFA.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 満州事変って何?

 【回答】
 満州事変 Manchurian Incident は,1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件をきっかけに,関東軍が閣議も無視して,5ヶ月間で満州全土を占領した紛争.
 これを機に抗日運動が激化し,また,満洲国建国により,中国市場に関心を持つアメリカら列強との対立も深刻化した.
 「戦術的には成功,戦略的には失敗」の典型.

 【参考ページ】
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89/
http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/mukden%20incident.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1931a.htm
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161533345/content.html
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%FE%BD%A3%BB%F6%CA%D1

【ぐんじさんぎょう】,2009/9/24 23:00
に加筆

 国家の戦略的統一性が,最終的に崩壊した事件.

しまだ in mixi,2009年09月24日 07:52

<満州事変前後の無駄知識>

●満州において,軍が警備地域以外に出動するには,領事館の出兵要請が必要だった.
 張作霖爆殺事件のとき,軍は領事館の要請を受け出動しようとしたが,総領事館の要請が来ず失敗.
 その為,満州事変のときは満鉄線路爆破を口実に,総領事館の要請を受けずに出動した.

●満州事変前,張学良の満鉄包囲鉄道の影響で,満鉄の収益は激減し,株式の配当金が半額になった.

●建川美次少将が満州に来て,石原か板垣を呼び出そうとしたり,奉天の24p砲が調子が悪いから,と旅順から運ばせたり,大川周明から板垣へメッセンジャーが来たりと,現地では「何かあるのではないか?」と予感する者が多かった.

●土肥原健二少将は新聞記者が来れば,昼からでも,ウイスキーを勧めるような豪快な人物だった.

●上海事変の爆弾三勇士のことをマスコミに語った田中隆吉(上海駐在公務館付き陸軍武官補佐 少佐)に怒った海軍陸戦隊士官が,田中を襲撃.
 田中は一筆書いて許してもらったが,陸軍省の抗議により,田中を襲撃した士官は内地に戻された.
 この田中を襲撃した士官が,後に五・一五事件を起こす三上卓中尉である.

●満州国建国前,この国の政治首班に誰を据えるかの議論をしたとき,山東省に居た孔子の子孫を首班に据える案がでた.

●リットン調査団が満州に来た時,リットンも他の随行員も,蒋介石,張作良よりも,溥儀の方が人物が上,と評価していた.

ベタ藤原 in mixi,2007年02月06日09:08

 昭和史なワシのばーさん.

・京都生まれだがかなり良家ぽい

・その証拠に京都から東京の師範学校に進学

・学校ではトイレでタバコ吸ってたらしい

・そうするうちに関東大震災に遭遇

・学校が焼けたので辞めて京都に帰る

・帰ったら,養豚場の息子さんとの縁談が来た

・養豚場が嫌なので逃亡

・逃亡して満州に渡る

・このあと数年間空白,関東軍の従軍看護婦になってたりしたらしい

・満鉄職員の祖父と結婚

・敗戦後引き揚げ

 よくわからんのは,大正から昭和初期の10代女性が,ほいほいと満州にいったりするもんなんだろうか?と言う事だが( ・・)/

緑川だむ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年07月15日 12:39

兵庫県の尋常小学校6年生が書いた4コマ漫画を絵葉書にした物
 裏には満州事変記念の文字が印刷されています.
 いや,凄いです.
 何が凄いかと言うと,これを印刷して売っていたという事.
 中国兵が青龍刀を持っていたり,「〜ある」「〜よろしい」等,戦後も広く流布された中国人訛りのスタンダードが,既にここに見られるというのは,比較文化論的にも面白い現象です.

 また,このダルマの様な戦車も凄いのですが,これは当時の軍事教練で使われたハリボテ戦車を思わされます.
 ましかしたら,この小学生も似た様な物を眼にしていたのでしょうか?

 この漫画を描いた作者は,まだお元気なのでしょうか?
 覚えているのでしょうかねー.

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月28日02:12


 【質問】
 柳条湖事件に使われた爆薬の威力は?

 【回答】
 レールと枕木の被害は『奉天駅史』によれば,
「長春側軌条約一0サンチ,大連側軌条約七〇サンチ破損」

 どうやら破損個所がコーナ-部分だったため,ほとんど列車走行に影響しなかったということらしい.

 爆発が小規模だったのは花谷証言によれば以下の通り,
「今度は列車をひつくり返す必要はないばかりか,満鉄線を走る列車に被害を与えないようにせねばならぬ.
 そこで工兵に計算させて見ると,直線部分なら片方のレールが少々の長さに亘つて切断されても,尚高速力の列車であると一時傾いて,すぐ又走り去つてしまうことが出来る.
 その安全な長さを調べて,使用爆薬量を定めた」

ヨッチ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 柳条湖事件の動機は?

 【回答】
 参謀本部次長福島安正が作り上げた,在外公館の武官によって行われる諜報活動,工作活動と言うのは,それなりに成果を上げました.
 しかし,1919年のシベリア出兵の様に,戦争が大規模化し長期化すると,こうした片手間な体制では情報収集や工作活動が不十分になると言う弊害も生み出します.

 そこで,組織的に情報収集や工作活動を行うために,シベリア派遣軍が駐屯する要地,つまり,ウラジオストク,ハバロフスク,ブラゴベシチェンスク,哈爾浜,チタ,イルクーツク,オムスクの各地に特務機関が設置され,現地工作を担うことになります.

 シベリア撤兵後は,対ソ戦の見地から,ソ連に程近い満州北部の満洲里,黒河,綏芬河に設置され,ソ連地域への浸透工作を行っていました.
 一方,軍人にはソ満国境地帯,満州一帯での調査活動を禁止していたので,彼らは屡々民間人,特に南満州鉄道に出向の形で民間人となり,それを隠れ蓑に情報収集や工作活動を続けました.

 こうした特務機関の情報将校の一人に神田正種と言う将校がいました.
 彼は1919年に陸軍大学を卒業後,1920年4月に参謀本部第二部ロシア班に配属されたのを皮切りに,1922年3月にウラジオストク特務機関の業務補佐,6月には黒河特務機関に転属し,対ソ情報活動に従事しました.
 1924年3月に,この黒河特務機関が閉鎖になると,一旦ロシア班に戻りますが,1925年8月からは満鉄哈爾浜支社調査課嘱託として出向し,1927年12月までそこを拠点に情報収集,工作活動を進めたという,根っからのスパイマスターな人です.

 満鉄に出向している際に,彼は,将来勃発するであろうソ連との衝突に備え,日ソ両軍の衝突地点と目された地点を実地探査し,兵要地誌を作成します.
 彼はソ連の実力について,当時は革命の混乱から立ち直り,シベリア鉄道の輸送力も回復,有事の際にソ連が軍隊を移動する能力が向上していると喝破し,それに比べ,日本は関東軍が遼東半島に駐屯するにも関わらず,主要兵力を内地から送る必要があり,動員に多くの時間を費やすであろうと予測し,日ソ両軍の衝突地点は,シベリア鉄道沿線ではなく,東支鉄道の沿線,特に斉斉哈爾辺りであろうと予想し,それに勝利する為には,ソ連軍の移動に最も力を発揮する鉄道の破壊工作と,日本の生命線たる南満州鉄道の保護に最も力を注ぐ必要があると考えました.

 この為,彼は大興安嶺付近,ホロンバイル草原の調査活動,満鉄所蔵の各種ロシア関係資料の収集,精査,東支鉄道関係資料の収集に加え,1927年3月から7月にかけて実際にシベリア鉄道を用いて欧州出張まで行い,モスクワでは鉄道関係資料の収集に輸送力の算定までやってのけました.

 1927年秋にはこれらの資料を基に,『満州沿海州経略私案』を自費出版すると共に,1928年にはロシア班長の笠原幸雄と駐旅順関東軍司令部付大佐の河本大作に対し,『対露謀略要綱』を提出しています.
 その骨子は前述の通りですが,当時張学良政権との関係が悪化し,東支鉄道の日本軍による利用は先ず望めないものであり,ソ連が進出した場合でも張学良軍がそれを阻止する事はないと言う考えを述べており,日本が先ず採るべき方策としては,東支鉄道の破壊工作を重点的に行い,満州北部を防衛すると言う考えでした.

 その後,彼は朝鮮軍の情報参謀として転出しますが,間島地方での謀略活動と其処を起点にした沿海州に対する情報収集,工作活動を展開していきます.

 こうした活動の中で,元々満洲防衛を主体とした考えは,満洲の軍事占領,植民地化へと変貌し,最終的に板垣征四郎,石原完爾らと協力して満洲事変に関与していくことになりました.
 つまり,満洲防衛の為には,満洲を自由に使用し,経済力を培養する必要がある事,また,ソ連に対する鉄道網の整備を行う事が必要で,それを現在の張学良政権を始めとする軍閥には任せておけない,と言うことは,日本が満洲を経営するしかない,となっていった訳で.

 こうして,石原完爾,第二部第四班長の橋本欣五郎等と幾たびか会合を持ち,朝鮮軍司令官が彼らの活動を快く思っていなかった南次郎から林銑十郎に代わったことで,具体性を帯び,遂に柳条湖事件(1931/9/18)を引き起こしました.

 朝鮮軍はこの時,関東軍を支援して満洲に越境出動したのですが,これは統帥権の侵犯であり,陸軍刑法に十分抵触する行為です.
 朝鮮軍は天皇直隷の軍の一つであり,朝鮮半島の守備を任されている訳で,この範囲外に出る場合は,天皇の事前の勅裁乃至,事後に於ける勅許が必要となります.
 さらに,作戦動員計画に対しては参謀総長の区処を得る必要がありました.

 これを無視した林銑十郎の行為は,宮中,参謀本部,若槻礼次郎内閣でも認められず,進発部隊である第20師団歩兵第39旅団は進発停止の命令を受け,新義州にとどめ置かれました.
 しかし,林銑十郎はこれをも無視する形で越境を命じた訳です.
 この行為が元で,林銑十郎は以後,「越境将軍」と言う不名誉な名前を奉られることになります.

 しかし,彼の信念の底には,意外なのですが,トゥラン主義がありました.
 つまり,朝鮮,満洲,モンゴルの諸民族は日本人と同様,ウラル=アルタイ語族に属し,これらは広い意味でのトゥラン民族であり,将来的にはこれらを合わせた一つの大国家建設に向かっていくべきだとの考えです.
 林銑十郎は,朝鮮,満洲,モンゴルの諸民族は,日本の支援を得て,満洲において一つの国を建設していくのだと考えており,これであれば,民族自決の理にも適う訳で,国際世論も納得するであろうと言う読みでした.

 因みに,林銑十郎と言う人,朝鮮軍司令官の後,1934年1月から1935年9月まで陸軍大臣に就任,さらに1937年2月から6月の短期間ですが,内閣総理大臣にも就任しています.
 で,内閣総理大臣退任後,何と大日本回教協会の会長に就任しました.

 まぁ,一種ロマンな人だったりする訳ですが,それに振り回されて,そのロマンの為に15年間戦争の真っ直中に置かれた国民は,悲劇だったのかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/30 21:13


 【質問】
 政府や陸軍中枢が満州事変を事前に止められなかったのはなぜなのでしょうか?
 いくらなんでも,一個師団丸々が独断で動くとしたら,バレそうな気がするのですが…

 【回答】
 事変が起こる前としたら,バッチリばれていました.
 しかし,先の三月事件程度のクーデターごっこと舐めていたのか,あまり本気で止めるつもりがない,若しくはちょっときつく言えば止めれると思っていた模様.

 満鉄爆破は1931年9月28日に予定していたが,現地で金で買収した大陸浪人が酔って計画を喋った所為で,弾薬や軍需品を集めているという情報が漏れて,これが政府に伝わりました.
 政府は計画を止めるため,参謀本部第一作戦部長の建川美次少将を満州に派遣しました.
 建川は18日午後に奉天に到着,その夜に招かれた料亭で
『君らの事は半分バレた.
 中央は止めよという.
 自分の意見は,うまくやるならやれ,駄目なら止めた方がよかろう,というものだ』
と話し,酔いつぶれて寝込んでしまいまた.

 中央が本気で止める気がないと察した石原たちは,昭和6年9月18日深夜,計画通りに鉄道爆破を実行.
 建川自身は
『まさか,その夜やるとは思っていなかった』
と後に回想していました.

 また,本来関東軍を真っ先に止めるべき筈の憲兵隊も事実上,関東軍に支配されており,その役割を果たしていませんでした.

 事変の最中に関して言うのなら,関東軍の進撃の速度が速過ぎて,国際連盟内で停戦や兵の引き上げを話し合っている間に戦果が既成事実として出来上がっていたのもあります.
 事変後ほぼ三日で関東軍は満州の中央部を抑え,朝鮮軍は東部を確保.
 残るのは,満州北部と,長城線に近い西部だけとなっていました.
 また,石原は予てから意を通じていた朝日新聞を通してに戦況を流し,更には苦戦を演じて,国民からの熱烈な支持を得ることに成功しています.
 この世論が,中途半端に民主政治を行なっていた日本政府の不拡大方針を曲げてしまう事になります.
 元老の西園寺公望さえも
「幣原外交は正統派で間違いがないと支持してきたが,いかに正しいことでも,国論が挙げて,非なり悪なりとするに至っては,生きた外交をするうえでは考え直さねばならない」
と洩らす状態でした.

 そしてその後,板垣,石原の工作で,満州の軍閥各指導者らは,シナ本土からの分離独立を宣言しました.
 こうなると,早期撤退の問題もなくなり,また,
「満州の独立は満州人自身の意思だ」
という既成事実が作られました.

軍事板,2005/12/18(日)
青文字:加筆改修部分

▼ グラフ雑誌「歴史写真」昭和8年5月号の扉に掲載された,満州事変・熱河討伐隊における川原部隊の田中挺身支隊,池上少尉が率いる「髑髏隊」の着色カラー写真
 白黒写真にはあった髑髏白抜き日の丸旗の左右の文字は,修正されて消された様でした.
 キャプションには,「“髑髏隊の武勲”池上少尉の一隊 古北口の一番乗」とあります.

 この髑髏の記章は,おそらく一次大戦のイタリアのアルディーティ兵や,オーストリア/ハンガリー帝国のストゥルムトルッペからの影響が強いと思うのですが,どうでしょう?

よしぞう(maro') in mixi,2006年11月06日02:06

着色カラー写真の元になった写真
 白抜き髑髏の日の丸旗や大小異なる白抜き髑髏の赤い腕章,雑誌ではトリミングされていた左右の兵士等も確認出来ます.
 おそらく新聞社が撮影した報道写真を焼き増しした物でしょう.

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月18日19:11


 【質問】
 満州事変は本国に独断で行なわれたのなら,その資金はどこから調達されたのでしょうか?

 【回答】
 中公新書だったかに,当時の日本の植民地支配を支えた金融政策をうまくまとめた本があるよ.
 早い話,朝鮮銀行や中国に日本が開設した銀行に紙幣を乱発させ,資金を得ていたのさ.
 でも軍は,それが日本に輸入インフレとして入ってきてしまうことまでは考えが及ばなかったようだ.
 これによる日本経済の破綻が,あの戦争の重要な要因だったりもする.
 中国でのアヘン経営資金は事実上,岸信介個人の活動資金の一部しか賄えなかったという説もある .
 で,岸は日本に帰る際,この資金だけじゃ足りなくて,現地物資を大量に横領隠匿横流ししたりして,戦後の政治活動資金を得たりしたわけだ.


 【質問】
 エルサルバトルはなぜ日本の次に満州国を承認したの??
 日本となんにも関係無い上,アメリカの支配権の国なのに.

 【回答】
 エルサルバドルと日本は全く無関係な国ではない.

 1932年にエルサルバドルのアラウホ大統領が青年将校のクーデターで倒され,エルナンデス臨時大統領が政権の座についた折,米国,中米諸国その他の各国は,革命政権不承認の原則をうたった1923年の中米条約を尊重して,いずれも承認を行なわなかった.
 しかし,そのクーデター政権を日本は,天皇の名において承認し,エルナンデスの就任通知の親書に丁寧な返書を寄せた.
 これに依り両国の友好関係が樹立されている.
 当時のエルサルバドルが「満洲国」を実質的に,一番最初に承認したのはこの様な経緯から,という見方がある.

 しかし一方,WW2時には日本に躊躇無く宣戦布告しているあたり,エルサルバドル的にはどうでもよかったようにも思える.

 当時の大統領がかなり頭おかしくて,外交は全部,占いで決めてたって話だ.
 満州国承認も占いの結果で決めたとかなんとか.
 当然アメリカの怒りを買ったのは言うまでもない.
 エルサルバドルはリットン調査団の日本非難勧告にも賛成している,マルティネスが神秘主義や魔術に傾倒してたのは有名な話だし,巫女に占わせて満州国承認を即決という俗説も,信憑性は高い気がする.

 ちなみにエルサルバドルは「中米の日本」と呼ばれているが,これは親日国という意味ではなく,勤勉だ,という意味らしい.⇒more

世界史板
憑かれた大学隠棲 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「満鉄付属地」とは?

 【回答】
 ポーツマス条約により,東清鉄道の一部を承継した日本は,ロシアからその鉄道付属地の権益も継承します.
これが満鉄付属地と呼ばれる地域です.
 この地域は,南満州鉄道が土木・教育・衛生などを担当していましたが,名目上は中国の主権下にありました.
 実質上は,中国から見れば治外法権地域に相当していましたが….

 序でに,関東州も租借地として継承しますが,こちらは日本の主権下にある地域として,関東都督府(後の関東庁)の管轄下に置かれ,その都督府配下にあり,関東州を防衛する為の駐留日本軍が,後の関東軍になっていきます.

 当時の中国には,彼方此方に列強各国の租借地,租界,治外法権地域が存在し,彼らはその治外法権を援用する形で,中国の主要都市に自国郵便局の出張所を設け,自国に差し立てる郵便物は,国内扱いとしていました.

 1922年にようやく,中国の主権尊重,領土保全と門戸開放を原則とする九ヵ国条約が日本,英国,米国,フランス,イタリア,オランダ,ベルギー,ポルトガルと中国との間に締結され,年末限りで各国が設けていた郵便局を閉鎖する事で同意します.
 日本の場合,65カ所の郵便局,93カ所の切手売捌き所,148カ所のポストを撤去しています.

 閉鎖されたと言っても,租借地の郵便局は其の儘だった訳ですが,此処で問題になったのが,満鉄付属地の問題です.
 日本側が,租借地と同等と主張したのに対し,中国側は鉄道の付属地という特殊形態の所有地なので,中国の主権下にあると見做すとして対立.

 結局この地域の扱いは継続審議事項となり,付属地内には日中双方の郵便局が設置され,満鉄付属地相互の郵便物は,中国側の料金より低くする事は出来なくなりました.
 そのため,関東庁郵政局では域内専用の葉書を作成したり,また,付属地から中国宛の郵便物を差出す時は,中国郵政発行の切手を用いなければならないのですが,日本側から差出した場合,日本側で切手を貼り替えて中国側に引き渡す方法が採られていました.
 この為,日本側は貼替え用の切手代を予算計上しておかねばなりませんでした.

 さて,関東軍の影響下に満州国が出来た後,付属地の扱いは微妙となります.
 元々の関東軍の存在意義は,外敵から満鉄や関東州を守ると言うものでした.
 ところが,関東軍の影響下で満州国が成立してしまうと,その満鉄付属地周辺には敵がいなくなります.
 そうなると,付属地の存在意義も無くなりますので,1937年11月5日に「満州国ニ於ケル治外法権ノ撤廃及南満州鉄道株式会社付属地ノ行政権ノ委譲ニ関スル日本国満洲国間条約」により,12月1日を以て満鉄付属地の返還が決定され,満州国に於ける日本の治外法権は消滅しました.

 但し,関東州は従来通り日本の租借地となっています.

 こうして付属地内の日本の郵便局は閉鎖となり,付属地でも日本切手に代わって満洲切手が使用する事になりました.

 ところで治外法権撤廃の為には,満州国が法治国家であるという体裁がなければなりません.
 このため満州国では日本法を元にして,刑法,民法,民事訴訟法を公布した他,1941年には日本の治安維持法と同じ治安維持法が公布されました.

 因みに日本の官僚達は,満洲人や中国人から「法匪」と揶揄されるくらいの多量の法律を作りますが,近代国家には必ず有るはずの憲法は公布されず,また,満州国の国民の資格,国民の国家に対する権利と義務を定めた国籍法は存在しませんでした.

 もっとも,日本の国籍法は二重国籍を認めていなかった為,国籍法を作ってしまうと,在留邦人は満洲国籍を取得しなければならず,そうなると,日本国籍は喪失してしまう訳で…この為,国籍法は作られなかったのだと言う説があります.

 但し,満州国人民の権利・義務に関しては,1934年に公布された人権保障法が規定していました.
 とは言え,その前文には,その適用は「戦時若しくは非常事変の場合を除く」とされており,実質上機能していないと言っても過言ではなかったかも知れません.

 更に付属地の返還は,国家としての制度的な整合性を取る為に各方面に影響を及ぼしていました.

 赤十字もその一つで,満州国には1934年に溥儀が皇帝となった際の下賜金100万円を元にした恩賜普済会が活動していましたが,付属地と関東州は日本国の延長と言う事で,日本赤十字社満洲委員本部が活動していました.

 赤十字の活動は,戦地・紛争地のあらゆる攻撃から無条件で保護される為に,標章は赤十字社のみが使える事になっています.
 また,赤十字の加盟国では赤十字社とそれに相当する組織は一つの国の中で単一でなければ成りません.

 このため,付属地が返還されてしまうと,日本と満洲双方の赤十字が併存してしまい,赤十字の大原則に抵触してしまう為,関東州以外は,1938年10月1日に満洲側の恩賜普済会と日本側の日本赤十字社満洲委員本部を統合した財団法人満州国赤十字社が誕生します.

 但し,これまた満州国赤十字社は国際赤十字の正式メンバーになれなかった為,あくまでもこれは私的機関に過ぎませんでした.
 とは言え,満州国の領域内で赤十字活動が出来ないのは問題なので,国際赤十字は,満州国赤十字社の存在を黙認するという立場を取った訳です.

 黙認された存在とは言え,一応,国際機関のお墨付きを得た事は満州国にとって,国際社会との交流窓口が出来た事を意味し,目出度いと言う事で,その設立日には大々的に祝賀行事をしたりしています.

 それ自体,冷静に考えれば,非常に空しいものなのですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月29日21:58


 【質問】
 満州国の郵便事情は?

 【回答】
 柳条湖事件に端を発した満州事変で,関東軍は,1931年の年末までに東北部の殆どを占領します.

 しかし中国東北部に於ては元々,1928年の満洲易幟により,中華民国の一部として中華郵政の領域に入っていました.
 ところが関東軍の占領後も,郵便事業については明確なビジョンが関東軍側になく,中華郵政がずっと郵便事業を続けることになります.

 これは1932年1月の錦州陥落以後,東北部全土が関東軍の占領下にあっても,海関と郵政はそのまま存続していました.
 と言うのも海関は,列強に対し中国が負った賠償や内外債償還の担保で,列強諸国の管理下にあった為,日本も無闇に手出しが出来なかったですし,中華郵政については,清朝が倒れ中華民国が出来た時や,軍閥の内戦に於ても,各勢力からその中立性が認められ,満洲地域を含む,中国全土の郵便事業を一括して中華郵政が担うことが暗黙の了解事項となっていました.

 とは言え名目上,日本は中国から東北三省を独立させ,満州国と言う新国家を樹立した訳ですから,独立した郵政事業を発足させる事を考えます.

 当時,吉林省と黒龍江省は哈爾浜にある吉黒郵政管理局が担い,奉天省は奉天にある遼寧郵政管理局が担っていました.
 これらの管理局長には外国人が就任しており,奉天はイタリア人,哈爾浜は英国人でした.

 これを接収して郵政事業を展開しようとした訳ですが,その矢面に立ったのは,関東庁逓信局です.
 この関東庁逓信局は,日本の租借地であった関東州と満鉄付属地の電信・電話を統轄していた機関で,中国側との交渉に於て,外国人局長の留任,一般職員の継続雇用,郵貯(当時100万円の貯金額があった)の新国家の支払保証をすると反面,施設,資金の押収すると言う条件を付け,かつ,中国政府と新政府の紛争は関東庁逓信局が斡旋すると言う案を作り,1932年3月に関東庁逓信局,奉天の日本領事館,関東軍の協議で承認され,本国の閣議決定を経て,4月1日に実行に移されました.

 ところが,中華郵政側は日本側が接収を強行するなら,郵便・為替・貯金業務を完全停止すると通告して抵抗.

 当時,Lytton調査団が来満していた事もあり,日本も手荒な真似は出来ず,4月25日に東三省の郵政は現状維持で,職員待遇も従来通り,郵便料金,取扱方法,規定,記帳法,中国本土や外国との郵便交換も従来通り,収支は満州国の検査を受けるものの,剰余金は哈爾浜,奉天の郵務長が保管,為替は臨時規定で対処,貯金は別に協議すると言う妥協で,日本側(満州国側)は中華郵政を接収し,中華郵政としては一体化した運営を継続するという玉虫色の妥協が成立しました.

 因みに郵便料金については,当時中国は世界最大の銀保有国でしたので,銀本位制が取られていました.
 但し紙幣は雑種幣制だったため,1926年秋の蒋介石の北伐以降,東三省の紙幣は銀貨に対して暴落,東三省の紙幣1円が本土の銀貨8角(中国の通貨単位は1円=10角=100分)に下落した為,東北の1円で切手を購入し,それを1円分の切手として,上海や南京に持って行って換金して差益を得る投機が横行する様になりました.
何と言っても中国郵政は全土で統一的なサービスを展開していましたから….

 このため,東三省で発行された中華郵政の切手には「限吉黒貼用」と言う文字を加刷し,これは東三省だけで通用する様にしていました.
 ですから,中華郵政的には余り痛手を受けませんでした.
 ただ,消印は民国歴になっていた為,満州国側が不快感を示します.
 とは言え,大同年号を使えば今度は本土側が反発しますから,結果的に,6月以降消印は西暦で日付表示をすることで妥協が成立しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月26日22:22

 中華郵政の接収と並行して,満州国は独自の切手を発行する事で作業を進めます.
 しかし,切手の正式な発行日も決まっておらず,何時必要になるか判らなかったので,日本で印刷されたそれの最初のロットは,オフセット印刷に普通紙で納品されました.

 日本切手の様に,凹版印刷に透かしと毛紙を使った手数のかかる切手が発行されたのは1934年以降になります.

 切手の作成等と前後して,満州国に郵便事業を管轄する郵務司が交通部の外局に設置され,万国郵便連合への加盟も申請され,愈中華郵政の接収が始まります.
 この時の条件は,中華郵政接収後に発生した経済損失の補填, 中国側の上海(郵政総局の所在地)からの東三省への職員増強への反対と,南下希望者の名簿提出要求,日本人監察官を奉天と哈爾浜に派遣を満洲側が出していました.

 しかし,万国郵便連合は1932年6月25日に満州国の加盟却下を通達します.

 不利な満洲側ですが,既成事実を盾に交渉を続け,最終的に新切手の発行と中華郵政切手との等価交換の実施,為替の満州国移管と東三省地域での中華郵政の為替の無効,南下職員への不干渉,郵政監察官の派遣と南下希望以外の職員達への現状地位の維持と言う条件が中華郵政の東三省代表と満洲側代表との交渉で合意されました.

 これで満洲側(日本側)は安心し,8月1日には新切手発行と高を括っていたのですが,7月23日に南京の中国国民政府交通部は声明を発表し,東三省の郵政全面閉鎖を宣言します.
 奉天の郵政管理局では,局長が最後の仕事として局舎の正面に閉鎖告知文を掲示.

 そして,7月25日までに満洲側の担当者が奉天の郵政管理局に駆付けると,局内は5〜6人の守衛がいるだけで,残りの職員は逃散してしまいました.

 満洲側の郵政最高責任者(日本の逓信省工務局庶務課長が出向)等幹部は周章狼狽しますが,取り敢ず体裁を整える為,新切手の発行を1日休んだだけの7月26日から開始することになりました.

 で,7月26日に郵政の再開を内外に喧伝するのですが,郵政事業の大半を占めていた中国系職員がいなくなったために実質的な業務は出来ず,奉天郵便局の売上は,切手150枚(70組程度),葉書26枚,小包引受1個で為替に至っては引受0と惨憺たる有様でした.

 さて,こうなると翌日から業務が停止するかと言えば然に非ず.
 郵政管理局には,逃散した職員に代わって自分を雇って欲しいと言う求職者が殺到し,警官隊が出動する騒ぎになりました.

 こうして,満州国の郵政は多難なスタートを切った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月27日21:31

 1932年7月,中華郵政は,東三省地域からの撤退に当たり,次の様に声明を出しています.

――――――

 業務停止期間中,欧米各地宛の郵便物はシベリアを経由せず,スエズ運河あるいは太平洋経由で逓送する様改め,万国郵便連合加盟国の郵便局は,中国と各国との往来郵便物もこれに準じて扱って欲しい.
 東三省に於て発行される切手は,中国郵政総局の許可を得ずに発行されたものであり,これは絶対に承認せず,この種の切手を貼った各種書状や小包は,全て料金不足として処理する.

――――――

 この声明に従って,満州国から差し出された郵便物は,山海関以南に逓送された場合,差出人に変装するまでに至りませんが,其処に貼付されている切手は無効として扱い,中国側では料金未納郵便として扱われ,受取人は不足金額を納付して受け取ると言う様な形になっていました.

 この措置が執られたのは基本的に中国のみで,他の万国郵便連合加盟国は,満州国の切手が貼られた郵便物であっても,料金未納とはせずに受付けています.
 但しその扱いは,満州国の承認国以外は,日本国の属領で発行されたものと見做していたようです.

 とは言え,満州国が東三省と熱河省を統治しているのは間違いない訳で,何時までも意地を張って,料金未納扱いにするのも中国としても,この地域との経済活動を益々日本側に追いやってしまいます,
 しかも塘沽停戦協定の発効で,事実上満州国の支配を追認せざるを得なくなると,中満間の郵政当局で協議が行われ,1934年11月24日に,満華通郵協定が両国との間で締結され,1935年1月から,満州国と中国との郵便物交換が再開されることとなりました.

 この時定められたのは,妥協の産物で,中国側が満州国の切手や葉書の有効性を認める代り,中国宛に満洲から差し立てられる郵便物には,満州国(後には満洲帝国)の表示を用いない,満州国の年号を用いない,満州国になった際に改名された都市名の消印を用いないと言う条件が付きました.
 これに従って満州国側は,満華通郵切手と呼ばれる,国名なしの専用切手を発行します.

 ただ,そんな事を知らない一般庶民や,末端の郵便局で中国宛の郵便物を,知らずに消印作業することもあります.
 そんな場合は,中華郵政側は違反部分(郵便物の国名の文字や年号など)を塗りつぶし,切手の場合は未納扱いにしていました.
 が,この未納となった郵便料金は受取人負担ではなく,中国側の窓口であった山海関の交換局で負担していました.

 対外的にはこんな感じで,国としての体裁を一所懸命整えていた満州国ですが,一方,日本との関係はどうか,と言うと,満州国は中国から分離独立したと言う体裁を為している為,本来ならば,1922年締結の日支間郵便物交換約定,日支間価格表記書状及び箱物交換約定,日支間小包郵便物交換約定,日支間郵便為替約定をそのまま継続した上で,必要ならそれを改訂すると言う形を取らねばならないのに,これらは全て廃止され,1935年12月26日に調印された,日満郵便条約で新しく規定されました.

 一般に郵便関係の条約は,1922年の日中間の様に,各郵便物や為替を別々の約定で規定するのが慣例ですが,満州国と日本の間は,一つの条約で規定されていると共に,その条約に於て,日本と満州国を「単一の郵便境域」と規定していました.

 「単一の郵便境域」というのは,万国郵便連合憲章では,「万国郵便連合の文書の締約国が継越の自由を尊重した上で通常郵便物の相互交換を確保し,及び他の領域又は地域からの継越郵便物を差別することなく自国の郵便物と同様に取扱う義務を負う地域」となっています.

 即ち,その国から見て,「国内」扱いで郵便を届ける範囲であり,単一の郵便境域内の郵便料金には,基本的に国内便の料金が適用される訳です.

 と言う事は,日本からすると,「満州国の支配地域は,国内の一地方」と宣言した事になったりします.(あれ?

 更に,条約では日満間の郵便制度を可能な限り統一する事も謳われていました.
 当然,日本の制度を弄る事は全く考えていない訳ですから,これ又,満州国郵政其の物を日本の制度に合わせると言うものです.

 郵便一つ取ってみても,日本が主張していた,満州国は独立国だ,と言うのは根拠に乏しいモノだったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月28日22:25


 【質問】
 満州事変以降,対中貿易が激減していますが,これって「満州事変以外」の要因もあるのでしょうか?
 幣原外交によって,対中貿易が拡大→満州事変で消し飛んだと言う認識なのですが,他の要因をご存知でしたら教えてください.

ますたーあじあ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 大陸との貿易窓口で一番大きな場所と言えば上海です.
 しかし上海では1931年の満州事変以後,排日ボイコットが為され,中国全体として日本製品の輸入が低調となった上に,1932年の上海事変で,上海を経由した日本からの物流が完全に途絶したのが大きいのではないか,と思います.

 実際,神戸と長崎の華僑貿易も,これを境に扱い数量がガクンと減っています.
 でもって,上海事変が一段落しても,日本製品ボイコットは続けられ,上海に進出していた日本人商人や,日本に居た華僑の対面にいた中国側の商人も,日本商品を扱いにくくなり(場合によっては身の危険もあり),結局,日本人商人は上海から撤収.
 日本に居た華僑も商売にならないので,本国に撤収していっており,相対的に貿易が細っていったと言う感じです.

 また,台湾を経由した華南地方との三角交易も,同様に大陸側に窓口が無くなった為,下火になっていき,台湾は域内貿易で生きる事を余儀なくされています.

 これに追い打ちを掛けたのが,日中戦争の勃発と第二次上海事変の勃発ですけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 田中義一は,その内規に照らし合わせると陸軍大臣としての条件を満たしていなかったから,東条英機みたいな「陸軍大臣兼務」が出来なかったということで良いでしょうか?

 【回答】
 陸軍大臣は,現行の陸軍大臣,参謀総長,教育総監の三長官一致の原則としていました.
 とは言え,これは建前で,他にも陸軍次官,人事局長の進言・情報,軍の長老クラス,特に皇族,元帥,軍事参議官其の他,大将クラスの意向も無視できません.

 また,彼の場合は,将官とは言え,予備役もしくは後備役の人物です.
 幾ら,大正2年の改正で現役でなくてもよい,とは言え,現役に拘る軍内の意向を無視することが不可能です.

 ちなみに,東条英機の場合は,陸軍次官と参謀次長の談合で決まったりします.
 彼の場合は,未だ退役している訳ではないので,昭和11年の官制改正で規定された規程に合っています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 満州事変に対する中国の軍事的抵抗って,どの程度の規模だったのですか?
 当時の国民党は満州の防衛よりも,共産党との戦いを重視していて,満州事変に対する抵抗は比較的小規模だったと聞きましたが…
 実際,中国は満州の防衛にそれほど積極的じゃなかったんですか?

 【回答】
 蒋介石にとってみれば,張学良は本来は敵です.
 偶々,日本の圧迫によって,孤立を恐れた張学良が易幟を宣言し,国民党政府の傘下に入ったに過ぎません.

 但し孫文時代の国民党は,張作霖とは反直隷の三角軍事同盟を締結しており,張学良の帰順は,国民党の大部分からすれば全く異議が無く,今更討伐するにも張学良自身が東三省を堅守していたので,伸張してきた新たな敵である共産党に対し,自身の兵力を温存することにし,張学良を東北辺防総司令官として,東三省の支配を従来通り認め,間接支配をすることに決めた訳で.

 満州事変が勃発した時期,中国国内では,蒋介石の方針に反発した西北軍が,閻錫山を筆頭に,汪精衛,李宗仁,馮玉祥らと共に,北平に汪精衛中心の南京政府とは別の政府を樹立します.
 中原会戦は1930年5月から8ヶ月にわたって行われ,動員兵力100万以上,死傷者30万人と言う大会戦でした.
 これは蒋介石に張学良が味方し,馮玉祥らの敗戦が確定しますが,直ぐ後に,胡漢民が蒋介石に楯突き,蒋介石は胡漢民を幽閉.
 これに反発した広東出身の国民党元老が激怒し,胡漢民と汪精衛を中心に広東政権を樹立することになります.

 この戦乱の最中に関東軍が起こしたのが満州事変で,これに対し,蒋介石は「不抵抗主義」を指令します.
 これは,蒋介石が先ず「安内攘外」と「以夷制夷」,即ち国内の安定後,外国の排斥,その外国を用いて,その圧力で日本という外夷を制すると言う戦略を取っていた為です.
 実際には,日本は国際連盟のLytton報告を受容れず,其の儘国際連盟を脱退してしまい,各国はそれに対する有効な手段を持っていなかった為に,頓挫することになります.

 但し,民衆レベルでは,所謂馬賊による抵抗運動が行われ,その平定に日本軍は手を焼くことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/08/24(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1930年代の日本軍の,ソ連軍についての認識は?

 【回答】
 当時の日本軍の関心は,宿敵であったロシア(ソ連)に注がれていました.
 帝政ロシアが崩壊し,ソ連邦になった後も機械化が進められていた赤軍の現況に対する脅威認識の程度が,対ソ軍備のレベルを決定する基準になっていました.

 昭和六年に最初の日ソ交換隊付将校となった宮野正年大尉は,ソ連から帰国して間もなく,省部首脳や諸学校の幹部多数に対して,赤軍の編成装備,戦法及び訓練の要領についての報告,説明を行いましたが・・・
 十分な共感を得ることが出来ませんでした.

 この一連の理解不足を嘆いた宮野大尉は,
「特に中央上層部のが根本的に頭の切り替えをするのでなければ,わが軍はたちまちソ連軍に引き離されてしまうであろう.」
と結んだところ,第一次世界大戦間,ロシア軍の従軍武官であった参謀本部第三部長の小畑敏四郎少将は,宮野大尉に対して,「恐ソ病」であると強く戒めたそうです.

 上記のように赤軍近代化の実態が至当に認識されなかった理由として

T 軍部の指導者が,日露戦争・第一次世界大戦を通じた帝政ロシア軍の印象を変えなかった.

U 赤軍を帝政ロシア軍と同一視し,「民族的特性は不変」と評価していた.

V 革命後の赤軍は,赤軍大粛清により幹部の質が大幅に低下していたことが,実態の把握を困難にしていた.

 以上三つの理由が挙げられます.

 この赤軍に対する認識の甘さが後々,大きなダメージとして日本軍に降りかかってくるのでした.

<参考文献>
機甲戦の理論と歴史 ストラテジー選書
葛原 和三著 戦略研究学会編集 川村 康之監修

CRS@空挺軍 in mixi,2009年08月02日16:00
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 つかぬ事をお伺いしますが,1935〜1936年頃の関東軍(満洲国軍・朝鮮軍含む)の戦車の両数と飛行機の機数をお教え頂けませんでしょうか?
 35年末当時で在極東ソ連軍が14個師団24万人,対する関東軍が5個師団8万人と推定されていたデータは見つかったのですが,近代化の指標でもある戦車と飛行機の数を知りたいのです.

 恐れ入りますが,関東軍のものだけでも結構ですので教えて下さい(極東ソ連軍の数値があればなおよろしいのですが…)

 【回答】
 在満州・朝鮮の日本軍兵力
(編制装備の定数を基礎とし推定を加えたもの)
 【 】は極東ソ連軍の兵力(当時の参謀本部の判断).

        戦車           飛行機
昭和7年9月   50両 【 250両】 100機 【 200機】
昭和8年11月 100両 【 300両】  130機 【 350機】
昭和9年6月  120両 【 650両】  130機 【 500機】
昭和10年末  150両 【 850両】  220機 【 950機】
昭和11年末  150両 【1200両】  230機 【1200機】
昭和12年末  150両 【1500両】  250機 【1560機】
昭和13年末  170両 【1900両】  340機 【2000機】
昭和14年末  200両 【2200両】  560機 【2500機】
昭和15年末  450両 【2700両】  720機 【2800機】

 以上,戦史叢書「関東軍<1>」から転載.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【反論】
 なぜそんな結論〔『満州国を認めず,国際管理下に置く』という,リットン調査団の結論〕が出るのか?
 松岡洋右代表はこう反論した.
「アメリカ国民はパナマ運河地帯をそのような管理下に置くことに同意するだろうか?
 イギリス国民はエジプトに対するそのような管理を許すだろうか?」

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.219

 【再反論】
 ほほう,だから何なのかな?
 外相が自国を正当化する主張をするのは当り前だろう?

 それとだね,満州事変をパナマ/スエズに例えるならば,運河を爆破した上で,パナマ/エジプト側に濡れ衣を着せ,それを口実にしてパナマ/エジプト全土を占領するようなものなのだよ.
 松岡外相の弁明は,いかにも苦しいね.

 ところで小林君は,そのスエズ運河に関しては,こんなことを書いているね?

------------
 1956年10月,イスラエル軍がエジプトに軍事侵攻.

 それに対して
「イスラエルとエジプトの戦争から,スエズ運河を守る」
として,イギリス・フランスがエジプトに出兵.
 「スエズ戦争」が勃発した!

 実はこれは,イスラエル・イギリス・フランスが共謀して起こした,あからさまな侵略だった.

------------from 「SAPIO」 2004/4/14号,p.59

 類似ケースについて,片や肯定,片や「あからさまな侵略」と呼ぶのは,ダブスタではないのかね?

▼ ついでに言えば,リットン報告書は小林が言うほど偏ったものでもない.
 以下は,『全文リットン報告書』( ビジネス社,2006.11)を読んだ人の感想.

――――――
「この紛争(満洲事変)は,一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽くさずに,他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない.
 また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない.
 なぜなら満洲においては,世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ」(P306).
 ここで書かれているとおり,報告書をどう読んでみても,満洲事変は日本軍による侵略といったものではない,と読めるのである.

 報告書は日本語訳文で300余ページに及ぶ.
 巻末には英語の原文150ページも付けられている.
 あえて言うまでもないが,日本語訳文に疑問があれば原文にあたることも可能だ.

 そして,事変発生前における満洲の状況,日本が有する権益,日本が満洲経営に乗り出す背景,シナ側の排日・侮日行為の数々,事変の経過など,実に詳細・重厚なレポートである.
 あらためて満洲の「多くの特殊事情」がよく理解できる.
 こうしてみると,日本が国際連盟を脱退したことが如何にも愚策だったように思える.
 この公正なレポートであるリットン報告書を活用して,もっと上手な立ち回りができなかったものか・・・.

――――――としりん in 「BK1」,2007/01/31/10:51:39


 【質問】
 なぜ松岡外相は国際連盟決議の場から立ち去ったのか?

 【回答】
 まずもって,国際連盟脱退は閣議決定であり,国際連盟・19人委員会の勧告が出されて,満州国が承認されなかったら,脱退することは既に決定済みだった.

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 斉藤内閣は二月二十日の閣議で,連盟総会において第十五条四項に基づく勧告案が採択された場合は「連盟脱退の方針を定め帝国憲法下の手続きを執る」基本方針を決定した.

 手順としては,報告書の採択には反対投票を行い,代表の引揚げを実施する,
 この引揚が総会閉会に伴う当然の引揚と同一視されるのは政治的に面白くないので,
「帝国政府は日支紛争事件に関し,連盟と協力し得る限度に達したるもの認むる」
趣旨の声明を出す事など,ジュネーブに訓令した.
 閣議決定後,斉藤首相,内田外相は天皇に謁見,この旨を上奏した.

[/quote]
―――『満州国と国際連盟』(臼井勝美著,吉川弘文館,1995.5),162ページ

 んで,松岡は国際連盟からの脱退はしたくなかったと述べている.

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「満蒙問題に就いては,わが国の満蒙政策遂行上実質的に故障の起こらぬ限りは大概のことは我慢するという考えであって,できることなら連盟に留まって,過去十三年間世界も認めている通り,わが国も最も連盟に忠実なる国の一つであったことの歴史を継続して,以って尚,世界の平和の為に尽くすようにしたい」

[/quote]
―――同,165ページ

 松岡は確かに「あの場」では,国際連盟からの脱退に消極的だった.
 ただ,その閣議決定を引き出したのは,外務省連中の意見を汲んだ松岡だったりする.

[quote]

 ここで注目されるのは,第十五条四項の勧告書が通達されると,ジュネーブ代表部が従来の妥協的な態度から一転して,強硬措置の採択を政府,内田外相に迫った事である.
 すなわち,もし勧告案が総会で採決された場合は,
「我が方として単に代表部引揚げの如き姑息な手段はこの際とるべきに非ず」(十六日着)

「事茲に至りたる以上,何等遅疑する所なく断然脱退の措置を取るに非ずんば,徒に外間の嘲笑を招くに過ぎずと確信す」(十七日着)
という,脱退の実現を強硬に要請する電脳が,相継いで本省によせられた.
 松岡の発想であるが,長岡・佐藤も結局は同意した

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 ということで,閣議決定の元になった意見もまた松岡だったりする.

 ちなみに,19人委員会の十五条四項とは,リットン調査団の報告書第九章第七原則である
「中国の主権の下での満州の自治」
の事で,日本としては「満州国承認」が原則だったため,受け入れられなかった(というのが,当時の日本の主張)

ますたーあじあ in mixi,2008年03月19日23:29

 つまり,閣議決定された「国際連盟」からの脱退という案は松岡が出したけども,松岡自身は脱退したくはなかったということですか.それにしてもずいぶんと皮肉な結果になったんですね.
 個人的に思うのは,中国の主権の下での満州の自治という一方で,
「満州には,中国の主権下に自治政府を樹立する.
 この自治政権は,国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下,充分な行政権を持つものとする.
 満州は非武装地帯とし,国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う.
 日中両国は『不可侵条約』『通商条約』を結ぶ.
 ソ連がこれに参加を求めるのであれば,別途三国条約を締結する」
という条件は,かなり魅力的に思えます.

ヤン in mixi,2008年03月20日 00:39



 【質問】
>外務省連中の意見を汲んだ

 外務省は何で脱退志向だったので?

消印所沢 in mixi,2008年03月20日 22:56

 【回答】
 上に述べましたが,十九人委員会の

・主権は中国にある.
・満州における満州国の維持・承認は,日中両国の友好的承認が不可能である事.
・連盟は今後も満州国を承認しない事

という勧告案を出したからです.

 じゃ,なんでそれまであった「共同統治案」が消えたかと言うと,元々反対意見もあったのですが,論争の最中に,よりにもよって陸軍が「山関事件」なる,日中衝突を起こしたからです.
 しかも原因が
「現地守備隊の謀略」(他の作戦との関連性はなし)
だったので,特にスティムソンなどに「満州国否定」の正当性を与える事になってしまいました.

 このとき政府は不拡大だったのですが,劣化石原が沢山いた当時の日本では・・・.

ますたーあじあ in mixi,2008年03月21日 21:23


 【質問】
 日ソ関係が悪化し始めたのは,いつ頃からか? 

 【回答】
 1920年代の日ソ関係は普通に安定していた.
 当時のソ連内部では,東支鉄道を中心とする北満の勢力範囲を維持できるなら,日本の南満支配を認めるのもやむなし,という空気が強かった.
 これが悪化するのは満州事変で反共を掲げる「満州国」が成立し,日ソが緩衝地帯を失って直接国境を接するようになってから.
 要するに満州事変をやった結果,ソ連は極東地帯に初めて本格的に関心を寄せるようになった,ということ.

 事変以後に急増するようになる極東赤軍の配備状況がそれを端的に現している.
 第一この時期のソ連は干渉戦争や内戦からの復興問題もあって,あまり積極的な膨張主義的姿勢を取ることを避けており,それが膨張主義剥き出しの姿勢へ変化するようになるのはまだ先の40年代以降のこと.

(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in コヴァ板)


 【質問】
 戦前の日本は,国際連盟からの委任統治で南洋諸島を統治していましたよね?
 連盟脱退後も継続していたようですが,なぜ統治が認められたのでしょうか?

 【回答】
 別に連盟を脱退したからと言って,国際連盟との協力関係を絶ったわけではなく,国際司法裁判所,国際労働機関,その他諸委員会との関係は従来通りであり,1935年の第16回連盟通常総会では,国際司法裁判所判事に日本の長岡寿一が選出されてさえいます.

 尤も,日中戦争勃発後の1938年に,国際連盟理事会が対日制裁を決議したことにより,常設統治委員会,阿片諮問委員会,社会問題諮問委員会の政府委員派遣は停止,個人資格での参加も辞退させ,国際労働機関への協力も停止,国際司法裁判所については,脱退規定はないので,.拠出金支払いを停止し,後任判事を出さないようになっています.

 ちなみに,南洋群島の委任統治については,国際連盟そのものからの委任ではなく,Versailles条約で委任されたものであり,日本政府は同条約を破棄したわけではないとの理屈により,脱退通告時から統治継続を表明しており,国際連盟諸機関への協力停止後もそのままとなっていました.

 蛇足だけど,Versailles条約では,南洋群島は日本の国際連盟C式委任統治区域となっています.
 これは,委任統治区域を決めるに当たり,旧枢軸国領土を,A式,B式,C式の三つに分けた物で,A式委任統治区域は,殆ど自立しうる程度に発達している地方,B式は,独立国として仮承認を受けうる程度には発達していない地方に対する制度です.
 南洋群島のC式は,土着人民の利益のために一定の保障を与えることを要する条件で,かつ,受任国領土の構成部分として,その国法の下に施政を行うべき地域です.
 つまり,受任国の単純な領土ではありませんが,領土に近い性格のもので,C式は,委任統治の名による領土再分割の方法といえるでしょう.

 ちなみに,委任統治に当たっては,地域の詳細情報,施政諸般の措置を国際連盟理事会に報告する義務があり,連盟脱退後もこの委任は継続されています.

世界史板


 【質問】
 以下の見解はどうですか?

――――――
 〔「腹切り問答」に対し,〕陸軍が議会に謝罪を要求し,ついには時の広田内閣が総辞職に追い込まれるのである.
 この時点で日本陸軍は,まるで一個の政治集団と化して,日本という国を乗っ取ってしまったかのようであった.

――――――『「戦争」に強くなる本』(林信吾著,ちくま文庫),p.128

 【回答】
 海軍を無視するのは困ったものですね.
 もし本当に陸軍が日本を乗っ取っていたのだとしたら,陸海軍間の予算獲得合戦や,それを背景とした国家戦略上の対立もなく,したがってソ連と米英と同時に敵対するような路線はとらなかったでしょう.
 そのため,それ以後の歴史は現実とは大きく変わっていた可能性があります.
(戦争となったか,そしてそれで敗北していたかは,別問題としても)

 一応,ホホイは引用文章に続けて,
「いや,この言い方もいささか正確ではない.
 当の軍人たちに,そのような意識があったとも思われないからだ」
と書いていますが,意識があろうがなかろうが,「乗っ取ってしまったかのよう」という表現には,問題があると思います.


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