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太平洋・インド洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ

米空母で輸送中の捕獲零戦

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 終戦時に日本の航空機はほとんど破壊されましたが,米国に持ち去られた機体はどれぐらいあるのですか?

 【回答】
 要求は陸軍機67〜69機,海軍機73〜83機ですが,実際に米国本土に運ばれた機体は,
護衛空母1隻に45機,
水上機母艦で飛行艇1機,
他に護衛空母2隻分ありました.
 詳細は不明です.
 1946年12月31日時点では,情報収集用に戦闘機27機を含む100機の機体を使用したと報告されています.

 ちなみに,1946年8月21日のNAMへの移管の際に報告された機数は,海軍機27機,陸軍機54機ありますがその殆どが破壊されました.

眠い人◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/29(水)
青文字:加筆改修部分

 知られている機体としては震電と秋水,疾風.
 その他にも結構色々な機種,とくに試作機がアメリカに運ばれたのだけれど,その一番貴重な試作機群は,輸送中に空母が嵐に巻き込まれ,その時に海に捨ててしまった(惜

軍事板,2006/03/29(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イギリスは戦後に日本軍機を持って帰って,技術調査とか模擬空戦するだけの余裕があったの?
 ドイツ軍機で手一杯のような気がするのだが.

 【回答】
 Singaporeに東南アジア連合軍航空技術情報隊(ATAIU-SEA)が設置され,百式司令部偵察機とか,零戦,雷電,一式陸攻,紅葉,九七式大艇など,30機余りがテストを受けています.

 大部分がその後スクラップになりましたが,零戦,百式司令部偵察機などは本国に運ばれ,展示されています.

眠い人◆gQikaJHtf2:2007/01/07(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒島亀人が,宇垣纏の「戦藻録」(原書房,1979)から,自分に都合が悪い部分を抹消したという話を聞きました.
 どういう経緯でそうなったんですか?
 またどんな内容だったんですか?

 【回答】
 黒島亀人はほとんど一人で真珠湾攻撃の計画書を作成したくらいで,当時の連合艦隊司令部で数少ない航空主兵論者だった.
 なので,叩き上げの戦艦派である宇垣纏には激しく嫌われていた.
 そもそも黒島は他人と仲良くする能力が無い人だった(天才にありがち)ので,連合艦隊の参謀には全員から嫌われていた.
 更に,そんな人なのに山本五十六のお気に入りだったので,影でボロクソに言われていた.
 まぁ黒島亀人自身,「奇人」でならしてて自身の天才振りを鼻にかけて憚らない人間だったので,自業自得の面が多分にあるけど.

 そんな経緯があって「戦藻録」には「日本が負けたのは全部黒島のせいだ」的な描写(宇垣纏の個人的主観)があちこちにある.

 あと,宇垣纏と黒島亀人の関係で重要だったのは,黒島は軍令部第二部長として特攻兵器の開発にGOサインを出した,ということ.
 黒島はこの事に対し
「既に海軍の方針として決まっているので,反対などできよう筈も無かった」
と後に主張しているが,黒島を嫌っていて特攻にも反対していた宇垣は
「あいつなら当然のようにやるだろう」
と,更に黒島を嫌う事に.
 さらに,特攻部隊の司令官にさせられた宇垣は,その事と絡めて
「これは自分へのあてつけに違いない!」
というような考察(個人的主観)を「戦藻録」に残す.

 このあたりも出版に関して抗議が入り,大幅にカットされたという経緯がある.
 また,黒島は,宇垣が特攻に出た後に,彼の私物を整理すると称して日記を持ち出し,特に都合の悪い部分を破り取った.
 これは「戦藻録」に限らない.
 軍令部の重要書類を借り出して「紛失」,連合艦隊の電報の作戦命令綴りを借り出してこれまた「紛失」,と都合の悪い記録を消して回っている.
 明らかにわざと.

軍事板,2006/04/15(土)
青文字:加筆改修部分

 ちなみに黒島亀人が「紛失」したのは,ガダルカナル戦の中期あたりの部分,昭和17年末から18年初頭の頃の分だったように記憶しております.
 千早正隆「連合艦隊の驕り症候群」に,そのあたりのいきさつが詳しく載っていましたが,どうも紛失した部分には,山本長官の黒島に対する批判めいた発言が記載されていたのでは,と推測しておりました.

 中公文庫から出ておりますので,読んでみることをおすすめします.

軍事板,2001/07/05(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦後,ルメイに日本が叙勲したというのは本当?
 昭和天皇は反対したのに源田実が強行したとか,源田はアメリカから勲章もらってるとか聞きましたが.

 【回答】
 1964年に勲一等旭日大綬章をルメイは受け取っています.理由は航空自衛隊創設の為に尽力した為,と言う事になっています.
 戦略爆撃と日本の防空体制の長所と短所を解っていた人物に,防空一本槍な組織設立に際して協力を仰がない方が不自然,という見方もできます.

 昭和天皇個人としてはやや反感が有ったようですが,反対できるような状況ではなかったのでしょう.
ttp://www.warbirds.jp/ansq/5/E2000184.html
ttp://www.asaho.com/jpn/bkno/1998/1214.html

 先に源田実がアメリカから叙勲されており,バランスを取る為日本政府がルメイに叙勲した,という説もあります.

(HN 斥候隊 in ニュース極東板 & 軍事板)


 【珍説】
 東京大空襲.そのひと事だけで,日本は過去に巻き添えにした民間人の総数を遥かに上回る犠牲者を数えたのである.
 その指揮者はカーチス・ルメイ.この鬼畜は無抵抗の市民をこともなげに大虐殺して,昇進を果たしたのである.

 その巨悪に日本政府は勲一等旭日大綬章を奉呈した.
 アメリカではまさか叙勲はできない.だから日本へ廻されたのである.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.142)

 【事実】
 カーチス・ルメイを鬼畜と称することには些かの抵抗もありませんが,
「アメリカではまさか叙勲はできないから,日本へ廻された」
というのは明白に誤りです.

 日本でのルメイ叙勲経緯は上述のように,
・航空自衛隊創設に尽力した為
・先に源田実がアメリカから叙勲されており,バランスを取る為
と言われています.

 また,ルメイがアメリカ他においても多数の叙勲をしていることは,google検索でルメイの経歴を調べれば,すぐに分かることです.
 以下にルメイの叙勲リストを示します.

Curtis E. LeMay
Awards and Decorations

United States

Argentina

Belgium

Brazil

Chile

Ecuador

France

Great Britain

Japan

Morocco

Sweden

Uraguay

U.S.S.R

"Curtis E. LeMay, Awards and Decorations" from "USAF Museum"


 【質問】
 太平洋戦争中,中島飛行機とかその他色々な飛行機メーカーが日本にもありましたよね? それらは今どうなってしまったのでしょうか?

 【回答】
 こんな感じ.

三菱航空機 → 西日本重工(水島など)   → 三菱造船 → 三菱重工
           中日本重工(名古屋など) → 新三菱重工 → 三菱重工
           東日本重工(東京など)   → 三菱日本重工 → 三菱重工
川崎航空機 → 川崎重工 → 川崎重工
                     川崎航空機 → 川崎重工
川西航空機 → 明和興業 → 明和自動車(オート三輪) → ダイハツ(倒産により吸収)
                     新明和工業(バイク,特殊車両)
中島飛行機 → 富士自動車(太田など栃木の機体部門) → 富士重工
            富士精密(三鷹など東京の発動機部門) → プリンス自動車 → 日産自動車
立川飛行機 → 立川飛行機(本社工場)
           立川飛行機(試作工場) → 東京電気自動車 → たま電気自動車 → たま自動車
           → プリンス自動車 → 富士精密 → プリンス自動車 → 日産自動車
昭和 → 昭和飛行機
愛知 → 愛知起業 → 愛知機械工業(日産子会社)
渡辺鉄工所 → 九州飛行機(子会社) → 渡辺鉄工所

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


 【質問】
 愛知航空機は戦後,どうなったのか?

 【回答】
 ついこの間まで,自動車産業の世界では40万台クラブなどと言われ,大きな事は良いことだ,みたいに,Daimler=Chryslerを手始めに,各国の自動車メーカーの合従連衡が続いていたのですが,此処へ来て,余りに大きすぎた会社は,そのスケールメリットを生かせず,解体の方向に進んで行ってます.

 トヨタ自動車は,まぁ例外的なものではないでしょうか.

 とは言え,トヨタ本体だけが製造工場を有しているのではなく,トヨタブランドの中でも,例えばトヨタ車体は,ミニバン,SUV,マイクロバスを生産する会社で,アルファード,プリウス,ランクル,コースターなんかは此処の製品ですし,関東自動車は,元々中島飛行機系の技術者が集まって出来た電気バスの会社だったのが,その板金技術を生かしてトヨタの乗用車ボディの架装を手がけ
(ちなみに,三菱も一時期トヨタの乗用車ボディの架装を手がけていました.
 関東自動車と三菱のそれは,同じ製品でも少しだけ違うボディになっていたとか),
今はセンチュリー,コンフォート,アイシス,カローラスパシオ,オーリスなんかは此処で生産されていますし,トヨタ自動車の工場閉鎖で行き場を喪った人たちが設立したセントラル自動車では,カローラアクシオ,ラウムなんかを手がけています.

 とまぁ,こんな感じで,実は大手メーカーのブランドの車と言っても,別の会社で生産されるものが多かったりする訳です.

 さて,第2次大戦まで,主に海軍機を手がけていたメーカーの一つに,愛知航空機と言う会社がありました.

 元々は,1893年創業の愛知時計製造合資会社と言う時計メーカーが前身で,1904年に陸海軍から軍需品を受注することになり,後に社名を愛知時計電機株式会社に変更し,1932年には中京Detroit構想の一環として,日本車輌や岡本自転車,大隈鉄工所(今のオークマ)と共に,乗用車「アツタ」号を作ったこともありました.
 愛知時計電機は現在でも盛業中で,メーターを生産する精密機械メーカーです.

 このうち,航空機分野は1943年に分離されて,愛知航空機株式会社となりましたが,敗戦後は御多分に洩れず,航空機が作れなくなり,鍋釜で糊口を凌いだ後,1946年に社名を愛知起業と改称して,内燃機を製造することになりました.
 そして,1935年に名古屋で生産されていたオート三輪,「ヂャイアント」の製造販売権を買い取り,「熱田」以来(ぉ)の水冷エンジンを搭載した三輪車を,1947年以来,生産することになります.

 そのパワープラントは,直列または水平対向二気筒のOHVエンジンで,同級の空冷単気筒SVエンジンよりもパワーを誇り,高さの低い水平対向エンジンの利点を生かして,いち早く丸ハンドルにキャビンを独立させた先進性は航空機譲りのものがありました.

 こうした路線が受けて,一定の評価を得た上,三輪の高級車として市場でも,マツダ,ダイハツ,みずしま(今の三菱自動車工業)に次ぎ,四位に付けるメーカーとして君臨していました.
 そして,社名も1952年に愛知機械工業と改称します.

 しかし,トヨタ自動車が四輪のトヨエースを出すに至り,その牙城は急速に崩れ,窮した愛知機械工業は,軽三輪に進出することになり,1959年にヂャイアント・コニーを発売します.
 これも軽三輪で初めて丸ハンドルを採用し,高級感を前面に打ち出す戦略を採りますが,直ぐに他メーカーもこれに追随し,この参入は失敗に終わりました.

 それに換えて,今度は,軽四輪のトラックを登場させます.
 コニー360と名付けられたそれは,ライバル車が実質的に無かった為に,1960年には月産1000台に達しました.
 ところが愛知機械の販売網は,全国で50店程度にしから成らず,大手メーカーの猛追を受け,更にコニー360に600ccエンジンを搭載した高級版は売れず,1961年には,二輪車ユーザを四輪に取り込む目的で,最小のピックアップのコニーグッピーを開発しますが,その生産台数はスバル,マツダ,ダイハツに次いで4位,1962年になると,スズキ,三菱にも抜かされてしまいます.

 窮した愛知機械工業は,メインバンクの日本興業銀行を介して,1962年に日産と技術提携を行い,1964年には資本関係を結んで,日産の系列会社となりました.
 軽自動車と並行して,日産の自動車部品や小型トラックを生産する様になった訳で.
 しかし,細々と続いていたコニーブランドの軽トラック,軽自動車は,結局,1970年には生産中止となってしまいます.

 元々,日産の川又社長は,ブルーバードの生産拡大に熱心で,リッターカーの生産にも消極的でした.
 要は,お金のない人は「ブルーバードの中古に乗ればいい」と言う考え方.
 価格の安い車は,利幅が少ないのでやらない方が良いと言う考えだったので,愛知機械の車作りは端から無視し,不動産と工場設備にだけ興味を示した訳です.

 結局,愛知機械工業は,今でも存続していますが,1970年以来,商用車の生産を中心に,後にミニバンの生産に進出し,日産のブランドで販売されていました.
 今は,完成車生産は無くなり,エンジンやトランスミッションなどの部品製造会社として盛業中だったりします.

 先進的な機構を採用してきたメーカーなのに,それが生まれるのが早すぎて,結局大手傘下に入る知られざる悲劇のメーカーの一つです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月08日22:28
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 航空関連の技術者達は戦後,どんな身の振り方をしたのか?

 【回答】
 新幹線が東京〜大阪間に登場した時,初期不良がいくらか起きた訳ですが,最も開発技術陣を悩ませた問題の一つは,トイレの逆流問題でした.
 トイレで用を足していると,突然,足下の穴から汚水が逆流して吹き出してしまう,と言う,信じられない事象であり,車庫で点検しても全然,異常が見つかりません.
 其処で,意を決した開発主任が雨合羽を着て新幹線のトイレに陣取り,現象が起きるのを粘り強く待ちました.

 機密性の高い新幹線車内で,唯一気圧差が生じていたのがトイレであり,トンネル内に入って,内外の気圧差が大きくなった時に,逆流する事が判りました.
 最終的に,穴とタンクとの間に逆流防止の蓋を取り付けて,対策を施しました.

 これも,航空機畑出身の技術者だった為に,現象が判ってしまえば対策は簡単だったりしますが,中々机上の計算では判らないことがいっぱいあるという好例ではありますね.

 空技廠や航空機業界の人々は,敗戦後,自動車とか船舶の技師達と違って,航空機そのものの開発が禁止された為,生きる為に様々な分野に散っていきました.
 空技廠関係では,鉄道技術研究所に拾われたり,鉄道車輌業界に転身したりしましたし,富士重工やトヨタ,日産などで自動車開発を行った人々も居ます.

 中には全然違う分野に行った人もいました.

 後に東陶の社長を務めた杉原周一と言う人は,東陶の中興の祖みたいな扱いを受けている人だそうですが,その出自はと言えば,東京帝国大学工学部機械工学科を卒業後,1931年に三菱重工に入社し,航空エンジンの研究に勤しんでいました.
 彼は三菱製航空エンジンの開発に於て,燃料噴射装置や噴射量自動制御装置と言った部分の開発で頭角を現し,その生産の為の工場拡充を三菱が行った際に,その工場長として生産ラインの立ち上げを行います.
 そして,燃料噴射装置などの生産技術確立に没頭しますが,程なくして敗戦.
 彼は一旦は社内の自動車部門で研究課長職に就きますが,己が技術の結末に心痛し,結局退職.

 その後,郷里大分に帰って,農業を志しました.
 実際に,彼は晴耕雨読の生活を始めますが,流石にそれだけでは現金収入の宛が無いので,大分県工業試験場長となりました.

 とは言え,こんな職で,博士号まで持っている優秀な技術者を埋もれさせるのは勿体ない,と,杉原周一の元上司で,三菱重工の経営陣の一翼を担っていた深尾淳二の手で,1947年末に小倉東陶への入社が決まりました.
 深尾も当時,パージを受けて職を失い,浪人をしていたのですが,彼自身優秀な技術者だった為に,出身校の東京高等工業学校の同窓生で,後に日本碍子の社長となる吉本熊夫の誘いを受けて,森村系の会社の顧問を務めていました.
 因みに,東陶の社長は,前に出てきた江副が務めていました.
 深尾は専攻こそ違いますが,江副の同期生であり,日本特殊窯業でスパークプラグを開発していましたので,深尾もよく知っていましたし,杉原も知っていました.

 こうして熱心にかき口説かれた杉原周一は,小倉に向かいますが,当時は労働運動華やかりし時代で,東陶は日本でも有数の労働運動の拠点となり,まともに就業できる状態ではありませんでした.
 トヨタでもそうでしたが,労組は経営陣の決定に悉く口を出し,こうした状態に腹を立てた杉原は,一旦決めた就職を何かと理由をつけて出社せず,1948年5月,遂には大分に引きこもってしまいます.
 それでも,江副は7ヶ月間黙って給与を支払い続け,1949年に根負けした杉原は再び小倉の工場で仕事を再開することになりました.

 今の世の中なら,こんな事をしたら確実にクビでしょうけど….

 兎にも角にも,まず杉原は工務課長となり,製陶の生産技術改善担当として,最初期の業務は生産に必要なコンベアの設計製作と言う仕事でした.

 ところが半年後,思わぬ形で,別の仕事が舞い込みます.
 それは,衛生陶器の水栓金具の供給を果たすべく,鋳工部門次長兼鋳工課長として,鋳工金具工場の指揮を執る事でした.
 三菱重工業と言う大工場の規格化,先進設備の工場管理から,中程度の町工場からの出発と言う格差.
 しかも,量産体制に秀でた人間が皆無で,徒手空拳状態だったので,杉原の悩みは如何ばかりか.
 とにかく彼の下に,工長としての技量を持つベテランが数名補強され,何とか鋳工金具工場の形が整い始めました.

 当時の鋳工金具工場は,工場と言っても金属加工用機械すら無い状態で,工場の対岸にあった旧陸軍造兵廠から中古機械とその機械を動かす技能工を雇い入れただけの状態でした.
 材料も,古い青銅砲の砲身などを溶かして使用しています.

 その製造工程は,鋳型→鋳造→機械加工→研磨→鍍金→組立→梱包出荷と言う流れでしたが,鋳物生産は常に遅れ,製品には屡々鬆が入りました.
 機械工場では,先発企業の経験者が技術指導をしていましたが,生産設備は貧弱であり,研磨工程では付着した研磨剤の滓を小さなブラシに磨き粉をつけて一々手作業で擦り取っていました.
 鍍金では毎日の様に浮き,剥げが発生し,市場からも「ベロ剥げ」と呼ばれる不良品の返品が相次ぎました.
 鍍金槽は,戦時期に造られた電解槽やら衛生陶器の浴槽が使われていたり,検査工程は制度化されず,検査用機器もなく,鬆漏れの検査は口で吹いて行っていました.
 更に金具自体の製品標準すら有りませんでした.
 こうした状態でも100種類以上の金具を生産していたので大した物です.

 杉原にとって幸いだったのが,こうした水栓金具の類は,彼が従来手がけてきた燃料噴射装置と極めて構造や大きさが似ていたことでした.
 また,従来,彼が行ってきた三菱重工業の知見も役に立ちます.
 彼は,先ず水栓金具の設計に於て,設計の標準化を実施し,共通部品を開発し,且つ部品相互に互換性を持たせて部品点数の集約とコストダウンを図りました.
 生産ラインでは,検査工程にはリミットゲージを採用,検査は厳格にして,不良品については直ちに対策会議を実施して其の原因を探り,クレームや故障は即座に現場にフィードバックする体制を整えます.
 工程についても工程管理が行われ,作業標準を制定すると共に,製造工程の隘路を洗い出す会議が行われました.
 在庫に関しても,製品庫の管理から部品庫による管理が為され,標準在庫量を決めて在庫減少とリードタイム短縮を図りました.
 材料は,砲金から相当部分を黄銅へとシフトし,炉は電気炉から重油炉に変り,モールディングマシンやターレット旋盤も導入され,研磨レースもベルト掛駆動からモータ駆動に変更されるなど細かい点に至るまで重点的に投資を行ったり仕事のやり方を変えたりしています.

 こうして,1950年代初頭に後発企業として水栓金具の世界に進出した東陶は,彼の知見を得たことで,非常に大きなアドバンテージを獲得し,市場からも高い評価を得ることが出来ました.
 これには長い時間が掛かり,資金も相当量費やす事となり,経営陣の中には水栓金具からの撤退を言い出す者もいました.
 しかし,社長の江副はその言葉を抑え付け,投資を続行.
 1950年の操業開始当初,赤字で月産200万円だった金具工場の売上高は,1955年には月産5000万円となり,衛生陶器の半分まで迫りました.
 そして,1958年にはとうとう月産1億円を突破し,国内ダントツの水栓金具メーカーになった訳です.

 経営陣の次代を見据える目,人を見る目が如何に大切か,改めて感じさせられる話です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/06 22:54


 【質問】
 戦後直後,糸川英夫はどんな仕事をしていたのか?

 【回答】
 昨日から読んでいた,陳昌鉉氏の聞き書き,『海峡を渡るバイオリン』を読了しました.
 なるほど,ベストセラーになるだけの本ですね.

 一人の朝鮮半島出身者が,バイオリンと出会い,その憧れを胸に秘めたものの,家の事情で日本に一人渡り,やがてバイオリンを作りたくて,様々な職人に教えを請うたものの,何れも朝鮮人と言うことで邪険にされ,一時期は夢も希望も無くなった.
 時代は戦後の混乱期,結局,生きる為に様々な仕事をこなしつつも,矢張りバイオリン製作への夢は絶ちがたく,長野の山の中で独学でバイオリン造りを覚え,そして,佳き理解者に出会い,その実力がやがて認められ,最後には「東洋のストラディバリ」とまで言われる様になった壮絶な生き様が余すところなく書かれていました.

 この本の主人公は,一人の在日韓国人ですが,国と国と言うものを超越した形でものを見る人で,その視座は極めて中立的です.
 海外に住んでいる韓国人だからこそ,自国の事がよく見えるのかもしれません.
 時に其の記述は辛辣だったりするのですが….

 また,実力を発揮し出すと,様々な演奏家と出会えます.
 どんな演奏家でも,バイオリンの職人であるという身分を明かすと気軽に会って,話を聞いて,そして,自分の名器を見せ,そして饒舌に語り出すそうです.

 アイザック・スターン氏は,戦後二度目の来日の際の演奏では,余りにも不出来な演奏で,思わず弓を叩き折っていて極めて不機嫌だったのに,陳氏がバイオリンの製作者だと知ると,急に相好を崩して自分の使っているバイオリンを見せてくれたり,イツァーク・パールマン氏は,演奏が終わって幕が下り,舞台袖に引っ込むと,陳氏に名器を渡すや否や,床に寝転がって,
「ああ,明日は演奏がないぞ,休みだ!」
と叫んでゴロゴロとその辺を転がり,おまけに指笛まで吹いて大騒ぎだったとか.

 ユーディ・メニューヒン氏に会った時も,数多いる面会者の中で,一番最後にいた陳氏を呼び入れて,予定を遙かにオーバーして,氏のバイオリンを見せて貰ったり,ダヴィッド・オイストアフ氏は,来日するとソ連のバイオリン製作者の為に,ニスが欲しいと言って,陳氏から貰うと,以後,ソ連の楽団が来日する度に,彼に連絡があってニスを持っていくと言う関係になってたり.

 謹厳実直を絵に描いた様な演奏家も,一皮剥けば,正にのだめの世界そのものなのが面白かったりします.

 この陳氏がバイオリンの職人になろうとしたきっかけは,大学の講堂で聞いた,一人の学者の講演会で感銘を受けたからだそうです.
 その学者は糸川英夫氏.
 そう,あの航空機設計者で,後に日本の固体ロケットの基礎を築いた人.
 敗戦後,日本の航空機産業が羽をもがれた事で,糸川氏はバイオリンの研究をしていたそうな.

 実は,ストラディバリの様な名器の音色の構造解明は未だ進んでいなかったりするそうで,どういう構造で胴を作り,どの様に弦を張り,どの様な材質のニスを使って,それを何度繰り返して,どれくらい乾燥させ…と言った部分が,どの様に作用して,ストラディバリの音色が出るのか,まだ研究されていない分野だとか.

 まぁ,量産型ストラディバリなんて余り見たくもありませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月26日22:15


 【質問】
 旧軍のパイロットで戦後,一番成功したのはエアラインのパイロットだったのでは?
 初期の試験では,旧軍出身者をコネで合格させる手はずが整っていたので,名前さえ書けば合格させてもらえたという.
 そういう事情を知らない人もいたようで,英語ができないのを気にして採用試験をすっぽかし,民間パイロットになれなかった人もいたそうだが.

 【回答】
 一概にそうとは言えない.

 まず,一般論.
 戦後の日本の航空界では英語は必修.
 素人は,
「パイロットに英語が必要な理由は,管制官との交信が英語だから」
だと考えがちだが,その考え間違いではないのだが,実際のところエアーラインのパイロットとして機上無線機を扱うには「航空級無線通信士」という資格が必要になる.
 この資格を取るには,英字新聞が読めるくらいの英語力が必要(今はすこし簡単になってる).
 また,乗る飛行機は勿論,国産機じゃないわけでマニュアルが英文だったり,入社後の訓練が外国で行われたりする.
 以上の理由から,それなりに英語力が必要.

 また,戦闘機のパイロットは輸送機のパイロットに比べて飛行時間が少なく,航空会社の応募要件自体を満たしていない者も多かった.
 それと,最も重要なのがパイロット資格.
 軍と民間ではその資格が全く別で,軍のパイロットは民間パイロットに必要な資格を持ち合わせていない.

 蛇足ながら,旅客機の運航と戦闘機で戦闘するということは全くの別もので,世間で思われてるほど,戦闘機のパイロットは民間,特にエアーラインでは評価されない.

 で,現在の航空法は昭和27年に制定された.
 それ以前は多少,採用条件も異なっていた.
 ただ,海軍の搭乗員は英語に堪能な者も多く,英語の壁はさほどなかったと言ってもよい.
 昭和27年でも,日航の松尾専務は海軍のべテラン搭乗員は「○特」で無条件合格の指示を出したと聞く.

 陸軍もかは分からない.英語力が壁となって,多くの旧軍パイロットが再び飛ぶことを諦めた,という話もあるから,陸軍ではそういう人が多かったのかもしれない.

 民航に行った零戦搭乗員で有名なのが,空母「蒼龍」のF大尉など.
 多くの陸海軍操縦士は航空・海上・陸上自衛隊に行ったが,大多数のパイロットは苦難に満ちた戦後を生きていく羽目になった.

(軍事板)


 【質問】
 現在,全国各地には,どのような第二次大戦日本軍機が現存していますか?

 【回答】
 有名どころでは,靖国神社の彗星,鹿屋基地の二式大艇,知覧特攻平和会館の零戦・飛燕・疾風など.
 展示品の他にも,パーツ単位で個人所有されていたり,公的機関でひっそり非公開保管されている機体などもあります.
 また海外で保有されている日本軍機もあります.

 展示品限定と言うことであればリストアップが可能かも知れませんが,私にはちょっと荷が重いです.

 余談ながら.某空自基地にはフライアブルな零戦が存在すると某業界の一部で囁かれています.
 いずれ日の目が見られることを信じて,自衛官の皆さんが代々整備してるそうで.
 最近の風潮からは信じられませんが,ホンの数年前までは,その存在すら隠さなければ時代だったんですよね・・・

 近いうちに航空祭で零戦が披露されるのではないかと期待してたりします.

軍事板

 軽くググれば出てくるんだけど…
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/museum.html

 これはちょっと違う気もするけど(日本のは全てゼロからの復元機)

 あと,鹿屋にある零戦は,名古屋で残骸から復元されて,飛行可能にまでこぎつけたらしいんですが,当時のお役所が許可を出さなかったとか…(で,地上滑走のみ…)
 その後,鹿屋で保存っていう話をどっかで聞いた気が…
 三菱とかにその復元時の資料が残っているだろうから,状況さえ許せば…と期待したりします.

ちくお in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

▼ ただし日本では,軍事=悪となっていますので,兵器の展示は難しいねェ….
 靖国神社遊就館にある「彗星」も,成田の航空博物館に打診したとき
「兵器の展示はしない」
と断られた経緯がありますし↓.
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/ClassicPLN/Suisei.html

軍事板

 更に余談ですが,私の出身大学は旧中島飛行機研究所だったので,敷地内にある洞窟(今は埋められたと思う)のどこかを掘るとゼロ戦が眠ってるという噂がありました.

Fabius(KT) in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

靖国神社遊就館の零戦

知覧屋外にある 『君はなんたら』 で使われた隼のセット
faq090724ki43.jpg
faq090724ki43.jpg
faq090724ki43c.jpg

「軍事板常見問題 mixi別館」(Picture Prepositioning Ship : PPS)より

 【関連リンク】
「ヒコーキ雲」◆航空歴史館 総目録
「ヒコーキ雲」◆都道府県別展示保存機総覧


 【質問】
 愛知県の航空隊や熱田エンジンのメーカーがあった場所などで,今でも史跡として残っているものはありますか?

 【回答】
 名古屋市南区見晴町にある見晴遺跡からは,第3次調査中に高射砲陣地関係の遺構や遺物が出土し,現在も残っています.

 又,瀬戸市市民公園には愛知航空機瀬戸疎開工場の跡が残っています.
 此処では彗星の組立・生産を行っていました.

 更に,港区野跡5丁目の河口部には愛知航空機永徳工場の水上機用スリップが,
半田市上浜町には中島飛行機の滑走路跡がありますし,
豊田市桝塚西町には岡崎海軍航空隊の飛行場跡があります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


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