c

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆総記
<◆◆航空 目次
<◆太平洋&インド洋方面 目次
<第二次世界大戦FAQ


 【link】

「Enjoy Korea」:嗚呼・栄光の光復軍飛行隊

「textlib @ ウィキ」◆(2010/09/13) WW2時,アメリカの防空システムに対する幻想と実情

砂丘は知っている (2)
http://www.vsha.jp/n/n-1-11-2.pdf
[鳥取砂丘の滑空訓練所 昭和8年〜]

『秋葉原,内田ラジオでございます』(内田久子著,廣済堂出版,2012/11/28)

 秋葉原駅のガード下にある内田ラジオ店と言うラジオパーツ店の女主人,86才で現役矍鑠とされている,内田久子さんの聞き書きです.

 この人,単なるラジオパーツ屋の主と言うだけでなく,元々は箱根の有名旅館「環翆楼」支配人の娘に産まれますが,その父親は,新しもの好きで,陸軍で各務原第2飛行聯隊の元軍用機乗り.

 なので,父親の写真帳には,関東大震災で東京上空を飛んだ時の空撮写真とか,各種軍用機の写真が多数有ったそうな.

 で,その父親は,第1次上海事変の折りに再度少尉として任地に赴きますが,その出征時に見送りに来ていたのが杉山元軍務局長だったり.
 そして,長兄は大日本航空の航空通信士,次兄は海軍航空隊に入って父と同じく操縦士となり,戦後,日本航空の機長として活躍されていたのですが,その人こそ,何とダッカ事件でのDC-8の機長として,最後まで犯人と行動を共にした木村重男さんでした.
 その兄の息子もパイロットという,三代続けて操縦士という珍しい家系になっています.

 因みに,この内田久子さんの夫は,内田秀男さんと言い,NHKの技師からこのラジオパーツ屋の主人に転身したのですが,この人は一風変わっていて,「四次元」と言う言葉の作成者で超常現象ブームの火付け役となった人だったりします.

 そう言った家族ならではの秘話や逸話なんかもあって,結構楽しめる本でした.

------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/14 23:22

『海の飛行兵 上 訓練篇 アルス文化叢書 28』(倉町秋次著,アルス,1942)
『海の飛行兵 下 征空篇 アルス文化叢書 29』(倉町秋次著,アルス,1942)

表紙/裏表紙

 この「海の飛行兵」は,昭和17年11月発行の,海軍少年飛行兵の訓練を紹介したポケットブック写真集で,相変わらず資料性が高くて驚きました.
 上巻<訓練編>では入隊から適正検査,座学や体力訓練などの基礎訓練や,兵舎生活等を細かく紹介.
faq111125av2.jpg
faq111125av3.jpg

 下巻<征空編>では,いよいよ飛行訓練が記録されていますが,編隊飛行から単独飛行,また空中戦に必要な特殊飛行訓練まで載っています.
faq111125av4.jpg
faq111125av5.jpg

 特に驚いたのが,盲目飛行(計器飛行)用のフライトシュミレーターの存在(!)や,教官が前に乗り,後ろに幌を被せた訓練兵が乗り込む,暗闇密雲を想定した盲目飛行訓練の模様や,
faq111125av6.jpg
わずか20メートル幅の白線内側に突っ込んで来る艦訓練横で,座った教官の剛胆さにも舌を巻きましたが,初めて見た八九式活動写真銃改二(航空カメラ機銃)を使用した射撃訓練や,吹き流し射撃写真などに驚かされました.
faq111125av7.jpg
faq111125av8.jpg

 それにしても,海軍にはこんなシュミレーターが在ったとは意外でした.
 下が蛇腹である所を見ても,前後左右に動く事は間違い無く,中々当時の訓練も科学的であった事が良く判ります.
faq111125av9.jpg

 この本に拠ると,フライトシュミレーターは「地上演習機」と呼ばれ,操縦桿に連動して,圧縮空気で上下左右に動く事が可能で,水平飛行や旋回飛行の体感も可能であったとの事.
 また,乱気流の飛行も再現出来,訓練者の操縦適正までチェックしたそうで,文面だけを信じるとかなりの優れモノです.

 それにしても,アルス出版恐るべし!
 もう,これ以上ないよな,と思いつつも…まだ続きますか?(^^;

------------------よしぞうmaro' in mixi,2007年12月15日14:17

『海軍航空予備学生』(碇義朗著,光人社文庫,2008.8)

『銀翼,南へ北へ 軍航空の多彩な舞台』(渡辺 洋二著,潮書房光人社NF文庫,2013/10)

『空軍創設と組織のイノベーション 旧軍ではなぜ独立できなかったのか』(高橋秀幸著,芙蓉書房出版,2008/12/25)

 組織変革・改革を成功させるには,「三つの合理性」を確保する戦略が必要.
 なかでも三つ目の合理性を確保することを忘れてはならない.
 官僚組織(軍組織も含む)の変革・改革にあたっては,政治家のリーダーシップが果たす役割が緊要点となる.
 しかしそれには何らかの「トリガー」が必要不可欠.

 本著の内容をまとめると,こうなるかと思います.

 別の言葉でひとことで言うと
「組織改革・変革に関して必ず発生する「派閥争い」「組織内権力闘争」を理論的に考察した一試論」
ということになるでしょうか.

 〔略〕

■本著を通じて得られるものは以下のとおりです.

1.組織を変革・改革するにあたって必要な,現実的かつ具体的な思考方法・手順
1.明治から現在にいたるまでの,わが国空軍組織の歴史と変遷
1.統合任務部隊編成にあたって行なわれるであろう,組織分離に対する考え方
1.改革・変革を志向する民間組織でも活用可能な,空自創設経緯の分析手順・手法・そしてそこから得られたエキス
1.変革・改革を目指す組織で必ず発生する障害を克服するうえで最重要な点
1.軍事組織の変革・改革を実践・考える上で忘れてはならないポイント
1.世界の空軍組織に関する主要な出来事一覧
1.欄外にある,充実した軍事用語・歴史的事実等のひとこと解説
1.軍事組織内における意思決定の伝達・調整等の実像
1.組織変革・改革にあたって発生する組織内闘争の要因・背景の本質
1.陸海軍間の対立構造の実際

 〔略〕
 本著は,ハードな論文ではありません.
 といって,おきらくに流し読みできる本でもありません.

 でも,軍事に余り詳しくない知り合い(叩上げの事業家)は,
「仕事場までの往復1時間の電車のなかで読み終えた.実に面白かったよ」
といってました.

 理由は2つあると思います.
1.監修者の川村さんが書いておられるとおり,本著は「軍事戦略と経営戦略を橋渡しする試み」であり,在野の人間にとっても十分関心を持って読める新鮮な内容である
2.章立てを含む本著の内容は十二分に吟味・整理されており,著者の思考を追体験することがきわめて簡単である
 2.をひとことでいえば,明晰で分かりやすいということです.
 「理由・根拠をあますところなく記している」ことが理由です.

 たとえば,序章で著者は「組織のイノベーションを考える具体的テーマとして,なぜ空軍創設を取り上げるのか?」に関する理由を詳細に述べています.

 その他にも,
「なぜマクロ的分析とミクロ的分析を併用するのか?」
「なぜ旧軍の空軍創設経緯と空自創設経緯を比較するのか?」
「なぜキングダンの「政策の窓」をマクロ的分析に採用したのか?」
「なぜミクロ的分析にダウンズ・モーガン・トンプソンの組織論を採用したのか?」
等,詳細な背景を含めた理由が記されています.

 執筆した動機について高橋さんは,あとがきの中で以下のように説明しています.

<(前略)自衛隊では,平成十八年三月から統合運用を基本とする体制に移行した.
 陸海空の自衛隊が,新たに共通のテクニカル・コア(*)を創る努力を継続中であるが,現段階では,陸海空の文化の相違や各々の利害関係に基づく各自衛隊の既存のテクニカル・コアを,全体最適を追求する共通のテクニカル・コアに拡大してゆくことへの困難性を感じる.
 そういう思いから,インフォーマル組織の影響(組織的合理性)に焦点を当てて,意思決定に及ぼす諸要因に対して科学的な分析を試みようとしたのが,本著執筆のきっかけである.(後略)>

 分かりやすく言えば,組織変革や改革に当たっては,派閥争いや権力闘争が必ず伴う.
 それを無視した組織変革・改革は考えられない.
 それを科学的に分析したということです.

(*)テクニカル・コア
 一組織目的を達成するため,長年かけて培われてきた諸技術,手順,思想等の集大成のこと

 また高橋さんは,河井継之助を引き合いに出して,
<人間が組織の中で生きていく以上,立場によるしがらみから抜け出すのはきわめて困難>
と,現実をしっかり見据えつつ,
<しかしながら,組織のイノベーションのためには,長期的視点から目的と目標を見極め,(中略) 的合理性に加え,組織的合理性の三つのバランスを図り,トルーマン大統領のように粘り強く弁証法的に問題を解消していくための戦略が必要とされる>
と結論付けます.

 組織の変革・改革には,
<長期的視点から目的と目標を見極め>
<三つの(合理性の)バランスをはかり>
<粘り強く問題を解消していく>
ための<戦略>が必要である.
 公的組織の場合その部分を担うのは,われわれが選んだ政治になるということでしょう.

 〔略〕

 正直申し上げて,論文としては結論が少し弱いかなあという感は持ちます.
 しかし,私どものような市井人にとっては,これだけ厄介な問題をかくも明晰に分析してくれたことで,十分ではないかと思います.
 なぜって,実践する人間にとっては,組織内権力闘争の根源・要因がはっきり見えるおかげで,対策が取れますからね.
 先に紹介した事業家も,
「自分にとってこの本は,役に立つビジネス本だよ.
 いい本を紹介してくれてありがとう」
と言ってました.

 最後は,監修者・川村康之さんの言葉で締めたいと思います.

<軍事戦略や経営戦略は,いずれも人間の行動や判断に関わる分野である.
 そして,人間の判断や行動に関して理論的に説明することは,かなりの困難を伴う研究であるといえる.
 このような困難さを乗り越えるために,近年,経営戦略の分野では,現実の事象に対する理論の適用の試みが進展している.
 したがって,軍事分野における事象に関して組織論の理論を適用して説明することは,軍事戦略と経営戦略の融合であるともいえよう.
 著者は,このような困難に敢えて挑戦し,その成果を世に問うたものである(後略)>

 組織変革・改革を考える・実践するにあたって絶対に取り組まねばならぬのに見落としがちな,「組織的合理性」というテーマに着目し,真正面から取り組んで成果を残した現役軍人・高橋さんの知的挑戦と勇気に,心より賞賛と敬意を表します.

 本著が魁となって,これから先この分野にチャレンジする軍人さん・研究者が次々出てくることでしょう.
 楽しみです.

 困難に敢えてチャレンジし,その成果を世間に問うた軍人・高橋さん.
 あなたも,その成果を,ぜひご自身の目でお確かめください.

 キーワードは「三つの合理性」と「トリガー」です.

――――――おきらく軍事研究会,平成21年(2009年)2月6日

『直木孝次郎 歴史を語り継ぐ わたしの戦前・戦中・戦後』(直木孝次郎著,吉川弘文館,2013/3/22)

『陸軍“特幹”飛行兵の物語 大空にあこがれた戦時下の青春群像』(佐藤洸著,潮書房光人社,2012/11/30)


 【質問】
 なんで航空機は戦艦を差し置いて海戦の主役になれたの?

 【回答】

 艦砲というのは当らないものです.
 例えば,太平洋戦争では珍しい,大規模な昼間砲戦であるスラバヤ沖海戦における,日本重巡の主砲の命中率は,なんと0.3%(4/1573)に過ぎません.
 これでは,この海戦が何時間にも渡ったのも当然という感じがします.

 理由の一つとして,射程一杯の遠距離砲戦だった事が挙げられていますが,日本重巡の戦前のその距離における訓練での命中率は3%でした.
 実戦では訓練の1/10の命中率しかあげられなかったのです.

 よく言われる,「日本の命中率はアメリカの3倍だった」というのは,その戦前の訓練の数字を元にしています.
 例えば,30000mという,戦艦としては標準的な砲戦距離における命中率は5%でした.
 スラバヤ沖海戦の例で単純に考えれば,これも実戦では0.5%程度になるかもしれません.
 戦艦1隻を無力化するのに必要な弾数は,日本海軍の試算では,この距離の砲戦で,46cm砲なら12発,40cm砲は16発と見積もられていました.
 0.5%の命中率で12発与えるためには,2400発の弾が必要となりますが,「大和」一隻が積んでいる46cm砲弾は900発.「武蔵」と合わせても1800発です.
 つまり,この場合,「大和」「武蔵」が弾切れまで攻撃しても,戦艦一隻撃沈できないのです.


 しかし,はなからこんなものであれば,誰も艦砲など見向きもしないはずです.
 もちろん,そうでないからこそ大艦巨砲主義が形成されたのです.
 水上戦闘における最大の殲滅戦である,日露戦争の日本海海戦では,日本の主砲(30サンチ砲)の命中率は,8%の高率を示しています.
 当時の射撃システムは,太平洋戦争時に比べればはるかに未熟・不完全なものでした.
 にもかかわらず,何故,命中率がこれほど逆転するのでしょうか?
 簡単です,砲戦距離は10倍になったのに,砲弾の速度はそんなに変わっていないからです.
 3000m先の目標を狙うのであれば,砲弾が命中する,数秒後の未来位置の予測はそうは外れません.
 一方,30000m先の目標となると,砲弾が命中するのも分単位の未来になります.
 この間に,不意の変針などで一定範囲以上の未来位置の変化があれば,砲弾は命中しません.
 砲弾の発射は,閃光によって知ることができますから,発射後に変針することで意識的に回避することも可能です.
(その分,自分の方の砲撃も当たらなくなりますが)

 この点,航空攻撃は,日露戦争時代の艦砲よりさらに近距離から爆弾や魚雷を投下します.
 戦前,艦砲と航空攻撃を比較して,
「艦砲は弾着修正を行うため,回数を増すごとに命中精度が高まるが,爆撃は常に初弾(=弾着修正無し)だから,命中精度の点でずっと劣る」
という説がありました.
 爆撃を10000m以上の遠距離から行えば,確かにそうでしょう.
 しかし,実際の航空機による対艦攻撃は,はるかに近距離で行われるものです.

 また,艦船は損害を応急に修復する能力を持っていますから,同じだけの打撃でも,散発的に長時間与えるより,1回でも集中して与える方が効果的です.
 この点も,同時に発射できる数には限りのある艦砲より,大規模攻撃隊を送り出す事のできる航空機の方が有利です.

 これが,太平洋戦争において航空攻撃が猛威を振るった理由です.

軍事板,2003/03/29
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧軍ではパイロットはどんなふうに養成されたんですか?

 【回答】
 1942年7月22日〜43年5月31日まで行われた航空士官学校56期教育では,130時間の飛行時間で基本操縦を行っていましたが,57期からは初練,中練課程を飛ばして,高練のみの6ヶ月60時間に短縮されました.
 その内訳は,単独飛行に至る前までに25時間余,単独飛行,特殊飛行,編隊飛行などで86時間余,高練課程が43時間余だったそうです.
 戦闘機課程では期間6ヶ月,飛行時間は120時間余.
 戦闘機操縦士として,曲がりなりにも役に立つのは,初等練習から1年9ヶ月,飛行時間340時間となります.


 旧軍関係者からは
 ・米国に比べ,本格的計器飛行が出来る練習機が無く,リンクトレーナーも普及していなかったこと,
 ・教官陣の計器飛行能力にも問題があったこと.練習機部隊の教官は,大抵が第一線部隊を落第した操縦士の行き先という考えでした.
 ・計器飛行に関しては,一部練習機に設備はありましたが, 人工水準器,ジャイロコンパス,無線の無い機体での費用対効果は低いと言わざるを得ない.
 ・訓練プロシージャーがきちんと決められておらず,各人に任されている.
 ・戦闘機の場合,編隊空戦が後に取り入れられますが,97戦でやるのは余り意味がない.
などを指摘されています.


 海軍の場合は,霞ヶ浦で6ヶ月の期間,基本150時間で,単独飛行になるのは6時間程度から.
 戦闘機教育の場合は,その後大分に移動して,6ヶ月,150時間でした.


 海軍は例えば,失速に入れるなとは繰り返し教え込まれたのですが,失速そのものの教育は受けません.
 戦前,九六式艦戦の最初期まで失速を訓練で行っていたのですが,その後,中止になります.
 その理由は当時,まだ失速(低翼単葉機)からの明確な回復方法がなかったためでした.
(詳しくは光人社からでている佐官級飛行隊長の方の本をみていただければよいかと)
 ちなみに米国式の場合は,「頭ではなく身体で覚えよ」と言う方式で,失速のあらゆる状況を実際に体験させ,回復法を練習すると言った実用本位の考え方です.

 また,海軍と米国式でも計器飛行について,旧海軍の関係者(1943年に教育を受け,戦後海上自衛隊航空部隊に入られた方)は,米国の計器飛行は水平儀を中心としてあらゆる飛行計器を使う「フル・パネル」式に対し,旧海軍のそれは,旋回計の針と玉,磁気コンパスのみを使う「パーシャル・パネル」式で,前者は,チェックする契機の数は多い反面,スキャニングさえきちんとすれば,機の姿勢変化を確実に読み取ることが出来る,万人向き,
 後者は,計器の数は少ない代わりに,機の傾きなどが判らず,機位を失する可能性が高いと言うものでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2(黄文字部分)他 :軍事板,2005/07/24(日)
青文字:加筆改修部分

93式中間練習機(通称;赤トンボ)
http://military.sakura.ne.jp/ac/willow.htmより引用)


 【質問】
 予科練って何?

 【回答】
 海軍飛行予科練習生の略称です.
 太平洋戦争時の海軍飛行兵養成制度の一つで,制度の変遷によって甲飛・乙飛・丙飛の3種類ができました.
 戦前の予科練卒業生は戦時中,航空機搭乗員の中核となり,戦中の予科練生は特攻隊員の中核となりました.

【ぐんじさんぎょう】,2008年7月27日14時46分

 海軍省と横須賀海軍人事部が監修した「海軍志願兵」(画像右下)
 要は予科練を目指す学生を対象にした海軍パンフレットで,各兵科や階級,組織や訓練内容から試験問題等を,多くの図版で紹介しているもの.
 予科連受験を控えた中学生向けのパンフなので,イラストや写真も豊富で,こういった軍もの印刷物では珍しい構成.
 発行日:昭和19年9月.
 「お母様方へ」という保護者へのページを,軍務局の海軍中佐が書いていたりして,戦中の教育という分野でもなかなか興味深いパンフレットです.

 ちなみに「海軍志願兵」の上にあるのは,調べたかった近衛連隊史を扱った「近衛聯隊旗」(村上兵衛/秋田書店/昭42)と,戦前のノモンハン歩兵戦記「バルシヤガル戦記」(高島正雄/鱒書房/昭17).
 〔略〕
 それから,2,3店鋪から買った「歴史写真」誌を幾つか.
 別冊の「満州事変特集号」は,初期型のサクラ鉄兜が登場する写真が多くあり満足しました.
 さらにその下には,別売表紙と共に綴じられた昭和10年1年分の「歴史写真」誌12册組み.
 ここまで綺麗なのは,ちょっと珍しい.

よしぞう(maro') in mixi,2006年11月06日02:06
〜2006年11月06日 03:29


 【質問】
 予科練生になるのって難しかったのでしょうか?
 もしくは人気あったんですか?

 【回答】
 ちょー難しくてちょー人気.
 合格率だけで言えば,海兵(確か数%)と変わらなかったはず.
 第一期募集からして,定員80に対し応募数千という状態,後には更に人気が増して競争率激化.

 何といっても大空を飛べることと,予科練生の七つボタンのスマートな制服は,当時の少年たちの心を引き付けてやまなかったと聞いている.
 陸士,海兵ほどではないにしろ,予科練は軍を目指す少年たちのあこがれだった.
 頭脳,体力ともに優れていなくては合格できない.

 また,高等小学校卒でも受けられたから,優秀だが中学校に進学できない人の受け皿にもなっていた.

 あと,女の子にもモテた.

 俺のじいさんも,予科練に入ったことを死ぬまで自慢していた.

 そんな人材を意味不明な特攻で殺した,大日本帝国のバカさ加減は,いくらけなしても足りねーよー..

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 予科練習生には何歳から入隊できたのですか?

 私の亡き父は甲種予科練出身で,終戦時の階級は飛行兵長だ,と生前聞かされていました.
 昭和2年生まれです.
 よって終戦時の年齢は満18歳です.
 ところで本日,生活板の「腐老」スレッドを覗いたら,予科練卒で終戦時2等飛行兵曹,16歳だった,という祖父君をお持ちの方が書き込んでいらっしゃいました.
 突っ込む気は無く,ただ,父が存命なら
「昭和3〜5年生まれでおやじより階級が上ってことがあるのか?」
などと,また父の昔話がきけたのにな,と思ったら気になって眠れなくなりました.
 どなたか詳しい方,ご教授をお願いします.

 【回答】
 甲種飛行予科練習生の場合は,16歳で入隊し,2年半の教育修了後上等飛行兵曹,更に練習飛行隊撰修学生として1年教育すると,23歳で少尉になることが予定されています.
 学歴的には中学校3年または4年修了程度で採用されます.
 但し,航空機搭乗員の払底から,1943年に15歳,1944年には中学校2年修了程度まで下がりました.

 もう一つ,予科練習生には,従来からあった少年飛行兵の流れを汲む乙種飛行予科練習生があります.
 こちらは,高等小学校卒業程度,年齢的には15歳で採用し,二等飛行兵から進んで19歳で二等飛行兵曹,25歳で飛行兵曹長,29歳で少尉任官という流れになります.
 なお1941年より,14歳まで門戸が広げられています.

 件の方は乙飛卒または甲飛卒で,14歳で入隊し,その後累進を重ね,飛行兵長を三ヶ月以上経験していたのなら,敗戦後の海軍解体に伴う特殊任用進級で,一階級上になっていたのではないか,と思います.
 これは所謂ポツダム進級と言うもので,貴方のお父様も実は進級なさっていて,実際は二等飛行兵曹になっていたのではないでしょうか.
 それではないのならば,貴方のお父様は16歳で入隊し,上等飛行兵まで進級され,ポツダム進級で,飛行兵長になったのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/12/01(木)
青文字:加筆改修部分

陸上自衛隊武器学校は,かつて海軍予科練基地が在った場所なので,こんな石像や予科練資料館も在りました
faq100827rs2.jpg
faq100827rs.jpg

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月15日02:13


 【質問】
 予科練卒は最速で20歳と聞きました.
 そのときの階級は何なんですか?
 それと卒業後は毎年,大尉までは自動的に昇進するというのは本当ですか?

 【回答】
 甲飛は,16歳(1943年以降は15歳,1944年には中学二年修了程度)で入隊し,二等飛行兵から進んで,2年半の教育終了後に上等飛行兵曹,更に練習航空隊撰修学生として1年教育の後,23歳で少尉となることが予定されています.
 最初の入隊年齢が下がっているので,少尉任官が20歳というのはあり得る話ではあります.
 乙飛は,15歳(1941年以降は14歳)で入隊し,二等航空兵から開始して,19歳で二等航空兵曹,25歳で飛行兵曹長,29歳で少尉となることが予定されていました.

 そこまでは自動的な昇進ですが,それ以後は人事考課に従って昇進が決められます.

眠い人◆gQikaJHtf2,2006/07/25(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 美保海軍航空隊って何?

 【回答】
 30000人もの大量の志願者を募った予科練甲飛第13期の生徒を教育するため,現在の鳥取県米子市大篠津町に増設された,予科練教育航空隊.
 1943.10.1に開隊したが,美保飛行場は1939年秋から造成が始まっていたにも関わらず,開隊時には工事完成しておらず,入隊したばかりの甲飛13期生も残工事に借り出された.
 1944年1月には,初歩練習隊として第2美保海軍航空隊が独立し,1945.2.11,第2隊は奈良県の柳本飛行場に移転して,大和海軍航空隊となった.

 【参考ページ】
http://www8.ocn.ne.jp/~k-kuri/mframe-3.html
http://www.mod.go.jp/asdf/miho/kaigun_koukutai_enkaku.html
http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-mn/yoka-miho.htm
http://www.geocities.jp/taken373/miho.html
http://www2.sanmedia.or.jp/air-web/miho-ab.htm

【ぐんじさんぎょう】,2011/07/04 20:50
を加筆改修

米子・掩体壕

ベタ藤原 in mixi,2011年06月21日21:58


 【質問】
 戦前はパイロットになるには,どんな道があったのか?

 【回答】
 戦前,パイロットになるには,陸・海軍の飛行兵を志願するか,民間の飛行学校に学費を払って操縦を習うか,だったという.
 また,逓信省航空局にも乗員養成所があったという.

 当時の日本には,“飛行機乗りは危ない”という風評があり,
♪「飛行機乗りには娘はやれぬ〜 今日の花嫁,明日は後家〜」
という歌まであったという.

 詳しくは
≪ WEB 熱線 第1175号 2009/05/13_Wed―アジアの街角から―≫:「八路空軍従軍記」
を参照されたし.


 【質問】
 手相占いが日本海軍で採用されていた,というのは本当ですか?

 【回答】
 日本海軍では,航空機の搭乗員の適性検査に観相学(手相とか)を取り入れていたそうです.
 水野義人という人物が1936〜7年頃から海軍航空本部の嘱託として採用され,23万人以上の練習生の鑑定を行ったとされます.
(数年前から正式採用されずに見てたという話もあります.後述)
 この人が書いた
『昭和16年12月26日 操縦員適性検査ニ関スル相学的研究(其の三)』
なんて研究資料まで,防衛研究所に残っています.
 終戦時には海軍教授で,復員する将兵の進路相談にも活躍したとのこと.
http://navy75.web.infoseek.co.jp/kaisouroku/newpage12.htm

>手相・人相の結果は搭乗員の適否にはよく当たるとかで,私たちもそのテストを受けた.
>中年の人が5,6人ぐらい列んでいる部屋で,じろじろ見られる
http://www.b-b.ne.jp/zero/zero014.html

という話もあり,ほかにも担当者がいたのでしょうか.

 効果のほどですが,海軍教授にまでなるというのは,効果有りと認められてたんでしょうね.
 ただ,23期操縦練習生を御賜で卒業した金子少尉について,紙に取った手形を見て「下手の見本だ」と評したというエピソードも残っていますが.
 なお,操練23期は1933年10月開始なので,水野氏が正式採用される前のことになります.

◆yoOjLET6cE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 日本軍のパイロットはパラシュートを付けなかった.

 【回答】
 これは戦後に広まった俗説で事実じゃありません.
 落下傘は標準装備品です.
 座席が大きくくぼんでいて,そこに落下傘を入れてパイロットはその上に座るという仕組みになっているので,落下傘無しでは座ることもできません.
 装着するのが決まり事で「普通」です.
(真偽は分からないですが,パイロットによってはお小水を紙袋にするのが面倒で,そのまま飛行服のなかでいたしたとか....
 それが落下傘にしみてきて,落下傘がカビだらけになってしまったというお話を聞いた事があります)

 ただし落下傘の管理が悪くて「いざって時に開かない」って噂があり,かわりに座布団を座席に詰め込んで飛んだ事例はありますが,これは落下傘の品質を搭乗員が疑ったためです.
 見張りに不自由だから,熟練者はあえてバンドを装着しないっていうのもあったようです.

 ちなみに(全員でもないけど)特攻隊員でも落下傘を装着しています.
 特攻隊で良く使われる映像で,米軍の対空射撃で撃墜された機体の近くで,開いた落下傘が映ってますね.
 おそらく搭乗員は死んでいる?のに偶然開いたのものだろうけど.

軍事板


 【質問】
 旧軍のコンバット・レスキューに関する質問です.
 大戦中の米軍は(今でも?),海上や敵地に墜落した操縦士の救助を積極的に行っていたと聞きました.
 空自でも救難隊は精鋭中の精鋭ですよね.
 旧軍は,海上や敵地に墜落した乗員の救助を任務とする部隊を,どのような組織を作って,どのように運用していたんですか?
 また,それらの部隊は精鋭とみなされていたんですか?

 【回答】
 専門の部隊は持ってなかったと思います.
 現在,パイロットの救助に使われてるヘリ(オートジャイロ)は当時,殆ど配備されていません.
 あくまでも近くに友軍の地上部隊や艦隊がいれば拾ってもらい,敵地なら自爆,自決・・・という感じです.
 飛行艇で助けにいこうにも,米軍みたいな機体搭載航空無線やビーコンの類を持ってませんし.
 そもそも絶対的な装備数が足りないので,なかなか救助をする余力がありません

 一方,当時の米軍の場合,比べ物にならないほどの数の飛行艇や潜水艦を有していたので,積極的にパイロット救助を行っており,主任務の一つと言ってよいほどでした.

モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ ただし日本でも,飛行艇で不時着パイロット救助に成功した例はあります.
 また,潜水艦が救助配置に付けられていたこともあります.

 ただ,鈍重な飛行艇が着水するとか,潜水艦がのこのこ浮上するなんてことは,よほど注意しないと二次被害が大きくなるので,大戦後期には無理になりました.

 そんな不確実な任務につけるよりも,もっと攻撃的な任務に使いたがった面もあります.

◆yoOjLET6cE in 軍事板,2009/01/07(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大西瀧治郎って誰?

 【回答】
 大西瀧治郎(おおにし・たきじろう)は,1891.6.2,兵庫県生まれの日本海軍軍人.
 海軍航空隊の養成に尽力し,また,第11航空艦隊参謀長として,真珠湾攻撃の作戦計画原案を作成.
 神風特別攻撃隊の編成を行なったことにより「特攻の生みの親」であるともされ(異説もあり)るが,1945.8.16,割腹自殺.
 最終階級:中将.

 【参考ページ】
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-oonisi.htm
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/oonishi/oonishi_shini.htm
http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/sub3-10.html
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/oonishi.html
http://sidenkai21.cocot.jp/m38.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/08/13 21:20
を加筆改修

 さて 「俺はきみのためにこそ,死にに行く」 て,切腹しちゃった大西瀧治郎のちょっとしたエピソードです.

 大西は昭和2年,35歳のとき,お見合いをする事になりました.
 しかし,大西としては,まだ結婚したくなかったので,なんとかこのお見合いを潰そうと思い,褌一丁,泥酔状態で見合い会場に現れ,踊ったり,卑猥な言葉を見合い相手に言ったりで,それは悪行の限りを尽くしたそうな.

「これで,お見合いは潰れた!」
と大西は思っていたのですが……

 その悪行を見た,見合い相手の母親が,
「海軍軍人として天晴れな振舞い. 娘を嫁がせるなら,この様な豪傑に嫁がせたい」
と,娘を促し,強制結婚させられたそうな……


 
   ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (・(・・)・U <  人は運命には抗えない!
  /JベタJ   \__________


 そゆことで…… (w`;

ベタ藤原 in mixi,2007年05月15日07:27


 【質問】
 第二次世界大戦中の日本における,パイロットの救難体制について教えてください.
 具体的には,
・空中戦が予想される場合には,あらかじめ飛行艇等が待機していたのか?
・「パイロットが脱出した」という情報は,どのような所(付近の艦艇,島など)に送られるのか?
などです.

 【回答】
 一応,太平洋戦争初期の頃は,予め救難地点が設定されていて,其処に潜水艦が待機.
 潜水艦を見つけることが出来れば,その近くに不時着水と言う手順で,救難が行われています.
 但し,機位を失したら終わりです.
 また,運が良ければ,水上偵察機もしくは飛行艇で,乗員を探しに来ることもありました.

 流石に末期になると,そんな悠長なことをしておりませんが.

眠い人◆gQikaJHtf2:2006/12/11(月)
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 二式大抵って,墜落したパイロットの救助等で活躍できなかったんでしょうか?

 【回答】
 二式大艇は全部で200機も作られていない.
 戦闘に伴う消耗もあるし.終戦時に稼働できた機体は確か一桁だったかな.
 偵察や輸送(晴空だっけ?)や訓練に使うだけで精一杯.
 もちろん救助できる状況の時はしただろうが,その状況があまりなかった事になると思う.

 97式大艇で救助した話はどっかでみた気がしたけど.

 帝国海軍は大型飛行艇にも攻撃能力を要求したくらいで,アメ公みたいに飛行艇にそこまで要求をする必要がなかった所と比べられてもねえ.
 結局最後は,みんな貧乏が(以下省略

軍事板
青文字:加筆改修部分

二式大艇
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 現代のアメリカ海軍空母艦載機は航空隊毎に独立(海兵隊,海軍所属)しているそうですが,旧日本海軍もそうだったのでしょうか?

 【回答】
 当初,空母艦載機は「空母の装備品」だったので,それぞれの空母にそれぞれの航空隊が設定されていました.
 たとえば珊瑚海海戦で翔鶴が大破し,瑞鶴に緊急着艦した翔鶴航空隊のパイロットがそのまま瑞鶴に居座ることは,辞令が出ない限り不可能で,翔鶴の修理完了まで岩国で訓練ながら待つか,飛鷹・隼鷹送りの辞令を受けるかです.
 また,主力の下士官パイロットは所属鎮守府に在籍するため,横須賀所管の赤城の場合,蒼龍(横須賀所管)へ転属することはあって,加賀(佐世保所管)へは行けません.
 空母がひとたび轟沈すれば,死なばもろとも…なのが空母航空隊員です.
 横須賀鎮守府は霞ヶ浦,呉鎮守府は岩国,佐世保鎮守府は大村,舞鶴鎮守府は美保に慣熟訓練航空隊があり,この中から,陸上航空隊行き,または空母航空隊要員を選抜することになり,不足したパイロットの補充員,新規就役空母の初代スタッフとして引き抜かれることになります.

 もっとも,基地航空隊にも宇佐空や佐伯空みたいな艦載機乗りの名手がいる部隊もあり,小沢さん直伝のアウトレンジ戦法を伝授された元基地航空隊の艦載機乗りの選抜隊が,大鳳に搭載されました.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/10/26(水)
青文字:加筆改修部分

 その後,マリアナ沖海戦時には,各航空戦隊に特設航空隊が一個付属する編成に改められ,「空母ごとに独立」では無くなっていた.
第一航空戦隊(大鳳,瑞鶴,翔鶴):第六〇一海軍航空隊(艦戦81,艦爆81,艦攻72,艦偵9)
第二航空戦隊(隼鷹,飛鷹,龍鳳):第六五二海軍航空隊(艦戦81,艦爆36,艦攻15)
第三航空戦隊(瑞鳳,千歳,千代田):第六五三海軍航空隊(艦戦54,艦攻9)
(この他,マリアナ沖海戦には参加していないが,航空戦艦日向,伊勢の第四航空戦隊には,彗星と瑞雲の第六五四海軍航空隊が付属)

 マリアナでボロ負けした後,さらに「特設飛行隊」制度が導入され,各航空隊に,艦戦,艦爆,艦攻の飛行隊(定数は48機)が付属する方式になった.
(ちなみに,二航戦と六五二空は解隊)

 ただ,再建途上の空母航空隊が台湾沖航空戦に投入されてすり潰されちゃったので,フィリピン沖海戦時には,基地に残っていた機体と搭乗員を掻き集め,瑞鶴には六〇一空,瑞鳳,千歳,千代田には六五三空の残存飛行隊が載せられた(伊勢,日向は搭載機ゼロ).
 その結果は周知の通り.壊滅して,六五三空&三航戦も解隊.

 その後,第六五四航空隊は瑞雲だけの部隊となって沖縄戦に参加.
(かの「芙蓉部隊」と並び,特攻をやらなかった数少ない航空隊)
 第六〇一航空隊は,再び一航戦の空母航空隊として再建が始まったが,1945年2月に一航戦が廃止され,陸上基地航空隊となった.
 同隊は,関東をベースに作戦を行い,沖縄戦にも参加,
 その後,本土決戦準備の為,再び関東に戻って敗戦を迎えた.

 したがって,いちおう,敗戦の日まで「空母航空隊」は有ったコトになる.

 六〇一空に関しては,同航空隊のゼロ戦エース,白浜芳次郎飛行曹長の「最後の零戦」という著書が有り,マリアナ沖海戦から敗戦までの同氏の行動が書かれている.
(ちなみに同氏は,ベテランの水上偵察機乗りだったが,1943年に戦闘機乗りに転身した人)

夏光華(シア・クァンファ) in FAQ BBS


 【質問】
 日本軍の基地航空隊の間に,食事格差があったそうですが.

 【回答】
 戦前に作られた航空隊の飛行場は,かねてから食物の調達ルートが確立されていて,戦争後半でもパイロットは,比較的良い物が食べられた.
 「横須賀航空隊」や「厚木航空隊」などはそう.
 第343航空隊などは,軍の食料ルート補給なんぞ当てにしないで,自前で漁労隊と農耕部隊を持っていた.
(特車2課みたいだな(苦笑))
 確か厚木も畑持ってた気がする.
 小園安名大佐以下,厚木が徹底交戦やる気満々だったのは,食料の自給態勢が確立されていたのも一因だと言われているな.

 でも,戦争後半に乱造された特攻基地は,その辺を何も考慮して居なかった物も多かったため,肉類なんぞは簡単に手に入らなかった.

 逆のケースもある.
 岩川で,かの有名な芙蓉部隊と同居していた特攻隊・西条空が,重圧に耐えかねて酒呑んで食っちゃ寝してた頃,芙蓉部隊は昆布・ひじき・あらめといった粗食で頑張ってた.
 酷過ぎるってことで視察に来た,5航艦の調査係に,昆布とあらめ料理出したら,コンビーフがやってきた.
 ちなみに,贅の限りを尽くした西条空は,特攻出撃することなく終戦を迎えました.

軍事板,2003/12/22〜12/25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 奈良県の香芝市にある航空総軍戦闘指令所であったと思われる地下壕につ いて調べています.なにか参考になる資料などありましたら,お教えください.

 【回答】
 航空総軍の地下司令部は,奈良県の「屯鶴峯(どんずるほう)」に昭和20年 の春から建設が進められていました.
 「屯鶴峰(どんずるほう)」は,奈良県香芝市の二上山の北にあり,標高70m 程の白色の小高い峰々がひろがる景勝地で,約1500万年前の二上山の火山活動時に噴出した火砕流が堆積し,後に風化・侵食作用を受けて現在のような特異 な景観となったそうですが,天然記念物となっています.
 「屯鶴峰」付近にはさまざまな軍事施設があり,屯鶴峰地下壕はこれらの施設 を統括する拠点として建設工事が進められていましたが,完成する前に終戦と なりました.
 この二上山周辺には,この地下壕だけではなくさまざまな軍事施設が存在して いたようです.高射砲台,機関銃座,燃料貯蔵用地下壕,さらに大阪府に目を向けると,盾津飛行場,大正(八尾)飛行場,羽曳野市の地下軍事工場.いわば,この周辺が陸軍航空部隊・航空総軍の一大拠点となろうとしていたよ うに思えます.
 そして,屯鶴峯地下壕はこれらの施設を統括する拠点として建設されていたのです.
 第一航空軍司令官の李中将も,「河辺正三総軍指令官」に随行する予定でしたが,「地下司令部」が完成する前に終戦となりました.
 防衛庁防衛研究所の図書館には,次のような文書が残されています.
「師作命丙第65号航空総軍命令(昭和20年6月14日) 航空総軍戦闘司令所を牡丹洞(屯鶴峰)に推進し航空総軍指定優先通信網を別 紙(添付)のとおり切り換えるものとす.」 (注)「航空総軍指定有線通信網」となっていますが,「優先」を「有線」と 書き違えたものと思われます.

teruteru from おきらく軍事研究会


 【質問】
 901空とは?

 【回答】
 第901海軍航空隊は1943/11/15,海上護衛総隊が新編された際,その傘下に作られた飛行艇対潜部隊.館山で開隊.
 翌年,舞鶴に本部移転.
 『最後の飛行艇』(日辻常雄著,1994.9,朝日ソノラマ文庫……合掌)によれば,東港,指宿を主な基地とし,使用機材は第一線を退いた97式飛行艇.96陸攻,水偵など.
 1944/7,航空機用磁気探知機(3式1号探知機,通称『磁探』)を装備した96陸攻,東海などをもって「特別掃蕩隊」を編成.
 これが潜水艦狩りに威力を発揮する.
 1945/1にはマニラから第1航空艦隊が台湾へ撤収してきたので,その254空,953空,954空を統合.
 同年8/1には朝鮮北部・元山に同居基地を設けたが,ソ連軍侵攻によって抑留され,180名余がシベリアへ.
 抑留地での死者数は,今も把握されていないという.
 悲惨.

東京湾にて撃墜寸前の九七式飛行艇
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 去年〔2005年〕なくなられた建築家清家清さんの研究をしています.
 神町飛行隊について教えてください.

初心者サスケ

 【回答】
 神町飛行隊の施設は1943年に設置が決定し,1944年2月から滑走路工事が開始され,海軍施設部と関西からの徴用工,地域住民,学生によって,8月に600mの滑走路が完成.
 更に格納庫,兵舎,火薬・燃料貯蔵用の隧道,防空壕が建設され,12月に予科練教育と秋水搭乗員訓練のための神町海軍航空隊が開隊しています.
 防空壕については,戦後米軍の進駐の際に火薬,燃料置き場に使用しており,その部分は現存していますが,他の部分は素堀のため土砂の崩落で埋もれています.

 なお,これに関する資料としては,東根市神町歴史の会編「戦後五十五年を考える 神町空襲と若木山防空壕」にあるかもしれません.
(防空壕の平面図は少なくともありました)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in FAQ BBS


 【質問】
 戦前,済州島にあった海軍飛行場の規模や設置時期を教えてください.

 【回答】
 済州島に飛行場が計画されたのは1926年で,1930年代半ばまでに20万坪の敷地に滑走路1本が建設されました.
 1945年までにその敷地面積は80万坪に拡大されました.

 敗戦時の飛行場面積は120万平方メートル,滑走路は南北方向に1400m×70m,誘導路3500m×2550mで張芝転圧によるもの.
 滑走路東方には有蓋掩体20基,高角砲陣地,弾薬庫,管制塔,庁舎2棟,士官舎2棟,兵舎17棟,工場,格納庫,病舎などを備えています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 WW2中国軍航空部隊に関する,お勧めの本はありませんか?

 【回答】
 2〜3年前に台湾の中國之翼出版社と言うのが,中國之翼叢書と言うのを結構出していましたね.
 『中共空軍史』は手に入れ損なったのですが,抗日戦争時とか国共内戦時の中国軍用機一覧とか,中国航空史,大陸偵察のRF-101やU-2の話,国共内戦時に寝返った人々とかも取り上げていましたっけ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2011/05/20(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中山雅洋『中国的天空 下』は,上巻に比べてあまり評判良くないのはなんでだろう?

 【回答】
 あからさまな間違えが多いからではないかい.
 下巻の範囲は,今となっては台湾や中国本土,英語圏の書籍や記事で検証可能な部分が多いからね.

 加えて下巻では作中で,いきなり飛行機とは何の関係もなく,日本軍のことを,世界史上に類を見ない残虐非道な軍隊としてけなし始めたのを読まされるんだもの.
 日本軍が全く戦争犯罪をしていないとは思ってないが,「世界史上に類を見ない残虐非道な軍隊」呼ばわりは明らかにおかしいだろ.
 どんな基準や根拠をもとに,そう判断したかも不明だし.
 誰だってそれ以上,積極的に読んだり薦めたりしようとは思わんわな.

 まぁ,読み物的に上巻の方が断然面白いというのも,大きいと思うが.

軍事板,2011/05/19(木)
青文字:加筆改修部分

 中国戦線の航空戦に関しては,陸軍戦闘機隊限定で,時期も最後の2年間だけだけど,梅本弘さんの『陸軍戦闘隊撃墜戦記』の方が,『中国的天空』下巻より良書だな.
 何故2分冊で出したのかはわからんけど.
 2冊合わせても230ページぐらいだから,1冊で出しても問題なかっただろうに.

軍事板,2011/05/25(水)
青文字:加筆改修部分

 【反論】
 共産党と国民党双方にソースがあるから,お互い触れて欲しくない話を抜いたら,ああなっちゃっただけな気がする.
 特に基本が国民党空軍の話だから.

 別にそれ以上無茶する義理は作者にはないし,ここまで詳細に中国大陸の航空戦史を調べ上げただけで立派.
 要らん部分は,読む側がフィルタリングすれば済む話.

軍事板,2011/05/20(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦中のタイ軍航空部隊に,実戦経験はあるのでしょうか?
 たしかビシー・フランスとタイとの間で紛争があったはずですが.

 【回答】
 1937年にシャム陸軍航空師団から離れ,独り立ちした王立シャム空軍ですが,1941年,タイとフランス領インドシナとの紛争が発生すると,これに出動します.
 このときタイ空軍は,6機のマーチンModel139と4機のHawk-75Nをもってハノイを空襲.
 フランス側はMS-406,4機でこれを迎撃しました.

 英語版Wikiがわりと詳しいので.ここを見ると,損害は,フランス側は1機のファルマンF-221と2機のMS-406を地上で喪失したことを認めていますが,タイ側は5機の撃墜と17機の地上撃破を主張する一方,3機を空中戦で,5〜10機を地上で喪失した,と主張しているとされてます.
 ただ,フランス側の損害は実際には30%に達していたとも書かれていますが.

 また,フランス側はタイ空軍のパイロットについて,特に急降下爆撃について優秀と評価しているようですね.

 その他,フランス側のポテーズ542やファルマン221のタイ側に対する夜間爆撃やタイの97軽爆がフランスの戦闘機とドッグファイトが生起するなど, 空中戦がそれなりに発生しています

 なおタイ空軍は,マレー半島侵攻目的で中立侵犯してきた日本軍とも空戦をやっています.

 さらに
「War Birds」:単葉機の時代

によれば,太平洋戦争後期にはタイ領内に飛来するアメリカ陸軍のP-51やB-29を迎撃しているそうです.
 迎撃機は日本製の97式戦闘機や隼…….
 それでもB-29を1機撃墜しているらしいとか.

軍事板
加筆修正部分:青文字

ポテーズ540
ポテーズ542は,540ではイスパノスイザ12Xirs(690HP×2)だったエンジンを,
ロレーヌ・ベトレル(720HP)に換えたもの

タイ空軍の,「象のマーク」の松本引っ越……ならぬ,「象のマーク」の隼(模型)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 WW2終戦間際に日本で撃墜された米軍パイロットが,終戦まで捕虜にならずに山中等で潜伏できた例はあるんでしょうか?

 【回答】
 撃墜されてから68日間逃げ延びた方がいます.これが唯一の例です.

 昭和20年7月14日に空母シャングリラから北海道に出撃したVB-85のカーチスSB2C10機の内,4機が苫小牧付近の鉄道を襲撃しましたが,この内の1機が操縦ミスで樽前山近くの地上に激突しました.
 搭乗していたパイロットのイーグルストン中尉は死亡しましたが,後席の電信兵兼射手であったオリバー・B・ラムスッセン一等航空電信兵は軽症で助かりました.
 残骸から取り出した非常キットの食料と救急箱・コンパスなどで彼は命をつなぎ,食料がなくなると,近くで飼われていた雌牛の乳で飢えをしのぎました.
 当初,彼は海へ出て,そこから船を奪って樺太に脱出しようとしていたのですが,これに失敗.
 農場近くの小屋に隠れていた時に農民に見つかり,ここで終戦を知ります.(墜落から60日後)
 その後,苫小牧まで自力で移動して,9月19日にようやく米軍のMPに保護されました.

 苫小牧から厚木,さらに母艦のシャングリラを経て,彼が輸送機で本国への帰途に着いたのは9月24日のことでした.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 その他の地域ですが,マリアナ沖,レイテとも戦場の支配権が米軍にあったので,パイロットはほとんど捕虜になってません.
 フィリピンでも主要な都市以外は,米軍の息のかかったゲリラに支配権が移っており,本隊復帰は容易だったようです.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 極東ソ連領内への米軍機着陸問題について教えられたし.

 【回答】
 〔略〕
 ところで,1942年半ばから日本はミッドウェイ海戦で大打撃を受け,ガダルカナルでも敗退を重ね,何度も行われた鉄底海峡での海戦に敗退するなど,日本の勢いが失われていきます.

 この流れに対応して,ソ連側は米英側の誘いに乗りながら,米英との関係の緊密化に一層の拍車を掛けていきます.
 ソ連としては,米英からの援助を最大限に引き出しつつ,米英側に欧州での第2戦線結成を依頼し,ドイツの圧力軽減を行わせようとしていました.
 この動きに呼応して,5月下旬にモロトフがロンドンに飛んで,5月26日,
「対独及びその欧州与国との戦争に於ける同盟及び戦後の協力に関する条約」
を締結,更にワシントンに飛んで,6月11日,
「侵略防止戦争に於ける相互援助の原則に関する協定」
を締結して,12日にモスクワに帰ってきました.

 佐藤大使は,その情報を知らんとして,6月19日にモロトフと会見を行う事になります.
 佐藤大使は先ず,今回成立した英ソ条約,米ソ協定は日ソ関係にどのような影響をもたらすかを尋ね,これに対しモロトフは,成立した英ソ条約の内容は欧州に関するものであって,日本には何ら関係ないものであると述べ,米ソ協定は供給に関する問題で何ら新しい取決めではなく,何れも秘密取決めはないと述べました.
 佐藤大使が,1943年4月にモロトフが触れた日ソ中立関係には,何ら変更がないものと諒解して良いかと尋ねた所,モロトフはその通りであると回答しています.
 更に,例の如く,ソ連の米国への領土割譲,売却,貸与,軍事基地の提供が会談されたのではないかと問いただしますが,そのような風説はドイツ側の捏造であると一笑に付し,今度もこうした話が議論される事はないかと尋ねた所,モロトフは今後,この様な旅行をする事も,交渉もする事はないと回答しています.
 会見の最後に佐藤大使は,日本は将来もソ連側が過去に於けるのと同様の態度を保持される様期待すると述べましたが,モロトフは日本も今後現在と同様の政策を採り,捏造の話に耳を貸さない様に希望すると釘を刺しています.

 結局,モロトフの態度はとりつく島もないものでしたが,ソ連としては対独反抗戦を準備している段階で,日本にちょっかいを掛けて欲しくないと言う目的もあり,暫く静音裡に置いておこうとした姿勢は垣間見られたと言います.

 丁度この頃,東部戦線では独ソ戦の天王山とも言えるスターリングラード攻防戦が繰り広がられていました.
 1943年2月2日,包囲網に置かれた総兵力33万のドイツ軍は,捕虜9万,戦死者14万7,200余を出して降伏に追い込まれ,ドイツでは国を挙げて3日間喪に服しました.
 ソ連側の戦史では,この意義について,
「ファシスト連合軍は独ソ戦線に於ける全兵力の四分の一を失った.
 敵の将兵150万が戦死し,負傷し,或いは捕虜となった.第8イタリア軍,第3,第4ルーマニア軍の壊滅はこれら諸国の内部に深刻な反響を呼び起こし,ファシスト侵略者陣営に内紛を発生させた.
 日本とトルコは,対ソ攻撃を決定的に断念した」
 まぁ,日本ではそんな余力はなかったのですが,ソ連は日本の対ソ攻撃の幻想が拭えなかった為か,最後までこの観念は捨てていません.

 2月23日のソ連軍記念日には,クイビシェフで盛大なレセプションが催され,日本大使館員も招待されていますが,その席上にはスターリングラード戦の勇将で第62軍司令官のチェイコフの顔も見え,まさに彼は宴のヒーローとなっていました.

 これに先立って,ソ連は2つの挙国一致政策を実施しています.
 1つは1月6日に赤軍将兵の制服を改正し,従来の地味な制服を改めて,帝政ロシア時代に準じた煌びやかな軍服が復活し,その金ぴかの大きな肩章を付けた制服軍人の姿は,大祖国戦争に赴く将兵の士気を大いに挙げたと言います.

 もう1つは,対宗教政策の転換です.
 革命から近年まで「宗教は国民の阿片なり」として,反宗教運動を進め,ましてや僧侶が在外公館と接触しようものなら,有無を言わさず,シベリアに送られたのですが,この時期を境に,反宗教運動を手控えたばかりでなく,一種の対宗教宥和政策を打ち出し,これを大々的に宣伝し始めました.
 国内でも祖国の為に活動する宗教家が叙勲され,政府機関中に宗教事務局が設置され,ギリシャ正教会の組織も公然と認められる様になりました.
 これは,祖国戦争を戦うに際して,国民に絶対的な融和を求め,特に旧世代の人々の愛国心に訴える為にも宗教の優遇が不可欠との判断もありました.
 また,対外的関係でも,宗教に寛容な姿勢を見せる事で,従来,人権蹂躙や宗教に不寛容であると批判を行ってきた米国内のソ連観を好転させる為に必要なものでした.

 ところがこんな時,米国から基地提供の申し込みが為されてきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/14 22:19

 さて,スターリングラード戦が最終段階に入っても,ルーズヴェルトはなお,日本が対ソ攻撃に出ると言う予想を捨てませんでした.
 1942年末のスターリン宛親書でも,そうした考え方を披瀝し,もし,日本による対ソ攻撃が行われれば,米国は4発爆撃機100機で,貴国を支援すると書いています.
 そして,その上で,ソ連に対し,極東空軍の施設をブラッドレー将軍に視察させ,コロレンコ将軍との交渉を継続させる様に述べていました.
 つまり,米国は太平洋戦争にソ連を参戦させようと考えていたのです.

 しかし,ソ連側は既に日本側の動きを察知していた為に,米国の誘いには乗りませんでした.
 スターリンが翌年1月5日にルーズヴェルトに宛てた親書では,
「我々が飛行機を必要とする場所は,極東ではなく,ドイツ軍と激戦を交えている戦線である」
と返信して,米国側を困惑させています.
 そうこうしている内に,スターリングラード戦でソ連が勝利した事を知った米国は,それに対抗するかの様に,太平洋戦線での攻勢を強めていきます.
 そうして,1943年5月,米軍はアッツ島への上陸作戦を敢行した訳です.

 丁度この頃,米国がシベリアでの軍事基地供与との情報が流れ,佐藤大使は直ちにその真偽を問うべく,ロゾフスキー外務人民委員代理を訪ねています.
 この時の申し入れに対し,ロゾフスキーは困惑して,申し入れは政府側に報告するが,米国政府がソ連に軍事基地の提供を要求した事はなく,ソ連は今後も日ソ中立条約を厳守するので,この様な要求は提起し得ないとした上で,更に後日,メモを以て正式回答として伝えてくる念の入れようでした.

 結局,アッツ島の日本軍は米国の攻勢の前に全滅し,キスカ島からも引揚げたので,日本のアリューシャン列島での足場は消滅しました.
 再び日本の立場は苦しくなった訳です.

 他方,クイビシェフに避難していた外交団と政府機関は,首都が正常化した事により,8月中旬にモスクワに戻りました.

 1943年後半になると,北方海域で米軍は更に攻勢に出る様になります.
 そして,アリューシャン列島から長駆北千島を爆撃する様になるのですが,8月12日にはその爆撃行の後,カムチャツカに着陸すると言う事件が発生しました.
 この事を知った日本側は,8月24日に佐藤大使がモロトフ外務人民委員を訪れて,米軍用機の行方と乗員の取扱に対し問い合わせを行っています.
 たった1機の不時着ではありますが,B25による日本空襲以来1年数ヶ月ぶりの不時着事件で,日本も神経を尖らせていた事が伺えます.

 これに対しモロトフは,こうした事件は全く例外中の例外で,その機体の取扱い,乗員の抑留については,国際法に基づいて実施していると答え,今後も米軍機が不時着した場合,同様に扱う事とし,一切,聖域化することはないと一笑に付しました.

 ところが,1ヶ月を経ない9月12日にまたも米軍機数機が北千島を爆撃した後,カムチャツカに着陸した事が判明しました.

 9月20日,佐藤大使は早速モロトフの元を訪れ,事実確認を申し入れます.
 その席上,佐藤大使は,今回の事例は万一の場合,ソ連側に逃れる事を想定しており,これは中立を侵犯しうる行為であること,それは米国に対する基地提供と同義である事,もし,ソ連が中立を標榜するのであれば,この事案に対し,ソ連は米国に抗議を申し入れる必要がある事を述べました.

 9月24日,ロゾフスキー外務人民委員代理から佐藤大使に対して,調査結果の報告が届きます.
 それによると,9月12日に米軍機3機が発動機故障でカムチャツカに着陸し,その後4機がソ連国境を侵犯した為に,ソ連機によって迎撃を受け,ソ連領に着陸を余儀なくされた事,乗員は国際法に準拠して官憲に抑留された事が判明しました.
 佐藤大使は,モロトフへの申し入れを反復した後,ソ連から米国に抗議をすべきものであるとの質問を投げかけましたが,ロゾフスキー外務人民委員代理は,ソ連政府は米国に申し入れをした旨を答えただけでした.

 更に佐藤大使は,こうした事例が既に3件も起きているので,日ソ間の誤解を避ける為にも,ソ連政府の同意を得た上で,日本官憲が抑留機と乗員の検分が出来ると好都合であり,ソ連政府がこれを受入れると日本側も安心すると意向を尋ねます.
 これに対し,ロゾフスキー外務人民委員代理は,日米間が交戦中であり,それは国際法違反となるので合意不可能であると答え,佐藤大使がなおも,米国側の計画的犯行であると判明したので,機種と乗員数をも通報されたしと食い下がりますが,不時着機の乗員は戦意を放棄しているので,情報提供は同意しかねると答えます.
 佐藤大使は,更にこの程度の情報提供では,国際法違反にならないだろうと追及しましたが,ロゾフスキー外務人民委員代理は,これは一般的に認められた国際法に反すると為し,一々の事案に答える義務はないと述べて,会談を打ち切りました.

 9月28日,佐藤大使はロゾフスキー外務人民委員代理を訪ね,先の話を蒸し返します.
 日本側に安心を与える為にも,この種の情報提供を再び申し入れたのです.
 これに対し,ロゾフスキー外務人民委員代理は,ソ連側も事件を重大視しており,機体と乗員を抑留した事は既報の通りであるとし,抑留措置は重大措置と解して欲しい,これらの兵力は戦争の全期間に渡って釈放し得ないからであると述べ,日本側の理解を求めました.

 最終的に9月30日,ロゾフスキー外務人民委員代理から佐藤大使に対し,大使に好意を表し,また個人的通報と前置きした上で,モロトフからの回答として,米国軍用機の2機は4発発動機,乗員12名である事,5機は双発で乗員が5〜6名である事を伝え,この問題の決着を図っています.

 もしかしたら,この騒ぎは,米国がソ連を太平洋戦線に引き込もうと企んだものかも知れません.

 飛行機の問題はこれで片が付いたのですが,それ以上に日ソ間で厄介な問題だったのが,ソ連国旗の下で太平洋を渡る船舶の問題でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/15 22:43


目次へ

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

inserted by FC2 system