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昭和6年の雑誌から

(画像掲示板より引用)


 【link】

Garber Facility Restoration(スミソニアン博物館付属のレストア工場,英語)

「Togetter」◆(2011/12/04) 可動率の話(メモ)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-17)[伝書鳩] 軍用鳩委員部の鳩中尉と三田村鳶魚

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-23)[文藝][伝書鳩][ヨコジュン] 永代静雄の鳩事報国

「神保町系オタオタ日記」■(2010/07/04)[伝書鳩][満洲]黒岩比佐子『古書の森 逍遙』(工作舎)への補足(その3)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-30)[文藝][伝書鳩][図書館][ヨコジュン] 永代静雄の鳩事報国に賛同した協力者たち
 「大東亜伝書鳩総聯盟」について

高野文夫の飛行機図面集(零戦,紫電,4式戦の3Dコックピット等)

船津航空計器博物館(データ総合)


 【質問】
 日本の空港整備はどのように始まったのか?

 【回答】
 明治末から大正初期に掛けては,未だ航空機も黎明期で,飛行場についての法律上の規定はありませんでしたので,一定の広さを持つ平地であれば,何処でも離着陸をする事が出来ました.
 また,滑走路についても,何も直線である必要はなく,円形であろうが曲線であろうが,平滑に整備した場所さえあれば,風向きや行先に応じて自由に離発着出来た訳です.

 しかし,民間航空輸送が実用化された際,空港の整備が問題になりました.
 1927年6月,航空法が施行され,第5章に「飛行場」が規定されます.
 これに基づき,逓信大臣の許可権限(意外に内務大臣ではない)と必要書類,経営者の義務が定められ,又,第4章では飛行場の隣接地に障害物がある場合は,標識の整備が謳われました.
 1937年になると,更に離発着時の安全を期す為,飛行場に隣接して特別地域を設定し,規制が様々に為される事になります.

 当時,空港の種類として4形態が考えられていました.
 1つ目は陸地にあって陸上飛行機と水陸両用機の運用を図る「陸上航空港」,
 2つ目は水面を離発着の場所とし,水上飛行機,飛行艇と水陸両用機の運用を図る「水上航空港」,
 3つ目は海の中央に人工のプラットフォームを構築する「洋上航空港」,
 そして,4つ目が都市の高層建築物の屋上に連続して平坦地を造り,飛行場にしようという「高架航空港」という発想で,今のヘリポートに通じる様なものです.

 「高架航空港」の案件としては,1933年秋に国鉄名古屋駅の改良工事で提案されたものがあり,これは10面のプラットフォームが出来るので,この屋上に出来るこの幅員200m,長さ200mの部分を広大な板で覆い,平地同様の飛行場を設け,旅客機の発着場にしてはどうかと言うものだったりします.
 駅から至便という利点があり,ちょっと見てみたい気もしますが.

 実際に民間航空輸送で用いられたのが,「陸上航空港」「水上航空港」の2形態です.
 当初は,陸上機の輸送力が小さく,飛行艇が用いられていたので,「水上航空港」も重視されました.
 初めて有償の民間航空輸送が実現したのは,大阪と四国の間で,大阪側の発着場は堺の大浜海岸でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/03 21:53


 【質問】
 戦前の大阪における飛行場拡張の歴史について教えられたし.

 【回答】
 1927年,航空法の施行と同時に,逓信省は民間定期航空輸送を開始する構想を打ち出し,東京と大阪,福岡に民間飛行場を建設して,東京〜大連,大阪〜上海の国際航空路を開設することにしました.
 東京は羽田に飛行場が,福岡は名島に水上航空港が造られ,大阪には1929年4月1日,木津川尻の船町に用地を確保し,東西に720m,南北に400mの滑走区域を持つ大阪飛行場が完成しました.

 しかし,立地条件は都心から近いのですが,市街地側からは木津川を渡る橋梁が無く,渡船を利用する必要がありました.
 文明の利器の最先端を行く飛行機に乗るのに,渡船を利用するのは….
 また河口部にある為,気温の変化によって霧が発生する日が多く,加えて「煙都」と呼ばれた大阪です.
 周辺に工場や事業所が増えた為,煙突からの煤煙で視界が更に悪くなりました.
 夜間の離発着用に照明が準備されていましたが,安全の確保が課題となります.

 更に縦割り行政の弊害がありました.
 港湾を整備する部局では沖合に設ける予定の防波堤を,木津川右岸から左岸に変更する事にしました.
 つまり,この防波堤が出来上がると,空港近辺の水域,つまり飛行艇や水上機の滑水面は港湾域に取り囲まれ,内港となってしまいます.
 大小様々の船舶が行き交う港内で,水上機は衝突の危険を避けつつ離発着するか,港湾の外にわざわざ滑水して出て行ってから離水するしかありません.
 こうなると,航空機としての利便性が損なわれます.

 更にまた,航空機の大型化や性能向上で,現在の滑走路では対応出来なくなる時期が近い将来やってくるのですが,現行の大阪飛行場では,とても拡張する様な余地が無く,国際航空港として,相応しいものではなくなりつつありました.

 其処で所轄の逓信省は,大阪飛行場の移転を検討し始めます.
 大阪市はその意を汲み,1931年9月5日,大和川尻地先の海面91.5万平方メートルを埋立て,其処に新空港を建設することに決定し,10年の工期と500万円の工費が必要という見積りを弾き出します.
 1933年7月5日,埋立事業の起工式が行われ,工事が開始されました.

 ところが,この新空港は,大阪からは確かに利便性が良いが,京都や神戸からは交通の便が悪い.
 だから阪神間に国際飛行場を設けるべきである,と主張した人々が出て来ました.
 彼らの登場で,大阪の新空港設置場所は迷走を始める事になります.

 さて,新飛行場を誘致する為に立ち上がったのは,神戸財界の巨頭である川西清兵衛でした.
 彼は大阪と神戸の双方から交通の利便性があり,付近に障害物もなく地質,排水に問題のない場所として,武庫郡住吉川両岸の埋め立て地,或いは武庫川尻にある彼の会社川西飛行機製作所の対岸埋め立て地を推しました.
 何の事は無い,我田引鉄ならぬ我田引飛行場だった訳で….

 と言うのも,1933年9月の事,当時金融恐慌で経営難に喘いでいた橋本汽船が鳴尾浜に所有していた土地9万坪を,債権者の山口銀行が競売に掛けました.
 で,これを川西機械製作所(川西飛行機製作所の前身)が取得して,此処に飛行場を建設するつもりだったのです.
 ところが,橋本汽船が山口銀行に負っていた97万円と言う巨額の債務を,阪神電鉄の支援を受け,完済する事が出来,競売に掛けられていた土地を取り戻す事に成功しました.
 阪神電鉄は,その土地に2,000戸の住宅を建設し,一大近郊住宅地にして売り出す事になります.
 結局,川西清兵衛が夢見た飛行場は立ち消えとなり,リセットを余儀なくされました.

 其処に降って湧いたのが新大阪飛行場の計画.
 川西清兵衛としては,自社工場の発展の為には是が非でも鳴尾近郊に国際飛行場を誘致しようと,大阪市が大和川尻を埋立て開始したと同時に,計画をぶち上げた訳です.

 大阪市は当然,この動きに対抗し,事業の完成年度を1937年新春と前倒しし,市会に建設予算を提案し,議決を得ました.
 神戸実業協会会頭でもある川西清兵衛は,大阪の経済界に連携を持ちかけますが,大阪商工会議所は川上胤三を東京に派遣し,商工省や逓信省の意向を探る事になりました.
 それに依れば,逓信省による大阪市の国際飛行場指定は「契約」ではなく,「賛意」であると言う見解であり,大和川尻はガスの発生が多い,翻って鳴尾も山が近くて気流が良いと言えないと言う回答であり,逓信省としては完成の早い方を国際飛行場とすると言う方針でした.

 これを受け,更に大阪市は三度目の見直しを行い,竣工時期を1935年春完了にする予算措置を行いました.
 当初,大阪商工会議所は,神戸案を支持すると見られていましたが,逓信省からの情報を得て,大和川尻案を推す事に決め,のみならず,神戸案に対し猛烈な反対運動を仕掛けてきます.

 こうして,神戸実業協会と大阪商工会議所の対立が顕在化しましたが,実行という面から見ると,既に工事に着手している大阪市が頗る優位に立ちました.

 ところが,官僚を信じて馬鹿を見るのは,どの時代も同じです.
 大阪市の瀧山助役が上京し,逓信省の片岡航空局長を訪れ,工事の竣工を3カ年前倒しした事,その為に内務省に350万円の起債を申請している事を報告しましたが,此処で大阪市の計画は見事に引っ繰り返されます.
 元々,大阪市の計画では,空港予定地は8万坪としていました.
 しかし逓信省としては,8万坪は国際飛行場としては狭隘に過ぎ,木津川尻の大阪飛行場の移転先としては認めるが,国際飛行場としては計画を見直さなければ,不充分であると言い出したのです.

 一方,工期では不利な神戸側でしたが,民間飛行士達は大和川尻案に反対を唱えました.
 最初に声を上げたのが日本航空輸送会社で,操縦士達と検討した結果,神戸案を支持する見解を出しました.

 こうして,操縦士,航空会社,経済界,官民挙げて大論争が起こっていた最中の1934年1月6日午後,木津川飛行場で試験飛行を行っていた日本航空輸送の夜間郵便機が,近傍の煙突に激突して大破,操縦士は重傷を負うと言う事故が起きます.
 これにより,陸軍委託生出身の操縦士達の団体である交星会,日本航空輸送の操縦士達の団体である航友会も相次いで大和川尻案に反対を表明します.
 彼らによると,木津川の飛行場に着陸するのは,「擂鉢の底に着陸する様なもの」で,「周囲の工場の煙突は危険」,「硫酸工場の排ガスは機体の金属部を腐食させ」,「セメント工場の細粉は煤煙と共に煙霧の原因となって」危険極まりない,としていました.

 これは少し離れた大和川尻に移転した所で,改善される訳がない.
 こうして操縦士団体内部での議論は沸騰し,操縦士の代表者が逓信省の片岡航空局長を訪問し,彼は,
「大阪市が飛行場を持つ事は結構だが,それは都市飛行場としての話で,国際飛行場を大和川尻に造る事についての諒解とか言質を与えた事は絶対にない」
と言う返答を得ます.

 この返答に対し,神戸実業協会は意気軒昂となり,大阪市側は反論し,これは既に「内定」を得ていると主張します.
 逓信省内部も混乱があった様で,この阪神間の争いを傍観せざるを得ませんでした.

 こうした中,尼崎市長,西宮市長,大庄村長,鳴尾村長は甲子園ホテルで会合を持ち,鳴尾から武庫川を挟んだ対岸にある大庄村が候補地として名乗りを上げ,更に混沌としてきました.

 更に,大阪市側に不幸が重なる事になります.

 大阪市,神戸商業会議所,阪神間市町村連合の三つ巴の争いになっていた国際飛行場誘致.
 当初は,大阪市の大和川尻案が優勢だったのですが,操縦士や民間航空会社の反対に遭い,神戸商業会議所の鳴尾案が操縦士,民間航空会社から支持されます.
 しかし,双方引かないでいる内に,大庄村が誘致に名乗りを上げたりして,混沌として来ました.

 こうした中,1月6日の試験飛行中の煙突激突事故からの余燼が燻っている,1934年1月31日,夜間飛行中の鶴岡貞一飛行士が,木津川飛行場近くで煙突に激突して機体が海中に沈没,彼は命を失いました.
 当時,午後8時までは霧がなかったのに,其の後,突然空港周辺が濃霧に閉ざされた事が判明しました.
 こうした場合の措置としては,亀山の信号所に連絡し,飛行機が上空を通過する際に,明野への引き返しを指示しますが,既に亀山の信号所を過ぎた後で,全く余裕がありませんでした.
 飛行場では,焚火を燃やし,サイレンを鳴らし,地上では「ガスの為着陸不適当」と言う意味の危険信号を明滅させ,更に投光器3基を点滅させて,上空に光を投げかけました.
 地上員は緊急呼集の上,緊急事態に備えましたが,鶴岡機は2,3回低空飛行をした後,姿を消したのです.

 先に厳重な抗議を行った日本航空輸送の飛行士で組織する航友会は,大阪飛行場の夜間飛行を拒否し,交星会もこれに和します.
 大阪に到着する時間帯を早朝とするなどの案もありましたが,結局は午後5時に大阪着となる様にダイヤを組み替える事となります.
 折角,航空灯台を設置して,羽田〜大阪間の夜間定期飛行を開始したばかりだったのに,真の夜間便は片道しか実現しなくなりました.

 逓信省は,世論の批判が大きくなっていたので,移転問題だけでなく,夜間飛行時の安全確保や不時着場の設置など,対応に追われます.
 更に2月16〜18日にかけ,更に大和川尻の飛行場設置場所の調査を行いましたが,調査委員会の団長格であった田中館愛橘博士は,
「大阪飛行場は全く以てお話にならぬ程度で,飛行士諸君が良くあれで飛んでいると思う」
と酷評し,大和川尻は飛行場として不適格と言う結論を下しました.

 当時の大阪市長である関一は,大和川尻案以外の案を検討するのは難しいとして,逓信大臣との直談判も行いますが埒が開かず,6月に逓信省の側から,
「国際飛行場は阪神間へは移転しない」
「その代り,大阪市かその近郊に出来うる限り煙霧などの障碍少ない場所を提示しろ」
と言う,飴と鞭の提案が為される事になりました.

 大阪市としてはこれは飲めず,逓信省は,第二大阪飛行場を新設する地区を模索する事になりました.
 1936年,漸くその候補地として,兵庫県川辺郡神津村,大阪府池田町,大阪府豊中市に跨る地域に建設する事が決定し,大阪市に代わって兵庫県が用地買収と整備を逓信省から委託される事になりました.
 これが現在の伊丹空港です.

 今は地方空港への格下げが取り沙汰されていますが,その発祥時点でも,そもそも,木津川尻の大阪飛行場の移転地はあくまでも大和川尻であり,伊丹のそれは,第二飛行場と言う位置づけだったりします.

 途中,阪神大風水害の被害などもあって工事は難航しましたが,1939年1月17日に大阪第二飛行場として開業する事になりました.
 大阪第二飛行場は,木津川尻の大阪飛行場から,「陸上航空港」の役割だけを移譲し,木津川尻の大阪飛行場は,水上機専用空港となります.
 謂わば,庇を貸して母屋を取られる状態だったり.
 この大阪第二飛行場には2本の滑走路が設けられ,夜間照明設備を備えた近代的な空港でした.

 しかし,既に当時としても計画時点でも大型と言われていたDC-3から,更に大型の四発旅客機が出現していた時代.
 大阪第二飛行場は開業当初から既に手狭になっていました.
 この為,国際便は羽田から大阪を経由せずに福岡へ直行する始末でした.
 其処で,更に飛行場の拡張が進められ,此処が国際空港としての機能を担う事になり,大和川尻の飛行場は完全に梯子を外されてしまいました.
 同時に,川西清兵衛の野望である,鳴尾飛行場も結果的に実現しなかったので,喧嘩両成敗的ではありますが….

 大和川尻の飛行場予定地も,第二飛行場と同じく,風水害の被害に遭い,当初完成が1935年だったのが大幅に遅れ,予定地の埋立が完了したのは1939年の事でした.
 既に,航空機大型化の波からは完全に取り残され,今更国際飛行場として使う事も出来ず,民間航空輸送の主体は殆どが陸上機の時代となり,この空港が開業したとしても,一部水上機の発着と,パイロットの訓練飛行が行えるだけであろうなどと揶揄されました.

 大和川尻の事業断念は,1942年5月29日.
 大阪市が描いた餅は見事に画餅に帰してしまいました.

 しかし,埋立地を造ると,其処で博覧会や五輪を開催したがる東京市,東京都,其処に巨大な建造物を建設したがる大阪市,都市のDNAって,意外に連綿と続いているのかも知れませんねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/03 21:53
〜2008/04/05 23:02


 【質問】
 陸軍の飛行場建設は,具体的にはどのようにして行われたのか?

 【回答】
 陸軍の航空基地については,太平洋戦争前に陸軍航空本部が計画し,地上兵団の経理部が主にその実施に当たりました.
 当初,そう言った飛行場の大部分は,増員された操縦者を養成する為の教育訓練飛行場でした.
 陸軍航空本部で,飛行場整備を担当していたのは,第10課で,その課長は「日本の国家予算の中で最高額を扱う課長」と自称していました.

 この時期,日本本土に新設する飛行場の順序としては,
1. 重要都市並びに重要施設の防空,教育訓練用飛行場の設定
2. 北東方面に於ける対米対「ソ」の航空両面作戦飛行場並びに防空飛行場の増加,拡張
3. 教育訓練用飛行場
としており,既設飛行場との空域関係,地形地貎,天候気象条件を勘案し,更に食糧生産を出来るだけ圧迫しないと言う条件を加味して,水田地帯を避けて平坦な森林,畑地に絞って検討し,教育能率本位の飛行場候補地が選定されていきました.

 で,こうして選定された候補地を図上で検討し,ある程度の腹案を立て,総務部の部員と施設課の主計,技師と共に実地偵察に赴き,現地踏査を行います.
 現地踏査は,飛行場候補地の細部にわたって検討を加える為,詳細を究め,実施計画を立てて経費資材を計算するようにして,建設計画が具体化されていく訳です.
 陸軍総務部では,1942年までに東北地方は東側を除いて日本海沿岸を福井県まで,九州は南部に重点を置いて,全地域,関東地方も全地域を踏査していました.

 本土を広く踏査した結果,教育訓練に最も効率の良い「面飛行場」(一辺1,300〜1,500mの正方形で芝生のものが殆ど)の設定が出来,且つ国民生活を圧迫せず設定経費の節約が出来る,森林または畑地に余裕のある地域として,関東地方では埼玉,群馬,栃木,茨城,千葉,九州地方では宮崎,鹿児島,熊本の各県に限定され,中部地方,中国地方は水田を取り上げない限り,新設は無理と判りました.
 こうして,内地の飛行場60数カ所に加え,24カ所を新設し,7カ所を拡張しました.
 新設飛行場は,壬生,水戸北,成増,松山,児玉,前橋,松本,伊那,大島,新島,富士,小牧,清洲,佐野,由良,広島,防府,高松,蘆屋,福岡,曽根,万世,上別府,唐瀬原で,拡張は,油川,印旛,松戸,老津,富山,三国,都城東の各飛行場です.

 土地は,経理部から将校担任官が派遣され,有力者(村長や区長,隣保班長)を集めて,役場で簡単な説明を行っただけで,翌日には地主会を開催し,更に其の翌日,説明から3日後には強制買収について地主が役場で承諾書に捺印し,買収が完了しました.
 この買収金額は大抵の場合,国債で支払われ,支度金程度しか現金は支払われなかったりします.

 こうして買収翌日には早くも飛行場の測量が開始され,これ以後住民が動員されています.

 こうした動きに対し,地元自治体では,10箇条の要望を軍に上げています.
 買収金額だけではなく,関係農民の生活安定対策(例えば,自治体が建設した用水路の費用が返還されていない農民に代わって債務を返済して欲しいとか,用地の周囲に農道を設定して欲しい,代替地の買収費用も出して欲しいなど),町村分与税を増額,作付統制の緩和で農民の実収を増やす,更に,やむを得ず離農する人々に対する対策を依頼していました.
 全く軍の意向だけで決められた訳ではなかったようです.

 とは言え,前橋飛行場の場合,「土地売渡し価格協定書」では,要望では田平均1反歩当り1,100円だったのが,実際には甲乙丙と区分され,甲は1,050円,乙は950円,丙750円となり,畑地は900円希望似たいし,甲乙丙丁と4区分され,甲は960円,乙は810円,丙660円,丁549円,山林は反当り300円,宅地は坪5円と決められ,完全に要望が通った訳ではありません.
 「地上物件補償額協定書」では,桑,麦,蔬菜,人参種,麻,竹林,梨園,柿,栗,庭木,生垣,松,杉,檜,桜,樫,欅,桐などについて補償額が決められ,これについても,桑の上作保証料を反当り297.50円,離作料反当り100円の379.50円を要望していたのに対し,反当り保証料96円,離作料50円の計146円,小麦は247.30円要望に対し,110円とされました.
 この他,墓碑,石碑,庚申塔,石灯籠,石垣に至るまで補償額が決められていきます.
 最後が「家屋移転補償額協定書」が締結され,家の移転補償額も定められました.

 因みに訓練用飛行場は面飛行場で,どの場所からも離着陸が可能となっていますが,防空用飛行場は,離陸地帯と着陸地帯が区別されています.
 防空用飛行場は離陸帯が1,500m(着陸帯に掛かる部分が300mなので実質1,200m),着陸帯が1,800mのL字型をしています.

 飛行場の建設地は軍用地とされましたので,一般人の立入が禁じられます.
 そして,工事監督の為に陸軍航空本部の出張所が造られ,建設会社がやって来ます.
 周辺の住民も動員され,前橋飛行場の場合は,北群馬郡,群馬郡町村の青年団から,毎日3ヵ町村ずつ100名程度が建設作業に参加すると共に,周辺の勢多郡,碓氷郡の各町村の青年団も加わり,1日6ヵ町村が動員され,これが5ヶ月続きました.
 この勤労奉仕は,前橋刑務所の囚人,青年学校生徒,在郷軍人分会,教員組合,警防団,高崎市の土建業者組合,前橋の国民学校高等科,勿論,地元の人間などが入り乱れて出入りし,1日の就労人員が2,111名に及んだ日もあったり,囚人の脱走騒ぎがあったりしています.

 地元国民学校の勤労奉仕は初等科4年生以上が動員され,主に草刈り作業を担いました.
 また,飛行場完成後も飛行場内にあった陸軍熊谷飛行学校前橋分教場に,高等科2学年の男子47名が動員され,機体整備や通信など,時には飛行隊植付けの甘藷畑の手入れにも駆り出されています.

 工事開始後3ヶ月で仮滑走路(整地された面)に金網を敷いて飛行機の離着陸が出来る様になり,それから半年後に,本部1棟,兵舎2棟,格納庫大(45×45m)3棟,小(25×35m)4棟,グライダー庫1棟,衛兵所1棟,講堂1棟,学科講堂1棟,修理工場1棟,雑品庫2棟,発動機修理工場1棟,防火用貯水池大4,小3,食堂,炊事場各1棟,便所と言った施設が完成し,宇都宮飛行学校前橋教育隊が開隊,特操150名が入隊,古河から少年飛行兵80名が転属し,特操はグライダーで,少年飛行兵は練習機での訓練を開始しました.

 前橋の場合は1943年5月に実地踏査を行って,10月から工事開始,1944年8月の完成ですから,1年弱での建設期間となります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/28 21:27


 【質問】
 旧軍の電熱服は危険と聞いたのですがどのへんが危険なのでしょうか?

 【回答】
 よく漏電した.
 戦前の日本の電気工学の技術は恐ろしく低い.
 電線は紙巻単線の銅線でアースなしときてる.
 その程度の技術で作った電熱服は,常に感電の危険性と隣り合わせだった.
 搭乗員の間では,
「凍死か感電死のどっちかしか選択肢がない時しか使わん」
と囁かれていた.

 あと服がよく燃えた.
 低温ヤケドは当たり前のようにあった.
 服の造りが悪くて電熱線が露出してて大火傷,というのも結構普通にあった.

 でも一番の問題は,電熱服としての能力が不足しててちっとも暖かくなかった事.
「何の役にも立ってない」
と,もっぱらの評価だった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争で教えてください.
 戦闘機や攻撃機等の航空機のパイロットは互いに無線で通信等を行っていたのでしょうか?

 【回答】
 太平洋戦争の時なら航空機には無線機または無線電話がついていた.
 米軍や英軍は無線電話を使って連携して戦闘を行った.
 だが,日本軍の無線電話はアースの取り付けが悪かったため,エンジンの回転数を上げると雑音で通話が出来なくなった.
 このため,日本軍ではハンドシグナルでの意思疎通が主となった.

 攻撃機などでは専用の無線手がモールス信号の無線機で(無線電話より確実=遠方まで伝わる)敵艦の位置とかを母艦に連絡していた.

軍事板


 【質問】
 il-2(フラシム)やってて気になったんですが,帝国陸軍では航空機同士が無線で会話するとき,どんなことを話してたんでしょうか?
 米軍のように,コールサインのようなものがあったんでしょうか?

 【回答】
 知る限り,普通に苗字で名乗るのが多いようです.
 後にP-51に乗って有名な黒江氏のビルマ時代の場合,「こちらクロエ,バッファロ一機撃墜」
 ただ,バンクとか身振りでのやりとりがほとんどで,黒江氏の回想の範囲では,ほかには撃墜された友軍重爆が
「戦闘機,援護,アリガトウ・・・アリガトウ」
と語ったくらい.

 なお,海軍でわりと航空無線が良く使われたという343空(紫電改のほう)の場合も,操縦者の苗字で呼び合っていたようです.
「カンノ1番」
「ホリ1番」
という具合.
 操縦者の回想記によると,つぎのような交信例が出てきます.
「オーイ,俺が撃ったのは堕ちたかっ!」
「今のは,落ちた.われホンダ1番」

 もう一箇所,交信例を見つけたので,紹介しておきます.
 黒江機がアラカン山系上空を飛行中に聞いた,数十キロ先のアキャブ沖の友軍機のもの
「敵機発見,攻撃,敵は合計20機,小型機も混じっている.注意しろ」
「右だ,右のやつをやっつけろ,俺はブレニムを攻撃する」
「気をつけろ,上にも小型」

 これを信頼する限り,かなり細かい指示を出しています.
 もっとも,同じ戦闘でようやく戦場に到着できた黒江編隊とのやりとりは,無線を使ってないですね.
(黒江「あゝ隼戦闘隊」)

眼い人 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
※なお,「眠い人」とは別人


 【質問】
 何故日本陸海軍航空隊などの戦闘機部隊や攻撃機部隊などでは,無線で味方を呼び合うときの識別信号を,「敷島一(しきしまいち)」や「富岳(ふがくに)」などの母国語である日本語の識別信号ではなく,「RedOne(レッドワン)」や「ArcherTwo(アーチャーツー)」など,外国語である英語の識別信号を使用するようになったのですか?

 【回答】
 日本語だと相対的に言い難いし,分かり辛いし,喋るのに時間が掛かるから,
 より言いやすく短時間で喋れる英語にとって変わられた.
 戦闘のテンポが速く,ノイズも多い航空無線では,日本語は定着せず,英語のコールサインに取って代わられた.
 別に英語に拘っているわけではなく,ポルトガル語,フランス語,ドイツ語なども併用されるし,日本語が完全に使用されないわけでもない.

 国軍で外国語を使用するからと言って,愛国心に欠けているとか,売国奴とか,外国の犬に成り下がっていると言うことではない.
 要するに高効率化と適材適所優先という流れ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本軍の航空機の通信装備は一般的に使い物にならなかったといわれていますが,それなら一三式艦攻等のように,無線機(電信機?)をイギリスから輸入していた頃は,普通に使えたのでしょうか?

 また,この状況が改善したのは1945年以降と言われ,それ以前は全く用を為さないものだと言われていますが,真珠湾や彩雲の有名な電文などや,無線アンテナの無いラバウルやブインのゼロ戦など,なんだか無線が使えたり使えなかったりのいろいろな記述があり混乱しています.
(オスプレイの本では,1944年に普通に無線電話で話している場面すらありました)
 日本軍機の通信機器は,全く役に立たないものだったのでしょうか?
 それなら何故日本軍は,そんな無意味なものを十年以上作り続けたのでしょうか?

 あと,日本陸軍の無線機(陸,空問わず)も同じような状況だったのでしょうか?

 【回答】
 「無線(無線電話)」と「無電(無線電信)」は違う.
 電信機は問題なく使えてる.
 偵察機が報告に使うのは,いわゆるモールス信号を使う無電で,これは得に問題なく使用できた.

 使い物にならんと言われたのは空対空の音声通信(無線).
 零戦につんでたのは,ノイズで使えなかったそうだ.
 陸上ではうまくつながるのに,機体に乗せるとうまくいかないとか.
 坂井さんだったか,米軍機がうるさいほど交信していて,便利そうでうらやんだとか書いてたような.

 日本製無線の品質が低かったのもある――日本では肝心の真空管が,昭和30年代まで駄目駄目な物しか作れなかったからな――アースの取り方が悪かったのも大きかった.
 これはアンテナの位置や配置場所よりも,レシプロエンジンが発する電磁波をいかにブロックするかと言う問題で,その解決手段の一つがアースなワケだが,それが不味かった.

 現代の車載用アマチュア無線機でも,アースの取り方が拙いと交信音声に,オルタネータからのノイズが混じる.
 流石に交信不能な程ではないけど.
 で,そのノイズを除去する電源ライン用ノイズフィルタなんかが,アクセサリとして市販されてる.

 また,S/N(信号/雑音)比ってのがあるわけで,信号出力が小さいと,アース一生懸命工夫しまくるとか,がんばってNを下げないと通信できない.
 逆にSに余裕があれば,少々雑音が乗っても十分通信できる.
 結局,貧乏人の通信機は実効出力が足りなかったという,またもやお得意の「みんな貧乏が悪いんや」に行き着く予感.

 ただ,この手の話はほとんど零戦での話ばかりなので,零戦のみの問題と思っていいかも.
 改良の甲斐あって空対地では使えるようになっていたみたい.
 戦争末期には,343空が紫電/紫電改に使える空中電話が搭載されてたので,それを積極的に使って編隊空戦をやってたのが,空対空での数少ない例かと.

 一方,陸軍の空中電話は海軍よりは使えているが,それでも交信距離は短いようだ.
 戦記モノでは,墜落寸前の重爆から直援,戦闘機に決別のメッセージを送る場面なんか出てきて,結構切ない.

 ちなみにノイズ混じりを体験したければ,AMラジオで受信周波数を少しずらせば,簡単に体験できるぞ.
 あと,夜中にAMラジオ聞いてると混信で,こっちでも体験できる.

モッティ ◆uSDglizB3o(黄文字部分)他 in 軍事板,
2008/08/18(月)〜08/19(火)

青文字:加筆改修部分


 【質問】
 伝書鳩は旧軍に居たのですか?

 【回答】
 軍用の伝書鳩は無線発達前には,連絡のために用いられ,無線が発達した後もしばしば用いられています.
 ちなみに,旧日本軍では鳩舎移動車なる車が試作され,他にも89式人体呼吸缶をつけた軍用鳩防毒具なる代物も開発されています.

軍事板

 祖父は通信隊所属だった.
 そこに鳩兵の鬼のように怖い一等兵がいたが,一旦鳩の世話になると別人のように優しくなったそうだ.
 ニコニコしながら鳩たちに話しかけ,誰よりも献身的に世話を焼く.

 ある時は,いかめしいヒゲ面が鳩の群れの中で,鳩と一緒にクルックー(・∀・)クルックーと笑顔で鳴き真似してて, 裏で祖父たちは爆笑していたらしい.

 その一等兵は戦地にて,愛する鳩たちの鳩舎もろとも砲弾で木端微塵になってしまったらしい・°・(ノД`)・°・.
 やっぱり動物は人を丸くさせるのかな?

生活板


 【質問】
 軍用鳩部隊の様子を教えられたし.

 【回答】
 1921(大正10)年12月から同年同月の除隊まで,第19師団軍用鳩研究班に配属されていた高見澤仲太郎陸軍一等兵(ペンネーム:田河水泡)によると,同班は
将校2,
下士官2,
歩兵8,
騎兵2,
砲兵2,
オートバイ運転手(砲兵科より)1,
鳩60,
鳩舎1(車輪つき).

 当番に当たった兵士が,鳩を外に飛ばして運動してやり,その間に鳩舎の掃除をして餌の青えんどう豆を撒いてやるのと,鳩の訓練(信書管をつけて飛ばすだけ),鳩の個別の帰巣能力を覚えることなどが毎日の仕事.

 戦闘教練も衛兵勤務もなく,楽な部署だったので,田河は休みの日には油絵を描いて過ごしていたとか.

 詳しくは『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.96-98を参照されたし.


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