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◆◆◆◆食糧不足対策
<◆◆◆食糧
<◆◆国力
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第2次世界大戦


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 節米運動とは?

 【回答】
 1938年,日中戦争が長期化の様相を見せ始めると,戦地への食糧供給が総力戦を戦い抜く必須要素となります.
 第一次大戦に於て,ドイツが戦闘で勝利しながら,国内の食糧不足が原因で敗北を喫した例を挙げながら,国内向けには,総力戦勝利の為には,労力が不足していようとも食糧を生産し,戦地へ送る事が,銃後国民が帯びる義務である,と喧伝されました.

 但し国内の食糧供給に関しては,そのうちの約1割ほどを朝鮮半島からの移入米に頼っていたのですが,特段何も策を講じていません.
 例えば1937年の場合は,国内米が6734万石に対し,移入米1159.2万石と言った具合.
 1938年になると,移入米の供給が大きくなり,国内米がほぼ横這いの6632万石に対し,移入米は1512万石に達しました.

 しかし,1939年に朝鮮半島は大規模な旱魃に見舞われます.
 この為,1940年の移入実績は前年の3分の1に落ち込み,朝鮮半島では10分の1に迄落ち込みました.
 また,この年は西日本でも旱魃の被害を受け,国内米も大きく生産が落ち込みます.
 1940年は国内米6896.4万石に対し,移入米317.9万石,1941年は国内米6028万石に対し,移入米527.6万石となり,前年度持越高や早喰高を食い潰してしまいます.
 更に,西日本の旱魃被害を受けて東日本の米は豊作だったにも関わらず,米価は天井知らずに高騰し,米穀商は買い占めに走り,結果的に大消費地での米の在庫は底をつきました.
 政府は米産地の地方長官に対し,米の出荷を督励したり,マスコミを通じて,東日本地域での米供給が安定しているので,都市部住民はパニックを起こさない様,安心感を植え付ける宣伝を行いました.

 一方では,供給が不足する分,タイなど東南アジアから外米を輸入し,1940年に798.4万石,1941年には982.7万石に達しました.
 この輸入は,軍と軋轢を起こします.
 輸入の為には外貨が必要,そして,輸送の為には船舶が必要となる訳ですが,軍は外貨と船舶を戦略物資の輸入に充当したい意向だった訳で,外米の輸入は思うに任せませんでした.

 とは言え,太平洋戦争末期に有った様にどんな土地でも食糧を増産する為に開墾すべしと言う状況までは未だ追い込まれては居ません.
 寧ろ農民に対しては,外貨を稼ぐ為に,商品作物を栽培してそれを輸出して貢献することが求められていました.

 こうした動きが需要の抑制としての国民運動として節米運動を実施させ,そして政府は1939年10月から七分搗米の導入,酒造米の削減,混食や代用食の実施を図ります.

 七分搗米と言うのは,玄米の重量に比して搗き上がりの米の重量を9割4分以上に設定し,白米搗精を制限した米の事です.
 元々は陸軍が中心となって,玄米食の導入を主張していましたが,農林省は病人・高齢者・子供の消化力が低いと言う理由で消極姿勢を示し,双方が折り合って,七分搗米で妥協した経緯があります.

 ところが此の政策は不評で,七分搗米の実施が始まり,翌月に米穀搗精等制限令が施行されると,白米を買い占める国民が相次ぎ,七分搗米は俗に「スフ入の飯」と言われて「安価な代用品」扱いをされた訳です.

 この不評に対し,政府は一大プロパガンダを展開します.
 国立栄養研究所の協力を得て,七分搗米が一体どの様な特徴を持っている米なのかを,玄米と白米を比較しているのが一つの例です.
 これによれば,七分搗米が白米搗精の過程で棄てられていた蛋白質・脂肪・ビタミン・無機質などの栄養分を残しており,白米より栄養価の面で優れている事を示し,次に,白米と七分搗米をそれぞれ鳩に与えて飼育し,白米を与えた鳩はビタミン不足による脚気を患う一方で,七分搗米を与えた鳩は,元気で発育も著しいと言う結果を明らかにして,白米食が健康上良くない事を印象づけようとします.

 ところが国民は,その七分搗米を入手すると,空き瓶にそれを入れて棒で突く事が日常化します.
 又,利点を強調したにも関わらず,七分搗米のご飯が白米のそれよりも腐りやすい事が指摘されると,それを認めざるを得ないなど,余り成功したプロパガンダとは言えませんでした.

 一方,標準食,混食,代用食に関しても,政府は雑誌などで大きく特集を行い宣伝に相務めます.
 こうした宣伝では,副食物として,麦,藷類,豆類を用いた調理法が紹介されており,米と藷類,豆類,雑穀を混ぜて炊く場合には,カロリーや蛋白質の成分面で米とは違う藷類や豆類を旨く米と配合して炊く事で,「米飯のみよりも早く腹が空く」から「沢山食べなければならなくなる」と言った懸念を払拭し,米だけでは補えない栄養価を高める事が出来る長所を強調しています.

 また,酒米の消費を減らすと言う事は,国民に対し,飲酒の自粛を要請すると言う事になるので,これ又国民から反発を招く事が予想されました.

 其処で,飲酒自体は「翌日の活動の源泉」であることを否定せず,前線の兵士や重労働に従事する産業戦士の飲酒は許容する一方で,こうした人々の働きを横目で見ながら,飲酒に興じる人々に対し,飲酒の自制を働きかける様にします.
 例えば,「節酒は先ず義理のお酒や無理酒から」と題して,宴会の場面が紹介され,これを言語道断な振舞であると一喝し,徳利が倒れてお酒が畳に染込む状態に対し,「畳に飲ますのは勿体ない」と嘆き,1人で徳利を5本も6本も頼む客に対しては,「不心得」と断じています.

 この様に,時勢を鑑みずにお酒を無駄に消費する実態を明らかにして,必要以上の飲酒が不健全であると非難する一方で,飲酒の自粛で酒造米が減らせれば,外米輸入を減らす事が出来,これにより浮いた外貨と船舶で,軍需に充当出来るのだと呼びかけていたりします.

 こうした国民に政府が呼びかける形の節米運動は,結果的に失敗でした.
 此の結果を受けて,政府は,自発的に節米させる段階から,法的に消費を規制する段階へと進んでいく事になります.

 しかし,昨今の食糧報道を見ていると,この第一段階を政府がやっている様な気がするのは気のせいでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/10 21:39


 【質問】
 戦時中,「炊き増えする炊飯法」というものが行われたそうだけど,どんな方法?

 【回答】
「国策炊き」
 大釜に水2升を入れて火にかけ,沸騰したところで米一升を研がぬまま入れてよくかき混ぜる.
 浮いてきたゴミは丹念に掬い,蓋をする.
 再度沸き立って吹きこぼれたら,ガスならば「蛍火」,炭ならば豆炭二つくらいの火力にして,50分そのまま炊き続ける.
この炊飯で,普通の方法より三割も量が増えるという.

「楠公飯」
 楠木正成が発明したという炊き方.
 まず米一升をあらかじめ煎っておき,これを三升炊きの釜に入れて,水2升を加え,蓋をして一晩放置.翌日水を吸って膨れた米に水五合をさして普通に炊く.
 一升の米が三升釜一杯に増えるという.

 これらの炊き方,増えるのは体積だけで栄養も比例して増えるわけではない.
 腹持ちも味も悪かったろう.
 しかし見た目だけでも増えるのは大きな魅力であった.

世界史板

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦時中は,米の代わりにアワやヒエやソバやヌカもたべていたんですか?

 【回答】
 手に入る地域では食べてました.
 ぬかはぬか団子にして食べられてます.
 煎餅としても食べることもできます.
 また,食味が落ちても栄養を確保するため,7分つき程度に精米率を落として食べてた話も,ちょっとググれば出てきます.

 ちなみに,米ぬかや小麦の糠であるふすまを利用した煎餅やクッキーは,ダイエット食として今でも食されています.

 ほかにも芋茎や蘿蔔を米に混ぜたり,汁に入れたりして食べる事もありました.
 新聞で,美味しく食べられる野草や昆虫の特集が組まれる事すらありました.
 道ばたや庭先,学校の校庭などで新たに畑を作る場合,苗の入手が簡単で,カロリーの生産効率に優れ,手入れも簡単なイモ類が,第一に好まれたようです.
 そのため,イモで不足する栄養素を補うための野菜等は,あわせて作られましたが,雑穀の類いは効率が悪く,苗の入手先も限定されるため敬遠されたようです.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 終戦後の代用食として,山菜やキノコ採ったりして食べたりしたといいます.
 福島県南会津では,戦後に食べられ始めたサクラシメジというキノコをマッカーサーて言うそうです.
 戦中も食糧問題は深刻だったとのことですが,山に自生しているものを採ったりしてたべるのは,よくやったんですか?

 【回答】
 山村では戦争前から山菜やきのこ類は重要な食品.
 ご飯だって白米だけなんてのはぜいたく品で,普段は大根や芋と一緒に炊いて食べるのが普通.

 んで,食料問題が深刻だったのは都市部の話.
 農村&漁村で一応,自分が食べるだけには困らなかった.
 しかし徴用とかいって結構持っていかれたってじーちゃんが言ってた.
 空襲されることもなく,都市からの疎開も知らない.
 鬼畜米英とか聞かされたけど,B-29は綺麗な飛行機だと思ってたそうだ.

 そして高度経済成長期以前のイナカは今以上に閉鎖的だったから,マチの住人が勝手に村の共有林から山菜盗んだりしたら,マジでリンチされるよ.
 知らないかもしれないが,山は入会権が無いと入れない.

 それ以前に,今と違って移動手段や運搬手段がないけど.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦時中〜戦後直後の代用食糧について教えられたし.

 【回答】
 警視庁保安部生活課の調査にこんなのがありました.
 1946年の調査で,調査対象は136世帯(内訳は会社員25,労働者37,商人38,官公吏14,無職17,医師,事業家,重役,布教師,農業が各1).
調査項目は3つで,
 (設問1)1日3食とも米飯を食べていますか?
   重役・医師100%,商人47%,無職12%,会社員12%,労働者11%,官公吏0.7%.
 (設問2)3食とも雑炊を食べていますか?
   無職12%,労働者11%,会社員0.8%.
 (設問3)3食とも代用食ですか?
   無職29%,会社員12%,労働者11%,商人5%

 なんか眉唾な調査結果ではありますな.

 そうした戦後の時代,本物は無くて代用品が闊歩します.

 東京で流行ったのが,一旦作った味噌に蒸した芋を混ぜて,量を増やした芋味噌と言う代物.
 しかし同時に,江戸味噌を尻目に,地方の味噌が東京に進出してきます.
 信州味噌はそうした味噌の一つです.
 この時代,味噌は味噌汁だけでなく,代用食のパンに塗られると言った使い方もされています.

 甘味が無い時代,サッカリンやらズルチンと言った人工甘味料と共に,チョコレートの模造品として作られたのが,グルチョコと言う代物です.
 これはカカオ豆が統制品だった為,その輸入が解禁となるまでの徒花的製品で,統制外だったカカオバターの副産物であるココアに,グルコースを配合して固めたもので,グルチョコと言うのは,グルコースチョコレートの略です.
 そう言えば,子供の頃,ヴァン・ホーテンのココアに白砂糖を加えて,ちょっとだけお湯を垂らして練ったものをパンに付けて食べたのを思い出しました.
 今思えば,あれはグルチョコのなれの果てだったのかも知れませんね.

 有名なのは,魚肉ソーセージです.
 最初は大正時代にその製造が試みられていたもので,最初は,蒲鉾や竹輪の原料だった魚の擂身をケーシング(ソーセージの皮)に詰めて,ボイル又は燻煙したものでした.
 1935年,夏鮪が値下がりした為,その利用法として,鮪の肉でプレスハムに似た製品を造る事に成功し,これを「ツナハム」と読んでいました.
 ツナハムはその後も幾度か商業的な生産と販売が試みられていましたが,時は戦争への道驀地で,日の目を見る事はありませんでした.
 それが脚光をあびたのは,1953年にビキニ環礁で行われた米国の水爆実験により,付近海域で漁獲された鮪から放射能が検出されてから,鮪類の売り上げがめっきり落ち,価格が暴落した事が切っ掛けでした.
 この時に,余った鮪を使って魚肉ソーセージを作る会社が続出し,その数,ピーク時には百数十社に及びました.
 1955年には月に1,000万本も作られ,人々の食卓に上るようになります.
 この魚肉ソーセージブームの原因は,価格が安かった事,ソーセージという形態が時代にマッチした事,業界的には,これが水産練製品に分類された事から保存料を使う事が出来た為,特に冷蔵を必要とせず,一般の小売店でも売る事が出来た事が挙げられます.
 結局,この魚肉ソーセージブームは一過性のものに終わり,世は本物志向で,豚肉を使ったソーセージへと移っていった訳ですが,それが今や食品偽装やら汚染物質の混入やらで大混乱だったりする訳で….
 最近,魚肉ソーセージが再び見直されてきているのは,そうした時代の反動なのでしょうかね.

 バターの代用品はマーガリンです.

 マーガリンは,普仏戦争中,バターの欠乏に悩んだフランスで,ナポレオン3世が「バターの代用になるもの」の懸賞を募集した事が切っ掛けで生まれました.
 この時に,化学者のムリエと言う人が,牛脂肪に牛乳を混ぜてバターに似たものを作って見事賞金を貰いました.
 この製品をムリエは,「マーガリン」と称していました.
 この言葉は,種々説がありますが,「マーガリン」が真珠のような光沢を持っている事から,ギリシャ語で真珠を意味する「マルガロン」から来たという説が有力です.
 初期のマーガリンは,今と違って,可成り動物の脂肪に近いものだった事が伺えます.

 日本では,マーガリンは「人造バター」の名称で,1909年,横浜で山口八十八と言う人が製造を始めました.
 これは大正初期にもうバター市場を脅かす事になっており,業界では政府に,「人造バター」取締りを要求し,1934年,「バタート人造バタートノ表示ニ関スル件」と言う商工・農林省令が公布され,「バターニ非ザル食用脂肪ヲ販売セントスルトキハ其ノ容器又ハ包装ニ『バター』ナル文字ヲ用フルコトヲ得ズ.但シ,『人造バター」ナル表示ニ付テハ此限リニ在ラズ」と言う風に定義されました.
 この呼称が,「マーガリン」になったのは戦後の事.
マーガリンが決して代用バターではなく,高品質な製品を作る事が出来るようになり,また成人病の関係からマーガリンが評価されて来た為,名称問題が起こった時,人造バター業界は進んで「マーガリン」と言う呼称を使い始めたと言います.
 因みに,米国では,"Margarine substitute"と言う広告が出た事があります.
 訳すと「マーガリン代用品」ですが,これは「バター」の事だったという笑い話のような話もありました.

 笑い話と言えば,1996年,フランスのIPSOSと言う世論調査会社が,世界の食文化に関する調査を行いました.
 日本,米国,英国,フランス,ドイツ,イタリア,スペイン,ブラジルの8カ国で,自国料理が最高と思っている国民の割合が最も多いのは,フランスで95%,次いでイタリアが93%,スペインが88%と続きます.
 最下位は英国で32%.
 でもって,日本と米国は何故か同率で5位の67%でした.
 …って米国料理って何だろう?

 米国では,外国から来たお客をもてなす為にレストランに行く際,「何処の国の料理にしましょうか?」と聞く唯一の国民だそうですが…
 あれ?

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/21 23:14

 マクドナルド&ケンタッキー・フライドチキンのことでは?(笑)>米国料理

▼ 【関連リンク】

 アメリカ料理のレシピを載せているHPを,とりあえず2つ.
http://www.kolisinn.net/kitchen.html
http://www.geocities.jp/kingyoneputa/usa/top.html

アメリカ料理 - アンサイクロペディア

仮 in FAQ BBS

「tnfuk」:「メシマズ」のじゅもんがとなえられた.→マーマイトをれんそうした.


 【質問】
 戦時中に作られたという代用調味料について教えてください.

 【回答】
 太平洋戦争が勃発し,物資不足が更に進むと,調味料の流通量が少なくなります.
 砂糖は既に配給停止,一日当たりの配給量は,塩は小さじ八分目,味噌は小さじ二杯半,醤油大さじ一杯半,食用油は小さじ一杯程度にもなっています.
 これ,どっかのレシピじゃありません.一日に配給された調味料の量です.

 其処で,代用調味料を自分で作ることになります.

 まず,塩,これは海水を10分煮立てて,二枚重ねの清潔な布巾で漉し,天日で2〜3日干し,出来た濃厚食塩水を醤油差しに入れて使います.

 醤油は,濃厚食塩水でわかめ,ひじきなどの海藻類を気長に似ることで,似たようなものができあがります.
 更に炒り大豆を加えて煮たものを配給醤油に混ぜると,高級な醤油もどきができあがります.

 味噌も倍増させることが出来ます.
 配給の味噌と同量の漉し芋(甘藷を使うと甘みがあり,美味しく出来る)を混ぜて,370gの味噌に対して50〜70gの塩を混ぜてかき混ぜ,これを湯たんぽの上に載せて毛布か布団でくるみ,二日ほどその状態で保温すると,あら不思議,味噌は倍になります.

 砂糖は,配給は無いので完全代用.
 人参,カボチャのわた,甘藷をおろし,笊に布巾を巻いた上に広げて天日干しした後,焙烙かフライパンで焦げない程度に炒ると甘みのある粉が出来ます.

 マヨネーズ…は,何でもかんでも食べなければ成らない時代,大抵は,食べられたものではないものを兎に角,濃い味を付けて,とりあえず食べさせると言うことで,マヨネーズとかトマトソース,バターなどの代用品が推奨されています.
 で,代用マヨネーズは,小麦粉または生大豆粉か食用粉で糊を作り,塩,酢1に対して食用油10の割合で加えてかき混ぜる,これに溶き芥子を入れるとなお美味.
 油も卵も無い場合は,馬鈴薯,甘藷を煮て突き潰し,塩,胡椒を振りかけて酢で伸ばすとか.

 代用バターになると,炒り大豆を磨り潰し,塩と油を少々落として摺り上げるとピーナッツバターの代用品.

 更に,味噌の増量は他に小麦粉を混ぜる,塩の代わりに漬物の汁を使う,酢が足りなければ,柑橘類の汁を使うなど,色々工夫をしています.

 しかし,暖衣飽食の今ではとてもじゃないけど,やる人は少ないでしょうね.
 特に,海水の塩作りは都市部ではやらない方がいいですよ(やる人はいないか).

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 戦時中の日本の食料増産計画について教えられたし.

 【回答】
 1939〜40年の朝鮮半島と西日本の旱魃による米の収量はぐっと落ちました.
 この為,1940年11月1日には米穀管理規則と米穀管理実施要綱を施行し,政府が必要なだけの数量の米を管理米として確保出来る食糧管理体制が始まると共に,農家による供出が国内供給を左右する重要な要素となりました.

 また,長期計画では,今後12年間で国内米生産量を17%増加させ,麦の生産量を2倍に増やすとしています.
 この為,多額の予算と人員の投入で,大規模干拓や水利事業の促進が始まりました.

 一方で,国民各層に対し食糧の増産を促し,1941年以降の国際情勢の悪化に伴い,商品作物の輸出が不可能となってこれによる外貨獲得の見込みが無くなり,1941年3月24日付で農林省から不急作物生産禁止通牒を出すと,食料増産を目的とする空地の開拓が本格化します.
 政府のプロパガンダ雑誌である写真週報などでは,農業素人の都市生活者に対し,農作物の栽培方法,農作物に適した肥料,病害虫予防などについて解説し,都市も今後は食料増産の一翼を担う事を周知させる方向に導いていきます.

 1941年12月以降の太平洋戦争緒戦期の快進撃は,南方からの送還米が続々陸揚げされる様に報じていますが,一方で,船舶の供給については不安が残りました.
 この為,外米や南方からの作物輸入による国民の食料増産に対する気持の弛緩を諫めています.

 都市住民は,益々食料増産の担い手として期待され,養魚池で育てた鮒や鯉を家庭に持ち帰らせ,肥育させる都会の学校の取り組みや,水田を荒らすザリガニを駆除する子供達の姿を取り上げて,その駆除を称揚すると共に,ザリガニの味や食用にする場合の注意点を喚起している記事もあります.

 食糧に関しては,働き手が減って,国内米の生産も先細りとなり,1942年は一時的ですが5459.4万石に落ち込み,それを補完するものとして,代替食糧が236万石出現しました.
 当時は確かに食糧危機ではあるのですが,それを楽しもうとする余裕を報道を通じて国民に持たせる事で,危機的事態である事を意識させない様にしています.

 勿論,食料増産の主要な担い手は農家です.
 彼等に対しては,都市住民にも増して,自己犠牲の精神を発露する様,仕向けます.
 米の出回りの悪くなる端境期に自家保有米の一部を供出する事で,3度の食事の内1度は粥を食べると言う農家の食事風景を報道する事で,都市住民に米の大切さを改めて示し,他の農家に対しては,自分たちも我慢して,自家保有米を供出させる事を促しています.

 とは言え,農家の不満は高まりますから,農家の苦労に配慮を示す事で,増産活動や供出への協力を求める事になります.
 1943年には,中央食糧協力会と大日本婦人会の共催で,農村慰問活動が行われていますし,4月には米価の引き上げが行われました.

 これだけ色々政府がやっても,それでも米の消費は拡大を続けます.
 其処で,1940年9月からは臨時米穀配給統制規則を施行し,販売窓口である各地域の米穀小売商を1つの協同組合に統合し,配給業務を行う組織へと変貌させました.
 これが後の食糧営団に繋がります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 2008/06/11 22:42

「全部統制品だよ!
 闇米などとは失礼な!」
と言うのが,サザエさんの漫画にありましたっけ.

 1943年になると,国内米は6546.8万石と増強の成果が出てきますが,輸入米は527.7万石と前年の半分に止まり,移入米は182.1万石と前年の3分の1に減少,代わって,445.3万石分,代替食糧が増えました.

 政府は遂に「食糧は国内自給だ」として,国民に覚悟を迫り,外米輸入が如何に軍需生産に害を及ぼしているか,を宣伝する事になります.
 外米輸入を100万トン行うのに必要な船舶は85万トン,それでボーキサイトを運べば17.4万トンのアルミが生産出来,それで25,000機の飛行機が出来るとし,その代わり,その不足分は79,000貫の甘藷で代替出来る.
だから,国民は其の生産に精を出す様に,と宣伝しています.

 1943年6月,政府は食料増産応急対策要綱を閣議決定して,あらゆる空地を開墾し,自給率を高める様に国民を指導する事とし,食糧自給のために「土と種子と人の総動員」を実行に移す事を督励します.
 これを受けて,報道機関は,国民学校の生徒が農作業に汗を流す姿や,都市住民が空地の開墾と食料増産に刻苦勉励している姿を重点的に宣伝しました.
 又,各農作物の植え付けや収穫の時期を記したカレンダーや,藷苗の上手な育て方の手順を紙面で紹介して,農業に素人の都市住民にも栽培法を指導しました.

 8月には第二次食料増産対策要綱を閣議決定して,空地開墾の為にも土地改良を行う事を実施に移す事になります.
 具体的には,土中の余分な水分を排出させる暗渠排出事業を行ったり,畑の土を肥沃な土に入換える客土事業を推進して収穫量を増加させようと言うものです.
 この為,報道機関は国民に対し,土地改良の長所,暗渠排水や客土の具体的な進め方を詳細に解説し,土地改良事業に必要な資材の準備状況を説明しています.

 更に,政府は供出対策にも力を注ぎます.
 1943年産米の供出は,政府が必要とする分を「責任供出量」と定め,それを各集落単位へ割当,集落の連帯責任で供出する事に改められ,多くの農家からの供出を望む政府の意図を反映した供出方法に改訂されました.
 一方で,農家の不満を鎮めるため,1944年5月には「米穀の増産及び供出奨励に対する特別措置」の実施が公表され,割当の9割以上を供出すると奨励金が出,10割を超えて,つまり,割当以上に供出すれば奨励金と報奨金を交付すると言う特典を付与しました.

 しかし,1944年の米生産高は,国内産米は6035.2万石,輸入米は途絶し,移入米は480万石と少し改善しますが,代替食糧は1100.6万石と移入分を上回る事になります.

 政府の増産策は,空地開墾による食料増産は,それに必要な種藷や肥料などの資材に事欠き,土地改良事業に必要な資材も,「一本の釘,一尺の針金すら入らない」ほど資材が不足,更にこうした活動が農家に課せられる事で,農繁期よりも忙しくなった農閑期とまで言われる状態で,慢性的な労働力不足が続いていました.

 供出も報奨金を付けた割には,農家にとっては大きな負担で,生産高は先に述べた様に低水準となります.

 1943年12月,政府は遂に日満食糧自給に関する措置要綱を閣議決定し,満州から雑穀を輸入する事で,米の代わりにすることになります.
 元々,朝鮮の米を日本に移入し,朝鮮での不足分は満州の雑穀で穴埋めするとなっていたのが,切羽詰まって,朝鮮を飛び越えて日本に輸入する措置を執った訳です.

 ところが,此の措置も連合国軍による通商破壊で船舶が相次いで撃沈されると,悪化の一途を辿り,1945年6月には,政府は,報道機関を通じて満州の雑穀輸入が戦局の推移如何では宛に出来ない事を認め,「買い出しよりも作り出し」の標語の下,国民各自で食糧を自給する事を要請するに至ります.
 政府は,琵琶湖干拓事業に代表される大規模な干拓事業も進めますが,これも土地改良事業と同様,資材と労力の不足で挫折し,遂には,1939年以降6年間に及ぶ主食の供給不安を解決出来ないまま,敗戦を迎える事になります.
 1945年の国内産米は5620万石と更に減り,移入米は157.2万石と無きに等しく,代替食糧は1360.7万石に達します.

 配給の方は,1943年8月から東京で総合配給制が施行され,配給米よりも藷や大豆が占める割合が増える事になり,しかも,藷までも自分で作らない限り手に入らなくなります.
 その藷は腐りやすいので,甘藷を貯蔵穴に入れて保存する方法が報道機関によって紹介される様になり,何とか生き延びる努力をする様に,国民に対し覚悟を呼びかけています.

 1944年4月には6大都市の国民学校児童に対し,7勺の米飯給食が行われますが,この米は防空備蓄米として貯蔵していた「隠し米」300万石で,供給に対し,これは焼け石に水の状態でした.
 闇は益々横行し,配給を多く貰うために,疎開者を在籍している様に装って,配給受給者を水増し申告する「幽霊人口」が社会問題化し,政府は対策に躍起となります.
 幽霊人口は,東京府だけで約38万人,「幽霊」が消費する米は年32万石に達しました.

 1945年になると,既に配給のみでの食生活は完全に破綻し,端境期には供給不足が深刻になり,「窮屈を覚悟」する様国民に要求する事を認めざるを得ない状態にまで追い込まれます.
 4月からは配給量の削減が論議され,7月からは配給量を2合3勺から2合1勺にする減配措置に踏み切りました.

 しかし,この配給減は公式に伝えることなく,一方で,その配給の不備を繕う様に,「野草の食べ方」とか「山菜料理の工夫」などで,山菜や野草を摘んでそれを食料にするなど,国民の栄養補給の責任を事実上放棄してしまいます.

 何しろ,1945年5月には石黒農商大臣に対し,海洋学専攻の某東大教授から,朝鮮の港から穀物を入れたゴム袋を流すと,海流の流れに乗って,島根のある港に漂着する事を伝え,「運を海流に委ねて一つ穀物を詰めたゴム袋を流して」見る様にとまで助言があったくらいですから.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/12 23:10

戦前の,団扇に貼る印刷紙で,大日本国防婦人会もの

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月09日00:43


 【質問】
 太平洋戦争中に,個人で土地を借り,素人でもできるジャガイモやサツマイモの栽培をしての食料の確保でも,国の配給制等の法律に違反したんでしょうか?
 あるいは,収穫の何割かを税金として国に取られたんでしょうか?

 【回答】
 我が実家も有耶無耶の内に,隣の土地を市に没収されたっけ.
 曾祖母が怒ること怒ること.

 配給途絶に備えて,空き地の徹底的活用で食料を緊急増産する為に,地方自治体から南瓜,韮,不断草などの種子を無料配布したり,作り方を教授するようにしています.
 ただ例えば,南瓜などの種子は,粉末化して食料にするため,回収していますね.

 なお,こういった耕作地については,戦時農園としてきちんと登録する必要がありました.
 更に芋類に関しては,戦時農園推進員が巡回して,生育状況を確認しますが,統制外の南瓜の様な作物は,お目こぼしされています.
 但し種芋についての配給は,入荷が遅れて,種付けに間に合わない場合が多かった様です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 援農学徒とは?

 【回答】
 太平洋戦争中,食糧増産を目的として,出征で人手不足となった農家を支援するため,全国の青年層が「北海道援農部隊」を組織させられ,1943〜45年までに約500団体,約20万人が同地で農作業に従事させられたもの.
 1945年5月には大政翼賛会が,働きうる者は一人残らず「援農」に従事させるという「農繁期国民皆労運動綱領」なる計画を立て,
7月には学徒の草刈り大動員,
8月には「農村労力非常対策綱領」決定により,学徒の通年農業動員体制を確立した.

 『植木等伝「わかっちゃいるけど,やめられない!」』(戸井十月著,小学館,2007/12/25),p.50-51によれば,当時,東洋大学の学生だった植木等も,1945年5月から伊達紋別へ狩り出され,玉音放送も同地で聴いたという.

 動員された学童生徒からは概ね不評で,農学校の生徒さえ,「思い出したくない」「2度と行きたくない」と言うような制度だったという.
 腕力がないことなどがネックだった模様.
 考えてみれば,大人に比べて体力で劣り,しかも食糧事情も決してよくなかった戦争末期の15,16歳くらいの生徒なんぞは,腕力などなくて当たり前.

 終戦後もしばらくこの制度は続き,函館市史によれば11月まで続いた例もあるという.
 前述の植木等も,曰く,
「戦争は終わったのに,いつまで百姓の手伝いしなくちゃいけないんだって,みんな文句たらたらでね」(上掲書,p.54)

植木等


 【質問】
 戦時中の日本における食糧配給制度について教えられたし.

 【回答】
 〔略〕色々政府がやっても,それでも米の消費は拡大を続けます.
 其処で,1940年9月からは臨時米穀配給統制規則を施行し,販売窓口である各地域の米穀小売商を1つの協同組合に統合し,配給業務を行う組織へと変貌させました.
 これが後の食糧営団に繋がります.

 1941年1月からは,切符制の導入と米穀配給通帳に配給量を記帳すると共に,大人1人1日当り2合3勺にする事を柱とする米穀割当配給制暫定実施要綱が閣議決定され,4月から6大都市で実施される事になりました.
 これにより,政府は,米の入手を制限して需要の伸びを抑える事を期待した訳です.
 1942年11月からはこの配給制度は全国に拡大され,戦時期食生活の基盤となっていきます.

 但し,その質や量は戦争が進むにつれて劣化の一途を辿りました.
 七分搗米などは序の口で,玄米食導入と藷の主食化が開始されたのです.
1942年11月,配給制度が全国に拡大すると共に,「玄米食ノ普及ニ関スル件」が閣議決定され,大政翼賛会が中心になって玄米食の実践運動が展開されました.
 とは言え,玄米は栄養価の面で白米より優れているとされている反面,消化吸収が良くないので,高齢者や子供には不向きな食材であると指摘された事もあり,以後,余り表には出なくなります.

 代わって,前面に出てきたのが,藷類です.
 1941年8月に藷類配給統制規則が制定されて藷が統制物資となり,1943年3月以降は甘藷や馬鈴薯を主食として配給を始めるなど,藷類が米と並ぶ主食の地位を確立します.
 藷類は又,石油が枯渇して行くにつれ,工業用アルコールやガソリンの代用燃料としても重要となっていきました.

 更に,政府は主食だけでなく副食物である,野菜,魚等の食材についても配給制を適用し,建前上,配給だけで食生活が賄える様に指導していましたが,実際には配給量が少なくて入手も困難となり,国民の多くは食糧配給以外の手段で食料を手に入れる様になりました.
 つまり,正規ルート以外の消費者と生産,小売者の売買である闇取引の出現です.
 これは供給の統制と需要の抑制で需給関係を安定させる目論見の政府から見ると大きな障害であり,警視庁内の経済警察部が,こうした取締りを躍起になって行っていました.

 勿論,政府の動きを報道は忠実に追い,例えば,正規の取引を行う八百屋と闇取引を行って摘発された店とか不当な価格釣上げを行って指導を受けた店との対比として,正規の取引を行う八百屋は公明正大として,明るい感じで描かれ,一方の闇取引の店はどんよりと暗い感じで描いて,庶民に闇取引はアングラなものであると言う認識をさせる構成になっていたりします.

 一方で,経済警察の活躍を取り上げたり,その経済警察も唯摘発だけが仕事ではなく,子供を多く抱えて明日食べる米に困る主婦や急病人に応急米を手当てし,日常生活の相談に乗る様な弱者救済活動も行っていると紹介して,経済警察に対する偏見の払拭を図ろうとしています.

 1943年頃はこの程度だったのですが,輸送が途絶,戦局が悪化し出した1944年以降は朝鮮大干魃以前の状態までには回復せず先細りする一方でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 2008/06/11 22:42


 【質問】
 戦時中の配給の中身はどんなものだったの?

 【回答】
 例えば1945年6月.
 2日 小麦粉(1貫500匁) 2円46銭
 3日 米(20kg)     7円
 4日 野菜 12銭/マッチ半箱 3銭
 5日 髪油(2瓶)7円50銭/塩(25匁)
 7日 煙草(金鵄57本) 2円
 8日 キャベツ(小1つ) 20銭
10日 乾燥野菜 キャベツ(500匁) 10円
12日 棒昆布(20匁)6銭/小松菜(280匁)28銭
14日 大根(320匁/人)32銭
15日 大豆(7kg)2円14銭
16日 米(15kg)5円58銭/干ニシン,干アミ各1本 1円85銭
   煙草(光2箱,刻み1)7円86銭
18日 漬菜,小松菜
19日 数の子 36銭
22日 漬菜,小松菜
26日 煙草(朝日バラ10本)/佃煮昆布24銭/
   乾饂飩(4束)76銭
28日 干ニシン 78銭
29日 大豆(9kg)2円88銭
30日 米(6kg)2円11銭/小松菜 18銭

 これは,東京都に住んでいた一家4人の配給状況です.
 ちなみに,米20kg配給と言っても,5分突きから東条内閣末期には玄米となっているので,精米してしまうとナンボも残らない状態です.
 これらは主に食料切符や米穀通帳などによって記録されていますが,これに掛ける労力は2時間から4時間半並んで手に入れる様なもので,非常な時間の損失になっています.

 配給制度確立当初は,主食の米を基準に配給が行われていましたが,1942年以降は,そんなことも言っていられなくなり,米1日当り成人の配給量330gに換えて,乾麺や小麦粉が配給されました.
 乾麺なら1把(375g),小麦粉なら350gという換算になります.

 魚は此の月は干物が多かったのですが,他の月には,烏賊,春先には貝の剥き身が多く,偶に鮫が配給されました.

 本来このほかに,砂糖は1人0.6斤(12g),マッチ2ヶ月に小箱1箱,食用油3ヶ月当り5合,卵2人当り1個,菓子は乳児なら2袋,3歳以上もビスケットなどが配給されるはずですし,塩は1ヶ月当り1人200gが配給されるべきですが,この中ではマッチがようよう配給されただけ.
 しかもマッチも末期には,「附木」と称する木片に硫黄を塗ったものが配給される状態になります.

 菓子なんかは,薩摩芋,南瓜を使ってペーストにした和菓子風のもの.
 お萩も餅米の代りに米と里芋で,乾饂飩は花林糖になったり,蒟蒻を利用した餅(蒟蒻畑と発想は同じ!)になったり.
 更には米ぬかを炒って狐色にしたものをチョコレートの代用にまでしたり.

 婦人雑誌(未だこの頃でも発売していた!)の料理コーナーは,この頃,既にレシピから計量が消え,何はなくともすいとんとカレー風味の何かが盛んに書かれています.
 得体の知れないものでも,取り敢えず,団子にしてしまうか,きつい臭いを付けてしまえば,食べられると言う焼けのやんぱち精神だったりする訳ですね.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 戦争末期〜戦後直後の日本の食糧配給状況を教えてください.

 【回答】
 今日のサイエンスアイは,エコ社会実現に向けての色々な方策についてやってました.
 …いあ,眞鍋かをりに釣られて見てる訳ですが….
 〔略〕
 そんなことはさておき,玉蜀黍のプラスチックを番組中で紹介していました.

 これが進んで,玉蜀黍プラスチックが主力になったら,それを主食にしている人はどうなるんだろう,と思ってしまいましたが(日本向け猫缶を作るのに,Thaiではその缶詰の中身の鮪だか南だか何だかの魚を捕獲するため,現地住民の主食となっていた小魚を根こそぎ獲ってと言う話もありましたっけ),番組中では,その原料となる乳糖を作成するのに,生ゴミとか建築廃材とか,玉蜀黍の代替になる,要は繊維質を持つ自然原料からそれを作る研究をしているみたいです.
 生ゴミだったら,そんなに他人様に迷惑を掛けるわけで無いと思うのですが….

 で,話は強引に配給の話へ.

 戦時中の東京都に於ける配給では,米が100%配給されたのが1942年9月まで.
 10月以降,1943年7月までは大体95%前後となり,8月以後年内には更に減って80%台前半,1944年1月には正月と言うこともあって一旦92%に回復しますが,4月までには85%前後となり,6月に一度80%に減り,10〜11月は一気に66〜67%,12月には72%に回復します.
 意外なことに,1945年1〜5月は,80〜90%をうろちょろしてますね.

 ところが,制海権の無くなった1945年6月からガクッと下がって,40〜50%になり,これが年内一杯続くわけです.
 しかも,これでもマシな方で,翌年以降その比率は深刻になります.
 1946年は1〜2月こそ本来の軍需分を回したからか,一度80〜90%になりますが,3月に72%,4月に68%とジリ貧状態となり,5月44%,そして,6月には凶作の影響で18%に一気に下がり,7月は遂に4%,8月には2%と,何処に米があるの状態で,9月は回復しても5%.10月に早稲の収穫がある所為か29%に回復し,11月に89%に戻り,以後は70〜90%を推移しますが,1947年5月から再び低下し,9月に再び4%に陥ります.

 そうなると,配給の中身は代替物になりますが,主力は芋または南瓜,麦は未だマシな方で,1945年6月頃には,脱脂大豆,食用粉,そして大豆が底を突き,乾燥玉蜀黍,高梁,団栗に変っていきます.
 ちなみに,食用粉という代物,原料は不明で,配給当初は麦と麩など雑穀と脱脂大豆,または麦と麩など雑穀と乾燥玉蜀黍を粉にした二種類があり,未だ団栗は出てきてませんが,8月になると団栗や得体の知れない海草も粉にして配給されるようになります.
 そして,1946年の危機的状況の時には,「新興麺」というのが配給されていますが,これは海草(昆布)粉末,芋,玉蜀黍の茎や実を取った芯などの粉末で作った代用麺.
 これは,乾燥麺なのですが,戻すのに2時間かかり,しかも栄養価ゼロ,ただ,腹を膨らすだけのものだったり.
 他に「母乳素」と言う妖しげなものもあり,これは大豆を適度に加熱し微粉とし,妊婦の保健または産婦母乳の分泌を促すと言うもの.
 また,甘藷澱粉の配給もありましたが,これは玉蜀黍粉と共にパンにして食べると言うものです.
 そのためのパン焼き器というのも乏しい資材から作られていたりするのですが,これは電気を食うので,電力事情の逼迫しているときは屡々目の敵にされていました.
 ちなみに,この甘藷澱粉の質は最悪で,
「多少の砂が混じっているので,一度水に溶かして上水を取り,沈殿物を捨てること」
と言う注意書きまで付されていたり.

 食べる楽しみが無くなって,ただ生きるためだけに栄養を補給しているというのはさぞかし味気ない生活だろうなぁと思いますが,そんなことを思いやる余裕は無かったんでしょうね.

 それにしても,今の子供達の食生活の貧弱さは,どうなんでしょう.
 新興麺なんてのも,ああいった子供達には食べられるものかもしれませんが.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi

 なお,以下の記述を見るに,戦後直後は地方のほうが食料事情はマシだった模様.

----------------

 〔3代目・三遊亭円右師匠の談話〕
〔略〕
「食糧難時代ですから,定席に行ったって,お米を買うだけの何はないけど,端席を歩いていれば,その間には地方の仕事が来るわけですね.
 浅草の,今の稲荷町から清島町あたりですね,あそこいらに芸能社がたくさんあって,そこから連絡が来るわけです.
「長野県のほうでこういう仕事がある.お金はあんまり出ないけど,米が出るよ」
「ああ,行きましょう」
 みんな喜んで集まりましたねえ」
〔略〕

――山口正二著『聞書き五代目古今亭今輔』(青蛙房(せいあぼう),2003/7/5),p.246

▼ 一方,都市部では…….

――――――
 12代目〔片岡〕仁左衛門になって数年,敗戦の翌年,食べ物の恨みで,付人に,なたで殺された.
 殺人のむごたらしい現場の写真が,街頭のニュース速報に張り出された無残な有様を,今でも思い出さずにはいられない.
 若い妻の元女優・小町とし子と,その妻の生んだ幼児も,一緒に殺された.

――――――『役者の伝説』(戸板康二著,駸々堂出版,1983.12.25),p.112-113
――――――
 終戦間もなく「福沢諭吉」の芝居で,庭で牛鍋を煮るところがある.
 肉はなかったが,こんにゃくに醤油と砂糖を入れて火にかけたので,においだけは牛鍋そっくり.
 見物は毎日溜息をついた.

――――――『役者の伝説』(戸板康二著,駸々堂出版,1983.12.25),p.213

>12代目〔片岡〕仁左衛門

 これ,息子の我童か芦燕だか,孫か,継いだ孝夫が言ったのか忘れたけど,犯人側の弁護士に
「このままだと,死刑になっちゃうから,食い物のせいにしてくれ」
と証言してくれ,と頼まれた,と,東京新聞のインタビューに出てた記憶があるんだけどなあ.
 第一,あの食糧難の時代で,1日2食も食えるなんて贅沢だ!!

水上攝堤 by mail,2009/6/10


 【質問】
 金魚酒(ざけ)って何?

 【回答】
 太平洋戦争中に配給制となった酒の質の悪さを揶揄する言葉です.
 1940年4月から,米,味噌,砂糖など生活必需品の10品目が切符制になり,6月になると家庭用ビールの配給制が実施されました.
 量を増やすため,水で薄めたアルコール分10度以下の酒も販売されるようになりましたが,
「余りにもアルコール成分が薄いので,飲んでも酔わず,金魚を酒の中に入れても死なずに泳ぐ」
という意味で,「金魚酒」と呼ばれるようになりましたとさ.

 【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/haikyuu.htm(画像も)

【ぐんじさんぎょう】,2008/10/1
に加筆.

▼ しかし戦争が始まったからといって,酒好きが急に禁酒主義者になるわけでもないので,そんな酒好きにまつわるエピソードが幾つか残っている.

 以下は漫画家・杉浦茂(当時,東京市在住)の証言.

――――――
 昭和19年から20年へかけて,酒好きな男たちは,ときたま開かれる,夕方6時からの「国民酒場」へ駆けつけるのであった.
 酒のときは,コップ1杯,ビールのときは中ジョッキ1杯と限られており,むろん,金は払う.
 いつも長い行列だが,量に限りがあるので,尽きると終わりで,ありつけなかった人たちは,地面を蹴りながら散るのであった.
 家庭用としては,これもときたまだが,満25歳以上の男子に限り,わずかな酒が配給された.
 そんなとき,酒場へかけつけることなどめったにできない私は,大切に2晩かけて,これを飲んだりしたものだ.

――――――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.46-48

 以下は6代目尾上菊五郎に関する逸話.

――――――
 舶来品をほしがるというのは,実は6代目〔尾上菊五郎〕の贅沢伝説の一端で,昔は芝の自宅の台所の揚板を開けると,スコッチの壜が明治屋ぐらいあるという伝説があった.
 戦争中もとうとう酒を切らしたことがないそうで,双葉山が来た時,スコッチを出したら,喜んで,「優勝した時より嬉しい」と言ったそうだ.

――――――『役者の伝説』(戸板康二著,駸々堂出版,1983.12.25),p.79

――――――
 娘が結婚式をしたときかな.
 ……冠婚葬祭には,町会の証明があれば,酒が買えたんですよ.
 それ飲んで赤い顔して,あたしが御苑のそば歩いていたら,交番で呼び止めやがって,
「なんで昼間っから酔ってんだ!」

 そういう時代なんだからね.

――――――『林家正蔵随談』(麻生芳伸編,青蛙房,1967.6.20),p.202

――――――
 8月15日になって,
居留民は即時武器弾薬を携帯して張家口へ集結すべし――.
 軍部から指令が出た.
 演芸団の芸人もあわただしく,拳銃と弾丸を渡されて駅へ駈け付けた.

 行ってみると,――女子供を優先して,男どもは1時間後の列車に乗る,という情報が入った.
 そのとき,〔柳亭〕市馬の頭に真っ先に浮かんだのは,倉庫に置いてきた酒のことだ.
「酒はどうなる?」
「酒,酒,……」
って,ひとりごとを言いながら,回れ右をして,やつだけ宿舎のほうへ駈け出したってんだ.
 倉庫の中にある酒を,このときとばかり手当たり次第飲んで,いい気持ちになって,
「拳銃なんぞ邪魔だ!」
って,捨てちゃって,ポケットへウィスキーだのコーリャン酒を詰めるだけ詰めこんで引き返した.

 列車が張家口へ到着すると,一行はすぐ収容所へ持っていかれて,ソ連兵にそこで武装解除された.
 列を作って順に身体検査されて,……市馬だけは武器はなんにも持っていなくて,ポケットから酒瓶を次々に出したんで,看視のソ連兵がにこっとしたって,……みんな笑って,この武装解除が急に穏やかになった.

――――――『林家正蔵随談』(麻生芳伸編,青蛙房,1967.6.20),p.248-249

特殊用途清酒配給票
(こちらより引用)

金魚寿司(正確にはニモ寿司)
(画像掲示板より引用)


 【珍説】
 実際,当時の体験者から,食糧不足の話聞かないんだよな.
 食糧不足のソースもあてにならんな.

 【事実】
 そりゃ,技能を持ってたり,資本や工場を持ってたりする人々と,それが無い人々との生活の差は戦時下には結構ありますが,一概には言えんでしょう.

 例えば,父方の曾祖父は医者でしたから,開業医として近隣の農家の人々を診ていました.
 なので,その御礼というか,薬代代わりに食料を得ることも可能ですし,元居た会社から,部下や世話をした
 人が南方からの土産品として,バナナとか甘味料を持ってきてくれ,それを近隣の農家に分けて,代わりに食料を補填してましたし.
 母方の方は会社が重要会社だったので,その辺から手を回して,配給だけは途切れさせなかったですし.
 その後,大阪近郊で空襲に遭い,焼け出されたのだが,経営していた会社からの支援があったので,路頭に迷うことが無かった.

 それらが無い,または無くなった人々は大変な生活になっているのではないか,と思いますよ.

 ちなみに,当時の西宮は阪急から北についてはほぼ農業地帯だったので,食料は十分にありました.
 但し,うちの曾祖父は,贅沢三昧が祟り,配給では食っていけなくなったので,結核を患い,敗戦の翌年には亡くなっています.

 例によって蛇足ですが,戦略爆撃調査団の調査で,「個人的に戦争継続を望まなかった理由」の中に,「消費物資欠乏のため」を言う回答選択肢があります.

 この回答では,大規模な爆撃で高度に破壊された大都市の住民の場合,14%の人がその選択肢を選択しています.
 同じように破壊された中小都市ではこの比率は11%,軽度に破壊された中小都市で9%,意外に,東京が8%と低く,小規模爆撃があったか,爆撃を受けなかった都市では13%,田園共同体で19%,都市疎開者では14%となっています.

 このアンケートを見る限り,東京の住民は消費物資の欠乏に苦しめられてた感じではなかったりします.
 東京は首都であり,交通の結節点であり,統制経済の中心であることから,意外に物資の集積が行われたのではないか,と言う話もあります.

 一方で,田園共同体,即ち,田舎の方では物資を都会に供出したことで,相当物資不足に苦しんだと言う話もあります.
 例えば,子供に対する加配はなく,学校給食もないので,子供一人当たりの配給量は一日当たり米一合ほど東京より少なく,油,酒の配給は東京の1/3,魚,海苔,豆腐の配給はなく,況や,薪炭の配給もないと言う話もあったりします.

 後,清沢洌の暗黒日記(3巻P.164〜東京大空襲の件)

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 甥の笠原貞夫は出征しており,その妻が三人の子供を抱えて焼け出されたのは先にも書いたが,修司が区役所に行くと,
「縁故疎開の外はどうにもならぬ」
と一向に受け付けない.
 貰ったのが,五日分の食料切符と汽車無賃乗車券のみである.
 仕方がないから丸ビルの地下室に連れてきて,信州に送るという.
 布団二枚を自転車に積んで連れてきた.
 国家の羅災者救助というのは,五日分の米と醤油だけだ.
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 これが東京の状況.
 神戸や大阪も同様だったかと思います.
 後,流言・投書の太平洋戦争の第五章辺り興味深いですよ.

眠い人◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/09/02(金)
青文字:加筆改修部分

http://www.f4.dion.ne.jp/~eisan/koushuueiyou.htm
 ・戦後の混乱期は食料不足に苦しんだが,当時は食料を生産する農村のほうが,都市に比べて食料の入手に恵まれており,栄養水準は上位にあった.
 ・終戦直後は食料生産の低下や外地からの引揚げ等による人口増により,全国的に飢餓と栄養失調が蔓延し,極めて深刻な食料不足になった.

 公衆栄養学という学問で教えている「歴史」ね.

 また,戦中の都市生活,疎開生活,戦後の都市生活を経験した人のハナシは
http://homepage2.nifty.com/shokuiku/subkatei0209.htm
参照.
 6月に横浜に戻ったころの献立を見ると,戦争中より食糧事情の悪いのが分かります.終戦直後はもっと大変だったようです.
 主食の配給はありましたが,お米ではなく,大豆から油を絞ったカス,麦,ざらめ(砂糖),さつま芋(水に浸かってスカスカの味のないようなものまであった),
 カロリー換算して配給していたのでしょうか.闇市があちこちに出来,なんでも売っていました.
 でも預金は封鎖され,毎月下ろせるお金は限られていました.
 仕方なく,着物などを持っていって食料と交換したりして,みな飢えを凌いでいました.
 お店で何か売り出すとみんな行列して買いました.
 何の行列か分からなくてもとりあえず並ぶという,大変な時代でした.
 小麦は精米所で粉と取替え,パン屋さんに粉をもって言ってパンと交換しました.

 これ↓は誰か気合で判別してくれ.細かくてよく読めない.
http://eiyotoryori.jp/keyword/k/key_k028.html

ふみ :軍事板,2005/09/02(金)
青文字:加筆改修部分

 体験談ね↓

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http://www.kamitv.ne.jp/~kiyomizumai/page8-005.html ※リンク切れ

 神戸が昭和20年3月17日に空襲を受け,半強制的にまだ燻り続ける焦土の中を逃げるように,岡山県の小さな町へ学童疎開をしました.
 勿論疎開先でもご多分にもれず食糧不足で,
------------

 ちなみに,野坂昭如は飢えがひどくて,犬殺して食ったらしい.
 同じ神戸.

軍事板,2005/09/02(金)
青文字:加筆改修部分

 大井篤氏の『海上護衛戦』(学研M文庫,2001.2)第八章-30「空腹・降伏」より引用.

------------
 戦前から,日本内地は食料所要量(国民一人当たり2165カロリー平均として)の約八割を国内生産でまかなうことができただけで,残りの二割の分は海外からの輸入に依存していた.
 ところが戦時中の船舶の損失によって,輸入食料は減少の一途をたどった.
(ここで表,一部のみ書く.
 食料輸入量
14・4〜15・3:2793
18・4〜19・3:1871
19・4〜20・3:1188
 以上1000kg単位)

 この輸入減を国内生産の増加によってまかなうなどという事は,もちろん,出来るはずも無い.
 戦争中の食糧生産量は次のB表(省略)の通りで,昭和十九年までは,大きな減少もないが,増加もなかった.
(中略)

 輸入減によって減らされる部分は,食料の生産者で無い都会地の住民に多くかぶってくる.
 日本の食料統制はドイツやイギリスに比べると拙劣だったから,それが闇を刺激し,それからそれへと悪循環を生んだ.
(中略)
 われわれの記憶に新しいように,食糧事情は昭和十八年の夏には相当既に悪化していた.
 翌十九年には闇が深刻化してきた.
 十九年の全国食糧消費から計算すると,国民一人一日当たりのカロリー摂取量は1900平均に落ちていた(p411-412)

 七月上旬の閣議で,主食の一割減配が議論された.
 食料輸入の前途は真っ暗どころか,壁に突き当たった格好だ.
 オガクズやモミガラで粉食をつくって食べねばならぬところまで来ている(p419-420)
------------

軍事板,2005/09/02(金)
青文字:加筆改修部分

 山口正二著『聞書き五代目古今亭今輔』(青蛙房(せいあぼう),2003/7/5)より.

----------------
「8月15日に戦争が終わったんで,学校へ電話をかけて,
『終戦になったから,農村慰問には行かなくってもいいんでしょう』
ッて話したら,
『いや,まだ当分向こうにいますから,農家からお米を分けてもらわねばなりません.
 ですから,やっぱり行ってください』
ッて,校長先生に言われたんで,福島県の西山温泉へ行ったんです.

 越後に近い所で,郡山から若松へ抜けて,若松から行くんです.
 で,そこの村役場の所在地区に宿を取って,これを本拠にして,そこから1里半(6km)歩いて農家へ行くと,そこに次男や何かが疎開しているんです.
 山奥ですよ.
 それで,先生が付いて,その晩,一人で落語をやると,ドブロクなんかを飲ましてくれる.
 東京から芸人が来るッて土地の人が話しても,疎開している人たちは,
『今輔が来るだなんて,嘘だろう』
ッて言って信用しない.
 それが本当に来たんですから,忽(たちま)ち評判になって,あっちでも,こっちでも,『来てくれ』,『噺してくれ』ッて引っ張り凧でしてね,役場の所在地から1里半歩いて行って,その晩,一人で3席か4席やって,そこに泊まって,あくる朝1里半歩いて帰って,その日の内に,また新しい所へ1里半歩いて行く.
 だから,毎日3里ずつ歩いて,ドブロクを飲んだり,御飯を食べたりするから,適当に運動がついて,御馳走を食べる.
 それで太って,18貫(67kg)になっちゃった.

 兵隊検査の頃は12貫500(47kg)だったのが,13貫500(51kg)になって,それからずうッと変わらなかったんです.
 ところが戦争が始まって,配給になって,お米を食べなくなってから,11貫500(45kg)までに下がっちゃったんです.
 栄養失調で,もう半年戦争が続いていたら,私は死んでたかもしれません.
 妙なもんですねえ,あの栄養失調ッてのは.
 昼間は下らないんです.
 夕飯食べると,とたんに夜通し下る.
 ですから,3度(たび)も4度(たび)も便所に通って,朝飯が済むと,ピタッと止まっちゃう.
 それが3年くらい続いて,昭和17年から痩せ始めたんです.
 身体の具合はちっとも悪くないけど,食べ物がないんですから.唐茄子と,じゃが芋と,さつま芋ばっかりですからねえ.
 子供が大勢だから,闇米は買えませんよ.お金はないしね.
 だって,そうでしょう.
 晒(さらし)が1反1800円くらい,米は1升180円くらいでしたよ.
 その頃,田舎へ行ったって,1日千五百円くらいにしかならない.
 ですから,あの頃のわたしは,苦労のどん底にいたんです」

(p.204-206)

▼ 以下は漫画家・杉浦茂(当時,東京市在住)の証言.

[quote]

 この時分〔昭和17年晩秋〕,菓子らしきものは全くなく,ただ,茶だけをガブガブと飲んだ.
 当時,菓子店では,砂糖を全く使わない,赤い着色した寒天製のものを,それも時間を限って売っていた.
 米は早くから配給制であったが,飲食店には米の配給はなかった.
 その頃,我が家に田舎から親戚が一人来たが,昼時に,家人が親戚の持参した米を寿司屋に持参して,握ってもらったものを出したことがあった.

[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.46-48

▼ 大佛次郎の日記,1945年7月.

 この頃になると,物流の滞りで,酒類が不足してきていますね.
 米も麩が80%になっていると書いてあります.
 とは言え,鎌倉は未だ海に近いですし,海軍なんかの施設なんかもあるので,蛋白質としての魚類は豊富に手に入っていたみたいですけど.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月16日22:55

▼ 科学史の村上陽一郎氏のエッセイの中に体験談があるので引用します.
(今年春に退官されたので何時削除されるかわかりませんので)

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 戦中から戦後にかけての食糧難の時代を経験した人間なら,誰でも判っているが,どんなものでも口に入るだけで有り難かったことが忘れられない.

 白米は「銀しゃり」などといって,望むべくもなく,豆かす,つまり大豆を押しつぶして油を採った後の「かす」や,「ふすま」(と言っても障子の仲間ではない)などでさえ大事に食べたものだ.
 松本の郊外(当時は本郷村惣社)の農家の蚕室に間借りをした疎開先では,米はまわしてもらえず,辛うじて野菜を分けて貰っていたが,松本駅の食堂で,ほとんど腐ったような鰈が洋風に調理されたお皿に,長い時間かけて並んでありつくときは,山海の珍味といった思いがした.

 東京に帰って後も,米の配給はほとんど有名無実,ときに酷い鮮度のスケトウダラ(当時は「すけそう」と呼ばれていたように思う)が配給になるのが関の山の時代が続いた.
 占領軍の放出で,白いメリケン粉や白砂糖が配給されたときは,自家製のパン焼き器でパンを焼いた.
 世の中にこんなうまいものがあったか,とつくづく思った.
 念のために書くと,自家製のパン焼き器というのは,金属の板に電線を繋いだだけのものだが,なかのパン生地に水分があるうちは,電導が続き,水分が無くなると自動的に切れるものだった.
 もっとも電気も,特に水力の無くなる冬場は,一日のうちで通電されている時間の方が短い位で,停電灯と称する小さな充電式の箱型の灯りが夜の頼りだったから,パンを焼くのも大変だったが.

 甘いものと言えば,粗製の黄緑色の葡萄糖のかけらが,ほとんど唯一口に入るもので,我が家を訪れた米兵が土産に持ってきたチョコレートの箱は,この世のものとも思えなかった.
 その頃,小学生だった私が造った川柳まがいのものをご披露しておこう.
「配給の豆を食うのに遠慮なし」.

 こんな体験を持つ人間だから,仮令躾がなくても,食べ物について,うまいのまずいのと言えたものではないのである.

-----------村上陽一郎・エッセイ「ごまめのはぎしり」 第24回 2007年3月29日

-----------
 父親は,写真好きが嵩じて,戦前は自分で現像や焼付け,引伸ばしもするほどで,カメラもドイツ製のものをいくつか持っていた.
 中でもスーパーシックスがお気に入りだったが,これを昭和二十一年御茶ノ水の駿河台下に(たまたま小学生の私は父についていったのだが,どういうわけか場所を鮮明に覚えている)あったブローカーの店に僅かな金額で手放した.
 その帰り,辛うじて焼け残って営業していた坂の途中のミルクホールで,一本のサイダーを二人で飲んだ.
 本来なら高価なカメラがもたらしたお金の一部がサイダーに化けたアイロニーを父がどう感じていたか,その心中を今の私ならよく判る.

 そんな状態だから,当然普通の食堂では「米飯」は基本的に食べられない.
 「外食券」と称するものが時々配給されるが,それを使う以外にはなかった.
 そばやうどんについても同様の扱いであった.
 穀物にこだわっているようだが,当時の「主食」は米であり,主たる栄養源は穀物以外にはなかったことを忘れないでほしい.

----------- 村上陽一郎・エッセイ「ごまめのはぎしり」  第25回 2007年5月10日

Fabius (KT) in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

>自家製のパン焼き器というのは,金属の板に電線を繋いだだけのもの

 60年後の現在では,ホットケーキで同じことをやっている方がいらっしゃいます.
http://www.snet.ne.jp/milk32/cake.html
http://www.snet.ne.jp/milk32/cake2.html

クローム・ツァハル in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

▼ 先代・林家正蔵師匠の証言.

――――――
あの戦争の最中に警防団なんぞに引っ張られ,ずいぶん粗食をして,体を酷使してしまったもんですよ.
 それこそ過労の続きで,しまいには栄養失調で,角材の5寸くらいのが担げなくなっちゃったですよ.

――――――『林家正蔵随談』(麻生芳伸編,青蛙房,1967.6.20),p.8

野坂さんらに鍋物進呈
(画像掲示板より引用)


 【珍説】
 食糧不足になってたってということは終戦時にはなく,事実に反しているので,説得力がありません.
 食料が深刻化したのは戦後しばらくたってからです.

 紙幣の価値の低下が顕在化したのは翌昭和21年に入ってからで,それまでは普通に物が買えました.

 【事実】
 戦時中は食料が配給制だった事は無視かな?
 米の配給量は一人あたり一日二合程.これではおなかいっぱいにはならん.
 そもそも米を買うには米穀通帳が必要だったわけだが.
 終戦後に食料不足に拍車がかかったのは事実だが.

>紙幣の価値の低下が顕在化したのは,翌昭和21年に入ってからで,
>それまでは,普通に物が買えました.

 買えねえ.
 米以外の食料を買うのには食料切符が,衣料品を買うには衣料切符が必要で,それも不足しがちだったわけだが.
 昭和18年末にはほとんどの生活物資が配給制となった.
 紙幣の価値が下がっていないように思うのは,価格統制が行われていたから.


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