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(画像掲示板より引用)


 【link】

「Cahier de Siliqua_alta」:「戦時統制経済」はほんとうに存在したのか?

「カラパイア」◆(2010.2.20)【画像】戦時中の日本の博覧会・イベントポスター(1920年代から1940年代)

旧日本軍弱小列伝(データベースの産業編は有用)

「神保町系オタオタ日記」■(2005-12-15) 満鉄調査部事件

「神保町系オタオタ日記」■(2005-12-21) 恐るべき民族学者,岡正雄 [民族学] 『阿片王 満州の夜と霧』(佐野眞一著)から

「神保町系オタオタ日記」■(2006-01-24) 上海自然科学研究所をめぐる「畸人」たち [図書館] 『上海自然科学研究所』(佐伯修著)から

「神保町系オタオタ日記」■(2006/02/07) [図書館] 『満鉄中央試験所』(杉田望著)から
>中央試験所がソ連当局の管理下におかれるようになるのは,昭和21年正月早々のことであった.

「神保町系オタオタ日記」■(2013-03-11) [図書館]台北帝国大学附属図書館の蔵書票
> 先日名古屋大学博物館でもらった『名古屋大学博物館報告』23号,2007年の抜き刷り『第9回名古屋大学博物館企画展記録 本に貼られた小さな美の世界 蔵書票』の「11台湾植民地時代の作品」「12朝鮮植民地時代の作品」が面白い.

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/17) [図書館] 上海自然科学研究所中央図書室司書西村捨也

「神保町系オタオタ日記」■(2006-07-26)[図書館][民族学] プチ・ブル的図書収奪
>関係者の記憶によれば,民族研究所の蔵書は,海軍が中国で没収した図書で,南開大学・清華大学・王立アジア協会(中略)・梅蘭芳蔵書があった.
>また,どこから持ち込まれたのかはっきりしないが,「仏印」(ベトナム)からも図書が来たという.
>これらの没収図書は,横浜に入港すると,税関から民族研究所に通知があり,(中略).廃庁後は,1946年4月に(中略)民族研究所の蔵書9,644冊が京都大学に移管された
>(中略)
>また,京都大学に移管した図書以外は,戦後の混乱の中で売却されると言う「不祥事」が生じ,民族研究所の蔵書と一緒に疎開させていた個人蔵書も,同時に紛失したという(徳永・鈴木談).

「神保町系オタオタ日記」■(2006-12-31)[図書館] 奉天図書館長衛藤利夫が吼える

「神保町系オタオタ日記」■(2007/03/03)[トンデモ] 戦時下の北京燕京大学の謎

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-29)[トンデモ] 藤澤親雄の大陸進出

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-14)[図書館] 謎の植民地図書館

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-17)[トンデモ] 戦時下の燕京大学の謎(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-09-23)満蒙資料協会と『中国紳士録』

「神保町系オタオタ日記」■(2007-09-24)[文藝][伝書鳩] 永代静雄と満蒙研究所(補遺)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-06)[図書館][柳田國男] 朝鮮総督府図書館長荻山秀雄

「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-17)[スメラ学塾] 市河彦太郎と南洋経済懇談会

「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-09)[図書館]市河彦太郎と満洲開拓読書協会

「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-09)ジンギスカンになりそこねた男松本君平
 蒙古独立運動関連

「神保町系オタオタ日記」■(2009-02-21)[図書館]台北帝国大学附属図書館司書達の戦後

「神保町系オタオタ日記」■(2009-02-21)永代静雄の満蒙研究所

「神保町系オタオタ日記」■(2009-03-11)名簿屋中西利八のその後
 満州関連

「神保町系オタオタ日記」■(2009-03-13)大亜細亜建設社の賛助員

「神保町系オタオタ日記」■(2009-10-25)川上初枝=若林初枝=日高みほ子=内山若枝の生年
 大陸女浪人

「神保町系オタオタ日記」■(2009-12-06)[スメラ学塾]松尾尊~先生と『スメラ学塾講座』
>学徒動員により興亜工業という軍需会社に配属されていた

「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-23)大久保康雄詳細年譜
>◎大久保康雄君は,四月横浜港を出で,マリヤナ,カロリン,
>マーシヤル等の群島を巡視,六月十八日ヤルート島へ着いた

「神保町系オタオタ日記」■(2010-01-14)華北綜合調査研究所と岡崎次郎

「神保町系オタオタ日記」■(2010-01-17)華北綜合調査研究所の内紛と大蔵公望

「神保町系オタオタ日記」■(2010-02-14)[図書館]満鉄鞍山図書館長佐竹英治=鈴木英治

「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-27)[出版][満洲][図書館]大陸講談社の『ますらを』と満洲雑誌社の『満洲良男』

「神保町系オタオタ日記」■(2010-04-03)[満洲]満洲短歌会と若林初枝

「神保町系オタオタ日記」■(2010-04-07)[トンデモ][満洲][図書館]満鉄図書館員と内山若枝

「神保町系オタオタ日記」■(2010-04-14)[出版]「ぐろりあ・そさえて」社員山田新之輔と竹内好

「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-03)[図書館]野波静雄と下中弥三郎
 旅順図書館関連

「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-09)満川亀太郎の興亜学塾の講師

「神保町系オタオタ日記」■(2011-03-21)[図書館]親切すぎる板垣一二三満鉄営口図書館長

「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-28)[図書館]上海日本近代科学図書館の松井松次

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-16)[図書館][満洲] 満洲心理学会々員としての柿沼介

「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-18)福建省独立を画策した角田清彦の経歴

「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-13)[図書館]満鉄哈爾濱図書館長栗栖義助と夫人つた子

「神保町系オタオタ日記」■(2012-01-11)木山捷平と菊地康雄
 満州雑誌社関連

「神保町系オタオタ日記」■(2012-04-10)満洲日日新聞記者山田祥吉

「神保町系オタオタ日記」■(2012-04-15)満洲日日新聞記者山田祥吉(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2012-12-16) [図書館][満洲]満鉄図書館長と中谷治宇二郎

「ネトウヨニュース」◆(2013/12/05) 【解決済】元徴用工補償,韓国が財団…日本側は出資拒否へ

満洲帝國史料館(相互リンク)

●書籍

『二〇世紀満洲歴史事典』(貴志俊彦・松重充浩・松村史紀編,吉川弘文館)

『アジア写真集19 復刻 満洲農業図誌 アジア学叢書266』(満鉄総裁室弘報課著,大空社,2013.4)

『阿片と大砲 陸軍昭和通商の七年』(山本常雄著,PMC出版,1985.8)

 昭和通商について書かれている本は,他にあるのかな?
 戦争資源の入手,阿片と陸軍の関わり,戦時輸送など,あまり他書で知ることのなかった話が多い.

――――――軍事板,2010/06/12(土)

『陰謀と幻想の大アジア』(海野弘著,平凡社,2005年9月)

『怪物たちの満洲帝国』(洋泉社,2013/11)

『学校では絶対に教えない植民地の真実 朝鮮・台湾・満州』(黄文雄著,ビジネス社,2013.4)

『キメラ 満洲国の肖像』(山室信一著,中公新書,2004.7)

『グアム・サイパン・マリアナ諸島を知るための54章』(中山京子編著,明石書店,2012/08/02)

『国鉄の空襲被害記録』(鴫原吉之佑編,集文社,1976.12)

 国鉄で防空連絡業務に当った人の私家版ノートに様々な人の体験を綴った本.
 空襲記録については色々出ているが,国鉄の直接の被害や特に橋梁などの被害については,記録が敗戦時に消失しており,中々こうした記録は出てこない.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

『国力なき戦争指導 夜郎自大の帝国陸海軍』(中原茂敏著,原書房,1989.8)
『大東亜補給戦 わが戦力と国力の実態』(中原茂敏著,原書房,1981.7)

 太平洋戦争中の物動,生産に関わった人の本.
 日本の戦争資材供給現場の実態と,開戦前からどのように取り組んできたのかが書かれている本.
 これも古い本なので,図書館かなぁ.

――――――軍事板,2010/06/12(土)

『昭和前期の科学思想史』(金森修著,勁草書房,2011.10)

『満洲におけるロシア人の社会と生活 日本人との接触と交流』(阪本秀昭編著,ミネルヴァ書房,2013/8/5)

『植民地時代の古本屋たち 樺太・朝鮮・台湾・満洲・中華民国 空白の庶民史』(沖田信悦著,寿郎社,2007.12)

 宗谷海峡でも米軍潜水艦が出没しはじめた中,樺太へ渡航してセドリする猛者の話とか.

 帝国図書普及会による図書博覧会(実態は特価本の販売会)では,地域によって次のような売れ筋の違いがあったというのも面白い.
朝鮮:思想・経済
台湾:生花・裁縫・辞典・講談・絵本
満洲:内地と似た傾向

――――――軍事板,2009/09/19(土)

『真実の満洲史 1894-1956』(宮脇淳子著,ビジネス社,2013/4/24)

『大学における戦没者追悼を考える』(白井厚著,慶應義塾大学出版会,2012/10/31)
>アジア太平洋戦争で大学はどんな役割を担ったか

『「大東亜」戦争を知っていますか』(倉沢愛子著,講談社現代新書,2002/7/18)

 著者は慶応大学教授で東南アジア社会史が専門.
 日本が侵攻し,支配した東南アジアを民衆の視点から描いたもの.
 占領政策の実態,大東亜戦争と呼ばれるものの実態を結構冷静に描いている.

------------ 眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/07/19
青文字:加筆改修部分

『大東亜補給戦 わが戦力と国力の実態』(中原茂著,原書房,1981.7)

 読了.

 タイトルにある補給に関して,単に部隊への輸送のみならず,その後方の生産力,基礎工業力を含む国力全般についても焦点を当て,太平洋戦争を中心に概説した本.
 1981年発行と意外に新しい.
 ちなみに著者はこの後に,もう一冊同じような本を書いている.

 著者は大阪陸軍幼年学校を出たあと,陸士を39期で卒業.
 砲工学校高等科へ進んだのち,東大工学部電気工学科を卒業し,陸軍造兵廠で勤務した.
 その後,1939年に陸軍省軍務局軍事課資材班に所属.
 以降,1945年まで大本営兵站総監部参謀・第14課員,陸大兵学教官,企画院調査官を兼任した.
 1945年,第15方面軍参謀として終戦.
 終戦時大佐.

 著者としては,大正デモクラシーや諸外国に言いたいこともたくさんあるようだが,日中戦争期の日本の引き際の見誤りと,太平洋戦争開戦前からの陸海軍(特に作戦系)のグダグダには言いたいことが腐るほどあるらしい.
 数多くのグラフや図表を使いながら,大日本帝国の国力・兵力の趨勢を追っていく.

 大正期の不況と軍事予算圧縮時代が終わり,満州事変が勃発して以降,日本の国力は次第に成長していった.
 しかし日中戦争期に入ると,整備途上の国力・兵備で長期戦争に突入したため,兵器生産のための動員が鉄鋼を含む基礎工業生産を圧迫し始め,早くも1938年を境に総合的な工業力は減少に入る.
 これが太平洋戦争期に顕在化し,後述する輸送の問題と合わせて,民需のみならず兵器生産にも影響が生じるようになった.
 この指摘は興味深い.

 また,大正期に陸軍予算を圧縮していたため,その期間の装備更新が滞ったのみならず,弾薬備蓄も少なく,日中戦争開戦後の1937年度の兵器費のうち56パーセント,翌38年度の兵器費の76パーセントが弾薬に充てられ,火砲・戦車・航空機といった,その他の兵器生産を圧迫していた.

 1937年,企画院が誕生すると,軍需と民需に物資を振り分ける物資動員と,民需の資材を最大限活用し基礎国力を拡大する生産力拡充という,2つの計画を企画したが,経済も戦況も変動するため,計画作りは当然難航,改定が頻繁に行われた.
 さらに後になると,各国の経済制裁や,陸海軍の軍備計画の都合に振り回されて,おもに民需がガリガリと予定から削られていく.

 また,著者は1章を割いて,当時のアメリカの過小評価と,ドイツの過大評価について力説する.
 そして著者は,開戦検討時,後述するような希望的観測を条件に開戦を承諾するのではなく,もう少し強く主張していればよかったと後悔し,謝っている.

 太平洋戦争開戦前の計画では,軍は一段落したら徴用船を民需用に戻すと約束したのに,これを守らず,企画院の運輸担当者は怒り狂い,加えてミッドウェーや中部ソロモンの戦闘による消耗補充のため,さらに民需は削られる.
 もちろん生産拡充計画は達成できない.
 企画院(軍需省)はそんな状態の中,必死に効率化(例えば1943年の軍需省のもとでの,陸海軍航空機生産の一本化)などに努力しつつ,大本営政府連絡会議で協議と妥協を重ねながら,陸海軍の軍備計画の内情もよくわからないまま――企画院も兼任する著者が,海軍の航空機工場を初めて見たのは,1942年末のことだった――物資配分を決定していたが,ついに1944年に鋼材の配分に関して,陸海軍合計の総量を決めるから,あとは適当に決めろという,投げやりな状態になってしまった.
 陸海軍合わせて99万トンの配分で,両方の軍務局長まで乗り出して協議に40日を費やし,結局航空機と同様折半.
 ただし7500トンを陸軍が海軍に譲渡するということで,ようやく決着した.
 場合によっては,これに両軍内の軍政・軍令の対立が加わるから,手におえない.
 両者の生産統合が実現するのは1945年3月であり,最後まで真の総力戦体制は確立しなかった.

 1944年からは航空機生産を絶対優先としたが,輸送力・輸送量の低下が,同年後半から深刻になり,1945年に入ると各地への空襲や輸送網寸断も加わって,もはや兵器を生産することが不可能という状態に陥っていた.
 さらに農林水産物生産も,最盛期の7割程度に落ち込んでいた.

 一方で,日本語として読みにくい部分が割とあったほか,誤字と思われるものも少しあった.
 また,最初に参考文献が示されているが,多数のグラフや表に関して,個々の引用が明示されてはいない.
 さらに,出版年的に古い認識が書かれている部分もある.

 しかし軍事面だけでなく,広く産業一般を含む,国全体としての工業力あるいは国力というものが,どのような状態にあったのか・どうしてそうなったのかを,手軽に知ることができる意味で,本書の意義は大きいだろう.

------------軍事板,2012/02/19(日)
青文字:加筆改修部分

『台湾鉄路と日本人―線路に刻まれた日本の軌跡』(片倉佳史著,交通新聞社新書,2010/02)

『台湾に残る日本鉄道遺産 今も息づく日本統治時代の遺構』(片倉佳史著,交通新聞社新書,2012.2)

『台湾引揚者関係資料集』(不二出版,2011.5〜)

『地域社会から見る帝国日本と植民地 朝鮮・台湾・満洲』(松田利彦・陳 ?湲編,思文閣出版,2013.4)

『「地圖」が語る日本の歴史』(菊池正浩著)

 大本営参謀渡辺正大佐を中心に,敗戦前後の日本陸軍陸地測量部と,その後,GHQの占領を掻い潜って,国土地理院が立ち上がるまでのエピソードを中心にしたもの.
 戦後の地図作製会社の話も交えて,非常に興味深いものとなっている.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

『中東鉄道経営史 ロシアと「満洲」1896-1935』(麻田雅文著,名古屋大学出版会)

『南洋日本町の研究』(岩生成一 著,岩波書店,1996/03)

『続 南洋日本町の研究 南洋島嶼地域分散日本人移民の生活と活動』(岩生成一著,岩波書店,1987/11/18)

『日本の科学者 48-8 戦争と医の倫理 ドイツと日本の検証史の比較』(日本科学者会議著,日本科学者会議,2013.8)

『満洲・重い鎖』(多田茂治著,弦書房,2009.7)書評−−牛島春子にとっての満洲国とは何だったのか <浦辺登

『「満州国」見聞記』(ハインリッヒ・シュネー 著,講談社学術文庫,2002/10/10)

『満蒙幻影傳説 「聖戦」灰滅史を旅する』(森川方達,現代書館,2005.5)

『満州歴史街道』(星亮一著,潮書房光人社, 2013.4)


 【質問】
 第二次大戦までに,なぜ日本の土木用重機は発展しなかったのか?

 【回答】
 基本的に日本の土木工事は人海戦術でした.
 しかし,大正期には日本も建機の導入が盛んだったりします.

 19世紀に入って間もなく,蒸気機関が普及し,それを用いた浚渫船やレールを自走する建設機械が登場し始めます.
 1858年に,英国のクレイトン・シャトル社が自走可能な蒸気機関トラクターを開発し,それに牽引する建機が開発されます.
 ところが,蒸気機関は重く,軟弱地での走行に難がありました.
 其処でB.ボイデルと言う人は,1856〜62年に掛けて,蒸気トラクターに接地圧を下げるシュー付き車輪を開発しますが,6km/h以上で走らせるとシューが車輪を叩いて壊れる欠点がありました.

 1867年になると,同じく英国で蒸気ロードローラーが誕生します.
 この重量は,現在のロードローラーに比べ3倍もの重量がある機械で,運転が難しいので小型化されました.
 同時代には,鉄輪に代わって,R.W.トムソンがソリッドゴム付きタイヤを発明し,港湾荷役用トラクターなどに採用され,英国始め,インドやアメリカにも輸出されています.
 鉄輪に厚さ12mmのゴムを巻いたタイヤにより,従来のトラクターに比べると牽引力が2倍に増えました.

 この間,大土木工事としては1859〜69年のスエズ運河建設がありました.
 これには蒸気機関で駆動する大型浚渫船やバケット掘削機が投入されています.
 バケット掘削機は,スエズの軟らかい砂地では威力を発揮しますが,1881〜88年に掛けて行われた第一次パナマ運河工事では硬い土質であった為,効率の良い掘削が出来ず,フランス撤退の遠因にもなっています.
 因みに,1869年には日本でもフランスから輸入されたバケット浚渫船が早くも安治川口での工事に投入されています.

 1877年には,英国で欧州初の蒸気ショベルが生産され,Steam Navvyと呼ばれました.
 この他,蒸気機関で動くクレーンなんかも製造されていたりします.

 1884年になると,蒸気ショベルは180度旋回から360度旋回可能となり,作業性が向上しました.
 また,この頃には露天掘り鉱山などで使用するバケット・エクスカベータが英国とドイツで出現し,米国では蒸気ショベルの大型化が進みました.
 蒸気トラクターは,欧米で更に高出力化していきますが,主に牽引よりも動力取出し用として用いられるようになっていきます.

 1904年からは米国によるパナマ運河工事が開始されますが,機関は蒸気ながら,足回りはレールから無限軌道となった大型ショベルが100台投入され,資材陸揚げ用に大型クレーンも活躍しています.
 ガソリン機関は未だ高価で騒音と振動が大きく,主流になり得ないと見られており,蒸気機関か電気が主流になると考えられており,その折衷案として,ガソリンエンジンで発電してホイールハブに仕込まれたハブモーターを駆動すると言うミクステ(ハイブリッド)が出現します.
 この機構を考えたのは,言わずと知れた,あのF.ポルシェ博士です.
 1900年代の後半になると,ガソリンエンジンの方が優位となりますが,建機の分野では,大馬力,燃費,耐久性の点で他の機関より優位であり,まだまだ用いられています.
 とは言え,急速な高出力化には,ボイラーが耐えられず,屡々爆発事故を起こしています.

 日本には,1910年代になって,大型建機が輸入されだし,英国製の大型蒸気ショベル,フランス製の大型バケット掘削機などが河川工事に投入されています.
 また神戸製鋼所は,米国ビサイラス社製大型蒸気ショベルの輸入販売を行っていました.
 此の後,米国のマリオン・スチーム・ショベル社,ドイツのメンク社の製品も輸入され,大倉土木組(後の大成建設)は,米国エリー・スチーム・ショベル社の小型蒸気ショベルを直接輸入して使用していました.

 第一次大戦になると,塹壕戦の展開により,大型トラクターの需要は急増し,米国ホルツ社は無限軌道トラクターを英仏米の各国陸軍に総計10,000台以上納入し,1915年以降は国内でもダム建設や道路建設の活発化で,建機需要は大きくなっていきます.
 1910年には僅か年産4,000台だった米国のトラクター生産は,1930年には200,000台に達していますが,一方でメーカー数は,1910年に186社もあったのに,1920年には僅か10社に減っています.

 第一次大戦後,T型フォードが爆発的に米国で売れたのを切っ掛けに,各国で建機の内燃機関化が進み,ドイツやソ連,それに米国で相次いで,無限軌道を持つガソリンエンジン搭載トラクターが開発,生産されます.
 一方でメーカーの淘汰も進み,ホルツ社とベスト社が1925年に合併してキャタピラー社となります.

 米国では一通りの建機が内燃化され,ショベルなどに付けるアタッチメントも数多く実用化されていました.
 但し,露天掘りに用いられる超大型のショベルなどには,蒸気機関に代わって,ガソリンではなく,電気動力が用いられる事になり,外部電力で動くショベルが開発されています.

 日本でも建機の開発が開始され,小松製作所がキャタピラーのトラクターを参考にG25トラクターを開発したり,神戸製鋼所が電気駆動の国産初のショベルを製造,三菱造船では蒸気動力のロードローラーを製作するなど,様々な建機が誕生しました.
 また,1922年に発明されたダンプトラックが早くも普及し始め,コンクリートペイバーと言った機械も輸入され,建機の機械化は順調に進むかに見えました.
 もし此の儘,時代が何事もなく進んでいれば,日本も第二次大戦中の飛行場設営能力であんなに苦労する事もなかったかも知れません.

 ところが,世界恐慌以前に1923年の関東大震災以降,日本では不況に陥り,失業対策の為に土木工事の機械化が禁止されてしまいます.
 この為,折角進んでいた工事の機械化も頓挫し,人力工事に逆戻りしてしまいました.
 結果として,第二次大戦では痛い目を見た訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/29 22:16


 【質問】
 電話供出とは?

 【回答】
 さて,戦争の長期化に伴い,官公庁が色々新設されたり,軍需工場が新たに建設,もしくは既存設備の転用で開設したり,公益団体が新設されたりと,官でも電話の需要が高まってきます.
 また,本土決戦では根刮ぎ動員として,師団やら連隊などの新設が相次ぎ,海軍でも,特攻基地の開設が相次いで,これまた,電話の需要が相次ぎます.
 しかし当時,既に電話機の新規製造は認められず,保有品も底をつき,需要に応じることが出来ませんでした.

 一方,不要不急産業の整理に伴う企業整備や,高級料亭,芸妓屋,バーなどの享楽的な産業は廃業させる様になり,それまで彼等が使っていた電話機が不用となったケースもありました.
 其処で,こうした不用電話機や一般家庭に設置していて,比較的重要度の低いものをお国の為に供出し,需給を調整する為に行われたのが,1943年1〜3月に行われた「電話供出運動」です.

 これは6大都市とその近郊地,中国,四国,九州の主要都市を中心に,
(1) 全然使用していない電話
(2) 余り重要な通話をしない電話
(3) 二本以上有って減らしてもいい電話
(4) 時局を考慮,無くとも我慢出来る電話
(5) 転廃業の為,不用となった電話
等の加入所持者に対し,電話の供出を促し,これを絶対必要な官庁,各種統制団体,軍需生産工場等に重点的に活用して加入者層の再編成を図るもので,回覧板や回報などで呼びかけを行うと共に,電話の不必要と思われる一部特定加入者には,当局から供出方の相談状を発すると言うものでした.

 供出手続きは,電話局,郵便局に電話か書面又は口頭で供出方を申し出れば,公認価格で当局が引き取り,一切の手続きを当局で済ませるばかりか,売買手数料も取らないと言う優遇措置が為されていました.
 とは言え,これに呼応する家庭は少なく,全国で供出された「赤誠の供出電話」は僅か4,000本にしかなりませんでした.
 四国では徳島で30本,高知で19本です.
 まぁ,普及率も如何に少ないか,ですが.

 六大都市と其の他の大都市の成績は,東京は638本,横浜156本,名古屋322本,大阪601本,京都261本,神戸155本,広島71本,札幌120本,仙台105本,其の他1562本です.
 これは多いか少ないか….

 1944年2〜3月も,第2回電話供出運動を展開し,更に今回は中小都市の電話に重点を置き,四国では,松山,宇和島,八幡浜,今治,新居浜,西条,高知が実施地域に指定されました.
 今回のスローガンは,「電話は兵器」であり,これにより,全国で7,600本の電話が供出されました.

 しかし決戦態勢の構築ともなると,既にこうした国民に訴える供出運動では限界があり,4月11日,
「決戦非常措置要綱に基づく電気通信の緊急措置に関する件」
と言う閣議決定により,国民が保有する電話機の加入を一方的に取消して徴発出来る様になります.
 主な内容としては以下の通り.
◎国土防衛通信網の急速整備上必要がある場合は,電話の加入取消が出来る.
◎重要加入者の通信疎通を図る必要がある場合は,電話の加入取消が出来る.
◎国土防衛通信網と公衆電気通信施設,其の他の枢要電気通信施設の整備や,これらの施設が空襲,非常災害で被害を受けた際の復旧上の必要がある時は,増設電話や施設電話の電話機,交換機を 回収することが出来る.
 まぁ,無茶苦茶で御座りますがな.

 4月15日,この閣議決定を受けて,
「戦時に於ける電話の特例に関する件」
が改正公布されます.

 5月中旬以後,この通達に従い,逓信局では,各地で国土防衛上「重要兵器」とされていた通信ケーブルと,そのケーブル内の不要不急電話の回収に着手することになります.

 その回収要領は以下の通りです.
(1) 回収対象電話
  転廃業などで不要不急となった電話や,料理店,飲食店など比較的時局性に乏しい電話.
(2) 回収方法
  主として30対以下の市内ケーブルを対象とし,収容加入者の重要度合いや分布状況を考慮して選定する.
  該当加入者に設備回収を行う旨の通知を出し,加入契約を解除するか,通話休止にするかの回答を求める.
  もし,回答を拒めば,一方的に加入取消.
(3) 加入者への補償
  通話休止を申し出た加入者には,電話使用料を免除し,戦争終了後に復させる.
  但し,他の加入者に電話番号を使用させる場合があるので,後日復旧されても前の電話番号が使えるとは限らない.
  加入取消の場合は,設備費に相当する額の補償金を交付する.

 この回収は9月末を目処に計画し,逓信局では関係官が管内の主要郵便局に出張し,ケーブル回収区域や回収加入電話の選定などを現地の郵便局幹部と協議しました.
 その回収の矢面に立ったのが郵便局であり,局長や幹部達は,回収決定した加入者からの苦情の訴えや存置の陳情の対応に追われました.
 また,それでは埒があかないと,逓信局にまで捩じ込む加入者もおり,業務部長,電務課長は,その対応に追われています.

 回収作業は局側が案内役となって,実際の撤去作業は同行した兵士達が行いました.
 こうして1944年度は,四国全体で加入取消952カ所,通話休止348カ所,合計1,300カ所の回収を実施しました.

 更に1944年から45年に掛けては,接続電話の電話機と交換機の回収を行いました.
 これらは主に料亭と旅館が対象で,回収数は四国の場合,松山で20カ所,高松で3カ所,徳島で3カ所,高知で5カ所程度であり,例外として琴平町では旅館1カ所を除いて,全部の交換機と電話機を回収しています.

 こうした回収電話機と交換機は主に軍需産業方面だったりします.

 今なら,電話機回収なんかすると,パニックが起きるんでは無かろうか,と思ってみたり.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/16 21:43

 本土決戦体制下に於て,電話と言う代物は,「決戦兵器」の一つとされていましたが,これほどまでに重要視されていた代物にも関わらず,新規生産は全く為されていないものでした.
 交換機なども同様で,こうしたものを使い回しする事を目論んで,政府は電話の供出と,加入者の強制解約に踏み切った訳です.

 後々触れる予定ですが,陸軍の国内扱いの通信隊は東京,広島(一部機能は福岡),京城,北海道にあり,東部軍,中部軍,朝鮮軍,北部軍に属していましたが,1945年4月1日,これを総軍体制の確立と共に,国内通信隊を大本営陸軍部通信隊の直轄部隊に再編成し,第1(東京),第2(広島,福岡),第3(京城)の各通信隊とし,第4は北海道ではなく,松代に設置される事になります.
 勿論,松代への通信隊設置は,大本営移転を前提としたものです.

 また,松代では主な通信は,爆撃で有線通信網がズタズタになっていた為,無線に依ることとしていましたが,それでも,政府機関や大本営が東京にある内は,東京との間の有線通信が必要となっていました.
 当時,東京〜高崎には地下ケーブルの敷設があったものの,それは旧式なもので,回線数が取れませんでした.

 この為,東京〜松代に地下ケーブルを敷設することが必要となり,運輸通信省通信院に,参謀本部から理由も言わずに,
「地下ケーブルを敷設してくれ」
と持ち込みました.
 当時の通信院総務局長だった小林武治氏が,参謀本部との折衝に当ったのですが,参謀本部側は理由をどうしても言わない.
 其処で,小林氏が,
「理由を言わなければ予算措置のしようがない」
と断ると,
「実は…」
と大本営移転について説明する事となり,こうした理由なら断る訳にはいかず,とは言え,あからさまに予算を取得する訳にはいかず,適当な名目で特別会計に繰り込みましたが,その予算額は総額1,500万円.
 当時の通信院の工務関係年間予算は2億円だったので,如何に大きな額だったかが判ります.
 しかし,こうした予算措置をしたものの,資材が無くて工事に掛からぬうちに,敗戦を迎えたと言います.

 一方,電話機については,2月9日に「通信非常体制の強化に関する件」,3月19日に「電話設備動員の強化実施要領」を政府から発表します.
 その要点は,
「戦力増強上,需要度が低い業種の加入電話を全面的に動員する.
 一般公衆が必要とする最小限度の通話を確保する為,簡易電話所を極力拡充する」
と言うものでした.

 松山逓信局の場合,第二次回収として4月27日に「電話設備の緊急動員に関する件」を管内郵便局長に通達し,8月末完了を目処に実施することになります.
 この第二次回収では既設電話の7割を回収すると言うもので,郵便局では加入電話の必要度を5段階評価し,逓信局に報告しました.

 何故,四国松山の様な地方都市で,電話機の回収をこれほどまでに行うかと言えば,軍部が,連合国軍が上陸してくるのを予想したところ,関東では神奈川の太平洋岸,千葉の九十九里,九州の志布志が上がっていました.
 何故か四国は予想から外されていたのですが,しかし,意外に大艦隊の碇泊が可能(宿毛湾は連合艦隊の碇泊地として整備されていました)で,かつ付近の交通が途絶(山脈で分断されていますし,1本の鉄道線と海運以外,高知と連絡する主要路はありません)しているので,一旦防衛軍を壊滅させれば,橋頭堡を築くのが容易,しかも,それなりの広さ(高知平野)があるので,広大な航空隊基地の整備も容易で,距離的に基地を整備すれば,「足を濡らすことなく」関東までエアカバーが可能となると言う四国南部の高知沿岸も,連合軍の上陸目標となっていました.

 この想定を元に,従来は第11師団が居ただけでしたが,第155師団,第205師団,第344師団と言う風に続々と師団が配備され(と言っても,予定では連合軍は陽動で2個師団を上陸させた後,橋頭堡を拡大する為に2個師団を更に増強する予定でした.
 つまり,完全装備で支援兵力も十分な陸軍師団2個8万に,中隊が幾つか欠けている様な,充足率が規定以下の根刮ぎ動員師団で決戦を掛けようとしていたので,結果は推して知るべしかも知れませんが),連絡の為に電話の設置は急務でした.
 この地域,山間部も多いので,無線で連絡を取ろうとしても,特に高知西部や愛媛南部だと,交信距離が非常に制限されていたので,電話は必須であり,上陸された場合,無線基地は真っ先に攻撃の対象となります.

 この為,松山逓信局は,「四国での回収設備は,米軍が高知沿岸に上陸して来るのに備え,直ちに使用するものである」と言う方針の下,逓信局では徹夜で事務処理に当ると共に,郵便局でも5月頃に徹夜で文書を作成し,回収通知を発送しましたが,翌日から回収除外を求める陳情者が列を成して来たそうです.

 最終的に,この騒ぎは敗戦により停止されます.
 それまでに回収した電話機の総数は8,266カ所に達し,第1次と合わせると9,500カ所余となりました.

 この無差別の回収については,徳島にあった撫養局の記録では,加入者総数400台に対して250台の供出命令が下り,陸軍の見習士官以下11名が撫養郵便局に泊まり込んで区内の電話機やケーブルの取り外しに当りました.
 これは位階も関係なく,時には元衆議院議員の電話機まで取り外そうとした為,件の元議員,慌てて要路に連絡して,除外となったとかならなかったとか言う話もあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/08/17 21:37


◆◆版図


 【質問】
 大日本帝国の最大版図って何km2か分かりますでしょうか?
 内地・外地・準外地(満州・東南アジア等の支配地域)が分けてあるようなものだと,幸せ炸裂.

 【回答】
 まず,日本の正式領土は,
内地,
小笠原島(文久元年幕府回収),
沖縄(明治5年琉球藩王としたときに日本領土を確認),
千島(明治8年領土確定),
大東島(明治18年沖縄編入),
硫黄島(明治24年東京府編入),
魚釣島(明治28年日本領確認),
南鳥島(明治31年東京府編入),
沖大東島(明治33年沖縄県編入),
竹島(明治38年島根県編入),
沖ノ鳥島(昭和6年東京府編入).

 内地が総計で382,309平方キロメートル.

 これに加え,
朝鮮が明治43年条約により日本領土になり,
台湾と澎湖島は明治28年条約により日本領土が確定し,
新南群島(現在の南沙群島)は昭和13年に高雄市に編入.
樺太は明治38年条約により日本領土に編入.

朝鮮が220,741平方キロメートル,
台湾が35,846平方キロメートル,
澎湖島が127平方キロメートル,
樺太は36,090平方キロメートル.

 日本領土の外地合計で,675,1113平方キロメートル.

 租借地は明治39年に獲得した関東州であり,これが3,462平方キロメートル.
 なお,租借地は他に,膠州湾が大正9年〜11年まで存在.

 委任統治区域はVersailles条約の結果獲得した南洋群島で,2,149平方キロメートル.

 一部統治区域は,明治39年に獲得した南満州鉄道付属地帯で,これは290平方キロメートル.
 但し,これは,昭和12年に満州国に返還しています.

 日本の法的に認められた支配地域は,以上の681,013平方キロメートルです.

 一時占領地域とか大東亜共栄圏の支配地域としては,以下の通り.

満州国(1,303,143平方キロメートル),
中華民国(全土で10,361,604平方キロメートル.但し,支配地域が必ずしも明確ではないので,面積としての算出は不可能.概算では北支,中支が占領地なので,2,150,000平方キロメートルは含む)),
蒙古連合自治政府(450,000平方キロメートル),
アンダマン諸島(6,496平方キロメートル),
ニコバル諸島(1,645平方キロメートル),
英領ビルマ(603,200平方キロメートル),
英領マレー(137,776.2平方キロメートル),
香港(1,013平方キロメートル),
英領ボルネオ(211,258平方キロメートル),
仏領インドシナ(740,400平方キロメートル),
広州湾(842平方キロメートル),
伊領天津租借地(0.5平方キロメートル),
蘭領インド(1,900,151平方キロメートル),
ポルトガル領チモール諸島(18,990平方キロメートル),
澳門(16平方キロメートル),
米領フィリピン群島(296,295平方キロメートル),
グアム島(534平方キロメートル),
英・豪領ソロモン諸島(72,496平方キロメートル),
ギルバート諸島(430平方キロメートル),
エリース諸島(36平方キロメートル)などなど.

 後は足し算よろしく.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/04/09(土)
青文字:加筆改修部分

▼ 昭和18年同盟通信社発行の写真集「2602」(皇紀2602年=昭和17年).
faq110223ys5.jpg
faq110223ys6.jpg
 これは「写真週報」等内外の雑誌に掲載されている写真を集めた物です
〔略〕
面白いのは,この時代にしては英語表記もあった事で,おそらく雑誌「FRONT」の様な対外プロパガンダ目的もあったのかも知れません.
 そのためか,占領下のアジア各国の状況や協力軍についても,かなりのページを割いています.

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月10日23:32


 【質問】
 日本が先の大戦前のような苦境に立たされたのは, 植民地獲得競争に完全に出遅れたからですよね?
 早くからせめてフィリピンとインドネシアを獲得していれば,かなり違ったかもと思うのですが.

 【回答】
 スペインがフィリピンに進出したのが1565年.
 オランダがインドネシアを支配したのが1602年.
 この時期の日本が植民地争奪戦をスペインやオランダと繰り広げ,第二次世界大戦の始まる時期に,これらの地域を獲得するには,ハンパじゃない歴史改変が必要になるな.
 鎖国はしない,
軍縮をやめて海外へガンガン出兵する,
商人を保護してどんどん海外に送り込む,
など,江戸時代の初期にさかのぼっていろいろやらなければならない.

 また,フィリピンはスペイン,インドネシアはオランダが分捕ってましたが,ではその両国が植民地帝国としてどの程度アジアに影響を与えたのか,とか,その植民地が本国の発展にどれだけ寄与したのかというと,いささか頼りない結果しか出していないわけで.

 必要なのは,むっちゃ儲かる植民地とか,覇権国家の要衝となる植民地.
 帝国丸ごとのインドとか,お茶とアヘンでウハウハな清とか.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前や大戦中の,占領地や植民地における日本人の民間人の,現地人に対する態度ってどうだったんですか?
 ネトウヨのみなさんは,日本の統治は植民地支配の方法として最高だったとよく主張されていますが.

 【回答】
 決していい物とは言えなかったのも事実だが,欧米列強に一度支配された地域では,そっちの時の扱いが輪をかけて酷かったので,相対的な方ではあるが,日本の統治の仕方はかなりマシと言えた.
 これをして,日本人は良かったという人もいたし,日本も白人もどっちも酷かったという人も,やはりいた.

 もちろん,欧米の占領地でなかった所の住人は,そうした比較もないもんだから,日本は酷かったとしか証言しないし,できないが.

 最善でも最適でもないし,どんぐりの背比べ的比較ランキングでしかない.

 また民間レベルでは,横暴な態度で現地人の反感を買うことが多かったという.
 以下のようなエピソードがある.

 上海に「東亜同文書院大学」という,日本人向けの大学が1901〜1945年まであった.
 この大学では,卒業旅行に中国各地を一人で回り,その見聞を卒業論文に書くという課程があった.
 学生は中国服で,中国人のふりをして旅行することが多い.
 当然,学生は中国語ペラペラである.
 で,その論文には,在支邦人の横暴な態度に憤る現地人のことがよく記されていた.

 ある学生は,満州で列車に乗っていたとき,日本人のガキが数人でやってきて
「オラ,このチャンコロ,おまいがなんでこんな列車に乗ってるんだ,席をあけろ」
と悪態をつき始めた.
 キレた学生は日本語で
「黙れこの厨房がああああ!!」
みたいなことを言ったら,日本人だと気づいたガキは一目散に逃げていったそうだ.

 まあ,個人レベルではいい人もいただろうが.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本本土と海外領土との間には,時差はなかったのか?

 【回答】
 ありました.
 多いときでは5つの標準時が使われていました.

***

 日本の標準時は,現在,東経135度の子午線を平均太陽が通過する時刻を指し,グリニッジ標準時より9時間早くなっています.

 明石市立天文科学館は,その天文台の建物がそっくりそのまま東経135度の子午線上に建てられ,塔時計の真下に赤い線が引かれています.
 因みに日本の完全な中心地は,兵庫県西脇市だそうで,此処には日本へそ公園と言うのがあります(駅もある).

 日本標準時は当初,1884年にWashingtonで開催された「本初子午線並計時法万国公会」の決議で策定された基準に基づき,明治一九年勅令第五一号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」で東経135度の子午線が日本標準時と定められ,1888年1月1日午前0時から適用されました.
 その適用前年の1887年には,官報で標準時は守るべきものである事,そして,県庁所在地との時差が一覧になって掲載されたりしています.

 しかし日本の標準時は,そればかりではありませんでした.
 標準時制定後の7年後,明治二八年勅令第一六七号「標準時ニ関スル件」に於ては,日本標準時は,中央標準時と西部標準時の2種類に増えています.

 中央標準時は,元々の東経135度の線であるのに対し,西部標準時は東経120度の線になります.
 これは,「本初子午線並計時法万国公会」では,Greenwichを起点に15度の経度毎に1時間時差を持つとされていた為です.

 明治28年,即ち1895年と言えば,日清戦争により,日本が台湾やその周辺の諸島を獲得した年です.
 即ち,西部標準時が出来たのは,日本の領土が台湾に拡がり,中央標準時だけでは,何かと不便だったからで,西部標準時は台湾の他,澎湖島,沖縄県の八重山・宮古群島に適用されました.

 1905年,日本は南樺太,関東州を手に入れ,朝鮮半島を勢力範囲に組み込みます.
 これらの地域では,日本の中央標準時が使用されていました.
 しかし朝鮮統監府では,1908年4月から,東経127度30分を規準とした韓国標準時を設定し,これにより,朝鮮半島の時刻は,日本標準時より30分遅くなり,中国沿岸時間より30分早くなりました.

 これはあくまでも一時的な措置で,日本が大韓国を併合する直前の1911年に,明治四四年朝鮮総督府令第一四四号により,1912年から韓国標準時を廃止し,中央標準時を採用する事とされ,満洲地域とは1時間の時差が生じる事になりました.

 以後は日本と朝鮮半島との時差は無くなります.
 今に至るも,日本と朝鮮半島は時差がありませんが,その遠因は実にこの時迄に遡る訳です.

 1919年の南洋群島委任統治が認められると,中央標準時,西部標準時に加え,南洋群島標準時が定められる事になります.
 ヤルート島とポナペ島は東経165度を規準とする南洋群島東部標準時,トラック島とサイパン島は東経150度を中心とする南洋群島中部標準時,ヤップ島,パラオ島は東経135度を中心とする南洋群島西部標準時が採用されていました.

 つまり,その頃の日本には5つの時間があった訳です.

 ところが南洋諸島は兎も角,戦時体制が整えられていく中,日本領土のほんの一部の地域だけ別の時間とする事に不便さを感じたのでしょう.
 1937年9月27日に,昭和十二年勅令第五二九号によって,西部標準時は廃止され,委任統治区域を除く,日本の正式領土は一つの時間に統一される事になりました.

 因みに,満洲は従来通り日本とは1時間の時差がありました.
 これは,満洲はあくまでも日本とは別の国だと言う事を主張したかったのではないでしょうか.

(付記)
 そうそう,明石の天文台を探してたらをこんなもの
http://www.am12.akashi.hyogo.jp/135man.html
を見つけてしまった.
 ちなみに,主題歌はこちら
http://www.am12.akashi.hyogo.jp/135man.mp3
だそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月05日22:30


 【質問】
 日本はかつて中国と韓国を植民地支配したって先生が言ってたんですけど,大韓帝国と満州帝国って日本とは別の国なんで植民地支配じゃないと思うんです.
 学校の先生はおかしな事を言ってるんですか?

 【回答】
 台湾→併合,つまり日本との同化・一体化を目指してた.植民地とは根本的に違う.
 朝鮮→台湾と同様.ただし日露戦争直後は保護国化.
 満州→満州国を立ち上げ,事実上保護国化.ここが一番植民地の定義に近い.
 中国→上海共同租界など.植民地というより海外拠点.飛び地領の感覚に近い.

軍事板


 【質問】
 朝鮮半島と台湾とでは,日本の統治にどのような違いが見られたのか?

 【回答】
 本国で余剰人口となった日本人が大規模に生活の場を求め,朝鮮に進出すると言う事は,結果的に大規模かつ深刻な民族間の軋轢を起こす事になりました.
で,その民族的な軋轢に起因する反発と抵抗に対し,体制側はそれを抑える為に弾圧を強化し,それに対し更に反発と抵抗が起きるという悪循環に陥っています.

 B.C.カミングスはその著書『朝鮮戦争の起源』にて,
「日本は朝鮮の政体の代りに植民地統治機構を,朝鮮人支配層の代りに日本人支配層を,朝鮮語の代りに日本語を,朝鮮人地主の代りに日本人地主を置換えた.
 こうした置き換えの手法は,通常の植民地支配によって発生するよりも更に深刻な民族的対立を齎した」
と指摘しています.

 現在の日本では,朝鮮半島の国々は反日的で,台湾が親日的と言う論調が見られます.

 台湾が親日的なのは,大陸と対峙していた国際環境やら,外省人と本省人との対立,外省人に依る本省人弾圧の歴史,外省人に依る本省人支配構造に対する反発が背景にあるとされています.

 確かに一面ではそう言った面がある訳ですが,そもそも,台湾の本格的な地域開発,人口増加は近代に入ってから行われた訳で,長い間,(中国の隷属下に置かれていたとは言え)統治機構が曲がりなりにも存在していた朝鮮とは異なります.
▼ 外省人も明朝以降に異民族王朝の支配を逃れ,福建や広東から渡航した人々であり,漢族住民の歴史もそんなに長くありません.
 漢族の本省人も,明朝以降に異民族王朝の支配を逃れ,福建や広東から渡航した人々であり,漢族住民の歴史もそんなに長くありません.▲

 又,台湾の先住民に関しては,開発の進展とか漢族の人口増大により,次第に山間部や島嶼部へと集中していき,自然と平野部に居住していた漢族と線引きが為されていきました.

 結局,明確な統治機構が台湾に存在しなかったが為に,日本の占領が行われ,植民地となった際に民族差別や上下支配構造は有ったにせよ,近代化や国土開発の過程で,漢族にも一定の役割を果たす事が出来た訳で.

 しかも,朝鮮がロシアの脅威をもろに受け,常に軍事的な緊張関係を強いられたのに対し,台湾は明確な脅威となる様な強国が存在しなかった為に,日本の軍事行動からは一定の距離を置く事が可能であり,植民地統治は経済開発中心に進んだ事で,台湾全体に普遍的な近代化を進める素地がありました.

 まぁ,後藤新平が総督になったと言う側面も大きかったのかも知れませんが….
 彼はその後,満洲鉄道や関東州での経営も手がけ,満州事変で軍の圧力が増大するまで比較的穏やかな経営が行われた訳で.

 朝鮮半島では人口稠密で,可成り古い歴史がある朝鮮に外国人(=日本人)が多数流入し,朝鮮人の庶民層に対しての社会的・経済的昇進の機会を相当程度失ってしまった.
 更に,その機会を失っていく過程に於て,暴力や屈辱の記憶が伴っているが為に,現在に於ても反発や軋轢が相当残る,と.
 しかも朝鮮民族は中国の影響を受け,外国人に厳しい眼差しを投げる傾向にありますし….

 日本人が屡々,朝鮮半島の人々に対し,植民地への投資によって「近代化してあげたのに」感謝がないのは心外だ,と言う趣旨の発言をしていますが,その「近代化」の「結果」ではなく,その地の民族が主体的に関われるかどうか,と言う「過程」が問題にされているのではないかと言う考えもある訳で.

 確かに,朝鮮半島に色々なインフラを整備した事で,朝鮮半島では,新国家建設の際の投資を最小限に抑える事が出来たのは事実です.
 斯うした投資に対し,その収入は微々たるモノで,結果的に大部分が「持ち出し」になったと言う議論もあります.
 但し,その投資の結構な部分を占めていた鉄道に関しては,植民地末期の時期を除けば,営業収支的には台湾でも朝鮮でも黒字基調となっていました.
 その「持ち出し」自体も,敗戦による植民地解体が無ければ長期的には資本を回収出来る見込みがありました.

 更に,昭和初期の恐慌から日本の重工業が抜け出せたのは,満州事変による満洲市場の急拡大で,工業製品の需要が一気に拡大した事,それによる産業全体への波及があったりします.
 その中には軍事支出と共に,植民地へのインフラ投資の拡大というものも大きく影響していました.
 そう言う意味では,米国的なNew Deal政策と同じ様な事を行っていた様な気がします.
 と言うか,戦後日本の高度経済成長を支えた要因の一つである,地方への公共事業発注に似た側面があるのではないでしょうかね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月14日


 【質問】
 日本にとって樺太と台湾とでは,どっちのほうが重要度が高かったの?

 【回答】
 どちらかというと,台湾でしょうね.
 台湾の植民地としての歴史は,1894年以来なのに対し,樺太は1905年以来ですから.
 しかも,製糖を始めとする投資額は前者の方が多いわけです.

 また,台湾を統べる台湾総督の権限は,大正初期まで陸海軍大中将が任じられ,民政と共に陸海軍を指揮して,台湾防衛をする権限を与えられていました.
 但し,台湾の場合は,台湾総督は拓務大臣の配下に属し,上奏する場合は,拓務大臣を通じて内閣総理大臣経由で行うとか,貨幣,銀行,専売,関税は大蔵大臣,郵便電信は逓信大臣の監督を受けることになっており,権限としては極めて弱いものでしかありません.
 総督の命令である律令,総督府令を発する権限はありますが,制約の多いものでした.
 ちなみに,総督の補佐として,総務長官(旧称民政長官,後藤新平が就いていた)が置かれ,これには,内地の知事クラスが就任しています.

 一方の樺太は,樺太庁の管轄下にあり,最高権限者は,樺太庁長官です.
 樺太庁長官は,兵権を託されることもなく,法律に代わる命令を発する権限もありません.
 この体制は,1943年法律第85号樺太ニ関スル法律ノ特例ニ関スル件廃止により,法律上,内地に編入されることで,終焉を迎えます.
 つまり,内地の一地方官庁として,北海道庁と同列になります.
 但し,完全な地方自治体ではなく,議会を設けることもなく,樺太庁特別会計も,1945年まで継続されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/11/18(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前〜終戦直後の,日本〜台湾間の人や物の流れについて教えられたし.

 【回答】
 バナナと言えば台湾.
 台湾出身者が日本に渡ったのは,日清戦争後の台湾割譲後の話になりますが,日露戦争までの数年間に日本に渡った台湾出身者は非常に少なく,官公吏とか留学生程度で,商人の来日はありませんでした.
 これは台湾を割譲したとは言え,その平定に時間を割かれた為と言われています.

 1907年頃に,海産物貿易商荘玉坡,台湾米貿易商許招春,バナナ貿易商陳輪山,帽子貿易商蔡藍が来日し,商売を開始しました.
 当初の貿易は,台湾米,バナナを売り込んで,日本から綿布,雑貨,海産物,薬用真珠を仕入れ,現地で売る形だったのですが,既にこうした物産の売り込みは内地人商社が牛耳っており,商売としては余り成功しませんでした.
 しかし,帽子の原料である台湾パナマだけは,一種の隙間産業で,内地人商社を寄せ付けることが無かった為,台湾出身者の独占業種の観があったそうです.

 しかし,日本に渡る台湾出身者が激増したのは,1937年の盧溝橋事件以後のことで,日中戦争突入を切っ掛けに,台湾総督府が,台南の安平と台北の新庄でそれぞれ500名の徴集を行い,彼等を軍夫として大陸に派遣した事が原因です.
 亜熱帯で生まれ育った彼等が行かされた先は,華北や内蒙古の寒冷地であり,7月は未だ良いものの,冬になるに連れて彼等が並々ならぬ苦労をしていることが台湾に伝わった為,徴集逃れの為,日本内地に渡航した訳です.
 当時,基隆〜神戸間の船賃は20円ですが,1航海毎に20〜30人が一団となって渡来していました.
 とは言え,身元引受人がおらずに,其の儘台湾に逆戻りさせられた者も少なくなく,運良く上陸が許された者は,大阪四貫島,都島,或いは兵庫の尼崎方面に工員として就職した者が可成り居たようです.
 この様な状態が1940年頃まで続き,統制時代に入りますが,台湾との本土との物資量の格差を利用して,綿布,米,砂糖などで莫大な利益を上げた者もいたとか.

 1940年以降は台湾でも徴用が始まり,南方へ約10万,日本へ5〜6万が送り出され,一部は兵庫や大阪の軍需工場に配属されています.
 敗戦後,彼等は一斉に徴用を解かれます.
 また南方から引揚げてきた軍属もいたりして,神戸は彼等の溜り場となり,これが神戸の治安が悪化する一つの原因にもなっていました.

 こうした中,台湾出身者は台湾人の生活権を守る為,中山手通4丁目に台湾省民会を結成します.
 一方,日本政府の対応は至極冷たく,帰国希望者に現金300円と米3日分(3升),毛布2〜3枚,嗜好品を支給したのみであり,帰国と言っても船便を仕立てる訳でもなく,送還についての強制力もない状態で,更に混乱を引き起こしただけに終わりました.
 彼等引揚げ希望者の世話を実質焼いたのは,台湾省民会であり,在留民への生活物資配給と共に,引揚げ希望者を地元神戸,大阪は元より,東京や名古屋方面からも募って,広島県大竹に集結させ,1946年5月までに数万人を引揚げさせています.

 戦前の台湾出身者の職業の第一に挙げられるのが,パナマ帽原料輸入商です.
 台湾パナマの原料生産地は,台中県の清水街と大甲郡で,商人も此処の出身者が多く,1911年頃は4〜5名だったものが,1919年以後の好景気によって需要が増加し,これに伴い,業者も増加しました.
 1931年頃に同業組合が出来ますが,この時の参加者は42名に達しています.

 この台湾パナマと呼ばれるのは帽子そのものではなく,半製品の帽体になります.
 この材料は,新竹州苑裡で生産される藺草でしたが,1931年頃には本物の藺草に代わって,紙捻りで作った模造藺草(立撚)が利用され,日本で立撚を作り,新竹に送って,此処で帽体に編まれて再輸入されると言う形を採っていました.
 そして,立撚の帽体は外国商館に渡って欧米に輸出されていました.
 この輸出額は1941年までに外国との貿易が停止されるまで,年間800万円を下らなかったと言います.
 この他,彼等は藺草そのものの輸入も手がけ,これらは日本人業者の手に渡って帽子や草履表などに使用されました.

 次いで,台湾出身者が多かったのが真珠商です.

 御木本幸吉によって養殖真珠が開発されたのに目を付けた彼等は,生産地に近い神戸に拠点を置き,1915年以降,台湾,上海,香港を始め東南アジアへの輸出を手がけました.
 当初は,薬用として真珠の輸出を手がけるのが1〜2名程度でしたが,漸次装飾用真珠の扱いを始めます.
ただ,戦前は15名程度の少数が手がけた程度でした.
 敗戦後,進駐軍を始めとして占領軍関係者などの在留外国人に対し,彼等の生き残りが手がけて莫大な利益を上げたので,中には養殖場を持ち,生産,加工,輸出の一貫作業を行う商人も現れました.
 更に,高度経済成長に伴い,日本にも宝石ブームが訪れた為,参入する業者も多くなり,その後,業者数は50名程度にまで膨らんでいます.

 特殊な職業としては,1913年〜1935年の短い間でしたが,台湾芸者と言うのもありました.

 最盛期には,鯉川筋,元町裏,北長狭通4丁目に4件を数え,それぞれに7〜8名の台湾芸者がいたそうで,総数は40名ほどに上りました.
 彼女たちの年齢は17〜23歳くらいで,抱主は民家を借りて一戸を構えていました.
 客は台湾人を始め,福建人や広東人が多く,酒席では料理を外部から取り寄せ,台湾芸者が台湾の歌を歌ってもてなしました.
 勿論,意気投合すると,その館を出て,旅館にしけ込むと言う事もしていたそうです.

 戦後になると,貿易商だけでは無く,様々な業種に彼等は進出するようになりました.

 先ずは,台湾では砂糖が豊富に取れる事から,その砂糖を用い,日本人の職人を雇って製法を会得し,製菓業に進出します.
 パン,饅頭,ウェハース,ビスケット,キャラメル等を作る業者は一時期40〜50軒に上りましたが,現在では淘汰されて,大阪で30軒,神戸では数軒にまで減っています.

 特に,大信実業社長黄万居は,戦後,砂糖を密輸して巨利を上げ,森永製菓や明治製菓,新高製菓を縦横に操りました.
 新高製菓は,株を買い占められて,黄万居に乗っ取られたと言われています.
 黄万居は,その新高製菓の工場で,大量のキャラメルを製造させたほか,砂糖を東京に流して,森永製菓や明治製菓にキャラメルを作らせるなど,一時はキャラメル王とまで言われる実力者に伸し上がります.
 しかし,1950年代,彼は謎の自殺を遂げました.
 彼の会社はその後,息子が継ぎ,現在も盛業中です.

 この他,製菓業では,大阪北区にある楊伝枝の「エー・ワン・ベーカリー」,南区には黄順枝の「北極」,神戸には一時期傾きましたが,日本に帰化した台湾人が経営していた「コトブキ」製菓が有名です.

 台湾と言えばバナナが代名詞になっている程ですが,このバナナが初めて移入されたのは1903年の事.
 此の量が相当多量になったのは1908年以降の事とされています.
 第一次大戦後からは内地の需要は鰻登りに増え,1937〜40年までを最高の消費量を示し,バナナと言えば,夜店の叩売りなんてのが人口に膾炙するくらいだったりします.
 この台湾バナナの移入は,戦前は半官半民会社の台湾青果が一手に握っていたので,台湾人は初期以外に参入できませんでした.
 しかし,日本の敗戦を契機に,台湾は外国となったので,バナナの輸入が再開されたのは1948年に台湾商人が駐留軍に納めたものが最初となります.

 1949年以降,所謂「キズ物」が一般市場に出回るようになり,1950年以降は民間貿易によるバナナ輸入が認められました.
 時に,この輸入には,非商業目的の為無為替輸入,所謂,「ギフト」によるものが多数含まれていました.
 1951年,「慈善,宗教活動及び,教育又は学術振興など,公共目的の目的を以てある物資を海外から寄贈され,その対価を全額寄付することが認められる」と言う発表があり,台湾人はこの制度を悪用して,貨物の売上金中の一部のみを慈善団体や学校に寄付し,その他の大部分を自己の利益にして成金となるケースが非常に増えたそうです.
 流石にこの制度は禁止されましたが,輸入割当に対する不明朗な噂は絶えず,甘い汁は一部の人々を潤したと言われています.

 今も昔も,正直者が馬鹿を見るのは変らないようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/28 21:52


 【質問】
 「南洋興発」とは?

 【回答】
 第1次世界大戦に参戦した日本が得たのが,青島を中心とする山東省一帯と南洋群島です.
 日本が国際連盟から委任統治を委ねられていた,所謂南洋群島は,現在のパラオ共和国,北マリアナ諸島,ミクロネシア連邦,並びにマーシャル諸島共和国を含む地域でした.

 1914年から1922年に至るまで,この地域は軍政下に置かれていましたが,1922年に臨時南洋群島防備隊が廃止され,南洋群島を統治する機関として南洋庁がパラオ諸島のコロールに置かれました.
 本庁はコロールにありましたが,支庁は,サイパン,ヤップ,パラオ,トラック,ポナペ,ヤルートの各地に設置されています.
 その後,日本が国際連盟から脱退しても,日本による統治が続き,1939年には,群島内の全人口13万人弱の内,8万人弱を日本人が占めていました.

 当時,経済,国防上の生命線として位置づけられたのが満洲でしたが,南洋群島も又「海の生命線」と言われて,注目されていました.

 しかし,太平洋戦争では米軍の飛び石作戦により激戦地となり,サイパンを始めとして多くの人々が亡くなっています.

 この南洋群島で,最大の企業だったのが,南洋興発と言う会社です.
 これは,主として東洋拓殖と言う会社の出資により,1921年11月に設立されました.
 当時,日本が南洋群島を占領した頃に,西村拓殖,南洋殖産,喜多合名会社などがこの地域の開発に乗り出しますが,何れも失敗して,撤退しています.

 南洋興発は専務取締役の松江春次の下,先ずサイパン島に製糖工場を建設し,1923年3月に製糖作業を開始しました.
 初年度と次年度の成績こそ芳しくなかったものの,3年目からは事業が軌道に乗り,1930年1月にはテニアン島に第1工場を建設して操業を開始し,1934年12月には第2工場も竣工しました.

 この間,南洋興発が順調に事業拡大を行い,出港税が急増した関係で,委任統治領設置以来,国庫補充金を受けていた南洋庁も.財政の独立を達成する事が出来ています.

 1935年12月にはロタ島に製糖工場が竣工しますが,こちらは成績が芳しくなく,後にこの工場は合成酒工場に転換しました.

 最盛期には,製糖事業の他,酒精や合成酒の製造,燐工業などの各種事業を進め,南洋群島だけで無く,表南洋にも進出して南興コンツェルンを形成するに至りました.
 しかし,先述の通り,日本が無謀な戦争に突入した結果,総ての海外資産を喪失し,閉鎖機関に指定されて解散するに至ります.

 因みに,主力の製糖事業ですが,当時は台湾が中心で,その原料糖産出量は南洋群島の10倍以上あり,規模の差は極めて大きいものがありました.
 しかし,サイパン製糖所やテニアン製糖所の製糖能力は最終的に公称年2,000トンの生産規模を持っており,1つの工場としては台湾最大級の工場に引けを取っていません.

 南洋興発の経営者で専務取締役,後に取締役社長となった松江春次と言う人物は,東京工業学校を卒業し,日本精糖に入社し,やがて斗六製糖,新高製糖と,製糖畑を歩み,南洋興発の設立を主導します.
 1940年には栗林徳一に社長の座を譲り,会長に就任して第一線を退きますが,今でもサイパンの砂糖王公園と言う場所に銅像が残っているそうです.

 ところで,製糖業を営むには,甘蔗を圧搾して砂糖を製造する工場の他,原料である甘蔗を栽培する為に,広大な農地が必要です.
 更に,農場で刈り取った甘蔗を,工場まで輸送する為の軽便鉄道,甘蔗や製糖後の製品を保管する倉庫,出荷の為の船着き場や桟橋などの施設も必要です.

 こうした施設で働く人々の殆どは,南洋諸島以外の移民であり,特に沖縄からの移民が最も多かった様です.
 1935年頃までには,家族を含めると2万人以上の移民がサイパン,テニアン,ロタ等に移住し,南洋興発やその関係会社で働く事になりました.

 工場の労働者は,社員と現業員に分かれ,社員は更に事務系と技術系に分れています.
 何れも,平社員で入った後,書記補・技手補→書記・技手(何れも主任・課長クラス)→参事・技師(所長・工場長クラス)→参与→取締役と言う形で昇進していきます.
 現業員は,特に農場での労働者は,小作人若しくは準小作,更にその下で働く人夫に分れていました.
 因みに,定款上の本社はチャランカノア(後にパラオのコロールに移転)ですが,実質上の本社機能は東京事務所が果たし,サイパンでは工場の責任者として駐在役員が執務していただけでした.

 サイパン製糖所は,サイパン島のチャランカノア地区(後にチャランカ町)に設置されました.
 これはチャランカ沼の側であり,淡水の乏しい南洋において,工場用水として沼の水が利用出来る上,海にも近く,汚水の排水にも製品の搬出にも極めて便利でした.

 工場の周囲には事務所,倉庫等の他,社宅など数十棟の建物が建設されました.
 社宅街には,サイパン駐在の重役社宅,幹部級社宅から現業員用の4戸一の長屋まで,更には独身寮などが建設された他,倶楽部,食堂,酒保(売店),医務室,幼稚園,従業員用浴場,テニスコートまでありました.
 テニスコートは,製糖期には夜間もテニスが出来る様,ナイター設備も整えられていたようです.

 倶楽部には,図書,ラジオ,ビリヤード,囲碁,将棋,麻雀なども行える他,活動写真や芝居なども行って,知識涵養を図ると共に娯楽慰安に供していたと言います.
 また,集会所としての機能も備えるなど,娯楽の少ない南洋では重要な施設でした.
 更に倶楽部は宿泊も可能で,群島に来た様々な旅行者が泊まる他,小学校教員の宿舎としても用いられていましたし,後には社長の松江がサイパンに出張した際の宿泊部屋も建て増しされました.

 南洋群島内の初等教育機関としては,日本人向けの尋常小学校(後には国民学校)があり,これには高等科も併設されました.
 現地住民向けには公学校が設置されています.
 チャランカ町には社宅街の中に小学校はありませんが,南端にチャランカノア小学校が設置されました.
 サイパン島には,行政の中心であるガラパン町に小学校がありましたが,チャランカ町からは離れていました.
 かと言ってそこに小学校を設置しないのは,多くの労働者を抱えるチャランカ町を無視する事になり,住民サービス面からも良くありませんし,南洋庁としてもその辺りを配慮したものと考えられます.

 一方,テニアン島ソンソン地区(後にテニアン町)には,南洋興発最大の製糖工場であるテニアン製糖所と,酒精工場が設置されました.
 こちらの工場は,淡水を得る為の沼が内陸にあったのですが,製品搬出の利便性と排水の便から,海沿いが選択されたと考えられます.
 水の問題については工場設備の冷却に淡水を使わず,海水を用いる事で解決しました.

 テニアン町の社宅街は,工場の背後一帯の土地で,ソンソンの海を一望の下に収める風光絶佳の傾斜地を利用し,工場に並んで最下段に大倉庫7棟,軽便鉄道の機関庫を設け,その上段の傾斜地に事務所,倶楽部,医務室,酒保などを始めとし,70棟に達する社宅,20棟の附属建物を,1926年10月から4万人の人工をかけて,1929年末に総て完成させました.
 また,第1工場に隣接して第2工場を建設し,社宅を更に建設した為,社宅街は周辺部に広がり,住宅街の東側に隣接して,行政機関などが集まるテニアン町の市街地が形成されていきました.

 概ね,チャランカと同様の施設が此処にも建設されましたが,倶楽部には武道場が併設された他,医務室は移民の健康状態に細心の注意を払うべく,レントゲン装置などの一通りの装置を備えた他,産婆も数名置いていた様です.

 教育については公教育の他,南洋興発による従業員育成の為の機関として,補修学校,徒弟学校,専習学校が設置されました.
 補修学校と徒弟学校は,青少年従業員の職業教育の為に,サイパン,テニアン,ロタに設置され,社員を講師として,夜間に1時限50分で週17時限の講義を行い,修業年限は2年でしたが,1年修了時に,専習学校への受験を可としていました.
 その専習学校は,更に中堅技術社員の育成を目的にテニアンにのみ設置され,修業年限は3年,全日制,全寮制でした.
 何れの学校も,学費は無料で,諸経費は社費で賄っていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/13 23:21
青文字:加筆改修部分

 さて,南洋興発の続き.

 ロタ島にはロタ製糖所が置かれていました.
 これは,ロタ島のソンソン地区(後にロタ町となる)に設置されていましたが,島中央部のサバナ高地には燐鉱の採掘場があり,テルノン地区には燐鉱工場を含む南洋興発燐鉱課がありました.
 製糖工場の設置場所は,島の北部に珊瑚礁が発達しており,その周辺では波が静かである事から,テニアン島と同様に運搬を優先し,海水を冷却水に用いる事を前提に選定されたようです.
 この工場は,サイパンやテニアンよりも小規模で,後に合成酒工場に転換されたので,社宅街も規模の小さいものでした.

 社宅街は,海岸に建つ工場を見下ろす南側の高台に立てられ,景色が良く,風通しも良い場所となっていました.
 一方,原住民を強制移住させて形成されたロタ町の市街地は,社宅街から少し離れた高台の東側の麓に有り,行政機関や小学校は,この市街地に建設されました.

 このロタ島にあって,サイパンやテニアンに無かったのが簡易上水道です.
 多くの南洋群島の島々では,上水道の為の水源地を確保するのが難しかった為,住宅や各種施設には天水タンクが必須の装備でしたが,ロタ島では当初から島中央部に湧水が発見された事から,ソンソン水道が建設され,工場,社宅街,市街地への給水が為されていました.
 但し,天水タンクも併用されたようです.

 南洋興発が開発した工場の周辺に整備された社宅街の構造は,海岸側に工場が立地し,海岸と並行して軽便鉄道の軌道が配置され,その背後に社宅街が広がっています.
 社宅街の中でも,売店や医務室などの施設は,比較的工場に近い側に配置されました.
 社宅街の社宅は,幹部級社員用,一般社員用,現業員用等の各階層毎に配置されています.
 但し,チャランカ町では幹部級社員の社宅が,社宅街の中心付近且つ工場の近くに建設され,それを取り囲むように,一般社員や現業社員の社宅が建設されていたのに対し,テニアン町とロタ町では,幹部級社員の社宅が工場から遠い位置に建設されています.

 また,甘蔗用の農地は,幾つかの農場や農区に分けられ,各農場の中心部に農場事務所,小学校,巡査駐在所,売店の分店,倶楽部,医務室の分室,理髪所,浴場などが建設され,小さいながらも社宅街が形成されていました.
 勿論,規模にもより,小規模の農地や農区では総ての施設が整っていた訳ではありません.

 農地と工場を結ぶ軽便鉄道は,恰も戦前期の私鉄と郊外住宅地とのそれを思わせるような関係で敷設されており,各農場の中心部と各製糖所の工場,社宅街を結ぶ役割を担い,ネットワークが形成されています.

 ところで,こうした社宅は,殆どが木造ですが,チャランカ町のそれは鉄筋コンクリート造りのものであり,共同便所でさえも同じ構造となっています.
 1939年7月のセメント1樽の小売価格はサイパンでは7円43銭4厘,関東のそれは1樽相当で3円38銭ですからほぼ本土の倍します.
 輸送距離に応じてセメントの価格は上がり,ヤルート島では1樽10円に達しました.
 にも関わらず,鉄筋コンクリートを採用したのは,1つは防火対策,これは関東大震災で東京に出火した砂糖を焼失させた経験によるものと言われています.
 また,同じ南洋群島内のヤップ島で,台風の被害を受けて建設された鉄筋コンクリート造の官舎の影響とか,白蟻対策などの理由も考えられます.
 更に,サイパンは南洋興発の中心的な事業所であることから,他地域との差別化を考えた可能性もあります.

 南洋群島は,北緯0〜22度(東経130〜175度)とほぼ赤道直下に有り,月平均気温はおおよそ26〜28度であり,海洋性の熱帯性気候或いは亜熱帯性気候を呈しています.
 こうした気候に対応する為,住環境には様々な工夫が見られました.
 チャランカ町やテニアン町社宅街の幹部級社宅では,応接室のみ外に張り出し,この部分と玄関が鉄筋コンクリート造で,他の部分は木造でした.
 こうした構造を採用したのは,応接室の風通しを良くする為に前方に張り出して三方に開口部を設ける一方,直射日光に晒される事になるので,鉄筋コンクリート造にする事で,断熱性を高めようとしたと考えられます.

 また,南洋興発の社宅は,現業員社宅でさえもベランダが設けられています.
 本土や他の植民地ではそんな事例は殆ど見られませんが,南洋群島では,官舎も含めてベランダの設置は一般的な事でした.
 これも,直射日光を避け,風通しの良い空間を確保したい為であると推定されています.
 但し,ベランダを設けた事により,他の地域の社宅街と広さは同じでも,南洋興発の社宅は概ね1部屋ずつ少なかったりします.

 更に,南洋群島の建物は風通しを良くする為と,白蟻や百足等の侵入を防ぐ為に,土台を高く取っていますし,総ての場合で小屋裏換気口を設けていて,ベランダと共に社宅の建設の際に熱帯性気候に対する配慮が伺えます.

 屋根は,内地や台湾,朝鮮,樺太などの地域では,瓦葺きが多いのですが,南洋興発の社宅は殆ど総てが亜鉛鉄板葺きになっています.
 これは,そこに降った雨を雨水タンクに貯める必要がある為でした.

 南洋興発の姿は太平洋戦争と共に消滅しましたが,その影響は現在でも随所に残っています.
 現地住民が生活するチャランカ町,テニアン町,ロタ町は町の名称こそ変わりましたが,その骨格は,南洋興発時代に作られた社宅街と,それと共に開発された市街地の区画の上に建設されています.
 現在のこれらの地は,観光業主体に大きく産業転換を遂げた事から,製糖業関係の施設は残っていても使われてはいませんし,軽便鉄道は観光道路へと姿を変えました.
 一方で,生活に密着した社宅のうち,戦火を生き延びたものは,増改築されつつも未だに使われている事が多かったりします.

 今の日本の家の寿命は僅か20年と言われ,それを50年,いや300年に伸ばそうと言う動きがやっと出て来ています.
 しかし,南洋の過酷な環境でも,90年近く前に建設された家が未だに使われていたりする訳で,つくづく,戦後の高度経済成長による,家のマスプロ化の弊害は大きいのだなぁと思ってしまいますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/14 23:19


 【質問】
 パラオに行きたいんですが,どうやって行ったらよろしいでしょうか?
 1年くらい滞在したいのですが,ビザは要るんですか?

 【回答】
 パラオなら成田から航空機だ.
 1年滞在ならおそらくビザが必要.
 ネットで在日パラオ大使館を調べて,長期滞在ビザを発行してもらい,行けばいい.
 ただ,あそこは日本語は結構通じる(もと南洋諸島)が,物価はアメリカ並みだ.
 1年滞在すると300万は必要じゃないか?

 安いところがいいなら,バリ島(インドネシア),プーケット(タイ)がおすすめ.
 特にバリ島は物価が安く日本語が余裕で通じる.
 1泊500円くらいからだ.
 英語が話せればなおよし.

軍事板,2009/06/12(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 以前ネットのどこかで
「タンネンベルク包囲戦の戦訓は,満州の鉄道網設置に影響を与えた」
というような記述を読みました.
 どうやら
「タンネンベルクでのドイツの勝因は,発達した鉄道網によって機動性を確保できたことにある」

「日本陸軍の仮想敵国はソ連なので,予想戦場である満州にドイツ同様の鉄道網を敷設する必要があった」
ということらしいのですが,それは本当なのでしょうか?
 もし本当であるならば,実際に満州鉄道網敷設にあたって満鉄などと交渉にあったた軍人が誰であるとか,どのような経緯でどのような影響があったかなどが知りたいのです.

第101旅団 ◆fGVS7EgVVc :軍事板,2005/07/30(土)
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 ざっと資料を眺めてみた限りに於いて,満鉄の鉄道網設置が日本陸軍の影響を受けたことはありません.
 細かい枝線についてはもしかしたらあったかもしれませんが….

 そもそも,満州に於ける鉄道網は,
・ロシアがシベリア鉄道の枝線としてチタから哈爾浜を経てウラジオストクに敷設したものと,更に哈爾浜から南下して旅順,大連に敷設したもの
・英国が敷設権を持って敷設した,奉天から天津を経て北京に至る路線
・日本が朝鮮半島から北上して南満州鉄道に接続するために敷設したもの
です.

 その後,日露戦争によって南満州鉄道を得ていますが,北部は長らく(1935年頃まで)ロシア,ソ連が運営しています.
 これに対して,日本が影響を及ぼすことは出来ません.

 また,第一次大戦後,日本の満州進出が露骨になるに従って,英米独の協力の下,張学良は中華民国との連携を図るため,日本の進出の基となっている南満州鉄道を潰すべく,中国東北鉄道委員会の「満鉄包囲網線」計画を推進しています.
 これが1928年のことで,その路線は満州地域を東西に貫き,錦州に至るものでした.
(ちなみに,敷設資金は英米が出し,錦州と南葫廬島には,1930年5月からドイツが大規模な港湾を建設し,満州地域の産品は大連を通すことなく,輸出が出来る様にする予定でした.
 この路線完成後,満鉄経営に甚大な影響を与えています.)

 満州国建国後,やっと,これらの満州国有鉄道線が満鉄に委託されていますので,これ一つからして,軍部の意向を反映するのは難しいのではないか,と思いますね.

 ついでに,満鉄はその経営については,関東軍の干渉を巧みにあしらい,彼らの影響を極力排除するのに,国家総動員体制が確立するまで避けています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/30(土)
青文字:加筆改修部分

 詳細な回答ありがとうございました.
 自分でも色々調べていたのですが,おっしゃるように満州事変以前に日本陸軍が満州の鉄道網全体に対して影響力を及ぼすことはほとんどありえなかったようですね.
 満州国建国後は陸軍の露骨な影響があったとする研究もあるようですが
原田勝正(元和光大学教授)
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai99/tz9907.htm
それは陸軍が理想とした包囲殲滅戦思想の影響ではなく,単なる兵員輸送路の確保という目的のためだったことが伺えます.
 ただし,満鉄としては軍部による介入を快く思ってはおらず,少なからぬ抵抗があった,とも上記の論文では書かれています.
『満州国「政府」から鉄道経営を委託されている満鉄に対して,日本国「政府」からならともかく日本 「陸軍」が介入するなど筋違いだ』
というのが彼らの言い分だったようです.

第101旅団 ◆fGVS7EgVVc :軍事板,2005/07/31(日)
青文字:加筆改修部分

満州鉄道社章
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 満州事変以前における日本の中国大陸における租界・取得権益,部隊駐留状況を教えて下さい.

 【回答】
 領土に準じる租借地としては関東州がありました.
 これには一定の期限があり,租貸国の潜在主権が残されるものです.
 関東州は,1898年からロシアが25年の期限で租借していたものを1906年の日露講和条約に基づき,明治三九年満州ニ関スル日清条約によって引き継いだものです.
 この租借期限は1915年の「南満州及東部内蒙古ニ関スル条約」で,期限を1898年から99カ年に変更しています.
 また,租借地としてはこのほか,ドイツが租借していた膠州湾租借地を1920年から1922年まで存在していました.

 一部統治地域は,行政権のうち,軍事外交裁判警察以外の権利は満鉄が行使していた,所謂南満州鉄道付属地帯がこれに当たります.
 これは統治権全部が日本にあった訳ではなく,日本人以外の民事刑事の裁判権は中国が持っています.
 満鉄付属地は,大連〜長春と安東〜奉天の間の鉄道沿線で,関東州外鉄道の両側を併せ62.1m(本線で最広426m72cm,最狭で42m67cm,安奉線で最広36m10cm,最狭16m76cmの帯のような地形と若干の市街地です.

 租界(居留地)は,中国の領土でその主権下にある土地ですが,実際の行政,即ち警察,衛生,道路,建築,課税は日本側で行われ,その権限は条約に基づくものと慣習に基づくものとがありました.
 租界は,英国租界から発展した上海の共同租界では,市の行政に参画する参事会員14名中,2名が日本人でしたし,日本租界は天津と漢口にありました.
 他に,日本の租界設置権限は厦門,蘇州,杭州,沙市,福州,重慶にありましたが,利用困難の為,設置しませんでした.

 駐留部隊としては,満鉄付属地と関東州警備のため,1919年以降関東軍を置きました.
 このほか,天津軍を置いて中国租界の警備を行っています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 満州国の郵便事情は?

 【回答】
 柳条湖事件に端を発した満州事変で,関東軍は,1931年の年末までに東北部の殆どを占領します.

 しかし,中国東北部に於ては元々,1928年の満洲易幟により,中華民国の一部として中華郵政の領域に入っていました.
 ところが関東軍の占領後も,郵便事業については明確なビジョンが関東軍側になく,中華郵政がずっと郵便事業を続けることになります.

 これは1932年1月の錦州陥落以後,東北部全土が関東軍の占領下にあっても,海関と郵政はそのまま存続していました.
 と言うのも海関は,列強に対し中国が負った賠償や内外債償還の担保で,列強諸国の管理下にあった為,日本も無闇に手出しが出来なかったですし,中華郵政については,清朝が倒れ中華民国が出来た時や,軍閥の内戦に於ても,各勢力からその中立性が認められ,満洲地域を含む,中国全土の郵便事業を一括して中華郵政が担うことが暗黙の了解事項となっていました.

 とは言え,名目上,日本は中国から東北三省を独立させ,満州国と言う新国家を樹立した訳ですから,独立した郵政事業を発足させる事を考えます.

 当時,吉林省と黒龍江省は哈爾浜にある吉黒郵政管理局が担い,奉天省は奉天にある遼寧郵政管理局が担っていました.
 これらの管理局長には外国人が就任しており,奉天はイタリア人,哈爾浜は英国人でした.

 これを接収して郵政事業を展開しようとした訳ですが,その矢面に立ったのは,関東庁逓信局です.
 この関東庁逓信局は,日本の租借地であった関東州と満鉄付属地の電信・電話を統轄していた機関で,中国側との交渉に於て,外国人局長の留任,一般職員の継続雇用,郵貯(当時100万円の貯金額があった)の新国家の支払保証をすると反面,施設,資金の押収すると言う条件を付け,かつ,中国政府と新政府の紛争は関東庁逓信局が斡旋すると言う案を作り,1932年3月に関東庁逓信局,奉天の日本領事館,関東軍の協議で承認され,本国の閣議決定を経て,4月1日に実行に移されました.

 ところが,中華郵政側は日本側が接収を強行するなら,郵便・為替・貯金業務を完全停止すると通告して抵抗.

 当時,Lytton調査団が来満していた事もあり,日本も手荒な真似は出来ず,4月25日に東三省の郵政は現状維持で,職員待遇も従来通り,郵便料金,取扱方法,規定,記帳法,中国本土や外国との郵便交換も従来通り,収支は満州国の検査を受けるものの,剰余金は哈爾浜,奉天の郵務長が保管,為替は臨時規定で対処,貯金は別に協議すると言う妥協で,日本側(満州国側)は中華郵政を接収し,中華郵政としては一体化した運営を継続するという玉虫色の妥協が成立しました.

 因みに郵便料金については,当時中国は世界最大の銀保有国でしたので,銀本位制が取られていました.
 但し,紙幣は雑種幣制だったため,1926年秋の蒋介石の北伐以降,東三省の紙幣は銀貨に対して暴落,東三省の紙幣1円が本土の銀貨8角(中国の通貨単位は1円=10角=100分)に下落した為,東北の1円で切手を購入し,それを1円分の切手として,上海や南京に持って行って換金して差益を得る投機が横行する様になりました.
 何と言っても中国郵政は,全土で統一的なサービスを展開していましたから….

 このため,東三省で発行された中華郵政の切手には,「限吉黒貼用」と言う文字を加刷し,これは東三省だけで通用する様にしていました.
 ですから,中華郵政的には余り痛手を受けませんでした.
 ただ,消印は民国歴になっていた為,満州国側が不快感を示します.
 とは言え,大同年号を使えば今度は本土側が反発しますから,結果的に,6月以降消印は西暦で日付表示をすることで妥協が成立しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月26日22:22

 中華郵政の接収と並行して,満州国は独自の切手を発行する事で作業を進めます.
 しかし,切手の正式な発行日も決まっておらず,何時必要になるか判らなかったので,日本で印刷されたそれの最初のロットは,オフセット印刷に普通紙で納品されました.

 日本切手の様に,凹版印刷に透かしと毛紙を使った手数のかかる切手が発行されたのは,1934年以降になります.

 切手の作成等と前後して,満州国に郵便事業を管轄する郵務司が交通部の外局に設置され,万国郵便連合への加盟も申請され,愈中華郵政の接収が始まります.
 この時の条件は,中華郵政接収後に発生した経済損失の補填,
 中国側の上海(郵政総局の所在地)からの東三省への職員増強への反対と,南下希望者の名簿提出要求,日本人監察官を奉天と哈爾浜に派遣を満洲側が出していました.

 しかし,万国郵便連合は1932年6月25日に満州国の加盟却下を通達します.

 不利な満洲側ですが,既成事実を盾に交渉を続け,最終的に新切手の発行と中華郵政切手との等価交換の実施,為替の満州国移管と東三省地域での中華郵政の為替の無効,南下職員への不干渉,郵政監察官の派遣と南下希望以外の職員達への現状地位の維持と言う条件が中華郵政の東三省代表と満洲側代表との交渉で合意されました.

 これで満洲側(日本側)は安心し,8月1日には新切手発行と高を括っていたのですが,7月23日に南京の中国国民政府交通部は声明を発表し,東三省の郵政全面閉鎖を宣言します.
 奉天の郵政管理局では,局長が最後の仕事として局舎の正面に閉鎖告知文を掲示.

 そして,7月25日までに満洲側の担当者が奉天の郵政管理局に駆付けると,局内は5〜6人の守衛がいるだけで,残りの職員は逃散してしまいました.

 満洲側の郵政最高責任者(日本の逓信省工務局庶務課長が出向)等幹部は周章狼狽しますが,取り敢ず体裁を整える為,新切手の発行を1日休んだだけの7月26日から開始することになりました.

 で,7月26日に郵政の再開を内外に喧伝するのですが,郵政事業の大半を占めていた中国系職員がいなくなったために,実質的な業務は出来ず,奉天郵便局の売上は,切手150枚(70組程度),葉書26枚,小包引受1個で為替に至っては引受0と惨憺たる有様でした.

 さて,こうなると翌日から業務が停止するかと言えば然に非ず.
 郵政管理局には,逃散した職員に代わって自分を雇って欲しいと言う求職者が殺到し,警官隊が出動する騒ぎになりました.

 こうして,満州国の郵政は多難なスタートを切った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月27日21:31

 1932年7月,中華郵政は,東三省地域からの撤退に当たり,次の様に声明を出しています.

 業務停止期間中,欧米各地宛の郵便物はシベリアを経由せず,スエズ運河あるいは太平洋経由で逓送する様改め,万国郵便連合加盟国の郵便局は,中国と各国との往来郵便物もこれに準じて扱って欲しい.
 東三省に於て発行される切手は,中国郵政総局の許可を得ずに発行されたものであり,これは絶対に承認せず,この種の切手を貼った各種書状や小包は,全て料金不足として処理する.

 この声明に従って,満州国から差し出された郵便物は,山海関以南に逓送された場合,差出人に変装するまでに至りませんが,其処に貼付されている切手は無効として扱い,中国側では料金未納郵便として扱われ,受取人は不足金額を納付して受け取ると言う様な形になっていました.

 この措置が執られたのは,基本的に中国のみで,他の万国郵便連合加盟国は,満州国の切手が貼られた郵便物であっても,料金未納とはせずに受付けています.
 但し,その扱いは,満州国の承認国以外は,日本国の属領で発行されたものと見做していたようです.

 とは言え,満州国が東三省と熱河省を統治しているのは間違いない訳で,何時までも意地を張って,料金未納扱いにするのも中国としても,この地域との経済活動を益々日本側に追いやってしまいます,
 しかも,塘沽停戦協定の発効で,事実上満州国の支配を追認せざるを得なくなると,中満間の郵政当局で協議が行われ,1934年11月24日に,満華通郵協定が両国との間で締結され,1935年1月から,満州国と中国との郵便物交換が再開されることとなりました.

 この時定められたのは,妥協の産物で,中国側が満州国の切手や葉書の有効性を認める代り,中国宛に満洲から差し立てられる郵便物には,満州国(後には満洲帝国)の表示を用いない,満州国の年号を用いない,満州国になった際に改名された都市名の消印を用いないと言う条件が付きました.
 これに従って,満州国側は,満華通郵切手と呼ばれる,国名なしの専用切手を発行します.

 ただ,そんな事を知らない一般庶民や,末端の郵便局で中国宛の郵便物を,知らずに消印作業することもあります.

 そんな場合は,中華郵政側は違反部分(郵便物の国名の文字や年号など)を塗りつぶし,切手の場合は未納扱いにしていました.
 が,この未納となった郵便料金は受取人負担ではなく,中国側の窓口であった山海関の交換局で負担していました.

 対外的にはこんな感じで,国としての体裁を一所懸命整えていた満州国ですが,一方,日本との関係はどうか,と言うと,満州国は中国から分離独立したと言う体裁を為している為,本来ならば,1922年締結の日支間郵便物交換約定,日支間価格表記書状及び箱物交換約定,日支間小包郵便物交換約定,日支間郵便為替約定をそのまま継続した上で,必要ならそれを改訂すると言う形を取らねばならないのに,これらは全て廃止され,1935年12月26日に調印された,日満郵便条約で新しく規定されました.

 一般に郵便関係の条約は,1922年の日中間の様に,各郵便物や為替を別々の約定で規定するのが慣例ですが,満州国と日本の間は,一つの条約で規定されていると共に,その条約に於て,日本と満州国を「単一の郵便境域」と規定していました.

 「単一の郵便境域」というのは,万国郵便連合憲章では,「万国郵便連合の文書の締約国が継越の自由を尊重した上で通常郵便物の相互交換を確保し,及び他の領域又は地域からの継越郵便物を差別することなく自国の郵便物と同様に取扱う義務を負う地域」となっています.

 即ち,その国から見て,「国内」扱いで郵便を届ける範囲であり,単一の郵便境域内の郵便料金には,基本的に国内便の料金が適用される訳です.

 と言う事は,日本からすると,「満州国の支配地域は,国内の一地方」と宣言した事になったりします.(あれ?

 更に,条約では日満間の郵便制度を可能な限り統一する事も謳われていました.
 当然,日本の制度を弄る事は全く考えていない訳ですから,これ又,満州国郵政其の物を日本の制度に合わせると言うものです.

 郵便一つ取ってみても,日本が主張していた,満州国は独立国だ,と言うのは根拠に乏しいモノだったりします.

 とある事件の某弁護団の様に….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月28日22:25


 【質問】
 満鉄付属地の郵便事情は?

 【回答】
 ポーツマス条約により,東清鉄道の一部を承継した日本は,ロシアからその鉄道付属地の権益も継承します.
 これが満鉄付属地と呼ばれる地域です.
 この地域は,南満州鉄道が土木・教育・衛生などを担当していましたが,名目上は中国の主権下にありました.
 実質上は,中国から見れば治外法権地域に相当していましたが….

 序でに,関東州も租借地として継承しますが,こちらは日本の主権下にある地域として,関東都督府(後の関東庁)の管轄下に置かれ,その都督府配下にあり,関東州を防衛する為の駐留日本軍が,後の関東軍になっていきます.

 当時の中国には,彼方此方に列強各国の租借地,租界,治外法権地域が存在し,彼らはその治外法権を援用する形で,中国の主要都市に自国郵便局の出張所を設け,自国に差し立てる郵便物は,国内扱いとしていました.

 1922年に漸く,中国の主権尊重,領土保全と門戸開放を原則とする九ヵ国条約が日本,英国,米国,フランス,イタリア,オランダ,ベルギー,ポルトガルと中国との間に締結され,年末限りで各国が設けていた郵便局を閉鎖する事で同意します.
 日本の場合,65カ所の郵便局,93カ所の切手売捌き所,148カ所のポストを撤去しています.

 閉鎖されたと言っても,租借地の郵便局は其の儘だった訳ですが,此処で問題になったのが,満鉄付属地の問題です.
 日本側が,租借地と同等と主張したのに対し,中国側は鉄道の付属地という特殊形態の所有地なので,中国の主権下にあると見做すとして対立.

 結局,この地域の扱いは継続審議事項となり,付属地内には日中双方の郵便局が設置され,満鉄付属地相互の郵便物は,中国側の料金より低くする事は出来なくなりました.
 そのため,関東庁郵政局では域内専用の葉書を作成したり,また,付属地から中国宛の郵便物を差出す時は,中国郵政発行の切手を用いなければならないのですが,日本側から差出した場合,日本側で切手を貼り替えて中国側に引き渡す方法が採られていました.
 この為,日本側は貼替え用の切手代を予算計上しておかねばなりませんでした.

 さて,関東軍の影響下に満州国が出来た後,付属地の扱いは微妙となります.
 元々の関東軍の存在意義は,外敵から満鉄や関東州を守ると言うものでした.
 ところが,関東軍の影響下で満州国が成立してしまうと,その満鉄付属地周辺には敵がいなくなります.
 そうなると,付属地の存在意義も無くなりますので,1937年11月5日に「満州国ニ於ケル治外法権ノ撤廃及南満州鉄道株式会社付属地ノ行政権ノ委譲ニ関スル日本国満洲国間条約」により,12月1日を以て満鉄付属地の返還が決定され,満州国に於ける日本の治外法権は消滅しました.

 但し,関東州は従来通り日本の租借地となっています.

 こうして,付属地内の日本の郵便局は閉鎖となり,付属地でも日本切手に代わって満洲切手が使用する事になりました.

 ところで,治外法権撤廃の為には,満州国が法治国家であるという体裁がなければなりません.
 このため,満州国では日本法を元にして,刑法,民法,民事訴訟法を公布した他,1941年には日本の治安維持法と同じ治安維持法が公布されました.

 因みに,日本の官僚達は,満洲人や中国人から「法匪」と揶揄されるくらいの多量の法律を作りますが,近代国家には必ず有る筈の憲法は公布されず,また,満州国の国民の資格,国民の国家に対する権利と義務を定めた国籍法は存在しませんでした.

 尤も,日本の国籍法は二重国籍を認めていなかった為,国籍法を作ってしまうと,在留邦人は満洲国籍を取得しなければならず,そうなると,日本国籍は喪失してしまう訳で…この為,国籍法は作られなかったのだと言う説があります.

 但し,満州国人民の権利・義務に関しては,1934年に公布された人権保障法が規定していました.
 とは言え,その前文には,その適用は「戦時若しくは非常事変の場合を除く」とされており,実質上機能していないと言っても過言ではなかったかも知れません.

 更に付属地の返還は,国家としての制度的な整合性を取る為に各方面に影響を及ぼしていました.

 赤十字もその一つで,満州国には1934年に溥儀が皇帝となった際の下賜金100万円を元にした恩賜普済会が活動していましたが,付属地と関東州は日本国の延長と言う事で,日本赤十字社満洲委員本部が活動していました.

 赤十字の活動は,戦地・紛争地のあらゆる攻撃から無条件で保護される為に,標章は赤十字社のみが使える事になっています.
 また,赤十字の加盟国では赤十字社とそれに相当する組織は一つの国の中で単一でなければ成りません.

 このため,付属地が返還されてしまうと,日本と満洲双方の赤十字が併存してしまい,赤十字の大原則に抵触してしまう為,関東州以外は,1938年10月1日に満洲側の恩賜普済会と日本側の日本赤十字社満洲委員本部を統合した財団法人満州国赤十字社が誕生します.

 但し,これまた満州国赤十字社は国際赤十字の正式メンバーになれなかった為,あくまでもこれは私的機関に過ぎませんでした.
 とは言え,満州国の領域内で赤十字活動が出来ないのは問題なので,国際赤十字は,満州国赤十字社の存在を黙認するという立場を取った訳です.

 黙認された存在とは言え,一応,国際機関のお墨付きを得た事は満州国にとって,国際社会との交流窓口が出来た事を意味し,目出度いと言う事で,その設立日には大々的に祝賀行事をしたりしています.

 それ自体,冷静に考えれば,非常に空しいものなのですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月29日21:58


 【質問】
 大東亜共栄圏とはどこからどこまでを想定していたのでしょうか?

 【回答】
 大東亜 の「大」っていうのは「印度を含めて」という意味がある.
 なので中東地域とシベリア以外の全アジア,オーストラリアとニュージーランド以外のオセアニア,という事になる.


 【質問】
 祖父が入っていたらしいのですが,大東亜練成院(拓南塾)の目的,教育内容,受験難易度について教えて下さい.
 配属将校の推薦が必要だったとか,陸軍大臣が開校式に来たとかいう話を聞きました.

 【回答】
 軍関係ではないと思われ.
 推定ですが,南洋植民地の統治官僚を養成するための学校だと思います.
 現在の拓殖大学が,台湾統治の為の人材を育成するための学校だったので,その南洋版と考えれば良いのではないか,と.

 当初は,拓務省配下の関係団体でしたが,後に大東亜省直轄の大東亜錬成院になっています.
 ちなみに,拓南塾は,東京都北多摩郡小平村(今の小平市)にあったようです.
 大東亜錬成院長は,1943年現在,幣原坦文学博士(大阪出身,台湾帝大名誉教授)で,台湾帝大初代総長,幣原喜重郎の兄で枢密顧問官も勤めた人.
 拓南塾長は,宍戸好信(大東亜錬成院顧問,山口出身,海大卒の海軍中将)だそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/22(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
「日本は,風水で占領地の運気を下げる立地を選んだ施設なんてのを作ったりしてまして,設備の良し悪しはともかく,現地人には存在自体が迷惑極まりなく撤去資金を請求したいくらいの物もあったと思われます」
という話をたまに聞くのですが,本当なのですか?
 そんな当てにならない呪術的いやがらせの為に,貴重な資本や時間を使ったとは思えないのですが.

 【回答】
 ウソ.

 今の日本の「風水」(荒俣氏やDrコパのはまた別物)が成立したのは江戸末期〜明治中期にかけてのことで,流行を形成した後定着(「北玄関は避ける」「大安は吉日」とか)していきます.
 この「風水」は陰陽道の一分野である地理風水と古暦を元に,個人レベルでの土地・建物や日時方角の吉凶に関するマニュアル的な要素を強く打ち出したのが特徴で,柳沢照覚の「地理風水家相宝鑑図解」(明治42年)のように,ベストセラーとなって昭和初期に至るまで増補改訂版が続くものもありました.
 故に「戦前日本では風水は知られていない」は誤解です.

 但し「日本は,風水で占領地の運気を下げる立地を選んだ施設…」については,以下の理由から(少なくとも朝鮮半島では)意図的なものでは無いと考えられます.

 1: 西欧化・近代化の一環として,朝廷/日本政府は陰陽道・風水を放棄していた(1870年 陰陽寮の廃止)
 2: 日本の「風水」(民間レベル)は封建制や土縁社会を背景としたため,陰陽道や朝鮮風水の持つ「風水的な攻防」という視点が極めて希薄なこと.
 3: 朝鮮総督府は,植民地支配の円滑化といった観点から朝鮮風水に注目していたが,総督府自体は風水の呪術的な効能を信じていない.むしろ不完全ながら「朝鮮文化を尊重,風水を用いて朝鮮の発展を図る」といったポーズも取ろうとした
(1931年,総督府は「朝鮮の風水」という朝鮮風水研究の大著を刊行.前期の姿勢はこの本から読み取った個人的見解)
 4:既に朝鮮は日本の一部なので,朝鮮半島全体の運気を衰退させる動機が無い

 代表的な例としてよく紹介される,韓国での「戦前,日本の総督府が韓国隆盛の気の流れを断つために山に埋めた金属の棒」騒動(90年代半ばの話)があるが,これは測量基準点を著すためのものだった.
 韓国人の無知と迷信が生んだ珍騒動を,知能水準が大幅に低下した最近のニホンジンの特に若い世代が,何のためらいもなく受け入れただけ.

 ちなみにDr.コパ゚の本は風水的に見て,あきれるほどデタラメのオンパレ-ド.黄色が金運に直結するなんてのは代表的大嘘.
 「南に鏡を置くと幸運を呼ぶ」なんてなぁ,正統派風水からみると丸で逆.

(軍事板,陽剣刹 in FAQ BBS

 ちなみに,10年ほど前に「風水先生」だかという荒俣宏の本を読みました.
 世界でも指折りである風水師に,日本の大企業のビルを見せて,今後を予想するという内容でした.
 対象は,トヨタ,IBM,セガでした(他にも有ったと思う)
 批評では唯一良いのはセガで,他は全部ダメ(特にトヨタ)という感じでした.
 自分はコレ読んだ時点で「オカルトだな」と思いました.

 で,数ヶ月前にこの本が部屋から出てきて思い出して大笑い.

 風水なんてこんなモンでしょ.

キルロイ in FAQ BBS

 本,買ったんだ…….


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