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(画像掲示板より引用)


 【link】

「NB online」◆(2008/11/17) 戦艦大和や零戦は「システム工学」の産物

「厚く成り果てた手帳」:日本兵器のお値段(1945年以前・大戦終結まで)

セピア色の三号館 電気系同窓会・歴史アーカイブ
 電探など

帝国陸海軍現存兵器保有国一覧

「兵器生活」:闇夜に提灯 もはや手遅れの電波兵器礼賛

『昭和二十年 第1部6 首都防空戦と新兵器の開発』(鳥居民著,草思社,1996.8)

 サブタイトルと内容が違うが,面白いな.
 大戦中の日独の協力体制について,詳細に書いている本は初めて読んだ.
 レーダーとか人造石油とか柳船とか潜水艦の交流とか,一つ一つについて書かれている本はあるけど,日独関係を俯瞰した視点の本って,あまりないね.

――――――軍事板,2010/06/05(土)

『太平洋戦争秘密兵器大全』(別冊宝島編集部編,宝島社<文庫>,2012.4)

『日本軍兵器の比較研究』(三野正洋著,光人社NF文庫,2001)

 目に付くところから間違った部分を指摘します.
「M1ロングトム155mm砲はカノン砲・榴弾砲兼用」
とあるがウソ.
 ロングトムはカノン砲で,別にM1 155mm榴弾砲が存在しています.
 また,「日本は対戦車ロケット弾を開発できなかった」としてますが,実際には「ロタ砲」を開発,本土決戦用に配備しています.

------------軍事板,2002/02/16
青文字:加筆改修部分

『間に合わなかった兵器 もう一つの第二次世界大戦』(徳田八郎衛著,光人社NF文庫; 新装版,2007)

 これ,なかなか珍しい内容だ.
 日本の兵器のダメさを徹底的に糾弾.
 日本は量ばかりか質も全く劣っていたという話.
 無線,対戦車兵器,レーダーなどについて.

------------軍事板,2002/02/02

 【質問】
 大正から終戦までの,日本軍事技術に関する本を探しています.
 特に探しているのは
土木作業機械関連
発動機開発
燃料精製
の3種類です.

 他にも何かオススメの本があれば,教えて下さい.

『日本軍事技術史』(林克也著,1957年,青木書店)
という本があるのは知っています.

 【回答】
 陸軍軍事行政本部編輯,軍事工業新聞発行の月刊誌,その名もずばり「軍事と技術」のバックナンバーを揃える.
 昭和8年に認可で,終戦まで発行されているんで.

名無しの愉しみ in 軍事板,2010/11/03(水)
青文字:加筆改修部分

『陸軍燃料廠 太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い』(石井正紀著,光人社NF文庫,2003.5)

 直接,土木機械に直結しないが,「基地設営戦の全貌」,押さえておいて損はないと思う.

 また,土木機器関連のメーカー社史はおもしろいかも.

軍事板,2010/11/03(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 2ch.ニュース速報板でこんなコピペを見たのですが,これってどれくらい正しいんですか?
 日本の軍事技術がそんなにすごいなら,あんなボロ負けはしなかったんじゃないかなあ・・・と,ちょっと疑問に想ったのでした.

----------------------------------------------------------------
 空母の傾斜煙突(飛行甲板の気流の乱れを防ぐ)→JFケネデイなど大型空母の煙突に採用.
 伊400潜水艦発射の航空機による爆撃→原子力潜水艦発射の誘導ミサイル.現在まで戦略原潜に引き継がれる潜水艦運用.
 有人爆弾「桜花」→特攻兵器として評判悪いが,無人誘導にしたものが巡航ミサイル.
 B29迎撃戦闘機,秋水→ロケットで超高空まで上昇して帰りは,グライダー式に滑空して帰還する方式が,スペースシャトルのヒントになったとNASAの計画指導者が証言.

 指向性の八木アンテナは,早くから連合国でも使用されてたが,日本ではその有効性を認めるのが遅かった.
 連合国に勝る技術も持っていたが,物量だけでなく,兵站の概念,戦略構想の不備から敗北した点も大きい.(信長,秀吉のような戦略家がいなくて,軍事官僚が戦争指導者だった.東條や山本もそのひとり.)
----------------------------------------------------------------

 【回答】
 一応目に付いた所だけ添削.

>空母の傾斜煙突→JFケネデイなど大型空母の煙突に採用.

 眉唾.
 現代の米空母は,着艦時にはアングルドデッキに沿って風が流れる様に航行するから,煙突の排煙はアイランドが起こす乱流ともども,着艦機の右手側をアングルドデッキと並行に流れる形になる.

>伊400潜水艦発射の航空機による爆撃→原子力潜水艦発射の誘導ミサイル.

 「弾道ミサイル」の間違いでは? トマホークの様な巡航ミサイルは「誘導ミサイル」とは少々毛色が違うし,「潜水艦が,何らかの経空的手段を用いて地上を攻撃」まで範囲を拡げると,伊-400がルーツであるとは言い難くなってしまう.

>現在まで戦略原潜に引き継がれる潜水艦運用.

 戦略原潜の意義は「先制核攻撃を無効化し,高い報復能力を保証する移動核ミサイル基地」.
 したがって,「敵地近傍まで隠密に進出し,搭載機により奇襲攻撃」の伊-400とはかなり異なるという気がする.

>有人爆弾「桜花」→無人誘導にしたものが巡航ミサイル.

 違います.桜花の発想は寧ろ滑空誘導爆弾に近いものです.
 巡航ミサイルとしてならドイツのV-1の方が近いと言えるでしょう.

>秋水→スペースシャトルの ヒント

 眉唾です.
 「上がって降りる」以外は行動の内容がまるで違いますし,シャトル以前の宇宙機でも帰還は無動力なのが当たり前ですから,殊更に秋水を参考にした訳ではないでしょう.
 そもそも秋水の運用形態のルーツはドイツのMe-163です.日本のオリジナルではありません.

>指向性の八木アンテナは,早くから 連合国でも使用されてたが,日本ではその有効性を認めるのが遅かった.

 これは概ね正しいと思います.

>信長,秀吉のような戦略家がいなくて,軍事官僚が戦争指導者だった

 「軍事官僚」と「戦略家」を分ける様な言い回しは少々おかしいです.
 「官僚」にして「戦略家」な人物も,世には存在しますから.


 【質問】
 旧日本軍の兵器は,他所の国の違法コピーが多かったとよく聞きますが,有名どころではどのようなものがあるのでしょうか?

 後,他の国ではそのような事例はなかったのでしょうか?

 後,戦時中,敵対する国の技術,物を勝手にコピーしても,違法や無断コピーだと問題になるのでしょうか?

ヨッチ

 【回答】
ブラウニングM2機関銃→ホ-103航空機関銃
ZH-29→東京ガス電気試作自動小銃乙型(試作止まり)
M1ガーランド→四式(五式)自動小銃(終戦で量産配備前にボツ)

たかふみ

99式8センチ高射砲:日華事変のとき鹵獲されたクルップ社製88ミリ高射砲の完全コピー
ボ式40ミリ高射機関砲:マレーで鹵獲された英軍の対空機関砲のコピー
引き込み脚:チャンスボートV143の模倣.
 あとはレーダーなど.↓
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~ikasas/radar/jprdf06.htm

 このうち,99式は軍事同盟締結後にライセンス料を支払った.
 戦前から日本がライセンス生産していたハミルトン社のプロペラは,戦争中に製造した分のライセンス料が支払われていなかったので,戦後にハミルトン社に
「ライセンス料はいくらか?」
と聞いたところ,呆れ顔で
「1ドルでいいよ」
と言われたという逸話がある.(真偽のほどは不明)

極東の名無し三等兵

 日本の場合は,有名なのは無線機用の真空管で,これはGEが特許実施権を持っていました.
 この為に,沖電気や安中電機ではその製造を中止しなければならなくなっています.
 この特許を有していたのは東芝で,沖電気は真空管の売買契約と特許実施許諾契約を結び,日本無線は東芝と資本・技術提携を行います.

 特許は戦争が始まると,1917年公布の「工業所有権戦時法」により,戦時に於て国家による特許権取消が出来る法的根拠があることで,敵性特許は特許権が取り消しされると共に,敵性特許権以外の特許権や実用新案権については,「国家総動員法」に基づく,1923年公布の「特許発明等実施令(勅令)」により工業所有権の実施権は,内閣総理大臣が設定出来るとしていました.

 因みに1941年12月8日現在,連合国所有の特許件数は3,137件ありましたが,戦時法によって取り消されたのは1,382件,敵性特許権に対しては,1,829件の専用免許が申請されましたが,これが認められたのは244件でした.

 一方,製造ノウハウとか企業秘密については,余程の事がない限り,普通流出しませんが,1944年7月に纏められた行政査察報告書に基づき,電気関係の会社は,その戦時生産を円滑に行う様に,「技術交流」を行うべし,とされ,各社から募った希望事項に基づき,当該ノウハウを持つ企業がその技術を提供する様強制されています.
 つまり,その当時,真空管製造でトップを走っていた東芝に対し,住友通信,日本無線,川西航空機,日立製作所,日本電気などの企業が一方的に技術提供を受ける事になった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

>他国では〜〜

:独逸
STEN mkU→ゲレート・ポツダム・MP3008

:英国
MP18→ランチェスターSMG

たかふみ

 また,戦後,ドイツの兵器が連合国に模倣されたことはあった.
R-1:V2ロケットのコピー
など.
 特に,ソ連は第二次大戦以後も,よくコピー兵器を作った.
 Tu-4爆撃機は,B-29の無許可コピー.
 AA-2アトール:AIM-9のコピー
 ベトナムで撃墜されたF-4からAN/AWG-10火器管制レーダーを捕獲し,Mig-23用レーダーを開発していたり.
 中国でも,よくソ連機のコピーを売ってたり.

極東の名無し三等兵

 さらに例えば,ソ連の場合は,1947年にゴススナブ(国民への新技術導入国家委員会)というものを作って,多数の外国特許を管理しています.
 其の件数は,1949年時点で,22.5万件.
 うち,1939〜40年のドイツ特許が4.5万件,それ以後の出願中のものを含むドイツ特許は約5万件,米国からの特許が約13万件あったり.
 このうちドイツ特許は接収したものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

>問題になるのでしょうか?

 問題と言えば,中国のコピー輸出はロシアが問題視しているほか,違法にコピーされたAK47シリーズやRPG,携帯火器がゲリラに出回って問題になったりしている.
 逆に,戦時中であればほとんど問題にはならない.
 だって戦争中だし.

極東の名無し三等兵

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前の東京帝大造兵学科とは,どのようなものだったのか?

 【回答】
 兵器研究に当たった学科で,明治20年設置.
 しかし,整備されだしたのは44年になってからだという.

 以下に引用された文章を読む限りでは,あまり恵まれた環境にあったとは言えなかったようだ.

------------------------------------------------------

 大河内〔正敏・貴族院議員〕が東京帝大で教授を務めていた造兵学科とは,明治20年に帝国大学工科大学校に設置されたものである.
 字義通り兵器の研究に当たる学問だが,初期の頃は陸海軍から派遣された兼任教授が多く,あまり内容の充実したものとは言えなかった.
 造兵科は学生の数も少なく,ために講義が合同で行われることが多かった機械科学生の,後に共に新興コンツェルンを率いてライバルとなる鮎川義介とは,まるで同級生のような間柄であった.

 〔略〕

 造兵学科は44年,彼が33歳で専任教授の椅子に着いてから,ようやく整備の緒につき,彼は火薬構造理論,砲架理論,砲外弾道学を講じている.
 中で最も得意としたのは弾道学で,その研究に物理学を導入した功績が大きいとされた.

 〔略〕

 造兵学者として留学前,彼が得意とした弾道学は,主に理論砲外弾道学であったのが,帰朝すると砲内外にわたる実験弾道学に研究範囲を広げた.

 だが,例によって実験設備がない.
 彼は私費で助手と工作用の工員を雇い,専属の工作場を帝大内に作った.
 研究に関しては,これはもう熱心を通り越してマニアに近かった.
 朝起きるとすぐ研究室にやってきて「どうだ」と言う.
 いったん家に帰ってから,また「どうだ」.
 講義が終わると「どうだ」.
 貴族院へ行って帰ると「どうだ」.
 寝る前にやってきて「どうだ」.
 おかげで朝7時から夜の11時まで研究室に居続けなければならぬ助手は,ねを上げた.

 都合よく家が近いのである.
 帝大とは谷1つ隔てた谷中清水町に,2500坪の邸宅.
 東京では当時,珍しかった「フィアット」を駆って大学との間を行ったり来たりする.大好きな葉巻をくゆらせ,上等な香水の臭いを漂わせながら.
 「殿様」なのである.

 大河内の祖先は,家光を輔弼して徳川300年の天下を磐石ならしめた「知恵伊豆」松平伊豆守信綱である.
 この松平家は元来が大河内姓で,最初川越城主であったが,のちに上州高崎と三河吉田と上総大多喜の3家に分かれ,維新後は大河内姓に復した.
 この中の,2万7千石の大喜多藩主大河内正質(まさただ)は,明治動乱に際して徳川方の主戦派の一人で,鳥羽伏見の戦いでは幕軍の総指揮官となって,歴史の中に鮮やかに名をとどめている.
 しかし敗れた後は,いわば「A級戦犯」と目されて,邸地没収の処分を受け,官軍東下にあたって大喜多城は毀たれた上に,彼自身囚われるという憂き目に遭っている.
 このときまだ20歳の青年藩主正質であった.

 このために貧乏華族に転落してしまった正質の長男として,明治11年に生まれた正敏は,維新で官軍側につき,おかげで豊かだった7万石の吉田の大河内家へ,家のために養子に行かされた.
 〔略〕
 明治20年前後というから,学習院初等科のときであったのだろう,父正質が明治天皇のお馬の御用掛をしていた関係もあって,大正天皇の皇太子時代の御学友に選ばれ,宮中に出入りしている.
 後年の述懐によると,明治天皇が正面椅子に腰掛け,その脇に昭憲皇后がお坐りになっており,皇太子が学友と一緒に行くと,明治天皇が傍らの机から菓子を取り出して皇太子に差し上げる.
 すると,皇后が同じ菓子を学友たちに下さる.

 とりわけ,利発な大河内少年がかわいくみえたのであろう,天皇は何度も彼を膝の上に上げた.
 そのころ,大帝は黒い犬をかわいがっていたが,
「陛下のお膝の上へ,平気で上がって甘えているのは,正敏さんとあの犬だけだ」
とは,女官たちの語り草であったという.

――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.65-68

 【質問】
 日本の兵器の命名方法について質問です.
 よく目にするものとして,38式歩兵銃や零戦,一式陸攻,90式戦車などありますが,これらはたしか開発完了当時の年数にちなむものですよね?
 だとすると,それらの命名機縁年次が第二次大戦を区切りにして,皇紀から西暦にかわったのはわかるのですが,明治や大正といった元号から皇紀にうつりかわったいきさつなどは,どのような経緯があったのでしょうか?

個人的には
明治〜大正→元号
日中事変あたり〜第二次大戦→皇紀
第二次大戦以降→西暦
とおおざっぱにしか認識できていません…
 どなたかご存知でしたら,うまい線引きの仕方などお教え頂けませんか.

 【回答】
 明治初年の陸軍創設の頃は,兵器は海外からの輸入に頼っていたので,海外の輸入先である国の制定年度を呼称していました.
 明治13年からは,基幹兵器となる小銃が初めて国産化されたため,以後,採用年度が制定年度として各兵器に冠せられました.

 明治13年から大正15年(実際は大正14年)までは,元号を制定年度としています.
 本来は,「○○年式」という呼称が正しいのですが,明治31〜45年にかけては,その体裁が崩れ,三八式歩兵銃,四五式榴弾砲という形で,「年式」を省いた略称が喧伝されたケースもありました.

 昭和期に入ると,制定年度で呼称を付けるのは大正期と紛れやすくなるため,陸軍では皇紀の下二桁を冠することに切り替えました.
 それは,昭和元年の八六式から開始されています.
 皇紀は昭和15年に2600年となりますが,昭和15年制式のものを陸軍は一〇〇式,海軍は零式とし,以後は下一桁を以て兵器に冠しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/02/28
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 坂井三郎氏の本によると20mm機銃は使えなかったということですが,事の真偽は置いておいて,現場の意見を反映された形跡がありません.
 7.7mm機銃を翼につけた零戦や米軍のダイブを追撃できる飛行機等,現場の意見を反映された兵器は太平洋戦争中にあったのでしょうか.
 また,当時,現場の意見を上に吸い上げる制度はあったのでしょうか?

 【回答】
 海軍に関して言えば,むしろ現場の意見を尊重した結果あのような航空機開発になっている.
 パイロットは大馬力の重戦闘機で一撃必殺をするより軽快な軽戦闘機で格闘戦をする事を好んだし,坂井三郎も
「確かに20mmは使えなかったけど,アメリカの重装甲航空機を落とすには機関砲が無ければダメだったと思う」
と言っている.

 あと,日本軍の場合兵器とは「陛下より下賜されたるもの」.
 頂いた側が文句を言う,なんて畏れ多い事は許されていない.


 【質問】
 帝国陸海軍,兵器の部品などを同一規格のものとしなかったのはなぜですか?
 アメリカはそうしていたようですし,その方が作業効率もよく,修理も早いと思うのですが.

 【回答】
 規格統一って想像以上に労力・予算・時間が要る.
 長い目でみれば確かにプラスだが,短・中期的になら,工場毎の都合で量産させる方が数が揃うわけね.

 ま,ぶっちゃけて言うと,日本には規格統一を試みられるだけの国力と時間がなかったということ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ 規格を統一するためには,相応の資金と時間が必要.
 その手間をかけるくらいなら,自前で別機種を生産した方が結果的に数が揃った.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 兵器開発は日本陸海軍間でどの程度,協力が行われていたの?

 【回答】
 かなりの分野で,基礎技術の研究分野まで縦割りだったようです.
 海軍の艦政本部や空技廠と陸軍の造兵廠の研究部門ではやってる事がかなり重複するし,殖産政策で民間企業が育ってる分野でも内部では陸軍担当と海軍担当に分かれて,全く交流が無かったって話を良く聞くからです.

 昭和18年に「これじゃいかん」って事で「陸海軍技術運用委員会」が発足,陸と海の大臣さんが交互に委員長になってパイプ通しをしたんですけど(少しは気にしてたのね^^;),ただ「成果上がらず」って評価なのですよ,これが(しかも18年になってから),
 おまけに肝心の航空技術がこの委員会の研究テーマからは外れているんです.

 もうちっとなんとかならんかなぁ・・・って今さらながら思います.

軍事板


 【質問】
 献納兵器って何?

 【回答】
 民間でお金を出し合って兵器を買い,それを軍に寄付したものを「献納兵器」と言います.
 第2次大戦まで,献納活動は日本全国で行われ,飛行機や戦車から車両・その他装備に至るまで種類はさまざまでした.
 陸軍へ献納されたものには「愛国(番号)号」,陸軍へ献納されたものには「報国(番号)号」と命名されて,機体や車体に表示され,献納団体(者)名も書き込まれました.

 【参考ページ】
http://besankosyashin.blog56.fc2.com/blog-entry-215.html
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=47402&pg=20050510
http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/05/11 21:00
を加筆改修

ある人物が支払った献納金の領収書とそれに対する感謝状,献納した92式重装甲車,愛国27号(三河)の絵葉書を含んだ一式セット

 やはり献納者には,ちゃんと献納兵器の解説までしていたんですね.
 これは,ちょっと驚きでした.
 考えてみればこの人だけでも,3口で合計50円も献納してますから,ちゃんと責任を果たしたと言う事でしょうか.


 この92式重装甲車は,前部車載機銃に13ミリ機関砲装備ではありませんが,どの騎兵旅団に配備されてどういう運命を辿ったか,これから調べて行きたい所です.

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月15日21:50


 【質問】
 日本最初の献納兵器は何?

 【回答】
 第一次世界大戦当時,日本には飛行機が陸海軍合わせても20機足らずしかなく,欧米に比べ余りに立ち後れている現状を憂えた山下徳太郎(山下汽船社長)が,政府に航空機の研究開発資金として100万円を寄付.
 その後,昭和6年に勃発した満州事変以降,国民から陸軍への献金が急増したので,事変勃発後に集まった献金3万円に山下献金の残額15万円を加え,派遣部隊から要望があった多用途機としてユンカースK37と,患者輸送機としてドルニエ・メルクールを購入し,これに『あいこく号』と命名したのが献納機の最初とされる.

 でも,よく考えてみたら,設立当時の明治新政府軍の兵器は殆ど全部,各藩からの献納なんだよね.
 変わったところでは,大坂夏の陣の時に用いられた鎧兜と陣太刀が,1892年,山田寅次郎よりオスマン帝国皇帝アブデュルハミド2世に献納されている.
 今もこれはトプカプ宮殿に陳列されている.

 なお,古来より神社に献納された刀だの槍だのも,献納兵器と呼ばれるが,そこまでさかのぼるとキリがなくなるので……

 【参考ページ】
http://www.stratosphere.jp/aviation_dic/html/ka_gyou.html
http://www.warbirds.jp/siryo/kenno/index1.html
http://www.st.rim.or.jp/~success/hounaihudoki20_ge.html
http://www.h5.dion.ne.jp/~rekidai/nihontou/nihontou.htm
http://www.ifvoc.org/NewFiles/sekai-nihon3.htm

【ぐんじさんぎょう】,2010/06/26 21:00
を加筆改修

 日本初は,スサノオがアマテラスに献納した天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)かな.

しまだ in mixi,2010年06月18日 20:45
青文字:加筆改修部分

九州の町村役場の寄付金で購入された愛国16号の92式重装甲車絵葉書

 別の愛国27号と全くベースが同じ物!
 迷彩のカラーだけ上手く色替えしていますね.
 下は,その三河の愛国27号.

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月28日02:12


 【質問】
 戦前の日本の武器輸出の実情はどんな感じだったのでしょうか?

 【回答】
 ▼WW2のときフランスに二等駆逐艦を新造設(計は流用)して売った.
 WW1のとき,フランスに2等駆逐艦を新造(設計は流用)して売った.
 樺形駆逐艦を11隻輸出.
 兵装はフランス式にした可能性あり.

 両大戦間には中国やタイに,2千トン級以下の2線級艦艇や潜水艦を,いくらか新造して売った.

 三八式歩兵銃は第一次世界大戦で武器が不足したロシアが大量に輸入している.
 フィンランドも購入したはず.

軍事板
90式改 in FAQ BBS,2009年8月3日(月) 22時39分(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分

 第一次大戦の際に,陸軍はロシアに小銃97万丁・小銃弾2億8,000万発・火砲823門などを供給しました.
 また,海軍でも野砲や砲弾,またロシア海軍の要請に基づいて日露戦争の戦利艦である
 宗谷・相模・丹後の3隻を修理費を含めて1,550万円で売却しています.

 ところがロシア革命により,ロシアにより武器購入のために発行された大蔵省公債2億2,000万円や短期軍事公債3億784万円はすべて回収が出来なくなってしまいました.

 ちなみにこの額は,第一次大戦時の総海軍予算と商船の武装費とほぼ同額だったそうです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板


 【質問】
 日本におけるレーダーの開発状況は?

 【回答】

 レーダーとは,RAdio Detection And Rangingの事で,その頭字を充てて作った造語です.
 日本に於ける研究は,例によって海軍と陸軍とでバラバラに行っていたりするのですが,陸軍のそれは1937年から畑尾正史少佐や佐竹金次大尉が陸軍科学研究所で,日本電気の小林正次技師や日本無線の上野辰一技師達とチームを組んで始めました.
 そして,1940年にはドップラー方式を完成したものの実用には適せず,パルスを送信し,反射波を受信する方式での研究に切り替えます.

 1941年7月,日本電気では波長4m,出力5kwのパルスを神奈川県生田から送信し,15km離れた立川上空の飛行機を探知出来るまでになり,此処にレーダーとしての基礎研究が完成します.

 1942年5月になると,陸海軍の技術者が占領したフィリピンのコレヒドール要塞から,米軍のSCR525型レーダーの現物と技術資料を入手し,第5陸軍技術研究所ではこれを参考に仕様を作り,「電波警戒機(要地用乙)」として日本電気に発注すると共に,陸軍防空学校で将兵を教育して全国の各要地に配備しました.
 これは,後の本土空襲に際して敵機侵入の警報発令に貢献しました.

 その性能は以下の通りです.
a. 警戒距離150〜300lm
b. 周波数68/72/76/80MHz切替
c. パルス出力50kW
d. パルス繰り返し周波数500Hz及び100Hzのどれかに切替
e. パルス幅1/40周期
f. 送信機は自励発信の電力増幅変調方式
g. 受信機は高周波1段スーパー・ヘテロダイン方式,通過周波数帯域は500kHz
h. 指示機は直線時間軸式ブラウン管の蛍光面120mmの距離目盛板で,反射波の位置で距離を読み取る方式
  距離150kmと300km切替
i. 空中線は送信は固定式で高さ18m,4段反射器付特殊組合せ空中線.
  受信は手動回転式,2段4列反射器付ビーム空中線.

 このレーダーの生産台数は1941年の4台を皮切りに,1942年90台,1943年48台,1944年117台,1945年50台の合計309台でした.

 しかし,1942年4月18日,銚子や東京湾口に配備した電波警戒機が気づかぬ内に,B-25爆撃機が京浜工業地帯に侵入し,悠々爆撃して遁走しました.
 慌てて射撃した高射砲は,敵機とは見当違いの方向や高さで炸裂させるだけで,陸軍は,
「皇居のある東京に敵機の侵入を許し,しかも1機も落とせぬとは何事だ!」
と叩かれました.

 この為,陸軍は5月始め,レーダーの緊急設計と生産を,日本電気と東京芝浦電機の2社に発注し,その試作機を7月初旬に完成させよと厳命します.

 日本電気では,小林正次研究所長を始め,他の技師達が米軍レーダーを参考にしながら7月上旬に完成し,「た号1型電波標定機」と命名されて,試作品が直ちに10台,1943年には更に25台が生産されました.
 これは送受信空中線を一緒に回転して,敵機の反射波を捉え,方向,俯仰角度を120mmブラウン管で測定する方式でした.

 その性能は以下の通りです.
a. 敵機の標定は高度2,000m,標定距離2〜数kmに於て方向精度±2度,高低精度±3度
b. 送信波長1.5m,出力5kW
c. 送信空中線は八木アンテナ1基
d. 受信空中線は八木アンテナ4基

 東芝は,浜田成徳研究所長,西堀栄三郎副所長を始めとする各技師がこれまた米軍レーダーを参考にしながら,7月上旬に完成させ,「た号2型電波標定機」と命名されました.
 こちらも試作品が直ちに10台,1943年には更に25台が生産されます.

 た号は何れも高射砲陣地に配備され,これによって敵機に対するレーダー射撃の準備は一応整いましたが,故障が多く,欠陥があり,設計者が離れると途端に性能がガタ落ちする製品でした.

 その性能試験では,試作機の性能テストでは大地や近傍の丘の反射波のみ受信されて,肝心な飛行機の反射波は中々受信出来ませんでした.
 波長1.5m3素子の八木アンテナ5基を幅1.7m,高さ2.3mの反射板上に設置すべく設計したのですが,送信電波が大地反射の影響で情報を向くことと,サイドローブが大きいことなどが原因で上手く働きませんでした.

 1942年9月には,改良型の試作機を銚子海岸の飯岡飛行場に運び,飛行機を飛ばしたり,気球に帯状のアルミ箔を付けて飛ばしたりして実験を重ね,データを集めて製品改良を進めました.
 そして,日本電気,東芝とも年末には当初の試作機10台を完成させ,千葉市郊外の防空学校に納品しました.

 日本電気のた号1型は,1943年2月,江戸川畔の高射砲陣地で,模擬目標を使った実弾射撃を行った際の成果と反省は以下の通りでした.

 高度2,000m,直線距離2〜数kmに於いて方向精度±2度,高低精度±3度であり,陸軍の仕様には合格したが,改良すべき諸点を挙げれば次の如し.
a. 受信用反射板付八木アンテナのサイドローブを更に除去すること
b. 受信機高周波回路の増幅度と安定度とを高めること
c. 受信機の感度を向上すること
d. 受信した信号波形をもっと良くすること
e. 受信機の雑音出力の減少を図ること
f. 送信機の出力増大を図ること

 以上の諸点を,日本電気では経済的な技術水準を考慮して改良.
 この改良機「た号3型電波標定機」の波長は1.5mから3mへと変更されました.

 ところで,1942年6月15日,東条首相兼陸相は,電波兵器の生産を推進する目的で,科学研究所,第5研究所など,各電波研究所を統合し,立川市に多摩技術研究所(多摩研)を創設し,所長には陸軍参技官の安田武雄中将を任命して,陸軍大臣直属の強力な電波研究所としました.
 研究部長は多田与一中将,次長第1科長山崎武夫少将,第2科長畑尾正史大佐,第3科長にはドイツから9月13日に帰国する佐竹金次大佐が予定されており,幹部には陸軍研究所から電子科学や工学に精通した人を,指導者には東大,東工大,東北大,京大,阪大と言った電子工学の最先端の学者を,電子工業界などからも学識経験者を広く招いて,奏任官や親任官待遇の顧問として委嘱しました.

 所員には全国の部隊から電子工学を修めた将兵を選抜し,大学や高専からも優秀な学生を選んで依託学生としました.

 研究計画は綿密に樹立させ,各工程の期限と成果とは結果責任で,弁解を許しませんでした.
 但し,研究資材,測定器などは研究計画に基づき充分用意させ,特に研究費用は豊富に与えられています.
 この進捗確認には,学界,工業界に睨みのきく斉藤有大佐が担当しました.

 この組織は,大臣直轄の組織だからか,陸軍部内には珍しく技術系にしても力が強く,時には戦闘部隊に召集された技術職員を,満洲の部隊から即刻帰郷させるほどでした.
 つまり,「彼の戦場は職場である」と言う訳です.
 また,特殊材料の調達でもこうした威力は発揮され,物資不足の折に,工場側から感謝されたりもしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/06 22:37
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 伊30号潜水艦によってもたらされた,ドイツからの技術供与は,日本のレーダー開発にどのように貢献したのか?

 【回答】

 1942年にドイツから伊30号潜水艦で持ち帰ろうとした中に,ドイツから技術供与されたウルツブルグレーダーと言うものが含まれていました.
 これは,1941年12月8日の太平洋戦争勃発の報に接したヒトラーが狂喜して,今まで渋っていた供与を一転して認めたものです.

 しかし,連合軍の警戒網を突破してシンガポールまで辿り着いたのも束の間,潜水艦は触雷して一瞬のうちに沈みました.

 実は,元々伊30号潜水艦はペナンに寄港した後,軍令部から呉軍港に直行せよとの命令を受けていました.

 ところが,兵備局が独断で,ドイツ製の暗号機を10台だけシンガポールに下ろせという命令を出してきたのです.
 仕方なしに,伊30号潜水艦はシンガポールに寄港しました.
 根拠地隊は英軍敷設の機雷が多いことから,伊30号潜水艦に対し,啓開した30mの安全地帯を案内する艇を派遣すると伝えていましたが,潜水艦側はペナンで渡された新しい暗号表を黙殺してしまい,その暗号電報を理解出来ませんでした.

 兎に角,海面下に機雷が犇めく危険な海路を通って,運良くシンガポールはゲッベル港に停泊します.
 根拠地隊の司令部や南遣艦隊司令部では,てっきり安全航路帯を通ってきたものと勘違いしていたりします.

 10月13日午後4時,上陸していた兵士達を収容し,午後4時9分出港.
 そして艦首を南シナ海に定め,シンガポールの町を横目に見つつ進んでいました.
 入港時は満潮だったのですが,運悪く出港時は干潮で,そこここに英海軍が敷設した機雷が浮遊していました.
 突然,凄まじい炸裂音と共に艦の全部から水柱が吹き上がり,艦は忽ち前に傾き,ハッチが全部開いていた為,艦内に海水が流れ込んで,あっと言う間に沈没.
 艦長等は救助されましたが,13名が死亡してしまいます.

 軍令部が兵備局の責任を追及しようとしたが後の祭.
 かくして,折角日本に辿り着く寸前だった,ドイツ製の貴重な機器類は総て海の藻屑となり,開け放しのハッチから水が入ってきた為に,佐世保工廠から300名の工員を派遣し,現地人1万人を使って潜水艦の浮揚をしたものの,兵器類は触雷の衝撃で破壊され,図面は7日間も海水に浸った為に使用不能となってしまいました.

 かくして,陸海軍が描いた皮算用は,兵備局の誰かの1つの命令でおじゃんになってしまい,これが戦局に重大な影響を与えることになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/07 23:54
青文字:加筆改修部分

 さて,伊30号潜水艦が沈没して,ウルツブルグレーダー関係の資料は一切失われてしまったのですが,取り敢えず,教育を受けた士官は九死に一生を得て日本に帰国することが出来ました.
 また,多摩研第3科長となった佐竹大佐もドイツから最新のレーダーの知識を詰め込んで帰朝しました.

 当時の日本の技術力からすると,冷静に判断してウルツブルグレーダーの量産は難しく,製造会社であるテレフンケン社から技術者を派遣して貰い,技術指導を得た上で,先ずは50台程度をノックダウン生産し,次の50台を内地で製作可能な部品を除いたノックダウン生産,次の100台は基幹部品のみ輸入して組み立て,完全に内地生産にすると言う処に行き着くのに,2年程度の期間を要すると見込んでいます.

 しかも,見本となるウルツブルグレーダー3台と図面は残念ながら輸送中に海没してしまいます.
 但し,電気回路図のみがドイツ大使館の武官から陸軍側に渡されていました.

 今からウルツブルグレーダーの量産を考えても,時局柄それには時間が掛かると考えた佐竹大佐は,自分が学んだウルツブルグの電気的特徴を既存の電波標定機に活用して,既存の機器を武人の蛮用に耐えうる優秀な兵器に改良しようとします.

 佐竹は,東芝の浜田成徳所長に,この構想を打ち明けて協力を求めました.
 浜田所長も,佐竹大佐に同調し,ウルツブルグの技術を「た号4型」に活用して,改造設計する意外に無いと,あくまで国産に固執する東芝技術陣を説得し,1年で実行可能な計画を立てて実行に移しました.

 浜田所長と西堀副所長の技術計画は,主力技術陣は東芝の長嶋部長以下技師10数名を充て,それに日本ビクターの技術陣などを追加し,学術的協力として東北大学の抜山平一,宇多新太郎,小池勇次郎,福島弘毅,神谷六郎,岡村進,和田正信,植村三良の教授陣と助手1名,学生2名を参加させる体制を敷きます.
 陸軍側の主査は佐竹大佐自らが当たり,設計主任に岡本正彦少佐,後に高橋省吾少佐を充当しました.

 仕事の分担としては,空中線の基本設計を宇多教授グループ,送信機は小池助教授,受信機は日本ビクターの技術陣,指示機と精密測距離が岡本少佐と学生2名,これに東芝の技師と東芝研究所の技術陣が応援します.
 細部設計と調整,試験は東芝技術陣で行い,総合設計は岡本少佐と東芝技術陣が行うと言う産官学協同のプロジェクトとなっていました.

 この時の技術資料は,佐竹大佐がドイツ滞在中に著した報告書と,電子回路図と構想図面,後に潜水艦で日本に辿り着いたテレフンケン社フォダス技師が携行したテレフンケン社製ウルツブルグの技術資料などでした.

 このレーダー開発で難問だったのは,50cm波用の送受信用電子管でした.
 当時,日本ではこうしたものが開発出来なかったのです.
 これを一から作るのなら2年は掛かるのですが,取り敢えず波長1.5mのものを利用すれば,電子管も電子部品も日本製で十分に対応出来る事から,部品に回路を合わせる工夫さえあれば,佐竹式ウルツブルグは設計,詩作,試験,改良,図面作成を1年以内で完了し,1945年1月から大量生産には入れると判断しました.

 後にフォダス技師の来着によりウルツブルグの図面を入手する事が出来た為,日本無線三鷹工場でそれを国産化することになったのですが,佐竹式ウルツブルグが先行していたので,純正ウルツブルグは佐竹大佐の副官である次席の新妻精一中佐に全権を委任して,佐竹大佐はこちらの生産に血道を上げていました.

 ところで,改造前の2型レーダーは,3素子の八木アンテナを送信用に1本,受信用に4本を反射板上に取り付け,反射板毎アンテナを上下左右に回転する構造でした.
 この方式は,敵機が低速で飛来すれば測定出来るのですが,高速では空中線が揺れてしまい,上下左右角の誤差が増大します.
 この欠点を除く為には,空中線の本数を減らして形状寸法を小さくし,慣性を減らす研究が絶対に必要でした.

 た号改4型では,波長1.5mを変えないという設計条件の下で,ウルツブルグの技術を八木アンテナに活用すべく研究が開始されました.
 そして,6本の反射アンテナを全廃して,八木アンテナ5本を4本に減らして重量と慣性を減らし,上下,左右回転誤差を少なくすると共に,送信アンテナは1本だったのを4本に増やして送信利得を増大する送受信共用アンテナを開発しました.

 受信アンテナは,共用アンテナを位相環で切り替えて使用します.
 勿論,共用アンテナなので,送信電波が受信回路に混入しないよう,ウルツブルグの送受共用回路(ポザネ)を超短波用に改設計して使用しました.

 この結果,た号改4型は以下の様に改良されました.
a. アンテナを送受信共用とし,放電管を使わず,ポザネ共用回路を活用した.
b. ウルツブルグの敵味方識別装置のアンテナは,パラボラの中心標定アンテナの左右に並行して設置し,左右空中線を最高感度で使う方法と左右アンテナを等感度法に使い,鋭い指向性で方向探知する方法とを切り替えていた事から,この方式を超短波1.5mの八木アンテナ4本に活用し,鋭い指向性で送受信出来るようにした.
c. 30kHzと3.75kHzのゴニオメーターを用い,黒点を移動して精密測距や方向,高低のブラウン管蛍光面上の表示を行う方式をウルツブルグから導入.
d. レーダーの動作用試験装置は,ウルツブルグのレーボックを日本の電子管を用い国産化,試製四式標定用疑似目標装置とした.
この様に,ウルツブルグの技術を巧みに日本の技術力に合わせて改良し,日本の既存レーダーに導入したた号改4型は予定通り1年以内で完成し,1944年秋に試作機試験合格,1945年正月から大量生産が開始されました.

 ただ,所詮はウルツブルグに比べるとパチモノ的な扱いでしかありません.

 日本の当時の技術力から言って,電子管の生産は1.5mが限度でした.
 従って,日本電気はた号1型の感度を増大する為,改良型のた号3型では波長3mの電子管として性能に余裕を持たせました.
 一方のウルツブルグは波長50cm,パラボラアンテナは強靱で,上下左右に動かしても動揺や惰性が殆ど生じない為に,高低や方向回転の精度を高めうるのですが,波長1.5mのた号改4型は,どうしてもパラボラアンテナでは無く長さ1.9mの八木アンテナ4本を上下左右に振らなければ成りませんでしたから,どうしても動揺や惰性で精度が低下する運命にありました.

 ところで,た号改4型のレーダー操作手は反射板の影に隠れて実際の機影は見えない反面,身体は反射板に遮られてある程度保護され且つ安全です.
 また,測距手,方向手,高低手の操作と連絡は良く,且つアンテナを支える中央筐体のバランスも良く出来ていて,構造としては理想的な配置でした.
 しかし,これが使われるのは敵味方入り乱れる戦闘空域です.
 敵味方識別装置の無い日本では,こうした戦場ではブラウン管上のエコーだけでは敵味方の区別は難しく,どうしても目視が必要になり,操作手が外部を目視出来る構造にする方が実用的でした.

 因みにウルツブルグでは,幾度も戦闘をくぐり抜けたことから,戦訓により機長はパラボラアンテナから外に顔を出して敵味方を見得るような構造に改造されました.
 ただ,その結果,中央の筐体から長く付き出した片持梁上に機長や助手が乗り,また指示機や操作部と言った荷重を支えながら誤差無く左右回転を行うと言う,設計が結構困難な形態となっています.

 なお,ウルツブルグは万一戦闘中に助手が負傷した場合でも,機長1名だけで測距,方向,高低操作が行える設計でした.
 これも戦訓から得られた改良点でした.

 そう言う意味では,た号改4型は未だ未だ武人の蛮用に耐えられる完成したものでは無かったと言える訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/08 23:32

 余談ですが,このウルツブルグレーダーは珍しく陸海軍協同で購入に動いたものでした.
 海軍航空技術廠ではこの技術を用いて,四発陸上攻撃機「連山」の機上搭載用レーダーを開発し,三沢航空隊に空輸されて試験に供されていましたが,米軍の爆撃により焼失してしましました.
 このレーダーは,ウルツブルグの高周波ケーブル,送受共用回路ポザネ,そして米軍の波長3cmのレーダーを参考に設計したのですが,米軍の航空用レーダーは波長が3cm,磁電管は空冷式,そして局部発振管はクライストロンなので,非常に小さく出来ていたのですが,日本のものはやっと10cmの周波数であり,送信磁電管は水冷式だったので,実際に実用まで漕ぎ着けたかと言えば,多分に怪しいものだったのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/09 23:42


 【質問】
 潜水艦「ルイージ・トレッリ」によってもたらされたレーダー技術は,日本のレーダー開発にどう貢献したのか?

 【回答】
 1943.6.16,イタリア潜水艦「ルイージ・トレッリ」がドイツ・テレフンケン Telefunken 社のウルツブルク・レーダー技術者ハインリヒ・フォーダス Heinrich Foders と,電波兵器専門家の佐竹金次陸軍中佐を乗せ,ボルドーを出航.
 同年8.30,シンガポールに到着しました.

 1944年1月7日,海軍技術研究所にウルツブルグの製造図面が届いたので取りに来いと言う電話が海軍電波研究部の伊藤大佐から掛かってきました.
 佐竹大佐が山口大尉達を恵比寿駅西の丘上にある海軍技術研究所に送り,彼等が伊藤大佐を訪ねると,大佐は名和中将と共に外出中でした.

 そこで,五十嵐庶務主任に事情を話し,図面を探して貰いましたが,電波部には無く,各部にも尋ねて貰いましたが,それらしき物件はありません.
 困り果てて佐竹大佐に電話すると,大佐は
「技研にある筈だから,直ぐ持ち帰って仕事しろ」
とのつれない返事が返ってきました.
 相談された五十嵐主任も,こうした図面は第二類機密物件だから相手に電話で相談しても,みんな触らぬ神に祟りなしとばかりにドイツ語を読まずに無いと断ったのでは無いかと言い,伊藤大佐の帰りを待つより仕方ないと慰めてくれました.

 この時,困り果てた陸軍の人々を見かねた奇特な人がいました.
 この人が各部のお偉方に電話した結果,音響実験部にそれらしい物件がある事が分り,音響実験部の倉庫に案内されたばかりか,その人は音響実験部長に掛け合って,部長から自由に倉庫の捜索をしても良いと言う許可を取り付けてくれました.
 因みにこの人こそ,ドイツでレーダー技術を修得して伊30号潜水艦に乗り組み,シンガポールで九死に一生を得た鈴木技師だったりします.

 それは扨措き,倉庫内のドイツから来た荷を調べますが,それぞれ全然関係の無いもので,テレフンケン社の図面は影も形もありませんでした.
 しかし,探し疲れてふと開いた戸の外を見ると,真っ赤な紙に「第二類機密」と書かれた太い大きな筒が5本立てかけてあり,近寄ると「テレフンケン」「ウルツブルグ」「ツアイフング5/5」とタイプで叩いた紙が貼られていたのです.
 テレフンケンの図面は,直径50cm,長さ1.5mの頑丈な紙筒が5本で,中を覗くと青写真が直ぐに複写出来る原紙図面がギッシリ詰まっていました.
 それだけに,図面の紙筒1本の重量は,山口大尉ともう1人の2人掛りでやっと運べるほど重い物で,五十嵐主任も部下を手伝わせて車に運んでくれました.
 こういった所,幾ら陸軍だ海軍だと言っても下の人は出来ていますね.
 こうして,漸く図面を回収して,第二類機密図面に対する敬礼を海軍衛兵から受けつつ,一路三鷹に帰ります.

 苦心惨憺して見つけ出した紙筒から図面を引き出すと,100坪の設計室一杯に拡がり,設計部員全員を手伝わせて数えると,図面の枚数は何と5,000余枚に達しました.

 その図面と図表の数に研究所の若手士官は驚いて近寄らず,テレフンケン社から派遣された技術者のフォダス技師は,テレフンケン社の図面方式を技手達に説明し,図面担当はドイツの技術スタッフ集団であるDEINO技術班が行うとして,ニーメラ大佐,シテッケル大佐,ミラー博士,シフナー技師等を引っ張ってますが,彼等もその図面の膨大な量に肝を潰して帰ってしまいました.

 結局,研究所の技手達がドイツ図面をそのまま青写真に焼き付けてDEINO技術班に送り,意見を求めると,図面はそのままテレフンケン方式通り使用し,記入事項を忠実に日本語訳する事,材料が無く代用品を用いる場合はDEINOに相談するように指示してきました.

 このドイツの図面は精緻を極め,図面通り忠実に生産すれば,本物と同じウルツブルグD型が再現出来る完全な製造図面です.

 例えば,パルス用五極真空管LS50の場合,中味を4倍,10倍に拡大し,作業工程に従い素材の性質,寸法の歩留まりや仕上代,加工前後の処理方法,作業上注意すべき要点,硝子材と金属材の寸法公差と熱膨張係数の許容値,排気の値,そして試験方法とデータの許容値などが詳細に記入されています.

 機構部品については,素材の性質諸元の許容値,重要部分の寸法公差は厳しいものの,その他の寸法公差は寛大でした.
 特に電気接触部分は,寸法公差のみならず接点圧力の許容値は,材料の疲労を配慮して定めてありました.

 電子機器の接続配線は配線1本毎に寸法と公差,素材,端末処理,試験方法を記入し,又,多芯ケーブルの図面には湿気が絶対に入らないように端末処理の方法まで克明に指示されていました.

 電子回路図には,配線1本1本に番号を付し,配線図面で構造と寸法と電気仕様が詳細に記入されています.
 当時の日本の電子回路図たるや,原理を示す回路図だけを設計者が書き,配線図面は無く,配線設計と工作は熟練工員が1つ1つ現場合わせでやっていたので,正に雲泥の差でした.

 更にドイツの配線図面では,アースを取る場所が詳しく示されており,配線工員が遣っ付け仕事で手当たり次第に短くアースを取る事をを認めませんでした.
 つまり,彼等は筐体各部に流れる筐体電流を精密測定した結果,アース点を取る位置を決定した訳です.

 機構部品や筐体構造の図面は,材料の仕様,DIN規格,寸法公差,工程に従い,加工の要点,加工場の注意等まで図面に詳しく書き表されており,特に加工前と加工後との枯らし作業の条件と日数は厳しく定められていました.
 一方で,これだけギチギチの設計だと図面通りの材料が入手出来ず,代用材料を用いる場合には充分に研究して寸法まで補正しなければならず,特に電子管の場合には注意を要する事が,ドイツのフォダス技師から研究所の面々に厳命されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/10 23:53
青文字:加筆改修部分

 さて,パソコンも使っている電子部品の元祖が電子管です.
 ウルツブルグで使っている電子部品は僅か11種,その内3種がブラウン管で,残りの8種が発振増幅変調等の真空管でした.

 このうち,超小型,小型,円周走査ブラウン管は実は米国にも無い特殊な電子管なのですが,東芝のブラウン管技術なら出来ると浜田成徳電子工業研究所長が引き受け,研究所技術陣の協力で,テレフンケン以上のブラウン管が出来上がりました.

 しかし,残り8種の真空管は難物でした.
 これらはウルツブルグの性能を左右する波長50cmの送受信管やパルス用の電子管でした.
 こちらは日本無線の担当でした.

 日本無線では先ず長野県諏訪湖西岸の岡谷地域に硝子加工工場を建設し,下諏訪や上諏訪の製糸工場を電子管内部の精密板金と精密機械部品,外部の板金の深絞り工場に転換する工場建設を行いました.
 此処へ,以前,日本無線が恵比寿工場でテレフンケンの技術を導入した大正時代からそこで働き,実力を蓄えて独立して町工場を経営していたものの,再び日本無線からの要請により,そこで自ら手塩に掛けて育てた弟子達と共に大移動を開始します.
 戦後の長野での精密電子部品工業の発達は,精工舎などの時計産業の発展も有りましたが,この様な電子部品工業の蓄積が為されていった事により出来ていった訳です.

 勿論,当時は空襲がそろそろ噂された頃であり,空襲を避けて疎開したいと言うのもあり,日本無線からの誘いを渡りに船とばかりに承知した人もいた様です.

 日本無線では諏訪地域の電子管工場建設が終わると,今度は長野市郊外にウルツブルグ本体生産工場の建設を始めました.
 因みに,敗戦後,この工場は独立して長野日本無線となっています.

 日本無線の諏訪工場では,町工場で優れた技術を持っていた人々を,それこそ三顧の礼を以て迎え入れています.
 例えば,本田親蔵と言う人は,真空管硝子やモリブデン,タングステンの精密工作技術に優れ,それを大量生産する機械を作り出す独創性も持っていました.

 ところで,ドイツ電子管はテレフンケン図面に詳しく記載されており,本田親蔵氏の様な名人が忠実に製作すると規格に近い性能が得られて陸軍兵器廠の電子管検査に合格することが出来ました.
 しかし,検査官が帰京して数日経つと,性能が低下する現象が生じます.
 その原因を調査していくと,ボタンステムと呼ばれる硝子から太い保持棒を出して能動素子を取り付ける構造の保持棒と硝子の間にガス漏れが起き,膨張係数がほんの僅か狂った為に起きたのでした.
 このガス漏れをゼロにするため硝子と金属,加工方法の実用化研究は血のにじむような努力を経て行い,それこそ小便が真っ赤になったとまで言われたりしています.

 努力の結果,自信が持てる製品がようやく完成し,最終組立工場である日本無線の三鷹工場に送って試作機でテストしますが,これまた様々な不具合が発生します.
 結局,フォダス技師が諏訪工場に出向いて細部の修正を行い,やっとのことで実用品が供給されるようになりました.

 ウルツブルグ本体に関しては,日本無線三鷹工場の熟練工により物凄いスピードで出来てきました.
 しかし,フォダスの検査には合格しませんでした.
 フォダス技師は,図面規格の権化の如く,僅かでも寸法精度や材料の違いで不合格にされます.
 苦心惨憺やっと合格しても,今度は耐電圧やバネの疲労試験などで不合格とされ,フォダス技師は「融通の利かぬハガネ野郎だ!」と言う怨嗟の声が工場内に満ち,一部ではぶん殴ると言う不穏な空気も流れたりしました.

 と言うのも,当時の日本では試作機器を製作する場合,先を急いで多少の誤差は黙認し,兎も角機器を早く作って電気的性能を調べ,それから「調整作業」と称して,欠点を総合的に除去していく方法を採っていましたのです.
 従って,生産工程の都度,各部分の寸法精度や性能などを詳しくテストする仕事は,大量生産品以外は行っていませんでした.

 フォダス技師の考え方は今までの日本の来し方と真逆で,試作機器こそ各部分の性質を明確に検査し,データを取って総合試験に臨まなければ,どの部分が不工合で総合性能が発揮されないのか判らないとし,また,故障が発生した場合でも部品の交換が不能となると主張しました.

 結局,フォダス技師の考えを日本側も採り入れ,「調整作業」は超高周波電子回路の値が小さく,個々の要素を事前に計っても正しい値が求められない場合に限って行いました.

 当時,日本のバネ材料は耐久力に乏しく,中々検査に合格しませんでした.
 最初はバネ圧力が充分で接点の接触抵抗が少なくとも,10回位データを採る内に圧力低下傾向と接触抵抗の増加傾向が分り不合格になってしまいます.
 この原因は,燐青銅の縦目,横目の使い方にも依りましたが,最大の原因は材料が悪い為で,鋼バネを補ってやっと合格したこともありました.
 大電流を流して使う燐青銅の場合はどうしても駄目で,早稲田大学の難波正人教授の発案で,高価なベリリウム銅合金板を特別に作ってやっと合格しました.
 現在では,ベリリウム銅のバネ材料は一般にも使われるありふれた製品ですが,当時は貴金属並みだったのです.

 波長50cm用のステアタイトは,板橋区滝野川にある日本無線の系列会社で開発されました.
 元々は日本無線で1937年から開発していたのですが,1940年頃にその会社に譲渡していたものです.

 送信用バリコンなども当初は700MHzに体して低損失なステアタイト材料を用い,機械的工作精度を高める研究を系列会社で実施していましたが,不正確で使い物になりませんでした.
 フォダス技師から生焼き加工を示唆され,やっと形だけはものになりましたが,固定と可変体を平らに仕上げて両体間に空気の入らぬ工作が出来ず,その為8,000Vの高圧に耐えられずに破壊するなど苦労の連続でした.
 最終的には当時貴重品だったダイヤモンド精密砥石を手に入れて加工するなどして,やっと精度を高めて合格することが出来ました.
 この他,ステアタイトに送信間電極の承金を溶接する方法や銀や銅を厚く丈夫にメッキするのも苦労した技術でした.

 直径3mの反射鏡は,広島市外の東洋工業で製作しましたが,ウルツブルグの反射鏡は,中央から2分割して機動力を増す構造だったので,その構造に梃摺りました.
 これは結局,機動力を犠牲にして,分割を止めて3m一体構造の反射鏡とした事から,製作が容易になりました.
 因みに,この時開発された反射鏡の製作法は,戦後のマイクロ波多重通信用に広く使用されています.

 パルス用変圧器もまた問題児でした.
 これは図面通り忠実に作っても鉄心材料の違いで性能が非常に悪いものでした.
 こちらは変圧器設計者と工員,電子技術者の努力により,最終的にはフォダス技師も驚く位の性能の物が作られるようになっています.

 こうして,架台,筐体,アンテナ,指示部,操作盤などの部品がやっと揃ってきたので,架台上に筐体を組立て,360度方向回転の調整や中心部の電気接触子の取り付けを終わり,筐体上にアンテナを取り付けて中空軸を中心に反射鏡の重さとバランスさせるバネを取り付け高低ハンドルを回転させて反射鏡を俯仰運動させる調整などを行います.

 次に反射鏡にアンテナを取り付け,アンテナの同軸ケーブル,電動機,切替器などの導線は,中空軸の中心を通し左右の曲管から筐体内に導きました.
 そして機械的動作検査を終えて筐体内の仕事に掛り,高周波部や変調部を筐体反対面には電源部を配置し配線作業を行いました.
 更に筐体から横に突出した梁の上に指示部を,下側には操作盤を取り付けて配線を行います.

 そして,各部分の構造,配線などの検査を終えて試作1号機は1944年末に完成して,三鷹天文台の隣にあった日本無線の方向探知器などの機器実験場である大沢実験所に運び込み,軍側の領収試験が開始されました.
 この大沢実験所は,当時は未だ人里離れた場所で,陸軍多摩研究所所長の許可無き者は立入禁止で,憲兵が警戒に当たる物々しさでした.

 この軍の領収試験ですが,あれだけ日本無線の技師や工員達,系列企業の人々が努力し,フォダス技師が品質について喧しく言ったのに,ウルツブルグの性能は発揮されず,まともに動くこともありませんでした.
 フォダス技師も各部分を調べましたが全く原因がわからず,日本無線側も必死に調整を試みたのですが,結局は同じでした.

 ただ,生産は粛々と進んでいきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/11 23:28

 さて,試作機は色々調整を繰り返して,ようやくモノになる事になりました.
 そして,生産に入るのですが,1945年に入るとB-29の来襲が激しくなります.
 大沢実験所は三鷹天文台の大森林の中に隠されていたので安全だったのですが,三鷹工場は危険を感じるようになり,生産速度が次第に落ちてきました.

 空襲警戒警報が発令されると,動員学徒,徴用工員,日本無線の工員,社員の順序で工場から2km離れた森の中に退避させましたが,ウルツブルグ製作の熟練工や社員は道路脇や鉄骨工場内に掘った壕内に退避させ,警報が解除されると直ぐに仕事を続けさせています.
 その間,監督官の結城大佐は軍の命令に忠実に従い,工場防衛の消火訓練を命じ,ウルツブルグ製造要員にも手押しポンプを持ち出させ,号令を掛けては放水させ,その放水が2階まで届かない事を叱り飛ばしていました.
 防護団長がそれを止めさせて,製造要員をウルツブルグ生産に集中させようとしますが,老いの一徹で頑として聞き入れようとしませんでした.

 御陰で,空襲頻度が上がるにつれて生産能率は低下し,3月10日には長野県川中島工場に移転せざるを得なくなりました.
 この他,陸軍設計技術部員は多摩川上流の青梅町に疎開,海軍無線工場は工作機械を伴って山梨県勝沼町に,設計技術部員は甲府郊外の鰍沢町に,研究部員は長野県西条村と明科に,磁電管研究部は静岡県島田に,真空管ゲッター部は浜松に疎開したのですが,浜松は米艦隊の砲撃で壊滅してしまい,長野県明科に送った研究施設が役に立たなくなりました.
 また,日本無線の首脳部は社長の故郷である長野に疎開し,三鷹残留は次期社長と目されていた常務,一部の重役と顧問の陸軍中将程度しかいませんでした.

 それでも,海軍真空管工場では磁電管M60,M312,航空機方向探知器用万能ドイツ五極管が女子挺身隊院や動員学徒によって何とか生産されていましたが,空襲の激化に伴って生産は低下していきました.
 何しろ,何時空襲でやられるか判らない状態で,毎日水杯で出勤する職場だったりするのですから.
 日本無線を狙って,B-29から時限爆弾が投下されましたが,目標を逸れて井の頭公園に落ちたので,命拾いをしています.
 ただ,艦載機が飛ぶようになると,機銃掃射により襲撃を受けるようになります.
 この頃,ウルツブルグは1号機が陸軍に引き渡され,2号機の最終調整を進めている状態でした.

 その1号機は,三鷹の近く,久我山高射砲陣地に装備されます.

 ところで,開戦時の高射砲は1928年制式の八八式高射砲で,これは口径75mm,有効射程距離13,800m,最大射高9,100mと言う性能でした.
 これでは敵機の高度が高くなると対抗出来ないとして,1942年から中国戦線で鹵獲したクルップ高射砲を基にした九九式高射砲が生産されるようになりましたが,最大射高10,000mのそれは月に数門しか生産出来ていません.
 1944年に入ると,海軍の12サンチ高角砲を基にした三式高射砲が開発されて生産を開始しました.
 これは最大射高14,000mであり,一応,成層圏まで砲弾が届きますが,実際の有効射高は最大射高の80%程度の11,000mであり,開発が伝えられていたB-29には対応出来ないかも知れませんでした.

 そこで,陸軍は最大射程20,000m,有効射高16,000mの超重高射砲を開発することになります.
 この高射砲を設計した黒山恒太郎中佐は,陸軍技術研究所の火砲設計部員の総力を結集し,1944年4月1日に有効射高16,000mの超重高射砲の設計を完了させました.
 その口径は15cmに拡大され,その砲身は突貫工事の末,大阪造兵廠と日本製鋼所で各1門が完成し,実弾射撃試験に合格した後,久我山高射砲陣地に装備されました.
 砲身長10m,砲弾には散弾が2,000発装填され,炸裂すると200m四方の敵機を撃墜出来る能力があったと言います.

 口径12cmの三式高射砲でも砲弾の人力装填に困難を来して自動装填装置の開発を行っていたのですが,15cmの高射砲では人力装填など論外で,総て油圧での自動装填となりました.
 そして,発射時の爆風や音響が物凄く強烈な為,操作する将兵は総て地下に潜って操作する事になりました.

 と言う事は,肉眼での照準などは論外であり,ウルツブルグの様な電子の眼がなければ敵機を撃墜する事が出来なくなったのです.

 因みに,従来高射砲部隊の1個中隊は4門編成だったのですが,超重高射砲については特別に2門の編成でした.
 また,高射砲兵1個連隊は,大凡4個大隊で編成され,1個大隊は2個中隊の編成で,これに聴音,照明,レーダー部隊が配属されていました.

 久我山高射砲陣地は,吉祥寺から渋谷に向かう東急(当時)井の頭線の久我山駅右側の台地にあり,当時は多摩丘陵や西は秩父の山々まで一望出来る広々とした場所でした.

 久我山高射砲陣地に超重高射砲が装備されると,先述の様に操作員は全員が地下で作業することになります.
 この為,算定具の計算も重要な仕事であり,高射砲の弾道癖や上空の風向,風速などのデータも把握し,ウルツブルグレーダーから伝送される敵機の方向,速度などを気象などのデータで補正し,それらの結果を基に最適のタイミングで発射を命じる必要がありました.

 超重高射砲が発射されると,その射撃音は3km四方に響き渡ったと言います.
 当然,その射撃時には強烈な爆風が生じるので,その爆風でウルツブルグが傷まないように,両者の間には高さ5m余,長さ100mに渡る防壁土塁を作っていました.
 ただ,爆風は避け得たものの,地鳴り振動と発射音は軽減出来ませんでした.

 ここに装備されたウルツブルグ1号機は,東部軍の電探整備隊長であった高橋倫三中尉が,東部軍司令部からウルツブルグ射撃中隊長に特命され,大沢実験所から1号機と共についてきた山口少佐以下の調整チームからウルツブルグを請け取って任務に投入したものです.
 この高橋中尉は陸軍電探のオーソリティーで,た号の1〜3型や改4型電波標定機の内容に精通し,故障した場合も即座に修理する腕前を持っていました.
 この腕前があったればこそ,ウルツブルグ射撃の中隊長に任命された訳です.

 久我山陣地では部下に命じて超重高射砲の爆風を防ぐ為に土嚢を高く積み上げ,自分はウルツブルグの内容を徹底的に学習し,疑問点があれば日本無線に出掛けて徹底的に技術員からヒアリングをすると言う猛勉強をしています.
 そして自分が機長となってウルツブルグの操作を行ったのですが,此処で1つ問題が発覚しました.
 性能自体はた号改4型より優秀なのですが,あらゆる寸法がドイツ人向けに出来ていて,日本人の中でも身体が大きい方だった高橋中尉が操作しようとしても,背伸びしないとブラウン管が見えず,距離ハンドルや高低ハンドルも操作がし難いと言う今更ながらの問題でした.

 東部軍司令部の参謀に報告した所,その答えは,「性能が優秀ならば結構だ!身体をレーダーに合わせろ!」と言う叱責でした.
 まぁ,確かに当時の日本軍では支給した服や靴の寸法がぴったりになるのは滅多に無く,上官は「身体を服や靴に合わせろ」と言う文化だったりするのですが….

 兎にも角にも,久我山の超重高射砲とウルツブルグ射撃の準備は完了します.
 いざ敵ござんなれと言う意気で待っていたのですが,B-29の定期便は三鷹に余り来なくなりました.
 敵がスパイからウルツブルグ射撃を知った為では無いか等と話していたら,実際には米軍内では大都市空襲は終わって,中小都市空襲が開始された為だったりします.

 八王子や水戸などの無差別爆撃が行われるようになると,その犠牲者の棺桶が間に合わなくなりました.
 そして,井の頭公園の鬱蒼たる杉林は尽く棺桶に変わり,丸坊主になった公園には500kg爆弾が投下されたりしました.

 結局,この超重高射砲は,戦争終了直前の8月2日に,B-29爆撃機2機を餌食にしただけで終わってしまい,大活躍すること無く敗戦を迎えています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/12 23:38


 【質問】
 日本軍のレーダーのディスプレイは,どんな形だったんですか?

 【回答】
 日本の電探の受信機のモニターは驚くことに5cm角のオシロスコープ型しかなかった.
 拡大鏡を付けてなんとか距離を読みとろうとしたが,電子管の映像を結ぶ画面の蛍光塗料の質が悪くて鬼のように暗く,ピーク波形を判別するには心眼が必要だった.

 送信機からの電波を受信するより早く,米軍機のIFF波がよく検出できたので,それを判別して敵機の有無を推定したらしい.

軍事板


 【質問】
 日本軍では鹵獲品の扱いはどうしていたのでしょうか?
 ドイツでは鹵獲バズーカを研究に回したり,仏戦車を自走砲にしたりしていますが,日本軍でもシナ戦線や対米戦での鹵獲品を利用したり,研究したりしたのでしょうか?

 【回答】
 鹵獲品をそのまま兵器として使用したり,
コピーして国産兵器にしたり,
技術を兵器開発の際の参考にしたり,
兵器の比較テストの際に使用したりなど,
火器,車両,航空機といったあらゆる分野で,実に様々な用途で役立てていますね.

 技術開発の面では,一例をあげれば一八試陸上攻撃機連山などは,B−17を解体して得られたデータを元にして開発されています.

 再利用の面では,M3スチュワートはビルマ方面で有効活用されました.
 宮崎繁三郎なんかも,鹵獲品を有効に活用して火器の充足率の低さを補うことで,多大な戦果をあげていますね.
 さらに,陸上自衛隊の幹部学校の教官を中心に執筆された『陸戦史集2 第二次世界大戦 マレー作戦』(陸戦史研究普及会編・原書房・S41)のP85にも,コタバル上陸戦に関する以下のような記述があります.

==引用==

戦果
主なろ獲品(ママ)

重(軽)機関銃七三 重(軽)迫撃砲 一五
高射砲 八 飛行機 七
爆弾 六,六三〇 装甲車,牽引車 三六
自動車 八四 機関車,貨車 三四
ガソリン 二三六罐 重油 三七七罐

捕虜 ハイデラバットの大隊長ヘンドリック中佐以下九〇名

 右のろ獲品(ママ)は,その後クワラクライの戦闘で獲得したものと併せ,以後,佗美支隊が上級部隊から一品の補給も受けなかったにもかかわらず,数百キロの機動作戦を行ない,迅速にカンタンを占領する上に大きな貢献をした.

==引用終わり==

 この本にはこの部分だけではなく,何カ所か,
「マレー作戦における機動戦の成功には,鹵獲品による燃料・食糧の確保の他火力の補完が大きな役割を果たした」
という記述があります.
 この本は当時の参謀レベルの人々への取材も豊富であり,信用が置ける本かと思います.

 さらにまた,旧軍資料の『差押軍需品に対する諸問題』には

 軍は戦場に於て我が軍の鹵獲若は押収せる敵対者の兵器,器材に対しては戦争法規の精神に則り当然我が軍の手に帰すべく旧所属との間に於ける債務関係等に就ては敢て我が軍の感知するところにあらざる
(中略)
 支那軍の使用又は保管しありたる兵器及其他軍需品は現場に於て監視し其散逸を防止することに勉めあり但右の内軍事上竝治安維持上又は貧民救済等の為必要已むを得ざるものに限り一部使用しあり

と,はっきり鹵獲品を使用する場合があることが記してあります.

 ただし念のため書いておきますが,鹵獲品の活用というのはマレー戦では軽火器が中心だったようです.
 特に訓練をしなくとも転用でき,鹵獲した弾薬も多かったからかと思われます.

 大陸方面でも,たとえば『「ソ」連製軽機関統鹵獲に関する件』(昭和15年)に,こんな記述が見られます.

発信者 戊集団参謀長

 二十日西山咀西方地区ニ於テ攻撃シ比較的新式ノ「ソ」連製「デグチャレフ」軽機関銃一挺ヲ鹵獲セリ
 「ソ」連製兵器ノ鹵獲ハ当軍ニ於テハ最初ニシテ近ク写真ニ依リ報告スルモ既ニ本軽機関銃ノ性能等判明シアルヲ以テ実物ハ当軍ニ於テ使用スル予定ナリ

 一方,海軍では鹵獲艦艇は兵装を日本式に(場合によっては機関も)改め,各地の工作部で整備の上,その多くを哨戒や護衛に活用しておりました.

軍事板


 【質問】
 ドイツが捕獲したステンを「安いし,構造も製造も簡単だ!」とコピー生産したように,連合国の捕獲兵器を日本がコピー生産したことはないのでしょうか?

 【回答】
 ぱっと思いついたところで.
つ ノルデン爆撃照準器(キ74などに搭載.されど何気に故障多し)
つ M1ガランド自動小銃(試作してみたけど弾が…)
つ ボフォース40mm機関砲(ラインメタル37mmのラインを閉鎖して作ったが少数生産)
つ コンチネンタル空冷星形エンジン(戦車用)のディーゼル版

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


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